坐禅と動中の工夫22
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坐禅の仕方
一息を離さないようにして念が入る隙を与えないようにします。
吸う息と吐く息と両方意識します。
しかし、いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
雑念が出たら即「この念、何処から来たか」と、間髪を入れずその根元に一息で切り込むのがいいです。
念が出る前の心が禅定です。正念相続です。
動中の工夫
何もしてない時は坐禅と同じで一息に意識を置き余念の入る隙を与えない。
今の動作に意識を置きます。
他ごとを考えながら今の動作をしない。
動作はゆっくりと丁寧なほうが良い。
動作に隙を作らない油断しない。
真剣に命がけでする。
今やってる事を一心不乱にやればいい。
自分から目を離さない。
禅とは単を示す。
仏道はただ一つの道である。
仏道のただ一つの道とは一息です。
※前スレ
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1620994804/
※前スレ
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1629456662/
※前スレ
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1629893486/ >>306
大山麦ロンは「で?」の部分がない。
落ちがないんだよ 笑 >>317
落ちがないなら
それがどうしたん?
でいいんじゃないのか。 意地を張って聴く耳持たないは勝手だけど、坐禅会に行って貴方の推すI和尚に直接聞いてみたら?
ただ、ロンさんの推すH師の系統は彼処には批判的だけどね。
まぁ、自分で確かめて来たら。
もうこれ以上言っても無駄だから。 >>318
最近それに気づいて、笑えたのよ。
気づきは笑いをもたらすよ。 >>321
まず自我を感じなければいけない。
自我を消すって言っても自我がなんなのかわからなければ消しようがないから。
自我ってのはたえず立ってる訳ではなく、花とかペット見ても立ってないんだよ。
それが対人間になると、特に嫌いな相手が目の前にいると、立ち上がる感覚あるでしょ。
これが自我。
こいつをなんとかしょうって話。
あとね、ここで言うと、でおーとかわざとこちらの自我を立たせようと必死だから相手にしてはいけない。 >>326
じゃあ、次回のあぼーん解除日に使用させてらうわ 笑 >>324
分かる。人間に合うと、自分の中に反発するような複雑な感覚が生まれる。花や虫にはそんなの生まれないよね(笑)
その自我は、どうしようもなく現れて来るね。子供の頃から延々と繰り返してきたってやつ。だから私は坐る。 >>333
そういう念が出たら、あ!出たと自覚するだけでそれをいじらない。
これだけでもかなりかわるよ。 もっと積極的に行くなら、その念の根本を切る。
でもね、木と同じで細い念なら切れるんだけど、太い念は切れないね。
出た念を自覚していじらずにしてるしかない。 普通は嫌な念が出ると思考でこねくり回してなんとなく合理的にいいように解決しようとする。
スピリチュアルなんかがこれなんだけど。
これは必ず失敗する。
これするんなら嫌なもんは嫌だ!に成り切るほうがいい。 >>334
さっきそれコンビニでやったわ。
未来男くん、来た!ってw
ミキオです。 >>336
余計頭が複雑になるよね。
いらん思考回路作っちゃうんだよ。 >>338
禅で二念を継がないってのはそういう意味。
思考を連鎖させないって事だね。 禅でも一念が出るのはしょうがないって言う人と、一念すら出たらダメと言う人がいるね。
この辺は自分で実験するしかないな。 嫌いな相手って…やめとこ。。w
なんもわかってないんだな。。
とにかく、何にも解決してないってことは、はっきりしています。。
根本から間違っているから。。w 禅宗の歴史をさかのぼって考えると、カムイ君がやっているのは、今ある曹洞、臨済ではありません。。w
偈を提して、六祖に及ばなかった、北宗禅の系統ですね。。
すなわち、念でも自分でも相手でも、対象を求めて、それらを取り扱うという、仏法に反した道です。。w
仏法は、諸法無我ですよ、無一物ですよ、実相無相ですよ。。
これらを、明らめなければ、未解決のまんま、どうにもならんだろうね。。w >>342
対象を求めて→対象を認めて
対象と物の違いがわかるかな?
物はもともとあるかもしれない、無いかもしれない。。
でも、対象は、もともとあるんじゃないんだよ。。w
もともとあると考えるから、迷うんです。。w すなわち、認識対象があるってことと、それを認める自我がある、あると思っている、というのは、仏法がおわかりではない、ということです。。
この思い込み、が無明の根本です。。
だから、この無明、対象を認めるということを前提として、修行ですとかやっても、根本が間違っているから、
どうにもならんということだね。。w
グルグル空回りするしかないというだけ。。w ロンは上根なんでないの、下根の人もいるんだから、カムイは坐禅で清浄な心を知ったが故に、日常出てくる自我念が自分では無いと分かって、念を継がない工夫をしてる訳だから
その処も察しないと、何でも自分の理解を与えれば良いとは限らないよ、
カムイは慧解脱を学んでないんだから、菩提達磨禅師の言う随法行者として日常での修行で本性(自性)を悟ろうと行じているんでないのかな? 野良も自分可愛いナルシズムカムイから
自己防衛のスキルを
学ぶようだな、
野良お気の毒に。 >>345
動中の工夫の
テーマとしては、
カムイは全くダメ、
サービスとして、
動中の工夫を別として
説明すると、
カムイは根っこの自分可愛いだけ、
が残っているから、軽視しているから、
ナルシズムのまま、
あた、カムイを出しているのは、
南方仏教でいうならば、サマタ行がメインだけで、
ヴィパッサナーを欠いている。
故にカムイは自分可愛い、
を解消できない
笑
むろん、カムイには大乗仏教の欠片もない
笑。
ロンは説明だけだが、大乗仏教に関与できている。 カムイ、鹿野園と違って、超マジメ修行モードに、入っているせいか、
カムイ、鹿野園イジリパワーが低下
笑。
今の感触を仕上げたら、
再び、カムイ、鹿野園イジリにください精を出すか笑。 ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ口から出任せホラ吹き悪霊の鶏頭ぁあああ〜〜〜www
0402 野良 ◆uAvMeI0zDs 2021/08/11 18:14:46
>>373
麦の事を考えるのは時間のムダだと悟ったのだ。
気分サッパリである。
0803 野良 ◆uAvMeI0zDs 2021/08/12 12:16:04
>>670
キミは麦の代弁者じゃねえよ。
麦が名無しになって私にもかかってこい。
08/12(木)13:33 ID:nIQW2/2h(8/21) AAS
>>810
もちろん麦が貰いゲロで自分に酔いしれる気持ち良い酔っ払いが君
そういうたとえ話が理解出来ないのもADの特徴だから医者変えたら?
859(1): 野良 ◆uAvMeI0zDs 08/12(木)15:14 ID:K9BPfXfG(1/4) AAS
>>831
そうだろうと思ったけど
一応確認したのよ。
864: 08/12(木)15:19 ID:nIQW2/2h(15/21) AAS
>>859
自分で例えがわからないと言ったんだろ
>409: 07/29(木)00:13 ID:p4msgP9n(1/2) AAS
464 :野良 ◆jEhwb9nq9qqE :2021/07/28(水) 12:37:40 ID:aX2qdjq6
娘たちのお迎え時間は人が混雑する。私は人が空く頃を見計らって迎えに行くことを覚えた。
長女はもっと早くきて!と不服を言う。余りにしつこいものだから私は言った。
お母さんはツラいんだ。
みんなのために頑張ってる。
これが私の精一杯の早さなんだよ。
だからもう早く来てと言わないで欲しい。と。
465 :野良 ◆jEhwb9nq9qqE :2021/07/28(水) 12:39:23 ID:aX2qdjq6
最近娘たちが学んでるのは
思っても言ってはいけないこと、ですね。
正直なのは素晴らしい。
でも人を傷つけてはいけないから。
473 :野良 ◆jEhwb9nq9qqE :2021/07/28(水) 21:53:46 ID:6EqiOvd/
次女が長女を虐めるし
長女は足怪我してるし泣きっ面に蜂よ。
そういえば昨日、私は泣き真似をしてお風呂を嫌がる長女を無理矢理入らせたっけw
「どーして言うこと聞いてくんないんだよぉ(ノД`)」
血相を変えて入ろうとする娘に、私はいきなり笑って作戦セイコー!と叫んだ。
wwwwwwwww
御愁傷様です(;-"-) o/"Ω チーン!! カムイさんは知的障害者なんですよ。
でおーと同じなんです。
二人ともそうした鬱積が積もって、其れが残念な事に悟り妄想に転換されてしまい、「俺様は〜」「◯◯を得たぁ〜」って、ネットで延々と吹聴してるんです。
仏教の名の下に、「俺は健常者より上なんだ」って妄想に浸れますからね。
なので、仏教ではありません。
仏教の名を借りた世間に対する復讐みたいなもんです。 カムイさんがI和尚の「指導者から見た坐禅会の本」に目を付けて、その内容をあたかも自分の言葉の様に話したりコピペしたりしてるのも、そうした成り行きでしょう。
彼らにとっておそらくは唯一、健常者より上に立てる妄想に浸れる聖域が、宗教という環境なだけなんです。
なので、実際には信仰心なんてないでしょう。
なので、過ちを指摘でもされようものなら、当然に反証なんてありませんから、あの様にレスする他無いんです。 またナルシズム防衛妄想のサル山に
引き籠もり回転レス園、
サル臭え〜〜〜
笑 ナルシズム防衛妄想時の鹿野園の特徴。
ひたすら、
>知的障害者なんですよ
ナルシズム餓鬼回転マシーン
死ぬまで止まらんやろな
笑 悟れなくても威張りたい派の鹿野園が言う、ことである。大爆笑である。 >>339
だから本はだいたい読んだら腑に落ちて、読むのをやめるかな。満足して人生観変われたらラッキー。 >>357
ナルシズム人生観そのままのカムイの本性解らんうちは、
変化かいやろな。 ナルシズム自己防衛大量発生中ムイ
笑、
なお、この解説は
カムイが本来自分に対して、
サティしなければ
ならないものを
放逸ナルシズムムイに
サービス提供しているものである
笑 南方仏教系は、このような
その相手の心理を指摘するのが好きらしい
笑。
スマナサーラや、
小池龍之介
あたりで
見た事がある。 ナルシズムで反省できない
ナルシズムカムイ、
ひたすら効いていないポーズ、
実は効いてダメージ受けているが、
効いていないポーズ、
鹿野園が
知育障害を連呼するパターンと同じで
自己完結型のナルシズム自己防衛のカムイ版である
笑 レスすればするほどにカムイの心理暴露されておるのが
自覚できないでレスする
カムイの愚かさ
ナルシズム自己防衛を放棄すれば、
こういう効いていない猿芝居もいらなくなるのにな
笑 ねずみ男は思い込みで行動してるから、仏教とはほど遠いわなw
【野に咲く】 愛からの旅立ち Part14 【谷間の奥深くと咲く百合の花のように】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1630886846/155
155 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2021/09/07(火) 07:39:51.49 ID:hb0lKQcM
○こはリドの手下になって、
誇大妄想を手放せ、
そしたら、断薬諦めて、
平穏になるぞ
笑
157 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2021/09/07(火) 07:47:43.62 ID:hb0lKQcM
160 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2021/09/07(火) 07:52:07.73 ID:hb0lKQcM
162 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2021/09/07(火) 07:58:30.82 ID:hb0lKQcM
164 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2021/09/07(火) 08:03:39.65 ID:hb0lKQcM
166 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2021/09/07(火) 08:06:00.30 ID:hb0lKQcM
172 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2021/09/07(火) 08:10:19.14 ID:hb0lKQcM [9/10]
175 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2021/09/07(火) 08:13:59.50 ID:hb0lKQcM [10/10]
【野に咲く】 愛からの旅立ち Part14 【谷間の奥深くと咲く百合の花のように】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1630886846/187
187 名前:日本鬼子@広目天 ◆rlzTxpgv.dqM [sage] 投稿日:2021/09/07(火) 08:50:23.55 ID:JpT4RYDZ
ねずみ男が断薬ぅ〜断薬ぅ〜って騒いでるのが何でか解らんかったが、医者との相談なしに断薬してると「思い込んでた」のかw
ねずみ男、オマエのそれは仏教じゃ無いからwwww 猿芝居止まらないムイ
笑
そういえば、坐禅は姿勢だか、
カムイは病的ナルシズム自己愛の姿勢で
どうなるのかね?
笑 鹿野園は我慢出来なくて俺をあぼーんした😊
俺の完全勝利🏅
次はでおーの番
でおーはどこまで耐えられるかな😊 お、被害妄想○子様では、
あ〜りせんか
笑。
追い詰められた、ボッタんは、
そういうコピペを
良くしていたな
○子様、
なんかの幻覚妄想に追い詰められていませんか?
笑 勝利に執着してるんだ
(笑)
心理暴露されたいマゾの自覚ないんだ
笑
バカムイと
呼ばれるはずだね
笑。
バカムイでも、
マジメに指導してやるよ
(笑) カムイの素顔を野良に、知ってもらわんとな
ニートカムイは暇で良いよな
笑 >>346
随法行ググッてもわからんかった。
何それ? >>358
よいとこは取り入れてそう出なければ観察、これだね。 >>386
そう、実際にやってみてうまくいけばラッキーくらいでいい。
自分にあわないと思ったら無理にやる必要はない。 >>387
いいものは続くしそうで無いものは
知らずのうちに離れてる。
私も昔と変わったな。
色々手を出してきたけど。
マインドフルネスもやってないし
慈悲の瞑想もやってない。
マントラはごくたまに唱える。 >>388
今の自分に相応しいものだけがやって来ると
信じて思えば、その通りにやって来るんよ。
二度と巡り会わないモノもあれば、
何度もやって来るものがあるんよ。
今の自分に必要だからやって来るんよ。
それを受け入れたらいいんよ。 片山一良訳 パーリー仏典 『相応部 六処篇2』 第6モッガッラーナ相応 1、第二禅問経(P211〜212)
このように私は聞いた・・・
尊者マハーモッガッラーナ(大目連長老)はこう言った。
「友らよ、ここに、私が静かに独坐をしているとき、心につぎのような考えが起こりました。
〈『第二禅、第二禅』と言われるいったい何が第二禅であるか〉と。」
友らよ、その私はこう思いました。
〈 ここに、比丘は、大まかな考察・細かな考察が消え、内心が清浄の、
心の統一された、大まかな考察・細かな考察のない、心の安定より
生じる喜びと楽のある、第二禅に達して住む。これが第二禅と言われる 〉と。
友らよ、そこで私は、
大まかな考察・細かな考察が消え、内心が清浄の、心の統一された、
大まかな考察・細かな考察のない、心の安定より生じる喜びと楽のある、
第二禅に達して住んだのです。
友らよ、その私がこの住まいによって住んでいるとき、欲を伴う想と思惟が生起したのです。
友らよ、そのとき、世尊が神通によって私に近づき、こう言われました。
『モッガッラーナよ、モッガッラーナよ。バラモンよ、第二禅を放逸してはなりません。第二禅に心を確立しなさい。第二禅に専一にしなさい。第二禅に心を定めなさい』と。
友らよ、そこで私は、後刻、
大まかな考察・細かな考察が消え、内心が清浄の、
心の統一された、大まかな考察・細かな考察のない、心の安定より
生じる喜びと楽のある、第二禅に達して住みました。
友らよ、『師に摂受された弟子は大通智性(勝れた六神通智)得ている』と言う場合、正しく言うことができる者は、私について、『師に摂受された弟子は大通智性(勝れた六神通智)得ている』と言う場合、正しく言うことができます、と。
第二禅定は以上のように、パーリー仏典に記述されています。 >>389
仕事でもさ、前やってた職種を一旦離れてまた今もやってんだけど、自分に相応しいんだろうね。何かの縁だわ。
あとは、趣味かな。やらない期間もあったけどやらずにはいられないなにかがあるよ。 >>391
面白い方法があるんよ。
何が今の自分にとって必要かとか、
何かやりたいが、やりたいことが見つからない
分らない時があったら、
意識を下丹田に降ろして、聞いてみるんよ。
翌日か数日経ったら、自然に頭の中に浮かんでくるんよ。
丹田に聞くと、いいんよ。 ニートムイの
縄張り勝利宣言してたのか?
ガキやのお
笑 >>392
ちょうど困ったことあるから今日聞いてみるね。丹田に。 第二禅定くんは、しばらく放置しとこ、
ニートムイおどってんな、
ナルシズムで
笑 >>392
やりたいことは見つけるものではないのではないだろうか?
それは即座にやって来る。
あるいは知らぬ間にやって来ている。
正確に言えばやりたいことがあなたを見つけるだろう。
そしてあなたは為さずして全てを為すものだ!
ありがとう
本当に
ありがとう >>383
野良さん、間違った
随法は教えを聞いた修行者が、一旦それを自分で考察し理解した上で改めて修行する、だった、要はロンみたいな人かな
先日いいたかったのは、菩提達磨の二入四行論の『随縁行』だったよ、日常の縁に即して修行するの
後で敦煌から出た本の訳を貼っておきます >>399
やりたいことが即座にやって来ない人も
いるんよ。
選択肢に迷う場合もあるんよ、丹田に聞けば
即座じゃないが、自然にやって来る場合があるんよ。
何も来ない場合もあるんよ。
その時は静かに待てばいいんよ。 仏法を聞いて、直ぐに信じて直ぐに修行する者を、『随信行者』といい
仏法を聞いて、一旦自分でそれを考察した上で理解し、改めて修行する者を『随法行者』という
随信行者も随法行者も、共に慧解脱に至り、阿羅漢に行くが
随信行者はそこから再び欲界の凡夫に退くことがあるが、随縁行者は不退転であり、退くことが無いとされる
アビダンマでは、阿羅漢になってから退くことのある随信行者を下根の者とし、不退転の随法を上根の者としている やりたい!という好奇心そのものがアンテナになってやりたいことを引き寄せてるんだな、きっと。
分かるよ。百合のムカゴを見ると、
私を植えてくれ!とうるさい。
豆の鞘が黒くなるのを見ると、早く収穫してくれ!とうるさい。
やりたいことは、わたしに催促してるんだ。 リンクが張れないようなのでコピペ。。
「心の時代へようこそ」No. 567 原田雪渓師
白鳥: 文字ではない、と。文字によって書かれた経典ではない、と。
原田: ええ、そうです。だから「教外別伝(きょうげべつでん)」教えの外に伝われるものがなければいけない、と。
白鳥: なるほど。「教」―教えという字が、そういう意味なんですね。
原田: そうです。教の外に伝えるべきものがあるんだ、ということなんでしょう。だから「不立文字、教外別伝」という言葉になって出てきているわけです。
白鳥: そしてそれはつまり坐禅―坐ることによって、そういった経典等の手続きを経ずして法がわかる世界というものがあるんだ、と。
原田: そうですね。ですから禅というものが、究極に至る、法に至る手段や方法として使われないようにしないといけない、
ということなんですね。「禅そのものが、法そのものである」ということですから、それを〈なるほど、
そうだったのか〉と、こういうふうに自分自らが気付くことですから、坐って経典に書かれる文言を頭に浮かべながら、
〈「空(くう)」ということはこういうことか。「無(む)」ということはこういうことか。なるほどそうか〉というような解釈だけ
でしたら、それは禅にならない、ということですね。そういうことでしたら、学校へ行って、そういう文字の勉強をすれば
いいことですから。 白鳥: 今までの提唱を纏めたご老師の本を読ませて頂きましてね、「真の法の人」とか、「解脱(げだつ)の人」とか、あるいは「安心(あんじん)」というような言葉が出てきますですね。今のお話を聞いても、「法と教えは違うぞ」と。法とは何か。真の法の人とは一体どういうものなのか、という。
原田: 「法の人」というのは、法を自分のものにしたとか、しないとか、という―いわゆる悟りを開いたとか、
解脱をしたとかという人に係わらず、そういうことを全然ご存じない人でも、みんな法の人なんです。ということは、
私たちが認識ができるということは、過去と未来のことしかわからないんです。じゃ、過去と未来を区別している今は
何か、というと、「今」というのは絶対にわからないです。無いんですね。今という時は無いんです。
それを「法」と説明したわけです。無いものを「法」と説明して見せたということです。だから「法を掴む」ということは、
無いものと自分と同化した、ということになるわけです。ですから、みなさん方が全部今を―過去と未来しか
わからないんですけれども、確かに「今」という時がございますでしょう、わからないけれども有る。無いけれども
有るわけです、今という時間を。
白鳥: 今、私たちはまさに今がわかったようなつもりでいますね。
原田: そうそう。それ過去になりますね、今わかるということは。わかるということは隔てができるから見えるんです。見えないということは、ものと一つになっているから見えないんです。ものと一つになっている状態を「法」と説明したわけです。
白鳥: そうすると、今有る私も、また法の中にいる。法そのものである。
原田: そうです。それを〈なるほど、そうか〉と坐って、〈なるほど、そうか〉と自分で頷く。それを「悟り」とこう言いますね。
ですから悟っていないという人は、一人もいないわけです。自分で気が付くか、付かないかのことです。
ですから正しい教えによって修行をしていけば、必ず自分のことですから悟れないという人は一人もいないんですね。
悟りを自覚することができるわけです。
白鳥: 法そのものであるということなんですね。それを妨げているものというのは、一体それじゃ何なんだろうか。これは如何なんですか。
原田: 仏教の言葉を使わせて頂きますと、「無明(むみょう)」と言っていますね。本来もともと一つのものであるのに、
それを二つに分けて考える。俗に言う言葉で「主体」とか「客体」とかと言いますけれども、これは二つ同時に考えられるもの
じゃない筈です。「主体」と「客体」。それからあるいは「善」と「悪」という。「好きだ」「嫌いだ」というのは、
同時に二つの意識を考えることはできませんですね。だけども、私たちはあまりにも早く移り変わっているものですから、
そういう「主体、客体」「善、悪」でも一緒に考えられるように思っています。だから比較をしてみるわけですよ。
比べてみるわけです。ですけども、事実は比べることはできないものですね。一つのものが終わらなければ、
新しい思想というものは出てこない筈なんです。ですけども、それは有るかの如くに善・悪を比べてみるということが
人の常としてあるわけでしょうね。 >>400
子供の頃からってのはないな。
少なくともここ数年だね、修行は。
普通に暮らしてりゃ、出会わなかった縁だからね〜 白鳥: ということは、そういう考え方をすること自体が、いわば妄想みたいなものなんですかね。
原田: そういうことを、自意識と自我。いわゆる仏教で言う「我(が)」とこう言っているわけです。「我」の働きですね。それも「無明」という、これは生まれながらにして、そういう仏になっておるという人は一人もありませんですね。先ほどの「みんな仏さん」という話と大変矛盾をお感じになると思いますけれども、無明というその過程を経なければ、そしてその無明をあきらめなければ、ほんとに自分は仏であったとか、悟った人だ、ということはわからないんです。
白鳥: 人は生まれながらに仏性―仏の性というものを受けているんだけれども、しかし人間として生まれてしまうと、無明、まさに無明の状態に入っている。
原田: たとえば、今では塩は塩化ナトリウムと言いますでしょう。しかし化学製品になりましたけども、昔は海の水を汲んで塩田で撒いて、そして塩を作ったものです。ですから辛いものだから塩水を持って来て、お料理にすればいいじゃないかって言っても、そういうことはできません。ですから必ず手数を掛けて一遍塩にして、そしてお料理に使う。やはりその手続きを経ませんと塩にならない、仏にならないわけですよ、人間も。
白鳥: 塩になる本質は、人は持っているんだけども、まだみんな塩水のまんまだと、こういうことなんでございますね。
原田: そうですね。勿論塩水のままで使えないことはないけども、限定されますね。塩水だけですと。
白鳥: まあそうでしょうね。
原田: ですから、どうしても塩に仕立てていかなければならない。それを禅の方では、仕立てるまでのプロセス―過程を「修行」と言っております。塩になった時を、修行が成就した時、即ち「解脱をした」とか、「悟りを得た」とかというふうに言っておるわけでございます。
白鳥: 塩田に撒き、それを煮詰めた。その過程が坐禅ということになるわけですか。
原田: そうですね。坐禅というのは坐ることばかりではありません。自分とものとの距離を如何にして一つにしていくかという、そういう姿勢で生活をしておられるならば、仮に坐らなくてもその人は、坐禅の修行をしておるという、まったくそれは間違いないことです。
白鳥: そんな広いものなんですか。
原田: そうです。それから坐禅をしておっても、坐禅と自分とが二人連れになって坐っておれば、その人は坐っておっても坐禅をしていない、ということになるわけですね。
白鳥: 二人連れの坐禅。もう少しご説明頂けますか。
原田: 私が坐禅を行(ぎょう)じておるということになるわけですね。
白鳥: さっき使われた「我」とか「自我」とかというものですか。
原田: そういうことです。「私が坐禅を行(ぎょう)じておる」と言いますと、離れているわけです、坐禅と私。ですから絶えず自分の坐禅の状態を自分で眺めながら、今日は上手く坐れたとか、妄想がたくさん出過ぎるとかということが、いつもチェックしていますね。自分が離れているからよくわかるわけです。自分の坐禅の状態が。ですからそういうことでは、坐っておっても坐禅にはならない。むしろ寝ておっても、ほんとに横になったままで静かにものと一体になるべく努力をしておれば、よほどその人の方が禅をしておるということになるわけです。
白鳥: 身体の姿だけではない、と。
原田: そうですね。
白鳥: 逆に伺いますが、今のは広い意味も含めて、坐禅でなければいけないのですか。その塩になるための過程というのは。
原田: そういうことです。そういう自我を無くする方法、例えばものと一体になっていくことを「禅」と名付けております。だから「一体になる」ということは、それを「禅」と言っておるわけですね。それを「禅」と言っているわけですから、禅しかないじゃないでしょうか。
白鳥: 先ほどの話にちょっと戻るんですけども、観念とか、概念とか―教えの世界ですね、さっき話に出ましたあの教えの世界から禅の目指す状態、つまり法のわかる、法そのものになる条件というのはないんでございますか。
原田: いや、聞くものと教えとの間に、自分というものを差し挟まなければ、直接耳に入る。直接ものが見えるということになります。自分というものの介在がなければ。いわゆる自分を立てて聞くとか、見るとかという、そういう意識がなければね。しかし私たちはいつでもそれをしているわけです。そんな意識をしながら、〈私は今、私がものを見ている〉〈私がものを聞いている〉というようなことを意識せずに、いつでもどこでも何をしておっても、それはきちんとそういうものと一体となっている状態というのはあるわけです。それを「今」とこう言っています。「今」からちょっとずれると、認識が起きて、ものを認める、ということになるわけです。ものを認めることが一番問題になるわけですね。
白鳥: 仏教―まさに仏の教えの中では、お釈迦様とか、あるいはお釈迦様が弟子たちに伝えたと言われるお経とか、あるいは宗派を開いた祖師さまとか、祖師さまの言語録とか、そういったものというのは、もの凄く大事にされますでしょう。これを必死になって学んでいる方もたくさんいますよね。
原田: いらっしゃいますね。
白鳥: これではやっぱり少なくとも禅の目指す禅の世界にはなり得ないわけですか。
原田: 「法」というものは、やはり教えというものを自分で理解して、教えを深く参究していくことによって、法に到達できるかというと、それはできませんですね。「私」というものが、どうしても残るわけです。「私」というものを一度忘れ去らないと、教えそのものにならないわけです。どうしても「私」というものの存在があるということですから。
白鳥: ご老師の提唱の中に、それは厳しくおっしゃっているところがありましてね、「瞞(まん)ぜられる事なかれ」―誤魔化されてはいけないよ、というお言葉があったんですが、あれはどういう意味ですか。
原田: これは例えば、素晴らしい景色を見たり、素晴らしい話を聞くと、自分を忘れて、〈あ、素晴らしいな〉というようなことで、やや自分というものをほんとに忘れて感動してしまうというようなことがございますでしょう。感動だけの世界。それはそれで勿論よろしいです。後から戻りますと、また一時的にそういうことを経験したということになるわけですけども。仏の教えもあまり素晴らしいものですから、禅の世界のことがあまり素晴らしいものですから、自分を忘れてしまって、そういう美しく咲いた花とか、感動的にその言葉を聞いてしまうということがあります。だから仏道を修行するということは、自己に参じること、自分を学んでいくことだ、ということを忘れてしまって、感動の世界だけに慕うということがあるわけです。それは気を付けなければならんと思いますね。ですから仏の仏道、あるいは仏の書かれたものを、素晴らしい感動の目でもって見聞するということは、大切なことでございますけども、それを自分の方に回してこないと、相手と自分のある世界というのは、これはほんとでないと思います。
白鳥: そこで続いて、「自らの主人公を確立する」ということをおっしゃっていますですね。
原田: これは私たちが普通「主人公」というのは、ある家の中心になる人だとか、あるいは客観的に見まして、「あの方はどこどこのご主人ですよ」というようなこととは少し違うんですね。仏教でいう禅でいうところの「主人公」というのは。先ほどから申し上げているような「目覚めた人」という意味です。「自己に目覚めた人」という意味に受け取って頂くと、おわかりになって頂けるかと思いますけども。
白鳥: その「自己に目覚めた」の、「自己」というのは?
原田: 無明から覚めた人、
白鳥: つまり法というものが自らになっているような人のこと、
原田: そういうことですね。ですから「私は主人公だから」という、また「主人公」なんていうことを、主人公になった人は、自分が主人公だからそんなものは認めきれませんでしょう。「随所に主となり、縁に則して用(ゆう)なる」という言葉がある。だからある時は主人公になっておるけども、ある時は野に行ってお百姓さんでも、その他の諸々の仕事ができるという、ほんとに自由になった人という。何でも自由自在にものができるということになって。
白鳥: 先ほどの「我」とか「自我」というものを消去できるということと、「主人公となる」ということと、なんかこう少なくとも日本語の中でいうと、なんかちょっと自己矛盾があるような気もするんでございますが。
原田: 自己という自己を認めておる間の自己というのは、ほんとに小さなものなんですね。ほんとに小さな自分なんです。ですけども、そうかと言って、自己がどこにあるか、と言ったら、もともと自我だとか、自己なんていうのは存在しません。ですけども、存在しているかの如くに誰しも思うわけです。この身の中に何かがあって、そして命令をして、何かをさしておるような、何かこの中に一つの別に存在するものがあるからのように思う。それは無明であれ、妄想であるわけですけども。そういうことではないということが、そのままが本来のものであったということに気が付きますと、そうすると、そのままが主人公になっていくわけです。ここでいう主人公になっていくわけです。大きくなっていくわけです。大きさというのは、比較を絶したものということですから、主人公だけのものということですね。そういうように、ここで仏教でいう、禅でいう「主人公」というのは、そういうことなんです。釈尊のお言葉をお借りすれば「天上天下唯我独尊」とか、臨済禅の言葉で言えば、「無位の真人」というのが、みんな主人公が変わった名前なんでしょうね。ですから「主人公」という言葉だけを捉えますと、どうしても、〈ああ、あの人はここの主人だった〉とかということになりますけども、そういうのとはちょっと違う意味があると思います。
原田: 今の状況から言いますと、私どもはわりに西欧的な、例えば「自我」、あるいは「自我の確立」なんていう言葉で、「日本人はそれが弱いんだ」と。ある種の、むしろ理想像としてですね、「自我を強固にしっかりと」という、こういう一種の目標として考えていたんですが、そうすると、これはやはり仏の法という観念からいうと、これは間違いなんでございますか。
白鳥: 自分が自分を認めておるということだけで、非常に小さい自分なんですね。例えば、ものというのは何で出来ているかというと、「四大(しだい)」―地・水・火・風という四大でできているわけです。また細かく分けて、四大をまたいろんな因縁が集まってできておる。その中には、「我」というものを認める場所というものはないわけです。
原田: 「今」と同じような意味で、
白鳥: そうそう。ですから、それを認めてしまう小さな自分があるわけですね。ですから限界があるわけです。限界を作ってしまうわけです。本来縁起によってできているすべてのものの中に、人間も含めてすべての中に、「私」という存在を認めるために限界ができる。そういうものが生まれたり死んだりするものですね。ですけども、縁起というものはそういうものじゃございません。ですから自己に目覚める主人公になると、そういう限界のないとてつもない想像を絶する大きな自分に変わるということです。それを「主人公」とこう言っておるわけです。ここに修行に来られておられる外国のみなさんも、みんな「私というものを捨てるなんていうことは、敗北―向こうの人には敗北です」と。それは完全な敗北になるということですから、修行の過程におきましても、私というものは、考えをしっかりはっきり持って、そして指導者の言う言葉と自分の考えとが、どうしたら一つになるかということを一生懸命考えるわけですね。そんなのダメだというんですけど、それは聞けないんですね。なかなか聞けない。だから一生懸命祖録にある言葉、指導者が話した言葉を自分の考えとどうしたら一つになるだろうか、と、それを考えるんです。そういうことがなかなか捨てきれない。
白鳥: 私たちよりもきっと自我の意識が強いと思うんですね。
原田: ええ。ですから「それではそんなに捨てきれなかったら持っておりなさい」と。自我を持ち続けなさい。だからその自我を持ち続けていくことによって、あなたが非常に不自由を感じるならば、もっと自我を大きな自我に転換していったらどうか。ということは、一時的には敗北になるというふうな考えを持つかも知れませんけども、将来は非常に大きなものになる。小さな自分なら、パイが大きな我に変わるんですから、いいんじゃないですか。
白鳥: まさに主人公になる。
原田: 主人公になるということです。 白鳥: しかし今伺ったような形の「主人公になる」というのは、なかなか難しいことでございますね。
原田: 前からお話の途中に出ておりますように、私たちは、「もう既に主人公になっておるということに気付くだけ」のものです。まったく新しいものに生まれ変わるとか、従来の考えを根底から覆すということとか、まったくそういうことないんです。それも禅の―禅というよりも仏教の特色でしょうね。
白鳥: そうですね。「人それぞれに仏性あり」ということですからね。
原田: そうです。ですから正しい教えによって、正しい修行をしていけば、必ず今、あ、このままで良かったんだ、ということに自ら頷けるということです。
白鳥: やはり丸ごとありのままを受け止めること、それ自体がやっぱり難しいんですね。
原田: それが何遍か話しております自我、人の介在というのが、どうしてもそこに入るということです。他のものとの相違というのは、人の介在があるかないかの問題だけでございます。だから人の介在さえ、みなさんがそういうようにしてお取りになりさえすれば、すべての知識だとか、概念だとか、学問、その他のものが全部そのままいかされて使えるということになるわけです。だからお釈迦様のご在世でも、最初に帰依した方々は、みんなお釈迦様の教えをほんとに信じなかった人です。しかし後からそれが信じられる。お釈迦様の教えを、なるほど、と頷かれた方々の教えを、お釈迦様はそれをみんな自分のものとして受け入れて、経典になってこられますよ。前は哲学とか、さまざまな宗教にあったものを、お釈迦様がお悟りになって、自我を忘じられたから、それができるようになった、ということでしょうね。だから人の介在さえ今すぐ取りさえすれば、みなさんみんな主人公だという。
白鳥: 大らかにありのままに受け止められることができる。
原田: その「主人公」という言葉の出所というのは、『無門関(むもんかん)』という禅書に出ているんですね。瑞巌(ずいがん)という和尚さんが修行する上において、いつも自らを―自分のことですね―自らを自ら「主人公」と呼んで、〈お前、目が覚めているか〉というようなことを自問自答しておるわけです。「??(だくだく)」と―目が覚めておる、ということを、自らまた答えて、自らが問い、自らが答えておる。そしてまた自らある時「他の瞞を受けないようにしなければいけないぞ」というと、「はい、はい」ということを言っている。そのことから自ら問うて、自ら答えている。そこに「主人公」という言葉が出てきているわけですね。私たちが僧堂で警策(けいさく)というのを打ちます。あれも「覚策(がくさく)」の意味がございましてね、眠っている人だけを打つんじゃない。今のように主人公に目覚めない人に対して、警策(きょうさく)でもって目覚めなさい。それから警策(けいさく)というわけですね。覚策の意味があります。昔は耳元で鈴を鳴らしただけでも眼が覚めましたんです。だから人間だんだん横着になりまして、鈴だけでは眼が覚めなくなった。 白鳥: パシッという音を聞きますと、厳しいなという感じがしますが。
原田: そういう厳しさというのは、禅寺の通常だとお考えになるでしょうけども、勿論厳しさも必要ですけども、ここではほんとに目が覚めたか、まだ寝ぼけておるか、ということをほんとに調べることの方、その厳しさの方が真に要求される厳しさでないといけないということなんです。外的にいろいろ叩いたり、行事作法で厳しい―これは少し慣れてきますとできることですけども、寝ぼけ眼で〈あ、覚めています〉なんていうようなことではいけないものですから、それでその厳しさというものが許すか許さないか。覚めたのを確かに見届けたか。自らも覚めているか、ということの厳しさというものがないと、禅が衰退していく本(もと)でございましょうね。
白鳥: そうでしょうね。しかし主人公として目覚める。先ほどのご老師のお話をお聞きし、非常に難しいように思いましてね。
原田: そう思わないで頂きたい。自分のことですから、難しいことではありません。ただ気が付くか、付かないか。
白鳥: そうですね。常にやはり「自分の中に、仏性があるんだよ」ということを教えられているような気が致します。
原田: 「有る」と言いますと、探さなければなりませんから。
白鳥: そうですね。
原田: だから探すものではありません。
白鳥: 仏性そのものである。
原田: そのものの活動です。
・・・以下略 >>404
> やりたい!という好奇心そのものがアンテナになってやりたいことを引き寄せてるんだな、きっと。
そのようにいけば何も問題はないんよ。
しかし、自分の本当にやりたいことを、見つけられない人が
結構いるんよ。
挙げ句、家に引きこもってしまうことにもなるんよ。
もしも、やりたいことかあったとしても、いろんな理由をつけて
踏み出せないことがあるんよ。
お金がない、自信がない、
親に反対されたとか、世間体を気にするとか、なんよ。
頭で色々考え過ぎてしまうんよ。
普段から腹で考えたり、聞いたりの習慣があれば、
自我に翻弄されることが少なくなってくるんよ。
本当にやりたいことも見つけやすく、行動力も出てくるんよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています