禅
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∞ノノハ∞
川^〇^ハレ眼は自らを見ずみたいな感じですね
>山、山を知るべからず、水、これ水を知るべからず。
それ現成とは、山はもとこれ山、水はもとこれ水なり、と。 >>177
なら自スレに籠ってろ。かまってちゃんw ゆうちゅうぶ動画で高校生用の倫理でカントとヘーゲルを見た。便利です。 誰が見ても、デタラメとわかること書いて、みんなに完全論破、瞬殺される。。w
今日も悔しい鹿野園だね。。ww 昨夜は、夜中の3時、4時に遠吠えしてたのか。。ww
流石だ。。ww >>178
麦の目も、野良を嫌ってはいないのよ。何が、嫌ってるんだろうね?
目はタンパク質。 麦は、野良さんを愛している
ただし麦の愛はヤンキーの愛なので屈折している
屈折率が高い >>115
まず私のミスですが待機説法ではなく対機説法でした、すみません。
それでブッダですが、もちろん修行僧以外にもまさにその人の機根に応じた対機説法をしております。
例えばダンマパダ
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-2.html
一つ一つの詩句に「◯◯の事例」とありますが、「〜長老の事例」或いは「〜比丘の事例」以外の大半は、修行僧以外の在俗信者などへの説法か感興偈です。
一つ一つの詩句のエピソードについても紹介してあるサイトがあるのですが、直リンは出来ないようなので興味がありましたら
Dhammapada 心のお医者さまブッダ
でググってみてください。
で、ダンマパダのそれら修行僧以外への詩句はほとんどが勧善懲悪、因果応報のことであるのが確認できると思います。
203は或る在俗信者の事例なのに修行にも通じる難しい話をされていると思われるかもしれませんが、その理由も上のググってみてくださいのサイトで知ることができます。
また説法の集会に来た在家信者の人達への説法は、スッタニパータ第2章の中のダンミカ経での
「393 次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。このように実行する人し善い<教えを聞く人>(仏弟子)である。純然たる出家修行者に関する規定は、所有のわずらいある人(在家者)がこれを達成するのは実に容易ではない。」
http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
以下に在家信者の勤めが説かれていますが、戒を守るに努めることと説いていまして、その前の出家修行者への教えとは異なっており、集団に対する対機説法と言えると思います。
また、在家信者への説法では長部シンガーラ経もありますが、やはり出家者への教えとは違っておりまして、戒律を守ることや礼儀作法などを説いております。
https://gamp.ameblo.jp/nibbaana/entry-10741108930.html
白隠さんのそのエピソードも衆生に禅の教えを教えるために修行論を説いたのではなく分かりやすい絵画を描いたということですよね。
そこから仏縁を得て祖師・覚者の語録等に進み修行するものだと思います。
もちろん修行ではなく単なる個人的な趣味や好奇心を満たす為にそれらの語録等を読む人もいらっしゃると思いますが。
ちなみに私が例として出した『正法眼蔵』の即心是仏には、
いはゆる仏祖の保任(ホニン)する即心是仏は、外道二乗ゆめにもみるところにあらず。唯仏祖与仏祖(ユイ ブッソヨブッソ)のみ即心是仏しきたり、究尽(グウジン)しきたる聞著(モンジャク)あり、行取(ギョウシュ)あり、証著(ショウジャク)あり。
(現代語訳)
いわゆる仏祖の護持している即心是仏(この心がそのまま仏である)は、外道や小乗の修行者には、夢にも見ることが出来ないものです。これはもっぱら、仏祖だけが即心是仏を明らかにしてきたのであり、究め尽くしてきたと言われるのであり、行じてきたのであり、悟ってきたのです。
http://www.dogen-shobogenzo.com/sokusinzebutu5.html
など、修行することの必要性とセットで書かれてあります。 そうそう。コピペだけで済ませてるもんね。死ねとか言わんし断続的記憶から来る脳内妄想で済ませてるところが愛だね。
私も5ちゃんで遊んでいます。 道元さんの『普勧坐禅儀』
「言うまでもなく、彼(か)のお釈迦様がお悟りを開かれるまで六年間端座された事蹟は誰もが知っている。
また面壁九年といわれる達磨大師の修行は今尚その名声が聞かれるのである。
昔の聖人でさえ、これほど修行をされたのに今の人が何故修行しないでよいはずがあろう。
それゆえに、書物などの言葉を研究し理解しようとするような自己の外へ向かっての行はやめるべきであり、自らの内に向かって光を当て悟りを照らし出す行をするべきである。
そのとき、身も心も自然に意識から脱落して、自らの本来の面目が現前するであろう。
そうした悟りを得ようと思うなら、さっそくそのことつまり坐禅に務めるがよい。」
http://enlighten.fc2web.com/fukanzazengi.html
坐禅が進んでくると、なるほどその通りです、と思うようになってくると思います。
上に続く
「さて、坐禅をするときは、静かな部屋ですべきであり、飲食に節度をもって、雑事を忘れ、全ての関わりから離れ、事の是非、善悪を思わず、心に念が浮かぶことも意識に想像することも、何かを観じるという認識作用も働かせてはならず、また仏に成ろうと思ってもいけない。」
このように坐禅という行によって無分別というものが習得されてくるのであって、書物をいくら研究しても無分別は概念的な知識としてでしか得られないので、無分別でいることも中々できず、苦に捉われたままでいることになる確率が高いと思います。 >>182
www
そうやって噛み付いてなんか意味あるの?
お前のポジションなんてでおーとさして変わらないんだけど? >>119
現代語訳ありがとうございます(^。^)
私は漢文は初見から何度読み直しても、結局は現代語訳なしには理解できません(苦笑)
そして、はい、現代語訳を知ると今度は漢文の方を読んでる内にこの現代語訳はバイアスが掛かってるのではないかと思うことも多々ありますが、あるいは私の方がバイアスが掛かっているのかもしれません(笑)
例えば『宝鏡三昧』の最後
潜行密用(センコウミツヨウ)は、愚の如く魯(ロ)の如(ゴト)し
こちらの現代語訳
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/houkyousanmai.htm
では
「人知れず行動し、隠れて働く。一見したところ、愚か者のようで、魯鈍である。」
となっていまして、直訳ではこれが正しいのかもしれませんが、私なりに坐禅を重ねるうちに、
「坐禅をしている時は愚の如く魯(ロ)の如(ゴト)し、思慮分別を働かせぬことだ」
と解するようになりました。
ですが、私の方が「みずから規矩(きく)を立している」のかもしれません(笑) ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ口から出任せホラ吹き厚顔ニワトリ頭の悪霊オェー
精神科通いのガイジお前の末那識なんとかしろよ妄想ババア
オェー
前スレ明け渡して新スレ作ってくれても
新スレにまで嫌がらせに来る悪霊ですからねwww
オェー
だから娘が発達障害になったと思いますよ
嫌がらせに来て地獄に引きずり込もうとしているって誰だか言っていたけど頷けますねwww
0740 神も仏も名無しさん 2021/01/05 05:19:33
>>626
お前とことん性根が腐ってるな?
底意地悪いから罰が当たって娘が発達障害になったと思いますよ
2.悪逆非道のひょっこり女 野良(※出禁)
3.野良のダッチハズバンド極くん >>187
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ修行されている貴方にとってこの世界は美しく人生は甘美ですか? 曹洞宗はこのほど、根本宗典である開祖道元禅師の『正法眼蔵』(宗務庁版・上中下全3巻)を上梓した。
1990年の『修証義』公布100周年を記念した事業の一環で、約30年にわたった事業がついに完遂した
『正法眼蔵』は諸種の編集本があるが、宗務庁版を出すのは初めて。
本書は道元禅師550回大遠忌に当たって出版された玄透即中禅師の開版本に基づき、明治に流布された本山版『永平正法眼蔵』(九十五巻本)を底本にしている。
30年間で約30〜40人の研究者が編集に関わった。 >>193
いえ別に。
ちなみに禅では修行しているとこの世界は美しく人生は甘美であると感じるようになる、とされているのですか? 196.191.坐禅では愚鈍となる。
大爆笑である。 >>196
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ禅はお釈迦様の教えでは無いんですか? >>200
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ左団扇だねwww >>204
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ修行されている貴方にとってこの世界は美しく人生は甘美ですか?とお聞きしたかっただけですので
ありがとうございました ちなみにテーラーガーター(長老(=阿羅漢)偈)
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-8.html
の定型句
〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、正知と気づきの者として、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。
色々な長老からこの詩句が出てくるということは、これが阿羅漢の境地のようですね。 >>191
まぁ突き詰めると理解ってその人がそう「解釈した」と思うんですよね。
互いに理解を本当に共有してるか確かめるすべもないですし。
だからぼくは今はできるかぎり読み下し文くらいまでしか載せないようにしたりします。
もちろん例外もバンバンありますけど(笑)
「潜行密用(センコウミツヨウ)は、愚の如く魯(ロ)の如(ゴト)し」
も本当は洞山大師しか分からないだろうし、
あるいは本人もどこまで・・・って思いますしw
なんで、これに関してもコメントしないでおきます。
あくまでここでは自分が教わった坐り方の表明で抑えてます。
だから他の人のやり方を否定も肯定もしないですね〜。
ただ道元禅師の普勧坐禅儀には激しく同意ですね(笑) >>206
賢人が軍師として招かれているし、武士としての見解じゃね?
為すべきことを成して死の時を待つ。
諸法無我であり、他力本願だわな。 >>206
我を知り、思い込みや願望に囚われず軍略を練る。
これも諸法無我だろうね。 意識とは何かというと、密教的に言うと、エネルギーが身体のどこを流れるか、どこを流れないか、ということに過ぎない。。w
ずっと禁欲して坐禅してれば、自然とすべてのブロックが解消されて、悟りの完成、あるいは、身心脱落ということがあるだろう。。
だけど、在家の修行者で、オナニーやセックスしたらダメ。。w
しなくても、どっかでエネルギーが詰まってたらダメかもしれない。。
これは、禅の場合は、昔は、あまり問題にならなかったのかもしれない。。
しかし現代では、これが問題になる場合が多いのではないか、と思うね。。
「女は存在しない」とは、ラカンの有名なテーゼなわけだけど、これ悟りの言葉だよね。。w
中沢新一のの本のタイトルにもなっている。。
ちょうど2000年くらいに出たのかな?
その本の中で、エネルギーラインのことを彼は「神経生理管」と訳するのだけれど、
「クンダリーニと神経生理管の知識がなければ、(密教)修行者は、迷子になってしまう」とあって、
それに関していろんなアドバイスが書いてあるわけだが、それをすぐ買って読んだ僕は吃驚した。。w
一体この本は、誰に向かって書いているのだろう?と。。w
で、今やっとわかるのだけれど、そういうエネルギーの問題と「女は存在しない」という理解は、
つながっている。。今日朝起きて、ああそうか、と気づいたので、ご報告。。w 坐禅の坐法というものを、いつ誰が、思いついて、そう定めたのか。。
これは、達磨さんより以前から、結跏趺坐で、法界定印で、目を開けて、という風に定めた人がいたのだろう。。
そういう風に定めた人、達磨大師以前の祖師、と言えるかもしれないけれど、その人々は、クンダリーニやエネルギーラインの知識があったのだろう。。
インド人からすれば、坐禅もヨーガうちの一つ。。
だから、ヨーガという源流まで遡って、坐禅というものを考える、という必要もあるのではないかと思う。。
なぜ目を開けるか?w
目からは、ビームみたいにエネルギーが出てるからね。。ww
目を閉じたら、エネルギーの流れが変わります。。w
そういうエネルギーがわかるようになると、坐禅の効果みたいなものも、理論的に解明できるかもしれない。。 朝六時 畑に行って、わくわくドキドキでスイカの人工授粉をしようとしたら
驚いたことに昨日あれだけ咲いていた雄花がすべて萎んでいた
しかも雌花も咲いていない
朝露に濡れてまだ寝ている模様。。。早過ぎたか。夜は五時に明けているのに。
そこで、ナスとトマトにトマトトーンをかけて帰って来た。
この世界は美しく人生は甘美である。
スイカの受粉は例年通り、虫たちに任せよう。
昨日昼に雌花に蜂をみかけた 彼らの働きに委ねよう
家に戻り焼きそばを食べた。自家赤タマネギとピーマンと竹輪入りである
この世界は美しく人生は甘美である。 >>211
>ヨーガという源流まで遡って、坐禅というものを考える、
>という必要もあるのではないかと思う。。
ないない。
坐禅は中国で生まれた中国宗教にすぎない
座禅の外形的な坐法コツは、1に呼吸。2に半眼。 仏法は世界共通。。
仏教は普遍宗教だからね〜。。
ヒトという種もヴァリエーションあれども、世界共通だし。。
修行法も、瞑想とヨガ以外ないでしょ?w
考えるヨガ、というのもあるけれど、その三つ以外ないわけだ。。w
地球以外の知的生命でも、同じなんじゃないかな?w 釈尊も中国禅も
エネルギーの流れ などとは言わない 仏像みると、悟前の坐法と悟後の坐法で、左右逆になる、というようなことを言うなことを言う人がいて、
面白いと思った。。
ミクシィだったかな・・・オショー・サニヤシンの人たちなんかと交流して面白かったけれど。。w >>215
頓悟の部分は、エネルギーは関係ない。。
これは、ゾクチェンなんかでも同じ。。w
ただ、頓悟だけあっても…ww
エネルギーが整わんと、あんまり意味ないし、すぐまた迷う可能性が高い。。w 東大教授だった原担山も、禅を修めたのちに、道教の修行みたいなことをやってるでしょ。。w
そういうの面白いと思うんだよね。。w >>211
ヨガ系統は目は閉じている、道教は目は閉じて耳を解放して音を使う、目と耳は両方使えるけど、禅の場合は目を解放したんだね
ヨガは対象に集中凝視して、対象と一体になった後に、対象を忘れ、集中した意識のみに止まって無分別サマディーになる
原理は、例えばテレビを見ていたとして、ある場面をただ見ている時、大概は考えていない、興味あるものだとかなり集中してて、完全に無思考だったりする
そこへ急にコマーシャルが入って、対象への集中が中断すると、対象に行っていた意識が消える、実は目の前のテレビは内側の意識に映っていて、外部の興味の対象が消えた瞬間に、内側の自己意識が対象無しに単独で存在している状態に、自然になる
禅で半眼になるのは内に沈んで妄想が繁茂しないように、外光を意識に映しておくことで無意識に沈没しないようにする
また、内外同時に意識するという、意識の置き方もある、これは禅に近いのでは? ヨガでは、対象を失って、自己だけに留まる状態に在るのを、カイバリヤ(独存位)と言う、これは一切の対象から解脱したサマディーの状態を現すこと 第四図 得牛
……
境勝れたるに由って
以って追い難し。
第五図 牧牛
……
境によって有なるにあらず、
唯自心より生ず。
鼻索(びさく)牢(つよ)く牽(ひ)いて
擬議(ぎぎ)を容(い)れざれ。
第六図 騎牛帰家
干戈(かんか)已(すで)に罷(や)み、
得失還(ま)た空ず。
樵子(しょうし)の村歌を唱え、
児童の野曲を吹く。
……
・・・こういう風に並べると面白い。。w >>219
たしかに、意識対象はなくて、意識だけ醒めてある、というのが三昧かもね。。
坐ってると、エネルギーの流れが、自然と小周転ルートを流れたりするから面白いと思う。。
坐らない限り、そうはならない。。
だいたい、前頭葉とかとで、エネルギーを消費してしまっているんじゃなかろうか?w
考えるとか学ぶとか語る、も煩悩だよね。。w
智慧とかじゃなくて、煩悩。。
第6チャクラのの欲望とも言える。。w
それを煩悩と気づくか、バカなことやってると気づくかどうか、が分かれ道なんじゃないか?w 智は是道ならず、と言ったのは、南泉だったか。。
頓悟というのは、洞察=智に近いのだけれど、それだけじゃーダメだ、と気づいた人たちがいて、すっとぼけ、ノラリクラリというか、
愚の如し、魯の如し、という方向へ行ったのかもしれない。。w おれは、リードビータとかだけじゃなく、本山博の本とかも何冊か読んでる。。w
このスレで、その名前を聞くとは思わなかったけれど、ある程度必要な知識なんじゃないかと思うね。。
チャクラとクンダリーニというものは、別に修行しなくとも、世俗というか社会生活の中で、成長し、成熟するというのはある。。
ただ、宗教的な書、テクストを読んでわかるかというのは、生まれつきわかる人か、ある程度の覚醒がない限り無理なんだろう。。
クンダリーニはちがうかもしれないが、チャクラのキャパシティというのは、生まれつきがあるらしい。。
禅宗では、あまり生まれ変わりは言わない、認めない人も多い。。
けれど、チャクラのキャパだけは、同じ親から生まれても、生まれつきのキャパがぜんぜん違ったりする。。
そうすると、やはり前世とかあるんか・・・とか、ちょっと考えてしまうわな。。w 225.バカまる出し、である。大爆笑である。
公案の問題をやれば良い、だけのことである、よ。
バカには理解できない。
大爆笑である。 >>205
甘美が終わるとき、苦しみが起きる
苦しみが終わるとき、甘美を感じる
甘美を超えて行きなさい。 死猫児頭、最も尊し・・・命を美化する、礼賛するというのは、非常に俗な考え。。 お釈迦さまは、我が子を踏んずけて、王城を立たそうだ。。ww 甘美云々は涅槃を迎えられるお釈迦様が仰った事ですね。確か涅槃経にあったと思います。
まぁ、確かにこの世の中キラキラと輝いてますから、そう仰ったのでしょうし、おそらく、そのようにキラキラと輝いて見えるのは永年の坐禅の副作用かも知れません。
光がそのものを廻ってこっちに来てるような感覚でしょ。 世界か甘美だとか輝いて見えるとか、せいぜいアストラル界というか、修行し始めの現象。。w
そんなんで喜んでてもしょうがない。。w
人に言いふらすのは、もっとバカ。。w 10時から12時まで畑。ひと風呂浴び食事
10時に行くとスイカは雄花も雌花も咲いていた
モノの本には9時までに人工授粉を。9時を超えると雄花の受粉能力が衰える
とあるのだが、朝六時に寝ているスイカの花はかなり寝坊助である。
ある意味スイカは大物なのか。受粉後40日で10kgへと肥大する
この世は不思議に満ちて甘美である
ランチは採りたて胡瓜と採りたてオクラとレタスのサラダ
そしてりゅうきゅう丼である。
採り立てのきゅうりは味が濃く、甘美である
採り立てのオクラは粘りがあり新鮮で甘美である
覚者野良様が仰せのごとく、いのちそれぞれがすばらしいのであろう。
贋農家は俺を見習って野菜を育てなさい >>234
スレ違いだよ。
ここに馬鹿魚は来ないから。 一切は何かしらが転じたものって考えるのは自然じゃないかと思うんですね。
ただ、それが何かしらの根源から流出して顕れているって仏教では説いてませんけどね。
ここら辺が他の宗教との違いって言えば違いのようだと思うんですが。
西田は絶対無の場所とか言ってるし、久松は即無的実存とか云ってますけど。 絶対無とか即無的実存などでは
きゅうり一本すら作れないのである
と説いても、おいしいキュウリを食べたことも見たこともない
鹿野園君にはわからないであろうが。
鹿野園君には甘美体験がないのである 今日午後3時からBSnhk1で安泰寺の放送がある。再放送。 福田和也『甘美な人生』の序論では、禅僧が小僧の首をねじ切って殺す話が書いてある。。
悟れる見込みのない小僧の首をねじ切って殺して、庭の敷石の下に埋めた話が書いてある。。
たぶん日本の話。。 >>237
>それが何かしらの根源から流出して顕れている
田辺元にプロティノス主義と批判された部分だけね。。
根源的一者からの流出=ネオ・プラとニズムと言われて、反論はしなかった。。
あるいはできなかったのだろう。。 エネルギーだの気だの、確かにそうしたものを仮説して説明する何かしらと腑に落ちるのは事実ですし、無闇矢鱈と否定するのはどうかなぁって思いますけどね😯
しかし、ではその気やエネルギーは何から出来ているの?ってなったらどうなのかなぁって事なんです。
いわゆる「ホラフキン男爵のトリレンマ」の無限背進になるのではないんですかね。 禅宗は人を選ぶ、というのが本音かもしれない。。
達磨さんからして、慧可が来ても見向きもしなかった。。
軽心、慢心に依って来たのであろうと言って、腕切って差し出すまでガン無視。。w
そうじゃないと続かない、という側面もあるのだろう。。
人口に膾炙して、一般化することによって滅んだ、とも言えるのかもしれない。。 福音伝道よ。
神の声を聴いた、か。
公案である。
まなみ、は自分が神の声だ、と言う。
大爆笑である。 >汝これ渠にあらず、渠正にこれ汝
>(祖堂集 洞山 過水の偈)
流出論的にこれを観て、逆回し的に汝が無心になって渠に還るっていうのは過ちだと思うんです。
勿論、渠は「イデア」でもありません。
還るとは因果関係ではなくて、あくまでも因果一如で相即なんです。 鹿野園は、悟れない人、として終わる、か。記憶に残る、か。 >>247
>逆回し的に汝が無心になって渠に還るっていうのは過ちだと思うんです。
西田の哲学自体がそうなんだよ。。w
過ちに非ず。。w >>244
お釈迦様自身が、ヨガを習って、実践していたのだから、お釈迦さまはわかってただろうね。。
今のハタ・ヨガとはちょっと違うけれど。。 250.ヨガを実践しても悟れない、よ。
バカには理解できない。
大爆笑である。 「不生でおればいい」といいながら、或いは「坐禅も余計だ」といいながら坐禅をするのはそういう事だと思うんです。
渠は汝でも、汝は渠にはなれないのです。 252.鹿野園は悟れない。
そう言うことである。
大爆笑である。 鹿野園がなんで悟れない、か。
それを研究すれば有益である。
知識があってもダメである。
なんでか。
公案である。 改めて以下の偈は凄いなぁって思うんです。
>億劫相別 而須臾不離
>尽日相対 而刹那不対
>此之理人々有之
>(大燈国師)
億劫(おくごう)相い別れて、
而(しか)も須臾(しゅゆ)も離れず。
尽日(じんじつ)相い対して、
而も刹那も対せず。
この理、人々(にんにん)これあり 254.坐禅、ヨガをやっても悟れない。
なんでか。
公案である。 このスレで「それ、逆だわw」って指摘をして大分キレられてしまった様ですけどね😦
要するにこういう事なんです😦 悟れなくても威張れる、と思う鹿野園である。
昔は良かった、か。威張れた。
大爆笑である。
悟れない次元で鹿野園がなにを言っても、的外れなことになる。
そこが理解できない鹿野園である。 >汝これ渠にあらず、渠正にこれ汝
>(祖堂集 洞山 過水の偈)
渠は汝でも、汝は渠にはなれないのです。
流出論的にこれを観て、逆回し的に汝が無心になって渠に還るっていうのは過ちだと思うんです。
南岳磨甎なんてまさにここのお示しでしょう。 >>255
凄いなーじゃなくて、あたりまえのことじゃん、と思えないとしゃあない。。w
そうじゃないと坐禅修行にならん。。w 洞山五位なんかでも、法理が完全にわかって、最後は、かまどの前に坐すでしょ?
何か読んで凄いなーとか思っているうちは、ぜんぜん坐禅にならん、ということ。。w 262.263.坐禅修行では悟れない。
なんでか。
公案である。 馬鹿野園は、
自分の脳記憶細胞をいじり過ぎたなれの果て。
良い子は真似しないでね。 鹿野園は良い師がいない、からである。
その師をキチ外、と断定している。
よってして、鹿野園の程度がわかる。
大爆笑である。 自分がどうにかなる、ではなく、自分が脱落する、本来の自己に出会うということがありますよ、というのが坐禅。。
それがなければ、坐っている意味ない。。w
ラジオ体操でもしてた方がマシ。。w >法理が完全にわかって
www
分かるってなんですか? >>260
無心は汝を正しく制御した結果だww
あほうww 「法門無量誓願学」っていうじゃありませんか。
その法門・法理は無量だって事なんです。
我々有限な存在がどうやってその無量である法門(法理)を完全に分かるというのでしょうかね?
wwwwwwwwwww
「何故か」です。
「何故か」無辺・無尽・無量・無上なるものに対して我々有限なものが誓願を立てるんです。
で、あら不思議。
誓願たてた時に、それらが度され・断たれ・学ばれ・成ってるっていうんです。 >>269
錯乱者を観察するスレ、になってるかもだな。。ww
人が集まると、必ずアラシに来るからこいつは。。w >>272
では、「絶学無為の閑道人」は、間違いか?w 禅の法理は、禅の祖録を学ぶしかない。。
あとは、でおー先生が言ってたみたいに、八宗綱領だな。。
まずは、諸宗派の違いを理解したうえで、一つに絞らないと、一つも修められずに、頭の中がゴミ屋敷になって終わり。。w
祖録をちゃんと読んで、自分の中で理を整理して、という風にやれば、鹿みたいになるはずがない。。w
頭の中がゴチャゴチャだから、正論に食ってかかって発狂する、を繰り返すわけだ。。w >>276
我は閑也、忙しきは汝也。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 言い得て妙じゃありませんか。
>我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。
>絶対的一者の自己否定的に、即ち個物的多として、我々の自己が成立するのである。
>故に、我々の自己は、根底的には自己矛盾的存在である。
>自己が自己を知る自覚ということが、自己矛盾である。
>故に、我々の自己は、どこまでも自己の底に自己を越えたものものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています