【初心者】キリスト教を共に学びたい【教会】
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キリスト教に接し始めてまだ日の浅い方がおりましたら勉強の経過や方法、そのほか何でも話せる場になれば良いかなと思い建ててみました。
現存のスレッドは皆さんとても親切でとても勉強にはなりますが、まだ時期尚早、語句や人名なども解らずついて行けなかったり。
そのような初心者向けのスレッドになりますが当然諸先輩の方々のお立ち寄りは歓迎いたしております。
※教派は問わずです。
但し、各々の教会に対する批判的な発言は禁止です。
バイアスを掛けない議論は問題ありません。 神が自らつくった全てのものは神のおもちゃです。
「全ては神の意思なしには起こりえない」と、なっています。
全ては始めから神の考えたストーリーがあって、
悪役も正義の味方も始めから決まってて、
可愛そうな被害者も設定済みで、
全てが神のストーリーにそってるだけ
というわけです。
ここにこんなこと書いてる行為や言葉も全てストーリーの内。
これを読んだ誰かがあんなことを思ったり
こんなことを考えたりするのも、ストーリーにそってる、
我々を含む全ての存在が漫画の絵か人形劇の道具、というわけです。
どんな苦しみも悲しみも究極的な救いを得るための準備であり、
治らない病気も不慮の死も、悪人が様々な犯罪をすることも、
人間には理解できない神の計らいである、
「神のなされることは人間の知恵にははかりしれないものである」
となっているのです。 神の責任を問うためには、法律の存在が先行しなければなりません。
つまり、神の存在に先行して、善と悪の基準となる法律が
より上位の権威として存在しているのでなければ、
神の責任を問うことはできません。
ところが、法律があって神があるのではなく、
神があって法律があるのです。神の意志が善悪の基準なのです。
神は法律によって裁かれる者ではなく、
神がその意思に従って法律を与えるのです。
神は法律の上に立つ権威なのです。
したがって、神の責任ということはありえなくなります。
このような神を認めれば、そういうことにならざるを得ません。
神は絶対君主なのです。
それゆえにこそ、「殺すべからず」という法律を
人間に与えておきながら、自ずからは、
殺人を命令することもできるわけです。
絶対君主の権威は法律の権威よりも上位にあるために、
絶対君主は法律に縛られていません。
法律に縛られていなければ、
絶対君主に責任を問うわけにはいきません。
つまり、このような神を認める限り、神が何をしようが、
神を責めることはできません。 唐突ですが、キリスト教本のお薦めをします。
図説 一冊で学び直せるキリスト教の本 月本昭男監修 学研プラス 780円+税
カラー版 イチから知りたい!聖書の本 大島力監修 西東社 1200円+税
図説 地図とあらすじで読む 聖書 船本弘毅監修 青春出版社 1080円+税
以上、3冊です。 >>339
スマホから地震エリアメールが鳴り響き目が覚めてしまいました。
教会へ通いだしてもうすぐ一年が経ちます。水が冷たいので洗礼は夏がいいよと言われてるので、この際旧約は一時保留で新訳を猛スピードで読みだしています。
洗礼は今までのすべての悪行を洗い流してくれるというので私は生まれ変われそうです。
アーメン >>348
お薦め情報を有難うございます。聖書通読したら追々入手してみようと思います。
1年前に教会へ通いだしてからキリストを学び、私の行動や思考が少しずつ変化してきてることを感じています。
これは当初の想いでもありましたサタン的な思惑の消滅、順調です。
イエス様に感謝します。 >>350
アモルとプシュケさん、色々事情がありコテハン変えました。
ろんぎぬす改め「ふぃりぽ」です。
最近は新型コロナの影響で営業自粛で仕事も休みです。
ヒマにかまけ堕落した生活の毎日で、朝夕の家庭礼拝で正そうとやっきです。
讃美歌は気持ちを正すのに効果があると思い聞いてます。
何はともあれ、お互い信仰を深め合いましょう。 >>353
ふぃりぽさん、了解しました。
ならば私、当初の予定でした「ロンギヌスの槍」を名乗っても良いですか?
緊急事態宣言のお陰で教会も休館なのです。
わたしはふぃりぽさんの真逆で暇さえあれば新訳を読み進めています。ふぃりぽさんとはキャリアがぜんぜん違うのですから大したアレではありませんが、とにかく毎日の主の祈りと使徒信条と聖書は欠かさなくなりました。
幸い、自分のところの勤務は縮小も何もありませんが初のイースターを体感できなかったのは 寂しい限りです。 >>354
おはようございます。HNコテハン「ロンギヌスの槍」OKですよ。
イースター礼拝は、来年以降に持ち越しですね。
カトリックの場合、復活の聖なる徹夜祭です。今年は中止だったそうです。 ご参考にとキリスト教本のお薦めをUPします。3冊です。
プロテスタント福音派教会の入信時のカタチを紹介します。
【 家庭礼拝 日本基督教団 】
【 ディボーション ミニストリー 聖書日課 】
【 日本聖書協会 聖書 口語訳 検索 】
【 聖書 和訳各種 原典の外国語 】
【 プロテスタント各派の権威の置き方 】
【 教派 信仰告白 信仰基準 信仰問答 信条 】
【 カトリック ミサ 聖書朗読 説教 】
【 出会ったエホバの証人の配布物 】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1587793418/334-344n 朝鮮半島がらみのネタを書き込みます。
高句麗 ____________ → 高麗 こま
馬韓_ 駒(こま)を飼う韓___ → 百済 くだら
弁韓_ 別の韓 馬韓と弁別の地域 → 加羅任那 からミマナ
弁__ 別の地 ________ → 加羅任那
弁辰_ 別の辰 辰韓と弁別の地域 → 加羅任那
辰韓_ 東南の韓 辰の方角の韓_ → 新羅 しらぎ
韓_(表意 楽浪郡の周辺の意味 古代の周国の辺地「周辺」が春秋戦国の韓国だった)
から(訓読み 倭人にとっては外国の意味)
加羅(表音 倭人の「から」の発音を中国人が音写)
旧唐書 東夷伝 百済条の最後の一文の意訳になります。
(わが大唐は)
(百済国であった) その地を
(戦争後の) この時より
(唐王朝の冊封体制と、シ民政策という強制移住政策により) 新羅と
(シベリア・エベンキ言語系の) 渤海や、靺鞨の人々に分け与えた。
(そのため)百済の(言語を話す)種族(としての人民)を、ついに絶滅させる事が出来た。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1587793418/535-538n
1779年、李氏朝鮮のカトリックは、
京幾道広州市退村面の渓谷、仏教の天真庵で「西学」として始まった。
李氏朝鮮でのキリスト教弾圧
1791年 辛亥邪獄(最初のカトリック弾圧)
1801年 辛酉邪獄で数万人が犠牲
1815年 弾圧
1827年 弾圧
1838年 弾圧
1839年 弾圧
1866年〜1873年 丙寅邪獄(キリスト教大弾圧)
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1587793418/282-285n マルコ10:29〜30
「わたしの為また福音のために、
家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は
誰でも、今この世で、迫害も受けるが、
家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、
後の世では永遠の命を受ける。」
マルコ16:15
「全ての者に、福音をのべ伝えなさい。
信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられる。」
マタイ10:14
「あなた方を迎え入れもせず、
あなた方の言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、
その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
はっきり言っておく。裁きの日には、
この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
マタイ10:34
「わたしが来たのは
地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」
マタイ10:37
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」 マタイ19:29
「わたしの名の為に、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は
皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」
マタイ 24:9
「その時、あなた方は苦しみを受け、殺される。
また、わたしの名のために、あなた方はあらゆる民に憎まれる。」
マタイ28:19
「あなた方は行って、全ての民をわたしの弟子としなさい。」
ルカ12:49〜51
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。
その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」
ルカ18:29〜30
「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者は
誰でも、この世ではその何倍もの報いを受け、
後の世では永遠の命を受ける。」
ヨハネ8:24
「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、
わたしは言ったのである。
『わたしはある』ということを信じないならば、
あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」 >>364
メンヘラ高齢者がメンヘラ高齢者を絶賛しているだけ
似た者同士なんだろうなw 人が天使よりも幾分低く造られたのは、復活の恵みにあずかることにより、
天使に等しいまでになるからです。
ルカ
20:35 かの世にて死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、
めとることも嫁ぐこともない。
20:36 彼らは不死である。天使に等しい者、復活にあずかる者として、
神の子だからである。
キリストはこのような天使より少しだけ低い人間にまで身を落として
教えを与えてくれました。
私たちが自分の使命ー復活の子ら、神の子らになることーに目覚めるための教えです。 何ゆえ神は人を省みられ親しく話してくださるのか
人は神よりも少し低く、神に似せて造られた
キリストは「神の姿」と呼ばれ、人は「神の似姿」と呼ばれる
「 神の似姿」というキリストが誰の中にも存在する
だが、その人の犯す罪により鞭打たれ、釘に打たれ、木にかけられ、息絶えている
いつ復活するのか 聖書の教えをこねくり回すのは人間なんだよね、結局。
聖書自体「書き足したり削除するのはまかりならん」なんて記述があるけど実際編纂
されまくりなんてのは事実。
私は教会流浪民だけれども、牧師ごとに正反対のことを言ってたりする。
もう「何が真理か」というよりも「この教会はどんな珍説を聞かせてくれるのか」
と期待してしまう。 >>371
神に祈りなさい。
人の教えに期待してはなりません。
聖書は人間の知恵によらず、神の霊感で書かれたものだからです。
もしそれにつまづくことがあったら、数学を研究しなさい。 >>372
>人の教えに期待してはなりません。
だったら教会に通う必要はありませんよね。
牧師は聖書の記述(あえて教えとは言いません)を自分なりに咀嚼してひけらかしてるだけでしょ。
色んなことを考えるのは一般信徒とて同じ。 その指標を求める為に教会に通うのでは?
その指標が牧師ごとに違うことを言うのが興味深いですね。
諸悪の根源は教会にこそあるのでは?
イエスは「二人または三人が私の名の下に集まる・・・」なんて言ったんでしょ。 聖書は神の霊感によって1600年の間に40人の著者によって書かれた本 >>373
イエス・キリストが天に上った時点で、聖霊が全人類の上に降りていますので、まず、あなたが、見えない神様に、救われたいことを頼んでください。
そこから聖霊があなたを導き、あなたは聖書が私たちに伝えている道を歩き始めます。
✝神は言われる。
終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
(使徒2:17)
見えない神様に頼むことで、あなたは聖霊によって、あなたを御心に適った教会へ導かれるでしょう。
その時までに聖書を読んでおくことです。 【ヤマザキパン】「いのちの道の教えの言葉に従い、神のみこころにかなう永続する事業の...」 経営方針が宗教感あふれる内容に改定 [ばーど★]
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1596878529/ >>371
俺もそうだった。
貴殿は正常だと思う。
そもそもマリヤの処女懐胎とかイエスの復活とか
まともな知性をもった大人なら馬鹿馬鹿しくて信じない。
最後人類の贖いの為に十字架に磔つけられて
「我が神、我が神、何故私を見捨てられたのですか?」
と言いながら泣け叫んで死んでいったイエスは神に護られていなかったし
イエスの信じていた神など存在していなかった事をイエス自身が証明してしまった。
死んだイエスは天国にも地獄にも行かないでただ灰になったというのが真実だ。 >>374
かなり政治的に利用されバチカン等から圧力をかけられ
虚実が多いというのが多くの神学者や歴史学者の見解だ。 聖書は神の霊感という妄想によって1600年の間に40人の糖質によって書かれたファンタジー本 碧巌録(へきがんろく) 第5則 雪峰尽大地(せっぽう じん だいち)
本則
雪峰、衆(修行僧たち)に示して云く、 「尽大地撮(つま)み来(あぐ)ぐれば粟(りつ)米粒(べいりゅう)の大きさなり。
面前に抛(ほうり)向(だ)すも、漆(桶(全体が真っ黒な漆を入れる桶)不会(しっつうふえ)。
鼓(たいこ)を打って普請(ふしん)して看(み)よ」。
普請(ふしん):普く請うて皆を集めて仕事(ここでは「真の自己」を究明し探す仕事)をすること。
普通、普請の合図に普請鼓(ふしんく)という太鼓を打つ。
碧巌録第五則『雪峰大地撮来』
【本則】
挙す。雪峰衆に示して云く、尽大地撮し来るに粟米粒の大きさの如し。面前に抛向(ほうこう)し、漆桶不会(しっつうふえ)。鼓(こ)を打って普請(ふしん)して看(み)よ。
「宇宙そのものは、実に広大無辺のものである、その広大無辺なる宇宙の全体を、拙僧が三本の指で、つまみあげると、之是、此通り米粒ほどの大きさしかない。」
○
母の納骨の時、お経をあげていただいた層に問う。
分骨したい、と思いまうが、檀家をしている和尚さんは、不可である、と断言されます。わたしとしては、母方の祖父母、も寂しいから分骨としたいのです、とお尋ねした。
同じ宗派ではあるものの、お墓は別で、こちらの墓地を得て、父方の先祖が入っている。
納骨に立ち会い、読経をしていただいたその僧が言う。お母様は、ここにある、そこに在る、と言うのではありません、お母様は、宇宙に遍満(へんまん)していらっしゃいますよ。
この言葉をいただいて、小さな陶器の骨壺を用意して少し入れて、のちに、母方の祖父母のお墓へ入れた。
この公案は、栗(くり)や米粒(こめつぶ)の大きさである、と宇宙を言うのだが、それは存在しているもの、色、で言っているのである。
すでに 尽大地が空である。クリやこめつぶ が 空である。禅は 色即是空は空即是色へと還(かえ)る、である。 碧巌録(へきがんろく) 第6則? 雲門日々好日 (うんもん にちにち こうにち)
本則(ほんそく)
雲門垂語(すいご)して云(いわ)く、「十五日已前(いぜん)は汝に問わず、十五日已後(いご)、一句を道(い)いもち来たれ」。
自ら代わって云く、「日々(にちにち)是れ好日(こうにち)」。
注
雲門:雲門文偃禅師(864〜949)。雪峰義存の法嗣。 雲門の禅風は天子の位ありと言われるほど気高いところといわれる。
また、紅旗閃爍(こうきせんじゃく)とも言われる。 赤い旗に字が書いてあるけれど、風にハタめいているので、 読みにくいのと同じようなところがあるという意味である。
法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存 → 雲門文偃
垂語:垂示に同じ。問題を提起すること。
十五日:夏安居の最後の日である7月15日をさす。
夏安居(げあんご):夏の三か月の間、 僧が一か所にこもって坐禅修行に専念すること。 夏行(げぎよう)、夏籠(げごもり)とも言う。
十五日已前:雲門は夏安居の最後の日である十五日に上堂して説法した。 その時の言葉だと伝えられる。
本則の雲門の垂示の言葉は 「夏安居の修行が終わった今日から後 どのように過ごしたら良いだろうか?」 という問いかけの言葉であることが分かる。
○
一(いち)とは、色である。
一如(いちにょ、一の如し)、とは、空である。 碧巌録(へきがんろく) 第7則 慧超問仏(えちょう ほとけ「真理(さとり)」を とう)
本則
修行僧、法眼に問う、「慧超(えちょう)、和尚に咨(もう)す。如何(いか)なるかこれ仏?」
法眼云(いわ)く、 「汝はこれ慧超」。
注
法眼(ほうげん):法眼文益禅師(885〜958)。 唐代の禅者。法眼宗の始祖。羅漢桂チン(けいちん)(らかんけいちん、867〜928)の法嗣。
法系:徳山宣鑑→雪峯義存→玄沙師備→羅漢桂チン→法眼文益
慧超:法眼文益の法嗣 のちに号して帰宗策真(?〜979)となる。
本則
法眼禅師に慧超という僧が聞いた、 「私は慧超という者です。和尚に一つ尋ねます。一体仏とは何でしょうか?」
法眼は言った、「お前は慧超だ」。
○
同行二人(どうあんふたり)
ほとけとわれは 而二不二(にに ふに) 「二ではあるが、二ではない」 であり、
ほとけとわれは 不二而二(ふに にに) 「二ではないが 二である」 である。 40代男性3人と2時間ばかり話し込んだ。
その中で禅の話しをする事があった。
話しはあれこれ飛び飛びに進んでいつのまにやら散骨についての話しが出た。
しばらくお互いに遣り取りがあって、わたしは禅の話しを切り出した。
ぜん? なんですか、ぜんって?
禅に他の意味があるとも思えないが共通認識ではないことに踊画起き、とっさにわたしは次に言うべきことばがさっと出てこなかった。
単にことばの音である、ぜん、
わたしは禅を説明しなければならないところに、初めて居たのだった。
ぜん、それはなにか?と言うことである。
わたしは達磨さんから話しを始めた。
高崎名物だるまさん、の事か、と言う。
起き上がりこぼしや、大願成就の縁起物のだるまさん人形の事では無いよ、とまず断りを入れた。
ダルマと言うインドからヒマラヤ山脈を回避して洋上をバナナの葉の船に乗って中国へやってきたと言う伝説を持つダルマさんと言う人物の事なんだよ。
そして、サンスクリット語でダルマとは法、真理と訳されるものだ。
しんりって、心理の事ですか?
うーん
心理ではなく、真理、さとり、だね。
こんなふうであった。
わたしは禅と言い出せば、すぐになにかしらの受け取りを誰もが持っているという固定観念、先入観があった。
単に「ぜん」と言う音のひびきとしてしか通用しないのだと言う、事実がある、と知った。
ここは、2ちゃんねるの「宗教」板であり、禅スレである。
そこに出入りし、書き込む人は、いくつものハードル越えをしてきた人たちなんだ、と思う。
ダルマ、法、真理、、を求める人を参ずる、と言うのだろう。
わたしは米国人神父が日本で禅に出会い、隻手の音声、と言う公案に取り組んで、挫折した、と言う本を読んだ。
これまでに旧約新約が1冊になっているカトリックの本を数回、頭から全部読んでいた。
わたしとは真逆にこの米国人神父は西洋から東洋を知ろうとしている。
隻手の音声を一音(いちおん)ずつ書き出しても見たそうである。
在日期間も短かったようで、数年で帰国したらしい。
わたしは唯心論的思考と実践をする中にも、その逆の唯物的思考と実践をする中にもいたことがある。
この隻手の音声は、両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、である。 以前 わたしは 二人のイスラエル人と知り合うことがあった。
一人は空手家で、もう一人は柔道家であった。
空手は日本人の妻をめとりイスラエルで盆栽家となる。
柔道家は、指圧師で、帰国後、開業した。
そのイスラエル人が、言う。
Jesusと言う人物はかって存在しなかった。
存在していた、という証拠がない、と言う。
死後、50年後から、140年後の書かれた数冊の本があるだけである。
ヨーロッパの科学、文化芸術は全てイエスの存在証明であり、2000年間続く宗教哲学がある。
そfれはいまだに、解(かい) を得ていない。
永遠の証明問題である。
曰く、無いものの証明は出来ない、それは悪魔の証明、と言う。
また、Jesus自身はユダヤ人であり、ユダヤ教徒である。 ミックスリスト - 岡八郎 花紀京
https://www.youtube.com/watch?v=v1DVruk79BI&list=RDv1DVruk79BI&start_radio=1&t=15 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています