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--佛教論議の伽藍スレ-- 第二巻
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0361承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/10/15(月) 21:05:30.74ID:ZvtuUjAi
>>358
長くなるし、スレの主旨からも外れるので、てすスレにまとめて書くことにします。

(^。^)まぁ、忙しいだろうから見なくても良いよ。(笑)のし
0362神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/15(月) 22:41:56.45ID:byHRJhh4
>>361
要らない。(つーかそんなスレ知らんし)どうせたぶん、永遠に納得しないからwww
AIの魂なんてどうでもいいw
『知る』(「学習する、身に付く」)までに、どういうプロセスが必要か、ということ。
(赤子が世間を学習するのと一緒。もし、感覚器官が不要なら、赤ん坊をガラスケースで育てたらいい。
或いは、外国語及び外国の文化・物品、慣習等を知るのに、言葉だけでどこまで正確性―というか、
”そのもの”に迫れるか―を保持できるか。 禅の言う冷暖自知も愚かな四字熟語だw
或いは、運転上手ければ、初めてでも(―同乗したことがあったら×w―)大型バスやトレーラーを
自在に運転できるかどうか、とか。まさに身体感覚の延長の車体(サイズ)感覚・操作感覚なわけで・・。)


ああ、そうか・・。 仏教にアスリート的要素があるかないか、という見解の相違か・・・。
だったら、余計に平行線だな・・。

あれ? (禅は別としても)
密教こそ、身体を使って上のステージへと上げていく行法に特化した宗派だと思ってたが違ったか・・。
0363神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/15(月) 23:04:22.54ID:SbM48jjJ
階級制度でも人生規範でもなく 慣習でも法でもない
集中 瞑想 ヨガ その他の修行のどれも必要ない
「私が」「私の」という観念は自己でないものから生じる
その誤りは捨て去るべきである
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する


母でも父でもなく 神々でも世界でもない
ヴェーダ聖典でも供儀でもなく 聖地でもない
自己は熟睡状態でも存在し 無ではない
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する


教師も聖典も存在しない 生徒も教えも存在しない
あなたも私も存在しない この経験世界は存在しない
真の自己の悟りに差別性はない
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する
0364おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/15(月) 23:59:21.72ID:hlOvjCLB
 
>密教こそ、身体を使って上のステージへと上げていく行法に特化した宗派だと思ってたが違ったか

おじゃるも、そう思っちょります
(実践したことないけど)

http://www.tenkouji.jp/about/te-mixtukyou/
臼杵山 真言宗 天光寺

大日如来は
成道以前の釈尊すなわち全ての目的を達成する菩薩となってこの世に現れました
この菩薩は
苦行の果てに「一切に如来」から、悟りに至る真実の修行方法です
  _  _  _

  _  _  _

ところで何で↓動画を見ないのだろうか?ということで、もう一度

人間ってナンだ超AI入門 第2回 感じる
https://www.youtube.com/watch?v=annGFV6yMkI

↑動画を見ないと、セブン僧侶が何を主張しているのか?意味がわからないと思う

(↑仏教的というよりも世俗的なことで おじゃります)
0365おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/16(火) 00:33:48.22ID:KEwOv5bh
 
釈迦
出家
バッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察する
アーラーラ・カーラーマ(無所有処定)
ウッダカラーマ・プッタ(非想非非想処定)

この体験・経験を
「無駄なものである」とするのか?
或いは
「この体験・経験があったからこそ」とするのか?

仮設としての
色受想行識の仮和合である五蘊

http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正 思い手放し

坐禅中の心構えを一口にいうならば
坐禅の姿を
骨組と筋肉でねらい

>身体を使って

そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません

http://pao.hamazo.tv/c601110.html
パオ森林僧院における修行の進め方

>身体を使って

呼吸に30分〜1時間、集中する(気づく)ことを継続します
0366ポッタン師
垢版 |
2018/10/16(火) 01:01:23.46ID:O/GMuTjs
365.バカ丸出し、である。大爆笑である。
0368神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/16(火) 21:59:50.95ID:dq5IFT71
宝珠も真面目でイイ奴なんだが、カラスを称賛してる時点で、
(少なくとも『仏法』として)何も見えてないと言わざるを得んわけでね・・・。
0369
垢版 |
2018/10/16(火) 22:25:17.09ID:dq5IFT71
余談:
彼らのは、『仏法』ではなくて『神法』。

仮に、百歩譲って、(大いなる意志としての)『この世の理としての法』があったとしても、
≪【その「軛」から】【離れ得た】のがお釈迦さんである≫、と私は信じるものである。
0370おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/17(水) 02:29:26.38ID:dHEHAeNN
 
カラスっていうコテの人と対話したことないので詳しいことは、わからないけど
仏教が云うところの「仮設としての」という意味を理解してないので

現れ変化して滅している。ということも

地水火風の微細な粒子に分解していく
上座部系の四界分別観。ということも、そして

上座部系よりも、更に理解するのが難しい
中観帰謬としての大乗も理解してない。という感じもする
(おじゃるも理解してないけど…)

たとえば中観帰謬の場合なら
>ただそれだけが 存在する
と掴もうとしている『想い』も手放していく

何故か?

青目(ピンガラ)の中論 觀如來品 第二十二
(仮設としての
  無明に依存しているのなら)
人は戯論を生じる
戯論して慧眼を破れば
是の人達は
皆、仏を見ることはない

汝の言う『ただそれだけが 存在する』も、(無明に依存して)分別されている
(↑中観帰謬の場合)
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
0371神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/17(水) 02:39:16.95ID:Z6KoqnLF
肉体やマインドは仮設ではない幻影(マーヤ)である
0372おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/17(水) 04:27:02.68ID:dHEHAeNN
マーヤー

仮設としての
縁起している

空性に依存している

たとえば
地水火風の微細な粒子とかに依存している
(色受想行識の五蘊の仮和合に依存している)
(遍計所執性に依存している)

マーヤー(幻影)

それゆえに実有ではない

縁起に依存して
現れ変化して滅している ← 仮有

変化しないものではない
(空性に依存している、世俗の世界も?)
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
それゆえに

チベットに伝わる心の訓練法
坐(瞑想のセッション)の間は
(縁起している世界は)幻術師が創り出した、マーヤー(幻影)である。として観照せよ

スッタニパータ 1119
(縁起している)世界を空(マーヤー(幻影))なりと観ぜよ
0373おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/17(水) 04:55:33.71ID:dHEHAeNN
 
たとえば唯識とかの場合は

仮設としての
縁起している世界の中において
縁起に依存して

種子は
阿頼耶識を飛び出して
末那識に作用して

(他に依存することのない自性は)存在しないにも関わらず
(他に依存することのない自性が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存して

((仮設としての)有ると思う虚妄の執著をもって)
マーヤー(幻影)が、現れ変化して滅している

それゆえに
縁起している世界の中において
縁起に依存して
無明薫習に依存している

マーヤー(幻影)が、現れ変化して滅している

という頼耶縁起としての対機説法で おじゃります

(そして、円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない)
0374ポッタン師
垢版 |
2018/10/17(水) 07:15:22.92ID:6Dz5Klp8
バカおじゃるはバカのひとつ覚え、を繰り返しているバカである。大爆笑である。
なおしようがないバカである。大爆笑である。
0375宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/18(木) 15:01:13.58ID:WFFdY5gZ
>>358
私も承狂さんと同一見解かなぁ。>>357
脳ミソだけで生体活動をしている状態がそこにあったとしても、それはコンピュータでいうハード部分に過ぎない。
そのような状態では、ソフト(ウェア)である魂がそこへは降下できないでしようね。
もしも、覚者?のような偉大な人間の脳内情報をコピーして引き出し、
それを別の(遥かに劣る)人間の脳内へと上書きすると想定してみる...。
その脳内情報とやらには残念ながら覚者としての満足な情報はないだろうと思う。
そこには肉体的な血縁祖先に連なる進化情報、及び今生での生存情報はあるけれども、所詮はそこまでかな...。
そして、また言えることというのは、ただ動力能力の優れたスーパーカーだけが与えられたとして、
それを乗り熟すことのできるドライバーがいないならば、まともに動くことがない。
たぶん、大衆車にも劣る走りしかできないでしょう。

>>368
>カラスを称賛してる時点で、

カラスさんの見解にすべて同意してるというわけじゃないけれども、
しかし、あの方は物事に対する視点が非常に鋭いと思う。
『ウダーナ』の始め、私があの方から教えられたことはかなり多い。
悟りの関係において“明けの明星”のこと(仏伝にある)を採り上げてみたりと、
他の人にはないものがある。

だから、
感情任せの暴言含みさえ辞めれば、
もっと素晴らしいものが書ける人。
0376宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/18(木) 15:02:20.89ID:WFFdY5gZ
>>315
>>318追記:

その特番の中でも、
もっとも顕著な能力を冷静な態度で示したのが青森の神様/木村藤子。
確か私の記憶では、逃げ出して行方不明となっていて警察捜査でもまったく見つけることができなかった大蛇ニシキヘビを
この女性は自分の霊視一つで、蛇の居場所とその状態をピシャリと言い当てた。
発見者は、本当に霊視そのままの状態だったとして驚愕したという。
この出来事が新聞報道などで大きく取り上げられて全国区の有名人となった。

イギリスなどでは、
犯人捜査や見つからない遺体の発見など検察捜査に協力している常駐能力者の存在が広く認知されている。
あっ、その木村藤子さんですが、久しぶりにちょうど16日のTV番組で特集が組まれましたね。
https://www.fujitv.co.jp/b_hp/181016kisekisoudan/index.html
0377神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 16:24:36.64ID:WD/f2pSE
>>375
あのなw 最初から「魂」云々の話なんかしてないの。(勿論、後でそこへもっていくという展開はあっても)

魂云々以前の段階として、ヒトが(生物が)学習・経験してゆく過程において、
身体からの入力は不要なのか?という話。 
で、さらにその先として、魂があれば身体は要らないのか?というステップ位踏んどけ。
(つーか、じゃあそもそも魂への情報はどこから入るんだ、とw)


ああ。。。そうかw、 (生まれ変わりの話同様w)
「魂」が「ソフト」で(フロッピーやら何やらというモノに、今は便宜上仮託するが)
ソフトを入れたら、どんな本体でも(スマホでもデスクトップでもロボットでも)
皆、同じスペック同じ様子で動く、ってことか。
便利だなぁ・・。
でも、生まれ変わり事例のように最初から魂に記録されてるなら、新たに学習しなくていいいじゃんw
親がわざわざ苦労して育てる必要も(―御飯の食べ方やうんちの仕方、何が危ないもので何が自分に扱える物か、
何をどうすればどう扱えばそれが機能するのか役に立つのか、などなど―)何も経験しなくてもいいじゃない。
強いて言えば「睡眠学習」でいいじゃん、という話。
もっと言えば、ハード無しにソフトは動くのか、という話。
ここで初めて魂云々がメインとして絡んでくる話。

貴方は、基本の問い「身体からの入力(情報)の要不要」に全く触れていない。
魂が有ろうが無かろうが、ソフトとして身体を動かそうがどうしようが、
身体が存在する以上同じように存在する身体による入力(―それはつまり五根による五境の(からの)感受―)
は要らんのか?という話。
0378宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/18(木) 16:39:54.18ID:WFFdY5gZ
>>377
>身体が存在する以上同じように存在する身体による入力(―それはつまり五根による五境の(からの)感受―)
>は要らんのか?という話。

必要不可欠でしょ!
経験学修のための魂の受肉なのだから、
情報データだけを入力できれば同じとはならないでしょう。
自分自身の身体を動作して伴う経験が不可欠では?
0379神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 16:40:33.73ID:dL5z9Q1n
【世界教師マ@トレーヤ】 ニート親子共倒れ、トレーダーはビルから投身自殺、貧富ダブルノックアウト
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1539828384/l50

株式をギャンブルにして企業経営を不安定にして失業者を増やした投機家は、その報いを間もなくうける!
0380承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/10/18(木) 17:34:53.15ID:0qd1unw/
>>362
俺は元密教ってだけで別にスポークスマンでもないからスルーしようかと思ってたんだが、(笑)
なんか宝珠さんが俺と同じとか書いてるんで、「知る」という事について、ちょっと書いとく事にします。
亀ですんまそん。

さて、禅では聞恵、思恵、修恵と段階を経て智恵に至るとしてる、と何かで読んだが、
ある程度の人生経験や修練を積んでいれば、「一を聞いて十を知る」という事もあります。
また、物理法則に従って、初期条件から運動の結果を算出も出来ます。
過去の科学的知見の無い社会では圧倒的カリスマで王になったり、優れた知性と人徳で賢者とされた人々がいましたが、
現代近代の社会構造では、高度化複雑化して一個人の能力とは別に様々な学習や経験を学ぶ必要があり、また現代人は学んでいます。
よって、免許を持っていれば、その車種であれば乗った「経験」がなくても別の「経験」で操作、運転出来ます。
同様に免許が無い車種でもある程度類推ができます。
先の段階を経るとは、ある程度フィードバックして出入力の最適化を計ることですが、そのマトリクスがある程度蓄積していたなら必要無い訳ですよね。
そして世の中には私の数倍のIQ や優れた運動神経の人もいるので、
「知るには必ず体験などが必要」とは言えないかと。
また、生物としての多様性がある一方で文化的断絶による「教えても理解出来ない」事があるのも事実です。
極端な例だと……
まぁ、ともかく、なんやかんやで一概には言えないが、全てが縁起しているんだから純然たる唯識の智恵等はありえないし、従って検証すら出来ない話だ。(笑)
但し、オカルティストは意識界独自の某かを各々想定するから、極論として其がある、という事になるんだな。(笑)

(^。^)そして、俺と宝珠さんとはこの想定内容が全く異なるって点を敢えて書いておく。(笑)
0381神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 17:57:10.23ID:zGNNoXxf
>>380

承狂氏、おひさ、
西国三十三か所をめぐり、御祈祷戦闘力を上げる修行をしている、イタリア人真言僧に遭遇したぞ、
世間話をしたぞ。
0382神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 17:59:54.92ID:zGNNoXxf
>「知るには必ず体験などが必要」とは言えないかと。

イタリア人真言僧、結構体験積んでいるらしい、祈祷系かもしれないけど・・・・。

高野山金剛峰寺発行の年一雑誌、「kukai」を買って読んだぞ。
0385承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/10/18(木) 19:27:51.33ID:0qd1unw/
>>384
(^。^)プロじゃないから。(笑)

好きなら好き、嫌いなら嫌いでいいだろ。(笑)
他人の批評なんて気にすんな。(笑)
0386おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/18(木) 20:13:35.80ID:MKweNmBv
 
>冷静な態度で示したのが…木村藤子

了解で おじゃります

福来友吉(1869年12月5日 - 1952年3月13日)
超心理学者。東京帝国大学助教授、高野山大学教授
鈴木光司の小説『リング』に登場する、伊熊平八郎のモデル

御船千鶴子(1886年7月17日 - 1911年1月19日)
山村貞子の母親(山村志津子)のモデル

たとえば、架空の作り話であったとしても
部分的には本当の話を題材としている場合もあるかもしれない

ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命…

果報(報い、果熟)を生じる因となる - 業(karman)

魂魄(こんぱく)
魂は陽に属して天に帰し、魄は陰に属して地に帰す

https://www.youtube.com/watch?v=JgBxWod3-no
【青山繁晴】硫黄島の写真(幽霊の話し)
0387神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 22:20:10.77ID:WD/f2pSE
>>378
だったら、>>352を取消しとけwww

ずっと、必要不可欠だという話しかしてないのに、
なぜ、しょきょの口車に乗っかって、魂中心で文章を作るか・・・w ┐(´ー‘)┌

>これは肉体が在ってのことだけれども、
>肉体には拠らない経験学修をしてくる

肉体による学習(→身体からの入力)を、
整理し、蓄積し、統合し、或る経験・知識・スキル・習慣(≒戒sIla)として
≪「身につけておく」必要≫があるのかないのか? と尋問してんだよ、こっちは。

一在家並みの馬鹿に戻っちまったか?  >>宝珠
0388神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 22:27:04.19ID:WD/f2pSE
ああ、
でも、カラスやサロメや在家やらに対して、どういう反応をするか?
は、仏法理解度、及び対仏教の立ち位置、のバロメーターかもしれんwww
0390承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/10/18(木) 22:49:53.36ID:0qd1unw/
「尋問してる」とか。(笑)
日本語を知らんのかな?(笑)

要は「本当の私」は身体感覚器からの情報、或いは何らかの物理的情報入力無しに活動しうるのか、認識しうるのか、だろ?
そりぁ、宝珠さんとかは「本当の私」を仮定してるんだから、そうなれるしそれが目標でしょうよ。(笑)
仏教ではそれはないから如法であり如来如去なんだが、この辺の呼吸を間違えると他力思想になる。
これは招入門が目的地になっただけだが、ある意味ソチラも同じで、
三界万霊への普供養を単に現世に向けた慰めとするのも一端でしょうよ。

(^。^)いいか、お前ら!一切を供養するっていってんだから一切を供養するんだよ!ドン!(笑)
0391神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 22:57:49.07ID:WD/f2pSE
>>380
>よって、免許を持っていれば、その車種であれば乗った「経験」がなくても別の「経験」で操作、運転出来ます。

>その車種であれば


>>362では、 『全く異なる形状・種類の車でも』 という条件になる筈だが?
敢えて無視か?w

>ある程度類推が
類推で済んだら、世の中の事故はもっと減ってるわw
ま、それはともかく

家族が増えて、スポーツカーからワゴン車に替えた時、結構擦ってる人多いと思うんだよねぇ・・。

車(自転車やバイクもそうだけど)の運転って、身体感覚の延長に他ならないからね・・。
車庫入れや縦列駐車になると、そこに空間認識力(≒距離感)も絡んでくる。
だから、(―こういう発言すると、フェミや人権連中がうるさくなるけどw―)
「女子は車庫入れ・縦列が苦手」という言説が広まっちゃうんじゃねーの?
或いは逆に、男子は台所仕事が苦手、女子は得意(でなければならない!)ってのも、
その分野での身体的経験の量の差異を、世間が男女(の能力)差に変換してるんじゃねーの?
それは、ひとえに、
身体的経験は、積まれれば積まれるほど、重ねられれば重ねられるほど、
反復されれば反復されるほど、その存在(人)にとっての能力・可能性、或いは特質、いい所・長所
になっていくんじゃねーのkし? >>378
0392神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 23:06:08.07ID:WD/f2pSE
なんか余計な文字が入ったが、

>>390
だからw、その前段回の話だよ。
生まれた直後の子でも、優れた阿闍梨やブッダ同様、動き、喋り、人々に法を説き、
居住まいが崇高で、四禅も自在で、一切の煩悩を制御し、静まった心で居るんだ。
或いは、生まれた後そのまま何も干渉せずにチューブで栄養を与え続け、
数か月・数年放っておいても、その子は着実に仏法を身に着けていくわけだ。

便利なぶっきょうだなーーーーー。
0393神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 23:16:01.92ID:WD/f2pSE
宝珠もしょきょも、
A、『一通り、人としての、社会人としての、知力体力感性を身に着け』
B、『仏法に於ける、近づくべきことと厭離すべきこととの分別をつけ、何がほうであるかを見、知り』
『その上でのその先は』
C、,『肉体的情報は不要だ』
という流れの中の C しか口にしていない。
勿論、感官の制御(或いは遮断)は口酸っぱく言われることなので当然だけれども、
そもそも、涅槃へ向かう為の準備段階に、身体的経験(と制御)が不要だとか、
あり得ないと思うんだが、違うのかなぁ・・・。 (―_―)
0394承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/10/19(金) 00:26:45.28ID:K+zeZqJo
>>393
どうも縁覚という存在をディスってるようにしか読めないんだが。(笑)

390に「仏教ではそれはない」と書いてるように、全てが縁起してるんだから、そちらの感覚に関するご意見には全面的に賛同してんだがね。(笑)
但し、俺はオカルティストだから違う考えってだけ。(笑)

(^。^)それと俺は「その上で肉体的情報は不要」だなんて話はしてない。(笑)
論理的には、極端な例だと、完全に断絶した存在を想定せざるを得ない、ってな話を書いただけ。(笑)
0395おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/19(金) 05:11:17.37ID:qPRar7cV
 
↓本当なのか?嘘なのか?

【新事実】
「女性は地図が読めない」はウソだった!?
男女不平等が女性の空間認知能力を低下させていたことが判明!(最新研究)

「女性は男性に比べ、地図を読めない人が多い」これは単なる女性への偏見ではなく
学術的な調査でも明らかになっている傾向である
だが、その原因は、もしかすると属する文化の女性に対する偏見にあるのかもしれない

アメリカやイギリスなど
男女の格差が少ない国ほど「地図を読む力」の
男女差も少なく
ナビゲート能力の高い女性も多いことが明らかになったという
  _  _  _

おじゃるの知り合いに限定すれば
空間を把握・認識する能力?も
相手との会話を(正しく・正確に)成立させる能力?も
両方とも『とんちんかんぷん』な女性が多いという感じもする

(おじゃるも『とんちんかんぷん』であると自覚?しちょります m(_ _)m )
0396おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/19(金) 05:33:23.01ID:qPRar7cV
 
>縁覚
って何ぬねの?ということで↓とりあえず

スッタニパータ 36
交わりをしたならば愛情が生ずる
愛情にしたがってこの苦しみが起る
愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め

寂静な孤独を好む - 縁覚

↑こんな感じ? おじゃる?
0397神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/19(金) 09:35:18.50ID:7UImnGK8
師について四諦を実践して悟りを目指すのが声聞
独りで十二因縁などを観じて悟るのが縁覚
自分独りの悟りに止まらず一切衆生をも救済して共に悟りを目指すのが菩薩

声聞と縁覚は小乗の悟りで菩薩は大乗の悟りだという

しかしそれら三つの道は仏が衆生の機根に合わせて説いた方便であり仏の真なる教えはそれら三乗を乗り越えて
火宅に喩えられる娑婆の現象世界を超えたところに真実の悟りがあるとする
これを三乗方便一乗真実という

人はガンジス河の砂の数ほどの劫数分の過去世のどこかで仏と出会って法華経を説かれて仏の種(仏種)をその身に植えられている
だから人は誰でも仏種を発芽させて仏となることが可能である(人は誰でも成仏できる)とされる
0398ポッタン師
垢版 |
2018/10/19(金) 11:36:45.17ID:rxzQGYOU
397.迷信である。バカ丸出し、である。大爆笑である。
0399おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/19(金) 11:58:01.78ID:qPRar7cV
 
大乗の世界観としては

>仏の種(仏種)をその身に植えられている

ということで おじゃりますな?

ちなみに↓おじゃるの場合は

仮設としての
無明に依存しているのなら
誰もが成仏するわけではない(五性各別)

という感じで おじゃります

自性清浄
心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている
0400ポッタン師
垢版 |
2018/10/19(金) 12:03:53.92ID:rxzQGYOU
399.バカ丸出し、である。大爆笑である。
0401神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/19(金) 15:19:14.40ID:igCOz8DH
行基が仏(菩薩)になれたのは法相宗だからではなくて過去世において法華経を説法されて具わった仏種が芽生えて以降、
法相宗で理想とする無住処涅槃に入ることができたから。
おそらく行基は前世も前前前世も仏であったし今もその行基以降何度目かの転生が仏として世界のどこかで衆生を救済しているのであろう。
0402ポッタン師
垢版 |
2018/10/19(金) 16:18:16.67ID:eE6s5ebn
401.迷信である。バカ丸出し、である。大爆笑である。
0403承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/10/19(金) 16:41:53.86ID:K+zeZqJo
老化すると、色んな言葉が浮かばなくなって、似たような話を繰り返すようになる。
これは人の世の習いで、脳機能の衰退から万人に起きる現象だ。
だから、お前らも「またクソ爺がー」なんて思わずに、尊敬と労り、仏教的には慈悲で接しなきゃダメだぞ?(笑)

(^。^)俺もこうなるんだと最近は身に詰まされてなぁ。(笑)

きっと当人の脳内では、もっと高尚な意義深い話が……どうなんだろ?(笑)
意識活動も停滞して簡単な反射が起きてるだけなのかな?(笑)
科学的にはニューロンの電位とか化学物質を観測して明らかに減退しているらしいが、
意識活動は本当に脳機能だけで成り立つものなのか?
脳死とか、心臓移植による人格的変化とか、生まれ変わりの話とか踏まえてこのクソ爺のレスを見ると、
やはりどうしようもないクソ爺だと思えてくるだろう?(笑)
0404おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/19(金) 17:18:06.20ID:qPRar7cV
 
>似たような話を繰り返す
  ↓
おじゃる「唯識とは…(なんちゃらかんちゃら)」

ポッタン師匠「大爆笑である!」

隠居師匠「生命とは…(なんちゃらかんちゃら)」

机師匠「すべて無である!」

その他諸々の師匠の方々

仏教だけに限定すると
同じような内容の話題になる可能性もあるかもしれない

↓それゆえに
https://www.youtube.com/watch?v=8WGhdZ7_jgs
京都怪談
三木大雲 - (座敷童のような)幽霊の話し
0405承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/10/21(日) 09:56:13.41ID:L4Ibi9lz
>>403捕捉。
更に脳機能が悪化して植物状態、と言われる重篤な患者さんの場合、
脳死ではないから勿論法的にも生きてるんだが、ここから回復した、
つまり、長期に渡って外界から一切情報を受け付けられなかった状態から回復した人の場合、
以前ネットで読んだが、やはり意識は無かったということだった。
これと健常者のノンレム睡眠時はちがうのだろうか。
意識活動が無いという事は、何も体験してないということか?
マーティン・ピストリウス氏のような入力情報のみだと悪夢だが、
そうではない、完全な無意識状態だと一人の人格、人としての存在として扱うべきでは無いのか。
勿論、臨床的には人として扱うのが建前だが、マーティン氏はその著作で性的虐待まで受けていたと述べている。
また、本邦の介護施設でも様々な虐待が時折ニュースに出てくる。

綺麗事かも知れないがやはり、第三者としては、体験出来る、認識出来ると想定して接するべきだろう。

(^。^)まぁ、俺みたいな奴が言う事じゃあ無いんだが、お前らも他人事と考えずに、頭の片隅に入れとけよ。(笑)
人生は一寸先は闇だからな。(笑)

七氏さんは勿論、これを踏まえて飽くまで自分自心の一つの思考実験として書いてるんだが、バカが誤解すると本意では無いだろうから念のため。(笑)
0406神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/21(日) 10:11:12.07ID:HLYeJgJw
冥想で目指すものは、考えるという行為を超越することです。

何かを考えている限り普通の意識レベルに留まります。

夢を見るときはあなたは潜在意識下に入ります。
つまりそれはアストラル体がより意識されている状態です。

意識がさらにもっと深く超意識へと入っていけば、あなたは脊椎を柱として、
無上の喜びの中心にいるのに気付きます。

その至福の中で、あなたはコーザル体、即ち自分の魂の中にいることに気付くのです。
0407おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/21(日) 11:55:31.17ID:OmcsfPI9
 
医師とか看護師とかの方々は
「通常の生きている人」とは
別の感覚で

>(脳死ではなく)脳機能が悪化して植物状態、と言われる重篤な患者さん

を(植物状態のものとして)取り扱っているかもしれない

これは良い悪いということではなくて

善悪の判断を交えることのない平等性智?として

これは説明するのは難しいかもしれない

(「通常の生きている人」とは別の感覚で取り扱っているのなら
  「悪いやつだ!」という批判の対象になる場合もあるかもしれない)
0408おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/22(月) 05:44:56.15ID:vjGGpItp
 
仏教のことだけに限定すると
同じような内容の話題になるけど、とりあえず

おじゃるは
通常のときでも
妄想の渦の中に巻き込まれているけど

いま風邪を引いて

寝ている時に
熱に浮かされて重度の妄想障害で おじゃります

 − これを対処するために −

(薬を飲むと更に悪化する場合もあるので薬は飲まずに)

(妄想の渦の中に巻き込まれるのではなくて)
少し離れたところから「妄想を見る」

という感じになるようにしちょります

おじゃる記憶によると
確か、宝珠殿から
「少し離れたところから見る」ということを

(妄想の渦の中に巻き込まれているよりも
  「少し離れたところから」の方が楽なような気がします。それゆえに)

ご教示して頂き、ありがとうございます m(_ _)m
0409承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/10/22(月) 06:09:19.40ID:6HAtjPUX
>>407
(^。^)ねーよ。(笑)

>>408
風邪の時は葛根湯と滋養強壮ドリンク飲んで暖かくしてネットなんぞせんで寝てろ。
0410おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/22(月) 07:12:41.20ID:vjGGpItp
 
「悪いやつだ!」という批判の対象に
> (^。^)ねーよ。(笑)
  _  _  _

>ネットなんぞせんで寝てろ

ご教示ありがとうございます m(_ _)m

(通常のときでも、妄想の渦の中に巻き込まれているけど)
寝ていると
熱に浮かされて妄想障害が現れて

「寝たり - 起きたり」を繰り返しているので おじゃります

↓更に

フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ

これも↑やっちょります

アージュニャー第6のチャクラ
眉間のところが、むずむずする・くすぐったい

少し離れたところから見る
0411承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/10/22(月) 07:21:39.69ID:6HAtjPUX
あのなぁ。

困った人だな。

えー、昔の中国の医療では、風邪は文字通り風の邪気に中ったと考えられてました。
また、道教では、周天の時に邪気を巡らせたり妄想したりすると、病になると伝えられてます。

(^。^#)わかったら、ちゃんと寝てろ!いいな!
0412ポッタン師
垢版 |
2018/10/22(月) 07:44:38.21ID:gWZZVA8N
410.バカおじゃる、は心理学をやっているバカである。大爆笑である。
0414おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/22(月) 10:54:41.27ID:vjGGpItp
 
承狂元密教僧へ
ご教示ありがとうございます m(_ _)m

>釈迦仏教の矛盾について

これを読むと
↓隠居師匠か?紐師匠か?という感じがする

釈尊の仏法は暗い印象を受ける
とてもついていけない感じを受ける
それは人生は苦であるという設定である
苦の原因は欲望(煩悩)であるから…
  _

おじゃる妄想としては
無明している世界から離れるための対機説法として

たとえば、上座部系の場合は
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである

(愛別離苦とか・求不得苦などの、もととなる)
無明の意味を理解して、これを前提とすることが出来るのか?出来ないのか?

↓無明を前提とすることを出来ないのが

隠居師匠か?紐師匠か?という感じで おじゃります

(風邪で、また熱が出てきたので おじゃります)
0415ポッタン師
垢版 |
2018/10/22(月) 12:34:33.29ID:UkelWWPm
414.無明を前提とする、のがバカおじゃる、である。大爆笑である。
0416神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:23:14.19ID:ODeDcU1M
            彡⌒ ミ  
          ⊂(´・ω・`)つ
        ///   /::/
        |::|/ ⊂ヽノ|::|」
     /  ̄ ̄□o ̄ ̄/|
    /______/ | |
    |------ー----ー|/
0417宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/27(土) 05:22:56.86ID:xgi/OkUs
>>414
「無明などはない」などと抜かすアホは勝義馬鹿!!
それはあくまでも勝義の視点であって、
我々、凡夫はそうじゃないから。

もしも、無明がなければ、
こうして我々は生れて来ないから。
無明のない人間は転生してこない(母胎に宿らない)。
要するに、こうして両親を持って生れてきたということは、
無明に陥っているということに他ならない。
だから、そこから抜け出すことが仏道修行です。
0418ポッタン師
垢版 |
2018/10/27(土) 08:50:55.73ID:/6erTkif
417.それをバカ修行と言う。修行バカと言う。大爆笑である。
0419神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/27(土) 11:11:18.37ID:5Jil8gKk
仏教で否定されてるのはキリスト教の天主のような絶対神です。
神自体は否定されていませんが神の過去世は人間だったりしたものが善業を積んで天部に生まれ変わって神となったりします。
つまり神といえど輪廻する存在でありその意味では人間や餓鬼や畜生や地獄の亡者と同列ではあります。

しかし元々の起源でいえば、釈迦牟尼仏が言うには世界はまず光音天界がつくられそこには光音天という神様が出現したとのことです。
光音天として寿命が尽きたものがその後誕生した梵天界の梵天として生まれ、梵天の中で堕落してものが人類の起源になったと説いています。

詳しくは長部起源経に説かれています。


起源経
パーリ仏典経蔵長部の第27経
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B7%E6%BA%90%E7%B5%8C
0420神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/27(土) 11:18:30.33ID:5Jil8gKk
「無我」と「縁起」を理解すれば仏教思想は腑に落ちる
https://mananavi.com/%E3%80%8C%E7%84%A1%E6%88%91%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E7%B8%81%E8%B5%B7%E3%80%8D%E3%82%92%E7%90%86%E8%A7%A3%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E4%BB%8F%E6%95%99%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AF%E8%85%91%E3%81%AB/amp/

【仏教は絶対者を持たない】

「この因・縁・果の関係性のなかで、個々の実態は“空(くう)”です。そこに常住の本体はありません。
これは、現象のようなものから、絶対者のようなものまで、同じです。

仏教のひとつの特徴は、宗教的な絶対者みたいなものを実体化しない、ということです。
“絶対”とか“神様”みたいなものをデーンと置いて、そのもとに人間が生きていくのではなく、現象の本質本性を「空」でとらえる。
「有」ではないが、「無」でもない。「空」なのです。
常住の本体とか実在とか、そういうものを徹底的に否定したところに成り立っている見方・考え方です。

このように、人間の主体性を縛るものを、仏教は何も持っていない。
掟もなく、支配もされていない。そうしたものを一切超えて成立しているのが仏教なのです」

このような仏教の“神”観は、キリスト教の“神”観にも影響を与えているという。
なかには仏教の空性(くうしょう)で“神”を考えたほうが、イエスが説いた本来の“神”に近いのではないかという意見もあるという。
0421ポッタン師
垢版 |
2018/10/27(土) 11:19:39.34ID:L1D5J/GP
419.それは迷信である。バカ丸出し、である。大爆笑である。
0422ポッタン師
垢版 |
2018/10/27(土) 11:27:24.54ID:L1D5J/GP
420.それは迷信である。バカ丸出し、である。大爆笑である。
0423神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/27(土) 20:09:53.14ID:3LvBtUXN
>>417
サードゥ、サードゥ、サードゥ
0424おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/28(日) 04:53:28.96ID:liG+zDtX
 
> (縁起しているもの)一切を超えているのが仏教(の涅槃)なのです

ウィキペディア参照

宗教(religion)
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする

それゆえに

> サドゥー(サードゥ)
あらゆる物質的・世俗的所有を放棄して
瞑想などにより解脱を得ることを目標としている

戒・定・慧・解脱・解脱智見
般若の智慧と慈悲によって解脱を観照する
0425ポッタン師
垢版 |
2018/10/28(日) 13:17:54.46ID:BNwYXEDa
424.バカ丸出し、である。大爆笑である。
0426神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/28(日) 20:30:07.00ID:uNhqwKgu
466 :神も仏も名無しさん[]:2018/10/28(日) 19:08:42.48 ID:zCoMQJAc
>>460
いやいや!癒されないか?
あの情深いところとか。

そも、でおはカムイ君から真心の慈悲を受けている。ならばその恩を返さねばw
まああるところではじま


513 :神も仏も名無しさん[]:2018/10/28(日) 19:44:31.90 ID:zCoMQJAc
>>509
シャロンさんがでおを肯定するセンスを持っているように、俺もカムイ君を肯定するセンスを持っている。
それらのセンスに助けられた君じゃないかw


518 :神も仏も名無しさん[]:2018/10/28(日) 19:48:10.47 ID:zCoMQJAc
>>515
シャロンさんはでおーに優しいカムイ君を見てくれているはずさ...w
な、でお。(圧力)
0427おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/29(月) 02:31:11.82ID:xDpHp/2N
 
http://www.onedhamma.com/?p=6788
18/10/28 …野狐の声が、自分の中で聞こえてくる

今回の podcast法話は
いまだ証していないのに既に証覚を得たという、独り善がりの
(増上慢)野狐禅について

http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
曹洞宗 内山興正
…もし亡霊など全くないことが科学的であり
仏法の「諸法無我」は現代の科学と一致するなどといえばとんだことになります
「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいます
…業感縁起…
  _  _  _

(勝義諦としては↓これで良いのかもしれないけど、とりあえず)
たとえば
仮設としての
縁起している世界も認めることもなく
業感縁起も認めることもなく

『すべて無なのであるから
  それゆえに、只管打坐も必要がない!』

とか逝っちゃてる師匠とかが野狐禅である。と云うことであるらしい
0428ポッタン師
垢版 |
2018/10/29(月) 07:01:49.11ID:R4Zb/EKN
427.バカ丸出し、である。大爆笑である。
0429神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/29(月) 10:48:11.54ID:RN+6S69g
宮崎哲弥は自分は仏教者だから霊魂の存在も輪廻転生も認めないと言っていますが
0430ポッタン師
垢版 |
2018/10/29(月) 11:12:53.75ID:EEAzm6ZX
429.それは宗教の問題ではない。
なんでか。それは科学の問題である、からである。バカには理解できない。
0431宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 10:45:17.82ID:rPkMoSNR
>>419-420
あなたはいつものスマ長老信者ですか?
僧侶の引用だけでは無理だと見ると、今度は学者さんの言説を引用ですか?
懲りませんね...。

ゴータマが否定したのは神そのものの存在ではなくて、
通常、この現象界において知覚できないものは説かないということに過ぎない。
それがアートマン(真我)であり、そして、ブラフマン(神)だということになる。
輪廻している存在である天部(神々)と絶対者であるブラフマン(神)とを混同してはならない。
にも関わらず、後世の仏教徒らはバラモン/ヒンドゥー教を仏教の下位へと位置付けるために、
意図的にブラフマンを天部の一つに過ぎない梵天として描いた。
これが仏伝における最も古くて典型的な神格化だった。
以降〜、梵天の関する記述のすべては後世の創作に過ぎない。

竹村牧男氏。なんと東洋大学学長という肩書ですら、
こんな時代遅れの化石のような教義をまだ鵜呑みにしてるとは驚きましたね...。
それらの説明のすべては、現象界(有為)の性質について教えたものであって、
現象界の本質が空性なんだということに過ぎないから。
元々、現象界の存在ではない(無為)アートマンとブラフマンがそれらの法に抵触するわけがない。
だから、最初から無問題です。

《「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我ではない」という意味 です。
 ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。
『ブッダ論理学』の【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」
が、我ならざるものであることは、述べることができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」
という言葉も出てきます。
 ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな)》
http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm

あの石飛道子女史も同じだ。
せっかく頭ではこれほどの理解に達しているのにも関わらず、
洗脳が強くて条件付けから脱することかできないでいるのです。
最近、少しだけ対話してみましたが、とても残念なことでしたね...。
0432宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 10:46:02.37ID:rPkMoSNR
では、その「縁起」という法はいつどのようにして生じたのか?
それは何故あるのか? を、あなたのすべての知識と理解で以て答えてみなさい!
絶対にできっこないから。

ゴータマすらも説くことをしなかった、
“法(ダルーマ/ダンマ) ”を生じさせ規定している存在、
その力こそが絶対神なのだということ。
つまり、法そのものが神だといってもいい。

仏教界において一方的に悪者扱いにされている『説一切有部』だが、
否しかし、彼らが採った見解“三世実有・法体恒有”は素晴らしい着眼点だったということ。
その持っている視点がとても鋭い...。
彼らの法こそが恒常永遠の存在だと説いたことが批判の対象となったようですが、
法こそが神に拠って規定されているものであるから、それは神の意志の如何によっては永遠であり、
また、或いは瞬時によって断滅されるもの。神無くば、縁起の法すら生じ得ず、
神の意志一つで如来すらも一瞬にして掻き消えてしまう。
それが神というものだ。

聖書には、実は二つの神が説かれる。
つまり、ヤハウェ(主)とエロヒーム(父なる神)だ。
万物の絶対神としてのヤハウェと、我々の魂を肉体に吹き込まれた我らが父なる神(神々/複数形)だ。
この金星から飛来された神々、エロヒームの御一方が永遠の青年と呼ばれるこの惑星の天帝サナット・クマラだ。
京都、鞍馬山寺弘教(天台宗から単立)では本尊、大天狗魔王尊として祀られている...。
0433宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 10:47:09.89ID:rPkMoSNR
>>429
自称仏教徒ほど怪しいものはない。
仏教徒として自ら自称するということは、つまり、典型的な間違いだらけの常識仏教の篤い信奉者ということだ。
真実に気付くようになった者というのは、決して自ら仏教徒などとは自称しない。
現存する仏教信仰で正しいところなどは皆無なのだから。

ゴータマは無霊魂の教えなどは説かない。
原始経典を真面目にしっかりと読めば、無霊魂などという理解が間違いであることはすぐに気付ける筈だ。
だいたいにして、“霊魂”と一緒クタにして語る者というのは「霊」とは何?であり、
「魂」とは何?のことかも分からずに語っていて、
しかも、その「霊」と「魂」の違いすらも分からないという馬鹿タレばかりだからだ!!

「霊」というのは、それが異常状態にある時には世間では幽霊などと呼ばれる。
これを仏教では餓鬼として説き、雑阿含『好戦経』にはモッガラーナの目撃談とこれを是認するゴータマの教えが説かれている。
『餓鬼事経』(ペータヴァットゥ)では施餓鬼による救済の必要が説かれる。
また、良い霊存在の典型としては中部経典第十八経『闍尼沙経』で死後のビンビサーラ王だった神霊とゴータマとの対話がある。
「魂」というのは、五蘊中の「識」のことであるということが『ディーガ・ニカーヤ15経』で説かれ、
「識神」が母胎に宿ることが増一阿含経『三宝品三』に説かれている。
尚、アートマンについては仏教では無記とされて説かれていない。
だから、アートマンを「霊」や「魂」などと混同する愚を犯すではない!
0434宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 11:11:20.34ID:rPkMoSNR
>あの石飛道子女史も同じだ。
>せっかく頭ではこれほどの理解に達しているのにも関わらず、
>洗脳が強くて条件付けから脱することかできないでいるのです。
>最近、少しだけ対話してみましたが、とても残念なことでしたね...。>>431

その対話時に、
石飛氏bbsへ投稿したものをこちらにもアップしておきます(一部省略)。

---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
[10831] Re:[10828] 無我とアートマン

---略---
>わたし自身は、もともと、この「非我・無我論争」そのもの自体、どこかにゆがみのある考え方だと思っています。
>「〜でない」「〜がない」という、この違いが、このアナートマン(アナッタン)というブッダの教えの核心だとは思いません。

その核心とは何でしょうか? 
それは、つまり「無記」のことですか? 
それとも、アートマン(の有無)そのものに対する無執着こそが無我の教えの核心部分だ、
ということを言っているのでしょうか?

>うーむ、ご質問が、ご質問が、うまくつかめません。「増支部」1.6について、考えればよいのですか。
>それとも、“自性清浄心”について、メインに考えるのでしょうか。

はい。そのどちらについてもです。

>「増支部」ですと、チッタ(心)は、アートマンではないです。
>さらに、“自性清浄心”が、「無為法」であるというのは、どこに書いてありますでしょうか。
>この発想そのものが、何かブッダの教えとは違うことを考えていらっしゃるような感じですね。
>逆に、、お尋ねしたいのですが、「心」とあるのに、どうして、あえて「アートマン(自己)」だと思うのですか?
0435宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 11:14:09.32ID:rPkMoSNR
もしも、この問題がただ単に、これは“「心(citta)」なのだからアートマンではない”というだけで済む話であれば、
仏教界において、最初からこのことがこれほど論議の対象になる筈はないのです。
だから、これはそうではなくて、この文意が示すものが一切法(有為)を超越した概念を意味しているから問題になっているのです。

まず、その単語一つを見て判断するやり方というのは如何なものかと私は思います。
あまり旨い譬えではないかもしれませんが、もしもここに「地球という星には全体表面積の70.8%を占めて、
全体がひとつづきになって陸地以外の凹所にたたえている塩水というものがある。」という文章があったとします。
そして、それを持ってくるよう指示がなされたとした場合には、この私は文意から判断してこれは海洋の海水のことだと理解するので、
私はどこか近くの海岸へ行って海水をコップに汲んで持ってきます。
けれども先生のやり方というのは、まるでこの単語は「塩水」だからといって、
ただ台所から水道水に食塩を混ぜた食塩水を持ってくるようなものだと思います。
果たして、それは著者の意味したもの(塩水)に対して、本当に正解のものとなるのですか? 
それとも、あくまでも文中に「海水」とは書かれてはいなかったからといって、別にこれで正解なんだと主張されますか?

『比丘らよ、この心は浄潔である。
  そして、そ〔の心〕は外来の諸随煩悩によって染汚されている。』(水野 弘元訳)
0436宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 11:16:03.97ID:rPkMoSNR
この「自性清浄心」(心性本浄説)が仏教論議の対象になっているのは、何故なのか? というと、
これが、“心は自性として(本来、生まれつき)清浄である” という意味の文意であるから、
それが一切法の“縁起の理法”に抵触するものと見なされるからです。
縁起的観点から普通に述べる場合には、“修行における完成形としての心は煩悩から解放された清浄心だ”という言い方は在りますが、
けれどもそうではなくて、これは外来の煩悩に塗れる以前の心は本来的には清浄そのものである、といっているわけです。
しかし、仏教的には通常は、煩悩に塗れていない衆生というのは一人もいないのであって(つまり、煩悩がないならば母胎には生れて来ないから)、
人間というのはすべて、オギャ〜と生まれた瞬間にはすでに「無明」(煩悩の根源的性質)に被われているものとされるからです。
けれどもここでは、本来の人間の心というのは清浄なものなのだといっているわけです。
この無自性の世界において、心は自性として清浄なものだと述べているところが、実にアートマンと重なる部分だと言えるわけです。
要するに、これがアートマンの持つ三大属性(“不生不滅にして永劫恒常”、“完全なる清浄性”、“非物質性”)の一つだと言えるものだからです。

『〔それは〕全体であり、一切に遍満し、寂静であり、汚れなく、虚空のように安定し、
部分をもたず、行為をもたず、一切であり、常住であり、二元対立を越えている、〔と知るべきである〕。』
(『ウパデーシャ・サーハスリー』T,15.37)

では、どうして最初から、
ここには「心」ではなくて「アートマン」と書かれていないのか? 
何故ならば、アートマンは決して煩悩に塗れることがなく無始の初めから永久に清浄なものだからです。
この経文が意味するものは、すなわち私たちの心というものは深層域においては阿頼耶識、
更には、集合的無意識〜アートマンへと繋がっているのだ、という可能性を示すものなのです。
そして、この自性清浄心を説く聖句の文意からは、そのままこれが「無為法」と理解されるのも頷けるものであって、
実際、大乗の「如来蔵思想」というのは、この自性清浄心を発展したものだからです。
そのことは、水野弘元著『心性本浄の意味』を読めば分かります。
0437宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 11:16:57.79ID:rPkMoSNR
『如来蔵や仏性は無為法としての真如法性と関連して説かれるからである』
(同著『心性本浄の意味』p13-15、注釈15)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_pdf

では逆に、この私からいわせて頂けば、
何故? ブッダからの言葉の文意を素直に読まないで、
故意的に無視した読み方(ウパニシャッドのアートマン意を意識的に避けるかのような)をするのですか?
と、いいたいところです。

>>『真実であるか虚偽であるかを、汝の自己が知っているのだ。証人よ(sakkhi)。実に尊い自己を汝は軽視している。』(AN.T,p.149 G.)
>この訳は、誰の訳でしょう。わたしの読みでは、ちょっと違います。

これは中村先生です。
(中村 元著『自己の探究』p105青土社1980年発刊)より。

>嘘をついても、真実を語っても、自分自身はそのことを知っている、というところだろうと思います。--中略--
>あなたの「自己」は、本当に何をなしたのかを知っている、というのは、まさしく「自分自身」の行いであるからで、
>善いことと悪いことを行いうる「自己」と見なければなりませんから、「自己」を「本来清らか」とか見るような見方には立てないです。

これは“自分自身の行いなのだから、自分が分かっていても当然だ”ということではなくて
(また、“自己を本来清らか”だという意味合いとも、また少し異なったものです)、
何故、人間の心には善悪を判断する「良心」というものが備わっているのだろうか? ということをいっているのです。
人間、誰しもが生れつき持っていて、自分の心の中に内在していると見なされるこの良心についても、
原始仏教においては、あくまでもアートマン(自己)の問題として語られるのだということ。
私がこれを採り上げたのは何故か? というと、人間が生れつき持っている良心(善を成さんとする意志)という性質こそが、
実に、重要なアートマン属性の一つに他ならないからなのです。

『変化せず、清浄であり、悪を離れたブラフマンである私に、
精神統一していない状態や他の浄化されるべきものがあるのを、決して、私は見ることがない。』
(シャンカラ著/前田専学訳『ウパデーシャ・サーハスリー』T,14.35)
0439dp9 ◆1KaWk8ZRnVxd
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2018/10/31(水) 14:27:49.85ID:vKe6c9bk
久遠の仏も否定されてる
0440神も仏も名無しさん
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2018/10/31(水) 14:39:01.29ID:hl7qebxF
>>439
>>221-222
0441ポッタン師
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2018/10/31(水) 14:42:52.06ID:UFXrWZax
439.バカ丸出し、である。大爆笑である。
0443神も仏も名無しさん
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2018/10/31(水) 15:36:20.02ID:/akVyud1
無明を除いた本来の心は空であり、アートマンではない。
本来無一物とも言う。涅槃とも言う。
涅槃には、良心もなく、汚れもなく、無明もない。
あらゆる概念を持ってきても捉えられず、言語で述べることもできない。
0444宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 16:10:59.21ID:rPkMoSNR
>>437のつづき.
Re:[10833]「Re:[10831] 無我とアートマン」

>しかし、その時、ジーヴァ・アートマン(個我)とパラマ・アートマン(最高我)の区別が生まれます。

何故ならば、ジーヴァ・アートマン(個我)はアートマンそのものではないからです。
彼ら(ヒンドゥー)は輪廻の主体を「ジーヴァ」(ジーヴァ・アートマン/個我)と呼び、これも無明から生じた幻(マーヤー)に過ぎぬものと説きます。
これは魂であり、仏教の説く輪廻主体「識」(後の「阿頼耶識」)に相当するものです。もちろん、これは「アートマン」ではない。
このことについては、ラマナ・マハルシもこう述べています。

 『知覚認識できる対象には[現象としての]終わりがあり、知覚認識する主体をジーヴァ(個的生命)であるとするなら、ジーヴァ(個的生命)
とて現象としての終末がある。現われ出るものは何かを見い出し、その現象の破壊(最後)を見極めれば、不滅の真実在 sat (Self) を覚智現成し、
アートマン Atman とは何かを覚了する。新たに現われ出るようなものはいずれ消え去ることになり、それはジーヴァ(個的生命)あるいはその知
覚認識対象であって、アートマン Atman ではない。』
(Talks 1_0704)

>区別があるということは、ブラフマンはブラフマンと考えているからです。
>ブラフマンがアートマンになったら、もはや、ブラフマンの名前はなくなり、アートマンだけが残る、ということではありませんね。

いえ、これはそういうことではなくて、
例えていうならば、“大海の海水がブラフマンであり、これをコップで汲み取ったものがアートマン”だということになります。
区別とはいってもこういうことなのであって、けれども中身はもちろん同質のままです。
これは単に、個的な意味合いを持つかどうかの差異なのです。
0445宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 16:14:27.17ID:rPkMoSNR
>涅槃に入ったならば、自己はありません。

すみません。
ここへ少し長めに引用させてもらいますが、
これらの先生の主張は一体、いつ撤回されたのでしょうか?

 【つまり、自己はあるまたは自己はないと書くことができるか、ということが問題となる。もしこのように述べられるのであれば、「自己」は、
おそらく「法」と呼びうる存在であり、そして、当然「生じ滅する存在」とブッダが承認したことになるのである。
 しかし、このようなことは阿含経典の中には見当たらない。これにかんしては、中村元博士の『原始仏教の思想』(上巻一六五頁)にも、初期仏
教では「アートマン(アッタン)は存在しない」とは説かれていない、と明言されている。
 したがって、ブッダにとって「自己」は生じ滅する法ということはありえない。もし、ブッダが「自己はない」と語ったとすれば、当然生じ滅
する法として「自己はある」も語っていなければならないからである。ブッダの公式に載せられる語でなければならないからである。--中略--
 それだから、ブッダは「自己はない」とは語らなかった、そして、もちろん「自己はある」とも語らなかった。いや、語りえなかったと述べた
方がいっそう正しい。(p161-162) --中略--
 実際には、阿含経典では「無我」は「自己でない」の意で用いられていることがわかるだろう。ブッダが「自己はない」は説きえないことがはっ
きりしている今となっては、これは当然のことだが。】(p166)
(石飛道子著『ブッダ論理学五つの難問』講談社2005年刊)
0446宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 16:15:42.78ID:rPkMoSNR
 『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。これは、「主語+述語」の文の、述語に
置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我ではない)」ということで、「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我
ではない」という意味 です。
 ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。『ブッダ論理学』の
【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」が、我ならざるものであることは、述べる
ことができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」という言葉も出てきます。ただ、いつの頃からか「無我
(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな)
 これは、経典を作りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入ってくるということです。』
(管理人エム著/マニカナ掲示板過去ログ2739.)

先生もここで「部派」について言及されていますが、
パーリ聖典といえども、その成立過程というのは部派仏教の時代と重なって書かれたのであって、
そして、それがそのままこれらの部派教団によって今日まで所持されてきた。
そして、その教義の拠り処はアビダンマなのであって、仏典とは必ずしもイコールでありません(一切法についての判断が異なっている)。
つまり、仏教史的には「原始仏教→根本二大分裂→部派仏教時代→現在における南方北伝の各諸派」ということなので、
現存する仏教教団で部派仏教の影響を受けていない諸派というのは一つも存在していません。
この仏教者たちにとって現在でも一般的な認識となっている、“アートマンは無い”ということを勝手に言い出したのは部派仏教であることについては、
すでに多くの研究者たちによっても明らかになっているものと思われますが? 如何でしょう?
0447宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 16:17:16.72ID:rPkMoSNR
「涅槃においては自己はない」が、自我意識の喪失とするならばヒンドゥーでも同じだと思います。
アートマンを自覚するということは、つまり、 それまでの自我意識(個我/分離的な「個」としての意識)は消散するということだからです。
分離意識は自己からは無くなり、分別の消滅した全体的な融合意識へと変性する。
つまり、あなたとわたし、それとわたしという分離ではなくなり、すべてが一つの融合された自己意識として自覚します。
そういう意味においては、ヒンドゥーにおいても“自己(個我)はない”として説かれます。

 【〔アートマンは〕行為主体でもなく、対象でもなく、結果でもないから、また内も外も含み、不生である(『ムンダカ・ウパニシャッド』
二・一・二参照)から、どうして、誰が、それに対して「〔これは〕私のものである」「〔これは〕私である」という観念をもつことが出来るで
あろうか。(18)
 「自分自身は」とか、「自分自身の」という観念は、じつに、無明によって、〔アートマンに〕誤って想定されたものである。アートマンが
唯一である、という〔知識〕がある場合には、この観念は存在しない。種子が存在しない場合は、どこから結果が生まれようか。(19)
 アートマンを、未だ果たし終わっていない義務をもたず、行為そのものをもたず、行為の結果をもたず、「私のもの」とか「私は」という
観念をもたない、と見るその人は〔真理を〕見る。(22)
 もし「私のもの」とか「私は」という観念や努力や欲求は、本性上、アートマンにはない、ということを知ったならば、自己自身に安住し
続けよ。努力は一体何の役に立つであろうか。(23)
 アーマンを、「私」という観念の主体であり、かつ認識主体である、と知るものは、まさしく〔真実に〕アートマンを知っている者ではない。
それとは別様に知っている者が、〔真実に〕アートマンを知っている者である。(24)
 「私」、すなわち「自分自身」という観念も、「私の」、すなわち「自分自身の」という観念も、無意味となるとき、その人はアートマンを
知っている者となる。29】
(同『ウパデーシャ・サーハスリー』T,14.)
0448宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 16:18:09.69ID:rPkMoSNR
或いは、まさか先生...は、涅槃とは何もない「無」の意味として“自己はない”と述べていますか?
それとも、涅槃は「空」であるからという意味で“自己はない”と述べたのですか?
しかし、「空」というのは縁起の性質を示したものであって、ただ同じことを別の言葉で表現しただけのことです。
これは一切法(有為)のことであって、涅槃(無為)には該当しません。
『ウダーナ』において説かれた通り、涅槃(無為)とは縁起には拠らない一切外のことなのですから。
そして、元々から無為的性質であるところのアートマンが一切法(有為法)に抵触する筈がないのです。
従って、つまり一切法(有為)においてアートマンを認識することがないからといって、それを以て「アートマンが無い」ことの証明にはなりません
(一切法の中に無為を含め、涅槃を空/無我としたのは部派の間違いです)。

 【比丘たちよ、しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』
でないもの(涅槃)が存在することから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの
出離が覚知されると。】
(『ウダーナ』8.3正田大観訳)

さて? この『ウダーナ』に示されたように涅槃を涅槃であるとして、
有為からの出離をそれとして覚知しているものは一体、何(誰)なのでしょうか?
要するに、この有為からの出離を覚知し、縁起に拠らない無為を自覚しているものこそがアートマンなのではないか、
とするのが、この私の見解なのです。
だから、涅槃に到達したものは、「わたし(アートマン)が語る」と言ってもよいということになる、と。

すべて、辻褄が合っていると思います。


〜これを以ちまして、先生からのレスに対する私からの返信としたいと思います。
元々、先生とは議論する目的ではなくて、アンケート調査の一環として先生のご見解を確認するためのものなのでした。
この後はまた続けて、その他の研究者の先生方にも同じ質問をぶつけてみたいと思っている所存です。
この度は、ご多忙のところを大変、ありがとうございました。
感謝!!


合掌
0449宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 16:21:24.43ID:rPkMoSNR
>また、その説は釈尊はアートマン説だったが部派以降、ほとんど無我説になったというような論理だと思われます。
>(如来蔵説もチョナン派など一部を除いて無我説です)

正確には、
ブッダがウパニシャッドと同じアートマンを説いたと主張しているのではなくて、
「アートマンは無い」などとブッダが説いたということは部派仏教の勝手な論理であって、到底、本来のブッダの言説とは見なされない。
それにも変わらず、アートマンを説くヒンドゥーは有我論(妄想)であるとして馬鹿にしている
平均的な仏教徒らの愚かな姿勢のことを私は指摘していっているのです。
ブッダが、「アートマンは無い」などと説くことがないのは、自らがその理由について述べた無記の姿勢からみても明らかなことです
(もちろん、その逆の「アートマンが在る」とも説きませんが...)。

【ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。
「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。世尊は黙っていられた。また尋ねた。「アートマンはない
のですか(natthAttA)」と。世尊は黙っていられた。ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。
 その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答え
たら、常住論者(sassatavAda)に同じることになる。ないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えら
れ、そして阿難に反問された。「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)と
いう智が生じるのに順じるだろうか。もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、
今はない(ahu vA me nUna pubbe attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。】
(『サンユッタ・ニカーヤ』44 第10経/森 章司訳)

>本質的にはパーリ『梵網経』などに明らかなようにアートマンに執着していては解脱、
>涅槃、戯論寂滅に至らないというのが仏教に一貫してあると思います。
0450宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 16:23:12.82ID:rPkMoSNR
「アートマンは無い」という見解に固執することもまったく同質の執着なのですから、こちらも同様にして涅槃には至らないでしょう。
パーリ『梵網経』の主旨とは、“アートマンではないもの”をアートマンと誤認している
当時のバラモン行者たちの間違いを指摘したものだと私は解しています。
彼らが誤認したものが「魂」(ジーヴァ)、輪廻主体の「識」です。意識の焦点をここに定めることに成功した行者は、
驚異的な神秘体験(能力)を得ることができるからです。

すみませんが、
私には議論する意図はないのでこれにて失礼します。
互いの更なる進歩向上を心より平安を祈念します。
ご意見をありがとうございました。
(以降、特にどうしても必要と思われない限りは投稿を控えたいと思います)


Re:[10902]-2
あっ、すみません。
もう一言だけ付け足しておきたいと思います(汗)。

>(如来蔵説もチョナン派など一部を除いて無我説です)

基本的には、すべての仏教諸派が無我説に立っていることは存じています。
だから、現存するすべての仏教諸派というのは、アビダンマに立脚するために根本的に間違っているのだとこの私は主張します。
涅槃(無為)は、無我/空ではありませんから(アートマンが実在かどうかは別に置いておくとしても...)。
「空」というのは縁起する現象界の性質についての別表現です。なので、涅槃は縁起に拠らない境地(『ウダーナ』8:1)なのですから、
これを「空」とする理解は間違いです。

『比丘たちよ、このような境地(Ayatana)があります(atthi)。--中略--
依り所のないもの(appaThitta)、生起のないもの(appavatta)、 所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。
これがすなわち苦の終わり(anto dukkhassa)です』
(『ウダーナ』8:1片山一良訳)
0451神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/31(水) 17:46:20.11ID:xENY7tl9
ふむ。

石飛センセの方が、 「筋が」通って いるなw


最後のも、
訳した片山さんに、 「そこにアートマンがある・いる」 という意図は
微塵も欠片も河沙の砂粒ほども無かろうてw

まあ、それでも、 「仏典を読んでください」 としか、先生は言わないだろうけどw
0452宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 18:07:57.87ID:rPkMoSNR
同じく、「無我」(「アートマンではない」の意)についていうと、
ブッダは『苦なるものは無我である』(SN.111)といっているのですから、苦を滅した安楽の境地である涅槃が無我である筈がないのです。
これはもう、殆どトンチンカンのレベルです。この馬鹿げた矛盾というのは、すべての伝統仏教が仏典の記述を無視して、
ただ伝統と称して与えられたもの(部派のアンビダンマ教学や部派口伝)を有難く盲信してきた結果です。

 『比正たちよ,色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは我所ではなく,わたくしの我
ではない。如実に正しい智慧を以て是の如くに観るべきである。受は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。... 』
(SN.111,雑阿含経1-91)

無我についても同様で、
これは現象界(有為)の性質についての実態を示したものであるので、有為を解脱した無為である涅槃が無我である筈がないのです。
ブッダは「苦なるものはわたしの我ではない」といっているのですから、これを仮にそのまま言い換えるとしたならば、
苦を滅した涅槃の境地は“わたしの我である”ということにも言葉上としては成り得ることになります。
これは、例えばですけれど...。
0453宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 18:09:42.70ID:rPkMoSNR
ゴータマが自らが説いて直接指導し、その教えも経典としても残されたというのに、
では何故? ゴータマ以降の第八番目の仏陀は輩出しないのでしょうか?
もしかしたら、随所において仏典を無視して部派のアビダンマ教学を盲信
(例えば、無我説の「アートマンはない」という見解に執着)してしまっている間違いが影響しているのかなぁ...
などともすら、この私は勘ぐってしまいます。
弟子たちは私(ゴータマ)には従わないとも、予言(SN.20.7.4-5)によって見通されてしまっていますし...。

 『彼らはよく聞こうとしないし、耳を傾けようとしないし、了解しようという心を起こさないであろう。それらの教えを受持すべくよく
熟達すべきものであるとは考えないであろう。--中略-- 弟子たちの説いたものであるが、それらが説かれる時には、彼らはよく聞こうとし、
耳を傾けようとし、了解しようとする心を起こすであろう。それらの教えを、受持すべくよく熟達すべきものであると考えるであろう。』
(『サンユッタ・ニカーヤ』20.7.4-5中村 元訳)


以上です。
では、失礼しました。
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0454宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 18:11:13.00ID:rPkMoSNR
>>438>>442
自分の言葉はないのか?
あなたにはそんな些細な常識すらもない?

>>451
はぁ?
0455神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/31(水) 18:13:15.50ID:hl7qebxF
https://i.imgur.com/lW69YYY.jpg
https://i.imgur.com/wwLkKxr.jpg
https://i.imgur.com/tNvxMft.jpg
https://i.imgur.com/c1vPUeY.jpg
https://i.imgur.com/bY3TiPM.jpg
https://i.imgur.com/jSGzrlH.jpg
https://i.imgur.com/aASq3Xu.jpg
https://i.imgur.com/TQE071D.jpg
https://i.imgur.com/sNn38gc.jpg
https://i.imgur.com/naN7Lnp.jpg
https://i.imgur.com/Fptjp7v.jpg
https://i.imgur.com/WVk6Wkp.jpg
https://i.imgur.com/vMITCti.jpg
0456神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/31(水) 19:18:14.59ID:/akVyud1
「法」には真理という意味、存在という意味の二つある。
「無我」には私、私のものでないという意味と、実在、実体は無いという意味がある。

諸法無我には、存在には実在は無い、実体は無いという意味もある。
全ての存在は頭の中にあると言ってもいいかもしれない。
そういう意味では、私もアートマンも、猫も杓子も、釈迦も達磨も、どこにも実体は無いと言える。
どこにも、何も無くなった状態が涅槃であり、不戯論。
そこから見ればもう何も議論することは無くなる。
あれこれ考える必要が無くなる。頭の中が空になる。
0457
垢版 |
2018/10/31(水) 20:50:11.66ID:xENY7tl9
>>454
だからw

片山先生にも直談判しに行けよ、ってこと。
0458湖北鈴屋外道「野狐」 屁ッコキマンペ 統失ヒッキー糞雀鬼ィ自我肥大痔がヒデェー
垢版 |
2018/10/31(水) 21:08:56.02ID:CgQX8rBP
1 SEARCHING FOR THE BULL - 34:00
https://www.youtube.com/watch?v=3BAzuuWdQ9g


うまいぞ。吉野家風?牛丼 - 10:33
https://www.youtube.com/watch?v=eiHkX237Fxk

台湾の吉野家【豪華朝定食】牛丼yosinoya - 4:44
https://www.youtube.com/watch?v=_j2MiTRDkuY

【中国】大連の吉野家で牛丼を喰う。 - 4:59
https://www.youtube.com/watch?v=qTUdEZ5W8H4

上海の吉野家で牛丼 - 2:17
https://www.youtube.com/watch?v=qlO2iDeDCE4

バンコク吉野家 - 2:07
https://www.youtube.com/watch?v=EH43l0VWAyI

これだけは教えたくない!吉野家牛丼持ち帰りを美味しく温める裏技! - 2:24
https://www.youtube.com/watch?v=GoyFa_5yqzc

吉野家で使える裏技・裏メニュー マニアックすぎる注文方法 - 6:36
https://www.youtube.com/watch?v=2A-aECTRYCQ

YOSHINOYA Beef bowl ?吉野家 牛丼アタマの大盛り - 4:08
https://www.youtube.com/watch?v=gcxclyfwXWs

吉野家の牛丼に卵かけの真髄 - 1:38
https://www.youtube.com/watch?v=sAsTX_SgvpY

吉野家 長堀店「牛丼 特盛」「お新香・味噌汁・生卵」 - 2:13
https://www.youtube.com/watch?v=vY--Rz_QT0M

吉野家の牛丼 訳して 吉牛 に偵察 大阪西区九条 - 1:30
https://www.youtube.com/watch?v=Ip5JyNGaqFY

汁の限界リベンジ!吉野家の牛丼 Beef Bowl - 1:18
https://www.youtube.com/watch?v=-9ml5z7r2a0

吉野家の牛丼大盛り+卵 - 8:55
https://www.youtube.com/watch?v=Q9z2_eamdMk

吉野家で大人買い!特盛牛皿×2・牛丼大盛り×2・カレー大盛り×1・御新香×1 - 7:27
https://www.youtube.com/watch?v=_fOwjRhDsDY

【吉野家】1240円の超高級牛丼を食べてみた!【牛重】 - 3:31
https://www.youtube.com/watch?v=ldJZRrqw7LM

早朝から吉野家の牛丼を食う - 2:49
https://www.youtube.com/watch?v=l7ze8JEEfpI

吉野家で牛丼食ってきた - 3:52
https://www.youtube.com/watch?v=a74kN4PZleo
0459おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/11/01(木) 08:14:10.94ID:JwWbpypa
 
>自分の言葉はないのか?

ID:hl7qebxF師匠が中観帰謬を理解してるのか?わからないけど
とりあえず中観帰謬の場合なら

仮設としての
無明に依存している
汝の言う「誰も気づいていない山火事(という見解)」も
(無明に依存して)いま我らによって分別されている

中観帰謬を理解した上で、中観帰謬を前提とするのなら
仮設としての
無明に依存している
自分の見解は

>自分の言葉は↓

青目(ピンガラ)の中論 觀如來品 第二十二
…人は戯論を生じる
戯論して慧眼を破れば
(無明に依存しているのなら)
是の人達は皆、仏を見ることはない

ちなみに
おじゃるは、中観自立で おじゃります m(_ _)m
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
0460おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/01(木) 08:40:04.50ID:JwWbpypa
 
>>459の補足

いま我らの見解(分別)に依存して
汝の言う「誰も気づいていない山火事(という見解)」が
現れ変化して滅しているので

それゆえに
汝の言う「誰も気づいていない山火事(という見解)」も
自相(自性)ではない

それゆえに
中観帰謬の場合は
そのような自相(自性)を、世俗の次元でも否定します

「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
アートマンである。と掴もうとしている想いも手放して逝く

↑中観帰謬の場合

http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派

基本的には、無明に依存している

>自分の言葉

という中観帰謬としての対機説法で おじゃります
0461宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/01(木) 10:38:20.25ID:HnW00csk
>>447
訂正:
(29)節
 ×『アーマンを、「私」という観念の主体であり、』
 ○『アートマンを、「私」という観念の主体であり、』

>>448
>だから、涅槃に到達したものは、「わたし(アートマン)が語る」と言ってもよいということになる、と。

補足:
 これが核心に迫る決定的な根拠部分でしょう!

【〔尊師いわく、---〕
 [なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と
言ってもよいでしょう。<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいでしょう。]
 [心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまったので、『わたし
が語る』といってもよいであろう。また人々が〔これこれは〕<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいであろう。] 】
(サンユッタニカーヤ.T,3:5)

【註: 『わたしが語る』と言ってもよい---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
   わがもの---mamam = mama patto,mama civaran ti a^di katha^voha^ram su^tva^(Comm.p.51). 「我所」(『雑阿含経』)。】
(中村 元訳『プッダ 神々との対話』岩波文庫p248)
0462宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/01(木) 10:40:35.05ID:HnW00csk
>>451
>石飛センセの方が、 「筋が」通って いるなw

読解力ないな...。
さすがのセブンも歳をとったか?
(まっ、お互いさまだけれどw)

>>457
一代も推奨の“直訳”の先生か...
はい、アンケート候補に検討しておきますよ。

>>455
【警告】
自分自身の言葉を語らず、
ただ黙々とコピペ転載やリンク貼りばかりしかしない者にも当スレからの退場を願う。
これも、当スレの戒律(マナーとルール)「条項」に加えさせて頂く!!

>>458
【警告】
あなたは条項4.に抵触しています。
二度と当スレに投稿して戴かなくて結構です。

真っ当な議論ではこの私に勝目がないものと分かると、
今度は、ただの荒らしへと成り下がるのが自称仏教徒の姿ということなのか?
0463神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 11:51:32.94ID:9wT390ux
>>461
サンユッタニカーヤからの引用はその後の

真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮に〕そのような表現をしてもよいのである。

を入れないのはミスリードを誘うことになる
自分の都合の悪い箇所を削るのは卑怯というもんやで宝珠さん


(l.3.5)【敬わるべき人】(第三章 剣)サンユッタ・ニカーヤ I
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52183038.html
0464おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/01(木) 11:57:02.70ID:JwWbpypa
 
ID:CgQX8rBP師匠?
(宗教とかに興味がない人の)誤爆?
(あるいは)嫌がらせ?

牛丼とか書いてあるので

「坊さんが肉食べても良いのか?」とすれば
仏教議論になるかもしれない

宗教による制限

原始仏教では、比丘(僧侶)は糧(かて)をその日ごとで乞食(こつじき)することにより食を得
与えられた余り物の食べ物に肉が入っていようがなかろうが差別なく食べることになっていた
とくに南伝(上座部のパーリ経典)および北伝(大乗仏教)のなかでも古い経典においては
釈迦その人が肉食をしたことが記述されている
さらに、釈迦仏の弟子であった提婆達多が違背した原因は
提婆達多が菜食主義を戒律に含める主張を釈迦が明確に否定したからである
と記されているだけでなく釈迦が亡くなった原因は豚肉の食中毒であるとされている

生き物を殺す直接殺のみを明確に禁じ、間接殺においてはあくまでも貰い物の肉が
殺す所を見なかった肉
供養のために殺されたと聞かなかった肉
自分の為に殺された疑いの無い肉という「三種浄肉」であれば食しても問題はないとされた


おじゃるは
焼肉カルビも食べたい おじゃる
0465神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 12:03:37.88ID:A2RY0UbZ
涅槃を覚知する、無為を覚知することはできない。
覚知するという行為がサンカーラ、有為になってしまうから。
だから涅槃には「なる」ことはできても「知る」「感じる」ことはできない。
自分、私が存在するという意識が全くなくなった状態が涅槃だから、以降その人には「慢」が無い。
慢が無いとは、私という存在は実在しないと知っているという意味。
私は実在しない、無我であると正しく知っているからこそ、「私が語る」と言ってよい。
なぜならそれは執着、苦しみを生まないから。
0466おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/01(木) 12:12:34.52ID:JwWbpypa
 
無明に依存することのない
仏そのもの
般若の智慧と慈悲をもって
解脱智見

四神足をもって
円成実性をもって依他起性を見る

(無明に依存することのない)
このときにおいて

真に力量ある人は、世間における名称を知って
言語表現だけのものとして
〔(「仮設としての」という意味において)仮に〕そのような表現をしてもよいのである

↑こんな感じで おじゃりますな?
0467おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/01(木) 12:45:32.64ID:JwWbpypa
 
>涅槃を覚知する、無為を覚知する

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/121352
上座部 パオ・セヤドー

阿羅漢たちは答えました
「もし、八定と五神通を証悟していないのであれば、あなた方は、どのようにして阿羅漢果を証悟したのですか?」


仏陀は言いました
「先に法住智、その後に涅槃を対象とする道智」
(解脱を知覚して、そして解脱智見を知る)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5
(主体でもなく・客体でもない)涅槃の世界において

般若の智慧によって観照された対境としての一切法の真実絶対の姿を実相般若という

円成実性をもって → 依他起性を見る

https://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)

我所ではない・我でもない。と知覚して住むことである

(そして涅槃も知覚して住むことである)
0468神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 13:51:44.46ID:D0GNJCI0
>>467
>(解脱を知覚して、そして解脱智見を知る)

解脱智見

解脱すれば、解脱したとの智が生じ、
<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえ、もはや迷いの生を繰返すことはないであろう>
と知るのである。

これが解脱来た時の決まり文句っぽくなっている
0469ポッタン師
垢版 |
2018/11/01(木) 13:57:55.61ID:wWvyhRVM
468.それは迷信である。大爆笑である。
0470神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 14:10:11.48ID:A2RY0UbZ
となれば、涅槃にもある種の智慧、気づきが残っていることになりますね。
スッタニパータと矛盾するような気がします。
細かいことは気にするなという事でしょうかw

1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか?
おたずねしますが、そのことをわたしに説いてください。」

1037 「アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅(しめつ)することによって、
名称と形態とが残りなく滅(ほろ)びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」
0471神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 14:41:50.25ID:9wT390ux
>>470
宝珠さんに言わせれば名称と形態が残りなく滅びた場合、つまり涅槃において現象世界からの出離を覚知する主体は、
五蘊の何かじゃなくて真我アートマンである、ということになるんじゃないかな?
0472おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/01(木) 15:15:11.31ID:JwWbpypa
 
(無明に依存することなく)
智慧をもって
識別作用が止滅した。と知覚して住んだときに
解脱智見を知る

阿摩羅識(あまらしき)
真我 = 真如、如来蔵

唯識学会
第九意識とは完全なる涅槃

という真如縁起としての対機説法であるけれども

ただし
中観帰謬の場合は
真我である。という『想い』も手放して逝く
0473神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 15:41:02.41ID:A2RY0UbZ
よく読んでみると、確かにブッダは智慧と気をつけることが止滅するとは言ってないですね。
アジタは智慧と気づきが消滅するんですか?と聞いたのに、ブッダは答えていない。
識別作用と気づきは別ものだとブッダは捉えてるみたいですね。
よくよく考えてみれば、「識」は無明由来だから、気づき、智慧とは無関係でしょうね。
勉強になりました。
0474神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 15:50:09.18ID:EpCQl1oc
>>463の通りなんだがね・・(苦笑



なんか、「やり方(≒読み方)」が一在家っぽくなってきたなw  >>宝珠
0475宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/01(木) 15:55:18.71ID:HnW00csk
>>463
ご指摘ありがとうございます。

別に、何の都合も悪くはないですよ。
確かに、そこまで全部とも考えましたが、ただ長くなるだけなので止めたまでです。
理由としては、私がアピールしたいこととは直接的には関係がないので...。
そして、強調したいがために敢えてピックアップ的に抜き出していますから。
ただし、○○であるからとして、前段の文意に大切なただし書きが付くものとして、
その部分が必要不可なに場合には、もちろん省かないほうが賢明なことについては了解しています。

(省略した後半部分の内容については)
そりゃ〜すべて所詮は、ただの言語上の表現に過ぎないのだから、
そんなことはもちろん、仏教を論じる我々にとっては当り前のことですよ。
この経文で肝心なことは、“涅槃に到達した完成者は”『わたしが語る』(または<わがもの>)
と言ってもよいということの意味ですよ。
つまりは、そうでない者(未完者)というのはそれはできない、と。
その資格がないということになるのだから。
では一体、それは何故なんだ?? ということが重要でしょう。
0476神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 16:17:39.52ID:EpCQl1oc
>>475
>つまりは、そうでない者(未完者)というのはそれはできない
>では一体、それは何故

凡夫の口にする  「私は」「私が」 は、
まさに我見の見本、象徴、極みとしての

 「オレがオレが私が私が」「オレの物私の物」

に他ならないから。
0477神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 16:33:25.65ID:A2RY0UbZ
行、サンカーラにも二種類あるようで、ひとつは現象、存在としてのサンカーラ。
そちらは無明に依存している。もうひとつ、身口意の三業を生むサンカーラ。
身口意の三業には善と悪がある訳だから、気づきは身口意の善の意業だろう。
となれば、無為涅槃という場合には、停止しているサンカーラは現象、存在としてのサンカーラで、意業、気づきはあり続けている。
涅槃、無為を覚知するのは気づきであり、智慧である、という事でいいんじゃないでしょうか。
アートマン無しでも説明できますよ。

有学は、「わたし」の本質、無我を理解していないのだから、「わたしが語る」と言ってはいけない。
執着を強化する。自分でもよく分かっていない単語を使ってはいけない。という理由じゃないでしょうか。
0478宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/01(木) 17:42:58.99ID:HnW00csk
>>476
そりゃそうだ。

>>477
だから〜
涅槃に達した完成者こそが真人、
真実の自己(アートマン)に目覚めた者だいってるわけですよ。
別に、バラモンたちの語るアートマン云々ということではなくて、
あくまでも仏教の説く境地としての涅槃の状態=真実の自己の状態(真我)として。
では、涅槃とはどんな...
0479おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/01(木) 18:16:21.54ID:JwWbpypa
 
>涅槃とはどんな

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本

(無明が依存している)縁起したものを離れ

ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである
  _  _  _

↓大乗の場合は
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
さらに無の世界も超えて
般若の智慧と慈悲をもって
円成実性をもって → 依他起性を見る
移り行く世界の様を、ありのまま見つめている

無住処涅槃
智慧によって煩悩障と所知障とを離れているから生死(迷いの世界)にも停滞せず
しかも大悲をもって衆生を救済するために迷いの世界の中で活動するから涅槃の境地にもとどまらない

仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
0480神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 19:21:08.21ID:EpCQl1oc
>>478
> そりゃそうだ。




だから、悟られた方に「我」がある筈がないのだよwwwww


まだ理解できない?w  ┐(´ー‘)┌
0481おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/01(木) 19:48:21.42ID:JwWbpypa
 
>悟られた方に「我」がある筈がない

(無明に依存することのない)
四神足の智慧をもって

我所という『想い』でもない
我という『想い』でもない

自相(自性)という『想い』でもない

「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
アートマンという『想い』でもない

想うという『想い』でもない
想わないという『想い』でもない
非想非非想も手放して超えて逝く
0482神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 20:42:49.04ID:wSaFAReT
わしが 「おまえさんは男かい ? 」と質問したとする 。
おまえさんの答えは 「はい 」かな ?
こういうやりとりは 、現象の表面上に表れたものに関するものじゃ 。
しかし 、おまえさんは本当は、四大 (地水火風 )が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりにすぎないのじゃ 。
もし、心が自由なら、現象を区別することはない 。 「大きい 」 「小さい 」 「あなた 」 「私 」など存在しないのだ 。
わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、究極的には、我 (アッター)も無我もないのだ。


私たちは、何かを得るためではなく 、手放すために修行をするのです 。
しかし 、名(ナーマ)と色(ルーパ )に対する執着を手放すことができるようになる前に、私たちはこれらの真の姿を知る必要があります 。
そうすれば 、自然と厭離の心が生じます 。
「私」とか 「私のもの」などといえるものはなく、すべてのものは無常無常なのです 。
私たちは 、なぜ「ニッバーナを得た」という言い方ができないのでしょうか ?
なぜなら 、ニッバーナを体験した人は 、もはや「私 」とか「私のもの」という考えを持たないからです 。
もし、そのような言い方をするのであれば、その人はニッバーナを真に体験してはいないということです 。
はちみつの甘さを知っている人は 、たとえそれを知っていても、わざわざ 「私ははちみつの甘さを味わっている 」などとは考えないものです。

(アーチャン・チャー)
0483神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 20:48:21.38ID:EpCQl1oc
隠居は、頑として了承しなかったがw、
仏法ってのは、主語の無い文法なのよね・・。
0484神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 20:48:25.55ID:A2RY0UbZ
ブッダが「わたし」と書かれた箱を開けて、中身を見てみたが何も無かった。空だった。無我だった。
それに対して、「箱の中にはアートマンがあるんですよ、絶対に見えませんけど。縁起から離れていて、永遠に変化しないアートマンがあるんです。」
と言ってみても、まわりくどいだけ、言葉遊びのようなものだと思いますが。
0485神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/01(木) 20:53:36.22ID:EpCQl1oc
かなり上手い喩えなんだが(>>484)、
宝珠には兎の毛ほども理解できんだろうな・・・ orz
0486おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/01(木) 22:28:51.53ID:JwWbpypa
 
>兎の毛ほども理解できん

その理由は
さとりに達するための修行の障害(覆)がある
有覆無記
我癡・我見・我慢・我愛に依存しているから

(他に依存することなく成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(他に依存することなく成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性

たとえば
おじゃるの場合は
落武者の霊は居る。という『想い』が現れ変化して滅している
  _  _  _

「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
アートマンである。という『想い』が現れ変化して滅している

円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない

遍計所執性をもって依他起性を見ることはできない
それゆえに
誰もが成仏するわけではない(五性各別)
0487宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/02(金) 16:02:58.96ID:ra2XoL6Q
>>484
箱の中に在る筈がないでしょうよ。
見えるも見えないも...
アートマンはそういった物理的な場所のどこかに在るわけじゃないから。
最初から、それは何処そこに在るなどというものではないから。

そんな喩え話など、
ただのトンチンカン()を露呈してるだけ。

┐(´д`)┌ヤレヤレ
0488宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/02(金) 16:10:29.44ID:ra2XoL6Q
>>480
悟られた方にとって--無い--のは、
“我執の自己”であり、“煩悩塗れの自我”であり、
そして、“業報に流されている自我”、“流転変滅を続ける無常の自我”です。

何故、涅槃に到達した完成者は“真実の自己”だということになるのか?
どうして、新しい自己とか進化した自己ということではなくて、
あくまでも「真実の自己」だといっているのかが重要だということ。
つまり、完成者となって初めて『わたしが語る』と言ってもよいということは、
それまで語ってきた自身における自己は“偽りのわたし”だったいうことを意味します。
無くなるのは。その偽りの自己です。

『言語表現だけのものとして、〔仮に〕そのような表現をしてもよいのである』>>463
セブンは、この後半部分を指して、ただ言葉上での仮の表現に過ぎないのであって、
だから、それはアートマンが在るという意味などではない。
アートマンが無いから言葉の表現を使っているだけだ。
もしも、本当にアートマンが在れば、ゴータマはハッキリ「在る」と断言している筈だ。
という見解でしょう。

わたしは、
ゴータマがアートマンを存在論で以て解釈されることを避けたいが為、
そして、第三者によって客観的に確認できるような実体とは異なるものであるから
(つまり、あくまでもその境地にある当人だけにしか知覚されない主観の世界だ)
だと見ています。
0489宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/02(金) 16:11:10.35ID:ra2XoL6Q
〜もしも、セブンが唯物論を捨てるのであれば、
少しはあなたの見解の妥当性についてもその検討の余地が出て来るかもしれませんが...。
つまり、「心霊存在と輪廻する魂については認めるが、永遠なるアーマンについては無い」という見解なのであれば、
それはあっても可笑しくはない一つの意見だとして認めてもいいかもしれない。
しかし、そうではなくて、あなたはただ人間の死後はすべての意識が断滅消滅するものとみているから、
当然、アートマンなど認めるわけがないわけなのですよ。
そういうのを、ただの唯物論(断滅論)というのです。
仏教では、一番最初に否定され捨てられる最低の見解です。

輪廻する魂(アートマンではなく)についても客観的に検知することはほぼできませんが、
ただし、転生現象の有無については、すでに膨大な検証データが蓄積されているので、
それらについて知ることができます。
また、心霊存在(これも肉体崩壊後の残存意識の一つ)については、
これは、もし旨くいけば誰でも遭遇体験は可能なことです。
検証確認のために自分で自ら動こうという気があるかどうかですよ。
わたしはすでに確認済ですが、セブンには自己確認する気があるのか? です。

どう?
もう、唯物主義は捨てられるのかな?
あなたの卒業はいつなの?
0490宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/02(金) 16:17:23.62ID:ra2XoL6Q
みなさんはどう?
すでに心霊存在(心霊体験)は確認した?
まっ、こんなもん体験せずとも知的に理解は可能ですが...。

どう、とっくに卒業できた?
こんな低レベルであるのかないのか?
いや不思議だぁ〜とか、未だにやってるんではとても話にならないから。
(別に在っても当たり前のものを普通に体験しただけだと...)

当然、おじゃるさんは卒業生だよな!
0491神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/02(金) 18:18:50.10ID:83wf/HYq
>>487
この心臓内部の私のアートマンは
米粒よりも 麦粒よりも 芥子粒よりも
芥子粒の核よりも小さい

この心臓内部のアートマンは
大地よりも大きく 空よりも大きく 天よりも大きく
これら諸々の世界よりも大きい

(シャーンディリヤ)

後段はアートマンは真には梵と一如であるということを言ってるのだろう
0492神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/02(金) 22:07:03.11ID:L7HMHUc3
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/624
> ヒンドゥーを有我論という理由で愚弄する行為は即刻、
別に愚弄しているわけではなくてw、それは「仏法」ではないのでは?
と言ってるだけでしょ、皆。 ヒンドゥに限らず、他宗教他思想を愚弄する気は誰も持ってないでしょ。
勿論、「一神教的世界観、考え方」に対して、「世界の見方・視線としてどうなのか?」
という疑義はあったとしても。

http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/625
> >>http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/604
> >実は神智学徒だったのカモナー・・・
>
> ミス(無知や誤解で勘違いしていたこと)を神智学のせいにしたり
だからw ミスでも何でもなくて、誰のせいにもしていず、皆さん誰もが、
「仏教」として正しい、という確信のもとにレスしてるだけでしょ。 貴方がしているのと同じように。
中身を別にすれば、両者の言説は同一だよw 双方ともに、「違う」と言ってるだけ。
又、上の一文は、「臨済禅師の幾つかの言葉も、真我を見据えた発言だったのか?」
という禅宗史禅思想史の根幹に関わる問題を茶化して述べただけ。
0493神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/02(金) 22:10:23.60ID:L7HMHUc3
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/624>; そして「一切」は、“一切皆苦”(正しくは、「一切行苦」であるが、この場合「行」は
> 五蘊の「行蘊」に限定したものではなく一切法そのものを指している-水野氏)だといわれる。
> “苦の滅”(苦悩から永遠に解放された安らぎの境地)である「涅槃」が、
> 「苦」の根本要素である原因となる「一切」の中にある筈がない。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/626
> であるから、苦を滅した安らぎの境地である涅槃が一切皆苦の中にあるわけがない
> 涅槃はあくまでも、一切法における修行の最終結果としてあるものであって、
> その境地は、“一切とはまったく異なるだからw そういう括りの「一切」なら、その通り。
誰も何の異論も挟まないでしょう。 120%あなたの言う通りw
ただ、「一切法」と限定的謂いをした場合は、ちっとばかり事情が異なってくる。
「一切行」と「一切法」は同か異か。 一切善と一切悪は同か異か。一切仏と一切衆生と一切経とetc.etc.
だから、君がすべきことは、単なる「一切として云々」「一切の中に涅槃は云々」ではなく、
≪「涅槃」を「法」に含めるか否か≫を論証(≒議論)することだ。
勿論、基本、諸法(諸存在)は諸行に他ならないのだけれども、
「asankhataなもの(境地thAna)がある」と説かれたことを承けるなら、
それは法なのかどうかは非常に重要だ。諸々の存在(現象事象)としての法でなく、
理(ことわり)、真実、真理・勝義、修行者の目指すべき寂静としての法(ダルマ)がある、
と言い得るかどうか、と。 そしてそれは同時に、有名な二句
 sabbe sankhArA dhukkhA. sabbe dhammA anattA.
とリンクする。 なぜ、 sabbe dhammA dhukkhA でないのか? と。
0494神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/02(金) 22:15:04.00ID:L7HMHUc3
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/626
> そして、涅槃は「無為」(「有為」ではないもの)であるからこそ「有為」(現象界)からの“出離を覚知する”と
> 同じものならば >覚知しない。異なるからこそ出離を覚知する
うんうんうん、全く、完全に、1000%その通りだね(´∀`)b
でも、その時は、主体は無い・居ないんだよね、文法的に。
「○○【を】(××【が】)知る」ではなく、「○○【が】知られる」としか言われていない
ことに注意しなければならない。 『誰それによって知られる』という言い方すら、ウダーナではされていない。
つまり、〔≪『誰それ【の】』涅槃≫がある〕のではなく、〔ただ、≪涅槃(という)≫境地のみがある〕 と。

> “涅槃とは無為”であり、
> 「無常・無我・無自性・空」(現象界の諸性質)ではないことが明らかになったのならば、
> 元々、現象界を超越しているアートマンを否定する根拠にはならないのは自明
意味不明w  ≪ 【同等に】 、アートマンを肯定する根拠でもない≫わなwwwww

> 仏教が求めるべき“真実の自己”(Vin.Maha^vaggaT,13.p.23)
ここと、Dhp160偈が、考察の対象となるわけだが、
それでも、Dhpの方は(まさに禅家の言う「主人公」としてであり)
「主体的に生きる存在」としての私であり、
Mvの方も、森で遊び呆ける彼らにとって大切なものへ寄せた言い方であり、
その後、実は彼らにその答えは与えられていない。(彼らもまた求めていないが・・。)
なぜか? 不要無用だから。
「その方向(≒真我)を希求することこそが、そもそも、苦の因 に他ならないから。

> そして、『煩悩を滅して死の領域を超えた真人は「わたしが語る」と言ってもよい』(SNT,3-5 )
>>463に尽きるw
0495神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/02(金) 22:16:11.57ID:L7HMHUc3
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/626
> 本来は煩悩に拠らない“心性清浄である自己”(AN 1.6)
> 「わたしが語る」と言ってもよい』(SNT,3-5 )と、説かれたゴータマの教えが
> アートマン性質の核コア部分に相当する
別にアートマンでなくてもいいじゃんw 本来清浄(無地)なだけだから。
ブッダの身体は金色に云云というのも、
土着のドラヴィダ人と比べて色白(或いは黄色系)だったからかもしれんわけで。
アジア人が黄色い猿と言われるのと変わらん。 汚れてなければ、そりゃ白くて清浄でしょうよw

> 素直に受け止めなければならない事実
だからw  一在家のような【ねじ曲がった読み】はやめろ、とw

> 仏教ではヒンドゥーのようなアートマンを説いていないからといって
だからぁw  『説いていない』 ということが重要なの。
ブッダは握り拳の中に教えを隠さなかったの。
全て、示し切っているの。
だから、大般涅槃経の遺言が成立するの。

>  「在る筈がない」だのということはできない
だから、「在る筈だ」だということもできないのw
0496神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/02(金) 22:18:37.10ID:L7HMHUc3
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/635>>635
> 貴重な学生時代のテキストの
そんな昔じゃねーよ。
つい最近(数年前)、作ったばかりのもんだw 決着シリーズ中期ごろのこと。

>  だから、仏典に出てくるアートマンについては、
それがどのような自己のことを指しているのかを前後の文脈から読み取らなければ
うんうんうんうん。 まったくその通りだね。 (だから「文言非我、文脈無我」だと。(´∀`)b)

> 当時のセブ ンはそのことをあまり取り合わないようで
いやいやw それは寧ろ一代のスタンスw
なぜか? 日常に於いてさえ昨日の私と今日の私の同一性が疑えてしまうのに、
どうして、それ以上の同一性が担保想定し得ようか、と。
だから、一代は、世俗(日常)だろうが勝義だろうが、「私」に差異を見る必要はなく、
【どちらも】仮設されたものに変わりない、と。
「両義を見据えた上で、どっちにしても「わたくし無し」と断じたブッダの言い回し」
を褒めちぎっていたよw

http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/636
> 制御すべきは当然、日常のこの心の状態のことですよ! 真我が顕れるのはその結果ですから。
> 〜如何ですか?
だ〜か〜ら〜w
制御が必要なもの(心だろうが意だろうが識だろうが)は、「真我」足り得ないでしょ?と。
心性本浄の「心性」も、心の性質であるならば「真我」である筈がないでしょう? と。
  *(実際、原文ではcittaの一語しか出て来ない)
また更に、心を制御した先に顕れるものなれば、これまた尚更、
制御される前のものと同じである筈もないのは理の当然。
  https://i.imgur.com/mSHvPWT.png
0497おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/02(金) 22:25:55.25ID:1ovyebe5
 
>おじゃるさんは…

大日如来からの
 ↓
宇宙すべて一切の諸法
 ↓
ヒンドゥー(バラモン)
 ↓
仏教
 ↓
チベット
 ↓
シパ・バルドゥ − 再生へ向かう迷いの中有

トゥルパ − マナス(意、心)が成した身体 − 意成身

ヤブユム − 男女両尊

ということで
(金銭的に余裕があるのなら)
これからも
たとえば、お寺での怪談会とか
あるいは、マインドフルネスとか
神社・仏閣・霊場(心霊スポット)などにも逝ってみたい所存で おじゃります m(_ _)m
https://www.youtube.com/watch?v=PL9nc7wf4i0
京都怪談
0498神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/02(金) 22:33:13.99ID:L7HMHUc3
>>487
> 最初から、それは何処そこに在るなどというものではないから。
うん。 だから「無我」でFAだね?www

> 箱の中に在る筈がないでしょうよ。
> 見えるも見えないも... アートマンはそういった物理的な場所のどこかに在るわけじゃないから。
> そんな喩え話など、ただのトンチンカン()を露呈してるだけ。
> ┐(´д`)┌ヤレヤレ

箱=五蘊(色(身体))/(箱に書かれた)「わたし」=世俗の言辞・ラベル(名(概念))
まさに、「名色 nAma-rUpa (≒名称と形態)」の喩えになってんのw
┐(´д`)┌ヤレヤレ

で、我々は、まさに、そうした五蘊の総体として、鈴木さんや田中さん、
そして、私やあなたといった名札を付けて、それを識別認識し合って生きているの。
それが、世俗に(世俗で)生きるということなの。
だから、如来も又、その慣習に従って、「私は〜」云々の言辞を用いるの。
でも、「如来の私」には、「オレがオレが私が私が」がないの。
ただただそれだけなの。

>>489
> 〜もしも、セブンが唯物論を捨てるのであれば
wwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwww

唯物論とか関係ないからw
魂があろうが生まれ変わりがあろうが、「無我」は「無我」なの。
少なくとも『一代はそうだった』ろ?w
また、ワシが、一時期、輪廻による相続肯定側で立論してたの読んでなかったか?
我(アートマン、真我)無くとも輪廻は成立しちゃうのw
0499承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/02(金) 22:43:53.26ID:MNrZk6Wy
うん、アートマンなどなく、しかし輪廻も霊も神々も妖怪も有って、しかし、いわゆる「個人主体の生まれ変わり」とか初期の「プトガラ」とか本当の私なんてもんは無いんだよ。

(^。^)そうゆう迷信があるだけ。(笑)
0500神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/02(金) 22:55:21.95ID:L7HMHUc3
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529992852/756
> >>716
> 手法が異なるから別の宗教だとはもちろんその通りです。それはいい。
> では、手法が異なるとその結果(そのゴール)も異なるのか、否か?
この場合の 『結果が同じ』 は、そういう単純な比較に収められないの。
サッカーで一点を取る方法とバレーボールで一点を取る方法は当然違う。
が、同じ「一点」だから、同じだと言えないのと同様、
(特に修道に関しては)手法・方法論が違うというのは決定的差異になっちゃうの。
 (だから、大乗非仏説が言われて、一代がイラつくんじゃないw)
或いはまた、同じように治癒したからといって、
西洋的外科薬科治療と漢方鍼灸が同じだとは言えまい?
「医療」として同じというなら、「宗教」として同じと言っているだけにしか過ぎない。
また仮に、ゴール(目的地)が同じであれば尚更に、
『どのような方法を採るか』こそが「違い」であり、
それぞれの存在意義(選択の幅、向き不向き、ニーズへの適合)になってしまうわけでね。

> ヒンドゥーを間違いと決め付けて馬鹿にする。
だからw ≪ブッダの説法とは違う≫ ってだけでしょ。

> 尚且つ、仏教だけが唯一の真理でありそれ以外は間違った低いものと断罪
だからw ≪仏法の上では≫仏法が唯一の真理であり、それ以外がないのは当然だろがw
キ教でもイ教でユ教でも同じだろ。 それぞれ唯一で他は無いだろ?

なに寝言言ってんだとしか思えないわw
>
> 私は、“自分の信じる宗教だけが唯一の真理”と説いているところでロクなものを知らない。
> そのようなことを主張する宗教にはロクなものがないのは歴史が証明してきた。
いやいやw 今の貴方が、まさにそういう人になってますよ?w
0502神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/03(土) 06:31:40.90ID:LqR+QWFs
諸行は縁起により生滅する全ての現象、六根、五蘊だよね。
諸法は概念、思考、妄想、認識も含む、意門の対象、全ての存在、だよね。
だから涅槃は諸行ではないけども、諸法だよね。
涅槃は無常ではなく、苦ではないが、無我だよね。
0503神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/03(土) 09:05:00.07ID:GhivMDuz
>>502
>諸法は概念、思考、妄想、認識も含む、意門の対象、全ての存在、だよね。

概念は想
思考、妄想、認識は識(妄想は想になるかも)

で五蘊の内

しかしながら

スマナサーラ長老の仏教法話@jtba_talk
#jtba :ブッダの教え。諸行は無常です。諸法は無我です。(中部45)
0504パーピマン
垢版 |
2018/11/03(土) 09:12:47.91ID:nNm5FL6m
>・・・しかし輪廻も霊も神々も妖怪も有って、・・・

妖怪つれてこいw

(希望・・こなきじじい)w
0505dp9 ◆1KaWk8ZRnVxd
垢版 |
2018/11/03(土) 09:14:24.51ID:HIlNWdHI
どこかで妖怪がカキコんでるかもしれない・・・
0506承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/03(土) 09:46:06.13ID:cqmhV8k7
>>501
マウントしてド素人をいたぶるイキリハゲの姿が、そこにはあった。(笑)

(^。^)本当にハゲボウズって、ろくなの居ないよな。(笑)

>>504
お前さんが輪廻を連れてきてくれたらね。(笑)

因みに、かの水木御大は「妖怪とは、そうした雰囲気であって、それを視覚的に判るように書いてる」てなことを言われている。

俺にしても、そうした雰囲気を感じるだけで、見たことも触ったこともないよ。(笑)

そう言えば、昔、拝み屋さんの手伝いしてたとき、霊感ある人に「お不動さんカンジョウしてます」って言って実はゴウサンゼさんカンジョウしてみせた事があるんだが、「あれ?ゴウサンゼ明王が見えます」って不思議がってた。(笑)
本当に見えてんだな、とか思いながら「不思議ですねぇー」とか惚けてた事がありました。(笑)
0507おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/03(土) 10:57:46.00ID:rjMjL98r
 
> カンジョウ

仏に勧めて、法を説いたり、世に久しく住することを請う勧請(かんじょう)?

戒律や資格を授けて正統な継承者とするための灌頂(かんじょう)?

《神》の《定》準となり《神定(かんじょう)》となり?

> ゴウサンセ

降三世明王(ごうざんぜみょうおう)?
  _  _  _

> 希望…こなきじじい

おじゃるは貧乏なので
承狂元密教僧の神通力をもって

見た者には幸運が訪れる、家に富をもたらす座敷童子(ざしきわらし)を
連れて来て欲しいので おじゃります

地蔵菩薩  オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
0508おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/03(土) 11:22:43.65ID:rjMjL98r
 
>マウントしてド素人をいたぶるイキリハゲの姿が
>ハゲボウズって、ろくなの居ない

(中国経由の)日本の禅宗系とかは
キツイ性格の僧侶が多い?(かもしれない?)

ベトナム出身のティク・ナット・ハンとかは
優しい口調で
仏教及びマインドフルネスの普及活動を行なっていたらしい

https://www.youtube.com/watch?v=j3zi7HljYIM
ティク・ナット・ハン
(真如縁起をもって)ひとりひとりがブッダとなる

https://www.youtube.com/watch?v=EZrHRWkXA0k
ダライ・ラマ 輪廻 転生ラマ

https://www.youtube.com/watch?v=gcBeC6Qdg9k
プラユキ・ナラテボー 瞑想実践

ちなみに
スマナサーラ師匠も激論口調になる場合もある(かもしれない?)
0509神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/03(土) 11:59:37.83ID:bfAS4mkD
体罰が駄目なことは、今から800年ほど前に曹洞宗の開祖たる道元禅師も言及している。

たとえ師であっても、弟子に暴力を振るってはならないと。

弟子の悪口を言うこともなく、教え導かなければならないと。

とは言っても、道元禅師が中国に渡り、そこで師とした如浄禅師は、坐禅の時に居眠りしている弟子を、履物で容赦なく打ち叩いていた。

そして、如浄禅師は、弟子にそのことを釈明した。

本来は、そのようなことはすべきではないが、仏道修行のために、仏に成り代わってやっているのであるから、慈悲の心でもって許してもらいたいと。

それを弟子は、涙を流しながら聞いたという。そして打たれることを喜び、そんな師を褒め称えたと。

道元禅師は、かくあるべきである、とも言っている。
0510おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/03(土) 12:54:45.26ID:rjMjL98r
 
>仏道修行のために、仏に成り代わってやっている

最終的に
『仏である』と気づくことができるのなら

>智慧と慈悲の心でもって許して

も良いのかもしれないけど


おじゃるの場合は
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存しているので

それゆえに
やはり
誰もが成仏するわけではない(五性各別)。という感じがするので おじゃります

仮設としての
無明を手放しすることが出来れば良いのかもしれないけど
我癡・我見・我慢・我愛を手放しするのは難しい

ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
0511
垢版 |
2018/11/03(土) 13:09:12.42ID:wTYicxjM
http://gimpo.5ch.net/test/read.cgi/psy/1251941580/563
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】6
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1245923448/243
  〔 『法』の多義性、その定義の範囲 概略 〕 (仮)

「法」( dhamma )
 ┃
 ┣「摂理、理法、自然的因果」( dharma / dharmin ?)
 ┣「理屈、ことわり、論理的整合性」
 ┃
 ┣「おしえ」( sAsana )
 ┃  ├「縁起」
 ┃  ├「四諦」
 ┃  └「種々説かれた個々のおしえ、法門」(八万四千云々)
 ┣「経」
 ┃
 ┣「識の対象(法境)」
 ┣「(根境色の)境」(色声香味触法)
 ┗「一切の(認識可能な)存在、“もの”“こと”」(「名色」「五蘊」「五蘊十二処十八界」)
   └「上記プラス無為法」
      └「上記プラス 認識不能な領域に属する“真理”“真の在り様”“存在を有らしめるものとしての根源”」
         (→後期大乗としての、法界、真如、華厳界、曼荼羅etc.etc.の先にあるもの、
           或いはそれらを支え、成立せしむるもの)

参:
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1251941580/566-567
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1251941580/586
0512
垢版 |
2018/11/03(土) 13:09:55.32ID:wTYicxjM
◆本文◆
566 神も仏も名無しさん 2009/09/09(水) 20:41:27 ID:KFALggyU
>> 563
どうよ
172 名前: 神も仏も名無しさん Mail: 投稿日: 2009/02/03(火) 21:34:50 ID: aY704kGy
>> 169
核心的問いですね。頭のいい方ですね。

法とは「釈尊が再発見し説かれた理法」で十分ではないかというのが現在の私の理解です。
これは石飛道子先生の『ブッダと龍樹の論理学』46頁に依っています。
石飛先生は、天才ですね。仏教の難問を美しく整理して再現しているようです。

>仏教徒が三宝に帰依を表明するときの「法宝」を説明した古くからの定型句も、

定型句とは「法は1.世尊によって善く説かれ、2.自ら見るべく、3.無時的で、
4.来たり見るべく、5.導き、6.識者が各自に覚知すべきものである」でしょうか?

この1.が正に「釈尊が説かれたこと」でしょう。2., 4., 6.は自分で体験する、
3.は行ずれば即時的に結果が出る、5.虚妄ならざる真実に導く教えである。
ということで、1.以外は、全て釈尊が説かれた教えの属性、特性を示しているので、
この定型句は明らかに法とは釈尊の教えであるということで問題ないと思います。
以上に関してはご覧になっていると思いますが、
水野弘元『仏教要語の基礎知識』初版98頁以下で再確認してください。
ブッダゴーサの四分法も「釈尊が説かれたこと」を基本に特性を述べたと考えられるでしょう。
その水野先生の解釈は圧巻です。素晴らしい!
0513
垢版 |
2018/11/03(土) 13:10:57.52ID:wTYicxjM
567 神も仏も名無しさん 2009/09/09(水) 20:42:20 ID:KFALggyU
173 名前: 神も仏も名無しさん Mail: 投稿日: 2009/02/03(火) 21:35:50 ID: aY704kGy
>「縁起を見るものは法を見る」「法を見るものは仏を見る」だの「依法依不人」だの「法燈明」だの、簡単に言いますが、実際はさまざまな場面でその意味内容を使い分けているようです。
上の用例は、「見る」を体験、体得すると考えれば、全て教えと置き換えて問題ないでしょう。
原始仏典で「 x は法である」とは、定型句の1〜6の特性を全て釈尊が認めたということです。
逆に釈尊が人に質問されて「私はそうは説かない」と仰る場合は、1〜6を満たさないので認めない。
つまり、悟り、解脱に導かない体験できない結果のでないので法と認められないことです。
問題は、「一切法」「諸法」という用例です。これはよく諸現象とか物事、万物という
意味に解されますが、原始仏教に限ってはどうも誤解のようです。
では、何か。これも釈尊が縁起を悟ったことで明らかになった様々なことと考えると、
釈尊が悟った時に「諸法顕現せり」と伝承されることも理解できるでしょう。
そしてこの明らかになった様々なこと、つまり悟りの体系は、釈尊の意識内の出来事でしたが、
それを人に説く時に、「一切法」「諸法」などと呼ばれました。
つまり、「一切法」「諸法」は釈尊が悟った体系を、人に説いたもの。
釈尊が悟り、解脱に役にたつと認めたことが、法というわけです。
以上については、村上真完<最初の仏語「諸々の法が明らかになるpatubhavanti dhamma」考>印度學佛教學研究 54に依っています。以下で読めますのでご覧ください。
http://ci.nii.ac.jp/search/servlet/Kensaku
村上先生のこの解釈も素晴らしいものだと思います。
他に「滅法」といった要素、性質と訳される場合も、
滅と「釈尊が説かれたこと」が要素、性質という意味であると考えれば問題ないと思います。
その後、部派仏教時代にたぶん行のために「一切法」をまとめる論書が出現し、
分析探求、論理構築が進んで複雑なアビダルマ体系になったと思います。
このアビダルマを見ると、非常に難解で異説が多いので混乱すると思います。
◆元URL◆
【根本仏教】中観仏教について語ろう【龍樹】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1230059903/172-173
0515おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/03(土) 13:46:46.11ID:rjMjL98r
 
三相(さんそう、ティラッカナ)

無常(anicca アニッチャ)諸行無常
苦(dukkha ドゥッカ)一切皆空, 一切皆苦, 一切皆苦
無我(anatta アナッタ)諸法非我, 諸法無我

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/121352
上座部 パオ・セヤドー

法住智の「法」とは、諸々の行法とその無常・苦・無我の三相の事です
「住」の意味は、「立脚して」;「智」は智慧の事です
故に

法住智は
(般若の智慧と慈悲をもって観照する)
諸々の行法の無常・苦・無我の三相に立脚した観智、という事になります
0516ポッタン師
垢版 |
2018/11/03(土) 14:56:52.43ID:MDjqCn+m
515.般若の智慧と慈悲をもって観照する、か。
それでは忙しいことになる。バカ丸出し、である。
多忙が好きなのかや。大爆笑である。
0517神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/03(土) 18:43:03.74ID:wTYicxjM
>>506
う〜む

全くその通りなので弁明の欠片も持ち合わせないがw、
「宝珠の“一在家化”」を、心の底から残念に想うのでね・・・。
0518神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/03(土) 18:48:45.32ID:wTYicxjM
ああ、
でも、ワシの方は、最初の 決着アートマンスレ からすれば、
かなり 「一代化」 してるかもしれんからな・・・w

他人のことは言えんか・・・。
0519承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/03(土) 18:50:47.04ID:cqmhV8k7
>>517
なるべくしてそうなっちゃったんだから仕方ないよ。(笑)

(^。^)上も下も果てしねぇしな。(笑)
0520承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/03(土) 20:21:35.70ID:cqmhV8k7
>>507
カンジョウは勧請。
勧め請うという意味ですね。
神道では降ろすとか言いますが、密教だとこう言います。
密教では主に修法の最中に行いますが、私はそうした手順を踏まずにときどきこっそりやってました。
密教的には…どうなんだろ?(笑)
昔話とかでそんな記述あったような、それを真似してたんだっけ?

(^。^)まぁ、ネット上の与太話だと思って忘れてくれ。(笑)
0521宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/04(日) 14:02:50.29ID:Z4cTxmvf
>>606
なんかようかい♪
その“妖怪”(の話)が一体、どこからきたのかは知らないが...

私が、これは実在するだろうとして見ているものは、
UMA(未確認動物)の水棲巨大生物、ミゴー、クッシー、オゴポゴ。
巨大猿人類のイエティ、ビッグフット、野人、ヒバゴン。
また吸血鬼は、異食症の一つとしての「血液嗜好症」(ヘマトフィリア)、「吸血病」(ヴァンパイアフィリア)として医学的に確認されている事実。
あと、妖怪に分類されているけれども、是非、セブンに宿泊をお薦めしたいのが童子の霊とされる東北宿の「座敷わらし」だね。
これは現象遭遇率が非常に高いと評判ですから。
その他に可能性として気にしているものは、河童とツチノコ、沖縄諸島の精霊キジムナー。
そして、チュパカブラってとこか...。

まっ、こんな感じですかね。
あとはただの昔話的迷信と信憑性に欠けるものが多いかなぁ〜

>「あれ?ゴウサンゼ明王が見えます」って不思議がってた。(笑)
>本当に見えてんだな、とか思いながら「不思議ですねぇー」とか惚けてた事がありました。(笑)

う〜む。
“秋月慈童の秘儀”>>183とも通じる世界だな...。
ということは、承狂さんは
心霊次元レベルなんぞはとっくにごく当たり前のものとして認知していて、卒業なんだよね?

>>520
ホー、サスガは元、
破門された密教僧の端くれだけのことはあるなw
0522宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/04(日) 14:06:54.91ID:Z4cTxmvf
>>521
訂正:
アンカー>>606は間違い。>>506でした。

>>501
はーい、セブンお疲れさん♪
しっかし、凄い揚げ足取りだらけの長文連投でしたね!!
(これも仏の慈悲の体罰なのか?)

そして、また随分と溜め込んでたようで...
これで少しはスッキリできましたか?

あとで“御礼”しますね。
0523承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/04(日) 17:39:47.96ID:eW8ucm1F
>>521
「心霊次元」なんて有りませんけど。(笑)

(^。^)新痴学さんとは全く違う考えなので、一緒にしないでね。(笑)
0524神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/04(日) 20:55:11.66ID:kNzJPDRf
>>522
謙遜遠慮、慈悲憐みで 「揚げ足」 と申告しただけで、
全て、本音本心老婆心、正確な苦言だからw


だから寧ろ 心地よい疲労 だよ (´ー`)
0525神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/04(日) 22:57:20.11ID:kNzJPDRf
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1533980076/378>>378
> ある男が冒険の旅に出た。洞窟の奥深くで大きな宝箱を発見した。
> しかし鍵がかかっている。鍵は無い。しょうがないので男は宝箱を担いで家に向かった。
> 帰り道、山賊に狙われたり、川で溺れそうになりながら、ようやく家に帰った。
> 専用の工具なんかを使ってその宝箱を開けてみると、中身は空だった。男はズッコケた。
>
> 無我を悟って、有身見が無くなると、その50倍はズッコケます。自分というものは無い、空だった。
> 空の為に今まで何十年も無駄に苦労してきた。なんて馬鹿だったんだ、無知だったんだと気づきます。
> 同時にもう二度と、存在しない自我の為に苦労する事は無いと知って、安心感が芽生えます。
> 自分は無いのだから、死のうが生きようが、焼かれようが刺されようが、どうでもいい事じゃないか、と頭では理解しますが、
> 心にはまだ恐怖、不安、欲、が残っていることに気づきます。まだ修行が残っていることに気づきます。
> 無常、苦、無我をいちおう理解しているので、特に混乱することなく、たんたんと残りの修行を続けます。
0526神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/05(月) 00:55:34.12ID:L0UJT0xC
仏陀と神通力対決したカッサパ長兄って神通力が使えたのだから、対決した時点では仏陀に帰依はしておらずに外教のリーダーであったのに既に阿羅漢果に達していた覚者だったのだろうか?
0527承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/05(月) 01:07:07.13ID:y+hrWr99
>>526
漏尽がないから応供じゃないんです。
仙位と覚位は違うのです。
0528おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/05(月) 10:46:53.20ID:p+4RZfzA
 
承狂師匠
(難しくて意味が、わからなかったけど、とりあえず)
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
  _  _  _

>カッサパ長兄

プーラナ・カッサパ(不蘭那(不蘭)迦葉)
霊魂の不生不滅を説いて
人間はどんな行為をしても善にも悪にならないとして
因縁や業を否定し無道徳を説いた

↓こっちでつね?

優楼頻螺・迦葉(ウルヴェーラ・カッサパ)
ウルヴェーラ・カッサパはこの地の
バラモン出身で、頭に髷を結い、ヴェーダ聖典を読誦し火神を祀る事火外道の師だった
  _  _  _

漏尽通
煩悩が尽きて、今生を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力

解脱智見
般若の智慧と慈悲をもって → 解脱智見を知る

四神足
自在力(神通力)
般若の智慧と慈悲をもって → 依他起性を観照する
0529神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/05(月) 11:25:15.78ID:d+zHH0m9
解脱智見


比丘たちよ、多聞の聖なる声聞がこのようにみるならば、彼はまた、色かたちを厭い、また感受作用を厭い、また識別作用を厭い、また記憶力などの作用を厭い、また判断作用を厭う。
厭うならば欲を離れる、欲を離れたならば解脱する。
解脱したならば、私は解脱したという知識が生じ、
〈生は尽きた、清浄な行にすでに住した、なすべきことをなし終えた、さらなるこのような [輪廻的な生存という]状態はない〉、
と正しく知ることになる。
(宮元啓一著「仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む」春秋社)

またスッタニパータにも

「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
そうして◯◯さんは聖者の一人となった。

という定型句が散見されます。
解脱智恵とはその名の通り輪廻から解脱して次の生はもうない(生は尽きた)と正しく知ることであります。
0530おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/05(月) 13:00:59.12ID:p+4RZfzA
 
ご教示ありがとうございます m(_ _)m

↓これでつね?

スッタニパータ 82

生まれることは尽きた
清らかな行いはすでに完成した
なすべきことをなしおえた
もはや再びこのような生存をうけることはない
https://gakuen.koka.ac.jp/archives/501
http://microsamgha.com/2016/01/21/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%EF%BC%98%EF%BC%92/
0531ポッタン師
垢版 |
2018/11/05(月) 14:31:23.53ID:PBVIglGk
529.530.それは迷信である。バカには理解できない。大爆笑である。
0532神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/05(月) 19:38:09.45ID:QEC8H1MJ
『サンユッタ・ニカーヤ』12.70(PTS Text,Vol.II,pp.119-128)

スシーマ

14 その時、尊者スシーマは、それを聞きました。
すなわち、多くの比丘たちが、尊師の面前で、完全智に達したことを明らかにし、
『滅尽したのは生まれることである。完成したのは清浄行である。為すべきことは為し遂げられて、もはや、この(輪廻の)状態に再び戻ることはない』
とわたしたちは知ります」と述べているのを。

15 そこで、尊者スシーマは、比丘たちに近づきました。
近づいて、かれら比丘たちと挨拶を交わしました。
親しみのある礼儀のこもったことばを交わして、一方の隅に坐りました。

16 一方の隅に座った尊者スシーマは、かれら比丘たちに、こう言いました。
「尊者たちが、尊師の面前で
『滅尽したのは、生まれることである。完成したのは清浄行である。為すべきことは為し遂げられ、もはや、この(輪廻の)状態に再び戻ることはない』
とわたしたちは知ります、と答えているのを聞きましたが、それは、本当ですか」
「本当です、友よ」
http://manikana.la.coocan.jp/canon/susima.html

この後尊者スーシマは解脱した比丘達に「それなら、あなた方尊者は、このように〜が出来るのですか?」
と色々な神通力が使えるのかどうか尋ねるのですが、
その度に比丘達に「いや、友よ、そのようなことはありません」と否定されます。
つまり釈迦の教団では修行して解脱しても神通力を使えるようになるわけではなかったのです。
0533宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/06(火) 02:31:28.35ID:PnO86c9q
>>526
“神通の獲得”=完成者ということではないです。
神智学的には、2.0段階以上のイニシエートから神通を発揮できる者が現れてきます。
仏教でいえば「斯陀含」クラス以上からとなる。

スシーマ経における神通力に関する話のポイントは二つかな。
まず一つは、このスシーマという人物はそもそも神通力が目当てでゴータマの教団に近づいてきた好からぬ人物だということ。
ゴータマは彼の狙いなどはとっくに見抜いており、こういう人物には神通の秘密(獲得方法)は明かすことがないのです。
そして、もう一つは(だからこそ彼には)、解脱には必ずしも神通が必要ということではないことを示すべく、
神通を得ていない解脱者たちの存在を示したということでしょう。
解脱(阿羅漢)には大きく三つの種別があって、
それが「信解脱」(信仰型)、「慧解脱」(理論型)、「倶(分)解脱」(理論+禅定型)です。
実際、三明六通という神通を発揮できるのは、この中の「倶(分)解脱」だけらしい。
なので、阿羅漢だからといっても神通が発揮できるということではない。
それから、たまに見られる勘違いした者の誤読によって、
神通などは在り得ないといった唯物論の肯定に使用するような愚かは止めましょうね。

尚、三明と解脱の関係についてはあくまでもパーリ仏教上の解説であって、
しかし、事実としては、阿羅漢というものは総じて如来の階層よりも一段階、“低い境地”であると、この私は見ています。
これについては私も大乗の見解を支持したいと思います。
如来で神通の発揮できない存在はいない、と。
0534宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/06(火) 02:38:58.28ID:PnO86c9q
容量の使用が激しくなってきているので、
一応、次スレを早々に建てておきました。
尚、この現行スレを使いきってからで皆さま宜しくお願いします。

--佛教論議の伽藍スレ-- 第三巻
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1541436305/l50
0535宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/06(火) 03:53:02.71ID:PnO86c9q
>>523
>「心霊次元」なんて有りませんけど。(笑)

仏教徒というものは総じて無知が多い。
また、仏教用語に無い言葉だと急に“狸と化してすっ呆ける癖”がある。
自動的に、日常用語を仏教的に脳内変換(その逆も然り)できないのなら、一般人とも常識的な対話すらもできないでしょう。
一般社会では、死んだ人間の死後意識を総じて普通に「霊」とか「霊存在」といってる。
これの出現したものが“心霊(存在) ”と呼ばれているのであり、要するに、目撃者は「幽霊を見た!」などとと表現をする。
死後の霊存在そのものには元々、“悪いもの (良くないもの) ”という意味はないが、
一般人が目撃遭遇するものは必然的に良くないものが殆どとなる(状態の良い霊存在は次元が高くなるために遭遇しない)。
浄化(昇華)されてない霊は一般的に「不成仏霊(未成仏霊)」といわれる。
また彷徨っている状況は浮遊霊、自殺や他殺の場合にはその場所に留まるために地縛霊と呼ばれる。
これらの霊存在についての認識のことを、わたしは---心霊次元---と称したまでのこと。
この心霊次元程度はとっくに理解して、ごく当たり前のものとして認めているのかな? 
ということをあなたに確認したまでです。
尚、仏教においては詳細解説はなく、単に悪しき状態の霊状態のことを「餓鬼(preta)」と称しています。
目撃した幽霊とは、つまり、仏教の説く餓鬼存在なのだと理解すればいい。

>新痴学

可哀想に字も分からないらしいがw、
「神智学」では幽霊のことは“カーマローカ”という。
霊存在としては、「アストラル想念形態」、そして、生存者の状態においては「アストラル体」と呼んでいる。
0536宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/06(火) 03:56:15.53ID:PnO86c9q
資料:
『 2)餓鬼(preta)
Pretaという語は元来は「死者・死人・亡霊」の意味であつて, 生前の悪業のために色々な醜い姿となって, 閻魔(Yama )大王の世界に生まれ,
飢渇に苦しんでいる亡者を指した。したがって, Preta は地獄の苦しみの一つのようなもので, 地獄と餓鬼との区別はもともとあまり明瞭では
なかったのであるが, 後には「餓鬼道」として, 地獄とは別の一世界と見なされ, その種類や状態なども詳細に説かれるに至った。』
(外薗 幸一著『業報輪廻の倫理観(六道輪廻説を中心として)』)
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181106030728.pdf?id=ART0007405593

【◆餓鬼道に落ちた者たちが繰り広げる51の物語◆
『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などと同等の経典として大事に伝えられてきた初期仏教経典『餓鬼事経』を、解説付きの現代語訳で読む!
◆餓鬼たちが述べる ◆
◆悪因苦果と善因楽果の因果応報を ◆
◆幽霊のお話として説き聞かせながら、◆
◆人びとに正しい道を指し示す物語! ◆
 『餓鬼事経』は、ペータ(peta 死者・餓鬼)を共通のテーマとして、全部で51の偈経というか物語を編纂したお経集です。物語の多くは、前世
で悪業をなして餓鬼界に生まれた者(いわゆる幽霊)が人間の前に姿を現わして(不思議なことに、『餓鬼事経』に登場する人間たちは餓鬼を見ても
怖がりません)、自分が前世でおこなった悪業と今受けている苦果を述べ、悪因苦果の因果応報を自ら証明します。ときには、自分が受けている苦
しみから救ってほしくて、人間に功徳廻向を頼みます。その場合は人間も心得たもので、たとえばお布施をして、その功徳を餓鬼に廻向して救っ
てあげます。(「はじめに」より) 】
(藤本 晃著『初期仏教経典 現代語訳と解説―餓鬼事経―死者たちの物語』サンガ刊)
0538宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/06(火) 19:22:35.95ID:PnO86c9q
>>533
追記:

要するに、この『スシーマ経』というのは、
解脱(悟り)には特に神通は不要であって、神通を持たない阿羅漢がいることを知りなさい。
その上で、あなたが求めているものは悟りなのか? それとも神通なのか?
もしも、神通目的ならばここは向いてないから立ち去りなさい。
ということを問うているのではないかな...。
というのが、この私の感想です。

>>537
いや〜〜
これはメチャメチャにウケた!!(爆)

>幽霊はいますか?
>>いますよ

承狂さんとは違って、
「それってナニよ?」とか、「そんなものある筈がない」などではなくて、
「いますよ」の“即答(了承) ”だからな! W

日常会話(一般用語)でそのまま自動変換だしね。
そして、この方はなんとキャバクラ通って欲情しまくりだしなぁ(笑)
ところで、「キャバクラ」って仏教用語だとなんというのかな?
また、パーリ語ではどうでしょうか?
0539承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/06(火) 20:36:07.55ID:PLzrCYjV
(^。^)まぁ、確かに俺が宝珠さんを肯定することは絶対ないよ。(笑)
0540承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/06(火) 23:19:34.47ID:PGNgn6XE
>>377
に対するのが>>380だとちょっぴり足りなかったんで。今ごろで悪いけど。(笑)

例えば全て仮想世界上で起きた情報をあたかも身体からの情報として直接脳にぶちこむ、
つまりやがて実現するだろう完全なバーチャルゲーム体験だと、
その中で初めて家事を修得したら現実には全く使えないままか?
そんなことはないだろうってのが大方の予想だよな。
攻殻なんてのはそんな漫画だったが、そうした方向で国家も企業も動いてる。
しかしその攻殻でも「ゴースト」と呼ばれるものは複製出来ない、とされていた。たぶん。(笑)
水槽の脳に戻るが、外部情報を完全再現したなら、その脳には現実だし、
比較対象を知らなければドット絵でもリアルでしかない。

一方で、心臓移植で人格が変わる、つまり脳に与えられずに心臓の違いで意識が変わるなんてこともある。
これは医学でもまだよく解ってないので、頭部移植なんかしちゃったんだろうが、
まだ不確定要素が他にもある。
憑き物なんてのは、まぁパーマンとかは笑うんだろうが、(笑)
俺には外部から何かがとりついたとしか考えられないし、その想定で対処してきたわけよ。

従って、学習出来る内容なら、それこそフロッピー化出来るが、(笑)
魂とか、ゴーストとか、悟りとか、愛(笑)なんてものは単なる情報ではないと考えてる訳だ。(笑)

(^。^)くっさ。(笑)
うわー、くっさ。(笑)
0541承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/07(水) 06:08:47.45ID:uKj0m4XE
>>540
これを仏教っぽく書くと。(笑)

色受想行これ即ち識を元とす。
識無くば受くることなく、想うことなく、行ずることなし。
もって色もあることを知ることなし。
七氏曰く受無くば想なしと。
これ非なり。
念念従心起念念不離心とは、受によりての想に非ず、只識に依りたり。
識に依りての行も同じ。
色無くとも識に依りての受もこれあり。
無きものを見ること嗅ぐこと聞くこと味わうこと感じたること能ずとは言えず。
経に曰く空中無色とは、正に相依性なるが故に一々の別なしと説きたもうか。
但しこれ所詮凡夫が私記なり。具には各々師に又は己が心に問うべし。

ってなトコカ?(笑)

(^。^)いみじくも>>538で宝珠さんが書いた通り、仏教とは求菩提のために凡て説かれているんだから、
霊がどうの、霊界がどうの魂がどうのなんて道から外れた話はどうでも良いんだけど、(笑)
今の坊主も現代教育のせいで偏ってるからなぁ。(笑)
普く供養、とか書いてても俺以下の世代だと現代科学の知識をベースにするから、「ハイハイ、喩乙」になっちゃうだろ。(笑)
俺より上だと、まだウッスラ親から教えられてるけど。(笑)
0542神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/07(水) 07:36:42.32ID:xE2lM5Fx
雑阿含経 「好戦経」

このように私は聞きました。
ある時仏は、王舎城のカランダ竹園にとどまっておられました。

その時に、十大弟子の一人であり、神通第一の聖者と呼ばれたモッガラーナ尊者とロクシュナ比丘が二人で托鉢に出掛けました。
 
托鉢をしている最中に、ある路上にて、モッガラーナ尊者が意味深長な微笑を浮かべました。
そこで、ロクシュナ比丘は問いました。
「今なぜ、微笑されたのですか?」
モッガラーナ尊者は答えました。
「今は托鉢中なので、帰ってから、仏陀の御前でお話しましょう。」

托鉢を終え、帰ってきて、仏陀にご挨拶をし、二人は仏陀の御前に座りました。
ロクシュナ比丘が先ほどのことを問いただしました。
「モッガラーナ尊者よ。
 あなたは、先ほど、私と托鉢中に、意味深長に微笑されました。
 なぜ、あの時に、あなたは意味深長に微笑されたのですか?」

モッガラーナ尊者は答えました。
「私はあの時、路上にて、一人の大きな男が空中に浮遊するのを見ました。
 皮がなく、肉団子のようになったそのものは、ふわふわと空中を歩いて行きました。
 カラス、トビ、クマタカ、ワシ、ヤカン、イヌなどの霊界のものがその男にまとわりつき、噛みついてその肉を食らい、その男は、あまりの苦痛から、声を出して泣き叫んでいました。
 私はその光景を見て思ったのです。
 なるほど、こういう人間は、こういう身体になって、こういう苦しみを味わうという報いを受けるのだな。
 そうだったのか・・・
 そう思って、私は思わず微笑したのです。」
0543神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/07(水) 07:37:24.78ID:xE2lM5Fx
仏は、諸々の弟子たちに向かっておっしゃいました。
「よろしい。
 さて、皆さん、仏道を修行し、真実を観る目を養い、智慧を会得した者は、この様な霊を見るのです。
 仏もまた、この様な霊を見るのですが、人々にその存在を説くことはありません。
 なぜならば、そのことを説いた時に信じない者が出るからです。
 如来の説く内容を信じない者は、智慧のない者であり、その業によって、地獄に落ちてしまうため、その者たちが地獄に落ちぬように、信じられないことを私は説きません。
 皆さん。モッガラーナの見た霊は、過去世の時、この王舎城において戦争を好んで楽しみ、多くの人々を刀剣にて傷つけました。
 すでに、数千年もの間、地獄に落ちて、無量の苦しみを受け、地獄の余罪によって、今は、この世界にて、霊体の身を得るも、続いてこのような苦を受けるのです。
 皆さん。モッガラーナの見たことは、真実にして間違いはありません。
 まさに、この事実を受けて心に刻んで下さい。」


仏がこの教えを説き終えた時、諸々の弟子たちは、今聴いた教えを深くかみしめ、歓喜して、その後の修行に活かしました。
0544承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/07(水) 08:33:43.93ID:D+wCOuSO
こういう人は
「釈尊は脇腹から産まれて直ぐに七歩歩いて、その足跡からは蓮華が咲いて天上天下唯我独尊と言った」
というのも「経典にあるから」そのまま信じてるんだよな?(笑)

(^。^)釈尊は人類ではなかったと。(笑)
0545神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/07(水) 11:25:25.84ID:xE2lM5Fx
>>544
 仏もまた、この様な霊を見るのですが、人々にその存在を説くことはありません。
 なぜならば、そのことを説いた時に信じない者が出るからです。
 如来の説く内容を信じない者は、智慧のない者であり、その業によって、地獄に落ちてしまうため、その者たちが地獄に落ちぬように、信じられないことを私は説きません。
0546神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/07(水) 14:01:26.75ID:LWQUa5zq
>>540
言わんとするところは分かるが、(つか、あの時も分かってはいたがw)
そういう 「完コピ(及びその「実行、実動」)」 が、そもそ「ヒトという生物」で可能か?
ということ。
(攻殻はともかくw)、たとえ、入力が完全に遂行されたとしても、
それが【実際に出力される(行動として顕れる)】とき、コピー元と全く同じ行動(動き・)となるだろうか。
これは、「最終的に筋肉を動かしてゆく神経系(伝達)の話」と、
まさに、活動する「筋肉(の動き)そのもの」にかかわる所だけれど、
その仮想話では、そうした出力(運動)の側面でも言えるのかな? と。
 *(たとえばお相撲さんの股割りとかwも、入力さえ完全に為されれば、
   誰一人の例外なく、(同じ角度で)大開脚できるだろうか?)
0548おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/07(水) 14:49:57.78ID:o4oB01L1
 
> 空中に浮遊するのを見ました
> 皮がなく、肉団子のようになったそのものは、ふわふわと空中を…

ID:xE2lM5Fx師匠
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
  _  _  _

> (^。^)釈尊は人類ではなかったと。(笑)
https://en-park.net/words/7441
仏教の開祖は釈迦であり、この世ではじめて悟りを開いた人物ですが
大日如来はその釈迦をも創りだした創造主…

なので
大日如来からの → 宇宙
  ↓
承狂師匠という感じで おじゃりますな?
  _  _  _

入力を完全に為されたとしても
(無明に依存しているのなら)
(同じ角度で)大開脚できるだろうか?

さとりに達するための修行の障害(覆)がある
我癡・我見・我慢・我愛
有覆無記(うぶくむき)で おじゃりますな?
0549パーピマン
垢版 |
2018/11/07(水) 15:12:18.32ID:ASA1MBe4
>憑き物なんてのは、まぁパーマンとかは笑うんだろうが、(笑) ・・・

どわっはっはっはっはっは〜〜〜〜〜
0550承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/07(水) 17:15:22.43ID:D+wCOuSO
>>546
完全な再現性なんて生物に求めんなよ。(笑)
爺になって昔みたいなことが出来なくなっても同じ個人だろ。(笑)
クローン群の個体間で同一情報を共有しててもその後の学習や身体機能の変化で解釈は変わるだろうし。
じゃあ個人とは何か、意識とは何かになるが、
釈尊はそうした問題は十四無記で関わるなと言われてる訳だ。(笑)

まあ、個人的には、股割を入力されたら「出来て当然」と思って実行して股関節脱臼靭帯断裂とかすると思います。(笑) 

(^。^)お前らも歳を取れば、昔は出来たのに、とか思うんだよ。(笑)

>>548
だから、密教は大日如来所説だと。(笑)

>>549
密教は大日如来所説なんだよ。(笑)

(^。^)んなこたぁないか。(笑)
0551神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/07(水) 20:03:33.07ID:LWQUa5zq
>>550
だから、(心技体じゃないがw)
身体含めた「行」なしに悟りはあるのか? という問いに戻るじゃないかw

勿論、 「悟り」が、「知識のみのこと」 であるなら、
遠い将来、(浦沢直樹プルートゥのゲジヒト等じゃないがw)

 『頭にSDカード差し込めばみんなブッダ』

な時代が来るかもしれんけど。
0552承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/07(水) 21:11:45.29ID:D+wCOuSO
>>551
いや。(笑)
悟りが単なる情報群なら、「コピー機も写経し続けたら悟るってこと」になると思うが。(笑)
縁覚ってあるとされてるんだから在るんでしょう。(笑)
現に釈尊はそうだったんだし。
その覚りが、単なる人格の最上位か、原理主義者の言うような超人なのか、もっと別の何かなのか。(笑)
それは個々の信仰心の問題でしかないんだから、実際がどうだったのかなんて個々には関係ないし。(笑)

(^。^)俺的には、釈尊云々より大日さんがどうなんかが最優先だし。(笑)
0553ポッタン師
垢版 |
2018/11/07(水) 22:09:12.95ID:7MBph4b4
552.551.悟り、はコピーできる。バカには理解できない。大爆笑である。
0554神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/07(水) 22:28:31.04ID:LWQUa5zq
それは、図書館の蔵書と変わらない。
人間がいなくても悟りが存在するとか。大爆笑である。  >>553


>>552
いや、だから、そうじゃなくて、
(つか、元ネタの番組見てからレスしてくれ。論点や、話の起点はそこじゃないから。)
いわゆる ≪身に付く≫ という事象が、仏道を『歩む』上で、不要なのかどうか、ということなんだけど。
もっと言えば、 「修行する必要はない」 と言ってしまっていいのか? ということ。


んと今回は、全く噛み合ってないんだなw
0555神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/07(水) 22:29:57.65ID:LWQUa5zq
ああ、
八正道も、八つも要らないという話になっちまうわけでね・・・。
0556承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/08(木) 00:36:05.46ID:52C75f97
>>554
えー?
全く違う仏教観で討論するって趣旨じゃないの?(笑)

(^。^)そこからやるのも良いけど、以前やった時は咬まなかったのに。(笑)

えー、AIやってる連中とかのはハードウェアにソフト入れたら演算出来る。だから、その延長線上にAI出来ますってもの。
何度となく書いてきたがオカルト側から言わせれば、これはナンセンス。
>>541でも触れたように、三界虚仮但是一心作で色受想行は識有っての話で、この識には色界などと同様に意識界が物理的な存在ではないが、実在すると認識した方が府に落ちるわけよ。
まぁ、無色界とか有頂天とかの話はないと思うが。有頂天の大自在こそがキリスト教の禍津八十(以下略)
で、ハードでソフトが演算してるって世界観じゃなく、(ゴウンの前4つが仮設の識を、ではなく)
ハードでソフトを意識が演算してるってのがゴウンの世界観だと俺は考えてる訳だ。(前4つを仮設の意識がー)
例えば気功は「情報の交信」ではなく、気が交わる事で情報が構築されてる、とね。
だから、水槽の脳にデータを入力出来と某かの意識が生じるなんて事はなく、
データが入力出来るなら、そこに既に何らかの意識がある、となる。
覚り云々も同じで、データで意識が変わるのではなく、意識がデータで確証を得ているだけ、
これが、自性清浄とか光明とか如来蔵とかの話だと考えてる。
この、最適化にも様々な段階があって、羅漢果とか如来位になると。

(^。^)この前提の違いを黙ったまま、ウダウダ議論を重ねるのが皆好きなんじゃないの?(笑)
0557承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/08(木) 01:27:22.85ID:52C75f97
1個大事な事を忘れてた。
何度も書いてるが、あくまで私見だからな。(笑)
伝統的な解釈は違うかも知れん、というかこの辺は各自で悟ることで、こういう事かくのは駄目なのかもしれん。
経典でも意識界とかさらっと流してるからな。
てか、書いてること知っただけだとどうしてもバイアス掛かるから、(俺が違うかもってのは大前提だが。)正確には伝わらんし。(笑)

(^。^)て訳で特におじゃるさん、俺が書いた事は全文忘れて下さい。(笑)
0558宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/08(木) 03:53:38.35ID:09Qd9jio
>>544
あのね...味噌も糞も一緒にしなさんな!
それらの単なる神格化による迷信と、事実としての現象(心霊、神通、奇跡など)は賢く識別しましょうね。
この私は、糞で創られた味噌汁は飲まないから。
たかが心霊程度レベルも理解できないようでは、御山(高野山)を降ろされても当然でしょうね。
そんな唯物論もどきじゃ〜密教僧の資格なし。キャバクラ通い僧よりも劣るとはとてもザンネン...。
あなたには、東北の座敷童のお宿をお薦めします!!

とにかくこの私は、
宗門はすべての唯物主義者を“排除すべき”だと強く主張します。

 『NK.(vol.T p.050, 南伝28 p.107);(夢の中で)菩薩は白色の優れた象となって……母〔妃の臥する〕臥榻の周りを、
右の方へ三たび繞り、〔母妃の〕右脇を開いてその胎に入られたようであった。斯うして菩薩は、阿沙陀祭最後の日に
(uttarAsALha-nakkhattena)、母胎に宿られたのである。』
 『MV.(vol.U p.020,JonesU  p.018);菩薩の母は普通の女性のように横になったり座ったりして出産せず、立ったまま
で出産する。菩薩は母の右脇から何らの害を与えることなく生まれ出る。』
http://www.sakya-muni.jp/monograph/03/3-1/0506.html
0559宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/11/08(木) 03:54:12.35ID:09Qd9jio
 これらの仏伝によれば、(六本のキバを持つ)白象が右脇腹から入る霊夢を見て懐妊して、その右脇腹から出生したとされます。
これは要するに、処女懐胎ということを謳っているわけですよ。このようなもので良く知られて有名な話としてはキリスト教の
イエスです。それは、天使ガブリエルから処女懐胎の告知を受けた聖母マリアが至潔の処女のままイエスを出産したというもの。
 処女懐胎の信仰というものは、処女性の持つ汚れ無き神聖なイメージと結びつけたものに過ぎない神格化であって、この手法
は何もイエスやブッダに限ったものではありません。
 インドの聖英クリシュナはデバキという貞淑な処女から産まれた。ペルシャのゾロアスター(ゴータマよりも170年ほど前の
ゾロアスターはイエス同様、誕生以前から数々の奇跡現象によって予言者たちによって未来の 誕生が知られていた)や王キュ
ロスもそうであり、またタイや中国にも処女出産の聖者がいる。エジプト神話のホルス神が処女神イシスから産まれたというの
も同じことです。
 また、ブッダの話の“右脇腹”に拘る理由が、もしもあるとすれば、インドの一般世間においては身体の左側は不浄の概念を
持っているからではなかろうかと推察します。

 “天上天下唯我独尊”というのは、弟子たちが仏陀という存在はこの世で最も尊いものだと説いていたものが、後に、ブッダ
自らがそう誇示したという神格化となったものでしょう。“産まれて直ぐに七歩歩いた”というのも神格化でしょうね。これらは
別に不可能であるとかと、絶対に在り得ないものという意味ではなくて、後代の弟子たちによる神格化なのだろうということ。
0560宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/08(木) 03:57:08.85ID:09Qd9jio
>>542-543>>545
『好戦経』の提示に感謝です!!
そうそう。如来の教えを否定して信じない者が可哀想なことになるから、
普段は説かないようにしているというところが重要なのですよね。

>>555
「八正道」というのは修行法なのではなくて、
実際には、完成者としての“結果”のことではないのか?
と、以前から思うことが、この私にはある...。
0561おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/08(木) 06:46:14.91ID:encZZt0b
 
> 例えば気功は「情報の交信」ではなく、気が交わる事で情報が構築されてる、とね
> だから、水槽の脳にデータを入力出来と某かの意識が生じるなんて事はなく
> データが入力出来るなら、そこに既に何らかの意識がある、となる
> 覚り云々も同じで、データで意識が変わるのではなく、意識がデータで確証を得ているだけ
> これが、自性清浄とか光明とか如来蔵とかの話だと考えてる
> この、最適化にも様々な段階があって、羅漢果とか如来位になると
> (^。^)この前提の違いを黙ったまま、ウダウダ議論を重ねるのが皆好きなんじゃないの?(笑)

> そこに既に何らかの意識がある

たとえば
そこに既に
大日如来からの → (仮設としての)色受想行識の仮和合がある

仏そのもの
仏性からの真如縁起

↑こんな感じかしらん?
  _  _  _

> おじゃるさん、俺が書いた事は全文忘れて下さい。(笑)

おじゃるは
脳に障害があるので
記憶力は、かなり悪いので おじゃります m(_ _)m
0562おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/08(木) 07:24:50.60ID:encZZt0b
 
> 「八正道」というのは…“結果”

たとえば
(中国経由の)日本の禅宗系とかの場合は

そもそも仏法というものは円満に全てのものにゆきわたっており
修行したり、悟り証したりすることもないはずである

(仏性からの真如縁起)を前提として
http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正

この坐禅中の心構えを一口にいうならば
坐禅の姿を
骨組と筋肉でねらい

> 身体含めた「行」をもって
「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません
  _  _  _

自性清浄の光り輝いている(仏そのもの)前提かもしれない

菩提分法
四神足
般若の智慧と慈悲をもって → (仮設としての)思惟観察する
0563承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/08(木) 21:56:28.31ID:rvQv4Czt
>>561
ちゃいます。(笑)
大日如来からの、ではなく、大日如来の中の一部が様々に縁起しての、我々などの様々な在り方なんです。
キリスト教の神とは全く違う話です。
っていうと、「この宇宙が大日如来ソノモノ」とか即物的な安直な考えする人がハゲでも居ますが、

宇宙が密教を説く訳ないよな?(威圧)

(^。^)仏から縁起とか訳が判らん。(笑)
なんなん、真如縁起て。(笑)
0564宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/09(金) 02:21:58.60ID:jEDWOvYk
>>541
> (^。^)いみじくも>>538で宝珠さんが書いた通り、仏教とは求菩提のために凡て説かれているんだから、
>霊がどうの、霊界がどうの魂がどうのなんて道から外れた話はどうでも良いんだけど、(笑)

確かに、パーリ仏教においては、
神通がなくても阿羅漢足り得るということ。
つまり、悟り(完成=阿羅漢)のためには神通は直接的な関係ではない、と。

しかし、そのことは良いとしても、
“霊存在”についての理解というのはどうでも良いということではない。
これも我々には肉体が在ることと同様の認識で以て、その存在を認めていく必要性がある。
何故ならば、餓鬼道に堕ちている精霊は自業自得とはいえ苦しみもがいている哀れな存在であり、
また、その苦悩の余波と悪しき波動が周囲の人間たち(遺族子孫や自縛している場所にいる人間など)にその悪影響を及ばすからです。
これを一般に“霊障(霊障害) ”といっているのです。これは放置していて良いというものではなくて、
手を差し伸べて早期に事態を救済していく必要性があるのだということ。
だから、仏教では“餓鬼救済(施餓鬼) ”について口酸っぱく説いているのです。
よって、この問題を無視して僧侶(仏教徒)足り得る筈がない。

そのことに比べれば、
「魂」存在については知らなくても特に不具合はないかも知れない...。
肝心なことは、前世〜来世へと継承される“転生”(業報輪廻)について理解されていれば問題ない。
0565神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/09(金) 07:42:06.68ID:Llg8KnXR
【京都】「お寺、仏教はこういうものである」 ダンスミュージックあわせ合掌、お坊さんバンドも 知恩院が攻めのPR 仏教離れ防げるか ・
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1541500370/
0566承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/09(金) 13:15:57.53ID:LKuHLLQI
>>564
鉄道オタクがJR 職員にアドバイスしても大抵はトンチンカンな内容にしかならない。
二千五百年の歴史ある組織に、社会的信用は殆どない同好会を独学してるだけの人のアドバイスが有効だと、
なぜそう思えるのが本当に不思議でなりません。
それとも、実際に霊的な相談などにのっているんですか?
払ったことが一度でもある?
そうは思えんがなぁ。(笑)

(^。^)なんでもそうだが、虚構と実際は別物ですよ。(笑)
0567おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/09(金) 13:40:17.38ID:vArm9XpG
 
承狂元密教は

> 実際に霊的な相談などにのっていた

(成仏供養、護摩法?をしてた)んですよね?

その時の、お話しを、ご教示願います m(_ _)m

下ヨシ子の娘 下昇恵の場合の成仏法?↓
https://www.youtube.com/watch?v=xe1ri54cigQ

↑ヤラセ、仕込み、合成動画かもしれないけど、とりあえず
0568おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/09(金) 17:13:59.80ID:vArm9XpG
 
↓実際に現場に逝って撮影してる人達?

avex Movie Gift
https://www.youtube.com/watch?v=o2DVX8kNYb8

竹書房ホラーチャンネル
https://www.youtube.com/watch?v=Y3bz3WOBzWI

BukatsuONE
https://www.youtube.com/watch?v=0ZH8qEhyG0Y

ゾゾゾ
https://www.youtube.com/watch?v=0kNJjpyU4yw

北の打ち師達
https://www.youtube.com/watch?v=-6C8D3rsAK8

deathtopia1000
https://www.youtube.com/watch?v=pyVSb6VzoeQ

T.Uチャンネル
https://www.youtube.com/watch?v=clqhXV1Sslc

稲川淳二「四国巡礼・恐怖の現場」〜本当にあった‘死国’88霊場
http://pics.dmm.com/mono/movie/n_610mnpr172r/n_610mnpr172rpl.jpg
0569承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/09(金) 18:21:47.04ID:LKuHLLQI
>>567
俺は拝み屋さんで、祓うのを手伝ってただけで、

実際に相談に乗ったことはありません。(笑)

おじゃるさんが考えてるようなマンガみたいなのは全くなく、
端から見たら単なるオマジナイ、儀式でしかありませんから。(笑)
やってる本人としても俺みたいに見えない人は変な疲れかたする儀式でしかありません。(笑)
気が判るとオゾマシさとかも判るけど、見えてる人みたいな恐怖はない。(笑)
ヘドロに腕突っ込むみたいな気持ち悪さと言えば伝わるかな?(笑)

(^。^)色んな人が色んな流派で色んな事をやってるけど、何が本当かは判らん、というか全部間違ってるような気がして辞めました。(笑)
0570神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/10(土) 09:16:59.96ID:lRgYISui
小部経典「 餓鬼事経 」


舎衛城に コーサラ国王の 二人の王子がいました 。 
どちらも ハンサムで若く、しかし それに溺れ、他人の妻たちと 不倫したりしていました 。
彼らは、亡くなると 城外の堀で 餓鬼 ( 幽霊 ) に生まれ、夜な夜な 恐ろしげな声で呻いていました 。
人々は その声を聞いて気味が悪くなり、仏 ( ブッダ ) を上首とする比丘サンガに 大いなる お布施をして、
「 このように お布施をしたら、この 薄気味悪い兆しも和らぐでしょう 。」
と 考え、世尊に事情を打ち明けました 。        

世尊は それをお聞きになって、
「 信者たちよ、これは 危険なものではありません 。」
と、以下の偈で その原因を説き明かされ、さらに説法なさいました 。

「 ヒマラヤ山脈に接する 舎衛城という都市がある 。
そこに、王の息子であった 二人の少年がいたと 私は聞いている 。
誘惑して、五感を満足させる喜びを 見つけることだけに心奪われ、彼らは この世の快楽だけを渇望して、来世のことに注意を払わなかった 。
そして 人界から堕ち、悪い境涯に生まれて、彼らは今、見えないけれど、彼らが 過去世で ( 人間であったとき ) 犯した 悪行を嘆いているのだ 。
『 たくさんのものが 目の前にあり、功徳を積む準備は できていたのに、私たちは 自分に幸せをもたらす善業を、ホンの少しも しなかった 。
これよりも 悪いことがあろうか 。          
私たちは 王家から滑り落ち、飢えと 渇きに苦しむ 餓鬼に生まれたのだ 。』 と 。
0571神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/10(土) 09:17:23.26ID:lRgYISui
この世界で ずっと支配者であったのちに、あちらでは もはや支配できない 。
飢えと渇きに さいなまれながら、ただ うろつくだけである 。
人間の中で 最上の地位を誇った者たちが、今や 最低のところにいる 。
権力に溺れることに起因する不利益が結果を出して終わったとき、そして もはや権力に溺れることを捨てたとき、その者は天に赴く 。」

人 「 餓鬼 ( 幽霊 ) たちは、人間もそうですが、善行為を しなかったので、苦しみに 陥っているように見えます 。
天人たちのように、人間も幸福になれる境涯なのだから、あとで 幸福を経験できる ( 善 ) 行為をするべきです 。」

ブッダ 「 この世において 善をなし、亡き者たちの為に供養をし、勝 ( すぐ ) れた おこないをした後、施主は 天界に赴く 。」
0572承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/10(土) 18:27:42.26ID:cyFFlTkr
しゃべくりだったか?以前モンゴル出身の横綱がテレビで
ジュース飲む前とか指で数滴供養してから飲むって言ってたな。

(^。^)供養はマジで大事だぞ。(笑)
0573おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/10(土) 18:46:39.91ID:MaxQr/QP
 
無明に依存して
我癡・我見・我慢・我愛に依存して
遍計所執性に依存して

誰もが成仏するわけではない(五性各別)なので、それゆえに

> 善行為をしなかった(できなかった)ので、苦しみに 陥っている

という感じで おじゃりますな?
  _  _  _

> (^。^)供養はマジで大事だぞ。(笑)

いつも、ご教示ありがとうございます m(_ _)m

↓拝火教(ゾロアスター)由来の?

4K 高野山 真言密教護摩焚き
https://www.youtube.com/watch?v=9JsHo1XGm10

↑成仏供養法ではないかもしれないけど、とりあえず
0574承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/10(土) 23:02:53.62ID:UWRpVuS0
供養は大事。
なんだが、じゃあ何をどうすれば供養か?
貧者の一灯という言葉があるわな。
密教の法だと、一粒一滴で雲海と為して普く供養する、なんて観想もある。
要は誠、誠意が天に通じるということ。
先に「身体感覚器官のフィードバック無しに経験は得られるか」と問いに「当然」と答えたが、これもまた同じっちゃあ同じ話で、
極論すれば、だが、正しき意志があるなら、それだけで供養足りうるし覚位に至れる。
至誠があるならそれだけでも供養だろ。
諸尊とはそうしたものだと思う。
じゃあ具体的にはどうなんだって問いには、
そんなもんお前が考えろ、としか言えんわな。(笑)
マニュアル化が出来ないから、言語不可得だしな。(笑)
無尽だから八万四千で、諸尊も無尽なんだろって話。
しかし、こんなん考えながらバカカルトみたいな腐った魂の相手とか、まぁ、無理ゲーだとしか俺には思えない。(笑)


(^。^)だから、経典コピペとかもだが、俺は何か間違ってるんだろう。(笑)
0575神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/10(土) 23:08:37.98ID:lRgYISui
小部経典 7.ティロークッタ・スッタ(戸外経)

1.〔餓鬼たちは〕諸々の壁の外に止住する――さらには、諸々の十字路や丁字路に。
〔餓鬼たちは〕諸々の門の両脇に止住する――自らの家屋に帰り来て。

2.沢山の食べ物や飲み物が、固形の食料や軟らかい食料が、〔施食として〕奉仕されたとき、誰も、それら〔の餓鬼たち〕のことを思い浮かべない。
〔それらの〕有情たち(餓鬼たち)には、〔そのような〕行為の縁(業縁)あるがゆえに。

3.彼ら(施者たち)が、慈しみある者たちとして〔世に〕有るなら、このように、〔彼らは〕施す――〔過去の〕親族たち(餓鬼たち)のために、清らかで精妙なる飲み物と食料を、適確なる時に。

4.〔すなわち〕「これは、まさに、〔過去の〕親族たちのためと成れ。〔過去の〕親族たちは、安楽の者たちと成れ」〔と〕。
しかして、それら〔の餓鬼たち〕は、そこにおいて、集いあつまって〔そののち〕、 集いあつまった〔過去の〕親族たる餓鬼たちは――  

5.沢山の食べ物や飲み物にたいし、恭しく随喜する。
〔すなわち〕「わたしたちの親族たち(施者たち)は、長きにわたり生きよ。彼らを因として、〔わたしたちは、安楽を〕得るのだ。  

6.しかして、わたしたちのために、供養は為された。しかして、施者たちは、果なき者たちにあらず」〔と〕。
なぜなら、そこにおいて、耕作は存在せず、ここにおいて、牧畜は見い出されず――

7.商売やそのようなものは存在せず、金による売買は〔存在せず〕、ここから施されたものによって〔身を〕保ち行くからである――命を終えた餓鬼たちは、そこにおいて。
0576神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/10(土) 23:09:50.57ID:lRgYISui
8.たとえば、高きに雨降った水が、低きへと転じ行くように、まさしく、このように、ここから施されたものは、餓鬼たちのために役立つ。

9.たとえば、諸々の水流が満ち溢れ、海洋を遍く満たすように、まさしく、このように、ここから施されたものは、餓鬼たちのために役立つ。

10.〔すなわち〕「わたしのために、〔あの人は〕施した。わたしのために、〔あの人は〕為した―― わたしの、親族として、朋友たちとして、しかして、友人たちとして」〔と〕、
過去に為されたことを随念しながら、餓鬼たちのために、施物を施すがよい。

11.まさに、あるいは、泣くことも、あるいは、憂いも、さらには、すなわち、他の、嘆き悲しむことも、それは、餓鬼たちの義(利益)のためならず。
このように、〔過去の〕親族たちは、〔虚しく〕止住する〔だけのこと〕(泣き悲しむことは無意味である)。

12.しかしながら、まさに、この施物 が、〔僧団に〕施され、僧団において善く確立されたなら、長夜にわたり、その〔餓鬼の衆〕の利益のためとなり、即座に役立つ。

13.しかして、それが、親族の法(教え)であり、これが、〔ここに〕実示された。
しかして、餓鬼たちのために、盛大なる供養が為された。さらには、比丘たちのために、活力となるものが奉施された。
あなたたちによって、少なからざる功徳が求め作られたのだ。ということで――  

 〔以上が〕ティロークッタ・スッタとなる。

正田 大観. 小部経典 第一巻 (パーリ語原文付)〜正田大観 翻訳集 ブッダの福音〜
0577神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/10(土) 23:11:14.06ID:lRgYISui
10.〔すなわち〕「わたしのために、〔あの人は〕施した。わたしのために、〔あの人は〕為した―― わたしの、親族として、朋友たちとして、しかして、友人たちとして」〔と〕、
過去に為されたことを随念しながら、餓鬼たちのために、施物を施すがよい。

11.まさに、あるいは、泣くことも、あるいは、憂いも、さらには、すなわち、他の、嘆き悲しむことも、それは、餓鬼たちの義(利益)のためならず。
このように、〔過去の〕親族たちは、〔虚しく〕止住する〔だけのこと〕(泣き悲しむことは無意味である)。

12.しかしながら、まさに、この施物 が、〔僧団に〕施され、僧団において善く確立されたなら、長夜にわたり、その〔餓鬼の衆〕の利益のためとなり、即座に役立つ。
0578神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/11(日) 13:42:30.68ID:3jydHGtv
>>560 >完成者としての“結果”のことでは

面白い視点だが―言わんとするニュアンスもよく解るがw―、
「具体的に何をしたらいいのか」という「方向性」「方法論」「事例」無しに”道”はなかろうて。
また、それこそ「何でもあり」でしょう。
確かに結果かもしれないが、同時に、(子供の成長・教育じゃないが)
 「【何を・どこを】(【どう】)伸ばせばよいのか」 という向上のための指針でもあるわけで。

仮に、「色々選択肢はある」、と言い得たとしても、
ブッダがお示しになった方法論(方向性)を採っているもの(それを提示しているもの)を、
「仏教」(・・・ブッダサーサナ)と呼び、その途の上にある者を「比丘」(釈子、仏弟子)と呼ぶのではなかろうかいね・・。
0579神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/11(日) 13:58:19.12ID:Av17DBDs
徒然草 第百六段

高野の証空上人、京へ上りけるに、細道にて、馬に乗りたる女の、行きあひたりけるが、口曳きける男、あしく曳きて、聖の馬を堀へ落してンげり。

 聖、いと腹悪くとがめて、
「こは希有の狼藉かな。四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼に劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。
かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入けいれさする、未曾有の悪行なり」と言はれければ、
口曳きの男、「いかに仰せらるゝやらん、えこそ聞き知らね」と言ふに、
上人、なほいきまきて、「何と言ふぞ、非修非学の男」とあらゝかに言ひて、極まりなき放言しつと思ひける気色にて、馬ひき返して逃げられにけり。

 尊かりけるいさかひなるべし。
https://tsurezuregusa.com/106dan/
0580おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/11(日) 15:17:02.89ID:AKBvjPt8
 
色々な師匠の方々へ

ご教示ありがとうございます m(_ _)m

大変勉強になります おじゃる
  _  _  _

魂を前提として
現実世界と同じ
仮想空間を構築する。というアニメ
 ↓
ソードアート・オンライン
https://anitubu.com/archives/post-16091.html
http://anicobin.ldblog.jp/archives/cat_1148483.html
http://ponpokonwes.blog.jp/archives/cat_131609.html
  _  _  _

ルシファー(Lucifer)は
本当に
極悪非道な悪魔・堕天使なのか?というアニメ
 ↓
アニメ モンスターストライク公式
https://www.youtube.com/watch?v=ZLZN-x3QVm8
https://www.youtube.com/channel/UCWzenZSy9GJBcPzdSm-UX5w/videos
  _  _  _

無明に依存しているのなら
善悪の判断をすることなく見ることができるのだろうか?

みたいな感じ?
0582神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/11(日) 19:31:56.84ID:3jydHGtv
>>579
それは、どの方向性での問題提起?

 ・僧侶(比丘)の資質の話?
   (→それを踏まえた上でのコスプレ批判?)
 ・仏弟子たる必須スキルの吟味?
 ・自称仏弟子への批判?
 ・出家←→在家の区分批判?
 ・在家(→比丘でない・僧侶でない・釈子でない者)でも仏弟子足り得るという声明?
   (出家でも、仏弟子足り得ないという批判?)
 ・日本は、そうした分類が適用できない、異質な文化、社会、気質の地域だという提示?


  (´・ω・`)
0583神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/11(日) 20:55:02.76ID:Lk2bsY1i
>>582
>>579のリンク先の現代語訳を見るに身分とか位にこだわって僧侶にあるまじき癇癪起こした高野山の上人への冷やかしではないでしょうか?
0585神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/11(日) 22:27:09.22ID:3jydHGtv
>>583

579が、そのタイミング(578の16分後)にレスされたことに、
何らかの意図があるんじゃないか?と。
0586神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/12(月) 02:12:58.74ID:5w3KS1dA
いや、比丘という言葉に反応しただけw
徒然草に見られるように日本にも比丘や比丘尼や優婆塞、優婆塞という言葉はあったのに何故一般に普及しなかったのだろうか?
0587おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/12(月) 06:39:13.63ID:1VphaJif
 
> 比丘や比丘尼や優婆塞

たとえば
南伝の場合は
四向四果
預流   − 須陀洹(しゅだおん)
一来   − 斯陀含(しだごん)
不還   − 阿那含(あなごん)
阿羅漢 − 応供(おうぐ)
  _  _  _

北伝の場合は
…衆生皆菩薩
衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性がある
一切悉有仏性(いっさいしつうぶっしょう)などの如来蔵思想や…

たとえば
大乗の場合は
優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)とか
比丘(びく)・比丘尼(びくに)など
「それ以外の衆生と分別するな!」

「一切悉有仏性だ!」みたいな感じ?
0588神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/12(月) 11:17:00.20ID:qkePaESp
>>586
それも面白い研究テーマw

まあ、(比丘尼はともかく)「比丘」という呼称は、
―今現在もそうだけど―内々の(自負のような)自称としては使用されても、
昔から、一般には使われていないようだし。
日本に入ってきた時点で既に、(サンガという組織が無い状態として)「僧(尼僧)」一択に近かったのかも。
しかも、女子も少ないから、自然的に「特別な存在」として「比丘尼」という呼称は使用された、と。
また、在家信者に至っては、「信者、信徒」といった
『積極的信仰を持ち』或いは『その規範に則って生きる』ような人物は、鎌倉地代以降までは存在しなったろうし、
鎌倉地代以降であっても、「ウバソク(ウバイ)」という音写語を使ってまで、
わざわざ差別化して信仰や庇護者・施与者であることを強調する必要もなかったろうし。
寧ろ、神仏の加護を祈願するだけの、大衆、マスでしかないだろうし。
(で、檀家制度も、実は、その「顔の無い大衆性」の上に乗っかってるんだろうし。今でも。)

だから、日本に於いては、仏教伝来以来ずtっと、「一般人」と「僧」(僧侶)という二分だけで十分だったのでしょう。
0589神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/12(月) 11:45:21.20ID:7ZuHO3L4
正法眼蔵で一切衆生悉有仏性をしつこく解説していた道元は同書で比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷という言葉もけっこう使ってるね。

でも道元は阿含経も読んでたけど本命は法華経だったから、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷よりもより好んで用いた用語は善男子、善女子かな?
居士も使ってたと思う。

比丘というと具足戒を受けた仏弟子のイメージがあるのかもしれない!?
0590宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/12(月) 13:51:51.22ID:j3R5qwjN
>>540
>一方で、心臓移植で人格が変わる、
>つまり脳に与えられずに心臓の違いで意識が変わるなんてこともある。

臓器移植(や輸血)については、
肉体が持つカルマを混乱させるため基本的には望ましくありません。
なので、臓器移植ではなくて“人工臓器(及び人工血液)の開発”が急務なのです。
〜するのが、神智学の採る立場です。
つまり、細胞の一つ一つにまで個人の情報データ(意識を含む)が刻まれているとということかな...。
だから、他人の肉体細胞を取り込むのは止めるべきです。
(もちろん、それはエホバのように輸血否定までして死を選択するというものではない)

たとえば、
植物にも感情(意識)があるらしいということは、
すでに何十年も以前から科学実験によって確認されています。
今日、一部農家では野菜果物の成長を促進する音楽を聞かせるところや、
観葉植物にも優しく声を掛けていると良いともされています。
ならば、その感覚器官は植物の中のどこにあるのか?
植物の生体の一体どこに脳ミソや脳神経組織ニューロンがあるというのか?
だから〜こうしてみると、意識そのものというのは脳ミソでも脳神経組織などでもないのだということが理解されるのです。
脳ミソも神経組織もそんなものはただの“意識”の道具にしか過ぎないのだから。

全国には、巨木を切り倒して呪われたという話は多く、
また、今日では癒しのパワーを受けるということで、御神木や巨木に抱き着くことがブーム。
インドにおいても樹下は生命の宿る神聖な場所とされ、ゴータマを含めて過去仏は特定の樹下(菩提樹下)において成仏したという。

情報:
(植物にも感情がある! それはまるで人間のようだ)
 https://matome.(NGワードにて「ネバー」を変換して).jp/odai/2147522773530177101
0591宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/12(月) 13:54:34.68ID:j3R5qwjN
>>578
>「具体的に何をしたらいいのか」という「方向性」「方法論」「事例」無しに”道”はなかろうて。
>また、それこそ「何でもあり」でしょう。

“「方向性」「方法論」「事例」無し”で良いという話ではなく、
ゴータマの説いた成仏法が『三十七菩提分法』であるとしてみた場合には、
この中の「八正道」は、もちろん道を歩む上での必要な精神態度であることは当然としても、
どちらかということ、これは完成者が示し得る精神性の状態
---つまり結果---的な意味合いが強いのではないか? ということ。
例えば、“八正道の「正見」(正しい見解)”といった場合に、
我々は物事について正しい見解を持てないからこそ苦悩しているのであって、
最初から正しい見解が持てていれば何も苦悩していない...。
つまり、正しい見解というものは完成者の状態のことなのであって、
我々というのは、そうなれることを目指して修行していくんだという意味です。

なので、
具体的な修業についての手法部分というのは、その他の“六科”
(菩提分法というのは全部で“七科”あって、八正道はその中の一つである)
において説かれているということかな? と。
しかし、内容の意味合い的にはかなり重複しているので、
実際上においては八正道の他というのは二科程度なのでしょうかね...。
----------------------------------------------------------------------------
【三十七菩提分法】

1. 四念住(四念処)
   身念処、受念処、心念処、法念処
2. 四正断(四正勤)
   断断、律儀断、随護断、修断
3. 四神足(四如意足)
   欲神足(欲如意足)、精進神足(精進如意足・進如意足)、
   心神足(心如意足・念如意足)、観神足(観如意足・思惟如意足・慧如意足)
4. 五根
   信根、精進根、念根、定根、慧根
5. 五信
   信力、精進力、念力、定力、慧力  
6. 七覚支
   念覚支、択法覚支、精進覚支、喜覚支、軽安覚支、定覚支、捨覚支
7. 八正道
   正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定
0592おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/12(月) 13:58:00.60ID:1VphaJif
 
> 日本に於いては、仏教伝来以来ずっと…

やはり
「南伝と北伝は違う!」
という感じで おじゃりますな?
  _  _  _

> 正法眼蔵で一切衆生悉有仏性をしつこく解説していた
> 道元は同書で比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷という言葉もけっこう使ってる
> 道元は阿含経も読んでたけど本命は法華経だった
> 比丘というと具足戒を受けた仏弟子のイメージがあるのかも

大変勉強になります

ご教示ありがとうございます

生きとし生けるものに悟りの光が現れますように

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
0593おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/12(月) 14:12:47.73ID:1VphaJif
 
> 完成者が示し得る精神性の状態

たとえば
無明に依存している、おじゃるが観察するのか?

あるいは
無明に依存することのない
般若の智慧と慈悲として(おじゃるが?)観察するのか?

自在力(神通力)
四神足
智慧をもって → 思惟観察する
  _  _  _

円成実性を見ずして
(無明に依存して)依他起性を見ることはできない

という感じで おじゃりますな?
0594承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/12(月) 20:07:41.42ID:KYl51Clt
>>587
ナンデンはよく知らんけど、
基本的に原始仏教➡説一切有部などの諸派➡大乗又は上座
という流れなので、
ビクビクニウバソクウバイって言葉は上座も大乗も同じく使うはずですよ。
四向四果は、アラカン以下の覚悟の段階なので、ビクビクニウバソクウバイとは別の話。
ビクビクニは男女の出家者で、ウバソクウバイは在家の仏教徒のことだから。
昔は役のウバソクなんて呼んでましたんで、仏教周辺では使ってて、現在は廃れただけです。
たしか日本領域(変換出来ない)とかの古典でもウバソクとか出てたはずですよ。
0595おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/12(月) 20:52:12.87ID:1VphaJif
 
> 昔は役のウバソクなんて呼んでましたんで、仏教周辺では使ってて、現在は廃れただけです

そうだったんでつね?
知りませんでした
さすが元密教僧で おじゃりますな?

いつも
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
0596おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/12(月) 20:59:23.05ID:1VphaJif
 
> 日本領域(変換出来ない)

日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)?

日本霊異記?

成立年ははっきりしないが、序と本文の記述から、弘仁13年 (822年) とする説がある
著者は奈良右京の薬師寺の僧、景戒である
景戒は
下の巻三十八の自叙伝において妻子とともに俗世で暮らしていたと記しており
国家の許しを得ない私度僧に好意的で
自身も若い頃は私度僧であったが後に薬師寺の官僧になったという
0597承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/12(月) 21:02:13.75ID:KYl51Clt
>>596
そう、その「日本リョウイキ」です。

(^。^)変換面倒くさかったです。すんまそん。(笑)
0598神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/12(月) 23:11:34.54ID:5w3KS1dA
セブン氏はセブン比丘と尊称すればいいの?
それともセブン和尚?
セブン尊者?
セブン長老?
セブン上人?
セブン禅師?
0599おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/11/12(月) 23:43:18.34ID:1VphaJif
 
曹洞宗の場合は
道元禅師

臨済宗の場合は
江戸時代に白隠禅師

禅宗系なら せぶん禅師匠みたいな感じ?
0600神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/13(火) 00:55:28.88ID:YFrOfFX5
正しく生きる道は一つしかない
 〜微笑みが絶えない八正道〜

 「幸福になりたければ、死後永遠の天国に行きたければ、唯一の神を信じなさい」と言われると、そんなものがいるか否かも調べることなく信じるのです。
「罪を悔い改めなさい」と言われると、罪を犯した覚えが全くないにもかかわらず、また、「私は何の罪を犯したのか?」と相手に訊くこともなく、涙と鼻水を垂らしながら懺悔して、犯したといわれる、わけもわからない罪を悔い改めるのです。
「唯一の神を朝晩、または一日五回褒めたたえなさい」と言われると、真剣にやるのです。
「全知全能の神なのに、毎日讃えたり、祈りをしたりしないとダメなのですか? 神は認知症ですか?」とは問わないのです。
地理的にガンジス河の源流はどこかと皆知っているにもかかわらず、「神の髪の毛からその河が始まる」と真面目に信じているのです。
ひどく汚染されているその河に日の出前に飛び込めば、すべての罪が洗い流されて心が浄化して幸福になると信じるのです。
罪とは、汗と埃のことなのでしょうか。罪とは、怒り憎しみなどではないでしょうか。
馬鹿を信じる者にとって、そんな疑問はどうでもいいのです。
河で、また洗礼することで、心の罪が洗い流せるのであれば、人間どもは必死で魚やカエルや水蛇、カメなどを礼拝したり、拝んだりした方が理にかなっているでしょう。
なぜならば水の中で生まれて生きていて、水の中で死ぬから、その生命の心の清らかさは言葉で言い表せないほど高いはずです。
「南無妙法蓮華経」という宇宙大曼荼羅の呪文を唱えれば、商売繁盛、家内安全、学業成就、無病息災、ではなく、世界支配までできると思っている方々は、決して、ふざけているわけではないのです。
真剣真面目なのです。
しかし結果は、皆に煙たがれる、家庭は崩壊する、試験は落第する、お医者さんの腕がなければ病気で死ぬことです。
http://www.j-theravada.net/howa/howa160.html
0601神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/13(火) 01:01:16.33ID:YFrOfFX5
空に足跡なし
 〜現象に対する無執着は解脱です〜

概念の並べ替えで、面白い新しい概念、新しい思考が現れたと思いがちですが、必ずしもそうはなりません。
実在もしない、理屈にもならない、概念思考などはいくらでも作れます。
思考の、妄想の遊びをする人は、やがて自分が考えたことが本当にあると勘違いするのです。
永遠の天国、永遠の地獄、永遠の魂、絶対的唯一の神などの概念は、妄想と戯れた結果なのです。
このような概念は、道の重さを考えて出した答えのようなものです。答えを出しても、その答えが成り立たないのです。

 インドの宗教家、哲学家たちがおおいに議論した十種類の項目がありました。

  一、魂と身体は別々なものか
  二、魂と身体は同一か
  三、世間は有限か
  四、世間は無限か
  五、世間は永遠か
  六、世間は永遠ではないか
  七、真理に達した人は死後存在するのか
  八、真理に達した人は死後存在しないのか
  九、真理に達した人は存在すると同時に存在しないのか
  十、真理に達した人は存在することも存在しないこともないのか。

 この十問に、お釈迦さまは回答しませんでした。これらは実在しない概念の空回りだからです。
ウサギの角について、「長いですか? 短いですか?」とさまざまな議論をするようなものです。
仏教の立場は、長いか短いか答えることではないのです。まず、ウサギの角が実在するかしないのか、質問者の方で立証しなくてはならないのです。
魂と身体が同一か異なるかと答える前に、「魂の存在」を立証しなくてはならないのです。
人間は幻覚を作って、この幻覚が実在すると勘違いして、それからその幻覚について語ったり、対話したりします。
それは時間の無駄。どこにも進まないのです。
様々な幻覚を生み出す親玉は、「私がいる」という幻覚です。
仏教を実践する人は、まずその幻覚を破り、悟りの第一段階に達するのです。
その人には、この世で現れる全ての疑問に回答があります。だから、悟った人に「疑」はないのです。
0602神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/13(火) 01:05:10.40ID:YFrOfFX5
>>601続き

 ヒンドゥ教の哲学では、我々の現象の世界は幻覚(mâyâ)であると語る場合があります。修行でこの幻覚を破ることを勧めているのです。
真理は一つであって、その真理に達すること(梵我一如)を最終目的にしていますが、決して解脱ではないのです。
個我が消えて、真我に達することなのです。これも何かの境地に執着することです。解脱にはなりません。
大乗仏教で語る「法身」も似かよった考えです。真理という絶対的境地を設定して、そこから現象の世界のありさまを説明する。
このような思考には、一つ弱点があります。不二である真理から現象の世界が現れたならば、現象である個が幻覚を破って真理に達しても、その真理は限りなく現象の世界を作り続けているでしょう。
ここで、反論する必要さえもないのです。
全て、人間の頭の中で考える概念に過ぎません。妄想概念の次元を破る方法を語っているのは、ブッダだけなのです。
0603神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/13(火) 01:05:45.52ID:YFrOfFX5
>>602続き

  Sankhârâ sassatâ natthi. 現象には常住、永遠、実体、といえるものはありません。一切は因縁により一時的に現れる現象なのです。
因縁の働きを発見して、一切の現象に対する執着を捨てることを語っているのは、ブッダだけです。
ですから、仏教以外、現状では解脱の道を語る宗教はありません。
ヒンドゥ教などで語っている真理の境地は、「現象の世界の裏」なのです。一つである真理の裏と表の考えなのです。
仏教の涅槃は、現象の世界の裏ではありません。「無常の裏に、無常でない涅槃がある」と言わないのです。
「涅槃の境地」と、「仏教以外、解脱に達する道はない」ということは、我々の理解能力の範囲を超えているのです。
ですから、今月の説明はとてもわかりにくいと思います。苦労して理解しようとしても、その理解も知識の一つになるので、現象でありパパンチャなのです。実践して経験する以外、涅槃について語れないのです。
大般涅槃経でお釈迦さまがこのように語ります。
「涅槃に達するためには、四聖諦を体験しなくてはならない。その四聖諦を語っているのは、仏教だけです。解脱に達するために八正道を実践しなくてはいけない。これも、語っているのは仏教だけです。
だから、第一の覚者も、第二の覚者も、第三の覚者も、第四の覚者も、仏教にしか現れないのです」と。
http://www.j-theravada.net/howa/howa148.html
0604神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/14(水) 09:15:01.15ID:2GPUxO30
宮崎哲弥氏は
>無霊魂説、無我説が究極の真理であるならば
>「輪廻転生が存在しない」のは理の当然である
『新世紀の美徳』(朝日新聞社)
と主張し彼が信奉する中観仏教正系帰謬論証派では輪廻を否定しているとしています。

逆に、宮崎さんは『憂国の方程式』(PHP)において唯識思想を
批判してこう書いておられます。

>唯識とは、まさしく、仏教のヒンドゥー教への融解のはじまり、 仏教解体の端緒となった「反動思想」である。
>阿頼耶識を個我の根本識、対象世界の諸法の根本因と看做すこの説は、無我説の意義を薄め、中観の空思想と鋭く対立した。
>仏教の認識論的 革命性に耐え得なくなった知的怠惰がインドの土着宗教、 神秘思想への回帰を促したのである。
>(中略)かかる仏教観が三島自身のものであったとしたら、彼の仏教理解は極めて浅薄なものであったと断ぜざるを得ない。(P130〜P131)
0605おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/14(水) 09:23:28.30ID:qw6OAnj8
 
パパンチャ?ということで、とりあえず

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi131.html

六つの感覚器官(眼耳鼻舌身意)に、外部の情報(色声香味触法)が触れると
それぞれの器官に認識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)が生じ
そこから感受と知るという働きが生まれるのです

知るという働きの後には、ヴィタッカが生まれます
ヴィタッカは漢訳で「尋」、意味は「考える」です
じっくり考えるのではなく、瞬間的に考えることです
この瞬間的に考えることをヴィタッカと言います

妄想を作る働き
ヴィタッカは「花」とか「人」とか「建物」などと瞬間的に考えることですが
その後に、欲や怒り、憎しみ、悲しみ、後悔
嫉妬などのさまざまな感情が湧き起こってきて、頭の中でごちゃごちゃ考え始めるのです
これをパーリ語で「パパンチャ」と言います
パパンチャは訳しにくい言葉ですが、「現象」とか「妄想」という言葉が一番適切で、理解しやすいでしょう
実際には無いものを有ると考えて、実体化、固定化することです
  _  _  _

縁起している世界の中において
(空性に依存しないものは)存在しないにも関わらず
(空性に依存しないものが)有ると思う虚妄の執著である。遍計所執性

無明に依存して
無いものを有ると考えて、実体化、固定化して
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
アートマンである。という『想い』が、現れ、変化して、滅している
0606おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/14(水) 09:49:30.16ID:qw6OAnj8
 
> 輪廻を否定している

http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
渇愛(タンハー)

無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛が絡み合って、無始なる過去から(輪廻を繰り返し)終わりなく苦しみをつくり出しています
客観的に自分を観ることによって、無明と渇愛を消していきましょう、というのがお釈迦さまの教えなのです

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている。無明薫習

http://www.kisc.meiji.ac.jp/~hirukawa/anthropology/theme/otherworld/samsara.htm
シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有

http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
曹洞宗 内山興正
「霊魂はある」「いま貴方がたたかっている相手がそれなのだ」といわねばなりません
「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいます
仏教では昔からのインド人の信仰であった輪廻転生説を受け入れ,そのまま説いているわけです
  _  _  _

↓唯識系の瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は

http://reigaku.jugem.jp/?eid=424

我愛と戯論と善悪業により輪廻を繰り返す
0607神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/14(水) 12:22:09.17ID:2GPUxO30
「宮崎『ただ、アートマンがないとすると、輪廻の主体や自業自得の法則の当体とは一体何か。仏教はこの問題を抱え込んでしまった。』」(p.218)
 佐々木氏は要素をアビダルマ的に捉えていて
「その要素が集合したり雲散霧消したりする現象のことを無我と言い表しているだけで、それらの要素を集合させるエネルギーが輪廻して来世に伝わっていくと考えることに違和感はない。」と言う。
0608神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/14(水) 12:22:53.69ID:2GPUxO30
しかし、龍樹の中観派はその要素の実在性を否定するのだから、そうした関係の束でしかない以上自業自得の原則も成り立たないと、宮崎氏は言う。
「無我輪廻説というのは、無我と矛盾するどころか、無我だからこそ輪廻があるとする説です。
・・・主体、当体『この私』などと仮設されたものは実体的でも固定的でもなく、この一刹那も留まらず変化し続けている。縁起し続けている。昨日の自分は今日の自分と同一でない。
しかし完全に異なってもいない。この流動は誕生も死も関わりなく、ライフタイムを超えてずっと続く。こうして輪廻が成り立つのだとする。」
だから同一性のある主体がないなら、
「自業他得でも他業自得でもかまわないじゃないか、という話になってしまいます。無我輪廻説だと、おそらくかまわないのではないかと思われます。持続しているものはあるが、無我なのでそれに自も他もない、ということですから。」(p.219)
とそんなふうに宮崎氏は述べる。

(ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』佐々木閑×宮崎哲弥 もう一度リセットして仏教を考えてみたい人に)
0609神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/14(水) 14:15:23.06ID:s9bspVLK
>>607
佐々木が言ってる要素を集合させるエネルギーが仏教では行とか業と呼ばれるもの
行(業)によって識が形成され識が母胎に入ることによって名色は成長する
0610神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/14(水) 14:17:38.75ID:s9bspVLK
>>604
いくら中観が空思想だからといって輪廻までは否定していない
龍樹も無明に捉われたものは輪廻すると述べている
0611神も仏も名無しさん
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2018/11/14(水) 14:39:08.56ID:h3BhhFtK
で、今度は
「サンサーラ」の語義解釈の問題になる、とw

三世に跨る暴流(繰り返し)か、今生で自覚される暴流(繰り返し)か。
0612神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/14(水) 14:40:52.68ID:s9bspVLK
 ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。
 龍樹も、同じように、十二支縁起を、識(意識)を中心とするこの世からかの世への生死の流転として説明するのである。
具体的には、第二六章の最初に「無知(無明)に覆われたものは、形成力(行)によって再生に向かう三通りの行為をなすが、それらによって、趣(来世に住するところ)に赴くのである」と述べて、
次に「形成力(行)を縁として、意識(識)は、趣に入る」と説明している。
http://manikana.la.coocan.jp/essay/reincarnation3.html
0613おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/11/14(水) 14:59:11.55ID:qw6OAnj8
 
おじゃるは(「仮設としての」という意味として)輪廻肯定だけど、とりあえず

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
輪廻 - サンサーラ

仏教内における輪廻思想の否定
ブッダの教説は
輪廻の存在を認めるものなのか、否定するものなのかという議論は
現在も、少なくとも日本の仏教学会では続いている
現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「ブッダは輪廻を否定した」という主張が少なくない

松尾宣昭によれば、「輪廻の否定」には、ブッダが
(1)「そもそも輪廻は存在しない、と考えた」という見解と
(2)「人は輪廻に留まるべきではない、と考えた」という見解があり
両方とも輪廻を否定しているものの、その意味内容は全く異なるとする

(1')「ブッダは輪廻の存在を否定していたが、当時の人々が輪廻の観念に縛られていたため、仮に是認した」だからこそ
(2')「輪廻という想念に留まるべきではないと説いた」として意味を読みかえる場合に、両立する

このような立場を支持する記述はパーリ聖典には見出されず
「修業未完成者は死後輪廻する、ゆえに修行を完成させて輪廻から解脱せよ」
という趣旨の「輪廻は存在しない」という説とは反対の言葉が多く見出されると述べる

一方で
パーリ聖典の「決定的資料性」を否定し
ある種の「仏教の本質(涅槃?)」を想定することで
そこから帰結的に輪廻否定(涅槃?)が導出されるとする立場もあるとする

↑『涅槃は輪廻ではない!』みたいな感じ?
06141/5
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2018/11/14(水) 15:13:55.66ID:h3BhhFtK
【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】6
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/300

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/305
305 神も仏も名無しさん sage 2009/01/19(月) 12:43:38 ID:gozG82uQ
>> 279
だからそれは漢訳などの伝統に従っているだけで、
(「輪廻」「来世」「前業」などは全て漢訳。我々は、未だに日本語やパーリ語でもサンスクリット語でもなく、
定義の不明な第三外国語(中国語)を滑稽にも使用して議論している)
本当の意味は「世界」「世の中」という程度の意味なんですよ。そういうメタファー・修辞表現なんです。
メタファーを物理的事実と混同することが間違いの元です。

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/306
306 神も仏も名無しさん sage 2009/01/19(月) 12:48:30 ID:gozG82uQ
>> 300
そのチャプチャプと音を立てて流れること、この「流れること」がサムサーラで、漢訳すると「輪廻」という言葉なんだな。
(オカルト的な)生まれ変わりという概念とは関係ない。

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/309
309 神も仏も名無しさん sage 2009/01/19(月) 13:17:54 ID:gozG82uQ
サムサーラ→輪廻→生まれ変わり と訳した後で、逆にサムサーラの意味が生まれ変わりであると誤解することは、
culture→文化 と訳した後でcultureの意味は、文に化けることなんだ、と分けの分からないことを言い出すようなもので、ギャグとしても低レベル。

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/312
312 神も仏も名無しさん 2009/01/19(月) 13:34:47 ID:gozG82uQ
>> 310
私の理解は、中村氏の>>225の解釈と相違ありません。
語源は「流れること」「走り回ること」という意味で、「生まれ変わり」という意味はありません。

>南方上座部でも世間といった意味で用いられている、ということでしょうか?
そんなに単純なことではありません。彼らも魂の生まれ変わりとは考えていないが、
心のエネルギーが次々と生滅していく現象と考えているようです。  〜後略〜
06152/5
垢版 |
2018/11/14(水) 15:16:04.86ID:h3BhhFtK
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/367
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/368
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/369

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/380
380 神も仏も名無しさん sage 2009/01/19(月) 23:09:05 ID:gozG82uQ
>> 369
>『PTS』1.『モニエル』『アプテ』3. が語釈として出しているTransmigrationは輪廻転生に他なりません。
一体何をやっているのか・・・循環論的な混乱に陥ってないかい??
英語でも、transmigrationの第一義の意味は「移動」であって、輪廻転生は後付け。
samsara「流れること、流転すること」にtransmigration「移動」という訳語を当てたので、漢訳
の「輪廻」と合わせてsamsara=transmigration=輪廻となっているのであって、
samsaraを英語辞書で確認してtransmigrationだから輪廻転生などというのは、
本末転倒、というか、何の説明にもなっていない。詳しい情報を書いてくれることはありがたいけど。
ともかく、transmigrationは「移動」であり(生まれ変わりという意味はない).『モニエル』『アプテ』も
samsaraは第一義は”going or wandering through ” ” Course, passage.”であって、
単に「流れること」であることは明らか。「生まれ変わり」というのは後付の派生的なものでしかない。
しかも誤訳から逆算して原義に組み入れてしまった可能性が高い。
生死についても、仏典では頻繁にメタファーとして使われていて、本当に「生きる」「死ぬ」で使われている
例は少ない。正確に訳す場合は「死の境地」「死の境涯」「死のようなものである」と訳している。
だから「生死と訳された言葉がサムサーラで〜」というのも、何の説明にもなってない。
06163/5
垢版 |
2018/11/14(水) 15:16:41.09ID:h3BhhFtK
>辻先生の『ウパニシャッド』でも原先生等の『インド思想史』でも輪廻は生まれ変わり死に変わりの経巡りを意味しています。逆に「生まれ変わりという概念とは関係ない」という説は誰が言ってるのでしょうか?
そりゃ「ウパニシャッド」ではそうですよ。ウパニシャッドの時代頃からサムサーラに「生まれ変わり」の意を(派生的に)もたせるようになったのだから。
言葉の意味というのは、時代背景・文化背景・文献によって違うのは当然なんですよ。「ウパニシャッド」ではこういう意味だからといって、仏典でも
同じ意味で使われていると思ったら間違い。
だから、枠組みを無視して「生まれ変わりという概念とは関係ない」と言っているわけではない。
むしろ、釈尊自身が「生まれ変わり」を説いた、と主張している(まともな)学者なんているんでしょうかね?
◆2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/397
397 神も仏も名無しさん 2009/01/20(火) 01:16:56 ID:/Asf4Tge
参考までに、米国で最も広く使われているWebster's New World College Dictionary
の第4版(1999)におけるSamsaraの定義は、次のとおり。

「(Hinduism) the continuing cycle in which the same soul is repeatedly reborn」
1.Hinduismにおける用語となっている。古い辞書では、Hinduism & Buddhissm
となっているものや、両者で意味を使い分けているものもある。
2.「生まれ変わり」に相当する「reincarnation」という言葉は使われていない。
3.語源は、「共に、流れる」の意味。
新しい辞書では、「ヒンドゥー教の用語」としているものが多いのが、意味が
あるね。「仏教の用語」とは解していないということ。
現代では、「魂(精神、思考・感情)は肉体の死と共に消滅すると解するのが
一般だから、この語は、現代では意味を持ち得ないことになる。
◆3
06174/5
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2018/11/14(水) 15:17:16.51ID:h3BhhFtK
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/446
446 初代スレ7 sage 2009/01/20(火) 18:19:44 ID:HI7fFWH9
>> 397
《西洋的な(西洋における)「生まれ変わり(→)」という概念とは違う》
ということなんでしょうね。
(これは、「転生」や「生まれ変わり」という概念とも違うことを示唆しますが・・・。)
 ※そのWebなんちゃらでは“reincarnation”は、どう解説されてるんでしょう?
   また、それってアメリカ人の一般的(≒大衆的)理解と見ていいんでしょうか。
   てか、意外に安いなw 買っとくか・・・。

破壊と創造が繰り返されるインド思想に於いて『次の生を受ける』ということは、
『現代日本や、そうした西洋的生まれ変わり(→過去のあらゆるもの(様々なもの)を引き継いだ生)』
ではないのだろう。
ここに於いて【業果の相続(≒行為の報い)(のみ)】を前面に押し出した点に、
仏教の特異性があったのかもしれない。
「次の生を受けるに際し、何を引き継ぐのか?」が重要なのかもしれない。

勿論この時、「次の生」とは(宗教学的に言う“再生”“宗教的再適応”という意味での)
「新たな、心の在り様の誕生」を意味する、と読む(解釈する)ことも可能だろう。
(それがブッダの本意であったかどうかは別にして。)そう、まさにアングリマーラのように・・・。
 〜後略〜

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/469
469 神も仏も名無しさん 2009/01/20(火) 22:45:04 ID:XZ40Vvs+
>> 446
"Reincarnation"の定義は、次のとおり。

"rebirth of the soul in another body, as in Hindu belief".
また、「ヒンドゥー教の概念」と言っているw。英米人にとっては、
「生まれ変わり」とは、どうやら「ヒンドゥー教」と関連させるのが、一般の理解のようですね。
 〜後略〜
06185/5
垢版 |
2018/11/14(水) 15:17:41.07ID:h3BhhFtK
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/473
473 初代スレ7 sage 2009/01/20(火) 23:31:13 ID:HI7fFWH9
>> 469  感謝。
別の肉体への「ソウル」の再生(再び生まれる)、か・・・。
>> 363に見るように、(そして意味的にも)、確かに「再」と訳さざるを得ない側面はあるのだが、
個人的感想を言えば、
「仏教における輪廻の中の“再生”」は、【ニュアンス的には】「新生」だと思うんだよな・・・。
この流れで英語を使うなら“new-birth”とか“neo-birth”とかwww
その意味で、(ソウル云々は別問題としても)reincarnationと英訳したら座りが悪いな。rebirthも。
何度も何度も繰り返す輪廻の(中にあるという)ニュアンスも伝わらないし・・・。
けど、“re-”には「あらためて」というニュアンスもあるようだし、まあいいか・・。
日本語訳としてもこなれてないし・・・。(無難な所で「次の生」って感じ?)

ちなみに、PTSのpunaの項の用例中で(puna自体はagain。)
punabbhava は、『renewed existence、new birth』 に、
puna-abhinibbatti は、『birth in a new existence』 になってるなw
まんざら妄想でもないかも?w

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/476
476 神も仏も名無しさん 2009/01/20(火) 23:40:56 ID:woNxlAcR
>> 473
最近の英訳では transmigration ではなく cyclic existence などと訳されます。

483 神も仏も名無しさん 2009/01/21(水) 00:02:36 ID:XvY8VkXi
>> 476
それはsamsaraの訳の話?流を見失った・・・
”transmigration”は原語のニュアンスを伝えているが、
"cyclic existence "にはそれがないので、 「ヒンドゥ」の思想としても
”cyclic existence” と訳すことには反対。
0620おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/11/14(水) 15:27:56.28ID:qw6OAnj8
 
スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
激流を克服して(輪廻を超えて)
すでに渡りおわり、彼岸に到着している(輪廻から解脱してる)
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
  _  _  _

5ちゃんねる掲示板で
書き込みをしてた禅宗系の
たとえば
机師匠とかは↓こんな感じだったような気がする

道元 普勧坐禅儀
そもそも仏法というものは円満に全てのものにゆきわたっており

仏法 = 涅槃 = 元々すでに渡りおわり、彼岸に到着している

それゆえに
修行したり、悟り証したりすることもないはずである
  _  _  _

真如、自性清浄心、仏性、法身、如来蔵、実相、法界、法性、円成実性と同体異名であるとされる

元々、仏そのものである。みたいな感じ?

http://fukagawafudou.jugem.jp/?eid=740
成田山 東京別院 深川不動堂
(仏性からの真如縁起だからこそ、それゆえに)
仏さまの教えにより心の安らぎを得て、何事にも動じない境地に至る
0621おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/11/14(水) 16:41:01.01ID:qw6OAnj8
 
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6
真俗二諦

その当時のインドの人達にとって
仏教を理解せしめるためには
その当時の、その地域の、世間的な『想い』を一応認めて、さらにその理解のうえで
仏教を理解せしめるというやり方がとられねばならなかった

それゆえに
(仮設としての)輪廻という『想い』を一応認めた対機説法だった

 − これに対して ↓

https://gimpo.5ch.net/test/read.cgi/psy/1232767495/
68 :神も仏も名無しさん:2009/01/24(土) 20:27:53 ID:XYCyD47T
『ミリンダパンハー』ですが
そのなかでミリンダ王は輪廻に対して疑義を呈していたと記憶しますが
それに対してナーガセーナが答えて納得させていたと思います
問題となるのは、輪廻がどの国の起源かではなく
輪廻説を盲信しているインド人のために釈尊が方便で説いたとするなら
輪廻を信じない外国人に方便で説く必要などないということです

それなのに輪廻を外国人に説く必要があるということは
仏教にとって必要な説であるからということです
  _  _  _

知りませんでした
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
0622承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/14(水) 20:07:59.63ID:HYQJYpGI
>>621
そうして、あたかも「仏像の前提が個人主体の転生」であるかのようにミスリードしたがる連中って本当にどうしようもないね。(笑)
ウィキにもあるように、ミリンダ王の問いにはちゃんと完全な同一と呼べるものではないが輪廻していると重ねて説いてあるというのに。

(^。^)我執を仏説と偽るなんて、バカカルトと同罪だろうに。(笑)
0623神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/14(水) 21:59:13.19ID:4NbfUCz/
中村元はバラモン教徒や在家信者に対しては勧善懲悪の方便として輪廻と業報を説いたと言ってたと思ったが、
仏典ではむしろ比丘たちに対して輪廻や業を説いていることの方が多い。
0624神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/15(木) 00:54:20.37ID:vPlBeqkj
宮崎哲弥の言ってることはパーピマンが言ってることと変わらんような気がする
0625承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/15(木) 00:59:55.65ID:gYoxH2x+
>>624
同じ価値観で同じ問題をかんがえてんだから、結論が似るのは当然。

(^。^)俺も仏教入る前は同じだったし。(笑)
0626おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/15(木) 04:31:36.62ID:yfTL+987
 
> ウィキにもあるように、ミリンダ王の問いにはちゃんと完全な同一と呼べるものではない

いつも、ご教示ありがとうございます m(_ _)m

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%80%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%95%8F%E3%81%84
ナーガセーナ長老は
「今、現にある現象的個体の善なり悪なりの行為(業)に応じて
  それが介入・影響した別の現象的個体として改組・回帰される」と述べる
  _  _  _

> (^。^)俺も仏教入る前は同じ(輪廻否定?)だったし。(笑)

中論 第二十七章 見解(邪見)の考察

仮設としての
この現世だけに限定したとしても、それでも

地水火風の微細な粒子に依存している
色受想行識の仮和合は
縁起に依存して、変化しているので、それゆえに

「私は過去に存在していた」と言うことは妥当ではない
過去に存在していたものは
今、現在の私と同一ではないからである
それゆえに
前世からの → 現世のものについても
今、現在の私と同一ではない

↑こんな感じ? おじゃる?
0627承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/15(木) 04:38:40.31ID:gYoxH2x+
先にあるミリンダ王の問いにある通りです。
同じ火ではないがーとか同じ女ではないがーとか。
全く同じではないけど、ある意味同じって話ですね。
じゃあどーゆー意味かってのは、俺も想像でしかないからね。(笑)

(^。^)少なくとも、漫画の輪廻転生と、仏教の輪廻とは別物なんすよ。(笑)
0628宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/15(木) 13:36:43.13ID:yJMOl6Vu
>>603
この私が永年、セブンと対論を続けているのは、
彼は自分自身のしっかりとした見解を持ち、そして、それを自分自身の言葉で語ってくるからです。
けれども、あなたはそうじゃない。

自分では何も語らずに、
ただリンク貼りやコピー転載だけを続けるというやり方というのは、
“嫌がらせの無言電話”を続けてるとの一緒です。

>だから、第一の覚者も、第二の覚者も、第三の覚者も、第四の覚者も、仏教にしか現れないのです」と。

嘘ばかりです。
その結果など出てないじゃないですか!

ゴータマ以降の覚者(生ける如来)の出現はまったくなく、ただ話だけの阿羅漢の存在ばかりです。
その阿羅漢(テーラワーダの完成者)というのは、比較的にいえば圧倒的に容易い境地です。そもそも五百羅漢というくらい。
真実の完成者たる生ける如来のブッダというのは、未来仏の弥勒までは出現しないとゴータマによって明言されています。

 『仏教学においても釈迦の直説が含まれると推定される阿含経においても、阿羅漢と仏陀は明確に区別されており、ゴータマ・シッダールタ
以外の阿羅漢が如来十号の他の九つで呼ばれることはない。阿含経の一部『ドナ・スッタ』では仏陀は「神でも人でも魔でもない」とされる。
 阿羅漢と仏陀の主な違いとしては
 ・阿羅漢は女性もなれるが、仏陀は女性はなれない。
 ・仏陀は宇宙が何十億年の年月の単位である「劫」レベルの膨大な年数のうちに、一つの世界に一人だけ現れる存在だが、阿羅漢は(特に)
釈迦在世時には多数輩出された。
 がある。』(阿羅漢と仏陀の違い)
 https://dic.pixiv.net/a/%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%BC%A2
0629宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/15(木) 13:37:48.91ID:yJMOl6Vu
>仏教にしか現れないのです

仏教だけが唯一の真理であって、
他はすべて間違いだなどという偏狭なことをゴータマは説かない。

 『かれらは自己の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何人を愚人であると見ることができようぞ。
他の説を、愚かである、不浄の教えであると説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。』
(Sn.893)

仏教の発祥以前における太古の仏陀存在(覚者)は、
当然、仏教に拠らない更にもっと古い宗教的教えの伝統の中から出現したもの。
仏教で説かれる過去七仏の概念というのも、仏教徒によるヴェーダ(バラモン伝統)からのパクリに他ならない。

 『仏教によれば、ダルマをさとった人がすなわち覚者なのであるから、覚者はいかに超人化・神化して考えられようとも、決して
唯だ一人の人格的存在者であるということはできない。ゴータマのほかにもなお覚者が存在し得るはずなのである。そこで過去未来
の諸仏と現在における一人の仏を立てて考える。特に過去七仏の観念は古く成立し、その名称はすでにガーターの中に伝えられている。
 過去七仏とはパーリ語でヴィパッシン(Vipassin)、シキン(Sikhin)、ヴェッサブ(Vessabhu)、カクサンダ(Kakusandha)、コーナー
ガマナ(Konāgamana)、カッサパ(Kassapa)および第七に釈尊をいう。そうして仏は「第七の仙人」と呼ばれている。過去七仏の観念が
もとをたどれば、『リグ・ヴェーダ』に由来することは、すでに指摘したとおりである。』
(『中村元選集・11巻・インド仏教の諸問題』春秋社P.515〜516)
0630宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/15(木) 13:45:52.63ID:yJMOl6Vu
>>566
>二千五百年の歴史ある組織に、

 確かに、史実のゴータマから数えれば二千五百年ですが、しかし、二千五百年の歴史ある組織などは世界中を探しても一つもありません。
もちろん、ゴータマの教えを正しく忠実に継承している団体についても皆無です(あるなら、何処にあるのか教えて欲しいくらい)。
 日本に仏教が伝来したのは6世紀です。チベットは7世紀、中国は1世紀。スリランカの仏教は古くて前2-3世紀頃からですが、しかし、
現存する現代のテーラワーダの正体は、『分別説部大寺派』というものであり、これは部派仏教の中の『分別説部』(Vibhajjavādin)にお
いて、その中でも更にマイナーだった『大寺派』(Mahāvihāravāsin)が今日まで生き残ったものです。つまり、現在のテーラワーダ仏教の
直接的な起源としての「大寺派」はこの法燈を嗣ぐもので、その確立は5世紀頃だったとされています。
 その他、同じテーラワーダであるビルマやタイの南方仏教は12-13世紀です。

>それとも、実際に霊的な相談などにのっているんですか?

私の心霊に対する理解は、神智学とそれから仏教以前から傾倒した心霊科学の知識によるものが中心です。
また、霊的能力のある密教僧からの教えなどもとても参考にしています。
それからまた、私自身が、自分で心霊体験を何度も持つので
心霊存在の“実在性”については100%を保証しますよ。
0631宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/11/15(木) 16:20:46.56ID:yJMOl6Vu
>>569
>俺は拝み屋さんで、祓うのを手伝ってただけで、
--略--
>(^。^)色んな人が色んな流派で色んな事をやってるけど、何が本当かは判らん、
>というか全部間違ってるような気がして辞めました。(笑)

それって、やっぱり密教系?
しかし、せっかく拝み屋さんにて助法されていたというのに、
それが能力者として本物であったかどうかすらも確認できなかったと?
普通、何度も携わっていれば分かる筈ですが?
いつもデタラメばかりだったならば相談者や信者らにバレるのだから。
もしも、ただのインチキだったならば、あなたも人の弱みに付け込む金取り詐欺に加担していたこととなり、
大変な悪業を積んだことになるでしょうね。

こちらの近郊には、
地元ではかなり知られた能力者(真言系)がいます(まっ、近年は亡くなられて今は二代目が継いでいるけど)。
私も若い頃に一度だけ行ってみたことがありますが、その能力だけは本物のようです。
その頃は小さな平屋の古い個人住宅だったのに、
彼女に救われたという感謝の寄付とお布施で大きな立派な寺院が建設されましたね。
中には一千万単位や全財産を捧げたという人もいたらしいからね。
0632おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/11/15(木) 16:22:22.17ID:yfTL+987
 
> 自分自身の言葉で語ってくる

おじゃるの個人的な見解としては
神仏習合
神社・仏閣・霊場

↓金銭的に余裕があるのなら

鵜戸神宮
http://www.udojingu.com/
鵜戸神宮 鵜戸山八丁坂
http://www.pmiyazaki.com/udo_2/hty.htm
http://www.pmiyazaki.com/udo_2/img/ht04.jpg
霧島神宮
http://www.kirishimajingu.or.jp/

熊野那智大社
https://www.jisyameguri.com/chiiki/wakayama/nachi/
飛瀧神社 那智の滝
https://www.jisyameguri.com/chiiki/wakayama/hirou/

色々と逝ってみたい所存で おじゃります m(_ _)m

(心霊現象の実際の現場とかも含めて…)
0633承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/15(木) 19:22:17.18ID:sYvyJllp
>>631
本当に理解出来ないんで質問しますが、

「シンチガク」でも仏教でも何でも、それが「本物」ってどうやって決めてんの?
単に自分の好みでしょ。
実際に自分が霊的な事象や相談などを何年かこなして検証してないってことは客観的な判断基準はない訳だから。
で、その「本物」を知りたいだけなの?
それで世の中の役に立てようとか、自分が神仙の位に昇りたいとかは考えてない訳でしょ。
何がしたいのか理解出来ない。
単なる趣味で、マニアとして収集してるだけってことでいいのか?
それとも、シンチガクの瞑想か何かしてて神秘体験でもしてるのか?
だが、それも単なる個人的体験でしかないから客観的な判断基準とは言えないが。

(^。^)正直、バカカルト信者の意見と同じで、何を言われても全く意味がないとしか思えないんだが。(笑)
0634おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/15(木) 20:32:08.91ID:yfTL+987
 
> 「本物」ってどうやって決めてんの?

仏教の対機説法としては

仮設としての
無明に依存して
我癡・我見・我慢・我愛に依存して

その人、個人にとっての「善である・悪である」

という『想い』が、現れ、変化して、滅している
  _  _  _

> 瞑想か何かして

たとえば上座部系なら

我所も我も
地水火風の微細な粒子に分解して
最終的には滅して逝く

因縁生滅智
刹那生滅智

という観察法?
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
上座部 パオ・セヤドー
0635神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/15(木) 20:54:05.18ID:Qp3daa1F
>>310
臨済宗の栄西はイニシエート2.2で斯陀含クラスの覚者です
曹洞宗の道元はイニシエート1.5で預流果クラスの覚者です
0636承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/11/15(木) 21:12:09.88ID:sYvyJllp
>>634
そうした理屈はありますが、じゃあ霊的な事象、そもそもこれは精神的な病かもという問いも含めて、
そうした事象に、物理の追実験並の再現性で解消出来ることはあり得ない訳。
で、その失敗する理屈も色々な話があるが、そんなもんでいいなら、その辺の詐欺師でも成功率の違いこそあれ、結果は同じって話になります。
勿論仏教は、そうした事は本筋には関係ありませんが、(悟ったなら出来るというスタンスだから)
「本物」と判ったとするなら、仏教では悟ったから判ったって話しかあり得ない、という事に。

(^。^)勿論、信仰は自由ですが、俺は屁理屈で納得は出来んし。(笑)
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