キリスト教初心者です。いろいろ教えて
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聖書のボケとツッコミの文章
愚かな者にその愚かさにしたがって答をするな、
自分も彼と同じようにならないためだ。
愚かな者にその愚かさにしたがって答をせよ、
彼が自分の目に自らを知恵ある者と見ないためだ。
(箴言26:4-5)
・・・・・一体どうしろと。 ホント、どうしたらいいんだろう
筋道立てても話の通じないキリスト信者・・・ ■NHK世論調査
日韓合意を破った韓国をどう思う?
・納得できない 83%
・納得できる 9%
■読売世論調査
韓国の要求に応じない日本政府をどう思う?
・支持する 83%
・支持しない 11%
韓国は信用できる?
・信用できない 78%
・信用できる 不明
■JNN世論調査
韓国の追加要求をどう思う?
・理解できない 85%
・理解できる 8%
,.r‐く: : : : -二ニニー_‐-=__ ',
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l /7ノ `ヾ、_二ニ二、 ,,, ,'
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l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「わたしがキリストに倣う者であるように、
l ',', ,' , ´`ー-'! c, '
l ',ヽ ! 'ゝ-===、 / あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」
l ', \ ``ーァ゛/
l ヽ \ `゙ ´/
l ヽ、 >‐---イ 老クリスチャン 「デボラの歌」(士師記5章)より
彼女は手を伸ばして釘を取り、職人の槌を右手に握り、 シセラの頭に打ち込んで砕いた。
こめかみを打ち、指し貫いた。彼女の足下に、シセラは かがみ込み、倒れ、伏した。
彼女の足下に、彼は かがみ込み、倒れた。
かがみ込み、そこに倒れて息絶えた。
……
このように、ヤーウェよ、あなたの敵がことごとく滅び、
ヤーウェを愛する者が日の出の勢いを得ますように。 2000年(主日B年) 3月12日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
私たちが普段何気なく使っている “信仰” という言葉を、今朝は意識してみましょう。
イエスの宣教の第一声として、マルコによる福音書は 「福音を信じなさい」 という言葉を記録しています。
これは単なるイエスの言葉の記録というよりも、むしろマルコによる福音書を生み出した初代教会の “信仰理解” と考えるべきでしょう。
そうです ・・・・・ 、“信仰” とは “福音を信じる信仰” なのです。 そしてその “福音” は マコ 1:1 にあるように、「神の子イエス・キリストの福音」 であります。
この福音は、「神の国が近づいた」 ことと密接に関わっています。
“福音を宣べ伝える” ことと “神の国を宣べ伝える” ことは、新約聖書では同じ意味で使われています。
そしてそれにもう一つ、「悔い改めて ・・・・・ 」 という言葉が結びついています。
このように、私たちが聖書を通し、また教会を通して教えられる “信仰” とは、「神の子イエス・キリストの福音」 と決して切り離すことの出来ないものなのです。
この世の中にはいろいろな宗教や信心がありますが、私たちキリスト者の信仰は現象としてはそれらと似ていたり共通する面があるにしても、根本的なところで決定的に異なっています。
信仰というものは、その信ずる対象が異なれば、現象としては似ていても、根本的には全く別のものになります。
当然そこで語られる “救い” も、全く別のものだということになります。
私たちは他の救いではなくて、“イエス・キリストの救い” を信じているのです。
私たちは “罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じ” ているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
初代教会はノアの契約を再解釈して、それはキリストによる新しい契約によって今の時代に現実のものとなったと考えました。
なぜならノアの洪水によって予兆された洗礼によって、今やだれでも信じてこれを受ける人は救われるようになったからです。
キリストの福音と洗礼はすべての人に提供されていて、信じてこれを受ける者は救われるのです。
キリストにあっては、ノアの物語りは “おとぎ話” ではなくて、“恵みの時、救いの日(IIコリ 6:2)” の到来の約束を告げる神の言葉です。
四旬節は悔い改めの時であると言われます。
しかしその悔い改めを、“悪い行いを改めて良い行いをする” というレベルで、キリストとその福音への信仰とは無関係な、単なる善行にしてはなりません。
「信じない者は滅びの宣告を受ける」(マコ 16:16)という聖書の言葉の厳しさの中で、現代の教会が再び “洗礼への招き” の計り知れない富を感謝出来るようになることを、天上のキリストは切に求めておられます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>217
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ____
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人 715:老クリスチャン 2018/02/16(金) 11:12:14.41 ID:47uYWnDB
2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8015 Iペト 3:18022 マコ 1:12015
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1285440009/715 ____
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人 2012年(主日B年) 2月26日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」(マコ v.13)
“主の僕なるメシア” として歩み始められた(マコ 1:11)イエスの公生涯は、最後の十字架上の死に至るまで一貫して、「サタンからの誘惑」 の中の歩みでありました。
マタイとルカに詳しく述べられている荒れ野の誘惑は、そのときだけの、もう終わってしまった昔の話ではありませんでした。
「キリストは肉において現れ、“霊” において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光の中に上げられた。」(Iテモ 3:16)
このキリストの福音を、私たちは今年も四旬節の典礼を通して学んで行きます。
決してガリラヤにおける善き教師イエスの、牧歌風の古い思い出話を聖書を通して偲ぶことではありません。
「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるため」(ヘブ 2:14-15)であったキリストの公生涯の物語りから、
教会はこの期節に “神の国の福音” を聞いて “悔い改める” ようにと導かれます。 (つづき)
「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」(創 v.11)
「雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。」(創 vv.14-15)
これは創世記に登場する最初の契約の物語りです。
それは 「地上のすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てられた永遠の契約」(創 9:16)であって、この世界がいかに罪に満ちて混乱しているとしても、それでもなお、神からその存在を許容されているのだということを語っています(創 8:21-22 参照)。
宇宙ロケットに乗って旅立ち、一回りして地球に帰ってみたら、それが猿の惑星になっていたというような可能性を、本気で心配する必要はないということです。
大切なことは、そのような世界のただ中で、神の国の相続人である(ロマ 8:17)新しいイスラエル(ガラ 6:16)を贖い取る神の御業が、御子イエス・キリストの十字架と復活を通して実現した(使 20:28)ということです。
教会はこの “秘められた計画” を “十字架の福音” によって学びます(Iコリ 2:1-2)。
この世の人々は、地球が滅びないように、人類が滅びないようにと、本気で心配しています。
しかし、私たち教会の関心事はただ一つ、「罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのち」 なのです。
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。 だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタ 10:29)
すべての民が裁かれる終わりの日に、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(マタ 25:34)と言っていただけることこそが、私たちにとっては本当に重要なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 >>224
>すべての民が裁かれる終わりの日
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人 キリスト教に興味があるなら人にきいたり
参考書を読んだりせずに、聖書だけを読んだらいい。
逆に聖書以外は全部嘘だと思ったほうがいい。 あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。(マタイの福音書 28:19)
自分の信じていることを他人に押し付けることを善だと勝手に思い込むことができるのは、
他人の自由を尊敬していないからであり、他人よりも自分の方がエライとひそかに思っている
からであり、他人がキリスト教以外の教えを信じていることを許せないからであり、
キリスト教を信じる自分たちだけが恵みを受ける資格があると思い込んでるからです。
イエスは弟子達に、「行って、世界の人々を私の追従者にせよ」、と命令したのです。 2003年(主日B年) 3月16日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された神の愛を、教会は宣べ伝えて来ました。
確かに教会はミサ典礼書や各種儀式書、その中で唱えられる信仰宣言、カトリック教会の代々の時代の公文書、そして聖書によって、使徒たちから伝えられたキリストの福音を現代に至るまで宣べ伝えて来たのです。
私たちはこのことを神に心から感謝しなければなりません。
しかし人間一人一人は罪深く、しばしば思い、ことば、行い、怠りによって、キリストの福音に対して目の見えない者耳の聞こえない者となってしまいます。
実際私たちの教会の姿は、信者たちがお互いに 「神に選ばれた者たち」(ロマ v.33)として相手を重んじ、復活のキリストがその人のために執り成してくださっていることを思って兄弟を愛しているでしょうか。
信者たちが互いに親切で礼儀正しいときにも、それが 「キリストの体」(エフェ 4:12)としてどの程度造り上げられているかが、問い直されなければなりません。
「互いに愛し合う」(Iヨハ 3:11)とはキリストの福音の共通理解による結び付きのことであって、それは一つの(神の国の)希望、一つの(キリストへの)信仰による一致と切り離すことは出来ません。
四旬節は、信者たちがお互いを 「共に(神の国の)恵みにあずかる者」(フィリ 1:7)としてもう一度心に留め直すのに、ふさわしい期節です。 (つづき)
教会はその信条の中で、「われは一、聖、公、使徒継承の教会を信ず」 と宣言しています。
使徒継承とは、教会がいつの時代にも使徒たちから決して離れては存在し得ないということを意味します。
現代は思想的に非常に自由な時代であって、あらゆる種類のキリスト理解、福音理解、宗教理解が世にあふれていますが、それは決していろいろなキリスト教といろいろな教会が、正当に存在し得ることを保証するものではありません。
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。 “これはわたしの愛する子。 これに聞け。”」(マコ 9:7)
弟子たちはここで、律法と預言者の書(旧約聖書)に書かれている救済史の実現者イエス(ルカ 24:44)に「聞け」 との天からの声を聞きました。
使徒たちが理解したように私たちも主イエス・キリストを理解し、使徒たちが伝えたように私たちもキリストの福音を学ぶことは、21世紀の教会にとっての最重要な課題なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2006年(主日B年) 3月12日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
新約聖書はアブラハムを “信仰の父” と呼んで、信者にその “信仰の模範” に倣うように勧めていますが(ロマ 4章)、
独り子イサクを献げようとした話は私たちの行動の手本としてではなく、むしろ神御自身の愛の証しとして(ヘブ 11:17-19)、さらには救い主キリストの贖いの御業を指し示すものとして理解しました。
「あなたがこのことを行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので」(創 v.17)と書かれていることは、イエス・キリストにおいて初めて現実の出来事となったからです。
使徒パウロは 創 12:7 を引用して、「この “子孫” とは、キリストのことです」 と説明し(ガラ 3:16)、
「それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした」(同 v.22)、
「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による(神の国の)相続人です」(同 v.29)と語っています。
このように、 “キリストの受難と死と復活によって実現した罪の赦しの福音” への理解を前提として旧約聖書を読むことを、弟子たちは復活の主から教えられて “使徒”(福音宣教のために遣わされた者)となったのでした(ルカ 24:25-27,44-48 参照)。
私たちもこの使徒たちの証言に基づいて、今朝の創世記のテキストの朗読からキリストの福音を聞いているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 まともな神経があれば、三位一体だの復活だのをしんじられるわけない。
神が人間界に女性のからだのなかを通って生まれ、そして荒野で訳のわからないことを叫ぶ
変人に洗礼してもらい、数々の奇跡を起こしながらも、権力者にわざと捕まえさせ、
その時には弟子の一人を裏切り者に仕立てて、そんでその弟子は首をくくって死んでしまう
という、そんで磔にされて死刑にあうときにはエリエリラマサバクタニ。
で、なぜか大人しく死んでしまえば、そのあとすぐに生き返り、で、せっかく生き返ったのに
そのままどっかに行ってしまう。 ____
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人 イエスの死後、初代のキリスト教の本拠地は弟子たちがイエスの弟ヤコブを中心に
エルサレムに置いた教団だった。小アジア出身のパウロはそこに入れてもらえなかった。
そこで自分を中心にする教会をつくる野望を叶えるべく行動を始めた。
エルサレムの正統派に入れなかったのだから教義も自由にできる。
異邦人は除外されていたのをパウロが受け入れるとした。
正統派のエルサレム教団は紀元70年にローマに叛旗を翻し
壊滅させられたエルサレムの街とともに消滅したので、
そのときローマに居たパウロの教えが、はらかずも生き残って、キリスト教となっていった。
パウロは聖人になったが、傲慢な人間像が聖書の中に随所に見られる。
「私の福音によれば」(ローマ2:16)と言ったり、律法のわざによる義は否定するが
倫理規定(Tコリ6:9〜10など)を定めて、結局自身の律法の遵守を要求する。
また女性蔑視もよく知られている。
イエスは遊女を悪とするのでなく、遊女にならざるを得なかったことを思っていたが、
パウロはそんな関心はない。 また
教会の中では女は黙っていなさい、女が男を教えてはいけない、と言う。
エルサレムが崩壊して、外にあったパウロ書簡しか残らなかったから、
パウロの名を騙り権威を借る者も現れて、できたのが新約聖書。
パウロは神学と言えるものでなく、野望から出たものと見るのが妥当なところ。 2009年(主日B年) 3月8日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された ・・・・・ 」(ロマ v.32)
“身代金”(マコ 10:45)という用語は元来は、奴隷をその持ち主から買い取って自由の身にするための代金を意味していたのですが、
主イエスは御自分の使命を イザ53章 の “僕なるメシア” として理解し、この用語を用いて イザ 53:10-12 に言及されたのでした(マコ 10:45)。
そこには、神が御自分の僕を “償いの献げ物” とされ、主の僕は “多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った” と書かれていました。
明らかに、ここでは贖いは神の終末的な救いを意味していて、もはや代金の支払いという元来の意味が失われています。
神がその民を解放されるという意味での贖いの典型が、出エジプトという歴史上の事件であり、ユダヤ人は、来るべきメシアは 「イスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」(ルカ 24:21)
新約聖書、中でも特に使徒パウロは、この贖いの概念をキリストの終末的な救いに結びつけて語っています。
神はキリストの死を通して御自分の民を買い取られたのです(使 20:28、テト 2:14、エフェ 1:7、Iコリ 6:20,7:23)。
しかし、その贖いが完成するのは、主の再臨の日です。
今の世にあっては、キリスト者は約束された聖霊で証印を押されていて(洗礼の秘蹟で)、この聖霊が終末的な贖いを保証しているのです(エフェ 1:13-14)。
そうです! 「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ロマ v.34)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 アラシはハゲマ
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人 ・BC3000年頃、エジプト神話のホルスは、処女イシス・メリーから生まれる。東方から星が現れ、
3人の王が祝いに駆けつけ新しい救世主として崇拝した。12歳で天才児として教育者となり、
30歳でアナブによって洗礼を受け、聖職活動を始めた。12人の使途と旅を共にし、
病を治したり水の上を歩くなどの奇跡をおこした。ホルスは多くの名前で知られていた。
真実、光、神の子、よき羊飼いなど。タイフォンに裏切られた後、十字架に張り付けられ
埋葬されたが、3日後に生き返った。
・BC1200年頃、ペルシアのミトラは、12月25日、処女から生まれた。12人の弟子をもち
奇跡を起こした。死亡して埋葬された3日後に復活した。彼は、真実、光、などの呼び名を
持っていた。神聖な崇拝は日曜だった。
・BC900年頃、インド神話のヒンドゥー教のクリシュナは、処女デーヴァキーから誕生。
東方に輝く星が出現した。弟子達と数多の奇跡を起こし死亡した後復活。 キリスト教という人工似非宗教は、ローマを腐食させて滅ぼし、
更にヨーロッパ全土に蔓延して人心を荒廃させ、
挙げ句には、植民地政策という名の世界侵略によって全世界に拡散してしまった恐るべきカルトである。
「日本ではキリスト教は流行らなかった。」などと言われるが、それは間違いだ。
文化の多様性を否定し、一切の宗教を否定し、人類の存続を否定する独善的排他主義であるこの邪教は、
戦後、日本の政治経済教育法曹界学界全てに根を張り巡らした。
従って、現在、キリスト教に興味がある連中はある意味で本質を捉えていると言える。
ラノベ風に言えば、魔王に媚びる悪魔崇拝者というところだろうからだ。(笑)
このカルトの巧妙さは幾つもあるが、その一例を上げるならば、善悪の逆転だろう。
自国の防衛という当たり前の話すら、キリスト教徒は悪だと言う。
民族の伝統である神々を偶像や悪魔だと断言する。
そして、自国の文化を否定して偉大な西洋文明の享楽に耽るのが正しいのだと。(笑)
如何にも恥知らずな半島人が喜びそうな話であり、実際半島人は此を大いに受け入れている。(笑)
このカルトの巧妙な構造に関しては、人の精神構造の特性を十全に理解した上で、その悪意に染まることなく観察せねばならない為、ほとんどの人がこの話は理解出来ない。
理解したと思っている人も殆んどが単なるアンチキリストの感情論でしかない。
少なくとも、この板では私独りしかいない。(笑)
(^。^)要するに、お前らはバカだという話だ。(笑) ⬆間違えてメアド欄にコテとトリを入れてしまった。(笑)
(^。^)バカは俺でした。(笑) --
† 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入って行く者が多いのです。
(新約聖書 マタイによる福音書7章13節)
-- もうこれでいいや。(笑)
キリストという人は一般的には「偉人」とされているが、存命中には信者以外からはマトモな扱いはされていない人だ。
というか、すがってきた異民族の老婆をシカトして取り巻きに「私はユダヤ人だけを救う為に遣わされたのだ!」とかほざいた人だ。(笑)
他にもユダヤ教の教会の前で商売していた屋台を気に食わないからって叩き壊したり、(笑)
挙げ句の果てには路肩の木が気に食わないってマジギレして「お前らは実を付けるな!」とか呪ったそうな。(笑)
まぁ、食べ物を出したり、湖面を歩いたりなんて手品は上手かったらしいけど、(笑)
世の中に受けたのは弟子たちの布教上での物語で、ご当人は今で言うDQN だった訳だ。(笑)
だから、俺としてはキリスト教は嫌いだが、キリストとされた人物には何ら思うところはない。(笑)
大昔のただの人だからね。(笑)
(^。^)だから、キリストを讃えんのは何とも思わない。ただ、キリスト教の話が不快なだけだ。(笑) 2003年(主日B年) 3月23日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
ヨハネ福音書はこの出来事を、主イエスのエルサレムでの活動の最初に置いています。
並行するマルコ福音書の記事はこれを聖週間の初めの部分で語っていますが、いずれも過越祭間近であったという点では一致しています。
キリストが私たちの過越の小羊として屠られたこと(Iコリ 5:7)と、この記事は深く結びついているのです。
ユダヤ人たちが質問しました。
「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか。」(ヨハ v.18)
イエスは答えます。
「この神殿を壊してみよ。 三日で建て直してみせる。」(ヨハ v.19)
ユダヤ人たちは、これをヘロデの神殿のことだと誤解しますが、使徒たちは後になって、これがキリストの復活とその結果としての教会の誕生について語られたものであったと、理解するようになりました。
主イエスはエルサレムの神殿の崩壊を指して語られたのではありませんでしたが、恐らくそれは悪意をもって歪曲され、イエスがユダヤの最高法院で大祭司の裁判を受けたときの偽証として用いられます。(マコ 14:58)
「死んだ方、否むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエス」(ロマ 8:34 )が、私たち共にミサをささげる群れである教会の頭であり、教会はキリストの体です(エフェ 1:22-23)。
主の死と復活を抜きにしては、キリストの福音は成り立ちません。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2006年(主日B年) 3月19日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
“十字架につけられたキリストを宣べ伝える” という、初代教会と使徒たちにとってはあまりにも明白であった宣教理解を、私たちが再び取り戻すことは、21世紀のキリスト者に課せられた重大な課題です。
聖書は何か特殊な解釈法によらなければ理解出来ないとか、権威ある指導者によって解き明かされなければ正しく読めないなどというのは、誤った迷信です。
そのような口実によって、これまで多くの人々が素直に聖書を受け入れられない自らの不信仰をごまかして来ました。
聖書は難解な書物ではなくて、神の秘められた計画を使徒たちが告げ知らせた、普通の信徒のための書物です。
使徒たちは “優れた(難解な)言葉や知恵を用いずに”(Iコリ 2:1)、分かり易く語ったのであって、私たちが素直に、書かれてある通りに読むことが期待されているのです。
死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスは、神の右に座っていて、ミサで朗読される聖書を通して今朝も私達に語りかけておられることを信じましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
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「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
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出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出 vv.2-3)
神の民イスラエルとは、このような民であることを、私たちは聖書から学ぶのです。
この前提を理解しないで、聖書からただ戒めと教えを学ぶだけの人は、残念ながら救いにも信仰にも全く無縁なのです(イザ 29:13)。
中世後期以降、多くのカテキズムがその中で十戒を取り上げるようになりました。
日本語にも翻訳されて読まれている1997版 「カトリック教会のカテキズム」 も、その例に倣っています。
私たちは、聖書やカテキズムを学ぶ前提というものを、明確に理解しなければなりません。
「大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラ 6:15、ヨハ 3:5-6 参照)
聖書の著者だけではなく、読者である私たちも、今こそ、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決め」(Iコリ 2:2)ようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
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> これを信じることが条件です。
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> 「天地の創造主、全能の父である神を信じます。
> 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
> 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
> ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて
> 死に葬られ、陰府(よみ)に下り、 三日目に死者のうちから復活し、
> 天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
> 生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
> 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
> からだの復活、永遠のいのちを信じます。」
>
> 信じられなければキリスト教には入れません。
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. (之ノ | ,!、 まず「全能の父である神」。(笑)
こんなモノは論理的にあり得ないことは何回も説明したから省略する。(笑)
「父」というのは、まぁ父系社会には当然の比喩、投影と言える。(笑)
次の笑えるところは「精霊によって宿り〜」ちょっと長いが
当時十代で人妻だったマリアちゃんをレイフ○した「全能の父」な神は、精霊に告知させたのを、何とか聞こえ良さげに表現しているわけだ。(笑)
なかなかマニアックだな、ヤソの神は。(笑)
しかし、何と言っても一番ウケるのは「甦り」だろう。(笑)
死んで甦りって、ドラキュラの犠牲者かゾンビですよね。(笑)
まさかのゾンビ崇拝者(笑)
毛唐のゾンビ好きなのはこのせいか?(笑)
(^。^)真顔でかます数々のギャグには脱帽だ。(笑) レビ記には
「女と寝るように男と寝るものは死ななければならない」と書かれており、
キチガイキリスト教はそれを根拠にLGBTを差別するんだけど、
同じくレビ記には
「親に逆らう子供は必ず殺さなければならない」
と書かれているのに、キチガイキリスト凶徒はワガママだから、
約束を守らず反抗期の子供を殺さないんだよなあ。
地獄に堕ちること間違いなし!
あとすき焼き食うこと、化繊二種類の服を着ること、
野菜を二種類以上育てることも、タブー。
日本人は自動で地獄に堕ちるんだよなあ。 2003年(主日B年) 3月30日 四旬節第4主日
代下 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ v.16)
神はこの世を愛して、その独り子イエス・キリストを信じる者が皆、救われて永遠の命を得るようにしてくださいました。
私たちは今、そのイエス・キリストの受難と復活に、特別に心を向ける四旬節を歩んでいます。
イエス・キリストを信じるとは、その受難と復活を信じることであり、さらに洗礼によってキリストの死と復活に結ばれること(ロマ 6:3以下)に他なりません。
キリストを死者の中から復活させた父なる神は、信じて救われた人々をやがて終わりの日に神の国へと復活させてくださいます。
教会が使徒継承によって受け継ぎ、宣べ伝え続けて来た救い主は、十字架と復活のキリストであります。
かつてイスラエルの民が荒れ野で罪を犯して炎の蛇にかまれたとき、モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げました。
「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(民 21:9)と伝えられています。
そのように教会も十字架に上げられたキリストを仰ぎます。
さらに神はこの十字架の 「キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(エフェ 1:20-21)。
私たちがミサでお会いする祭壇のキリストは、この栄光の(上げられた)キリストであります。
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハ vv.14-15)
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 > 「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(民 21:9)
イキのこった のこった
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† 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入って行く者が多いのです。
(新約聖書 マタイによる福音書7章13節)
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歴下 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
「事実、あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。 このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェ v.8)
キリストの十字架の死と復活が救済史の中の出来事であるように、私たちも洗礼の秘跡によってその救済史の中に生きる者とされました。
私たちはキリストの死に与って “その血によって贖われ、罪を赦されました”(エフェ 1:7)。 そしてその復活にも与って神の国を受け継ぐ民の中に加えられました。
ですから使徒パウロは祈って言いました。
「御父があなた方に知恵と啓示との霊を与え、心の目を開いてくださるように。 そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐもの(神の国)がどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」(エフェ 1:17-18)と。 (つづき)
与えられた救いへのこのような理解、正しい福音理解とは何の関係もない単なる人道上の “善い業” が、繰り返し歴史の教会を誤った方向へと迷わせて来たことを、私たちは直視すべきです。
特に原理主義的な傾向のキリスト教集団が、20世紀後半に全世界で大いに勢力を伸ばし、21世紀の教会の脅威となっていることを軽視してはなりません。
それらは通常 “純粋に善意の” 人々の集団であって、既成の教会の側の努力する少々の “善い業” ぐらいで対等に立ち向かうことは殆ど不可能です。
また通常彼らは聖書をよく読んでおり、彼らの “善い業” の論拠をそこから得ています。
問題点はその聖書理解や解釈にあるのですが、その誤りに気づいて反論するには、既成の教会の信者がこれまであまりにも惰眠をむさぼって来たために、無力なのが実状です。
手っ取り早い解決法も近道も、そんなものは存在しないことに、私たちは目覚めなければなりません。
真のキリストの教会が用いることの出来る武器は、ただ “キリストの福音” だけなのです。 一・聖・公・使徒継承の “教会の信仰” だけなのです。
そのことを思って、私たちは今朝もミサの交わりの儀の中で、共に祈りましょう。
「私たちの罪ではなく、教会の信仰を顧み ・・・・・ てください」 と。
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歴下 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。 わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(エフェ v.10)
新約聖書は、キリスト者の救いを 「新たに生まれる」(ヨハ 3:3)ことであると強調しています。
キリスト者は 「神に造られたもの」 であって、決して自分で変身したり成長して信者になったのではありません(ロマ 6:3-11、IIコリ 5:17)。
神は最初の人アダムを、御自分の創造の御業として造られました。
そのように今、神はキリストの贖いの御業によって私たち神の民を造られたのです。
キリスト者の救いが自らの力や善い行いによるのではないように(エフェ vv.8-9)、今やキリスト者の善い業は、単なる人間の善意や意志から生じるものではなくて、「神が前もって準備してくださった」、福音に基づく新しい生き方なのです。
福音を知らなくても、人は善人や世の功労者になることが可能です。
しかし、キリストの福音を聞き、信じることなしには(ロマ 10:9-17)、人が救われることはあり得ないのです。
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゙ ゙ヽ /':: "::::/::::::::: : 2003年(主日B年) 4月6日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
使徒たちによって宣教され、教会が受け入れて信じて来たイエス・キリストは、十字架にかけられて死に、葬られ、死者の中から復活して神の右に上げられた栄光の救い主であります。
このイエスは御自分の受難を目前にして、「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」(ヨハ v.27)と言い、それに応えて天からの声が聞こえました。
「わたしは既に栄光を現した。 再び栄光を現そう。」(ヨハ v.28)
地上の生涯でその栄光を現されたイエス(ヨハ 2:11,11:40 他)は、死者の中からの復活によって決定的に父の栄光に入れられたことを、使徒たちは理解したのでした。
この使徒たちの理解によってイエスの生涯は解釈され、福音書は宣教の書として編集されることとなりました。
私たちが聖書から神の贖いの福音を聞き取り、イエスの死と復活に神の決定的な救いの行為を見るとき、私たちは “福音にあずかっている”(フィリ 1:5 )と確信することが出来ます。
「御子を信じる者は裁かれない。 信じない者は既に裁かれている。 神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:18)
「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 今こそ、この世が裁かれる時。 今、この世の支配者が追放される。」(ヨハ vv.30-31)
十字架と復活の福音は、信じない者にとっては裁きでありますが、信じる私たちにとっては救いをもたらす神の力(ロマ 1:16)です。
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人 2006年(主日B年) 4月2日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
預言者エレミヤの語った 「新しい契約」(エレ v.31)は、キリストの血による新しい契約(Iコリ 11:25)として実現しました。
しかしそれは、救済史の完成である神の国を目指しているのであって、それを待たずにこの世において罪と死が克服されるという意味では決してありません。
近代の楽観的なキリスト教は、自らの努力によって地上に神の国を建設出来るという幻想を掲げました。
キリスト教的平和は、人間の良心に訴えることによって、人々を罪から解放すると主張されています。
しかし、預言者エレミヤが語った新しい契約は、救済史の完成を指し示す終末的預言でありました。
「すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレ v.33)
使徒たちが宣教した救済史理解も、「その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいて」(ロマ 4:13)というものでありました。
キリスト教的教育も、信徒訓練や外部世界への布教活動も、この地上に 「死もなく、悲しみも嘆きも苦労もない」(黙 21:4)世界を造ることは出来ません。
「信仰による義」 だけが、救済史の完成を待ち望む信仰だけが、私たちを来るべき神の国の勝利に至らせてくださることを信じましょう(Iコリ 15:50-57 参照)。 アーメン。
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\ \_| / 。 2009年(主日B年) 3月29日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
主の受難の物語りにおける中心的な主題は、父なる神への御子キリストの全き従順ということです。
ヨハネ福音書は 「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」(ヨハ 12:27)というイエスの言葉を、共観福音書は 「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マコ 14:36)というイエスの祈りを残しています。
私たちは “従順” という聖書の言葉を、ただの人間的な美徳のようなものに還元してしまってはなりません。
“父なる神への御子キリストの全き従順” というもののすさまじさの一端を、この ヘブ vv.7-9 は見事に描いています。
フィリ 2:8 の “十字架の死に至るまでの従順” という言葉と共に、それは私たちにとって四旬節の黙想の第一の主題です。
それでは、私たちの御子への従順(ヘブ v.9)とは何でしょうか。
それは 「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力」(エフェ 1:18-21)を理解し(同 3:18)、感謝する(コロ 1:12)ことです。
使徒パウロは、救われたすべての人に励ましの言葉を贈りました。
「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロ 1:23)
私たちは “恵みにより、信仰によって救われた” 罪人であって、ただ賛美と感謝だけがふさわしい(黙 5:12)。
決して思い上がって、キリストの美徳に倣って、自分もキリストのようになろうなどという不遜な考えに誘われてはならないのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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