マインドフルネス瞑想 Part6
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
前スレ
マインドフルネス瞑想 Part5
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1505492803/
メンタルヘルス板
【瞑想】マインドフルネス 6【気づき】 http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1508008965/ >>713
観察にはすっごく良い状態ですね 何かモヤモヤがあるでしょう?焦燥感なのかなんなのか
ふと 何だかな〜〜という時の感覚を見てみて下さい >>714
薬に頼る前にやることやってみます
>>715
>>716
観察
モヤモヤ、焦燥感を観てみます
チャンスという発想はなかったのでハッとしました
ありがとうございます‼?? >>718
人による その人の発達段階によるとは思いますけど 何かまだ良い状態がある 今はベストな状態ではない という感覚は大金持ちであろうが有名人であろうがモテモテであろうが逃れることはできません 全て慣れて飽きてまた彷徨ってしまうんです
エネルギー源であり かつ苦しみの原因でもあります 寝起きにいろいろと思い出したり求めたりしてつらい
起きてるときはなんだかんだごまかしてるんだろうけどね 瞑想して思いにとらわれない・手離す練習を繰り返して
日常では出来るだけ今ココを意識して暮らす 過ぎ去った過去やまだ来ない未来にとらわれない これはわかるんだが
今ココや呼吸にはとらわれていいの? >>725
今ココには捕らわれることは出来ない
捕らわれる例を具体的に考えてみれば過去(記憶)か未来(予測)が関わってることがわかるよ 今ここって言ってる時点でそれは過去になってるので、今ここにとらわれることは無い。
既に過去か未来のことになってる 過去や未来は、思考により作り出された観念でしかないんだよ。
呼吸はその思考・観念から離れて「今ここで実際に起きている現実」に戻るためのツールでしかない。
意識が今ここの純粋な現実に止まれば、無駄な思考はどんどん無くなる。
思考しなきゃ何もできないじゃん、って思われるかもしれないがそうでもないんだよね。
思考よりも遥かに精度の高い認知機能が働きはじめるというか‥
まあこのあたりは説明が難しいから自分で実践して体験してね。 >>728
>>725が言ってるのは捉われる、あなたが言ってるのは捕らわれる、違いをちゃんと認識しよう。 >>729
しばらくの間マインドフルネスを試してたので大体そんな感じになるってのはわかってはいるんですが
これでいいのかなあとちょっと思いまして
確かに高度な認知が得られますし、行動力も高まりますよね。
めんどくさがらなくなるというか何というか。 マインドフルネス 観系の方法でできるのはただその時の湧き出ててきた感覚 思考を見つめるのみです(基本的には) 分析したり理由を付けたり納得する必要もありません
自分は苦しい 具体的には? 記憶 妄想が頻繁に発生する それだけ? 胸やお腹や額の辺りが重くなって気持ち悪い それから? 自分を擁護 相手を非難する理由を考えている とか
ただ見つめるだけです 見つめるだけでどんどん変革していきます 不可逆的に.... ああ それから分析する必要ないと言っておいてなんですが、好きと称する記号の実際は自分にとってどんな意味合いだったのか一度くらい分析するのは面白いですよ
生殖器の擦りあいだったのか猫のように体の同士を擦り付け合うようなものだったのか 母親父親の代わりだったのか 誰かと一緒に居たいという感じなのか 自分を肯定する存在か 自分より下の存在を作りたかったのか >>23
脳内麻薬が出てる時だけが幸福であってそれ以外は苦痛だからな
死ねるんなら死ぬ事が一番だよ ひたすらひとつのものを観察したら何かが見つかりそうだけど、観察できない 今していることに集中していること。
例えばうんこをしているなら、ぼんやり考えごとなどせずにうんこをすることに集中すること。
そして呼吸も意識していること。
う、くさい >>734
生きることや死ぬことに捉われているうちはまだまだだよ
>脳内麻薬が出てる時だけが幸福であってそれ以外は苦痛だからな
こういう思いは無常であり苦であり無我なんだよ
無我であるが故に虚妄であり空である
走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想をのり越えた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 雑念とラベリング>虚無(禅病)>それも妄想なので雑念とラベリングするらしい >>741
空は実体(常住の事物)が無というだけで縁起で仮に形成された事物は無としてない
空でいう虚無とは実体の虚無ということ
仮に形成された事物は虚無ではない
虚妄は空と同じ >脳内麻薬が出てる時だけが幸福であってそれ以外は苦痛だからな
これが一般的に流布している厭世観なんだよなあ
金、容姿、権力、酒、ギャンブル、異性といった外的な要素からしか幸福を引き出せない無明な生き方
マインドフルネスやヴィパッサナーの観察系瞑想をある程度修めた人なら幸福は必ずしも快楽、苦痛or快、不快などに依存しないことは解るはずだが うーん 幸福 幸せ.... 自分的には 嬉しい 落ち着いているはわかるしあるけれど 一般にいう結婚して子供が生まれてみんな健康で特に何も無いのに自然と笑みがこぼれてしまう
ここでいう幸せはこれでは無いよね 究極に静かな状態 落ち着いた状態 滅した状態を妄想するな〜 一欠片も今の生に留まろうという未練がない状態というかね ☆有愛(うあい)・・・生きることへの執着、死にたくないという欲望
☆無有愛(むうあい)・・・無になりたい(死にたい)という欲望
いずれも輪廻転生の因となる割愛とされています
http://d.hatena.ne.jp/keywordtouch/%B3%E9%B0%A6/
この世もかの世も共に捨て去り割愛を滅せねばなりません
生死への執着(煩悩、割愛)は無明です >>742
>空でいう虚無とは実体の虚無ということ
→色即是空
>仮に形成された事物は虚無ではない
→空即是色 「すべての時間を消え去りゆくもののために費やして、何の役に立つのでしょう?
人生とはまさにドラマであり、幻影に過ぎないという真実を教えるための教訓劇なのです。
愚者は、その劇を真実でいつまでも続くものだと思い、悲しい場面で泣き、
幸せな場面が長続きしないと歎き、さらには、その劇が最後には終わってしまうと悲しみます。
苦悩とはそうした霊的盲目への戒めなのです。
しかし賢者は、そのドラマを観て、それがまったくの「まやかし」であることを知っているので、
内なる自我の中に永遠の喜びを探求します。
生命とはその扱いを知らないものには、恐ろしい機械装置のようなものです。
遅かれ早かれその人自身を灰にしてしまうのですから。」
パラマハンサ・ヨガナンダ
http://fuu-nirvaana.blogspot.jp/2013/07/blog-post_20.html?m=1 冥想をするのに、冥想の成果にこだわってはなりません。
むしろ神を喜ばすために冥想しなさい。
もし良い結果を求めてすれば、その結果がやってこないとき落胆することになります。
バガバット・ギータの中で、クリシュナは「成果を期待しない行為」を勧めています。
冥想もまたそのような気持ちで、取り組まれるべきです。
成果への執着のない冥想に取り組みなさい。
パラマハンサ・ヨガナンダ
http://mandalaya.com/s7.html >745
慈しみで世界を観るとき、幸せの海の中にいる こういうさ、結果を求めるなとか人生がまやかしだとかあってるような気もするし、現実から逃げてるようにも感じるわな 視点が違えば真実も変わる
万人にとっての普遍的な真実などない
勝義諦(仏教的な真実)から見れば、娑婆の人間は目先の煩悩に引っ掻き回されて内面の真理を見ようとしない愚か者だし
世俗諦(社会的な真実)から見れば瞑想者こそスピリチュアルな世界で悦に浸ってる愚か者だ 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
楽であろうと、苦であろうと、悲苦悲楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受されたものはすべて、「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め、このようにしてそれらの本性を識知する。
諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることなく、安らぎ(涅槃)に帰している。
(スッタニパータ) 瞑想で結果を求めるなというのは
結果を求めると、脳内の理想に逃げ込んで
現実を見なくなってしまうから
現実逃避ではなく、むしろその逆 マウンティングとかの話ではなくて
「現実を見なくなること」は「現実逃避」ではないの? 瞑想>結果を求めると現実を見なくなる=現実逃避>なので結果を求めずにやる=現実直視
って言ってるように見えるけど 「現実を見なくなってしまうこと」=「現実逃避ではない」
って言ってるように見えるけど?
日本語読めてる? マインドフルネスというのは感情や思い込みから離れて現実をそのままに見ていくこと
現実直視 普通に相手を尊重しながら質問すればいいだけなのに
え?
日本語ワカリマスカー?
って煽っていくスタイル 日本語読めてる?
って最初に煽ってきたのは誰?って話か 現実は
つねによく気をつけ、
自我に固執する見解をうち破って、
世界が空なりと観ぜよ。
そうすれば死を乗り越えることができるであろう。
現実は空であり虚妄である 本当にマインドフルであれば人の言葉にいちいち反応しなくなる マーヤー
māyā
神の不思議な霊力または欺きを意味するサンスクリット語。
のちには非真実,幻,迷妄,魔術使いの幻力などの意にもなり,インドのある種の哲学者たちは宇宙のあり方を説いて好んでこれを用いた。
ベーダーンタ哲学,特にシャンカラの学系によれば,人が真実と思っている現実の世界は無明に基づくもの,
つまりマーヤーのようなものであり,われわれの生きている世界は虚妄であるという。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%BC-137218 何もかも疲れたときどうしますか?
仕事のプレッシャーやうまくいかない恋のストレス、人間関係など 寝るのはガチ
夢見たらストレスの脳内物質も消化されてるという話 気をつけて下さいな 仏典でも聖典でも良いけど そのままスラスラ意味がわかって読めるのは目覚めた人と同じ段階にいる人だけですよ
虚妄 虚無とはこんな意味だったのか 自分の想像してたものとは全く違ったとなる可能性大です
>>750
その慈しみは 私にとって幽霊とか宇宙人と同じぐらいな判断保留の言葉だな... >>774
その通り
「もし君に聖者を理解できるなら、君自身が聖者であるはずだ」
パラマハンサ・ヨガナンダ
https://mobile.twitter.com/yogananda_words >>771
「人生の体験をあまりに真剣に受けとってはいけません。
とくに、その体験のために苦しんではなりません。
なぜなら、本当は、すべてはほんの夢にすぎないのですから・・・
もし状況が悪くて、耐え忍ばなければならないとしたら、 その状況をあなたの一部としないことです。
人生のあなたの役を演じなさい。
そして、 それが単なる役にすぎないということを忘れないでください。」
パラマハンサ・ヨガナンダ
http://fuu-nirvaana.blogspot.jp/2013/07/blog-post_20.html?m=1 マインドフルネスって役を演じるような意識を持つもんとは違うんじゃないか >>779
http://fuu-nirvaana.blogspot.com/2013/07/blog-post_20.html
このヨガナンダの言葉をじっくりと読んでいけばマインドフルネス(気づき)に何に気づけばいいのか充分過ぎるほどのヒントを頂ける
特に瞑想方法のところでの言葉を納得行くまで読むと良いよ
少しでも興味を持ったならね
持たなかったのなら読まなくても良いけどね >>780自己レス
マインドフルネス(気づき)において何に気づけば良いのか
に訂正 あなたの本性(真我)は、たとえば映画のスクリーンのようなものである。
スクリーンのなかでは、いろいろな物語があり、アクションがあり、よろこびがあり、悲しみがある。
そこでは、映画(人生)がおこなわれている。
それはたえず変化している。
そして、あなたはその映画(人生)が自分だと思い、映画と自分を同一化し、よろこびと苦しみというサムサーラ(輪廻)のなかで、苦しむのである。
しかし、あなたの本性(真我)は映画ではなく、その映画が映し出されているスクリーンのようなものだ。
映画は変化し続けるが、映像がどのように動いていっても、スクリーンは白い幕でありつづける。
それはなにものにも影響をうけない。
その白いスクリーンが映画の本源であり、私というものの周辺で起こりつづけるさまざまなドキュメントは映し出される映画のようなものなのだ。
私の本性(真我)を知る(悟る)ためには、動きつづけるものの後ろで、けっして動かないものを、探し出すことが必要だ。
しかし、あなたはそれを作りだす必要はない。
なぜなら、それはもうすでに、いま・ここ、にあるからだ。
あらゆる人は、それがあまりにも当たり前のものであるがゆえに、見過ごしている。
それを再発見する方法は、見すごしている元に戻っていくことである。
「私」から、あらゆる映画がはじまる。
「私は医者です。私は太郎です。私は彼女の恋人です。私は金持ちです。・・・」
これらのなかで変化するものは、映画の中の道具にすぎないから、それらは取りのぞかなければならない。
そうすると、いつでも残るのは「私は・・・です」という部分だ。
そこがスクリーンと映画のはざかい地点であり、私の本性(真我)への扉である。
ラマナ・マハルシ
http://ayur-indo.com/meditation/meisou17.html 「客観的状況はいつも中立です。
あるものが悲しく見えるか楽しく見えるかは、あなたの対応によるのです。
自分自身に取り組むこと、外側の環境への自分自身の対応の仕方に取り組むこと。
これがヨーガの神髄です。つまり、心におきる反応の波をなくし、 いつも内側で幸せでいられるようになることです。
外側にあるものを、 いつもあなたを喜ばせるものに変えることは決してできないのです。
あなた自身を変えなさい。」
パラマハンサ・ヨガナンダ
このヨガナンダの言葉と同じような法話が仏教にもある
極楽と地獄と釜とうどんと長い箸の有名な法話
http://www.mobilkubota.com/manabi/246.html 人生の体験が夢にすぎないって考えかたは楽になるための逃げにも感じるから有名な人の言葉でもスルーしときます 浮かんでは消える感情や思いは無常なものであって、それに振り回されずにもっと深いところにある洞察力に目覚めるのがマインドフルネスだとは思うけど、自分を演じるという考え方には違和感があるなあ 流れで自分の手元にきた役割をこなしていく
役割は役割であり自分ではないって感じなんかな マインドフルネスの状態でいま見ている主体は役割ではなく自分ではないかい?
過去や未来が映画のようなものであって、そこにいると思ってる自分は、自分で意味付けした役柄みたいなものだから
そこからは離れよう・離れるのがマインドフルネスだっていうなら分かるんだけど 呼吸に集中とか、感覚に集中だと思考におおわれたり、娯楽に逃げたりすることが多い
楽しんでマインドフルになるコツはあります? >>776
>もし状況が悪くて、耐え忍ばなければならないとしたら、 その状況をあなたの一部としないことです。
これと同じことを釈迦も言ってるのさ
マインドフルネスの権威熊野先生が引用するバーヒヤ経でね
http://manikana.la.coocan.jp/canon/bahiya.html
こちらの方が分かりやすいという人もいるかもしれない
雑阿含経より正観察
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7051902.html >>783
連投アピって承認欲求の塊か?
いい加減ウゼーんだよ
>>784
ホンマそれ >>788
自分に生じる喜、楽の感覚に集中する
本当はそれらに集中するよりそれを観察することに集中した方がいいと思うけど
たのしんでマインフルネスするならまずそれらに集中してもいいかも
思考や娯楽に逃げたら、逃げてるときはそれがある意味楽しくて逃げてるわけだから、
逃げてる状態に没頭しないでそこに生じてる楽しさに気づき集中する
生じてる楽しさに気づけたら冷静になるし自然とマインドフルネス(観察)にシフトできると思います
楽しさを使っているのでわりと楽しんでできるかと >>788
思考の場合思考に覆われていることにふと気づけたらそこで考えるのをやめると良いよ >>788
とにかく意志で続けるしかない
スポーツや楽器演奏と同じように、瞑想も上達するほど楽しくなってくるよ
世の中の大半の人はそれを乗り越える前にマインドフルネスをやめちゃうんだろうね
瞑想は特に上達がわかりにくいけど、一度サマーディやその先の洞察智を経験したら、もう瞑想の無い生活は考えられなくなってくる >>794
そういうのわざわざアピってる奴ほどなーんも分かってないんだけどなw 人に理解される必要はない
草を生やす必要もないし
わからない人間はわからないままでいい >>793
その楽しさも無常でしょ、遅かれ早かれ
瞑想中毒的依存、体験中毒的依存=執着
小乗仏教そのもの
その時間を困っている人のために動けないの?
キリスト者のホームレス炊き出し支援とか慈悲行になってるよな
そんなの偽善だ 瞑想を楽しめなんて言う奴よりマシ
自己満足の洞察智という瞑想主義者になって自我強化してどうするの >>796
じゃあ今更5chで語る事もないだろ
サイナラ〜
勘違いバカは2度と戻ってくんなよww >その時間を困っている人のために動けないの?
掲示版で人を非難することが
困っている人のために動くことなのかな >>788
>>792の訂正レス
思考に覆われてることに気づいて客観的になれたら
「あ、自分はこれこれこういう思考をしている」
とまず受け止めてみると良いと思う >>797
自分勝手に話を解釈し過ぎじゃないですかね
私は慈悲行を軽んじてはいませんし、瞑想が最優先だとは言ってないですよ
まだ心が定まらないうちは、自分自身の調心・戒定慧に力点を置く方がいいでしょうし、
高い智慧が土台にあってこその慈悲行だと思うんですがどうでしょう
それに、瞑想に躓いている人に助言するのも慈悲の実践じゃないですかねえ >>788
7年くらい続けたけど無いと思う
そもそも念(サティ)ていうのは感覚器官を防御することだってお経にちゃんと書いてあるよね(スッタニパータ)
煩悩を断ち切るための瞑想法なのに(それが証拠に『大念住経』の身念処には不浄観が入ってる)、
ストレス解消法みたいにマインドフルネスって言ってるのはおかしいんじゃないかな ダンスや音楽に集中するサマタ系のマインドフルネスがあるが、楽しんでやったらダメだぞ >>797
貴方は中国で仏教が変容したことで慧が失われてしまったというのと
曹洞宗は煩悩万歳だから曹洞宗僧侶には犯罪人が多い
を持論としている人? ちょっと前にマインドフルにテレビを楽しむことができるか?という問いに
できると力説している人がいた気がしたが >>803
いえ、貴方の説明は、娯楽の代わりのような楽しい体験という
思考形態として抱え助言してますよね
渇愛によって、サマーディ体験を欲している書き方で
渇愛が高じて固着化しハマり込む、智慧とならない単なる強迫的体験欲求
心の穴埋めとしての瞑想の説明に読めましたので
仏典に、一時的で壊滅する集中三昧のみで智慧の解脱はないと説かれてますし、
非同一化を徹底させる観察と楽しいサマーディ体験にハマることは
異なりますよね >>791
娯楽に逃げたらその楽の感覚に集中する
これ盲点だった、ありがとう
>>793
楽しんでできたらいいと思う
楽しむことにとらわれるなって意見もあるみたいだけどね
>>801
思考にとらわれたらそこで考えをやめる、受け止めるね
アドバイスありがとう 動機付けとして初めのうちは楽しみや快楽を求めても良いと思うけどねえ
出家者じゃないんだから、なんらかの利益を求めてもいいじゃない、それで少しでも楽になるんなら
そうした楽しみや快楽が長くは続かないことは続けていくうちに瞑想者自身がよくわかってくる
教義的な正解ばかり押し付けて、それでやる気無くしちゃって、せっかく瞑想に出会った人の縁を壊すのは如何なものかな >>783
ヨガナンダさんに限らずいろんな人が同じことを言ってるね
全ては主観に過ぎない事を思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ。従って君の意のままに主観を除去するがよい。するとあたかも岬をまわった船の如く眼前に現れるのは、見よ、凪ぎと、まったき静けさと、波もなき入江。
マルクス・アウレリウス
纏脱(てんだつ)は只だ自心に在るのみ
菜根譚 甕にふたつの取っ手があると同じく、どんな事柄にもふたつの面がある。悪いと思えばいつでも悪い。よいと思えばいつでもよい。
アラン 何言ってんだこいつ
右のおっぱいと左のおっぱいとどっちがいいとか無いだろう 30分瞑想4日目
今日もまた30分やるのが少し楽になってきた
でも途中で体を動かしたい、瞑想なんて切り上げたいという欲求がすごい湧いてくる
そのへんで同時に色んな音や声や空想もたくさん出てくることもあってまだこの欲求をすぐにはうまく処理できない
実際すこしモジモジと体を動かしてしまった
上手くできないながらも頑張ってその欲求をやり過ごしているとだんだん内なる声が落ち着いてきて体を動かして瞑想をやめたい欲求と向き合えるようになる
そうしているうちに集中が途切れた時にだけ欲求が湧いてくることに気づく
つまり集中しているつもりで細かい集中の途切れがあった
もっと細かく集中しようとしていると不思議にそれが出来てくる
最後の方はかなり細かく集中できて、体を動かしたりやめたりしたい欲求が出てくる隙間が全く無くなって、瞑想がとても楽だった
とはいえうまくなったのか、瞑想の途中に集中が途切れたことでマラソンのペースを落としたかのようになって集中力が回復したから最後の方は上手くいっただけなのかはまだ分からない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています