カトリックの洗礼を受けたいんだけど [無断転載禁止]©2ch.net
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詳しい人います?
教会行って申し込めばいいんですか? しかし、本音を言わせてもらえば、
洗礼なんて受ける必要ない。
信仰心があれば救われる。
聖書読んで、信仰してればそれでOK。 >>40
カトリックでも3ヶ月ぐらいで受洗した例を知ってる
小さめの教会に11月とか12月頃にひょっこり行ってみ 1年入門講座に通おうという気持ちが無いなら受洗後も続かないと思う 2000年(主日B年) 3月12日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
主イエス・キリストは、私たちを罪と死の世界から救い出して神のもとへ導く業を、“主にその過越の神秘によって成就されました。”
主キリストは “御自分の死をもって私たちの死を打ち砕き、御自分の復活をもって私たちにいのちを与えてくださいました。”(典礼暦年の一般原則 18)
私たちは洗礼の秘跡によって、この救いに与かっているのです。
このため、主の受難と復活からなる過越の聖なる祭儀は、教会の一年間の祭儀の頂点をなすもので、私たちは四旬節の6回の主日のミサによって、これに備えて行きます。
今朝の使徒書の朗読の中で、私たちは創世記のノアの洪水の物語りへの言及に続いて、次のように聞かされました。
「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。」(Iペト v.21)
洗礼によってキリストの救いに与かる ・・・・・ 、あるいは与かっているということは、私たちキリスト者とこの世の人々とを区別する事柄であります。 (つづき)
Iペト v.21 後半の 「正しい良心」 という言葉は、ややあいまいな表現かもしれませんが、キリスト者が受けた “罪と死からの救い” と “神の国への復活の希望” に固く立つ心の姿勢(心構え)、と理解するのが適切だと思います。
私たち信者は、 “既に受けた洗礼とイエス・キリストへの信仰” によって、この世の人々から区別されていることを、特にこの期節に、十分に自覚したいと思います。
私たちは今年も四旬節のミサを守り始めました。
それはイエス・キリストの救いの頂点である受難と復活の祭儀を準備する期間です。
「四旬節の典礼によって、洗礼志願者はキリスト教入信の諸段階を通して、信者はすでに受けた洗礼の記念と償いの業を通して、過越の神秘の祭儀に備えるのである」(典礼暦年の一般原則 27)。
今年も復活の主日を、会衆の大いなる “アレルヤ” で祝うことが出来るように、ご一緒に備えて行きましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>51
司祭にもよるよね。
カトリック某教会、早く司祭移動しないかな?
別な神父さまに変わったら、再開しようかと思う。 ____
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人 「われは思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯せしことを告白し奉る」
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人 (わが過ち、わが過ち、わがいと大いなる過ちなり)
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人 「われは思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯せしことを告白し奉る」
に続けて、
三度胸をどつきながら
mea culpa, mea culpa, mea maxima culpaaxima culpa
(わが過ち、わが過ち、わがいと大いなる過ちなり)」
と
教会で叫ばなければならないwwwwwwwww
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人 「われは思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯せしことを告白し奉る」
に続けて、三度胸を打ちながら
mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa
(わが過ち、わが過ち、わがいと大いなる過ちなり)」と唱える。 現代風www
「全能の神と
兄弟の皆さんに告白します。わたしは思い、ことば、行い
怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての
天使と聖人、そして兄弟のみなさん、罪深いわたしのために
神に祈ってください。」
これを毎週教会に行って言わないと
罪は許されません。
カトリックの洗礼を受けたら毎週、罪人になります。www 2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
「それから、“霊” はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。 その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(マコ vv.12-13)
マルコ福音書は、イエスが誘惑を受けられた事実だけをここに書きました。
恐らくそれは、サタンの誘惑がこの時だけではなくて、イエスの生涯にわたってのものであったという理解によると考えられます。
洗礼を受けてメシアとしての歩みを踏み出したイエスに、サタンがそのメシア性を妨げるための誘惑を仕掛け、イエスがこれをどのように退けられたかを福音書から読み取ることが期待されているのです。
ファリサイ派の人々が来て天からのしるしを求めたとき(マコ 8:11以下)、ペトロが主の受難の予告に反論したとき(マコ 8:31以下)、さらに十字架の上での最後の時にも(マコ 15:29以下)、サタンの誘惑は続いていました。
私たちがキリスト教信仰を、そのような誘惑を退けられたイエス・キリストの福音への理解によって捉え直すことは、悔い改めの大切な前提です。
「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」(マコ v.15) (つづき)
“悔い改め” ということが、通俗的には “悪い行いを改めて良い行いをする” というふうに理解されています。
私たちを取り囲む世間では、何でも都合のよいこと、困難を解決したり生活を豊かにしてくれるもののことを “福音” と呼んでいます。
しかし聖書が語っている “悔い改め”、特にイエスが語り、使徒たちが宣教した “悔い改め” はもっと特定のことに向けられていました。
それは福音を信じるようになること、イエス・キリストの受肉と死と復活によって実現した神の国の福音を受け入れることであります。
教会が使徒継承によって受け継いで来たものは、キリストの福音、罪の赦しの福音、神の国の福音でありますから、今朝私たちは改めて 「悔い改めて福音を信じなさい」 と呼びかけられているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>75-76
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ____
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人 来る来る詐欺
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人 > > 神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
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人 > > 神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。 715:老クリスチャン 2018/02/16(金) 11:12:14.41 ID:47uYWnDB
2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8015 Iペト 3:18022 マコ 1:12015
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1285440009/715 ____
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人 2009年(主日B年) 3月1日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。」(Iペト v.21)
ニケア・コンスタンチノープル信条が宣言している “罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を認め” という信仰が、私たちのものの考え方や日常生活の中に再び回復されねばなりません。
いったいいつ頃から私たちの教会は、罪と死からの救いという福音のいちばん中心的な主題を語らなくなってしまったのでしょうか。
この Iペト のテキストは、古代教会の洗礼式の式文から引用されたものですが、そのような教会の伝承を深く学ぶことに、これまで私たちはあまりにも怠慢だったのではないでしょうか。
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25)
「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。 これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェ 1:7)
「神はキリストによって世を御自分に和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたち(すべてのキリスト者!)に委ねられたのです。」(IIコリ 5:19)
私たちキリスト者の本国は天にあります(フィリ 3:20)。
悔い改めて福音を信じることなしには、キリストの再臨の希望、神の国を受け継ぐ希望について弁明する(Iペト 3:15)ことは、決して出来ません。
洗礼志願者への入信のための教育とは、そういうものであることを、すでに洗礼を受けた私たち信者はこの四旬節に再認識したいものです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より > > 神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
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人 715:老クリスチャン 2018/02/16(金) 11:12:14.41 ID:47uYWnDB
2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8015 Iペト 3:18022 マコ 1:12015
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1285440009/715
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人 > ●連続殺人犯を預言者として崇める奇痴害キリスト教●
>
> <列王記下>
> エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上っていくと、町から小さな子供たちが出て来て彼を嘲り、「禿げ頭、上って行け。禿げ頭、上って行け」と言った。(2:23)
> エリシャは振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。(2:24)
>
> 要するに「やーいハゲ頭ww」ってからかった子供に逆上して起こした連続殺人事件である。
> ブレイビク、禹範坤に次ぐ世界第三位の連続殺人犯である。
> エリシャは反左翼テロの色彩が強いブレイビクよりも、自らの不遇にファビョって殺しまくった禹範坤に近いDQNである。
> キリスト教はこういうDQN連続殺人鬼を「預言者」として崇め奉っているのである。 < `∀´> 洗礼志願者か?
(´・ω・`) はい。
< `∀´> お前ら宣教する気あるのか?
(´・ω・`) いいえ。
< `∀´> 宣教する気ないなら洗礼受けるなよ。
(´・ω・`) はい。
< `∀´> お前ら洗礼受けなくても困らないから。
(´・ω・`) はい。 > > 神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
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人 2009年(主日B年) 3月1日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。」(Iペト v.21)
ニケア・コンスタンチノープル信条が宣言している “罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を認め” という信仰が、私たちのものの考え方や日常生活の中に再び回復されねばなりません。
いったいいつ頃から私たちの教会は、罪と死からの救いという福音のいちばん中心的な主題を語らなくなってしまったのでしょうか。
この Iペト のテキストは、古代教会の洗礼式の式文から引用されたものですが、そのような教会の伝承を深く学ぶことに、これまで私たちはあまりにも怠慢だったのではないでしょうか。
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25)
「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。 これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェ 1:7)
「神はキリストによって世を御自分に和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたち(すべてのキリスト者!)に委ねられたのです。」(IIコリ 5:19)
私たちキリスト者の本国は天にあります(フィリ 3:20)。
悔い改めて福音を信じることなしには、キリストの再臨の希望、神の国を受け継ぐ希望について弁明する(Iペト 3:15)ことは、決して出来ません。
洗礼志願者への入信のための教育とは、そういうものであることを、すでに洗礼を受けた私たち信者はこの四旬節に再認識したいものです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 イエスが神の子であり
イエスの死によって罪が許されるということ信じているなら
浸礼を受ける基準は満たしている
1年必要とかお布施がいくら必要とかそんなの利権目当てのビジネスだからね
なんだったら近所の川で私が施しますよ(今寒いけど急ぎであればw) 1.」金持ち
2 マトモナ肩書
3 親の七光り
以上いずれかの要件を満たしていなければ3か月で終わる 親の教育が悪いから
こどもが教会に来なくなる
教育の悪い親は
自分の教育の悪さを知らない あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。(マタイの福音書 28:19)
自分の信じていることを他人に押し付けることを善だと勝手に思い込むことができるのは、
他人の自由を尊敬していないからであり、他人よりも自分の方がエライとひそかに思っている
からであり、他人がキリスト教以外の教えを信じていることを許せないからであり、
キリスト教を信じる自分たちだけが恵みを受ける資格があると思い込んでるからです。
イエスは弟子達に、「行って、世界の人々を私の追従者にせよ」、と命令したのです。 オレも教会行かないよ。
面白くないし。
時間の無駄だし。
家でゲームしてるほうがよっぽど充実する。 教会=善からぬことを画策する有閑階級の宴
騙されたとおもってもそれすら言えない空気に気づいた時には精神ボロボロ 暇と金に余裕がないと行けないよね。
最初は教会に救いがあると思ったが、
ミサは神秘効果は初めのうちだけだ。
教会奉仕してもおまんま食えない。
愛?ねーよ、そんなの。
祈りましょうw。で済まされるだけ。
創価の方が、仕事紹介してくれたり、色々世話焼いてくれるから
同じ魂をうるのにも、実利がある方がいいぞ. 創価が嫌なら、他にも真如苑、幸福の科学
とか面倒見の良い宗教団体は
世の中には、たくさんあります カトリックなんて偽善者の集まりですよ!
欧米や中南米のカトリック諸国なんか
司祭による性的虐待などのスキャンダルまみれ
だし、カトリックの総本山のバチカンも
汚ない世界で、大司教、枢機卿はマフィアと
繋がっていてマネーロンダリング事件などの
スキャンダルなどがあります >>122
前に質問スレかなんかで仕事紹介してもらいたいって言ってたやつか?
色々と安定したようで良かったな 2000年(主日B年) 3月19日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
イエスの12人の弟子たちの中で、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、特に主イエス・キリストの福音の重要な証人として、福音書の中で語られています。
その三人が、この山上でのイエスの変貌の出来事を体験したのでした。
説明することの困難な、しかし神の大いなる 「秘められた計画」(エフェ 1:9,3:3以下、コロ 1:26-27 参照)をかいま見る体験をした後、彼ら三人は雲の中から語られる父なる神の声を聞いたのでした。
「これはわたしの愛する子。 これに聞け。」(マコ v.7)
私たち教会は、この使徒たちの証言を通して、今朝この神の語りかけを聞いているのです。
今朝の集会祈願では、この マコ v.7 を取り上げて、「聖なる父よ、あなたは “愛する子に聞け” とお命じになりました」 と、祈り始めています。
そこで、この 「私の愛する子。 これに聞け」 という語りかけについて、ご一緒に学んでみたいと思います。
キリスト教は一つの “ケリュグマ(宣教)” から始まったのでした。
紀元30年頃、パレスチナにおいて、使徒たちが復活の主から受けて、同時代の人々に宣べ伝えた “宣教” から、すべては始まったのでした。
それは少し前に起こった一連の出来事が、神の救いの行為であったという “宣教” です。 (つづき)
・・・・・ イエスは神によってこの世に遣わされた。 ゴルゴタにおける彼の死は、単なる普通の人の殉教の死、一人の人物の英雄的な死などではない。
そうではなくて、神がこのことを通して人間に罪の赦しを提供された、偉大な贖いの行為であった ・・・・・ 、という “宣教” です。
復活されたイエスが使徒たちに現れてこのことを理解させ、聖霊を与えて彼らの “宣教” を導き始められました。
同時代の人々がこの宣教された福音を信じて受け入れることは、また彼らも聖霊を受けることと密接につながっていて、このようにして彼らは救われた人々の共同体である教会に加えられて行きました。
彼らにとって、 「私の愛する子。 これに聞け」 とは、この “宣教” を信じて受け入れることであったのです。
この最初の使徒たちから始まって、代々の教会が使徒継承によって受け継いで来た “ケリュグマ(宣教)” を、今日の私たちは二つの形で持っています。
その一つは “新約聖書” であり、もう一つは初期の “キリスト教信条” です。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 ◆キリスト教の歴史は迫害と殺戮の歴史◆
キリスト教の残虐性はいったい何に由来するのか。
それはカトリックにもプロテスタントにも共通している。
その主たるものは下記のごとくである。
? 十字軍によるユダヤ教徒・イスラム教徒の犠牲者は何百万にも及ぶ。
? カタリ派迫害ではカトリック教徒も含めて約百万人が殺された。
? 異端審問、魔女裁判は13世紀〜17世紀まで行われ同性愛者は拷問された。
? ヨーロッパではキリスト教徒同士で宗教戦争が行われた。
? スペイン人が新大陸で先住民1千万人以上を殺した。ホロコースト
? 英人が北米でインディアン1千万人を殺し尽くした。ホロコースト
? 英人がオーストラリアで先住民をほぼ殺し尽くした。ホロコースト
? 英人がアフリカで黒人を奴隷として拉致し酷使した。
? スペイン人・ポルトガル人が日本で奴隷売買をして、秀吉を激怒させた。
? キリシタンが寺社放火、僧侶神官虐殺を行った。宗教弾圧 2006年(主日B年) 3月12日 四旬節第2主日
「これはわたしの愛する子。 これに聞け。」(マコ v.7)
イエスがヨハネから洗礼を受けられたときに天から聞こえたのと同じ 「わたしの愛する子」 という称号が再び登場していることに注目しましょう。
それはダビデ家の王の即位の定型句である 詩 2:7 を想起させるもので、共観福音書がこれをイエスが神からの救い主であることの宣言として理解したことは明らかです。
この “山上の変容” の伝承では、さらに 「これに聞け」 が加えられています。
イエスはこのとき、将来弟子たちがイエスの受難と死と復活の出来事の意味を理解するようになってから、この 「これに聞け」 を彼らの宣教の主題とすることを命じられました。
全世界のカトリック教会の会衆は、四旬節第2主日のミサで、今年も使徒たちの証言する 「これに聞け」 という天からの声を再び聞いているのです。
ミサの “ことばの典礼” で福音書が朗読されるとき、“イエスがそこで語られる” という説明はいわば幼稚な比喩であって、それは決して朗読者がまるで “口寄せ(サム上 28 参照)” のようになって死んだイエスを呼び起こすという意味ではありません。
聖伝と聖書に関係なく、今の時代に対する独自のイエスのメッセージを新しく聞くことが、ミサをささげる会衆に期待されているという主張は、ただの作り話にすぎません。
「これに聞け」 の 「これ」 を明確に理解することをイエスが教えてくださったと、共観福音書は証言しているのです。
福音とは “キリストの福音”、“受難と死と復活によって実現した罪の赦しの福音”、“神の国の福音” であって、イエスの死と復活から切り離されたただの “愛の教え” や “社会から見捨てられた人々への援助” のことではありません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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