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十十十 カトリック249 十十十 [無断転載禁止]©2ch.net

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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/02/05(日) 06:18:00.93ID:HvW45xr5
カトリックについての交流スレッドです。
未信者・求道者・他宗教・無宗教の方も、どうぞ安心してご投稿下さい。
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十十十 カトリック248 十十十
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0059老クリスチャン
垢版 |
2017/02/08(水) 15:34:29.09ID:ucFA/g69
【主日についての考察 @】
フランシスコ会訳の聖書で、黙 1:10 の 「主日」 には、次のような訳注がついています。
「主日」 は、主にささげられた日であり、安息日である。
使 20:7 と Iコリ 16:2 では、この日を 「週の初め」 としているが、キリストの復活を記念する日となり、「主日」 と呼ばれるようになった。

「主日」 あるいは 「主の日」 という言葉は、聖書では二つの意味で使われています。
第一は旧約聖書の用法で、終末の裁きと結びつけて用いられています(イザ 2:12、アモ 5:18、ゼファ 1:14 等)。
英語では通常、これを the day of the Lord と翻訳しています。
そしてこれが新約聖書では 「怒りの日」(ロマ 2:5)、「大いなる日」(ユダ 6)、「かの日」(マタ 7:22) など、いろいろな表現で述べられています。

第二は、上記の注で述べられているように、現在の日曜日のことを指しています。
英語では通常、これを the Lord's day と翻訳して、区別しています。
ただし、これが安息日と一つにされた (理解されるようになった) のは中世になってからで、原始教会では厳密に区別されていました。
このため、安息日との関係については、現代でも神学的な論議の対象になっています。
0060老クリスチャン
垢版 |
2017/02/08(水) 15:34:57.24ID:ucFA/g69
【主日についての考察 A】
教会ではその誕生の時以来ずっと 「主日」 を、「キリストの復活を記念する日」、それゆえ 「ミサをささげる日」 として守って来ました。
カトリック教会はこの日を定義して、次のように述べています(典礼暦年と典礼暦に関する一般原則 4)。
「毎週の初めの日は、主の日、または主日と呼ばれるが、その日に教会は、キリストの復活の当日にまでさかのぼる使徒伝承により、過越の神秘を祝う。
このため主日は、根源の祝日としなければならない。」

キリスト教のすべての教派教団にとって、上記の理解が基本的には受け入れられていると考えてよいでしょう。
しかし、実際上の解釈の仕方には、歴史的に様々な考え方がありました。
その呼び名も、「主日」 の他に 「聖日」 や 「日曜日」 など、いろいろあります。
現代では 「聖日厳守」 という主張をするのは、ほとんどプロテスタントの教会だけで、それもすべてという訳ではなさそうです。
つまり、日曜日という日を丸一日 「聖別する」(エレ 17:22 参照) という理解が一方にあり、他方では、この日には (何処ででも) ミサや礼拝に参加するということだけを大切に考える、そういう理解がある訳です。
0061老クリスチャン
垢版 |
2017/02/08(水) 15:35:24.49ID:ucFA/g69
【主日についての考察 B】
さらに具体的に考えると、実際に信者が主日に教会へ行くのは何をするためなのかという理解についても、現代では非常に様々であると言うことが出来ます。
近代の博愛主義や人道主義は、「形式的に礼拝 (あるいはミサ) に出席することよりも、隣人を愛し、隣人に奉仕することが大切なのだ」 と主張しました。
その影響は非常に大きく、今も多くの信者の考え方に影響を及ぼしています。

自分自身が 「ミサを共にささげる」 ということよりも、何らかの奉仕を分担することにこそ意義を感じている信者が、実際には意外に多いのです。
御聖堂の入り口で受付の奉仕をする、ミサの中で待者をつとめる、あるいは集会前後に駐車場の案内係をつとめるとか、特にご婦人たちは信者の食事会のために料理を作るなどということがあります。
「両方とも大切だ」 と言ってしまえば、確かにそうかも知れません。
しかし私は考え方の基本として、「何が第一なのか」 「何が主目的なのか」 ということを、やはり明確にしておくことは大切だと思うのです。
0062老クリスチャン
垢版 |
2017/02/08(水) 15:35:52.01ID:ucFA/g69
【主日についての考察 C】
これまでの解説で、現実には、教会にはいろいろな考え方や理解の仕方があるということが分かったと思います。
カトリック教会が教会法典で 「主日およびその他の守るべき祝日には、信者はミサにあずかる義務を有する」 と定めているとしても、それは信者が信仰の問題で脱線しないための最低限度の歯止めでしかありません。
その意味を、一人一人の信者がどのように理解し考えるかは、私たち自身の課題であって、決してただの形式主義に逃避するべきではないのです。

私自身がこの問題について、これまで考えに考えて到達した一つの理解を、以下に述べてみたいと思います。
これが唯一の正しい理解であるとか、あるいは最も標準的な理解である ・ ・ ・ などと主張するつもりはありません。
ただ、真面目にこの問題を考えたり、判断に迷っておられる方々のために、少しでもお役に立ちたいと思い、その際の参考意見として書かせていただきます。
お読みくださる皆様が、自主的で Critical な判断力によって、役に立つものは吸収し、不要なものは捨ててくださることを期待します。
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