坐禅と見性第114章馬が田に入り、牛が田に入り、早乙女が田植えする [無断転載禁止]©2ch.net
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このスレの1章は、南予さんが建てたスレッドである。
禅は、来(きた)る者は拒(こば)まず、去る者は追わず、である。
スレの興隆は、時空のながれ、いっときもとどまらず、恒常が無い。
遠くの山々は、遠く青く、我を旅立ちに誘う。
あの青い山並みの向こうに、何があると言うのか。
白い雲は、山にかかると、さっと分かれて、又、元に戻り何事も無かった如く流れていく。
水も又、川面に顔を出している大石にあたると、さっと分かれてまた、もとの流れとなる。
行く雲、流れる水の振る舞いの如く修行僧が風景に溶け込んでいく。
縁があって、対話してきた各章のつらなり。
1000章が、つぎのステップである。
坐が坐のまま、念仏、称名が真理、ダルマ、法である、さとりである、ほとけである、われら。
公案に参禅す。
問う
「片手の人がたたく拍手の音を聞いてこい 」
答える、
「 」
【前スレ】
坐禅と見性第113章銀椀裏に雪を盛る(ぎんわんりにゆきをもる) [無断転載禁止]©2ch.net
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【過去スレ】
坐禅と見性第112章ホワイトオータムからブラックウインターへと [無断転載禁止]©2ch.net
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坐禅と見性第111章 一茎草(いちけいそう)これ仏殿 [無断転載禁止]©2ch.net
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坐禅と見性第110章 頑張れそのうち聖火も消えるのでは心配
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1466980518/ 今の時代は宗教のあのようなこのような事は図書館に行けばまともな本借りられるけど金とかクダラナイ本カルトの本借りる
な世。私は何時もまぐれ当たりでばかりに出会うしギャンブル運もある本の当た前に出会う?キャンベル 千の顔をもつ英雄
生きる自由 ・・・神話の目的は個人の意識と宇宙の意識とを和解させ、それによってこの様な生命の無知にたいする要求を
追放するところにある。さらに和解は時間といううつろいやすい現象と、すべてのなかで生きかつ死に行く不滅なる生命の真
の関係を悟ることによって成立する。「人が着古した衣服を捨てて新しい別の衣服に着替えるように、自己も古びた身体を捨
ててあたらしい他の身体に入って行く。この自己を剣は切らず、火もこれを焼かない。また水もこれを濡らさず、風もこれを
乾かさない。この自己は切られず、焼かれず、濡らされず、乾かさない。恒存し、偏在し、堅固、不動な自己は永遠である」
行動の世界で、人は己の行為がもたらす結果を思い煩うなら、永遠の根源にたいする集中力を失ってしまう。しかし己の行為
とそのもたらす成果とを「生ける神」の膝に捧げるならば、供え物と同じようにそれによって死の海の束縛から解放される。
「執着なく、つねになすべき行為を遂行せよ。・・・すべての行為をわたしにまかせ。自己の心を念じて、願望なく、所有欲
を離れ、憂悶の苦熱を脱して、戦え」このような力強い洞察を獲得し、落ち着いて自由に振舞い、ウイラコッチャの恩恵が和
が手を通じて流れ込むのを活き活きと感じる時、英雄はその生業が屠殺業であれ、はたまた王であれ、恐るべき荘厳な「宇宙
の法」の自覚した搬送者となる。 着慣れた上着を脱ぎ捨てる様に
ビリーブhttps://www.youtube.com/watch?v=6LfvLyHqx1YI 書簡を訪おつても公案は同じ苦制感覚凝念静りょの基本練習するだけ
観察も同じで基の本を実工しない私は我流に固まつて居ると分かつている
のですがまず盆脳があれもこれものタコ足配線の整理しないと無ダラーチャクラ
で留まつている食べるエロDVD観る威張るオーいは不味い不味いで2017年も
あいかわらずだなあ兼ねないからパチンコは出来ないけど酒られない現実でも
死んだ先どうするのあの世でも地獄では情けないけど地獄楽しい?天国つまらん
煩悩のレベル上げないと見回り半の蛇が龍になれない理由?少しは修行しないと不味いかな
体段々壊れて行く死ああ不味いなあ 秋の巻第5帖
臍(へそ)の緒は繋がっているのであるから
一段奥の臍へ臍へと進んで行けば
そこに新しき広い世界大きく開けるのであるぞ
自分無くするのではなく高く深くするのであるぞ
無我でないぞ
分かったか
海の底にはキンはいくらでもあるぞ
幽界と霊線繋ぐと自己愛となり
天国と霊線繋げば真愛と現われるぞ
喜びも二つあるぞ、三つあるぞ
大歓喜は一つなれど
次の段階では二つとなるのであるぞ
第6帖
他を愛するは真愛ぞ
己のみ愛するのは自己愛ぞ
自己愛を排してはならん
自己愛をひろげて大きくして
真愛と合致させねばならん
そこに新しき理(みち)ひらけるのであるぞ
自己愛を悪魔と説くは悪魔ぞ
無き悪魔作り、生み出すでないぞ
一段昇らねば分からん 第7帖
公(おおやけ)の事に働くことが
己のために働くこと
大の動き為すために小の動きを為し
小の動き為すために個の動き為すのであるぞ
﹅ に ﹅ あり、また ﹅ あると申してあるぞ
第8帖
何事も喜びからぞ
結果からまた喜び生まれるぞ
この道理分かれば何事もありやか 第26帖
中は無、外は有であるぞ
中になる程無となるのじゃ
同じ事くり返すと、人民申すであろうが
得心して居らんから
肝心の事じゃから、クドく申しているのじゃ
人民それぞれのミタマによって役目違うのであるぞ
手は手、足は足と申してあろう
何もかもマゼコゼにやるから結びつかんのじゃ 正方眼蔵 見仏 釈迦弁尼仏が大衆に向かって言われた。「諸相と非相を同時に見ることができればそのまま如来に見える
事になる」いま言うところの見諸相と見非相、つまり諸相が見えていることと、同時に非相が見えている事は、そのまま
全体が透徹していると言うことであるしたがって、それは如来にまみえていることになる。この仏に見えるという事は、
既に仏道が開かれて実現している事を示すのである。仏にまみえる眼が活き活きととしてはたらいている路行が、仏に
参学する眼に外ならない。ところで自分の仏を自分以外のものに見たり、さまざまなものがもつれあってくる。けれども
そうした中で仏に見える事、すなわち見仏を参学、見仏をすでにうなずいたり、見仏をさらに抜け出して、見仏を生き抜い
たり、見仏を使いこなしたり、というように見仏について色々な働きが出てくる。こうした事はいずれも昼は昼で日に向か
い、夜は夜で月に向かう事にほかならない。・・・・??見るという事はジタバタしてもこちらからもあちらからも身得る
のが見えるのか?まあ絵絵か要するに修行して空の三昧が身についてない私は注意散漫で修業の基礎からやり直し
参歩以上は駆け足で坐禅使用。人の欠点よりまあ良い所も見よう真実の裏ばかり見るなそれなりに真実にも事情が有る師 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています