坐禅と見性第114章馬が田に入り、牛が田に入り、早乙女が田植えする [無断転載禁止]©2ch.net
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このスレの1章は、南予さんが建てたスレッドである。
禅は、来(きた)る者は拒(こば)まず、去る者は追わず、である。
スレの興隆は、時空のながれ、いっときもとどまらず、恒常が無い。
遠くの山々は、遠く青く、我を旅立ちに誘う。
あの青い山並みの向こうに、何があると言うのか。
白い雲は、山にかかると、さっと分かれて、又、元に戻り何事も無かった如く流れていく。
水も又、川面に顔を出している大石にあたると、さっと分かれてまた、もとの流れとなる。
行く雲、流れる水の振る舞いの如く修行僧が風景に溶け込んでいく。
縁があって、対話してきた各章のつらなり。
1000章が、つぎのステップである。
坐が坐のまま、念仏、称名が真理、ダルマ、法である、さとりである、ほとけである、われら。
公案に参禅す。
問う
「片手の人がたたく拍手の音を聞いてこい 」
答える、
「 」
【前スレ】
坐禅と見性第113章銀椀裏に雪を盛る(ぎんわんりにゆきをもる) [無断転載禁止]©2ch.net
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【過去スレ】
坐禅と見性第112章ホワイトオータムからブラックウインターへと [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1477151725/
坐禅と見性第111章 一茎草(いちけいそう)これ仏殿 [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1473065786/
坐禅と見性第110章 頑張れそのうち聖火も消えるのでは心配
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1466980518/ 黄金の巻第80帖
慾が深いから先が見えんのじゃ
悪神よ、今までは思う通りに
始めの仕組通りにやれたなれど
もう悪の利かん時節が来たのであるから
早く善に立ち返って下されよ
善の神まで捲(ま)き入れての仕放題
これで不足はもうあるまいぞや
いくら信仰しても
借銭無くなるまでは苦しまねばならん
途中でへこたれん様に
生命がけで信仰せねば借銭なし難しいぞ
途中で変わる紫陽花(あじさい)では
御用難しいぞ
欲が深いから分からないのかもしれませんが、与えられしものだけを喜べとは
神は何故これを生まんとされたのか、満足しなかったからではないのでしょうか。
今また我が子に自分の智慧で帰って来なさいと、お釈迦様やイエス様を送りこまれた。
真理は言葉の中ではなく私たちの内にあるのだと…。 >>40
そうした場合は、先に出典を明確にされるのがルールかと。
まぁ、常識で考えてみましょうか。
菩提樹の樹の下で坐禅を組み、陽の光や雨は凌ぐ事は易くとも、
沙羅双樹、木と木の間でのそれは坐禅する環境に適するとは
思えませんし、スリランカでインドから移植されたものを
実際に見ましたが、その様な事は到底考えられません。 >>46 雀鬼 大山 さん
2500年前、その樹が何と言う名前で呼ばれていた樹だったのか。
それは判然とはしない事です。
言える事は、ほぼ死者と見まがうほどに体力も気力も命の火が消えようとしているガウタマ・シッダルータが少女シッダールタが見かねて家に走り帰り、乳粥、ヨーグルトみたいなものか、緩く発行させてソフトなチーズみたいなものかを
持って河畔に走り戻り、差し出し断食ガウタマ・シッダールタがこの供養を受け取った、奇跡がある。
仏教に不思議は無いとは言われるし、彼もまた2500年前のひとではあるが極めて合理的な人であった。
なぜ、乳粥を受け取ったのだろうか、
6年の苦行を乗り越えてきた彼である。
死を前にして、苦行によってさとれず、河のほとりかどうかも分からずさまよい出てしまった彼に差し出された乳粥は、どんなものとして映ったのだろうか。 >>47
わたしも断食を一生懸命取り組んでいた時期が長くあった。
断食と言えば格好つけすぎだが、健康法の一種でもある断食だった。
断食健康法、とでも言うべきか。
まず、一日断食すると、二日間かけて断食前の食事量の8割までに戻す。
断食の間は水分はとる。
2か月後に、二日間の断食をして4日間かけて断食前の食事量の8割までに戻す。
このように2か月に一度の断食をしていくというものです。
わたしは7日間の断食まで進みました。
この頃は確かに体調が良かったな、と思います。
このような現代人の飽食対策のような断食と修行者の苦行の一つ断食とは、比べようが無いものでしょうね。
彼が無邪気に差し出す少女スジャータの乳粥を受け取った、その事が、とても大切である、と思っています。
そこに一の如しの仏教のさとりと出会います。
苦行である断食の後の食事としての乳粥ですから、また、少女が持って走ってくることができる量ですから、ほんの少しであったろうと思います。
太陽の分身である我々は、食物のエネルギーを胎内の取り込みエネルギーを燃やし、太陽と同じになります。
夜明け間の低い空に輝く金星の輝きは、ガウタマ・シッダルータと一如でした。
理屈っぽくついつい言ってしまったのですが、光り輝くわが身を見た事でしょう。
その色は、金色きんいろです。
彼は寒気のまま数日間その河のほとりで歓喜の境地を楽しんだと言います。
さも、ありなん、うんうん、です。
話しを戻しますが、瞑想がどの木の下でなされたものかという事は仏教徒としての知りたい欲望を持つ人もいるでしょうが、サブストーリーではないでしょうか。
沙羅樹は最大30メートルにも及び、小さな白い花を沢山つけると言います。
きれうぃでしょうね。 >>44 きっちゃん
> 皆の衆、お早うにゃん♪ ( ^∀^)ノ"
(*´・ω・)ノ ・゜:*:゜おはョ〜☆・゜:*:゜ >>43 素人A さん
> 法とはルールで、決めたり守っているけど、守れる頭があるのは私も自分で思う以上に頭は良いのかも知れない・・・
>┼○ ドテッ
否定しちゃだめだよ、と耳元でささやく声がしたアセアセ( ̄_ ̄ i)タラー >>42 Ann ちゃん
狗は、居ぬ、で、わたしは あぼ〜ん の放置プレイを継続実行中。。 >>48
仏教云々以前にスレ立てのルールは守ろうな。 >>53 雀鬼 大山 さん
> >>48
> 仏教云々以前にスレ立てのルールは守ろうな。
ビシッ∠(-_☆)フ ゙ラジャ!! Best Jazz Compilation 2015 : Female Voices - 1:51:37
https://www.youtube.com/watch?v=caaUkD83RS4 48.
金星と一如、か。光り輝くわが身を見た、か。
物理学では、そうなるかも。
だが、悟りは物理学ではないよ。
それでは何か。 >>56 ひのふのみー さん
> 48.
> 金星と一如、か。光り輝くわが身を見た、か。 物理学では、そうなるかも。 だが、悟りは物理学ではないよ。 それでは何か。 』
凹○コテッ
真理さとり とは、一の如し と言いっぱなし だよ、だけwど、それが体得できてない、だからまたまた、それは何か、と問い続けることになってるね、自己に問う事が大切で、聞き回ってはいけない。 あこの世界は正解はなく自然も自然ではなく不自然な夢というかドラマの中に我々は居る級級していても段々解るラーマプロ?
スシュムナーの上昇の経験が心理的なものであることは、殆ど疑問の余地がありません。そして幻視が文化的に条件付けられてい
ることは(幻視および夢というのは、すべてそうですが)確実です。それはムーダーラの四つの花弁から、アージューニャーの二つ
の花弁、そしてサハスラの千の花弁に至るまで、幻視の中で現れる蓮の花弁には総てサンスクリットの文字が記されている事も示
されています。しかしその体験をもつ人々による蓮の花の記述は、彼らが実在性を確信していたことがうかがわせます。しかもそ
れは粗大な物質としての実在性ではなく、夢のような微細で、夢のような幻視的な実在性なのです。「それらは意識から構成され
ている」とラーマクリシュナは言いました「蝋で出来た木のようだー枝、小枝、果実など、その総てが蝋で出来ているのだ」「そ
れらを肉体の目で見ることはできない。肉体を切り開いてそれらを取り出す事は出来ない」?私は囲碁弱いさっぱり解らん言葉仮
なさけないけど今ここで私に出来る事をやるしかない徒歩ほ私は弱い 57.
一如とか言って物理学をやっている場合ではないよ。
聞きまわらないで自分で悟れるかや。バカは死んでも直らない。 月光の巻第58帖
春が来れば草木に芽が出る花が咲く
秋になれば葉が枯れるのじゃ
時節よく気をつけて取り違いせん様に致してくれよ
時節ほど結構なもの無いが
また、恐いものも無いのであるぞ
丁度呼吸の様なもので一定の順序あるのぞ
吸の極は呼となり、呼の極は吸となるぞ
これが神の用(はたらき)であるから
神の現われの一面であるから、神も自由にならん
この神も時節には敵(かな)わんのであるのに
そなたは時々この時節を無視して自我で
あるいは時節を取り違いして
押しまくるから失敗したり怪我したりするのじゃぞ
素直にしておれば楽に行ける様になっているぞ
時待てば炒(い)り豆にも花咲くのであるぞ
水が逆に流れるのであるぞ
上下でんぐり返るのであるぞ
上の人が青くなり、下の人が赤くなるのであるぞ
取り違いせぬ様、理解して下されよ
Aさんは私の恩師
私にとっては南の島の宝、火の国の王であります…。 炒り豆に花が咲くほどの辛抱を、神と共に耐えよと申されるのでしょうか。
若い方々のためにどうか早く花咲ますように…。 艱難辛苦に負けてはなりません、しかし時には負けることも必要なのでしょう。
なれど、悪に負けてはなりません…。 84 : ジャンキー大山2017/01/06(金) 13:49:38.86 ID:wfppEgVn
ありがとう、ありがとう。
さぁ、さぁ、飯上がれ、飯上がれ!
千客万来、商売繁昌。
見てるか、ポッたん?
集客はこうするんだぜw 66 : ジャンキー大山2017/01/06(金) 04:52:35.26 ID:wfppEgVn
嘘は100回言っても真実にならない。
私は悟ったと100回言っても悟れない、それは自己催眠では?
さとり真理は一の如しと言っても、それは真理ではない。 67 : ジャンキー大山2017/01/06(金) 05:31:20.12 ID:wfppEgVn
いや、全く呆れた、酷いもんだ。
幾ら2ちゃんねるでも酷い、まるで悟りを騙る魑魅魍魎の世界だな。
やはりちゃんとした師につかない奴は駄目、話にもならない。
師に付かずして悟ったなんて真っ赤な嘘、大法螺、そんな奴一人もいない。
自分は禅宗しか知らないけど、基本禅宗では毎朝過去七佛から釈迦、
摩訶迦葉、阿難・・・達磨・・臨済・・応燈関・・白隠・・と嗣法
伝法の仏祖名を読み上げる。
法が脈々と受け継がれている喜びを感じるひと時。
師に接せずして仏法を語るなんて絵空事だよ。
本で得た知識は良いとしても、実際に本物の生きた仏法を見て
接しなきゃ、2次元仏教マニアだよ。
呆れた、本当に呆れたわ。 68 : ジャンキー大山2017/01/06(金) 05:51:16.64 ID:wfppEgVn
一度でも良いから自殺する位苦しんで座り抜いて来いや?
解って大歓喜を味わってみろや?
涙が止まらなかったぞ?
笑いが止まらなかったぞ?
悟りを舐めてるわ、マジで。
華厳経の世界をリアルで体験して来いや?
一念三千の世界をリアルで体感して来いや?
何の苦労もなしに何が悟っただ、ただの異常心理か嘘だろ? 74 : ジャンキー大山2017/01/06(金) 12:30:48.05 ID:PTYl6yxI
禅に限っていえば、多少の坐禅の経験があれば二つ三つ目の前で
会話すれば解るでしょ、相手が見性しているかどうかくらいは。
話さなくともその人の動作でだいたい解るでしょ。
此処への書いてる内容や書き方見ても大方想像もつくでしょ。
この板も然り、この方は自分より仏教や禅の消化が進まれてると
いう方もいらっしゃれば、明らかに精神を病まれてる方もいらっしゃる。
見分けがつかないのは見性してないか、していても定力不足なだけ。
智慧はともかく慈悲が足りないと思う、ただの煽るだけの方は。 75 : ジャンキー大山2017/01/06(金) 12:44:25.02 ID:PTYl6yxI
折角ご縁を頂きこの板に来たのだから、無いものを掴んでいかないと。
慈悲心無しに唯煽る方は、それが掴めない事に対する嫉妬でしょ?
足が腐るくらい坐って来いや?
老師がご存命の時、摂心会で自ら受付に立たれて「ご苦労様です」と
頭を下げておられた。無心の働きは真摯に受け止めるべきでは?
慈悲心無しに煽る奴や舐めてる奴は仏教以前に人間の屑。
屑は屑のままに悟っている事にも気が付かない無眼子。 76 : ジャンキー大山2017/01/06(金) 12:48:33.05 ID:PTYl6yxI
さぁ、どんどん煽ってくれ、舐めてかかってくれ!
煽るものが無くなるまで徹底的に煽ってくれ!
舐めるものが無くなるくらい徹底的に舐めてかかってくれ!
好きなだけ三毒を吐きまくってくれ! 84 : ジャンキー大山2017/01/06(金) 13:49:38.86 ID:wfppEgVn
ありがとう、ありがとう。
さぁ、さぁ、飯上がれ、飯上がれ!
千客万来、商売繁昌。
見てるか、ポッたん?
集客はこうするんだぜw おい、ジャンキー、もう終いか?
全く悟りも煩悩も中途半端な奴だな?
一つお前を点検してやる。
500円渡すから1000円の和菓子を買って2000円
お釣り持って来いや? >>72
どうした、ジャンキー?
コピペと告げ口だけか?
IDくらい変えてやれよ? おい、ジャンキー、もう終いか?
全く悟りも煩悩も中途半端な奴だな?
一つお前を点検してやる。
500円渡すから1000円の和菓子を買って2000円
お釣り持って来いや? 0824 神も仏も名無しさん 2017/01/06 15:48:05
な?人のレスをコピペして喜んでるのが
「自称禅定力2ちゃんねるナンバーワン」のでおー様でつ(笑)
0825 神も仏も名無しさん 2017/01/06 18:48:45
ふーん、やっぱりでおーなのか。
コンドームにラーメンのゲロを吐いた様な奴だな。
ID:9BbHDM7O >>60 ひのふのみー さん
> 57.
> 一如とか言って物理学をやっている場合ではないよ。 聞きまわらないで自分で悟れるかや。バカは死んでも直らない。 』
これは、いわゆる 「脊髄反射」 と言われている 作用、反作用の原理でしょうか。
無頭が故の無能、と言うう事が有りますが、まさにこの事が言えますね。
一の如しがなんであるか、そこに触れることが、無い。
これは、怒鳴りあげることで快感を得る愉快犯ですよね。
一考をお願いしますね。 >>59 素人A さん
> 私に出来る事をやるしかない徒歩ほ私は弱い 』
決意表明、と、j保険加入だろうか。 狗は、居ぬ。
という事で、放置プレイ中。。
荒らしはあなたの気を引こうと、あおります。
それに反応するあなたも、荒らしです。
と、2ちゃんねるのお約束、に明記されている。 The Very Best of Soul - Aretha Franklin, Sam Cooke, James Brown... - 2:20:20
https://www.youtube.com/watch?v=thUQr7Q1vCY French Music in French Cafe: (Modern French Cafe Music Playlist) - 2:10:11
https://www.youtube.com/watch?v=Ihei6TaZCmw 月光の巻第11帖
病(や)むことは
神から白紙の手紙を頂いたのじゃと知らしてあろう
心して読めよ
ありがたき神からの手紙ぞ
疎(おろそ)かならん
腹八分、二分は先ず捧(ささ)げよ
運開けるぞ、病治るぞ
第12帖
逃げ道つくってから追わねばならん
そなたは相手の逃げ道を塞(ふさ)いで
ギュウギュウ追いつめるから逆恨みされるのじゃ
逆恨(さかうら)みでも恨みの霊団を作り出すぞ
悪を抱けよ、消化せよ、浄化せよ
何もかも
太神の許し給えるものなるが故に存在する
そなたは神にこり固まっているぞ
こり固まると動き取れん事になる
一度そなたの持つ神を捨てるとよいぞ
捨てると掴(つか)めるぞ 現成公案・・法が身心にゆきわたっていないときは、法はすでに充ち足りていると思う。法が身心に満ちた場合
には、どこか一方が足りないように思われる。たとえば船に乗って島も見えない海の中に出て四方を見回すと、
ただ円く見えるだけである。どこも違った景色はない。しかし実際は大海が丸いというのではない。また四角でも
ない。眼に見えない海の性質というものはとても尽くすことは出来ない。一水四見といって、同じ水でも人間に
とっては水に見えるが、魚には宮殿であり、天人には珠の首飾りであり、餓鬼には膿血である。海の場合も、ただ
眼の届く限りがしばらく円く見えるだけである。一時が万事て、その他の事もすべてそうである。世間の事につい
ても、世を超えている事についても、様々な様相を帯びているが、参禅して眼力の及ぶだけを見るのであり、会得
するのである。ありとあらゆるものの在り方を学ぶには、丸い四角いと見える他に、海や山の性質は限りがなく、
様々な世界世界のある事を知るべきである。自分の身の回りだけではない、足下も一滴の水もそうであると知ら
ねばなぬ。?今試みる凝念からじょう慮いやジョウロで花に水まこうでも私はその前の色々な荷物が重い 76.
一如の問題は物理学の問題である。
そこを理解できない、のは、なんでか。
それは、宗教とは何か、を理解していないからである。
そこに戻れない、というバカ丸出しとなる。哀れ。 >>83 ひのふのみー さん
> 76.
> 一如の問題は物理学の問題である。 そこを理解できない、のは、なんでか。 それは、宗教とは何か、を理解していないからである。 そこに戻れない、というバカ丸出しとなる。哀れ。 』
宗教とは、何でしょうか、お伺いします。 >>82 素人A さん
> 今、試みる凝念から じょう慮 いやジョウロで花に水まこう。でも私はその前の色々な荷物が重い 』
水撒きのジョーロを右手に持っている事に加えて、左手には、もっと重い荷物を持っている、らしい。 Modern French Cafe Music Playlist - 2:04:09
https://www.youtube.com/watch?v=iOQOCpHY52c 碧巌録(へきがんろく) 第28則? 南泉不説 (なんぜん ふせつ)?
?
本則:
南泉、百丈の涅槃和尚に参(さん)ず。
丈問う、「従上の諸聖、還(かえ)って人のために説かざる底の法ありや?」。
泉云く、「あり」。
丈云く、「そもさんかこれ人のために説かざる底の法?」。
泉云く、「不是心、不是仏、不是物」。
丈云く、「説き了(おわ)れり」。
泉云く、「某甲はただ恁麼(いんも)、和尚作麼生(そもさん)?」
丈云く、「我れまたこれ大善知識にあらず。いかでか説不説あることを知らん」。
泉云く、「某甲(それがし)不会(ふえ)」。
丈云く、「我はなはだ汝がために説き了れり」。 ?』
?
本則:
南泉普願が百丈の涅槃和尚を訪ねた時、百丈涅槃が南泉に聞いた、「これまでの歴代の祖師達もまた人のために説かなかったような真理があるでしょうか?」。
南泉は言った、「あるよ」。
百丈涅槃が聞いた、「それでは人のために説かなかった法とは一体どのようなものですか?」。
南泉は言った、「心でもない、仏でもない、物でもない」。
百丈涅槃は言った、あなたは人のために説かなかった法と言ったけど、ちゃんと説いたではありませんか」。
南泉は言った、「説いたかどうかわしは知らん、ただこのようだ。和尚は、一体どうなんだ?」
百丈涅槃は言った、「わしは大善知識ではない。どうして、説いたり説けないものがあることが分かろうか」。
南泉は言った、「わしも分からん」。
百丈涅槃は言った、「どうやらわしは説明し過ぎたわい」。 』
○ 唯嫌揀択(ただけんじゃくをきらう)、好き嫌いをしない、デアル。 Streets of Paris - 3 HOURS French Music - 3:03:28
https://www.youtube.com/watch?v=jlRRRzMVPwQ >>89 名無し さん
> >>87
> なんじゃそりゃ!¥
そうなんだよね、好き嫌いしない、なんて、ねぇー、幼稚園児や保育園児に言う事だろうよ、ねー
むずかしいけど、一の如しを透ったら しばらくしか、ずいぶんしてか、ある日 ストンッ と落ちる時が来るよ。 正一位太政大臣空軍大元帥公爵ポッたん大見性成仏如来閣下殿、
ここが本スレでええんかい!?
「生きる意味や価値を考え始めると、我々は、気がおかしくなってしまう。生きる意味など、存在しないのだから。」 >>92
恐れながら、ここは生きる意味とかいう低レベルな議論をするところに
あらざるなり・・・。 禅とは何ぞや。この問題は極めて重要なものである。
恐らく世人は皆凡て其答案を聴かんと希望するであろう。
この種の答案で従来既に書記されたものは沢山にある。
しかしこれを読んでも決してわかる気遣いはない。
そのわからない筈のものをお読みになってわかったといういう人が時々ある。
而してそれとにかくと批評しているのを禅学者が聴くと如何にも可笑しい。
殆ど囈語に近いのである。そういう風に禅にはどうしても書き表せないところがある。
それから今ひとつ分からない理由は禅の妙処は濫りに語ることを戒める。
故に禅のことを話す人でも決してその急所には言及せぬ。 また言及してもそれが分かる程の機会に達せる人でなければまるで戯談でも
饒舌っている様にしか思わないでかえって禅を軽侮するという悪果を結ぶのである。
然れば禅の急所というものはいやしくもすべて禅を学んだ者の口からは説かれない。
このことはよく心得ておらぬと読んだり聴いたりしたことでとんだ批評をして
禅学者に笑われることがある。
州勘庵主の話に示してある。まず一人の庵主の処に云って居るか居ないかと聴いたものだ。
すると庵主は返事はしないで、ただ拳を挙げた。
その時趙州はこの馬鹿坊主め、こんな処に長居は無用と言って去ってしまった。
それからまた他の庵主のところへ行って同じく居るか居るかと尋ねたところ、
そのところの庵主もまた拳を挙げた。
されば趙州は今度もまた同様に役に立たぬ馬鹿坊主と言うかと思いの外、
これはどうも恐れ入った殺活自在の大和尚ぞと恭しく礼をなしたと申します。
どうです諸君。これは何遍読んでも分かりますまい。 それ故に禅の批評は局外者から到底出来るものではない。
これから私が禅とは何ぞやという題目を掲げて講話をしても
とても諸君がそれで満足するまでに説明するのは覚束ない。
もちろん私とても急所は言わない。
如来清浄の禅が、いわゆる禅家固有の禅であり、禅学といわれるのはこの禅を学ぶことである。
道元禅師は坐禅は参禅なりという通り、禅学とは坐禅のことで、すなわち参禅のことである。用心記に、
「夫れ坐禅は直に人をして開明し本分に安住せしむ。是を本来の面目を露すと名け、亦本地の風光を現すと名く、心身俱に脱落し、坐臥同じく遠離す。」
とあって、すなわち、念仏であるとか、看経であるとか、礼拝であるとかいうような、方便によらず、
一超直入如来地という直ちに心地即ち一切現象の顕現する根本を明らめるというのである。
即ち坐禅の本義は一切言語文字を離れ内観省察して直接に自己(自我)の本性を経験しようとすることにあるのである。
換言すれば、各自の自己を本源的、経験的に研究するのである。 何故そんなことをするかというと、一切の表象はみな非常な迷誤をして百般の表象の中で
一つとして誤謬のないものはないから、そんな誤りのあるものはことごとく捨て去って、
また、一度も実験していない本来本賞の実性に復帰して完全な自己の本性に自分自ら冥合融化するのである。
これが心地を開明して本分に安ずるというのである。しかしながらこの状態が終昼始夜、
行住坐臥の上に活動して不退転でなければならない。
この状態を持続する人こそ大悟底のひとであって、主中の主というべきである。
ここに至るには行でも臥でもいかない。必ず坐に限るということを確信して動かないのがよい。
古来の祖師一人として坐蒲団上を離れて得道した人はないのである。
ならば初心の者はなおさら理論理屈はしばらく置き、
規則に従って孜々として坐禅しなければ、徒に説禅饒語の人となるまでで難の役にも立たない。
妙なもので、孜々として坐禅して怠らない中に、自ら坐定寂静の状態で行住坐臥をする様になるのである。 ここが道元禅師の坐禅は豈に坐臥に拘らんや、といわれているところである。
これは決して坐するに及ばないということではないから誤らないでほしい。
また、永嘉大師という方も、
語黙動静の異なる縁に逢うとも己が心緒動揺せず安然たる様に至ったひとにして始めて行も亦坐禅も亦禅とゆけるのである、
といわれているから、どうしても最初は孜々として坐蒲団上に端座せねば得られるものではないのである。
たとえ大悟したからといって、あるいは得道したからといって、
この三昧王三昧である坐禅をおろそかにしてはならない。
これが自在の妙術を得、東涌西沒、逆順縦横底これが坐禅の面目で道徳的にいえば、
究竟目的に向かって本務を遂行する人である。
故に大悟さらに蒲団上にあらねばならない。
これが、大千沙界一蒲団という坐禅の真面目である。 要するに坐禅は究竟事実を得るために、いまだ実験していない自己の本性を徹見し、
それに冥合融成するのである。
言い換えれば、真如に融成するのである。
そこで参禅の士は、それを達するためには坐禅実習法、
つまり禅の要術によらなければ他の方法では決して得られない。
禅は身心脱落にあるので脱落とは心身一如で、いわゆる修証一如の状態が大悟の状態である。
この正当において、今自分が大悟したなどとの観念は全くないので、
むしろ大悟とは他から悟った人に与えていうのである。大覚禅師が示している。
「妄見皆尽くれば、大夢俄かに覚め、仏性を知見す。是れを大悟大徹と名づく。」と。
けれども今、参禅の士が一切の善悪正邪を取り尽くし、一切の妄見、一切の煩悩の雲を払って大悟したからといって、
別にそこに、新問題に触れたとか接したというわけではない。
本来ありのままの状態に入ったので、強いて迷っていた上から比較していえば、新しい生命を得たと言えるものの、
畢竟、本来本法性天然自在心に立ち帰ったので、帰家穏坐の面目となったということである。
だから煩悩を捨てるといっても全然取り去ったというのではない。
いうなれば、転迷開悟といっても、迷いの家を出て悟りの家に宿替えをするという意味ではない。
迷いの中にあって迷いに迷わされず、迷いの真相についてよく心得のできたのが大悟の面目である。
「田の草をとりて押しこむ肥やしかな」と。 つまり、これであって、田の草は稲の害になるもので、肥やしは稲の実る肥料である。
その肥やしと草とは畢竟別物ではない。ちょうど参禅の士は稲のようなもので、その迷いは草で、悟りは肥やしである。
今、迷いの草を捨てて、悟りの肥やしを得たのではない。迷いそのものが直ちに悟りそのものである。
だから、迷いの外に悟りはなく、悟りの外に迷いはない。迷悟不二であると。その心得のできたのが大悟という。
だから悟ったからといって、新問題に接したのでも何でもない。元のありのままに触れたに過ぎない。
これを本来の面目現前するというのである。
古歌に、「雲晴れて 後の光りと 思ふなよ 元より空に 有明の月」とある通りで、
迷っていたときに眺める月も、悟ったときに眺める月も、同じ月であり、月は二つないのである。
この趣が明らかになれば、大悟の面影は窺われたのである。
この大悟のことを、見性初心の状態でいう見性ではないともいうので、
つまり、これは悟ったという悟りそのものの本性を知見したという点から、
命名されたものであると思う。
今日の言葉でいうならば、認識論的に大悟の面影を把住した状態を言うに過ぎないのである。
畢竟、大悟も見性も、その名目こそ異なるが、その内容は同じである。
これも古徳の法語に見性の趣が丁寧に道破されている。 「見性と云は、仏性なり。万法の実相なり。衆生の心性是れなり。此性は有情に渡り凡夫賢聖に普くして、却くして、却て住する所なし。
故に無法の性とは、有情にあっても、有情に住せず。非情にあっても、非情に住せず。善に在っても、善に住せず。悪に在っても、悪に住せず。
色に在っても、色に住せず。形に在っても、形に住せず。一切に住せざる故に、無住の性を云うなり。
亦此性は、色に非らず、有に非らず、無に非らず、住にあらず、明にあらず、無明に非らず、煩悩に非らず、菩提に非らず、全く実性なし。
是を覚るを見性と名くるなり。衆生は此性に迷ふが故に、六道に輪廻す諸仏は此性を悟るが故に六道の苦を受け玉はず。
願くは学道の人、我心性は此性なり。元より不生不滅なり。常住不変にして、無性なりを覚り、心性より外に仏性を求めざれ。
故に古人の云く衆生の性は則ち仏性なり。此心性を離れて仏なし。此心性を離れて衆生なし。心は水と波との如しと。
又云く寂滅の性なり、寂滅の性は是れ涅槃の性なり。涅槃の性は、我が性なり。
衆生地獄にある時も、此性去らず。故に衆生仏に成る時も、この生を離れず、或る僧、大殊禅師に問ふて云く、如何なるか是れ大涅槃の性、
大殊禅師答へて云く、生死の業をつくらざる人、是れ大涅槃の性なり。又問ふて云く、如何なるか是れ生死の業、
答へて曰く、大涅槃の性を求むる是れ生死の業なり。ここにをいて、此僧大悟す。知んぬ、又性を以て菩提を求め、涅槃を求めんは、皆是れ生死に流転すべし。
元より生死なければ今始めて涅槃を求めざれ、是を見性と名く、是れは猶ほ、心得ずんば見るべし。柳は緑、花は紅なり。」と。 参禅の士はますます大悟見性の趣きが明瞭になってきたことだろう。
大悟といっても見性といっても、共に現象即実在論の上にだいたいのもとを置いて、
迷悟の性不二なりと得心するのであって、畢竟その内容においては同様ではあるが、
大悟というと、ちょっと広漠である気がする。
見性と言えば、認識論的であって、いかにも実際に自己の心性である琴線に触れた様な心持ちがするだろう。
以上の法語の中の資師相見における僧の大悟見性は、人生の問題である生死の問題を解脱したのである。
これがいわゆる大悟である。
参禅の士は大悟見性の趣きが何となく、人のものではなく、いかにも我がものの様に感じられるであろうが、
もっと親しく懐かしく言い表せば、見性成仏、成仏作祖、で言い換えれば、見釈迦牟尼、成釈迦牟尼、見成釈迦仏である。
その内容に至っては少しも異なっていないが、いっそう我が身に重りがついた様な気がする。
これは悟りの趣きが具体的に言い表してあるからだ。
すなわち我々の人格が仏格と化成するので、詳しく言えば、この凡格そのままが仏格であり、祖格祖師の人格であるからだ。
ここが哲学が真理を抽象的に把住するのに対して、宗教の具体的に真理を捕らえるところであり、
禅が宗教色の着色を帯びている、否純宗教であるところだ。
要するに大悟も見性も成仏も同一内容に過ぎない。 「問、見性成仏というが、本来無一物の何の性を見る事ぞや。
答、性は無形無体なり。此性を見る時は、仏と衆生の隔てなく、
無心無念の真仏に合う、此ところを指して見性と云うなり。」と。
また抜隊得勝禅師いわく、
「成仏の道とは、自心を悟る此れなり。自心と云ふは、父母もいまだ生れず、わが身もいまだなかりしさきよりして、
今に至るまで移り変ることなくして一切衆生の本性なるゆへに是れ本来の面目と云へり。
この心もとより清浄にして、此の身生るる時も生るる相もなく、此の身は滅すれども、死する相もなし。
又男女の相にもあらず、善悪の色もなし、譬喩もおよばざるがゆへに、
これを仏と云へり。・・・・・・一念ひるがへして悟れば即ち仏なり。」
以上の様に解説しましたので、参禅の士は大悟見性成仏の意義は十分了解が出来ただろうと思います。
要するに大悟は見性のときであり、また成仏のときであり、見性釈迦牟尼仏のときである。
本来の面目現前のときで、いわゆる身心脱落のときである。
つまり大悟というのは禅家の特有のことであり、諸宗教の上でいう解脱に他ならない。
迷いそのままが悟りであるという迷悟不二、凡仏一体にあるので、この現実そのままがすなわち実在であるから、
現象即実在論であって大悟も解脱もその根底に成り立っているのであり、
禅家の人生問題である解脱の思想は現象即実在論の思想から湧き出て来るのである。
自力的に自己の本性を徹見するので、自己の本性とは仏心であり、仏の生命である。
この生命を体得すれば人生問題である解脱は得られるのだ。
このとき生死を超越するので、これが大悟であり、見性であり、作祖であり、成仏であり、解脱である。
種々方面から解説したが、要するに大悟を理論的に説明した、つまり意義に過ぎない。
大悟というものは、参禅の士が実際におのおの実験するのだからだ。 では悟入について述べてみよう。
悟入の状態とはつまり大悟の状態であるが、これは別に真新しいことではない。
これまで述べた大悟見性の理が実際に実現するのに他ならない。
真如に自分自身が化成するのである。
だから大悟は理論的に言えば、主観客観の内外を滅却して、宇宙の本性たる真如を直観するのである。
そしてその真如の概念的知識にとどまらず、すなわちその直観が直観にとどまらずに、
その真如は我の本体で、我はこの真如であると。
真如と我と、我と真如と相即融合して、凡身の我が我にして、我ならぬ、真如と化成するのである。
直接にこれを実感するのだ。
その実感は一切の経験を超越する、無差別平等の実在界から来るものであって、
一切を融合する無限の実在、いわゆる自己の根底から来る天真の叫び声である。
言うなれば、一切の利害得失正邪、是非善悪を超越し、己我を滅ぼして、真我すなわち我の天真の流路であって、
いわゆる宗教態の源泉である先天内容の声である。
この実感はひとえに只管打坐の力だが、その実感は、いつ何時だとか、何処でだとか、
どのくらいだとかいうような時所位を定めることはできない。
大悟の実感というのは、悟ろうとして悟ることができず、また、悟りを求めないとしても、悟りを求めないことを得られない。
しかもその悟りというのは人々個々の実感なので、水を飲んで冷暖自知するように、
自分自らその趣きがわかるもので、他人にその趣きを語ることができるものではない。
精を出して微を極めたといえども、ただ暫時の岐路に過ぎない。
忽然確如として大悟見性したといえども、その状態は如何?と問えばただ、冷暖自知所謂唯独自明了余人所不見である。
その人でなければ知ることはできない。 元より唯仏与仏乃能窮尽のものだ。
また師匠から伝授されるものでもなく、授けることもできない。
能伝所伝、能授所授をこえている。ただ我にある三昧我ただ知るのみである。
ならばこの妙奥に到達することが真の大悟ならば、もとから実感そのものの時期を予知することもできなければ、
その妙味をあれこれ言うこともできない。大悟は、自覚するときである。
門外に例をとって見てみると、古代ギリシャのデルハイ神殿の門に刻まれた、「Know thiyself」である。
この一言は実にギリシャ文化の精を尽くし微を窮めたものであり、
ソクラテスの智識であろうが、プラトンのイデアであろうが、
つまるところはこの「汝自身を知れ」ということの意義の発展であり、
拡充されたものに他ならないのだ。
また古今の聖哲の実感するところも、実感の企てはみなこの自覚の精神に他ならないのだ。
孔子三十にして立ち、孟子四十にして心を動かさずといわれたのも、畢竟ここにあるのだ。
詩人ワーズワースが山の端に飛び、散る雲を仰いでは、
武陵桃源の仙客となって秋の夕には咲き残った野菊の姿に涙を落とし、
また寒山が山の高く水の清い妙なる色に酔って、言葉で言えない天然の美に心を奪われたのも、これはみな詩的自覚である。
またニュートンが、物理に心を尽くして研究に余念がない折、風もないある日、
一つのリンゴが落ちるのを見て忽然として物理の奥義を極め、遂に引力を発見したように。
あるいはフランツ・アントン・メスメルが一日外にいて蟹を見て、突如として催眠術の原理を発明したように。
これはみな理学的自覚である。
またラーシュ・ケプレルが野に咲く一輪のタンポポの中に神の福音を悟ったように。
またルターが学位をもつにもかかわらず修道院に身を投じて僧となったのも、これは宗教的自覚があったからである。
蘇軾が渓声広長舌、山色清浄身と悟ったのも、宗教的世界観の自覚である。
今も昔も聖賢の実感したところ、また実験しようとくわだてたことは、すべてみな自覚の面影でないものはない。
参禅の士はだいぶ自覚の奥道に入ったようだから、さらに奥へ進んでみよう。 「香巌知閑禅師一日草木を芟除す。因んで瓦礫を以つて竹を撃って声を作す廓然として省語す。」と。
これは香巌禅師が一日作務のとき、外を掃除でもしていたときだろう。
ゴミを藪に捨てたそのとき、ゴミの中の石や瓦が、カラリと竹に当たった。その一声に忽然として悟ったということである。
後世の人がこの聞声悟道の趣きを詠んでいる。
「降る雪に 宿る鳥の 埋れて 鳴く声ばかり 黒きぞとしる」と。参禅の士はよく味わってみるがいいだろう。
また、「福州霊雲の志勤禅師因に桃花を見て悟道す。頌あり云く、三十年来剣客を尋ぬ。幾回か葉落ち、又枝を抽つ。
桃花を一見してより、後ち、直ちに如今に至るまで更に疑はず。」と。
これは霊雲が桃花を見て忽然として大悟した状態だが、霊雲もあえてことめずらしく花を見たわけではないだろう。
毎年見てきた桃花に何の変わりもあったわけではない。
古歌に「花を花 月を月よと 見る人の 心なきこそ 道の道なれ」であって、いわゆる霊雲のみどころは、
「春風に 綻にけり 桃の花 枝葉にのこる うたがいもなし」と。
大悟の面影はここにあるのである。古人が世尊の拈花の趣きを詠んでいう、
「君ならで 誰にか見せん 梅の花 色をも香も 知る人ぞ知る」と。
これと同参底であるだろう。次回は祖師菩提達磨の大悟の面影を見てみよう。 「『達磨大師因に般若多羅尊者問ふ、諸物の中に於て何に物か無相なる。
大師曰、不起無相なり。尊者曰く、諸物の中に於て何物か最大なる、』と。
是の如く問答して、師資心通すと云へども暫らく機の純熟をまつ。
後、尊者の室に入り七日坐禅す。尊者広く坐禅の妙理を指説す。
大師此に大悟す。」と。
これは達磨大師の大悟の状態だが、大師はあらゆるものの中における
最大の意義を了解したので、大小長短にかかわらないところのものだ。
大には無間に入り、細には方所を絶す、という最大である。
三祖僧燦大師の極大は極小に同じ境界を妄絶するといわれたところの
大小の二見を裂破して絶大の妙用を得た。つまり不起無相の消息を体得したのである。
螢山禅師は、達祖の大悟の面影を、
「更に方所なし、辺表なし豈に秋毫よりも大なるもの有らんや」と頌した。
参禅の士も理解し得たでしょう。 また、「大医禅師、鑑智大師を礼して曰く、願くは和尚慈悲乞ふ
解脱の方門を与えよ。大師の曰く、誰れか汝を縛す。
禅師曰く、人の縛するなし。大師曰く、更に下陀tを求めるや、
禅師言下に於いて大悟す。」と。
解脱の法は他に求めるべきではなく、人々の上に豊かに
そなわっていている。誰が自分を縛ることができよう。
人々は仏心をそなえていて、仏心とは解脱の法である。
ならば、迷悟不二、凡聖一枚、生死不二の、本来の面目現前底の
私ではないかと。禅師はこれで大悟するのだ。
この相見こそ大悟の面影ではありませんか。
また、有名なところでは
「臨済、黄檗に問ふ、如何なるか是れ仏法の大意、檗即ち打つこと三十棒。
かくの如く、三度問ふて三度打たる。臨済是を疑ふて、即ち辞し去って
大愚の処に至りて問ふて云はく、それがし如何なるか是れ仏法の大意と。
三度問ふて三度打たる。過ありや、否や。大愚云く、黄檗ともに老婆親切なり。
爾がために徹悃す。什麽有過無過を問ふや、 臨済是を聞きて言下に大悟す。」と。 これは元来は理で説くべきでない、仏法の大意を問うたものだから
とりあえず黄檗は臨済をぶったたいたのである。これはつまりは
ちっとも透間のない石火雷光の答えであり、理致のかぎりでないことを
示したのだが、まだ臨済はそれに合点がいかないから、三度も繰り返して
問を投げた。黄檗は三十棒をあたえた。
普通の人なら面倒に思うであろうが、さすがここは師家だけあって
親切なものである。臨済の方は二回も三回も示しがわからないので、
ついに大愚のところに行ったのだ。
大愚はさすが一如を行する底の人だけある、まず臨済にどこから来たかと
探りを入れる。臨済は、黄檗に三回問うたら三度打たれたがわからない、と。
いったい拙僧の落ち度があるのか、ないのか、と。さすがの黄檗は、お前の為に
親切にしているのに、それを過があるのないのとは何事か、と。
再三の打着は黄檗たることを示したこと。黄檗ならば三世諸仏が出てきても
恐れはしないのであり、それが仏法の面目だという。
臨済はこれを聞いて大悟したのである。これが臨済の大悟の状態だ。 もう一つ。「道元禅師支那へ留学のとき、天童如浄禅師のところにあり、
禅師一日例により坐禅す。傍に一僧あり。頻りに眠る。如浄之を誡めて云く。
参禅は須らく身心脱落なるべし。只管に打睡して什麼をか為すに堪へんと。
禅師傍より聞いて豁然として大悟す。直ちに方丈に上り、焼香す。
如浄曰く、焼香の事作麼生。禅師曰く、身心脱落し来る。
如浄曰く、身心脱落、脱落身心。禅師曰く、這箇は是れ暫時の
伎倆和尚乱りに他を印することなかれ。如浄曰く、脱落身心。
禅師礼拝す。」と。
参禅の士は以上に挙げた諸高僧の師資相見の話で、大悟がどういうものか
会得できただろう。見ろ、大悟は身心脱落にこそあることを。
なお禅の曙光である釈尊大悟の面目を実究してくれたまえ。
最初は菩提樹の下に端座思惟し、年は三十歳。
臘月八日暁天明星を見て、忽然として獅子吼して云く、
「我と大地と有情と同時に成道す。」と。これこそが
大聖仏陀の大悟見性の状態であり、釈尊の自覚である。
これを参禅の士は疑うだろう。釈尊はなぜ明けの明星の光を見て悟ったかと。
それより光輝勝る太陽の光を見て悟らなかったのか、と。 確かにもっともなことだが、前にも述べたが、
大悟見性は、悟ろうとしても悟れない。悟りを求めないようにしても悟らないことを得ない。
ただ境に対して忽焉豁如心底に徹するものなのだ。
まずは釈尊の所言をよく考えてみなければならない。
我と大地と有情と同時に成道す、と。釈尊が太陽を見て悟ったなら、
悟るところを相反するところがある。太陽は星界の主だが、明星は星界の賓である。
つまり太陽は仏界に比されるもので、明星は凡夫に比されるのである。
まあこんなことはいつまで言っていてもきりがない。
参禅の士が、只管打坐し、図らずも心性を徹見し、大悟の奥裡を極めたといっても、
なるほどそれは究竟の理致、終極の玄路ではあるが、それだけではだめである。
そのみちにはいろいろの関門があって、その大悟が超関脱落底であったにしても、更に窮める底の関門があり、一路があるのだ。
参禅の士は従来通り過ぎた関門を、再び大手を振って通らなくてはならない。
これを出身の活路とも、祖師不伝の一著とも、あるいは向上の一路千聖不伝ともいうのだ。
このことは参禅の士が、大悟を識得した人の実感する必然的昄結である。
つまりこの大悟ということは無念無想にならなくては得られないところから、
催眠術の混沌無差別の状態と同一であると誤解する人がいるが、そんな状態ではない。 文字こそ両者とも同様であるが、これは混沌として無分別的一如的のもので、
主観客観をまったく糸を切ったように切断されているのである。
外界からいくら刺激がきても感じないのである。
然るに大悟の無念無想は能所根絶といって主観客観は根絶してはいるが、
糸の切断されたようではなくて、その根絶のありのままに安住するという意味だ。
また外界の刺激も空吹く風で殊更に感じないといっても五官の用がないのではなく。
胡来れば胡現じ、漢来れば漢現じて、雀ならチュウ、鳥ならカーと聞くのである。
がしかし、聞くは聞くままに、見るは見るままということである。
この趣きについて澤水禅師は、
「目前の茶碗を見て分別料簡を加へず、直ちに茶碗と云ふが如く、扇子を見て、直に扇子といふが如く、
一切の仏語祖語一時に分明なり」といっておるのがそうである。また催眠状態のような八面玲瓏 の状態と、
大悟の状態を混同するものがあるが、これもおおいなる誤りである。
これに従えばすべての周囲の状態をことごとく知るというのだが、然るに大悟の状態は処々身処々現と感応し同交もするが、
意思のない、傀儡師の機械人形ではない。だから大悟の端的は、心意識の運転も停み念想観の測量もないが、
そこに自己の本性である心性は法爾として存在し、一切活動の源泉をなしている。大悟そのものを正面から見れば、
修行に修行を積んで、百尺竿頭に上りつめたところをいうのである。大底の人の悟りは、ここに登りつめて腰を据えたのが多い。
俺は哲学の原理を極めたとか、俺は人生問題を解決したのとか、
俺は神の霊化や恩寵を感受しただの、凡仏一体になっただの、脱落しただのと言う輩が多い。
古来これらの輩を看話禅、野狐禅一派の悟りと言っている。 道元禅師は、「曾に誇り悟に豊かにして瞥地の智通を得、道を得、
心を明めて衝天の志気を挙ぐるも入頭の辺量に逍遥すと雖も、幾んど出身の活路を虧闕す」と、お叱りになった。
一類に属するものである。とにかく以上のような悟りに腰をすえた輩を向上の死漢と言って、
非活動的の大悟または病的な大悟というのである。参禅の士は、従容録第二十八則護国の護国三懡羅の話を味わってみるのがよいだろう。
「僧護国に問ふ、鶴枯松に立つとき如何。護国云、地下底一条の麼羅」と。
この僧の問はちょうど百尺竿頭に登りつめた見処を問うたのである。
いわゆる鶴が枯松に立つとは、一切の世念を離れ、無所住のところに安んじ迷悟凡聖、情識分別を離れ、
独立無伴の気高いところを問うたのである。すなわち向上の一路を問うたということだ。
そのとき、さすが護国だけあって地下底一場の麼羅、と答えた。この話はつまり、鶴枯松に立つとはなかなか見事だ、
大尊貴生をかまえたところは、凡人の及ぶところではない。
たがしかし、下から見ると垢のついたところやら、不潔のところまでが、丸見えだ。
あまりに勝れた境界だ、などとの自慢はしないほうがいいという意味である。
一口にいえば、向上より更に向下底に下るのがなければならないという答えである。 これについては萬松老人の垂示がおおいに参考になる。
「寸糸を掛けざる底正に是れ裸行外道。粒米を嚼まざる底の漢、断めて焦面の鬼王。
直饒ひ聖処に生を受くるも未だ竿頭の険堕を免れず。還つて羞を掩ふ処有りや」と。
向上に腰をすえるものは、寸糸も身につけず。凡夫迷情のとれた立派な境界だけれども、
そこをよい境界だと腰をおろすようでは裸行外道であり、仏法では許されないということだ。
一粒の米をもくわぬという飢餓を絶したところは実に凡夫の生活を離れているようだが、
それでは物の則となることはできない鬼王の一種だというのである。
また、たとえ修して証りを得て、百尺竿頭に登っても、さらにその証りの位を離れ、
悟の臭味を取らなければ、十方法界、すなわち社会で活動はできない。
だからそれは恥ずべきことだという考えをおこして、そこからさらに一歩を進める分がなければならない
という垂示である。参禅の士はさらに一歩を進め、百尺断崖に落ちて喪身失命しなくてはいけない。
これが大死一番というので、この大死から再び蘇生してこなくてはならない。
これを大活現成とか、向下の一路とも、却来の消息とも言って、大悟見性の妙用である。 これを身心脱落に対して、脱落身心ともいうのである。
現象即実在に対して、実在即現象というべきところである。
このとき逆順縦横興奪自在の活作用を得るのだ。
ものの龍蛇、緇素を弁明し、剣刃上に殺活を論じることもできるし、棒頭上に機宜をわかつこともできるのだ。
等閑の一句一言、群を警し衆を動かし、一機一境鎖を打して、枷を敲き、仏界であれ、魔界であれ、社会であれ、国家であれ、
諸般の順逆二境に立ち入って殺活の妙手をくだすことができるようになるのだ。
これが大悟さらに大悟した状態なのだ。
参禅の士はあるいは霊雲のような桃花を見て悟ることもあるだろう。
香巌のように擊竹悟道することもあるだろう。
あるいは明星を見て悟道することもあるだろう。
あるいは敵弾に触れて大悟することもあるだろう。
だがその大悟の正当においては以上のような殺活自在逆順縦横、単刀直入、
電影斬風の奥底まで悟りぬいて、
しかもその臭味を取り去った境界にならなくてはなりませんぞ。 言うなれば、大悟の体相があるところには必ずその用がなければなりません。
一つ例をあげるとすれば、釈尊大悟の状態がそうである。
見明星の大悟自覚が単に自覚したというだけに止まったら、釈尊の釈尊たる価値はない。
極端に言えば、釈尊があのままで涅槃の雲に入られたと仮定してみればわかるだろう。
たくさんの金をかけて勉強したものが博士課程を修了してすぐ死んでしまったのと同じことで、
一向に価値もなにもあったものではない。
であるから仏の大悟は、百尺竿頭からさらに一歩を進めて、
自覚覚他覚行究満と大悟大徹なされたのであります。
だから、四十九年間の横説竪説の説法教化をなされたのであり、
あるいは驢胎に入り、あるいは馬腹に入り、八万四千の応病興薬下化衆生の一路を開くことができなのである。
参禅の士には、只管打坐はここまで大悟大徹しなくてはいけないのであり、
すなわち、却来の消息、この却迷こそが真の大悟大徹なのである。
「乗り得ては ろかいも梶も いらばこそ その浦々の 風にまかせて」という。
閑日月はこのときであります。
安芸守の草履取りをしていた真壁平四郎が後に敕特賜法身国師性西大和尚の偈に
一住径山弄風光、皈来坐円福道場
覚了法身無一物、元是真壁平四郎
と。これが大悟大徹、大悟却迷の消息なのであります。 大悟の状態、つまり悟入の状態と、悟後の状態にいささか注意をされたい。
大悟の状態は悟後の状態ではなく、悟後の状態は大悟の状態ではない。
これは説明上必然の帰結と言えよう。
大悟の状態は大悟の体認の状態であり、正面から言えば、一大自覚のときであり、
すなわち自分みずからが真如と化成した精神的状態である。
もちろんその奥底には、自覚覚他、覚行究満と、向上さらに向上の一路
すなわち向下却来の消息に向かって自在の妙術を所々現することのできる
行解一枚の精神的状態が存している。
そして悟後の状態は、精神的に言えば、大の状態つまり大悟の体認の状態である。
これはその心的状態が現に現れたので、つまり燃えるような暖かな噴出泉から湧き出て、
向上であれ向下であれ、社会国家の上、重々無尽に流路される、実行的方面である。
いわゆる心的状態が身的状態となった身心一如、修証不二となったところである。
換言すれば、この場合は前者の心的状態の損するところ行的状態
すなわち身的状態は一つの希望に止まっているにすぎなかったのに反して、
心的状態のあるところ、身的状態は伴い、
身的状態のあるところ心的状態両者伴って、不即不離である。 つまり前者は、体を認めた状態、後者は用であって、
体の存するところ必ず用の伴うつまりこれが真の大悟である。
ここまで進みこんでこそ、禅の大悟、証道である。
こういう人を大悟底の人、超関脱落底に安んじて茶を飲んで、飯を食って、
仕事をして、休んで、日々夜々、活発々地、七通八達、滞りなく、
実践躬行して自己の光明を蓋天蓋地とならしめる人である。
倫理的に言うなれば、人格を完成し、本務遂行の人である。
いわゆる坐禅の効を奏した人で社会国家の上で活動する大偉人である。
しかしながら、功を奏したとはいえ、この境界になれば、運任無作、益々進み、益々修しては行じ、
行じては修し、大修行をさらに大修行してやまず。
無限無究に不退転勇猛精進するのである。
この意味において禅は迷たる俗諦門の上から精神を錬磨し、品性を陶冶するすべであり、
人格を養成する法であって究極には大悟の人となるのであるが、
禅本来の悟の上たる真諦門から言えば、何の効果もなく、何の功徳もなく、何の目的もなく、
専一弁道、向上不退転の実行にあるのである。 すなわち「行の招くところは証なり。自家の実蔵、外より来らず。
証のこれ使ふところのものは行なり。心地の蹤跡豈に廻転すべけんや。
然り而して若し、証眼を廻らして行地を顧みば一翳の眼に当るなし。
将さに見んとすれば白雲万里。若し行足を挙して証階に擬せば一塵の足を受くる無し。
将さに蹈まんとすれば、天地懸かに隔る是に於て退歩せば仏地を勃跳す」と。
参禅の士は、この意をよく味わうべきである。
いや、前来説き去り説き来れるところを実践躬行する底の人であらねばならないのだ。 碧巌録(へきがんろく) 第30則? 趙州大蘿葡頭(じょうしゅう だい らふとう)
?
?
本則:
久参の僧、趙州に問う、
「承(うけたまわ)り聞く、和尚親しく南泉(なんぜん)に見(まみ)ゆと。是なりや、否や?」。
州云く、
「鎮州に大蘿葡頭(らふとう)「大きな大根」を出(いだ)す」。
?
?
本則:
ある久参の僧が、趙州に聞いた、
「和尚は南泉禅師に禅を学んだと承り聞きますが、本当でしょうか?」。真理さとりとは、なんですか。
趙州は言った、
「鎮州に大きな大根がとれるわい」。
○ 昨年は夏が長く、ほとんど空きが無くて、すぐ冬になったようだった。
それで、野菜類が高騰している。
12月いっぱいで供給が追い付いて値下がりし始める、だろうという事だった。
しかし、正月明けの初セリでも、一向に値下がりの様子が無い。
わたしは陶器製の宴席が出る漬物気を持っているので、大根の浅漬けを作るのが楽しみである。
塩を振っただけの浅漬けである。
大根と言うのは大したもので付けても失敗が無い。
しかも食べて食い飽きない。
消化にも良い。
さて、わたしは大根と聞けば浅漬けと単純な反応をするだけだが、さとりは大根だぜ、と趙州和尚は、言い放つ。
そうっだったのか、わたしと大根は食べて一体になっているので、これとそれ、と言うように二つではない。
二つではないが、一の如し、だ。
小五の時、死が怖くて毎夜布団をかぶって震えていたのだが、橋を渡っていた時、胸に黄金の仏の立像’りゅうぞう)を見て、大安心して眠れるようになり、30歳を過ぎるまで忘れていた。
その金の立像とこの大根は同じものである。
臨済に まみゆ。 >>91 Ann ちゃん
本スレ、と言えば、一方は偽となる。
前にも言ったけれど、流れ下る木の葉のように、ふーらふら、表を見せたり、裏を見せてtだ流れていくだけだろうね。 Ann ちゃん
すごいね、大量の書き込みだね。
だが、「騒動衆 そうとうしゅう}のひとだったのか? 曹洞宗には色即是空はあっても、空即是色が無い。
曹洞宗は、アンチであるがために、禅ではない。 Best French Music for a Romantic Dinner - 4:10:08
https://www.youtube.com/watch?v=MFFlyYLQli0 441 : 聖母の娘2017/01/06(金) 22:50:03.37 ID:aLWscAki
>>439
赦します💛
(〃 ̄∇ ̄)ノ彡☆ウキャキャキャッ 黄金の巻第2帖
……………
古いことばかり守っているぞ
古いことが新しいことと思っているなれど
新しいことが古いのであるぞ
取り違い致すなよ
「神は生命ぞ」
秩序ぞ、秩序は法則ぞ
為せよ、行ぜよ、考えよ
考えたらよいのじゃ
為すには先ず求めよ
神を求めよ
己に求めよ
求めて、理解した後為せ
為して顧みよ
神の生命(命)そこに弥栄えるぞ
今までの日本の宗教は日本だけの宗教
この度は世界のもとの、三千世界の大道ぞ
教えで無いぞ
……………
第3帖
神は神の中に、宇宙を生み給うたのであるぞ
善の祈りには善、悪の祈りには悪
祈りの通りに何もかも出て来る事、まだ分からんか
時節には時節の事と申してあろう 春の巻第23帖
順と区別さえ心得て居れば
何様を拝んでもよいと申してあろうが
日の神様ばかりに囚われると分からん事になるぞ
気付けおくぞ
それでは理(みち)にならん
父だけ拝んで母拝まんのは親不孝ぞ
お蔭ないぞ
お蔭あったらヨコシマ(横しま)のお蔭と心得よ
手だけ尊んではいかん
足だけ尊んでもいかん
一切に向かって感謝せよと申してあろうが
門もくぐらず玄関も通らずに
奥座敷には行かれん道理
順序を馬鹿にしてはならんぞ
いつまで門に立っていても何もならん
お出直しじゃ
川がなければ水流れん道理
始めはカタふんで行かなならんぞ 悟りとは何の関係も無い私が悟りスレに意着いたのはなぜだろう。居心地がよかったから?考案に悩む事もなく色々で゛たらめ
言えるから?私が来た時は師匠は真剣に鍛えてもらつた。あのころはぽつ師匠や名無しさん皆偉い人で私は偉い眼に出会ったか
ら?盲私は夢中で寂しいスレが無くならない様に微力でも出鱈目でも端書きつづけた?今は私が偉い気分になつているのか?
冷静に観察すれば良くわからないしまるでなにも変わらないしまあええに進んでいない。偉い気分だけは偉いのか。わたしは
師匠達に小突かれて目が覚めるたちで、私は駄目だけど師匠を見分ける眼だけが取り得何かなあ。それは私の中の師匠が私を
操縦しているので騙されないのか?昨日夜はUSB見つからず落としたのかと探したけど何時もの処にあった。正月は中国人か
来て色々喚くしお釣り二回払わされ5000円位損したからか?今朝の夢は何処かの店で買い物して千円渡したけどそれが
店の商品のケースに落ち皆で探すけど消えた損したと思ったけど夢の中で札なんて夢のお札だと思ったけど自分は夢の中
でゆめのなに居ることに気が付いていなかつた?夢に気が付いたのかきがつかなかったのか覚めてから損な事如何でもよいか?
167: 素人A :2017/01/08(日) 09:08:47 ID:gOqWUDAs0
やる気ない今の私を一心に頑張った過去の私が支えているから
やる気なくでも習慣で続けて行けるそれで良いのだ老化
少しは頑張れ気合入れる 84.
宗教とは何か、なんて必要としていないでしょう。
必要となれば自分で調べる。
一如という名前の物理学で良い、と思っているかいな。
Annさんが多くを説明している。 自明の理として一の如しと言っている。
つまり既に論理的に成立していない。
要するにこいつは偽者だね。 https://www.youtube.com/watch?v=YXlyPjH7nfU
シコシコ猿ぼったん軍団暴れる小田原2
音楽付き替え歌楽しめw
http://youtu.be/4Bh1nm7Ir8c
恐れるな おののくな
垂れ流せ(Hey)書き込め(Ho)
その妄想と餓鬼を今ささげろ
「あいむ あ 猿芝居ヒューマンw」
_/ ̄ ̄\_
// \ヽ
fY Y|
| | /\)(/ヽ | |
(V <・)| (・> V)
| ー | ー |
| \ ^^ / |
\ ヽ /\ / /
/\____/\
| | VL∧/ | |
| | V | / | |
バジル要一「精査します」を何度も繰り返す。
37 :くい打ち支店長と女の腰裏の狗の愉快犯夕職人は外道!2016/08/20(土) 22:56:03.45 ID:fJt6k3tA
>>35 夕 さん
こうしてあなたとキャッチボールをしています。
を繰り返す、ぼったんの詭弁w
bo,tata,ta,bootata…
「あいむ あ 猿芝居ヒューマンw」
_/ ̄ ̄\_
// \ヽ
fY Y|
| | /\)(/ヽ | |
(V <・)| (・> V)
| ー | ー |
| \ ^^ / |
\ ヽ /\ / /
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バジル要一
公私混同無分別、 公金無分別、ぼったん無分別w
435 :坐のままで30m先の蝋燭を吹き消せ! ◆Pottan3jtE :2016/05/30(月) 19:13:05.95 ID:as0RDtqU
>>433
訂正
ひっくるめて、無ン別しないよう望みます。
↓
ひっくるめて、分別しないよう望みます 大河ドラマ「ぼったん丸」 第一から第三まで総集編w
62 :大河ドラマ「ぼったん丸」過去投稿文、全部読めますw:2016/04/03(日) 13:45:40.35 ID:BMMZJW2thttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1452563489/l50
大河ドラマ「ぼったん丸」 が人気出てきたなw総集編だw
大河ドラマ「ぼったん丸」 第一から第三まで総集編w
主演 あは氏 パシル ぼったん(:(。~^~)(~^~。) ポッ漢奴 )
野々村ぼったん竜太郎(:(。~^~)(~^~。) ポッ漢奴
////// ヽ \ !
{|///// \ \ |
r、r.r 、 ,!|//' 彡ミヾ ノ {、,,,_ ヽ ; r r.r、
r |_,|_,|_,| ハV| <●> { j<●> ∨/ |,_|,_|,_|.r,
|_,|_,|_,|/⌒ヾ〈'i! ,ノ ( ` ̄ `´ |/ ⌒゙i|,_|,_|,_| |
|_,|_,|_人そ(^iし!:: /(r 、_,、)、 iノi^) 人_|,_|,_| |
| ) ヽノ | {:: / _,,,..、_,、 ヽ ::: | (,,r' ( |
| `".`´ ノ | 《_` ' -'-'=ヽ | :/ (, `´.゛` |
人 入_ノ´ >. ヾ` ミエエiソ // / `!、_入 人
/ \_/_,, /∧、 ,. ─-、 //! \_/ \ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 人 人 人
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(*‘ω‘ *) ウンコッコ (*‘ω‘ *) ウンコッコ (*‘ω‘ *) ウンコッコ
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ナレーション
「丸」という言葉は、砦城、幼児の名前、船に付けられる、魔よけの意味で、「丸=便所}の意味である。
坐禅と見性スレは、魔よけどころか、本物の24時間糞尿垂れ流し便所
ぼったん丸の物語であるw
平成16年、坐禅と見性スレは建った、当初は机に邪魔されながらも、まともな禅修行者、露道氏、南予氏がおり有意義なスレ運営されていたが、
http://life6.2ch.net/test/read.cgi/psy/1084840058/
平成16年4月6日午後六時前、スレを荒廃させる、餓鬼悪魔が、連投と共にやってきたw
6月21に朝8時、とうとう、冴えた禅僧侶露堂、あは氏 パシル ぼったんに攻勢にでる。
そして、ぼったんはそのままだと「糞製造機」ぼったん丸となる事を忠告する ぐずぐずしていたら糞製造機のままで一生を終えてしまいますよ。」
と露堂、ぼったんに大予言するw
303 :露堂:04/06/21 08:41 ID:Y/Awoojs摂心明けから暫く遠ざかっていましたが、またまた風変わりな御仁の登場ですか。(笑
>>587
>見性は、そこらに転がっている 全て だからね。
>もう一人の自分に出会う、旅、だと言えるかな。
見性してない人がわかるものなのでしょうか?(笑
>>298
独覚か何だかは知らないけれど、余り自分よがりなことを言うと笑われますよ(笑
>>302
まず貴方もつべこべいわずに真摯に取り込むことです。
それには屁理屈が出てくる、その頭をまず取り除くことですね。人生は永い様で短いものですからね。
ぐずぐずしていたら糞製造機のままで一生を終えてしまいますよ。
貴方もどなたかの御仁に瓜二つですね。
老婆心(老爺心)ながら、この辺りで心を入れ替えてみてはどうでしょうかね。 ぼったん、偉大なるエア禅、ゴールデン・ボッタン炸裂wwwww
312 :あは氏 パシル ◆FNpT2a5MGA :04/06/21 16:59 ID:fKcZ6eBd>>307
> これが事実で正座もできないのであれば椅子に腰掛けてやればいいじゃありませんか。
> このとき背筋を伸ばして、臍下丹田に重心が掛かる様に坐ることが重要ですがね。
> やろうと思えば出来るのです。逃げ口上を言って自我を大事にしているうちは話になりません。
> いづれにしても読書や頭だけでは見性もできませんし、隻手の音声は聞えてきませんよ。
あ! ありがとうございました。m(_ _)mペコリ
隻手 聞いたんですよ。・・・(○`。 ´○)ボソッ
30過ぎて、2〜3年した頃。
キャバレー勤めもして、巫女さんのアルバイトもしている女性との会話中。
それから、しばらくきんいろの炎が、立ち上がるのを、見ていました。
だけど、それが、どうした、といえますが 露堂軍の猛攻によろ第一次ボッタン城炎上落城www
____,,,...,.
i' 没 痰 城 #|;;)(;;;;;⌒;)(;;;; ワーワー
|~"~"~~ ̄" ̄~((;;;;⌒;;;)(;;;;)
(_|___从从(;;;;ノ(;;;;);;;) ( ;;;ソ < 殿!もはやこの城はもう駄目でござる!!
/llllllllΣ从:. ;;;;;;;⌒;;;;)(;;;;)(;;;;)
|_皿_シヘ:从:. .::. ;;;;);;;)⌒(;;;;)(⌒;;;;)
/lllll/_^/从从:::::. (;;;;)(;;;(;;;;))(;;;;)
从|_皿__.日W^>;;∧(;;;;;;;)⌒(;;;;) ワーワー
/llllll从从lllllll从lllllllllll\(;;;;;;;;)(;;;;)
|_ロ_癶_皿__皿_癶从_|(;;;;)(;;;;) (;;;;⌒)(;;;;;;)
/ll/_^_\llllll/_从从ll\ _从(;;;;)(;⌒;;;)
|___皿从从._皿___| /lllll从l\(;;;;;;;)
/llllllllllllllllllllllllllll从从llllllllll\______ |_ロ _从_|(;;;;)
|_皿_皿_皿_从_ 皿_|lll从llllllllllllllllllllll\
.lXXXXXXXXXXXXXXXX.l_ロ_从从_ロ_|
lXXXXXXXXXXXXXXXXXlXXXXXXXXXl
lXXXXXXXXXXXXXXXXXXlXXXXXXXXXl
.lXXXXXXXXXXXXXXXXXXXlXXXXXXXXXl
314 :露堂:04/06/22 08:39 ID:Z5ssmf53>>312
>キャバレー勤めもして、巫女さんのアルバイトもしている女性との会話中。
>それから、しばらくきんいろの炎が、立ち上がるのを、見ていました。
失礼ながらそれは見性とは違うようですね。
見性とは自性を自覚することで、対境をどうのこうのではありませんからね。
たぶんその女性に熱でも上げて朦朧として幻を見ていたんでしょう。
あるいは女性のオーラが見える体質だったりしてね。
まあ、3分間の反省がこのスレとどういう関係があるのか、さっぱりわかりませんけれど ぼったん禅の本性とは、このようなものであるw
https://honto.jp/netstore/pd-book.html?prdid=25570504
善を思わず悪を思わず―輝き溢れる悔いなき人生 単行本 – 2013/4
御木 徳久 (著)
http://manebu.net/list1/?det_id=601758
黄檗(おうばく)宗「安城寺」(松山市)の男性住職らが、大阪市内の不動産会社に施設の建て替え計画を持ちかけ、1億5千万円の融資を受けたにもかかわらず、計画は実現していないうえ、金利の支払いや返済が滞っていることがわかった。
大阪地検特捜部もこうした経過を把握しており、17日、境内にある住職の自宅など関係先を家宅捜索した。
善を行わず(善を思わず)、悪を反省せずw(悪を思わず)
ぼったん無分別禅w 生きる意味とか価値とかが無いなら死の意味とか価値とかも無い。
生きる意味にとらわれ、死の意味に囚われる事が病である。
それらから離れることが悟りである。 >>93
なるほどフロイド先生を超える方が集まるとこなんだな。 見性とか直覚とか言うけど難しく言うのが好きみたいだが
ようは言語を通じて世界を見てる状態から言語を通じずに
直接世界を見ることを言うわけだからその為には言語を
超える体験をしないといけないわけでしょう。その体験を
悟りとか言うわけだけどわしも一時そういう体験はしたが
決して人に進められるようなことではなかったな。
半分キチガイになるからね。人にキチガイになりなさいとか
進められんわ。 師匠なしにやるとな。
禅は一歩間違うとキチガイになるぞ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています