聖書を根底から学ぶスレ8 [無断転載禁止]©2ch.net
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聖書を牛歩のごとく、ゆっくり学んでいくスレです。
2016年の4月になりましたので、過去に約束したとおり、
このスレを復活させました。
以後よろしくお願いいたします。
※前スレ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1472095192/ 「感化」ということの意味がわからない人がおられるようでしたので、
ここで、わかりやすい例を書いておこうと思います。
感化 とは、
ある人がYoutubeでビートルズの映像を観て、「これはいい!」と思い、
自分でもギターを買って、音楽を始めるようなものです。
誰かが「これはいい!」と人から思われるようなクリスチャンになったなら、
その人を見てクリスチャンになりたいと思う人が出てくるのです。
つまり、こういうことが感化です。 例えば教会売り払って飢餓国援助しようとかか?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 健康でない人から「この体操をすれば健康になるのよ」と言われても、
その人から教わったことをしたいとは思わないでしょう。
逆に、どうみても実績を上げている人がやっていることだったら、
強制されなくとも、真似してみたくなるものです。 信者同士で成金自慢し合うとかなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>549
もしあなたが貧しい人を助けたいと思うのなら、
あなたの出来る範囲で頑張ってください。
他の人にはたらきかけるのは、そのずっと後でいいと思います。 僕がさいたま教区に住んでいた頃に、
鬱であることを自認する神父が説教をしていました。
僕は信じられなかったです。
神に信頼を置いている人なら鬱になどならないからです。
つまり、その神父は神に信頼を置いていないのです。 「間違っていることを指摘してあげるのはいいことだ」と、ここで主張する人は
神父に対して、「あなたは信仰がないので鬱になるのですよ」と指摘するのでしょうか?
そんなことをしても何の意味もないのです。 >>555
>鬱の原因はなんでしょうか。
原因はわかりませんが、状態は不安と恐れです。 そのさいたま教区の神父ですが、
自分も弱い人間の一人なのです、という態度でしたから、
ご自身では矛盾を理解されていないようでした。
理解されたなら、神への信仰を回復し、鬱の症状も良くなるものと思います。
しかし、他人がそれを指摘することは、やはり間違っています。 信仰がなくとも、あと数十年後には
おそらく薬で簡単に鬱の症状は回復するようになるでしょう。
神父であっても信仰がない人はいるのです。
信仰がない人に対して、信仰がないことを責めるのは、そもそも間違っています。 つまり、医学の発達により、
人間の精神面においても、良い影響を与えることができるようになるのです。
脳の仕組みと、記憶というものの仕組みが、近い将来に解明されるからです。
このことにより、「信じる」ということと「感謝」ということが
どれほど大切なことか、科学面からも実証されるようになるはずです。 彼のヘンリ・ナウエンも鬱だったそうです
彼には信仰がなかったんですね
いやー知りませんでしたw 信仰があるから鬱にならないんじゃなくて
あなたみたいに鈍感だから鬱にならないだけじゃね? 聖書には「信ずる者は病気にならない、鬱にならない」というようなことを
教えない。
マタイ9:27以下で教えるのは、
1.イエスが病気を癒すことができるとお前たちは信ずるのかどうか
2.信じた者は、その信じたという「信仰」に従って、つまり
その人の「信仰」に依拠して病気が癒されよとイエスが
患部に触れながら発言し
3.次節で盲人の目が癒される。 何かが失われている状態・・・失楽園、失明、失望
563 >>553-554
お前は、美少年のダニエル坊やか?w
カトリックで1からやり直した方がいいよ。
どこの福音派か知らないけど、そこにいた期間よりカトリックの期間が
長くないと治らない。
もう、めちゃくちゃ。
ヨナには信仰はあったのか?なかったのか?
信仰のあったヨナでも「死にたい」と言ったろ。現世の苦しみより
神の御胸に抱かれた方が楽だろうなあ、と思う時、ふっと死にたくなることは
人間ならあるだろう。当然、鬱もある。
ダニエル坊やはもう人間ではなくなってるんだよ。そんな欠陥人間を作り上げる
ような間違った宗派は止めておけよ。 悟りは自覚。キリスト教では救いでなければならない。 意地悪な質問をダニエル坊やにしてあげよう。
ヨナと君とでどちらが神への信仰は深いのだろう。 今後は埼玉教区の神父様は信仰が足りないから鬱なのだろうという捉え方はしまい。 >>557
その神父さんの鬱が癒されるといいですね。
私が祈ります。 キリスト教こそ、鬱病の病原であり、
教会は、鬱病患者製造所。
「キリスト教、または教会に行って鬱病になった、悪化した」
「クリスチャンは鬱病が多い」
ネットにいくらでもでてくる。 >信仰がなくとも、あと数十年後には
>おそらく薬で簡単に鬱の症状は回復するようになるでしょう。
そんなことを言っている医者とか製薬会社とか見たことがありませんけど?
それとも自分でそんな薬を開発しているとか?w
ちなみに君、内因性と外因性の精神疾患の区別ついてる?
最低限、それぐらいのことはお勉強してから病気について発言しようね。
君みたいなのがいると実際のところ迷惑なんだよね。
キリスト教が病気に対して理解がない宗教のように思われるから。
鬱の薬よりも君みたいな頑迷なクリスチャンに飲ませる薬を開発してほしいわwww >>553
> 神に信頼を置いている人なら鬱になどならないからです。
> つまり、その神父は神に信頼を置いていないのです。
しかし、カトリックでは、これは間違っていないとおもいます。
聖書の中で、イエスもそのようなことを言っているとおもいます。 聖書は真理それ自体ではなく、真理を教示してくれる一つの教科書として、時代の流れとともに、漸次高められてきた心霊と知能の程度に応じて、
各時代の人々に与えられたものであるために、その真理を教示する範囲とか、それを表現する程度や方法においては、時代によって変わらざるを得ないのである。
したがって、我々はこのような性格をもっている教科書そのものを、不動のものとして絶対視してはならないのである イエスは、そのみ言を真理と言わないで、彼自身がすなわち、道であり、真理であり、命であると言われたのであった(ヨハネ14.6)。
聖書の文字は真理を表現する一つの方法であって、真理自体ではない。 聖書は重要な部分が、ほとんど象徴と比喩によって表現されている。
人によりそれを解釈するのに各々差異があり多くの教派が派生してくるのである。 変わっていいものと変わってはいけないものがありますな >>560
彼のヘンリ・ナウエンも鬱だったそうです
彼には信仰がなかったんですね
いやー知りませんでしたw >>560
>彼のヘンリ・ナウエンも鬱だったそうです
>彼には信仰がなかったんですね
>いやー知りませんでしたw
神に信頼を置いている人には不安がありません。 >>582
あなたはまったく不安がないんですか?
それから「鬱」と「不安」は別問題 >>583
>あなたはまったく不安がないんですか?
いつも喜んで、あらゆるものに感謝しています。
たまに怒ることはあります。
>それから「鬱」と「不安」は別問題
それはどうでしょうか? イエスは、嵐の中で小舟に揺られている時でさえ、
弟子たちに「恐れるな」と言っておられました。
だとするなら、この地上で、通常に暮らしていて、
何を恐れる必要があるでしょうか? >それはどうでしょうか?
別問題ですよ。そうでないならば根拠をどうぞ >>586
>別問題ですよ。そうでないならば根拠をどうぞ
不安を持っていない鬱患者は存在しないです。 >>585
その話と「鬱」が何の関係があるのか意味不明ですよw 不安を持っていても鬱病患者でない人もいますが?
外からの原因で不安になるというような外因性ではなく、内因性の鬱についてはどうお考えですか? >>589
>外からの原因で不安になるというような外因性ではなく、内因性の鬱についてはどうお考えですか?
色々とご質問なさるということは、鬱について興味があるのだと思いますが、
むしろ興味を持たないことをお勧めします。
楽しいこと、愉快なこと、人と楽しく過ごすことに着目するようにしてください。 >通常に暮らしていて、
「通常に暮ら」せなくて鬱状態になる信仰者もいます。
それは信仰がないから鬱になるんでしょうか? >>590
興味があるというか鬱病患者です。入院も経験しています。
>楽しいこと、愉快なこと、人と楽しく過ごすことに着目するようにしてください。
そうできなくなるのが鬱病です。それに対して判を押したように楽しい気持ちになれ、
などというのは律法学者のやることですよ。自覚してください。 ひとつだけ言っておきます。
「感謝」ということが、自分にとってどれほど素晴らしいのかを説明します。
多くの人は、「感謝」とは、自分以外の誰かの為にするものと思っているかもしれないです。
けれども、本当は「感謝」は自分のためになるものなのです。
なぜかというと、「感謝する」という行為自体が『自分は恵まれている』ということの
表明であり、証となるからです。
ですから、感謝することにより恵みがもたらされ、恵みがもたらされることにより
感謝が増えるという、好循環になります。 「健康な者に医者はいらない」
このイエスの言葉についてよく考えてみてくださいね 感謝して鬱病が治れば医者も薬もいりません
というか論点ずれているでしょうwww
正直に自分の認識不足を認めればいいのに >>596
>感謝して鬱病が治れば医者も薬もいりません
あなたのおっしゃるとおりです!
実践しても損はありませんよ。 つまり原罪をなきものにしてしまったパウロ教には悟りがないのです。 全てを捨ててということでは仏教もキリスト教も同じことを言っているにも関わらずです。 信仰とは強制されて信じるというものではないのです。
自覚なのです。 >>597
いや、僕が言いたいのは感謝したって鬱病は治らないってことです。
日本語OK? >>597 ← 祖国の全体的な症状悪化と、やっぱり連動している様に見受けられます。
民族の集合的無意識ってやつかな。 ダニエルは自分のことを「ダニエル坊やなんだ」という謙虚な気持ちになって
人の話を聞かないとな。自分の誤りを認めず、屁理屈をこねて、誤魔化して逃げ回る。
「ぼくが間違っていました。」が全然ない。
知識だけのすろさんには、ダニエル坊やの信仰の歪みは見えないのか、それとも
小松菜を育てる優しさなのか、聞き流してあげてますわなあ。 マタイ9:30
καὶ ἠνεῴχθησαν αὐτῶν οἱ ὀφθαλμοί.
καὶ ἐνεβριμήθη αὐτοῖς ὁ Ἰησοῦς λέγων·
ὁρᾶτε μηδεὶς γινωσκέτω.
καὶ接続詞 すると
ἠνεῴχθησαν 過去受身三複 それらは開かれた、開けられた
αὐτῶν 男単属格 彼らの
οἱ ὀφθαλμοί. 指示代名詞男複主格+男複主格 これらの目(複数)が
καὶ 接続詞 そして
ἐνεβριμήθη 過去三単 彼は厳しく咎めた
αὐτοῖς 男複与格 彼らを
ὁ Ἰησοῦς 冠詞+男単主格 イエスは
λέγων· 現分男単主格 言った
ὁρᾶτε 現命二複 お前たちは見なさい
μηδεὶς 否定代名詞 誰も〜ない
γινωσκέτω.現命三単 知られないように
スロージューサー訳
すると彼らのこれらの目(複数)が開かれた。
そしてイエスは彼を厳しく咎めて言った
「見よ、誰にも知らないようにしなさい」
参考に
http://smallvoice.la.coocan.jp/id-4/matthew0930.pdf ダニ坊は、自分が間違っていることを認められないのです。 主は言われる
70年の終わった後に
わたしはバビロンの王と
その民と、カルデア人の地を
その罪のために罰し
永遠の荒れ地とする
イザヤ書 地球浄化計画 イエスは道の象徴でありイエスの十字架はあくまでもイエスの十字架に過ぎず、
十字架による救いとは自分の十字架をおうことに他ならないのです。 カルディアって今も荒れ地 上空から見るとウルの遺跡が広大に広がっているのが見える。
(現在のイラク) ソドムとゴモラについての抗議の声が あまりにも大きいのだ。
その訴えによると とてもむごく罪深いことをやっているらしいのだ
そこで、わたしは下界に降りてきて確かめようと思ったのだ
もし、訴えの通りならば、彼らはこの都市を完全に破壊するだろう
もし、そうでなければ、本当のことを知りたいのだ。
創世記 17 章 >>611
脱皮しない蛇は滅びる
フリードリッヒ・ニーチェ 一連のダニエルさんの主張をまとめると、
1.鬱病になるのは信仰がないから
2.感謝すれば医者も薬もなしに鬱病は治る
3.根拠は特にないです
こんなところでOK?w じゃあついでにw
・高名な神学者であるにもかかわらず、ヘンリ・ナウエンが鬱になったのは彼に信仰がないから
・ダニ坊さんが鬱にならないのは、いつも感謝して信仰があるから
この理解で間違いないですか?OK?
まあ、あなたの主張が正しいかどうか、人に尋ねるまでもないですねw >>593
ダニエルさん、大空スレで共通するような話題が出ています。
私は、鬱と言ってもその人の人格が先にあるし、よく分かりません。
鬱病と鬱症状というのも違うようですしね。
それと、人はホルモンに死ぬまで影響を受けるようで、
成長期にホルモンの影響で心のバランスまで崩したり、
更年期のホルモン変化は男性にもあるようです。 何をしたから治ると言うのでもなく、その時期を過ぎ去るのを
待たなければ、意志でどうにかならないほどの辛さがあるそうです。
その更年期は、ちょうど自分の人生で何をしてきたかが出てきますから、
精神的にも総括的に大変なようで、体と心の調整が今までの方法では
通用しないものがあるらしく、その年になってみないと解らない。
でも、躁鬱病でなくて、ホルモンバランスが崩れた鬱症状らしいです。 ダニエルさんのお話の牧師さんは、その更年期だったのでは?
無茶苦茶で我が儘放題のような人格まで及ぼしている、
疾患であったでしょうか。
私は、その点が大事だと思うのです。
牧師であっても、身体の病気になることもあるでしょうし、
信仰が揺らいだりでなければ、きっと元気になられるはずです。
信仰の基礎は十分わかっておられると思いますので、
人間に上下はありませんし、辛い時はお互い様、
祈りと感謝は通じる方だと思うのですが。 >>619
>高名な神学者であるにもかかわらず、ヘンリ・ナウエンが鬱になったのは彼に信仰がないから
「信仰がない」ということについて、あなたがよくわかっていないように思います。
僕は「信頼を置いていない」と書いていたのですが、その方がわかりやすいかと思います。
赤ん坊は母親に対して全般の信頼を置いていますので、その態度が参考になると思います。
特にクリスチャンの人は「信仰がない」ということを駄目出しされたように感じるのだと思いますが、
そもそも信仰ということがよくわかっていないのだから、感情的になる必要はないです。 自分の立場であるとか、エゴに縛られている人は、
自分以外のものを信頼する、ということが出来難くなっているので
信仰心というものから自然と離れているのです。
この状態を「信仰ができない」状態であると言えるのですが、
この状態で生活していると、様々な問題が発生してきます。 >>623
「信仰がない」でも「信頼を置いていない」でもどちらでも構いませんが、
あなたはあなた自身が鬱にならないのは、神に「信頼を置いている」からで、
鬱になる人は神に「信頼を置いていない」からだとおっしゃりたいのですよね? そうした状態から離れた状態もあります。
それには、赤ん坊の態度が参考になると思います。
思い煩わない態度、生きていることに信頼を置くこと。
これらが出来るようになったなら、自然と感謝の気持ちが沸いてくるはずです。 別にわたしはナウエンの信奉者ではありませんが、
あなたがおっしゃっていることは、要約すれば、
「少なくとも僕は、鬱になるようなナウエンよりは神に信頼を置いている人間だ(だから鬱になんてならないもん)」
ということで間違いありませんか? >>625
>「信仰がない」でも「信頼を置いていない」でもどちらでも構いませんが、
>あなたはあなた自身が鬱にならないのは、神に「信頼を置いている」からで、
>鬱になる人は神に「信頼を置いていない」からだとおっしゃりたいのですよね?
神に全面的に信頼したなら、何の心配もなくなります。 >>620-622さんがおっしゃる通り、神への信頼、信仰に関わらず、
加齢などの問題で、人は鬱になることがあるんですよ。
他にも、病気、事故、挫折、親しい人との別れ、など原因は様々です。
繰り返しますが、信仰や信頼、感謝の有無は鬱病とは「無関係」です。 >>627
>別にわたしはナウエンの信奉者ではありませんが、
>あなたがおっしゃっていることは、要約すれば、
>「少なくとも僕は、鬱になるようなナウエンよりは神に信頼を置いている人間だ(だから鬱になんてならないもん)」
>ということで間違いありませんか?
立派な人だから、神に信頼できているということでもないですし、
普通の人だから、神に信頼できないということもないのです。 >>629
>繰り返しますが、信仰や信頼、感謝の有無は鬱病とは「無関係」です。
なぜそのように言い切れるのですか?
あなたは神に信頼して、感謝の生活を送っていて、なおかつ鬱なのですか? >神に全面的に信頼したなら、何の心配もなくなります。
「はい」か「いいえ」で答えられるように質問しているんですけど。僕の日本語理解できています?w
・ダニ坊さんは神に全面的に信頼を置いているから、何の心配もなく、鬱にもならない
「はい」ですか?「いいえ」ですか?
・例えば、鬱になったナウエンは、神に信頼を置いていないと断定できる
「はい」ですか?「いいえ」ですか? >>632
信仰について、人と人とを比較することはご法度なのです。
あなたは聖書を読んでいるのに、そんなこともわからないのですか? >>631
はい、そうです。
それでも入院するほどの鬱病になりました。
あなたもこんな風に「はい」か「いいえ」でシンプルに答えてねw ★ルカ福音書 18章
パリサイ人はこう祈った。
「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、
また、この取税人のような人間でないことを感謝します。(中省略)」
「あなたがたに言っておく、神に義とされて自分の家に帰ったのは、
この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。 >>633
>>557の発言なんか、自分を上に、他人を下に見て、
「信仰について、人と人とを比較」している典型的な例だと思いますが。
>>582もそうですね。それとも一般的に「神に信頼を置いている人には不安がありません。」
ということが言いたかったのでしょうか?それなら、質問の答えになっていません。
人の質問に誠実に回答もせず、神には全面的に信頼を置いている、っていうこと、あるんですか?
ないと思いますよ。 「沙門でございます。出家の修行者でございます。」
「私もかつてあなたと同じように生・老・病・死の人生の大きな問題で悩み続けました。
老・病・死の苦悩の解決は他に求めて得られるものではなくて、また瞑想して観念的に解決のつくものでもありませんでした。
自分を正しく支配できるように厳しい苦行をし、努力を重ねる以外に方法はなかったのです。」
と、自分の体験を語りました。 >>636
>人の質問に誠実に回答もせず、
きちんと丁寧に回答しています。
しかし、あなたがそう思わないのはご自由です。 ご自分がパリサイ派だといいたいのね。
了解しましたw >きちんと丁寧に回答しています
丁寧ではなくていいので、「はい、か、いいえ」で「端的に」回答してください。
ご自分のご意見はその後におっしゃればよろしいのでは? いかん 実家の母親と長電話をした。1時間ほど
身体が寒い。風邪をひきかけているようだ
風邪薬を飲んだ。電気毛布にくるまって寝よう。
信仰がわたしを風邪から守りますように >>642
お大事に(^O^)/
信仰がなくても風邪薬があれば大丈夫さ なぜそのように言い切れるのですか?
あなたは神に信頼して、感謝の生活を送っていて、なおかつ鬱なのですか?
>>634
それでも、入院するほどの鬱病になったと仰いましたが、
回復できましたか?
回復した時、鬱の原因も含めて何が回復をもたらしたと
お考えになりましたか? >>644
薬、休養、適切な処置、周りの支えで回復しました。
僕個人に信仰があったからだとは思いません。
原因は正直、一言では語れないですね。 ダニエルさんの意見も実体験にはわからないでもない
小学生の時、キリストの十字架の贖いを信じた時、確かに死が突然に
怖くなくなった。死が克服されたからです。永遠の命に参加する者に
なったという安心感に包まれたのですね。
そういうことは入信時に喜びとして、初信の者にはありがちだと思います。
それ以前の不安にあった者ほど、その安心感は深いのかもです
ただ同時に信仰的に問題ない方々も病気をする、鬱にもなるということが
あります。それらすべての方を信仰がないと一刀両断にするのは
いかがなものかと思います。 >>642
ややこしい話にして、行き過ぎて遊んだ事に対する
母マリアからの体罰です(爆笑 >>645
そうですか、回復に信仰は何の役にも立たなかった・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています