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聖書を根底から学ぶスレ8 [無断転載禁止]©2ch.net

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0001よしお
垢版 |
2016/08/30(火) 14:57:49.73ID:IcigAjoX
聖書を牛歩のごとく、ゆっくり学んでいくスレです。
2016年の4月になりましたので、過去に約束したとおり、
このスレを復活させました。

以後よろしくお願いいたします。

※前スレ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1472095192/
0002すろ
垢版 |
2016/08/31(水) 07:16:19.48ID:ItkbBrkR
>>1
おつ
0003よしお
垢版 |
2016/08/31(水) 07:30:35.95ID:zQjLODGi
>>2
前スレは荒れてますから、我々マジメ組はこちらで聖書をまなびますか。
0004すろ
垢版 |
2016/08/31(水) 08:21:05.91ID:ItkbBrkR
>>3
了解

今夜こっちに訳を書きます
0005神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/08/31(水) 12:23:08.79ID:oLpYdM/z
ナッパ語録 ↓ 〜〜〜 最低なヤツだな
  
嘘と捏造、話のスリカエ、(責任を)人に被せる画策、悪印象操作、
(どこかから)借りてきた知識、盗っ人、軽いのりで盗める、
他者を言いがかりで陥れる、人からエネルギーを奪う、
チンピラヤクザ、一刻も早く死になさい、聖書は悪霊の棲家、
私には愛がありません、あるのは【恨み】だけです ← ニュー
 
とても暗い、ネガティブに幽閉された中からでてくるものは、
どれほど装っても(聖句などで【恨み】が悪霊のようにはびこり、
ねじ曲がった本当の敵意がひそんでします。 ← ニュー

本質をすり替えるほど闇の鎖に繋がれているのかと。 ← ニュー
0006神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/08/31(水) 12:25:37.74ID:oLpYdM/z
389 : シャロン 2016/07/24(日) 22:32:43.23 ID:NZHDm31C
>>387
だから何?
菜生さんの過去発言が例え耳を塞ぎたくなるほどの酷い言葉であったとして
あなたの酷い発言とどう関係があるの? 目には目、歯には歯ですか?

>>389
変なことを言う人だね。
他人の言葉を引用したら、引用した人の発言になるの?
ナッパの発言に同意したのではなく、
批判してるでしょうに。
0007神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/08/31(水) 12:28:05.75ID:oLpYdM/z
スロー爺さんの大罪
 
@ ほかにギリシャ語のスレがあるのに無視、
このスレに下手糞なギリシャ語翻訳を書き込んでいること。
 
A 日本語聖書でさえ理解するのが困難なのに、
さらにギリシャ語という重荷を負わせようとしていること。
 
B その動機は、自分自身の優越感、自己満足でしかないこと。
本人は良いことをやっているとカン違いしている。
0008神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/08/31(水) 13:09:15.78ID:oLpYdM/z
結婚したこともないのに離婚しただってさ (笑)
 
アホのナッパの正体は、ウ・ソ・ツ・キ
 
なんで嘘を平気でつくのか → 日本人じゃないから
0009神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/08/31(水) 13:10:26.71ID:oLpYdM/z
女が真理とは何か、なんてやってたらいずれ発狂するよ。
 
それでなくてもキチガイ風味なんだから、早くやめた方がいい。
0010よしお
垢版 |
2016/08/31(水) 13:12:50.18ID:zQjLODGi
ギプスさんや。
0011神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/08/31(水) 13:15:07.05ID:vtRXSxqr
キリスト教の根底は三位一体
0012よしお
垢版 |
2016/08/31(水) 14:27:52.80ID:zQjLODGi
じゃあ三位一体から入れよ。
0013神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/08/31(水) 14:42:11.52ID:vtRXSxqr
その通り
0014よしお
垢版 |
2016/08/31(水) 14:44:43.83ID:zQjLODGi
ちょっと嬉しい。
0015老クリスチャン
垢版 |
2016/08/31(水) 14:54:37.41ID:tgeIIHqn
【罪と死 @】
自分はキリスト信者であると思っている現代の普通の人たちの大部分が、新約聖書の中心主題である死者の復活ということを信じているか否かは別として、人間というものは死んでもその霊魂だけは生きていて、永遠に不滅であると思っています。
それは従来、教会での牧師や司祭の説教によって教えられて来たことでありました。
私もすでに洗礼を受けてから60年を越える老人でありますが、寡聞にして霊魂の不滅を否定するような説教をこれまでに聞いたことがありません。

私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
0016老クリスチャン
垢版 |
2016/08/31(水) 14:55:11.51ID:tgeIIHqn
【罪と死 A】
新約聖書学および古代教会史学者である O.クルマン が、1946年の 「キリストと時」 に続いて、1956年に 「霊魂の不滅か死者の復活か?」 という小論を出版したとき、それはかつてない熱狂と同時に激しい反発をもって迎えられました。
『この広く受け入れられて来た理解 (霊魂の不滅) は、しかし、キリスト教についての最大の誤解の一つである』 と、彼が結論づけたからです。

私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
0017老クリスチャン
垢版 |
2016/08/31(水) 14:55:48.20ID:tgeIIHqn
【罪と死 B】
『死者の復活という概念はキリストの出来事につながっていて、それ故に、ギリシャ的な霊魂不滅の信仰とは相容れない。
それは救済史に基づいているので、現代思想とは馴染まない。
しかし、それは初代キリスト教の宣教の欠くことの出来ない要素であって、これを放棄したり再解釈することは、新約聖書からその本質を奪うことになる。』

私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
0018老クリスチャン
垢版 |
2016/08/31(水) 14:56:25.59ID:tgeIIHqn
【罪と死 C】
先の講義で私は、「(旧約聖書の) 原初史はイスラエルの一つの神学的原因物語りの最も本質的要素として理解されるべきである」 というフォン・ラートの主張を紹介しました。
(※1 聖書講義 2016-4 5.二つの神学の立場)
そこでは、死は人間の罪によって世に入って来た呪い (※2 創 3:17) であり、その結果すべての被造物がこの呪いに巻き込まれました。(※3 創 3〜11章、ロマ 8:20-22 参照)
このように、死とは何か正常ではないもの、神に敵対するものであるというのが、ヘブライ的認識であり、それは聖書において展開されている救済史というものを理解する出発点であります。

復活への信仰は、このような死と罪の結びつきに関するヘブライ的認識を前提にしています。
「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ 6:23)
罪が原因でありますから、これが取り除かれるときにのみ、死は克服されるのです。
これが初代教会全体の、一致した理解でありました。

私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
0019スロージューサー
垢版 |
2016/08/31(水) 21:01:49.89ID:ItkbBrkR
マタイ8:3
καὶ ἐκτείνας τὴν χεῖρα ἥψατο αὐτοῦ λέγων·θέλω,
καθαρίσθητι· καὶ εὐθέως ἐκαθαρίσθη αὐτοῦ ἡ λέπρα.

καὶ接続詞 そして
ἐκτείνας 男単分過去主格 伸ばして
τὴν χεῖρα 冠詞+女単対格 手を
ἥψατο 三単過去中動+属格の場合 彼は触った
αὐτοῦ 男単属格 彼に
λέγων·男単分現主格 彼が言うには
θέλω, 一単現 私は望む
καθαρίσθητι· 二単過去命令受身 あなたは清くされよ
καὶ 接続詞 すると
εὐθέως すぐに ただちに たちどころに
ἐκαθαρίσθη 三単過去受身 彼は清められた
αὐτοῦ 男単属格 の
ἡ λέπρα.冠詞+ 名詞女単主格 皮膚病は レプラ  

スロージューサー訳
そして手を伸ばして彼に触って、言った。
「私は望む。あなたは清くされよ」
するとたちどころに、彼のうろこ病は清められた。

参考に
http://smallvoice.la.coocan.jp/id-4/matthew0803.pdf
0020神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/08/31(水) 21:17:05.70ID:7Dos5O8Q
大学生の時、後輩に「とても素敵な所があるから一緒に行きましょう」と言われて行ったのが横浜の関内の
「グローバルアイ」という名の所だった。
手相を見られて、なかなか帰してもらえず終電でやっと帰してもらった。

後で人に話したらそれは統一教会だった。
全く教会とか統一教会とか一言も言わなかったが、手相を見てくれた人の顔がキツネに憑かれた様な
異様な雰囲気だったのが忘れられない。

統一教会はテニスのサークルや名前を伏せて、大学生を今でもターゲットにしている。
私の友達もそうだったが、他ブログで友達が大学に行って統一教会に入会し行方不明になった人がこんなに
いるのかと驚いた。
0021Johannes
垢版 |
2016/08/31(水) 22:03:28.62ID:eL0RSp/C
.



114 :すろ[]:2016/08/27(土) 23:28:08.26 ID:q4SRknoV>>113
高校生の時に放送部の同級生と新興宗教のフィールドワークをしていて
外人青年伝道師のモルモン教の路傍勧誘にされて
彼らの勧誘テクニックを体験したが、たぶん彼らは催眠術を使っていたと
思う。彼らの眼が悪魔的な金色に変化して気持ち悪かった。
かなり危険な連中だと思う
---------------

さすが、文系出の暇人さん。なかなか表現が優れている。 と、理系出の俺は思う。

.
0022Johannes
垢版 |
2016/08/31(水) 22:18:56.60ID:eL0RSp/C
.



マタイ8:3

(スロー訳)
そして手を伸ばして彼に触って、言った。
「私は望む。あなたは清くされよ」
するとたちどころに、彼のうろこ病は清められた。

(フランシスコ会訳)
イエズスは手をさしのべて、その人に触れ、「わたしは望む、清くなれ」と言われた。
すると、たちまちその重い皮膚病は清められた。

(バルパロ訳)
イエズスは手を伸ばして触れ、「私は望む。治れ」と言われた。
するとすぐらい病は治った。

(塚本訳)
イエスは手をのばしてその人にさわり、「よろしい、清まれ」と言われると、
たちまち癩病が清まった。

.
0023よしお
垢版 |
2016/09/01(木) 02:05:59.43ID:5AMeOA1k
>>22
そのお仕事、毎度お願いします。
0024すろ
垢版 |
2016/09/01(木) 06:56:26.38ID:nWcHXeEv
>>22
フ会訳…「清くなれ」と命令形能動で訳されているが、原文は命令形受身
    なので文法的に間違ってます。
    レプラを「重い皮膚病」と訳するのもおかしい。
    レプラは皮膚病ではあるが「重い」という意味はない。

バ訳…「治れ」と訳されているが、意味的にはそういこうとだが
    原文に「治れ」という意味はないので改竄だ。

塚ちゃん…そもそも原文は「彼」だ。「彼」をわかりやすく「イエス」にするのは
     過剰サービスだろ。そして
     「よろしい」とはなんだ、それ。。原文は「私は望む」だぞ
     前節のレプラの人の発言の「あなたが望めば」を受けているのだ。
     改竄というか、誤訳だろ。ギリシア語をしらんのか?
「清まった」もダメ。能動に訳されているが、受身だ。
0025老クリスチャン
垢版 |
2016/09/01(木) 12:00:36.51ID:gjWi/ZWq
【罪と死 D】
新約聖書は人間を説明するのに、精神/霊 (プネウマ)、魂/命 (プシュケ)、肉 (サルクス)、体 (ソーマ) など、ギリシア哲学と同じ用語を使っています。
ところがそれらが意味するものは全く異なっているので、それらの用語を純粋にギリシア的に解釈してしまうと、新約聖書全体を間違って理解することになります。

新約聖書が魂と体について、あるいは内なる人と外なる人について語るとき、それは一方が善であって他方が悪であるというふうに、両者を対立させているのではありません。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マコ 8:36)
「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(マタ 6:25)
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」(マタ 10:28)
体と魂は一つであって、両者とも神に創造されたものなのです。
魂のない体も、体のない魂も、独立した存在としては意味を持ち得ません。

私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
0026老クリスチャン
垢版 |
2016/09/01(木) 12:01:21.66ID:gjWi/ZWq
【罪と死 E】
新約聖書の諸文書が徐々に成立して行く過程で、同じ精神/霊 (プネウマ) や肉 (サルクス) という用語であっても、その使い方が決して厳密に一様ではなかったことは当然です。
(ギリシア語の辞書や文法書が先にあって、それを使って新約聖書が書かれたかのような勘違いをしてはならないのです。)

そのことを承知の上で、パウロの神学における特徴的な用語法に注目すると、肉と霊とは外から人間の中に入って来る二つの超越的な力です。※4 ロマ 8:1-17、ガラ 5:16-26 参照
肉とは罪 (それゆえに死) の力であって、外なる人も内なる人も捕らえます。
霊はそれと反対に (新しい) 創造の力であって、同様に外なる人も内なる人も捕らえます。
それは救済史的理解における肉と霊であって、死の力である肉がアダムの罪によって人の中に入って来ました。
それに対して、命の力である霊、創造 (復活) の力である霊が、聖霊を通して私たちに与えられました。
今やこの命の力である霊が、新しい共同体である教会の一同の中に働いているのです(使 2:38-42)。

私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
0027老クリスチャン
垢版 |
2016/09/01(木) 12:02:00.89ID:gjWi/ZWq
【からだの復活 @】
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ロマ 8:11)
ということは、「体 (だけ) を殺す者」(マタ 10:28) を恐れる必要はなく、そして 「むしろ、魂も体も ・・・ 滅ぼす ・・・」(同) と言われているように、魂も不滅ではありませんから、この両者が共に復活させられるのです。
「アダムによってすべての人が死ぬことになった」(Iコリ 15:22) その 「朽ちるもの」(Iコリ 15:42) が、「キリストによって ・・・ 生かされることになる」(Iコリ 15:22) のです。

現在すでに、聖霊によって 「内なる人」 は 「日々新たにされていきます。」(IIコリ 4:16)
しかし、肉 (罪の力) は未だ 「死に定められたこの体」(ロマ 7:24) を捕らえているので、人は 「肉に従って歩む」 か 「霊に従って歩む」 かを、選ぶ決断をしなければなりません。
「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられる」(Iコリ 15:52) 「からだの復活」 は、最後の日までは起こらないからです。
それは 「万物が新しくなる日」(黙 21:5) であり、「もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない日」(黙 21:4) です。

私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
0028老クリスチャン
垢版 |
2016/09/01(木) 12:02:40.42ID:gjWi/ZWq
【からだの復活 A】
「からだの復活」 は、肉 (サルクス) の復活ではありません。
「自然の命の体で蒔かれて、霊の体が復活するのです。」(Iコリ 15:44)
しかもそれは、全被造物 (ロマ 8:19-22) の再創造の一部であつて、「わたしたちは、 ・・・ 新しい天と新しい地とを ・・・ 待ち望んでいるのです。」(IIペト 3:13)
キリスト者の希望は、人間一人一人にだけではなくて、全被造物の滅びからの解放に関わっているのです(ロマ 8:19-25)。

このように、「からだの復活」 はすべてを包括する再創造の一部でありますから、人間個人の死後に開始するものではなく、終わりの日の出来事です。
それは、不滅の霊魂が体から解放される、つまりこの世からあの世への移動のようなものではありません。
そうではなくて、救済史の目標であり完成であります。

私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
0029神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/09/01(木) 12:06:50.21ID:gKAjbOz/
>>28
もしよければ、引き続き活動願います!
0030スロージューサー訳
垢版 |
2016/09/01(木) 21:26:55.22ID:nWcHXeEv
マタイ8:4
καὶ λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς·
ὅρα μηδενὶ εἴπῃς,
ἀλλ’ ὕπαγε σεαυτὸν δεῖξον τῷ ἱερεῖ
καὶ προσένεγκον τὸ δῶρον ὃ προσέταξεν Μωϋσῆς,
εἰς μαρτύριον αὐτοῖς.

καὶ接続詞
λέγει三単現 彼は言う
αὐτῷ 男単与格 彼に
ὁ Ἰησοῦς· 冠詞+男単主格イエースは
ὅρα 二単現命令 あなたは気をつけよ
μηδενὶ 比定代名詞 誰にも〜ない
εἴπῃς, 二単二過接 あなたは言う
ἀλλ’接続詞 しかし
ὕπαγε 二単現命 あなたは行け
σεαυτὸν 二人称の再帰代名詞 男単対格 あなた自身を
δεῖξον 二単過去命令 あなたを見せよ
τῷ ἱερεῖ 冠詞+男単与格 祭司に
καὶ接続詞 そして
προσένεγκον 二単二過命令 あなたは持って行け、捧げよ
τὸ δῶρον 中単対格 贈り物を 捧げもの、供え物を
ὃ προσέταξεν 冠詞男単主格+三単過去 定めたところのもの
Μωϋσῆς, 男単主格 モーセが
εἰς 前置詞+対格縛り 〜ために
μαρτύριον 中単対格 証しに
αὐτοῖς男複与格 彼らに.
0031スロージューサー
垢版 |
2016/09/01(木) 21:27:46.24ID:nWcHXeEv
マタイ8:4
スロージューサー訳
そしてイエスが彼に言う。
「あなたは誰にも言わないように気をつけよ。
しかしあなたは行って、祭司にあなた自身をみせよ。
そしてモーセが定めた供え物をあなたは持って行け。

参考に
http://smallvoice.la.coocan.jp/id-4/matthew0804.pdf
彼らに証しとなるために
0032スロージューサー
垢版 |
2016/09/01(木) 21:31:37.99ID:nWcHXeEv
マタイ8:4
スロージューサー訳
そしてイエスが彼に言う。
「あなたは誰にも言わないように気をつけよ。
しかしあなたは行って、祭司にあなた自身をみせよ。
そしてモーセが定めた供え物をあなたは持って行け。
彼らに証しとなるために」

参考に
http://smallvoice.la.coocan.jp/id-4/matthew0804.pdf
0033神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/09/01(木) 23:06:46.37ID:NX6lOCuF
Levi 13,45f.によれば、ツァーラート(レプラ)の罹患者は「一人離れて暮らさねばならない」とあり、
イエスのもとに来た患者は決死の覚悟だったということが分かります。
それに対してイエスが直に触れるという行為で患者を癒した、というのも印象的ですね。
0034老クリスチャン
垢版 |
2016/09/02(金) 11:47:34.86ID:ogHbYUDd
【からだの復活 B】
このように、神の被造世界を 「罪が死によって支配していた」(ロマ 5:21) のですから、それは 「最後の敵として、滅ぼされ」(Iコリ 15:26) なければなりませんでした。

「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。 つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ロマ 8:3)
キリストは 「多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後」(ヘブ 9:28)、「死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Iコリ 15:20)

神は創造の最初の日のように、今や再び命を与える (終わりの日の) 創造を実現されました。
その初穂として、キリストは死者の中から復活させられたのです。
私たちの内に宿っている聖霊によって、キリストは私たちをも、「御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ 3:21)

私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
0035老クリスチャン
垢版 |
2016/09/02(金) 11:48:06.97ID:ogHbYUDd
【からだの復活 C】
「キリストは死者の中から復活された」(Iコリ 15:12,20)、「本当に主は復活された」(ルカ 24:34) とは、キリスト教信仰のいわば出発点であります。
この 「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエス」(ロマ 8:34) の知らせ (福音) の上に、教会が、そしてその信仰と神学が土台を置いています。

原始教会がキリストを 「死者の中から最初に生まれた方」(コロ 1:18) と宣教したとき、それは彼が復活の初穂、霊の体の初めとなられたという意味でした。
ですから、死はすでに滅ぼされ、新しい創造が起こり、復活の時代が明け初めたというこの決定的な確信を、もし私たちが新約聖書のすべての記述の背後に読み取ることに失敗するなら、それは封印された書物になってしまいます。

私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
0036老クリスチャン
垢版 |
2016/09/02(金) 11:48:43.16ID:ogHbYUDd
【からだの復活 D】
「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Iコリ 15:20)
しかし私たちは未だ 「神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ロマ 8:23)

この現在と将来、 「すでに実現した」 と 「未だ待ち望んでいる」 という緊張関係が、新約聖書にとっては本質的な要素であり、それはすでにイエスの神の国宣教にも現れていました。
「神の国は近づいた」(マコ 1:15) と宣教し始められたイエスが、他方では 「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタ 12:28) と宣言されました。
なぜなら、イエスと共に働く聖霊が、癒しと奇跡によって、すでに死の力を撃退しているからです。
死者を生き返らせたいくつかの福音書の奇跡の記事も、恐らくイエスが御自身の死によって勝ち取られた死への勝利の先取りとして、理解すべきでありましょう(マタ 11:5、マコ 5章、ルカ 7章、ヨハ 11章 など)。

私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
0037老クリスチャン
垢版 |
2016/09/02(金) 11:49:14.97ID:ogHbYUDd
【からだの復活 E】
ですから、私たちはすでに実現したイエスの復活と、未だ待ち望んでいる私たち自身の復活が実現する終わりの日との間の、中間の時に生きているのです。
それは、私たちをも復活させてくださる聖霊が教会共同体の内に宿り、働いている時代です。
それゆえにパウロは、「初穂として霊をいただいている」(ロマ 8:23)、そして 「初穂であるキリスト」(Iコリ 15:23) と、聖霊とキリストに同じ 「初穂 (アパルケー)」 という言葉を当てはめました(フランシスコ会訳)。

原始教会において人々は、聖霊によって与えられる終わりの日の先取りを、ミサの中で 「パンを裂く」 ことにおいて、もっとも明瞭に体験しました。
「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」(Iコリ 10:16)
この交わりの儀 (聖餐) において、私たちは復活されたキリストと最も親しく交わることを、現代のカトリック教会のミサ典礼書は表現しようとしています(典礼憲章 47 参照)。

私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
0038老クリスチャン
垢版 |
2016/09/02(金) 11:52:42.82ID:ogHbYUDd
よしおさん については ・・・・・ いずれ、
内容のある (手応えのある) 書き込みをなさったときに、
もし気に入れば、「ざぶとん五枚」 差し上げるかも。
0039神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/09/02(金) 15:03:18.90ID:r5CwiblX
>ὅρα μηδενὶ εἴπῃς

>あなたは誰にも言わないように気をつけよ。

この箇所は、ὅραのあとに、何らかの連結語が来てもおかしくなく、
むしろ、ないのが不自然なように感じられます。
いわゆる、asyndeton(連結語の欠如)です(土岐『構文法』§288)。

土岐先生によれば、この箇所は、接続法を命令法に従属するものとは考えずに、

 「気をつけよ、誰にもあなたは言うな」

という訳になります。
0040神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/09/02(金) 18:34:23.75ID:8cCPV+2n
>>39
なるほど
そっちがすっきりしますね

マタイ8:4訂正
スロージューサー訳
そしてイエスが彼に言う。
「あなたは気をつけよ。あなたは誰にも言うな。
しかしあなたは行って、祭司にあなた自身をみせよ。
そしてモーセが定めた供え物をあなたは持って行け。
0041スロージューサー
垢版 |
2016/09/02(金) 21:19:24.68ID:PYsrZkZt
マタイ8:5
Εἰσελθόντος δὲ αὐτοῦ εἰς Καφαρναοὺμ
προσῆλθεν αὐτῷ ἑκατόνταρχος παρακαλῶν αὐτὸν

Εἰσελθόντος 男単分詞2過属格 彼が入ると
δὲ 接続詞 しかし さて
αὐτοῦ 男単属格 彼の
εἰς 前置詞+対格縛り 〜中へ
Καφαρναοὺμ 女単無変化 カファルナウム(織田辞書) 通常カペナウム(ヘブル語の地名ナホムの村)
προσῆλθεν 三単二過 彼は〜の方へ向かって来た
αὐτῷ堕単与格 彼に
ἑκατόνταρχος 男単主格(ἑκατόν百+αρχω支配する)百人隊長が
παρακαλῶν 分現男単主格(παρα傍らに+καλῶ呼ぶ)助けを求める。願う
αὐτὸν男単対格

スロージューサー訳
さて彼がカファルナウムの中に入ると
一人の百人隊長が彼に助けを求めて彼の方へと向かって来た。

参考に
http://smallvoice.la.coocan.jp/id-4/matthew0805.pdf
0042神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/09/02(金) 22:09:35.00ID:r5CwiblX
>>41
こんばんは。お疲れさまです。

>中に入ると

この箇所ですが、小生ならば時を表す独立属格と解して、「中に入ったとき」と訳します。
ご参照のいくつかの訳がそのように訳出しているようです。

>一人の百人隊長が彼に助けを求めて彼の方へと向かって来た。

次の8,6のκαι λεγωνとのつながりを考えると、以下のように
分けた方がいいように思われます。

「百人隊長が彼のもとに向かってきて、」
「彼に願い求めて/希(こいねが)って、」(6節 そして曰く、)

この箇所はギリシア語の説の区切りが悪いので、心地よくありませんが、
仕方なくこのように訳するしかありませんかね…。
0043Johannes
垢版 |
2016/09/03(土) 01:12:30.66ID:+yHEdREm
.



マタイ8:5

(スロー暇訳)
さて彼がカファルナウムの中に入ると
一人の百人隊長が彼に助けを求めて彼の方へと向かって来た。

(フランシスコ会訳)
さて、イエズスがカファルナウムにお入りになったとき、百人隊長が近付いて来て、
/6「主よ、わたくしのしもべが中風でひどく苦しみ、家に寝ています」と言って訴えた。

(バルパロ訳)
イエズスがカファルナウムに入られると、一人の百夫長が来て、
/6「主よ、私の下男が家で寝ています。中風でたいへん苦しんでいます」と言った。

(塚本訳)
カペナウムにかえられると、一人の百卒長がそばに来て願って
/6 言った、「主よ、うちの下男が中風で家にねていて、ひどく苦しんでおります。……」

(新共同訳 w)
さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
/6「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。

.
0044すろ
垢版 |
2016/09/03(土) 01:22:04.61ID:LU9WznCj
>>42
Εἰσελθόντος 男単分詞2過属格 彼が入ると
が属格なのは、分詞として
αὐτοῦ 男単属格 彼の
を限定しているために、同じ属格になっているだけです。

時間の属格だとすると、
「ある行為が、その行為期間中のどこかで行われていることを示す」
わけですので「真昼に」とか「夜に」とかがないと始まりません。
0045すろ
垢版 |
2016/09/03(土) 01:32:17.56ID:LU9WznCj
>>43 >>42

まあ次節と繋げて訳すのが普通でしょうね。
しかしながらκαι λεγων(分現男単主格)と続きますので
「そして彼が言うには…」と続けても問題ないでしょう。
0046すろ
垢版 |
2016/09/03(土) 07:03:18.77ID:LU9WznCj
もう少し丁寧に
http://classicalgreek.web.fc2.com/greek2332/poz32.1b.html

独立属格 GENITIVE ABSolUTE
属格の名詞あるいは代名詞が属格の分詞を伴っていて、
その分詞はセンテンスの中で主節のどの要素にも 「添付されていない」not attached 場合、
このような構文を独立属格 genitive ab-solute と言います。
通常、それは主節の動詞のアクションの状況、すなわち、条件、原因、時などを指す副詞節と同等です:

(Ἔτι λαλοῦντος τοῦ Πέτρου τὰ ῥήματα ταῦτα)
[ἐπέπεσεν τὸ πνεῦμα τὸ ἅγιον
ἐπὶ πάντας τοὺς ἀκούοντας τὸν λόγον.]
ペテロがこれらの言葉を話している間に、
その言葉を聴いた全ての人々の上に 聖霊が下った。

λαλοῦντος τοῦ Πέτρουが、分詞の属格+冠詞属格+固有名詞の属格です。
「ペテロが話している間に」と訳されていて、「時間」を表すとはいえ
「〜した時」と訳しているわけではありません。
0047よしお
垢版 |
2016/09/03(土) 07:14:05.55ID:8QbIqAye
(新世界訳)
5 [イエス]がカペルナウムに入られると+,ひとりの士官*がそのもとに来て,懇願して
0048すろ
垢版 |
2016/09/03(土) 07:20:36.20ID:LU9WznCj
織田文法(新約聖書のギリシャ語文法)では「絶対属格」と呼んでいますが
第二巻§331の5 p554で
「分詞の主語が主文にまったく現れない分詞構文では、分詞と分詞の主語が
副詞的属格の形で並記される。このタイプの属格を
「絶対属格」η απολυτος γενικηと呼ぶ。

a絶対的属格(分詞の属格と分詞の主語の属格)−詳しくは§265 2fを見よ
(1)時間を表すもの
Ταῦτα δὲ αὐτῶν λαλούντων αὐτὸς ἔστη ἐν μέσῳ αὐτῶν
彼らがそんなことを話している最中に彼がみんなの真ん中にお立ちになった(ルカ24:36)

καὶ ἀναβάντων αὐτῶν εἰς τὸ πλοῖον ἐκόπασεν ὁ ἄνεμος.
そして彼らが船に乗り込んでしまうと風が止んだ(マタイ14:32)

-なお分詞の主語に当たる属格は文脈から明白である場合は省略それることもあり、
マタイ17:14ではαυτωνが、ルカ12:36ではαυτουが省略されている。
0049すろ
垢版 |
2016/09/03(土) 07:38:05.07ID:LU9WznCj
第三巻 第38課 名詞の格の統語法 2動詞や形容詞を修飾する副詞的属格
f分詞の属格-「絶対属格」p725

分詞の属格と分詞の主語の属格に当たる名詞の属格とが並列される形を
「絶対属格」と呼ぶことは既に§231の5で学んだ。この2語のかたまりは、
全体として副詞的属格をなすもので、[その名詞がその分詞の動作をしている
(動作をした)]という状況を表す副詞節を構成する。

(1)本来の絶対属格-分詞の主語が主節に現れないもの
 (a)分詞とその主語と、2個の属格が整ったもの
 
ἡγεμονεύοντος Ποντίου Πιλάτου τῆς Ἰουδαίας
 ポンティオ・ピラトがユダヤ総督をして治めていたとき(ルカ3:1)

καὶ θύρας μοι ἀνεῳγμένης
私には門が開かれていたのだが(2コリ2:12)

Ἀναχωρησάντων δὲ αὐτῶν
彼らが去ったのち(マタ2:13)
0050すろ
垢版 |
2016/09/03(土) 08:27:04.00ID:LU9WznCj
大貫隆『新約聖書ギリシア語入門』p103
第十六講 分詞の述語的用法 独立属格構文
§355 すでに§311でも触れたように述語的(あるいは副詞的)用法は、次の
ような多様なニュアンスを持つ、いづれの訳かは文脈による
(1)〜する時/した時(時)
[例]εξελθων ειδεν τον οχλου
   出てきた時、彼は群衆を見た。
(2)〜しながら(状況) 以下 [例]を省略
(3)〜を使って(手段)
(4)〜の理由で(原因)
(5)〜ならば(条件)
(6)〜だとしても(譲歩)
(7)〜するために(目的)

大貫さんのような文法書を読んでいたら、条件反射で「〜した時」と
訳したくなる気持ちは了解できます。
が、時を表す独立属格だと必ず「〜した時」となるわけではないことは
至れり尽くせりの織田文法を読んでいるとわかります。
0051神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/09/03(土) 11:03:28.06ID:yw9G1UdS
>>50
>大貫さんのような文法書を読んでいたら、条件反射で「〜した時」と
>訳したくなる気持ちは了解できます。

というか、大貫文法を参考にしたというわけではないのですが。^^;
むしろ小生は土岐文法の信奉者ですよw。

文法書の記述ではなく、小生が主に参照したのは、岩波訳、RSV、NRSV、Luterなどの
比較的、優れていると言われている翻訳です(Jersalemが手元になかったのは残念です)。

岩波:彼がカファルナウムに入っていった時、
RSV:As he entered Capernaum,
NRSV:When he entered Capernaum,
LUT: Als aber Jesus nach Kapernaum hineinging,

ついでに、口語訳とヴルガタ、
口語:さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、
VUL:Cum autem introisset Capharnaum

# cum 〜のとき

これだけの翻訳が「とき」と訳しているわけなので、
まったく根拠がないとも言い切れないと思います。
0052神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/09/03(土) 11:18:20.57ID:yw9G1UdS
>>45
好みの問題でしょうが、小生は可能な限り校訂本通りに訳したいという、
校訂本原理主義者ですので、上記のように訳しました。
スロージューサーさんの訳でも、問題はないと思います。
0053神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/09/03(土) 11:27:44.40ID:yw9G1UdS
>>50
8,5は織田文法の(1)〜(7)の区分でいうならば、(1)が最も近いように思われます。
スロージューサーさんの「中に入ると」という訳だと、いずれにも該当しませんので、
やはり(1)のように訳された方がよろしいかと。

ちなみに、スロージューサーさんは、あえて選ぶなら、(1)〜(7)のどの区分に該当すると
お考えでしょうか?
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