聖書を根底から学ぶスレ8 [無断転載禁止]©2ch.net
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聖書を牛歩のごとく、ゆっくり学んでいくスレです。 2016年の4月になりましたので、過去に約束したとおり、 このスレを復活させました。 以後よろしくお願いいたします。 ※前スレ http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1472095192/ >>2 前スレは荒れてますから、我々マジメ組はこちらで聖書をまなびますか。 ナッパ語録 ↓ 〜〜〜 最低なヤツだな 嘘と捏造、話のスリカエ、(責任を)人に被せる画策、悪印象操作、 (どこかから)借りてきた知識、盗っ人、軽いのりで盗める、 他者を言いがかりで陥れる、人からエネルギーを奪う、 チンピラヤクザ、一刻も早く死になさい、聖書は悪霊の棲家、 私には愛がありません、あるのは【恨み】だけです ← ニュー とても暗い、ネガティブに幽閉された中からでてくるものは、 どれほど装っても(聖句などで【恨み】が悪霊のようにはびこり、 ねじ曲がった本当の敵意がひそんでします。 ← ニュー 本質をすり替えるほど闇の鎖に繋がれているのかと。 ← ニュー 389 : シャロン 2016/07/24(日) 22:32:43.23 ID:NZHDm31C >>387 だから何? 菜生さんの過去発言が例え耳を塞ぎたくなるほどの酷い言葉であったとして あなたの酷い発言とどう関係があるの? 目には目、歯には歯ですか? >>389 変なことを言う人だね。 他人の言葉を引用したら、引用した人の発言になるの? ナッパの発言に同意したのではなく、 批判してるでしょうに。 スロー爺さんの大罪 @ ほかにギリシャ語のスレがあるのに無視、 このスレに下手糞なギリシャ語翻訳を書き込んでいること。 A 日本語聖書でさえ理解するのが困難なのに、 さらにギリシャ語という重荷を負わせようとしていること。 B その動機は、自分自身の優越感、自己満足でしかないこと。 本人は良いことをやっているとカン違いしている。 結婚したこともないのに離婚しただってさ (笑) アホのナッパの正体は、ウ・ソ・ツ・キ なんで嘘を平気でつくのか → 日本人じゃないから 女が真理とは何か、なんてやってたらいずれ発狂するよ。 それでなくてもキチガイ風味なんだから、早くやめた方がいい。 【罪と死 @】 自分はキリスト信者であると思っている現代の普通の人たちの大部分が、新約聖書の中心主題である死者の復活ということを信じているか否かは別として、人間というものは死んでもその霊魂だけは生きていて、永遠に不滅であると思っています。 それは従来、教会での牧師や司祭の説教によって教えられて来たことでありました。 私もすでに洗礼を受けてから60年を越える老人でありますが、寡聞にして霊魂の不滅を否定するような説教をこれまでに聞いたことがありません。 私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・ http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 【罪と死 A】 新約聖書学および古代教会史学者である O.クルマン が、1946年の 「キリストと時」 に続いて、1956年に 「霊魂の不滅か死者の復活か?」 という小論を出版したとき、それはかつてない熱狂と同時に激しい反発をもって迎えられました。 『この広く受け入れられて来た理解 (霊魂の不滅) は、しかし、キリスト教についての最大の誤解の一つである』 と、彼が結論づけたからです。 私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・ http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 【罪と死 B】 『死者の復活という概念はキリストの出来事につながっていて、それ故に、ギリシャ的な霊魂不滅の信仰とは相容れない。 それは救済史に基づいているので、現代思想とは馴染まない。 しかし、それは初代キリスト教の宣教の欠くことの出来ない要素であって、これを放棄したり再解釈することは、新約聖書からその本質を奪うことになる。』 私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・ http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 【罪と死 C】 先の講義で私は、「(旧約聖書の) 原初史はイスラエルの一つの神学的原因物語りの最も本質的要素として理解されるべきである」 というフォン・ラートの主張を紹介しました。 (※1 聖書講義 2016-4 5.二つの神学の立場) そこでは、死は人間の罪によって世に入って来た呪い (※2 創 3:17) であり、その結果すべての被造物がこの呪いに巻き込まれました。(※3 創 3〜11章、ロマ 8:20-22 参照) このように、死とは何か正常ではないもの、神に敵対するものであるというのが、ヘブライ的認識であり、それは聖書において展開されている救済史というものを理解する出発点であります。 復活への信仰は、このような死と罪の結びつきに関するヘブライ的認識を前提にしています。 「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ 6:23) 罪が原因でありますから、これが取り除かれるときにのみ、死は克服されるのです。 これが初代教会全体の、一致した理解でありました。 私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・ http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html マタイ8:3 καὶ ἐκτείνας τὴν χεῖρα ἥψατο αὐτοῦ λέγων·θέλω, καθαρίσθητι· καὶ εὐθέως ἐκαθαρίσθη αὐτοῦ ἡ λέπρα. καὶ接続詞 そして ἐκτείνας 男単分過去主格 伸ばして τὴν χεῖρα 冠詞+女単対格 手を ἥψατο 三単過去中動+属格の場合 彼は触った αὐτοῦ 男単属格 彼に λέγων·男単分現主格 彼が言うには θέλω, 一単現 私は望む καθαρίσθητι· 二単過去命令受身 あなたは清くされよ καὶ 接続詞 すると εὐθέως すぐに ただちに たちどころに ἐκαθαρίσθη 三単過去受身 彼は清められた αὐτοῦ 男単属格 の ἡ λέπρα.冠詞+ 名詞女単主格 皮膚病は レプラ スロージューサー訳 そして手を伸ばして彼に触って、言った。 「私は望む。あなたは清くされよ」 するとたちどころに、彼のうろこ病は清められた。 参考に http://smallvoice.la.coocan.jp/id-4/matthew0803.pdf 大学生の時、後輩に「とても素敵な所があるから一緒に行きましょう」と言われて行ったのが横浜の関内の 「グローバルアイ」という名の所だった。 手相を見られて、なかなか帰してもらえず終電でやっと帰してもらった。 後で人に話したらそれは統一教会だった。 全く教会とか統一教会とか一言も言わなかったが、手相を見てくれた人の顔がキツネに憑かれた様な 異様な雰囲気だったのが忘れられない。 統一教会はテニスのサークルや名前を伏せて、大学生を今でもターゲットにしている。 私の友達もそうだったが、他ブログで友達が大学に行って統一教会に入会し行方不明になった人がこんなに いるのかと驚いた。 . 114 :すろ[]:2016/08/27(土) 23:28:08.26 ID:q4SRknoV>>113 高校生の時に放送部の同級生と新興宗教のフィールドワークをしていて 外人青年伝道師のモルモン教の路傍勧誘にされて 彼らの勧誘テクニックを体験したが、たぶん彼らは催眠術を使っていたと 思う。彼らの眼が悪魔的な金色に変化して気持ち悪かった。 かなり危険な連中だと思う --------------- さすが、文系出の暇人さん。なかなか表現が優れている。 と、理系出の俺は思う。 . . マタイ8:3 (スロー訳) そして手を伸ばして彼に触って、言った。 「私は望む。あなたは清くされよ」 するとたちどころに、彼のうろこ病は清められた。 (フランシスコ会訳) イエズスは手をさしのべて、その人に触れ、「わたしは望む、清くなれ」と言われた。 すると、たちまちその重い皮膚病は清められた。 (バルパロ訳) イエズスは手を伸ばして触れ、「私は望む。治れ」と言われた。 するとすぐらい病は治った。 (塚本訳) イエスは手をのばしてその人にさわり、「よろしい、清まれ」と言われると、 たちまち癩病が清まった。 . >>22 フ会訳…「清くなれ」と命令形能動で訳されているが、原文は命令形受身 なので文法的に間違ってます。 レプラを「重い皮膚病」と訳するのもおかしい。 レプラは皮膚病ではあるが「重い」という意味はない。 バ訳…「治れ」と訳されているが、意味的にはそういこうとだが 原文に「治れ」という意味はないので改竄だ。 塚ちゃん…そもそも原文は「彼」だ。「彼」をわかりやすく「イエス」にするのは 過剰サービスだろ。そして 「よろしい」とはなんだ、それ。。原文は「私は望む」だぞ 前節のレプラの人の発言の「あなたが望めば」を受けているのだ。 改竄というか、誤訳だろ。ギリシア語をしらんのか? 「清まった」もダメ。能動に訳されているが、受身だ。 【罪と死 D】 新約聖書は人間を説明するのに、精神/霊 (プネウマ)、魂/命 (プシュケ)、肉 (サルクス)、体 (ソーマ) など、ギリシア哲学と同じ用語を使っています。 ところがそれらが意味するものは全く異なっているので、それらの用語を純粋にギリシア的に解釈してしまうと、新約聖書全体を間違って理解することになります。 新約聖書が魂と体について、あるいは内なる人と外なる人について語るとき、それは一方が善であって他方が悪であるというふうに、両者を対立させているのではありません。 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マコ 8:36) 「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(マタ 6:25) 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」(マタ 10:28) 体と魂は一つであって、両者とも神に創造されたものなのです。 魂のない体も、体のない魂も、独立した存在としては意味を持ち得ません。 私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・ http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 【罪と死 E】 新約聖書の諸文書が徐々に成立して行く過程で、同じ精神/霊 (プネウマ) や肉 (サルクス) という用語であっても、その使い方が決して厳密に一様ではなかったことは当然です。 (ギリシア語の辞書や文法書が先にあって、それを使って新約聖書が書かれたかのような勘違いをしてはならないのです。) そのことを承知の上で、パウロの神学における特徴的な用語法に注目すると、肉と霊とは外から人間の中に入って来る二つの超越的な力です。※4 ロマ 8:1-17、ガラ 5:16-26 参照 肉とは罪 (それゆえに死) の力であって、外なる人も内なる人も捕らえます。 霊はそれと反対に (新しい) 創造の力であって、同様に外なる人も内なる人も捕らえます。 それは救済史的理解における肉と霊であって、死の力である肉がアダムの罪によって人の中に入って来ました。 それに対して、命の力である霊、創造 (復活) の力である霊が、聖霊を通して私たちに与えられました。 今やこの命の力である霊が、新しい共同体である教会の一同の中に働いているのです(使 2:38-42)。 私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・ http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 【からだの復活 @】 「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ロマ 8:11) ということは、「体 (だけ) を殺す者」(マタ 10:28) を恐れる必要はなく、そして 「むしろ、魂も体も ・・・ 滅ぼす ・・・」(同) と言われているように、魂も不滅ではありませんから、この両者が共に復活させられるのです。 「アダムによってすべての人が死ぬことになった」(Iコリ 15:22) その 「朽ちるもの」(Iコリ 15:42) が、「キリストによって ・・・ 生かされることになる」(Iコリ 15:22) のです。 現在すでに、聖霊によって 「内なる人」 は 「日々新たにされていきます。」(IIコリ 4:16) しかし、肉 (罪の力) は未だ 「死に定められたこの体」(ロマ 7:24) を捕らえているので、人は 「肉に従って歩む」 か 「霊に従って歩む」 かを、選ぶ決断をしなければなりません。 「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられる」(Iコリ 15:52) 「からだの復活」 は、最後の日までは起こらないからです。 それは 「万物が新しくなる日」(黙 21:5) であり、「もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない日」(黙 21:4) です。 私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・ http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 【からだの復活 A】 「からだの復活」 は、肉 (サルクス) の復活ではありません。 「自然の命の体で蒔かれて、霊の体が復活するのです。」(Iコリ 15:44) しかもそれは、全被造物 (ロマ 8:19-22) の再創造の一部であつて、「わたしたちは、 ・・・ 新しい天と新しい地とを ・・・ 待ち望んでいるのです。」(IIペト 3:13) キリスト者の希望は、人間一人一人にだけではなくて、全被造物の滅びからの解放に関わっているのです(ロマ 8:19-25)。 このように、「からだの復活」 はすべてを包括する再創造の一部でありますから、人間個人の死後に開始するものではなく、終わりの日の出来事です。 それは、不滅の霊魂が体から解放される、つまりこの世からあの世への移動のようなものではありません。 そうではなくて、救済史の目標であり完成であります。 私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・ http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html マタイ8:4 καὶ λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς· ὅρα μηδενὶ εἴπῃς, ἀλλ’ ὕπαγε σεαυτὸν δεῖξον τῷ ἱερεῖ καὶ προσένεγκον τὸ δῶρον ὃ προσέταξεν Μωϋσῆς, εἰς μαρτύριον αὐτοῖς. καὶ接続詞 λέγει三単現 彼は言う αὐτῷ 男単与格 彼に ὁ Ἰησοῦς· 冠詞+男単主格イエースは ὅρα 二単現命令 あなたは気をつけよ μηδενὶ 比定代名詞 誰にも〜ない εἴπῃς, 二単二過接 あなたは言う ἀλλ’接続詞 しかし ὕπαγε 二単現命 あなたは行け σεαυτὸν 二人称の再帰代名詞 男単対格 あなた自身を δεῖξον 二単過去命令 あなたを見せよ τῷ ἱερεῖ 冠詞+男単与格 祭司に καὶ接続詞 そして προσένεγκον 二単二過命令 あなたは持って行け、捧げよ τὸ δῶρον 中単対格 贈り物を 捧げもの、供え物を ὃ προσέταξεν 冠詞男単主格+三単過去 定めたところのもの Μωϋσῆς, 男単主格 モーセが εἰς 前置詞+対格縛り 〜ために μαρτύριον 中単対格 証しに αὐτοῖς男複与格 彼らに. マタイ8:4 スロージューサー訳 そしてイエスが彼に言う。 「あなたは誰にも言わないように気をつけよ。 しかしあなたは行って、祭司にあなた自身をみせよ。 そしてモーセが定めた供え物をあなたは持って行け。 参考に http://smallvoice.la.coocan.jp/id-4/matthew0804.pdf 彼らに証しとなるために マタイ8:4 スロージューサー訳 そしてイエスが彼に言う。 「あなたは誰にも言わないように気をつけよ。 しかしあなたは行って、祭司にあなた自身をみせよ。 そしてモーセが定めた供え物をあなたは持って行け。 彼らに証しとなるために」 参考に http://smallvoice.la.coocan.jp/id-4/matthew0804.pdf Levi 13,45f.によれば、ツァーラート(レプラ)の罹患者は「一人離れて暮らさねばならない」とあり、 イエスのもとに来た患者は決死の覚悟だったということが分かります。 それに対してイエスが直に触れるという行為で患者を癒した、というのも印象的ですね。 【からだの復活 B】 このように、神の被造世界を 「罪が死によって支配していた」(ロマ 5:21) のですから、それは 「最後の敵として、滅ぼされ」(Iコリ 15:26) なければなりませんでした。 「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。 つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ロマ 8:3) キリストは 「多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後」(ヘブ 9:28)、「死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Iコリ 15:20) 神は創造の最初の日のように、今や再び命を与える (終わりの日の) 創造を実現されました。 その初穂として、キリストは死者の中から復活させられたのです。 私たちの内に宿っている聖霊によって、キリストは私たちをも、「御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ 3:21) 私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・ http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 【からだの復活 C】 「キリストは死者の中から復活された」(Iコリ 15:12,20)、「本当に主は復活された」(ルカ 24:34) とは、キリスト教信仰のいわば出発点であります。 この 「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエス」(ロマ 8:34) の知らせ (福音) の上に、教会が、そしてその信仰と神学が土台を置いています。 原始教会がキリストを 「死者の中から最初に生まれた方」(コロ 1:18) と宣教したとき、それは彼が復活の初穂、霊の体の初めとなられたという意味でした。 ですから、死はすでに滅ぼされ、新しい創造が起こり、復活の時代が明け初めたというこの決定的な確信を、もし私たちが新約聖書のすべての記述の背後に読み取ることに失敗するなら、それは封印された書物になってしまいます。 私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・ http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 【からだの復活 D】 「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Iコリ 15:20) しかし私たちは未だ 「神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ロマ 8:23) この現在と将来、 「すでに実現した」 と 「未だ待ち望んでいる」 という緊張関係が、新約聖書にとっては本質的な要素であり、それはすでにイエスの神の国宣教にも現れていました。 「神の国は近づいた」(マコ 1:15) と宣教し始められたイエスが、他方では 「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタ 12:28) と宣言されました。 なぜなら、イエスと共に働く聖霊が、癒しと奇跡によって、すでに死の力を撃退しているからです。 死者を生き返らせたいくつかの福音書の奇跡の記事も、恐らくイエスが御自身の死によって勝ち取られた死への勝利の先取りとして、理解すべきでありましょう(マタ 11:5、マコ 5章、ルカ 7章、ヨハ 11章 など)。 私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・ http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 【からだの復活 E】 ですから、私たちはすでに実現したイエスの復活と、未だ待ち望んでいる私たち自身の復活が実現する終わりの日との間の、中間の時に生きているのです。 それは、私たちをも復活させてくださる聖霊が教会共同体の内に宿り、働いている時代です。 それゆえにパウロは、「初穂として霊をいただいている」(ロマ 8:23)、そして 「初穂であるキリスト」(Iコリ 15:23) と、聖霊とキリストに同じ 「初穂 (アパルケー)」 という言葉を当てはめました(フランシスコ会訳)。 原始教会において人々は、聖霊によって与えられる終わりの日の先取りを、ミサの中で 「パンを裂く」 ことにおいて、もっとも明瞭に体験しました。 「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」(Iコリ 10:16) この交わりの儀 (聖餐) において、私たちは復活されたキリストと最も親しく交わることを、現代のカトリック教会のミサ典礼書は表現しようとしています(典礼憲章 47 参照)。 私の 「聖書講義」 <2016-5> から、 ・ ・ ・ http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html よしおさん については ・・・・・ いずれ、 内容のある (手応えのある) 書き込みをなさったときに、 もし気に入れば、「ざぶとん五枚」 差し上げるかも。 >ὅρα μηδενὶ εἴπῃς >あなたは誰にも言わないように気をつけよ。 この箇所は、ὅραのあとに、何らかの連結語が来てもおかしくなく、 むしろ、ないのが不自然なように感じられます。 いわゆる、asyndeton(連結語の欠如)です(土岐『構文法』§288)。 土岐先生によれば、この箇所は、接続法を命令法に従属するものとは考えずに、 「気をつけよ、誰にもあなたは言うな」 という訳になります。 >>39 なるほど そっちがすっきりしますね マタイ8:4訂正 スロージューサー訳 そしてイエスが彼に言う。 「あなたは気をつけよ。あなたは誰にも言うな。 しかしあなたは行って、祭司にあなた自身をみせよ。 そしてモーセが定めた供え物をあなたは持って行け。 マタイ8:5 Εἰσελθόντος δὲ αὐτοῦ εἰς Καφαρναοὺμ προσῆλθεν αὐτῷ ἑκατόνταρχος παρακαλῶν αὐτὸν Εἰσελθόντος 男単分詞2過属格 彼が入ると δὲ 接続詞 しかし さて αὐτοῦ 男単属格 彼の εἰς 前置詞+対格縛り 〜中へ Καφαρναοὺμ 女単無変化 カファルナウム(織田辞書) 通常カペナウム(ヘブル語の地名ナホムの村) προσῆλθεν 三単二過 彼は〜の方へ向かって来た αὐτῷ堕単与格 彼に ἑκατόνταρχος 男単主格(ἑκατόν百+αρχω支配する)百人隊長が παρακαλῶν 分現男単主格(παρα傍らに+καλῶ呼ぶ)助けを求める。願う αὐτὸν男単対格 スロージューサー訳 さて彼がカファルナウムの中に入ると 一人の百人隊長が彼に助けを求めて彼の方へと向かって来た。 参考に http://smallvoice.la.coocan.jp/id-4/matthew0805.pdf >>41 こんばんは。お疲れさまです。 >中に入ると この箇所ですが、小生ならば時を表す独立属格と解して、「中に入ったとき」と訳します。 ご参照のいくつかの訳がそのように訳出しているようです。 >一人の百人隊長が彼に助けを求めて彼の方へと向かって来た。 次の8,6のκαι λεγωνとのつながりを考えると、以下のように 分けた方がいいように思われます。 「百人隊長が彼のもとに向かってきて、」 「彼に願い求めて/希(こいねが)って、」(6節 そして曰く、) この箇所はギリシア語の説の区切りが悪いので、心地よくありませんが、 仕方なくこのように訳するしかありませんかね…。 . マタイ8:5 (スロー暇訳) さて彼がカファルナウムの中に入ると 一人の百人隊長が彼に助けを求めて彼の方へと向かって来た。 (フランシスコ会訳) さて、イエズスがカファルナウムにお入りになったとき、百人隊長が近付いて来て、 /6「主よ、わたくしのしもべが中風でひどく苦しみ、家に寝ています」と言って訴えた。 (バルパロ訳) イエズスがカファルナウムに入られると、一人の百夫長が来て、 /6「主よ、私の下男が家で寝ています。中風でたいへん苦しんでいます」と言った。 (塚本訳) カペナウムにかえられると、一人の百卒長がそばに来て願って /6 言った、「主よ、うちの下男が中風で家にねていて、ひどく苦しんでおります。……」 (新共同訳 w) さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、 /6「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。 . >>42 Εἰσελθόντος 男単分詞2過属格 彼が入ると が属格なのは、分詞として αὐτοῦ 男単属格 彼の を限定しているために、同じ属格になっているだけです。 時間の属格だとすると、 「ある行為が、その行為期間中のどこかで行われていることを示す」 わけですので「真昼に」とか「夜に」とかがないと始まりません。 >>43 >>42 まあ次節と繋げて訳すのが普通でしょうね。 しかしながらκαι λεγων(分現男単主格)と続きますので 「そして彼が言うには…」と続けても問題ないでしょう。 もう少し丁寧に http://classicalgreek.web.fc2.com/greek2332/poz32.1b.html 独立属格 GENITIVE ABSolUTE 属格の名詞あるいは代名詞が属格の分詞を伴っていて、 その分詞はセンテンスの中で主節のどの要素にも 「添付されていない」not attached 場合、 このような構文を独立属格 genitive ab-solute と言います。 通常、それは主節の動詞のアクションの状況、すなわち、条件、原因、時などを指す副詞節と同等です: (Ἔτι λαλοῦντος τοῦ Πέτρου τὰ ῥήματα ταῦτα) [ἐπέπεσεν τὸ πνεῦμα τὸ ἅγιον ἐπὶ πάντας τοὺς ἀκούοντας τὸν λόγον.] ペテロがこれらの言葉を話している間に、 その言葉を聴いた全ての人々の上に 聖霊が下った。 λαλοῦντος τοῦ Πέτρουが、分詞の属格+冠詞属格+固有名詞の属格です。 「ペテロが話している間に」と訳されていて、「時間」を表すとはいえ 「〜した時」と訳しているわけではありません。 (新世界訳) 5 [イエス]がカペルナウムに入られると+,ひとりの士官*がそのもとに来て,懇願して 織田文法(新約聖書のギリシャ語文法)では「絶対属格」と呼んでいますが 第二巻§331の5 p554で 「分詞の主語が主文にまったく現れない分詞構文では、分詞と分詞の主語が 副詞的属格の形で並記される。このタイプの属格を 「絶対属格」η απολυτος γενικηと呼ぶ。 a絶対的属格(分詞の属格と分詞の主語の属格)−詳しくは§265 2fを見よ (1)時間を表すもの Ταῦτα δὲ αὐτῶν λαλούντων αὐτὸς ἔστη ἐν μέσῳ αὐτῶν 彼らがそんなことを話している最中に彼がみんなの真ん中にお立ちになった(ルカ24:36) καὶ ἀναβάντων αὐτῶν εἰς τὸ πλοῖον ἐκόπασεν ὁ ἄνεμος. そして彼らが船に乗り込んでしまうと風が止んだ(マタイ14:32) -なお分詞の主語に当たる属格は文脈から明白である場合は省略それることもあり、 マタイ17:14ではαυτωνが、ルカ12:36ではαυτουが省略されている。 第三巻 第38課 名詞の格の統語法 2動詞や形容詞を修飾する副詞的属格 f分詞の属格-「絶対属格」p725 分詞の属格と分詞の主語の属格に当たる名詞の属格とが並列される形を 「絶対属格」と呼ぶことは既に§231の5で学んだ。この2語のかたまりは、 全体として副詞的属格をなすもので、[その名詞がその分詞の動作をしている (動作をした)]という状況を表す副詞節を構成する。 (1)本来の絶対属格-分詞の主語が主節に現れないもの (a)分詞とその主語と、2個の属格が整ったもの ἡγεμονεύοντος Ποντίου Πιλάτου τῆς Ἰουδαίας ポンティオ・ピラトがユダヤ総督をして治めていたとき(ルカ3:1) καὶ θύρας μοι ἀνεῳγμένης 私には門が開かれていたのだが(2コリ2:12) Ἀναχωρησάντων δὲ αὐτῶν 彼らが去ったのち(マタ2:13) 大貫隆『新約聖書ギリシア語入門』p103 第十六講 分詞の述語的用法 独立属格構文 §355 すでに§311でも触れたように述語的(あるいは副詞的)用法は、次の ような多様なニュアンスを持つ、いづれの訳かは文脈による (1)〜する時/した時(時) [例]εξελθων ειδεν τον οχλου 出てきた時、彼は群衆を見た。 (2)〜しながら(状況) 以下 [例]を省略 (3)〜を使って(手段) (4)〜の理由で(原因) (5)〜ならば(条件) (6)〜だとしても(譲歩) (7)〜するために(目的) 大貫さんのような文法書を読んでいたら、条件反射で「〜した時」と 訳したくなる気持ちは了解できます。 が、時を表す独立属格だと必ず「〜した時」となるわけではないことは 至れり尽くせりの織田文法を読んでいるとわかります。 >>50 >大貫さんのような文法書を読んでいたら、条件反射で「〜した時」と >訳したくなる気持ちは了解できます。 というか、大貫文法を参考にしたというわけではないのですが。^^; むしろ小生は土岐文法の信奉者ですよw。 文法書の記述ではなく、小生が主に参照したのは、岩波訳、RSV、NRSV、Luterなどの 比較的、優れていると言われている翻訳です(Jersalemが手元になかったのは残念です)。 岩波:彼がカファルナウムに入っていった時、 RSV:As he entered Capernaum, NRSV:When he entered Capernaum, LUT: Als aber Jesus nach Kapernaum hineinging, ついでに、口語訳とヴルガタ、 口語:さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、 VUL:Cum autem introisset Capharnaum # cum 〜のとき これだけの翻訳が「とき」と訳しているわけなので、 まったく根拠がないとも言い切れないと思います。 >>45 好みの問題でしょうが、小生は可能な限り校訂本通りに訳したいという、 校訂本原理主義者ですので、上記のように訳しました。 スロージューサーさんの訳でも、問題はないと思います。 >>50 8,5は織田文法の(1)〜(7)の区分でいうならば、(1)が最も近いように思われます。 スロージューサーさんの「中に入ると」という訳だと、いずれにも該当しませんので、 やはり(1)のように訳された方がよろしいかと。 ちなみに、スロージューサーさんは、あえて選ぶなら、(1)〜(7)のどの区分に該当すると お考えでしょうか? >>53 大貫文法で言うと「多様なニュアンスを持つ」ということなので 「彼が〜へ入ると」で良いと思います。 (1)〜(7)はただの例で、例の中のどれかでないといかんという話では 無いと考えます 分詞属格+人称代名詞属格というのは、そもそもは その人称代名詞がその分詞の動作をしたという意味ですので。 >大貫文法で言うと「多様なニュアンスを持つ」ということなので 該当箇所を見つけられませんでしたが、§何番でしょうか? 独立属格の項目では、そのような記述は見受けられませんでしたが。 >>55 前文ですよ で、大貫さんは7項目と分類されているが、それがすべてではない。 50 : すろ2016/09/03(土) 08:27:04.00 ID:LU9WznCj 大貫隆『新約聖書ギリシア語入門』p103 第十六講 分詞の述語的用法 独立属格構文 §355 すでに§311でも触れたように述語的(あるいは副詞的)用法は、次の ような多様なニュアンスを持つ、いづれの訳かは文脈による ありがとうございます。 正確に引用すると「述語的(あるいは副詞的)用法は、次のような多様なニュアンスを持つ。 いずれに訳すかは文脈による」ですね。 ということは、スロージューサーさんは、この場合は「いずれにも当てはまらない」という ご理解で間違いありませんか? 高津春繁『基礎ギリシア語文法』に「状況」という項目がありますが、 その解釈に近いのかな? >>57 (1)〜(7)というのは、 分詞属格+分詞属格の主語の意味を持つ名詞属格構文の場合、 いろんなニュアンスがあり、その多様性の例として7種を挙げられている わけですが、 この分詞属格+人称代名詞属格構文のそもそもの意味は、何度も説明して いるとおり単純に 人称代名詞が、分詞属格という行為をする/したということにすぎません。 私の訳は、文法原則に従った基本的で率直な訳です。 独立属格構文は必ず「〜する/した時」と訳さないといけないということでは ありません。無理に分類する必要が無いと考えております 大貫隆『新約聖書ギリシア語入門』は、神学部の教科書ですので、 なんと言いますか、舌足らずなのです。 >>58 少し質問を替えさせてください。 ルカの並行箇所ではεισηλθεν εις Καφαρναουμとなっており、 多数の研究者がこちらの方が元来のQに近いと考えています。 独立属格自体は一般的にはルカの方が多用しますので、わざわざマタイがこの箇所を独立属格 に変えているというのは意味があると思います。その意味を考える必要があります。 マタイ8,1; 5と、マタイは独立属格を使用しますが(14節は分詞の主格)、 RSV、NRSV、LUTなどが、これらの箇所を「時」の意味で解釈しています (8,1の訳の時はご指摘するのを失念していましたが)。 when(als)〜と訳を統一するのは、一連のペリコーペのつながりを、 時という表題的な導入で明示しており、優れた訳であると小生は個人的に 思います(ルカはこれらのペリコーペを一連の物語として配列していない)。 文法の基本原則に従うことも重要ではありますが、文脈に応じて、という訳し方も、 時には必要でしょう。 >>59 まあ、ギリシア語に全く接したことがない人が使う教科書なので、 仕方ない面はありますね。 中級文法に進むなら、土岐『構文法』、B-D-F、Smyth(小生所有していませんが) などは必須でしょうね。 >>60 平行箇所と言うとまずマルコではないでしょうか マルコ2:1 Καὶ εἰσελθὼν πάλιν εἰς Καφαρναοὺμ εἰσελθὼν 男分詞二過主単 そして再び、彼がカファルナウムの中に入ると、 ルカ7:1 εἰσῆλθεν εἰς Καφαρναούμ. εἰσῆλθεν 三単二過 彼はカファルナウムの中へ入った。 マタイ8:5 Εἰσελθόντος δὲ αὐτοῦ εἰς Καφαρναοὺμ Εἰσελθόντος 男単分詞2過属格 彼が入ると さて彼がカファルナウムの中に入ると 元々マルコは男分詞二過主単だった。 マタイは少しいじって男単分詞2過属格にしてオシャレなギリシア語にした。 ルカは分詞ではなく、三単二過という普通の動詞にしたということでは? >>62 こんばんは。 マルコは並行箇所ではないようですよ?(新共同訳、岩波訳参照)。 Neirynck, F.の"Q-Paralles"でもマタイ、ルカが並行箇所で、Q資料からだと、 明記しています。 該当箇所のQの再構成は以下の通りです。 International Q Project版: εισηλθεν εις Καφαρναουμ. Critical Edition Of Q版: εισηλθεν εις Καφαρναουμ この箇所については両者が意見の一致を見ています。 ですから、Qの上記の文言を、マタイが独立属格に変更した、 と考えるのが妥当だと思います。 マタイ8:6 καὶ λέγων· κύριε, ὁ παῖς μου βέβληται ἐν τῇ οἰκίᾳ παραλυτικός, δεινῶς βασανιζόμενος. καὶ 接続詞 そして λέγων· 男単分現主格 彼は言う κύριε, 男単呼格 主よ ὁ παῖς 冠詞+男単主格 子供。男性冠詞がついてるので息子 奴隷という意味があるもののここでは息子。保守派は奴隷と訳すが誤訳 μου 一単属格 私の βέβληται 三単完受 彼は寝かされている ἐν 前置詞+与格 〜中で τῇ οἰκίᾳ 冠詞+女単与格 家に παραλυτικός, 形容詞男単主格 身体不随の 麻痺 (殆どの訳が中風としているが誤訳) δεινῶς 激しく βασανιζόμενος.男単分現主格 彼は痛めつけられている スロージューサー訳 そして彼が言った 「主よ、私の息子が家の中で麻痺状態となり、 激しく苦しんで寝かされています」 参考に http://smallvoice.la.coocan.jp/id-4/matthew0806.pdf >>63 佐藤研編『福音書共観表』岩波書店では p45 No38 百人隊長の信という項目で平行箇所とされています。 現に「彼がカファルナウムの中に入ると」という箇所は綺麗に 平行しています。 ちなみに佐藤研さんは岩波委員会訳の共観福音書を訳されていたそうです >>65 佐藤先生の該当箇所、調べてみました。確かに、マルコが並行箇所であるかのように 書かれていますが、これはちょっと佐藤先生の書き方が不親切です。 『福音書共観表』のもとになった"Synopsis Quattuor Evangeliorum", Deutsche Bebelgesellschaft の該当箇所(No. 85)を参照すると、マタイ、ルカが太字になっていて、マルコは太字になっていません。 さらにマルコの箇所に、No.43を参照せよ、と書かれていて、その個所を参照すると、 マルコ2,1-12とルカ5,17-26(マタイ9,1-8)が並行箇所となっています。 なぜ、マタイとルカが中風患者の癒しの記事からカファルナウムを削除したか、 ちょっとすぐには分かりかねますが、われわれの箇所については、Q伝承に カファルナウムという地名があったのではないかという推測が成り立ちます。 この個所はルカがQに近いというのは護教的願望であり 事実をまったく反映していません。 護教家たちは、たぶんルカとマタイとを同じ訳にしたいだけなのです。 なので ὁ παῖς 冠詞+男単主格 子供。を奴隷と訳すわけです。 確かに文法上は「奴隷」の意味もありますが、それならば 8:9 δουλοςの男単与格形がでてきますがπαῖςではなくδουλοςを マタイは使ったはずです。同じ段落なのですから。 諸訳はὁ παῖςを改竄して「奴隷」「僕」と訳したため、 「奴隷」「僕」の意味しかないδουλοςを「兵士」とか「部下」と 改竄しています。ルカに合わすためです。 さてルカです。Qではおそらく「παῖς」だったのを意味不明として ルカは「δοῦλος」(7:2,3.10)と改変します。 ルカは「παῖς」を奴隷と解釈したわけです。 しかしルカは間抜けにも7:7で「παῖς」を改変するのを忘れ そのまま「παῖς」と書いてるので、Qは「παῖς」だったと解ります。 さて佐藤研編『福音書共観表』岩波書店では共観福音書以外の ヨハネにも注目しています。ヨハネも平行箇所なのです。 ヨハネ4:46 「υἱὸς」 ヨハネは息子の意味しかない「υἱὸς」を採用しています。 ヨハネは「παῖς」を息子と解釈したわけです。 >>66 佐藤さんは、従来の共観福音表に留まらず ヨハネやトマスも採用されているわけですので "Synopsis Quattuor Evangeliorum", Deutsche Bebelgesellschaft から一歩進んだ研究なのです。 事実、 マルコ2:1 Καὶ εἰσελθὼν πάλιν εἰς Καφαρναοὺμ ルカ7:1 εἰσῆλθεν εἰς Καφαρναούμ マタイ8:5 Εἰσελθόντος δὲ αὐτοῦ εἰς Καφαρναοὺμ の部分は綺麗に平行しています。古い研究に固執せずに 事実に目を開かれてください。 >>67 >さて佐藤研編『福音書共観表』岩波書店では共観福音書以外の >ヨハネにも注目しています。ヨハネも平行箇所なのです。 これは佐藤先生が独自に参照したのではなくて、Synopsis Quattuor Evangeliorumが すでに参照箇所として挙げています。しかも、佐藤先生の共観表ですら、 四角線で囲まれています。 >Qではおそらく「παῖς」だったのを この箇所はIQP、CEOQともにスロージューサーさんと同様、ルカの編集だということを断定しています。 全文を引用するとかなり長い量になって字数制限にも引っかかるので引用しませんでしたが、 原文に当たらずに「護教的」と断定するのは危険だと思います。 小生が議論しているのはεισηλθεν εις Καφαρναουμという 箇所についてのみであり、他の箇所は個別にマタイ、ルカのどちらがQに近いか、 十分に学問的な立場から議論されているように思います。 >>68 >ヨハネやトマスも採用されているわけですので >"Synopsis Quattuor Evangeliorum", Deutsche Bebelgesellschaft >から一歩進んだ研究なのです。 これも残念ながら誤った認識と言わざるを得ません。 "Synopsis Quattuor Evangeliorum"がすでにヨハネ、トマスを参照していますので、 佐藤先生はこれを踏襲しているにすぎません。新しいのは色分けぐらいです。 スロージューサーさんは、"Synopsis Quattuor Evangeliorum"と"Q-Parallels"は お手元にお持ちでしょうか? >>68 >古い研究に固執せずに事実に目を開かれてください。 古い研究に固執するわけではありませんが、覆すだけの根拠がない以上は、 小生は尊重したいと考えています。 残念ながらそれほど新しい注解書が手元にありませんが、Luz(EKK, 1990)は、 この箇所をマルコではなく、Qからの引用としており、Hagner(WBC, 1993)も Luzの説を支持してQからの引用としています。佐藤先生は『福音書共観表』で Qからの引用と述べていませんが、そうでないとも述べていません。 ヨハネとの関連については、Luzは「(ヨハネ版は)二次的であり、伝承史の 再構成には何一つ貢献しない」と述べています。むしろ、古い研究(例えば、 Schweizer, E, NTD, 1973)などが、ヨハネとの関連を指摘しています。 佐藤先生が仮にヨハネが関連がある、と述べているなら、むしろそれは 「古い研究」に固執しているから、と言わざるを得ません。 マタイ9,2ff.の「カファルナウム」の削除について。 ちらっと注解書を読みましたが、一つ感じたのは、9,1で「自分の町へやって来た」 つまり、カファルナウムに戻って来た、の意味、なので9,2ff.からは既知の町として カファルナウムを削除したという可能性です。 また、ざっと共観表を見ると、マタイとルカのマイナーアグリーメント(小一致)が 目立ちます。Luzも指摘していますが、これはマタイとルカが、いわゆる第二マルコを 参照した可能性があるということを示唆しています。 >ὁ παῖς 冠詞+男単主格 子供。男性冠詞がついてるので息子 > 奴隷という意味があるもののここでは息子。保守派は奴隷と訳すが誤訳 これについてはスロージューサーさんに同意。 9節のδουλοςは明らかに「僕/奴隷」ですが、われわれの箇所に関しては、 「息子」と訳すのが、おそらく適切。 マタイはπαῖςを2,16、類似する物語の17,15;18でも「息子」の意味で用いています(Luzが指摘)。 ただし、これは古来の解釈、というだけで、特に保守派の解釈とは限りません。 現に岩波訳(佐藤研)は保守派ではありませんが、この箇所を「僕」と解釈しています。 何気なく読み飛ばしていた箇所を詳しく調べることができ、 勉強になりました。いつもながら、感謝します。 >>70 "Synopsis Quattuor Evangeliorum"がトマスを参照している? 四福音書共観なのに? ではなぜタイトルを「五福音書共観」に変えないのですか? 佐藤さんは「五福音書共観」と高らかに謳われてますよ。 彩色のオリジナリティはファーマーの"Synoption (1969年)です。 1.ファーマーの彩色法を用い 2."Synopsis Quattuor Evangeliorum"1996年版に基づき、全面改訂されて 3.A.HuckのSynopse 1981年を参照し 4.ヨハネ福音書の平行箇所を色を変えて付加し 5.更にはトマス福音書の平行箇所も同じ方針で載せた とされています。 トマスの利用は佐藤さんのオリジナルなのでは? >>71 http://www.rikkyo.ne.jp/ ~msato/GrSynAll.pdf No. 38 [85]. The Faith of the Centurion / 百人隊長の信 Mt8:5 「Εἰσελθόντος」 δὲ αὐτοῦ 【εἰς Καφαρναοὺμ】 Mk2:1 Καὶ 「εἰσελθὼν」 πάλιν 【εἰς Καφαρναοὺμ】 Lk7:1 「εἰσῆλθεν」【εἰς Καφαρναούμ】 「」部分はマタイ・マルコ・ルカが完全一致ではないものの、 同一の基本形または同一の語根に遡るものを示す青色二重下線です 【】部分はマタイ・マルコ・ルカの完全一致を示す灰青色の網 佐藤さんの編集方針としては、完全な平行箇所を示しています。 >"Synopsis Quattuor Evangeliorum"がトマスを参照している? 各Nr.(No.)の一番下のアパラトゥスの所にトマス福音書が参照されており、 巻末にはさらに、全文とドイツ語、英語訳も付されています。 それだけではなく教父の聖書引用についても項目が設けられています。 ですから、トマス福音書を入れているのは佐藤先生のオリジナルというわけでもないと思います。 なぜ「五福音書共観」ではないのかは、残念ながら小生にはわかりませんw "Synopsis Quattuor Evangeliorum"が最初に出版されたのは1963年ですが、 トマス福音書の全容がファクシミリ版によって公開されたのは、その後の1970年代以降ですから、 書名が変わらなかったのはそのためでしょうか?推測ですが。 >佐藤さんの編集方針としては、完全な平行箇所を示しています。 佐藤先生は日本のQ研究の権威ではありますが、彼の主張だけを鵜呑みにするというのは、 いかにも批判精神に欠けた、ある意味「保守的」な姿勢ではないでしょうか? それこそ「古い研究に固執せずに」、最新の成果に耳を傾ける必要があります。 もっとも、小生は新しいから正しいなどと短絡的なことは申しませんが。 今ちょっと調べてみましたが、"Synopsis Quattuor Evangeliorum"に収蔵されている トマス福音書はレイトンの校訂本(1989年)からで、共観表が公刊されてから、 20年以上も後に出版されたものだということが分かりました。 「五福音書」になっていないのは、やはりそのためかと思います。 ちなみに、佐藤先生の共観表のトマス福音書は、なぜかギリシア語ですが、 "Synopsis Quattuor Evangeliorum"はちゃんと巻末でコプト語で書かれていますよ。 スロージューサーさんと小生だけで細かい話をしてしまって、 他のみなさまに申し訳ないです。 聖書を1節ずつ読んで、もっと気軽に感想などをワイワイと語り合えるといいですね。 >>77-79 「アパラトゥス=異読」の箇所に掲載されているだけなのですね。 それだと佐藤先生の編纂方針とは見やすさの点で大きく違うわけです。 アーラントなんですから、異読についてはお手のものわけです。 トマス福音書の写真版が公開されたのは1972年ですね >>78 いいえ、佐藤さんを鵜呑みになどしてませんよ。 佐藤さんが示した平行箇所が事実として並行していると考えているだけです ところがバウワー持ちさんは、私が事実を示しても Synopsis Quattuor Evangeliorum"が平行箇所と認定しないから、 平行箇所ではないと頑として聞き入れず、事実を認められないのです。 これは既存権威を妄信している護教的態度ではないでしょうか? >>76 を「事実」に基づき、なぜ平行していないと考えられるのか 論じてください。 >>80 おはようございます。 いえ、そんなことはありませんよ、ありがとうございます。 老クリスチャンさん スロージューサーさん 小生さん、 しっかりした魅力的なご先輩方がおられないと・・・ わいわいがやがやは、それはそれでよろしいが、 掃きすててもよいぐらいいっぱいあるし もうほんとうに貴重なスレです。 聖句に関しての言葉をほりさげてくださっている経過の中で それを読みながら、一節を大事にしながら、 一緒に考える機会を与えていただいているのです。 なかなか、その一節に意見まで言うところまでいかないだけだと思いますから、 そこは、お気になさらずに。 いつもありがとうございます。 >トマス福音書はレイトンの校訂本(1989年)から 整理すると 1.1892年フックがギリシア語版で共観福音書(3福音書)を編纂 2.1936年リーツマンが改定 3.1963年アーラントが四福音書共観を編纂 4.1981年フック=リーツマン版をグリーヴェンがアーラントの四福音書に対抗して ヨハネを入れて改訂 5.1989年 アーラント版をレイトンが校訂して欄外註にトマスを付加 6.1996年 アーラントの第15版出版。世界の学者の定本となる 7.2000年 荒井献らによる日本語訳『四福音書共観表』出版 新共同訳ベース 8.2005年 佐藤研『福音書共観表』が出る。トマスを欄内に配置。内容もアーラントから進化している >「アパラトゥス=異読」の箇所に掲載されているだけなのですね ちょっと正確さに欠けましたので訂正します。本文とアパラトゥスの間に 書かれています。例えば、Mt9,14-17(佐藤先生のでいうとNo.20)には 以下のように記載されています。 Evang.Thomae copt: cf Append.1, 47 Evang.Thomae copt: cf Append.1, 104 そして、Appendexには、ギリシア語ではなくちゃんとコプト語でトマス福音書が 掲載されています。佐藤先生のはギリシア語ですが、これがどこから来たものか、 明記されているのでしょうか?されていないとすれば、学問的正確さに欠けます。 >Synopsis Quattuor Evangeliorum"が平行箇所と認定しないから、 >>71 でもお示ししましたように、これが並行箇所ではなくQだと主張しているのは、 何も小生だけではありません。 >>72 にも書きましたが、マルコの「カファルナウム」という語は、いわゆる「『中風』 の患者の癒し」に付随したものであり、「百人隊長の息子の癒し」とは関連がないもの だと小生は考えています。 小生も根拠を示しましたが、それでもなおスロージューサーさんが納得されないならば、 それはそれで結構です。ただ、議論は一度保留させてくださいませんか? 手元にない資料で調べたい資料があったり、英独の文献を調べたりしてみたいのですが、 なかなか骨の折れる作業ですので、すぐにお答えするというわけにはいきませんから。 いずれにせよ、貴重な議論を、いつもありがとうございます。 >>84 なるほど。 Synopsis Quattuor Evangeliorumを掲載しているものの、ギリシア語ではなくて コプト語で掲載しているわけですね。 しかも巻末では独訳と英訳しか載せていない。 私が英語検索した結果と一致します。 佐藤さんはコプト語トマス福音書写本をギリシア語訳されたものを 載せられているのでアーラント版一歩進んでいるわけですね。 >>75 で紹介した通り 3.A.HuckのSynopse 1981年を参照し 、とありますので フック版がトマスの希訳を掲載しているのではないでしょうか。 さて平行箇所についての議論ですが、 元々、イエスが「カファルナウム」で癒したという伝承があったのでしょ。 それが、麻痺患者の物語と伝承されたり、もっと整備されて百人隊長の物語になっただけで 大枠の「カファルナウムでの癒し」という事実としては平行しているわけです。 ところが既存権威を妄信するとそういう事実を見逃してしまうということなの かもはれません。 いづれにせよ、おつきあいありがとうございました。 大変勉強になりました。 さてまとめ。 外国の聖書学者を信用してはいけません。 「παῖς」一つをとってみても、明らかにルカはQを改変しています。 さすがにQ学者は「παῖς」については。ルカの改変を認めるようです しかし諸訳は、「παῖς」を「δοῦλος」(奴隷)と改変したルカを支持して マタイの「παῖς」を正しい訳の(子供)ではなくて(奴隷)と訳しています。 ルカが改変好きなのは明白であるのに 【εἰς Καφαρναοὺμ】 の箇所は、「παῖς」と同じ段落であるのに ルカがQだと西洋のQ学者は主張しているそうです。 Mt8:5 「Εἰσελθόντος」 δὲ αὐτοῦ 【εἰς Καφαρναοὺμ】 Mk2:1 Καὶ 「εἰσελθὼν」 πάλιν 【εἰς Καφαρναοὺμ】 Lk7:1 「εἰσῆλθεν」【εἰς Καφαρναούμ】 事実は、εἰσερχομαιの男性単数分詞二過「主格」のマルコがオリジナリティであり マタイがマルコを少し改変して男性単数分詞二過「属格」と「属格」としただけなのを ルカが三単二過 と、分詞を止めて普通動詞に改変するという大幅な変更を加えました。 しかしQ学者たちはルカが語数も少なく簡単な表現だからこの個所はルカがQだと 詭弁でもって主張します。ただこの主張を通すために、並行しているマルコが 邪魔なので、平行箇所ではないと無理を通すようです。 詭弁で事実を覆うとこういうウソを積み重ねないといけないわけです。 我々はテキストの事実だけに注目すれば、こういう罠に陥らずに済むでしょう 初心者に向けて補足 Qとはドイツ語のQuelle「資料」のことです。 マタイとルカは「マルコ書」をベースにして「マルコ」を改変したのですが 共通資料のQを使用した推測されています。 つまりマタイは、マルコ+Q+マタイ独自資料 ルカはマルコ+Q+ルカ独自資料 で構成されていると考えられているわけです。 そして共通資料のQは、具体的にはイエス語録伝承のことですので Q自体のオリジナリティがあるとすればマルコより古いわけですが Qの現物が見つかっているわけではなく、マタイとルカの平行箇所から 推測されているのです。 そこにイエス語録のトマス福音書が更に付け加わったのです。 こんにちは。今日は体調がすぐれないので礼拝を休みました。 >外国の聖書学者を信用してはいけません。 これはあまりにも狭量で独善的な考え方だと言わざるを得ません。 「『παῖς』一つをとってみても」EKK, Luz, U.など、20年近く前に スロージューサーさんと同じことを主張している方もいらっしゃいます。 保守的と言われているHagner, Donald A.ですら、この箇所はさすがに 奴隷とは訳していません。 逆に佐藤先生など比較的進歩的な日本の聖書学者ですら、伝統的な 解釈に従って、「僕」と訳されている方もいらっしゃいます。 西洋の学者は全部誤りというような暴論ではなく、 あくまでも是々非々で論じなければならないと思います。 自分と異なる意見を、「保守的」、「護教的」と断じて排除するのは、 いかがなものでしょうか? >>88 14 :暇人:2005/11/26(土) 11:43:13 ID:rs//EmAu 私は 新共同訳略解と註解。 ハーパー註解。 現代聖書注解とEKK註解を一冊づつを持ってるね 良し悪しはわからんな。。。 ↑ 10年前はEKKにお世話になっていたようですね。 とはいえEKKやNTDが比較的ましな注解というレベルなのでは? でもQ学者のやり口は、『事実』から関係を見出す科学的学問的方法ではなくて 自分たちに都合のよい『定義』を先に設定して、それに合致する『事実』のみを 抽出するという逆転的発想なので、信用したらあかんでしょ。 具体的には我々のMt8:5 「Εἰσελθόντος」 δὲ αὐτοῦ 【εἰς Καφαρναοὺμ】 が 平行していても、「百人隊長の癒し記事」ではないと排除されるし マタイ4:1-11「荒野の誘惑」記事(平行ルカ4:1-13 マルコ1:12-13)でも これはイエス語録ではないからQではないと排除するような非学問的水準でしょう エホ症の新世界訳はマタイ8:6を こう言った。「閣下,私の下男はまひして家にこもったまま,ひどく苦しんでおります」 と『παῖς』を「子供」ではなくて「下男」と誤訳しています。 大正訳、ラゲ訳、口語訳、新共同、日本正教会訳、永井直治訳「僕」 新改訳、フランシスコ会訳「しもべ」 詳訳聖書「<若い>しもべ」 新世界訳、バルバロ訳、塚本虎二訳「下男」 前田護郎訳 「子」。 邦訳は、前田訳を除くとすべて誤訳で、改竄聖書の新世界訳水準です。 まあとはいえ「子」であろうと「僕」であろうと大意はさして変わりませんので 日本語訳がすべてダメとは言いませんが、日本語訳聖書の水準は かなりお寒いのです やはり根底から学ぶなら、ギリシャ語から学ばなければいけませんね。 昨年末より新共同訳の後継の新標準訳のパイロット版が 1万円で販売されていますが、マタイ8:6の『παῖς』を 同訳しているのか興味深いところです。 新改訳も2017年に改訂版が「新改訳2017」として出版される予定だそうですが マタイ8:6の『παῖς』をどう訳すのか、興味深いところです。 恐らく両訳共、低水準なままではないかと思います。 >とはいえEKKやNTDが比較的ましな注解というレベルなのでは? EKKもすべて優れているというわけではありませんが、 少なくともマタイに関しては、Hermeneiaシリーズに掲載されるほどですから、 世界最高水準の注解書であることは間違いありません。 それを「まし」と呼ばれるからには、ご自身の見解がより優れているという自信を お餅ということでしょうか? もっとも、最近出版されたMatthias KonradtのNTDは比較的、Luzに批判的な態度ではありますけど。 マタイ8:7 καὶ λέγει αὐτῷ· ἐγὼ ἐλθὼν θεραπεύσω αὐτόν. καὶ 接続詞 そして λέγει 三単現彼は言う αὐτῷ· 男単与格 彼に ἐγὼ 人称代名詞一人称単数主格エゴー 私が ἐλθὼν 男単分二過主格 行って θεραπεύσω 一単未来 @私は奉仕するだろう A治療するだろう αὐτόν.男単対格 彼を スロージューサー訳 そして彼に彼が言った 「私が行って、その子を私が治療するのですか?」 参考に http://smallvoice.la.coocan.jp/id-4/matthew0807.pdf ギリシア語原文には疑問文か平常文か区別がないが このイエスの発言は文脈から疑問分が妥当。 文法的には「私が行って、その子を私が治療するだろう」も可能。 >>93 事実を神学で覆い隠そうとするような註解書しかない中で 程度の問題ですが、ましだという意見ですので 比較の対象の中にあるのは、様々な註解書です。 つまり私と註解書とを比較しているわけではありません。 現に註解書に頼っていた2005年頃の私はEKKやらNTDにお世話になって いたわけです。でもそれでは聖書の根底には迫れません。 でも大量の悪い註解の中で「ましな註解」を手にしないといけない 時代もあるわけです >>95 スロージューサー訳 そして彼に彼が言った ↑ 原文がそうなっているのだがなんのことかさっぱりわからない。 原文だと続いて 「私が行って、彼を私が治療するのですか?」だ。 彼が三人。。。 なので諸訳は工夫をしている。 わかりやすくすれば 意訳 そして百人隊長にイエスが言った 「私が行って、あなたの息子を治すのか?」 やっぱ「あなたの息子」はやりすぎだ。「あなたの」という語は 原文にはない。 原文はαὐτόν.男単対格 彼を だ。せいぜい「その子」までかもしれない >>95 >このイエスの発言は文脈から疑問分が妥当。 この点は小生も同意。おそらく、異邦人(しかもイスラエルを抑圧している側)である 百人隊長の息子をなぜ、イエスが癒さなければならないのか、というニュアンスではないかと。 すると、10節以下のイエスの驚きとうまくつながると思います。 >>98 これはご指摘の通りでマズイ訳。どうしてもというならば、「彼〔息子〕を」 とした方が、これまでの訳と一貫性が保てますね。 >>99 確かに。「彼を」 てばなく「その子」だと一貫性がないですね。 妥協案として彼彼彼と三度も重なるようであれば「彼〔息子〕を」 など []で便宜を図るべきかもですね。 便宜をはかりつつ、原文は彼彼彼とわかるように。 異邦人+支配側の百人隊長の息子をユダヤ+抑圧されている側のイエスが なぜ癒さないといけないのだ、嫌だというようなニュアンスが 疑問形で示せるとよいですね。 多くの翻訳が「私が行って治してあげよう」というような 肯定文で善人イエスにしてしまって、この個所の臨場感を消臭しています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる