法華経は釈尊(シャカ)が説いたんじゃなかったの?
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違うんか?
271: 顕正会が中傷され疎んじられ猜疑され入信者が増えない理由 [] 2014/08/31(日) 01:07:37.89 ID:Yq8UgCew
昔は大乗仏典も釈迦の教えだとされていましたが、
現代の仏教学では、大乗仏典は1世紀前後の頃から
新たに創られた仏教文学のようなもので、
釈迦の直説とは考えられておらず、
大乗仏教には本来の釈迦の教えにはない要素が多く含まれています。
ということらしい。 >>100
確かに誰が説いても法は法だが仏説と言えるかは別だね
老子も同じような事を言っているが仏説ではない(教えは等価値だと思っているが)
そして法華経の中に釈迦より優れた法があるのならそれを教えて下さいよ
こちらはそれしか興味ありません だから、その普遍の法は空中から字が降りてきて経典になったんですか?
違うでしょ?
「覚者(ブッダ)の教え」=仏法であって、それなら法華経と言う法を
説いた大乗経典の作者が覚者(ブッダ)であることが先決となる。 >>101
幻想の原始仏教かい?
史的釈迦は、悉皆成仏を説いたかい?
この一点で法華経は釈迦を超えたね。 >>103
最低でも釈迦自身の教えとして残るものが原始仏教です
実践して確かめる事も出来ない上に誰の思想かもわからない悉皆成仏が普遍の法である根拠は何でしょう?
そして何故それが釈迦を超えたと言えるのかも詳しくお願いします >>105
>>102の方と同じ問いかけをさせてもらいますが
それは法華を説いた者が仏陀(羅漢、無学、応供果)である事が前提となります
仏が書いたものとは思えませんが
そして法とは自身の行いによって確かめるものなので、その主張は成り立ちません >>106
釈迦の時代の社会や宗教的文化の束縛を無視するのかい? 修行段階に文化的束縛は関係ありませんよ?(たとえ表現が変わろうとも)
法華の作者が仏陀かそれに準ずる聖者でない限りなんの意味をありません
仮に仏陀と同じ境地に居ればあんな経典は書かないと思いますがね そもそも法華の素晴らしさについて論理立った説明と
書いた者が正しく法を知る聖者である事の根拠が有れば一発で解決する問題なんですが
何故それについて語ってくれないんですかね それは先に俺に書いたように、
「素晴らしい」=「万人受けする」=「人間に都合がいい」だからだろ(笑)
これを論理的に説明するのは、たいがい難しい。 >>74土いぢりさん
その箇所は方便説の説明をされた言葉でありますし、
成仏ができるまでの過程の話をされたところのようですね。
寧ろ法華経の釈迦はその戯れ事の仏道に執着して慢心を抱くな!と言っておられるようです。
貴殿の“法華の素晴らしさ”という概念は二乗の戯れ事が法華の核心だと仰っているのでしょうね。
私見で申し訳御座いませんが、他の章には、このような戯れ事(砂遊び他)は否定されている文もあるようですが、
私としては提示までしないでおきます。
また、一連の貴殿のレスを拝見させて頂いて思ったのですが、「法華経は仏説ではない」けれど素晴らし!ということのようですね。
まぁ、それは貴殿個人的な思いからの確信得たものでしょうから、私がとやかく言っても仕様がないので、
これ以上の質問は止めとくことにしますね。
有難うございました。 >>112
二乗不作仏という先行する大乗の常識(般若経典群)が方便であり
真実は三乗がすべて成仏する一乗仏教にあるというのが方便品の真意です。
成仏できるまでの過程の説明などありません。
幼稚園児が砂場遊びで仏塔を作ったその行為にすら既に仏道が成就している
ということが書かれているのです。
愚脳君や史的釈尊の方法論では、
優秀な者だけが東大に行け、庶民は高卒で働きささやかな幸せを目指せ
というシステムなのですが
法華は、幼稚園児の砂場遊びに博士号を授与されるのです。
こんな素晴らしい話が書いてあるから法華は大乗の中の大乗なのです。 味噌は、愚脳君は自己評価が高く、自分は優秀で東大に値すると
思われているわけですが、実は自分をわかっていないだけなのてす。
釈尊は成道後、生涯をかけ自分が悟ったものを他人に伝えようと
されたわけですが、大乗(菩薩道)の精神は
すべての人が仏道に入り、成仏するようにと願うところにあります。
仏とはまさに、人を仏にせしめる働きのすべてのことです。
法華経が説いてるのはこのことです。 .
シモンさんは正鵠を得ている. ( 笑えるほどに的を射ている.数行で!
>>113 暇人さん
それは間違いです.
まるで一向門徒が法華を語っているみたいに誤解している.
>>114 最初の二行は >>113を引いてやはり誤解がある.
後段の説明は悪くはないですが.
つきみさんはペースからして偏見があるようですね.それは仏教とは言えない.
シモンさんの話には続きがあるがそれを言語(論理)で直に説明するのは困難です. 法華を教義に取り込んだ後期密教ですらそんな簡単に修行が終わるなどとは説かないよ >>114
園児の砂場遊びに博士号が授与されるという教えが素晴らしいの?
なんで?ていうかどこが?
アホでもみ〜んな仏タリラリラ〜ンの教えだから? >>118
道にいる限り、成仏は約束されてんだよ。 大学に入ったらちゃんと授業に出て単位を取って卒論を出せば卒業できます、という教えより、
とりあえず大学入っとけ、入っとけばぜってー卒業できっから、の方が高尚な教えなの?
何度も言うように、人間の言う素晴らしい教えってのは、たいがい人間にとって都合のいい教えの言いかえってこった(笑) >>110
甘えか崇高かの判断は、
自己犠牲してまで他者を救うのは尊い
に共感できるかで区別できる。
新約聖書では
「友のために命を捨てる。これほど大きな愛はない。」
と記されているが、
自分の命を犠牲にすれば他者を助けられる極限の状況下に於いて、
自己犠牲するのは尊いと教える宗教は崇高な精神を有しているだろう。
自分に都合は悪いが、高い精神性ゆえに
人々の共感を呼ぶ思想に非があるだろうか。
一部の異端プロテスタントのように、
「イエス様は全てを許し受け入れてくれる」と現実逃避するのは
身勝手な都合の良い、ただの甘えであることに異論はない。
聖書の教えは厳しい内容だからね。
曲解してる異端者どもは滅んだほうがいい。 意地でも共に助かる道を探す
お互い友を犠牲に助かっても嬉しくなければ余計な罪悪感を背負う事になるだろうから
ならば共に生きるか共に死ぬかに懸けた方が後腐れなくて良い
100を目指して0ならまだ諦めもつくさ
最初から妥協は完全に悪 だから言ってるだろ?
救おうが救うまいが、人間は生まれた時から全員死刑宣告受けてるわけ。
生まれる前におろされる子供だってごまんといる。
重要なのは「おれ」や「あなた」じゃない。
ただ「帰一」するということだ。 “法華の法華の素晴らしさ”を根拠として、方便品文中から引用するには早すぎると思いまね。
「誰でも仏道を成就している」と述べているだけであって、例えば「誰でも学徒である」と言っているだけなのです。
その方便品では「砂遊び、土遊び、彫刻、絵画、これら行いも仏道を成就している」とも書かれておりますね。・・・・(これから法華経を説こうとする爾前の方便説を語ったものです。)
この法華経の作者が尤も言わんとしていることは、十七章分別功徳品にあります。お読みください。
読んでもらえれば議論の余地もないでしょう。
グノーシスさんが言われるように、法華経は自画自賛を殆どしめた物語であることが、この二十八品の趣旨であります。
「高校卒で満足してはまだまだ。もっと智慧を付けるにはこの法華経である。聞く気の無い奴は去れ!」と、ただこれだけのお話から入る門のようで。 仏道を成就させる為の四諦八正道は受け入れたくないかもしれないが
大乗なら大乗で六波羅蜜の実践が無いと学徒とは言えないと思うけどそこどうなの? >>126さん
法華経物語では二乗三乗の教えに習う者達が学徒(仏道の成就の姿)なのでしょう。
“六波羅蜜の実践を説いてきた”と随所に示唆されてますね。
常不軽菩薩品を読んでみますと分かり安いかと思われます。
“学徒”と言ったのは、私の例えですので御了承ください。 法華以外は全部方便だから六波羅蜜の実践も方便で実は要らないってこと?
皆が六波羅蜜を実践してる訳じゃないんだから
そうでないと「誰でも仏道を成就している」は成り立たないよね
釈迦の前世に関する妄想を事実だと信仰する場合もう仏教とかけ離れるよ
本尊として観想する修行法とかなら無意味ではないけどさ
常不軽菩薩の話の教訓的な教えも法句経で説かれてる
利他行は運勢転換や修行の補助にはなるけれど
善行だけで悟れると説くのは仏教と言うよりヨガの一派だと思う
釈迦の教えと全く違う教えとしてなら良いけどそれを釈迦の教えとする事で仏道を名乗った挙句
それを釈迦の最上の教えと騙っても嘘は嘘だし物凄い祖語が生じることになるよ >>128さん
“要らない”とまでは言ってないのではないでしょうか。
仮に7歳8歳の子にいきなり大学での教えを説いても理解を得させることは無理なので、
段階的に順繰りな教えをしてきたと言っているようですよ。 六波羅蜜を作った人の言葉なら分かるが
そうでない以上釈迦を騙るだけでなく先人の知恵を不当に貶してる様に見えるんだよね
法華の内容って信仰というか思い込みの力は凄いって言う意味しか汲み取れないんだけど
六波羅蜜より複雑で難しい法はどこにある? >>115
具体的に指摘してみなされ。
ところで法華を読んだことがあるのかね
>>116
密教が法華を教義に取り込んだ?
法華の何をどこにどう取り込んだの?
>>118
そうだよ
問題はものさし。どこに価値を置くか。
仏とはすべての人を成仏さる働きというモノサシで判断すると
どうなる?
>>120
優秀さゆえに悟れる。金持ちだから幸せ。才能があるから素晴らしい
名門名家だから尊い。というような発想でははないんだよ、仏の教えは。
>>125
おまえさ、ちゃんと読め。
「諸仏は語異ることなし 唯一にして二乗なし」とあるでしょ
「二乗不作仏」説が方便であり、一乗真実説を方便品は説いてるの、ボケナス 法華経は非仏説です。
釈尊の言行録でないことは、法華経を読めば誰にでも理解できるのではないでしょうか?
法華経が仏説だという方は、釈尊が眉間から光を出したり、地中から巨大な塔が出たり、
無数の菩薩が地中から出てくるという描写も事実だと思われているのでしょうか?
法華経では、声聞と縁覚が一緒に霊鷲山で釈尊の説法を聞いているという設定ですが、
菩薩というのは大乗仏教の修行者のことですから、舎利弗と菩薩が同席することはありません。
また、釈尊の説法を直接菩薩が聞くということも事実としてはあり得ないことです。
釈尊や舎利弗が亡くなられて、400年程してから修行者のことを菩薩と言い始めたのですから
法華経は、創作であることはすぐに分かります。
法華経では、序品の最初に声聞と菩薩だけでなく、天界の神々や龍や魔神たちも同席しています。
このことで、法華経編纂者は、事実ではなく、譬えによって教えを説くということを
法華経の最初で、まず、読者に伝えていると観るほうが自然です。
法華経を仏説だと主張される方は、法華経内で起こる不思議な出来事が
現実の出来事だったと証明する必要があります。
どなたかが、証明をして頂けると非仏説の疑いは晴れます。 法が廃れていくのも事実だろうし
方便が幅を効かせて本来の教義がなんであるか
忘れ去られてゆく
これは生姜無いことである。
大乗に限らず上座部の教義もこの例外で無く
本来の釈迦の説法を伝えるものでは無く
等しく薄れているのだよ
だから両方読みなさい 天台密教では法華を所依の経典とか言って大日経と関連付けてるし
チベット密教のツォンカパも滅罪の為に法華経読めって言ってるけど?
仏は目覚めた人って意味でその教えは努力第一(沙門)だと思われる
死後に全ての者が帰る場所って意味だと神道の祖霊が当て嵌まるな
真言宗では大日如来を宇宙原理として扱うけどアレも本来アスラ族の王でしかないし 台密なら当たり前。元々法華一乗なのを、流行を取り入れただけだから。 >>133
法華が非仏説であれば
スッタニパータもダンマバダも非仏説だよ
釈尊が説いたのではなくて、アナンダか釈迦説として承認した教えだよ
ちみなみに釈滅後100年ころの根本分裂のとき、
裁定をした八人の長老のうち、最上の一人を含め7人がアナンダの弟子。
1人がアヌルッダの弟子だ。 アーナンダは釈迦から聞いた言葉を語ったわけだからそれは釈迦の教えだ ならば、法華も500年後の修行者が瞑想か何かして
釈尊から聞いた言葉を騙ったので釈尊の教えでしょ >>133
133 です。
> 法華経では、声聞と縁覚が一緒に霊鷲山で釈尊の説法を聞いているという設定ですが…
間違えてました。
声聞と縁覚じゃなくて、声聞と菩薩の誤りです。ごめんなさい。
>>139 土いぢりさん
> 法華が非仏説であれば
> スッタニパータもダンマバダも非仏説だよ
おっしゃる通りです。
大乗ほどではありませんが、初期仏教の経典でも
比喩や象徴化がありますから、仏教経典の多くは非仏説です。
学者の発表では、釈尊の直説はスッタニパータの一部だけといいます。 >>141
なるほど。
だとすれば、現代の行者が釈迦が乗り移った!と称して新奇な説を唱えても
それは仏説と言うことで問題ありませんね。
つまるところ、仏説の定義とは、「覚者(ブッダ)の教えと称しているもの」と解して宜しいということですね(笑) 仏説概念を文献が仏の高説と唱えていればみ〜んな仏説と割り切るなら、
後期密教の無上ヨーガタントラも仏説と認めないといかんでしょ。
アホどもは性欲開発に勤しまないと(笑) 瞑想中の幻覚は潜在意識の表れだから放っておくのは基本中の基本やろ
仏に逢うては仏を殺さんかい 6ヶ月間ずっと瞑想してたら少々新奇な説でも信じるお >>145
ところがインド撰述のお経でも西域・中国撰述のお経でも
偽経というカテゴリーがあって、1万部ほどが指定されている。
愚脳が勝手に経を作ってもはねられるんだわ(笑)
>>146
密教のことは知らんが、後期密教の無上ヨーガタントラが
大蔵経の密教部に入っているのであれば仏説だよ(笑)
でね数ある経典の中からどれを重視するかと選ぶのが教相判釈で
それによって「宗」が立つんだよ(笑)
無上ヨーガタントラは無上ヨーガタントラを選んだ奴だけが
するんだよ(笑) チベッタンとかが詳しいのでは?(笑) 体操的な自重トレーニンだけで鍛えてる奴に
自重トレも自重を使ったウエイトトレーニングだから同じだとか言っちゃったり
ボディビルとは筋トレ、栄養、休養で筋肉を発達させる事を指すからスポーツマンは全員ビルダー
みたいなこと言っちゃう一般論無視の苦しい主張と同レベルだな 土いじりの説明は実に分かり易い。
理解したくないだけじゃないの? そもそも密教自体釈迦の教えでない以上
その定義で行くと仏説≠釈迦の教えとなる為
(定義上の)仏説に何の価値も無くなるやろ >>149
そりゃ中華が勝手にまとめ上げた大蔵経に入らない経典を偽経つってるだけだろ(笑)
そもそも中華思想ありきの大蔵経には梵網経とか老子化故経とか中華がねつ造したくっそ笑える
「偽経」が腐るほど混入してるしな。
そんなんで仏説・非仏説を分かつなら152が言ってるように仏説概念なんてゴミみたいなもんだわ。
しかし、それなのに「非仏説」というレッテルだけは青筋立てて反抗してくるんだよな仏教徒って(笑)
「釈迦が全ての比丘尼のマ○コの中にいた」で始まる無常ヨーガタントラすら仏説OKならぶっちゃけ何でもOKなんだろうが。
あと教相判釈(笑)?これも部派・大乗・密教が一時にまとめて乱入した中華が編み出した概念であって、
んなもんもとからインドにはない概念(笑)
そんな詭弁が通用するのは中華仏教と中華に汚染された日本仏教(笑)を信奉するアホどもだけだろ(笑) じゃあ、真の釈迦の言葉はとこにある?
それと、仏は釈迦だけしゃない。ってとこまで大乗はいってんだ。
今更、乞食の言葉に拘って何になる? 真の釈迦の言葉はアーガマの中にあるだろ。
当たり前の話。むろん後代の増広があるから全てではなく、ごく一部だろうが。
はっきりしてるのは、アーガマから釈迦の直説を選別することが困難なことをもって、
法華経に釈迦の直説は含まれないという現実を否定することは出来ないということ(笑)
法華経という後代の大乗経典の作者が覚者(ブッダ)だったというなら話は別だよ。
でも、そんなこと誰もどこにも謳われてないんだから主張すること自体無意味(笑) アホ坊主どもの詭弁なんざ問答法使えば一発。
@法華経は釈迦が説いたものですか? ⇒ いいえ
Aでは、釈迦以外の仏(ブッダ)が説かれたものですか ⇒ いいえ(経典自体からいえる)
Bでは、法華経は仏(ブッダ)が説かれたものではありませんね ⇒ はい
Cでは、法華経はブッダではないものがブッダを装って書いた経典ですね ⇒ はい
反論あるならどうぞ Aでは、釈迦以外の仏(ブッダ)が説かれたものですか ⇒ いいえ(経典自体からいえる)
久遠実成の釈迦如来が説いた。
反論あるならどーぞ。 グノーは哀れだ。信から入らないと真理の側までも行けない。
法華経はグノーにとって重要な経典だ。
この経典を信奉すれば六波羅蜜の内般若以外が得られる。
残りは智慧だけだ。 久遠実成は後世の創作や
偽を信ずる者が真実に辿りつくことは無いと仏陀も言うとるやろ >>158
久遠実成は法華経の中で釈迦在世時を前提に説かれているわけであって、
久遠実成の釈迦如来が紀元前後に法華経を説いた、というのはあなたの妄想に過ぎませんね(笑) >>161
久遠実成の釈迦も、神の御子イエスも同じ。
分からん? >>159
グノーシス本家の俺にグノーシスを語るとかギャグですかっていう(笑)
それに俺は仏説だ非仏説だくだらんレッテルに拘るお前らを揶揄してるわけであって、
法華経の中身についてなんら是非の判断をしてるわけではない。 神の御子イエスも創作だっての
そしてスレタイは「法華経は釈尊(シャカ)が説いたんじゃなかったの?」である事を忘れるなよ >>153
そもそもはインド撰述でない経典だよ。
いやそもそもはインドの世親の論理だよ。
「君たちの伝承に大乗の経典がないゆえに非仏説なのであれば
大乗の伝承に部派の経典はないから君たちも非仏説だ」 倶舎論とか書いてて、よくいうよこのハゲはっていう(笑) >>167
堀内俊郎 山喜房仏書林「世親の大乗仏説論―『釈軌論』第四章を中心に」
でも読んでごらん まるで聖書を読めばキリスト教を信じると思ってるレベルの盲信者の思考だわ
中には「神が聖書を与えて下さった事こそ神が人間を愛している証です」とか書いてあってそれを事鵜呑みにしちゃうんだよな
瞑想で浮かぶ幻覚の釈尊に聞いた事を仏説と認めてしまう人は仕方ないか >>170
意味不明だが、気持ちは伝わる(笑)
だって釈尊が悟ったのも瞑想だし(笑)。
仏教とはもともとそーいう宗教なんだわ(笑) 釈尊が瞑想で釈尊に会うとか阿呆ってレベルじゃねえよ… 法華がといたことこそが、仏教である。
そもそも梵天勧請で、仏陀が教えを説いて回ったのは素晴らしい教えを広めるのを請われたから。
それは生老病死の苦から逃れる為出会ったわけだよな。
要約すると、一切皆空です。
一切皆空に分別がつくのがおかしい。
出家、在家も関係ないでしょ。
性別も悪人も。
その事を聞こうと思った人間は、そして聞いた人間らベルトコンベア的に悟りに向かう。
なぜなら、一切皆空で、それ即ち仏性だから。
仏性=我々の本質
つまり如来タル因子が、満遍なく空=常で存在してるからさ。
散りを払うだけで、我々も仏なの。
だからすんげーおしえなのさ。
大乗的思考かもしれんがね。 そりゃ般若心経自体竜樹の思考で釈迦の教えじゃないからね
だが神道でも鏡(カガミ)から我(ガ)を取って神(カミ)になるって言うし間違いではない
問題は方法を知っても誰でも塵を払える訳じゃないってとこなんだよな
禅は武道や学問にも応用が利く優れ物だが
残念ながら大成するのは一握りだしさ > 梵天勧請
梵天って神様ですよね?
お釈迦さまは、人間ではない存在と
話されたとみなさんは思っているのですか? ヒンズーと融和して仏教を存続させようとした方便でしょ
それを肯定するか否定するかにおいて優劣は無いよね ゴータマが教えを伝えてる時点で、仏教の本質は大乗だと思うよ。
そもそも梵天勧請の説話が入ってる時点で、一切衆生の救済という言葉が適切かわからんが、
それがあり得るという証明じゃね?
そのまま一人入滅しても良かったわけだし。 釈迦も悟ってから教えを説いた事を考えると
まず自分が救われてから他者を救う発想に見えるけどな
それに一切衆生なんて不可能なんだから目に止まった人を助けりゃ良いんだよ
そもそも自分を救えない者が他者救済なんて片腹痛いし
自分だけ良けりゃって思考で幸せになれるとも思えない
双方極端なんだよ、これも中道であるべきだな それにゴータマは皆が自己救済出来るように一つの道を示してくれた訳で
修行を放棄しても誰かが救ってくれるから大丈夫なんて教えではない 釈尊自身が修行(瞑想と苦行)を放棄したやん>>180
覚ったのは村娘スジャータに乳粥で介抱された後よ。
スジャータが釈尊を救わなかったら、釈尊も悟れなかった 苦行は捨てたが瞑想は捨てとらんだろうに
八正道の正定を忘れちゃイカンよ そもそも戻る必要がどこにあるのかと。
だから梵天とか出してきたわけでしょ。
あと慈悲か。
慈悲を出すならやはり救済で。
苦を滅するて事でしょう。
まぁそこで空が出てくるのが私の大乗的思考なのかもしれんが。
そもそも悟れてない人が仏道に入るわけだからね。
煩悩は菩提であるわけだから。
救済という行為自体が仏教なんじゃないか?
久遠実成は永遠と救済行為をしてるわけだわな。
つまり法華を聞いたりした時点で、永遠と説教受ける羽目になる。
つまり日常のありとあらゆる行為が修行になると。
禅的でもあるな。 スレのタイトルの結論いうと、
法華経はゴータマが説いたものではない。
だからと言って仏教じゃない
と言うのは違う。
仏教です。 悟りたい凡人が仏門に入る←うん
悟った人が救済する ←うん
悟る為にも功徳は積もう ←うん
衆生の救済こそが仏教 ←うん?
法華を信じて念じれば ←は?
こう変わっていくんだよな…
あらゆる行為を修行にするにもコツがあるのよ >>182
苦行する前に、マガダの首都で二師について瞑想修行しているわけ
仏伝では二師の瞑想をすぐ悟り、それに満足せずに更に修行したことに
なっているが、冷静に分析すると
大都会の瞑想修行に二度落ちこぼれ瞑想を棄て
なんたら河流域の森林で苦行修行に走ったのだよ。そしてこれにも落ちこぼれた。 阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課
二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪 仏教の本質は救済でしょ。
なぜ釈迦は修行したのか、
教えを説いて回ったのか。 >仏教の本質は救済でしょ。
日蓮宗や念仏は、そうだろうけれども、普通は自覚することだろう。 いや自覚こそ救済であると。
小乗は中途半端なんだよな。
凡夫の自覚あるなら他力でいいんだが。 自覚が中途半端とすれば、
自覚のある社会人も中途半端w
自覚が無いほうがいいとかw
韓国のカルト宗教の船長みたいなのが救済されるとかw 自覚は中途半端じゃないだろ。
小乗が中途半端です。
本質を理解してないね。
大乗故世界宗教になったと言える。
「仏教」の本質は大乗だ。 「法華経」を始め、仏典の全ては、そもそも仏陀(釈迦)が著作したのではなく、
直弟子から孫弟子と伝えられながら経典としてまとめられたものです。
従って、その間に釈迦の言葉以外の説話が入り込んでます。
そして法華経が経典としてまとまったのが、紀元後1〜2世紀頃のインドであり、
釈迦の死後数百年(千年?)も経ってからです。既にその頃には、キリスト教が
インドにも入り込んでおり(キリストの直弟子トマスが既にインドで布教
している)、仏教とキリスト教が出会ってます。
宗教学者に言わせると、キリスト教の教説が法華経に追加され経典としてまとまったということです。 法華経と聖書
http://www.buddhachannel.tv/portail/spip.php?article17973
よく知られるのが、「放蕩息子」の説話です。
●新約聖書(ルカの福音書15章11-32節)
一人の息子が父親のもとを出て行き、遠い国に旅立ち、財産を使い果たしてしまいました。
何もかも使い果たして、彼は食べることにも困り始めました。そこで彼は豚の世話をする仕事に就きました。
彼は豚の餌を食べてでも空腹を満たしいほどでした。ついに彼はそこを発ち、父親のもとに戻って行きました。
父親はまだ遠く離れていたのに、息子を見つけ、走り寄って首を抱き、キスをしました。
息子は言いました。「私は息子と呼ばれる資格はありません。」
しかし、父親は召使たちに言いました。
「急いで一番良い服を持ってきて、この子に着せ、肥えた子牛を調理して食べて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」
●法華経(第四:信解品)
ある息子が父親のもとを出て行き、何十年も長い間、外国を放浪しました。
彼はすっかり年をとってしまい、ますます生活に困るようになりました。そして自分の故郷へとたまたま向かって行き、ついに父親の城にたどり着きました。
父親は、息子に気づいて召使を派遣し、息子を連れ戻そうとしました。すると息子は「大変だ。殺されてしまう」と思いこみ、恐怖のあまり気絶してしまいました。
召使は息子の顔に水をかけて意識を取り戻させました。父親は、召使たちを通して息子に仕事を与え、遠くから見守っていました。
そのうちに父親に死ぬ時が近づいてきました。父親は息子に王様や資産家を集めさせ、皆の前で、
「ここにいるのは実は私の子供です。だから自分の全財産はこの子供にやります」と宣言しました。 >>189
>仏教の本質は救済でしょ。 なぜ釈迦は修行したのか、 教えを説いて回ったのか。
それは阿羅漢と菩薩、如来との違いからくるのでしょう。
悟りを得て涅槃入りしてしまうのが阿羅漢、衆生済度の為に敢えて輪廻を繰り返すのが菩薩、
悟りを得ても完全な涅槃には入らずに衆生済度を展開されているのが如来かと。
(参考)「全訳 チャンドラキールティ 入中論」
P9 訳者解説
慈悲の完成は仏において見られるが、そこでは衆生が救われない限り、完全な涅槃には入らないという無住処涅槃に展開する。
仏は慈悲そのものであるから、起居動作はいうに及ばず、たとえ呼吸さえも全て利他の為にある。
それは仏が三有の衆生を全て一子のように愛するからである。 (中略)
この慈悲が根本となって全ての人々を救おうとする決意が生ずる。これが菩提心であって、
P26 註
入中論12-40:仏の未来の寿量は世間の人が全て成仏しない限り存する。
入中論12-42:慈悲の心ある仏は涅槃に向かう心を退ける。 国学で神仏分離とか混淆よりもこじれた中2病だと思うよ 年代があわないぢゃん
ルカは80年成立。信解品は50年成立 >>197
そうだから、歴史上のあの釈尊が教えを説いたというのは百尺竿頭進一歩であり、
大乗こそが仏教であふ。と言えるよね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています