敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
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*老クリスチャン氏降臨*
なぜ姦淫してはならないのですか?
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1503953697/279
279 :老クリスチャン:2017/11/07(火) 11:53:42.41 ID:By5fRH7B
現代の日本語で 「姦淫」 という言葉を、みなさんは自分ではどう理解していらっしゃいますか?
聖書で同じ言葉が使われている場合にも、おそらく場所によって意味がかなり違います。
申命記5章の十戒の中で、18節の 「姦淫してはならない」 と 21節の 「あなたの隣人の妻を欲してはならない」 が区別されている理由を、考えてみたことはありますか?
老クリスチャン 生誕400年
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老クリスチャン
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> 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!<
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572 :老クリスチャン:2017/11/08(水) 10:15:59.92 ID:gVn5BHfq
【福音の学び F】
福音書の叙述に見られるように、イエスの裁判は歴史的には複雑な出来事でした。
事件の当事者たち個人個人の罪がどうであろうとも、イエスの死の責任をエルサレムのユダヤ人全体に帰すことは出来ません。
ましてや、「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタ 27:25)と全群衆が叫んだからといって、イエスの死の責任をあらゆる時代の、あらゆる場所のユダヤ人にまで及ぼすことは出来ません。
「教会は神の新しい民であるとはいえ、あたかも聖書から結論づけられるかのように、ユダヤ人は神から見捨てられた者としても呪われた者としても紹介されることがあってはならない。」(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言 4)
(カトリック教会のカテキズム 597 参照)
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/572
573 :老クリスチャン:2017/11/08(水) 10:16:43.33 ID:gVn5BHfq
【福音の学び F への解説】
新約聖書を文字通りに解釈するということに起因する近代の最大の悲劇に、反ユダヤ主義があります。
歴史の教会は、聖書に保存されている1世紀末あるいは2世紀初め頃の教会の反ユダヤ主義的偏見に、気づかずに汚染されてきたのです。
当時、既存のユダヤ教徒に抵抗するには未だ少数者であったキリスト者側は、彼らの初期の伝承を反ユダヤ主義的な色合いで語ることによって、結束しようとしました。
そして遂にヨハネ福音書で、それが頂点に達したのでした(ヨハ 8:44)。
現代の進歩した歴史的批評的研究を無視しては、今日の聖書解釈は最早成り立たないということを、教会の指導者や説教者、また教養ある信徒たちの多くは学ぶ必要があります。
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/573 2010年(主日C/A年) 11月7日 年間第32主日
IIマカ 7:1〜14 IIテサ 2:16〜3:5 ルカ 20:27〜38
ニケア・コンスタンチノープル信条で “死者の復活” と書かれている部分が、使徒信条では “からだの復活” となっています。
この用語法は、“肉の復活” ではないという神学的な主張に基づいているのです。
それは初代キリスト教の宣教を、ギリシア的・プラトン的な霊魂不滅信仰から区別する明確な表象なのです。
西欧人でも日本人でも、人は肉体的に死んでも、そのまま引き続き霊の世界で生きているという考えに馴染んで来ました。
墓の中でか、霊の世界でか、はたまた天国でか、その同じ人が生き続けているという理解です。
当然、復活と言うことがあるとすれば、それはその人の生涯の “続き” ないし “第二幕” であって、“七人ともその女を妻にした”(ルカ v.33)という過去を背負っているわけです。 それが “肉の復活” です。
「この世」(ルカ v.34)と 「次の世(来るべき世)」(ルカ v.35)との間には全き断絶があるのです。
それは “続き” でも “第二幕” でもありません。
「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」(21:27)というような表現も、この断絶の象徴以外の何ものでもありません。
“天上の体と地上の体”、“自然の命の体と霊の体”、“土からできた人と天に属する人” という使徒パウロの対比(Iコリ 15:35-49)の意味を理解する人だけが、“からだの復活” という用語の神学的主張を受け入れることが出来るようになるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>405 >>383 >>368 >>360-361 >>357 >>354-355 >>347-348
老クリスチャン 降臨 /: : //: : / : : /: :/: : : ノ: : |: : !ヽ: : ヽ ヽ ヽ
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582 :老クリスチャン:2017/11/09(木) 11:28:00.61 ID:6TYo+oBk
【福音の学び G】
洗礼は、罪の赦しの第一の主要な秘跡です。
洗礼は私たちを、「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたイエス」(ロマ 4:25)に結合させ、「わたしたちも新しい命に生きる」(ロマ 6:4)ようにするからです。
洗礼は、信仰の秘跡です。
しかし信仰は、信者共同体を必要とします。
一人ひとりの信者が信仰を持つことが出来るのは、教会の信仰があってのことです。
「カトリック儀式書/成人のキリスト教入信式」 では、その第一段階の入門式で、司式者は 「あなたは教会に何を求めますか」 と尋ね、求道者は 「信仰を求めます」 と答えることになっています。
そしてさらに、「信仰によって何が与えられますか」 「永遠のいのちが与えられます」 という問答が続きます。
(カトリック教会のカテキズム 977,1253,168 参照)
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/582
583 :老クリスチャン:2017/11/09(木) 11:29:21.03 ID:6TYo+oBk
【福音の学び G への解説】
一部のプロテスタントの教派の中に、人は信仰によって救われるのであって、洗礼は救いの前提ではないという主張をする人々がいます。
その根拠は、彼らの(いわば自己流の)聖書解釈にあります。
「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を知らせるためであり ・ ・ 」(Iコリ 1:17)
はっきり言って、これは屁理屈に過ぎませんが、専門的な知識のない信者が議論しても迷路に迷い込むだけですから、避けたほうがよいでしょう。
「キリスト教入信の秘跡である洗礼、堅信、聖体の三つの秘跡が、キリスト者の生活全体の土台となります。」(カテキズム 1212)
カトリック(あるいは正統的な)教会は、一貫してそのように教えてきました。
この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は(歴史の)教会にはありません。(Iコリ 11:16 参照)
キリスト教
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' ー── ' 2011年(主日A/B年) 11月6日 年間第32主日
知 6:12〜16 Iテサ 4:13〜18 マタ 25:1〜13
「真夜中に “花婿だ。 迎えに出なさい” と叫ぶ声がした。」(マタ v.6)
新約聖書で “到来” を意味するパルーシア(παρουσία)という言葉は、キリストが見える姿で世の終わりに来られる日を指して用いられています(Iテサ 2:19,3:13,4:15,5:23 参照)。
それは “イエス・キリストが現れるとき”(啓示=αποκάλυψις)のことで、その日には最終的にすべてが明らかになるでしょう(ロマ 2:16、Iコリ 13:12 参照)。
イエスはこの花婿の到来の譬え話で、御自分の再臨の日のことを教えておられます。
その日が来るまでは、十人のおとめたちは皆 “ともにミサをささげる信者たち” でありました。
教会で行われる行事にも参加して一緒に食事し、一緒に神父様の教えを受けたのです(ルカ 13:26)。
しかし、だれでも人は疲れれば “皆眠気がさして眠り込む”(マタ v.5)のです。
「目を覚ましていなさい」(マタ 24:42)とは信仰の事柄であって、肉体のことではありません。
極度の不眠の行を守り、極端な断食を重ねることで、天国への道を開く功績を獲得出来るというような修道院的修徳を、この譬え話から導き出すのは間違っています。
「そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。」(マタ v.7) (つづき)
そのとき、愚かな五人のおとめたちに明らかになったことは、彼女たちのともし火が消えそうになっているということでした。
まさか、キリストが世の終わりに来られるというパルーシア(παρουσία)を、彼女たちは全く予想していなかったのです。
それまではずっと、だれもかれもが皆同じように、善良なカトリック信者だったことを思うと、これはあまりにも悲惨な 「泣きわめいて歯ぎしりする」(ルカ 13:28)結末であるに違いありません。
しかし神は何も弁解なさらないのです。
「はっきり言っておく。 わたしはお前たちを知らない。」
私たちは今年も、教会が終末の日に心を向ける典礼暦の最後の三主日に至りました。
教会が公に言い表している信仰をしっかり保つ(ヘブ 4:14)ことの大切さを思い起こすことは、この期節の恵みです。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって(終わりの日の)神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ロマ 5:8-9)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より あたかも自分が敬虔なクリスチャンであると思い上がっている老クリさん
が現れていますね。
老クリさんが、人と喧嘩をしないのは、平和な心や相手を赦す心があっての
ことではなく、自分を「敬虔なクリスチャン」であったり「義人」を演じるため
に喧嘩をしないだけでしょ?ズレてるんだよなあ。
隠しているその手を見せてみろよ。
https://www.youtube.com/watch?v=OoXc0ZBXEx8 猜疑心が多いのが女性の宗教関係者だろうね。
神を信じるかは 主人を愛すことに他ならないから、まあ、義にたける男子も、
敬虔なクリスチャンもいいんだけど、たとえば中年
クリスチャンは 喧嘩をしないわけじゃなく、
戦争に忙しく、復讐心にたけていて、ズレてはいない。
老人は多かれ少なからずれるものだよ。世間からはな。尊敬されて。 >>412-413 >>405 >>383 >>368 >>360-361 >>357 >>354-355
老クリスチャン 降臨
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' ー── ' 2011年(主日A/B年) 11月6日 年間第32主日
知 6:12〜16 Iテサ 4:13〜18 マタ 25:1〜13
「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。」(Iテサ v.16)
キリストが世の終わりに来られるパルーシア(παρουσία)は、キリストの栄光が見える形で現れる日です(マタ 16:21,24:30)。
イエスも原始教会の使徒たちも、このことを語るときにはいつも、伝統的なユダヤ教の黙示文学的表現を用いました。
「わたしたちは ・・・・・ 救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いに与らせるように定められたのです。」(Iテサ 5:8-9)
しかし私たちは、福音によって語られたこのキリストの栄光を、今は土の器に納めているようにして持っています。
それはただ信仰によってだけ、主の方に向き直ることによってだけ悟ることが出来るものです(IIコリ 3:14-16,4:3-4,6-7)。
この期節に教会は悔い改めて、使徒パウロとともに宣言します。
「主イエスを復活させた神が、イエスとともにわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(IIコリ 4:14)と。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>419 >>412-413 >>405 >>383 >>368 >>360-361 >>357
老クリスチャン 降臨
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∧_,,∧ 老栗 チャッチャッチャッ♪
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| 老 ⊂ ⊃ 老 | 老栗 チャッチャッチャッ♪
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『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 【信仰の話 -1-】
キリスト教のお話しをします。
キリスト教を伝えようとしたり、あるいはキリスト教を学ぼうとするとき、私はそれを次のように言い換えてみたいと思います。
私たちが伝えなければならない、あるいは学ばなければならないのは 「キリストの福音」 である、と。
この 「キリストの福音」 とは、根本的には、個人の神学や哲学である以前に、先ず 「教会の宣教」 の内容であって、教会はその誕生の時から今日に至るまで、「福音の宣教」 をその使命として歩んで来ました。
それは、聖書を通して私たちに届けられた 「神からの知らせ」、「イエス・キリストによる救いの知らせ」 であります。
「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(IIコリ 5:19)
「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロ 1:19-20) 【信仰の話 -2-】
ここで 「和解」、「平和」 の主体は神であって、その対象とされているのが 「世」、「人々」、「万物」 であることに注目しましょう。
キリストの福音とは、「神」 と 「世、人々、そして万物」 の間の 「和解、平和」 の知らせなのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)
以上から明らかなように、「キリストの福音」 は救済史(神による救いの歴史)の目標であり完成であって、それは終末の神の国到来によって完結するのです。
「わたしたちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主としてこられるのを、わたしたちは待っています。」(フィリ 3:20)
「死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。 アーメン。」(信条) 【信仰の話 -3-】
「キリストの福音」 は、その本来の性格から、この世の一つの真理や道徳、社会規範や世界政治の目標とは、区別されなければなりません。
教会は昔も今も、多くの善き業や奉仕をこの世に対して行って来ました。
また教会は、この世の平和のために、あるいはこの世の改善と進歩のためにも、多くの貢献を果たして来ました。
しかしそれらは、教会の第一の使命である 「福音の宣教」 に付随する行為であって、決してそれらがそのまま 「福音」 ではないのです。
「あなたの神である主を愛しなさい」 が第一であって、それを抜きにして 「隣人を自分のように愛しなさい」 が福音なのではありません。
あくまでも、それは第二の掟なのです(マコ 12:29-31)。 【信仰の話 -4-】
この 「福音の宣教」 は、本質的に、神から 「教会にゆだねられた」 ものであることを理解する必要があります。
私たち一人一人が福音を信じ、福音に生きるのは、教会という交わりに於いてであることを、使徒信条は 「聖徒の交わりを信じます」 という言葉で宣言して来ました。
初代教会は 「交わり」 という言葉で、彼らのミサ(礼拝)を表現しました。
「わたしたちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(Iヨハ 1:3)
「ミサの祭儀は、・・・・・ 全教会にとっても、地方教会にとっても、また信者一人ひとりにとっても、キリスト者の生活全体の中心である。
・・・・・ そして、他の聖なる行為とキリスト者の生活のすべての行いはミサに結ばれ、ミサから流れ出、ミサに向かって秩序づけられている。」(ミサ総則 1) ____
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人 【信仰の話 -5-】
私たちが(個人として)福音を学んだり、福音を宣教するとき、それは実際には教会の奉仕に参加しているのです。
たとえそれが個人の行為のように見える時にも、それは神から教会にゆだねられた責任に於いて、教会の奉仕の一部としてなされているのです。
もしそうでないなら、これを 「福音の学び、福音の宣教」 と呼ぶことは、用語上矛盾していることになります。
なぜなら 「キリストの福音」 は 「教会にゆだねられた宣教の内容」 であって、教会を離れては意味をなさないからです。
教会から切り離された個人が行う聖書の研究も、また聖書から得た真理や価値観を実行することも、それらは学問や倫理ではあっても、福音の学びや宣教とは根本的に別のものなのです。
私たちは、聖書の証言を通して福音を学ぶのですが、それを 「聖徒の交わり」 の中で行います。
それは、単に現在だけではなくて、過去の全キリスト教会の歩みと思索と認識との関連における 「聖徒の交わり」 です。 【信仰の話 -6-】
私は神学校を卒業してから既に50年になりますから、自分の同窓の友だけでなく、その他にも多くの牧師や信者たちを見て来ました。
熱心にキリスト教関連の勉強をしたり、聖書を研究する人たちにも出会いました。
その中には、健全な信仰者もいれば、はっきり言って怪しげな自称キリスト教知識人も可成り混在していました。
過去の教会の歴史を尊重するという姿勢に欠けた、自己流の独善的な福音理解を、自慢げに語る知識人のことです。
ギリシア語やヘブライ語が読めるというので、さも自分は一人前の聖書学者にでもなったように錯覚している、自称知識人です。
聖書を翻訳によらずに、原典で読んで、自分の現代感覚で解釈してしまうことは、最も愚かな行為です。
聖書神学には、永い釈義の歴史があって、現代の聖書翻訳は、その膨大な知識の富を深く学ぶことによって行われているのです。
ところがそのような素養のない自称知識人が、辞書を頼りに原典を自己流に読んで、いかにも得意げに 「この箇所の日本語は誤訳だ」 などと言ったりしているのです。 ____
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人 【信仰の話 -7-】
私たちがそれぞれの能力や時間の制約の中にあっても、自分なりに 「キリストの福音」 を学ぼうとするなら、いくらでも日本語で良い助けを見出すことが出来ます。
先ず、日本語の聖書を、その翻訳への十分な敬意を払って読むことです。
現行の日本語聖書として主なものは 「新共同訳」 と 「フランシスコ会訳」 の二つですが、そんなに大きな訳文の違いはありません。 ただ後者には、聖書各巻の初めに簡単な解説がついているので、これから新しく購入する人にはオススメです。
聖書の注解書は、もちろん大切なのですが、自分の能力に見合う良書に出会うのは簡単ではありません。
これは、いちばん当たり外れの多い、学習者泣かせの分野だと思います。
第三に、歴史的な(プロテスタントの)信仰問答や信仰告白と呼ばれる多くの書物が、ほとんどすべて日本語になっています。
是非、(一冊だけでなく) 何種類かを読んで、出来るだけ柔軟な思考を養うようにしましょう。
カトリックの場合は、やはり 「カトリック教会のカテキズム」 をお勧めしたいと思います。 【信仰の話 -8-】
聖書の証言である 「キリストの福音」 を宣教するために、歴史の教会は様々な仕方で努力して来ました。
そしてそれらは常に、その時代、教会の置かれた状況に応じての、一つの 「試み」 でありました。
「キリストの福音」 は、それ自身に於いて無限であり、無尽蔵であって、神学のどのような試みによっても完全に説明し尽くすことが出来ないからです。
教会は、そのような過去の先人たちによる、多くの 「試み」 の果実という遺産を持っています。
しかし私たちがそのような果実のどれか一つに、時代を超えて不変不動に固執することはふさわしくありません。
私たちはそれらの遺産を、十分な敬意を抱いて学びつつ、しかも常に新しく現代における 「試み」 に向かいます。
その場合にもその 「試み」 は、旧・新約聖書の厳密な釈義に由来しなければならないことは当然です。
なぜなら、もし聖書の釈義を軽んじるような 「現代の新しい福音解釈」 などというものが語られるなら、それはただの人間的な思弁に過ぎず、教会の 「宣教の奉仕」 にはふさわしくないからです。 ____
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人 >>442-443
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ____
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人 【信仰の話 -9-】
5chの書き込みを見ていると、皆さんそれなりにどこかの書物から得た知識を利用して発言していらっしゃるようです。
不思議なことにこの日本では、非常に多種多様なキリスト教関係の書籍が大量に出版されています。
良いもの、怪しげなもの、さらには無責任な放言に属するようなまで種々雑多です。
私自身は、主に聖書神学関係のものに目を通していますが、ドイツ語や英語が堪能でなくても、日本語への翻訳で十分に重要なものの多くが読めます。
それにしては、どうもそのような神学書を本気で読んでいる人が少ない ・ ・ という気がします。
ここ5chでの書き込みが、ただの聞きかじりや言葉尻への言いがかりのようなものばかりなのが、その証拠です。 【信仰の話 -10-】
日本語の普通の文章を読んで理解できるレベルの人(5chにはその能力に欠ける人が多い)への助言ですが、共観福音書の歴史的批評的研究の流れの中で、重要な区切りとなる三冊の書籍をご紹介しましょう。
聖書に関する議論に口出しをするなら、(素人の一般教養人であっても)当然このレベルの学習はしていなければなりません。
(1) M.ディベリウス 「イエス」(1939) 神田盾夫訳/新教出版社(復刊 1973)
(2) G.ボルンカム 「新約聖書」(1971) 佐竹明訳/新教出版社
(3) G.タイセン 「新約聖書」(2002) 大貫隆訳/教文館
三人とも、ハイデルベルク大学の新約学教授であった様式史研究の中心的神学者です。
もし学ぶ気があるなら、(1)→(2)→(3) の順に読むことをおすすめします。
(これらは全て初学者向けの入門的な書籍であって、決して本格的な専門書ではないことを申し添えておきます。) ____
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人 >>424-427 >>436-437 >>442-443 >>451-452
老クリスチャン 降臨
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> 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!<
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> 「天地の創造主、全能の父である神を信じます。
> 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
> 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
> ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて
> 死に葬られ、陰府(よみ)に下り、 三日目に死者のうちから復活し、
> 天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
> 生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
> 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
> からだの復活、永遠のいのちを信じます。」
>
> 信じられなければキリスト教には入れません。
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. (之ノ | ,!、 2005年(主日A/B年) 11月20日 王であるキリスト
エゼ 34:11〜17 Iコリ 15:20〜28 マタ 25:31〜46
人の子の日について福音書が伝えている一連の教えは、地上のイエスの短い生涯の間の出来事を超えた、終末的未来に関する預言を取り上げています。
主イエスは復活して 「生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた」(使 10:42,17:31)という証言は、まさに使徒たちの宣教の核心部分でありますが、かつて主の復活以前には弟子たちの全く知らなかったことでありました。
使徒たちの宣教したキリスト教は、イエスによる神の贖いついての宗教であつて、イエスの宗教(と推論されるもの)の再現ではなかったと言われるのは、その意味です。
最後の審判の日はノアの洪水のようであって、思いがけない時にやって来る。
それは通常の歴史的出来事のように 「見よ、ここに」 「見よ、あそこだ」 と言ってはならない。
なぜなら、人の子は稲妻が東から西にひらめき渡るように来るから。
このような人の子の日を、キリストが主の主、王の王として(黙 17:14,19:16)栄光の座に着く審判の日として描いているのが、今朝のテキストです。
「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかる」(マタ v.46)という主題は、伝えられたイエスの多くの教えを解釈する鍵となりました。
教会の信条の中で最後の審判は決して付録のようなものではなくて、使徒たちの伝えた福音の本質そのものであります。
ですから代々の教会は典礼暦の最後の主日のミサの朗読配分で、王であるキリストを覚えて来ました。
マタ v.40 と v.45 の 「小さい者」 とは、マタ 10:40-42 から分かるように、福音の宣教のために働く協力者を、また教会を共に造り上げてゆく信者たちのことを、先ず第一に意味していることを指摘しておきましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2008年(主日A年) 11月23日 王であるキリスト
エゼ 34:12〜17 Iコリ 15:20〜28 マタ 25:31〜46
「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(Iコリ v.22)
「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Iコリ v.20)
キリスト教を信心することが、人に生き甲斐を与えるというような、そんな信仰理解がしばしば語られて来ました。
しかしイエスの話や、マリア、聖人たちに関する美しい話の数々が与えてくれる生き甲斐が、現代人には空虚なものにしか思えなくなったので、教会には人が集まらなくなり、日本人の司祭も信者もほとんど高齢者ばかりという現実が結果しました。
近年の教会の衰退は、教会が我が国の政治や倫理に関わる努力に不足していたからではなくて、そうではなくて、教会が自らに約束された終末の希望を軽んじ、真面目に信じなくなったからなのです。
いったいこの “王であるキリストの祭日” の主題が、どれだけ信者の心に響いているでしょうか。
典礼暦の最初に置かれた待降節さえもほとんど無視されて、ただのメリー(楽しい)クリスマスの空騒ぎが “終末の希望” という主題をかき消してしまっているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 >>463 >>466
老クリスチャン 降臨
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/ \\:::::::::::::::. ヽ\/{ .:::::::::::::::::/ / \
i ヽ ヽ::::::::::::::.. }i''^i、{ ::::::::::::::::/ / _/ ./ とある霊媒師の話じゃキリストは現在何とか大丈夫そうだがキリスト教が不動教(実は何万年と
悪いことをやってきた)に洗脳され悪事をやっている。それらをどけ3倍ぐらい自主的に弁償し
てこない限り、上(神仏界)で強制的にに弁償させられ最悪抹消させられるだろう。
もちろんクリスマスの栄えもそれなりに落ちてしまう。初詣はもちろん不動のまつってある
神社にいってはいけない!例え一見幸福になったように見えても不幸が着きもまとう。 2011年(主日A年) 11月20日 王であるキリスト
エゼ 34:11〜17 Iコリ 15:20〜28 マタ 25:31〜46
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人(アダム)によって来たのだから、死者の復活も一人の人(キリスト)によって来るのです。」(Iコリ vv.20-21)
先の “バルメン宣言” は、その第五条で次のように宣言しました。
“教会が、人間的な自主性において、主の御言葉と御業を、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に、奉仕させることが出来るというような誤った教えを、われわれは斥ける。”
バルメン宣言にせよ、第二バチカン公会議にせよ、歴史の証言と教訓を、教会はその信者に教え理解させるような方向には決して進んで来ませんでした。
むしろ教会は、“必ずしもそれが告白する信仰通りには生活しなかった”(ヴィサー・トーフト)というのが今日においても事実なのです。
殆どの信者にとっては、キリストの復活は自分の生活には直接関係のない、ただの “お目出度い話” として、聞き流されています。
そして、ドイツ教会闘争とその後のキリスト教の歴史は、大学の文学部のフォーラムで、キリスト信仰とは何の関係もない一般学生たちの間の討論主題としてしか、取り上げられなくなってしまいました。
しかし、王であるキリストの祭日は、今日わたしたちカトリックの子らのところに来ているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2005年(主日B年) 11月27日 待降節第1主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
私たちが知っている教会の実状は、人々はみな “自分は神の恵みを受けている” とは思っているけれども、だれも “自分はキリストに結ばれて、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされている” とは全然言えないというものです。
しかしコリントの町では、まだ最近信者になったばかりの異邦人キリスト者たちが、「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」(Iコリ v.7)と述べられています。
明らかに、そこには現代のキリスト者である私たちとの決定的な違いがありました。
初代教会の人々が聞いた使徒的宣教が、聖伝と聖書という形でそのまま現代の教会にも伝えられているのに、私たちが知っている教会ではそれが語られることも聞かれることも僅かなのです。
まさに 「目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることがない」(イザ 6:10)というのがありのままの姿です。
物質的、経済的には豊かになったが、キリストの体である教会の 「破滅に心を痛めることがない」(アモ 6:6)という叫びが、読まれざる聖書の中に閉じ込められています。 (つづき)
私たちはこれまで、論ずることには雄弁でありましたが、聞くことには無能であることが多かったと気づくべきです。
教科書は読まずに参考書を頼りにし、学校の授業には本気で取り組まずに学習塾を当てにするように、キリスト教の各種出版物や雑誌から雑多な情報を入手はするが、聖書そのものは殆ど読まないというのが、現代のキリスト者のごく普通の姿となって久しいのです。
この世の論客(Iコリ 1:20)の発言には無批判に耳を傾けるが、使徒たちの伝えた福音には殆ど全く関心がなかったという大きな誤りに、私たちは大いなる決断を以て対処しなければなりません。
その要求こそが、待降節第一主日のミサの朗読配分から私たちが聞かされている使信であります。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2008年(主日B年) 11月30日 待降節第一主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「その日、その時は、だれも知らない。 天使たちも子も知らない。 父だけがご存じである。 気をつけて、目を覚ましていなさい。 その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マコ vv.32-33)
教会は、その典礼暦の一年を “待つ” ということで始めます。
私たちが体験してきた限りのキリスト教では、この “待つ” という主題がミサの説教で語られることはなかったと言って過言ではないでしょう。
説教する人たち(司祭や司教)も、ミサに集う信徒たちも、聖伝と聖書の中にあるこの主題を、あたかも時代錯誤のおとぎ話ででもあるかのように無視して来ました。
「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マコ 13:26-27) (つづき)
教会が “その日” を待っている民の共同体であることを、典礼暦はその最初にアドベント(待降節)を置くことによって宣言し続けて来ました。
有名なハイデルベルク信仰問答の 第52問 は、すべての使徒的教会の信仰を言い表しています。
問 : 生者と死者を裁くために来られる(使徒信条)キリストの再臨は、あなたにどのような慰めを与えますか。−−−
答 : それは、かつて私のために神の裁きに対して御自身を献げ、私からすべての呪詛を取り除き給うたあの裁き主が、天から来たり給うのを、私があらゆる苦難と迫害の中にあっても、首を挙げて待ち望むということです。 ・・・・・
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 聖書に書いてある言葉に従うことが、私たちの
幸せへと繋がっています。
御言葉は神の言葉です。
私たちはその神に創られたものです。 ____
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