野村の嘘話や作り話を上げてくスレ5
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カットボールはわしが開発した。
古田はわしが片岡スコアーに薦めた。
イチローの一年目のオープン戦見て
彼は凄いと思った(イチローは一年目はオープン戦出てない
※前スレ
野村の嘘話や作り話を上げてくスレ4
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/meikyu/1551565611/ 外人は強く出てもうるさく返してくるし、場合によってはすぐ裁判にする、何より上下文化の違いがあるからうまく扱うしかないんだよな
星野が外人を殴らない理由がそれだし
メイなんかいた監督が悪かったとしか思えんわ
スパイスが打席はずすぐらいであんなにブチ切れるわけねーし 前妻との息子にも
野村の遺産(いくら位あるのか知らないけど)の
分け前貰う権利って発生するのかな? 遺産言い出したら阪神と楽天の優勝記事でも渡しておけ 阪神時の外国人はケニーの紹介だろう
あんだけヤクルトの時は枝葉の部分と言っていたはずの1,3塁の外国人獲って 今日、週刊文春で野村の記事があったが
インタビューに答えているのが古葉は別にして広澤、関川、山崎武司と
無能指導者と指導者経験ない人ばっかり ブレイザー
古葉
柴田
島野
高畠
野村ファミリーであり
スパイを各球団に広めた元凶どもか メディアの取材のときだけノムに心酔してるフリして
居酒屋じゃ悪口三昧だろどうせ 野村さんと初めて言葉をかわしたのは、落合氏がロッテでプロとしてスタートを切った1979年6月。南海で野村さんとプレーし、当時ロッテ打撃コーチを務めていた高畠導宏さんに「初めて会う先輩には挨拶しとけよ」と言われて、
西武戦の初打席で野村さんに挨拶をしたという。その時、野村さんは44歳。大スターの野村氏に「何て挨拶をしていいか分からなかった」
落合氏は自身が何を言ったのかは記憶に残っていないが、野村さんからかけられた「お前が落合か。よく話は聞いているぞ。頑張れよ」という言葉は覚えているという。
戦後初の三冠王となった野村さんと三冠王に3度輝いた落合氏。ともに球界を代表する大打者だが「バッティングに関する考え方の接点はまるっきり違う」と落合氏は語る。「真っ直ぐしか待たない」という落合氏。
野村さんから「変化球が来たらどうする?」と問われ、「変化球は真っ直ぐよりボールが遅いので何とか対応できるように工夫して打ちます」
と答えると「お前やっぱりある意味天才だな。俺らみたいな凡人にはわかんない」と言われたという。
日本一を経験し“名将”と呼ばれる2人だが、監督としての考え方も違った。「頭で野球を理解させてから練習をした方が効率がいい」という野村さんの指導論に理解を示しながらも、
「体力がなければいくらいいものを教わっても壊れる。だから俺は練習させる。体で覚えてもらう」と落合氏。「どっちが正しいのかは分からない。でも野村さんも俺の考えも分かるっていうし、
俺も野村さんの考えも分かる。けれども、お互いにそれをするかっていえば、恐らくしないんだろうなと思う」と話した。
一番の思い出は、野村さんが阪神監督、落合氏が評論家時代のことだという。「みんな野村さんのところに行かないんだって、解説者。『お前だけだよ、来てずっと話してくれるのは。
俺嫌われてるのかな』って言うから『そういうわけじゃないんでしょうけど』としか言いようがないじゃん」と振り返った落合氏。
「サブグラウンドで2人で1時間も2時間も…『練習見なくていいんですか?』って聞いたら『見なくたっていい。お前としゃべってる方がいい』と言うから」とじっくり話をした 44歳時にいかにオープン戦とはいえど24歳の江川に対し「俺には打ちごろ。球も速くないし
カーブもしょんべんカーブ」という驚異的動体視力の野村は「天才打者」だよ。
あともう少しでホームランだった。対江川。 楽天で野村遺産だと言えるのは田中小山辺り。
むしろ阪神の方が遺産は多いな。
井川福原赤星矢野桧山藤本。 >>762
田中の場合は野村の指導というより
ファルケンボーグにスピリットを教えてもらったからモンスターに進化した
あの落ちる球を習得てからは別次元の投手になった 監督 野村克也
4番 山崎武司
投手コーチ 杉山賢人
打撃コーチ補佐 関川浩一
内野守備走塁コーチ 西俊児
外野守備走塁コーチ 佐竹学
バッテリーコーチ 山田勝彦、野村克則
2軍監督 松井優典
フロント 楠城徹
これでは絶対優勝できない、2013年の時全員いなかったし >>760
1979年6月1日西武7-3ロッテ
勝 松沼博5勝4敗 負八木沢1勝6敗
本 野村3号(倉持)
野村 7番キャッチャーでスタメン4-1 1打点 本塁打1
落合 7番サードでスタメン 3-1 1四球1盗
ホームラン打ったけど落合に盗塁されてた >>764
関川はあれだけ無能扱いされてまだホークスにいられるのだからよく分からん >>761
その野村が異次元のスピードと称した山口高志ってどんだけ早かったんだろうな >>767
引退直後若しくは現役時代の最晩年に出したノム本に依ると
江川のような高い上背から投げ下ろし且つ球離れが早い投手は球筋が見えやすくて、実測程の早さに感じない(だから打ちやすい)
のに対して
山口のような170cmに満たない身長且つリリースポイントがギリギリ一杯前に突き出している(球離れが遅い)投手は球筋が実に見え難くて、
実測よりも遥かに速く見える上に、球が浮き上がってくる(様に見える)為、高めの糞ボール球でも思わずバットが出てしまう。
と西本監督の指示にも関わらず、高めの糞ボールに3球ともバットがクルクル回った末の三振で監督にぶん殴られた近鉄の羽田選手を引き合い
に出して解説しとったな。
この頃のノムさんの本は実に面白かったな・・・・・・・・。 >>766
ノムシンに言わせれば関川は星野の遺産らしいww
だが佐藤や島野は野村遺産ww >>764
杉山・ 関川・山田とか阪神の暗黒時代臭がプンプンしますなあ。
それだけでも優勝は不可能っぽいね 野村ノートの頃は矢野はすでに完成された捕手だったので一から指導することはなかったとあったのに
今年に入ってのインタビューで
「私のおかげで出れるようになったのに引退会見で星野星野と言っていた。矢野には感謝というものは期待しちゃいかんと教えられた。」と
随分傲慢になったもんだなぁ >>774
でも矢野はやたら褒められてるイメージ
頭のいい男とかリードのセンスとか
自分のミーティングに真面目に参加した選手だからだろう
引退後も、ノムさん!ノムさんさん!としたってるし
懐いてこない嶋は本でボロカスだし >>767
江川の一,二年目は野球浪人で身体がなまって速い球が投げられてないから当然。 >>776
1年目はそうだったかもしれんが、2年目は最多勝に最多奪三振まで取ってるからそれはあてはまらない
その1年目にしても数字だけ見れば新人王取っても可笑しくない位の成績残してるし
要するに野村の発言は良くて話半分位に聞いてた方がいい
結局自分を持ち上げる事しか言わないんだから
1年目にしても冷静に見れば、新人王でも遜色無い成績だし >>386
野村は網野町出身なので、普通科なら網野高校に行くことになる。
機械科に進学したので網野から離れた峰山高校になった。 昔の京都の入試は左翼知事の影響でテストの成績で行く学校が決まるんだったな >>538
サッカーはともかくいつラグビーなんかにそんな流れたんだ? ダラダラした酷い継投や時間伸ばしを繰り返して中継を無駄に伸ばして延長フォロー録画ができない時代にドラマやバラが遅れになったりして非野球ファンから恨まれていく流れに
フジの試合する中継は進行が遅いと言われていたが、フジで一番中継していたのは… >>782
これが後に延長による影響が多いことによる影響が大きいから
延長取りやめやナイター中継を激減させる原因になってしまったからな 亀山野郎はノムシン星野アンチ
こんなのばっかなんだな >>785
松本人志だろ
アンチ野村克也を公言しているし 亡くなって話を盛れなくなってしまったわ
野村を散々批判しまくってた広岡が野村より先に逝った場合、
ノムは広岡について何て言うのかなー ?何となく思っていて
最近の著書では、さすがに批判されていたのがむかついたのか
「広岡さんは森以上にケチ」とか言っていたけど
先に逝って広岡に結構週ベに言いたい放題の文章書かれてしまった >>786
野村時代まではニコニコしてやれたのに星野になってから雰囲気が怖くなっただのほざいていたな
ようするに明るく仲良く元気よくの暗黒気質が好きな負け組。
相撲なら保育園みたいな意識の「式秀部屋」を擁護してるのがこんなんなんだろうな
星野は政治力を悪く言われるがきちんと関取を上まで育てる「八角部屋」みたいなもんだな >>790
楽天時代見ると
星野時代の楽天選手のが生き生きしていた印象だけどな
野村時代は一部の楽天選手だけ優遇されていて、野村が気に入らない選手は大変そうだった
まあ、楽天に関しては野村と星野の両方の時代にいた選手が少なすぎてサンプルが少ないが
田中、小山、青山、嶋、聖澤くらいか
少なくとも後者の3人は星野時代のが生き生きしていた >>790
野村時代は、酷い環境の中で
桧山が自ら手応えを掴みながら
物凄いプレッシャーの中球団記録の28試合連続安打を打つなど生のダイナミズムがあったが
星野時代は、片岡アリアス金本と
子供の勉強を皆大人が手伝ってしまうみたいで
丸で手応えがなくなった そんなのは一選手の都合に過ぎない。
桧山選手自体どちらかといえば
影の薄い四番打者だったし。
この野球殿堂版も
書き込みのレベルが下がったねえ(笑) 岡田彰布が、星野さんは2軍の試合をよく見に来たしこっちが推薦する選手を1軍に上げてくれたけど
野村さんは2軍の試合を見に来たことがないし、推薦した選手をなかなか上げてくれなかったと語っていたな >>795
星野はアマチュアの選手の情報をスカウトから聞いたりするが
野村はそういうアンテナ張ろうとしないしな
星野は監督辞めた後もキャンプやオープン戦に取材や調査を兼ねて足を運ぶが
野村は全く来ない
野村は球団がキャンプやってる時は講演会で荒稼ぎだからな荒稼ぎは別にいいが
取材に来てないのにスポーツニュースでさもキャンプ取材したかのような発言してるからなタチ悪い 宮下(中日)が「星野さんに殴られたことは本当に自慢」と答えてた。
「スーツを作ってもらったが恐れ多くていまだ着たことない」とやってた。
野村に関しては江本も佐藤道も「ヤクルト以降の野村さんは変わった」と言ってた。なんでも南海時代は口下手でミーティングでも言葉がなかなか出てこなかったがヤクルト時代以降「マスコミ慣れ」してテレビカメラの前で饒舌になったと。 浪人時代にサッチーが講演のスケジュールをメチャメチャ入れたおかげだな。
講演はいい訓練になるようで
中西太も口下手で講演嫌いの弟子・若松に
「オファーはできるだけ断るな。指導者になったとき役に立つ」と言って聞かせたそうだが。 >>798
講演会をやりまくって
思い出話と過去の美化や捏造にまみれて
野球の新しい知識を入れる事を辞めたな
野村はツーシームしらないまま死んでいった 野村星野云々以前に、
理不尽な暴力を美化するのは嫌だな >>791
長谷部がいる
楽天の優勝年度に見事にリリーフで復活してる
長谷部は星野が13年の後半戦で一番信用してた中継ぎだろう >>798
若松の優勝監督インタビューの皆さん優勝おめでとうごさいますは球史に残る名言 >>793
おぅ、ファンからするとそういう見方もあるな🤔野村がどうこうは置いといて良いな 2005年の秋だったと思う。楽天の次期監督就任が決まった野村克也さんから、電話がかかってきた。ある選手の特徴を知りたいと言う。「俊足と巧打。監督が好きなタイプだと思います」。聞かれたのだから仕方ない。
素人なりに答えた。次に会ったのは交流戦のとき。僕の顔を見るなり、野村監督はぼやきもせずにこう言った。
「なんで中日はあんな選手をくれたんや…」。その選手が楽天の鉄平打撃コーチだった。監督と同じ06年に移籍。すぐに試合で使っていた。
「今の僕があるのは、見いだしてくれたからです。(移籍)1年目に僕は9打席連続三振したんです。20打席以上ノーヒットもあった。
でも、変わらず使ってもらえたから3割打てました。選手って、使ってもらえなければ何もできない。すごく我慢してくださったと思います」
野村語録の第1条は「固定観念は悪。先入観は罪」だ。数々の再生工場の傑作は、この考えから生まれている。鉄平の場合は再生ではないが開発。当時の中日は外野の層が厚かった。「うちでは無理だ」。
育ってから使うのが中日で、使いながら育てるのが楽天だった。金銭で譲り受けた鉄平は、野村監督には少し磨くだけで光る宝石にしか見えなかった。
「すべてのプレーには相手がいる。そこには意図や狙いが必ずある。だから自分も打つ、守る、走る、捕るに必ず意図をもって取り組め」 >野村語録の第1条は「固定観念は悪。先入観は罪」だ。
嘘つけw 茶髪が駄目とかB型が使えるとか完全に固定観念・先入観、一言で言えば偏見なんだよね >>805
「俺は悪人で罪人だ」と自白してるんだよ ヤクルトの監督に就任する前の年講演を聴いた
面白かったなぁ 監督やればいいのにと思っていたから
就任した時喜んだなぁ
ミーティングたってあんなに面白い話が毎日聴けるなんて選手が
羨ましいと思ったよ >>804
選手にとっていい監督とは使ってくれる監督だからね
二言目には「V9時代の巨人は...」を連呼して選手から嫌われていたと言われている土井正三監督も
高橋智や野田浩司は「調子が悪くても我慢して使ってくれた」と恩人のように言ってるから。 土井が育てた選手
高橋智→我慢して起用した
野村→中継ぎに抜擢
高田→巨人で干されてた選手をたくみに起用
勝呂→巨人で干されてた選手をたくみに起用した
長谷川→初戦から負け続けも我慢して起用した
伊藤敦→先発に固定した
野田→阪神で半ば便利屋扱いだったのをエースとして扱う そしてイチローに対する見方は土井よりもノムがひどかったが政治力で批判は小さい
それにしてもこいつの政治力の源泉はなんなんだ?
南海時代のタニマチはみんな逃げていてヤクルト阪神でも作れなかったし、星野のコロナ加藤のパパや巨人の中曽根自民ラインや浩二あたりの広島政財界みたいなのがあったわけでもないのに ノムさんよりも沙知代夫人が凄かったのだろう。
確かヤクルトや楽天の監督に就任する時に
沙知代夫人の名前が取り沙汰されていた。 デヴィ夫人や野村沙知代の異常な政治力
こいつらの若い頃に一体何があったんだ 二人ともあまり裕福とはいえない家庭の出身で
上昇志向が強かったものと思われ…
デヴィ夫人はかつてバラエティ番組に出た時に
「他の勉強はしなくてもフランス語の勉強だけは
していた」「社交界が舞台の小説をたくさん読んで
イメージトレーニングをしていた」と話していた。 商社に売られたのと政商に買われたのと
まあ男から盗んだんだろ 私がヤクルト監督に就任した89年秋、ドラフト会議前の片岡宏雄スカウト部長との会話だ。
「いい捕手がいますが、メガネをかけています。視力の面でナイトゲームは不利かも
しれません」
「キャッチャーマスクをかぶるときにメガネは邪魔だしな。だが、今はコンタクトレンズも
普及した」
「打撃は非力です」
「捕手と遊撃手は守備が一番。打撃は二の次でいいから目をつぶろう」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200313-00010001-php_s-bus_all&p=1 >>814
デヴィ夫人は銀座だか赤坂だかのクラブホステスやってたような。
サッチーはパンパンで最初の旦那様と結婚後も男を物色していたらしい。
小佐野賢治も取り込んだなんて言われてる ホステスとか風俗嬢って全ての行動原理が金だからね
世間知らずのお嬢さんみたいに男をルックスで選ぶような真似は絶対しない
その男はどれだけ金を引き出せるATMかとしかみてない
そこらへんの価値観は徹底してるわ しかもチャンネルがよかったかと
パパがこけると一蓮托生になる場合もある
派遣の親玉の愛人やってたアッキーナは親玉がリーマンショックで派遣に対する風当たりが左翼以外からも厳しくなり、政権交代したあたりから旗色が悪くなり急にテレビに出なくなったよな サッチーがノムさんと出会ったのは兼任監督時代とされるが、監督手当込みで1億以上の収入があった(ノムさん自身も晩年明らかにした)のに、
「え?!野球やっているだけで1億以上稼いでいるの?!(゚д゚)」と驚いて、こんな金づる手放すもんかとばかりに付き合い始めたなんて言われとるしなw
他にもバブル期に寵児と言われた麻布建物社長の渡辺喜一郎氏と交流があった(渡辺本人が述懐している。ちなみにヤクルト監督就任時にヤクルト球団
相馬社長との橋渡し役も渡辺氏が行なったとの事。)りと、カネの匂いに目敏いというかw ノム自身はケチくさいだけで金儲けは上手くないんだよな 詳しい内容は忘れたけどトレーニングウェア姿のノムさんが
クシャクシャの千円札三枚を持って来て「お年玉にしてくれ」と言って
立ち去るということがあったらしい。前夫人と普通に言葉を交わしたのは
その時が最後だったとか。多分不器用な形で取材費をせしめたとかしたのだろうが。 >>825
息子へのお年玉、か。
1970年代前半頃の三千円というのはかなりの大金。
そんなに簡単にせしめることが出来たかどうか。
くしゃくしゃだったというのが少し気になるが
まあいいか。大昔の話だし。 >>42
>>674
ここにも石井政治をもちあげてる人間がときたまいるがそいつは危機感に欠きすぎ
何で石井に粛清された人間が即座に今のとこ最強なソフバンとかに呼ばれているのか、コーチ不足なチームにすぐ呼ばれるのかを理解してない
そんな需要あるやつらを切り、ノムにしか相手にされないノムシンばかりを集めてあとでどんなツケが回るか怖いんだが
ドラフトや補強も酷すぎるし >>822
流れが来なくなったところできっちり切り替えて幸せになってるところは見事だけどな
旦那繋がりで小倉優子と比べるとその賢さがよくわかる >>828
これでダメなら中畑落合あたりでも呼ぶんじゃないか三木谷
つーかそいつらのが今のやつらよりマシだろ その筆頭が、落合博満氏(66)だった。「俺なんかラッキーで三冠王1回だけど、あいつは3回。考えられない。とんでもないやつだ」と絶賛していた。
そして、「監督・落合」も認めていた。たとえば森野将彦の件である。
「本人には悪いけど、俺は森野のよさがわからなかった。だが、使いつづけたことで、主力に成長した。井端(弘和)と荒木(雅博)のポジションを入れ替えたり、落合は『凡人にはない発想力』を持っている」
楽天の監督時代、交流戦で名古屋に行くと、落合監督のマネージャーが試合前に決まって、「うちの監督が、監督室で待ってます」と呼びに来た。
「いつも呼ばれるから、『ほかの監督のことも呼んでるの?』とマネージャーに聞くと、『野村監督だけです』と言うんだ。それを落合に聞くと、『ほかの人とは
、野球の話はできないでしょ。野球でまともな話をできるのは、ノムさんだけだもん』と」
監督にとって、落合氏との監督室での野球談議は、至福のときだったに違いない。 大谷翔平(25)への評価は、大きく変わっていった。デビュー当初は「二刀流? プロ野球を舐めるな!」と反対していたものだが……。
「あの活躍を見ていると、考え方を変えざるを得ない。160km以上の剛速球を、苦もなく投げられる。これは天賦の才能。腕が長いと、
打者として内角を捌くことが難しいが、これもうまく腕をたたんで捌く。ワクワクするよ。二刀流? もちろん賛成だね」
3年めのオフには、雑誌の企画で対談も実現した。
「(本を読んでメモを取っていると聞いて)我々の時代には、こんな選手はいなかった。知識欲は大事。野球人としてだけでなく、人間としても。彼には感性が備わっている」
別れ際に「孫が喜ぶから」と、サインボールを受け取った笑顔が忘れられない。 愛弟子たちは、やはり気になる存在だった。田中将大(31)も、そのうちのひとり。
「新人投手は、まず速球の質を見るんだけど、マー君の場合はスライダーに目を奪われた。投手陣が手薄だったし、『直接見ながら育成できる』と思ったから一軍に置いた。
初登板から3試合KOされたけど、負けがつかない。それで『マー君、神の子、不思議な子』と名づけた。
マウンド上の態度より、『打たれた後に悔しがっているか』『いい投球をしたあとに、有頂天になっていないか』が判断基準だった。
その点でも合格だった。メジャーに行って、年俸は20億円を超えるんだろ。もう、マー君なんて呼べないよ(笑)」
自宅のリビングには、田中選手のヤンキースのサイン入りユニホームが飾ってあった。 >>828
ノムシンコーチは本当にどっからも相手にされてないよな
矢野もABC枠だから誰がやってもだめだろ >>832
ふつうだったら手のひら返しと叩かれてるんだろうけどな >>828
佐藤義則、鈴木康友、高村祐、平石洋介、森山良二
高村は近鉄時代の先輩石渡茂が当時フロントいたから
2008年最下位の時解任された大石友好、杉本正は当然呼ばれない
金森栄治も楽天切られても他球団から話はあるとこの人、石井と野村とか
関係なく実績残している人だから また杉本大石きちがい
こいつたかがコーチに恨みすごすぎだろ
どうせ西武コンプレックスがソフトバンク最下位で爆発したんだろうが https://www.msn.com/ja-jp/sports/npb/自分には自分の知らない自分がある──野村克也流「結果」の出しかた/ar-BB12hQ3y?ocid=spartanntp 92年のオープン戦でのこと。
ある試合で捕邪飛を捕ろうとしたが、壁にぶつかるのを避けながら捕球を試みたため落球。
それに激怒した野村監督が呼び出し、「去年までのお前なら壁に激突しても捕っていた。あの頃のお前はもういないのか!」とまくし立てられたという。
古田は「来週から開幕だからケガしちゃいけない、とこっちにも言い分があった」といい、その不満げな表情に気がついた野村監督から
「お前はキャッチャーくびだ!明日から(キャッチャー)ミット持ってくんな!」と通告され、翌日から外野練習に参加するはめになった。
そして「開幕の3日ほど前にコーチが来て、古田謝ってくれ」と諭されたので、監督室に謝罪に行くと、同監督から「そこに座れ」と一言。
おもむろにソファーに座ると「そこじゃない。ここだ!」と床を指さされた。
「それから正座して2時間、説教されました。謙虚さがなくなったやつにチームは任されへん、と」。
古田も見返したい一心で練習に取り組み、その年ヤクルトの14年ぶりにリーグ優勝に貢献し、「手綱を締められましたね」と懐かしそうに振り返った 野村監督がヤクルトの指揮を執るようになったのは、僕がプロ入り4年目の1990年から。この年に僕はいきなり捕手から二塁手にコンバートされました。これは野村監督も著書で書いていますが、春季キャンプで僕のキャッチャーミットを取り上げたという話があります。
本の中には、ミットをいくらで下取りに出したとか書かれていますが……。もはや伝説のように語られている話ですけど、実はこれ、本当のことではありません。キャンプ中は捕手としてのメニューをこなしていましたし、下取りと言われてもお金ももらってませんから。
おそらく、監督なりのジョークでしょう。話を大げさにすることも、たまにありましたからね。
ただ、キャンプ中に僕の走力を評価してくれたのか、「なんでおまえキャッチャーやってんだ」と言われたことはあります。「キャッチャーやってたら、足遅くなるぞ」とも言われました。
■「何で飯田を?」
90年、僕は代走兼第3捕手というような形で、開幕一軍。代走としての出番が多かったですね。二塁を守るきっかけになったのは、4月21日の広島戦です。
二塁のレギュラー、笘篠賢治さんがバッティングで調子を崩していたので、僕が代打で出場。ホームランを打ちました。
すると、野村監督はイニング交代の時、「そのままセカンドに入れ」です。アマチュア時代に三塁や遊撃の経験はありますが、二塁はやったことがない。それでも「僕でいいんですか?」なんて聞けません。
野村監督には威厳というか、何か迫力のあるオーラのようなものがあり、「はい」と返事をするしかない。
その日のことはあまり記憶にありませんが、二塁手として打球を処理し、アウトにしたような覚えはあります。
その翌日から、シーズン最後までずっと二塁手。コンバートというよりも、何でかわからないけどやらされた、という感じですね。それでも見よう見まね、先輩に聞く、他球団の二塁手の動きを真似する……など工夫して何とか乗り切った
。捕手をやっていたので、多少は内野の動きがわかっていたのもあると思います。
ただ、最後まで野村監督の意図を聞けずじまいだったのが、後悔と言えば後悔です。当時は二塁の控えの選手もベンチにいましたから。僕も含めて、監督以外は「なんで飯田を?」と不思議に思ったはず。
翌91年には中堅に再コンバートされますが、最初の二塁がなければ、僕の野球人生はどうなっていたのか……。 ボロボロ落とす癖は最後まで改まらなかった筈。
江本孟紀あたりは露骨に不満そうな態度を取っていたから
他チームへ出された。 侍ジャイアンツの野村はほんとリアル野村っぽくていいな
週刊誌にガセネタ流して攻撃させたりとか 侍ジャイアンツ見た後あぶさん読んで
読売テレビはひどい捏造するなあと思ったが
さらにその後の野村を見て読売が正しいことがわかった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています