1984年のプロ野球
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日本シリーズのブーマーが喫した、満塁で大野から落ちる球振らされて三振…
いまだに思い出すと悔しい >>568
あのシリーズ、途中からはもう完全に広島の投手陣にブーマーは見降ろされている感じだった。
簑田や松永は対応できていただけに、打線がど真ん中でぶった切れてしまっていたけれど
上田監督は打順を頑なに変えなかったな。 打撃三冠+最高出塁率の四冠王ブーマーはさすがに外せないわな もし巨人が日本一になってオリオールズと対戦したら、TOYOTAカップ並に盛り上りその後も継続されたか? 「失意」
現役生活22年の後に3年間の助監督という“助走”を経て、王貞治が巨人軍第11代監督に就任したのは84年シーズンの事だった。
球団は創立50周年、満を持して就いた王に与えられた使命は、読売新聞主催で行われる前年ワールドシリーズの王者ボルティモア・オリオールズと
の“日米決戦”に出るため日本一を奪回する事だった。オープン戦は11勝4敗の2位、前年打点王の原辰徳を軸とする打線も固まり、下位に新外国人
ウォーレン・クロマティと中畑清を置くラインナップは強力といえた。投手でも元々の布陣に加え「斎藤(雅樹)という新しい投手も出てきて使えるメドが
立った」と話すなど王には自信が漲っていた。
しかし、その自信が崩れていくのは実に早かった。開幕戦で江川卓が阪神相手に4回6失点KO、終盤で4点差を追い付きドローに持ち込むのが
精一杯だった。2戦目はリチャード・オルセンに対し7回までわずか2安打で好投の西本聖を見殺し、3戦目には抑えの角三男が掛布雅之に逆転の
3ランを浴びて連敗発進して出鼻を挫かれた。巨人はこの後も一つ勝って2分けを挟みまたも中日、阪神、ヤクルトと4連敗したため開幕から10戦で
1勝しか出来なかった。3日後からもう一度4連敗した巨人はこの時点で3勝10敗3分けで最下位、12連勝の首位広島と早くも9.5ゲーム差が開いて
しまった。王は「開幕10試合で選手、チームに動揺が広がってしまった」とスタートを悔やんだ。
前半戦は苦しみ、5月の大洋戦で四番・原に送りバントをさせて引き分けに持ち込む試合もあった。首位中日と9.5差の貯金1で球宴ターン、後半戦は
中畑を四番、原を六番に下げて臨み10連勝するなど30勝18敗の追い上げはあったが、途中14連敗のあった中日だけならず、4位阪神にも5年ぶり
のカード負け越しを喫した王巨人失意の初年度は、297万4000人の観客動員新記録とは裏腹で一度も優勝争いに絡めず3位に終わった。
打高投低が目立ち機動力と投手力で広島に、長打力で中日に劣った巨人は何より緻密さに欠け犠打数ではリーグ唯一2ケタで最下位だった。
王期待の斎藤は8月以降に4勝を挙げて頭角を現したが槙原寛己、定岡正二、角の不振が響いた。打者で篠塚利夫が初の首位打者を獲得し、
中畑が初の30発といった個人成績の良さも王の大雑把な野球のイメージに拍車をかけた。
一軍のコーチ陣が全員監督より年下な事で、進言や意見する参謀役が不在だったのも一因だった。王は「50周年だっただけに、普段の年ならある
程度の所で育成も考えたが、節目の今年だけはどうしても優勝したかった」とシーズン後に話していた。
秋の日米野球で世界一決戦は実現しなかったものの巨人はオリオールズと5試合を戦ったが、オリオールズも84年はア・リーグ東地区で5位だった。
そのオリオールズに巨人は1勝4敗、日本一球団とワールドシリーズチャンピオンが激突するシステムはこの年限りで終わった。 (了) >>568-569
翌年以降のブーマーだったら内角攻めにはコンパクトに軽打狙いで
対応できてただろうね。
このシリーズだけなぜか一発狙いが見え見えだった 4勝3敗だからブーマー1日代打に回して代わりに出たのが当たってたらひっくり返った可能性もあるわけだ >>568
ベース付近でワンバンした球を空振り三振だったね。
その前に、ノーストライクツーボールから2球続けてそんなに厳しいコースでもないストレートをファールしたのが痛かった。
あの2球のストレートで追い込まれる前に仕留めなければいけなかった。 >>559
水谷は84年の日本シリーズでは代打出場しているよ。 阪急の敗因は公式戦から日本シリーズまで丸2週間空いてしまったこと。
ブーマーから試合勘が失われた結果がシリーズ不調と言う結果になってしまった。
一方の広島は山根が公式戦から中5日の登板という公式戦中と同じ登板間隔でシリーズに入れて
広島にとっては絶好のコンディションでシリーズを迎えることが出来たのだ。 もし8月ころまで巨人が油症争いしてたら、「日米決戦」に冠スポンサー付いて賞金マッチに?
でほんとに日本一になったら、巨人とオリオールズとの試合は7試合の賞金マッチに変更。
読売グループで総力あげて盛り上げて、むりやりトヨタカップ並みのシリーズに。
まかり間違って勝ったら国民栄誉賞? この年のシリーズ見返したら山田1人で3敗もしてるのな…これワースト記録?
山田はシリーズ通算でも7敗もしてるのか >>582
関東ローカルイベントに過ぎない箱根駅伝をビッグイベントに仕立て上げた喧伝力を持ってすればなんて事無いだろ(w
まして当時はまだネットも無く、マスコミの影響力も今とは段違いだし。 >>584
MLB側にメリットのない大会なんてやるわけない 日米決戦といっても前年のチャンピオンチームとやるんだから無理がある
ただの余興の域を出ない 81年の記事を読むと読売新聞創業110周年&巨人軍創立50周年のダブル記念行事として、
84年のワールドチャンピオンを招いての日米ワールド7試合に加え、
対全日本戦など各地を転戦する親善試合を予定していたようだ。
しかし翌82年に開催が決定した際にはワールドチャンピオンを招くには時間と余裕もなく
日程上の関係も考慮し83年度のチャンピオンを招待することに変更。
この時点で日米決戦の意義は失われていたはず。
しかしメディア(特に読売関連)は「1984日米チャンピオン対決」と誇大報道。
NHKですらオールスター、日本シリーズと同等に深夜枠で解説者付きでハイライト番組を編成。
しかも平日開催だった西武球場の第3戦は生中継までする力の入れよう。
前にも書き込んだけど、本気で「日米ワールドシリーズ」と勘違いしていた輩も多く、
学校じゃクラスメートも「広島世界一になるかな」と話題持ちきり。
何人かの先生も試合経過が凄く気になっていたらしく、
職員室のテレビを付けては食い入るように見ていたけど、
子供心に「それ違うんだけど…」と口に出したくても出せなかった35年前の今頃。 トヨタカップにしたいんなら中立国でやらんと駄目だろ >>578
その前のイニング7回表に山田がノーアウト満塁のピンチを1番高橋2番山崎3番衣笠を抑えて切り抜けて、
その裏の先頭打者の山田が2塁打で出てからのワンアウト満塁の場面でのブーマー三振は痛かった。
あの山田のノーアウト満塁のピンチを切り抜けた投球はほとんど話題に出ないね。
注目度が低い対戦カードだからなのかな。 日米対決だ!なんて盛り上がってるのは日本のごく一部だけで、大半は冷めた目で
見ていた。巨人の選手自身だって「なんで去年のチャンピオンとやるのが日米決戦?」っていう
感じだし。
まして米国側は「しようがないなあ、付き合ってやるか、ギャラ入るし」くらいのスタンスだろう 山田は結局3つ負けた記録が残った印象だからな
無死満塁切り抜けとか記憶から消えてた 第5戦まで
日本一(広島)とオリオールズ(83チャンピオン)
第6戦以降
いつもの日米野球
巨人ほか
なお広島とオリオールズの試合に表彰、賞金無し 山田は7月に膝を故障して2か月近く1軍登録抹消されていた。
いわば日本シリーズは病み上がりであり、ベテラン36歳が良く日本シリーズで3試合先発して力投出来たと思う。 本当に世界一決定戦にするなら、その年のチャンピオン同士を戦わせて、
日本シリーズ、Wシリーズみたくどちらかが4勝した時点で勝ち抜け、終了にしないと。
そのあともダラダラ試合やるんじゃ、締まらない。 締まる締まらないの話じゃなくてタダの一新聞社の営業企画だからね
遠征費用は全試合分キチンとチケットを売って配ってまかなう 2005年に始まったアジアシリーズはその年の各国のチャンピオンチームが集まって
ちゃんとしたレギュレーションでやってたけど、
結局縮小していつの間にか終わってたな いつしか、それに出場することが罰ゲーム
みたいな風潮になっていたからね >>598
そのくせアメリカには出てほしいとかおかしいだろ うむ、日米シリーズなんかやっても、メジャーのチームは
「何でそんな罰ゲームに出ないと行けないの?」だ罠。
>>597
アジアシリーズや日韓シリーズが現在も続いていたとしても、
今年は韓国チームがボイコットして中止になってただろうな。 山本浩二2000本安打
東尾200勝
福本1000盗塁 読売グループが社運をかけて企画した日米決戦が広島って微妙だな
しかし、もしこれが宿敵の西武とか阪神だったら、読売側はたまらなかったろうな 一番たまらないのは中日大洋ヤクルト阪急だよ
この4球団は読売に思うように動かないし、放映利権が無いし 興行権とか放映権は出場球団に渡されてないよ
あくまで読売主催のフォーマットにただ出場するってだけで だから5試合決戦の球場も後楽園、後楽園、西武、横浜、大阪で広島ではやらなかった
その後のどさ回りで広島巨人連合軍との対戦で広島開催があった 大リーグの単独球団での来日は
この時のオ軍が最後になりましたね。
20試合近くの日程ですから長い滞在でした。 広島どころか中日だったら、読売にとっては屈辱このうえなかったな
もっとも中日は日本シリーズに弱くて勝ち上がれない公算が高いけど 新橋のそごうで巨人50周年セールを派手にやってた。
沢村投手の映像とかメガホンたくさん並べたり、江川と原を呼んだりやってた。 巨人あんな人気あったのにみんな2000万くらいしかもらってなかった この年のオフだったな。
西本が江川を年俸で上回ったのは。王が口を添えたらしいが。
確か4000万くらい? 50周年の年は後楽園のチケットに江川と原の写真が印刷されて綺麗だったが
次の年は下手なイラストだった。 >>612
中日×阪急になられたらもうフジテレビがやれと言われそう >>616
西本と中畑の顔写真もあったような気が。 >>617
日本シリーズなら放映権というか推薦権がホームチームに与えられるよ
だからこの年は西宮分は関テレ×3
広島分がRCC×2、広島ホームテレビ×1、広島テレビ×1
中日がもし出てたらふだんから中京テレビに中継させてないから、
82、88通りにCBCと東海テレビが分け合う感じだったろう 広島と中日の優勝争いは結局この両チームの直接対決15勝8敗が大きかった。 この年tssはKTV制作の西宮3試合を理由に外されたか?
80年のHOMEはABC制作3試合プラスの4試合獲得だったが。
tssは最後発の局ということで割りを食ったかな。 広島と巨人の対戦成績は12勝12敗だったよ。
ちなみに中日は巨人戦は17勝8敗だった。
しかしオールスター以降は中日は巨人戦に負け越した。 >>615
江川4800万、西本5000万
王が、査定役の戸田一軍総務と岩本一軍担当に、西本を江川より上にしてやってくれと言ったって話だね。
江川はかなり腹立った(年俸ナンバーワンにプライド持ってた)らしい
58年の契約更改の途中、一時的に原が江川を上回った時にそのことを原が冗談で江川に言ったら、「生意気言うな!」とマジギレで怒鳴られた ロッテは村田兆治が1年早く復帰してたら阪急の優勝を阻止で来ていたかな?
無理だったとしても阪急との決着をPOまでには持ち込んでいたか? >>625
この年のロッテは何故か南海に大きく負け越していた。
別に相手が南海だから谷間の投手を投げさせていたわけではなく
深沢、仁科、石川とこの年の3本柱も打たれていた。
せめて五分五分だったら阪急に肉薄できたのだが。 >>626
85年までは5ゲーム差以内ならプレーオフだったよ
結局それ以上に大差がついたため実施されなかった >>625
この年の終盤にはもう村田は復帰登板してるんだよね。
でも打たれていたのでやっぱりダメかなあと思っていた。
翌年の復活は正直予想できなかった。 >>625
「たら・れば」を言い出したら、阪急は山田が7月に故障で戦線離脱しなければ一時期ロッテに4ゲーム差くらいまで
迫られることもなくもっと余裕でゲーム差つけて優勝していただろう。 あと、ロッテは開幕戦で前年36ホーマーで打点王の水谷を頭部死球でブッ壊したからね。
これが無ければ、阪急打線はもっと厚みが出ていただろうに。
以上、「たら・れば」でした。 巨人の「たられば」は矢張江川・西本が活躍してくれれば優勝出来た!だな。 >>634
優勝した前年は二人で31勝
三位のこの年は二人で30勝
ほとんど変わっていなかった・・・ 個人成績で言えば前年と大差なかった、と何かの書籍に書いてあったね
原が落ちたといっても、それを補うかのように中畑が上がってるし、
スミスの凋落は苦労でお釣りがくる。 >>614
それで浮いたカネを赤字だった中京読売並びに九州読売の損失補填に使っていたんよ(マジ)。
そもそもは大正力が強引に読売新聞の九州進出を決めた際に、務台が大きく儲かっていたプロ野球事業並びに不動産事業の傘下
とする事で損失補填を行なうと共に、読売本社の経営に影響が及ばない様にしたものらしいが。
ONが年俸でごねずに一発サインするタイプだったのにも(結果的だが)助けられた格好。 後に落合が「俺が粘って年俸を上げないと他の選手の年俸も上がらない」と言ってたね
トップの給料が基準になっちゃうからって理由
漫画界では手塚治虫が少年誌での連載を続けたくて原稿料を上げようとしなかったんだが
他の漫画家にははた迷惑だったと言う話
「漫画の神様より原稿料を上にはできない」になっちゃうから この年の巨人は中日に歯が立たなかったのが致命傷になった。
小学生だからそこまで考えなかったが何故勝てなかったんだろう。 >>641
中日の17勝8敗だったが、オールスター以降は巨人の7勝3敗だったんだよ。 オールスター以降だけだと、優勝した広島が貯金13で巨人が貯金12で中日は貯金2だけに終わった。 既に何回も書かれているが、オールスター明けの巨人戦で中尾が右肩を脱臼した
その間金山や大河原を起用せざるを得なくなり、控え捕手の薄さを露呈し、終盤広島との争いに敗れ、前半カモにしていた巨人にも勝てなくなった そうやって84年前半に巨人を苦しめていた中尾が
後年、巨人に来て斎藤覚醒に一役買うんだから
世の中分からんもんだよなぁ。 >>638
少し違う。巨人の黒字を西部読売、中部読売の赤字で相殺し税金対策。
巨人の運営会社な東京読売巨人軍でなく読売興行(1992年からよみうり)。巨人と西部読売(九州)、読売会館(有楽町そごう→現ビックカメラ)、1988年から中部読売で一つの会社。つまり巨人は法人格を持たす野球協約違反なんだが。 >>644
中尾の故障に続いて9月入ってすぐに平野の故障も後半の中日失速に拍車が掛かってしまったね。
中日一の外野守備力、中日一の送りバントなどの小技に、故障離脱した時点で30盗塁という中日一の走力。
さらに2割9分台の安定した2番打者を失って9月は8勝12敗と負け越してしまったのである。 高木守道氏、この年から2年間二軍監督に。
この年藤王に山本昌、翌年中村武志が高卒入団し高木監督の教育を受けていた。 >>646
巨人の黒字を読売の不採算部門に回していたから体のいい税金逃れだった。
02年にナベツネが株式会社読売巨人軍の独立会社にした。それでも広告収入は東京ドームに、興行権収入は読売新聞スポーツ局が分捕ってるのかな。
巨人の収入がヤバくなればこの辺から切り崩すはずだから、まだそこまでの状態では無いのだろう。 「優等生」
「バースが三冠王になれたのは俺のおかげさ」と85年秋に言ったのが、前年に外国人初の三冠王に輝いた阪急のブーマー・ウェルズだった。
84年の阪急はブーマーのバットに引っ張られて、5月中旬から首位を快走した。以後は独走で6年ぶりリーグ優勝のゴールテープを切ったが、
唯一の首位攻防といわれた8月14日の対ロッテ戦でも2本塁打と決勝の走者一掃三塁打を含む猛打賞で8打点と大暴れ、最終打席の押し出し死球
でも“暴れて”退場処分を受けるオマケも付いた。それでも個人記録もさることながら、節目の試合でも悉く結果を出して勝利打点の数は21、
前年に巨人・原辰徳の出した20を更新する当時の新記録だった。
ランディ・バースへのライバル心を密かに抱いていたからこそ、85年のコメントが出たといったところだった。同じ83年来日で関西の電鉄会社球団、
甲子園と西宮も近距離でありながら注目度では遥かに差があった。メジャー経験が浅いのも共通していたが、バースの130試合を下回る47試合で
本塁打は0だった。
三冠のタイトルのうち打点は前半からハイペースで最終的に130打点、2位のスティーブ・オンティベロスに29点差の独走だった。昨年17本だった
本塁打は前半だけで21本でトップ、それでも南海のクリス・ナイマンが1本差、チームメイトの簑田浩二が2本差、日本ハムのトミー・クルーズと
南海・門田博光も3本差と混戦状態だった。8月からは共に13本塁打ずつを放ったロッテ・落合博満との一騎打ちとなり、途中「ウチの投手までが
落合にど真ん中を投げていやがる」と怒っていた時期もあったが、最終的に2位の落合に4本差をつける事が出来た。
首位打者のタイトルは終盤までもつれた。残り5試合の時点で打率.349でトップのクルーズと3厘差だったが、翌日の優勝決定試合で3安打で
遂にクルーズを抜くと、次の日も2の2でスティーブも引き離して.355とライバルを振り切り史上5人目の三冠王が誕生した。
ブーマーは「世界の王さんと同じタイトルが獲れて嬉しい」と喜んだ。ライバルバースも「彼がセ・リーグにいたら物凄いブームになっただろう」と
存在の大きさを認めたが、練習態度も含めた真面目な性格、相手投手を分析する研究熱心さにも定評のある優等生ぶりも際立っていた。
このあたりは過去にも努力家のボビー・マルカーノやバーニー・ウィリアムスを見てきた経験もあり、前年から「ヤツは慣れたらもっと打てる」と読んで
いた監督・上田利治の眼力もさすがだった。 (了) >>637
現代の監督なら定岡と松本は4月上旬の段階で切るだろうね プロサッカー選手・野本健を肉体改造したのがトカゲロン >>609
まあスパイ活動する事もなくなってきた時期ですからw 巨人が中日に全く勝てなくなってしまったのは不思議だった この年のヒット曲
・爆風スランプ「よい」
・シーラE「グラマラスライフ」
・レッチリ「トゥルー・メン・ドント・キル・コヨーテ 」 >>661
特定のチームを苦手にしていれば、優勝など夢のまた夢だろうよ >>614
でも巨人戦視聴率は当時絶対的だったし、cmもたくさん付きまくりタニマチもたくさんいた
最低でオロナミン、原とかはそれに足して更に契約あり
んなもんだから若い選手が外車買ったりタニマチから貰ったりして王が怒った ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています