1984年のプロ野球
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高木守道氏、この年から2年間二軍監督に。
この年藤王に山本昌、翌年中村武志が高卒入団し高木監督の教育を受けていた。 >>646
巨人の黒字を読売の不採算部門に回していたから体のいい税金逃れだった。
02年にナベツネが株式会社読売巨人軍の独立会社にした。それでも広告収入は東京ドームに、興行権収入は読売新聞スポーツ局が分捕ってるのかな。
巨人の収入がヤバくなればこの辺から切り崩すはずだから、まだそこまでの状態では無いのだろう。 「優等生」
「バースが三冠王になれたのは俺のおかげさ」と85年秋に言ったのが、前年に外国人初の三冠王に輝いた阪急のブーマー・ウェルズだった。
84年の阪急はブーマーのバットに引っ張られて、5月中旬から首位を快走した。以後は独走で6年ぶりリーグ優勝のゴールテープを切ったが、
唯一の首位攻防といわれた8月14日の対ロッテ戦でも2本塁打と決勝の走者一掃三塁打を含む猛打賞で8打点と大暴れ、最終打席の押し出し死球
でも“暴れて”退場処分を受けるオマケも付いた。それでも個人記録もさることながら、節目の試合でも悉く結果を出して勝利打点の数は21、
前年に巨人・原辰徳の出した20を更新する当時の新記録だった。
ランディ・バースへのライバル心を密かに抱いていたからこそ、85年のコメントが出たといったところだった。同じ83年来日で関西の電鉄会社球団、
甲子園と西宮も近距離でありながら注目度では遥かに差があった。メジャー経験が浅いのも共通していたが、バースの130試合を下回る47試合で
本塁打は0だった。
三冠のタイトルのうち打点は前半からハイペースで最終的に130打点、2位のスティーブ・オンティベロスに29点差の独走だった。昨年17本だった
本塁打は前半だけで21本でトップ、それでも南海のクリス・ナイマンが1本差、チームメイトの簑田浩二が2本差、日本ハムのトミー・クルーズと
南海・門田博光も3本差と混戦状態だった。8月からは共に13本塁打ずつを放ったロッテ・落合博満との一騎打ちとなり、途中「ウチの投手までが
落合にど真ん中を投げていやがる」と怒っていた時期もあったが、最終的に2位の落合に4本差をつける事が出来た。
首位打者のタイトルは終盤までもつれた。残り5試合の時点で打率.349でトップのクルーズと3厘差だったが、翌日の優勝決定試合で3安打で
遂にクルーズを抜くと、次の日も2の2でスティーブも引き離して.355とライバルを振り切り史上5人目の三冠王が誕生した。
ブーマーは「世界の王さんと同じタイトルが獲れて嬉しい」と喜んだ。ライバルバースも「彼がセ・リーグにいたら物凄いブームになっただろう」と
存在の大きさを認めたが、練習態度も含めた真面目な性格、相手投手を分析する研究熱心さにも定評のある優等生ぶりも際立っていた。
このあたりは過去にも努力家のボビー・マルカーノやバーニー・ウィリアムスを見てきた経験もあり、前年から「ヤツは慣れたらもっと打てる」と読んで
いた監督・上田利治の眼力もさすがだった。 (了) >>637
現代の監督なら定岡と松本は4月上旬の段階で切るだろうね プロサッカー選手・野本健を肉体改造したのがトカゲロン >>609
まあスパイ活動する事もなくなってきた時期ですからw 巨人が中日に全く勝てなくなってしまったのは不思議だった この年のヒット曲
・爆風スランプ「よい」
・シーラE「グラマラスライフ」
・レッチリ「トゥルー・メン・ドント・キル・コヨーテ 」 >>661
特定のチームを苦手にしていれば、優勝など夢のまた夢だろうよ >>614
でも巨人戦視聴率は当時絶対的だったし、cmもたくさん付きまくりタニマチもたくさんいた
最低でオロナミン、原とかはそれに足して更に契約あり
んなもんだから若い選手が外車買ったりタニマチから貰ったりして王が怒った 争ってもないくらい独走なんだけど
まだ5月までの南海近鉄の方が争っていたというのにふさわしかった オールスター明けに10連勝したロッテが
ようやく阪急と4.5差と5ゲームプレーオフ圏に入ってきたが
直後の平和台での直接対決で連敗
これで終戦 この年が阪急の最後の優勝になるとは思わなかった。
昔の様な黄金時代は無理としても西武に一泡吹かせる
実力あるチームとして何年かに一回くらいは優勝する
だろうと思ったんだが。 それはたった4年後に身売りされたことの方が意外というべきでは?
当時でも山田と福本の年齢を考えれば若返りに苦労することは容易に想像できたし 水谷の頭部死球が無ければブーマーはあそこまで打ちまくれたんだろうか
それとも二人揃って打ちまくったか 振り回さずにコンパクトにミートしたライナーでも
十分にスタンドに届くと自覚して84年のキャンプに入ったらしいから
その辺は打てたと思うな
打点を食い合って三冠逃すとかはあるかもしれないが 日本シリーズで広島投手陣に内角高めを突かれて沈黙したものの
これも翌年のシーズンには克服してきたから
ブーマーはすごい適応力の高い選手だったと思う >>676
だからこそ、長きにわたってNPBで活躍できたんだろうね クローズドスタンスからスクエアスタンスに変えたんだっけ? ブーマーに日本シリーズで雪辱する機会が無かったのは残念 >>674
ロッテ土屋が水谷にぶつけなければ阪急が日本一だったろうな あれは投球の癖が盗まれてて踏み込んで打とうとしたところにすっぽ抜けが来たんだっけ。
しかも水谷は耳カバー無しヘルメットだったから最悪な事になった。 そもそも安全対策で耳当てヘルメットを導入したのになんで例外なんか認めたのか・・・
サッカーだと脛当てについては一切例外が認められないのに 衣笠が視界遮られてかえって危ないってクレームつけたから
実績のある選手は許可されたけど
耳なしヘルメット着けた以上は自己責任だわな 水谷以降はこんなひどい死球禍は無かったよね、確か? 巨人の井上は耳付きメットだったけどキーオに速球をぶつけられた以降打てなくなったよな >>688
吉村級の活躍してればそう言えるけど
あの程度なら島貫に毛が生えたようなもんだろ >>688
そのキーオがアメリカに戻って何年かして、
どこかのキャンプ地で打球が頭に直撃して再起不能になったんだよな… 阪急は離脱した水谷(元々守備は不得手だったためDH専任だった)の穴埋め要員として
石嶺(当初捕手だったが膝が悪かったため外野に転向したばかり)が育って
カバーできたのは長い目で見ればプラスだったのでは? 水谷の死球禍の翌年、阪急はDHに新外人ヒックスを起用してた。
パワーはあるが確実性に欠け一年で退団になり、翌年以降は
DHに石嶺を固定したけど、ヒックスが当たり外人だったら
石嶺はチャンスを貰えず埋もれていたかもしれない。 >>692-693
そのチャンスをものにした石嶺、あっぱれ 85年の時点で200打席足らずでで14本塁打を記録してたから
上田監督としても使わないわけにはいかなくなってたけど
もしDH枠が開かなかったら起用法でめっちゃ苦労したかも ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています