>>790
・図書館で読んできました
 大竹名人との劫取り番のトラブル事件、ありましたね
・関西棋院の南先生は、石田裁定を批判していました
 プロだから、ルール違反は負けで、潔く投了すべき
 大竹さんと石田さんは、仲が良くないのでは?
 大竹さんは、石田さんを恨んでいるだろう・・
 と言われていましたね
・趙治勲さん「あの局は、あの時点で自分が優勢」と書かれています
 下記『昭和囲碁風雲録』では、”2 日目の夜戦になって早見え早打ちの名人も持ち時間が無くなって遂に形勢が逆転した”
 とあるそうな
 下記棋譜を見ると、確かに劫を譲っても、白が優勢のような気がします

(参考)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD158QO0V10C24A4000000/
趙治勲 私の履歴書(12)名人挑戦
囲碁棋士・名誉名人
趙治勲
2024年5月12日 2:00 [会員限定記事]
話は少し前後するが、ボクが王座を獲得した1976年は、囲碁界全体にとっても節目の年だった。前年に名人戦の主催が読売新聞社から朝日新聞社に移ったのに伴い、読売が新たに棋聖戦を創設したのだ。詳しい経緯は知らないが、結果的には各棋戦の契約金が底上げされ、トーナメントプロが対局だけで食べていけるようになった。ちょうどボクが活躍し始めた時期でもあり、とてもありがたかった。
神奈川県鎌倉市から知人に薦められ...

https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/record/13078/files/ir_32_4_kago_kahyo.pdf
相克相生と深奥幽玄 囲碁・棋史の情理と妙趣(2)
立命館学術成果リポジトリ
夏剛 著 · 2020
P300
 『昭和囲碁風雲録』の「続々と木谷一門」の次の「大器大竹,颯爽と登場」に,趙治勲八段
が挑戦する第5 期名人戦の第4 局(1980.10.8〜9)の波乱が詳述されている。1 勝2 敗の大竹
英雄は打ち回しが冴え不動の勝勢を築いたかと思われたが,2 日目の夜戦になって早見え早打
ちの名人も持ち時間が無くなって遂に形勢が逆転した。俱に残り1 分の秒読みの中で「30 秒,
40 秒」の声に追われながら必死に手を読む趙は,ふと顔を上げて記録係彦坂直人四段(1962
〜 ,92 年九段)に「僕,劫取り番?」と訊く。1 人で1 手毎の消費時間と着手時刻を記し棋
譜を最低2 枚書き且つ秒を読む新米の記録係は,本来なら助手が3 人欲しい終盤の土壇場でこ
う訊かれて大慌てし「ハイ」と返事した。その取り敢えずの応答を聞いて趙は劫立てをせず直
ちに劫を取り返したが,当時の規定では対局者が記録係に劫取り番か否かを訊く権利が有った
為に,巡り巡って立会人を務めた石田芳夫と関係者の協議の結果「無勝負」と裁定された。

https://kifudepot.net/kifucontents.php?id=5IWIk%2B5V%2BzrSB9oga0X80Q%3D%3D
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第5期名人戦挑戦手合七番勝負第4局 1980-10-09
取り番であるか確認をして打ち抜いたため、反則負けではなく立会人裁定により、無勝負となった。」(Wikipedia.名人(囲碁)より)