数学者より哲学者の方が格上
キルケゴール Kierkegaard,Soren 1813〜1855
デンマークの哲学者、宗教思想家。ニーチェと並ぶ実存思想の創始者。マルクスと同時代に生き、奇
しくも共にヘーゲル哲学の根底的な批判者である。マルクスが経済社会の実体の矛盾を分析してヘーゲ
ルの観念論を「転倒」させたのに対し、キルケゴールは、思弁的なヘーゲル哲学の客観性を批判し、人
間の肉体と精神を対象化して掘り下げ、不安と絶望にとらわれる近代的人間の生を実存的に描いた。 >ルの観念論を「転倒」させたのに対し、
典型的な言葉遊びだな
数学ができないとこういう拗らせ系の痛い文学部哲学科君になってしまうわけだ キルケゴールって、なんか妖怪みたいな名前だよね。
キェルケガートだといくぶんましか。 >>360
Henning Haahr Andersenという代数群の専門家は
Kierkegaardの曽孫だという 哲学の論文は薄いとよくないみたいだ。
ポイントは、その気になればその主題について
ぶっ続けで1日中でもじゃべり続けられるかどうからしい。 近世の哲学で理系が読んで損しないのはスピノザとキルケゴールの何冊かの本ぐらいだと個人的には思う
中学高校数学はともかく(読み方次第でいかようにも使えるから)
大学以降の数学にゴミ本は基本的にないので、数ヲタはゴミ本に対する向き合い方を
知らないから言うけど、哲学は基本ゴミ本だらけだから
この二人はユダヤ哲学の影響が強いらしいので、カントールの考えてたことを
本気で知りたいなら読んで損しないと思う カント―ルなら
ボルツァーノとワイエルシュトラスではないの? ボルツァーノの弟子筋には
ハーン、ティーツェ、ヴィルティンガーたちがいる。 カント―ルを集合論にはめたのは
フーリエ級数の収束域の問題 フーリエ級数からどんな数学が広がったかを
振り返り、改めてその方向に新展開を試みているのが
現代の表現論 ポアンカレの「科学と仮説」の新訳が出たので
買って読んでいる。
長い解説は読みごたえがある。訳者は文系だが
物理学者の弟が専門用語をサポートしたようだ。
しかし基本的にポアンカレの思想を文科系の頭で論じているから
つまらないこと夥しい。 文系のトップに評価されるより
受験理系の学部卒どまりが面白いと言ってくれる本を書きたい。 >>373
> 文系のトップに評価されるより
> 受験理系の学部卒どまりが面白いと言ってくれる本を書きたい。
白い目で見つめてあげたい 結局まともな理系は
東大か、ギリでも京大までしかほぼ居ないので(それ未満の大学だと学年に数人レベルの例外的存在になる)
そこらのなんちゃって理系よりは東大文系に面白いと言ってもらいたいが >>377
近い将来、アバターどうしのVRの会合はこうなる とりあえず、倫理や道徳は数学が出来る・出来ないよりは大切だとは思う。でもそれ以外はどうだろね。
あと、科学とか宗教と比べると、
哲学は正解がないけど、まあまあ良い結論を求める。
科学は今分かってる事を基にして結論付ける。
数学は、大抵の場合は矛盾しないやり方で何かの答えを算出する
宗教は、正解がなかったりその時点での科学水準では到底わからない事について、何かしらのストーリーを持ち出して、「だからOOはこうなってる」みたいに言う。それが人を救う事も苦しめる事もある。
みたいな感じか。
数学は面白いけど科学と哲学の絶妙に良くない部分を持ってる気もする。。。
何が格の差を決定づけるかに正解はないけど、安直にどれくらい社会の役立つか、を基準に考えると、
物理みたいに道具として使わないならよくある哲学のイメージと同じに役立たずになっちゃいそう。
で、哲学と違って何が「良い or 良い解釈か」か、みたいな結論ではないから、大義名分がないというか。。
ただ、参考になる事実を提供することもあるし、絶対とは言い切れないことが確定してる哲学よりは役立つ可能性はあるんじゃないか?
信頼できる結論を出すという点では数学者の方がありがたいかも? 一番大きな違いは、知能指数的には
数学者>哲学者
と言うことだろ。
学部の偏差値見てもそう言える
数学者は必要に応じて哲学できるが
哲学者は微分積分すらできない
能力差で区分できる 真理の本質は変容する。
時代精神に大きな影響を与えるこのような言葉を
数学者が発することはなかった。 そんなものは単なるキャッチコピーにすぎん。「新しい資本主義」
なんていう戯言をほざくのと同じで、社会には何の影響もないだろ。
科学(数学も含む)ほど時代を変えたものはない。 >>381
その真理の趣旨は限りなく倫理や道徳に近い気がする。
どっちかというと、かなり人類共通認識っぽくなってる[論理]については、
哲学者は当時分かってることをベースにしたり裏をかいたりして、相当大雑把な視点を与えただけで、
具体的に詳しく進めたのは論理学者、それを利用するのは数学者、更にそれを利用するのは物理学者、 みたいなものだと個人的には思う。
正直、ある程度の水準まで行けば新たに大きな枠組みのモノの見方を提示する必要性はそんなに感じないと思う。あったとしても、理論の修正を図ったりする過程で物理学者とか数学者が思いつく事はあると思う。
やっぱり「上手い物事のとらえ方」が出来てしまった以上、哲学が今後発達する望みは薄いな。
せいぜい、
科学を信用できず自分に悩み、自分にとって上手く折り合い付くように考えたい人で、既存の宗教やオカルトチックな話に否定的or疲れきった人
に対して、何かポジティブな感情を起こさせるような人生論・人生観、的な部分でしか役に立たなそう。 >>383
「真理を何とするかについては色々あるけど、正解のない倫理や道徳的な真理よりはみんなが同意しそうな"論理"を真理のようなものと便宜上みなして考えると」
という仮定を書き忘れてました 宗教の時代は終わった
哲学の時代も終わった
科学の時代が終わるのは 何時だろう 数学は宗教でも哲学でも科学でもない
ただの遊戯だ
遊戯もいつか終わるだろうか? 数学的真理は本当の真理ではない
もちろん本当の嘘でもないが
要するにただの約束事である
現実がその約束事に沿うとしても
それはただの偶然である >>382
「単なる」ではない
特別に長い尾ひれがつけられる言葉だ。
ホウィトヘッドはそれらを
「プラトン哲学の注釈」と言った。 >>390
それは
デデキントの切断による実数の定義が
エウクレイデスの原論の比例論の焼き直しであり
カントールの有理コーシー列による実数の定義が
アルキメデスの挟みうち法の焼き直しであるのと
同様かな? 実数の概念は基本的には古代ギリシャ時代に分かっていたのであって
19世紀にそれを正確に公理化したに過ぎない、という考えは
あながち間違っていないかもしれない それを公理化する必要というものがあった。
オイラーによる素数の無限性の解析的証明の発見と
ルジャンドルによるオイラーの予想の同等分布の問題としての定式化、
そしてガウスの少年時代の予想を経て
ディリクレにより完成されたルジャンドル予想の証明、
そしてディリクレの1837年の論文に触発されたリーマンの1859年の論文。
しかしガウスの予想の解決にはあと一歩足りなかった。
デデキントの「数とは何か、何であるべきか」は
これらすべてをふまえて書かれている。 哲学なんて自己啓発本程度の価値しかないよ
微分積分すらできない偏差値底辺が言葉遊びしてるだけ デデキントを超えて数理論理学を開いたのは
哲学者のフレーゲやラッセルたちだった >>394
ゲーデルの理論にはどれくらいの価値があると思う? >>393
>公理化する必要というものがあった。
そこは否定しません
>>396
>ゲーデルの理論
数理論理学的にはともかく哲学的な価値はないな
他の数学における価値もさほどないかも ゲーデルは数学者なので片手間に哲学もできる
だがお前ら偏差値底辺の文学部哲学科にできるのは無意味な言葉遊びだけ >>395
フレーゲもラッセルも、もともと数学者だろ?
哲学者呼ばわりは失礼だよ。 ラッセルは数学者なので片手間に哲学もできる
だがお前ら偏差値底辺の文学部哲学科にできるのは無意味な言葉遊びだけ >>400
そういう物言いが趣味ではないと言われていることに気づいてほしい >>401
ラッセルは死の直前に
「私はヘーゲルは嫌いだ」と言った
自分が哲学者だと思っていないと
こうは言わないだろうね。 本人が晩年どう思ってたか知らないが、もともと数学者で
あったことに変わりはない。
数学者から哲学者に落ちぶれることはできても、逆はなかなか。 >>403
数学とは無関係の実に些細なことでしたか
つまらないですね >>407
数学を少しは知っているつもりみたいだから尋ねますが
オイラーが4n+1型の素数の無限性を出すために
計算して収束性を確信した級数の和の
数論的な意味を知っていますか。
ご存知なら教えていただけるとありがたい。 >>406
哲学者を手玉に取る手腕を見ていたら、確かにそうかもしれない >>407
「初等整数論講義」に出ていたからもういい。
>>409
Weilはスパイ容疑で、Russelは哲学者として収監された。 Nevanlinnaが当局にねじ込んでくれたおかげで
Weilは命拾いをした 数学者や哲学者よりも格上なのは、森羅万象を扱う安倍晋三である。
スレ終了! バンクシーの役には立ってるだろ。大金せしめてウハウハだよ。 ガウスは「先験的に」という言葉が気に入っていたようだ >>419
数学を少しは知っているつもりみたいだから尋ねますが
オイラーが4n+1型の素数の無限性を出すために
計算して収束性を確信した級数の和の数論的な意味を答えられますか。
知っているのなら、答えてみたまえ。
その答えで君の数学の程度を推し量れるからね。 >>420
それは「初等整数論講義」の付録に書いてあった。 こんなところに落書きするようなやつは、みんなバンクシーである 俺の予測では第2波の倍以上かな。
根拠は、欧米でそんな感じだからw それリーマン予想ですよね
なんか証明とかあるんですか サラリーマンのコロナ予想
コロナ問題は誰が出したんだっけ
角谷? 数学の論理が完全かどうかを考えるのは
一応数学ということになっているらしい 不完全性定理でも完全の定義してるからね
たまにド文系が「不完全性定理は人の理性の不完全性を示した」とか息巻いてるけどそうじゃないんよなぁ ってなことを考えるのが数学
作者の気持ちは分からない 不完全性を全く完全ではないと捉えるか必ずしも完全ではないと捉えるかで、
大違い。 >>443
全部否定と部分否定では大違い。哲学というよりかは国語の問題。 >>442
不完全性定理の不完全は完全ではないことを指してるから、「全く」とか「必ずしも」とかいう形容詞は不要 >全く完全ではない
完全では全くないと言い換えたほうがいい。 >>446
どう言い換えたところで実際の不完全性とはかすりもしないのが虚しいね 無制限な背理法がパラドックスを引き起こすので、直観主義で背理法を制限した 格上の哲学としては
ロシアのウクライナ侵攻決定に
どういう態度をとるのがよいか
教えを垂れるべきではないか 患者が猛烈な勢いで助けはいらないと主張しても
治療を放棄しないよい心理学者と同じく
世界が明日破滅的な戦争を始めようとしても
よい哲学者は世界を正気にさせる努力を怠ってはならない >>453
よい哲学者は意味のある暴論を唱え、
駄目な哲学者は無意味な正論を唱える。
有意義な狂気は無意味な正気に勝る。 実例をあげよう
ソクラテスはよい哲学者だった
ダメな例はいくらでもあるが
例えば「進歩的知識人」たちがそうだろう。
清水幾太郎はそれに気が付いて
自分の著作をすべて絶版にした。
しかしそれは最後の無意味な正気だったかもしれない。 越えてはいけない一線を越えさせない努力は
正気であろうが狂気であろうが
貴い努力である。 大戦中
哲学者は紅茶を飲みながら正義を語る
と批判され哲学は終わった
復権があるのかどうかはわからない それは政治家が努力すべきことであって、哲学者の仕事ではない。 >>454
場の空気の断熱的な変化に騙されそうなタイプの茹でガエルに思える。 >>よい哲学者は意味のある暴論を唱え、
>>駄目な哲学者は無意味な正論を唱える。
>>有意義な狂気は無意味な正気に勝る。
エルンスト・マッハはこの文章を激賞するだろうか 素晴らしい箴言だというかもしれないし、言わないかもしれないが、
マッハが意味のある暴論を唱えたことは間違いない。 彼らは数学者がウクライナ侵攻に抗議するのを
笑うだろうか 自分が死ねば政治的混乱が収まることぐらいはわかっていただろうし。 >>469
数学者という肩書はいらんだろ。一市民として反対すればいい。 >>473
ICMに出席するのをやめようと言うからには
数学者の肩書がないと
呼びかけにリアリティーがなくなると思わない? >>472
それが毒杯を仰ぐ道を選んだ本当の理由だったのか? >>474
最初からそう言えよ。にしても肩書はあんまり関係ないけどな。
国際会議やらを欠席して抗議ってのは立派じゃん。どんどんやれ。 アサガオは毎日成長するから見ていても苦痛じゃないが
同じ人間と毎日話すということは意味があるのだろうか >>475
表向きは遵法精神からだろうけど、実際は政治的配慮もあったんじゃない? >>480
すべては「よく生きるとは何か?」に答えるため。 To be, or not to be. That is the question. 個人的には自然、人間、学問とはを知りたいだけかな
理数系も認識論やった方が良いと思う
>>440
スピノザは規定は否定とした
クレタ人、カント、ヘーゲル
対象をその否定で規定するから
対象は無矛盾
それをその否定で規定するから決定不能に
理解可能だがその否定で規定するからこそ
対象に規定は無いことをもって無矛盾と解る
決定不能と決定しているからこその<定理> ウイルスは生物非生物と分類困難
これは物理としては差異だが否定関係で規定するから
規定すること自体が分類困難の原因 地動説、進化論は地球、人間の相対化
人間、植物、金属、すべて差異を否定で規定
光速度一定の原理は静止はない、つまり自然の存在形態は運動
ディラックの海から真空はエネルギーの基底状態
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発して新たな濃淡が生成していく過程です
粒子は波の渦→観測問題
最小単位はない 認識器官は物理条件
自然の濃淡はその物理条件の在り方に像を生成する
諸動物の認識器官の在り方で自然は差異として像を結ぶ
静止、生死、無は存在するが自然には存在しない
また淡、つまり真空は像を結ばない
自然は一だが認識器官は多として像を結ぶ
その抽象が次元
座標原点はない
四次元が存在したら静止した三次元が無限に存在して
自分自身も無限に存在することに
有を無で規定する
0に限り無く近いが0ではないという規定根拠
つまり決定不能
自然はそのまま理解出来ない
だから量、時間で規定する
四次元は存在しない
存在しない次元で規定、つまり無で有を規定する
ビッグバン仮説
対象が宇宙非宇宙と矛盾する
エネルギー保存則、光速度一定の原理の否定
因みに証拠とされる観測は違う理解が可能だと指摘されている
火星に運河発見したアメリカの天文学者と同じ過ちの可能性があると指摘されている 学問は自己言及
自然科学は典型
認識器官に生成する自然像を相対化していくのが科学
そして論理の相対化と自己弁護
論理は対象の否定→決定不能
論理は自然に存在しない
自然は無矛盾であることにより決定不能に 人間自身が自然
自然を他者として規定、理解する
物理は運動変化して無くなることはない
意識は無くなる
つまり物理として存在しない
物理状態に付随して現象する
寝起き、そして物理条件次第ではっきりしなくなったり混濁する
自然は無矛盾で理解可能
しかし規定は否定だから決定不能に 自然に存在しない座標原点で自然を理解するということが何を意味するのか現代科学は考えてみるべきかと 半世紀ほど前から古今東西現代科学は新しい観点が必要と主張する科学者たちがいる
問題意識が無いなら仕方ない >>24 フレーゲ、ウィトゲンシュタイン、クリプキの業績も知らない人が哲学を叩いてるんだろうなぁ
ウィトゲンシュタインの論理は高校生、 クリプケは修士程度なことはわかる。
しかし、
フレーゲの命題論理の評価はわからん。
コーシーやワイエルシュトラスのεーδ論法を形式的に書いただけのような気がする。
数学者としては3流だけど、哲学方面に売り込むことに成功したということのだけのような。
そもそも、論理は哲学でない。 >>499 数学をやっていると述語論理しかやっていないから、命題論理と述語論理の区別が付かなくなる。
そんなわけで、書き間違えた。
>>24 フレーゲ、ウィトゲンシュタイン、クリプキの業績も知らない人が哲学を叩いてるんだろうなぁ
ウィトゲンシュタインの論理は高校生、 クリプケは修士程度なことはわかる。
しかし、
フレーゲの述語論理の評価はわからん。
コーシーやワイエルシュトラスのεーδ論法を形式的に書いただけのような気がする。
数学者としては3流だけど、哲学方面に売り込むことに成功したということのだけのような。
そもそも、論理は哲学でない。 文学部卒は神学部卒以下の社会的評価で就活で位置づけられるのが分相応というものだ。 機体トラブルで酸欠状態に
僅か10分しかなく、必死で家族が待つ地球へ戻ろうとする様を描いています。
想像してみてください。//youtu.be/oWs3yvVADVg ソール・アーロン・クリプキ
(Saul Aaron Kripke、
1940年11月13日 - 2022年9月15日[1])は、
アメリカの哲学者、論理学者。
ニューヨーク市立大学大学院センター教授、
プリンストン大学名誉教授。
ネブラスカ州オマハ生まれ。ユダヤ人。 数学って哲学とは何の関係もないのに
関係付けようとする奴が多すぎる 誤用されがちではあるけど関係ないは言いすぎでは
土台となる公理や論理は無数の選択があるけど基本的には数や幾何、古典論理といった「人間的な」あるいは「物理世界的な」基準で選ばれている
にも関わらず、それが素朴な範囲を超えたところまで非常に上手く機能しているのは数学の不思議さの一つだし哲学的問題でもある 数学に落ちこぼれると哲学に逃げるんだよね
まともな哲学も無理だけど 数学のようなものを究めるためにはある種の盲目さが必要だろうね
逆に哲学的問題意識から数学に手を出す人もなかなか現代数学の感覚を掴むまで学ぶのは難しそう
ただ数学の最先端が哲学的に面白いものというわけではないと思う 哲学者が避けて通れない問題が
ある時期の数学にはあった 存在と時間を論じた哲学者は
「時間遅れ系」を
どのように論じるだろうか 『アト秒科学』の研究者は、非常に数が少なく、
日本全国でも数えられるほどしかいない。今後、
より多くの研究者が参加し、
『アト秒』という単位を扱う技術が
いろいろな分野で応用されることを期待したい 京大の数学を出て光学分析の仕事をしている人を知っている 最近またこの手のことちらほら調べてるけど
現代では哲学者は数学なんか分かる必要ないという意見が多いのかね
逆は知らんが、というか、言うまでもないが 要するにこういうことだったんだというまとめが必要な時に
哲学的な思考が役に立つ いかにして哲学は100年前に滅亡したか
1.ラッセルのパラドックスの発見(1902年)
1902年、哲学者のバートランド・ラッセルが論理学における矛盾を発見しました。
このパラドックスは、通常の論理学では回避できないことが判明し、哲学に大きな衝撃を与えました。
2.ラッセルによる新しい論理学の構築(1903年~)
1903年以降、ラッセルはパラドックスの原因が論理学の仕組みにあると見抜きました。
自己と自己言及を明確に区別して混同しないルールを導入し、パラドックスが起こらない新しい論理学の仕組みを構築しました。
3.ウィトゲンシュタインによる論理学の研究(1911年~)
1911年頃から、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子となり、新しい矛盾のない論理学で何が言えるのかを研究しました。
その結果、形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明しました。
1921年に出版された「論理哲学論考」で、ウィトゲンシュタインは形而上学や哲学は論理学の誤用から生まれる全く意味のない妄想であると論理学を用いて証明しました。
現在までにこの証明に反証できた人間は歴史上1人もいません。
4.ゲーデルの不完全性定理(1931年)
1931年、クルト・ゲーデルもラッセルの論理学に影響を受け、「論理学によって仮定そのものの正しさをその仮定から証明できるか?」を考察しました。
ゲーデルは、それが不可能であることを証明しました(ゲーデルの第一不完全性定理)。
この定理は、当初ペアノ算術におけるω無矛盾性が証明不可能として確立されましたが、後にロッサーの証明ではペアノ算術における単純無矛盾性、シェファードソンの表現定理により任意のΣ1集合で構成される任意の論理式に対して無矛盾性の証明が不可能であることまで拡張されました。
5.哲学の限界と科学の重要性(1920年代~)
1920年代以降、哲学的な仮定の正しさを論理的に証明する方法は存在しないことが明らかになりました。
アイディアの正しさを決める方法は、現実との比較(実験)しかありません。
つまり、正しさを決める方法は科学しかあり得ないことがわかります。 これらの出来事により、20世紀初頭から哲学は大きな転換期を迎えました。1902年のラッセルのパラドックス発見以降、哲学者を名乗った時点で不勉強な無知または詐欺師であることは確定しており、賢い哲学者というのは論理的に存在不可能であるとされています。
ウィトゲンシュタインの主要な著作である1921年の「論理哲学論考」では、哲学は論理学の誤用から生まれた無意味な妄想であると論じ、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」と結論付けています。
また、1953年に出版された「哲学探究」では、哲学は言葉の使い方の誤りから生じる妄想であるため、その誤りを防止するために言語の誤用を研究する必要があると主張しています。
1931年のゲーデルの不完全性定理は、ある仮定の正しさをその仮定から導くことは不可能であることを証明しました。
一方、哲学はある仮定の正しさをその仮定から導くことができるという妄想に基づいています。 いかなる前提から出発すべきかが不分明な状態においても
人間は考えようとする。 >>525
前提を調べないバカは自殺するべき
猿の知能 前提が与えられていなければ
前提について考えなければならない。
神が必要なら作らなければいけない。 必要とされたときもあることを考えると
そういうときが来ないとは考えにくい ドイツの名宰相であったW.Blandは
石器時代が再来しないとは限らないと言っていた。 >>523
>いかにして哲学は100年前に滅亡したか
もっと前に死んでる説あり >>523
数学板では1と4以外要らない
要するに
ラッセルはフレーゲの無制限の内包公理を葬り去り
ゲーデルはヒルベルトの無矛盾性証明計画を葬り去った
どっちも別にアンチだったわけではなく
むしろその方向に共鳴していたにも関わらず
不都合な事実に気づいてしまった >>534
それなんよな
ラッセルはフレーゲの論理学をより強化しようとしたし
ゲーデルらヒルベルトプログラムを完成させようとした シェファードソンの表現定理により、ゲーデルの第一不完全性定理は任意の論理式のΣ1集合にまで拡張されました。
具体的には、シェファードソンは以下のことを示しました:
1. ロビンソン算術Rと同じ定数を持ち、Rと矛盾しない任意の再帰的可算理論Sにおいて、すべての再帰的可算集合が表現可能である。
2. 任意のΣ1論理式φ(x)によって定義される集合{n|S ⊢ φ(n)}は再帰的可算である。
3. したがって、任意のΣ1論理式φ(x)によって定義される集合に対して、その無矛盾性(つまり∃x ¬φ(x)の無証明性)はSの中で証明不可能である。 これはゲーデルの第一不完全性定理の大幅な一般化です。ゲーデルの原定理ではペアノ算術PAにおけるある特定の算術的論理式の無証明性が示されましたが、シェファードソンの結果により、PAよりはるかに一般的な体系でも、任意のΣ1論理式で定義される集合の無矛盾性は証明不可能であることが分かります。
これにより、ゲーデルの不完全性定理が算術の枠を超えて、一般的な形式体系の本質的な限界を示すものであることが明らかになりました。シェファードソンの業績は、不完全性定理の意義を大きく広げたと言えるでしょう。
参考文献:
Shepherdson, J. C. (1961). "Representability of recursively enumerable sets in formal theories". Archive for Mathematical Logic, 5(3-4):119-127. シェファードソンの表現定理は、ゲーデルの不完全性定理の適用範囲を算術の体系だけでなく、任意の再帰的可算集合(r.e.集合)まで拡張したものです。
シェファードソンの論文の内容を要約すると以下の通りです。
1. ロビンソンの体系Rを含む任意の無矛盾なr.e.理論において、すべてのr.e.集合が表現可能であることをエーレンフォイトとフェファーマンが示した。シェファードソンはこれを対角線論法を使って直接的に証明した。
2. 任意の無矛盾なr.e.理論において、互いに素なr.e.集合の対α,βに対し、αを表現しかつ~φがβを表現するような論理式φが存在することを示した。
3. コブハムの結果を使うと、Rと同じ定数を持ち、Rと両立するようなr.e.理論ではすべてのr.e.集合が表現可能であることが示せる。
つまり、シェファードソンはゲーデルの不完全性定理がペアノ算術のような特定の体系に限らず、広範なクラスの論理体系に適用可能であることを示したのです。 その後、不完全性定理はさらに強力な形に一般化されていきました。
菊池-倉橋(2017)は、算術のΣn-definable理論に対してゲーデルとロッサーの不完全性定理を一般化しました。任意の無矛盾なΣn+1-sound理論はΠn+1文で不完全であり、Πn+1-definableな理論の場合は任意のΠn+1文が無矛盾ならば証明不可能であることを示しました。
さらにヴィッサー(2020)は、ゲーデルの第二不完全性定理を導出可能性条件を満たすような一般的な述語論理の体系に拡張しました。PA自身の無矛盾性よりずっと弱い仮定から不完全性が導けることを示したのです。
このように現在でも不完全性定理の適用範囲はどんどん拡張されており、論理学の広い領域をカバーするようになっています。どこまでが限界なのかはまだわかっていませんが、ゲーデルの革新的な発想が驚くほど広範な論理体系に通用することが明らかになってきたと言えるでしょう。 実験なしに物事の真偽が判明することはあり得ない
その真偽の1ビット情報を何もないところから取り出せるなら
それは情報熱力学による情報とエネルギーの等価性に基けば
何もないところから無限のエネルギーを取り出せることを意味する
つまり哲学はフリーエネルギーのオカルトと同じであるwwwww
真偽値1ビットの情報は現実世界と仮説を比較することで情報=エネルギーが現実世界から移動してきて初めて得られるのだmwwmmwm
このことからゲーデルの不完全性定理は論理学の問題に限られないことがわかる
現実世界と比較しない全ての想像に対して成り立つと考えるのが自然 ゲーデル完全な体系というのは単に公理に含まれた情報を体系内で移動させるだけで真偽値がわかるというだけの話w ゲーデル不完全性定理&シェファードソンの表現定理による拡張
→密室殺人などできるはずがないという物理法則
哲学
→密室殺人を実行したと言い張る犯罪者
爆発律
→密室殺人でよくあるトリックでこれを手がかりに逮捕できる
ラッセルのパラドックス
→爆発律トリックによく使われる材料の1つ
異なる対象を同一の記号で表してしまう
→爆発律トリックによく使われる材料の1つ
循環論法
→これは爆発律とは別のトリックでよくあるパターン
これで犯人探しをするから
・犯行が行われてることが確定する
・犯人がどんなトリックを使うかわかる
のですぐに逮捕できるというロジック >>1
数学と哲学はどちらも人類の知性の営みとして重要な学問であり、どちらが優れていると断言することはできません。
しかし、数学は論理的な思考と厳密な証明を重視する学問である一方、哲学はより幅広い視点から人間の存在や価値観などを探求する学問であると言えるでしょう。
従って、数学者は論理的な思考力に優れている一方で、哲学者は柔軟な思考力や洞察力に優れているという傾向があると言えます。
どちらの学問が優れているかは、個人の価値観や興味によって異なるでしょう。
数学的な論理的な思考力と、哲学的な柔軟な思考力、どちらもバランスよく持ち合わせてこそ、真の知識人と言えるのではないでしょうか。 日本文化に初めて触れたが欧米人たちが
日本人のことを
「洞察力に富む人たち」と褒めた裏には
論理性と対話に乏しい文化への批判が
隠れている。 という主張の理由を付して
もっと論理性を高める努力が必要と思われる 文庫 フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者 (草思社文庫 ペ 4-1) Paperback Bunko – February 5, 2024
by シャルル・ペパン (著), 永田 千奈 (翻訳) 大学では生物は化学、化学は物理、物理は数学、数学は哲学、哲学は語学で
語学ができる人が最強 西洋古代・中世哲学史とか科学史では研究テーマによってはアラビア語も必須ですな
アリストテレスの受容史とか研究するならアラビア語やシリア語の文献も読めないといけないでしょう
参考
早稲田大学 文化構想学部HOME > ニュース > 「アラビア哲学:宗教と科学と哲学の対話」文化構想学部 小村優太専任講師
https://www.waseda.jp/flas/cms/news/2018/07/31/5639/ 私が専門とするアラビア哲学は、宗教と哲学の緊張関係があり、哲学の側が理性的言語で宗教を解釈していこうとしていました。実際にラテン・スコラ哲学を担ったのが多くは修道士だったのに比べて、この時期のアラビア哲学を担ったのは医者、科学者、政治家などでした。(新プラトン主義要素の入った)アリストテレス的科学主義をベースとし、宗教そのものは否定しないけれど、それを理性的言語で読み解いていくという態度は、意外と現代の日本人にも馴染みやすいものではないかと思います。 卒業証書なんかどうでもよいというのが
一般的な雰囲気 >>554
いかにして哲学は100年前に滅亡したか
1.ラッセルのパラドックスの発見(1902年)
1902年、哲学者のバートランド・ラッセルが論理学における矛盾を発見しました。
このパラドックスは、通常の論理学では回避できないことが判明し、哲学に大きな衝撃を与えました。
2.ラッセルによる新しい論理学の構築(1903年~)
1903年以降、ラッセルはパラドックスの原因が論理学の仕組みにあると見抜きました。
自己と自己言及を明確に区別して混同しないルールを導入し、パラドックスが起こらない新しい論理学の仕組みを構築しました。
3.ウィトゲンシュタインによる論理学の研究(1911年~)
1911年頃から、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子となり、新しい矛盾のない論理学で何が言えるのかを研究しました。
その結果、形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明しました。
1921年に出版された「論理哲学論考」で、ウィトゲンシュタインは形而上学や哲学は論理学の誤用から生まれる全く意味のない妄想であると論理学を用いて証明しました。
現在までにこの証明に反証できた人間は歴史上1人もいません。
4.ゲーデルの不完全性定理(1931年)
1931年、クルト・ゲーデルもラッセルの論理学に影響を受け、「論理学によって仮定そのものの正しさをその仮定から証明できるか?」を考察しました。
ゲーデルは、それが不可能であることを証明しました(ゲーデルの第一不完全性定理)。
この定理は、当初ペアノ算術におけるω無矛盾性が証明不可能として確立されましたが、後にロッサーの証明ではペアノ算術における単純無矛盾性、シェファードソンの表現定理により任意のΣ1集合で構成される任意の論理式に対して無矛盾性の証明が不可能であることまで拡張されました。
5.哲学の限界と科学の重要性(1920年代~)
1920年代以降、哲学的な仮定の正しさを論理的に証明する方法は存在しないことが明らかになりました。
アイディアの正しさを決める方法は、現実との比較(実験)しかありません。
つまり、正しさを決める方法は科学しかあり得ないことがわかります。 >>557
論理的でないならそれはポエムでしかない
学問ではなく学問をやれない無能が縋り付く藁でしかない >>559
論理学を満たさない論理的なものというのは存在不可能だぞ >>559
どうやら論理学という言葉に学という文字がついてるから
論理の学問というものがあって
学問ではない論理というものがあると思い込んでるレベルかwwwww
これが漢字の悪いところ
論理学という文字には意味はないぞ
学問という意味はないし論理学ではない論理はあり得ない