数学者より哲学者の方が格上
例えばデカルト
数学でも偉大な業績を残したが哲学者としての業績の方が知られてる >>474
最初からそう言えよ。にしても肩書はあんまり関係ないけどな。
国際会議やらを欠席して抗議ってのは立派じゃん。どんどんやれ。 アサガオは毎日成長するから見ていても苦痛じゃないが
同じ人間と毎日話すということは意味があるのだろうか >>475
表向きは遵法精神からだろうけど、実際は政治的配慮もあったんじゃない? >>480
すべては「よく生きるとは何か?」に答えるため。 To be, or not to be. That is the question. 個人的には自然、人間、学問とはを知りたいだけかな
理数系も認識論やった方が良いと思う
>>440
スピノザは規定は否定とした
クレタ人、カント、ヘーゲル
対象をその否定で規定するから
対象は無矛盾
それをその否定で規定するから決定不能に
理解可能だがその否定で規定するからこそ
対象に規定は無いことをもって無矛盾と解る
決定不能と決定しているからこその<定理> ウイルスは生物非生物と分類困難
これは物理としては差異だが否定関係で規定するから
規定すること自体が分類困難の原因 地動説、進化論は地球、人間の相対化
人間、植物、金属、すべて差異を否定で規定
光速度一定の原理は静止はない、つまり自然の存在形態は運動
ディラックの海から真空はエネルギーの基底状態
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発して新たな濃淡が生成していく過程です
粒子は波の渦→観測問題
最小単位はない 認識器官は物理条件
自然の濃淡はその物理条件の在り方に像を生成する
諸動物の認識器官の在り方で自然は差異として像を結ぶ
静止、生死、無は存在するが自然には存在しない
また淡、つまり真空は像を結ばない
自然は一だが認識器官は多として像を結ぶ
その抽象が次元
座標原点はない
四次元が存在したら静止した三次元が無限に存在して
自分自身も無限に存在することに
有を無で規定する
0に限り無く近いが0ではないという規定根拠
つまり決定不能
自然はそのまま理解出来ない
だから量、時間で規定する
四次元は存在しない
存在しない次元で規定、つまり無で有を規定する
ビッグバン仮説
対象が宇宙非宇宙と矛盾する
エネルギー保存則、光速度一定の原理の否定
因みに証拠とされる観測は違う理解が可能だと指摘されている
火星に運河発見したアメリカの天文学者と同じ過ちの可能性があると指摘されている 学問は自己言及
自然科学は典型
認識器官に生成する自然像を相対化していくのが科学
そして論理の相対化と自己弁護
論理は対象の否定→決定不能
論理は自然に存在しない
自然は無矛盾であることにより決定不能に 人間自身が自然
自然を他者として規定、理解する
物理は運動変化して無くなることはない
意識は無くなる
つまり物理として存在しない
物理状態に付随して現象する
寝起き、そして物理条件次第ではっきりしなくなったり混濁する
自然は無矛盾で理解可能
しかし規定は否定だから決定不能に 自然に存在しない座標原点で自然を理解するということが何を意味するのか現代科学は考えてみるべきかと 半世紀ほど前から古今東西現代科学は新しい観点が必要と主張する科学者たちがいる
問題意識が無いなら仕方ない >>24 フレーゲ、ウィトゲンシュタイン、クリプキの業績も知らない人が哲学を叩いてるんだろうなぁ
ウィトゲンシュタインの論理は高校生、 クリプケは修士程度なことはわかる。
しかし、
フレーゲの命題論理の評価はわからん。
コーシーやワイエルシュトラスのεーδ論法を形式的に書いただけのような気がする。
数学者としては3流だけど、哲学方面に売り込むことに成功したということのだけのような。
そもそも、論理は哲学でない。 >>499 数学をやっていると述語論理しかやっていないから、命題論理と述語論理の区別が付かなくなる。
そんなわけで、書き間違えた。
>>24 フレーゲ、ウィトゲンシュタイン、クリプキの業績も知らない人が哲学を叩いてるんだろうなぁ
ウィトゲンシュタインの論理は高校生、 クリプケは修士程度なことはわかる。
しかし、
フレーゲの述語論理の評価はわからん。
コーシーやワイエルシュトラスのεーδ論法を形式的に書いただけのような気がする。
数学者としては3流だけど、哲学方面に売り込むことに成功したということのだけのような。
そもそも、論理は哲学でない。 文学部卒は神学部卒以下の社会的評価で就活で位置づけられるのが分相応というものだ。 機体トラブルで酸欠状態に
僅か10分しかなく、必死で家族が待つ地球へ戻ろうとする様を描いています。
想像してみてください。//youtu.be/oWs3yvVADVg ソール・アーロン・クリプキ
(Saul Aaron Kripke、
1940年11月13日 - 2022年9月15日[1])は、
アメリカの哲学者、論理学者。
ニューヨーク市立大学大学院センター教授、
プリンストン大学名誉教授。
ネブラスカ州オマハ生まれ。ユダヤ人。 数学って哲学とは何の関係もないのに
関係付けようとする奴が多すぎる 誤用されがちではあるけど関係ないは言いすぎでは
土台となる公理や論理は無数の選択があるけど基本的には数や幾何、古典論理といった「人間的な」あるいは「物理世界的な」基準で選ばれている
にも関わらず、それが素朴な範囲を超えたところまで非常に上手く機能しているのは数学の不思議さの一つだし哲学的問題でもある 数学に落ちこぼれると哲学に逃げるんだよね
まともな哲学も無理だけど 数学のようなものを究めるためにはある種の盲目さが必要だろうね
逆に哲学的問題意識から数学に手を出す人もなかなか現代数学の感覚を掴むまで学ぶのは難しそう
ただ数学の最先端が哲学的に面白いものというわけではないと思う 哲学者が避けて通れない問題が
ある時期の数学にはあった 存在と時間を論じた哲学者は
「時間遅れ系」を
どのように論じるだろうか 『アト秒科学』の研究者は、非常に数が少なく、
日本全国でも数えられるほどしかいない。今後、
より多くの研究者が参加し、
『アト秒』という単位を扱う技術が
いろいろな分野で応用されることを期待したい 京大の数学を出て光学分析の仕事をしている人を知っている 最近またこの手のことちらほら調べてるけど
現代では哲学者は数学なんか分かる必要ないという意見が多いのかね
逆は知らんが、というか、言うまでもないが 要するにこういうことだったんだというまとめが必要な時に
哲学的な思考が役に立つ いかにして哲学は100年前に滅亡したか
1.ラッセルのパラドックスの発見(1902年)
1902年、哲学者のバートランド・ラッセルが論理学における矛盾を発見しました。
このパラドックスは、通常の論理学では回避できないことが判明し、哲学に大きな衝撃を与えました。
2.ラッセルによる新しい論理学の構築(1903年~)
1903年以降、ラッセルはパラドックスの原因が論理学の仕組みにあると見抜きました。
自己と自己言及を明確に区別して混同しないルールを導入し、パラドックスが起こらない新しい論理学の仕組みを構築しました。
3.ウィトゲンシュタインによる論理学の研究(1911年~)
1911年頃から、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子となり、新しい矛盾のない論理学で何が言えるのかを研究しました。
その結果、形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明しました。
1921年に出版された「論理哲学論考」で、ウィトゲンシュタインは形而上学や哲学は論理学の誤用から生まれる全く意味のない妄想であると論理学を用いて証明しました。
現在までにこの証明に反証できた人間は歴史上1人もいません。
4.ゲーデルの不完全性定理(1931年)
1931年、クルト・ゲーデルもラッセルの論理学に影響を受け、「論理学によって仮定そのものの正しさをその仮定から証明できるか?」を考察しました。
ゲーデルは、それが不可能であることを証明しました(ゲーデルの第一不完全性定理)。
この定理は、当初ペアノ算術におけるω無矛盾性が証明不可能として確立されましたが、後にロッサーの証明ではペアノ算術における単純無矛盾性、シェファードソンの表現定理により任意のΣ1集合で構成される任意の論理式に対して無矛盾性の証明が不可能であることまで拡張されました。
5.哲学の限界と科学の重要性(1920年代~)
1920年代以降、哲学的な仮定の正しさを論理的に証明する方法は存在しないことが明らかになりました。
アイディアの正しさを決める方法は、現実との比較(実験)しかありません。
つまり、正しさを決める方法は科学しかあり得ないことがわかります。 これらの出来事により、20世紀初頭から哲学は大きな転換期を迎えました。1902年のラッセルのパラドックス発見以降、哲学者を名乗った時点で不勉強な無知または詐欺師であることは確定しており、賢い哲学者というのは論理的に存在不可能であるとされています。
ウィトゲンシュタインの主要な著作である1921年の「論理哲学論考」では、哲学は論理学の誤用から生まれた無意味な妄想であると論じ、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」と結論付けています。
また、1953年に出版された「哲学探究」では、哲学は言葉の使い方の誤りから生じる妄想であるため、その誤りを防止するために言語の誤用を研究する必要があると主張しています。
1931年のゲーデルの不完全性定理は、ある仮定の正しさをその仮定から導くことは不可能であることを証明しました。
一方、哲学はある仮定の正しさをその仮定から導くことができるという妄想に基づいています。 いかなる前提から出発すべきかが不分明な状態においても
人間は考えようとする。 >>525
前提を調べないバカは自殺するべき
猿の知能