0は自然数か? [無断転載禁止]©2ch.net
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>>611 >(先頭,後者)の組だけからそれが自然数を構成できるかどうか判定するのに充分だろうって事を知りたかった。 >どっちにしろ自然数の体系を表すのに今までは3つ必要だったのが2つで済むわけだし。 >…(中略)… >どこから何を追い出せば良いのかよう分からんけど俺はこれで満足って感じ。 既存の 1〜5 の公理系とは本質的に違う形で「2つ組」による記述が可能なのであれば、台集合が追い出せたと言えるが、 君が現状でやっていることは 1〜5 の単なる並べ替えであり、しかも実質的には「5」を満たす台集合をそのまま再現しており、 しかもその作業が公理系の記述に必須であるため、それでは「2つ組だけで記述できた」とは言わない。 あるいは、次のように言ってもよい。 「2つ組だけを用意して、台集合はその場で構成する」ことを以って「台集合は公理系から追い出せた」と考えるのであれば、 同じことを「2つ組」に適用することで、「2つ組」すら公理系から追い出せることになる。実際、何でもいいから2つ組を その場で構成してみせればいい。君の立場では、このことを以って「2つ組は公理系から追い出せた」と考えなければならない。 極端な例を出すと、ペアノの公理系とは全く無関係に、ZF集合論の中で標準的に構成される "いつもの自然数" を持ち出せばよい。 すると、君の立場によれば、「ペアノの公理系から全ての公理を追い出した」ことになる。また、「3つ必要だったのが2つで済む」 という君の価値観によれば、ペアノの公理系から全ての公理を追い出した この状態こそが理想的である。 実際問題として、"いつもの自然数" さえあれば、ペアノの公理系で得られる性質は全て利用可能であるから、 「ペアノの公理系から全ての公理を追い出した」という考え方は間違いとも言いきれない。 しかし、それは何というか、やっていることがズレている。 まあ主張したい事は分かる。 けどやっぱり貴方が言ってる事は今俺がした事とは違う。 (先頭,後者)の組から任意のペアノシステムを表す事はできるけど、 そこから先頭を追い出して後者だけでは任意のペアノシステムを表す事はできない。 二つ組なら( { 2^-n(nは自然数) }, 1, ÷2 ) とか ( {0,1,2}, 1, (+1 mod3) ) とかのあらゆるペアノシステムを表せるけど後者だけじゃ無理。 なぜなら台集合が一つに定まらないから。 後者が(+1)だとして、先頭は0でも1でも2820でもペアノシステムを満たす。 だから唯一つに定まってない。 一方で先頭と後者の二つが定まってれば自然数を構成するのに必要な台集合は唯一つに定まる。 (ちょっと語弊はあるけど) ああ間違った。 ( {0,1,2}, 1, (+1 mod3) )はペアノシステムではないか。 揚げ足取りはよしてね。 >>611 >(f,s)の組から、以下の性質を持つ集合Nを唯一つ導ける。 >1.1. f∈N >1.2. ∀n∈N[ s(n) ∈ N ] >1.3. ∀S∋f[ ∀n∈S[s(n)∈S] ⇒ N∈S ] > >この時、以下の性質を持つならば(f,s)は自然数系である。 >2.1. ∀n∈N[s(n) ≠ f] >2.2. ∀n,m ∈N[ n=m ⇔ s(n)=s(m) ] この書き方では、最初に f,s だけが与えられているので、あたかも2つ組だけでペアノシステムが記述できていて、 台集合が追い出せたかのように見せかけているが、実際には台集合 N をその場で構成している。しかも、 この N を用いて 2.1, 2.2 を記述しなければ「(f,s)は自然数系である」という定義に到達しないので(ここが大事!)、 実質的には (N,f,s) という「いつもの三つ組み」のことを自然数系と言っているのと同じことである。 もし N を用いずに記述が終わるのであれば、2つ組だけで記述できたと言えるが、 実際には N を用いて 2.1, .2. を経由しなければ「自然数系」の定義が完成しないのである。 つまり、実質的には (N,f,s) という「いつもの三つ組み」のことを自然数系と言っているのである。 つまり、君がやっていることは、ペアノシステムの 1〜5 の単なる並べ替えであり、台集合を追い出せていないのである。 言い換えれば、君が本当に自然数系と呼んでいるのは、(f,s) ではなく (N,f,s) である。 台集合が一つに定まらないというよりはペアノシステムが一つに定まらないのがいけないのか。 自然数系とペアノシステムは一対一だけど先頭を追い出した後者だけじゃそうはいかないし。 > 君が本当に自然数系と呼んでいるのは、(f,s) ではなく (N,f,s) である そりゃそうだよ。それを目指してたんだもん。 だからこそ3つ組で表してたものを2つ組で表せてると言えるわけでしょ。 何回も言ってるじゃん。 より少ない記述で済むならそちらの方が綺麗であるのは当然 って >>608 で貴方だって言ってたじゃん。 >>617 >> 君が本当に自然数系と呼んでいるのは、(f,s) ではなく (N,f,s) である >そりゃそうだよ。それを目指してたんだもん。 結局 (N,f,s) のことを自然数系と呼ぶのであれば、ペアノシステムから何も変わってないので意味がない。 >だからこそ3つ組で表してたものを2つ組で表せてると言えるわけでしょ。 言えてない。N を使わずに「自然数系」が記述できているなら、(f,s) という2つ組で表現できていることになるが、 実際には N が無ければ「自然数系」の定義が終わらないのだから、2つ組で表せていることにならない。 >より少ない記述で済むならそちらの方が綺麗であるのは当然 >って >>608 で貴方だって言ってたじゃん。 N を使わずに「自然数系」が記述できているなら、(f,s) という2つ組で表現できていることになり、 それなら綺麗である。しかし、フタを開けてみれば、君がやっていることは既存のペアノシステムであり、 本質的に3つ組のままである。これでは意味が無い。 で、1.1〜2.2 の書き方が「2つ組」なのか「3つ組」なのかはさておき、 1.1〜2.2 の書き方が君個人にとって腑に落ちる書き方であるというなら、 その点については、こちらから批判するようなことは何も無い。 で、残った話題は、1.1〜2.2 の書き方が「2つ組」なのか「3つ組」なのかを議論することだが、 君のレスを見るに、君が目指していたのは 1.1〜2.2 の書き方を見つけることそのものであり、 他人が 1.1〜2.2 をどう思おうと、君自身はこれで腑に落ちているようだから、 これが「2つ組」なのか「3つ組」なのかは話し合っても意味が無いと思う。 ・ 俺は 1.1〜2.2 の書き方が「本質的に3つ組のままで意味がない」と思っている。 ・ 君は 1.1〜2.2 の書き方が「本質的に2つ組に減っていて意味がある」と思っていて、しかも腑に落ちている。 ・ 他人がどう思おうと、君自身は 1.1〜2.2 の書き方で腑に落ちている。 なので、このあたりで話を切り上げようと思う。 > 実際には N が無ければ「自然数系」の定義が終わらないのだから、2つ組で表せていることにならない。 例えばさ、複素数は2次ベクトルじゃ表せないの? > 結局 (N,f,s) のことを自然数系と呼ぶのであれば、ペアノシステムから何も変わってないので意味がない。 むしろ変わってちゃ意味がないんじゃない? 複素数と2次ベクトルだって表せる事って変わらないし。 まあちょっとこの場合別なのかな。 ちょっと上手い例が見つかんなかった。 一対一のものでしかも(a,b,c)としてたものを実は(a,b)だけで表せるんだから意味あると思うんだけど伝わらんかな。 実際複素数と実数って一対一対応だから一つの複素数を実数一つで表すことも出来るけどそれはダメなんだよね。 本質的じゃないというか。 でも自然数系の場合本質を表す先頭と後者だけで表せるんだからそっちで表した方が綺麗じゃないかなってこと。 1つ気づいたことがある。 ペアノシステムでは後者関数は「写像」であり、写像の通常の定義では f:A→B のように A,B,f の3つの記号が必要になる。 ペアノシステムの場合は suc:X→X であるから、記号は suc と X の2つで済み、これと先頭を表す e によって (X, e, suc) という三つ組みでペアノシステムが表現される。ここで大切なのは、通常の「写像」の定義では、 少なくとも suc, X のように2つ以上の記号が既に必要になるということ。もうこの時点で、ペアノシステムは 3つ組以上にならざるを得ない。 一方で、君がやっていることは、suc を通常の定義における写像とは捉えず、定義域も値域も考えない、 よく分からない概念として suc を考え、それゆえに X が省略できて、君流のペアノシステムにおける 「1.1」手前の初期段階の時点では見かけ上 (f,s) という2つ組で表現することが出来ているようである。 で、君が言うところの写像の定義は >>(s f) や (s (s f)) といった対象を集合論の中でどのように定義するつもりなのか? >これの対象は任意の項って事にしたい。 >(1, ÷2)で言えば数じゃないものに対しては「未定義」というだけ。0除算と同じ事。 >どれが未定義なのかは自然数系の中では興味がない。ただそれだけの事。 >日本語じゃなくて述語論理で定義すれば一応そういう意味になるでしょ? というものである。ぶっちゃけ、これが何を意味しているのか俺には分からない。任意の項が対象ってことは、 項 t を与えるごとに (s t) もしくは s(t) が定義されるということなのか?もしそうなら、s は直観的には s:Sets → Sets というクラス間の写像のようなナニカを表現していることになる。この場合、 >(f,s)の組から、以下の性質を持つ集合Nを唯一つ導ける。 >1.1. f∈N >1.2. ∀n∈N[ s(n) ∈ N ] >1.3. ∀S∋f[ ∀n∈S[s(n)∈S] ⇒ N∈S ] この性質を持つ N の存在性をどうやって集合論の中で証明するつもりなんだ? というか、よく考えてみると、s を通常の写像だとして s:X→X, f∈X とセッティングしたときの (X,s,f) を考えたときでさえ、1.1〜1.3 を満たす N の存在性は全く自明ではない。 ZF集合論の中で標準的に構成される "いつもの自然数" と同じやり方で N が構成できるだろうと思っていたが、 よく考えると、あれが上手く行くのは無限公理のおかげであり、従って suc(x)=x∪{x} という ただ1つの suc でしか上手く N が構成できないことを見落としていた。 で、一体どうやって、そのような N の存在性を証明するつもりなんだ? ちなみに、s を通常の写像だとして s:X→X, f∈X とセッティングしたときの (X,s,f) なら解決策がある。 まず、先にZF集合論の中で "いつもの自然数" を構成しておく。すると、n∈"いつもの自然数" に対して n 回合成関数 s^n:X→X が定義できるので、N={ s^n(f)|n∈"いつもの自然数" } と置けばよいことになる。 しかし、これでは "いつもの自然数" が先に必要になってしまう。君としてはそれでいいのか? また、この議論は s:X→X の場合の話であり、"s:Sets → Sets" の場合は話が別である。 "s:Sets → Sets" と n∈"いつもの自然数" に対して、n回合成関数っぽい "s^n:Sets → Sets" が 集合論の中で定義できるのか否かは、俺はよく知らない。仮に定義できたとして、それで得られる N の構成は N={ s^n(f)|n∈"いつもの自然数" } に過ぎないから、結局は "いつもの自然数" が先に必要になってしまう。君としてはそれでいいのか? 写像とか関係とかに対象を定めなくちゃいけないってのがよく分からん。 なぜそこにこだわらなくちゃいけないのか。 一体何の決まりからそう言っているの? ペアノシステムで言う後者が写像で、自然数系で言う後者が写像よりゆるい条件のものだったら、ペアノシステムより多くのものを表せている事になる。 ペアノシステムを全て表せる上で、さらに広い部分のペアノシステムっぽい他の部分も表せている事になる。 俺が自然数系を定める上で前提としている決まりは、 一階述語論理による表現、それから論理学における基本的な公理体系。この二つだけ。 ヒルベルト流の体系で言えば、 1. A, A⇒B ├ B 2. B ⇒ (A ⇒ B) 3. ( A ⇒ (B ⇒ C) ) ⇒ ( (A ⇒ B) ⇒ (A ⇒ C) ) 4. (¬A ⇒ ¬B) ⇒ (B ⇒ A) 5. ∀x[P(x)] ⇒ P(a) 6. P(a) ⇒ ∃x[P(x)] 全ての命題はただの記号の羅列。 だからこれはこういった意味だからこうじゃなくちゃいけないとかの意味的な事は全く考慮に入れてない。 写像は対象となる集合を定めなくちゃいけないってのはこれら以外のルールを認めてるって事だけど、それは一体どんなルールなの? ここからは余談。 俺はこのヒルベルト流の6つの公理系だけから数学の全ての議論を出来ると今の所は思ってる。 完全性を捨ててもいいなら述語論理すら必要なくなり、命題論理と1.~4.までの公理だけで全て賄えると思ってる。 自然数の定義をするのにZFCとかの公理系が必要じゃないとも思ってる。 ペアノシステムというモデルを具体的に与えるための手段の一つがZFCとかノイマンによる自然数の構築とかって事。 かなり一般とは偏った考えだけど、独学にはありがちな事かもしれない。 もし何かおかしな事があるなら、良ければこっちにも突っ込んで欲しいんだけど。 >>625 >ペアノシステムで言う後者が写像で、自然数系で言う後者が写像よりゆるい条件のものだったら、 >ペアノシステムより多くのものを表せている事になる。 N の存在性が証明できるなら、確かにそういうことになる。 >俺が自然数系を定める上で前提としている決まりは、 >一階述語論理による表現、それから論理学における基本的な公理体系。この二つだけ。 その前提から一体どうやって N の存在性を証明するのだと聞いているのだが? >写像は対象となる集合を定めなくちゃいけないってのはこれら以外のルールを認めてるって事だけど、それは一体どんなルールなの? 集合論における標準的な写像の定義は既に書いた。そこでは写像はある種の集合として定められる。 そして、俺はこれ以外の写像の定義を否定している わ け で は な い 。 ・ 君が言っている写像の定義は俺にはよく分からない。 ・ 君が言っている写像の定義のもとで、どうやって N の存在性を証明するのだ? と俺は言っているのである。 Nの存在性ってどうゆう事? 先頭と後者の組から1.1. 1.2. 1.3.を満たすような集合が唯一つ存在する事を証明する事は必要だけどそれのこと? >>627-628 一意性は 1.1〜1.3 から自明に出ると思うので、存在性だけ証明すればいいと思う。 俺は集合論にこだわっているが、君はどうやら集合論の中で 1.1〜2.2 を実現しようとは思ってないらしいので、 それならそれで構わない。君が前提としている条件から出発して、N の存在性を是非とも証明してみてほしい。 ちなみに、君の設定のもとでは、N の存在性は証明できないことを先に指摘しておく。 以下でこのことを具体的に書く。 君の条件だけで N の存在性が証明できたと仮定する。 すると、ZF集合論から無限公理を取り除いた公理系において、 f=φ, s(x)=x∪{x} (xは任意の集合) としたのときの (f,s) に対しても、 1.1〜1.3 を満たす N が存在することになる。この N は φ∈N, ∀n∈N [ n∪{n}∈N ] を満たすので、無限公理が導出できたことになる。しかし、無限公理はZF集合論の他の公理からは 証明も反証もできないことが知られているので、以上より、君の条件だけでは N の存在性は証明できないことになる。 うーむ。なるほど。 存在性は全く気にしてなかったなあ。 貴方が言いたい事が分かってきた。 存在性がないなら条件の一つに存在性を持つってのを付け加えなきゃいけないよね。 そしたらいよいよペアノシステムと同じような主張になっちゃうって事でしょ? まあ一意性を保証できるだけでもペアノシステムよりこっちを使いたい気がするけど、でも綺麗な定義じゃないしなあ。 うーむ。 これってつまり(先頭,後者)の組から1.1 1.2 1.3を満たす台が存在しない場合があるって事だよね? それってどんな場合だろう。 先頭から後者を使ってチェーンを繋げて行くとき、未定義にぶち当たった場合? それって存在しないって事なのかなあ。 なんかもうちょっとしっくりくる具体例がありそうだけど思い浮かばない。 >>630 でも存在性がない事を示せてるのかもしれないけど、何か腑に落ちないと言うか半信半疑って感じ。 台が存在しないような(先頭,後者)の具体例があれば完全に諦めがつくんだけど、どう? ああ、てかそっか。 未定義にぶち当たるんじゃなくて、後者がないと定義されてる元にぶち当たるとダメなんだ。 先頭から後者を繋げてくと、後者が存在しないものにぶち当たる。 こういった(先頭,後者)だと必ず1.2.に違反するね。 これでとうとう存在性が成り立ってない事を証明できてしまったわけだ。 >>633 >台が存在しないような(先頭,後者)の具体例があれば完全に諦めがつくんだけど、どう? こんなのはどうか? 無限公理はZF集合論の他の公理から証明も反証もできないので、ZF集合論から無限公理を取り除いて、 かわりに「無限公理の否定」を公理として追加したものを考えることにする。 この公理系において、f=φ, s(x)=x∪{x} (xは任意の集合) としたのときの (f,s) に対しては、 1.1〜1.3 を満たす N が存在しない。すなわち、台が存在しない。なぜなら、もし N が存在するなら、 「無限公理の否定」に抵触するからだ。 はぁーなるほどー。 そんな証明の仕方もあるのか。 すっかり感心してしまったよ。 自然数系の定義について書き直すなら、 (f,s)の組に対して以下の性質を持つ集合が存在し、 1.1. f∈N 1.2. ∀n∈N[ s(n) ∈ N ] 1.3. ∀S∋f[ ∀n∈S[s(n)∈S] ⇒ N∈S ] さらに以下の性質を持つならば(f,s)は自然数系である。 2.1. ∀n∈N[s(n) ≠ f] 2.2. ∀n,m ∈N[ n=m ⇔ s(n)=s(m) ] こうなるわけだ。 俺はこの場合でもこっちを使いたいけど人によるのかな。 ペアノシステムとどっちが綺麗な定義なのかって俺的には微妙な線だけど。 >>636 その定義をより簡潔に書くならば、次のように表現できる。 表現A ――――――――――――――――――――――――――――――― (f,s)の組は、以下を満たす N が存在するとき自然数系であるという。 1.1. f∈N 1.2. ∀n∈N [ s(n) ∈ N ] 1.3. ∀S∋f [ ∀n∈S [ s(n)∈S ] ⇒ N⊂S ] 2.1. ∀n∈N [ s(n) ≠ f ] 2.2. ∀n,m∈N [ n=m ⇔ s(n)=s(m) ] ――――――――――――――――――――――――――――――― 同じことだが、次のようにも表現できる。 表現B ―――――――――――――――――――――――――――― (N,f,s)の組は、以下を満たすとき自然数系であるという。 1.1. f∈N 1.2. ∀n∈N [ s(n) ∈ N ] 1.3. ∀S∋f [ ∀n∈S [ s(n)∈S ] ⇒ N⊂S ] 2.1. ∀n∈N [ s(n) ≠ f ] 2.2. ∀n,m∈N [ n=m ⇔ s(n)=s(m) ] ―――――――――――――――――――――――――――― 今までの君は、(f,s) が与えられさえすれば自動的に N が導出できると考えていたからこそ 「2つ組に減らせた」と考えていたわけだが、N はいつでも存在するわけではないことが判明したので、 N の存在性までを最初から定義に盛り込まなければならない。そのときの簡潔な表現方法として、 上記のように「表現A」「表現B」という2つの表現の仕方がある。 表現Bは3つ組みのままであり、よく見ると既存のペアノシステムとほぼ同じものである。 表現Aなら2つ組に減っているように見えるが、何度も言うとおり、N がなければ「自然数系」の定義が 完成しないという点において、なおかつ、Nの存在性までを最初から仮定しなければならないという点において、 表現Aも本質的には「3つ組」のままである。 ただし、Nは、もし存在するなら (f,s) に関して一意的なので、この意味においては 「表現Aは2つ組である」と言えなくもない。しかし、表現Aと表現Bを見比べれば分かるように、 表現Aの書き方を以って「2つ組に減らせた」というのは、少なくとも俺にとっては何の有難味も感じられない。 もちろん、君自身が 1.1〜2.2 の書き方で腑に落ちること自体は批判しない。 まあ、このあたりでこの話は終わりですかね。 厳密なゼロはなく、ゼロには色があり ゼロには音がある。 身体があり、モノであり、空間であり、宇宙である0⃣ 実数あるいは項を代入するなりして、フレーム化して実用数であるというような 解説、説明が必要だろう。代数は。 結局、公理と関係両方を記述しなければいけないのか? ペアノシステムは後者関係を基礎にして自然数を定義しているので、 最初が 0 だろうが 1 だろうが 3 だろうが、全単射が存在するので同型だと 考えられる。これは序数を基礎として自然数を考えていると解釈すると、 「使い勝手がいい」という利点がある。これは、藤沢 利喜太郎が主導した、 いわゆる「数え主義」的な発想だといえる。 これに対して、加法を基礎にして自然数を定義した場合(田村二郎 『量と数の理論』などは、この流儀)は、直観主義的な立場といえる。 “量”との対応において理解しやすくはあるが、集合論を基礎にした 現代数学(“量”を捨象して、純粋な“数”に基づいて構築された数学) においては、“使い勝手が悪い”という憾みがある。すなわち、 「それは『算数』の発想であって、『数学』の発想ではない」という 批判もありうる。 とはいえ、どちらの定義によっても、結果が矛盾することはないので、 実用上はどちらでもよい、という立場はある。「1+1=2」は“定義”に 関わる問題かもしれないが、「2+2=4」は論理的な帰結として正しい。 日本では「1+1は2」という言い回しが使われるが、欧米では 「2+2は4」という表現もあるらしい。 「2+2 は 4である! それは、“ときどきそうなる”のではなくて、 ”いつも必ず同じ結果をもたらす”んじゃ!」 ジャック・フットレル、『思考機械の事件簿』の主人公、 オーガスタス・S・F・X・ヴァン・ドゥーゼン博士の口癖。 >>646 ラッセルの、The Probrem of Philosophyじゃなかったか。 >>647 ありがとう。バートランド・ラッセルの『哲学入門』だな。 ちくま学芸文庫で邦訳が出てるらしいから、探してくる。 今のところ、吉田 洋一先生と赤 攝也先生の『数学序説』 (同じく、ちくま学芸文庫)と島内 剛一先生の『数学の基礎』も、 きっちり理解しておらんので、いまのところ一般向けの通俗解説書の域を 出とらんのよ。 おれはコンピュータ畑の人間なので、クヌス先生の『至福の超現実数 ― 純粋数学に魅せられた男と女の物語』あたりから勉強しなおしてくる。 ちなみに赤 攝也先生は、「コンピュータサイエンス専門誌」である 共立出版の『bit』の創刊者だそうだ。 >>648 そうすると、邦題としては『哲学入門』よりも『哲学における諸問題』 みたいなほうがよかったのかもな。 赤 摂也先生と島内 剛一先生は、ともに立教大学にいらっしゃったんだが、 島内先生は『数学の基礎』の序文で「この本は、(証明可能性とかの) 数学基礎論の本ではない」と念押ししていたのは、赤先生との関係性が あったのかもしれないと思う。 あと、恥ずかしいけどコーエンの『連続体仮説』も、まだ読みきっては いない。読まなきゃいけない本(要するに「詰ん読」書)が多いのは、 正直なところツラい。 講読とか輪読とかの会があるんなら、通いたいところだ。 >>651 そうなると、「Make 10」を演繹的に解かないといけなくなると 思うんだが。 赤 摂也先生も島内 剛一先生も、「それ、どっか無理してるだろう」と 思ったからコンピュータの方に興味を持ったんだろ? 四色問題なんか、「あんなの証明じゃねぇよ!」みたいな話があるのは もちろん理解できるんだが、「有限の範囲内で解けて、コンピュータで 網羅できる」んなら、それは証明として認められると思うんだが。 ぜんぜん違う話だが、業務系のシステムを作っていたときに、 伝票の金額は自然数だということだった。 もちろん「0円」の伝票は通常は切らんわけだが、 「赤伝」(赤字伝票)というものがあって、 マイナス円の伝票というのが入力できないというので、 システムの全面見直しという騒動があった。 そもそも、何をもって「自然」とするかというのは、 議論の余地はあると思うんだが、どうだろう。 0.1 0.01 ゼロは成立しないし限りなくゼロに近い数があるだけ。 と考えると一応自然数に見えるが。 ゼロは確かに存在する、と考えると、ゼロは数と何かをつないでいるようにも見える 。全きゼロがあるなら、それは数と言えるものではなく、ある種の媒介のような モノなのだろうが、自然にゼロが存在するかというとやはりありそうで、 自然数でもあるでいいんじゃないかな。 >>656 そもそも 0 を発見したインド数学の考え方だと、 1 以上の数は「実在するもの」なんだけど、 0 は「仮にそういうものがあったとして」という 哲学的なイメージがあって、「0 を持ちこむことで 考え方がすっきりする」という触媒ないし劇薬的なもので あったらしい。だから、0 は「悪魔の数字」と呼ばれて いたという。 英語でも文語で “Cypher” には 0 の意味があるし。 生活感覚における自然数、と考えると自然数は 1 からで、 哲学的議論としては「特別な数」としての 0 を導入することで 精密が議論ができて(数学基礎論なんかではそうだ)、 コンピュータの場合は実用的な実装における判断だから 「符号なし整数」≒「自然数」ということで「まぁ、いいんじゃね?」 みたいな感覚なんじゃないかと思われ。 >>656 ペアノの公準によると、「次の数」っていうのがキモになっているので、 「底」にあたるのが「無限小で、かつ10のマイナス冪乗」になっちゃうから 現代数学においては扱いに困っちゃうのよ。 そのあたりは、ネイピアあたりに起源があるんだけど、 ネイピアの時代は、まだ「現代数学」というものが 確立されていなかったもんだから、現代数学とのすり合わせが うまくいっていない部分があるのよね。 そのあたりは、もうちょっとこのスレで議論されても いいと思うのよ。 数学としてはどちらでも滞りはない 数学をやる上での利便性では0を自然数に含めない理由はない >>659 その通りだ。 「自然数」ではなく「符号なし整数」であっても なんの問題もないし、コンピュータ・サイエンスとの 親和性を考えると、むしろ有益だと考える。 だけど、明解国語辞典に「正の整数を意味する老人語」とか 書かれちゃったら、ちょっと傷つくな。 >>662 自然数は群を作らなくて半群でしかないから、 (0 と負数を加えた)整数の一部分として扱うのが 数学的には扱いやすいっていうことじゃないでしょうか。 ゼロを発見するというがどこまで行ってもやはり1なんじゃないのかな。 1がなくなるとゼロになるかというと、やはり捕食の関係があってゼロにはならぬ。 ゼロという仮象のなかで、考えてもやはりゼロがあるということはしっくりこないし、 発見したというよりねつ造だよそりゃあさ。 HP がゼロになることに似ているね。というかそのものだ。 >>1 0の発見という言い方がある。 色々な数が考えられ使われ出した後から0は考えられたのだ。 人間が自然発生的に使い出した、 物を数えるための記号を自然数と定義するならば、 0は明らかに自然数ではない。 その後の数学の形式化の中で、自然数を公理化するときに、 都合がいいので0を自然数にしたのだ。 このとき自然数の定義は自然発生的な物から、公理による物に変わった。 従って結論は、0は、 1)人類史の上では自然数ではない。 2)形式化された現代数学では自然数である。 3)高校や大学教養レベルあるいは工学系の応用数学までは、 形式化された現代数学ではないので自然数ではない。 >>669 自然数だってゼロと同じように考えられたものだよ。 ヒバタン族は数の概念を持っていないし、 「1,2、たくさん」 という概念の部族もいる。 >>670 その通りです。わたしも>>669 でそう書いているつもりですが何か? 数でまとめるのもあやまりで、人の認識が剥離すると思うよ。原始論者的には。 数字がさすものと数字の、均整がとれていないこともよくあること。 運用上は、丁寧に早くすべき面もあったろうにな。 1が自然数と認識されて高々500年程度だし>>669 の考えに従えば歴史的には1は自然数ではないと言っていいな。 >>676 >>669 に従えば、1は自然数だよ。 歴史的にもそれ以外でも自然数だ。 自然数と認識されて何年とか何の意味もない。 数学で売れたいなら 、式や数字に触れちゃだめだよ。難という堕落堕天使。 >>678 ユークリッド原論によると1は数ではない >>669 〜 >>681 ペアノの公理はバージョン違いがある。 >>680 いやいや、歴史的には0は自然数ではない。 また、歴史的には1は自然数だ。 そうしないと>>669 の趣旨とロジックに反することになる。 もし>>669 のロジックに間違いがあれば、 0と1がともに歴史的に自然数であるとか、 ともに歴史的に自然数ではないということが考えられるだろう。 しかし、今のところ、そこを指摘した書き込みはないようだ。 1はそもそも数と認識されていなかったんだから0が自然数でないというなら1も自然数ではない。 >>681 ユークリッドが1をどのように考えても問題ない。 あれだけの天才だから独自の定義がある方がむしろ自然だ。 そのことと1が自然数であることは全く矛盾しない。 人類史的な意味での自然数の定義(素朴な定義)は、 何度も再定義され、共通認識が得られたのは、 歴史的には公理的な定義より少し古いか、 ひょっとしたら、公理的な定義より新しいのかもしれない。 いずれにしても、歴史的に大昔の古代ギリシャ人が1をどう考えたかは、 ほとんど意味がない。 まるでユークリッド以外は1を自然数と認識していたみたいな書き方だね。 事実は全く逆で、だからユークリッドも1を自然数と認識していなかっただけ。 >>686 それでいいんじゃないの。問題ないと思うよ。 普通に考えて、古代ギリシャの一般人が、 現代人のような数の認識をしている筈がないよね。 誰もあなたのそのコメントに反対しないと思うよ。 そもそも当時、数を数えられた人が何人いたのだろうかね。 一方、公理的ではない素朴な意味の自然数という概念は、 比較的最近共通認識ができたようなものだよね。 ということは、古代ギリシャ人が、1をどのようにとらえていようと、 1が歴史的に自然数であることや、 0が歴史的に自然数でないことと何の関係もないよね。 それらが関係したら、トンデモ本以上のトンデモ話だ。 いやはや、あり得ないよね。 だから1を自然数と数学やってた人が言い始めたのも高々500年ほど前からなんだけどね。 なんか根本的な歴史認識がいかにも現代人の思い込みに染まっているなあと。 >>690 高々500年というその年数は意味がないよね。 歴史の長さを根拠にして何かを主張しているわけではないからね。 500年が、300年でも、800年でも何も関係しない。 人類の文化史的には、1は自然数だし、0は自然数ではないよね。 繰り返すけど、この主張は歴史の長さを根拠にしていないんだよ。 人間が歴史的にどの時期に自然数という言葉を使いだしたかは、 人類の数の文化史という意味の歴史的には本質ではないよね。 だから1が自然数というなら0が自然数にならないとは言えないし、0が自然数ではないというなら同じくらい人類の文化史的には1も自然数ではないよね。 人類は1を自然数とみなしてなかったという事実は変わらない。 >>691 >>692 そんなことより、おまえらの知識を知りたい。 ゼロだってアルゴリックに考えれば、動く数字なんだよ。 自然数はペアノの公理。 じゃあ、整数は何ですか? 有理数は何ですか? 実数は何ですか? 血液型O型が実はゼロ型だと聞いた。 赤血球にびっしり生えている糖鎖の原形だそうで。 それを原形にしてどんな単糖がつくかでA型とB型が決まるんだとか。 数字のゼロは座標系の原点オーと同じと考えていいのかな? 代数としては 自然数はペアノ算術 整数は最小の順序環 有理数は最小の順序体 実数は実閉体 かな >>698 訂正 整数は「0と異なる乗法単位元1を持つ」最小の順序環 でないとまずいな。 そこ訂正するほど細かい意味でいってたのなら、実数のとこも直して頼む >>700 加減乗除の話だから良いんじゃないの? もちろん実数より小さくても実閉体にはなるけど、理論は同じだから。 >>701 そもそも加減乗除の話だというなら順序環とか順序体の「順序」は余計じゃないのか? 実閉体なら大きくても小さくてもいいくせに、ほかは最小に限定するってのも変な話だろう >>703 順序はなくして標数0にした方が良いか 自然に順序も誘導されるし 最小性は帰納法のようにある意味一階で表現できるが、完備のような最大性は一階では無理なので、敢えて代数的と断って実閉体にした どちらにせよ標準モデルのように特定したいなら、ZFCで自然数の標準モデル(に+*入れたもの)を作って それから順序対の同値類別で整数作って それから順序対の同値類別で有理数作って それからコーシー列なり切断なりで実数作って となるけど、自然数はペアノの公理というならモデルではなく公理系を求めているんだろうからこれは違うかなと 複素数上1/0=不能 |Re(拡張複素数上1/0極座標表示)|=|拡張実数上1/0|=拡張正実数上1/0 =|Re(∞∠不定)|=|±∞|=∞ 0/0=不定、どこまで拡張した数系でも不定 負実数<0<正実数 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる