集合論について
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いくらなんでも数学板に集合論全般を扱うスレがないのはおかしいだろ >>147
> 実数の集合がその例ですね。非可算かつ自然な順序関係によって整列される
? まあ取り敢えずは教科書で整列順序の定義を確認しよう >>148
そうか、0以上の実数の集合、としても駄目ですね。
じゃあ、非可算な整列集合ってどういうものだろう?
整列って変な性質ですね 変に見えるから選択公理にいちゃもんつける人がまだまだいるんだろう 選択公理はどこが変なのでしょうか?無限公理が変だと思わないように
選択公理も全然変だと思わないですけどね。
整列の方は、可算でもなく単なる全順序でもないという、なんだか変な
感じがするけど。 整列可能定理よりもZornの補題の方が遥かに「成り立ってそうな感じ」がする >>153
選択公理の帰結や、選択公理と同値な命題を色々眺めてれば何か悟るんじゃね? 選択公理が変だと思う奴はあまりいないだろ
選択公理から出る結果が変だと思うから選択公理も疑われるだけ
有名なのはバナッハ・タルスキーの定理だな 濃度をまともに扱いたければ結局選択公理に頼るしかなくなるから大抵は悟ることになる。 >>151
たしかに変なことが起きるのは非可算な整列集合のときだけかもしれん
可算集合の場合はいくら選択公理を適用してもおかしなことは起きんのじゃないかな 選択公理そのものは認めずに、可算選択や従属選択に制限してADつけ加えるとかもあるけど、実数を扱うならちゃんとした選択公理が欲しい。
たとえばRを、差が有理数な時同値という同値関係〜で類別した時に、従属選択ぐらいではR/〜の濃度がRの濃度より大きくなったりしてしまう。 >R/〜の濃度がRの濃度より大きくなったりしてしまう
それはバナッハ・タルスキーの定理よりもよっぽど気持ち悪いですね ラッセルが、1足づつある靴下(左右の区別がつかない)の集合から片方を
一つづつ選んだ選択集合は作れないだろうという主旨のことを言っているが、
なんでつくれないんだっけ? 写像というのは定義域のすべての要素に対してそれぞれ値がただひとつ決まらなければならない。重要なのは順に決めるんじゃなく、一気に全部決まる必要があること。写像は集合の一種。
脚が有限組なら、もちろん具体的に指示して前から順に靴下を選べばよい。終われば一気に決めたのと実質同じだから。しかし、無限組ある場合、このような具体的な指示ではいつまでも対応づけは終わらない。一気に決めた状態に辿り着くことはない。
無限にあっても前の組までの対応から次の組の対応が決まるならそれは具体的な指示だから値は決められるかもしれない。可算選択や従属選択が比較的嫌われないのはそのあたりにあるわけで、その意味で靴下のたとえはあまり適切ではないかも。
また、靴なら右を選ぶという具体的な指示ですべて一気に選べるだろう。
しかし、たとえば無限組の脚がぐちゃぐちゃな配置で前から並んでいない虫で、ペアとなる脚の組から靴下をひとつずつ選ぶ時、適当な指示を与える有効な手段は無いかもしれない。となると、一気に決まると断言することはできない。
選択公理はそれができると断言することにあたる。 選択公理は、「そういう写像が在る」ということを主張しているだけで、
「そういう写像が決まる」ことを言ってるのじゃないから、ラッセルの
例は、選択公理に対する反例(というのかな)にはならないのでは? ラッセルのは反例というよりは、じゃあこの場合は本当に選択関数はあるの?という問いかけでしょう。あるというなら具体的に示して、と。
ヒルベルトの「神学」や、カントールの実無限に対する批判を見れば感じると思うけど、20世紀に抽象数学が発達する以前は具体的手段がないのに選択ができるというのは数学者のスタンダードから外れていた。
まだ選択公理批判が始まった頃はその感覚は相当残っていたんじゃないかと。 互いに素な(空でない)集合からなる(空でない)集合 から代表元を選び出すことの喩え
左右の区別がつかないので、一斉に左を選ぶというような方法で代表元を指定することはできない 可算集合の場合はいくら選択公理を適用してもおかしなことは起きんのじゃないかな 整列してあれば当然問題ないけどそのような構造を与えてない怪しい可算集合なら安心できないというのもひとつの考え方。 >>174
完成された現代数学しか見てなきゃこんなもんだと思うよ。 ラッセルの靴下の例は選択公理の理解に有用だけど
「虚数集合」とか良く分からない用語を勝手に自分流で使ったりするのはアレだね
しかも集合論の話っぽくないし 行列を習ったばかりの高校生が、複素係数の行列も考えられるのでしょうか?
という趣旨の質問をしたと解釈 >>176
自然な整列ができない可算集合があるということ? 可算ということは自然数全体の集合からの1対1ontoな写像はあるはずだから、それを具体的に与えれば整列できるはず。ただ、写像がある、というだけだと、具体的には整列しようがない。 全単射があれば整列順序は得られるし
具体的な全単射があれば具体的な整列順序が得られるというだけの話じゃないの >>182
>全単射があれば整列順序は得られるし
それができるというのがまさしく可算選択公理なわけで。つい当たり前と思ってしまうが、自明からはほど遠い話。 Xが可算集合であるとは全単射f:X→Nが存在することであり、
x, y∈X に対してx≦y⇔f(x)≦f(y)と定義すると(X,≦)は順序集合となり、fは順序同型写像。
ゆえに(X,≦)は整列集合である。
これだとどこか間違ってるの? 具体的な全単射が指定されていればそれで整列できるが、全単射があるというだけではそのように順序を与えることができない。 んん??
そうなのか?
Xが可算集合であるとは∃f(fはXからNへの全単射)のことであり、
x, y∈X に対してx≦y⇔f(x)≦f(y)と定義すると(X,≦)は順序集合となり、fは順序同型写像。
ゆえに(X,≦)は整列集合である。
したがってXは整列可能な集合である(変数fは消えた)。
上の論証でも、Nが整列集合であることの証明でも、選択公理を使っていない。 非可算無限ある全単射: X→N から一個の f を取り出すのはまさに選択公理でしょう それは選択公理ではなく、ヒルベルトのchoice operatorというやつなのでは。
不定にchoiceされたfは最終的に消えるので「可算集合は整列可能である」は証明できたことになると思う。 何度繰り返しても選択公理を使ってないと思い込んでしまうくらい勘違いしやすいということだな。 >>188
fが消えるのと同時に X の順序を決める ≦ も消えてんだよ 非可算集合は、選択公理のもとでも、整列可能だが、「具体的には整列
しようがない」のね? >>192 実数の全体について言えば、その種の言明は正しい。 >>190
最終的な結論は「Xは整列可能である」、つまり∃R[ (X,R)は整列集合) ]だよ。
Rはただの束縛変数。
何の問題もないと思うけど。 >>193
「実数の全体」という限定は必要ないのでは?
なお、可算集合は、選択公理がなくても、整列可能 >>195 ω_1 のような非加算順序数の場合は?整列順序を、論理式
x∈y∨x=y で定義できると思うけど。 「芳しい」というより、「香ばしい」やりとりだな。
自然数の整列性は、自然数の定義にもよるだろうが、
普通の定義、例えばベアノの自然数なら、証明できる。
その上で、整列順序の存在は、
可算集合と自然数集合との全単射の存在と同値。
可算選択は、数学的帰納法に過ぎない。 >>190
自然演繹の∃除去の規則を思い出せば分かると思うんだけど。 >可算選択は、数学的帰納法に過ぎない。
可算整列は、数学的帰納法に過ぎない。
の間違い? 190はそもそも、fが消えるとか自然演繹とか、意味わかっとらんのやろ >>183
可算選択公理 axiom of countable choice ってのは
A_n≠φ(n∈ω)のとき選択函数 f : N→∪A_n で f(n) ∈ A_nとなるものが存在する、
という主張のことを言うと思うんだけど。
https://www.google.co.jp/search?q=axiom+of+countable+choice
可算集合が整列できないなんていう変な主張のことじゃないよ。
一個以上あるものから一個を取り出すだけなら
(具体的なものを取れるかどうかは分からないけど)選択公理は要らない。 >>203
だからそれ(存在量化された命題から、一つの実例を選び出す)は選択関数じゃないっての
選択公理とは、「存在量化された命題から、一つの実例を選び出す」という操作を無限回行えることを保証する公理 「存在量化された命題から、一つの実例を選び出す」という操作を無限回 しかも一括で 行えることを保証する公理
と言った方がいいかも 選択函数ってのは
空でない集合の族 F = {A_i} (i∈I), A_i ≠φがあったときに
f(i)∈A_i となるような函数
(つまり A_i たちからそれぞれ要素 f(i) をチョイスする函数)
のことを言う、という風に定義されてると思うけど。
選択函数とか或る集合が可算であるとか、可算選択公理とかの
定義を確認した方が良いと思う。 与えられた集合 X の整列順序を ZFC の具体的な論理式で書き下してくれとか、
与えられた、空でない集合族 (A_i)_{i∈I} (A_i ≠ φ)の
選択関数を具体的に構成してくれとか、そういう要求でないのかな? たとえば、実数の全体の整列順序関係を、ZFC + GCH 内で具体的な論理式で
書き下すことが不可能なことは、すでに知られているよ。 >>192
バナッハタルスキの件も、「具体的には整列しようがない」非可算集合を整列しちゃう
ところから生じているの? 代表元が取り出せることだったような。まあ同じことか バナッハ・タルスキーは、体積が違う球体が作れてしまうのが
選択公理のせいではないことは分かっている 今までの議論ざっくり見ましたが,大学2,3年生ぐらいの議論という事ですか?
曖昧な表現や思い込み・勘違いな表現が多数見受けられましたが。 単に定義について勘違いをしてた人が居ただけ
まああまり高度なポイントではなくて
きちんと本に書いてある定義に則って話をするかどうかということだけど 選択公理→ハーンバナッハ→バナッハタルスキ
だから、選択公理のせいではないとは言えない Banach-Tarskiの定理そのものはACが無いと証明できないけど
同じようにパラドクシカルな定理がAC無しに示せるので、
ACの関わっている部分はかなり微妙な部分になる
http://www.pnas.org/content/89/22/10726.full.pdf ACがあれば証明されるけどACより弱い定理から導かれるのでACが必要というわけではなくAC無しでも証明できる >>183を見る限り、定義の勘違いだけではなさそうだが…
本当は必要ないのに、特別な公理が必要だと思い違いをしてて、こっちの方が深刻 選択公理も含めて、どの公理もその独立性は直感的に明らかだと思うんだが、
独立だと思っていたら実は独立でなかったというような公理はなにかあったの? ZF + not ACのモデルの存在は直感的に明らかということでOK?
というか分出公理は置換公理から出て来るとか、
公理同士の依存関係は結構あるよ
分出公理や空集合の存在を除いても確か除いて良い公理があったような > ZF + not ACのモデルの存在は直感的に明らかということでOK?
そのつもり。+ ACも + not ACもどちらも直感的に矛盾しそうにない。
> というか分出公理は置換公理から出て来るとか
分出公理と置換公理は、むしろ直感的に等価だと感じる方に属する。 分出公理から置換公理は出ないから等価というのはおかしいよ。
置換公理の方が遥かに強い。 不用意だった。あなたの言うとおりだ。
ただ、置換公理->分出公理であることは、直感的にもわかりやすいよね。
一方、分出公理!->置換公理であることはオレにはすぐにはわからないのだが >>229
累積的階層のR(ω+ω)がZCのモデルになって
置換公理以外は分出も含めて成り立つけど置換公理は満たさない
特に順序数ω+ωが存在しない
「明らか」という言葉は簡単に証明できると言える場合以外使わない方が無難だと思う 僕は昔集合論を勉強し始まったころ、ZF から AC が証明できると思い込んで、
しかもそれが「直観的にも明らか」だと信じてしまっていた経験がある。
後でゲーデルやコーエンの理論を読んで、じっくり反省しました。 ちょっと初歩的な質問をさせて貰いますが,
「ACがZFから独立である事を証明するには,ZF+¬ACのモデルの存在を言えばいい」って言うのは何故ですか? >>233
それがあなたなりの根拠があってそう直感したということだったとしたら
おもしろいね。どういう根拠だったか知りたい。少なくとも、¬ACの独立性は
正しく直感していたということなわけだし。
>>234
なにか代わりの公理を入れて?
>>235
完全性定理 ブルバキのは確かR(x)を満たすxが存在するならその存在するもののうちひとつを表す記号(なければなんでもよい)
τ_xR(x)
があるので、これを用いれば選択関数が簡単に作れてしまうという、半ば反則的な方法をとっていたと思う。 そのものじゃないでしょ。でもすべてのx∈Xについてf(x)≠φならば、選択関数gが
g(x)=τ_y(y∈f(x))
で定義できる。 数理論理学的にはちょっと違うけどね。
たとえば選択公理を認めても選択函数はdefinableなもの
(上で言うところの「具体的」な函数)になるとは
限らないけど、ブルバキのτ(ι記号とも言う)を使。うなら
必ず論理式で具体的に書けるような関数になる
集合論は「明らか」だと思われるようなことに
実は数学的・論理学的にすごく微妙subtleな点があるのが面白さの一つだと思う キューネン『集合論』は、集合論の入門書ですか?それとももっとレベルが高いですか? レベルが高い入門書です。
何年か前に30年近くぶりに新版が出て内容が一変してます。 ある程度集合論について知識持った方に聞きたいんですけど,
どの学年でどの程度の知識を持っているのが大体の相場なんでしょうか?
例えば, 学部○年で,松坂の集合位相入門の,濃度・順序数をほぼ完璧に理解。○年で,不完全性定理を理解。
修士or博士○年で強制法理解・・・・とか・・ >>241
>集合論は「明らか」だと思われるようなことに
>実は数学的・論理学的にすごく微妙subtleな点があるのが面白さの一つだと思う
それは集合論に限ったことではないと思うのだが、どう?
それに、(これも一般に)微妙な点というのは弱みであることも多い
(むしろふつううはそう)と思うが、どう? しかし研究対象がそもそもsubtleに出来ているのなら
それをそのままsubtleに(霊妙に、とでも訳せば良いのか)理解しないといけない。
Einstein曰く、"Subtle is the Lord, but malicious He is not."
神は霊妙ではかりがたい。だが悪意は持たない。 >>237
根拠となったのは、以下の主張です。
ZF の任意の可算モデルを M とします。以下、ZF の論理式A(x_1, ... , x_n)
は M に変数を持つものとして解釈します。M は可算だから、整列可能。従って、
任意の論理式 A(y, x_1, ... , x_n) と M の元の列 a_1, ... , a_n に対し、
A(y, a_1, ... , a_n) なる y∈M が存在すれば、そのような y の最小限を
f(a_1, ... , a_n) とおき、A(y, a_1, ... , a_n) なる y∈M が存在しなければ、
M の最小元を f(a_1, ... , a_n) とおきます。
こうすることによって、M 上の論理式には全てスコーレム関数が定義できるわけで、
M は ZFC のモデルとなります。
従って、M 内で AC は真。したがって、完全性定理より、ZF から AC は証明可能。
この論証の間違いを理解するのに、数ヶ月かかりました(笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています