■肝炎・脂肪肝・肝臓障害スレッド67■
広岡はまず、親会社である西武グループ関連の書物を全部読み漁った。
名声欲しさや契約条件では絶対に釣られない広岡は、西武ライオンズが新興球団ゆえに親会社の理念や経営状態がどうなのかをしっかりリサーチした。そして、西武の監督を引き受けた。
八〇〜九〇年代の西武黄金時代を作り上げたのは、ひとえに現場で選手を成長させた広岡の手腕と、成長しうる逸材を集めてきた根本の尽力によるものだ。
この二人三脚がすべてであり、どちらが欠けても黄金期は訪れなかっただろう。
「根本さんは一見、人から頼まれたら嫌と言えない良い男に見える。任俠めいた雰囲気を持っていて、男っぷりも良い。
西武では金を使うだけ使ってダイエーに行った。ダイエー でも使うだけ使って亡くなったが、それによって王が浮かばれた。根本さんはそういう男」
球界に蔓延る面倒な案件を治めるのも根本が得意とする仕事で、表には出ない反社会勢力絡みの案件も平気で片付ける。
誰も逆らえないアンタッチャブルな存在だった根本に唯一対抗できたのが広岡だ。
満を持しての三年ぶりの球界復帰。初めての春季キャンプ前に、こんなことがあった。強面の根本が小難しい顔をしながら広岡に言う。
「うちはこういうのに長けている。両サイドからキャッチャーのサインを映し出すからプ ラスにせえ」
客席にビデオ班を置いて、スタンドから相手のサインを盗むやり口だ。広岡は呆れた。
「根本さん、キャンプはインチキするためにあるんじゃないですよ」
「わかってる。とにかくキャンプで想定してやらせろ!」
「そんなことしなくても勝てばいいんでしょ。やらなくても勝ちますから」
断固拒否し、サイン盗みといった卑劣な行為をしなくても絶対に勝ってやると誓った。
(次回に続く) 「これじゃあ高校野球じゃねえかよ!」
選手たちからの猛反発を受けながらも、広岡達朗が“管理野球”を貫いた理由 | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1984017 西武ライオンズ時代、選手たちに課した“食事改善”
八一年オフ、四九歳の広岡達朗は満を持して西武の監督に就任。
最初に取り組んだのは選手たちの食事の改善だった。疲労回復を促進するアルカリ性の食材を多く摂り入れることを厳命した。
当時、あまりに先鋭的だった食事改善について広岡達朗はこう語る。
「年によって必要な食べ物も違うし、考え方も違う。大人になるための素材を大地の神様が作っているという考えで、二〇代までは動物性タンパク質を摂って身体を作り、三〇になったらそれらをできるだけ減らしていく。
四〇代以降は動物性タンパク質を摂らず、野菜や果物を食べて長生きする。これが『自然の法則』なのだ。
ヤクルト時代もそうだったけど、こうした自然の法則にできるだけ逆らわないよう指導しただけ」
今では中学生でも、徹底したカロリー計算のもとバランス良く食事を摂る食育≠行うことが基本となっている。
だが、当時は無法状態だった。
一晩でどれだけ飲んで食った かが武勇伝のように語られた。
水島新司の伝説の漫画『あぶさん』のように、二日酔いで ホームランを打つ選手が破天荒として人気を得た時代だ。
テレビの世界でも、情報バラエティー番組『久米宏のTVスクランブル』(八二〜八五年)に天才漫才師の横山やすしが酒を飲んで出演していたくらいだ。
観ているぶんには面白かったが、すぐさま降板となった。そりゃそうだろう。今なら絶対にできない。 東尾修、田淵幸一…西武のベテラン陣からの反発
打って投げて、試合が終わったらバカみたいに肉を食ってアホみたいにビールをかっくらう。
これが当時のプロ野球選手の食生活で、良くも悪くも豪快≠ニいう言葉で許された時代。
コンディションの維持はアマや弱者がやることだという風潮がいまだ根強かったプロ野球界では、広岡の考えは異端だった。
当然、ヤクルト時代と同様に選手からは総スカンを食らった。特にベテラン陣からの反発は凄まじかった。
東尾修、田淵幸一、山崎裕之、大田卓司、片平晋作、黒田正宏といった西武のベテランたちは「食いたいものも食えないのかよ!」と嘆き、激昂した。
しかし、広岡は頑として規制を緩めることをしなかった。だからと言って素直に従う輩たちではない。
「これじゃあ高校野球じゃねえかよ!」 選手たちが管を巻きながら内緒で飲み食いをする。
当時の広岡は、インタビューで雄弁に語っている。
「肉を食うな、酒を一滴も飲むなとは言ってません。全般的に野球選手は肉を食べ過ぎている。
酒も適量なら健康に良いが、バカみたいに飲む選手が多い。だから体力の消耗が激しいキャンプ中は酒を禁じ、肉を控えめにした食事を摂らせているだけ。
別に四六時中監視しているわけじゃないから、どこかで飲むでしょう。
しかし、チームとして禁じておけば少しは歯止めになるだろうと思ってやっています」
マスコミはここぞとばかり面白おかしく報道した。
肉を制限する理由として「日本人は腸が長いから腸に残って腐敗する」などと
広岡が言ってもいないことを勝手に書き立て、日本ハムから激怒されたこともあった。
さすがに広岡も呆れ果てた。
実際、西武の食事改善が球界内外で話題となったことで、ほかの11球団が玄米食の推奨の意図や成果を聞きに視察に来たことを一切報じようとしなかった。
広岡が、面白ければ何でもありという報道のあり方に甚だ疑問を持ったのもこの頃だ。 「選手が『監督だけ酒を飲みやがる』と言ったことがあったけど、アメリカに行ったときに不思議に思ったことがあった。
指導者は練習後に冷えたビールを飲むけど、選手用の冷蔵庫には清涼飲料水しか入ってない。
どういうことだと聞いたら、アメリカ人に笑われた。
アメリカでは教えることを教えたら指導者はビールでもなんでも飲んでいい。
しかし、選手は常にベストコンディションを保たなければいけないので、アルコールは与えられないと。理に適っていると思った」
広岡は得意満面で言う。確かにその通りだ。アメリカは常に合理的でシステマティックに動いている。
しかし、ここは日本だ。皆で目標に向かって一致団結して行動をともにすることを美徳とする精神がある。
指導者だろうと選手だろうと同じ規律のもとで戦おうという軍国主義的な考えが八〇年代はまだ根強く残っており、自分たちだけ我慢を強いられ、指導者だけ好き勝手なことをするのは許さないという認識が蔓延っていた。
広岡のようなアメリカナイズされた考えた方は受け入れられず、かなりのバッシングを浴びた。
しかし、ベテランの田淵や山崎が厳しいトレーニングと徹底した食事管理によって体質改善を果たして見事復調。二年連続で日本一に輝くと、広岡の考えは途端に持ち上げられるようになる。
「例えば病気にかかったときは、現在の食事、睡眠を含めた生活習慣が間違っていること を病気が教えてくれているということ。
野球も同じで、結果が出ないときはどこかやり方 が違うよと成績が教えてくれているだけ。そういう考え方をすれば強くなる」 広岡は、すべて真理に基づいて行動している。
食事管理にしても、こうした考えから「やるべきことをやっているだけ」に過ぎなかった。
それを周りが面白がって騒ぎ、結果が出れば手のひらを返す。つくづく日本人の国民性には呆れたものだ。
就任一年目から二年連続の日本一に輝いた広岡率いる西武ライオンズだったが、八四年シーズンからは田淵、山崎、大田といったベテラン勢に頼ることなく、若手主体のチームへと舵を切った。
ここから、広岡が本当にやりたかった野球の集大成となる新生ライオンズが始動する。
(次回に続く) 「一応、交渉の権利だけ取ってくれませんか」
広岡達朗がプロ入り拒否の工藤公康を6位指名した夜 | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1984060 〜西武ライオンズ時代・工藤公康の証言(前編)〜
ドラフト6位での強行指名
一九八四年六月下旬、雨の音が湿っぽくも耳に馴染む梅雨の真っ只中、ペナントレースも三分の一を消化した頃だ。
監督室の椅子にもたれかかっている広岡達朗は、抑揚のない低い声で突き放すように言った。
「工藤、今季からアメリカで修行してこい」
「え アメリカですか?」
思いもよらぬことだっただけに、どんぐり眼の工藤公康はさらに目を丸くさせた。
「以上だ。後はマネージャーに聞け」
これ以上何も聞くなという雰囲気を醸し出し、広岡は書類に目を通すため顔を伏せてしまった。
仕方なく工藤は「はい」と小さい声で返事しながら監督室のドアを開けた。
「アメリカで修行って言ってたけど、アメリカ留学ってことだよなぁ」
アメリカ≠ニいう単語に戸惑いを見せる工藤だったが、留学への不安というより今シーズンはもう必要ないという烙印を押されたショックのほうが隠しきれない。
西武球場内の薄暗いスロープに、スパイクの歯が立てるカチャカチャという金属音が耳障りに響くのだった。
工藤公康。名古屋電気高校(現愛工大名電)のエースとして、ストレートと縦に落ちるカーブを駆使し、八一年夏の甲子園二回戦の長崎西戦で16奪三振のノーヒットノーラン。
一躍脚光を浴び、ベスト4まで進出した。
この活躍によって超大型左腕としてドラフトの目玉となるはずだった。
しかし、工藤は甲子園大会後、早々と高校卒業の進路として社会人野球チームの熊谷組入りを決めた。いわゆるプロ入り拒否の意思である。
広岡はドラフト前夜に、根本管理部長と最終打ち合わせをしていた。
「根本さん、今年のナンバーワンピッチャーはズバリ誰ですか?」 「名電の工藤だろうな。でも彼は熊谷組に決まっている」
「一応、交渉の権利だけ取ってくれませんか」
広岡の言いたいことをすぐさま理解し、根本も即答する。
「わかった。他の球団も指名して来ないだろうから、最後の枠で指名しよう」
こうして西武ライオンズはドラフト六位で工藤公康を指名した。 この工藤への指名は、巷では根本の囲い込みだ、西武包囲網だと揶揄された。
もし、出来レースだとしたら、本人のプライドを考えて下位での指名ではなかっただろう。
指名後の入団交渉も熊谷組と西武側でいろいろ調整が大変だったと聞く。出来レースであれば、こんなことはないはずだ。
実際に、早くから社会人熊谷組に行くと表明していた工藤はプロに行く気などさらさらなかった。
だがドラフトから数日が経った夜に、根本が工藤家に訪れた。晩飯を食べ酒を酌み交わしながら、父・光義と意気投合して話し込んでいる。
「おい、起きろ!」
父・光義の声がする。「なんだ?」。時計を見ると夜中の三時だ。
「おい、公康、お前プロに行け!」
無理矢理叩き起こされた工藤が寝ぼけ眼で見ると、上機嫌で酔っ払っている父・光義は真っ赤な顔して「いいな、西武へ行け」と叫んでいる。
「うん、わかった」
工藤は眠くて仕方がなかったため、生返事をして再び床についた。結局、工藤は熊谷組ではなく西武ライオンズを選んだ。
「こいつは二軍に置いていたらだめだ」 広岡の決断
「いいカーブ放るな」
自主トレ中のピッチングを見て、広岡は一目で工藤は使えると感じた。
工藤のカーブは、うまく目の錯覚を起こしながら投げる変化球≠ニ自ら言うだけあって、一瞬浮き上がるような軌道を描く。
バッターとピッチャーとのちょうど中間あたりで 一気に急降下するため、パッと視界から消えるような感覚に陥る。
工藤自身もどれくらい曲がっているかはわからない。その日の打者の反応を見て大体の球筋を予測する。
広岡は、自主トレ期間、春季キャンプと工藤をじっと観察し性格を分析していた。
「こいつは、二軍に置いていたらだめだ。小利口だから周りに合わせてしまう。一軍で俺のもとで育てよう」
スタッフ会議の場でそう公言した。
広岡がピッチャーを技術的に分析する際にまず見るのはフォームだ。
変則でも自分に合った投げ方をしていればいいが、肩肘に負担がかかる投げ方ならば二軍からスタートだ。
次にスタミナ、そしてメンタルだ。
ストレートや変化球はプロに入るレベルなのだから一定水準は満たしている。
そのうえでピッチャーは健康で長持ちできることがまず先決。工藤は、実に理に適った投げ方をしていた。 高卒ルーキーながら即一軍で通用するカーブを持っていた工藤を、左打者のワンポイントとして起用することを決めた。
マウンド度胸もあり、一級品の球を持つこの男を坊や≠ニ呼び、広岡は可愛がった。
怖いもの知らずというか、マウンド度胸があるというか、ちょっとやそっとじゃ物怖じしないタイプ。それこそが工藤公康の真骨頂だった。
シーズン中、藤井寺球場で近鉄の四番栗橋茂に対して頭部へデッドボールを与えたことがあった。
球場はスタンドの近鉄ファンの野次で大騒ぎ。
工藤が「すいません」と帽子を取って詫びる間に、ベンチの広岡が大声で「工藤もういい、こっちこい、降りろ」とピッチャー交代の合図をした。
昔はすぐに乱闘になるため、こうして場が荒れ始めると早めの継投策で投手を逃すしかなかった。
それでも工藤は、初めて見る騒然とした光景を珍しそうに「へえ〜」といった顔で見回していた。
大阪球場での南海戦では、四番門田博光に対して胸元へ投げて身体を仰け反らせた。すると、門田が鬼の形相でずっと工藤を睨み威嚇する。
「こえぇ〜」と思いながらも、次もインサイド低めに投げると、今度は門田がさらに鋭い目つきでバットをかざして「外を投げろ」と指示する。
「ええ〜」と思いながらも工藤は平然と無視してサイン通りの球を投げた。まさに昭和の野球だ。
ルーキーイヤーは、27試合に登板し、1勝1敗、防御率3・41。ワンポイントの登板が主ではあるが、高卒新人としては上々だ。
そして、二年目、新人王候補の筆頭とされ、春先のキャンプでも期待の若手として大いに期待されたが、シーズンに入ると中継ぎ専門となり、23試合登板で2勝0敗、防御率3・24。
そして、運命の三年目を迎えることとなる――。
(次回に続く) 「漫然と野球をやっていた」
広岡達朗の指令によりアメリカへ飛んだ工藤公康の“覚醒前夜” | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1984779 〜西武ライオンズ編 工藤公康 後編〜
米国で目の当たりにした“ハングリー精神”
いよいよ三年目、監督の広岡達朗は若手のホープとして工藤公康に一番期待をかけていた。
しかし、思うような結果が出ない焦りからか、工藤はカーブの精度も悪くなり、何より自信を喪失しかけていた。
ここで荒療治をしないと、坊やは坊やのまま終わる。そう感じた広岡は、わずか9試合のみ登板させた後、七月半ばにカリフォルニアリーグ1Aのサンノゼ・ビーズに野球留学させた。
引率には二軍バッテリーコーチの和田博実がついた。和田といえば、西鉄ライオンズ黄金期に稲尾和久とバッテリーを組んでいたキャッチャーだ。
「ええか、工藤、アメリカ行ったらよう見とけよ」
若い盛りの工藤は、やんちゃなことをしては和田によく怒られた。
口うるさい叱咤は、工藤が大きく育つようにと願う和田の親心のようなものだった。
カリフォルニアリーグは、八月いっぱいまで。「アメリカだろうとメキシコだろうと同じ野球をやるんだ」。
すべてを強烈に照らす西海岸の真夏の太陽のもと、工藤は萎縮することなく息巻いていたが、そう簡単にことは運ばなかった。
長時間のバス移動は当たり前、微々たるミールマネー(食事代)のため食事は質素。
草野球場に毛が生えた程度のスタジアム。日本での自分はつくづく恵まれているんだと実感した。
日本では寮に入れば冷暖房完備だし、アルバイトをして生活費を稼ぐ必要はない。
寮の食堂に行けば飯はたらふく食べられる。かつては、高卒だったら大体五年間は面倒を見てくれるという不文律があったため、その期間は、完全に野球に没頭できる環境を与えてくれる。
しかし、ここはアメリカだ。一週間や一〇日で結果が出なかったら、どんどんクビを切られていく。 カリフォルニアリーグとは、メジャー、3A、2A、1Aのなかの一番下に属するリーグ。かつては1Aを二つや三つ持っていた球団もあった。
工藤は、リリースされた選手各々に挨拶がてら今後のことを聞いてみると、全員が同じことを言うのに驚いた。
「なんで辞めなきゃいけないんだ。俺はたまたま今回、結果が出なかったけど、決して能力がないわけじゃない。
俺はやればできる人間なんだ。今回はたまたまそうなっただけで、 また練習して、必ずメジャーに上がってアメリカンドリームを手に入れるんだ。
俺はそれだけのことをできる人間なんだ」
自分のことを、何の疑いもなく強く信じている。
「こういう思いでベースボールをやっているのか……」
彼らの強い覚悟と意志に、工藤は衝撃を受けた。工藤にとってそれまで飯を食う手段が野球であって、野球をしてどうこうしたいという明確な目的がなかった。
「こんな漫然と野球をやってる自分ってどうよ……」
自問自答した。1Aの選手たちが日に日にリリースされる姿を見て、生きることは試練だとつくづく感じた。
工藤の小利口の特性は、先を見通せる力がある分、どこか冷めた目で物事を見てしまう。
表向きの物怖じしない性格はひとつの側面であって、現実を俯瞰することで見切ってしまう自分もいた。
物怖じしない姿を見せていた工藤だが、実のところ、プロに入った当初はあまりのレベルの差を感じ興冷めしていた。
自分のすぐ上に誰々がいて、その下が誰々で……
俯瞰して物事を見る性格ゆえ、自分が今どの位置にいるかも工藤にはわかった。
一軍でバリバリ投げるためにはローテーションピッチャー以外の全員を抜いていかなくてはならない。
そんなのは土台無理な話だし、何年か経ったらトレードで出されて一、二年で終わるんだろうなと、どこかで自分を見切っていた。
一年目から一軍で投げさせてもらったといっても、左のワンポイントでデータがないルーキーだったからであり、本当の意味で通用しているとは思っていなかった。 工藤は心に訴えかける「俺はどうしたいんだ? 何をやりたいんだ?」
1Aで頑張るマイナー選手たちのひたむきなプレーとメンタルに心を揺り動かされた工藤は、ここでようやく本気になって自身を見つめ直した。
「俺はどうしたいんだ? 何をやりたいんだ?」
俯瞰して考えるのではなく、自らの心に訴えかけた。
その答えさえ出れば、あとはその目的のためにどうすればいいのか逆算していけばいい。
そして何よりも、己を信じること。その地域地区の天才たちが集まっているのがプロの世界。
能力が高いやつの集団であることくらい最初からわかっている。
高卒ルーキーとして一軍で少し投げさせてもらっただけで、まだ何もしていないのに諦めている自分が小っ恥 ずかしくなった。
このときから周りを見なくなり、己を信じてトレーニングに没頭した。
今までは「これぐらいやっとけばいいか」とどこか余力を残していたが、「まだまだ」と自分を追い込むようになった。
スポンジが水を吸収するように技術が伸び、プロ入り時と比べて三年目のシーズン終了後には最高球速が10キロ以上アップした。
カリフォルニアリーグが終了し、いったん帰国して一〇月からアリゾナの教育リーグにも参加した。引率者は同じくコーチの和田だ。
「工藤の顔つきが変わった。カリフォルニアで何か摑んだな」。和田は工藤を一目見てすぐに感じた。
坊や≠ニ呼ばれてヘラヘラしていた男が一皮剝けようとしている。
一カ月半の教育リーグも終わり、心身ともに逞しくなって帰ってきた工藤は、秋季キャンプが終わっても、オフ返上で引き続きトレーニング を続けた。 一二月二七日、年内最後のトレーニングとして第三球場で二つ下の渡辺久信と一緒に投 げ込みをやった。
「バシッ!」「ナイスボール」。ブルペンキャッチャーが心地よいキャッチ音を鳴らし、タイミングよく声をかけてくれる。
ボールへの指のかかりもよく、腕もよく振れている。ボールが走っているのが自分でもわかる。
「やっとプロらしい球を投げるようになったな」
後方から声が聞こえ、振り返るとトレンチコートを羽織った広岡の姿があった。
「監督!」。工藤はびっくりして声を出す。
「続けろ」
「はい」
工藤は反射的に答えた。
工藤と渡辺はアイコンタクトをし、互いに熱のこもったピッチングを披露した。工藤は、褒められたあとに正直ガッツポーズしたい気持ちだった。
この年の暮れの第三球場で、工藤と渡辺の若きエース候補たちが切磋琢磨して投げている姿を見て、広岡は若干口元が緩んだ。
「こいつらが来年、投手陣の柱になれば間違いなく優勝できる」
第三球場の外野の芝は茶色く枯れ上がっているけれど、春になれば青々とした芝に生え変わる。ベテランの力に頼って優勝を手にしたが、本当の意味で西武ライオンズが誕生するのは、来年からだ。乾いた空気を切り裂くように二つのミット音が交互にテンポよく鳴り響くのであった。
(次回へ続く) 二年目にして先発&ストッパーに大抜擢。
広岡達朗が若き渡辺久信を見出した“偶然” | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1984796 〜西武ライオンズ編 渡辺久信〜
「おい、渡辺が残っているじゃないか」
広岡のひと言で決まった西武ライオン入団
広岡達朗は、記憶を紡ぎ出すようにしみじみ言った。
「渡辺久信(現西武ライオンズGM)というのは、あれは隠れ1位で獲ったんだけど、俺が言わなかったら西武に入ってなかったからな。
確か最初は、ヤクルトに行った高野(光)を指名して抽選で外れたんだ。
ウェイバー方式(戦力均衡化を図るため、最下位球団から順に選手を指名できるシステム)があったから、前年度日本一の西武は外れ一位指名が一番最後。
会場のテーブルで資料見ていたら『おい、前橋工業の渡辺が残っているじゃないか』と言ったんだ。
もう指名されたと思って、抜け落ちていたんだな。
とにかく、あいつはなんでも一番でないと気が済まないぐらい負けず嫌いで一生懸命やる男。
ランニングでもいつも先頭に立って走っていた。
だが、球はめっぽう速いものの変化球を放れない。でもこいつの性格なら、二軍に置いて鍛えて、時期が来れば一軍に上げりゃいいと思っていた」
1983年ドラフト1位で西武に入団した渡辺久信。甲子園には高校1年の夏しか出場していなかったが、“前橋工業に渡辺あり”と言われるほどの快速球投手として高校野球界に名を轟かせていた逸材だった。
入団交渉時、長谷川スカウトの前に現れた渡辺は、頭に剃り込みを入れボンタンを羽織った純然たるヤンキースタイル。
ヤンキー漫画『ビーバップハイスクール』全盛の時代だけあって、ちょっとヤンチャな高校生は短ラン、ボンタンに剃り込みを入れていたものだ。 入団当初から身体の強さには目を見張るものがあった。
高校時代に駆り出された陸上大会のハイジャンプ(走り高跳び)で1m85cmを飛んだバネと
背筋力215キロという身体的素質、筋肉の柔らかさ、アスリートとして最高の素材であるのは専門家が見れば一目瞭然だった。
あとは決め球となる変化球さえ覚えればすぐにでも一軍で使える、渡辺は広岡の目にそう映った。
そして二軍でスライダー、フォークを覚え、ルーキーイヤーの6月下旬に早々と一軍昇格。
元来の性格が負けず嫌いで、球の力、身体の強さはチーム屈指。それ以降は一軍に置きながら育てる方針を敷いた。
1年目は15試合に登板し、1勝1敗。52回2/3を投げたため新人王(ピッチャーは30イニング以下)の資格はなくなったが、それよりも経験を積ませることを最優先した。 たまたま訪れた広岡の前で挙げた二軍初勝利
当の渡辺GMが当時のことを語ってくれた。
「私がプロに入って1軍に上がるきっかけを作ってくれたのが広岡さんなんです。
開幕してからずっとファームで投げていたものの、出れば打たれるの繰り返し。
コントロールも良くなくて、フォアボールを出した次の打者にストライクを取りにいって打たれる、ということがしょっちゅうだったんですよね。
まったく勝てないピッチャーだったんです。
それで、西武球場で初めて親子ゲーム(同一球場で一軍と二軍両方の試合が同日に行われること)があった日に、私は二軍の先発だったんです。
その試合を、たまたま広岡さんが見てたんですよ。そこで二軍初勝利を挙げたんです。
良かった良かったと思っていたら、広岡さんが『もうこいつは上で育てよう』と一軍に上げてくれました。
他の試合はほとんどダメダメだったのに、二軍でたった1勝挙げただけで一軍に上がれました。
運が良かったというか、御前試合でいいピッチングしたおかげですぐ一軍に上がって、そこからずっと一軍でした。
何かにつけてきっかけを作ってくれたのが広岡さんでしたね」
2年目の1985年、渡辺は先発ローテーションに入り、開幕第4試合目の4月10日に先発してから4連勝を飾る。
ちょうどプロ2年目の日本ハム津野浩志、南海の加藤伸一も台頭し、19歳トリオとしてプロ野球に新風を巻き込んでいる時期でもあった。 ストッパー森繁和が肘痛による体調不良のため、渡辺は5月中旬からストッパーに回り、同月17日から6連続セーブのパ・リーグ記録も作った。
「1〜2年目で、ピッチャーのポジションは全部やらせてもらいました。
高卒2年目で全部のポジションを2年間でやるっていうのは、なかなかないですよ。
もう敗戦処理からセットアッパーからストッパ−、先発と全部やりましたから。そういう部分では本当ありがたかったなと思いますね」
2年目は、45試合登板、8勝8敗11セーブ、防御率3.20。
先発からストッパーまで八面六臂の活躍で2シーズンぶりのリーグ優勝に貢献した。
翌年に16勝、そこから隔年で最多勝を計3度(’86、’88、’90年)獲るなど、西武ライオンズ黄金期を支えたエース渡辺久信。
広岡にとっても工藤公康同様に、本当の意味で手塩にかけたピッチャーの一人。
それだけに渡辺が指導者、そしてGMと活躍する姿を今もなおチェックしている。
かつての教え子が未来の球界に対してどう働きかけていくのか、あえて厳しい眼差しを向けている––––。 「バンザーイ! バンザーイ!」
広岡退任に沸き立った選手たち。
そのときチームリーダーの石毛宏典は複雑な気持ち… | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1984805 〜西武ライオンズ編 石毛宏典 前編〜
最悪だった広岡達朗の第一印象
「バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」 バスの中でむさくるしい大男たちが万歳三唱を唱えている。
石毛宏典は、そんな光景を見て複雑な気持ちになった。
先輩たちの気持ちがわからないでもない。今まで自由奔放にやっていたのが、急に広岡がやってきていろいろと締め付けられ、さぞ窮屈で鬱憤も溜まっていただろう。
しかし、いつもなら一緒になってドンチャン騒ぎする俺でもさすがにこれはできない、先輩たちが嬉しそうに万歳する姿を、ただ黙ってじっと見つめていた。
一九八五年、阪神との日本シリーズを終えた西武ライオンズの選手たちは、日本一を奪還できなかったとはいえ、ペナントレースからの長い激戦での疲労を癒すべく群馬県水上温泉での休養に向かっていた。マイクロバスに乗り込んでしばらくしてのことだった。
ラジオを聞いていた選手のひとりが、突然大声を出した。「おい、監督、辞めるってよ!」
座席でリラックスしている選手たちは、「はあ!? つまんねえ冗談言うなよ」と最初は無視していた。
すると、他にラジオを聞いていた者も「監督辞めるぞ」と同じことを言い出した。バスがサービスエリアに入ると、トレーニングコーチが公衆電話で確認しに行った。
トイレ休憩を終えた選手たちが次々とバスに乗り込んでくる。
そして一番最後にトレーニングコーチが乗り込んできて、神妙な顔つきのまま一拍置いて口を開いた。 「広岡監督が辞任された」
大男に埋め尽くされたバスの中には、「ん?」「え?」と幾つものはてなマーク≠ェ点灯した。
ほんの一瞬だけ静まり返ったのち、「マジかよ!」「嘘っ!」「クビじゃなくて辞めたの?」「次の監督は?」「やっぱなぁ」「解雇? 辞任? まあいっか」と選手たちは蜂の巣を突いたように騒ぎ出した。
そしてどこからともなくバンザイコールがかかり、ベテラン連中と若干名の若手が一緒にバンザイし始めた。
八五年一一月八日、西武ライオンズ広岡達朗監督辞任。 この日を最後に、広岡は二度とユニフォームを着ることはなかった。
石毛にとって、広岡の第一印象は最悪だった。広岡が監督に就任した直後の合同自主トレでのことだ。
「お前が石毛か。去年新人王を獲ったらしいけど、下手くそやな」
なんだ!? 喧嘩を売られているのかと思った。
「あなたこそ、玄米を推奨してますけど、痛風らしいじゃないですか 」。
そんなことを面と向かって言いたかったが、もちろん我慢する。とにかく噂通りの嫌なやつだと思った。
売られた喧嘩は買うしかない。石毛は、広岡と口を利くのを止めた。
そうとは知らない広岡は、控えのショートである行沢久雄や広橋公寿を捕まえて熱心に指導している。
守備コーチの近藤昭仁も加わり、なにやら活気付いた雰囲気になっているのが遠目からでもわかる。
平然を装おうにも、どうにも気になって横目でチラチラと見てしまう。
「違う、そうじゃない」「そうだ、もう一度!」。広岡の檄が飛ぶ。
その練習を端から見ていると、選手たちがみるみる上達しているように思えてしまう。
石毛はひとり取り残されている気分に陥った。監督に睨まれることに抵抗はないが、他の選手が上達することにもどかしさを感じる。
石毛は不本意ながら自ら広岡に歩み寄ることにした。 「お前だって長く野球やりてえだろう」
「監督、僕にも教えてください」
帽子を取って非礼を詫びた形をとる。
「ようやく気づいたか、入れ」
広岡は、待ち構えていたかのように言う。
少しでも広岡と関わった者なら誰でも知っているが、広岡流の守備特訓の第一段階として、ごく基礎的な練習からやらせるのが定番だ。
広島、ヤクルト時代と同じように、最初 はゆっくり転がしたボールを捕らせることから始める。ゆっくりボールを転がしたと同時 に大声が飛ぶ。
「石毛、こう(最初から構えて捕るのではなく、上から摑むように)捕れ!」
なんでそんな捕り方をさせるのかわからなかった。とりあえず言われたとおりに上から摑むように捕ろうとしたら、ボールが抜けていった。
捕れなかったのだ。
「ほら見てみろ、こんなボールなのに捕れねえだろ。下手くそ」
石毛の表情は一変した。小っ恥ずかしかった。
上から摑むように捕るためには、相当腰を下ろさなければならない。次からは、腰をがっちり落として慎重に捕った。
しばらく続けてから広岡は石毛を呼び寄せた。
「お前だって長く野球やりてえだろう。将来指導者になりてえだろう。今のお前は我流なんじゃ。
三〇ぐらいまでは今のやり方でもできるかもしれんけど、三〇過ぎたら、その身のこなしではまともに野球ができなくなるし上手くならん、指導者もできない」 石毛は広岡を真摯な目で見つめ、監督の言わんとしていることを汲み取ろうとした。
広岡の目には怖いほどの強い力が宿っていた。
広岡が、なぜ口酸っぱいほどに基礎と言うのか、石毛は考えてみる。
まずは原点に立ち返るために学生時代を振り返ってみた。そういえば、中学高校大学社会人と指導をきちんと受けた記憶があまりない。
なぜならば、持って生まれた才能で、指導を受けずとも他のチームメイトより上手くできてしまっていたからだ。
それは石毛だけに限らず、七〇年代のプロ野球選手は、各々が持っている才能、センス、感性だけで投げたり打ったりしていた。
それこそ遊びの延長で野球をやっているのが普通だったからだ。
若いうちは体力があるから自己流でも四、五年はできるけれども、所詮自己流では長続きしないというのが広岡監督の考えだ。
頭でわかっていても体で覚えないと、人間は進化していかない。石毛は何とか理解しようと、広岡の教えを全身全霊で吸収しようとした――。
(次回へ続く) 「僕のなかで名将、知将と呼べるのは広岡達朗しかいない」
常勝西武のチームリーダー石毛宏典が語る広岡野球の真髄 | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1984839 〜西武ライオンズ編 石毛宏典 後編〜
阪神との日本シリーズでの大怪我
1985年の阪神タイガースとの日本シリーズ。
18年ぶりのリーグ優勝で日本全土に阪神フィーバーを巻き起こした阪神タイガースが敵地西武球場で連勝した。
勝ち星が二つ先行して堂々甲子園球場に帰ってきたこともあって、どんよりした空模様を吹き飛ばすほど超満員の観客のボルテージは上がりまくりだ。
西武先発工藤公康、阪神先発中田良弘で始まった第三戦、二回表に西武が石毛の2ランが飛び出し四点先取。
三回裏にバースの3ランという空中戦で、六回表が終わって五対三で二点西武のリードのまま、六回裏に入る。
先頭打者の掛布雅之が左中間に打った大きな当たりはラッキーゾーンのフェンスに当たる2ベース。
ここでピッチャーを永射保から東尾修にスイッチし、次打者の岡田彰布を簡単にレフトフライで1アウトランナー二塁。
バッター六番佐野仙好が1ストライクからの二球目インコース寄りのストレートを強振し、レフト線寄りに高々とフライが上がった。
ショートの石毛が背走して追い、レフトの金森永時も猛突して追いかけている。
初めから目線を切らずに追いかけている石毛が、左側からスライディングキャッチを試みた金森をジャンプ一番でかわしてバックハンドで好捕。
金森の足と交錯し、そのまま回転レシーブのように転がって起き上がりざまにセカンドに返球。その後、石毛は背中からもんどり打ってうずくまった。
タイムがかけられ、観客も石毛に何かアクシデントがあったと気づき、レフト側の西武ファンの観客は心配そうに総立ちで見ている。
秋山、辻、岡村、金森、三塁側ブルペンにいたピッチャー、キャッチャーらが、チームトレーナーと倒れている石毛の周りを囲んでいる。
テーピングとサポーターで応急処置をして、なんとか立ち上がった。一度軽く屈伸して走ろうとし膝がガクンとなってよろけるも守備位置に付いて試合再開となった。
後続がすぐセカンドフライに倒れてチェンジ。石毛はアドレナリンが出ていたせいか最後までプレーを続ける。
試合後、病院に行くと、右膝外側側副じん帯損傷の診断が下る。 翌日、選手ロッカー室でコーチの近藤昭仁とトレーナーが石毛の足の具合を見ていた。
トレーナーが触診していると、右膝の外側側副じん帯部分がプラプラと横に揺れる。この状態を目にした石毛はすぐ口走った。
「昭さん、これ駄目でしょう」
「だな。いいよ、監督に言ってくるわ」
コーチの近藤昭仁が小走りでベンチに戻り、広岡監督の耳元で囁く。
「石毛、駄目ですわ」
「何? そんなに酷いのか?」
広岡は即座に反応し、急いで選手ロッカー室までやって来た。
ドアを開け、右足を伸ばしてトレーナーに処置されている石毛のもとまでカチャカチャとスパイクの音を立てて近づくなり、
「おい、出れるのか出れんのかどっちなんだお前」
焦っているのか、少し怒り気味で言う。石毛は、あれ昭さんから連絡いってないのかなと思い、返答に窮していると、
「どうすんだ、出れるのか?」
広岡が一喝する。思わず石毛は条件反射のように答える。
「出れます」
「トレーナー、テーピングでガチガチに撒いとけ。ボルタレン(痛み止め)も飲ませとけ。心配するな。後どんだけやっても2試合か3試合だ。その後は休むだけ休ませてやる」
それだけ言うと、広岡はさっさとベンチに戻っていった。
膝が壊れかけ寸前でてっきり交代かと思っていたところ、プレー続行。
強制的に言われたような感じだろうけれども、自分でやると言った以上は、やるしかない。
このまま第三戦を含めて第六戦まで出場し、第六戦にはシリーズ三本目のホームランを打つなど敢闘賞に選ばれた。
幸い、断裂じゃなかったためシーズンオフにきちんと治療し、膝関節周りの筋力を鍛えて翌シーズンには間に合った。 「僕のなかで名将、知将と呼べるのは広岡達朗しかいない」
石毛は、この日本シリーズ第三戦で負傷しながらも最後まで強行出場したのは、広岡のもとで四年間野球したなかでも印象的な出来事のひとつだと語る。
普通なら怪我のため交代し、翌日の日本シリーズも欠場となったかもしれない。
でも広岡の迫力に負けたというか「出れるんなら出ろ!」といった具合に背中を思い切り叩いて奮い立たせてプレーできたことに、ある種の感激もある。
いわば精神力次第で不可能も可能になることもあるんだと教えられた石毛であった。現在の石毛はこう語る。
「広岡さん自身が根気よくいろいろと基礎中の基礎を指導してくれたおかげで、八度のベストナイン、一〇度のゴールデングラブ賞を受賞して四〇歳まで現役を続けられました。
あの頃基礎を学んでいなかったら、広岡さんの言うように三〇過ぎで引退していたかもし れません。間違いなく広岡さんのおかげです。
結局、広岡さんが弱いヤクルトを、弱い西武を勝たせたじゃないですか。だから僕のなかで名将、知将と呼べるのは広岡達朗しかいないんです。
野村さんはヤクルトは勝たせたけど、阪神、楽天では勝てなかった。森さんも西武で勝ったけど、ベイスターズでは勝てなかったですから。 プロ野球チームという技術屋集団において、技術屋をまとめるリーダー(監督)には『技術はこうすれば高くなるんだよ』という指導理論が備わっていることがまず必須。
さらに、どんな相手でも納得させるだけの絶対的な理論を持つことが、リーダーの資質とし て最も重要な部分だと思うんですよ。
それまで 『プロの二軍選手は未熟だから練習しなきゃいけない』 『プロの一軍選手は完 成された選手だからマネジメント的なものだけでいい』
と言われてきましたけど、広岡さんは一軍だってヘタなやつがいっぱいいると高らかに言っていました。
そりゃそうですよ、誰も四割も打ったことないプロ野球界。まだまだ未熟者ばかりです。
どうすればスキルアップできるか。広岡さんはヤクルトでも西武でも、選手個人をしっかりスキルアップさせ、二割五分の人間を二割七分、二割七分の人間を三割近く打てるようにしてチーム力を上げていったんですから」
今でこそ、1アウト二塁だったら右方向に打ってツーアウトランナー三塁にする有効凡打や自己犠牲という単語が当たり前に評価される。
しかし、八〇年代に入るまでのプロ野球には有効凡打、自己犠牲という概念など浸透していなかった。
そんな時代に、真理に基づき、チーム組織で戦うための選手を強化・コントロールしていく野球を実践したのは、広岡達朗が初めてではなかろうか。
「今の野球界を見ても、アマチュアからプロまでの野球観の向上っていうのかな、日本の野球観をレベルアップさせたのは、僕は広岡達朗と思ってますけどね」
石毛はそう断言する。
(次回へ続く) 寝る前の早食いとカラスの行水と短時間睡眠は確実に命を削る
入眠4時間前からは軽い飲み物以外は胃に入れない
入眠2時間前に20分以上40℃の湯船につかる
0時までに横になる
7時間は寝る
昼休みに15分程度昼寝
これで10年は健康寿命が延びる 前みたいにワッチョイで分けたいね
毎回ngするのめんどくさい
とはいえスレ立て荒らしもいるし 広岡監督に玄米を食わされたヤクルトや西武の選手で癌で死んだ人はいない
一方、89歳でまだ存命の広岡監督のパリーグでのライバルだった日本ハムの大澤監督は胆のうがんで78歳で死んでいる 西武黄金時代OBの著書が面白い。辻&伊東が語る清原、広岡、玄米。(2/6) - プロ野球 - Number Web - ナンバー
https://number.bunshun.jp/articles/-/827779?page=2 春季キャンプ、広岡新監督の名を広く知らしめたのが、「管理野球」という言葉だった。「管理」という言葉は決していい意味で使われたわけではない。禁酒、禁煙、禁麻雀、門限、食事管理、さらに厳しい基本練習、長時間のミーティング。
まるで軍隊のように、とも表現された。
ここで広岡達朗監督の「スポーツマンは肉を食べてはいけない。体が酸性になる」に対し、
“日本ハム”の大沢監督の「草ばっかり食べて力が出るか。
ヤギさんチームに負けてたまるか」の名言が出た。 批判があった食事管理にしても、白米を玄米に、牛乳を豆乳にとなれば、むしろ時代を先取りしていたとも言える。
日本ハムとのプレーオフ前に行った徹底したバント練習もそうだ。
広岡監督はベテランにも徹底的にやらせた。「プロだからバントなんか練習しなくてもできる」と思っていた選手に
「だったらやってみろ」と練習させ、できなければできるようになるまで繰り返させた。
そして実際、プレーオフでそれを武器に相手の守護神・江夏豊を攻略し、リーグ優勝を手にする。こうなれば、選手はついていくしかない。
何より広岡監督のすごいところは、自分が常に正しいことを言っているという自信を一点の曇りもなく持っていることだ。
だから選手に嫌われることをまったく恐れなかった。日本社会は、みな一緒に進まなければならないという同調圧力が強いが、この人には関係ない。
それは88歳となった今も、週べのコラムのタイトルに『「やれ」と言える信念』を選んだことでも分かる。 自然食の採用とその効果
「ステーキなどの肉は運動選手のスタミナをつける」という常識に広岡監督はかねてから疑問をもっていた。西武ライオンズチームを引受けるにあたり、選手と奥さんを合宿所に集めて、自然食の権威といわれる森下敬一氏の話を聞かせたのである。
講演の骨子は、「自然な食べ物を、自然な状態のまま(無肥料、無農薬無添加物)で食べる。肉食や牛乳でスタミナがつくというのは大まちがい。かえって体に悪いし、日本人に合わない。玄米・雑穀・野菜をもっと多く食べる」ということに尽きる。
最初のうちは選手たちは半信半疑でとまどいがちだったが、田淵が実行し中年パワーを見せつけ、大田卓司、山崎裕之、松沼(兄)、石毛が続き、というように、チーム全員に広がっていったという。もちろん選手たちの合宿所でも玄米や大豆、野菜を中心にしたメニュー(後出)である。
自然食を続けるうちに、体重が3〜6キロ減って、しかも体調はひじょうによく、故障する選手が少なくなったという。ケガをしても回復が早く、すぐに戦列に復帰でき、夏バテも知らずに、ご存知のようにシーズンはじめから西武の独走状態になっていた。(あまり強すぎてパの野球はちっとも面白くない、といわれたくらいだ) 30年以上たっても玄米の恨みは忘れていない。
もちろん「負け方を知っている監督」「当たり前のことを当たり前にやり抜く采配」といった采配論も興味深いが、とにかく西武黄金時代の舞台裏が面白い。
広岡監督の“管理野球”における食事制限で「ごわごわの玄米がまずかった!」なんて若手時代の恨みをシャウトする辻。
食べ慣れないせいか、最初のうちはお腹を下す選手も続出したという。
ベテラン選手の姿はほとんどなく閑散とする選手食堂。
いわば当時の西武は、勝つことでギリギリ繋がっていたプロの集団だった。
'85年オフ、メディカルチェックを受けた帰りに立ち寄ったドライブインで、「広岡辞任」の一報を聞いた西武ナインからは一斉に歓声が上がったという。
もちろん'82年入団の伊東と'84年入団の辻は同時期に同じ西武を体験しているわけだが、興味深いのは「玄米はマジで不味かった」で意見が一致していることだ。
やはり食べ物の恨みは怖い。
「味気なく、不評でしたね。私たちは一体、どこまで管理されるのかと絶望的な気分になることさえありました」と激ヤセした当時を回想しつつ、やがて他球団と比較して自チームの故障者が極端に少なくなっていることに気が付く。
こういうことか、やるじゃねえか広岡さん。
今でも最も影響を受けた監督は誰ですか? という問いには迷わず、「広岡達朗監督です」。
そう断言する管理野球の申し子。 現役を47(48?)才まで続け、現役実働29年(最長タイ)という記録を持つ工藤公康現SB監督もその一人です。
この人は投手として勝ちだすと飲みまくるようになり。
炎天下の公式戦で完投して10キロ体重が落ちた直後に暴飲暴食で二日酔いで球場にくる、なんて不摂生を繰り返した結果、
20代後半には肝機能障害を発症し、野球がどうこう以前に死ぬよ、と言われたそうで、野球を止めることも考えていたそうです。
それを立て直したのが夫人。
この夫人は栄養士の資格を持っていたこともありますが、気にしたのはまず「水」と「米」でした。
この夫人に触れた本を読んだことがありますが、「広岡監督が食べさせた玄米食が主人の体にまだ生きていた」というようなことを言っており、
それがあったからこそあの状況から立て直せた、という旨の発言をされています。
工藤監督の本も読んだことがありますが、同様のことは書いてあるんですね。 しかし広岡監督といえば、何といっても玄米食だ。選手に玄米と菜食を強制し話題を振りまいた。
まだ自然食が一般に認知されていない70年代後半の話である。
食生活の改善こそが故障しにくい身体を作るという確信から、
選手の体質を運動選手にふさわしいものにするために、選手の奥さんまで呼んで玄米食の調理法を教えるという徹底ぶりで、
選手に白米を禁止した。
選手に自然食を勧める講演で、自然食の専門家が「肉は腐った食物。
牛乳も農薬がかかった牧草を食べた牛からしぼり取るもので、毒を飲んでいるようなもの」という趣旨の発言をしたのは有名である。
日本ハムの大沢監督から「菜っ葉ばかり食っているヤギさんチームに負けるわけがない」と皮肉られた。
またヤクルト時代には選手に牛乳を飲むなと命令を下したが、親会社のヤクルトは乳製品の企業なので、会社側から厳重に注意され物議をかもすトラブルもあった。 前述の「肉や牛乳は腐った食物」発言は、親会社の系列スーパーから大クレームを受けたが、
広岡は親会社の意向を無視して自分の考えを貫き通した。
その姿に、選手は"怖さ"を感じ、それがチーム変革のパワーとなった。
しかし、チーム内での反発も大きく、遠征時の外食が増えるなど首脳陣の目を盗むような事実があったことは、後に西武の監督を経験した森や渡辺久信からも指摘されている。
日本ハムの監督だった大沢は著書で
「ファイターズの主催試合の時は、時々、西武のベテラン選手達が俺の所に訪ねてきて、
「白ご飯を食べさせてください」と頼みにきたから、食堂で喰わせてやったんだが、
いい歳した体の大きな選手たちが「うまい。うまい」と泣きながら喰うわけさ」と述べている。
特に森は西武監督就任時に、玄米食を白米食に移行し試合後の食前酒も解禁した。
なお、広岡自身の食生活は何ら制限を行っておらず、51歳で(美食家が罹るとされる)痛風、70歳と80歳で2度脳卒中に罹患した。
のちに広岡はホルモンをよく食べ、日本酒も毎晩1合7勺飲んでいたことを明らかにしている。 もちろん'82年入団の伊東と'84年入団の辻は同時期に同じ西武を体験しているわけだが、興味深いのは「玄米はマジで不味かった」で意見が一致していることだ。
やはり食べ物の恨みは怖い。
「味気なく、不評でしたね。私たちは一体、どこまで管理されるのかと絶望的な気分になることさえありました」と激ヤセした当時を回想しつつ、やがて他球団と比較して自チームの故障者が極端に少なくなっていることに気が付く。
こういうことか、やるじゃねえか広岡さん。
今でも最も影響を受けた監督は誰ですか? という問いには迷わず、「広岡達朗監督です」。
そう断言する管理野球の申し子。 広岡のボケの話は要らんぞ
あんなカスに監督させんなよ 30年以上たっても玄米の恨みは忘れていない。
もちろん「負け方を知っている監督」「当たり前のことを当たり前にやり抜く采配」といった采配論も興味深いが、とにかく西武黄金時代の舞台裏が面白い。
広岡監督の“管理野球”における食事制限で「ごわごわの玄米がまずかった!」なんて若手時代の恨みをシャウトする辻。
食べ慣れないせいか、最初のうちはお腹を下す選手も続出したという。
ベテラン選手の姿はほとんどなく閑散とする選手食堂。
いわば当時の西武は、勝つことでギリギリ繋がっていたプロの集団だった。
'85年オフ、メディカルチェックを受けた帰りに立ち寄ったドライブインで、「広岡辞任」の一報を聞いた西武ナインからは一斉に歓声が上がったという。 しかし広岡監督の教えを忠実に守り、玄米食と菜食を続けた男がいる。それが工藤公康である。
工藤が1982年に西武に入団した時の監督は広岡だった。広岡は工藤を「坊や」と呼び、高卒1年目からカーブの切れと物怖じしない度胸を買って中継ぎで起用した。
工藤が46歳まで現役を続けているのも、玄米食と菜食中心の食生活を続けたのも一因になっているのかもしれない。
玄米食を継続すれば運動選手の身体が長持ちすることが、20年たって工藤の存在で証明されたのだろうか。
広岡達朗は、やはりただものではなかった。広岡の玄米の強制が、20年もたって結果を出したのである。 当時の日本ハムのキャンプには、本社から何十キロという新鮮な肉が差し入れされ、
1日目がステーキ、2日目がトンカツ、3日目はすき焼きと肉中心のメニューを組んでいた。
元々、豆乳はヤクルト監督時代にも導入したことがあったが、乳酸菌飲料を扱う親会社の強い圧力で一週間で中止に追い込まれていた。
当時の野球選手は試合のあとはビールを飲んで肉を食うのが当たり前で、暴飲暴食しがちで、肉食に偏ることが多かった。
広岡は合宿所の食事に上記の自然食品摂取の他、化学調味料、精製された塩、砂糖をも排したと1982年の著書で既に記している。
広岡は西武監督時代に読んだロバート・ハースの書いた『食べて勝つ』(講談社、1985年)から大きな影響を受けたと話している。
前述の「肉や牛乳は腐った食物」発言は、親会社の系列スーパーから大クレームを受けたが、広岡は親会社の意向を無視して自分の考えを貫き通した。
その姿に、選手は"怖さ"を感じ、それがチーム変革のパワーとなった。
しかし、チーム内での反発も大きく、遠征時の外食が増えるなど首脳陣の目を盗むような事実があったことは、後に西武の監督を経験した森や渡辺久信からも指摘されている。
日本ハムの監督だった大沢は著書で
「ファイターズの主催試合の時は、時々、西武のベテラン選手達が俺の所に訪ねてきて、
「白ご飯を食べさせてください」と頼みにきたから、食堂で喰わせてやったんだが、
いい歳した体の大きな選手たちが「うまい。うまい」と泣きながら喰うわけさ」と述べている。
特に森は西武監督就任時に、玄米食を白米食に移行し試合後の食前酒も解禁した。
なお、広岡自身の食生活は何ら制限を行っておらず、51歳で(美食家が罹るとされる)痛風、70歳と80歳で2度脳卒中に罹患した。
のちに広岡はホルモンをよく食べ、日本酒も毎晩1合7勺飲んでいたことを明らかにしている。 選手の体質改善のために玄米食を勧めたり、肉やアルコール、コーラを禁止する徹底した食事制限も話題となりました。
広岡 あなた、肉は食べるの? 肉は酸化している腐敗物ですよ。
若い頃はどれだけ好きなものを食べても体が中和するからいいけど、25歳を過ぎるとその能力が衰えてくるから極力、酸性のものを減らさなきゃいけない。そういうものを無自覚に体内に取り入れていれば体調を崩すのは当然ですよ。
――ヤクルト時代の教え子、八重樫幸雄さんが「ある日、広岡さんが選手全員を集めて、コップの中のコーラにどこから持ってきたのか白い歯を放り込んだら、
歯が一瞬で溶けて消えた」とおっしゃっていたのですが、本当ですか?
広岡 そんなことあったかな? でも、コーラの中に釘を入れたらすぐに錆びますから、
そりゃ体もボロボロになりますよ。
だから選手には、そんなに飲みたいならプラッシーを飲めと。
――当時、米屋で売っていた果汁入り飲料ですね。
もうひとつ、これも教え子の安田猛さんに聞いたのですが
「開幕前の決起イベントでも広岡さんの指示で乾杯はビールじゃなくてヤクルトだった」と。
「そこまでしないといけないのか」と。 【脂肪肝】あの食事はNG!脂肪肝を治すカギは“◯◯◯”にあった!(アルコール・生活習慣・肝臓・肝硬変・がん予防・ナグモクリニック・予防医療) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=b_ZA_22sVZM 人が老化する「科学的原因」と結局やるべきこと 抗加齢に「ブレイクスルー」はあるか | The New York Times | 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/742738 3位はホウレン草、2位は春菊、1位は…同じ緑色でも栄養素がケタ違い「老けない最強野菜」の名前 「赤、緑、黄、紫、黒」5色の組み合わせが重要 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
https://president.jp/articles/-/79793 「ちょい足し」で老けなくなる最強食材とは
「手抜き料理のほうがかえって栄養素が残っていることも多いです。美白に効果的な『赤色』の代表格はトマトですが、そこに含まれるリコピンはジュースのほうが体に吸収されやすい。水を飲み続けた群と比較すると、トマトジュースを飲んだ群では12週間後に目の近くのしわが消えたという研究報告があります。トマトジュースを飲むことは野菜の“ちょい足し”にもなりますね」
“ちょい足し”に向いているものには、ほかにもブロッコリーの新芽「ブロッコリースプラウト」がある。老ける元凶・AGEを抑える力がブロッコリー(老けない野菜5位)の7倍というから、サラダに添えれば老けない効果が何倍にもアップする。 「年齢とともに体内で酵素が減りがちで、栄養素の消化吸収も衰えます。野菜本来がもつ酵素を生野菜によって摂ることで消化が助けられ、それによって代謝も高まることが期待できるでしょう。特に胸焼けや胃もたれを起こしやすい人、太りやすさを感じている人は生野菜摂取を意識しましょう」
まさしく旬の新玉ねぎや春キャベツも柔らかいので、加熱調理よりも生食向き。生野菜で食べると、熱や水分に溶けやすいビタミンCやビタミンB1、血液の流れを促進する玉ねぎの硫化アリルなどを効率的に摂取できるのだ。望月氏が「ビタミンB1は疲労回復はもちろん、神経を鎮めて質の良い睡眠に働きかける」と補足しつつ、超簡単レシピを紹介してくれた。 夏が旬のモロヘイヤは、活性酸素を強力に抑える力があり、“野菜の王様”とされる。
「世界三大美女の一人、クレオパトラが美貌を保つために食べていたといわれる野菜です。モロヘイヤはビタミンA、C、Eが、群を抜いて豊富です」 身体が老けない「赤、緑、黄、紫、黒」
抗酸化物質はビタミンC、ビタミンE、ポリフェノール、カロテノイドの4つが基本。野菜や果物の鮮やかな色のもとになるポリフェノールやカロテノイドは数千種類も存在するという。そのためポイントは、野菜や果物の種類を多く摂って、少しずつ違う抗酸化物質を取り入れることだ。「色」で判断するとわかりやすい。
見た目と食事の関係に詳しい管理栄養士の望月理恵子氏は、老けないために「赤、緑、黄、紫、黒」の“5色”が重要と話す。 人間は「カップラーメンだけ」で生きていけるのか…生物学者が考える「食べること」の本当の意味 生命の「動的平衡」を乱すことになる | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
https://president.jp/articles/-/79346 https://president.ismcdn.jp/mwimgs/4/2/670/img_42d986f2893a56172834d3144f8ea92d398009.jpg
日本人の一日に必要な食事カロリー数の標準値は、男2300キロカロリー、女1900キロカロリー(いずれも50歳)。男女差は体格(体重)差による。平均値を2100キロカロリーとすると、カップラーメンなら一日6個、ハンバーガーなら7個食べると、一日の必要カロリーを充足することになる。
食事のカロリー源は、主に炭水化物と脂質であり、体温の維持、運動、基本的な代謝反応などに使われる。つまり体内に取り込まれたあと、エネルギーとなって燃焼される。燃焼されると消えてしまから(燃えカスは二酸化炭素と水となって排泄される)、また次の日、補給が必要となる。自動車にガソリンを入れるようなものである。
「重要なミネラル」が不足することはない
カロリーは充足できるとして、カロリーにはならない他の必須栄養素、たとえばナトリウム、カリウム、カルシウム、リン、鉄などのミネラル、あるいは各種ビタミン類は、カップラーメンもしくはハンバーガーだけで足りるだろうか。
図表2を見ていただきたい。チーズバーガー一個には、ナトリウム720mg、カリウム210mg、カルシウム118mg、リン182mg、鉄1.2mgが含まれている。7個食べると、この7倍、ナトリウム5040mg、カリウム1470mg、カルシウム826mg、リン1274mg、鉄8.4mgとなる。
一方、日本人(50歳)の一日に必要な食事由来のミネラル摂取の推奨量は、ナトリウム600mg、カリウム2000mg、カルシウム600mg、リン700mg、鉄10.12mg(経血があるので女性の方が必要量は多くなる)である。
カップラーメンやハンバーガーだけで生活しても、骨や歯のために必要なカルシウム、血液成分の鉄など重要なミネラルが不足することはない(カリウムはやや少なめとなる)。 食塩摂取は大幅に過剰になってしまう
しかし、ナトリウムは大幅に過剰摂取してしまうことになる。ナトリウムは食品中では、ほとんど塩化ナトリウム、つまり食塩の形で含まれている。食塩の量は、ナトリウムの量に係数2.54をかけると算出できる。
チーズバーガー7個分のナトリウムは5040mg、これを食塩に換算すると12.80g。日本人の食塩摂取推奨値は、理想的には、1.5g(600ミリグラム×2.54)、高血圧予防のためには、6g未満が推奨されている。
つまり、カップラーメンやハンバーガーだけを食べていると、カロリーやカルシウム、鉄は充足するものの、食塩摂取は大幅に過剰になってしまうのだ。 https://president.ismcdn.jp/mwimgs/2/d/540/img_2d80cf9349878d8ab9c25da907246f0f355665.jpg
では、ビタミン類は、どうだろうか。
チーズバーガー1個には、ビタミンA 57μg、ビタミンB1 0.1mg、ビタミンB2 0.15mg、ナイアシン 5.3mg、ビタミンC 1mgが含まれている。
7個食べると、この7倍、ビタミンA 413μg、ビタミンB1 0.7mg、ビタミンB2 0.112mg、ナイアシン 37.1mg、ビタミンC 7mgとなる。
日本人の一日のビタミン摂取基準量(50歳)は、ビタミンAは男900μg、女700μg、ビタミンB1は男1.3mg、女1.1mg、ビタミンB2は男1.5mg、女1.2mg、ナイアシンは男14mg、女11mg、ビタミンCは男女ともに100mgとされている。
食べ続けても、急に病気にはならないが…
この数字からわかるように、ナイアシン以外は、どれも基準量に満たない。もしチーズバーガーだけで、ビタミンCを取ろうとすると、基準量に達するには100個食べなければならないことになる。
オーバーカロリー、オーバー食塩になってしまう。
この計算をカップラーメンで行うと同じような結果が出る。
もちろん、摂取基準量は安全率が掛けてあるので、基準を下回ったからといって、すぐに脚気や壊血病などのビタミン欠乏症状が出ることはない。
とはいえ、これらの人気ファストフードは、人々の嗜好を刺激し、インパクトのある濃い味付けになっている(つまり塩味が強い)ので、その場の食欲を満たすことはできても、栄養面で見ると極めてバランスのわるい食品といえる。 https://shop.r10s.jp/gold/muen-genen/captura/ms0054.jpg
昼めしはこれだけで十分
https://i.imgur.com/ZEbFWiS.jpg
サバ缶だけを食べる食事なんてカップラーメンよりも手間いらずだよ
栄養は天と地ほどの差がある
カップラーメン
https://revimg03.kakaku.k-img.com/images/Review/000/344/344783_m.jpg
パンやスナック菓子も似たような成分
会社の昼食でも鯖缶ならすぐ食えるだろ
缶をまとめ買いしてロッカー保管、myフォークだけ会社に置いておく
デスクで食うのが恥ずかしいなら便所飯だよ 出先で昼飯に鯖缶食えないときは
焼き鳥3本+バナナ1本
コンビニやスーパーで鯖缶買って箸つけてくれとは言いにくいからな
食った後の缶の始末にも困るし
車で遠出するときは鯖缶とフォークは持っていく
SAなら空き缶捨てるゴミ箱があるので助かる
食堂でセルフサービスのうどん食っても600円はかかるけど
鯖缶なら200円 カップラーメンやハンバーガーだけを食べ続けても、急に病気になったり、栄養失調になったり、あるいは生命に危険が及ぶことはない。一方で、このような食材を食べ続けることは、生命の〈動的平衡〉を乱すことになるだろう。
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食べることは、生きることそのもの
食を考えるとき、忘れてはならない重要な視点がある。
それは〈動的平衡〉の視点である。動的平衡とは、私の生命論のキーワードとなる概念だ。先に、(カロリーの補給は)「自動車にガソリンを入れるようなものである」と書いた。しかし、これはあえてこう書いたものの、実は、誤った見立てなのである。食べることは、単に、カロリー(エネルギー源)を補給するだけの行為ではない。食べることは、生きることそのものなのである。
それは、どういうことか。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
ご存知、中世期の古典、鴨長明による『方丈記』の冒頭の一節である。これほどみごとに生命のありようを活写した表現を私は知らない。
私たちの身体でもこれと同じことが絶えず起きている。
私たちは食べ物と身体の関係を、ガソリンと自動車の関係と同じものだと捉えがちだが、それは正しくない。食べ物は、摂取されると、大半は全身の細胞に散らばって、そこに溶け込んでいってその一部となる。
つまり、ガソリンと自動車のたとえに戻れば、ガソリンの成分が、自動車のタイヤ、窓、座席、エンジンのネジなどに成り替わっていく──という奇妙なことが起きていることになる。 https://president.ismcdn.jp/mwimgs/2/3/670/img_238b76b42903e61270d6ba59d457a9bb837749.jpg
「ウンチの主成分」は自分自身の細胞の残骸
それだけではない。
身体のあらゆるパーツは、ものすごい勢いで絶えず分解されている。それは、古くなったから、使えなくなったからではなく、たとえできたてホヤホヤのパーツであっても、情け容赦なく分解され、捨て去られている。その分、摂取した食べ物の成分を使って絶えず再合成が行われている。つまり、かつ消え、かつ結ばれている。
では、私たちの身体のうち、いちばん速いスピードで、入れ替わっているのはどの部位だろうか。
それは消化管の細胞である。およそ2、3日で入れ替わる。だから、ウンチの主成分は、食べかすではなく、自分自身の細胞の残骸なのである。
つまり、食べることは、自分自身を作り変えることであり、自分の生命は、絶えず移り変わる流れの中にある。これを私は「動的平衡」と呼ぶ。絶えず動きながらバランスを作り直すこと。生命のもっとも本質的な姿である。
だからこそ生命は、リジリエント、つまり柔軟であり、適応的でありえる。病気になっても回復し、怪我をしても治る。
それゆえ、今日の私は昨日の私ではない。
数週間もすればかなりの部分が入れ替わっている。一年もたてば物質レベルではほとんど別人となっていると言っても過言ではない。久しぶりに知人に会ったら「おかわりありませんね」ではなく、「おかわりありまくりですね」と挨拶するのが正しい。
流れ行く生命の動的平衡の前では、よいことも、悪いことも、盛者も貧者もすぐに移り変わっていく。方丈記の詠むところそのものである。何かに固執することは意味のないことなのだ。 なぜ自らを壊し続け、作り直し続けるのか
ではなぜ、生命はそんなに一生懸命、自分自身を率先して壊し、そして、作り変えているのか。
それは、宇宙の大原則「エントロピー増大の法則」にあらがうためである。エントロピーとは乱雑さのこと。時間の経過とともに、あらゆるものは乱雑さが増える方向に推移する。壮麗なピラミッドは風化し、金属は錆び、熱は拡散し、形あるものは崩れる。日常生活でも、エントロピー増大の法則を体感することができる。整理整頓しておいた机もすぐに書類が散らかってくる。淹れたてのコーヒーもふと気がつくとぬるくなっている。熱烈な恋愛もやがては冷める……。
生命にも絶えずエントロピー増大の矢が突き刺さってくる。
細胞膜は酸化され、タンパク質は変性し、老廃物が蓄積する。この流れと戦う方法がひとつだけある。それは、エントロピー増大の法則に先回りして、自らを率先して分解し、絶えず乱雑さを外部に捨て、その上で作り直すことである。細胞膜もタンパク質もものすごい速度で作り変えられている。
「あらがい」のために食べ続ける
生命が、相反する二つのこと、分解と合成を同時に行っているのはそのためであり、このバランスを私は動的平衡と呼ぶ。つまり、生命だけがエントロピー増大の法則と戦うことができ、戦うことができるものを生命と呼ぶことができる。
福岡伸一、松田美智子『生物学者と料理研究家が考える「理想のレシピ」』(日刊現代)
福岡伸一、松田美智子『生物学者と料理研究家が考える「理想のレシピ」』(日刊現代)
とはいえ、動的平衡による生命のこの努力も、宇宙の大原則を完全に覆すことはできない。徐々に退却を余儀なくされ、すこしずつエントロピーは増大していく。身体の酸化は進行し、変性タンパク質は沈着し、遺伝子にも少しずつ変異が蓄積していく。これが老化である。ついにはエントロピー増大の法則に打ち負かされる。死である。
しかし、最後は負けてしまうことがわかっていても、必死にあらがっているのが生命というものなのである。それゆえにすべてのいのちはけなげで美しい。そして有限であることがいのちを輝かせている。
私たちは、この〈あらがい〉のために食べ続けなくてはならない。そして、正しくあらがうためにこそ、正しく食べなくてはならないのである。
【関連記事】 肝機能わるい。しかしガンマジーティーピーは低い。コリンエステラーゼも低い。アミラーゼリパーゼもいつも低い。
CRPは0.01未満。つうか?ゼロ
なのに毎日炎症が起きていますよ
悪玉コレステロールだけ高い。善玉コレステロールも高い。
中性脂肪だけはかなり低い。 超音波でさがすとたしかに脂肪の砂みたいな映像が映るが脂肪肝という程ではないとか毎回言われて帰ってくる。
なんなんだか解らない 急激に意識を失うように眠ってしまう。夢を何時間も見続ける。災害と看病介護の夢ばかりを何時間も10年以上見続けている。
記憶は失っている場合がかなりある。 何時間も夢を見続けるが大概予知夢
長崎県天王寺の原爆跡地の鳥居の坂道にある住宅街を追われている。
青森県黒石スポカルインの高いふきぬけの天井から
光が降り注ぐなかにあるシャワールームと更衣室に居たりもする。 チアノーゼとか不整脈とか胸痛が出て,CKが500ぐらいまで上がっているときもある。しかし精密検査しても見つからない。 ものすごくカロリーをとり続けていてもアッサリと体重が減るのは夢のせいなのかとも思われます。
異常過ぎる代謝異常です 9:00 起床
9:00 朝食 ヨーグルト、バナナ、パン6枚切り、スライスチーズ
13:00 昼食 豚肉ステーキ100g or サバ缶 、 ブラックコーヒー
19:00 夕食 (刺身、 玄米or白米or雑穀米or麦米、野菜、豆腐入り味噌汁) or (パスタ、野菜、豆腐入り玉ねぎスープ)
間食 ナッツ類
飲み物 ミネラルウォーター、麦茶、煎茶
酒は数年に1回やむを得ず乾杯だけ飲む程度
タバコ一度も吸っていない
在宅ワーク、週4回1時間のウォーキング以外は引きこもり ・豚ロース100g 260kcal
タンパク質 19g
脂肪 19g
炭水化物 0g
・サバ缶水煮 310kcal
タンパク質 41g
脂肪 21g
炭水化物 0g
塩分 1.8g
・パスタ100g
タンパク質 12g
脂肪 2g
炭水化物 65g テレワークで在宅率95%
18時30分に歩いて5分のスーパー買い物
オカズが半額だったり20%引きだったりまちまち
あまりギリギリ攻めると半額が全滅してるときもある
肉とかの量り売りや上の割引率違いもあるから全部同じもの買ってるわけではないが
半分くらいは固定品
9:00 起床
9:00 朝食 ヨーグルト、バナナ、パン6枚切り、スライスチーズ
13:00 昼食 豚肉ステーキ100g or サバ缶 、 ブラックコーヒー
19:00 夕食 (刺身、 玄米or白米or雑穀米or麦米、野菜、豆腐入り味噌汁) or (パスタ、野菜、豆腐入り玉ねぎスープ)
間食 ナッツ類
飲み物 ミネラルウォーター、麦茶、煎茶
酒は数年に1回やむを得ず乾杯だけ飲む程度
タバコ一度も吸っていない
在宅ワーク、週4回1時間のウォーキング以外は引きこもり
買い物に行く日は刺身とか鮨とかの割引狙い
行かない日はパスタ
豚肉は3切れで300gに一番近いのを選ぶ
二切れを買ったときはサバ缶で日数調整 パン、白米、白砂糖を減らす
パスタは低GI
タンパク質 豚肉
サバ缶 ゴボウ、キノコ
菓子控える
オリーブオイルナッツ類は良脂質
魚介類 海藻
ヒジキ
リンゴ
納豆
ヨーグルト
オメガ3オイル
MCTオイル
ビタミンC
ミネラル ではどんな食事をするべきなのか?
上記のルールを守って食事をすると下記のようなメニューが中心になると思う。
肉を炒める場合は使用する油に気をつける
魚の刺し身は煮魚、焼魚料理に較べて栄養分が残っているので一番いい食べ方らしい。
サバ缶でタンパク質とΩ3とDHA・EPAを摂り
果物
炭水化物は玄米、全粒粉、十割そば
野菜はドレッシングにはMCTオイルをかけて脂質を摂り体脂肪の貯まりにくい体に
発酵食品はヨーグルト、納豆、酢、味噌汁で摂り腸内細菌の最適化
空きっ腹にはナッツ、アーモンドの素焼きなど
ずっと家にいて自炊しているなら実行可能だが、勤めに出ていたりするとこの食事法を貫くのは大変だ。
糖質制限だけとか、トランス脂肪酸フリー(悪いアブラを摂らない)だけに焦点を当てた本や記事はあるが、
両方の論点を押さえたおすすめの食事法の情報は少ない。 炭水化物は玄米、全粒粉、十割そば
パスタは低GIだがさらに全粒にする
パン、白米、白砂糖を減らす、ケーキ、菓子を食うのをやめる
麺類はうどんやラーメンよりもそばを食う
カップ麺はNG
タンパク質は鶏ムネ肉でイミダゾールペプチド、サバ缶でΩ3とDHA・EPA
アーモンド、カシューナッツ、マカダミアナッツは金がかかるが食ったほうがいい
落花生は上記ナッツよりも安いが酸性なので注意
野菜のドレッシングにはMCTオイルか亜麻仁油
魚介類 海藻、ヒジキ
リンゴ、バナナ
アーモンド、カシューナッツ、マカダミアナッツ
ゴボウ、キノコ、玉ねぎ、ブロッコリー
納豆、味噌汁で発酵食品を摂り腸内細菌の最適化
ヨーグルト、ホエイプロテイン
ビタミンはC、D 、ミネラルは亜鉛、セレン(イミューン4)
飲み物 ミネラルウォーター、麦茶、コーヒーは朝か昼に1日1杯まで
煎茶よりもほうじ茶のほうがカテキン/カフェイン比率が高いのでおすすめ(がぶ飲みしてもカフェインは微量)
微糖であっても糖分入りはNG
よって、スポーツドリンク、エナジードリンクはNG
食べてはいけないもの
https://youtu.be/UKBWar3TTD4?t=1502 食事の余分におやつ感覚でバナナを食べようとするから
金が追加でかかったり
皮の処分に手間が増えるように感じるんだよ
朝でも昼でも夜でもいいけど
バナナだけを食べる食事に変えてみろ
1食50円なら今の食事よりもはるかに安くなって手間も減るはずだよ
バナナより手間いらずの食い物を探すほうが難しいくらいだ
食器すら要らない
運転中に食いやすいのはバナナ
こぼれない
匂わない
片手で食える
残った皮は助手席の窓から草むらに投げ捨てれば自然に還る
SDGsの高度循環型リサイクル
パンや麺類なんか栄養がないからいくら食っても血糖値が上がるだけで細胞に取り込まれないから空腹感が満たされない
糖質の補給はバナナで十分
バナナは食物繊維もビタミンCも豊富 食事を見栄え良く、旨く味わうという発想をまず捨てること
健康維持と体調管理のための栄養補給だと割り切ることが大事 また、野菜や果物にはビタミン類のほか、フィトケミカルなどの抗酸化物質も豊富に含まれています。
フィトケミカルは野菜や果物の色素に含まれている成分で、その代表格にあたるポリフェノールにはがん発生の原因になる活性酸素を体内から除去するほか、
同じくがん発生の原因になる悪玉コレステロールを減らす働きもあります。
代謝の速いビタミン類は3食毎に補給する
中でも、緑黄色野菜や果物はビタミンの宝庫と言われています。
例えば、脂溶性のビタミンについて言えば、ビタミンAはニンジンのほか、カボチャ、モロヘイヤ、小松菜、トマトなどに豊富に含まれており、
ビタミンEはカボチャ、モロヘイヤ、アーモンド、落花生などに豊富に含まれています。
ただし、落花生(ピーナッツ)は体内環境を酸性に傾けてしまうため、避けるのが無難です。
水溶性のビタミンであるビタミンCは、パプリカ、菜の花、ブロッコリー、キウイ、イチゴ、オレンジ、グレープフルーツなどに多く含まれています。
しかも、ビタミンAとビタミンCとビタミンEには相互作用があり、これらを併せて摂取することで効果はさらに増していきます。
そのため、相互作用を有するこの3種類のビタミンは「ACE(エース)」とも総称されています。
ただし、ビタミン類はすぐに代謝されてしまうため、朝、昼、晩の3食のたびに補給し続けることが肝要となります。
https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/c/670/img_1c1289c52b0eceac320dbd5bd1b74ef6220418.jpg バナナのカロリーは意外と低い!
バナナ一本で約86キロカロリーです。ご飯だとお茶椀半分、6枚切りの食パン半分(何もつけない)と同じです。栄養バランスに優れたバナナは案外低カロリーなんです。果物の糖質はエネルギーに変わりやすく、糖質の吸収が緩やかなので主食代わりにという方が多いのも納得ですね。
バナナの「自然な甘さ」はカラダに必要!
バナナの糖質は、ブドウ糖、果糖、ショ糖などいろいろな種類を含んでいます。ブドウ糖はすぐに脳のエネルギー源となります。疲れている時や朝にブドウ糖を摂ると頭がすっきりとするのはこのことからです。果糖はバナナの糖質の中でもっとも多く含まれていて、血糖を上げにくく緩やかに体内に吸収される性質があります。果糖を多く含むバナナが太りにくいカラダを作ると言われるのはこのことからです。ショ糖はブドウ糖と果糖からなっています。いずれも自然な糖質はカラダに必要なんです。
バナナは運動前と運動後の強い味方!
バナナの糖質は20分程度で消化するため、運動する30分前に食べることをお勧めします。速やかにエネルギーに変わる糖質から順番に使われ、持続的なエネルギ―源となります。また、運動後30分以内に食べると筋肉を補修し、疲労回復に効果があると言われています。運動するときに糖質が不足するとエネルギー不足で十分な効果が得られません。しっかりと適正な糖質を摂りましょう。
糖質の補給はバナナで十分
バナナは食物繊維もビタミンCも豊富
俺が1日にバナナ2本食うことを10年以上継続して脂肪肝になったが
2本のまま減らさなくても脂肪肝が消えた
つまりバナナ2本は脂肪肝の原因ではなかったということ
(バナナ食えば脂肪肝が減ると言ってるわけでもない)
脂肪肝の原因は運動不足と昼食のパスタと夜食のカップラーメンや冷凍チャーハン
よってバナナ2本程度なら脂肪肝を気にしなくてもよい 我々は、他の人たちと同じようになろうとして、自分自身の4分の3を喪失してしまう。
人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならない。
- ショーペンハウアー - 心の隙間を5ちゃんで埋めるな
叩き煽りがデフォルトの文化になった5chの専門板が過疎るのがよくわかる典型的なスレ
以前と比べてもこの板の書き込み数は3分の1近くになってる
だけど粘着キチガイだけはなかなか去らないから板の自浄能力も効かなくなってどんどんキチガイ密度が上がって更に過疎化へ
というより5chが既に終わっているんだと思う
数年前くらいからやたら政治的発言する奴が目立ち始めて
なんだかんだ同趣味の互助掲示板から独り言や便所の落書きと叩き煽りがデフォルトの文化になった
情報が無いからスキルある人間も寄りつかなくなってこの状態
書き込みしても相当な煽りカキコとか誇張ネタでもないとレスなんてなくなったし
ゴミみたいなスレに毒にも薬にもならないつぶやきなんか書いても何も得るものはない
どの板のどのスレ行っても過去スレの焼き直しリプレイみたいでスレタイ見れば中身もおおよそ想像できる
書くどころか読む価値すらもなくなってきた
質問してもスルーされたり、間違った回答、古い情報、物心共に貧しいねらーバイアスのかかった意見や
上から目線で持論を展開したあげくめんどうくさそうにテンプレや他スレ誘導が関の山
だからググったほうが速く問題解決できて内容の偏りもなく中身も充実していることが多くなった。
そこで従来の5ちゃんを軸とした生活ではなく、「5ちゃんねるは私に必要か」と問いかけてみる
つまり、主役は5ちゃんではなく「自分」
人生や日常生活に不要な5ちゃんから距離を置くことで、空間・時間・エネルギーにゆとりが出て
5ちゃんへの執着から解放されて、それが気持ちのゆとりに繋がってゆく
・大切なことに集中できるようになり、視点の低い周りの人間がいちいち気にならなくなる
・余計なことに煩わされることがなくなり、自分軸をもっと大切にする生き方ができるようになる
・これまでの悩みが俯瞰できるようになり、迷いから解放される
・ストレスが減って気持ちが楽になる
・抽象度が上がり知的レベルが一気に引き上げられる
「ネットというものは本来、自分の生活を豊かにするためにある」という考えを軸に
今の自分にとって必要かどうかを問いかけ、思い切って捨てる
全部捨てたら未来だけが見える。なぜならそれはあなたを自由にしているから すでに多くの人が感じているように、5chやSNSや「いいね」ではインスタントな共感しか生まれません。
共感からは何も生まれない。
共感はコンフォートゾーンであり、あまりストレスを感じないかも知れません。
共感から新しい考えが生まれたり、チャレンジの気持ちが駆り立てられることはほとんどないと思います
最悪なのは、同じレベルのもの同士で慰めあうパターン。
互いの愚痴を言い合う行為には、「自分たちは頑張っているよね!」と共感し合いたい、という心理が背景にある。
たしかに、「共感」は人間にとって心地よいものであり、ストレスの解消になるかもしれない。
だが、『共感』から新しい考えが生まれてきたり、チャレンジ精神が湧き出てくるようなことは、ほとんどないのが現実。
自分よりもレベルが高い人、自分にはないものを持っている人を友達にするとなると、該当者はかなり少なくなるはずだ。 人間は、何もしないでいると、自分が「か弱く」、
「慰められないほどみじめ」な存在であることに気がついてしまいます。
だからこそ、私たちは独りでじっとしていられないのです。
人間の不幸は、現実を直視できずに逃避し、自分と1対1で向かい合うことができないことからやってくる。
このような人間が、自分のみじめさから目をそらすために、辿り着いたのが「5ちゃんねる」なのです。
5ちゃんねるとは、趣味や遊びの板ももちろんですが、仕事板であろうが、健康板であろうが、ニュース板であろうがなんであろうが、
現実を直視することから逃れることができるありとあらゆるスレッド群に人々が集まっている場所のことなのです。
人々は、老いも病も死もみじめさも無知も免れることができないので、そんなことを考えずにすませることで幸せになろうとした。
そんな5ちゃんねる見て……人生がうまくいくとでも思っているわけ?
そこに行けば自分と同じ惨めな境遇の人たちがいて、自分はまだましだと安心出来るから、ついつい行ってしまうんじゃないの?
あなたの求めていることは現実逃避であり、問題の先送りです。 一方、5ちゃんねるを徘徊することによって、一時的にも自分がみじめな存在だと気づかないままなら、それはそれで幸せだからいいのでは?
と反論したくなる人もいると思います。
しかし、むしろ「5ちゃんねる」は「最大のみじめさ」だというのです。
「5ちゃんねる」がみじめである理由の1つは、現実逃避するための手段である「スレッド巡回」自体が目的になってしまうことです。
例えば、多くの人は、仕事をして、終わったあとにスマホをいじることが楽しみだと思っています。
ところがいざ何もせず無職がいつでも自由に5ちゃんねるを見られるようになると、大して嬉しくはならないのです。
なぜなら、その人たちが求めているのは、自分のことを直視せずに夢中になれることだからです。
さらに、本人たちはそのことに気がついていません。
だからこそ、その人たちは、中毒になったかのように5ちゃんねるを徘徊する
また、「現実逃避」がみじめであるもう一つの理由は、
「現実逃避」は絶対的な問題解決を与えてくれないため、際限なく、「現実逃避」を求めてしまうことです。 「むかしはネットの方が自由で、現実じゃ言えないことを言いあえるような空間だと思ってたんだけど、
最近だと『その話はネットで言うのはまずいから、オフで会ったときに話そう』ってな具合になってきて、
もうネットをやってる意味なんかないなと思うようになってきた」
そう語る彼は、ひと昔前までSNSでもそれなりに発信していた、なおかつそれなりのフォロワー数と知名度のある人物だったが、
最近では数カ月に1回程度の発信になっていた。
彼にかぎった話ではない。
「結局は現実のつながりがどれだけありがたいものなのかわかった」
「ネットのつながりは現実のつながりを代替できない」といった声が、ちかごろ私の周囲でどんどん聞こえるようになってきた。
皆さんの周囲でもそうではないだろうか。 「全体主義社会」の疑似体験をしているようだ
端的にいえば、今日のネットの息苦しさは、ネットが人びとに対して「全体主義社会がどのようなものか」
を疑似的に体験させているからこそ生じている。
現在のインターネットは、全体主義社会がじわじわと浸透する社会での暮らしがどのようなものなのかを体感させてくれるシミュレーションゲームのような状況になりつつある。
10年前の私に言ったら信じてもらえないだろうが、これが現実だ。
いま、もはや何回目かも忘れた緊急事態宣言のさなか、街に少しずつ人が戻っている。
それは単に「ニュー・ノーマル」の生活様式へのストレスや反動だけではないかもしれない。
「ニュー・ノーマル」の世界で、人びとのコミュニケーションの代替手段となったインターネット。
そこで急拡大するグローバルでボーダレスな「ニュー・ワールド・オーダー」への反発や疲れを少なからず含んでいるようにも思える。
「現実はクソ、ネットこそ救い」だった世界は遠くに過ぎ去り「やっぱり現実の方がいいよね」となりつつある。
人びとは、つながりすぎたがゆえに、お互いと手を取り合えなくなった。 自己肯定感を持ちなさい、などと、いい年になった人たちに臆面もなく言う専門家がいる。
が、それは、育ち盛りのときに栄養が足りずに大きくなれなかった人に、背を伸ばしなさいと言っているようなものだ。
自己肯定感は、これまでの人生の結果であり、原因ではない。
それを高めなさいなどと簡単に言うのは、本当に苦しんだことなどない人が、口先の理屈で言う言葉に思える。 本来の依存症の定義は、損失があるとわかっているのにやめられない行為だ