イエスはわたしの救い主 Part 2
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イエスによって救われるとは、どういうことなのか。
どうして、人は救われなければ、ならないのか。
救いによって、何が得られ、何を失うのか。
救われた人は、どうなるのか。
イエスの救いについて、聖書を通して、より良く知り
信仰を深められ、思いと生活ををきよめられて、共に
救いにあずかる者となるために、この場を活用させて
いただきたいと思います。
教派・信じる・信じないの違いを超えて、ご自由に
お書き込み下さい。
ただし個人名・団体名を出して、直接に誹謗中傷する
ことは避けて下さい。あくまでも一般論としての意見
の交換の場とするようにお願いします。
前スレ
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1564073870/l50 キリスト教は実に実践的な教えだと思わされます。
その教えは、人が生きていく上での指針・ガイドとなり、人の救いとなります。
その教理の基盤は、第一に。
この世、つまり全被造物の創造主であり、全知全能にして、被造物を限りなく愛し、永遠に生きて創造の働きをなされる、唯一の神様がおられるということです。
そして、人がこの世で経験する全ての出来事は、全知全能であり、唯一の創造主である神様のまったき愛のご計画の中でなされています。
第二として。
神様はご自分の霊を肉の人に宿らせた、神様の独り子なるイエス様を地上につかわされたということです。
それは、イエス様の地上での生涯をとおし、人々に神様の愛を示し、信じた人々に罪の許しと永遠の命と聖霊を与えてくださるためでした。
この教理を知り信じることで、人はこの地上での生涯の存在理由と目的を知り、生きそして死ぬことに平安と喜びと価値を見出し、救われます。
教理の基盤を書きましたが、しかしこの教理は私も含め、人には単純に理解できるものはありません。
神様の御心は人の心の思いの及ぶところのはるか上にあるからです。
キリスト教教理に対することや、それ以外のことでも、皆様の疑問や考え方を書き込んでいただければ幸いです。 こんばんは
>>1おつです
>>2
神は人格的である、聖書の世界ではあたりまえだけどキリスト教を理解する上で大切な基礎ですね
神はそれではなく、彼である
神はご自身に似せて人格として人を創り、人格的な自由と責任をその主体に着して人間と関わりを持たれる神的な汝である、そういうことを忘れないようにしていこうと思います >>うみなみさん
スレ建てお疲れ様さまです
神の怒りについてはどう考えますか
聖書で神は、ある人格者や特定のグループとの関係において道徳的な秩序を構成されます
具体的に言えば、預言者や王が悪い場合は関係のない(と言えるような)すべての民を滅ぼされることもあったということです
罰と憐憫の天秤は、個となる主体と神との関係においてなされうるはずです
そこにあるのは、善は神との関係概念であり、神的第一存在者の意志の充足を常に求められている
それは神と個の間においてです
しかし一方で、なにか怒りを買ってしまうような行為があった時、その存在者の罰はその悪を為した個人ではなく、そこにいる多くの人を巻き込んで滅ぼされることもあったと書かれています
道徳は神と主体者の個人的な関係に留まらないのかもしれません
恵みという恩寵が誰にも与えられるように、怒りという罰もまた、誰にでも注がれることになるのかもしれません
きたるべき神の怒りから逃げなけければならない
だからこそ存在者の人格を恐れなければならない
人格的であるということは、時として無条件で無限定な裁きや罰も含んでいるように思いました こんばんは
>>エイシストさん
まえスレで、聖書は当時の文化によって書かれている書物なので現在の常識とは違うところを見つけるように読むのも通読のコツになる、みたいなレスをしてもらいました
常識や、時に倫理からさえもかけ離れた逸話というのは面白くもあり、それだけじゃなくて興味を持って読めることにも気が付きました
ぼくはそういう話が個性として好きなようですし、この方法なら読んでいくのも続きそうです
創世記、悪徳のはびこるソドムの町の中で、唯一残された神に従う善良なる人々であるロトの家族、父親のロトは天からの客人たちを守るために自分の娘二人を差し出そうとします
ロトの献身もアブラハムのイサク献上も、旧約聖書の世界観においては、何よりもまず第一に神のことを尊び、ひたすら神の命に従ってその存在に帰依することが大切なようです
一方で現在の社会的倫理観からはとてもかけ離れています
究極の二択が与えられている文脈からは、究極的な善悪と純粋な選択とはなにか、そんなことを考えさせられるきっかけになるように思いました
と、こんな感じで通読チャレンジ中です
いつまで続くかなw >>7
特に女性の地位については著しく現代とは異なりますね
これはユダヤ社会に限ったことではありませんが、古代においては
女性は一般に、社会的法的には財産として扱われていましたから
我々の常識からは外れてしまうような記述が聖書にも多々あります
そのうえで、聖書においては神の主権、絶対的な権威としての神が強調されますから
ロトの逸話やイサクの逸話などは当時のユダヤ人たちにとっては我々が思うよりずっと
納得のいく内容だったのかもしれません
塩柱にされたロトの妻の逸話も宗教的にはイヴと禁断の木の実の逸話同様、
神の命に背くことが主題とはなっていますが、おそらく旧約、特に創世記に散りばめられた
これら数々の逸話は、もともとは奇異な地形や地名などを説明するための由来譚で
あったであろうと思われます
ユダヤ民族や周辺民族の間で伝えられてきた数々の伝承が
ユダヤ民族の宗教的世界観や倫理観によって神と選民のひとつの雄大な物語として
再編集されたものが聖書なのだ、ということでしょう 皆様おはようございます。
いつものことですが、レス遅れてすみません。^^;
>>5
>神の怒りについてはどう考えますか
怒りとは、本来アピールだと思います。
アピールすることで、相手が間違った行動を、初期段階で修正もしくは止めるためです。
神様は、聖霊や、悪い出来事をとおして、『神様は怒っているぞ』、と人の心にアピールします。
そのアピールを知った初期段階で、人が行動を修正、もしくは止めればよいわけです。
しかし、アピールを無視し、間違った行動を修正せず止めない場合、神様はその行動の結果を当事者に刈り取らせます。
その行動の結果としての刈り取りが、一般に罰と呼ばれているものだと思います。
そして,その罰は当事者の周辺の人々をも巻き込む結果となることがあります。
当事者と何ら関わりがないのに巻き込まれた人々は、神様の御心がどこにあるのか理不尽さに、苦しみ悩みます。
この地上での理不尽を神様への信仰の故に耐え忍んだ人々にこそ、後の世に於いての永遠の命が保証されていると思います。
ダビデは、神様の怒りを鞭に、恵みを杖に例え、鞭と杖もて人を正しい方向に導いて下さる神様の恵みを、詩篇で次のように詩っています。
聖書詩篇23編
4死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。 1000 :まんげんよしお :2019/11/18(月) 10:53:35.59 ID:FpcACXhx
>>>999
>ダサくていいならそれでいいが、それならモテる事はあきらめな。
>
>ちなみに、さてぃはせいしをためている。
ついに、さてぃのせいしはほうしゅつされたあああ!!!
うわあああああああ!!!!
\ /
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\( ^o^)/
│ │ 〜○
│ │ 〜○〜○
( ω⊃〜○〜○
/ \ 〜○〜○
/ \ 〜○
/ \ 9 :紅 :2020/01/24(金) 22:10:51.79 ID:pJrIM1A9.net
アラフェスは、西郷ドンに、似てるな。
998 :アラフェス :2020/02/07(金) 08:36:36.88 ID:PeOjWlsy
>>996
俺を西郷隆盛とかいうな。
,,,、、、、、、、,,,
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,'.:;;,:r''"´  ̄ `""゙´ ´¨ヾ;;!
|;;;:.:{ -ー -、 , -‐.::.;l;!
|;;::.:ヽ _ _,,)j _,,.;i!
. i;;;;.:ji! ,r''ニニニ二ン r''二ニュ
/^ヾ! ,,,zf_で;ソ´ ヾでソ;;{
レハj! ''' "´ j;:.~'' ´ !
Yヽ! , ィ ,_ _,,ハ | 俺を西郷隆盛とかいうな。
し'i. ,′ j !;::.', |
, イハ { ,,r====ュ;:, ,!_
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https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1580803335/998 キリスト教の救いとは、この世で真の人で、光であるイエス・キリストを知ることができたこと。
イエス様がご自分のことを人の子と言うのは、深い意味があると思う。
私たちはこの世に於いて、どう生きそして死ねばよいのか知らなかった。
その私たちに神様は生き方の手本としてイエス・キリストの生涯を見させてくれた。
聖書全体はまさに、イエス・キリストのことを証ししている。
イエス様こそ誠の人の子、私たちのあるべき姿、目指す目標。
救いとは、イエス様が神様から遣わされた私たちのあるべき指針であることを知り、彼を目指すこと。
この世の経験を通し、人の子イエス様に似たものとならせていただけることを感謝すること。 光なる人の子イエス様と、私とのギャップは壁のようにまだまだ大きぃ。
一生は短い。^^; ギャップは大きいが、イエス様が救い主であることを信じて、彼のようになりたいと願い生きることが、救われていることの証し。 私たちは、この世に肉体を置き、霊では神様・天を仰ぎ、生き働く存在です。
この形態は地に根をおろし、空に向かって茎を伸ばし花を咲かせる植物によく似ています。
人間は、神様によって地上に描かれた、生きる霊の文字と例えられます。
また人間とは、神の霊を宿す肉なる神殿・宮だとも言われます。
物質なる体を持ちながら、神様の霊を宿す、神様によってデザインされた生きる被造物。
花のように、肉に根ざしつつ、霊なる高嶺を目指して動き働く形態。
その形態が目指し、進む先にあるのが、イエス様によって示された、神の御国における永遠の命だと思います。 花とは性器のことです。
花が咲き乱れるとは、性器が満開ということ。
花は受粉を楽しみにしているのです。 ほんとそうだよな
イスラエルの子がイスラエルの代表を意味するように
人の子は人類の代表を意味する
キリストは肉になったロゴスであると同時に、人類が神に助けられながら自らの足で辿り着くゴール地点でもある 514 名前:優しい名無しさん [sage] :2020/03/02(月) 00:51:56.01 ID:GJ+26w7p
そのほとんどはイエスの教えを理解してない
イエスは釈迦のように悟った
そして女であるマグダラのマリアを悟らせた
男女一つになることがその鍵だと教えた
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1577961076/514 >>20
そんなんやったら人類のほとんどが悟ってますね
セックスしないことが悟りなんですよ
セックス=死、なのです >>21
なるほど
こうして自ら生と死の区別すらつかない無知を晒すわけだな 永遠に生きる存在がかりにあるとすればその存在は性交などしないし、男でも女でもないでしょう
死ぬから遺伝子を残して自分の死の代わりに子孫を生き延びさせるのです
しかしそれは結局、個体としての死でしょう
形あるものはみな滅びるのが定めです
肉は滅び、霊は生きる
これくらいのことは悟った人はみんな知っていたはずです ヨハネによる福音書6章
27朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。
35イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
40わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
48わたしは命のパンである。
49あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。
50しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。
51わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
63人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
聖書を読むことで、イエス様の霊を食べ、イエス様の言葉を信じる者は、永遠の命を得ると約束されてます。
人を生かすのは、パンだけではなく、神様の口から出るすべての言葉、すなわち神様の霊です。
私達は、肉体を持つこの世の生の中で、実は神様の霊こそ人を生かすものであることに気づかされます。 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1584187014/224
>神は善なる存在である
>善なる存在が与えた物事は善なる事実である
>ならばペストも悪ではなくて善なのだから受け入れなければならない
質問者さんの核心をついた質問を見落としていました。ごめんなさい。^^;
重要な質問なので、こちらのスレで答えさせたいただきます。
私は別スレで、
1)『この世界では、神のゆるされた最善の出来事しか起こり得ない。』との仮説を立てました。
しかし1)の仮説からは、質問者さんの挙げた、次の考え方が導き出されます。
もし病が神のゆるされた最善の出来事ならば、人は病を治そうとしてはならないのでは?同様に、
もし火事が神のゆるされた最善の出来事ならば、人は火事を消火しようとしてはならないのでは?
しかし実際には、人は病を医者や薬で治そうとし、火事を消火しようとしますし、そうしなければ、逆に罪ありとみなされ罰せられます。
なぜなら、人は起こった出来事の善悪を判断し対処する能力を与えられ、世界の管理の一部を神様から委ねられているからです。
人が病を医者や薬で治そうとしたり、火事を消火しようとするのは、病や火事が、人にとって最善の出来事ではないからです。
このことは、
2)『この世界では、人にとって最善でない出来事が起こり得る。』という、事実を示しています。
では1)の仮説と2)の事実は矛盾するでしょうか?
いいえ、矛盾しません。なぜなら。
この世界を神の視点から見ると、1)の仮説が成り立ち、
この世界を人の視点からみると、2)の事実が起こり得るからです。 >>25の続き
この事をもう少し詳しく見ていきます。
一)神様の視点から見た世界
@神様は全知・全能の方であり、神様にとって想定外や計画外の出来事は、この世に存在し得ません。
A神様はこの世界を初めから完成された世界とはせず、完成を目指す途上の世界として創造されました。
Bこの世界は神様の完全なる計画の内に、完成を目指し、その完成の過程を現在進行中です。
C神様はこの完成途上の世界に、自分に似せて創造した人を置き、世界の管理の一部を委ねました。
@〜Cの神様の創造の業は、神様の完全なる計画の中で、完成を目指して現在進行中です。
ですから、神様はの視点からは、1)の仮定が成り立ちます。
二)人の視点から見た世界
神様の完全な計画の中にあるのに、人がこの世界に2)の事実を見てしまう原因は2つあります。
@神様は人を、ロボットでなく、神様自身に似せ、善悪を知り、行動できる存在として創造された。
A神様は人を、完成を目指して進む途上の世界のただ中に置かれ、世界の管理の一部を委ねた。
人は世界の内側にいて、善悪を知る能力で、この世界を管理しますが、世界には未完成の部分があります。
人がこの世界の未完成の部分に遭遇する時、その部分で2)の事実が起こっていることを認識します。
この理由で、人の視点からは、この世界で、人にとって最善でない悪と見える出来事が起こります。
以上から、質問者さんの質問に答えると、次のようになります。
人は神様の完全なる計画の中で、未だ不完全なこの世に置かれています。
そのため人にとっては悪しき事と思われる出来事が起こり、人がそれに対処することは正しいことです。 ローマ人への手紙8章
28神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
神様はこの世界で、召された者たちと共に働いて、万事を益としてくださいます。
この御言葉からも、神様は全ての出来事を通して、最善をなされることが分かります。 今の所一番好きなキリスト教音楽です。^^
https://www.youtube.com/watch?v=-RSfvCpXa14&list=RD-RSfvCpXa14&start_radio=1&t=396 こんばんは
神の運命や摂理について人は、おそらく世界は3つに分けられるのかもしれません
確かユダヤ戦記かフィロンの自由論か何かであったと思うんだけど、3つの考えにカテゴリーできるようです
>>25 ー >>27
詳しくレスてくれてありがとうございます
ですが今気がついて、これから寝る頃なのでも一回考えてからレスします
明日はすごーく稀にある早起きしないとな日でした(T . T)
おやすみなさい💤 >>29
早起きご苦労さまです。
自分のレスを読み返すと、1)の仮説が誤解を招く表現だったので、以下のように修正します。
☆旧表現
1)『この世界では、神様のゆるされた最善の出来事しか起こり得ない。』
↓
☆新表現
1)『神様はこの世界での全ての出来事を通して、最善をなされる。』
旧新同じ意味なのですが、新のほうが誤解を受けにくい表現だと思います。 こんばんは
>>30
1世紀帝政ローマ、ヘロデ王の時代、ヨセフスのユダヤ古代誌に運命についての記述があります
聖書にも出てくる大きな3つのユダヤの学派
真相は定かではありませんが、一説によればイエスはエッセネ派出身とも言われています
起こる事柄の範囲をどこまで認めるかは、悪も含めた起こるすべての事柄をどまで許せるのかと同じ意味のように思えてなりません
「前140年頃、ユダヤの間には3つの学派があった
それらは人間に関する事柄について異なった立場をとっており、1つはパリサイ派、1つはサドカイ派、第3はエッセネ派と呼ばれていた
パリサイ派の主張によれば、すべての事柄ではなくてある事柄は運命の仕事であるが、別のある事柄が起こるか否かは我々自身の自由意志にかかっている
これに対してエッセネ派は、運命こそが万物の支配者であって、運命の決定なしに何一つ人気に起こることはない、と言明する
一方、サドカイ派は、運命を否定して、そのようなものの存在を認めず、人間の事柄は運命に従って成就するのではなく、すべては我々自身の力にかかっているのであって、幸福にの原因も我々自身であり、また我々が不幸な目にあうのも我々の無思慮にあるのだと考えている」 運命に対する現代の考え方はパリサイ派とサドカイ派の比較から多くを見いだせるかもしれません
エッセネ派については、霊魂の不滅を至高とするあまり、子孫繁栄などの肉体的継続、結婚はおろか、肉体に関する死に至る病も関心を示さずにむしろ否定し、
間違いをおことの原因になる私有財産を否定して、
苦難の中に笑みを浮かべ、死によって再び生命を取り戻すのだといった態度で、喜んで生命をなげすてたとあります
言葉を文字通り信じて現実とする、理想ではありますが実際にこの現在でできるかどうかはハッキリいって難しいようにおもいます
「パリサイ派は、運命をすべて神に帰していると同時に、正しい行いをするか否かは人間の責任としているけど、個々の特定の場合においては運命にも協力していると考えている
そして霊魂の不明を認め、悪人は永遠の懲罰を受け、善人は不滅の肉体をもう一度持つと信じている
サドカイ派は、神は悪をなしたり、ご覧になったりもせず、善も悪も人間の選択によるもので、各人の選択によっていずれかに近づくものとする
霊魂の不滅はなく、懲罰も報奨も彼らは否定する」
「」はヨセフスユダヤ古代誌に書かれている内容を参考にまとめてみました
イエスが死んで100年立たない当時のユダヤ人がどう思っていたのかは、イエスキリストを考える上で役に立つこともあるのだと思っています 5chはスマホでしかしないので、誤字脱字や句読点などが抜けているみたいですが、その辺は許してw >>32
『ヨセフスユダヤ古代誌』の紹介ありがとうございました。
イエス様の考え方を知る上での貴重な情報だと思います。
当時のユダヤ3大宗派が、今日でも問われ続けている、哲学問題をどう捉えていたのか、よく分かりました。
エッセネ派は、1)運命は定まっていて、運命により既に決定された未来がある、との考え方だと思います。
サドカイ派は、2)定まった運命はなく、人の自由意志による選択が未来を作る、との考え方だと思います。
パリサイ派は、3)エッセネ派とサドカイ派の中間、の考え方だと思います。
さて、イエス様の考え方はどうだったのでしょうか?
私は、イエス様の考え方は、エッセネ派とサドカイ派の、両方の考え方を肯定する考え方だったと推測します。
というのは、聖書には、次の相反することが同じ真理として書かれているからです。
A)「いのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな」
B)「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」
A)では、救われる運命は、世の初めから定まっている。
B)では救われるかどうかは、定まっておらず、人が信じるか否かによる。
と書かれています。
1)とA)は、定まった運命があり、未来は既に決まっていて、修正不可能である。
2)とB)は、定まった運命はなく、人の自由意志の介在で、未来は修正可能である。
はたして、1)と2)もしくは、A)とB)両方を共に肯定することは、可能でしょうか?
私は、前レスで掲げた神様の視点と、人の視点の違いにより、両方を肯定することが可能だと考えています。
神様の視点では、定まった運命があり、未来は既に決まっていて、修正不可能であり、
人の視点では、定まった運命はなく、人の自由意志の介在で、未来は修正可能である。
ということです。
詳しい説明は、後日にさせていただきます。 こんばんは
>>34
なるほど、分かる気がします
神と人の二律背反から関係という中間を導く考え方をするんですね
立つか堕ちるかしか定められていない
それは神の絶対的な定めがある
立てるものは自由に立ち、堕ちるものは自由に堕ちた
それは人の相対的な選択になる
神と人との関係においてアンビバレンスな反運動が秩序を持って重なっているのかもしれません
神の恩寵以外に救いはなけれど、運命や不変可能性を持った事柄は個人が主体となっていく
この「関係」という存在についてはとても難しい問題なので、また改めて考えていけたらと思います こんばんは
勝手に報告です
今年からはじめた聖書の通読が創世記からやっと士師記までいきました
毎日5章くらいで無理せずゆっくりと長期的に完読することを視野に入れて読んでいます
続きますように こんばんは〜。
質問者さん毎日5章はすごいです。
以前日5章目指したことがありましたが、時間とれなくて、結局日で1〜2章になりました。
私は、今はヨハネによる福音書のあたりで、いったり来たりしてます。^^;
続けて頑張ってください。後で旧約の感想お聞かせください。 >>37
別スレでまちこさんにその話をしてみたら、彼女の教会でも2章くらいをじっくり読むみたいでした
途中でバテないようにこれからは僕も2章くらいでいこうと思っています
創世記からはじめて今はサムエル記です
これからも進歩報告してみます
というよりさせていただきます
ぼくのモチベーション維持にご協力お願いしますw 唐突ですが、キリスト教本のお薦めをします。
図説 一冊で学び直せるキリスト教の本 月本昭男監修 学研プラス 780円+税
カラー版 イチから知りたい!聖書の本 大島力監修 西東社 1200円+税
図説 地図とあらすじで読む 聖書 船本弘毅監修 青春出版社 1080円+税
以上、3冊です。 >>595
まず自由意志問題の欠点は、その否定、心がある程度これ信じてしまうと
無関心、不道徳、混乱等が起こってしまうということです。
しかし無我を掘り下げて考える場合、決定者、行為者が存在するように見えるが
本物ではないという理解になります。
イエスはこれをヨハネ5:19で説明しています。
さて、イエスは彼らに答えて言われた、
「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、
自分からは何事もすることができない。
父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。
つまりこれは「人」がいて何かをしていると考えている人への方便です。
また仏教は「無我になる」教えではなく「無我である」という教えです。
この場合すべての人が…ですので、神の国(神の完全な支配)を理解できたと思います。
しかしあなたの心の観点からは選択を持っているので、正しい選択をしてください。 復活節第6主日のミサ・日ごとの福音テレビ
ttps://www.youtube.com/watch?v=Mka498RI4-w
復活節第6主日のごミサは、
十勝カルメル修道院にご協力をいただき生放送で行われています。
司式は、十勝4教会の主任司祭 オール神父です。
ミサ式次第 - カトリック宇部・小野田協働体
( ごミサの礼拝順序 )
ttp://ubecat.jp/missa/
今週の朗読のキーワード(フレーム)
A年 復活節 第6主日
ttp://seisho.fr-amemiya.com/shujitu/shujitu.htm
ミサ朗読について - カトリック宇部・小野田協働体
A年 復活節 第6主日
ttp://ubecat.jp/verbi/
日ごとの福音
ttps://www.higotonofukuin.org/spip.php?page=quotidien&date=2020-05-17
復活節第6主日 2020年5月17日(日曜日)
(宗)パリ外国宣教会の協力によりリリースされています。
第一朗読 使徒言行録8・5-8、14-17
ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
答唱詩編 詩編66・1+2+4、5+9、16+17
主をたたえよう。主はいつくしみ深く、そのあわれみは永遠。
第二朗読 @ペトロ3・15-18
キリストは、肉では死に渡されたが、霊では生きる者とされた。
アレルヤ、アレルヤ。
わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。
わたしの父はその人を愛し、私たちはその人のもとに行く。
アレルヤ、アレルヤ。
福音朗読 ヨハネ14・15-21
わたしは父にお願いしよう。
父は別の弁護者を遣わして、
永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
信仰の糧... 今日のために! カトリック教会より ご参考にとキリスト教本のお薦めをUPします。3冊です。
プロテスタント福音派教会の入信時のカタチを紹介します。
【 家庭礼拝 日本基督教団 】
【 ディボーション ミニストリー 聖書日課 】
【 日本聖書協会 聖書 口語訳 検索 】
【 聖書 和訳各種 原典の外国語 】
【 プロテスタント各派の権威の置き方 】
【 教派 信仰告白 信仰基準 信仰問答 信条 】
【 カトリック ミサ 聖書朗読 説教 】
【 出会ったエホバの証人の配布物 】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1587793418/334-344n 朝鮮半島がらみのネタを書き込みます。
高句麗 ____________ → 高麗 こま
馬韓_ 駒(こま)を飼う韓___ → 百済 くだら
弁韓_ 別の韓 馬韓と弁別の地域 → 加羅任那 からミマナ
弁__ 別の地 ________ → 加羅任那
弁辰_ 別の辰 辰韓と弁別の地域 → 加羅任那
辰韓_ 東南の韓 辰の方角の韓_ → 新羅 しらぎ
韓_(表意 楽浪郡の周辺の意味 古代の周国の辺地「周辺」が春秋戦国の韓国だった)
から(訓読み 倭人にとっては外国の意味)
加羅(表音 倭人の「から」の発音を中国人が音写)
旧唐書 東夷伝 百済条の最後の一文の意訳になります。
(わが大唐は)
(百済国であった) その地を
(戦争後の) この時より
(唐王朝の冊封体制と、シ民政策という強制移住政策により) 新羅と
(シベリア・エベンキ言語系の) 渤海や、靺鞨の人々に分け与えた。
(そのため)百済の(言語を話す)種族(としての人民)を、ついに絶滅させる事が出来た。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1587793418/535-538n
1779年、李氏朝鮮のカトリックは、
京幾道広州市退村面の渓谷、仏教の天真庵で「西学」として始まった。
李氏朝鮮でのキリスト教弾圧
1791年 辛亥邪獄(最初のカトリック弾圧)
1801年 辛酉邪獄で数万人が犠牲
1815年 弾圧
1827年 弾圧
1838年 弾圧
1839年 弾圧
1866年〜1873年 丙寅邪獄(キリスト教大弾圧)
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1587793418/282-285n 突然ですが、日本正教会の一般の夕方の祈りのご紹介します。
暮の祈祷文
・・・
第八祝文 我が主イイスス・ハリストスに捧ぐ
主イイスス・ハリストス神の子よ,
爾の至りて尊き母と
爾が無形の天使と,
爾の預言者,前駆授洗と,
福音せし使徒と,
光明なる凱旋の致命者と,
克肖捧神なる神父と,
諸聖人との祈祷に因りて,我を悪魔の囲より救い給え。
・・・
聖イオアンニキイの祝文
我が憑恃は父,我が避所は子,我がおおいは聖神なり,
聖三者よ,光栄は爾に帰す。
次に
・・・
光栄は父と子と聖神に帰す,今も何時も世世に。「アミン」
主憐めよ。主憐めよ。主憐めよ。
主イイスス・ハリストス神の子よ,
爾が至浄の母と,
我が克肖捧神なる神父と,
諸聖人の祈祷に因りて,我罪人を救い給え。「アミン」
正教ライブラリー 正教会の祈り 小祈祷書(明治41年版)
暮の祈祷文
ttp://www.orthodox-jp.com/pandane/cyril/inori/kure.html
ご覧の通り、神父と諸聖人の取り次ぎの祈りが、毎日欠かせません。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています