イエスはわたしの救い主
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
イエスによって救われるとは、どういうことなのか。
どうして、人は救われなければ、ならないのか。
救いによって、何が得られ、何を失うのか。
救われた人は、どうなるのか。
イエスの救いについて、聖書を通して、より良く知り
信仰を深められ、思いと生活ををきよめられて、共に
救いにあずかる者となるために、この場を活用させて
いただきたいと思います。
教派・信じる・信じないの違いを超えて、ご自由に
お書き込み下さい。
ただし個人名・団体名を出して、直接に誹謗中傷する
ことは避けて下さい。あくまでも一般論としての意見
の交換の場とするようにお願いします。 >>950
宮沢賢治さんの表現で宇宙とか銀河という単語を持ってくるあたり、めちゃ共感します
叡智の人なんだろうと思います
神秘主義の人だと僕は理解してて方向性は違うけどミヒャエルエンデと似たタイプな印象を持ちます
農民芸術論議から思い出すのは柳宗悦さんの民藝運動
民藝はプロダクトデザインですが、同じような方向性を志向してる予感がして興味持ちました
芸術論でいうとハイデガーの芸術作品の根源とかはめちゃ影響受けました
※大昔に読んだので内容ほとんど忘れましたけどw
楽しみにAmazonから届くの待ちますw 芸術論じゃなくてデザイン方面だとウィリアムモリスとか気になって何冊か読んだ時期があります
生活と精神性、みたいなテーマで機械化の無機質な生活の堕落に真っ向から戦って見事に華麗に敗北した人
でもその精神性は持続してバウハウスに繋がって、人の生活を彩る道具に精神性を宿し、美しい生活の基礎を作った人でもある
同じようなムーブメントが柳宗悦さんの民藝運動で、その精神性は息子の柳宗理に引き継がれ、現代ではナガオカケンメイさんや原研哉さんなどなど多くの人に受け継がれ、僕たちの生活を美しいものにしてくれている
そういえば、宮沢賢治さんで思い出す芸術家はパウルクレーですね
彼も神話の人であり、宇宙や銀河の人であり、神秘主義的な芸術家 >>953
色々と読んでるんですね
ぼくは日本人作家で読むひとが偏っていて、それが宮沢賢治でした
彼はエネルギーという質量にとてもこだわったようです
春と修羅にあるように、
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電灯の
ひとつの青い照明です
そしてもう一つは地上の楽園について(キリストの楽園)
「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない。」としながら、「そのときには、お前の周りには自由を手に入れたたくさんの仲間がいる。個性の異なる数多くの天才たちと競い合い、そして手を取りあえ。
そうすれば、この荒んだ地上も天上の楽園になる
ともしています
好きな本を紹介できたことを嬉しく思っています
ありがとうございました >>954
あら、宮沢賢治さん的にはエネルギーは質量なんですね
地上の楽園についてはキリストを感じる言葉でめちゃ趣味です
宮沢賢治さんは学校で読んだ以外は自分からは読もうとしてなくて、でも読んだらめちゃ大好物だろうという予感はとても強く持ってた人です
これを機に読んでみます
素敵なきっかけをありがとうございます😊 >>955
ちょい記憶が曖昧なところもあったので、エネルギーが質量かどうかの認識をもっていのかは自信がなくなりましたw
ぼくももう一度読み直してみます
おやすみなさい💤 >>956
僕的にもエネルギーは精妙な質量だと捉えているので共感します
また、なぜそれに拘っているのか興味を持ちました
いつも素敵な機会をありがとうございます
おやすみなさいませzzz >>948
神の国、新しいエルサレムについて
ヨハネ黙示録よりその描写について
天の光の描写、天の時間について、新しいエルサレムはキリスト者にとって最後の願いであり最善の祝福になり得ますが、黙示録よりその描写について多くのイメージを読み取れるのだろうと思います
そして条件もまた示されています
21:27
しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
黙示録より多くの裁きと罪の罰についても読み取れるので、一方では神を恐れなければならない
そういう側面も忘れないようにしなければならない、と同時に思いました 21:1
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
21:2
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 4
また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。
もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである
21:10
この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。
21:11
その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
21:22
わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
21:23
都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
21:24
諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。
21:25
都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。 22:3
のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
22:4
御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
22:5
夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
22:21
主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。
そして付け足すことも取り除くことも許されていない
上記のレスはエルサレムの栄光の描写を引用してみましたが、加減を許されていないというそのために細心の注意を払って黙示録21章より22章までを読まれることをオススメします
栄光と同じくらい、もしくはそれ以上に裁きについて詳しく語られています
22:18
この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる
22:19
また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる >>958
黙示録の箇所の掲載ありがとうございます。
ヨハネが御霊によって示された新しい天と地と、新しいエルサレムの清らかで美しい様子が描かれていますね。
>見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。
>もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである
神様は被造物に対して、一度この世において、涙を流し、死や、悲しみや、叫びや、痛みを経験することを課せられます。
その経験をとおして、被造物は永遠の命の大切さを学び、イエス様に似たもの、本当の神の民となることができるのだと思います。
神様は被造物に、神様ご自身のように、痛みを知るものとなって欲しいのだと思います。
一度痛みを経験しなければ、痛みの無いことの大切さを知ることができないからです。
神様は被造物を心から愛するがゆえに、すぐに完全な神の御国をくださるのではなく、いったんこの不完全な世において、訓練されます。
この世において起こる全ての出来事が、神様の被造物に対する全き愛のみ心で成されたことを知るときに、被造物はそこに神様のストーリーを見出し、救われます。 農民芸術概論を読んでみた
結論からいうと「カフカ」だった
ここでいうカフカとは、カフカが生きる時代には予言であったが、現代ではあるあるな喜劇であるそれ
農民芸術概論は日常における喜びの身振り、即芸術の精神で紡がれている
これは、Facebookは芸術である、みたいな感覚に近しい
歴史が紡ぐアカデミズムとは一線を画し、一般にその権威が降りて来る社会の中で、禅的なレンズで眺めた時に、音の身振りは即音楽であり、
描写する身振りは即絵画であり、身体表現の身振りは即舞踏である、みたいな感覚に近しい
これは鈴木大拙から直感を得たジョンケージの系譜に似ているし、柳宗悦にも似ていた
ただ、彼の言う農民芸術概論は「個」と「四次元」の点でユニーク
ハイデガー的には芸術作品はそれ自体で存在の開けであるが、どうも宮沢賢治さん的にはその作品を作る主体である個の自由を強調しているように思われる
そして四次元云々は個の表現の総体、そして個の表現の時間軸上での変化全てをゲシュタルトとして捉えている節がある
四次元芸術は時間と共に変化する芸術
しかし作品は時が止まり、風化する対象になる
ここでもやはり、強調されるべきは自然の法として風化する作品というより、個の変化により代わる表現、つまり個が主題としてあると思われる
農民芸術の作品とは何であるか?
完成を目指しつつ変化する作品を作る個であるのではないか、という感想を得た
この意味において、ジョンケージとも柳宗悦さんとも異なる ちなみに、思想の方向性的にはニーチェの永劫回帰とと近しいものを感じた
ただし永劫回帰は完全に個の視点から語られるが、宮沢賢治さんの農民芸術概論の四次元は、個だけではなく、個の群がおりなす活動へのささやかな一つの活動、のような全と個を結びつける概念も内包している印象を持った
この感覚はまさに神秘主義だと思った まぁ、美術館でタイカレーを食べること自体を作品とするリクリット・ティラバーニャみたいな人が生きる現代では、それ自体を作品にすること自体が時代遅れである、とも言えたりする
我々の日常活動自体が、その道具性を失い、喜びだけになる時、それは芸術であると言える
その喜びの活動の集積を四次元芸術として知覚するなら、農民芸術概論に近しい表層を得られるような気がする
その意味では農民芸術概論で描かれる芸術性は、道具性を失う必要すらない
喜びだけあればいい
その喜びを喚起する行動がどんな社会性を帯びていようと、その行為の後で振り返ると、行為と行為の道具性は分断され得る
つまり、日常にその奥にある永遠性を知覚できる批評家、観察者だけが農民芸術を知覚し得る
その意味で、ジョンケージと同じ結論に行き着く
音楽における聴衆とは、作曲家であり、演奏家である
だから4.33の無音の音楽を作曲した
あとは、その通り我々が生きることができるか否か、という問いだけが残る こんばんは
>>962
宮沢賢治著作は、森羅万象、雲や空などの自然や動物、時には星たちが語り合う物語が多いですが、どこかリアルな話のように思えてくることがある
その理由を考えてみるまでもなく、ぼくは彼の本を読んでいると幼かった子供の頃を思い出していることが気がつきます
モノが生き物のように思えてきて、オモチャでさえも会話できていたノスタルジーな感性を思い起こさせられる気分を与えられているのだろうと思いました
彼はやがて憐憫に辿りついたと個人的には思っています
だけどそれは美しい側面だけではなくて苦痛以外の何物でもないことのように思えてきます
人が、人や生き物を憂いて同情することが可能なのか、耐えうることなのか、そんなことも考えさせられる作家だと思っています
「生き物全体の幸せを求めなければ、個人のほんとうの幸福もありえない」農民芸術とはこのことだとぼくは読んでいます
余談ですが、そして知っていると思いますが、よだかの星という作品はとても宮沢賢治らしさがあって大好きです
短編なので時間があったら読んでみて下さい
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/473_42318.html >>963
>>964
個が全体に昇華するのではなく、その反対に活動が個に集約されて芸術となる、そうレスされていますが、ぼくもすごくそのことを感じました
音楽や詩と近いものであるということも
そしてなにより、美術館でタイカレーを食べるという表現はピッタリですねw
日常に永続性の影を知覚することは、まさに芸術家のなせる業ですね
そんな世界を見たくてぼくは本を読み続けているのかもしれません
それにしてもポチってから読み終わるまでが早いw
見習わなければw >>965
改めて読んでみます
宮沢賢治の身体性と宇宙は彼が農民性と理科の先生であるからなのかもしれません
個人的な人生のテーマに存在論、独我論、自由意思などなありますが、プラトンのイデア論に対してアリストテレスのヒュレーとエイドスの不可分性もあったりします
宮沢賢治はエイドスの人でありつつヒュレーの人でもある
その点は大好物です
>「生き物全体の幸せを求めなければ、個人のほんとうの幸福もありえない」農民芸術とはこのことだとぼくは読んでいます
全体は個であり、個は全体である
それらは分けられつつも一である
まさに神秘主義者の発想ですね
かれはこの構造の中に時間と無限の概念を持ち込んでいるところが、分かってるな〜という嬉しさがあります >>966
全ては芸術になるべきで、その先に全ては祈りになる、みたいな世界の実現があると直感します
それは第一原理に愛があり、中央に神が鎮座していることだろうと思います これと決めた神を信じきるか自分を信じきるかしないと人生成功しない。
たいていの人は自分を信じきれない(本当にピンチのときは神に助けを求めてしまう)ので、自分よりも神を信じた方がいい。
聖書にある通り、神は言葉で世界を創造した。言葉にしたことはその瞬間に現実となった。言ったことが成ったということでこれを誠という。
神と神に化けた悪魔を見分けるポイントはこの誠があるか否かである。悪魔は巧妙に愛を真似ることはできても誠だけは真似できない。闇の世界で悪魔が光あれと言っても何も起きないが、神が光あれと言えばその瞬間から光の世界になる。
キリストが言葉ひとつで数々の病気を治してこれたのも誠があるから。すなわちキリストは神の子なのだ。 あまりこういうことは言ってはいけないけど、僕は神を信じているのでサタンの誘惑すら愛の原理から出来ていると直感しています
神は自由意志を人類に与え悪への可能性を開きました
そして悪は人類を悪へと唆し善への重力を無効化しようとします
そして人類は罪への重力の中で、光あれと善を意思し罪への重力に争い神を段階的に志向します
神は悪から善を引き出すことができる、悪が存在するからこそ、より強固な善を引き出せる
ギリシャ神話のプロメテウスは神から火を盗んで人に与えました
プロメテウスが神から火を盗んだのは人類への愛からでした
僕はキリスト教ではプロメテウスはサタン的だと直感しています
我々が悪があるからこそより強固な善を作れるなら、我々は悪に善の視点から見て、恩義があります
我々はその恩義にいつか報いらないといけない
そんな風に思う時もあります
なによりも、アウグスティヌス的には世界には善しかなく、それが希薄か濃いかの濃淡で語られます
なので、この地上に光や愛が希薄だったとしても、それでも光と愛はある、悪に蹂躙される世でも、その中に光と愛は常にある、と考えています >>968
なるほど
芸術はある地点から祈りになる
祈りってすごく神秘なんだけど、言葉で説明できることでもないけど、天上への希求というか、ただ祈るってすごく難しいことなのかもしれませんね
それと祈りは願いと勘違いしやすいけど、祈りって他者の幸いを神に委ねるだけのことなんだろうと思っています
銀河鉄道の夜に、小さな虫を食べて生きているサソリが今度はイタチに自分が食べられそうになって祈るんだけど、宮沢賢治の祈りはとてもキリスト教的な隣人愛の響きがあって好きです
ああ、わたしはいままで
いくつのものの命をとったかわからない、
そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときは
あんなに一生けん命にげた。
それでもとうとうこんなになってしまった。
ああなんにもあてにならない。
どうしてわたしはわたしのからだを だまっていたちに呉れてやらなかったろう。
そしたらいたちも一日生きのびたろうに。
どうか神さま。私の心をごらん下さい。
こんなにむなしく命をすてず
どうかこの次には
まことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。 >>971
美しい祈りですね
僕の個人的な祈りの師匠は植物です
太陽に向かって純粋にただただ伸びてゆく、近づこうとする有様が僕の中での祈りの完成形です >>969
創世記の始めから、光あれ、ですもんね
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
>>970
一面的な完全な善を目指すのが伝統なんだろうけど、悪も含んだ十全性を求めたくなる気持ちは察します
あまり言うべきでない、と釘を打った上でぼくもそう思います
プロメテウスの罰については悲惨ですね
火を盗んだ罰として鷹に肝臓を食べられ続けられるけど不死のため死ねない
不死と罰がセットになったことほど恐ろしいものはないように思いました 植物は光への知覚器官がある
茎は光を知覚し成長を欲するから太陽まで伸びる
根は重力を知覚し成長を欲するから地球の中心部まで伸びる
この二面性は成長を原動力とし、光と重力を欲するから成り立つ
私はこの地上で生きる本質を知覚し根を伸ばしているのだろうか
私は形而上の神の光を知覚し茎を伸ばしているのだろうか
その先にある宇宙の働きの鏡面版としてどんな花を咲かせるのだろうか
それら神への愛と隣人への愛を阻害するのは私への愛
私への愛は神への愛と隣人への愛に昇華するまでは光と重力への知覚を鈍らせる
植物を見るたびに清々しさを感じる
植物のように清々しくありたい
でもそのためには神への知覚器官の発達が必要で、そのためには私への愛、肉の欲を浄化する必要がある
これは、欲と愛と知覚を巡る問題だ >>973
>不死と罰がセットになったことほど恐ろしいものはないように思いました
地獄の表象と重なります なんでアガペーを愛と訳したのだろうか。ゴッドを神と訳すのと同じくらいおかしいのに。 アガペーは無償の愛だよね
フィリアとかストルゲーとかエロスとか愛と翻訳される単語はあるけど、その意味はそれぞれ定義されてるからいいのでは? >>971
>それと祈りは願いと勘違いしやすいけど、祈りって他者の幸いを神に委ねるだけのことなんだろうと思っています
『雨にも負けず』にもあるように、宮沢賢治の思想は、隣人愛をベースにしていると感じます。
彼はこの思想を仏教から見出したのかも知れませんが、全ての人の思いには宗教を超えて隣人愛が刻まれているように思えます。
ヨハネによる福音書15商
12わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
命の本質は自己愛と、真の自己愛の故に生じる、自己犠牲をいとわない隣人愛だとおもいます。
人の正常細胞をシャーレーで培養すると、シャーレーの底一面に広がると、そこで増殖をやめます。
また正常細胞には、人全体の命のために、積極的に自死するアトポーシスという現象が見られます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9
癌細胞は自己の細胞の命だけにこだわり、自己の命の母体である宿主の生命組織を破壊し、最後には自分も死を迎えます。
同じように、人が人類だけの命にこだわり、他の生物の命をないがしろにするならば、最後には人類の命も失うでしょう。
私たちの個々人の命を支えているのは、細胞間の愛であり、地球上の生物全体の命を支えているものは、生物種間の愛です。
生きとし生けるものの命の本質は愛であり、神様はその愛を土台として命を作られたのだと思います。
しかしこのまだ完成されていない世にあって、単純には自己犠牲の愛を全うすることはできません。
この完成されていない世では、どうしても他の生命を犠牲にしないといけない現状があります。
賢治は今はまだ成就されていないが、後の世に於いて成就される全っき愛を夜鷹に託し、星にしたのだと思います。 >>974
>私はこの地上で生きる本質を知覚し根を伸ばしているのだろうか
>私は形而上の神の光を知覚し茎を伸ばしているのだろうか
>その先にある宇宙の働きの鏡面版としてどんな花を咲かせるのだろうか
上文は、人がこの世で生きることの意味と、来たるべき神の御国への希望を、植物になぞらえて、実にうまく表現されています。
イエス様は、植物を例えにした例話をよく話されました。
また植物は、私たち動物の生物種の先輩であり、動物種の命の母体でもあります。
2016年にやっと光合成の本質部分の働きが原子レベルで解明されたそうです。
https://www.jst.go.jp/seika/bt3-4.html
光合成によって蓄えられた化学エネルギーと酸素は、地球上の全ての生物の生命エネルギーの源です。
その植物の典型的生命活動は、土深く根をはり養分を得ることと、土を離れて空に葉を伸ばし、光からエネルギーを得ることの、相反することの両立で成り立っています。
神様は人を、この植物の典型的生き方に似せて、この世で生きるようにして下さいました。
私たちはこの植物の生き方から、自分の生き方の方向性を見出し、学ぶ必要があります。 >>969
>これと決めた神を信じきるか自分を信じきるかしないと人生成功しない。
人生成功するかどうかではなく、意義のある人生を全うできるか否かとしたほうが良いと思います。
でも、確かに神を信じ切ることは、人生において大事だと思わされます。
>キリストが言葉ひとつで数々の病気を治してこれたのも誠があるから。
>すなわちキリストは神の子なのだ
神様のそして、イエス様の言葉が成就したのは、そこに誠があったゆえなのかもしれません。
私たちも誠をもって、神様と向き合いたいものです。かけがえのない人生ですから。 >>977
日本語だと愛だけですが、古代ギリシャに於いては、愛の意味をもっと詳細に、
エロース 、フィリア 、アガペー 、ストルゲーの愛に分類したのでしょうね。
この分類方法は正しいと思います。 ギリシャ語には確かに愛を表す4つの単語があるが、聖書に使われているのは2つだけ。
その2つの使い分けには意味があるが、他の2つは関係ないよね お久しぶりです
>>978
雨にもまけず、すごくいいですよね
最後の一文がとてもいいっす
弱き者というか、聖書でいう低いものを連想します
そしてそういうものになりたいと言っている宮沢賢治がとても魅力的に思いました
…日照りの時は 涙を流し
寒さの夏は おろおろ歩き
みんなにデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに わたしはなりたい こんばんは
一年くらいの長期的な視点で聖書を最初から最後まで完読しようと試みている今年ですが、ギリシャ語聖書の方は読みやすいんだけどヘブライ語聖書の部分は挫折しそうになってしまうw
読む順番とか、やっぱり創世記から黙示録で続くように読んだ方がいいんですかね
読みたい順番で読んでいるけど、それでも心折れそうになるw
みなさんは教会とかで周期の順番は指定されているんですか
読むペースが日毎に波がある自分だけどw >>985
こんばんは〜。
すごいですね、ギリシャ語とヘブライ語の聖書を読めるんですね。
牧師様か、研究者様ですか?
ギリシャ語とヘブライ語で聖書読めるんでしたら、教会ではスーパースターです。^^;
私も今、新約聖書を通読している途中のいち信者です。
教会では今は通読表を掲げていませんので、各自独自で通読していると思います。
順番は、読みたい順序でいいとおもいますが、全体をまんべんなく読めるようにしたほうがいいと思います。
いつも小さい聖書を持ち歩き、いつでもどこでも、すぐ読む、御言葉と共に生きるくらいの習慣化が理想だと思っています。
それを目指してますが、なかなかできません。
御言葉と共に生きるということは、神様の御前で嘘偽りなく、誠をもって生きるということだと思います。
日々試されますが、これこそ生涯かけてやりがいのあることだと思います。^^; >>986
すいません、言葉が足りませんでした
旧約聖書と新約聖書という意味っす
>順番は、読みたい順序でいいとおもいますが、全体をまんべんなく読めるようにしたほうがいいと思います。
そうしてみます >>987
ごめんなさい、早とちりしてご迷惑かけました。
旧約聖書と新約聖書ということですね。^^;
最初は新約聖書の通読でいいと思います。
旧約聖書は、新約聖書の流れがわかってから読むと、その価値がわかってきます。
旧約聖書は、イエス様の出現の預言の書であり、新約聖書の母体だからです。
最終的には、旧約と新約でひとつの聖書ということが理解できると思います。 >>985
クリスチャンではないので質問者さんの求める読み方とは違うかもしれないけど
俺が聖書を完読したときは、コメンタリー(注釈書)を使いました
特に旧約聖書には、なんじゃこりゃみたいな箇所がしばしば出てくるので
コメンタリーは重宝しました
もちろんコメンタリーは特定の神学的立場から書かれている場合が多いので
必ずしも客観的な注釈とは限らないのですが、ともかく意味が分からない状態で読みすすめるよりも
なんであれ分からない箇所にひとつの解釈を与えてくれたほうが読みすすめる上での負担も少なくなるので
完読しやすくなると思います
あとは創世記の系譜の羅列部分とか、出エジプト記のタバナクルの寸法がどうたらとかいうところは
サクッと読み流しました
こういうところは専門家かオタクでもない限り、テキトーにすっ飛ばしても構わないと思います
というか、すっ飛ばさないと読むのが嫌になります
それから当然現代日本とは時代も文化も大きく異なっている民族が書いた書物なので
自分の常識とは異なる部分の発見を楽しむような気持ちで読むと、興味が持続しやすいと思います
少なくとも自分はそうやって読んだので時間はかかりましたが挫折はしませんでした >>988
新約聖書から読んでみることにしました
>>989
あまり力まずにすっ飛ばすべきところはすっ飛ばして読んでみるのが良さそうっすね
あとはコメンタリーに頼ることにしてみます
それと、興味がなくならないように発見とかも心がけて読破を目指してみます
とにかくながいから途中でやめちゃわないように工夫してみますw
ネットで動画とかもあがっているみたいなので、その辺も使えるのかな うみなみさん、スレを借りて疑問を載せさせてもらいます
聖書における羊とヤギ(山羊)はどういう意味を持っているのでしょうか
マタイ 25 31-33
人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、
羊を右に、やぎを左におくであろう。 >>990
たしかに視覚に訴えるような補助があれば格段に読みやすくなるし
また臨場感も湧いてきますね
そういった点ではコメンタリーよりもスタディバイブルのほうがいいかもしれません
スタディバイブルは注釈としてはコメンタリーよりも簡易ですが
系図や図解、地図、あるいは写真などが載っていることが多いので
より楽しく聖書を読めるようになると思います
俺は日本語のスタディバイブルについては知らないので
コズモさんあたりに紹介してもらったほうがいいでしょう
>>991
単純に、羊=救われる人、山羊=裁かれる人(地獄に落とされる人)、だと思います
右は肯定的な意味合いを持っているので、この場合は神の右=栄光を表しているのだと思います >>992
右を肯定の意味でよく使う手法は、受難の十字架でキリストが右の罪人を祝福したのが関係あるんですかね
右頬を打たれたら左頬を差し出せ、という聖句も、右を守れ、という意味なんじゃないかとさえ思えてきます
詩篇とかでも、主が右の座におられる、というのもあります
なぜ右は肯定の意味を持っているのか疑問に思いました
早速本屋でコメンタリーをあさっていたら、立ち読みでしたが、キリスト教に関わらず多くの宗教でも右を左より重視する傾向があると語られていました
読んだ本には、人間は右利きの人の方が多いから、という根拠になっていて、分かったようなはぐらされたような気分になったというのがオチでしたw
羊とヤギの話はよく分かりました
単純に救われる人と裁かれる人の隠喩ですね
羊は穏やかでヤギは獰猛だから、みたいな感じで理解しました >>コスモさん
ぼくもここで多くのレスを消費してしまいました
スレを借りて色々と話せたことを感謝しています
スレを継続されるかどうかはうみなみさんの自由意志によると思っていますが、願わくば、続いていくことがあればと思います
ぼくはアプリでたまに書き込むしかしないような自分勝手な身ですが、そのへんはお許し下さいw >>995
質問者さんや皆さんの書き込みから、私自身多くのものを学ぶことができましたし、感謝いたします。
実はここの掲示板に来る前までは、自分のキリスト教理解はぼんやりとし、確立できていませんでした。
皆さんの書き込みを読み考えることで、自分なりのキリスト教理解の確信のようなものを見出すことができました。
これはわたしにとって、大きな財産です。
これからもこのスレを続けていきたいと願っています。
皆様とのさらなるキリスト教理解と信仰の実践での前進を願い、書き込みご協力をお願いいたします。
(みなさんそうだと思いますが、真面目な書き込みは実はかなり疲れますけど。^^;) >>992
スタディバイブルはちらっと見たことはありますが、詳しく読んだことはありません。
写真や図や当時の生活解説があってよいのですが、全部に目を通すとなるとかえって時間がかかります。
聖書以外で興味を惹かれたのは、手塚治虫の漫画聖書でした。
しかし漫画では深い内容を追求できなかったと記憶しています。
聖書そのものの通読がいいと思います。 『新約聖書 スタディ版 わかりやすい解説つき聖書 - 新共同訳』3300円で
最初、学んだが、欄外注はほぼ役に立たない。
各書の概説があり、はじめて聖書を読む人にはいいかもだがレベルが低い。
巻末にキーワードがあり重要語句の解説があるが充実はしていない。
まあ金に余裕があればどうぞというレベル。
役に立ったのは
新教出版社『新共同訳聖書 聖書辞典』 2800円。
新共同訳対応ではあるが、新共同訳に出ている人名はすべて網羅して
簡単な解説があり、これは役に立った
人名だけではなく、ほぼすべての訳語に対応。これは一冊あれば初心者には便利 初心者にわかりやすいと評判がよいのが、最近改訂された
『リビングバイブル 旧新約2016年改訂新版再刷』4,950円(税込)
元々リビングバイブルは中学英語だけで訳するというコンセプトで
わかりやすく意訳されたものだが、その日本語版の2016年度版が
読みやすい、わかりやすいとの評判がいいので、これをチョイスすると
いいかも。
ただ教会に通う場合は、別に新改訳か共同訳を購入することになるが 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 197日 7時間 43分 46秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。