【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 >>433
じゃあね、あんね、霊妙の霊は永遠不滅の霊って意味かね
だれも幸福の科学流の永遠不滅の霊(soul, spirit)にこだわってなどいないのに
君だけが自閉症的に「それは永遠不滅の霊魂だ!」ってしょーもない言葉遊びでマウンティングしたがってるの
>霊という概念を引きずっているから無我など分かる訳が無い。
説法までし出すとはw もともと
「霊的世界に還れば、肉体的束縛から離れて自由自在になるわけです。 」
という文に対して書いたんだがな。
この「霊的世界」って、君のいう「霊妙の霊は永遠不滅の霊って意味かね 」
とは違うと思うがね。
まあいいよ、ただ大乗のように好んで霊だ霊魂だというようになったら
テーラワーダもおしまいだと思ったからね。
そうでなくても日本人は霊魂好きだからね。 上座部の信者の行うタンブンって来世のために徳を積んでるんでしょ
ではその徳は己の何に積まれるの
煩悩からくる我執とかいったらそれが霊とみなしても構わないと思う >>431
は?
んなこと知らねーよwww
個人では、霊魂・魂等「実在としての霊的存在」は認めてないから。
精神世界(心理的に感受される世界)と、現実の水分蛋白質等の世界とは、
明確に区別すべきだし、若人欲了知三世一切仏応観法界性一切唯心造ではないけれども、
自身の心の動きを観察することによって(その仕組みを知ることによって)、
その制御鎮静を試みるのが仏道修行だというのは、釈尊以来あらゆる宗派に共通する要素だと思ってるよ。 若人欲了知三世一切..............を持ち出す所を見ると禅宗の人らしいが、
南直哉という坊さんは堂々と「霊魂があ」って言ってるぜ。
まあ君は「個人では認めてない」と言ってるがね。
なんにせよ霊や霊魂思想は仏教にとって猛毒なんだけど、
それに気がついてない人があまりにも多いんだよね。 というか、
>>430という 「考察に際しての基本スタンス」
を無視して、>>431のような脊髄反射を入れる辺りで器が知れるという所か・・・ 脊髄反射ではないな。
けっこう大事なところだよ。
まあ言語の問題と言えなくはないんだけど、日本という霊魂文化のなかで
それを放置すると、すぐに地滑りを始めるからね。
例えば葬式なんかで坊さんが「読経して引導を渡しましたので
安らかに成仏されました」とかがまかり通っちゃうだろ。
それと同じことさ。
上に書いた南直哉なんかも恐山で住職やっていれば、もう「あの世の遺族の声」
がらみの話は腐るほど聞かざるを得ないだろう。
そしてそういう信者などの声に「仮和合なんだから霊魂なんてありません」
と無碍にも言えないのだろう。
だからこそ霊魂思想は猛毒なんだよね。
ああそれから「器が知れるという所か・・・」とか書いちゃうから
君の器が知れちゃうんだよね。w >>443
>安らかに成仏されました」とかがまかり通っちゃうだろ。
頼むから餓鬼事経は非仏説とか言わないでくれよ
そういう手合いならマインドフルネススレがあるでしょ >>443
だからw
人違いを謝罪できない程度の器だと、 的確に評しただけなんだがな・・・。 つか、横レスの見分けもつかない人間が(前)2chなぞ百億年早い。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
曹洞宗 内山興正語録
(ある老医師が「死後の霊魂はあるかないか」についてアンケートを送ってきた話の続き)
こんな算術に対しては
(『仮設としての』という意味で)
はっきり「霊魂はある」「いま貴方がたたかっている相手がそれなのだ」といわねばなりません
こんな先生にもし亡霊など全くないことが科学的であり
仏法の「諸法無我」は現代の科学と一致するなどといえばとんだことになります
「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいますから
その点,仏教では昔からのインド人の信仰であった輪廻転生説を受け入れ
そのまま説いているわけですが,もしこの「諸法無我」を客観的真理のコトバとするならば
この輪廻転生を荷う主体がなくなり,因果歴然の教えも無意味となってしまいます
それが有部の『倶舎論』などでは無我とはいわず,破我といい,そして業感縁起を説きます
さらに無著・世親の唯識系統では阿頼耶識説を説くことにより,いまいうような霊魂についてばかりではなく
われわれ日常行為における因果関係についても,まったく詳細巧妙に説明する心理学を展開しています
そういうつもりで唯識教学などを勉強すると
われわれの実際修業における日常生活の心構えにも大いに役立つと思います
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
(仮設としての)
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す >2chなぞ百億年早い。
それは言えてる。
あんまり2ちゃんには詳しくないんだ。w 色界四禅定
無色界四禅定
これらは梵我一如の境地に達して神(真我、ブラフマン)との一体感に浸って気持ちよくなることを目指す瞑想なの?
>気持ちよくなることを目指す瞑想なの?
四禅も手放し超えて
そして
有想を捨てるが故に非想といい、無想を捨てるが故に非非想という
「想う」という想いも手放し
「想わない」という想いも手放し
非想非非想も手放し超えて
掴もうとしている想いが
現れることもなく・滅することもなく
縁起している世界を手放し超えてる
涅槃の世界は
無為法の世界なので
気持ちよくなる。という『想い』ではない
気持ちよくない。という『想い』でもない
_ _ _
道元禅師 普勧坐禅儀
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐 >>428
不還果の聖者でも、欲界の自我は消えてなくなっていると思うが
梵天として色界にいるあいだは色貪、無色貪は残っているし、
色界における梵天としての自我はあるのではないかな。
自我というのは、ひとつの完結したパーツではなくて、要素の集合
だから、デジタルに「ある」と「ない」のスイッチを切り替えるように
理解しているとしたら、それはあまりにも概念的すぎやしないかな。 >>433
テーラワーダがこういうものだ、という決めつけがあるのではありませんか。
それは自分個人の見解であり、解釈のひとつに過ぎないでしょ。 >>437
己に積まれるんじゃなくて、己を生じさせている発生源であるところの業。
無我について、我を出発点として考えている時点で間違い。 霊というか、名色における名。
精神現象のことでしょう。
精神現象は、物理現象ではない。
精神は物理ではない。 考えるのは自我だから、考えているあいだは無我は分からない。
瞑想するしかない。 >>451 自己レス
欲界レベルの自我は、五蓋が消えれば消えるけどね。
(五蓋が消えているあいだは)
でも、色界の意識はある。 禅支というかたちで意識がある。
それは、われわれ人間が通常考えるところの自我とは、まったく異なる。 連投しているのは躁鬱病で今の躁の状態になってる人なのかな? 無我について考えている、我の思考
という矛盾について指摘した。
感情的に、気にくわないのは仕方がないと思う。 >>451
>色界における梵天としての自我はあるのではないかな。
自我があるなら無我とは言わないよ。
あえていうなら仮我だろう。 >>455
ヒンドゥー教やジャイナ教でも瞑想するがそちらの宗教では有我という答えがでる
というか瞑想して無我を説くのは仏教だけだと思う
金星が丸いかどうかは望遠鏡を使えば視覚や認識に障害がある人を除いた全員が丸いと確認できるが
我があるかどうかは瞑想を使えば確認できるというわけではない >>462
同じ宗派なんだから別におかしくないだろ
宥快と済暹と杲宝はおなじ弘法大師の教えを指していると同じくらいの意味
ダルマキールティは
カマラシーラとかに論破される?かもしれないけど、とりあえず
ttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf
ダルマキールティ
智の自己照明
(仏性からの智慧と慈悲の縁起によって)
[ 光が輝くとき、その輝くこと(照明)を本性とする ]
(仮設としての)自己自身を照らす
そのように、智も(仮設としての)自己を認識する
智は光の如く、照明することを本性とし、自ら輝き現われる
− これに対して −
中観帰謬派とかの反論?としては
(仏性からの)智慧と慈悲をもって
縁起に依存しているので
自性ではない(我ではない)
↓無常であり無我である上座部とかの場合も
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
上座部 パオ・セヤドー
(仏性からの → 智慧と慈悲の真如縁起をもって)
[ 智慧の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます ] >>460
自我はそもそも(その性質として)無我なのだが、その辺が分かってますかね。
修行の到達点として、無漏の悟りに達し、解脱し、生きながら涅槃に到達している状態で、
肉体が生きていながら、自我がまったくなく、智慧と慈悲に基づいて気づきと精進だけで
生存している状態。
その状態を指すことばとしての無我、という使い方もあるとは思うが、一切はもともと
悟っていようと、悟っていまいと無常だし、無我だから、その意味においては
我々の自我も無常、無我だし、色界や無色界さえ無我であるはず。
色界や無色界には五蓋(欲界心)がないので、欲界レベルの自我はない。 色界・無色界の梵天の意識は、他宗教では創造主とか真我といわれている
が、それは瞑想者が実際にそう感じるからだと思うよ。
仏教徒であるわたしも、涅槃はみえていないと思うが、涅槃へ続く道は見た
気がするし、それは肉体に依存しない永遠不滅の命だった。
少なくともそう見えた。
(見えたというか、それと一体だった)
それは仏陀の慈悲でもあり、涅槃に続く道(八正道)でもあった。
仏陀そのものが八正道そのものとして、一切衆生に涅槃への道を常に
指し示している、そんな風に見えた。 なんにせよ、人間の肉体に生じる現象は、その構造に依存する。
思考も同様。
そこから離れてみて、はじめて人間の限界を超えることができる。
人間自我が無我であることは、なんにもないという虚無思想ではない。
海に例えるなら、自我とは海面に浮かぶ泡沫のようなもので、
泡沫に囚われさえしなければ、その瞬間に大海になれる。
無我とはどういうことなのか、思考ではなく、瞑想で体験して欲しい。 色貪、無色貪は五上分結だから、
色界・無色界の無常と無我が本当に分かるとしたら、それはもう阿羅漢か、
それに次ぐ段階に到達している、ってことなのかも知れない。
>無我であることは、なんにもないという虚無思想ではない
解脱智見
どこの?誰が?解脱を知覚して
どこの?誰が?涅槃に住むのか?
(無明に依存している)我が見るのではなくて
縁起している世界を手放し超えて
仏そのものの智慧と慈悲をもって
自在力(神通力)
四神足
観神足をもって
円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照する
(円成実性を見ずして → 依他起性を見ることはできない) >どこの?誰が?
その思考のフレームで捉えることができないってことなんでしょうね。
どこの誰が、という発想自体が、自我を起点とした発想、自我を中心とする認識だから。
そのことには、涅槃よりずっと前の段階で気付きますよ。
無我なのは分かった。
だが、自我も欲もある。
さて、どうするか。という修行のはじまりの段階で、無我ってこと自体はわかります。
その段階なりに。 しかし我々全員にとって大変心強いのは、仏陀が涅槃までの道のりを
すべて説き遺して下さっていることですね。
「色貪、無色貪は五上分結だから云々〜」などと判断できるのも、
涅槃までの地図において、自分がいまどのあたりに居るのかも、どちら
へどのように進んで行けば良いのかも、すべて仏陀からはじまる
三宝があってのこと。
我々は、すでに最高に恵まれていると思いますよ。 472.
心理ゲーム、をやっているバカである。涅槃ゲームと言う、か。 >>473
どういう理由からそう言われるのか、伝わるように解説して頂くことはできますか?
理解できるように前後の文脈や、背景事情をご説明頂けないでしょうか。
でないと、言いたいことが理解できません。 474.
坐禅、瞑想して、心理、認識の内容が、変化しただけのことである。
それを、涅槃と、命名しただけのことである。
>坐禅、瞑想して、心理、認識の内容が、変化しただけのことである
>それを、涅槃と、命名しただけのことである
それで?だから?
結局、何が言いたいのか?わからないけど?
『心の働きの変化』と『仏教(宗教)』は関係ない。とか?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E6%80%A7%E6%84%8F%E8%AD%98%E7%8A%B6%E6%85%8B
変性意識状態( altered state of consciousness, ASC)
有効な療法として、一時的にこの状態を患者に与える方法が活用されている
_ _ _
仮設としての
縁起に依存して
変性意識状態をもって
その結果として
良い場合もあるでしょ?
悪い場合もあると思うけど…
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる >>475
その当時
シッダールタは
六師外道だったかもしれない
ウッダカ・ラーマプッタ師匠から
非想非非想の実践を教わり
非想非非想の世界を知覚して
非想非非想の世界に住んで
そして
それから
非想非非想の世界を手放して
(仮設としての)縁起している世界を手放して
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し
よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである
と四念処(四念住)の修行を実践するように「自灯明法灯明」の教えを説いた
仏性からの真如縁起をもって
仮設としての
心の働きの変化が、現れ → そして滅していく。でしょ? >>475
肉体自我の内側に起こる変化は、あくまで自我のなかのこと。
人間の知覚、人間の思考の限界のなかでのこと。
わたしがいま言っている、瞑想でみる無我は、その外(そと)。 海面に浮かぶ泡沫のなかに、大海があるわけではない。
大海は泡沫の外にある。
泡沫を生みだしている土壌そのものは、泡沫のなかにはない。
泡沫が大海を含んでいるのではなくて、
大海が泡沫を生みだしている。
自我を出発点とする認識は、このように顛倒している。 478.
無我=自我である。
479.
自我=泡沫、か。
泡沫=大海、である。
あなたは、大海であり、泡沫ではない、か。 477.476.
手品師をやっている場合ではない。 マトリックスという映画がある。
マトリックスの住人は、すべてアバターなのだが、そのことを自覚している人と
そうでない人がいる。
自覚している人も、自覚していない人も、マトリックスの中ではあくまで同じ住人同士でしかない。 マトリックスの真実を自覚している人は、アバターの死を怖れたりすることはない。
マトリックスの真実を知らず、アバターが自己の本体だと信じ込んでいる人は、
アバターの死を怖れ、苦しむ。
マトリックスの中に本当の自己などないし、執着に値するなにかがあるわけでもない。
>瞑想でみる無我は、その外(そと)
これも意味がわかりにくい
『仏そのもの』でしょ?
それゆえに
上座部 2.0の説明だけではなくて
大乗1.0?3.0?としての説明が必要でしょ?ということでつ
ちなみに
仮設としての
縁起に依存している世界は
変化しているので
それゆえに
変化しないものではない
自性ではない
我ではない
そして
仏の世界は
無為法の世界なので
我である。という『想い』ではない
我ではない。という『想い』でもない 言葉で説明するより、瞑想をとおして自分で洞察した方がいい
というか、それ以外の方法で理解・納得するのは無理でしょ。
自我のなかに留まる限り、自我が生みだしたアイデアから
外に出られない。 484.
手品師の言う、ことである。賞賛される、かや。 485.
瞑想して、涅槃に行かないバカ、の真似事、をするべきか。そこが問題である。
>>482
>自覚している
解脱を知覚して
涅槃に住んで
有余涅槃から → 無余涅槃へ
− これに対して −
>自覚していない
仮設としての
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して↓そして
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
渇愛(タンハー)
無明と渇愛が絡み合って
無始なる過去から
(輪廻を繰り返して)
終わりなく苦しみをつくり出しています
それゆえに
[自覚している]と[自覚していない]は違うでしょ?
>>482
>自覚している人も、自覚していない人も
>(仮設としての、縁起している世界の)同じ住人同士
有余涅槃の如来は
肉体(色蘊)は有為法にあっても
基本的には?
無為法の世界に住んでいる
(涅槃の世界に住んでいる)
− これに対して −
解脱を知覚していない
涅槃に住んでいない
仮設としての
無明薫習に依存している場合は
ヒンドゥー(バラモン)系
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
そして、それから根本仏典 2.0へと受け継がれて?
そして、それから大乗へと…?
>>485
まさに
仮設としての
無明薫習に依存して
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として
それを自分であると考えて執着し続けているので
それゆえに
>自我のなかに留まる限り、自我が生みだしたアイデアから外に出られない
おっしゃる通り
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
上座部
30分〜1時間
この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします
↑3秒の間くらいならできる おじゃる
(一応、実践しちょりまつ…)
それと一応、念のために
勘違いしないように、上座部 2.0も肯定派で おじゃる >>485
>言葉で説明するより、瞑想をとおして自分で洞察した方がいい
>というか、それ以外の方法で理解・納得するのは無理でしょ。
以上は485の自我が生み出したアイデアでした 以前にも同じことを言ったけど、自我と自我がコミュニケーションを取るということは、
言葉を介する必要があるので、言葉が思考を介する以上、構造的に必ずこういうこと
になるんだよ。
だから禅宗では、黙って坐ることが推奨されているのだと思う。 自我と自我の関わりということになると、もうひとつやっかいな問題があって
それは業の影響を受けるということ。 493.
言葉が思考を介さない、が良い、か。
手品師がやる、ことである。
>>494
>業の影響を受ける
仮設としての
身体的な行為、言葉による行為、心の働きによる行為でしょ?
− これを対処するための −
戒・定・慧・解脱・智見
(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(智慧・慈悲))でしょ?
_ _ _
なぜ?
大乗1.0?3.0?のように
『仏そのものから見よ』というような明確な導きをしないのか?
『([仏そのもの]の)智慧と慈悲によって』
という明確な導きの方がわかりやすいでしょ?
もっとも
自分(おじゃる)の場合は
大乗1.0?3.0?の世界観をもっても
3〜7秒の間くらいしか観照できないけど… >>465
だったら最初から「>色界における梵天としての自我はあるのではないかな」
こういう中途半端なこと書かなければいい。 >>495
瞑想の種類や段階にもよるのだろうけど、
瞑想は、ある段階から先になると言葉的な思考を介さないようになってくるよ。
>>497
自我は完結したひとつのパーツではないので、
我々が考えるような欲界心の塊(五蓋)としての自我がないからといって、
色界に、色界浄心による意識の塊がないわけじゃないでしょう。
だから、別に矛盾していないと思う。 スイッチが切り替わるように、いきなり阿羅漢になるような人ばかりじゃないんだから、
自我からの解放の度合いは、グレースケールで計るように段階的に捉えることもできるはず。
というか、それが十結であったり、仏法の中でさまざまに説かれていることでしょう。 という>>499の自我が生み出したアイデアの発表ですた >>493ももちろん自我が生み出したアイデアであり
>>493が個人的に思っていること信じていることです >>498
>自我は完結したひとつのパーツではないので、
だから無我と言うのだよ。
自我というならそれは「常」になってしまう。 >>463
破戒僧スマナサーラと他を比べてる時点で狂ってる。
お前は釈尊を舐めてるな? 破戒僧 食事の布施を受けるより 熱玉飲めよ 地獄より良い(ダンマパダ)
これが釈尊の言葉だ。外道。
>>499 >段階的に捉えることもできる
だから上座部 2.0?とか 3.0?とかの場合は
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
上座部 パオ・セヤドー
([仏そのもの]の智慧と慈悲をもって)
通常、四界分別観から修行を始めなければなりません。と導いてるでしょ?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E8%B6%B3
四神足
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
→ (仮設としての)縁起している世界を観照する
なぜ?ID:uIGtrgVo師匠は
どこの?誰が?何を?見るのか?
を明確にわかりやすく導かないのか?ということでつ
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正
([仏そのもの]の智慧と慈悲をもって)
今,その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです。すなわち思いの手放しです
実際には(縁起している)何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし
([仏そのもの]の智慧と慈悲をもって)
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
>>499 ID:uIGtrgVo師匠へ
仮設としての
縁起している世界の中において
仮の現れ、そして滅として
(実際に)何ものかの思いが浮かぶ
われわれの思いは、いつも「何か」を思う
思いをもって、その「何か」をつかむ
なぜか?
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
上座部 パオ・セヤドー
有分心(生命相続流)
心の流れの相続を維持する
有分心がある為に
心の流れは断絶する事がありません
(根源的な識の流れは激流のごとく活動している。暴流の如し)
それゆえに
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
大円鏡智の世界から → 第八識を見る
平等性智の世界から → 第七識を見る
妙観察智の世界から → 第六意識を見る
と導いて、そして>>505へと繋がっていくのでつ 506.
仏そのものの、智慧と慈悲をもって、か。
仏そのものは、智慧と慈悲を持っていないからである。
なんでか。
涅槃とは、それらを捨象したものであるからである。
智慧と慈悲とは、思い、の一部である。からである。
その、思い、を手放した者、が仏、であるからである。 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99
(仏教も含めて)
宗教は
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
それゆえに
ポッタン師匠の>>507の続きとして
>思い、を手放した者、が仏、である
非想非非想も手放し超えて
(仮設としての)縁起している世界も手放し超えて
解脱を知覚して
涅槃に住んで、そして
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
さらに無の世界も超えて
移り行く世界の様を
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
ありのまま見つめている
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
生きとし生けるものに
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
悟りの光が現れますように
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 509.
仏は智慧と慈悲を持っていない。
その持っていないものを、どうやって、衆生に与える、のかや。
涅槃は、行ったきりで、帰ることはない。
証は、修業に還らない。
ポッタン師匠の>>510の続き
>涅槃は、行ったきりで、帰ることはない
それゆえに
自在力(神通力)
四神足をもって
さらに無の世界も超えて
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
(移り行く世界の様を)ありのまま見つめている
無の世界も超える
そのための
自在力(神通力)
四神足
ポッタン師匠は
(大乗も含めて)根本仏典も勉強した方が良いんジャマイカ?
ttps://www.iwanami.co.jp/book/b270312.html
31ページ参照
仏の智慧と慈悲を遵奉している
四神足の神通力を具えた
如来は
身体から光輝を放ち
地獄に落ちた衆生を救い上げ
かれらを [ さとり ] に導いていく 511.
地獄に落ちた衆生を救い上げ、か。
バカ丸出しである、。それは迷信である。
根本仏典を勉強すると、バカになれる、のか。 >>509
> 人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
ブッダは、そういう形而上学を否定した(「毒矢のたとえ」)。
> 非想非非想も手放し超えて
> (仮設としての)縁起している世界も手放し超えて
キミもいい加減、(仮設としての)御託を手放してはどうか? >>295
> 非想非非想処
> 想でもなく・非想でもない
>
> 最終的には
> 非想非非想も手放し
> 非想非非想も越えていく
>
> やっぱり↑これも実践した方がよいかも?
さっさと! >>513
そこで言う形而上学って、要するに頭で考え出した概念ってことでしょ。
名色の実相は人智を超えているが、形而上学ではないよ。
無我にしろ、無常にしろ、どれも観測できる事実だから。 頭で考えた概念は、自我の内に生みだされたものでしょう。
瞑想は、考えてないから。
思考してないところに、思考概念は生まれない。 幻覚でもないよ。
五感の感覚もないから。
五感の働きのないところに、幻覚はない。
夢でもないよ。
寝てないから。 瞑想による洞察は、体験智であるから、概念で理解することはできません。
瞑想による洞察は、洞察であって、観測による確認であるから、形而上学とやらでもありません。
ただ、プラトンが言っている形而上学の正確な意味と、あなたが言っている形而上学の意味とでは
おそらく定義がずれていると思います。 >>516-517
またそちの自我が生み出したアイデア、観念を発表しているでござるか 言葉は思考を介するが、表現されている事柄は思考ではない。
伝統的な例えでは、月と月を指す指。
たとえば天文学なら、望遠鏡で観測した天体の様子と、その様子を記述した文章。
文章は思考を介し、聞き手がアイデアとして解釈するが、天体自体は誰かが考えて
生みだされたわけではない。 天体が丸いのは、丸いというアイデアによるのではない。
(三次元空間で)観測したら丸かったから、丸いと言われる。
無我にしても同様で、思考と感覚を止めた場合に、自我だと思っていたものは消えるので、
その瞬間に思考と意識とが別物であったことがわかる。
意識に我とか彼とかの境界線はない。思考もないし、身体もないから他人との区別もない。 >>522
自我だと思っていたのが消えるのを観測するのが意識なの?
だとすれば月とかの天体は観測される方だが意識は観測する側だから一緒にはできないべ
それに個人の意識で個人の自我を観測するのだから意識に我とか彼とかの境界線はないなどと安易には言えないべ
君の「思考」は矛盾だらけだぞw
>>515
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
上座部
30分〜1時間
この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします
(智慧による?)
呼吸への観照
9秒の間くらいならできるようになった
(一応、実践しちょりまつ…)
>>522
>自我だと思っていたものは消える
ID:i4WJid3I師匠の場合
やはり
どこの?誰が?どのように?の導きが抜けている
ttps://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
マインドフルネス
何か雑念が出てきたこと
([我である]と掴もうとしている想いが現れてきたこと)に気づいても
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
移り行く世界の様を
その辺りに漂わせておくようにして
自然に消えていくのを
ありのまま見つめている
自力で往生などしようとしないで
一切の物事を阿弥陀仏にお任せして
『想い』を手放して自然に消えていく 観測する主体は何なの?っていう疑問は、頭で考えてるから出てくるのであって
考えてない時にそういう問題はないのだ。
言語による説明は思考なので、各自で(少なくとも思考から抜け出すところまで)
瞑想して確かめてもらうしかない。 思考から抜け出すことは、(欲界の)自我がから抜け出すことでもある。
仏教用語でいうと、五蓋の働きを止めた状態。
自我から抜け出すことは、地上からロケットで宇宙空間に飛び出すような
大きな力が要る。
そして、宇宙空間に地上の常識は通用しない。
それぐらい、いやもっと大きな違いかもしれない。 スマナサーラ長老は、深海魚が海面に飛び出したような、と例えていた。
宇宙に飛び出すという比喩は、チベット仏教の修行者も同じ例えを使っていた。 仏法においては、心身の働きについては、心、心所、色(チッタ、チェータシカ、
ルーパ)で説明しているので、この用語が分かる人同士であれば、この概念で
説明した方が正確であろうと思われる。 >>526
全然答えになってないだすな
少なくとも思考と意識の違いの確認とか観測に天体観測を例にとるとか的外れなことは今後はやめることだす
望遠鏡などを使った天体観測には観測する主体と対象がある
瞑想を使った思考の観測は君に言わせればそうではない
君自身この矛盾と混乱に気づいているだすか?
>>527
これも同じ
まず君自身が瞑想で確かめたことではなくチベット仏教やスマナサーラ長老の受売りしかできてないのがダメ
それでは人に瞑想で確認して確かめてもらいたいなどと言えないだすな
一緒に瞑想して確かめましょうとは言えてもね
そして「宇宙空間に人間が出る」ように「海面に深海魚が出るよう」に「思考の外に出る主体」の問題はここでも出てくるだす
これ説明できないのなら宇宙空間とか深海魚とかの喩えはやめたほうがいいだす 心理ゲームである、涅槃になれ、ゲームは面白い。
なんでか。
涅槃になると、心理がなくなるからである。
だからして、瞑想も、なくなる。
この矛盾が良い。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています