【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 >>331
>道元 普勧坐禅儀
>そもそも仏法というものは
>円満にゆきわたっており
>(根本仏典の菩提分法の実践とかも)
>修行したり、悟り証したりすることもない
>物事の本然の姿は全て塵や汚れから離れたもので
>その身そのままでよい
デマ乙!
坐禅の奥義書『普勧坐禅儀』を現代語訳するとこうなる
http://www.zen-essay.com/entry/hukanzazengi
ただ、真理を悟ることに特別な技法は存在しないと言っても、真理を見つめる自分の眼に少しでも自分本位な部分があったなら、眼に映る世界は真実の世界からかけ離れたものになってしまうだろう。
真実を悟ったとか、自分の理解はすばらしいだとか、物事の本質を摑んだとか言って、有頂天になってしまったなら、それはもはや、真実を知る道を自分でふさいでしまったに等しい。
仏法を学ぶ者は当然知っているだろうが、かのブッダは6年間の苦行の末に坐禅を行い悟りを開いた。
ブッダの心を受け継いだ達磨禅師は、9年間もの長きにわたって壁に向かってひたすら坐禅をした。
昔の偉大な方々は、これほどまでに坐禅を重要視してきた。
我々が坐禅をしなくてよい道理など、あるはずもない。
人の言葉や書物の文字から真理を摑もうというのは、所詮、観念的な理解の域を出ないものだ。
外から何かを学ぼうというのではなく、坐禅によって、真理を自己の内側に求めるのでなければ、いつまでたっても真理を知ることはできないだろう。
身と心が坐禅となりきったとき、真理はありのままに目の前にあらわれる。
この道理を知りたいと思うならば、実際に坐禅をはじめる以外に方法はない。 おれ悟ったんだけどwww、何か相談ある?
あと、ブログよろしく!
http://blog.livedoor.jp/kosokeme/
>>334 さとりクン >おれ悟った
悟りの世界から → 縁起している世界を観照して
このリンク先のブログに書き込みしてる
ということなんでつか?
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
…さらに無の世界も超えて
悟りの世界から → 縁起している
移り行く世界の様を
平等性智をもって
ありのまま見つめている
こんな感じでつか? >>334 さとりクン師匠へ
>坐禅をはじめる以外に方法はない
(インドから→中国経由の?)
日本の禅宗 1.0とかの場合は
根本仏典の菩提分法とかを省いている
_ _ _
上座部 2.0の場合は
菩提分法の実践
_ _ _
ベトナム出身のティク・ナット・ハンとかの場合は
(根本仏典由来の?)マインドフルネスの実践とかも勧めている
禅僧 3.0?
マインドフルネスの実践とかも勧めているので
(中国経由の?)
日本の禅宗 1.0とは違うでしょ?
ということでつ
3.0の立場からすると
(仏の世界からの観照をもって)
真如縁起の説明を前提としてない
「上座部 2.0は説明不足である」といことで
仏性からの真如縁起 1.0をもって
上座部 2.0の菩提分法とかも実践していく
それが 3.0である
ということであるらしい
3.0にとっては
ヒンドゥーも
上座部 2.0も
大乗の
中観自立派 2.0も
中観帰謬派 1.0も
密教 3.0も必要である
ということであるらしい >>335
ではこちらで
しかしながらほんの僅かでも方向性を誤れば天と地ほども悟りから隔たってしまうのであり、僅かでも分別心が生ずればたちまちに本心を失ってしまうものである。
たとえ、自らの仏法の理解を誇ったり、悟りを多く重ねたと自負し、僅かな智慧と通力をもって仏道を得た、心を明らめたといって有頂天になって騒いでみても、
それはほとんど自らの解脱の道をふさいでしまっているのに等しいのだ。
言うまでもなく、彼(か)のお釈迦様がお悟りを開かれるまで六年間端座された事蹟は誰もが知っている。
また面壁九年といわれる達磨大師の修行は今尚その名声が聞かれるのである。
昔の聖人でさえ、これほど修行をされたのに今の人が何故修行しないでよいはずがあろう。
それゆえに、書物などの言葉を研究し理解しようとするような自己の外へ向かっての行はやめるべきであり、自らの内に向かって光を当て悟りを照らし出す行をするべきである。
そのとき、身も心も自然に意識から脱落して、自らの本来の面目が現前するであろう。
そうした悟りを得ようと思うなら、さっそくそのことつまり坐禅に務めるがよい。
http://enlighten.fc2web.com/fukanzazengi.html
1.0 − 仏そのもの
2.0 − 有為法の世界
3.0 − 仏の世界から→有為法している世界を観照する
という感じであるらしい
無明している世界を手放して
そして、それから
仏そのものに戻る帰る
そのための
(余念を交えず、ただひたすら座禅する)只管打坐 1.0
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
五禅支の一番目
ヴィタッカ(尋)の智慧をもって
どこかへ飛んでいってしまう心の世界から
↓
呼吸の観照に戻る要素がある
呼吸の観照をもって
五禅支の一番目のヴィタッカ(尋)の世界に戻る帰る
(最終的には → 仏そのものへ)
『1.0よりも、上座部 2.0の方が段階が細かく設定されている』ということ
>書物などの言葉を研究し理解しようとするような自己の外へ向かっての行はやめるべきであり
これで
たとえば
なんちゃって覚者とかの人が
『教学とかは必要がない』と勘違いしてる人がいるけど
上座部の場合は
四界分別観とか
空性の観照とかの実践をするための
四界分別観とは何か?
空性とは何か?を
教学として勉強して理解して
そして、それから
止(サマタ禅定)
観(ヴィパッサナー智慧)へと進んでいく
というような順番・段階があるのでつ
(最終的には、すべて一切の諸法も手放していくけど…)
正しい智慧の実践をするための
教学を勉強して理解して
そして、それから
戒・定・慧・解脱・解脱知見
たとえば
定とは何か?
慧とは何か?
解脱とは何か?
解脱知見とは何か?
(教学を理解することなしに)
何を?
どのように?
実践するのか?
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて…
無明とは何か?
明知とは何か?
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
信仰とは何か?
念いとは何か?
精神統一とは何か?
意欲とは何か?
努力とは何か?
頭(無明)を裂け落とさせるものとは何か?
1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ
たとえばこの場合の
世界は
有為法の世界のことだけど
そうすると今度は
有為法の世界とは何か?
これを理解することなしに
何を?どのように?
縁起を観照することができるのか?
>四大(地水火風)が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりに過ぎないのじゃ
何のために
四界分別観を実践するのか?
仮設としての
地水火風の微細な粒子に依存して
縁起している、すべて一切の諸法も
色受想行識の仮和合も
現れている(そして滅している)
縁起している、すべて一切の諸法も
色受想行識の仮和合も
地水火風の微細な粒子に分解して
最終的には?
地水火風の微細な粒子も手放して滅していく
縁起している、すべて一切の諸法も
色受想行識の仮和合も
手放して滅していく
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
無明滅 → 行滅 → 識滅 → 「苦しい!」という想いも(手放して)滅していく
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/966
966 2018/03/12(月) ID:Lq3OS0iW
「無明がどーたら」には関心は無い
現世、生存中に「苦しみを滅ぼす」ということにしか興味が無い
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
(仮設としての)
無明が生起するが故に、五蘊が生起する
無明に依存して「苦しい!」という想いが現れる(そして滅していく)
ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6
その当時のインドの人々にとって、仏教を理解せしめるためには
その当時の世間的な
一般的な『思い』を認めて、その理解のうえで
その当時の人々に理解せしめる。というやり方がとられねばならなかった
「苦しい!」という想いは、無明に依存しているので
『無明している世界を手放して解脱しましょう』と導いていく
ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
『無明を手放すことが → 苦を手放し滅していく』は、つながっている 346.
手放す、ことができる、と思っているバカである。
>手放す、ことができる、と思っている
たとえば
想いを手放しするための
四神足の智慧
自在力(神通力)をもって
掴もうとしている想いを手放していく
最終的には?
スッタニパータ 21
激流を克服して
「手放しする」という想いも手放して
すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
仮設としての
渇愛(タンハー)は
仏道への障害がある有覆無記なので
誰もが成仏するわけではない(五性各別)
(有覆無記の渇愛(タンハー)が依存している)
無明している世界を手放して
自在力(神通力)
四神足の智慧をもって
円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照する >海馬が疲れる
ウィキペディア参照
心理的ストレスを受け続けると
海馬の神経細胞が破壊され、海馬が萎縮する
心的外傷後ストレス障害(PTSD)・うつ病の患者にはその萎縮が確認される
=^・ ・^= にゃるほろ。ご教示ありがとうございます m(_ _)m
↓怪しいサイトかもしれないけど、とりあえず
ttp://michirich.com/deep-consciousness/
深層意識は潜在意識のさらに深い部分
深層意識は潜在意識の一部
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91#%E8%B6%85%E8%87%AA%E6%88%91
フロイトは
「自我」という概念と
「『自我』による自己愛的な満足を監視する、我々が良心と呼ぶ特別な精神的装置」
という概念との組み合わせから、この「超自我」という概念を発展させた
超自我は、イドとは反対方向に働く
イドは、その場の自己満足を求める
_ _ _
仏教の場合は、我ではない・無我だけど。それでも、とりあえず
たとえば
五禅支の一番目
ヴィタッカ(尋)の世界から → 呼吸を観照する
超自我の世界から → イドの世界を観照する
1960年頃後半に
ヒッピー(Hippie)の影響で
インドとか
チベットとか
宇宙に満ちている根源の世界から
↓
人体内に存在する根源的生命を観る
というような影響を受けて
「自我」という概念と
「『自我』による自己愛的な満足を監視する、我々が良心と呼ぶ特別な精神的装置」
「超自我」
みたいな感じになったのかもしれない
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99
宗教(religion)
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
人間の力や自然の力を超えた − (宇宙に満ちている)超自我みたいな感じ?
>>351 訂正して、お詫び申し上げます
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88
ジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856年5月6日 – 1939年9月23日)
なので
『 1960年頃以降のヒッピー(Hippie)の影響で 』
というのは
間違いでつ
失礼いたしました スマソ m(_ _)m あいかわらず「おじゃる」の嫌がらせが続いているな。
教則本を読むだけでピアノが弾けるようになると思ってる。
そんなだから何を書いても文字が浮ついている。
瞑想をしろ、瞑想を。
水に飛び込まなければ泳げるようにはならんぞ。
>瞑想をしろ、瞑想を
実際に実践して、そして
『呼吸の観照ができない』ということでつ
実際に実践として
呼吸の観照ができないけど
第6のチャクラ
眉間のところが
くすぐったい、むずむずする
ちなみに
自分の場合は
密教も肯定派だけど、それでも
ttps://kotobank.jp/word/%E6%9C%88%E8%BC%AA%E8%A6%B3-45106
月輪観(がちりんかん)
自己の心を満月輪のようであると観じる
心のなかに,あるいは面前に月輪を観想する
この月輪は自己の菩提心そのものを示すもので
その月輪が円明無垢で光明が全法界に満ちている
と観じると自己の菩提心そのものもそのように光明無垢となる
これも実際に実践として
『やらない』のではなくて
実際に実践として『観照することができない』ということでつ
↓怪しいサイトかもしれないけど、とりあえず
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
上座部 パオ森林僧院
…
アーナパーナ瞑想を行う場合は
呼吸に30分〜1時間、集中する(気づく)ことを継続します
この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします
自分(ID:GTX/gpbL)の場合は
(密教も)
上座部も肯定で
興味もあるので
当然、実践しているのでつ
実践している、その結果として
30分
妄想、思考が入らないように
呼吸の観照が
実際にできたのか?ということでつ
ちなみに
(とりあえず大乗も肯定だけど)
布施、持戒、忍辱、精進の実践はしてないでつ
それゆえに『般若の智慧も慈悲もない?』ので
(仏性からの真如縁起としての)
観照をすることができない(のかもしれない?)
たとえば
(大乗の)中観帰謬派とかの場合は
単純な(純粋な)candaチャンダ意欲・やる気も(最終的には?)手放しせよ
と導くかもしれないけど
上座部の場合は
「気持ちはあるのだけれども実行に移さない場合は
やる気のエネルギー(チャンダ)が足りない」
或いは
実際に実践して
30分、妄想、思考が入らないように
呼吸の観照が実際にできない
というのも
純粋な canda(チャンダ)が足りないのかもしれない
智慧による、純粋な canda(チャンダ)をもって
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
どこかへ飛んでいってしまう心の働き
有為法の世界から
↓
呼吸に戻してくる要素がある
五禅支の一番目
ヴィタッカ(尋)の世界に ← 戻る要素がある
上座部としての(仏性からの)真如縁起みたいな? >実際に実践して、そして
『呼吸の観照ができない』ということでつ
呼吸ができなければ生きていられない。
呼吸をしているなら誰でも瞑想は出来る。
ただの言い訳だ。
実践をしていないからいくら書いても実がない。
つまり君は自分のマスターベーションを人に見せたいだけだ。
そんなものを見たいものなどいないことに何故気がつかないのか。 ヨガも大乗も上座部もごっちゃにしているから、
君の頭の中はグチャグチャになっている。
そんなんで瞑想が出来るわけがない。
まずは本を読むことをやめ、頭の中をスッキリさせるんだ。
そして五戒を守ることだ。
そうすれば徐々に瞑想が出来るようになる。 聖典の言葉をたくさん覚えることと理解することは全く別だ。
聖典は一句一句をじっくり味わって身に着けるならば、霊的悟りを得るための意欲を刺激するうえに役立つが、
単なる物知りになるための研究はいくら積み重ねても、生半可な知識と偽りの満足が得られるだけで悟りを得るための役には立たない。
聖者ヨガナンダの言葉
https://mobile.twitter.com/YOGANANDA_Words/status/889834159497027584 >呼吸をしているなら誰でも瞑想は出来る
も一度
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
30分
妄想、思考が入らないように
呼吸の観照が
実際にできるのか?
_ _ _
或いは
また
道元 普勧坐禅儀
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
30分
妄想、思考が入らないように
余念を交えず、ただひたすら座禅する
只管打坐
実際にできるのか?
_ _ _
たとえば
仮に
妄想、思考が入らないように
一秒だけ
呼吸を観照できたとしても
30分〜1時間
『気づいている』を継続し続けていることが
実際にできるのか? だからそれを修行するんだろうが。
頭ばかりが先に行きすぎるんだよ。
よく行学は車の両輪や二本の翼にたとえられるが、
行なくして学だけやっても何の意味もない。
皆、苦労しながら瞑想をやっている。
この掲示板はそういう人達が、どうしたら瞑想が進むのか
そのための学を学ぼうとしている。
働きもしないで本を読んでいる奴のいうことなんか
誰が聞くのか。
皆と同じように働く(瞑想する)者のことなら耳に入るんだよ。
何の意味もないことを人に聞かせたいのは
「僕ってこんなに知ってるんだよ、ねえねえ聞いてよ」
とシッタカしたいだけだ。
それをマスターベーションだと言ってるんだ。
たとえば
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
上座部 パオ森林僧院とかの場合は
30分〜1時間
集中する(気づく)ことを継続します
この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第四禅定
智慧による
ウペッカ(捨)の世界からの → 好き嫌いを判断しない、平等性の要素
智慧による
好き嫌いを判断しない
平等性智の世界からの → ウペッカ(捨)の世界へ
「1時間呼吸をしない」というのは
実際に「呼吸が止まっている」ということではなくて
実際には呼吸しているけど
1時間
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
ウペッカ(捨)の世界を知覚して
ウペッカ(捨)の世界に住む
30分〜1時間
第四禅定の世界に住み続けることができるのか?ということでつ
>「僕ってこんなに知ってるんだよ、ねえねえ聞いてよ」とシッタカしたいだけだ
勝手にそう思っていればよいんジャマイカ?
自分(ID:ZCX5b4Y2)の場合は
(大乗も含めて)
上座部特有の専門用語もまったくわからないので
ここのスレで、初めて
『単純な(純粋な)candaチャンダ意欲・やる気』というのも勉強したので
自分では、初心者にも及ばない段階だと思っているけど
_ _ _
>ヨガも大乗も上座部もごっちゃにしている
バラモン(ヒンドゥー)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
部分的には
瓶から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつす
瀉瓶のように受け継いでいる(かもしれない?)。ということでつ
(輪廻否定派の場合は、どうなのか?わからないけど…)
五戒
蚊とかゴキブリとか雑草とか色々と殺生しちょりまつ
偸盗
無断でコピペしちょりまつ
邪婬
したいと思っても金もってないのでできないでつ
(『邪婬するためにも金が必要』という意味でつ)
妄語
冗談の書き込みも多いので
冗談が相手に通じなかった場合は妄語しているかも?
(たとえば『神通力で おじゃる〜っ!』とか)
或いは
(「相手が」ではなくて)自分が勘違いしているとか?これも多いかも?
飲酒
頭も悪いけど
内臓も悪いのでアルコール類とかは飲めないでつ 知ったかで満足したい人には満足してもらえばいいんじゃないでしょうか、欲しいものを得て満足するのはとても良いことだと思う
>欲しいものを得て満足するのはとても良いことだ
(輪廻否定派の場合は、どうなのか?わからないけど)
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
初期仏教
…
無明と渇愛が絡み合って
無始なる過去から(輪廻を繰り返して)終わりなく苦しみをつくり出しています
_ _ _
『無明には関心は無い』という人もいるかもしれないけど、それでも、とりあえず
仮設としての
縁起している
無明と渇愛(タンハー)によって
(空性による地水火風空識の微細な粒子に依存しているので)
掴もうとしても
掴むことができない
(求める物が得られない)
求不得苦(ぐふとくく)
というような場合もあるらしい
(『得られるのか?』は縁起に依存しているので…) 『正法眼蔵随聞記』第三巻
七 我れ在宋の時禅院にして古人の語録を見し時
一日示ニ云ク、我レ在宋の時、禅院にして古人ノ語録を見シ時、ある西川(四川省)の僧の道者にて有リしが、我レニ問ウテ云ク、「なにの用ぞ。」
云ク、「郷里に帰ツて人を化(教化)せん。」
僧云ク、「なにの用ぞ。」
云ク、「利生(衆生救済)のためなり。」
僧云ク、「畢竟じて何の用ぞ。」ト。
予、後にこノ理を案ずるに、語録公案等を見て、古人の行履をも知り、あるいは迷者のために説き聞かしめん、皆是レ自行化他のために無用なり。
只管打坐して大事を明ラめ、心ノ理を明ラめなば、後には一字を知ラずとも、他に開示(仏道を説き示し導くこと)せんに、用ひ尽クスベカラず。
故に彼の僧、畢竟じて何ノ用ぞとは云ひけると、是レ真実の道理なりと思ウて、そノ後語録等を見る事をとどめて、一向に打坐して大事を明ラめ得たり。
現代語訳じゃないと
意味がわからないので↓現代語訳のコピペ
道元禅師は教えて言われた
私が宋国で修行していた時の事です。古人の語録読んでいたとき、西川州から来ていた僧が私に問われた
「語録を読んで、何の役にたつのか」
「故国に帰ってから、人びとを教化するためです」
「それが何の役にたつのか」
「衆生に利益を与えられます」
「それで結局のところ、何の役にたつのか」
私は、後ほど、僧の問うたことを考えてみた
語録を読んで、衆生を教化すつのは
自分の修行のためや人びとを教化するためには、無用なことであるのがわかった
むしろ、ひたすら坐禅をする事が大事なことであると気がついた
そして、悟りを得たら、それでもって衆生を救うことができるのです
それ故に僧は「それで結局、何の役にたつのか」と、言ったのである事がわかった
その後は、語録などを読むことをやめて、専心に坐禅に励んで
一生参学の大事を明らかにすることができたのです
_ _ _
とりあえず上座部の苦集滅道の場合は
その当時のインドの人々に仏教を理解せしめるためには
世間的な一般的な思いを認めて、その理解のうえで仏教を
その当時のインドの人々に理解せしめるというやり方がとられねばならなかった
ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6
語録を読んで、衆生を教化すつのは
自分の修行のためや人びとを教化するためには、無用なことである
_ _ _
上座部の場合は
四界分別観とか
第一禅定
五禅支の一番目
ヴィタッカ(尋)とかを実践するための
最低限以上の教学を理解してから
そして、それから
実践していく
という順番・段階があるのでつ
人々の心の働きに合わせて導いていく
対機説法をもって
光り輝いている(「仏そのもの」の)智慧と慈悲をもって
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 道元はすでに比叡山で教学を学んでから宋に渡ったし
帰国してまた比叡山に行けばいくらでも書物はあるしな 掴もうとしている想いを手放して
コップの中を空(から)にして
実践する為の
教学を理解してから
そして、それから
掴もうとしている想いを手放して
コップの中を空(から)にして
四界分別観とか
第一禅定とか
実践して
そして、それから
掴もうとしている想いを手放して
コップの中を空(から)にして
次の段階
コップの中を空(から)にして
最終的には?
スッタニパータ 21
激流を克服して
道元がいうところの
語録も
すべて一切の諸法も手放して
すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 「悟り」は学習できるもの?
悟りの内容は、釈尊以前には知られていず、釈尊以後にも仏教以外には伝わらず、仏教内でも、釈尊の言葉をそのまま記録した初期経典(完全に現存するのはパーリ経典だけです)にしか説かれていません。
ですから、他のどんな宗教書を読んでも無駄ですが、初期経典を読めば、悟りとはどんなものか、知識として学ぶことはできます。
ここで、疑問が一つ湧くかもしれません。「師の指導を受けてきっちり修行しないと到達できない悟りを、ただ経典の説明だけで学べるものでしょうか?」あるいは「知識として知っただけで何か役に立つのでしょうか?」
その答えは、経典に出ています。と言っても「じゃじゃーん、これが答えで〜す」と書かれているわけではありません。
悟りの内容を、釈尊が言葉で説法した事実、それが経典として残っている事実、これがそのまま、答えです。
釈尊が、言葉を超え、本来言葉になどできない悟りの内容を、とにかく言葉にして説明されたということは、言葉の説明だけ、単なる知識としてだけでもいいから、まず学びなさい、それだけでも修行の道標になり、励みになります、という意味です。 >>373
まず君自身が悟ってからそのようなことを言いなさい >>44
私は解脱した→私(自我)が残ってるから解脱してないじゃないかw
ほんとに解脱した人は我がないので自ら解脱しましたとは言わない >>375
「長老は悟っているんですか?」と訊かれたスマナサーラがそう答えていたけどな
ゴータマさんは自分で自分のことをブッダとか如来とか一切智者とか言ってたんだぜ
ゴータマさんには未だ我が残っていたのかねえ? >>375
解脱した者が「私」を使わないというのは、こだわりであり偏見で、
個別的自我の克服で、自己存在の否定、自己否定でないから
私という語を使ってもいいと、説かれてる箇所あるよね、どこだったかな。 >>373
道標にはなるし、アーチャン・チャー師も
「智慧を通じた解脱を目指す人は、ダルマについて聞くと、すぐにそれを理解
し始める。教えはシンプルで、ただ物事を手放すこと、物事をあるがままにし
ておくことだから、多くの努力やサマーディ(定)を必要とすることなく、
彼らはとても自然な形で手放すことの実践を始めることになる。このシンプル
な実践は、最終的に彼らを我(アッタ―)を超えたもはや手放すものも、つか
むものもない場所へと導くことができる。」と述べてますけどね。 >>378
会話の中で別に使いたかったら使ってもいいんじゃない?
ただ言いたいのは解脱者はいちいち周りにアピールしないし
する必要もないってことだけ
俺解脱したぜイエ〜イすごいだろっ言うやつは解脱してない
おわり >>377
我がない人でも如来と自称するのはOKなんだね
では一切智者は?
「われは一切にうち勝った者、一切を知る者である。一切のものごとに汚されていない。すべてを捨てて、妄執をなくしたから解脱している。
みずから知ったならば、誰を(師と)めざすであろうか。われには師は存在しない。われに似た者は存在しない。
神々を含めた世界のうちに、われに比敵し得る者は存在しない。われこそは世間において尊敬さるべき人である。われは無上の師である。
われは唯一なる正覚者である。われは清涼となり、やすらいに帰している。」
と初転法輪に向かう途中で出会った異教徒に宣言してるが
加えて
「比丘たちよ、健勝なるお方は(ゴータマ・ブッダが自身のことをこう言ったという)、尊敬を受けるに値する者であり、正しく目覚めた人である。
比丘たちよ、耳を傾けよ、[私は]すでに不死を証得した。私は教えるのだ。私は真理を説くのだ。
教えられたように修行するならば、久しからずして、良家の息子が正しく家を出て出家となる本懐、すなわち、無上の清浄な行(梵行)の完了を、みずから現世において証知し、直に知り、具足して住することになるであろう」
と初転法輪では五比丘の前で正覚者であることも宣言しているのだが
ゴータマだから許されるってか? >ゴータマだから許されるってか?
光り輝いている(仏そのもの)
− これに対して −
光り輝いている(仏そのもの)
これに
仮設としての
無明に依存している
煩悩とかが取り憑いている
光り輝いている(仏そのもの)の世界から観照して
(煩悩とかが依存している)無明を手放すために
上座部とかの場合は
四界分別観とか
第一禅定とか(細かな)順番・段階を踏まえて
そして、最終的には
すべて一切の諸法も手放して
彼岸に到着し
そのときには
もはや筏の必要はない
(解脱するための方法も必要がない)
>ゴータマだから許されるってか?
ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6
仮設としての
無明に依存して、渇愛(タンハー)に依存して
『アートマンがある』と強固に執着している
その当時のインドの人々の
強固なる思いも尊重して
その理解のうえで
『(「アートマンではない」という)仏教を理解せしめる』
というやり方がとられねばならなかった
仮設としての
その時
その場所に応じての
人々の心の働きに合わせて導く
『対機説法のようなものも必要である』ということでつ
仮設としての
縁起している世界を手放し解脱する
その直前までは…
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC
編纂されている。かもしれない
それでも
部分的には
釈迦からも
受け継がれている。かもしれない
根本仏典
釈迦本人が言うところの
私 − 光り輝いている(仏そのもの)
四向四果以外の
たとえば
一般的な?(世俗的な?)
私 − (無明に依存している)渇愛
それゆえに
釈迦本人がいうところの『私』と
一般的な(世俗的な)『私』とでは
無明に依存しているのか?してないのか?
ということにおいて
意味が違う。と
対機説法とかをもって
人々の心の働きに合わせて導いていく
ということでつ 自分で言うのもなんだが
やさしい性格なので慈悲の瞑想のほうがやりやすいし好きだ
心も落ち着くし豊かで穏やかな感じになる
お釈迦様がおられた時代はいいよな
対機説法で個人の性格に合わせて最良の指導をしてくれたんだから 387.
対機説法というものはない。
なんでか。
それは、普遍的な真理であるからである。
それは、個人によって、変更することはない、からである。 >>387
無自覚なだけで、やさしさの裏に膨大な感情の抑圧がある可能性が。
生まれながらに100%純粋なやさしさしかない聖人君子なら問題ないが、あるきっかけで蓋が外れると大爆発するかもね。
やさしさという性質も無常だから、調心のためにサティサマーディメッターはバランスよく必要だとは思う。
『膨大な感情の抑圧も』手放して
そして、それから
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
上座部 パオ・セヤドー
第四禅定
好き嫌いを判断しない
平等性の智慧
平等性智をもって
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-ariya-attangika-magga.html
ARIYA ATTANGIKA MAGGA
八正道 アリヤ・アッタンギカ・マッガ
SAMMÂ SATI
サンマー・サティ 正念
mindfulness
SAMMÂ DITTHI
サンマー・ディッティ 正見
平等性の
智慧によって観照する
縁起している
移り行く世界の様を
平等性智をもって
ありのまま観照する >>393
平等性智とか頻繁に書くのだったらテーラワーダよりも唯識や密教のスレに行った方がいい >>391
私もまだ解脱していませんから
日常の心の中は妄想・欲・怒など常に現われています
しかし慈経にもあるように心を慈しみでいっぱいにして
梵天のような生き方ができればと
>平等性智とか頻繁に書くのだったらテーラワーダよりも唯識や密教のスレに行った方がいい
↓原文そのまま
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
上座部 パオ・セヤドー
第四禅定
ウペッカ(捨)
1つに集中して心が散漫にならない『一境性』
好き嫌いを判断しない『平等性』
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-ariya-attangika-magga.html
SAMMÂ DITTHI サンマー・ディッティ 正見
智慧(による平等性)をもって
(縁起している世界を)
ありのままに見る
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
無の世界も超えて
移り行く世界の様を
(智慧による平等性をもって)
ありのまま見る
_ _ _
部分的には
根本仏典からも → 大乗へと受け継がれている
ということが、わからないのかしらん? >慈しみでいっぱいにして
たとえば
コップの中が
妄想で満ちていると
掴もうとしている想いで満ちていると
慈しみを注ぎ入れることができないので
慈しみを注ぎ入れる、そのためにも
ttps://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
手放すこと スマナサーラ
掴もうとしている想いを手放して
コップの中を空(から)にして
そして、それから
慈悲の冥想
(智慧による平等性をもって)
生きとし生けるものに
悟りの光が現れますように
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
>>396 >>397 の続き
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第四禅定
呼吸が止まっている
1時間呼吸をしない
と書いてあるけど
実際には呼吸しているけど
1時間
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
ウペッカ(捨)の世界を知覚して
ウペッカ(捨)の世界に住んで
完全なウペッカ(捨)の状態になってる
そして、この第四禅定も手放し超えて
解脱智見
大乗で言うところの
『仏そのもの』に成っている。に共通するようなところもある
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
智慧の光は、体を包むようなかたちで、光が現れる
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
光り輝いている(仏そのもの)に → 煩悩とかが取り憑いている 日本テーラワーダ仏教協会と上座仏教修道会があるが
初めのころはスマ長老も上座仏教修道会のほうに顔出したり
してるけどなんで協会が2つにわかれてるんだ?
知ってる人いるかな?
マハーシ・サヤドー系?
パオ・セヤドー系?
わからないけど
_ _ _
上座仏教修道会
バッダン タ ニャーヌッタラの系統?で
_ _ _
日本テーラワーダ仏教協会
スマナサーラの系統とか?
↑間違ってたら スマソ m(_ _)m >>399
法話聞いたら分かるけどビルマ系とスリランカ系ってちがう宗派かってくらい全然違うよ
スリランカは現代的に解釈してる特にスマ長老はその傾向強い
ビルマはゴリゴリの聖典原理主義、アビダンマ仏教。
アビダンマ、清浄道論、注釈書とか引用するのが当たり前
経典勉強会みたいな感じ
ちなみにビルマ仏教の方が好きです 「怒らないこと」という本が評判がいいので読んで見たら著者のエゴの強さに辟易した。
このスマナサーラという人は自分は頭が良くて相手を何度も屈服させてきたということを言いたくてウズウズしているように強く感じた。
挙げ句の果てに最後に私のお話でバカにされたと怒りを感じたら己の未熟さを恥ずかしがってください、と小賢しいアリバイまで入れている。
エゴがあるから怒りが生まれると書いているがこの人のエゴの強さも相当なモンだと感じたよ。 お釈迦様の教えに近い上座仏教でも
国や長老が違えば教えも若干変わってしまうんでしょうかね
大乗仏教の宗派みたいな感じがして残念が気がします お釈迦様の言葉といっても他人の言葉だし、読めば結局解釈が生じるからね
だからお釈迦様も一人で進めとか自分のみを頼りとしろとか言ったんでしょう
良き友が全てとも言ってるけど 仏教であれキリスト教であれ
当時の教理とは悦脱したものとなってるのが多いですね
仏教でも大乗と上座にわかれましたしキリスト教でもカトリックやプロテスタントなど・・・
団体組織になると上層部の都合のよい慣習慣行が作られ
まさに現在の新興宗教 代表者を神や仏のように神格化してしまう
お釈迦様がもうこの世にいない以上私たちは
残された経典や長老などの指導者に教えをいただくしかないのですから ある程度瞑想している人ならば、タイ、ミャンマー、スリランカの仏教が同じものを指し示していることは分かると思う。
自分が受け入れやすいものを採用すればいいのでは。 ちなみに私は、スマナサーラ長老、アチャン・チャー、パオセヤドーの指し示す言葉の先に共通性を見出せる。
それは、紛れも無いお釈迦様のダンマである苦集滅道であり、無常・苦・無我である。 ブッダを北極星のように目印として進めば、宗派や流派の違いなんぞ
なんぼのもん。 タイの未来を阻む「悪魔の考え」
やはり、その教えが説かれた「時代性」と「地域性」を見失ってはなりません。
例えば、インドで釈迦が教えを説いたのは、二千五百年前から二千六百年も昔のことでした。
釈迦は、ネパールに始まり、インドのガンジス川中流域を中心に伝道活動をしましたが、当時としては、中程度の規模の教団にしかなっていないのです。
要するに、歩いて行ける範囲が、伝道の範囲だったわけで、釈迦は弟子たちを養成していろいろなところには送りましたが、その多くは、どこでどのようになったのか、あるいは、どこで命を失ったのかも分かりませんでした。
弟子たちの伝道は、そのようなものであったのです。 それから二千年以上の歳月が過ぎ、日本にも、その教えの一部は伝わっています。しかし、「最初のころの釈迦の教えがどうであったか」ということは、残念ながら、抜け殻のようで、はっきりしたことは分からないでしょう。
一方で、原始の釈迦の教えを忠実に反映しているかに見える、小乗仏教、あるいは上座部仏教、テーラバーダといわれる教えが、スリランカやタイなどには今も残っています。タイは独立を守っているため、その宗教様式も、かたくなに守っているのです。
ところが、私は過去二回、講演のためにタイへ行こうとしましたが、残念ながら、二回とも行くことができませんでした。また、タイでも、私の本が翻訳されていますけれども、タイの人たちは、「『仏陀再誕』だけは困る」と言っています。
要するに、仏教では、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三つ(三法印)を旗印としていますが、
小乗仏教では、最後の「涅槃寂静」について、「仏陀が悟りを開いたならば、地上的な束縛を取り除いて、涅槃の世界、ニッバーナに還る。そして、もうこの世には帰ってこない」と説いているからです。
そのため、「仏陀再誕は困るのだ」と言っていたのです。
しかし、私は、タイと同じく小乗仏教の国であるスリランカで法話をした際、スリランカの人たちに、「仏陀がこの世に還ってこなくて喜ぶのは、いったい誰ですか」と問いました。
「仏陀が悟りを開いたならば、二度と地上には帰ってこない。つまり、地上の人たちを指導しない。それを喜ぶのは誰ですか。悪魔でしょう。仏陀の教えをそのように解釈したのは、いったい誰ですか。よく考えてみなさい」と述べたわけです。 「仏陀が悟りを開いたならば、二度と地上には帰ってこない。つまり、地上の人たちを指導しない。それを喜ぶのは誰ですか。悪魔でしょう。仏陀の教えをそのように解釈したのは、いったい誰ですか。よく考えてみなさい」と述べたわけです。
すると、講演会に来ていた一万三千人のうち、九千人以上が。幸福の科学の信者になりました。(「大川隆法 スリランカ 巡錫の軌跡」)
これは、「『仏陀が地上に還ってきてほしくない』というのは、悪魔の考えです」と私が述べたからです。
もちろん、「悟りを開き、束縛を解いて、自由自在になる」というのは、仏陀の説いた教えのとおりでありましょう。霊的世界に還れば、肉体的束縛から離れて自由自在になるわけです。
そして、思いがすべてになって、意志の決定するところに自分の行動があるようになります。そういう意味で、「自由自在になる」ということを、悟りの境地として仏陀は説いたわけです。
それについて、「涅槃(ニッバーナ)に入ることによって、仏陀がどこか暗い山の洞穴の中にでも閉じこもり、蓋をされてじっとしている」とでも思っているのでしょうか。
まったく恥ずかしい限りの誤解ですが、そのようなことがあるはずがありません。それでは、地獄の深い穴の中に入っているのと同じことです。
やはり、地上の人たちが救済を求めても、涅槃から出てこずに、彼らを救うことができないならば、「悟り」とは言えないでしょう。それは、絶対におかしいわけで、唯物論であり、間違った宗教論だと思います。
ここを突破しなければ、タイの国に未来は開けないはずです。 3 信仰とは、全身全霊で受け止めて感じ取るもの
学問における唯物論・無神論者たちとの戦い
また、『正義の法』の第一章では、次のような映画の内容を取り上げました。
「キリスト教国であるアメリカの大学において、WGod is dead"(神は死んだ)と書いてサインをしなければ、その科目を履修できないということがあった。つまり、そうしなければ、単位を取って、成績を上げ、出世を目指すこともできない。
そのとき、一人のクリスチャンの学生が教授のやり方に抵抗した。
その学生は、『私はクリスチャンであるので、どうしてもWGod is dead"とは書けません』ということで、教授とディベートすることになった」(二〇一四年公開「神は死んだのか」〔原題WGOD IS NOT DEAD"]」。
これは、映画の話ではありますが、おそらく、アメリカにおける学問の現状でもあるのでしょう。
特に、科学の分野では、キリスト教の教えを根本から覆すようなことが数多く起きているわけです。
例えば、宇宙物理学者のスティーブン・ホーキング博士は、神を否定しており、「神が宇宙をクリエイトしたというのは信じられない」というようなことを言いま 例えば、宇宙物理学者のスティーブン・ホーキング博士は、神を否定しており、「神が宇宙をクリエイトしたというのは信じられない」というようなことを言いました。
また、リチャード・ドーキンスという人は、「遺伝子が魂の正体だ。DNAが、親から子、子から孫へと移っていく。このDNAの転移こそ、魂の転生輪廻そのものだ」というようなことを言っています。
あまりに愚かすぎて話にならないのですが、大学では、これを信じて、このとおりに答案を書かなければ、成績優秀では卒業できないし、よいところには就職できないのでしょう。
たとえクリスチャンであっても、主流はそのようになってきており、そのために、あちこちで戦いが起きているのです。
要するに、「君が教会や家庭で信じるのは結構です。ただ、ここは大学なので、そういう信仰など、証明できないものは持ち込まないでください」ということなのでしょう。不可知論、あるいは無神論を教えるために、最初にサインをさせられたりしているわけです。
結局、現代の哲学者の多くが無神論者であるため、その内容を授業で教えるためには、神を否定しなければならず、それでサインをさせたりしているのだと思います。
しかし、そうまでしてA評定の成績を取ることにより、よい進学ができ、よい就職ができ、よい結婚ができ、よい家庭が持てたところで、最終的に幸福になれるのでしょうか。
あるいは、真理に反して生きて、本当に幸福と言えるのでしょうか。神を否定するところまで傲慢になっておきながら、その生活が、その科学が、尊敬すべき立派なものであるはずがありません。
たとえその大学が、世界の一流の「名門」といわれる大学であったとしても、間違っているものは間違っています。嘘は嘘です。教えてはならない限界があるということを、私は言っているのです。 唯識厨がいなくなったと思ったら、こんどは幸福の科学かよ。w
「霊的世界に還れば、肉体的束縛から離れて自由自在になるわけです。 」
なにが霊的世界だよ、仏教の「ぶ」の字すら分かっていないじゃないか。
どうしてこう、アラシが侵入してくるんだろう。 幸福の科学の肩を持つわけじゃないが、
色界、無色界は伝統仏教でも解かれている。
不還果の聖者は、欲界には帰らないが、色界には生まれる。 仏教徒ではあっても、いまだ有身見と唯物論にもとづくものの見方をしているのだとしたら、
その見方は、まだ慧に基づく正見には至っていない。
人間の知覚は、五感と肉体に限界を規定されている。
人間の思考もまた、五蓋と自我意識にその限界を規定されている。
人間理性とは、限界を規定され、不完全な、まちがった(ありのままではなく、自我を
出発点とする発想、自我を中心とした認識)である。
世界のありのままの姿は、なんらかの自我を出発点としていたり、中心にしていたりはしない。
人間の考えること、感じることは、実は真実とは逆さまなのだ。
そんな状態で、仏教の「ぶ」が分かったつもりになっているとしたら、それは勘違いだと自覚しておいた方が良い。 文体的に仏教議論スレに常駐してたセブンとかいう禅宗の坊さんじゃないか?
テーラワーダの教義を認めない、軽視するなら来なくてもいいんだが
坊さんは話し相手が欲しいんだろうかあらゆる仏教スレで見かけるわ わいはテーラワーダなのだが。
お経に遺されたお釈迦様ご自身の言葉、つまり仏説として
不死の門は開かれたとか、色々言ってるでしょうよ。
それが全部嘘、間違いだとでも言うのかね。 >>418
アナタじゃなくて>>414の人のことだよ >>415
>色界、無色界は伝統仏教でも解かれている。
ほう、君の所では無色界を霊界と捉えているんだ。
変わった仏法もあるもんだね。 >>420
>君の所では無色界を霊界と
色蘊がなくて四蘊と言われてるからね
そんなことも知らずに何でテーラワーダスレに居座ってるのか理解できない >色蘊がなくて四蘊と言われてるからね
だから受想行識がどうして霊界になるの?
という話。 ナーマ・ルーパという分類の理解もあやふやなんだろうな…
禅宗は心身一如だから >非物質的世界だから
だから、どうしてそれが「霊界」なのかって聞いてるの。
それから私を禅宗のうんぬんとか言っているけど、
全く違うよ。
たまに覗きに来るだけだよ。 >>425
>たまに覗きに来るだけだよ。
そうか早とちりしてすまんね
>どうしてそれが「霊界」なのかって
大雑把なアナロジーとして無色界は人が想像する「霊界」とかとイメージが近いよねという話だろう?
幸福の科学とテーラワーダが一致するという話ではないよ 文脈から判断して、上の文章で言われている「霊界」は、「餓鬼界」のことではないはず。 いかん、途中で送信しちまった。
>大雑把なアナロジーとして無色界は人が想像する「霊界」とかとイメージが近い
霊とは「個」であり「永遠」というのが定義だ。
いうなればアートマンの概念に近い。
そのアートマンを否定したのが釈尊ではなかったのかね。
それとも非我論でも持ち出すかい? >>428
自分は霊という言葉に物理的でない幽体のイメージを持つけれど
永遠なる霊魂(soul)は想像しなかったな
言葉って難しいね >>429
漢字文化圏(特に漢訳盛んな時代)に於ける「霊」と
日本文化近世までの「霊」と
日本文化近現代に於ける「霊」と
英語のスピリットやソウル、或いはキ教において霊性と謂われたりするものの”翻訳としての”「霊」など
が、同じ概念である筈もなし。
同じ漢字だからと言って意味まで同じとは限らない。
さらには、近現代以降の新興宗教や、スピリチュアルなムーブメント、
或は昨今流行りのマインドフルネス等に近接する「霊(的なもの・こと)」まで含めたら、
いったい、何十通りの語義が定義されるだろうか・・・・。 >>430
それでは「個」ではなく「永遠性のない」霊がどこで、どのように、
使われているか教えてもらいたいね。 >>432
あれ、「何十通りの語義が定義されるだろうか・・・・。」
じゃなかったの?
テーラワーダスレなのに「霊」が好きな人もいるんだね。
大乗にヒンズーを引き入れたのもこういう人なんだろうなあ。
霊という概念を引きずっているから無我など分かる訳が無い。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています