【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 前スレ999
についてなんだけど、私いったい何を反論されたのか全然分からず
前スレ994と前スレ999の内容のどこがどう対応してるのか教えてください…
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/995
>読んでて面白いわけではない
↓これも面白いという感じがしない(かもしれない)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D
五位
あらゆる事象を5種類の範疇(カテゴリー)に分類して
人間の精神や物質など全ての現象の要素(法, ダルマ)をまとめたもの
説一切有部
『倶舎論』では…
唯識派・法相宗
唯識派やその東アジア後継である法相宗では…
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%8F
『アビダンマッタ・サンガハ』(巴: Abhidhammattha Saṅgaha、摂阿毘達磨義論)
南伝上座部仏教に属する僧侶アヌルッダ(Anuruddha)によって11世紀頃に書かれた、仏教綱要書
題名は、「論(アビダンマ)の集成」といった意味
(リンクの貼り憑けができない)
だるま文庫 八宗綱要 法相宗
遍計所執性
依他起性
円成実性 前スレ
996 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/03/14(水) 10:30:25.31 ID:P+389RMj
とはいえ、漢字の経典は中国以降だから、本来ならサンスクリット語のはずなんじゃないの。
ブッダはなるべくその土地の言葉で説くようにしていたはず
日本人に馴染みのある漢字はともかくパーリ語はいくらサンスクリットに似ているとはいえ耳慣れない言葉だからなあ
中論や大智度論は漢訳されてるからいいんだよ
阿含経や大乗経典もね
漢訳と日本語訳の双方を照らし合わせながら読むことができる
もっとも漢訳されてても阿毘達磨発智論、阿毘達磨倶舎論などは読む気にはなれないが
中論
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron00.htm
サンスクリット語も色はルーパで形成力はサンスカーラで心はチッタで空はシューニャで安らぎはニルヴァーナ、三昧はサマーディとか、
あとアートマンやブラフマンやプルシャやカルマだとか、大体このくらい知ってれば自分にとっては充分だなあ
将来的にはあるいはもう少し単語を知ることになるかもしれないが
アビダンマッタサンガハは不善心所にしても
「この欲はローバだろうかディッティだろうかマーナだろうか、とか一々耳慣れないパーリ語を思い出しながら分別していくのが現地の人間でもないのに不自然なんだよね」
もちろんパーリ語に馴染んでいる人なら不自然さは薄いのだろうけど 説一切有部の五位七十五法も別にそこまで分別されたのを知らなくてもなんら不自由しないからなあ
興味がある人はどんどん覚えれば良いとは思うけど
http://livedoor.blogimg.jp/tojiruwa/imgs/e/0/e071c596.JPG >>5
あ、自己レスだが釈迦はマガダ語で説法していたとか、
パーリは今では聖典語でスリランカでもタイでもミャンマーでも日常的に使われてはいないだとか、
そういうことは全て踏まえた上で上記のレスを書いている。
それにパーリやサンスクリットは今では聖典語だとしてもその中から現代の◯◯語に継承され取り入れられてる単語はかなりあるかもしれないしね。
あくまで我々日本人にとってパーリは(サンスクリット以上に)耳慣れず、興味がない人が無理に覚える必要はないと思っているということ。
またそうやって分別されたのをわざわざ覚えても苦滅には大して役に立たないとも思っている。
テーラワーダの僧になるなら別だが、在家は日本語訳されたのもので充分だとも思う。 中国人はサティを念と訳したが、日本にはその意味がしっかり伝わらなかった。
日本仏教の最大の失敗は、パーリーなりサンスクリットなりを
直訳しなかったこと。
まあ、時代的に仕方がなかったかもしれないが、文明大国中国様を
過大評価しすぎたね。 >>7
日常でひとと瞑想や仏法の話するとき困ることない?
意欲とか、書き言葉だと施設とか
…まあ意欲は心所だと思われなくてもほぼ変わらんけど >>5
どんな学問にも専門用語はあるし、専門家同士で会話する場合には
わざわざ素人向けに日常用語に置き換える必要はないと思うけどね。
マハ○カルナ○被れは、また別の問題として。 >>8
‡ 念(smṛti / sati)とは何か
http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/smrti.htm
>>9
日常で人と仏法の話をすることなどほとんどないから
仏教に興味がない人に仏教の専門用語を使って話をしてもそれが詳しいほどドン引きされるのが関の山 >>10
だからテーラワーダのお坊さんとか学者さんならパーリ原文の単語を駆使して会話すれば良いじゃない
一般人はそうではないから原文の単語に興味がない人はわざわざ覚える必要はない
最初からそう言っている 例えば医者は、医者同士だと専門用語で話すと思うよ。
患者さんには、日常的な言葉で説明すると思う。
瞑想修行者同士で瞑想について話す時、瞑想に関する基本概念が
共有されていれば、長い説明を省いて、単語一つで意図を伝える
ことができる。
問題は、相手が知らない、相手に通じるはずもない場合に、
一方的に専門用語を話してしまうような、押しつけの態度であって
学ぶこと自体ではないと思う。
どんな学問分野でも同じことが言える。 わたしは漢文の素養がないのと、最初に取り組んだテキストが南伝仏教であったため
パーリ語の単語の方が違和感なくなじめる。
漢字が羅列された漢文や、古語で書かれると、意味が取れない。
禅宗の老師が、なにか大事なこと言ってるんだろうなーと思うが、意味が分からない。 瞑想会でも、自分の体験を自分の感性で説明できる人は深いところにいるなと感じる
逆に仏教用語ばかり使ってやたら説明口調の人はちゃんと瞑想やってる?って思う ああーこの言葉ぴったりだわーって思って使ってたら、瞑想してない判定受けるってこと? >>14
> わたしは漢文の素養がないのと、最初に取り組んだテキストが南伝仏教であったため
> パーリ語の単語の方が違和感なくなじめる。
分かるわー
私も最初がテラワダだったんで未だに日本語訳に馴染めず…
え、掉挙ってなんじゃ読めんし…ああウダッチャか…ってなる >>16
体験を説明するのになんで仏教用語必要なの?
瞑想中も、ああこれはパンニャッティだこれはパラマッタだとか考えてるの? 覚者のことばをつぶやきます。マハルシ、ブッダ、クリシュナムルティ、osho、老子、荘子、マハラジ
https://mobile.twitter.com/MVtzV2RU9rf4F96
ブッダ以外の覚者もだいたいがブッダと同じような語り口
教えの内容に違いはあってもね
覚者だけに経典、聖典は最小限に自分が体験したことを語るというかね >>18
瞑想中にそんな事考えられる訳ないじゃん、説明するときにどう言語化するかって話でしょw
日常の語彙で説明できる内容ならそうするし、説明できない内容なら仏教用語を使うってのが自然だろうね
どう使い分けるかはその人の語彙がどっちが豊富かとか体験の種類によるわけだけど
結果として仏教用語の方を選択することが多くなった場合、瞑想できてない判定になっちゃうの?ってこと
焦りや苛立ちっぽい心の動きがあって瞑想が上手くいかない→OK!
掉挙があって瞑想が上手くいかない→ちゃんと瞑想やってる?
になっちゃうのか?ってこと
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-ariya-attangika-magga.html
SAMMÂ SATI(サンマー・サティ)正念 sammâ sati
mindfulness
こころの汚れが無くすような方向へ客観的に気づいていくこと
我所もなく・我もなく・主客分別もないので
客観的にではなくて
(主客分別ではない『仏そのもの(無為法)』の)
智慧と慈悲をもって → 縁起している世界を観照する
SAMMÂ SAMÂDHI(サンマー・サマーディ)正定 sammâ samâdhi
(有為法の世界を手放して)
仏そのもの(無為法)の世界?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E8%B6%B3
自在力(神通力)
観神足
(仏の)智慧と慈悲をもって → 縁起している世界を観照する >>22
テーラワーダ協会、ウィキペディアのリンク貼って
自分の見解をかぶせるのはミスリーディングだからやめといた方がいいかと
わざとやってるんならすごく悪質
>自分の見解をかぶせるのはミスリーディング
自分(ID:45F2pUgy)の見解ではなくて
ttp://www.onedhamma.com/?p=5136
魚川祐司氏
「無為法から観察できるのか?」
山下良道僧侶
『無為法から観照できる(という不思議なことが起きる)』
我所でもなく・我でもなく
客観的にでもなく・主観的にでもなく
主客分別でもなく
光り輝いている『仏そのもの』の
智慧と慈悲をもって → 縁起している世界を観照する
そのための
自在力(神通力) − 観神足という意味
とりあえず(2.0ではなくて3.0として)podcast法話を聴いてみては? >>15
そう、瞑想をやっていない人はすぐにわかる。
身に付いていないから理屈っぽい。
そういう人を見ると可哀想になる。
教理だけやっても仏教にはならないことが分かっていないんだな、と。 >>8
> 8 神も仏も名無しさん 2018/03/15(木) 07:51:33.84 ID:Poqe+XHJ
> 中国人はサティを念と訳したが、日本にはその意味がしっかり伝わらなかった。
> 日本仏教の最大の失敗は、パーリーなりサンスクリットなりを
> 直訳しなかったこと。
> まあ、時代的に仕方がなかったかもしれないが、文明大国中国様を
> 過大評価しすぎたね。
中国人はサティを誤って訳したために日本にも誤訳のまま伝わったと言いたいのだね。
サティ≒念で妥当だと思うが、どう誤っていて何なら適当なの? >>26
いや、サティ=念でいいんだよ。
ただ、その念の意味が曖昧なまま日本に来てしまったということ。
逆に聞くが、日本仏教に明確にサティがあるかい? >>25
おいおい、他人と比較して裁くための瞑想なのか
他人にあれこれ言うな、自己を観察せよと仏典に説かれてるだろ
そういう差別,排他的思いを抱くのは、固執した観念を抱いて手放してないからさ
色メガネ、先入観で人を裁く、煩悩凡夫と同じだろ
オレ様は真の瞑想者だという思いは、自我強化だとなぜ気づけない
技法や境地に固執する落とし穴に気づけ、諸先輩はそういう思いを手放している アーチャン・チャー
「私たちは、言葉に執着すべきではありません。真の智慧の源は、私たちの内側を観察することの内にあります。
この種の学びのみが、真の価値を持つものであり、私たちの問題に終止符を打つものなのです」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972859520249548800
「真のダンマの学習には、たった一つの目的しかありません。
それは、私たちの人生における苦(ドゥッカ)という現実から脱出する方法を見つけ、自分自身と、生きとし生けるものの、幸福と平安を得ることです」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972708538450505729
「もし、あなたがダンマを理解したいのなら、すべての物事を諦め、手放すのです。
修行についてあれこれ考えることは、影をつかまえようとして、実体を見失うようなものです。たくさん勉強をしすぎる必要はありません」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972678333476454401
「表面的な経典の学習は重要ではありません。
もちろん経典は正確に法を説いたものですが、それらをただ読むことは、正しい理解をもたらすものではありません。
それらは、あなたに正しい智慧を授授けてくれるものではないのです」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972602816140210176
「ブッダのダンマを本の中に見出すことはできん。
もし、おまえさんが真にブッダの説いたことを理解したいのなら、本を読むことに煩わされることはない。
そんなことより、自分の心を観察するんじゃ」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/971666657104965632
「おまえさんは本当は、四大(地水火風)が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりに過ぎないのじゃ。
もし、心が自由なら、現象を区別することはない「大きい」「小さい」「あなた」「私」なども存在しないのだ。
わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、究極的には、我も無我もないのだ」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972029040843345920
>内側を観察する
たとえば2.0ではなくて3.0の場合は
光り輝いている『仏そのもの』の
智慧と慈悲をもって → 縁起している世界を観照する。という意味で
法界体性智の智慧と慈悲をもって
大円鏡智をもって → 阿頼耶識を観照する
平等性智をもって → 末那識 を観照する
妙観察智をもって → 第六意識を観照する
円成実性をもって → 依他起性を観照する
ttp://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/handle/10723/816
七事の心の訓練法
道の本体は阿頼耶の自性に置くこと
仏の智慧と慈悲をもって
大円鏡智をもって → 阿頼耶識を観照せよ。という意味
>究極的には、我も無我もない
↓実践したことがないので、わからないけど、とりあえず
非想非非想処も超えて想受滅のときには
単純な(純粋な)エネルギーで、ただ何かを「やろう」とする
canda(チャンダ)意欲。やる気も
掴もうとしている想いを手放していく
という感じがする
もっとも、その直前までは
(「仏性そのもの」の)純粋なcanda(チャンダ)意欲。やる気は
あった方がよいかもしれないけど
ちなみに
掴もうとしている想いは
仏道への障害がある
有覆無記の我癡・我見・我慢・我愛に依存している。という意味 アーチャン・チャーに比べるとスマナサーラ長老は学術的で、
仏教ではどうこう、お釈迦様はどうこう、サーリプッタ尊者はどうこう、瞑想の種類はどうこう、ヒンドゥー教や一神教は観念でしかなく科学的ではない子供騙し、
みたいな知識とテーラワーage他宗sageしかその本には書いてなくて無機質で無味乾燥であると思う。
だから彼の本は自分にとっては感動もなにもなくてつまらない、言葉遣いも悪いし。
この人は目覚めた人ではないと思う。 スマ長老、阿羅漢ではないと思うけどさすがに預流果は達してるだろう
それより上はわからんけど 預流道の話を、あまり聞かないが、
預流道心が生じた人も、涅槃へ続く道(マッガ)は見てるんだよね? >>32
そのアーチャン・チャー師とマハーシ・サヤドー師の間も
お互いに相手のことを、悟りに至る真の道を説いてないと
全く意見が相容れてない
ゴエンカ式系も他の瞑想法と組み合わせるのは悪魔の所業としている
このスレは、誰が深く悟った高い境地と個人的に支持する師がいるのだろうけど、
実際、テーラワーダは一枚岩ではないよ
肝心なのは、実践してみて、自分の生き方に苦が抜けて平安をもたらしたかでしょ
スマ長老から学べることもいろいろあって、それで救われた人もいる どの薬の処方が適切かは、患者によるし、怪我や病気の種類にもよる。
方便の違いは、処方箋の違いのようなものだとすると、どれが正しくて、どれが間違いというような簡単な話ではないのでは。 >>36
>お互いに相手のことを、悟りに至る真の道を説いてないと
テーラワーダはこういうのが多いな
自分の教えじゃないと最終解脱は出来ないと正当化するのが当たり前になっているのかな ↓怪しいサイトかもしれないけど、とりあえず
ttps://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/57514137.html
A.の系統
@パオ・セヤドーの瞑想法(ミャンマー)「如実知見」
Aアーチャン・リー・ダンマパーロ(Ajaan Lee Dhammadharo)の瞑想法(タイ)
「Keeping the Breath in Mind and Lessons in Samadhi」
B.の系統
@マハシ・セヤドー(マハーシ・サヤドー)の瞑想法(ミャンマー)「ヴィパッサナー修行書(ミャンマーの瞑想)」
AS.N ゴエンカ氏の瞑想法(ミャンマー)「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」
Bプッタタート(ブッダダーサ)比丘の瞑想法(タイ)「観息正念(Mindfulness with Breathing)」
Cラリー・ローゼンバーグ教授の瞑想法(タイ系?)「呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想」
A. 戒→サマタ(定)→ヴィパッサナ(慧)→涅槃
B. 戒→ヴィパッサナ(同時にサマタ・サマディの訓練も兼ねる)→涅槃
たとえば、パオ・セヤドーとかの場合は
止(サマタ禅定)を前提としての
観(ヴィパッサナー智慧)である。という感じであるらしい?
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93
解脱智見
『(無明している世界を手放して)解脱した』と知覚して住むこと >お互いに相手のことを、悟りに至る真の道を説いてないと
だいたいの宗教ってそうだからそれでいいと思うよ(笑) >>35
テーラワーダでは預流道は即座に預流果に悟るからな
ほんの一瞬しか存在しないのが預流道者 テーラワーダから解脱者が出たという話も聞かないし、テーラワーダ自体も怪しい。 私はすごい境地にいる、のような匂わせ、はあるんだけど、テーラワーダ本の著書の人で、
「私は解脱した」とは決して書かない(笑) 逆に言えばテーラワーダはオウム、幸福の科学、のような「集金団体ではない」まじめな団体ともいえる。 ↓実際に『思考を止めること』ができるのか?わからないけど
ttp://satori-navi.com/81
悟りとは思考を止めること?
− ところが、どっこい −
ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本
…
迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり
仮設(paññatti パンニャッティ)としての
縁起したものを離れ
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、、死ぬことも、生まれることも
『留まること。も説かない』
それこそが「苦しい」と掴もうとしている想いの終わりである
無明している世界の中で
「心の働きを止めること」ではなくて
(無明している世界を手放して)仏そのもの。無為法そのもの。という意味 サーリプッタ「私は思考の止まった(無い)境地に達した」
阿含経典 ヨーガースートラ
一・二 ヨーガとは心のはたらきを止滅することである。 思考や心のはたらきというものにも定義や解釈があるし
心から自分が離れたときには思考や心のはたらきがそこにあってもそれらがなくなったと言うのではないだろうか >>49
>実得上人法戒: 具足戒を受けていない者に対し、(自分は)上人法を得ていると語る。実際に得ていてもそう語るのは避ける。
>【注:「上人法を得ている」と語ることで、在家者から余計に敬われ、布施を多く得ることになり、それが道心を失う結果となるため】
https://web.archive.org/web/20080323171121/http://www2.big.or.jp:80/~yba/asia/kairitu.html 実際に無想三昧(思考や想いが停止したサマーディー)に入った時、
苦しみはその構成要素である思考や想いを失って生じることができなくなる。
これは、無想三昧に入ってみれば確認できる。
そしてこの無想三昧は修練すれば誰でも有限の時間であるけれども入ることができる。
無論、「『今苦しみが無い』と確認していること」は心の働きだ、
と言えば、それはあるのだけれども。 ここに想と思考などの言葉は使われていないが、
無明によって行がある。行によって識がある。識によって明色がある。
明色によって六入がある。六入によって触がある。触によって受がある。
受によって愛がある。愛によって取がある。
取によって有がある。有によって生がある。
生によって老死・憂・悲・苦・悩・絶望がある。
この苦の集積のおこりは、かくのごとくである。
、と苦しみは心のはたらきの「生(有り)」によって成立していると説かれ、
無明を滅しつくすことによって行が滅する。行がなくなれば識がなくなる。
識が亡くなれば名色がなくなる。名色がなくなれば六入がなくなる。
六入がなくなれば触がなくなる。触がなくなれば受がなくなる。
受がなくなればあいがなくなる。愛がなくなれば取がなくなる。
取がなくなれば有がなくなる。有がなくなれば生がなくなる。
生がなくなれば老死・憂・悲・苦・悩・絶望がなくなる。
この苦の集積の減尽は、かくのごとしである
、と苦しみは心のはたらきの「滅(停止)」によって不成立となると説かれている。
このことから推知しても、>>50のようでは無いように思えるけれども。
とりあえず、無想三昧に短時間でも一度入ってみてください。
そうでなければ思索の紛糾を増すのみ(空想の範囲内でああだろうか?こうだろうか?と迷うのみ)です。 苦しみはなんで作られるか、といえば例えば「あー、今日仕事嫌だな」→苦しい、とか、
「ああ、昨日xxxで失敗してしまった」→苦しい、という風に「想い」の発生という原因に基づいて起こります。
即ち「想いが浮かばない状態」が続けば、その間は、苦しみは起こることができないのです。 否、無想三昧などにはいらなくても、何も考えずぼーっとしている時に、なかった苦しみが、
ふと「あ、そういえば明日までにやっておかなければならないアレをやってなかった」などの
想念が生じればたちまちその人は苦しみを生じる。
これでもお分かりではないでしょうか? 思考が生じなくなった状態なら知っているけれどしかし思考がないという認識がある
その認識は思考とは呼べないものだけれど通常の思考があるときもないときも同じようにそれは不変にある
それを観というのかもしれないし自分が思考や心身でなくそれ自身になっていれば思考があってもなくても違いはないんだよね
あくまで自分の経験上の話だけど いや違うそれでも>>50が正しい、と思われるのならば、別に私はこれ以上何も言いませんけど(笑)。
ただ>>46が真理だとしても、それを具現化する方がとてつもなく難しいと思いますけど。
ブッダは阿含経典の中では無想三昧を修めよ、と説き、スッタニパータでは
「最上の<想いからの解脱>」と説いていますので、その辺も参考になされると良いと思います。 とどのつまり結果として「苦しみがなくなる」というのであれば、OKだと想います。 三昧に入って苦や悩みがなくなっても三昧から出て苦や悩みが生じたら悟りじゃないから
釈迦が学んだ二人の仙人の境地も悟りではないってことじゃないかったっけ
三昧はあくまで苦や悩みがなくなるためにその過程で通過するものだと思うんだけどな 私は基本的には「このやり方(手法/考え方)で苦しみをなくするのが正しい」などということにはこだわりませんから(笑) 苦しみをなくしたいだけなら催眠術でも麻薬でもなくなるからね
心身をいじればどうとでもなるし結局苦しみは心身の問題でしかないから
ただそれは一時的なものだという意味で意味ないと思うけど 座禅中だけ苦しみがなくなる、というのでは意味がありません。
常時、でなければ。 まあ例えば体をハチに刺されたら刺された刺激はあるわけで、
それは身体がある以上悟ってようが悟ってなかろうがあるだろうし、
それを痛いとか苦しいとか感覚に結びつけたら苦だけど、結び付けなければ苦ではない
そういう意味で思考があってもそれを別のものに結び付けるか結びつけないかで苦が生じるかどうかも変わるし 常時でなければ意味がないなら無想三昧も意味はないよね >>64
そこでハチにさされて出てくる想念を停止自在なら、結びつきも何も無い、というのが私の考え方です。 >>65
完全マスターしてないのでそこは何とも言い切れません。私はブッダに逆らえませんから(笑) >>66
だったら苦をなくすために無想にならなくてもいいんじゃないの?
ハチに刺されたらハチに刺されたと思っても別にいいだろうし、それを痛いとか苦だとか思うのはまた別だろうし いつも想うのは解脱している人と対話したとて、真理を悟れるか怪しい我らが、
解脱していない者同士でああでもないこうでもない、と言い合っても知れているだろう(笑)とは考えております。 >>68
うーん、私は「止める(無想)」が個人的に好きなだけ(笑)
あなたの考えが正しいかもしれません。 >>67
別に逆らうとか仏陀の言ってることと違うとかいう話じゃなくて、
仏陀が言ってる真意の解釈の話だと思うけど
上座部でも派によって解釈が違う部分はいろいろあるし >>71
「逆らう」というのはブッダが君たちは「無想三昧」を修めよ、と経典で指示しているので、
「無想三昧はその場限りで意味ない」とは私は言えませんし思えません、という意味。 わかっていることはただ一つ「修行が足りん」ということくらい(笑) >>72
別に修めるのはいいことだと思うし全く意味ないことだとは思わないよ
心身がなんなのか知る意味でもその過程を通る必要がある場合はあると思うし
無想三昧と自分から苦がなくなること(常時苦がなくなること)が同じではないって言いたいだけです ブッダは派閥は許さん、っていってたので、分派した時点で仏教は壊れていったのかな、
なんて思ってもいますけど。 >>74
それはそうかもしれないし、もしかしたらその三昧から常時につながるなにかが得られるかもしれないし、
完全マスターしていない自分にはそこは何ともいえません。 アビダルマ(論蔵)も経蔵と律蔵の注釈書と聞いてからは全く無視しています(笑) ナーガルジュナが小乗経典を3ヶ月でマスターした、というのが悔しくて(笑)
じゃあ、易しく馬鹿でも分かるように解説してくれよジナさん、と。
中論じゃわからんよ、と(笑)。 自分の場合、ほぼ大体の欲はててますので、苦しみは「仕事いく」くらいですね。
仕事をしなくてもよいなら、苦しみは無いです(笑)。
何故仕事をしなければならないかというと、親に悪いから、という執着ですね。 >>74
さんのように紳士的に真摯に話をしてくれる人ばかりだと、法話も楽しいんですけどね。
ココは自論と異なると感情的になって罵詈雑言の人が多いですから。
普段はあまりこないようにしています(笑)。 >>59
>釈迦が学んだ二人の仙人の境地も悟りではないってことじゃないかったっけ
この2人の仙人は第一結集後の創作だろう >>82
戒律を守る比丘が、結集で嘘をついたという意味になると思うが。
比丘がそんなことをするかね。
しかも、阿羅漢以下、全員でということになるのだが。 >>82
!?工エエェ(゚Д゚ ;)ェエエ工!?そんな話聞いたこと無いよ。
>>83
(゚д゚)(。_。)(゚д゚)(。_。) ウンウン ブッダが成道後、最初に説法しようと決めたのもこの2仙人に対してだったし、
創作とは思いにくいと思うけど。 これを創作としてしまうと、もはや創作の基準が訳がわからなくなるよ。 今、自分が疑ってるのは大パリニッパーナ経の創作付加説で、大パリニッパーナ経の文体は、
スッタニパータやダンマパダと全然違うし、物語調だし、ブッダ大地震とか、伝説調になってる。
何かがおかしい。 ブッダの老後生涯みたいなのは初期原始仏典に全く無いらしいし。 このゴータマ・ブッダは本当は二人の仙人の瞑想法をどう考えていたのかという問題については、「ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯」で中村氏が主張している次のような説は良く検討しなければならない。
まず、中村氏は無所有処や非想非非想の説が二人の仙人説であり、ゴータマ・ブッダはそれらの説(解脱を得るための瞑想法であるという)を退けたと、アーガマのマッジマ・ニカーヤ(中阿含経)で説かれているのに、
研究によってマッジマ・ニカーヤの経典群より先に成立したとされているスッタニパータ(その中でも最も成立の時期が早いとされているアッタカ篇とパーラーヤナ篇)に
二人の行者(仙人)の思想がそのまま成道後の釈尊(ゴータマ・ブッダ)の教えとして説かれているのはおかしいとして以下の説を展開している。
「『スッタニパータのほうが、どうしても古い経典であるから、われわれは次のような結論を得る。
原始仏教の最初期A(それは最古の典籍、パーラーヤナ篇によって代表される)においては、我執を離れることを説いた教えの必然的帰結として<無所有>の境地をめざし、そのために禅定を修した。
<無所有>ということはジャイナ教徒もまた理想の境地としてめざしていたことである。
その境地は<想いからの解脱>(sannavimokkaha)と呼ばれている。
ところが仏教がさらに進展して原始仏教の最初期B(それはアッタカ篇によって代表される)の時期になると、さらに一歩進めて、究極の境地は『想いが有るのでもなく、無いのでもない』と説くようになった。
恐らく最初期Aのように『想いが有るのではない』『何ものも存在しない』と説いただけでは虚無論と誤解されることもあったので、それを避けたのであろう。
そうして仏教がさらに飛躍的に発展した時代(アショーカ王以後、あるいは早くてもナンダ王朝以後)になると、右の最初期A・Bのような思想では、時代の人々の要求に適合しないことになり、
<非想非非想>の思想をラーマの子・ウッダカにかこつけるようになり、仏教は新たな思想を展開したのである。
その事情は後代において、小乗仏教に対して大乗仏教が起こった事情に似ている。」
http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-shugyo.htm 2仙人創作説をとると、無所有処、非想非非想処に満足せず苦行林へ、の話もどっからどこまで本当かわかんなくなっちゃうよ。 スッタニパータ 第四 争闘
http://suttanipata.com/ae-2/
873 「どのように修行した者によって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。
ーわたくしはこのように考えました。」
874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。
ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」
874に見られるようにスッタニパータでは悲想悲悲想が全く肯定的に釈迦の口から語られている むしろ創作なら、「ブッダは誰の師の元にも赴かず独り悟った」という風にカッコよく創作するはず。 >>91
それは無所有処についても原始仏典ではが全く肯定的に釈迦の口から語られているよ。
しかし、2仙人創作説は、「今まで聞いたことない」よ。 http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/gensi1.html 梵天勧請の後で、ブッダは、最初に誰に真理を説くべきか考え、
アーラーラ・カーラーマと
ウッダカ・ラーマブッダを思い浮かべるわけですが、
アーラーラ・カーラーマは七日前、
ウッダカ・ラーマブッダは昨夜、命果てていることを、
姿を現さない神のお告げで知る。
それぞれ、
「アーラーラ・カーラーマは大きな損失をなしたものだ。なぜなら、もし彼がこの真理を聞けば、速やかに了知できたはずだからである」
「ウッダカ・ラーマブッダは大きな損失をなしたものだ。なぜなら、もし彼がこの真理を聞けば、速やかに了知できたはずだからである」
という思念が、ブッダに生じた。 >>95
マジッスカ?初耳だ。驚きだ。
中村先生はかなり現実派仏教の人だから、信憑性はあるけれども。 しかし創作はブッダを神格化するためにあり、わざわざブッダを下げることを書くだろうか? まあ重要な部分じゃないんだけどね。そこが創作でも実話でもどっちでも(笑)。 確かに疑おうと思えば悟って教えてあげようとした数日前に仙人が亡くなっていた、というのはタイミング的にはでき過ぎといえばでき過ぎと突っ込めるけど。
しかし創作の意図(目的)が分からない。 >>100
2人の仙人の瞑想にも欠点があり
その欠点を克服した受想滅定を釈迦が生み出したとなれば釈迦は師の2人を超えていったとして神格化されるでしょ
仙人はある意味かませ犬さ 日本人にはなじみが深い「祇園精舎」だってそうだ。
スダッタ(須達多)という人物が釈尊に寄進したという園林の名は、
元の地主の名をとって「ジュータ(の園林)」と呼ばれたそうだが、
これを漢訳(音訳)すると「祇陀(の園)」になる。
これすなわち「祇園(ぎおん!)」のことだ。更にはそこに建っていたとされる
精舎(僧院)こそが、『平家物語』の冒頭であまりにも有名な「祇園精舎」
と呼ばれるもの。ただし当時は僧院という施設は歴史的にまだ出現していなかった
そうなので、これは明らかに後世の創作らしい。
ぎゃーこれも創作( ;゚д)ザワ(;゚д゚;)ザワ(д゚; ) ? 小乗経典でさえそんな風である....ってことはやはり大乗経典は全くの完璧な創作仏教小説ってことなんだろうな。 あとは「神通力」が創作であれば仏教は(現実の苦しみを滅ぼす教えとして)完璧なんだけどなあ。 >>76
その無想三昧は作られたもので、一時的で壊滅するもので、
無常であることが分かると説かれて、常時につながらない
中部 界分別経
「四つのよりどころ(四住処)に安住すれば、妄想が起こらない。
妄想が起こらないとき、聖者は寂静と言われる。
それゆえ人は、智慧を怠惰にするべきでない。
真理を護持すべきである。捨断を修習すべきである。
まさに寂静を修学すべきである。」
「では、いったい「何を」正しく「観る」のでしょうか?
比丘たちよ、比丘が六つの接触処の生起と消滅と、楽味と危難と出離を如実に知るとき、
かれはこれらすべてよりも勝れたものを知ります。
比丘たちよ、如来は、もろもろの感受の生起と消滅と、楽味と危難と出離を、
あるがままに知って、執着なく解脱したのです。」 すると神通第一のモッガッラーナは虚人となっちゃうしなあ...。あるんかねえ神通....。
ここが一番のひっかかりなんよね。 >>106
大念処経では、ヴィッパサナーを7日やると「誰でも」、解脱か不還果が得られる、とあります。
しかし、そうは問屋がおろさない現実.....。 結局仏典を何度読んでも、解脱の究極のHOWは念処経にいきつくんだけど。 ・・(oдo;) ・・・・もしや念処経も創作・・・・
ィィィィイイイヒ(゚Д゚)(゚Д゚)(゚Д゚)ヒイイイィィィィ 三昧に入ったことがないと、神通とか過去世の記憶とか、その辺の話がぜんぶ迷信か、
よくて空想物語としか理解されないので、瞑想してない学者さんの仏教理解は
どうしてもそこが分かってないまま、知識と思考の範囲内に留まる。 瞑想修行を兼ねる仏教徒は、
例えば梵天勧請についても、本当に梵天がブッダに礼拝して教えを説いてくれる
ように請願したと思ってるけど、学者先生は、おそらく鼻で笑うだろうし、その後
なんらかの論文を引用して否定してくるだろう。 輪廻(転生)もないと思ってるだろうし、
輪廻思想自体が迷信なので、その迷信を見破って、輪廻なんてそもそもなかったんや!(ピコーン
となることが、輪廻からの解脱だと思っていたりする。
その人は、とうぜん断滅論者(死んだらお終い)なわけで、断見なのであるが。
自己が断見の断滅論者でありながら、仏教の悟りが分かったと思っていることについて
おそらく合理的な説明はできないだろう。 悟りは思考の結果ではないので、論理的思考の結果として辿り着いた答えは、
それは悟りではないのだが。 >>108
>>109
結局、仏典を読み通せば、無思考持続を作った状態でないことは明白で、
一言で簡単に書けば、思いから離れることって分かります
清浄道論でも、最終的な洞察は、心身との非同一化がきます
常に思考と自己の非同一化させるために、気づきの観を行うわけで
それは無我非我に沿う智慧で観てることになっています
思考が自己そのものでないことは悟り仏教かじる人なら了知できてますよね
アーチャン・チャー師の手放しってタイトル本からも分かる通り
無心を作ることは無常なので手放す、経験した境地の執着を手放す、
今ここのライブで観るわけです これが日常生活で可能です
在家は、それだけで安楽になれます 実際私もそうです
煩悩渇愛滅尽、阿羅漢になりたければ出家、世俗生活ができなくなるのが阿羅漢 神通力については、本当にあると思う。
思うというのには、根拠がある。
思考が止まる程度まで瞑想に集中できれば、意識が肉体レベルの自我に
縛られないので、今生の自我の中にあるはずのない記憶にもアクセスできる。
というか、できた。
瞑想しない人は、肉体が自己であり、あるいは自己意識の発生源である、源で
あると感じているはずだが、肉体は意識の発生源ではないです。
意識が肉体(の五感と思考)を通じて働いているのであって、順序は逆です。
過去世の記憶を思い出す、宿命通という神通があるが、
過去世の記憶が、今世の自我のなかに無いのは当たり前であって、瞑想しないと
思い出せないです。
そして、記憶は物質ではないので、基本的に、物理的に証拠を示すことはできません。
瞑想者本人は、精神的に証拠をみているわけです。
自我の外側の意識は、今世より前のことを思い出せます。
神通はあると思う。
こういう体験的な根拠があって、仏説を見直していくと、偉い学者先生方の仏教理解も
あくまで自我が理解できる範囲内に留まっていたんだな、ということが見えてきます。 仏説は、書いてある通り、そのまま素直に読めれば、それが正解です。 考えすぎて、(悟ってない)自分自身の理解できる範囲内に収まるように、改謬すると
むしろ間違えます。
偉い学者先生は、これをやってしまいます。 現代科学の精神についての理解は、実は迷信です。
現代科学は、精神が物質だと思っている。
エンドルフィンとか、電気信号とかの物理現象が、イコール精神現象だと思ってる。
とんでもないオカルトですよ。むしろ。 >>116
ほらほら、神通力なるものに執着して、本筋の教えから離れている
相応部スシーマ経で(五)神通力の体得を否定してますから 超絶バカカルトチックな、壮絶な迷信を、心の底から理性的で科学的だと信じている。
それが現代的教養人の心の理解レベルなんです。 いつも瞑想をしていた解脱者サーリプッタ尊者には他心通も宿命通も神通力も、ありませんでした。 >>120
なにか勘違いしていませんか。
漏尽を支える智慧として、他の五神通も修める必要があるという主旨であって
神通力の獲得が目的ではないことは、阿羅漢道を行く修行者なら分かっている
ことのはずです。
それよりも、漏尽智を支える柱である神通を否定する背景には、実は神通そのもの
への疑いがあるのではないでしょうか。
過去世を思い出す宿命通がなければ、業報や輪廻を悟れないし、従って仏教的な
世界観を、本当には理解できないと思います。 >>120
自分を高く誉めそやし、それに反する見解を持つ者を「偉い先生方」やらと皮肉の言葉を多用する者は、基本の八正道や言葉がまず成立していない証拠なので、
仏門以前です。信用に値しません。 ブッダはそのような言葉を語れ、そのような言葉こそ良く説かれた言葉である、などとは教えていません。 自分に神通力を証する資質がない、禅定に入れないからといって
禅定に入れる、入ろうとする気概のある人や、出家修行者レベルの
人々のやり方が間違いというわけではないはずです
在家には在家に向いたやり方があるし、それはそれでいい。
だからといって、出家向けの八正道の歩き方が間違いなわけじゃないでしょう。 わたしは私個人として率直に意見を言っているだけなので、私を三宝に見立ててくれなどとお願いした
記憶はありませんし、媚びるつもりも毛頭ありませんよ。
ただし、一部の仏教学者さんが、仏説を曲解していることは事実なのです。 >>120
解脱者に必須と言われている3明神通力、宿命通、天眼通、漏尽通のうち、
解脱者サーリプッタは宿命通、天眼通すら持っていなかったことが記述されています。 仏説をねじ曲げて世に広めることに比べたら、わたしの口の悪さなど
取るに足らないことでしょう。 >>123
貴方はまだ仏典の解脱プロセスが複数あること知らず、神通に囚われていて、
ブッダの経験を踏まえて智慧の解脱を説いてることを知らないわけで、
その智慧の解脱には、(五)神通力の体得を はっきりスシーマ経で否定しているんです わたしは
嘘は嘘だと言いますし、
間違いには、それは間違いだと言います。 >>131
プロセスが複数あることが分かっていない、1つしかないと思っていると
どこをどう読んで、そう理解しましたか。
言われていない部分、語られて以内部分を想像で補って勝手に思い込んで
結論して、自己完結していますよね。 >>131
つまり、
慧解脱と倶分解脱の話でしょうか。
大乗の菩薩道と、上座部の阿羅漢道の話でしょうか。
筏の喩えでしょうか。
智慧と慈悲と方便の話でしょうか。
どうやって私の思考の中を読み取って、それが無いと判断しましたか。
妄想でしょう 自分で勝手に問題をつくりだして、作り出した問題を相手に投影して
投影した問題に、批判を被せてくる人ばっかりですよ。
本当のところ、うんざりします。 >>132
あなたの主観的妄想と個人的体験に基づいた「嘘」「間違い」の指摘には同意はしません。 本当にわかっている人ならば、分かってない人に憐れみは持っても、「うんざり」はしません。
「うんざり」するのは、単に自分が否定されたことに対する憤りです。 そういうわけで私はあなたを憐れんで同情しています。 >>133
いえいえ、言いたいことは、仏典で神通力が解脱の必須条件でないと明白に
説かれているのに、貴方がそこに強く執着して必死にお話されてるのがね、 分からない。だから無い。
と言ってるわけですよ、権威ある仏教学者さんが。
というより、分からないことすら分かってないで、事実上、無いと断定している。
そりゃー違いますよ、と言う時に、根拠はなんですかと聞かれるでしょう。
正直に過去世の記憶です、と答えるか沈黙するしかないでしょうよ。
正直に答えたら、証拠を出せ、とそうなるに決まってる。
うんざりなんですよ(笑 本当にわかった人は、「なるほど、この人はまだそこの場所にいるのか。ならば、これをこう言っても聞きはすまい。
では、ここまでなら理解されるだろうから、ここまでのこれを言っておこう。そうすればこの人はそれは理解し、この人に役立つなるだろう。」
と考えます。
そうでない人は自論をゴリ押しし、反論と争います。 修行しなきゃいけない人間ですからね。
そもそも、修行が終わった人格者だなんて、わたしひと言もいってませんからね。
その、仏道修行者たるもの、こういう人格者でないといけない
みたいな、日本的な横並びの価値観の押しつけのような態度、村八分感覚。
これも嫌い。 >>140
この現世での苦滅、解脱が本筋の話で、過去世とか神通とか、付属的な話を
必死に思考されてても、まぁ付属的な話は自由ですけどね
テーラガーター715
「われには、われが、かつて存在したという思いもないし、またわれには、
われが未来に存在するであろうという思いもない。潜在的形成力は消滅
するであろう。ここに何の悲しみがあるであろうか。」 あるいはあなたの過去世の記憶をここで詳細に記述して頂ければ、
納得する人も現れるかもしれませんよ。 >>145
テーラガーター715とかスッとでてくるあたり凄いッスね、相当繰り返し読んでますね。
尊敬します(笑)。 >>144
436
汝の第一の軍隊は欲望であり、
第二の軍隊は「嫌悪」であり、
第三の軍隊は飢餓であり、
第四の軍隊は妄執といわれる
スッタニパータ
あなたは悪魔の軍勢にまさに敗北してしまっているではありませんか(笑)
悪魔に支配されている人の意見を聞いても.....。 >>147
いえいえ、もちろん仏典だけの表面理解では解脱に至りませんが
無視できない解脱に役立つ教えが満載ですので、通読はしております あなたの言うことが事実ならばあなたの過去世の記憶をここで詳細に記述してみてください。
そうすれば少なくともあなたに対する疑惑はすっかりなくなるかもしれません。 >>119
いや現代科学そんなこと言ってないってwww >>149
いえいえ「あそこらへんに書いてあったんだけどどこだっけなー」が多くて、
今ココのタイミングで求める経文が出て来ず、話は先に進んでしまった、という歯がゆい経験が多数ありますので、
全文暗記はしときたいな、とは思っていますが、なんせ記憶力が(笑) >>148
実践の道としての仏道は問題ないとして、
執着の対象としての「仏教」というのもあるので、仏教をねじ曲げて伝える奴は敵であり、怒りを喚起するんですわ。
手強い相手ですわ。
>>151
量子脳あたり? なんとか大学教授とかの肩書きを掲げて、堂々と断見を「これぞ正しい仏教だ」とか
「これが釈迦の悟った内容だ」とか言われると、
まず釈迦と呼び捨てにするお前はなんだと、しばくぞ、と。
オラオラと。
そう思ってしまうんですわ。 >>149
2号は解脱とかには興味はないんじゃなかったのか? なにかと問題はあるにせよ、私は>>153さんの仏教に対する真剣な態度は認め、私にも伝わり、
その点に関しては評価しております。 ただ、何か大切なものがすっぽり抜け落ちている、という風を感じます。
そこが意思疎通を邪魔しているように思えるのです。 ひとつは、実は単に独り言を言っていて、ほぼ対話の相手を見ていない。
というより眼中にない。
いまひとつは、サティが途切れて三毒で反射しているだけ。
話している内容は、サティがあった時の経験であるが、
話している今はサティはない。
そこかな。 >>144
あなたの1個人の体験は妄想かもしれません。それを妄想でないと決定付けるものがありません。
それはあなたがあなたに証明することさえも不可能です。
そのような主観的体験を盾に、他の見解を否定しまくる、というのではあまりにも心もとないと思われます。 >>153
量子脳は理論が提唱されてるだけで、確定じゃないっすよ
そもそも科学では断言はほぼ無いです
現実を上手く説明できそうな理論を立てて、理論内に矛盾があったり実験結果が合わなかったりしたら、その理論は廃棄だし
そもそも実験できないものは、ずーーーっと提唱止まりです
科学的な観点と科学者の私見も分けて考えた方がいいですね
みな論文以外では好き勝手に喋ってますからw こんなに文句ばっかりいいやがって、こんな奴らにオレの経験(過去世のビジョン等)を、
語ってやるものか、馬鹿らしい、どうせ矛盾点などを批判してくるだけに決まってる、
とあなたが思うのは当然でしょうが、私個人としては、あなたに関する興味は、
その過去世のビジョンですね。それについて私はくだらぬ批判や否定をするつもりは無いです。 >>162
私はTVも何十年も見てませんし、ほとんど欲もないです。
世はほとんど捨てています。出家修行僧に近い。
休日などは10時間以上瞑想し、三昧に入ったりしますし。
最近、サボっているんですけどね。現世的なものにほぼ興味はありません。
趣味も性欲等も何も捨てています(笑)
家にはPCと三蔵経典類と、経典しか無いですね(笑) 三昧にうまく入れた時は、想いも無く、身体的感覚も全くなくなります。
この状態が永遠に続けばいいなあ、と思うのですが、途中で必ず落下します(笑) おれの経験が問題なんじゃないんです。
仏典に書かれていることは本当ですよ、というのが主旨なのです。
証拠を出せとわれるので、証拠は記憶ですと言うしかないわけです。
それは証拠ではない(物証ではない)と言われれば、はいそうでしょうね→ウンザリ
という流れです。 >>166
いやだからそれは私の希望はあくまで>>150だけであり、
他にあなたに何も望んでいません。
どうゆう風にどうゆうビジョン(記憶)が現れたんだろう?、という興味です。 これだけ懇願しても語ってくれないあたり、何か語りたくない事情がおありなのでしょうから、この辺で懇願はやめます(笑) ところで前スレの
1000 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2018/03/14(水) 15:26:09.59 ID:sk+ZSjHy [2/2]
>>987
>道元 普勧坐禅儀
>智慧と通力をもって
>心を明らめても
>掴もうとしている想いに
>執着しているのなら
>自らの解脱の道をふさいでしまっている
>おお、スッタニパータと同じこと説いてる
>その方法は集中だけではないけどね
ってスッタニパータのどの経文?おもいあたらんのだけれども。 この書き方ってものすごいもったいぶった書き方だよね。
しかも2つももったいぶって書いてる。 @スッタニのどの経文なのか明らかにしない(オレは知ってるけどね)
Aその方法は集中だけではないけどね(オレは知ってるけどね)
「すごいだろうオレは」にしか聞こえない。 どういう言い方をすれば、お高尚な皆様陛下にご納得頂け仕るなの?
もうよくわかんない。 >>172
「お高尚な皆様陛下」とか言う不要な形容詞をつけるのがあなたの悪い癖。
語るのめんどくさかったら黙って、座でも組んでたらいいよ。
べつにボランティアする必要ないんだから。 別に誰にも分かってもらわなくてもいいやん。一人解脱したらいいよ。
誰にどう思われようが。救済とかそういうのいいから(笑) そうだね。
気持ちのベースがウンザリモードなので、いまは人と関わらない方がいいな。
嫌な気分にさせてしまったらご免なさいね。
わたしの気分が問題です。 で、解脱して、梵天の勧請でも受けたら、ここでこう言ってください。
『来たれ、修行僧よ。真理はよく説かれた。正しく苦しみを終滅させるために、
我が言を聞け。』、と
そしたら聞くから(笑) おまいら、おれが言いたいことを今言うので、今聞け。
仏説、マジだから。 >>177
私は自分が好きで瞑想やら教学やらやってるわけで、仏説が正しかろうが創作だろうがどうでも良いんだけど…
> 仏説、マジだから。
こう言う人がいると確認したくてw
何を体験して何を知ったから仏説のどの部分が真実だと言っているの? ポセイドン、イカロス、等々は実在しますか?
妖怪は実在しますか?
天人は実在しますか?
夜叉は実在しますか?
サタンは実在しますか?
鬼は実在しますか?
霊は実在しますか?
パーピマントは実在しますか?
海は死にますか?
山は死にますか?
春は死にますか?
阿修羅は実在しますか? かように私は聞いた。
その時世尊は、比丘たちに告げて仰せられた。
「比丘たちよ、次のような善からぬ想いを思惟してはならない。
即ち>>180がそれである。では何故、そのようなことを思惟しないがよいというのであろうか。
比丘たちよ、そのようなことを思惟することは、何の利益ももたらさず、梵行の出発点ともならず、
また、厭離、離貪、滅尽、寂静、証智、等覚、涅槃に役に立つもの、苦しみの消滅に役に立つもの、
でもない。比丘たちよ、汝らが思惟する時には、これは苦なり、と思惟するが良い、
これは苦の生起なり、と思惟するが良い、これは苦の滅尽である、と思惟するが良い。
それは何ゆえであろうか?比丘たちよ、それらのことを思惟することは、よく利益をもたらし、
梵行の出発点となり、また、厭離、離貪、滅尽、寂静、証智、等覚、涅槃に役に立つもの、
苦しみの消滅に役に立つものであるからである。
そのように勉励するのがよいのである。」
南伝相応部経典 >>181の類似教説はたくさんあって、
断見、定見、死後の世界、世界の果て、世界のはじまり、.......等々についても、
ブッダは、何故、そのようなことを思惟しないがよいというのであろうか....ときて、
同じ結びで説いている。
お前たち、そんな思惟はいいから考えるな、お前たちは、
これは苦なり、これは苦の集なり、これは滅なり、...そこのみ考えろ、と結ぶ。
「お前たちは苦しみを滅するために我がもとに来ているのだから」、と。 >>182
死んだ後に無になるのが怖いというのが苦の根本となってる人にはなんて説くのだろうか?
死後天界に輪廻するように功徳を積みまししなさいだとか、出家して涅槃に入れるように修行しなさいだとか?
しかし輪廻にしても涅槃にしてもそれを信じることから始めないといけないわけで信じられない人は苦滅には至れないよなあ… >>183
だからブッダは在家信徒用の(信じる)教えと、修行僧向けの「こうやったらこうなる」「こいなったら次はこれをしてみい」
「するとこうなるから...」と科学実験みたいな(信でない)教えを説いている。
ブッダはだって、在家にいうこと、修行僧にいうこと、王様にいうこと、外道にいうこと、
全然違うこと説いてるんだもん(笑)。
それを弟子に「なんで尊師は言うこと違うんスか」と突っ込まれたりして、
それにもちゃんと答えている。 対照的にイエスは全員に誰にでも一貫した同じこと説いて、殺されちゃった。 ブッダはこの人はここまでは理解するが、これ以上は無理、だからここまで説いて
少しでもこの人の役に立てば、の立場で、イエスは「真実は一つ、理解されようがされまいが真理を説くのみ」の立場。
だから理解しない人にも理解しないだろうことを説いて反感と恨みを買った。 イエスなら王様にも、奴隷にも、等しくボロ布切れを着ろ、と言うかもだけれど、
ブッダは王様に、その衣服は贅沢だ、糞掃衣(ボロ袈裟)を着なさい、と言わなかったでしょ。
修行僧には糞掃衣(ボロ袈裟)を着ろ、と命令する。
修行僧には商売禁止で、商人には正しい商売をしなさい、と説く。 話かわるけど、南伝大蔵経(律蔵)面白いよ。聖人ブッダじゃなくて、普通のおじさんみたいな面がガンガン書いてある。
アナルセックスするなとか、オナホール禁止とか、自分で自分のちんこしゃぶるな(オートフェラチオ禁止)とか、
第一チンポ汁出すな、とか、比丘のたちのうんこが臭過ぎるから便所の蓋を作れとか、ブッダのイメージが.....。逆に、この人、みんなが拝む仏様じゃないわ、
実在の人間だわ、と思わせる記述満載。ブッダを神格化しすぎている人にはおすすめです。
その点聖書にそんなのないでしょ。だからイエスは史上実在人物か怪しい(笑)。 >>184
で、死ぬのが怖い修行者に対しては何て説法していたの? >>189
なんだっけ、パッと今でてこん。でてきたら(思い出したら)書きます。 >>189
死ぬのが怖い修行者ってあんま記憶にないなあ。
死期を待つ修行者には「お前は戒もまもってきたし、悪い命終はないであろう」とか、
あとは
ブッダ「生は無常か?苦しみは無常か?痛みは無常か?」とその死期間近の修行僧に、
よびかけて「無常です、尊師よ!」とか修行僧が答えて、死んで、
ブッダ「これで彼を案じ終わったぞ。彼は全き安らぎに入ったのだ。」みたいな流れだった記憶が。 だいたいブッダはそういう修行者には「お前は無常を理解している。案ずることは無いぞ。」と言って、
修行者もブッダにそう言われて安心して亡くなるみたいなケースが多かった気がする。 だいたい死ぬ寸前はブッダが彼に「叫ぶ呼びかけ問答」のパターン。
修行僧「痛い痛い苦しいです尊師よ!」ブッダ「xxは無常か?」修行僧「無常です尊師よ!」ブッダ「xxは無常か?」修行僧「無常です、尊師よ!」
で亡くなって「これで修行僧xxxは案じ終わったぞ。」のパターン。 と、急患で無い場合は「お前は戒を守り正しい生活を送ってきた、案ずることは何も無い」、と
彼をなだめるパターン。 患者が修行僧の場合は「案ずることはない、お前は死後xx天界に生まれ変わるのだ」などということを言った経文を読んだことは一度も無かった。 在家信徒毒キノコチュンダの自殺の場合は
「私は尊師より先にニルヴァーナに行きたいと想います」と3度ブッダに懇願して
(恐らくブッダの前で)自殺したということなので、
ここで「じゃあ死ねばニルヴァーナにいけるの?(浄土真宗的思想?)」という疑問は残る。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/suicide_buddhism.html そうかといえば、コーカーリヤやダイバダッタのような話もあるわけで、
この辺りはそれこそ宿命通が生じていない自分にはなんとも言えない。 死んだらもれなく涅槃へ行けるんかな?チュンダの場合を見てるとそうとしか思えない。 >>198
「尊師よ。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、
サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、
死んでから紅蓮地獄に生まれました。」
サハー世界の主・梵天はこのように言った。
このように言ってから、師に敬礼し、右まわりをして、その場で消え失せた。
さて、その夜が明けてから、師は、諸々の修行僧に告げて言われた、
「諸々の修行僧らよ。昨夜サハー世界の主である梵天が、夜半を過ぎた頃に、
麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、わたくしのいるところに来た。
それからわたくしに敬礼して傍らに立った。そうしてサハー世界の主である梵天は、
わたくしに告げていった。『尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。
修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して
敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました』と。
サハー世界の主である梵天はこのように言った。
http://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201410/article_26.html <仏説>
「そして、ついに私がその身の壊するに及んでは、
『わたしはいまわが命を終るのであるが、
これで一切の感覚を受けることはおわり、
もはやなにごとを享受することもなく、
わが身は冷たくなって、ここに遺骸となって横たわるのみである』
と知るのである」
相応部経典 「では、比丘たちよ、汝らに告げよう。諸行は壊法である。放逸なることなくして精進せよ」
この偈を説かれた後、世尊は初禅に入られました。
そして二禅、 三禅、四禅、空処、識処、無所有処、非想非非想処へと入られたのち、
滅尽正受の境地に入られました。
そこにいた大勢の人たちは 如来が身動きしなくなったのを見て、
世尊は涅槃に入られたのかと阿那律に尋ねました。
阿那律は答えました。「世尊はいま、滅尽正受に入られている」と。
そのとき如来は滅尽正受から出られ、 非想非非想処、無所有処、識処、
空処、四禅、三禅、二禅、初禅の 順に戻られました。
そしてまた初禅から二禅、三禅、四禅、空処、 識処、無所有処、非想非非想処、
滅尽正受の境地へと入られたのち、 その滅尽正受の境地で般涅槃されました。
大パリニッパーナ経
般涅槃に入られたことを断滅とするのならば、ブッダは『断滅論』者ということになってしまうし、
そうで無いとするなら、上記断滅論との矛盾が生じる。
このあたりが解釈が難しいが、
ここに>>181を持ち込めば、
「比丘たちよ、次のような善からぬ想いを思惟してはならない。
即ち断滅論、常住論がそれである。では何故、そのようなことを思惟しないがよいというのであろうか。
比丘たちよ、そのようなことを思惟することは、何の利益ももたらさず、梵行の出発点ともならず、
また、厭離、離貪、滅尽、寂静、証智、等覚、涅槃に役に立つもの、苦しみの消滅に役に立つもの、
でもない。比丘たちよ、汝らが思惟する時には、これは苦なり、と思惟するが良い、
これは苦の生起なり、と思惟するが良い、これは苦の滅尽である、と思惟するが良い。
それは何ゆえであろうか?比丘たちよ、それらのことを思惟することは、よく利益をもたらし、
梵行の出発点となり、また、厭離、離貪、滅尽、寂静、証智、等覚、涅槃に役に立つもの、
苦しみの消滅に役に立つものであるからである。
そのように勉励するのがよいのである。」
となって丸く収まる。 >>198
アジタ・ケーサカンバリンの教えだと死んだら明確に一切の苦しみはが終わるね >>202
新エネルギーいいね、実現できればの話だけど…
まあ基本、長老方の仏教以外の知識は話半分に聞いておくのが一番かな(^^; >>202
どうせ間違うのだからとっとと憲法改正して間違えたらまた変えればいいでしょう
↑これは日本の護憲派の政党や人物、左翼系市民団体へのメッセージなのかな?w >>204
EV車の充電コストとバッテリー交換のコストw
だいたいEV車に見合ったバッテリーはまだ開発途上だろう
「すぐにできる技術レベル」などと嘘をつくなよ長老w 長老は頭のネジが少々イカレてて暴走気味なので相手にしない方がいでしょう。 朕が国家也になりつつある。思いつきをいいたい放題。 >>179
思考してない時のことだから、言語化するとおかしくなる。
言語は思考を介することが不可避なので。
仏説に全部答え書いてあるよ。
そのまま読めば、それが全部答えだよ。 だからすごいんだよ。
ただ、無我だと説明されて、それが答えなのは分かったとして
悟ったわけじゃないので、だから修道が必要なんでしょう。
その修道についても説明できちゃうし、ブッダの仕業は、とにかく
知れば知るほど人間離れしている。 「言語化するとおかしくなる」というのは、
「(悟ってもいないオレが)言語化するとおかしくなる」だから。 >>210
別に言語化できる限界を越えて説明してと言ってるわけじゃ無い
瞑想の際の体験が仏説の何々という記述と一致した、とか
あるとき突然仏説はすべて正しいという確信を得た、とか
そのくらいでいいんですよ
その説明できる限界がどこなのかという事も大きな情報なんだから
ちなみに、自分(ID:5W6Zijc+)の場合は
呼吸の観察もできないけど
>>57
> 46が真理だとしても、それを具現化する方がとてつもなく難しいと思います
それゆえに
道元 普勧坐禅儀
…心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…
(余念を交えず、ただひたすら)只管打坐とかは難しい。ということでつ
それでも、最終的には
ttp://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
非想非非想処も超えて 想受滅
ttps://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れ
順々の正知による想滅定が生起する
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93
解脱智見
智慧と慈悲によって『解脱した』と知覚して住む
どのように拡大解釈するのか?
という問題があるかもしれないけど
とりあえず
>>169 >掴もうとしている想い
↓拡大解釈すれば?
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
智慧と慈悲が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
(掴もうとしている想いが依存している)無明している世界を手放していく
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
(掴もうとしている想いが依存している)無明している世界を手放して
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
たぶん、最終的には
純粋な canda(チャンダ)意欲。やる気も手放して
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ スッタニパータ4章5章では空無辺処も悲想悲悲想処も全く肯定的に解脱への道としてブッダの口から語られていたのに
中部経典になるとそれらは外道の教えでその解脱は一時的なものに過ぎず最終解脱には至らないとされるようになったのか?
おそらくは部派仏教時代に観行こそが仏教のアイデンティティという風潮が強まってヴィパッサナーという瞑想が確立され
ヴィパッサナーに比べると空無辺処も悲想悲悲想もまだ不完全ですよそれでは最終解脱できません
仏教でしか習得できないヴィパッサナー瞑想こそが解脱への一乗道という流れが出来てきての中部経典だと思う >>217
そのスッタニパータの874が、空無辺処も悲想悲悲想処のことでなく、
むしろそれを否定している(という(境地や)思いではないと)
ネット上の個人ブログでも読んだのでしょうか、誤認解釈です
ある境地に達することが悟りではない
www.nagoya30.net/study/basis/sakya_sramana.html
中部140「空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、
これらは作られたもの(境地)であると了知する。
(作られたものは無常であり壊滅する、無常なるものに執着しない)
有も非有も構想せず思念しない、構想せず思念しないので、世間において
何ものにも執着しない。
執着しないので恐れない 恐れないので自らまさに完全な安らぎに入る。
すなわち出生は尽きた。清らかな修行は完成された。為すべきことは無し終えた。
さらに、この世(輪廻の状態)に至ることは無いと了知する。」
↓ウィキペディアは間違ってる場合もあるかもしれないけど、とりあえず
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%80%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%97%E3%83%83%E3%82%BF
六師外道だったかもしれない
ウッダカ・ラーマプッタ
非想非非想
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
シッダールタは
非想非非想とかを満足することはできず
非想非非想とかも超えて
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し
よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである
として
四念処(四念住)の修行を実践するように
自灯明法灯明の教えを説いた 破戒僧のスマナサーラ長老みたいな偽物の外道が地獄に帰る。
そして、正法を説くまともな比丘戒を守る僧が日本に増える。
そんな釈尊の本懐に日本人が帰る日はあと何百年後だろう。
今は釈尊が許さない破戒僧が持ち込んだ外法が蔓延る誹謗正法の時代。
正しい情報があるにも関わらず。 >>216
答えてくれてありがとう。
しかしすごい頭やね。
僕はそれとそれを同じ旨にとらえるほどの頭は持ってなかったわ。
それ以前に、その経文を重要視せず流して読んでました(笑) >>218
その経文も武器をとることや(肉体・言葉による)暴力をあまり考えない僕にはあまり関心が無い。
たとえ、それがブッダの肉声であっても。
問題はどうすれば苦しみから逃れられるか?興味はその一点。 僕が読んだ経典によると、ブッダは無所有処も悲想悲悲想処に満足しなかった、
というのと、その境地を目指せ、という2つの少し矛盾したようなことが書かれていた。
そこで過程として無所有処、悲想悲悲想処を通って、最終的にはそこも抜けて、
最終的な処へ行け、なのかなと解釈していた。
しかし別の経文によると、無所有処、悲想悲悲想処無しに、只、第1禅〜4禅で次ニルヴァーナ、
のようなことも書いてあった。
しかし大パリニッパーナ経でブッダが死ぬ前にはブッダは、空無辺処も悲想悲悲想処....も通って
死んでいるので意味があるようにも思えるし、その辺謎です。 スマ長老は書籍などから推知してどうしても解脱しているようには思えないけれども、
別に極悪似非外道とも想わないけど....。
麻原絶頂期に「麻原は解脱していない!」といった長老は、(本当はそういうこと他人にいってはいけないのかもだけど)
たいしたもんだとは思う。 まあどのみち他心通を未だ獲得していない僕の言うことはなんのあてにも根拠にもならないのだけれど。 >>223
武器を執ること
を読んでないのがバレバレだわw
苦滅に至る重要な教えが非我を中心に全方向に具体的に説かれているのに
武器を執ること
http://suttanipata.com/aeaaayaaa/ >>225
「麻原は解脱していない!」といった長老は、その理由を述べたりしてますか 麻原はビートたけしとの討論で、たけしは不還果の生まれ変わりであるとか言ってるけど、
不還果って人間の世界には戻ってこないんでしょ?素人でも分かるよ。
麻原のビデオ見てる分には面白いけどねw
>不還果
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C
不還
欲界には還らず色界に上って…
不還果
3種の煩悩を断じ終った
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%95%8C
欲界・色界・無色界
色界
淫欲と食欲の2つの欲を離れた…純粋な物質
…四禅を修めた者が死後に生まれる世界
_ _ _
やはり
第一禅定〜第四禅定まで段階的に
ということでつね?にゃるほろ >>224
四禅定の初禅第一禅定が、観の修行によって達成される
https://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/a8b26d36773a50e8ae29f21fd7a80168
九次第定のプロセスは、倶分解脱に含まれるもので、
合理的な解脱プロセス、智慧の解脱の八正道は四禅定まで
止行の九次の想受滅定は涅槃そのものでない
八正道の四禅定と九次第定の四禅定とでは中身が異なっていた
結局、止行を極めても、その境地は無常で日常に戻れば壊滅するから、
解脱に至る道でないと説かれ、本筋の智慧の解脱を説いてるわけですよ >>232
見解とか 学問とか 知識とか
そして徳行とか そういうもので人が清らかになるとは 私はいわない
そして又
無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 人が清らかになるとは 私はいわない
そういうことをすべて捨てて 捉われず
拠り所など何も持たず この世のことに少しも望みをかけぬがよい
>>234 >この世のことに少しも望みをかけぬ
そのための
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93
解脱智見
(無明している世界を手放して)解脱した世界を知覚して住むこと
_ _ _
>学問とか
最終的には
すべて一切の諸法も手放しするにしても
その直前までは
上座部として実践するのなら
上座部としての教学も、とりあえずは勉強した方がよいと思うけど…
教学として勉強しないと
どのように
『空性を観察してよいのか?』わからないでしょ
(ティク・ナット・ハンとかの場合は大乗も勉強した方がよいかも…) >>234
龍樹さんも、言語での説明は必要って記している
説明がなければ、やり方も分からない、月を差す指だからね
法灯明は拠り所にせよ、最後まで大事に抱えてるなら手放せばいい あれ?ここってアレフ?
違う?
アレフのスレだよね? ゴエンカという人のヴィパッサナーを学ぶと個人のバイブレーションと宇宙のバイブレーションが一体化して宇宙に繋がることができるらしい
[ ゴエンカ 宇宙 バイブレーション ] で検索すると↓これが出て来る
ttp://www.ekayana-vihara.com/wp-content/uploads/2015/11/%E6%B0%B4%E6%BA%90%E7%A6%85%E5%B8%AB%E6%B3%95%E8%A9%B1%E9%9B%8641-2.pdf
ゴエンカ
…
涅槃からも、こっちをザーッといつでも助けてくれる
(涅槃の世界から → 縁起している世界を観照してる)
…
宇宙
…
バイブレーション
ttp://www.ekayana-vihara.com/wp-content/uploads/2013/09/suigen9.pdf
【参加者】
ゴエンカさんの場合だと、内臓を見るのではなくて
バイブレーションというか細かい感覚を観て行けと言われるのです
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%BC
宇宙に満ちている根源的エネルギーからの
↓
人体内に存在する根源的生命エネルギーへ
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
地水火風の微細な粒子の密集
_ _ _
↑バイブレーション? 水源禅師ってどうなの?
テーラワーダの修行もいろいろされたみたいだけど
話したり合宿参加した人いる?
参加したこともないし水源僧侶のこともわからないけど
とりあえず
ウィキペディア参照
水源
南方仏教(上座仏教)も北方仏教(大乗、密教)も、仏の教え一つ(一乗)である
ということを提唱し、宗派を問わずに、世界中で布教伝道・瞑想指導を行う
『Satipaṭṭhāna Sutta』(『念処経』、『四念処経』)のKāyanupassanā(身随観、マハシ系)
Vedanānupassanā(受随観、ゴエンカ系)
Ciṭṭānupassanā(心随観、禅・念仏系)
Dhammānupassanā(法随観、パオ系)などを指導している
_ _ _
密教否定・大乗否定じゃないのなら、よいのかも?
この水源僧侶の書籍を読んだことないので、わからないけど…
バイブレーション?
2.0ではなくて
3.0として
ttp://www.onedhamma.com/?p=5671
16/09/19 微細な感覚(バイブレーション?)
仮設としての
微細な感覚(バイブレーション?)を知覚して
そして、それから
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを
呼吸の観照に戻してくる要素があります
3.0としては
仏の世界に戻る帰る要素がある
それゆえに
3.0としても
第一禅定は必要である。ということであるらしい 10日間くらいの瞑想合宿に何回も参加する人って有給だけでは足りないと思うけど仕事はどうしてるの?
休職?それともニートで時間持て余している人が参加してるのか?
しかし、だ
何回も参加するのは瞑想合宿での体験が一時的で合宿から帰ってきたらまた悩み苦しみで悶々とした日を過ごしているからなんじゃないの?
それともヴィパッサナーというのは合宿中と同じく一日10日間近くやらないと苦を滅せられないとか?
何故わざわざ10日間も休みを取って何度も瞑想合宿に参加するのか?
瞑想合宿が身になってればそう何度も参加しなくてもいいはずだが 合宿に行くのは悪いことじゃないさ。
ただ、毎日自分でやらなければ意味ないけどね。
釈迦は
ウッダカラーマ・プッタの境地(非想非非想処定)と同じ境地に達したが
『瞑想合宿での体験が一時的で合宿から
帰ってきたらまた悩み苦しみで悶々とした日を過ごす』ので
これらを究極の境地として満足することはできず
これらでは人の煩悩を救ったり真の悟りを得ることはできないと覚った
それゆえに
非想非非想も超えて
無明している世界を手放しするための
四念処(四念住)とか
四神足とか
(無明している世界から)
『解脱した』と知覚して住む
解脱智見をもって
ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本
縁起したものを手放して
(縁起したものを離れて)
それこそが苦しみの終わりである
(それこそが「苦しい」と掴もうとしている想いの終わりである)
_ _ _
解脱智見の直前までは
『また悩み苦しみで悶々とした日を過ごす』
という場合もあるかもしれないけど
解脱智見の後は
有余涅槃とか・無余涅槃とか
ちなみに
涅槃の世界は
「苦しい」という想いではない >>245
運営の中の人は、運営するため。
3年ぐらい修行寺に籠もると、一定の成果は出せるらしい。
最低3ヶ月。
10日では見えてこない世界がある。 合宿には行ったことないけど、そんなに短期間で変わったら逆に怖いでしょう
10日でたどり着ける境地はせいぜい見清浄くらいかな スッタニパータの注釈を読むと、中村元は九次第定はスッタニパータの頃にはまだ成立してなかった論で一貫してるね ゴエンカさんの合宿行ったけど、そのときは転職の有給消化期間だった。
世界中旅行続けてる若いバックパッカーか、金もってそうな自営の人が多かった。
10日じゃ人間は変わらないと思った。
でも物にこだわることは少なくなったと思う。瞑想も好きになった。
指導の話では、10日はヴィパッサナーの効果を出す最短の期間であって、俗世に戻ってからも
一日朝晩一時間づつ、一年に1回はまた10日の合宿に来るようでないとみたいな話だった。
朝4:30から夜9:00まで、瞑想を一日10時間もやる合宿だったけど、案外座っているときは
時間が短く感じられた。
ただ、宗教的な法話が自分には受付けなかった。
瞑想の純粋性を守ることが大事みたいな話だったけど、苦の話を毎晩暗がりの中で1時間半も
聴いてると怖くなったよ。マントラは表面を清めるだけだとか
アーチャン・チャーやヨンゲイミンゲールリンポチェみたいな、ある意味諸宗教崇拝派のほうが
しっくりくる
>九次第定はスッタニパータの頃にはまだ成立してなかった
スッタニパータ 874
「ありのままに」と掴もうとしている想いも手放して
「想いなき」と掴もうとしている想いも手放して
「想いを消滅」と掴もうとしている想いも手放して
このように理解した者の形態は消滅する
けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るから
↓拡大解釈すれば?
無想定 − 想いなき
滅尽定 − 想いを消滅
と見ることもできるかもしれない
「想いを消滅」が必要ない。という意味ではなくて
『掴もうとしている想い』を手放して
そして、それが結果的には
智慧と慈悲をもって
(無明している世界から)『解脱した』と知覚して住む、解脱智見
>>256
たとえば、ゴエンカとかの
>宗教的な法話が自分には受付けなかった
アーチャン・チャーとか
(チベットの)ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェとかの
宗教崇拝派のほうがしっくりくる
という意味?
とりあえず
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99
宗教(religion)
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
仏教の場合は
(無明している世界を手放して、そして)涅槃
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
根本説一切有部律の厳格な戒律に基づく出家制度から
大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教
ちなみに
自分(ID:Qz1cMgbH)の場合は、チベットも肯定派でつ
ttp://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット ニンマ派 >>257
874(注釈) ありのままに想う者→詿によると、「ありのままに思う者」とは凡人であり、「誤って思う者」とは狂人であり、
「想いなきもの」とは滅尽定に入った人であり、「想いを消滅した者」とは四無色定を得ている者だというが、のちの教義を適用した趣がある。
ひろがりの意識→詿によると妄執と悪しき見解と慢心とのひろがりの意識をいう。
http://suttanipata.com/ae-2/
→のちの教義を適用した趣がある >>256
表面が清まるだけでも大したもんだと思うけどなあ(笑)
>>259
失礼いたしました m(_ _)m
滅尽定 − 想いなきもの
四無色定 − 想いを消滅した者
のちの教義を適用した趣がある
非想非非想を超えて
↓
解脱智見
(そして解脱智見も手放して?)
↓
スッタニパータ 21
(わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが)
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
↓
涅槃
こんな感じ? 学生ウパシーヴァの質問
1070(注釈) 無所有→無一物、何も存在しないことをいう。ここでは無所有処定を意味している。
ただし注釈が書かれた時にはすでに四無色定の観念が成立していたから、ブッダは無所有処定からさらに非想非非想定に入り、さらにそれを出て、より高い境地に入ったと説明している。
しかし、これは明らかに原文からそれた説明である。
諸々の疑惑を離れ→諸々の談論を離れと訳することもできる。ニルヴァーナというものは固定した境地ではなくて、〈動くもの〉である。
前掲の「妄執の消滅を昼夜に観ぜよ」という文章を解釈して、ブッダゴーサは「昼夜にニルヴァーナを盛んならしめて、観世よ」という(あるいは「ニルヴァーナを消滅させるものとなして」とも訳し得る)。
われわれが、ホッとくつろいだときには、その安らぎの境地を増大させることができる。
それと同時にニルヴァーナを栄えさせ、増大させるか、あるいは少なくとも作り出すことができるものだと解していたのである。
1071(注釈) 想いからの解脱→七等至のうちで最上のものである無所有処定をいう。さらに、ブッダゴーサは、それを梵天の世界と同一視している。
この原語を「想念のみ在する解脱」と訳することも、語学的には可能である。この解釈は、説一切有部や大乗仏教一般の教義学とは明らかに相違している(これらの学派の教義によると、梵天の世界は色界に属し、識無辺処や無所有処は無色界に属する)。
この相違の示すことは、ブッダゴーサも説一切有部も、最初期の仏教の思想をそのままには伝えていない、ということである。
ともかく無所有処には想念はないはずである。だからいずれにもせよ「想いからの解脱」と解する方が適当であろう。
http://suttanipata.com/acyaafaafafaaea/
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%80%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%97%E3%83%83%E3%82%BF
アーラーラ・カーラーマ
空無辺処?無所有処?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E7%84%A1%E8%BE%BA%E5%87%A6
空無辺処
物質を手放した世界
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%89%80%E6%9C%89%E5%87%A6
無所有処
すべて一切の諸法も手放して?
いかなるものも存在しない
何も存在しない
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E
アーラーラ・カーラーマ
北伝の
(大乗の)方広大荘厳経は無所有処とする
>注釈が書かれた時にはすでに四無色定の観念が成立していた
無所有処も
非想非非想処も
『のちの教義を適用した趣がある』ということかしらん?
その当時にも
無所有処とかが、有る方がよいと思うけど
とりあえず
第四禅定も手放して
(第四禅定も超えて)
↓
空無辺処?識無辺処?
(識無辺処 − 心定りて動かず)も手放して、超えて
↓
激流を克服して
(すべて一切の諸法も手放して)
すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
↓
涅槃
こんな感じ?
無所有処
すべて一切の諸法も手放して
いかなるものも存在しない
何も存在しない
『無所有処も手放して、超えて』も有った方が良いと思うけど…
『のちの教義を適用した趣がある』かもしれないけど
とりあえず
↓おまけ
ttps://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
粗い想 − 無所有処より劣る、識無辺処などの諸想
諸々の想 − 無所有処
粗い想 も手放して
諸々の想も手放して
滅に触れて
順々の正知による想滅定が生起する
ttp://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten01.htm
有想を捨てるが故に非想といい、無想を捨てるが故に非非想という
非想非非想
『想う』という想いも手放して
『想わない』という想いも手放していく
識無辺処定
識は無限大なり
内の識に縁じ、心識を無辺の解と為し、心と無辺の識と相応する
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出している
(最終的には阿羅耶識もまた空性である) 禅定に入るとんび? ttps://www.youtube.com/watch?v=wqc7vcR4Fqg 「手放して」が流行っているみたいだけど、これはジュナの中論からかしら。
スッタニの文では「手放して」のようには記述されていない。 第一、その「手放して」がけっこう感覚的にわかりにくいんだよなあ。 ゴエンカ氏の本読んだけど、なんかちょっと仏説とズレてる感じがした。読めば分かる。 そんなことないよ。
ゴエンカさんところでやっているのは身随観。
10日間で解脱なんて無理だから四念処の始めの部分を
やらせている。
「後は家に帰っても朝晩1時間づつやれよな」
と言ってる。
マハシも色々言われるけど、パオのようにサマタでサマーディに
辿り着くのは容易でないのを知っているから、最初から
ヴィパッサナーをやらせる。
一般人にはこのほうが親切だと思うな。
>スッタニの文では「手放して」
↓拡大解釈すれば?
スッタニパータ 772
窟のうちにとどまり、執着し
多くの煩悩に覆われ、迷妄のうちに沈没している人
このような人は、実に厭離から遠く隔たっている
(仮設としての)
実に世の中にありながら欲望を
[ 手放して ] 捨て去ることは、容易ではない
それゆえに
>「手放して」がけっこう感覚的にわかりにくい?
仏道への障害がある
有覆無記の
我癡・我見・我慢・我愛を手放しするのは難しい?
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
無明と渇愛が絡み合って
無始なる過去から(輪廻を繰り返して)
終わりなく苦しみをつくり出しています うーん、ゴエンカ氏の読むとね、よく覚えてないけど「1刹那、1秒間の間に原子だかなんだかが、
絶え間なく生じては滅することが全て観える」などの表現があって、仏典にそんなのなかったし、
何か、申し訳ないけど嘘くさく感じた。なんか違うだろう、と。
ついていけなかった。単なる勘だからゴエンカ先生が正しいかもしれない。
ゴエンカ先生と同じく観える人がいるなら信じたらいい。 >1秒間の間に原子だかなんだかが、
絶え間なく生じては滅する
刹那滅だね。
ゴエンカさんの本は私も読んだけど、訳し方が普通の仏教書
とちょっと違うよね。
「渇愛」を「渇望」とか。
それとサンカーラ(行)をよく使う。
訳者があまり漢字の仏教用語を使わないようにしているから
ちょっと違和感がある。 >>258
すみません。自分も同意見だと思います。
ゴエンカさんの法話で自分がきつかった部分というのは、あくまで自分だけが感じたのかも
知れませんが、他宗教や他の瞑想法否定の色合いの濃さや、失敗例の強調(「あれだけ警告したのに
マントラとヴィパッサナーを混ぜ合わせて頭がおかしくなった人の例がある」とか)、
あと、とりわけ苦の強調でした。「胎児は10ヶ月も動きがとれず苦しみぬいている」とか、めっさ気が重くなりました。
瞑想か苦かの二元性の強調というか。
あなたの提示された「人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする」なにかへ至る路はヴィパッサナのみで、
それをするかしないかで、「ベストかワーストか」の二者択一しかないみたいな印象を受けました。
この二者択一性は、「悟らなくってもいいじゃないか」という本の中で、ジャック・コーンフィールドが
マハーシ式の指導を受けたときに感じたテーラワーダの「二元性」というものかと思いました。
それで、最近アーチャンチャーやウ・ジョーティカ師の本を読むと、現段階を否定せず、あくまでも現段階を基準に
「ベター」を続けよう、という大らかさと、他宗教の素晴らしさも肯定的に語っているところに安心を感じました。
ジャック・コーンフィールドは、瞑想センターを作るときに、ゴエンカ師から「瞑想法をたくさん取り混ぜるのは
悪魔の所業」と非難されたそうですが、アーチャン・チャー師は来訪するなどバックアップがあったそうですね まあいろいろ書きましたが、ゴエンカ師の非難ではありません。
なにより合宿での指導者の方の人格や瞑想指導法は素晴らしかった!
瞑想自体も合宿中にいろいろな内面の変化もあったし、合宿後もさまざまなこだわりが取れて生きるのが楽になりました。
ただ、人間はカルマで出来ているようなものなので、10日で全てが終わるものでもないし、
10日の合宿にいかず、毎日5分の瞑想が役に立たないかといえばそうではないと思います。
個人的には、ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェの言うような、「少量頻回、瞑想を思い出すだけでもう瞑想」が
大変効果があると思います。
ゴエンカ式の非難のような形になりましたが、複雑な歴史や政治、宗教史的な背景のなかで、
瞑想法の純粋性をドラスティックに保持していくためには、ある程度ドグマチックになることは必然なのかと理解しています。
それだけの深みと効果があるものだ、ってことで。 それで、ゴエンカ氏が「私は解脱sているが」とおっしゃるならなんですが、
どうもそこははっきりいいなさらない。
「なんじゃい。あーだーこーだいいながら結局あんた解脱してないんかーい」と、
そこでこ難しいあの説明が、僕の中で(意味の無いものとして)崩壊しました。 近現代の上座部の人で解脱してるとか阿羅漢だとか自分で言った人いるの?
戒律で言ってはいけないことになってるとかそういうのは抜きで >>275
指導の場面の様々な言葉を、
「おしえ」として聴くか(受け止めているか)、
「(日常の)精神安定のテクニック」として聴くか(受け止めているか)、
によって、「苦」を始め様々な教義、術語の印象は違うと思うよ。
(Sn.ダニヤの章に象徴されるが如く)
一般人は「人生楽ありゃ苦あり、苦ありゃ楽あり」でいいけど、
仏道を歩むなら「一切皆(行)苦」でなきゃ駄目じゃない? ブッダもアヌルッダもあのヴァンギーサさえ、解脱自称しているのに、「解脱発表いけないことになっている」
は、「解脱者がでない教団の口実」にしか聞こえない。 >>278
ゴエンカさんが言ったらしいよ
後で勘違いだったよって訂正したらしいけど
ゴエンカさんかわいい >>282
かわいい .*:.。.:*・゚(n・∀・)η゚・*:.。.:*!!☆
そういう増徴慢心で間違えて「解脱した」っていってしまったのは仏教の戒律で許されるって律蔵に書いてある。
麻原・大川のように「確信犯」で「解脱した」と言うのは破門になっておおごとになる、って書かれている。
↓実践したことがないので、わからないけど
ttps://ameblo.jp/morfo/entry-10910069844.html
ゴエンカ
…
…この瞑想を続けるうちに
微細な感覚が波動ように高速度で生滅することを感じるようになります
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
パオ・セヤドー
…
(地水火風の)微細な粒子の密集
_ _ _
…
微細な感覚って、どんな感じ? >>284
その辺の説明が胡散臭くて僕はゴエンカを見切った。
ブッダならもっとうまく語るよ、と思って。
あるいはわかった人ならもっと誰でもわかりやすい書き方できるよ、と思って。 まあブッダも微細とか粗雑なとかの表現はしてるけど、
「微細な感覚が波動のように高速度で生滅する」みたいなの「ねえよ」と思って。
ttps://ameblo.jp/morfo/entry-10910069844.html
ゴエンカ
…
安般念によって精神集中(サマタ・止)の訓練をします
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
パオ・セヤドー
…
第一禅定
止(サマタ禅定)をもって
「どこかへ飛んでいってしまう心の働き」の世界から
↓
『呼吸を観照する』世界へ戻す要素がある
止(サマタ禅定)の世界に戻る帰る
それでも
仮設としての
縁起している
呼吸が観照されているので
止(サマタ禅定)を前提とした
観(ヴィパッサナー智慧)という感じなのかしらん? 仏典を読むと、阿含経読んでも、パーリ聖典読んでも、長部経典読んでも、
戒→ヴィッパサナー→初禅〜四禅→解脱・解脱知見しか書いてないけど、
これで解脱するのなら、もっと仏教栄えているはずなんだ。
でも戒→ヴィッパサナー→初禅〜四禅→解脱・解脱知見、ならんのよ。
戒→ヴィッパサナー→初禅→2禅→木阿弥、程度。
何故だろうね。あのブッダが嘘つくわけないし、経文も困った時のことも書いてあるし、
わからん。あきらめつつある今日このごろ。
詐欺師自称解脱者麻原にあれだけ弟子がついたのはよくわかるわ。
現にまのあたりに解脱した指導者がいないと、駄目だ。なんでかわかんないけど駄目な気がする。
とはいえ、本当の解脱者が現にこの世にいるかわからないし、いたとしても、
その真偽を確かめる目も無いし....。
世俗は捨てたし、今更戻るとこ無いし、自殺大涅槃しかおもいつかん(笑)
スッタニパータ 805
人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ
(自己の)所有しているものは常住ではないからである
この世のものは 『 変滅する 』 ものである
ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349
大念住経(大念処経)
地の要素・水の要素・火の要素・風の要素がある
_ _ _
スッタニパータ 805と、大念処経をくっつけて
仮設としての
縁起に依存して
地水火風の微細な粒子も 『 現れ、そして滅している 』 ので
それゆえに
(地水火風の微細な粒子に依存している)
すべて一切の諸法も 『 現れ、そして滅している 』
↑ちっと無理があるかしらん?
>自殺大涅槃しかおもいつかん
輪廻否定の場合は、どうなのか?わからないけど
とりあえず
「仮設としての」という意味で
輪廻肯定の場合は
仮設としての
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して
来世に戻り現れる(かもしれない)ので
ということなので?
とりあえず
自殺は、やめといた方がよいでしょう? カラーパが消滅してるのは分かるけど、そのカラーパの中に地水火風のエレメントを見る
って言う見方が分からない。1回に4時間位瞑想やらないとダメなのか? ↓実践したことないけど、とりあえず
ttps://ameblo.jp/morfo/entry-10938527137.html
パオ流
四界分別観
たとえば仮に
歯 → 硬さ → 地の微細な粒子
もっと更に分解して
最小単位の微細な粒子に分解して
最終的には、手放して
(最小単位の微細な粒子を)
その辺りに漂わせておくようにして自然に消えていくのを見届けて
最終的には
(無明している世界も手放して)
その辺りに漂わせておくようにして自然に消えていくのを見届けて
そして解脱智見とか? かなり詳しくやらないと無理みたいですね。カラーパが、物質を構成してるのか心を構成してるのか
良くわからないんです。目を閉じるとすごい数の粒子が点滅してるのは分かるんですけど。
"四界分別観は身体が四大に過ぎないことを知る瞑想法です"と書いてあるから物質と言うか
身体なのかな?
>>292の補足
たとえば仮に
『のちの教義を適用した趣があった』としても
それでも、とりあえず
第一禅定〜第四禅定とかも実践した方がよいと思うけど…
ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349
大念住経(大念処経)
…
(仮設としての)
この身体には
髪、毛、爪、歯、皮、肉、筋、骨、髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、
脾臓、肺臓、胃、腸、胃の中の食べ物、大便、胆汁、啖、膿汁、
血、汗、脂肪、涙、血精、唾、鼻汁、関節滑液、脳漿、小便がある
…
(仮設としての、縁起に依存している)
すべて一切の諸法にも
地の要素 、水の要素、火の要素、風の要素がある
最終的には
『微細な粒子も自性ではない』として
掴もうとしている想いも手放していく
>物質と言うか身体なのかな?
たとえば仮に
空無辺処
物質的存在が無い世界
一切の物質的な形を(手放し)離れ、一切の作意のない、無辺の空を観じる
識無辺処
三世(過去・現在・未来)の識が悉く、定中に現じて清浄寂静なる果報をいう
無所有処
何も存在しないと観察し達観する
非想非非想処
想でもなく・非想でもない
最終的には
非想非非想も手放し
非想非非想も越えていく
やっぱり↑これも実践した方がよいかも?
(『のちの教義を適用した趣があった』としても、それでも、とりあえず…)
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
光り輝いている仏性からの智慧をもって
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
頭(無明)を裂け落とさせるものである
1119
つねによく気をつけ
自我に固執する見解を(手放し)うち破って
仮設としての
縁起に依存している
無明している
すべて一切の諸法を『空性である』と観照せよ
空性である
それゆえに
「我所」という想いでもない
「我」という想いでもない
「主客分別」という想いでもない
「我は想う」という想いでもない
「我は想わない」という想いでもない
中観自立派
…
誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています
これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり
すなわち火の自相なのです
− これに対して −
中観帰謬派
…分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに
中観自立派の言う「誰も気づいていない山火事」も
いま我らによって
(「自相(自性)がある」を前提として)分別されている
自相(自性)があるから
誰も気づいていない山火事が起きるのではなくて
(自相(自性)ではなくて)
仮設としての
縁起に依存しているからこそ
(空性であるからこそ)
誰も気づいていない山火事が現れ、そして滅していく
それゆえに、中観帰謬派の場合は
世俗の次元においても、自相(自性)を否定します
上座部の場合も
(縁起に依存しているので、それゆえに)我ではない >>281
だから、
精神安定剤としての日常的テクニックだけ学べればいい
という人(275)にとっては、仏説の根幹なんてどうでもいいってことでしょ。
ttp://www.j-theravada.net/kogi/kogi79.html
無常
…
桜の花が散るのを見て「無常だなあ」と喜んでいながら
自分のことになった途端に「そんなはずはない」と
仮設としての
掴もうとする想いが現れる(そして滅する)
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-dukkha.html
DUKKHA 苦 ドゥッカ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%8B%A6%E5%85%AB%E8%8B%A6
生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦
ttp://www.j-theravada.net/howa/howa163.html
我とは変化しない常住たる実体
ところがどっこい
仮設としての
縁起に依存している世界の中においては
すべて一切の諸法も
縁起に依存して
現れ滅して変化している
無常であり
それゆえに
変化しないものではない
我ではない → 無我
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%A0%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86
すべて一切の諸法も空性なので
自性ではない・独一性でもない・独存性でもない
それゆえに
本来は、すべて平等である
本来は、仏陀と一般の人々が平等である
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
光り輝いている(仏そのもの)に
(無明に依存している)煩悩とかが取り憑いている
それゆえに
たとえば
上座部とかの場合は
菩提分法とかをもって
「無明している世界を手放して」と導いていく
光り輝いている(仏そのもの)を知覚して
光り輝いている(仏そのもの)に住む
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
パオ・セヤドー
智慧の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます ヴィパッサナー瞑想というのは要するに過去の後悔や未来の負の妄想で悶々としているのを呼吸に意識を向けることで意識を変えて誤魔化すことです
起きている間ずっと後悔や妄想といった思考の渦に巻き込まれそうな時に呼吸に意識を向ければ誤魔化し続けることも可能でしょう
しかし意識だけではなく現状を変えるために何かアクションを起こさなければ世間で生きてく上での辛さというのは結局は解消されないでしょう
呼吸に意識を向けている時に起こった思考に善悪の判断をつけないことで引っ込み思案が解消され行動でしるようになるかどうか?
いくら洞察智なるものがたとえ身についてきたとしても行動力を伴わない洞察智では慰みにしかならないでしょう
そんな瞑想よりは抗うつ剤飲んだ方がよほど確実に苦を滅することができる
また毎日朝晩一時間ずつというのも独身でフリーターならまだしも家族持ち正社員にはハードルが高い
それなら神仏に悩みを告白しその解決への努力に対しての助力を求める方が具体的だし時間もかからない
ヴィパッサナー瞑想での苦滅は簡単ではないと思う
坐禅など他の瞑想でも同じだけど
むしろ抗うつ剤の補助として瞑想をするほうが時間的制約もそれほどではないだろうから特に既婚者にとっては現実的
但し抗うつ剤を手に入れるために病院などに行くか代理店から購入する必要はあるがね
>抗うつ剤の補助として瞑想をする
↓効果があるのか?わからないけど、とりあえず
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E4%B8%96%E7%99%82%E6%B3%95
前世療法(past life therapy)
退行催眠により患者の記憶を本人の出産以前まで
誘導(=過去生退行)し、心的外傷等を取り除く(かもしれない?)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E6%80%A7%E6%84%8F%E8%AD%98%E7%8A%B6%E6%85%8B
変性意識状態(altered state of consciousness, ASC)
宇宙との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い
この体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈なもの
また催眠等による、非常にリラックスした状態
肯定的な効果をもたらす(かもしれない?)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E8%A1%8C%E5%8B%95%E7%99%82%E6%B3%95
認知行動療法(Cognitive behavioral therapy:CBT)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E7%99%82%E6%B3%95
マインドフルネス認知療法(Mindfulness-based cognitive therapy:MBCT)
心に浮かぶ思考や感情に従ったり、価値判断をするのではなく
ただ思考が湧いたことを(手放して)一歩離れて観察する
マインドフルネスの技法を取り入れ、否定的な考え、行動を繰り返(自動操縦)さないようにする
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0
フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
臨床心理学者により明らかにされた、心理療法 見たところ、本の知識羅列程度で、苦の消滅に関し具体的確かな体験を持っている人は、
このスレにいない、と悟った。
これなら読書と実践で十分である。
>苦の消滅に関し具体的確かな体験を持っている人
自分(ID:JNkI1FP4)の場合は
実際に実践として
呼吸の観照もできなかったけど…
たぶん日本には
(大乗を含めても)
解脱を知覚して
涅槃に住んでる(有余涅槃の)人は
少ないかもしれない(或いは、いないかもしれない?)
「本格的に」ということであれば
ミャンマーとか?
(大乗密教になるけど)チベットとか?
(ヒンドゥー系かもしれないけど)インドとか?まで逝ってみる?
現地に逝くのなら
>読書
解説書とかも読んだ方がよいかも? わざわざ書き込む時点で、同じレベル・同じ貉。 >>304
つか、それ以下か。 >>304
2号という人が原始仏典に書かれた修行法の実践で生きやすくなり仕事も上手くいくようになり異性の友達も増えたというようなレスをしていたと思った
>>304 >実践で十分である
>>308 >原始仏典に書かれた修行法の実践で
四界分別観とか
安那般那念(アーナーパーナ・サティ)とか
色々あると思うけど
どれを実践してるのかしらん?
ちなみに
自分の場合は
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ
フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)をしちょります 大ラーフラ教誡経
http://neti2.blog.so-net.ne.jp/2007-04-19
ここで釈迦が息子に説いていることはおまじないの類と大して変わりはないな
オカルトと言ってもよい
しかしヴィパッサナーというのは実況中継している時でも後悔や妄想に襲われるのに
実況中継をやめヴィパッサナーをやめればまた生得的な気質からくる悶々とした時間を過ごすことになる
これでは究極的な苦の滅にはならないのだよ
丹田呼吸とかでコルチゾールレベルを下げセロトニン神経を鍛え扁桃体の興奮を抑えるように心身を変えていく方が苦滅に繋がるし科学的なアプローチといえるのではないか
>>311のリンク先
色受想行識
地水火風空
喜
楽
滅尽
捨離
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定を支える五つの要素
五禅支の
三番目ピティ −喜びの要素
四番目スカ −幸せの要素
五番目エーカガター 1つの対象に集中していて心が散漫にならない一境性
段階的に進んで
第四禅定を知覚して
第四禅定に住んで
そして
第四禅定も手放して
更に次の段階へ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%B0
丹田(たんでん)
…意識と呼吸を…
_ _ _
上座部由来のものでなくても?
実際にやってみて
楽になるのなら
『苦しい!』を手放しできるのなら良いんジャマイカ?
ちなみに
自分(ID:YXGOZnyK)の場合は
第6のチャクラ − 眉間のところが
くすぐったい・むずむずする。を実践しちょります
眉間のところが
[くすぐったい・むずむずする]ときは
『苦しい!』と感じることは少ない
[むずむずしない]ときは
『苦しい!』という想いが現れる場合もある
仏道への障害がある
無明に依存して
有覆無記の渇愛(タンハー)に依存して
(それ自体、単独で成立している苦しみは)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している苦しみが)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存して
それゆえに
>ヴィパッサナーをやめればまた生得的な気質からくる悶々とした時間を過ごす
「苦しい」という想いは
たとえば
過去からの想いに依存しているので
それゆえに
それ自体、単独で成立しているのではない
縁起に依存している
仮の現れで『空性である』という意味でつ
それゆえに
『本格的に!』ということであれば
中観帰謬派のような教学も勉強した方がよいかも? 苦しいという想いは空であり実体がないだとか
苦しいという想いは無常苦無我であるだとか
極端なのになると苦しいと想っている自分は本当はいないだとか
そういう誤魔化しばかりしてるから仏教は駄目なんだ
たとえば
方便を
「嘘、偽り、インチキ」と勘違いしてる人もいるけど
「嘘、偽り、インチキ」ではなくて
衆生を教え導く手段・方法
仮設としての
仮に設けた導き
ちなみに上座部も
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/03/082823
上座部 パオ・セヤドー
無常・苦・無我の本質を透視しなければなりません
_ _ _
中観自立派の段階として
[仮設としての]という意味で
地水火風空識の微細な粒子を観照して
そして
地水火風空識の微細な粒子も手放して
無明している世界を手放して → 中観帰謬派の段階へ 涅槃へ
縁起したものを手放し離れて
それこそが苦しみの終わりである
苦の本質を透視する、そのための方法として
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
光り輝いている智慧をもって
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
頭(無明)を裂け落とさせるものである
1119
つねによく気をつけ
自我に固執する見解を手放し、うち破って
縁起に依存している
無明している、すべて一切の諸法を手放して『空性である』と観照せよ
マインドフルネス
何か雑念が出てきたことに気づいても
雑念を手放して、その辺りに漂わせておくようにして
(空性であるからこそ、それゆえに)自然に消えていくのを見届けます
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
(無明している世界を手放しているのなら)もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ >>317
空を感ずるとき、もちろん、人間も含めなければならないことに気をつけよう
あなたの親も、妻子も、上司も部下も、隣人も、友人も、
そして、忘れてはいけない
憎き敵も
空である
空であるというのは、存在していない
という意味だろう
人間も空である
>苦しいと想っている自分はいない
>そういう誤魔化しばかりしてるから仏教は駄目なんだ
中観自立派の段階として
『仮設としての』という意味で
地水火風空識の微細な粒子を観照して
そして
次の段階で
中観帰謬派として
地水火風空識の微細な粒子も手放して
>>318も含めて
外界にあると認識してるものも
自分の意識も
すべて一切の諸法も手放して
無明している世界を手放して
解脱を知覚して − 涅槃に住むこと
ということでつね?
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m >>319
解脱するとは一切が空であると意思が停止した状態である
涅槃にいるという認識はない
一切が空であるとは、すべてを、受け入れることのできることであり
自分が存在しないというのは、抵抗が存在しないことです
そこでは世界はなくなるどころが一体となって非常に新鮮で生き生きとしたものとなります
まあ勝手な話
『のちの教義を適用した趣がある』かもしれないけど
それでも、とりあえず
実有ではなくて
『仮設としての』という意味で、たとえば
ttp://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten01.htm
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A0%82%E5%A4%A9
有想を捨てるが故に非想といい、無想を捨てるが故に非非想という
非想非非想の世界
有頂天の世界
ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6
その当時のインドの人々にとって、仏教を理解せしめるためには
その当時の世間的な
一般的な『思い』を認めて、その理解のうえで
その当時の人々に理解せしめる。というやり方がとられねばならなかった
_ _ _
たとえば
『有頂天の世界へいきましょう』と導いて
そして、更に
『有頂天の世界も超えて → 涅槃へいきましょう』と導いていく
(その当時の世間的な『思い』を認めて、その理解のうえで…) タイでは日本よりも犯罪が多く発生している原因は簡単には説明できない。
日本にはない貧困から来ているという所もあるだろう。
もしくは日本人が本当に優れた民族なのかもしれない。
答えは分からない。
しかし、仏教の良い教えを強く信仰しているはずのタイの方が日本以上に犯罪が起こっている。
これは矛盾している点と言えるかもしれない。
そして、タンブンを自分のいいように解釈しているタイ人が多いのも実情だ。
人を騙してもタンブンをすればチャラになる。
悪い事をしてもタンブンをすれば水に流せる。
このように考えているタイ人も多い事は事実だ。
http://thaisbaby.com/?p=2674
これは親鸞が出た当時の念佛宗の本願ぼこりと同じだな
親鸞自身は本願ぼこりを諌めていたがタイの僧侶でもこのタンブンぼこり?を諌めたりしているのかな?
問題は本願ぼこりは主に念仏僧がしていたことだがタンブンぼこりは在家の人がしている?ので指導が行き届くかだな
ってか本願ぼこりにしても親鸞の諌めも虚しく好んで悪事を働く僧侶がけっこういたんだけどね
>親鸞の諌めも虚しく好んで悪事を働く僧侶がけっこういた
たとえば仮に
「悪いことをしている」と知覚して、悪事をしているのなら
「来世に因縁果報が現れる」ということを理解してない
或いは
来世のことよりも
今この瞬間を
「(悪事をしてでも)楽をしよう、楽しもう」という実践をしていたのかもしれない
夢、幻のような『空性』であるのなら
(悪事をしてでも)
「おもしろ、おかしく生きてやろう」という実践をしていた人もいるのかもしれない
これも
仏道への障害がある
(無明に依存している)
有覆無記の渇愛(タンハー)に依存して…ということかもしれない
日本には
(大乗を含めても)
解脱を知覚して
涅槃に住んでる(有余涅槃の)人は
少ない(或いは、いない)と思うけど
タイとかも
(大乗を含めても)
解脱を知覚して
涅槃に住んでる(有余涅槃の)人は
少ない(或いは、いない)のかもしれない
それゆえに
その結果として
犯罪が多く発生する場合もある?
とりあえず
今この現代においては
タイとかよりも
日本の方が治安がよいらしい?
仮設としての
縁起している『空性』なので
これから日本も治安が悪くなる場合もあるかも?
ちなみに
自分(ID:Pq71YsUy)の場合は
2020年7月〜8月頃までの
日本で開催される予定のオリンピックは反対派でつ
犯罪とか
事件・事故とかの加害者(被害者)が
増加する場合があるかもしれないので…
(日本以外の)
どこか外国でやってくれないかしらん? 怒りを感じた時
不安を感じた時
嫌悪を感じた時
イライラを感じた時
感じたことに気づき「私は今怒っている」と客観的にしていれば怒りは消えるという
しかし怒った原因が理不尽なものによるのだったらまた怒りは再発するだろう
その都度「私は今怒っている」と客観視しても相手からの謝罪などがない限りまた怒りは再発するだろう
不安に至っては本人の気質の問題ではどうにもならない不安の種が現にあるならば客観視したところで
不安の種を取り除く具体的現実的解決策を見出さなければまた不安に陥るだろう
それまではひたすらヴィパッサナーで現実を受け入れつつ逃避していくしかないのだろうか?
テーラワーダの教えでは
『のちの教義を適用した趣がある』かもしれないけど
それでも、とりあえず
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第四禅定
ものごとの好き嫌いを判断しない、完全な平等性の要素を見ます
(強制的にということではなくて)
(掴むことではなくて)
智慧をもって
自然に
好き嫌いを判断しない
平等の智慧の世界に戻る
そして、この
第四禅定の世界も手放して
次の段階に進んで、そして手放して
解脱を知覚して
涅槃に住む
その直前までは
>>328 >それまでは
『止観をもって』ということかもしれない
(戒・定・慧・解脱・解脱知見)
>>330 のリンク先に
「禅宗では、ブッダの教えに手を加えすぎ」と書いてあるけど
日本の禅宗の場合は「菩提分法を省いている」
根本仏典の止観を省いて
(中国経由の?)止をもって
道元 普勧坐禅儀
そもそも仏法というものは
円満にゆきわたっており
(根本仏典の菩提分法の実践とかも)
修行したり、悟り証したりすることもない
物事の本然の姿は全て塵や汚れから離れたもので
その身そのままでよい
そして
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
(余念を交えず、ただひたすら座禅する)只管打坐
− これに対して −
ベトナム出身の
ティク・ナット・ハンとかの場合は
(根本仏典由来の?)マインドフルネスの実践とかも勧めている
ウィキペディアに
非想非非想のウッダカ・ラーマプッタは
六師外道(かもしれない?)。と書いてあるので
たとえば
好き嫌いを判断しない
平等性智の世界
第四禅定とかも
(或いは、マインドフルネスとかも?)
(根本仏典由来ではなくて、正確に書くと)
六師外道とかも含めて
ヒンドゥーとかの由来なのかもしれない
(六師外道とかも含めて)ヒンドゥーとかの由来なら
『そんな外道由来のものなど実践する気にならん』
という人もいるかもしれないけど
自分(ID:whqYXaPE)の場合は
(六師外道とかも含めて?)ヒンドゥーとかも肯定派でつ >>331
>道元 普勧坐禅儀
>そもそも仏法というものは
>円満にゆきわたっており
>(根本仏典の菩提分法の実践とかも)
>修行したり、悟り証したりすることもない
>物事の本然の姿は全て塵や汚れから離れたもので
>その身そのままでよい
デマ乙!
坐禅の奥義書『普勧坐禅儀』を現代語訳するとこうなる
http://www.zen-essay.com/entry/hukanzazengi
ただ、真理を悟ることに特別な技法は存在しないと言っても、真理を見つめる自分の眼に少しでも自分本位な部分があったなら、眼に映る世界は真実の世界からかけ離れたものになってしまうだろう。
真実を悟ったとか、自分の理解はすばらしいだとか、物事の本質を摑んだとか言って、有頂天になってしまったなら、それはもはや、真実を知る道を自分でふさいでしまったに等しい。
仏法を学ぶ者は当然知っているだろうが、かのブッダは6年間の苦行の末に坐禅を行い悟りを開いた。
ブッダの心を受け継いだ達磨禅師は、9年間もの長きにわたって壁に向かってひたすら坐禅をした。
昔の偉大な方々は、これほどまでに坐禅を重要視してきた。
我々が坐禅をしなくてよい道理など、あるはずもない。
人の言葉や書物の文字から真理を摑もうというのは、所詮、観念的な理解の域を出ないものだ。
外から何かを学ぼうというのではなく、坐禅によって、真理を自己の内側に求めるのでなければ、いつまでたっても真理を知ることはできないだろう。
身と心が坐禅となりきったとき、真理はありのままに目の前にあらわれる。
この道理を知りたいと思うならば、実際に坐禅をはじめる以外に方法はない。 おれ悟ったんだけどwww、何か相談ある?
あと、ブログよろしく!
http://blog.livedoor.jp/kosokeme/
>>334 さとりクン >おれ悟った
悟りの世界から → 縁起している世界を観照して
このリンク先のブログに書き込みしてる
ということなんでつか?
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
…さらに無の世界も超えて
悟りの世界から → 縁起している
移り行く世界の様を
平等性智をもって
ありのまま見つめている
こんな感じでつか? >>334 さとりクン師匠へ
>坐禅をはじめる以外に方法はない
(インドから→中国経由の?)
日本の禅宗 1.0とかの場合は
根本仏典の菩提分法とかを省いている
_ _ _
上座部 2.0の場合は
菩提分法の実践
_ _ _
ベトナム出身のティク・ナット・ハンとかの場合は
(根本仏典由来の?)マインドフルネスの実践とかも勧めている
禅僧 3.0?
マインドフルネスの実践とかも勧めているので
(中国経由の?)
日本の禅宗 1.0とは違うでしょ?
ということでつ
3.0の立場からすると
(仏の世界からの観照をもって)
真如縁起の説明を前提としてない
「上座部 2.0は説明不足である」といことで
仏性からの真如縁起 1.0をもって
上座部 2.0の菩提分法とかも実践していく
それが 3.0である
ということであるらしい
3.0にとっては
ヒンドゥーも
上座部 2.0も
大乗の
中観自立派 2.0も
中観帰謬派 1.0も
密教 3.0も必要である
ということであるらしい >>335
ではこちらで
しかしながらほんの僅かでも方向性を誤れば天と地ほども悟りから隔たってしまうのであり、僅かでも分別心が生ずればたちまちに本心を失ってしまうものである。
たとえ、自らの仏法の理解を誇ったり、悟りを多く重ねたと自負し、僅かな智慧と通力をもって仏道を得た、心を明らめたといって有頂天になって騒いでみても、
それはほとんど自らの解脱の道をふさいでしまっているのに等しいのだ。
言うまでもなく、彼(か)のお釈迦様がお悟りを開かれるまで六年間端座された事蹟は誰もが知っている。
また面壁九年といわれる達磨大師の修行は今尚その名声が聞かれるのである。
昔の聖人でさえ、これほど修行をされたのに今の人が何故修行しないでよいはずがあろう。
それゆえに、書物などの言葉を研究し理解しようとするような自己の外へ向かっての行はやめるべきであり、自らの内に向かって光を当て悟りを照らし出す行をするべきである。
そのとき、身も心も自然に意識から脱落して、自らの本来の面目が現前するであろう。
そうした悟りを得ようと思うなら、さっそくそのことつまり坐禅に務めるがよい。
http://enlighten.fc2web.com/fukanzazengi.html
1.0 − 仏そのもの
2.0 − 有為法の世界
3.0 − 仏の世界から→有為法している世界を観照する
という感じであるらしい
無明している世界を手放して
そして、それから
仏そのものに戻る帰る
そのための
(余念を交えず、ただひたすら座禅する)只管打坐 1.0
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
五禅支の一番目
ヴィタッカ(尋)の智慧をもって
どこかへ飛んでいってしまう心の世界から
↓
呼吸の観照に戻る要素がある
呼吸の観照をもって
五禅支の一番目のヴィタッカ(尋)の世界に戻る帰る
(最終的には → 仏そのものへ)
『1.0よりも、上座部 2.0の方が段階が細かく設定されている』ということ
>書物などの言葉を研究し理解しようとするような自己の外へ向かっての行はやめるべきであり
これで
たとえば
なんちゃって覚者とかの人が
『教学とかは必要がない』と勘違いしてる人がいるけど
上座部の場合は
四界分別観とか
空性の観照とかの実践をするための
四界分別観とは何か?
空性とは何か?を
教学として勉強して理解して
そして、それから
止(サマタ禅定)
観(ヴィパッサナー智慧)へと進んでいく
というような順番・段階があるのでつ
(最終的には、すべて一切の諸法も手放していくけど…)
正しい智慧の実践をするための
教学を勉強して理解して
そして、それから
戒・定・慧・解脱・解脱知見
たとえば
定とは何か?
慧とは何か?
解脱とは何か?
解脱知見とは何か?
(教学を理解することなしに)
何を?
どのように?
実践するのか?
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて…
無明とは何か?
明知とは何か?
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
信仰とは何か?
念いとは何か?
精神統一とは何か?
意欲とは何か?
努力とは何か?
頭(無明)を裂け落とさせるものとは何か?
1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ
たとえばこの場合の
世界は
有為法の世界のことだけど
そうすると今度は
有為法の世界とは何か?
これを理解することなしに
何を?どのように?
縁起を観照することができるのか?
>四大(地水火風)が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりに過ぎないのじゃ
何のために
四界分別観を実践するのか?
仮設としての
地水火風の微細な粒子に依存して
縁起している、すべて一切の諸法も
色受想行識の仮和合も
現れている(そして滅している)
縁起している、すべて一切の諸法も
色受想行識の仮和合も
地水火風の微細な粒子に分解して
最終的には?
地水火風の微細な粒子も手放して滅していく
縁起している、すべて一切の諸法も
色受想行識の仮和合も
手放して滅していく
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
無明滅 → 行滅 → 識滅 → 「苦しい!」という想いも(手放して)滅していく
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/966
966 2018/03/12(月) ID:Lq3OS0iW
「無明がどーたら」には関心は無い
現世、生存中に「苦しみを滅ぼす」ということにしか興味が無い
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
(仮設としての)
無明が生起するが故に、五蘊が生起する
無明に依存して「苦しい!」という想いが現れる(そして滅していく)
ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6
その当時のインドの人々にとって、仏教を理解せしめるためには
その当時の世間的な
一般的な『思い』を認めて、その理解のうえで
その当時の人々に理解せしめる。というやり方がとられねばならなかった
「苦しい!」という想いは、無明に依存しているので
『無明している世界を手放して解脱しましょう』と導いていく
ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
『無明を手放すことが → 苦を手放し滅していく』は、つながっている 346.
手放す、ことができる、と思っているバカである。
>手放す、ことができる、と思っている
たとえば
想いを手放しするための
四神足の智慧
自在力(神通力)をもって
掴もうとしている想いを手放していく
最終的には?
スッタニパータ 21
激流を克服して
「手放しする」という想いも手放して
すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
仮設としての
渇愛(タンハー)は
仏道への障害がある有覆無記なので
誰もが成仏するわけではない(五性各別)
(有覆無記の渇愛(タンハー)が依存している)
無明している世界を手放して
自在力(神通力)
四神足の智慧をもって
円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照する >海馬が疲れる
ウィキペディア参照
心理的ストレスを受け続けると
海馬の神経細胞が破壊され、海馬が萎縮する
心的外傷後ストレス障害(PTSD)・うつ病の患者にはその萎縮が確認される
=^・ ・^= にゃるほろ。ご教示ありがとうございます m(_ _)m
↓怪しいサイトかもしれないけど、とりあえず
ttp://michirich.com/deep-consciousness/
深層意識は潜在意識のさらに深い部分
深層意識は潜在意識の一部
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91#%E8%B6%85%E8%87%AA%E6%88%91
フロイトは
「自我」という概念と
「『自我』による自己愛的な満足を監視する、我々が良心と呼ぶ特別な精神的装置」
という概念との組み合わせから、この「超自我」という概念を発展させた
超自我は、イドとは反対方向に働く
イドは、その場の自己満足を求める
_ _ _
仏教の場合は、我ではない・無我だけど。それでも、とりあえず
たとえば
五禅支の一番目
ヴィタッカ(尋)の世界から → 呼吸を観照する
超自我の世界から → イドの世界を観照する
1960年頃後半に
ヒッピー(Hippie)の影響で
インドとか
チベットとか
宇宙に満ちている根源の世界から
↓
人体内に存在する根源的生命を観る
というような影響を受けて
「自我」という概念と
「『自我』による自己愛的な満足を監視する、我々が良心と呼ぶ特別な精神的装置」
「超自我」
みたいな感じになったのかもしれない
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99
宗教(religion)
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
人間の力や自然の力を超えた − (宇宙に満ちている)超自我みたいな感じ?
>>351 訂正して、お詫び申し上げます
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88
ジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856年5月6日 – 1939年9月23日)
なので
『 1960年頃以降のヒッピー(Hippie)の影響で 』
というのは
間違いでつ
失礼いたしました スマソ m(_ _)m あいかわらず「おじゃる」の嫌がらせが続いているな。
教則本を読むだけでピアノが弾けるようになると思ってる。
そんなだから何を書いても文字が浮ついている。
瞑想をしろ、瞑想を。
水に飛び込まなければ泳げるようにはならんぞ。
>瞑想をしろ、瞑想を
実際に実践して、そして
『呼吸の観照ができない』ということでつ
実際に実践として
呼吸の観照ができないけど
第6のチャクラ
眉間のところが
くすぐったい、むずむずする
ちなみに
自分の場合は
密教も肯定派だけど、それでも
ttps://kotobank.jp/word/%E6%9C%88%E8%BC%AA%E8%A6%B3-45106
月輪観(がちりんかん)
自己の心を満月輪のようであると観じる
心のなかに,あるいは面前に月輪を観想する
この月輪は自己の菩提心そのものを示すもので
その月輪が円明無垢で光明が全法界に満ちている
と観じると自己の菩提心そのものもそのように光明無垢となる
これも実際に実践として
『やらない』のではなくて
実際に実践として『観照することができない』ということでつ
↓怪しいサイトかもしれないけど、とりあえず
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
上座部 パオ森林僧院
…
アーナパーナ瞑想を行う場合は
呼吸に30分〜1時間、集中する(気づく)ことを継続します
この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします
自分(ID:GTX/gpbL)の場合は
(密教も)
上座部も肯定で
興味もあるので
当然、実践しているのでつ
実践している、その結果として
30分
妄想、思考が入らないように
呼吸の観照が
実際にできたのか?ということでつ
ちなみに
(とりあえず大乗も肯定だけど)
布施、持戒、忍辱、精進の実践はしてないでつ
それゆえに『般若の智慧も慈悲もない?』ので
(仏性からの真如縁起としての)
観照をすることができない(のかもしれない?)
たとえば
(大乗の)中観帰謬派とかの場合は
単純な(純粋な)candaチャンダ意欲・やる気も(最終的には?)手放しせよ
と導くかもしれないけど
上座部の場合は
「気持ちはあるのだけれども実行に移さない場合は
やる気のエネルギー(チャンダ)が足りない」
或いは
実際に実践して
30分、妄想、思考が入らないように
呼吸の観照が実際にできない
というのも
純粋な canda(チャンダ)が足りないのかもしれない
智慧による、純粋な canda(チャンダ)をもって
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
どこかへ飛んでいってしまう心の働き
有為法の世界から
↓
呼吸に戻してくる要素がある
五禅支の一番目
ヴィタッカ(尋)の世界に ← 戻る要素がある
上座部としての(仏性からの)真如縁起みたいな? >実際に実践して、そして
『呼吸の観照ができない』ということでつ
呼吸ができなければ生きていられない。
呼吸をしているなら誰でも瞑想は出来る。
ただの言い訳だ。
実践をしていないからいくら書いても実がない。
つまり君は自分のマスターベーションを人に見せたいだけだ。
そんなものを見たいものなどいないことに何故気がつかないのか。 ヨガも大乗も上座部もごっちゃにしているから、
君の頭の中はグチャグチャになっている。
そんなんで瞑想が出来るわけがない。
まずは本を読むことをやめ、頭の中をスッキリさせるんだ。
そして五戒を守ることだ。
そうすれば徐々に瞑想が出来るようになる。 聖典の言葉をたくさん覚えることと理解することは全く別だ。
聖典は一句一句をじっくり味わって身に着けるならば、霊的悟りを得るための意欲を刺激するうえに役立つが、
単なる物知りになるための研究はいくら積み重ねても、生半可な知識と偽りの満足が得られるだけで悟りを得るための役には立たない。
聖者ヨガナンダの言葉
https://mobile.twitter.com/YOGANANDA_Words/status/889834159497027584 >呼吸をしているなら誰でも瞑想は出来る
も一度
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
30分
妄想、思考が入らないように
呼吸の観照が
実際にできるのか?
_ _ _
或いは
また
道元 普勧坐禅儀
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
30分
妄想、思考が入らないように
余念を交えず、ただひたすら座禅する
只管打坐
実際にできるのか?
_ _ _
たとえば
仮に
妄想、思考が入らないように
一秒だけ
呼吸を観照できたとしても
30分〜1時間
『気づいている』を継続し続けていることが
実際にできるのか? だからそれを修行するんだろうが。
頭ばかりが先に行きすぎるんだよ。
よく行学は車の両輪や二本の翼にたとえられるが、
行なくして学だけやっても何の意味もない。
皆、苦労しながら瞑想をやっている。
この掲示板はそういう人達が、どうしたら瞑想が進むのか
そのための学を学ぼうとしている。
働きもしないで本を読んでいる奴のいうことなんか
誰が聞くのか。
皆と同じように働く(瞑想する)者のことなら耳に入るんだよ。
何の意味もないことを人に聞かせたいのは
「僕ってこんなに知ってるんだよ、ねえねえ聞いてよ」
とシッタカしたいだけだ。
それをマスターベーションだと言ってるんだ。
たとえば
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
上座部 パオ森林僧院とかの場合は
30分〜1時間
集中する(気づく)ことを継続します
この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第四禅定
智慧による
ウペッカ(捨)の世界からの → 好き嫌いを判断しない、平等性の要素
智慧による
好き嫌いを判断しない
平等性智の世界からの → ウペッカ(捨)の世界へ
「1時間呼吸をしない」というのは
実際に「呼吸が止まっている」ということではなくて
実際には呼吸しているけど
1時間
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
ウペッカ(捨)の世界を知覚して
ウペッカ(捨)の世界に住む
30分〜1時間
第四禅定の世界に住み続けることができるのか?ということでつ
>「僕ってこんなに知ってるんだよ、ねえねえ聞いてよ」とシッタカしたいだけだ
勝手にそう思っていればよいんジャマイカ?
自分(ID:ZCX5b4Y2)の場合は
(大乗も含めて)
上座部特有の専門用語もまったくわからないので
ここのスレで、初めて
『単純な(純粋な)candaチャンダ意欲・やる気』というのも勉強したので
自分では、初心者にも及ばない段階だと思っているけど
_ _ _
>ヨガも大乗も上座部もごっちゃにしている
バラモン(ヒンドゥー)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
部分的には
瓶から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつす
瀉瓶のように受け継いでいる(かもしれない?)。ということでつ
(輪廻否定派の場合は、どうなのか?わからないけど…)
五戒
蚊とかゴキブリとか雑草とか色々と殺生しちょりまつ
偸盗
無断でコピペしちょりまつ
邪婬
したいと思っても金もってないのでできないでつ
(『邪婬するためにも金が必要』という意味でつ)
妄語
冗談の書き込みも多いので
冗談が相手に通じなかった場合は妄語しているかも?
(たとえば『神通力で おじゃる〜っ!』とか)
或いは
(「相手が」ではなくて)自分が勘違いしているとか?これも多いかも?
飲酒
頭も悪いけど
内臓も悪いのでアルコール類とかは飲めないでつ 知ったかで満足したい人には満足してもらえばいいんじゃないでしょうか、欲しいものを得て満足するのはとても良いことだと思う
>欲しいものを得て満足するのはとても良いことだ
(輪廻否定派の場合は、どうなのか?わからないけど)
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
初期仏教
…
無明と渇愛が絡み合って
無始なる過去から(輪廻を繰り返して)終わりなく苦しみをつくり出しています
_ _ _
『無明には関心は無い』という人もいるかもしれないけど、それでも、とりあえず
仮設としての
縁起している
無明と渇愛(タンハー)によって
(空性による地水火風空識の微細な粒子に依存しているので)
掴もうとしても
掴むことができない
(求める物が得られない)
求不得苦(ぐふとくく)
というような場合もあるらしい
(『得られるのか?』は縁起に依存しているので…) 『正法眼蔵随聞記』第三巻
七 我れ在宋の時禅院にして古人の語録を見し時
一日示ニ云ク、我レ在宋の時、禅院にして古人ノ語録を見シ時、ある西川(四川省)の僧の道者にて有リしが、我レニ問ウテ云ク、「なにの用ぞ。」
云ク、「郷里に帰ツて人を化(教化)せん。」
僧云ク、「なにの用ぞ。」
云ク、「利生(衆生救済)のためなり。」
僧云ク、「畢竟じて何の用ぞ。」ト。
予、後にこノ理を案ずるに、語録公案等を見て、古人の行履をも知り、あるいは迷者のために説き聞かしめん、皆是レ自行化他のために無用なり。
只管打坐して大事を明ラめ、心ノ理を明ラめなば、後には一字を知ラずとも、他に開示(仏道を説き示し導くこと)せんに、用ひ尽クスベカラず。
故に彼の僧、畢竟じて何ノ用ぞとは云ひけると、是レ真実の道理なりと思ウて、そノ後語録等を見る事をとどめて、一向に打坐して大事を明ラめ得たり。
現代語訳じゃないと
意味がわからないので↓現代語訳のコピペ
道元禅師は教えて言われた
私が宋国で修行していた時の事です。古人の語録読んでいたとき、西川州から来ていた僧が私に問われた
「語録を読んで、何の役にたつのか」
「故国に帰ってから、人びとを教化するためです」
「それが何の役にたつのか」
「衆生に利益を与えられます」
「それで結局のところ、何の役にたつのか」
私は、後ほど、僧の問うたことを考えてみた
語録を読んで、衆生を教化すつのは
自分の修行のためや人びとを教化するためには、無用なことであるのがわかった
むしろ、ひたすら坐禅をする事が大事なことであると気がついた
そして、悟りを得たら、それでもって衆生を救うことができるのです
それ故に僧は「それで結局、何の役にたつのか」と、言ったのである事がわかった
その後は、語録などを読むことをやめて、専心に坐禅に励んで
一生参学の大事を明らかにすることができたのです
_ _ _
とりあえず上座部の苦集滅道の場合は
その当時のインドの人々に仏教を理解せしめるためには
世間的な一般的な思いを認めて、その理解のうえで仏教を
その当時のインドの人々に理解せしめるというやり方がとられねばならなかった
ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6
語録を読んで、衆生を教化すつのは
自分の修行のためや人びとを教化するためには、無用なことである
_ _ _
上座部の場合は
四界分別観とか
第一禅定
五禅支の一番目
ヴィタッカ(尋)とかを実践するための
最低限以上の教学を理解してから
そして、それから
実践していく
という順番・段階があるのでつ
人々の心の働きに合わせて導いていく
対機説法をもって
光り輝いている(「仏そのもの」の)智慧と慈悲をもって
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 道元はすでに比叡山で教学を学んでから宋に渡ったし
帰国してまた比叡山に行けばいくらでも書物はあるしな 掴もうとしている想いを手放して
コップの中を空(から)にして
実践する為の
教学を理解してから
そして、それから
掴もうとしている想いを手放して
コップの中を空(から)にして
四界分別観とか
第一禅定とか
実践して
そして、それから
掴もうとしている想いを手放して
コップの中を空(から)にして
次の段階
コップの中を空(から)にして
最終的には?
スッタニパータ 21
激流を克服して
道元がいうところの
語録も
すべて一切の諸法も手放して
すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 「悟り」は学習できるもの?
悟りの内容は、釈尊以前には知られていず、釈尊以後にも仏教以外には伝わらず、仏教内でも、釈尊の言葉をそのまま記録した初期経典(完全に現存するのはパーリ経典だけです)にしか説かれていません。
ですから、他のどんな宗教書を読んでも無駄ですが、初期経典を読めば、悟りとはどんなものか、知識として学ぶことはできます。
ここで、疑問が一つ湧くかもしれません。「師の指導を受けてきっちり修行しないと到達できない悟りを、ただ経典の説明だけで学べるものでしょうか?」あるいは「知識として知っただけで何か役に立つのでしょうか?」
その答えは、経典に出ています。と言っても「じゃじゃーん、これが答えで〜す」と書かれているわけではありません。
悟りの内容を、釈尊が言葉で説法した事実、それが経典として残っている事実、これがそのまま、答えです。
釈尊が、言葉を超え、本来言葉になどできない悟りの内容を、とにかく言葉にして説明されたということは、言葉の説明だけ、単なる知識としてだけでもいいから、まず学びなさい、それだけでも修行の道標になり、励みになります、という意味です。 >>373
まず君自身が悟ってからそのようなことを言いなさい >>44
私は解脱した→私(自我)が残ってるから解脱してないじゃないかw
ほんとに解脱した人は我がないので自ら解脱しましたとは言わない >>375
「長老は悟っているんですか?」と訊かれたスマナサーラがそう答えていたけどな
ゴータマさんは自分で自分のことをブッダとか如来とか一切智者とか言ってたんだぜ
ゴータマさんには未だ我が残っていたのかねえ? >>375
解脱した者が「私」を使わないというのは、こだわりであり偏見で、
個別的自我の克服で、自己存在の否定、自己否定でないから
私という語を使ってもいいと、説かれてる箇所あるよね、どこだったかな。 >>373
道標にはなるし、アーチャン・チャー師も
「智慧を通じた解脱を目指す人は、ダルマについて聞くと、すぐにそれを理解
し始める。教えはシンプルで、ただ物事を手放すこと、物事をあるがままにし
ておくことだから、多くの努力やサマーディ(定)を必要とすることなく、
彼らはとても自然な形で手放すことの実践を始めることになる。このシンプル
な実践は、最終的に彼らを我(アッタ―)を超えたもはや手放すものも、つか
むものもない場所へと導くことができる。」と述べてますけどね。 >>378
会話の中で別に使いたかったら使ってもいいんじゃない?
ただ言いたいのは解脱者はいちいち周りにアピールしないし
する必要もないってことだけ
俺解脱したぜイエ〜イすごいだろっ言うやつは解脱してない
おわり >>377
我がない人でも如来と自称するのはOKなんだね
では一切智者は?
「われは一切にうち勝った者、一切を知る者である。一切のものごとに汚されていない。すべてを捨てて、妄執をなくしたから解脱している。
みずから知ったならば、誰を(師と)めざすであろうか。われには師は存在しない。われに似た者は存在しない。
神々を含めた世界のうちに、われに比敵し得る者は存在しない。われこそは世間において尊敬さるべき人である。われは無上の師である。
われは唯一なる正覚者である。われは清涼となり、やすらいに帰している。」
と初転法輪に向かう途中で出会った異教徒に宣言してるが
加えて
「比丘たちよ、健勝なるお方は(ゴータマ・ブッダが自身のことをこう言ったという)、尊敬を受けるに値する者であり、正しく目覚めた人である。
比丘たちよ、耳を傾けよ、[私は]すでに不死を証得した。私は教えるのだ。私は真理を説くのだ。
教えられたように修行するならば、久しからずして、良家の息子が正しく家を出て出家となる本懐、すなわち、無上の清浄な行(梵行)の完了を、みずから現世において証知し、直に知り、具足して住することになるであろう」
と初転法輪では五比丘の前で正覚者であることも宣言しているのだが
ゴータマだから許されるってか? >ゴータマだから許されるってか?
光り輝いている(仏そのもの)
− これに対して −
光り輝いている(仏そのもの)
これに
仮設としての
無明に依存している
煩悩とかが取り憑いている
光り輝いている(仏そのもの)の世界から観照して
(煩悩とかが依存している)無明を手放すために
上座部とかの場合は
四界分別観とか
第一禅定とか(細かな)順番・段階を踏まえて
そして、最終的には
すべて一切の諸法も手放して
彼岸に到着し
そのときには
もはや筏の必要はない
(解脱するための方法も必要がない)
>ゴータマだから許されるってか?
ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6
仮設としての
無明に依存して、渇愛(タンハー)に依存して
『アートマンがある』と強固に執着している
その当時のインドの人々の
強固なる思いも尊重して
その理解のうえで
『(「アートマンではない」という)仏教を理解せしめる』
というやり方がとられねばならなかった
仮設としての
その時
その場所に応じての
人々の心の働きに合わせて導く
『対機説法のようなものも必要である』ということでつ
仮設としての
縁起している世界を手放し解脱する
その直前までは…
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC
編纂されている。かもしれない
それでも
部分的には
釈迦からも
受け継がれている。かもしれない
根本仏典
釈迦本人が言うところの
私 − 光り輝いている(仏そのもの)
四向四果以外の
たとえば
一般的な?(世俗的な?)
私 − (無明に依存している)渇愛
それゆえに
釈迦本人がいうところの『私』と
一般的な(世俗的な)『私』とでは
無明に依存しているのか?してないのか?
ということにおいて
意味が違う。と
対機説法とかをもって
人々の心の働きに合わせて導いていく
ということでつ 自分で言うのもなんだが
やさしい性格なので慈悲の瞑想のほうがやりやすいし好きだ
心も落ち着くし豊かで穏やかな感じになる
お釈迦様がおられた時代はいいよな
対機説法で個人の性格に合わせて最良の指導をしてくれたんだから 387.
対機説法というものはない。
なんでか。
それは、普遍的な真理であるからである。
それは、個人によって、変更することはない、からである。 >>387
無自覚なだけで、やさしさの裏に膨大な感情の抑圧がある可能性が。
生まれながらに100%純粋なやさしさしかない聖人君子なら問題ないが、あるきっかけで蓋が外れると大爆発するかもね。
やさしさという性質も無常だから、調心のためにサティサマーディメッターはバランスよく必要だとは思う。
『膨大な感情の抑圧も』手放して
そして、それから
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
上座部 パオ・セヤドー
第四禅定
好き嫌いを判断しない
平等性の智慧
平等性智をもって
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-ariya-attangika-magga.html
ARIYA ATTANGIKA MAGGA
八正道 アリヤ・アッタンギカ・マッガ
SAMMÂ SATI
サンマー・サティ 正念
mindfulness
SAMMÂ DITTHI
サンマー・ディッティ 正見
平等性の
智慧によって観照する
縁起している
移り行く世界の様を
平等性智をもって
ありのまま観照する >>393
平等性智とか頻繁に書くのだったらテーラワーダよりも唯識や密教のスレに行った方がいい >>391
私もまだ解脱していませんから
日常の心の中は妄想・欲・怒など常に現われています
しかし慈経にもあるように心を慈しみでいっぱいにして
梵天のような生き方ができればと
>平等性智とか頻繁に書くのだったらテーラワーダよりも唯識や密教のスレに行った方がいい
↓原文そのまま
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
上座部 パオ・セヤドー
第四禅定
ウペッカ(捨)
1つに集中して心が散漫にならない『一境性』
好き嫌いを判断しない『平等性』
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-ariya-attangika-magga.html
SAMMÂ DITTHI サンマー・ディッティ 正見
智慧(による平等性)をもって
(縁起している世界を)
ありのままに見る
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
無の世界も超えて
移り行く世界の様を
(智慧による平等性をもって)
ありのまま見る
_ _ _
部分的には
根本仏典からも → 大乗へと受け継がれている
ということが、わからないのかしらん? >慈しみでいっぱいにして
たとえば
コップの中が
妄想で満ちていると
掴もうとしている想いで満ちていると
慈しみを注ぎ入れることができないので
慈しみを注ぎ入れる、そのためにも
ttps://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
手放すこと スマナサーラ
掴もうとしている想いを手放して
コップの中を空(から)にして
そして、それから
慈悲の冥想
(智慧による平等性をもって)
生きとし生けるものに
悟りの光が現れますように
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
>>396 >>397 の続き
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第四禅定
呼吸が止まっている
1時間呼吸をしない
と書いてあるけど
実際には呼吸しているけど
1時間
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
ウペッカ(捨)の世界を知覚して
ウペッカ(捨)の世界に住んで
完全なウペッカ(捨)の状態になってる
そして、この第四禅定も手放し超えて
解脱智見
大乗で言うところの
『仏そのもの』に成っている。に共通するようなところもある
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
智慧の光は、体を包むようなかたちで、光が現れる
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
光り輝いている(仏そのもの)に → 煩悩とかが取り憑いている 日本テーラワーダ仏教協会と上座仏教修道会があるが
初めのころはスマ長老も上座仏教修道会のほうに顔出したり
してるけどなんで協会が2つにわかれてるんだ?
知ってる人いるかな?
マハーシ・サヤドー系?
パオ・セヤドー系?
わからないけど
_ _ _
上座仏教修道会
バッダン タ ニャーヌッタラの系統?で
_ _ _
日本テーラワーダ仏教協会
スマナサーラの系統とか?
↑間違ってたら スマソ m(_ _)m >>399
法話聞いたら分かるけどビルマ系とスリランカ系ってちがう宗派かってくらい全然違うよ
スリランカは現代的に解釈してる特にスマ長老はその傾向強い
ビルマはゴリゴリの聖典原理主義、アビダンマ仏教。
アビダンマ、清浄道論、注釈書とか引用するのが当たり前
経典勉強会みたいな感じ
ちなみにビルマ仏教の方が好きです 「怒らないこと」という本が評判がいいので読んで見たら著者のエゴの強さに辟易した。
このスマナサーラという人は自分は頭が良くて相手を何度も屈服させてきたということを言いたくてウズウズしているように強く感じた。
挙げ句の果てに最後に私のお話でバカにされたと怒りを感じたら己の未熟さを恥ずかしがってください、と小賢しいアリバイまで入れている。
エゴがあるから怒りが生まれると書いているがこの人のエゴの強さも相当なモンだと感じたよ。 お釈迦様の教えに近い上座仏教でも
国や長老が違えば教えも若干変わってしまうんでしょうかね
大乗仏教の宗派みたいな感じがして残念が気がします お釈迦様の言葉といっても他人の言葉だし、読めば結局解釈が生じるからね
だからお釈迦様も一人で進めとか自分のみを頼りとしろとか言ったんでしょう
良き友が全てとも言ってるけど 仏教であれキリスト教であれ
当時の教理とは悦脱したものとなってるのが多いですね
仏教でも大乗と上座にわかれましたしキリスト教でもカトリックやプロテスタントなど・・・
団体組織になると上層部の都合のよい慣習慣行が作られ
まさに現在の新興宗教 代表者を神や仏のように神格化してしまう
お釈迦様がもうこの世にいない以上私たちは
残された経典や長老などの指導者に教えをいただくしかないのですから ある程度瞑想している人ならば、タイ、ミャンマー、スリランカの仏教が同じものを指し示していることは分かると思う。
自分が受け入れやすいものを採用すればいいのでは。 ちなみに私は、スマナサーラ長老、アチャン・チャー、パオセヤドーの指し示す言葉の先に共通性を見出せる。
それは、紛れも無いお釈迦様のダンマである苦集滅道であり、無常・苦・無我である。 ブッダを北極星のように目印として進めば、宗派や流派の違いなんぞ
なんぼのもん。 タイの未来を阻む「悪魔の考え」
やはり、その教えが説かれた「時代性」と「地域性」を見失ってはなりません。
例えば、インドで釈迦が教えを説いたのは、二千五百年前から二千六百年も昔のことでした。
釈迦は、ネパールに始まり、インドのガンジス川中流域を中心に伝道活動をしましたが、当時としては、中程度の規模の教団にしかなっていないのです。
要するに、歩いて行ける範囲が、伝道の範囲だったわけで、釈迦は弟子たちを養成していろいろなところには送りましたが、その多くは、どこでどのようになったのか、あるいは、どこで命を失ったのかも分かりませんでした。
弟子たちの伝道は、そのようなものであったのです。 それから二千年以上の歳月が過ぎ、日本にも、その教えの一部は伝わっています。しかし、「最初のころの釈迦の教えがどうであったか」ということは、残念ながら、抜け殻のようで、はっきりしたことは分からないでしょう。
一方で、原始の釈迦の教えを忠実に反映しているかに見える、小乗仏教、あるいは上座部仏教、テーラバーダといわれる教えが、スリランカやタイなどには今も残っています。タイは独立を守っているため、その宗教様式も、かたくなに守っているのです。
ところが、私は過去二回、講演のためにタイへ行こうとしましたが、残念ながら、二回とも行くことができませんでした。また、タイでも、私の本が翻訳されていますけれども、タイの人たちは、「『仏陀再誕』だけは困る」と言っています。
要するに、仏教では、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三つ(三法印)を旗印としていますが、
小乗仏教では、最後の「涅槃寂静」について、「仏陀が悟りを開いたならば、地上的な束縛を取り除いて、涅槃の世界、ニッバーナに還る。そして、もうこの世には帰ってこない」と説いているからです。
そのため、「仏陀再誕は困るのだ」と言っていたのです。
しかし、私は、タイと同じく小乗仏教の国であるスリランカで法話をした際、スリランカの人たちに、「仏陀がこの世に還ってこなくて喜ぶのは、いったい誰ですか」と問いました。
「仏陀が悟りを開いたならば、二度と地上には帰ってこない。つまり、地上の人たちを指導しない。それを喜ぶのは誰ですか。悪魔でしょう。仏陀の教えをそのように解釈したのは、いったい誰ですか。よく考えてみなさい」と述べたわけです。 「仏陀が悟りを開いたならば、二度と地上には帰ってこない。つまり、地上の人たちを指導しない。それを喜ぶのは誰ですか。悪魔でしょう。仏陀の教えをそのように解釈したのは、いったい誰ですか。よく考えてみなさい」と述べたわけです。
すると、講演会に来ていた一万三千人のうち、九千人以上が。幸福の科学の信者になりました。(「大川隆法 スリランカ 巡錫の軌跡」)
これは、「『仏陀が地上に還ってきてほしくない』というのは、悪魔の考えです」と私が述べたからです。
もちろん、「悟りを開き、束縛を解いて、自由自在になる」というのは、仏陀の説いた教えのとおりでありましょう。霊的世界に還れば、肉体的束縛から離れて自由自在になるわけです。
そして、思いがすべてになって、意志の決定するところに自分の行動があるようになります。そういう意味で、「自由自在になる」ということを、悟りの境地として仏陀は説いたわけです。
それについて、「涅槃(ニッバーナ)に入ることによって、仏陀がどこか暗い山の洞穴の中にでも閉じこもり、蓋をされてじっとしている」とでも思っているのでしょうか。
まったく恥ずかしい限りの誤解ですが、そのようなことがあるはずがありません。それでは、地獄の深い穴の中に入っているのと同じことです。
やはり、地上の人たちが救済を求めても、涅槃から出てこずに、彼らを救うことができないならば、「悟り」とは言えないでしょう。それは、絶対におかしいわけで、唯物論であり、間違った宗教論だと思います。
ここを突破しなければ、タイの国に未来は開けないはずです。 3 信仰とは、全身全霊で受け止めて感じ取るもの
学問における唯物論・無神論者たちとの戦い
また、『正義の法』の第一章では、次のような映画の内容を取り上げました。
「キリスト教国であるアメリカの大学において、WGod is dead"(神は死んだ)と書いてサインをしなければ、その科目を履修できないということがあった。つまり、そうしなければ、単位を取って、成績を上げ、出世を目指すこともできない。
そのとき、一人のクリスチャンの学生が教授のやり方に抵抗した。
その学生は、『私はクリスチャンであるので、どうしてもWGod is dead"とは書けません』ということで、教授とディベートすることになった」(二〇一四年公開「神は死んだのか」〔原題WGOD IS NOT DEAD"]」。
これは、映画の話ではありますが、おそらく、アメリカにおける学問の現状でもあるのでしょう。
特に、科学の分野では、キリスト教の教えを根本から覆すようなことが数多く起きているわけです。
例えば、宇宙物理学者のスティーブン・ホーキング博士は、神を否定しており、「神が宇宙をクリエイトしたというのは信じられない」というようなことを言いま 例えば、宇宙物理学者のスティーブン・ホーキング博士は、神を否定しており、「神が宇宙をクリエイトしたというのは信じられない」というようなことを言いました。
また、リチャード・ドーキンスという人は、「遺伝子が魂の正体だ。DNAが、親から子、子から孫へと移っていく。このDNAの転移こそ、魂の転生輪廻そのものだ」というようなことを言っています。
あまりに愚かすぎて話にならないのですが、大学では、これを信じて、このとおりに答案を書かなければ、成績優秀では卒業できないし、よいところには就職できないのでしょう。
たとえクリスチャンであっても、主流はそのようになってきており、そのために、あちこちで戦いが起きているのです。
要するに、「君が教会や家庭で信じるのは結構です。ただ、ここは大学なので、そういう信仰など、証明できないものは持ち込まないでください」ということなのでしょう。不可知論、あるいは無神論を教えるために、最初にサインをさせられたりしているわけです。
結局、現代の哲学者の多くが無神論者であるため、その内容を授業で教えるためには、神を否定しなければならず、それでサインをさせたりしているのだと思います。
しかし、そうまでしてA評定の成績を取ることにより、よい進学ができ、よい就職ができ、よい結婚ができ、よい家庭が持てたところで、最終的に幸福になれるのでしょうか。
あるいは、真理に反して生きて、本当に幸福と言えるのでしょうか。神を否定するところまで傲慢になっておきながら、その生活が、その科学が、尊敬すべき立派なものであるはずがありません。
たとえその大学が、世界の一流の「名門」といわれる大学であったとしても、間違っているものは間違っています。嘘は嘘です。教えてはならない限界があるということを、私は言っているのです。 唯識厨がいなくなったと思ったら、こんどは幸福の科学かよ。w
「霊的世界に還れば、肉体的束縛から離れて自由自在になるわけです。 」
なにが霊的世界だよ、仏教の「ぶ」の字すら分かっていないじゃないか。
どうしてこう、アラシが侵入してくるんだろう。 幸福の科学の肩を持つわけじゃないが、
色界、無色界は伝統仏教でも解かれている。
不還果の聖者は、欲界には帰らないが、色界には生まれる。 仏教徒ではあっても、いまだ有身見と唯物論にもとづくものの見方をしているのだとしたら、
その見方は、まだ慧に基づく正見には至っていない。
人間の知覚は、五感と肉体に限界を規定されている。
人間の思考もまた、五蓋と自我意識にその限界を規定されている。
人間理性とは、限界を規定され、不完全な、まちがった(ありのままではなく、自我を
出発点とする発想、自我を中心とした認識)である。
世界のありのままの姿は、なんらかの自我を出発点としていたり、中心にしていたりはしない。
人間の考えること、感じることは、実は真実とは逆さまなのだ。
そんな状態で、仏教の「ぶ」が分かったつもりになっているとしたら、それは勘違いだと自覚しておいた方が良い。 文体的に仏教議論スレに常駐してたセブンとかいう禅宗の坊さんじゃないか?
テーラワーダの教義を認めない、軽視するなら来なくてもいいんだが
坊さんは話し相手が欲しいんだろうかあらゆる仏教スレで見かけるわ わいはテーラワーダなのだが。
お経に遺されたお釈迦様ご自身の言葉、つまり仏説として
不死の門は開かれたとか、色々言ってるでしょうよ。
それが全部嘘、間違いだとでも言うのかね。 >>418
アナタじゃなくて>>414の人のことだよ >>415
>色界、無色界は伝統仏教でも解かれている。
ほう、君の所では無色界を霊界と捉えているんだ。
変わった仏法もあるもんだね。 >>420
>君の所では無色界を霊界と
色蘊がなくて四蘊と言われてるからね
そんなことも知らずに何でテーラワーダスレに居座ってるのか理解できない >色蘊がなくて四蘊と言われてるからね
だから受想行識がどうして霊界になるの?
という話。 ナーマ・ルーパという分類の理解もあやふやなんだろうな…
禅宗は心身一如だから >非物質的世界だから
だから、どうしてそれが「霊界」なのかって聞いてるの。
それから私を禅宗のうんぬんとか言っているけど、
全く違うよ。
たまに覗きに来るだけだよ。 >>425
>たまに覗きに来るだけだよ。
そうか早とちりしてすまんね
>どうしてそれが「霊界」なのかって
大雑把なアナロジーとして無色界は人が想像する「霊界」とかとイメージが近いよねという話だろう?
幸福の科学とテーラワーダが一致するという話ではないよ 文脈から判断して、上の文章で言われている「霊界」は、「餓鬼界」のことではないはず。 いかん、途中で送信しちまった。
>大雑把なアナロジーとして無色界は人が想像する「霊界」とかとイメージが近い
霊とは「個」であり「永遠」というのが定義だ。
いうなればアートマンの概念に近い。
そのアートマンを否定したのが釈尊ではなかったのかね。
それとも非我論でも持ち出すかい? >>428
自分は霊という言葉に物理的でない幽体のイメージを持つけれど
永遠なる霊魂(soul)は想像しなかったな
言葉って難しいね >>429
漢字文化圏(特に漢訳盛んな時代)に於ける「霊」と
日本文化近世までの「霊」と
日本文化近現代に於ける「霊」と
英語のスピリットやソウル、或いはキ教において霊性と謂われたりするものの”翻訳としての”「霊」など
が、同じ概念である筈もなし。
同じ漢字だからと言って意味まで同じとは限らない。
さらには、近現代以降の新興宗教や、スピリチュアルなムーブメント、
或は昨今流行りのマインドフルネス等に近接する「霊(的なもの・こと)」まで含めたら、
いったい、何十通りの語義が定義されるだろうか・・・・。 >>430
それでは「個」ではなく「永遠性のない」霊がどこで、どのように、
使われているか教えてもらいたいね。 >>432
あれ、「何十通りの語義が定義されるだろうか・・・・。」
じゃなかったの?
テーラワーダスレなのに「霊」が好きな人もいるんだね。
大乗にヒンズーを引き入れたのもこういう人なんだろうなあ。
霊という概念を引きずっているから無我など分かる訳が無い。 >>433
じゃあね、あんね、霊妙の霊は永遠不滅の霊って意味かね
だれも幸福の科学流の永遠不滅の霊(soul, spirit)にこだわってなどいないのに
君だけが自閉症的に「それは永遠不滅の霊魂だ!」ってしょーもない言葉遊びでマウンティングしたがってるの
>霊という概念を引きずっているから無我など分かる訳が無い。
説法までし出すとはw もともと
「霊的世界に還れば、肉体的束縛から離れて自由自在になるわけです。 」
という文に対して書いたんだがな。
この「霊的世界」って、君のいう「霊妙の霊は永遠不滅の霊って意味かね 」
とは違うと思うがね。
まあいいよ、ただ大乗のように好んで霊だ霊魂だというようになったら
テーラワーダもおしまいだと思ったからね。
そうでなくても日本人は霊魂好きだからね。 上座部の信者の行うタンブンって来世のために徳を積んでるんでしょ
ではその徳は己の何に積まれるの
煩悩からくる我執とかいったらそれが霊とみなしても構わないと思う >>431
は?
んなこと知らねーよwww
個人では、霊魂・魂等「実在としての霊的存在」は認めてないから。
精神世界(心理的に感受される世界)と、現実の水分蛋白質等の世界とは、
明確に区別すべきだし、若人欲了知三世一切仏応観法界性一切唯心造ではないけれども、
自身の心の動きを観察することによって(その仕組みを知ることによって)、
その制御鎮静を試みるのが仏道修行だというのは、釈尊以来あらゆる宗派に共通する要素だと思ってるよ。 若人欲了知三世一切..............を持ち出す所を見ると禅宗の人らしいが、
南直哉という坊さんは堂々と「霊魂があ」って言ってるぜ。
まあ君は「個人では認めてない」と言ってるがね。
なんにせよ霊や霊魂思想は仏教にとって猛毒なんだけど、
それに気がついてない人があまりにも多いんだよね。 というか、
>>430という 「考察に際しての基本スタンス」
を無視して、>>431のような脊髄反射を入れる辺りで器が知れるという所か・・・ 脊髄反射ではないな。
けっこう大事なところだよ。
まあ言語の問題と言えなくはないんだけど、日本という霊魂文化のなかで
それを放置すると、すぐに地滑りを始めるからね。
例えば葬式なんかで坊さんが「読経して引導を渡しましたので
安らかに成仏されました」とかがまかり通っちゃうだろ。
それと同じことさ。
上に書いた南直哉なんかも恐山で住職やっていれば、もう「あの世の遺族の声」
がらみの話は腐るほど聞かざるを得ないだろう。
そしてそういう信者などの声に「仮和合なんだから霊魂なんてありません」
と無碍にも言えないのだろう。
だからこそ霊魂思想は猛毒なんだよね。
ああそれから「器が知れるという所か・・・」とか書いちゃうから
君の器が知れちゃうんだよね。w >>443
>安らかに成仏されました」とかがまかり通っちゃうだろ。
頼むから餓鬼事経は非仏説とか言わないでくれよ
そういう手合いならマインドフルネススレがあるでしょ >>443
だからw
人違いを謝罪できない程度の器だと、 的確に評しただけなんだがな・・・。 つか、横レスの見分けもつかない人間が(前)2chなぞ百億年早い。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
曹洞宗 内山興正語録
(ある老医師が「死後の霊魂はあるかないか」についてアンケートを送ってきた話の続き)
こんな算術に対しては
(『仮設としての』という意味で)
はっきり「霊魂はある」「いま貴方がたたかっている相手がそれなのだ」といわねばなりません
こんな先生にもし亡霊など全くないことが科学的であり
仏法の「諸法無我」は現代の科学と一致するなどといえばとんだことになります
「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいますから
その点,仏教では昔からのインド人の信仰であった輪廻転生説を受け入れ
そのまま説いているわけですが,もしこの「諸法無我」を客観的真理のコトバとするならば
この輪廻転生を荷う主体がなくなり,因果歴然の教えも無意味となってしまいます
それが有部の『倶舎論』などでは無我とはいわず,破我といい,そして業感縁起を説きます
さらに無著・世親の唯識系統では阿頼耶識説を説くことにより,いまいうような霊魂についてばかりではなく
われわれ日常行為における因果関係についても,まったく詳細巧妙に説明する心理学を展開しています
そういうつもりで唯識教学などを勉強すると
われわれの実際修業における日常生活の心構えにも大いに役立つと思います
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
(仮設としての)
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す >2chなぞ百億年早い。
それは言えてる。
あんまり2ちゃんには詳しくないんだ。w 色界四禅定
無色界四禅定
これらは梵我一如の境地に達して神(真我、ブラフマン)との一体感に浸って気持ちよくなることを目指す瞑想なの?
>気持ちよくなることを目指す瞑想なの?
四禅も手放し超えて
そして
有想を捨てるが故に非想といい、無想を捨てるが故に非非想という
「想う」という想いも手放し
「想わない」という想いも手放し
非想非非想も手放し超えて
掴もうとしている想いが
現れることもなく・滅することもなく
縁起している世界を手放し超えてる
涅槃の世界は
無為法の世界なので
気持ちよくなる。という『想い』ではない
気持ちよくない。という『想い』でもない
_ _ _
道元禅師 普勧坐禅儀
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐 >>428
不還果の聖者でも、欲界の自我は消えてなくなっていると思うが
梵天として色界にいるあいだは色貪、無色貪は残っているし、
色界における梵天としての自我はあるのではないかな。
自我というのは、ひとつの完結したパーツではなくて、要素の集合
だから、デジタルに「ある」と「ない」のスイッチを切り替えるように
理解しているとしたら、それはあまりにも概念的すぎやしないかな。 >>433
テーラワーダがこういうものだ、という決めつけがあるのではありませんか。
それは自分個人の見解であり、解釈のひとつに過ぎないでしょ。 >>437
己に積まれるんじゃなくて、己を生じさせている発生源であるところの業。
無我について、我を出発点として考えている時点で間違い。 霊というか、名色における名。
精神現象のことでしょう。
精神現象は、物理現象ではない。
精神は物理ではない。 考えるのは自我だから、考えているあいだは無我は分からない。
瞑想するしかない。 >>451 自己レス
欲界レベルの自我は、五蓋が消えれば消えるけどね。
(五蓋が消えているあいだは)
でも、色界の意識はある。 禅支というかたちで意識がある。
それは、われわれ人間が通常考えるところの自我とは、まったく異なる。 連投しているのは躁鬱病で今の躁の状態になってる人なのかな? 無我について考えている、我の思考
という矛盾について指摘した。
感情的に、気にくわないのは仕方がないと思う。 >>451
>色界における梵天としての自我はあるのではないかな。
自我があるなら無我とは言わないよ。
あえていうなら仮我だろう。 >>455
ヒンドゥー教やジャイナ教でも瞑想するがそちらの宗教では有我という答えがでる
というか瞑想して無我を説くのは仏教だけだと思う
金星が丸いかどうかは望遠鏡を使えば視覚や認識に障害がある人を除いた全員が丸いと確認できるが
我があるかどうかは瞑想を使えば確認できるというわけではない >>462
同じ宗派なんだから別におかしくないだろ
宥快と済暹と杲宝はおなじ弘法大師の教えを指していると同じくらいの意味
ダルマキールティは
カマラシーラとかに論破される?かもしれないけど、とりあえず
ttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf
ダルマキールティ
智の自己照明
(仏性からの智慧と慈悲の縁起によって)
[ 光が輝くとき、その輝くこと(照明)を本性とする ]
(仮設としての)自己自身を照らす
そのように、智も(仮設としての)自己を認識する
智は光の如く、照明することを本性とし、自ら輝き現われる
− これに対して −
中観帰謬派とかの反論?としては
(仏性からの)智慧と慈悲をもって
縁起に依存しているので
自性ではない(我ではない)
↓無常であり無我である上座部とかの場合も
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
上座部 パオ・セヤドー
(仏性からの → 智慧と慈悲の真如縁起をもって)
[ 智慧の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます ] >>460
自我はそもそも(その性質として)無我なのだが、その辺が分かってますかね。
修行の到達点として、無漏の悟りに達し、解脱し、生きながら涅槃に到達している状態で、
肉体が生きていながら、自我がまったくなく、智慧と慈悲に基づいて気づきと精進だけで
生存している状態。
その状態を指すことばとしての無我、という使い方もあるとは思うが、一切はもともと
悟っていようと、悟っていまいと無常だし、無我だから、その意味においては
我々の自我も無常、無我だし、色界や無色界さえ無我であるはず。
色界や無色界には五蓋(欲界心)がないので、欲界レベルの自我はない。 色界・無色界の梵天の意識は、他宗教では創造主とか真我といわれている
が、それは瞑想者が実際にそう感じるからだと思うよ。
仏教徒であるわたしも、涅槃はみえていないと思うが、涅槃へ続く道は見た
気がするし、それは肉体に依存しない永遠不滅の命だった。
少なくともそう見えた。
(見えたというか、それと一体だった)
それは仏陀の慈悲でもあり、涅槃に続く道(八正道)でもあった。
仏陀そのものが八正道そのものとして、一切衆生に涅槃への道を常に
指し示している、そんな風に見えた。 なんにせよ、人間の肉体に生じる現象は、その構造に依存する。
思考も同様。
そこから離れてみて、はじめて人間の限界を超えることができる。
人間自我が無我であることは、なんにもないという虚無思想ではない。
海に例えるなら、自我とは海面に浮かぶ泡沫のようなもので、
泡沫に囚われさえしなければ、その瞬間に大海になれる。
無我とはどういうことなのか、思考ではなく、瞑想で体験して欲しい。 色貪、無色貪は五上分結だから、
色界・無色界の無常と無我が本当に分かるとしたら、それはもう阿羅漢か、
それに次ぐ段階に到達している、ってことなのかも知れない。
>無我であることは、なんにもないという虚無思想ではない
解脱智見
どこの?誰が?解脱を知覚して
どこの?誰が?涅槃に住むのか?
(無明に依存している)我が見るのではなくて
縁起している世界を手放し超えて
仏そのものの智慧と慈悲をもって
自在力(神通力)
四神足
観神足をもって
円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照する
(円成実性を見ずして → 依他起性を見ることはできない) >どこの?誰が?
その思考のフレームで捉えることができないってことなんでしょうね。
どこの誰が、という発想自体が、自我を起点とした発想、自我を中心とする認識だから。
そのことには、涅槃よりずっと前の段階で気付きますよ。
無我なのは分かった。
だが、自我も欲もある。
さて、どうするか。という修行のはじまりの段階で、無我ってこと自体はわかります。
その段階なりに。 しかし我々全員にとって大変心強いのは、仏陀が涅槃までの道のりを
すべて説き遺して下さっていることですね。
「色貪、無色貪は五上分結だから云々〜」などと判断できるのも、
涅槃までの地図において、自分がいまどのあたりに居るのかも、どちら
へどのように進んで行けば良いのかも、すべて仏陀からはじまる
三宝があってのこと。
我々は、すでに最高に恵まれていると思いますよ。 472.
心理ゲーム、をやっているバカである。涅槃ゲームと言う、か。 >>473
どういう理由からそう言われるのか、伝わるように解説して頂くことはできますか?
理解できるように前後の文脈や、背景事情をご説明頂けないでしょうか。
でないと、言いたいことが理解できません。 474.
坐禅、瞑想して、心理、認識の内容が、変化しただけのことである。
それを、涅槃と、命名しただけのことである。
>坐禅、瞑想して、心理、認識の内容が、変化しただけのことである
>それを、涅槃と、命名しただけのことである
それで?だから?
結局、何が言いたいのか?わからないけど?
『心の働きの変化』と『仏教(宗教)』は関係ない。とか?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E6%80%A7%E6%84%8F%E8%AD%98%E7%8A%B6%E6%85%8B
変性意識状態( altered state of consciousness, ASC)
有効な療法として、一時的にこの状態を患者に与える方法が活用されている
_ _ _
仮設としての
縁起に依存して
変性意識状態をもって
その結果として
良い場合もあるでしょ?
悪い場合もあると思うけど…
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる >>475
その当時
シッダールタは
六師外道だったかもしれない
ウッダカ・ラーマプッタ師匠から
非想非非想の実践を教わり
非想非非想の世界を知覚して
非想非非想の世界に住んで
そして
それから
非想非非想の世界を手放して
(仮設としての)縁起している世界を手放して
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し
よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである
と四念処(四念住)の修行を実践するように「自灯明法灯明」の教えを説いた
仏性からの真如縁起をもって
仮設としての
心の働きの変化が、現れ → そして滅していく。でしょ? >>475
肉体自我の内側に起こる変化は、あくまで自我のなかのこと。
人間の知覚、人間の思考の限界のなかでのこと。
わたしがいま言っている、瞑想でみる無我は、その外(そと)。 海面に浮かぶ泡沫のなかに、大海があるわけではない。
大海は泡沫の外にある。
泡沫を生みだしている土壌そのものは、泡沫のなかにはない。
泡沫が大海を含んでいるのではなくて、
大海が泡沫を生みだしている。
自我を出発点とする認識は、このように顛倒している。 478.
無我=自我である。
479.
自我=泡沫、か。
泡沫=大海、である。
あなたは、大海であり、泡沫ではない、か。 477.476.
手品師をやっている場合ではない。 マトリックスという映画がある。
マトリックスの住人は、すべてアバターなのだが、そのことを自覚している人と
そうでない人がいる。
自覚している人も、自覚していない人も、マトリックスの中ではあくまで同じ住人同士でしかない。 マトリックスの真実を自覚している人は、アバターの死を怖れたりすることはない。
マトリックスの真実を知らず、アバターが自己の本体だと信じ込んでいる人は、
アバターの死を怖れ、苦しむ。
マトリックスの中に本当の自己などないし、執着に値するなにかがあるわけでもない。
>瞑想でみる無我は、その外(そと)
これも意味がわかりにくい
『仏そのもの』でしょ?
それゆえに
上座部 2.0の説明だけではなくて
大乗1.0?3.0?としての説明が必要でしょ?ということでつ
ちなみに
仮設としての
縁起に依存している世界は
変化しているので
それゆえに
変化しないものではない
自性ではない
我ではない
そして
仏の世界は
無為法の世界なので
我である。という『想い』ではない
我ではない。という『想い』でもない 言葉で説明するより、瞑想をとおして自分で洞察した方がいい
というか、それ以外の方法で理解・納得するのは無理でしょ。
自我のなかに留まる限り、自我が生みだしたアイデアから
外に出られない。 484.
手品師の言う、ことである。賞賛される、かや。 485.
瞑想して、涅槃に行かないバカ、の真似事、をするべきか。そこが問題である。
>>482
>自覚している
解脱を知覚して
涅槃に住んで
有余涅槃から → 無余涅槃へ
− これに対して −
>自覚していない
仮設としての
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して↓そして
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
渇愛(タンハー)
無明と渇愛が絡み合って
無始なる過去から
(輪廻を繰り返して)
終わりなく苦しみをつくり出しています
それゆえに
[自覚している]と[自覚していない]は違うでしょ?
>>482
>自覚している人も、自覚していない人も
>(仮設としての、縁起している世界の)同じ住人同士
有余涅槃の如来は
肉体(色蘊)は有為法にあっても
基本的には?
無為法の世界に住んでいる
(涅槃の世界に住んでいる)
− これに対して −
解脱を知覚していない
涅槃に住んでいない
仮設としての
無明薫習に依存している場合は
ヒンドゥー(バラモン)系
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
そして、それから根本仏典 2.0へと受け継がれて?
そして、それから大乗へと…?
>>485
まさに
仮設としての
無明薫習に依存して
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として
それを自分であると考えて執着し続けているので
それゆえに
>自我のなかに留まる限り、自我が生みだしたアイデアから外に出られない
おっしゃる通り
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
上座部
30分〜1時間
この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします
↑3秒の間くらいならできる おじゃる
(一応、実践しちょりまつ…)
それと一応、念のために
勘違いしないように、上座部 2.0も肯定派で おじゃる >>485
>言葉で説明するより、瞑想をとおして自分で洞察した方がいい
>というか、それ以外の方法で理解・納得するのは無理でしょ。
以上は485の自我が生み出したアイデアでした 以前にも同じことを言ったけど、自我と自我がコミュニケーションを取るということは、
言葉を介する必要があるので、言葉が思考を介する以上、構造的に必ずこういうこと
になるんだよ。
だから禅宗では、黙って坐ることが推奨されているのだと思う。 自我と自我の関わりということになると、もうひとつやっかいな問題があって
それは業の影響を受けるということ。 493.
言葉が思考を介さない、が良い、か。
手品師がやる、ことである。
>>494
>業の影響を受ける
仮設としての
身体的な行為、言葉による行為、心の働きによる行為でしょ?
− これを対処するための −
戒・定・慧・解脱・智見
(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(智慧・慈悲))でしょ?
_ _ _
なぜ?
大乗1.0?3.0?のように
『仏そのものから見よ』というような明確な導きをしないのか?
『([仏そのもの]の)智慧と慈悲によって』
という明確な導きの方がわかりやすいでしょ?
もっとも
自分(おじゃる)の場合は
大乗1.0?3.0?の世界観をもっても
3〜7秒の間くらいしか観照できないけど… >>465
だったら最初から「>色界における梵天としての自我はあるのではないかな」
こういう中途半端なこと書かなければいい。 >>495
瞑想の種類や段階にもよるのだろうけど、
瞑想は、ある段階から先になると言葉的な思考を介さないようになってくるよ。
>>497
自我は完結したひとつのパーツではないので、
我々が考えるような欲界心の塊(五蓋)としての自我がないからといって、
色界に、色界浄心による意識の塊がないわけじゃないでしょう。
だから、別に矛盾していないと思う。 スイッチが切り替わるように、いきなり阿羅漢になるような人ばかりじゃないんだから、
自我からの解放の度合いは、グレースケールで計るように段階的に捉えることもできるはず。
というか、それが十結であったり、仏法の中でさまざまに説かれていることでしょう。 という>>499の自我が生み出したアイデアの発表ですた >>493ももちろん自我が生み出したアイデアであり
>>493が個人的に思っていること信じていることです >>498
>自我は完結したひとつのパーツではないので、
だから無我と言うのだよ。
自我というならそれは「常」になってしまう。 >>463
破戒僧スマナサーラと他を比べてる時点で狂ってる。
お前は釈尊を舐めてるな? 破戒僧 食事の布施を受けるより 熱玉飲めよ 地獄より良い(ダンマパダ)
これが釈尊の言葉だ。外道。
>>499 >段階的に捉えることもできる
だから上座部 2.0?とか 3.0?とかの場合は
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
上座部 パオ・セヤドー
([仏そのもの]の智慧と慈悲をもって)
通常、四界分別観から修行を始めなければなりません。と導いてるでしょ?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E8%B6%B3
四神足
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
→ (仮設としての)縁起している世界を観照する
なぜ?ID:uIGtrgVo師匠は
どこの?誰が?何を?見るのか?
を明確にわかりやすく導かないのか?ということでつ
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正
([仏そのもの]の智慧と慈悲をもって)
今,その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです。すなわち思いの手放しです
実際には(縁起している)何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし
([仏そのもの]の智慧と慈悲をもって)
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
>>499 ID:uIGtrgVo師匠へ
仮設としての
縁起している世界の中において
仮の現れ、そして滅として
(実際に)何ものかの思いが浮かぶ
われわれの思いは、いつも「何か」を思う
思いをもって、その「何か」をつかむ
なぜか?
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
上座部 パオ・セヤドー
有分心(生命相続流)
心の流れの相続を維持する
有分心がある為に
心の流れは断絶する事がありません
(根源的な識の流れは激流のごとく活動している。暴流の如し)
それゆえに
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
大円鏡智の世界から → 第八識を見る
平等性智の世界から → 第七識を見る
妙観察智の世界から → 第六意識を見る
と導いて、そして>>505へと繋がっていくのでつ 506.
仏そのものの、智慧と慈悲をもって、か。
仏そのものは、智慧と慈悲を持っていないからである。
なんでか。
涅槃とは、それらを捨象したものであるからである。
智慧と慈悲とは、思い、の一部である。からである。
その、思い、を手放した者、が仏、であるからである。 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99
(仏教も含めて)
宗教は
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
それゆえに
ポッタン師匠の>>507の続きとして
>思い、を手放した者、が仏、である
非想非非想も手放し超えて
(仮設としての)縁起している世界も手放し超えて
解脱を知覚して
涅槃に住んで、そして
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
さらに無の世界も超えて
移り行く世界の様を
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
ありのまま見つめている
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
生きとし生けるものに
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
悟りの光が現れますように
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 509.
仏は智慧と慈悲を持っていない。
その持っていないものを、どうやって、衆生に与える、のかや。
涅槃は、行ったきりで、帰ることはない。
証は、修業に還らない。
ポッタン師匠の>>510の続き
>涅槃は、行ったきりで、帰ることはない
それゆえに
自在力(神通力)
四神足をもって
さらに無の世界も超えて
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
(移り行く世界の様を)ありのまま見つめている
無の世界も超える
そのための
自在力(神通力)
四神足
ポッタン師匠は
(大乗も含めて)根本仏典も勉強した方が良いんジャマイカ?
ttps://www.iwanami.co.jp/book/b270312.html
31ページ参照
仏の智慧と慈悲を遵奉している
四神足の神通力を具えた
如来は
身体から光輝を放ち
地獄に落ちた衆生を救い上げ
かれらを [ さとり ] に導いていく 511.
地獄に落ちた衆生を救い上げ、か。
バカ丸出しである、。それは迷信である。
根本仏典を勉強すると、バカになれる、のか。 >>509
> 人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
ブッダは、そういう形而上学を否定した(「毒矢のたとえ」)。
> 非想非非想も手放し超えて
> (仮設としての)縁起している世界も手放し超えて
キミもいい加減、(仮設としての)御託を手放してはどうか? >>295
> 非想非非想処
> 想でもなく・非想でもない
>
> 最終的には
> 非想非非想も手放し
> 非想非非想も越えていく
>
> やっぱり↑これも実践した方がよいかも?
さっさと! >>513
そこで言う形而上学って、要するに頭で考え出した概念ってことでしょ。
名色の実相は人智を超えているが、形而上学ではないよ。
無我にしろ、無常にしろ、どれも観測できる事実だから。 頭で考えた概念は、自我の内に生みだされたものでしょう。
瞑想は、考えてないから。
思考してないところに、思考概念は生まれない。 幻覚でもないよ。
五感の感覚もないから。
五感の働きのないところに、幻覚はない。
夢でもないよ。
寝てないから。 瞑想による洞察は、体験智であるから、概念で理解することはできません。
瞑想による洞察は、洞察であって、観測による確認であるから、形而上学とやらでもありません。
ただ、プラトンが言っている形而上学の正確な意味と、あなたが言っている形而上学の意味とでは
おそらく定義がずれていると思います。 >>516-517
またそちの自我が生み出したアイデア、観念を発表しているでござるか 言葉は思考を介するが、表現されている事柄は思考ではない。
伝統的な例えでは、月と月を指す指。
たとえば天文学なら、望遠鏡で観測した天体の様子と、その様子を記述した文章。
文章は思考を介し、聞き手がアイデアとして解釈するが、天体自体は誰かが考えて
生みだされたわけではない。 天体が丸いのは、丸いというアイデアによるのではない。
(三次元空間で)観測したら丸かったから、丸いと言われる。
無我にしても同様で、思考と感覚を止めた場合に、自我だと思っていたものは消えるので、
その瞬間に思考と意識とが別物であったことがわかる。
意識に我とか彼とかの境界線はない。思考もないし、身体もないから他人との区別もない。 >>522
自我だと思っていたのが消えるのを観測するのが意識なの?
だとすれば月とかの天体は観測される方だが意識は観測する側だから一緒にはできないべ
それに個人の意識で個人の自我を観測するのだから意識に我とか彼とかの境界線はないなどと安易には言えないべ
君の「思考」は矛盾だらけだぞw
>>515
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
上座部
30分〜1時間
この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします
(智慧による?)
呼吸への観照
9秒の間くらいならできるようになった
(一応、実践しちょりまつ…)
>>522
>自我だと思っていたものは消える
ID:i4WJid3I師匠の場合
やはり
どこの?誰が?どのように?の導きが抜けている
ttps://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
マインドフルネス
何か雑念が出てきたこと
([我である]と掴もうとしている想いが現れてきたこと)に気づいても
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
移り行く世界の様を
その辺りに漂わせておくようにして
自然に消えていくのを
ありのまま見つめている
自力で往生などしようとしないで
一切の物事を阿弥陀仏にお任せして
『想い』を手放して自然に消えていく 観測する主体は何なの?っていう疑問は、頭で考えてるから出てくるのであって
考えてない時にそういう問題はないのだ。
言語による説明は思考なので、各自で(少なくとも思考から抜け出すところまで)
瞑想して確かめてもらうしかない。 思考から抜け出すことは、(欲界の)自我がから抜け出すことでもある。
仏教用語でいうと、五蓋の働きを止めた状態。
自我から抜け出すことは、地上からロケットで宇宙空間に飛び出すような
大きな力が要る。
そして、宇宙空間に地上の常識は通用しない。
それぐらい、いやもっと大きな違いかもしれない。 スマナサーラ長老は、深海魚が海面に飛び出したような、と例えていた。
宇宙に飛び出すという比喩は、チベット仏教の修行者も同じ例えを使っていた。 仏法においては、心身の働きについては、心、心所、色(チッタ、チェータシカ、
ルーパ)で説明しているので、この用語が分かる人同士であれば、この概念で
説明した方が正確であろうと思われる。 >>526
全然答えになってないだすな
少なくとも思考と意識の違いの確認とか観測に天体観測を例にとるとか的外れなことは今後はやめることだす
望遠鏡などを使った天体観測には観測する主体と対象がある
瞑想を使った思考の観測は君に言わせればそうではない
君自身この矛盾と混乱に気づいているだすか?
>>527
これも同じ
まず君自身が瞑想で確かめたことではなくチベット仏教やスマナサーラ長老の受売りしかできてないのがダメ
それでは人に瞑想で確認して確かめてもらいたいなどと言えないだすな
一緒に瞑想して確かめましょうとは言えてもね
そして「宇宙空間に人間が出る」ように「海面に深海魚が出るよう」に「思考の外に出る主体」の問題はここでも出てくるだす
これ説明できないのなら宇宙空間とか深海魚とかの喩えはやめたほうがいいだす 心理ゲームである、涅槃になれ、ゲームは面白い。
なんでか。
涅槃になると、心理がなくなるからである。
だからして、瞑想も、なくなる。
この矛盾が良い。 泡沫が大海になったとき、そこにはもはや泡沫はない。
(すでに泡沫ではない)
泡末を生み出す大海があって、
大海が泡沫を生み出す(そしてそれは滅する)が、泡沫が先にあるのではない。
自我の錯角もこれと似ている。 >>524
独学や我流ではなくて
ちゃんとしたところでやってる? >>533
>認識する働きがあるだけ。
誰が瞑想して
認識する働きがあるだけ
と認識したのだすか? 思考の外側に抜け出せば、本当の慧が分かる。
慧は人智を越えているので、人間の論理思考で捉えるのは、たぶん無理。
思考の前提に有身見があるからだと思う。
一定時間、雑念思考に流されないで居られれば、そこから抜け出せる。
抜け出すという表現自体に、何から何が抜け出すのか、主体を想定した言葉だから、正確ではない。
言語の構造自体が、自我の錯覚から発生しているせいだと思う。 生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとしいけるものの願い事が叶えられますように
生きとしいけるものにも悟りの光が現れますように >>537のレスをしているのは誰だすか?
>>537の自我がレスしているとかいったらそれは思考から抜け出してない言葉が列挙してあるだけのレスということになりますな
>>537の言い分によりますと 映画マトリックスで例えるなら、
マトリックスのなかのアバター同士が、マトリックスの外側の話をしている。
そういう状態。
>>535 >独学や我流ではなくて
ttp://www.onedhamma.com/
大乗1.0の世界観をもって
上座部 2.0を実践する
3.0のpodcast法話
15/05/24
魚川祐司氏・山下良道僧侶・藤田一照僧侶
この法話から、最新の法話も聞いちょりまつ
_ _ _
>>525 >どこの宗教宗派支持してるの?
第6のチャクラ、眉間のところが
くすぐったい、むずむずする。の実践もしてるので
六師外道系?ヒンドゥー系?チベット系?も肯定でつ
ttp://jairo.nii.ac.jp/0180/00000655
チベットに伝わる心の訓練法
…
二菩提心(勝義菩提心・世俗菩提心)
[仏そのもの]の智慧と慈悲をもって
縁起している
[諸法は(夢・幻の如く)空性である]と観照する
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
縁起している
すべて一切の諸法を「(夢・幻の如く)空性である」と観照せよ 泡沫が大海と一体になるとき、泡沫の中からなんらかの主体が大海に飛び出すのではない。
大海と泡沫とを切り離している、(泡沫の)壁を取り除けばよいだけ。
主体はない。 泡沫が、大海から生みだされた(そして滅する)ものでありながら、
泡沫のなかに大海を見いだそうとしても、それは無理。
泡沫が大海を悟るわけでもない。
泡沫であることをやめれば、そこには初めから大海があった、と気づく。
いろいろと逆。
顛倒夢想。 >>540
誰がそう認識してるのだすか?
>>543
大海は意識で泡沫が自我だすか?
誰がそう認識したのだすか? 泡沫が大海を悟るわけでもない。
泡沫であることをやめれば、そこには初めから大海があった、と気づく。
いろいろと逆。
顛倒夢想。
という>>544の意識だがこれは無常である。
無常なるものは苦である。
すべて苦なるものは無我である。
すべて無我なるものは
『これ我がものにあらず。これ我にあらず。これわが我(アートマン)にあらず。』
と、このように正しき智慧をもって、あるがままにこれを見なければならぬ。
つまり>>544のレスは>>544自身に対しても無我である >>526は自分で瞑想して思考から抜け出してどうなるか確認しているのだね? 538.
結果論である。
その過程論、方法論が問題となる。 >>542
>[諸法は(夢・幻の如く)空性である]と観照する
それは一番陥りやすい考え方だよ。
「夢・幻の如く」なら君の腕をナイフで切ってもいいかい?
嫌だろ?
なぜ嫌なのかというと、例え仮体であっても仮体として存在するからだよ。
「夢・幻の如く」でも食わなきゃ生きてはいけない。
そのことから逃避しようとするとそういう考え方になる。
>六師外道系?ヒンドゥー系?チベット系?も肯定でつ
反する教えをどうやってミックスするんだい? >>542
> 独学や我流ではなくて
というのは、本とか理論の話ではなくて、
瞑想や座禅のこと。
ちゃんとしたところで教わったの?
>>549
>>六師外道系?ヒンドゥー系?チベット系?も肯定でつ
>反する教えをどうやってミックスするんだい?
これは
ttp://www.onedhamma.com/?p=5136
15/05/24
魚川祐司氏・山下良道僧侶・藤田一照僧侶
この法話から
最新の法話を
毎週、聴いてみないと
意味がわからないかもしてない
3.0理解するには
大乗1.0原理主義の人には無理
上座部 2.0原理主義の人にも無理かもしれない
とりあえずの共通点としては
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99
宗教(religion)
(上座部 2.0も含めて)人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
上座部 2.0の場合もとりあえず
([縁起している世界]を超えている)涅槃も(無明も)前提としている 447
来ますよ
でも、5月に入ってしまうので
もう少し時間かかりそう
夏かもね夏枯れ相場
>>551の訂正
仮設としての
縁起している世界の中の
仮の現れ(そして滅)としての
無明薫習からの依存
− これを対処するために −
苦集滅道をもって
最終的には
(縁起している世界の中からの)解脱を知覚して
(縁起している世界を手放し超えてる)涅槃に住む
と対機説法をもって導く。ということでつ
訂正して、お詫び申し上げます m(_ _)m
>>550 >本とか理論の話ではなくて
ttp://www.onedhamma.com/
2016〜2017の約1年くらいは
神奈川県鎌倉市稲村ヶ崎の
一法庵に逝ってたけど
電車代が往復で
8000円くらい掛かるので
金銭的に余裕がないので
今は逝ってないでつ
ちなみに
チベット系は
往復の電車代 +
ttp://www.tibethouse.jp/event/2018/
2018年7月7日(土)〜 7月8日(日)
リン・リンポチェ師による『心を訓練する八つの教え』と観音許可灌頂
◆ 会場:大本山 護国寺 桂昌殿
◆ 冥加料:15,000円(7月7日、7月8日あわせて)
逝きたいけど↑金銭的に余裕がないので、たぶん無理 >>553
そういう屁理屈はもういい。
瞑想や座禅やマインドフルネスを、
ちゃんとした場所で教わった経験はあるのかい? >>530
説明対象と完全一致する喩えなぞ存在する筈なかろ?w
それは既に喩えでなく、同一だよ。
「喩、譬、譬喩」が、
共通部分を抽出し、強調し、焦点を合わせ、
相違点を捨象して比較する手法であるならば、
君の指摘は野次以外の何物でもない。 >>554
それなら、もっと安いところを探したら? >>545
仏教における出世間の視座は、主語の無い文法だと思ってみ?
勿論、世間の視座は「オレが私が・・・」の一択なわけだがw >>549
意味不明。
【「仮体」たること】を「夢幻」と【表現している】【評している】のだろ?
「五蘊」(の総体)という術語を、今一度学び直した方がいいんじゃないのか?
>>555
>瞑想や座禅やマインドフルネスを、
>ちゃんとした場所で教わった経験はあるのかい?
2016〜2017の約1年くらいは
神奈川県鎌倉市稲村ヶ崎の
一法庵で 3.0として
上座部 2.0 パオ・セヤドーの実践をしました
ちなみに 3.0は、実践としては
上座部 2.0 パオ・セヤドーの実践をしてるけど
世界観としては、大乗1.0の世界観でつ
それが 3.0でつ
ttp://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-13592-1/
〈仏教3.0〉を哲学する
藤田一照 / 永井均 / 山下良道著
知らないんでつか?
3.0けっこう有名らしいでつよ? 一法庵はよかったですか?
もう行かれてないんですか?
行かなくなった理由とかあるんですか?
>>561
>一法庵はよかったですか?
(大乗1.0の世界観を受け入れて、それからなら)
100パーセント
そのまま
上座部 2.0のパオ・セヤドーの実践の方が良いかも?
>もう行かれてないんですか?
金銭的に余裕があるのなら
ゴータミー精舎(幡ケ谷テーラワーダ仏教センター)にも
チベット系にも逝ってみたいでつ
>行かなくなった理由とかあるんですか?
金銭的に余裕がないので
それと
とりあえずは
大乗 1.0の世界観は、わかった(ような気がする?)ので
100パーセント
そのまま
上座部 2.0のパオ・セヤドーの実践と
チャクラ、クンダリニー系と
チベット系も良い。と思っちょりまつ
マハーシ・サヤドー系も?
S.N.ゴエンカ系も?良いかもしれないけど… >>560
その本は読んでる。
>>554
場所はそのようなところでもいいし、
>>562
> 大乗 1.0の世界観は、わかった(ような気がする?)ので
自分でわかったような気がしているのであればそれでいいけど、
あとは、質ではないかな。
満足できるような瞑想や座禅は出来たかどうか。
キミは熱心だし、本もよく読んでいるけど、
本で得た知識と、自身の経験とが一致できていないようなところがある。
質の高い禅定を経験すると、理解も深まる。
そうすれば、今まで読んできたものも生かせるようになるだろう。 >>556
完全一致は求めてないだすが527が出した喩えには主語と述語があるだすから527の思考の方もせめて主語と述語は出すべきだす
深海魚が(主)海面に 飛び出した(述)
人間が(主)宇宙に 飛び出した(述)
◯◯が(主)自我から 抜け出した(述)
527の思考には主語がないのに527が出した喩えにはある
これでは喩えにはならんのです
喩えにしたいのならもとの思考の方にも主語がないとならんのです
天体観測も一緒だす
>>522も主語述語、主客が「天体が丸い」と「無我」では使い方が違ってるので「同様に」などとはならないのだすな >>559
>【「仮体」たること】を「夢幻」と【表現している】【評している】のだろ?
その「ゆめまぼろし」を勘違いする奴が多いから言っているんだ。
学者でもそういう使い方をする人がいるが、やめた方がいい。
それとも君が本気でそう思うのなら君の腕をナイフで切ってもいいかい?
本気で「ゆめまぼろし」だと思うならね。 >>565
主語のあるなしは、
「無我(非我)」及び「行為、事象に於ける主体の消去」
に関して。
喩え話で主語が不要だなどとは言っていない。
※尤も、【喩えたいこと】に於いて主語のあるなしが重要でないなら、(発話者の意図がどうなのかは知らんがw)
一方にあって一方に無くても問題ない。【比較したい箇所がそこでない】ならば。
譬喩表現に於いて、一番ありがちな祖語は、そのような
発話者は捨象して構わないと考える要素を、聞者が捨て置けないと考えるケース。
そう、今の貴方たちのようにw
レス番の返り方のチェックもさることながら、
まず、日本語の勉強から始めようやw ◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない88◆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1173236496/683
683 素人 1/5 sage 2007/03/11(日) 19:02:38
>> 566(=>> 535=486(=酔いどれw))
> 何(だれ)が仮設するの?という突っ込みを
はい。よくわかります。
以前、「「「「「私」を見ている私」を見ている私」を見ている私」を見ている・・・・」
という無限遡及は一度で良い、と述べましたが、ほぼ同様です。
(幽体離脱ではありませんがw)<他者(外)から見た自己>という視点、
(これを哲学用語では「メタ」と言ったりするのでしょうか?)
そうした視点を採用することが不可能であるとは思いません。
『「腹減った」と思考する私』が居るとします。その時の【私】は『「腹減った」と思考している「私」』を見ます。
そして、【私】は『「私」』を、『腹減ったという思考状態にある「私」である』と見ます。
(基本的には、仏教という枠の中ではここまでですw)
さらに、【私】は『この【私】』は、『【「私」を、腹減ったという思考状態である「私」』と見做している思考状態】である』
と見ます。ここまでで十分でしょう?これ以上遡及することは徒労に他なりません。 つまり、≪ 【私】とは、【○○という状態にあること】 ≫という構図が見つけられればそれでよいのではないでしょうか?
(注:肉体としての自己等、心理(脳内)以外の状況は省いています。)
人が、過去しか認識できないとしても、時間的推移の中で只一つしか認識できないものであるなら、
≪ 【私】とは、【○○という状態にあること】 ≫と受け止めること(この場合は「受け止めている状態」と知ること)が、
人間にできる限界なんじゃないかな・・・と。
●
蛇足ながら、
≪ ≫部分に注目するなら、仏教という枠組みの中では、
初っ端から(全てを)≪ 【××】とは、【○○という状態にあること(○○という事象であること)】 ≫
と見ることが根幹でもあります。
だから、「智慧」が最重要のものとされるし、「如実に見る」「あるがままに見る」ということが強く言われるのです。
> また「私」をどのように捉えようと、捉えるという言い方をするかぎり、
> 「だれが?」との問いを受けざるをえないでしょう?
上記と同様ですね。 「言い方」については仕方がないのではないでしょうか・・・。 >>568
ああ意味が分からないんだろ、泡の先生w ◆決定論:脳は物質だから意識は必然にすぎない55◆
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1140273935/824
824 探求者 ◆IageKhlEwc sage 2006/02/25(土) 23:03:00
>> 811
仏教系の知識がほとんどないんで、関係あるところを分かりやすく語ってくれると俺は嬉しい
>その1:デカルト的懐疑(無限遡及)に対する印籠が用意できるかどうか?
> →結局、「受け止め方だよ。」としか言えなかったら、【このスレでは】意味がない。
> →個人的には、時間を楯に「一回でいいじゃんw」と言いたいのだが・・・。
一回的な「この私」「この疑い」を数えてしまうからまずいんだよね。
"2回"起こってるように見えても、それは1回と1回でしかない。
差異を無視して、グループでくくってはじめて2回になる。ここが無限後退の原因。
って概念的な説明するか、時間的な直感に訴えるか。
私を【今まさに疑っている】「この私」を、私が【今】疑うことができるのか?
これを事後的に見て、できるとみなすことが無限後退の原因。
実際俺が経験したのは、最後の「私」が俺ではなくて一言という他人だったことを忘れて
「俺が疑えたんだ」と錯覚してしまったという、似たようでちょっと違う話だ。
時間を楯にしたほう分かりやすいかなぁ? 【私】を記述してください【私の存在性】25
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1223203692/17
17 素人 sage 2008/10/05(日) 21:05:24 0
>【私】を記述してください【私の存在性】24
>http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1222213200/994
> 994 24 sage New! 2008/10/05(日) 19:58:45 0
>>> 992
>だから、どうして「逃れられない枷、縛り」なのかということだけど。
>枷だと考えるのは例えば君は「私の身体はなぜ私の身体であって他人のそれではないのか、いや他人の身体であってもいいはずだ」とか考えているということかな?
>私の身体はなぜ私の身体であって他人のそれではないのか
>他人の身体であってもいいはずだ
そういう方向とはちょっと違うでしょうね・・・。
思考している以上、それは「私が思考している」のでしょう。
五感でもって知覚し、情報収集している以上、「私の身体」なのでしょう。
その時、「思考がある」とだけ見る。「感受がある」とだけ見る。
そのように見ている何ものかをもまた、「そのように見ている」という観察がある、とだけ見るのです。
(この無限遡及は一度或いは二度で十分です。)
掘り下げ、潜行し、余分なものを削ぎ落とし、玉葱を剥いていった時、
『見ている何者か』、『観察している何者か』、は本当に必要なんだろうか・・・?という疑問を持っているだけです。
それは、玉葱の芯を探す(確定する)ことのように愚かなことではないのか? と・・・。
>>563
>あとは、質ではないかな
>満足できるような瞑想や座禅は出来たかどうか
呼吸への観照は
9秒くらいまでなので
上座部 2.0で云うところの
canda(チャンダ)
単純な(純粋な)意欲・やる気が足らないのかもしれないでつ
大乗1.0で云うところの
(「仏そのもの」の)智慧と慈悲も足らないのかもしれないでつ
「仏の大悲・大智」と「自分(おじゃる)」との
双方の縁起の
相応一致も足らないのかもしれないでつ
縁起している世界を手放しする
その直前までは
縁起に依存しているので…
自力で往生などしようとしないで
一切の物事を阿弥陀仏にお任せする
(或いは、お任せできるのか…?) >>567
祖語ではない齟齬だす
日本語の勉強から始めることだすなw
ID:Vl73B49/師匠も
面白い師匠でつね?
これからも頑張ってくださいませ ヨロ m(_ _)m
_ _ _
隠居師匠
閻魔師匠
縁起一代師匠
みんな元気で生きてるのかしらん?
ちなみに
隠居師匠は
中論肯定派だけど
中観自立派のような立場として
中観帰謬派のようなもを否定してた師匠でつ
ちなみに
自分(おじゃる)ID:yRBuy5Ef も
[ 仮設としての ] という意味で、中観自立派のような立場でつ
>>566 ID:3INkBdtl 師匠
>「ゆめまぼろし」を勘違いする奴が多い
ttp://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
曹洞宗 内山興正
([仮設としての]という意味で)
([夢・幻のような空性である]というような?)
諸法無我は
倫理道徳の破壊につながってしまいます
たとえば↑こう云うことかしらん?
_ _ _
それでも、とりあえず
中観帰謬派とか?の場合は
ttps://www.tibethouse.jp/about/buddhism/text/pdfs/gomrim_barpa_201612-2.pdf
カマラシーラ
…
心そのもの〔の現われ〕である物質的存在などを
夢の中に現れる物質的存在などのように
まるで外界に切り離されて〔独立して〕存在しているかのように見ている
しかし
究極的には、これらの物質的存在などは
心の現われ以外の何ものでもない
虚妄そのもの
幻に実体がないのと同じように 夢幻というと軽視していいというニュアンスで語られやすいけどそういうことじゃないよね
夢幻として扱う
夢幻というのは無常であり執着の対象にならないって意味だろうけど、
執着しないことと軽視することは同じではないしね
夢幻としてある意味大切に扱えばいい
執着なしでもそのときそのとき大切に扱うことはできる
>>578 ID:D7DpFSUu 師匠
仮設としての
執着を手放し
無明を超えて
今この瞬間を生きている
ということなんでつね?
ご教示ありがとうございます アリガト
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
慈悲の冥想
生きとし生けるものに
般若の智慧と慈悲をもって
悟りの光が現れますように
無明している
すべて一切の物事を阿弥陀仏にお任せして
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m やたらと語尾にwをつけるのはセブンとそのお友達のパーピマンの2人
これ豆な
ちなみに昨夜のwはセブン >>580
どこの誰? セブンとかパーピマンって? 579.
バカおじゃる、は阿弥陀仏とか如来とか言ってるバカである。 >>574
> 呼吸への観照は
> 9秒くらいまでなので
これはどういうこと? >>574
> 単純な(純粋な)意欲・やる気が足らないのかもしれないでつ
>>554のようなところを複数回経験しているなら、
あとは特別なところでなくてもいいはず。
近くで普段使いできるようなところを探したり。
坐りたいと思った時に気軽に行って坐れるようだと、気づきも多い。
>>583
>> 9秒くらいまでなので
> これはどういうこと?
たとえば上座部とかの場合は
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
呼吸を見るときに
30分〜1時間
この間に、他のことや妄想、思考が入らないように
というような決まりがあるけど
自分(おじゃる)の場合は
9秒くらいまでしかできない
という意味でつ
道元 普勧坐禅儀
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐
このような妄想、思考が入らない状態を維持して
30分〜1時間
呼吸を観察せよ
という意味でつ
それが何秒?何分?できるのか?という意味でつ
>>584
>坐りたいと思った時に気軽に行って坐れるようだと、気づきも多い
手放して → 気づく
([今この瞬間]に)気づいて → そして手放していく
最終的には
仮設としての
縁起している世界を手放して → 涅槃
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m
面倒くさいので全部読んでないけどとりあえず
ttp://science-and-buddhism.com/chapter-5/
今のあなたたちに
『四諦、八正道、十二縁起』という筏はもう必要ありません
あなたたちは科学技術という船に乗って悟りを目指しなさい
今の
これからの
『科学は正しい』と洗脳されている人なのかしらん?
もっとも
創価信者の人達も
ある特定の人物とかが『正しい』と洗脳されていると思うけど…
スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
(『これからの科学は素晴らしい』というような想いも含めて)
仮設としての
縁起している世界を手放し超えて
激流を克服して
すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
仮設としての
『これからの科学は素晴らしい』
というような想いも手放し超えて → 涅槃
>>587
誤爆でつ
失礼いたしました
この上座部スレに
創価信者の人は
たぶん来ないと思うけど
もし創価関係の「あらし」が来たら スマソ m(_ _)m 夢幻に拒絶反応起こしてる人には、
机との 「(一枚の)紙の表裏の喩え」 を提示した方がいいかな?
ログ漁って出てくるかわからんけど。 >>585
> 9秒くらいまでしかできない
それぐらいだろうね。
童貞並みだけど。。。
1泊のものでいいから、合宿にでも行ってみれば?
実際には、言語による思考を停止しても、大小様々な想念が生じるから、
それらもありのままに観察して受け流すようにする。
>>591
>それら(妄想、思考)もありのままに観察して受け流すようにする
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
正確に説明すると
たとえば
自分(おじゃる)の場合は
心意識・念想観を止めてるのではなくて
大乗1.0の世界観
[仏そのもの]の世界から観照する
というような感じで
雑念が出てきたことに気づいても
この雑念を自然に手放して
その辺りに漂わせておくようにして
というような感じで
フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ
今のところは↑これを13秒くらいまで おじゃる
(フォーカシングは心理療法 おじゃる) >>585
道元でキミに必要なのは、「只管打坐」の先の「心身脱落」。
それにはキャパを超える経験をしないと。
キミは抱えているものが多いから。
3.0だの一切の如来の足だのクンダリーニだのと。
>>593
> 抱えているものが多いから
> 3.0だの一切の如来の足だのクンダリーニだのと
自分(おじゃる)の場合は
小学4年の頃の
『落武者の霊を見た!』と今でも引きずっていて
そして、元々は
オカルトスレから → 仏教議論スレへ
そして
今ここの上座部スレに来てるけど
なかなか
掴もうとしている『想いの手放しをするのは難しい』でつ
元々は
オカルトスレから来てるので
やはり
『チャクラだ!クンダリニーだ!』という感じでつ
_ _ _
自力で往生などしようとしないで
無明薫習している
すべて一切の物事を阿弥陀仏にお任せして
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
↓オウム信者と勘違いされるかもしれないけど
ttps://www.kosei-shuppan.co.jp/book/b274452.html
新アジア仏教史9 チベット 須弥山の仏教世界 165ページ参照
…
チャンダーリの火
臍のチャクラに宿る熱
この熱の力で風(ルン)を中央脈管の中に導き入れ
それが脈管に入り留まり溶け込むことに習熟した時
菩提心である精液が溶け出し
それが中央脈管の中を上下に移動しながら
四つのチャクラを通過する時に四段階の歓喜が生じ
最終的には
源初から存在する(倶生)
大楽を元に楽空無別の智慧を獲得する
↑チベット密教系で おじゃる クンダリニー上げるの失敗すると最悪死ぬよ。テーラワーダからすると、もともと無いとか
言いそうだけど。釈迦の頭頂の膨らみって特殊なヨーガやったから出来たとか言われてるけど。
>クンダリニー上げるの失敗すると最悪死ぬよ
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
三十二相(さんじゅうにそう)
31. 頂髻相(ちょうけいそう)
頭の頂の肉が隆起して髻(もとどり)の形を成している。肉髻(にくけい)
↑これでつね?
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
光り輝いている智慧と慈悲が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
[ 頭を裂け落とさせる ] ものである >>595
精液は菩提心と同一とみなされるから、一滴も漏らさないようにするんだろ?
ご苦労な話だ。
ツォンカパは、密教を、顕教の学習の後に研修すべきものとした。
高度な心身のコントロールが必要になるから。
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
ツォンカパ
アティーシャの『菩提道灯論』に範をとって主著『菩提道次第論』を著し…
アティーシャ
ヴィシュヌ派、シヴァ派、ヒンドゥー教の
タントラを始めとする多くの教義を学び…
無著、世親による弥勒菩薩の法脈(唯識派)、龍樹
月称による文殊菩薩の法脈(中観派)を学んでいる
月称(チャンドラキールティ)
帰謬論法の有効性を主張し、中観派における
中観帰謬派と中観自立派の二派対立の端緒になった
主著の『入中論』においては、克明な唯識批判を行った
そうだったんでつか↑知りませんでした
ヒンドゥー、タントラ、唯識とかの
アティーシャ師匠の勉強もしたいと思いまつ
たとえば
中観帰謬派の
世俗の次元においても自性(我)を否定する
根本仏典(上座部 2.0)も
世俗の次元においても我を否定する
それゆえに
スレチではない。ということでつ、一応念のため…
>ツォンカパは、密教を、顕教の学習の後に研修すべきものとした
↓これでつね(ツォンカパの師匠?)
ttps://www.jangchuplamrim.org/wp-content/uploads/2012/09/Lamp_Path_Japanese_MRinchen.pdf
菩提道灯論
アティーシャ・ディパンカーラ・シュリジュニャーナ
15
[仏そのもの]の世界から観照して
根本仏典(上座部 2.0)の
戒・定・慧の
三学を守りなさい
39
煩悩障と所知障をすべて滅するために
35
36
37
38
[仏そのもの]の世界から観照して
根本仏典(上座部 2.0)の
(止観の)止をもって
智慧の完成(止観の観)をもって
煩悩障・所知障とかの障りをなくす
↑密教の世界観として唯識も混ざってるけど、とりあえず… ツォンカパは、チベット仏教ゲルク派の開祖。
歴代のダライ・ラマはここに所属。
ゲルク派の僧はまず顕教を学び、それが終了した段階で意欲があり、
かつ師が認めた者だけが次の密教の研修に進めるが、それは全体の約一割だという。 仏教密教は大乗仏教にのみ生じたもので、テーラワーダ仏教にはないね。
>まず顕教を
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
とりあえず
(ウィキペディア参照)
大乗のみならず
パーリ経典も編纂されたものである
近代の文献学上は
原始経典さえも
釈迦の言説が明確に記録されているか明らかでない
それでも、とりあえず
スッタニパータ
第4〜5章
この部分がもっとも古く、元は独立した経典だった
らしいので
これからも
上座部 2.0としての導きも進めていきたいと思いまつ
戒・定・慧・解脱・解脱智見
慈悲の冥想
生きとし生けるものに
光り輝いている智慧と慈悲をもって
悟りの光が現れますように
一切の如来(衆生)の御足を礼拝し奉る m(_ _)m
(この場合の如来は「衆生でもある」という意味でつ一応、念のため…) 智慧と慈悲を持っていない、バカおじゃる、の登場である。
宣伝隊長に任命する。 佛とは嘘で在り、悪で在る。
仏教なる名目に於いて一般労働からの逃亡を謳歌せし僧侶達は常に自己と周囲を欺く。
何ぞ反動的冒険を行えど、其れすら仏道の証と決定し、粉飾に塗れた生涯の一頁に刻むのだ。
例を挙げん。特権階級は道義的な労働条件から全く逸脱した人権の蹂躙たる酷使や富の再分配を忘却した独占主義なる犯罪行為に手を労働者の血で染めては其れを「ノブレスオブリージュの代償」と呼ぶ。
労働争議で被虐者が起てば、工場は生産是れ唯一の場所に非ずと言い出す。
資本家は青春の二文字をさも金科玉条かの如くに思慕し、如何なる一般的解釈も社会通念も屈曲する。
支配層に係れば虚偽も欺瞞も、詐術も弾圧さえも青春の香辛料でしか無いのだ。
又、封建領主は其の悪行に、其の詭弁に特別性を見出す。自己の労働からの逃亡は遍く青春の一部分で在るが、労働者の逃亡は青春でなく只の叛逆にして重罪であると断じるのだ。
仮に逃亡する事が仏道の証で在るのなら、資本家化を拒絶した労働者も又青春の中軸でなければ破綻的矛盾を生む。
しかし、肥え太った僧侶共は其れを認め無いだろう。
何の事も在らぬ。全体汚らしい豚の都合主義の範疇を超え無い。畢竟、其れは欺瞞に他成らぬ。虚偽も欺瞞も詐術も弾圧も糾弾される可き物だ。
資本主義は悪の源泉だ。
演繹的にも帰納的にも前衛的に仏道(笑)を謳歌してい無い労働者の方が正当な真理的正義で在る。
結論を言おう。
共産主義こそ根本である。 もしかして…
女子児童に猥褻行為をはたらいて懲戒解雇になった西村先生? うわあ〜、まだこんな化石のような人っているんだね〜。 https://i.imgur.com/kujtfeM.jpg
https://i.imgur.com/aDV5Z9K.jpg
並川孝儀という仏教学者は、仏陀がアーラーラ・カーラーマ仙人やウッダカ・ラーマプッタ仙人から禅定を学んだというのは創作であろうとしている。 とある瞑想の会に行った。自分的に最後の方は結構いい感じと思っていたら、指導する人に、いきなりそのことを指摘されてびっくりした。
なんでわかるんだろう。 >>610
あるある
私なんて頭の中を占めていた、慕って敬愛した師匠のことを慈悲の瞑想を始める前に言い当てられた
その師匠のことなんて、指導する僧侶にも参加者にも一言たりとも話していないし、
SNSにも一切書いてないから、誰も知るよし無いことだったんだよ 瀬戸内じゃくちゅう氏も含めみんな不動明王やイルミナティー(実はおなじものなので)をとなえたり、キャラクターデザイン
に使ったりしてはいけない。まだ子供のゲームデザインなどにつかいCMしてるのを先日見た。
不動明王(シヴァも同じとする説もある)は何万年と人類、他の神仏をだましてきてることが発覚しており、
みんな知らずに被害を受けてきている。この度、抹消対象の指名手配犯になっています。
不動明王は観想してはいけない。過去空海がだまされている。 >>614
指導を受けるなら、こういう人の方がいいかも
なんか本物っぽいし >>618
熟練の僧侶は近くにいる人が考えていることとか分かることもあるみただよ
頭に浮かんだことを笑いながら指摘されたという書き込みを読んだことある >>619
心を見通す能力と、その人の人格が素晴らしいかは
別なんですよ。
視力が良い人を人格者と言わない。
人を助けるために、いかに受け取った情報を組み立てて
役立てるか?そこに個人の采配、生き方のセンスが現れちゃう。 瞑想が上手い
有名な指導者
弟子が多い
だからといって人格者とも限らない!? |lililililililililili/ .ヽlili| /:::::::,ヽ#"ヽ` "゛/ :::::|
ililililil ilili〆 /⌒ lili/ /::::::/ .,,=≡, ,,≡=, l::::::|
(ili -・=V =・- V) i::::::l゛ .,-・= ,!. =・- l::τ
゚li " (・_・)ヽ l* |:::::| :⌒ /.. iヽ ⌒u|::i
)人 > ⇒( 人( (i::i″ ,ィ__) i/
_ __:ヽ、__ __,イ_ ヽ U / ::::/:::〈 i
/;:;:/゚。 ⌒。゚\;ヽ ヽ_ ノ::``ーー''ヽ _/
|:;:;:;:;Y * /;く;:\ __人 ` ̄´ 人_
|;:ヽ:;:;: \ ̄/;:;/;:;:\ /: : : : : ` " λ : :ヽ: :\
|:;:ヽ:;:;:;:;ヽ/, / ⌒つニ/⌒ ヽ: : : :\ /▼ヽ/: :く: : : \
|;:;:\;:;:;:// /< 二二)(二二): : : : : :\▲/:_・:/: :_: : : :ヽ__
|:;:;:;:\;:;:|| | < __)ゝ__人: : : : : : : ▼// ̄__つ (__)
;:;:;:;:;\:;| | <___ノ (___): \: : : : : :// / < __)(____)
ヾヽニニ/ヽ--'/: : : : : :\: : : :| | | < ___) (__)
反 知 性 主 義 者 >>625
このタイミング...
書きたいこととバックグラウンドになる経験もありますが、そこは今は書かずに流れに穏和に応じて書きますね
あなたが云わんとすることも分かるので、それは胸に留めておきますの ブッダの教えや先達の長老方の教えを疑っていてすみませんでした。ここにおいて、
謝罪させていただきます。 慈悲の瞑想が好きでやっていたけど、気が付いたら慈悲もどきのエゴの瞑想になっていた
自分以外の人達の幸せを願っていたよ
幸せになってほしいと思っていたよ
でも、自分のものさしで推し量った幸せや、自分に都合の良い幸せ像の押し付けになっていた
それに気付いて微妙な気持ちになった
アーナパーナ・サティからやり直すわ >>632
360度廻って同じところ
でも、それはまた違うものだと私は思います メーテルさんのまとめで知って、眼からうろこだったよ。
ペラヘラ祭は、土着宗教のサマン神と仏陀の合祀されたものだってこと!
スマが自分を仏陀その人と勘違いしてるぐらい奢っていても
「荒ぶるヤカー」スマ神と仏陀、サマン神の合祀 スマン神だと思ったら理解できた。
理性とか、自己観察とか言うからなんか変だなぁ〜変だなぁ〜と思ったよ。
土着信仰をひろめに来たんだね。
スマン神さまにお稲荷さんをお供えして、おみくじ引いてあげるね。
日本にもそういうの、もともとあるんだよ。早くいってくれればいいのに。
なんでヴィパッサナー瞑想とかしなきゃいけなかったんだ・・?! >>635
私がまとめたものじゃないですけどね
今後ともみんなで改訂してペタペタ貼っていきましょう >>637
死刑は五戒を破ることになるので良くない。
仏教国ではありえない。 苦から逃れる。
それは、現実の娑婆世界からの逃避?
苦しむ因となるものから逃れる。
瞑想して思考停止する。
釈迦仏には、悩みも苦しみもなかったのだろうか?
解脱?悟り? 成仏とはいったい何?
仏教の最終ゴールとはなんですか?
成仏したあとは、どこを目指すのですか?
この娑婆世界を離れて、仏の住む寂光浄土というものがあるのしょうか?
誰かが言っていたように、「苦を除く」という目的であれば、現代科学を駆使して物理的人体改造で事足りるのでは?
しかし、そうなってはもはや「人間」では無くなるような気がしますが如何? >>639
まずは入門書から読んで便器してください。そんな基礎からここで説明するのはスレ違い >>640
あなたに答えられる訳がない。
上から目線でものを言う慢心者は、仏法者ではない。
スルーして結構です。あなたに答えは求めていない。
ある生徒が疑問に思ったことを先生に質問した。
それに対し、先生曰く「そんなことも分からないのか!」と。
生徒は先生に「自分の知識の有る無し」を評価してもらおうと思ったのではない。 「答え」を知りたかったのです。
これは、認識と評価を混同した例である。
本当に仏法を理解している人の説明は、釈尊が「種々の因縁、種々の喩え」によって広く教えを説いたように、実にわかりやすい。
反対に理解していない人の話は、自己陶酔型の説明が多く、分かりづらい。(学校においても、一級の教師と3流の教師の違いはまさにそこにある。)
いままで、いろんな板で多くの論者のレスを見てきたが、大抵はその定義が成り立つ。
そして、一番分かっていない者ほど「そんなことも分からないのか!」という捨てセリフを言いたがるものだ。(笑 そして、もう一つ私の持論だが
仏法は実践しないと本当には分からない。
何度も例えに出すが、バットを振ったことにない人間が野球教本を何万冊読もうと、草野球のレギュラーにすらなれない。ということだ。 >>639
現実世界から逃れるというより、より明らかに現実とコミットすることだと思うよ
だいたい、我々の思考や感情は現実に基づいていないことが多い
体調が悪くて不機嫌になり、自分は不幸だなぁ、とか相手が悪いんだ、とか思うことは
現実的ではないけど、本当に思ったよりよくあること。
虫の居所が悪くて、他人を悪くとらえたり、逆にちょっと良いことがあると慢心したり
まあこれらは極端な例だけど、ちょっと観察するとこういうことは本当に、毎瞬舞瞬
自分の中で起こっている。
それらを明らかに観察すると、ちょっと距離が出来て、より現実的になる。と思う。
その究極の地点が仏教で言う解脱であり、一神教で言う神の国かもね。 たとえば・・・ケンカするときは、どうしてもそのときはケンカしなきゃいけない、
相手が悪いのは絶対。自分は言わなきゃならない。と思う。
でも、それは現実ではない。けんか腰になる必要はないし、それどころか発言せず
退出することだってできる。
けんかする必要がないのに、そのときは、他に選択肢がないと感じている。
これが仏教で言う迷いであり、苦でしょう。
卑近なところで言えば5ちゃんでの議論、拡大すれば国家間の戦争。
宗教者でさえ
本当は必要がないことなのに、おびただしい時間と労力を使って傷つけあう。
瞑想は時間の無駄という人がいるけれど、僕はそうは思わないな ブッダの教えで私たちにもたらされるものは「私」からの離脱です。
「私」からの離脱が起こった時、苦の滅が行われます。
これらを初めて体験する場合、初めて本当の意味で「私」とは何か、「苦」とは何かを知ることになるでしょう。
逆に言えば、「私」からの離脱が起きない限り、それらを知ることは出来ないということになります。
それらは、空気と同じであまりにも当たり前すぎて私たちには捉えることが出来ないのです。 「私」がいない世界を想像できますか?
悟った人は、「私」がいない世界を生きています。
「私」がいない世界を今この瞬間感じて生きているのです。
一般的に考えて、「私」がいない世界はあり得ないことはよく分かります。
そう、悟った人というのは、ごく一般の人間、ごく一般の生命では到底あり得ない、宇宙の中で極めて特異な生命であり、正に仏法の稀有さを体現している人だと言えるでしょう。 ブッダの教えの本当の価値は、悟った時に初めて分かると言えます。
一度預流果になってしまえば、必ず阿羅漢になると言われる所以はそこにあります。
「私」からの離脱は、生命の存在の根本を覆す、比類のない価値観の変容をもたらします。
その凄まじさを体験した後は、もうその瞬間以降はブッダに帰依するしかありません。
「もう、これ以上のものは宇宙に存在しない」と確信が持てるようになります。
ただ、そういった話を聞いて「私は悟ってないからブッダの教えの本当の価値は分からないんだ。」と落胆する人がいます。決して落胆しないで下さい。
私たちが取るべきなのは落胆ではなく、「私は知らない」を自覚し、驕り高ぶることなく謙虚に精進するという事なのです。 >>646
「私」からの離脱
に出発点として不必要な困難を招く誤謬があるよう私には思えます。
このスレの発言のどれがあなたですか?
つなげてみなければ分かりませんので >>649
このスレでは>>638だけです。
参考にならないと思います。
すみません。
前スレでは
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/
ID:leT8Ny+V
ID:wKv6syH8
など発言してますよ。 >>650
ありがとうございます
明日、会社でプリントアウトして考えてみます
悟らなくとも仏法は活かしてゆけるのではないかという立場です。
なので、どうしても悟らなければ仏法は意味がないという日本テーラワーダ系の論調に過敏になってしまいます。
「私」からの離脱よりも在家は洞察によって過剰な「私」への執着を落とすことの方が有効ではないかと考えています
もちろん、悟り、あるいはそれに近い方々がその風景を大いに語って頂くことはありがたいことですが
その意味もあってスマナサーラ長老の法話に納得がいかないのです >>651
>悟らなくとも仏法は活かしてゆける
仰る通りだと思います。
活かしてゆける、つまり実践の道中でも果実は得られるということですよね。
そして、「私」への執着を落としていくということは、正に日常生活で活きてくる在家にとって重要なことだと思います。 みんな、よりよい人間になるとか、人として幸福に生きるとか、此岸の話しか理解できない人が多いよな。
来世で天界に生まれ変わるとかもそう。此岸の話。
それは別に否定しないけど、彼岸に渡る話こそが仏法の真骨頂なのに。 悟りや解脱は、現実逃避じゃないと思うよ。
そもそも凡夫が考える現実とやらが主観であって、幻想なんだからね。 >>654
確かに凡夫には端的な主観しかなく幻想かもしれませんが、彼岸に渡るまでは旅じゃないですか
親切な指南書みたいなものがあった方が楽だと思うのですが >>651
>なので、どうしても悟らなければ仏法は意味がないという日本テーラワーダ系の論調に過敏になってしまいます。
日本テーラワーダというより上座部仏教圏全般じゃないですかね?
あちらは輪廻思想が強いから、ならば生まれ変わってもいつか解脱できるというのが前提で、
解脱という概念が強いんだろうけど、欧米人や我々はそうは行きませんからね
解脱できなくても今の人生でなにか善いものが生み出せるというモチベーションがないと
アメリカでマインドフルネスを広めたジャック・コーンフィールド氏は、テーラワーダのもつ
そうした二元性(悟りか否か)に疑問を持って、アメリカでインサイトメディテーションセンターを
設立したときに、極力そういう概念を排除したという(「悟らなくたっていいじゃないか」より)
僕もゴエンカさんの法話を合宿で聞いたときは、「瞑想するか不幸な人生か」みたいな考えに
囚われて非常に怖くなりました。
いまでは、瞑想はすくなくとも善いものだから善いものをうみだし、それは自分や
他者や環境にも善いだろう、と気楽に考えてます >>655
仏教徒にもいろんな層がいるので、それぞれに合った法門を選べば良いのだと思いますよ。
現世的な幸福や成功を望む人は、本人がそう望んでいる以上、他人がどうこう言っても仕方ないし。
ただ、テーラワーダの人(特に出家するような人たち)は、解脱や悟りに至る乗り物として、その伝統を
死守しているわけですよね。
伝統の方から、世間一般の風潮に歩み寄ってしまうというのは、伝統にとって死活問題だと思います。
解脱、悟りの法門が滅ぶというのが、人類にとってどれだけ巨大な損失なのか、輪廻ってあるのかな?
とか考えているような人たちは、絶対に分からんでしょう。 八正道は、出世間の道だけど、
目標を世俗の願望成就に入れ替えても、ほぼそのまま応用できると思うけどね。
どんな目標達成も、正念、正精進で前に進むし
問題解決は正見、正思惟によるし、
正語、正業、正命(要するに戒)という規律は目標達成、目的実現の土台である
ことに変わりはない。 人間関係の基礎は慈悲だし、仏法は現世で幸福に生きることや、成功にもそのまま使える。
ただし四諦、縁起(因果律)、生老病死に抗うことはできない。 問題は正定。
正定がないと、その人は人間の常識(というか思考による思慮別智)を
越えた領域を知ることができない。
できれば、人生で一度でも正定に至るレベルの座禅をやった方がいい。
究極的なところ、思考というのは、自我の中に生みだされる抽象概念で
しかないので、座禅でそこから抜け出した経験がないと、一生妄想のなか
にいたまま死んでいくことを意味する。 理性的な人々はとっても賢いのだが、
実は、とっても賢い妄想のなかにいる。
賢い妄想のなかにいるより、
妄想から抜け出す方が、ずっとずっと有意義なのだが。 やり方はお釈迦さま(仏)が全て教えて下さっている(法)。
サンガに行けば、実践して結果をだしている人もいるし、やり方も教えて貰うこともできる(僧)。
他に何が要る?
必要なものは既に全てある。 仏法僧に帰依し奉る。サードゥ、サードゥ、サードゥ。 >>642
一番わかってないのが長レス。お前が一番迷惑www
やめとけ あなたがたは既にニルヴァーナにいるのだ。
見なさい
陽炎に揺れる景色を
画家はあなただ!
要点を掴みなさい。 あなたはあなたに出会った事があるだろうか?
あなたは本当のあなたを知らない。
あなたの苦しみは真の自己からの絶え間ない
呼びかけなのだ。
忘れてしまったのかね?
本当の海の青さを
見るもの全てがあなたで輝いていたというのに
振り出しに戻りなさい。 >>644
実に解りやすいです。
>「私」からの離脱
というのは、>>654 さんの言うところの
>そもそも凡夫が考える現実とやらが主観であって、幻想なんだからね。
つまり、仏教で言うところの「唯識論」を土台とした教えなのでしょうか?
※幻想からの離脱?
>「私」からの離脱が起こった時、苦の滅が行われます。
喜怒哀楽といったものは、人間の生命状態の一部だと思います。
大乗仏教では十界論等に詳しく説明されています。
修行により「私」からの離脱により苦から離脱するのですね。
すると、喜びも含めて一切の感情から離脱することを意味するのでしょうか?
想像するに「死」と「「私」からの離脱」とはどう違うのでしょうか?
そもそも、ブッタには苦悩や苦痛はなかったのでしょうか?
喜びも悲しみも無い人間、それが仏の真のあるべき姿なのでしょうか?
質問ばかりですみません。 >>669
「死」と「私からの離脱」は同じものだ。
喜怒哀楽は起こるがそれを俯瞰して見ている者となる。
そこには平安しかない。 「死」と「私からの離脱」は同じってどういうこと?
死んだら自動的にに私から離脱できるってこと?
そもそも私から離脱ってなんだ。
釈迦族が滅亡したとき、最後に毒キノコで苦しまれたときも平安しかないって想像つかないな
仏陀は悲しくもなければ苦しくもないってこと? >>671
「私」からの離脱が起こった時、残るものは五蘊です。
感情や思考が全てなくなる機械人間になるわけではありません。
凡夫は五蘊と自我を分けて認識することが出来ないので、その辺のことを実感を伴った形で想像するのは無理だと思いますよ。 >>671
自我の死だ!
苦痛と快楽は同じものであり
ともに至福だ。 心身から離れる(心身を自分と同一視しない)ってことでしょ
生まれてから(あるいは過去生から)心身を自分だと思い込んで生きてきた思い込みの積み重ねをリセットするんよ
心身という常で無いものを自分だと言えるのかどうか >>674
その通りだ。
そして全て忘れ去られた時
なにものでもなくなると同時にあらゆるものとなる。 >>675
無にして全て 全てにして無。
おお あなたさまの悟りが見えまする
おちんちん大明神さまよ!!!!!! >「死」と「私からの離脱」は同じものだ。
すると、この世のすべての人々は容易に解脱できるということになり、
俗に言う、亡くなった人のことを「仏さん」とか呼ばれるのも、あながちウソじゃないという事になりますね。
では、苦悩に満ちた娑婆世界を生きている意味は何なんでしょうか?
仏の悟りは、そんなに簡単なものなのでしょうか?
少し違うように思えますが。
それから、人には過去世からの宿業があります。
瞑想から解脱に至るまで、人間の業はどう関係してくるのでしょうか?
仏法で言う、衆生の機根、すなわち下品、中品、上品も関係してくると思いますが。 >>677
解脱とは苦しみからの開放だ。
それは簡単な事ではない。
何故なら人は死を非常に恐れているからだ。
そして生きるためにもがき苦しむ。
だが、全てが台無しになった時
文字通り土台ごと崩れ去った時
あなたは精神的な死を迎え、身も心もボロボロとなる。
信じがたいかも知れないがそうなった時
あなたはかつてなかった程いきいきと生き始めるのだ。
あなたは身体でも感情でも心でもなかったという事を思い知らされる。
生きながらに死んだ者にとって死は祝福なのだ 死ぬ人は肉体が死ぬだけで精神的に死んでない
未練や執着、価値観や欲を残したまま死ぬ
それと精神的な私が死ぬのはまた別
肉体が死ななくても精神的な私が死(私からの離脱)ねば悟り、解脱
肉体が死のうと精神的な私が死んでなければその精神性(個我)が輪廻してしまう 生きながらにして死ぬ事の中には
生まれ、そして死んで行くという行程は当てはまらない。
生きる事と死ぬ事は等しいのだ。 因果からの形としての解脱はない。時間軸で生きている以上それはない。一切の修行は時間軸上に展開しているから。時間の上で行ったことの結果は時間の上にしか展開しない。
どんな素晴らしい瞑想でもそうです。
時空を超えているのは意識のみで「不昧因果」です。そこを修行によって異質なものに変化すると考えるのは「迷信」です。 しかし考えてみてほしい。
あなたが身体でも思考でも感情でも心でさえもない時、あなたは何だろうか?
意識、或いは気づきではないだろうか?
あなたではないものが剥がれ落ちたところでは世界もまた無いのだ。
世界が幻想ならば時空も幻想となる。
事実、今この瞬間に距離はない。
宇宙が誕生する以前から今この瞬間は、
たった今この瞬間であり、永遠に瞬間であり続けるだろう。
無論、森羅万象は諸行無常だ。
形あるものは時間の中で容赦なく変化し滅びて行く。
しかしあなたは形なきものだ。
異質なのは「時間の中にいる私」という考えであって
実際はあなたの中に時空があり世界があるのではないだろうか? >>1
宗教というのは一点の疑問にいかに答えるかで全く姿勢や教義が変わる
科学的自然説を用いるなら未来が無限というのは理解できるだろうが、過去の時間軸も無限ということになってしまう
時間軸が無限ということは、今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる
(神がいないのであれば)空間(宇宙とは別)にも(有か無かは別として)無限の過去があったと推定できるが、これも科学では説明しえない領域ではあるし
無限の過去があるなら(人類以前に)知的有機生命体ないしは機械が何らかの知的・技術的臨界点に達するための時間が無限にあったということであり、
それだけの時間があれば例えば宇宙を作ることさえも不可能ではないだろう
そう考えると自然として考えてきたものが機械的にエンジニアリングされた環境であったと考えることもできる
この疑問に対する宗教の答えを単純化すると3つに分けることができる
空間に無限の過去が無いという説においては永遠の全体を持つ神(時空間創造説)
存在と意識を小宇宙として限りなく細分化し死によって滅ばない主観と因果律(諸行無常、輪廻思想)
創造−存続−終末的破滅−創造を永遠に繰り返す(円環的時間)
始まりの存在を考えるのは科学の領域でもあるが、人類や(宗教も含む)文明の価値にも影響してくる >>137
そう?
知り合いに名声欲しさにボランティアを立ち上げ
会う人会う人に自分はいかに良い人間かを語る人がいた
憐れみよりもウンザリしたよ
だって哀れんで聞いてたら何十回も同じ話をされるんだぜ
それは自分を否定されたからウンザリするのではなく時間の無駄だからウンザリする
同じ様に悟ってない人ほど他人に言いたがるからな
憐れみはむしろ人を見下してるだけなのかもしれないしな >>678
>それは簡単な事ではない。
死が怖いのは分かるけど、必然的にいずれ皆死ぬんだから、簡単な事だと思うんだけど。
つまり、生きている時に修行する必要なんて無い事になる。
>「死」と「私からの離脱」は同じものだ。(>>670)
>>679
>肉体が死ななくても精神的な私が死(私からの離脱)ねば悟り、解脱
苦からの解放=>(私からの離脱)する事=>悟り・解脱
この考え方では、社会の中で生活する事など現実不可能ですよね。
世俗を離れ、自給自足して仙人のような生活でもしない限り、実生活の上では、仕事をして、家庭を持って、子どもを育てて.
..
そんなことが、「私から離脱した人間」に可能なのでしょうか?
悟らなければ、不幸になるのでしょうか?
ブッタは一切衆生を救済するために法を説きました。
救済は菩薩行だと思います。
苦からの解放は「(私からの離脱)」しか、他に方法は無いのでしょうか?
釈迦仏の前世による因縁を明かした「ジャータカ」に説かれる物語には釈迦の菩薩行が数多く説かれてあります。
座して瞑想というより、むしろ積極的に行動を起こして自身の命を犠牲にしてまでも人を救っていくような物語が多いです。
仏法者として姿勢の在り方を考えさせられます。
大乗仏教から学んだ私には、テーラワーダ仏教の修行の在り方が真反対に思えるし、仮に瞑想で自身の安穏を得られたとしても
、人を救うことは出来ないのではないでしょうか?
自分だけの幸福はあり得ないし、他人だけの不幸もあり得ない。自他供の幸福を祈る事こそ仏法者のあるべき姿のように思いま
す。 私(個人性)を自分と思わなければ私から離脱してるし世俗で生きようと何するのも別に可能なんじゃないの?
心身が心身のまま自然に生きて自分はそれを自分だと同一視せずただ観てるだけ
家庭を持つかもしれないし持たないかもしれないしどのように生きようと他人の人生のように生きるだけ
人を救いたければ救えばいいし救わなくてもいいし
でも人は自分自身で救われるものであって他人が救うもんじゃないよね
他人や覚者や教えは救われるきっかけにはなるけど
結局本人次第 >>686
>人を救いたければ救えばいいし救わなくてもいいし
>でも人は自分自身で救われるものであって他人が救うもんじゃないよね
なるほど。原始仏教を信奉される方々は大抵同じような事を言われます。
私はどうもその考え方には馴染みません。
仏陀もそうした考え方だったのだろうか?と疑問に思えて仕方がないのです。
釈尊の「誰人も見捨てない」という仏の慈悲の振る舞いとは、かけ離れていると思えるからです。 仏法というのは決めつけを廃して、洞察智を鍛える取説のような側面はないかな?
洞察力が働いている間は「私から離脱」しているし、他者に対する悪意の起こりようもない >>687
彼岸に渡っていない人が、他人を彼岸に導けるでしょうか。
ブッダは菩提樹下で無上正等覚に達してから他人を教え導きました。
それまではご自身の修行に専念していたのでは。 無私の奉仕は価値が分かりやすいけれども
無我の修行は世間的な尺度で価値を計れないものですから、
仏教徒でも理解できない人は多いのではないかと思います。 無私 ←世俗の価値観の尺度。方向性としては天(欲六界の上方)へ向かう。
無我 ←出世間の尺度。方向性としては彼岸へ向かう。
無私は、福徳。生天の方向。
無我は、功徳。解脱の方向。
自分が解脱したら、他人を解脱に導けるでしょう。
その方がずっと価値があると思いますけどね。 生天の教えは此岸。 次第説法の前半部。世俗の人に向けた説法。
解脱の教えは彼岸。 次第説法の後半部。悟り・解脱を志すよう促す仏道の本義。 そもそも他人を救うって他人の一体何を救うのさ
色界で何を救おうと他人の欲や我を救うだけだし、自分もまた他人を救ったという欲や我が生じてるだけでしょ
本当の救いとはその人が悟ることだけなんだし悟ってもない人が他人を悟りに導くことなんて偶然でしかできないし まず、ちゃんと瞑想してくださいとしか言いようがないのでは?あと、なるべく他人の
怒りや欲を引き起こさないようにしゃべるとか、それくらいしか自分には方法が見つからない。 悟りの智慧(瞑想による智慧)がないと、人は欲界善のことしか理解できん。 テーラワーダ仏教は魂の存在を認めていないのか
お釈迦様は認めていた気がするけど、矛盾してないかね その前に、君のその理解が正しいか検証する必要がある。 魂は巨大妄想の産物である
ttp://www.j-theravada.net/howa/howa163.html
byスマナサーラ長老 魂という言葉をどういう意味で使ってます?
輪廻の主体として、肉体とは別に存在する自我意識の塊のことを言っているのか
名色における精神現象のことを指しているのか。 仏教でも輪廻があるというから過去生未来生に相続するものがあるという意味で魂って言っちゃうんだろうね
どういう意味で魂というかというと、何が相続されるのかってことになる
例えば今生の自分の性質が相続されるとして、性質を自分だとみなしてる人からすると自分という魂が続くと見えちゃうし、
性質は無常で自分ではないと思う人からすると、輪廻するのは性質であって魂であるとか自分といえる何かはないということになる ブッダは、業報輪廻は説いたけど、魂が生まれ変わるとは言ってないでしょう。
五蘊無我だから。 >>693
慈悲の瞑想やってます?
あまり頭でっかちにならないように 【サティ】
729 :神も仏も名無しさん :2018/07/24(火) 22:17:34.86 ID:Q8eSm54r
さくらさん、これやって結果教えて!
面白いよw
自己顕示欲の強さを診断! 自分をアピールしすぎて嫌われてない? テストしてみよう
https://gakumado.mynavi.jp/gmd/diagnoses/47465
ちなみに俺の結果はこれ↓
https://gakumado.mynavi.jp/gmd/diagnoses/47465/result?total_point=0
【自己顕示欲:かなり弱い】逆に、絶対に目立ちたくないタイプ
逆に、絶対に目立ちたくないタイプ
あなたは自己顕示欲がかなり低いタイプのようです。「目立ちたい」「注目されたい」という気持ちはまったくなく、逆に「まわりに自分のことをあまり知られたくない」「放っておいてほしい」という気持ちを持っています。
そのため、本当はすごい実力を秘めているのに影に隠れてしまい、まわりから認識される機会を失っていることもありそうです。せっかくなので、得意なことだけでも自分からアピールしていくようにするようにしてみては?
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1523599761/729 大念処経を読むと、生活のすべての時、すべての局面において、
正しいことを、適切に行うように指導されていると思います。
修行者にとって、対人関係における正しい対処とは何か、また
適切な方法とはどういう在り方なのか。
実践としての仏法を、日常生活でどれだけ活かせるか、どれだけ
身についているかが表れる局面ではある。
センスが問われている。 自分のことだけ心配すればいい
そんな、無慈悲な教えが仏教だとは到底思えないのですが。
>>689
>彼岸に渡っていない人が、他人を彼岸に導けるでしょうか。
人を救うというのは、「解脱」に導くだけではありません。
歴史に名を残す偉人は、自身の生涯を、人々の救済の為に捧げました。
彼らは仏法者では無かったけれども、偉大な人間だと思います。
少なくとも、自身の幸福より、苦しむ人々の救済のために生きました。
彼らにとっては、「苦からの離脱」や自身の幸福など眼中には無かったと思います。
ただ、苦しんでいる人を何としても救いたい。彼らが幸せになっていく姿を見ることが、
自身にとっての最大の幸福であったに違いないと思うのです。
その振る舞いや姿勢は「ジャータカ」に見られるような釈尊の過去世の菩薩行(因位の修行)と完全に一致します。
たとえば、子どもを虐待し見殺しにする親が最近ではニュースで世間に物議を醸しています。
もはや畜生にも劣る極悪人です。
しかし、それを知っていて見て見ぬ振りをする人間がいたら、同じように悪人です。
「悪い事をする」事と、それを見ていながら「良い事」をしないのは、同じく悪なのです。
子どもを橋から突き落とし溺れさせる悪人、それを見ていながら、見て見ぬ振りで通り過ぎる普通の人
それが、仏教者としてのあるべき姿のでしょうか? 私が思うに、幸福は「苦しみが無い、悩みがない事ではない」と思えるのです。
むしろ「苦悩」が自身の境涯をより仏に近づけていく糧となるように思えます。
苦難を避けるのではなく仏法により乗り越える中で自身の生命が鍛え上げられるのです。
仏法ではこの事を「煩悩即菩提」と言います。
考えてみてください。
境涯が低ければ(生命力が低い)小さな悩みも、これ以上にない悩みに思えてしまいます。
逆に境涯が高まれば、それが大した悩みでもなかったかもしれません。
素人にとっては、平凡な登山でも苦痛に思えるでしょう。
熟練した登山者にとってみれば、険しき山々を悠々と、まわりの景色を楽しみながら登っていけます。
困難や苦悩を避ける生き方ではなく、むしろ五濁悪世のこの娑婆世界に自ら飛び込んで、
人々の救済のために、社会の繁栄と世界の平和の為に、この尊き仏法を教え弘めていく菩薩行こそ、
仏法者としてのあるべき姿に私は思えるのです。 智慧と慈悲は同じものなのだけど、人間の分別思考が別々のものとして認識してしまうのだと思う。
何が言いたいかというと、自利と利他は、最終的に同じことではないか、ということ。 釈尊が蓮華の花(仏法の象徴)を捻ったエピソードがありましたね。
拈華微笑。
大乗仏教を好む人は、そのパラダイムを通してみるから上座仏教が間違いに見える。
上座仏教を好む人は、そのパラダイムを通してみるから大乗仏教が間違いに見える。
ところだどちらも同じ蓮華の花なんでしょう、きっと。 ブッダは、菩薩行もしたし、禅も修した。
此岸の価値観の尺度でも価値のあること(奉仕や貢献)をしていたし、
彼岸の価値観の尺度でも価値のあること(戒律や瞑想)もしていた。
自分も含めて、どちらかだけの人は、まだ仏法の全体像を知らんの
だから、別の乗り物(大乗、上座、チベットなど)を批評するのは
慎重になった方がいいと思う。 禅僧は禅をやってる最中は、山に籠もります。
どんな名医も、名医になる前は大学の医学部に籠もります。 医学部でてない素人が、医療行為をするのは無謀です。 霊魂説は、たしか涅槃経で否定されていたように思います。
生命が三世永遠であることは、仏教の基本です。
転生するのでもなければ、生まれ変わるのでもない、そのままの自分が続くと考えて良いでしょう。
ただ、来世には自身の「業」に見合った環境と姿で生まれてきます。
1000万円借金をした人間が、一晩寝て目が覚めても、借金は変わらないのと同じです。
大宇宙そのものが、ひとつの生命体です。
この大宇宙の生命を離れて私たちの生命はないのです。
釈尊は、この大宇宙と人間及び一切の有情無情の生命を生命ならしめている「法」(能生の根源)を説いたのです。
ただ直接言葉にできないので、仏は一切衆生の説き示す為に夢中の言語を駆使して究極の「法」へと誘引し、悟らせようとしたのです。
これを「方便」と言います。
....と大乗仏教では教えています。 人として立派な行いをすることを否定するわけじゃないんですが、
悟りや解脱は、人として立派な行いの延長にあるわけじゃないですよ。
王子にとっての人として立派な生き方は、王として責務を果たすこと
でしょうが、ブッダはその道を選びませんでしたよね。
それは此岸のこと。欲界の善。人として正しい生き方です。
四諦八正道としての仏道は、彼岸への道。欲界からの離脱。人を超える道です。 瞑想してる人たちは、方便の源である智慧を、直接自分で観てるんですよ。 自分でというか、自分はその時いませんから
自分が見てるという言い方は正確ではないと思いますがね。 >医学部でてない素人が、医療行為をするのは無謀です。
仏法は「心の不思議」を説いたものです。
大切なのは「なんとかして救ってあげたい」という心が大切なのではないでしょうか?
見放したり、傍観したりするのは、やはり仏法者とはかけ離れていると思います。
キング牧師の歴史的名言。
「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める。」
「最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。」
「確かに、服従することは、安易な道である。しかし、道徳的な道ではない、臆病者の道だ。」
「圧制者の方から自由を自発的に与えられることは決してない。しいたげられている人間の方から要求しなくてはならないのだ。」
「最後には、我々は敵の言葉など思い出すことはない。思い出すのは友人の沈黙である。」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「敵を恐れるな−かれらは君を殺すのが関の山だ。
友を恐れるな−かれらは君を裏切るのが関の山だ。
無関心な人々を恐れよ。 かれらは殺しも裏切りもしない。
だが、彼らの沈黙の同意があればこそ、地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。」
(ブルーノ・ヤセンスキー「無関心な人々の共謀」/江川卓・工藤幸雄訳 日本仏教って、禅定波羅蜜を修めてるところ、まだありますかね。
わたしは見たことないです。
達磨大師だって、龍樹菩薩だって瞑想(禅)を修めてますよ。 社会問題を解決しても、生老病死は解決できません。
でも、八正道は生老病死から人を救い出せます。
八正道だけがそれをなし得ます。 社会問題は、特に政治の問題は、人の心が作り出すものです。
人間ひとりひとりの心が変われば、必然、その社会の問題も消えて行くでしょう。
人間の心が変わらないのに、その社会の一員となって同じゲームを続けていても
社会そのものを根底から変えることはあり得ないと思います。
問題の原因がそのままだからです。 他人の為と思って何かしてもその人は嫌がり苦痛かもしれない
為とか思わず普通に接してもその人にとって良い接し方でその人は喜ぶかもしれない
結局その人がこだわり(執着)をなくすことでしかその人の幸福はないでしょ
他人の幸福なんて考えなくても自分が幸福になれば自然に振る舞えて他人が心地よく過ごせる確率も増えるし
いちいち他人のこと考えてる人なんて大抵は不自然でまわりも息苦しい まあ他人のために何かしたいって人は存分にそうしたらいい
そうせずにいられないんだろうしね >桃太郎
>生命が三世永遠であることは、仏教の基本です。
それは仏教ではなくて学会の基本だろう?
>そのままの自分が続くと考えて良いでしょう。
無我はどこにいっちゃったの?
五蘊仮和合くらい学会でも教わるんじゃないの。
あなたの言っている考え方はバラモン教の梵我一如だよ。
まあ日蓮さんは密教の影響が強いからそうなるんだろうな。 生老病死から抜け出すのが仏道による本当の救いだと思うのだが、どうなんですか。
病院で病気や怪我を治してあげるとか、そういうことも尊いけれど、それはあくまで
生老病死の世界の中でのことでしょう。 まあそうだろうね
病気が治って喜んでも老いるし死ぬ
老いて死ぬことが苦なら病気が治ったことなんて一時の気休めにすぎないし、本人が生老病死が苦でなくならないと本当の救いではないだろうね 生老病死の外のことなんて
ほんとにあるのかって話でしょ
仏教信者のだれもが
結局お釈迦さんという
だれかさんの言ったことを
信じて実践してみてるだけだよね 信じて実践してる人もいるだろうけど俺は実践してみてなるほどと思えたので信じるようになってきただけだな
生老病死の苦がもちろん完全になくなったわけではないがずいぶん少なくなった 生老病死を超えなければならない。
生きながらにして死ぬ事だ。
それがニルヴァーナだ。 >>728
わかるよ。
禅僧たちは、そのために座禅やってるわけ。
戒定慧の三学のこととも言えるし、それはそのまま八正道のことと言い換えることもできる。 智慧(般若)にも大別して二通りある。
ひとつは経般若。勉強したり考えたりして分かること。
ひとつは般若。瞑想によって感得するもの。
考えたり勉強したりして分かるのは”分別智”。
座禅で分かってくるのは”無分別智”。 毎年、日本だけでも自殺者は約2万人。自殺率世界第6位
男性は女性の3倍の約15,000人。
その原因は、生老病死でいうならば、「生、病」にあたるのではなかろうか?
「生きること自体の苦しみ」。それに耐えられず、苦悩からの解放を求めて、自らの命を絶つ。
彼らにとってみれば、「死」は唯一「一切の苦から解放してくれるもの」であるから、
もはや恐怖を通り越していると言える。
問題は、死によって本当に苦から解放されるのだろうかという事だ。
もし、解放されなければ無駄死にという事になる。
そもそも、瞑想して「私からの離脱」を成功させて、
生老病死の苦から解放される人が何人いるのだろうかと疑問に思う。
「私からの離脱」出来たと思うや否や、現実は世俗の縁に触れ、すぐさま「貧瞋癡」の煩悩に苛まされるのではなかろうか。
大乗仏教では「生老病死」は避けるものではなく、むしろそれらを見おろして、悠々と乗り越える法を説いている。
植物から蟻まで一切の生命体で仏法を学び、実践できるのは「人間」だけです。
人として生まれてくること自体が過去世からの福運を証明しています。
もし、猫や牛に生まれていたならば、仏法を知ることすら出来なかったでしょう。
「生きながらにして死ぬ 」? そんな人生に何の意味があるのでしょうか?
この偉大な仏法を多くの人に伝えて、苦しみを乗り越え幸せになってもらい、この世界から悲惨の二字を無くし
平和な社会を築いていく為に生きていく方がよほど充実した人生を送れると思います。
この菩薩の生き方に「生老病死」を乗り越える重要なカギがあると大乗仏教では説いています。
>>708 >>734
大切なことにお気づきだと思います。
生老病死を乗り越えること = 「私からの離脱」です。
仏道を実践していると段々と概念を超えた部分が観えるようになります。
各所で用いる方便は違えど、各所で同じものが見て取れるようになります。
実践していくと、疑念は自ずと晴れます。
正に仏道は自分で真実を確かめられる道なんですね。 境涯(生命力)を高めるについては知識がないけど
物への執着とか欲を少なくしようとする方法をとっている人が一定数いるはずだし
見返りを求めず他人に慈しみを覚えるのは心を穏やかにしたり欲も少なくしそうだから、
在家の場合、喜捨のつもりの募金とかボランティア、他人のために動くことは
そこの上座部のやり方とはあいそうなイメージもあったんだけど。
自分を整えるの優先にしても。
肯定的じゃないんかな。 >>735
「私からの離脱」
この表現ソースは何でしょうか。
どこかの教団でこのような表現を多用しているのでしょうか。 >>737
これは単に私が表現しただけです。
無我と同義です。
無我だと、固定的なイメージを持つ方もおられる方もいらっしゃるかもしれないと思い、別の角度から感覚的に表現してみました。
返って誤解を招いてしまったかも知れません。
申し訳ありません。 >>734
テーラワーダも同じですよ。
表面的な部分が、あたかも違うかのように見えるだけだと思います。
その自殺寸前の人が、仏道に出会ったとしてみて下さい。
その人がまず自分自身を迷いから救い出すことが否定されますでしょうか。
そういう在り方も仏道のひとつの在り方ですし、しかし全てではありません。
仏道は道ですから、道を歩む過程で慈悲の道に転じることもあります。 自分自身も救うべき衆生のひとりだと思います。
他人と分ける必要があるでしょうか。 そう
なぜ自分をまず救わないのか意味がわからない
一番身近な他人なのに
自分も他人も同じように救ううなら一番身近で救いやすい自分から救うのが当然でしょう
それは自分に甘いとか自利とかいうことではない
自分の為、他人の為、全ての為にまず自分を救うのが一番の近道
自分を差し置いて他人を救おうと思うのは英雄にでもなりたいかただ傲慢なだけ
それに気づかないこと自体これまで自分をないがしろにしてきた証拠 正に「自己中心的」なのと「自分を救う」は全然違うという事ですね。
そもそも「自分を救う」には、「利己的」な側面を乗り越える必要があるわけで、「自分を救う」= 「自己中」は成り立たないと。 自分の街からみえる富士山が一番綺麗だと思うのと一緒。
自分の立ち位置から見える仏教が“正しい仏教”で、他の仏教は“正しい仏教”じゃないと思う。
これ、人間の知覚と思考の構造的に不可避なので、みんなやる。
自我の思考が捉えた仏教は、しょせん概念でしかなく、あくまで見(ditthi)だから。 三乗はいずれも方便だと思う。
本質的には仏道、涅槃への道はただひとつ。
ひとつの道における智慧の側面をみるか、慈悲の側面をみるか。
それだけの違い。 ツォンカパは、チベット仏教ゲルク派の開祖。
歴代のダライ・ラマはここに所属。
ゲルク派の僧はまず顕教を学び、それが終了した段階で意欲があり、
かつ師が認めた者だけが次の密教の研修に進めるが、それは全体の約一割だという。 大乗仏教でも、菩薩になるひともいれば、菩薩に救いを求める人もいる。 人それぞれ、仏道への関わり方や立場に違いはある。素質も違う。
涅槃への道の歩み方も、ある程度の差異はあると思う。
しかし、涅槃や勝義がいくつもあるわけではないでしょう。 >>741
へえ
じゃあ川で大勢の溺れてる人がいて
救助の綱が投げ入れられても他の人にそれを回して
溺れ死んだ実在の人物は傲慢で英雄になりたい愚か者なんだ
そんな考え方をするあんたを軽蔑するわ >>744
この人の意見が一番正しいと思う
仏教、キリスト教、哲学などどの道でもある程度の悟りへの道に通じてるが
全ては方便にしか過ぎない
地上にいる人間がありのままを理解できるはずはないのだからね
だから2500年前に説かれる教えとしては最高峰だけれども
今現在としては方便として捉えた方がいい
壮大な人類への対機説法をそれ以上発展の余地のないものとして捉えても仕方がないでしょう
次の世界宗教が立ち上がるのを待ちましょう >>748
そういう状況になったときに的確に行動できるように心を整えておくのが自分を助けるってことなんじゃないですか?
そういう状況にもなってないのに自分「より」他人をなんて考えて自分の心を整えることをしていない人を英雄願望や傲慢だと言ってるんですよ
まず自分の心を整えてないとそういう状況になってもあたふたするだけではないでしょうか
そういう状況で多くの人を助けるためにもまず自分を救ってくださいという話です 菩薩とは...「無顧の悪人もなお妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり」
仏界という最高の境涯を求めていく「求道」とともに、自らが仏道修行の途上で得た利益を、他者に対しても分かち与えていく「利他」の実践があることです。
現実の世間のなかで、人々の苦しみと悲しみに同苦し、抜苦与楽(苦を抜き、楽を与える)の実践をして、自他共の幸福を願うのが菩薩の心です。
二乗が「自分中心」の心にとらわれて低い覚りに安住していたのに対して、菩薩界は「人のため」「法のため」という使命感をもち、行動していく境涯です。
本来、仏法における「彼岸」の本義は、どこまでも「成仏の境涯」、また「成仏に到る実践」にあります。
その実践こそ「菩薩行」なのです。(不軽菩薩は過去世における釈尊の因位の修業の姿です)
そして、この菩薩行の振る舞いの中に「六波羅蜜」つまり「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」という徳性が、私たちの生命に自然のうちに光り輝いていくというのです。
フランスの文豪ロマン・ロランは叫んでいる。
「自分の魂が救われるか救われないかということにばかりこだわっていれば、救われることからかえって遠ざかる。君が君自身を救いたいなら、人間を救え!
もっと的確に言うなら、ほかの人々の中へ、君自身を忘れ去れ! そうすれば、それ以外のたいせつなことはみな君につけ加わって来るだろう」(『内面の旅路』片山敏彦訳 みすず書房)
まさしく、菩薩の精神そのものです。
そして、この生き方にこそ「生老病死」を根本的に超克する鍵があるのです。
釈尊は「妙法」という生命の根本法を説いて「生命の尊厳観」を説きます。
大まかに言えば「生命の平等性」と「生命の永遠性」です。
生命次元での「空」の観点から一切衆生を俯瞰して見れば差別など無意味であろうはずもないのです。
差別自体が人間の作り上げた都合の良い妄想なのです。実相は無分別です。 仏の教えは、一部の選ばれた人間の為にあるのではない。一切衆生を平等に誰一人見捨てる事なく救う教えです。
ゆえに、自分だけの安穏や幸福はなく、他人だけの不幸も仏法の教えにはないのです。
しかし、釈迦在世のインド社会は古代のヒンドゥー教(バラモン教)が主流であったし、厳しい差別社会でした。
一切衆生に皆平等に仏の生命が備わっている事など、だれも信じなかったでしょう。
※仏の生命にも九界を包含し、九界の生命にも皆「仏界」の生命がそなわっている。(十界互具)
※つまり、仏と九界の衆生は隔絶した存在ではなく、仏は人間以上でも以下でもない。人間そのものが本来、尊極な生命の当体であるという教え。
そこで、釈迦仏は様々な比喩や方便をもって衆生を実大乗教(正法)へと誘引します。
小乗教=>権大乗教=>実大乗教
ちなみに「嘘も方便」という言葉はありますが、仏は「不妄語戒」の人ですから、方便は「皆真実」なのです。
仏の方便にも様々ありますが、ここでは割愛させて頂きます。
私達は多くの人々の支えによって今を生きている事を知らねばなりません。
電気もガスもないジャングルの中で裸のままで、仙人のように木の実を拾って生活しなくて済んでいるのは、そのお陰なのです。
ゆえに、仏教では恩を報ずることが仏道修行に於いて極めて重要位置づけとなっています。
畜生(動物)ですら主人の恩を報ずるのに、まして人間でありながら不知恩の者となるは畜生にすら劣ると厳しく叱責されるのです。
四恩の中でも「主師親の三徳」とは
主人は従者を庇護する徳を有し、師匠は弟子を教導する徳を有し、親は子に慈愛をもって育む徳を有する。
「守り」、「導き」、「育む」
これらの恩を報じていく事は、仏法者としての基本中の基本です。
親をも救えない人間が自分を救える訳がないのです。 であるならば、自身の小さな安穏と幸福に頑なに執着する生き方ではなく。
ロマン.ロランが叫んだように「君が君自身を救いたいなら、人間を救え! もっと的確に言うなら、ほかの人々の中へ、君自身を忘れ去れ!」という菩薩の生き方こそ
仏の真実の教えではないかと思うのです。
それを成し遂げる中で、自身の生命の変革と境涯の高まりを自ら感ずることができるし、自身の小さな悩みなど吹っ飛んでしまいます。(解脱)
そして、やがて、この世を去るときが来たとき、多くの人々を救ってきたという自負が一点の曇りもなく自身の生命の充実と安らぎをもたらしてくれる事でしょう。
実大乗仏教(法華経)では、成仏とは、特定のゴールを指すのではなく、絶え間なく仏道に精進する自身の「一念」(生命流)を言うのです。
仏になったからと言って、世俗を離れた安穏な世界で呑気に傍観している仏などいないのです。
極論するならば仏とは「慈悲以外に生きるすべを知らない」完成された人格者といえるでしょう。
その慈悲の眼差しは、光となって苦悩に沈む人々の闇を照らし救っていくのです。
人間は何のためにこの世界に生まれてきたのでしょうか?
法華経には「衆生の遊楽する所」と説かれてあります。
人として生まれ「仏法」に巡りあうことは、極めて難しいのです。
その尊き生命尊厳の哲学を学びとり、その哲学をこの世の人々に教え弘めながら、時には泣いたり、笑ったり、楽しんだり、素敵な大自然の景色に感動したり、
恋をしたり、子どもの成長に目を細めながら喜んだり、ありのままの自分で自分らしく悔いない人生を謳歌することです。
他人と自分を比べる必要もない!「桜梅桃李」の人生を生き抜けば良いんです。 インド文化にバラモン教の色眼鏡があるように、
日本や中国には儒教と道教の色眼鏡があるとは思いませんか。 >差別など無意味であろうはずもないのです。
>差別など無意味で、あろうはずもないのです。
意味がぜんぜん違ってきますね。w ゴータマ仏陀が無上正等覚に達して如来となられた直後に説かれた方が四諦八正道。
一切智者の如来が一番弟子に一番に説いた教え。
これは、彼岸、解脱ということが分かる人に向けた教え。
後世になって、ほとんどの人は此岸の価値観しか分からんような状況になったので
此岸の価値観(情などの人間的な道徳、欲界における価値観の尺度)で理解できる
大乗仏教という方便が優勢になってきたのだと思う。
それは大乗仏教の上位に密教が位置付けられていることからも読み取れる。
密教では結局、四諦八正道や勝義を再び教えていませんか?
釈尊が説いた四諦八正道が理解されないので、大乗仏教の上位に位置する
高度な教え、密教として、名前とパッケージを変えて再び四諦を教えているの
ではありません? とにかく、まっすぐ悟りに向かおうと出家して禅の修行に専心する僧侶を、
小乗呼ばわりする人は、仏教を分かってないということだけははっきり言いたい。
それが小乗なら、悟りに達するまでここを動かぬと決意して座っていた仏陀を
どう説明するのかと。 解脱しない限り、みんな輪廻の海で溺れてるんだよ。
生老病死に飲み込まれ、流されない人はおらんでしょう。
本当に助けてやりたかったら、まず自分が解脱しないと助けてあげられないんですよ。 本当のところ、あなたはまだ輪廻があるのかないのか分からないと思っていませんか。
だから世俗の価値観だけが判断の尺度になるのです。
無我だ空だと言いながら、本当のところこの肉体、我が身こそが自分自身だと思っていませんか。
それは有身見でしょう。
別にそのことは責めませんよ。
禅の修行をしていない人は、仏教であってもみな有身見に捕らわれていますから。
禅定波羅蜜と言いましたね。
本当に禅定波羅蜜があったら、輪廻転生も無我も観測事実として分かることなんです。 >>760
解脱してたら新幹線の中で刃物を振り回して女性を襲う暴漢から女性をどうやって救うの? みんな、根本的に間違ってる。
「解脱」というものを、「個人の苦悩・不安の解消」と位置付けるなら、
(というか、それしかない筈なんだがw)
暴漢から人を救うのは、体術と勇気であり、宗教的要素・仏教的要素、
ましてや悟りや解脱なんて必要ない。
せっせと、身体を鍛え、技を磨くことに専念すべきだと思うが? >>762 >>759
亡くなったことは残念だなと思うよ
ただ女性がたすかったのは結果であって、その男性がたすけようとしたせいで逆に亡くなってたかもしれないし、
あるいはどうしようと全員亡くなってたかもしれないし、全員たすかってたかもしれない
あなたは結果が出たことに対して言及してるけど、元々の話は自分より他人をたすけようとするかどうかの心持ちの話でしょ
もし仮に下手にたすけようとしたせいで女性2人が死んでしまってたらあなたはなんて言うの?
それにその男性の命と女性の命とどちらが重いかあなたは言えるの?
女性が生きて男性が死ぬのと、男性が死んで女性が生きるとの、あなたの中では重みが違うの? そんなに自分より他人を救いたいならこうしてる間にも困った人を探して助けたらいいじゃない
自分の持ち物も最小限にして全部困ってる人にあげたらいいじゃない
でもたぶんそうしてないんだよね >>763
どうやって?
ってか「おそらく」などと前置きしているから分からないのだろう?
>>764(セブンか?)
まあその通りだわな >>766
君は女性を救って犠牲になった男性を冒涜してるのか?
それ以前にそのニュースについてあまり詳しくはないようだが >>768
あなたはこの事件の亡くなった男性ではないでしょう?
なぜ他人の行為で自分の考えを正当化しようとしてるのですか?
虎の威を借る狐にしか思えません
あなたが自分より他人を大切にしたいならいますぐ「あなたが」そう行動したらいいと思いますよ
できることはいっぱいあるでしょう 解脱も悟りも、人間的な道徳観の延長線上にあるわけじゃない。 人間的な道徳観を否定しているわけじゃない。
尺度が違うと言ってるだけ。
人間的な道徳観(此岸の価値観)がX軸として、
解脱悟りへの道(彼岸の価値観)がY軸だとすると、
修行者はY軸方向に進んでいるんであって、X軸を進んでいるわけじゃない。
そうかといってX軸を否定している(X軸上のマイナス方向に進む)わけじゃない。 大乗仏教だけが正しくて、禅宗や上座部を小乗仏教と蔑む人たちは
そもそもY軸、つまり彼岸とか悟りとか解脱ってものがあることを知らない。
大乗仏教の経典から学んだ、概念的な理解しか持ち合わせていない場合が
非常に非常に多い。 大乗仏教でも、他者への奉仕や貢献を通して、
私とか、私の考えとか、私のものという思いをすべて完璧に捨て去ることができれば
体験智としての無分別智を経験できるのだと思う。
それは素晴らしいと思うし、そういう素質の人は、そうすればいいと思う。
だども、四諦八正道も本質的には同じことをやってますし、というか禅の方がずっと
効率的に私から抜け出せると思います。 身体を動かしたり、他者とコミュニケーションとりながら考えを捨てるの難しいし
ぜったい自分の価値観とか入ってくるでしょ。 >>769
もちろん亡くなった男性のした行為は俺には多分出来ない行為だが、
君はこういう死を自分も救済できてないくせに他人を救おうとするからこうなると考えているのか、
それとも自分には出来ないから尊敬すると考えているのかどちらかなのかということ 解脱とは完全な離欲であって、それは欲界善をなすことではない。
そこは多くの人が勘違いしてると感じる。 >>775
その人が自他の観念なく助けてたなら素晴らしいと思いますし、
自他の観念を持って助けてたなら助けても助けなくても同じようにしか思いません
男性にしろ女性にしろ誰か亡くなったら残念だと思います 他人を救おうって思うのはある意味怖いことなんですよ
オウムだって無明に落ちている他人を自分たちなりに救おうと思ってやったせいであれだけ残酷な事件になった側面があるわけでしょう
そもそもまだ悟ってない者が何をしたらいいかなんてちゃんとはわからないはずなんですよ
自分が何をしたらいいかちゃんとわかるためにまず自分が悟らないといけない
でも他人を救おうと思ってる人は自分自身が何をしたらいいかわかる存在だと過信してる
自分は善悪もわかるしそれゆえ善を為すことができると思ってしまってる
他人も救うことができると思ってる
だからオウムみたいなことでもそれが正しいと思い込んでやってしまうわけでしょう
自分が何もわかってないと謙虚に思えるならまず自分を整えること、自分を救うことをすべきではないでしょうか
本当に他人を救える人、救う力を持ってるひとはいくらでもそうしてください、そうしたらいいと思います
ただそんな人がそんなにいるんでしょうかね 他者との関係で心掛けるべきことは四梵住(慈悲喜捨)。
社会正義のために戦うこととは、けっこう違う。
社会正義は、怒りで他者を攻撃するけど、慈悲喜捨はそういうのと違う。 それから他人より自分をと言ってるわけでもないですし、
自他なく考えたらまず身近な自分という他人から救うのが自然なんじゃないかと言ってるだけですし
誰かが困ってる場所に居合わせてそれをなんとかできるならするのはいいことだと思います
普段から自分「より」他人なんて思ってるのがどうにも不自然だというだけです 他者のお役に立ってこその仏教でござる、というのは
ある種の強迫観念じゃないか、一回よく検証してみた方がいい。
日本仏教形骸化の最大の原因は、戒律と瞑想の実践が抜け落ちて、観念的理解
よくて哲学の段階に留まっていることだと思う。 他人を救う為にも他人を救える自分に早くなろうと自己修行に向かわないのが不思議でしょうがない まあ、 てすとが良く言ってたことに尽きるわけだが・・・
>悟ってない者(→救われていない者)に、悟りへの指導・教導(当該人物を救うこと)は可能なのか?
と。
ドカベンや巨人の星、キャプテン、メジャー、あぶさん等はともかく、
書店に並ぶ入門書、或いは、経験者の指南書等等を読んだだけの、
野球を見たこともしたこともない人間が、野球の指導(細かな一々のプレーやポジション毎のポイント指摘等)ができるのか?
と。
そもそも、これから学ぼうとする者が、そういう人間を指導者として選ぶか?と。
その意味で、自未得度先度他という言葉の空虚さは留意されていい。 >>782
新幹線で襲われてる女子を救おうとして殺された人は修行などしてないと思う
彼でなくとも世のため人のためになることをしている人の大多数はそうだろう
まあ普通に働いているだけで何らかの社会貢献はしているのだが
くだらないのは社会のお荷物であるニートがこういうネット上で空虚な自説を語ること
修行して他の人を救える自分になってからを尾ひれをつけて長々と語る人
読んでるとこの人はニートだと分かるのでその言説は響いてこない
単なるニートの暇つぶしに思えてくるだけ、 >>760
法然も親鸞も溺れるという行為を共に為すことで衆生を救ってる
イエスも人間として殺されることで人を救ってる
釈尊もあえて人間として生まれ、苦悩することで人に手本となる余地を残してる
本来人間として生まれる必要もない存在が、それでは人を救えないから
あえて芝居をしてくれてるんですよ
それこそが仏の慈悲
釈尊が本来悟ってないとでも思ってるの?
本来悟ってるが苦しんだふりをしてくれてるんだよ
享楽的生活も体験し苦行も体験した上で中道に至るという計画
その生き方がそのまま教えになる
悟った人間がなんの苦労もなく教えを説いても人は受け入れないもんだよ
だからあえて同じように苦しんで見せてるの そこに救うべき誰がいるだろうか?
誰もいないし誰かいるとしたなら
それはあなた自身ではないかね?
私の世界では私しかいないがね。 >>788
少なくともあなたは何もわかってないと思いますよ
悟りを得るということは自ずと仏性が顕現するということ
仏性の属性は他者を救いたいということだから
別に強制ではなく悟れば悟るほど他者を慈しみたくなるだけ
母親が子供を慈しむのは強迫観念ではないよね
あんたの頭の方が観念的になって悟りから逃げてる
悟りを深めたら心の中には他者を救いたいという気持ちが湧き出るもんですよ
一度悟ってみたらどうですかあなたが悟れば周りの人間はほっとかないですよ
あなたに周りの人間が話を聞きたいと集まって来ない限りあなたは悟りの入り口にさえ立てていない
本物は誰も見逃さないですって そりゃ悟ったらその時点で自分はもう救ってんだから他者救おうが何しようがかまわんでしょ
悟ってもない者が自分より先に他者を救おうと思うのがおかしいだけで 二―トの言うことがダメっていうなら釈迦の言うこともダメってことだから
もう仏教の話は聞かない方がいいかもしれんね
釈迦も出家者もみなニートなんだから お釈迦さんをニートと言ってもいいけど
外歩いて食い物貰って
外に寝起きしてって
やってみた方がいいよ >>790
それは別に大乗仏教だけの特徴じゃないんだけどね。
仏教はどれも智慧と慈悲の道で、智慧と慈悲は同じことだから。 他者を「救う」ことは出来ない
それは他力宗教における神仏の領域
あるいは自力での悟りの領域
でも他者を「助ける」「布施する」「利他行をする」ことはいくらでも出来るんだからどんどんすべき
仏教でもそれは否定されんだろ
上座部でも大乗でも >>790
ほら。
だから悟った方がいいわけでしょう。
>>797
そういうことだわ。
大乗仏教そのものが問題なのではなくて、
大乗仏教に属している個々人が持つ、他部派に対する偏見と蔑視の姿勢、
自己優越感という慢心をよく自覚した方がいいと思うわ。 >>799
べつに優越感とか慢心とかじゃなくて
>悟ってもない者が自分より先に他者を救おうと思うのがおかしい
とか
>>762 に対する >>763 のような的外れな回答を見ていると
どうしても違和感があるのです。
川に溺れた子どもをみて、助けない人はいないでしょう。
子どもに対して、「助かりたきゃ、瞑想して解脱しろ!」なんて言えるわけないし。(笑
大乗仏教者でなくとも一般的にも違和感を感じるのではないでようか?
>>741
>自分を差し置いて他人を救おうと思うのは英雄にでもなりたいかただ傲慢なだけ
地震や洪水、あるいは戦禍の中の難民救済の為に自身の危険を顧みずボランティア等で救援活動をされている方々を
「英雄気取り、傲慢」となぜ言えるのか、その心が理解できません。
恐らく道行く人々に質問すれば、余程心がひねくれている人でもない限り、賞賛こそすれ、そのように彼らを見下す人間は100人に一人も居ないと信じます。
動物ですら、自分の子どもを守るために自身の命を犠牲にします。
ましてや、人間です。私たちを育てたお母さんの慈愛がなければ、今の私達はいません。呑気に仏法談義などしていられなかったでしょうし、
また仏教に導いてくれる師が居なかったら、「瞑想」なんて発想もなかったはずです。
自分を他人と見る人に「師」や「親」はどう見えいるのでしょうか?そしてその恩にどう報いていこうと思っているのでしょうか? そもそも、「悟りにより自分を救え」という事は理解できますが「他人より自分が大切」というのは、テーラワーダ仏教のどういう教えによるものなのでしょうか?
「悟ったら人を救える」といっておられますが、この「悟ったら」という意味は、「釈尊と同等の悟り=仏の境涯」を意味するのでしょうか?
もしそうなら、釈尊は過去世から、気の遠くなるような修行を重ねて成仏したと説かれています。
だとすれば、今世で、たかが数十年、瞑想したところで「悟り」など万が一にも手にすることは出来ないのではないでしょうか?
少なくとも、ここにいらっしゃる方々の誰一人も「悟り」を得られる人などいないのではないでしょうか?
結局、「悟ったら人を救える」というのは所詮、「机上の空論」のように思えます。
仮に、今世で「人を救える程の悟り」を得たとしましょう。
あなた方は、どうやって人を救っていくのですか?瞑想で平和な社会を築き上げることは可能なのでしょうか? そもそも、「自身の救い」を最優先する人間に、
命の危険を顧みず、人を助けるという行為自体がはあり得ないのでしょうけれども。
とは言え、命を危険にさらすことを奨励しているわけではないのです。
菩薩は苦しんでいる人、悲しんでいる人を、救いたい、励ましたいと、常に心のベクトルがその方向へと向けられているのです。
英雄気取りではなく、本能としての振る舞いに近いのです。
そういう方々は仏法者でなくとも身近にいらっしゃいますし、特別な事でもありません。
仏とは本来菩薩なのです。 ここでそういうこと書く暇で誰かを助けたらいいんじゃない?
あなたは誰かを助けるよりここでそういうこと書く自分の時間を大切にしてるんじゃないのかな 宗教で人を救おうというのと、災害救助活動って
同じ土俵で比較できるのかな。
宗教的な救いって、本人が望まない限り、自分の価値観を押しつけることにならない? そして、本人が望んだとして
自分が悟ってなかったら、生老病死からの救いに導けないでしょ? 仏教徒を自認する人々でも、生老病死からの解脱なんてものが、
まさか本当にあるとは思ってもいない、みたいな人がすごく多く感じる。 ニートは親に救われてるのか甘やかされてるのか考えてみよう 阿羅漢になってなくても名色分離智が起きれば生老病死からの解脱も可能だって思えるけど
名色分離智が起きるよう修行してない人間には解脱がどういうものかまるで想像もつかないんでしょう
名色分離智さえ起きれば心も体もただのつくりもので助けるとか助けないとか執着してもしょうがないものだってわかるのに
心も体もいくら助けたってすぐに別物に入れ替わってるし何十年後かには死んで認識すらできないように無くなるんだから
自分の修行をしない人は結局仏教と縁のない人 >>804
いやできるよ
釈迦にとっては教えを残すのが救い
そこまで至らないひとは教えを模範として生きながら
自分のできる最大の救いを行うと
結局同じことを魂のレベルに応じて行なっているだけ
悟りのレベルに達してない人は教えを解くことが許されてないから
イエスキリストが大工の息子だからといって大工で一流になっても仕方がないけど
普通の人が大工として立派な仕事をすることはそれ自体修行でもあり他者への奉仕でもある
なんか分けて考えてる人は考え違いしてると思うわ
ありとあらゆる日常生活の中にも奉仕はあるんだもん
それに仏教は真実の片面しかかたってないしね
もしこの世界が苦でしかないならこの世界をならしめようとしてる生命は悪なのか?
何かが全てを今この瞬間も生かそうとしてるならそれは人間知で否定できないでしょ
否定してる釈迦すら生かされてるわけだから
だからもっと大きな真理に到達するためにこの世を否定する教えを説いたが
さらに人間の認識力が高まれば残りの教えも説かれる
その前説が仏教ですよ よく見なさい。
生や死があるだろうか?
あなたは身体ではないのだ。
そしてあなたは個人ではない。
手ぶらで行きなさい。 >>812
こういったコテハンで書き込みをすること自体が自己顕示欲の塊じゃないですか
悟ってない人ほどの他人の言葉で語りがたる
虎の威を借る狐 テーラワーダはシンプルですよ。
今この瞬間に「気づき」が有るか無いかです。 心理学者(J・シーガル)は、現代はナルシシズム(自己愛)の罠に、はまってしまっていると警告しています。
自分を満足させることだけが人生の目的となり、「他の人のことを思うなどというのは今や時代遅れ」になっていると。
(小此木啓吾訳、前掲書)
自分を犠牲にして他の人に尽くすなどということは、「不健康で誤った考え」だと思われるに至っているという分析です。
問題は、その結果、より幸福な社会になったのかということです。そうではないでしょう。
人は孤独になり、励まし合うことを忘れ、生きる力を衰弱させています。
だからこそ、ますます欲望を肥大させていく。 悪循環てすね。
その悪循環の“黒い鉄鎖”を断ち切るのが「菩薩界」です。
有名な話だが、ある人が地獄に行った。すると 皆がごちそうを前に食べられないで苦しんでいる。
どうして食べられないのか。ハシが自分の手よりも長くて、口に食べものを入れられない。
今度は仏国土へ行った。そこでも皆のハシは手よりも長い。なのに皆が満足して食べていた。
どうしていたか。互いに、相手の口に入れてあげていた。
地獄と仏国土の違いは、環境の違いではなかった。住む人の「心」の違いだったということです。
豊かさの中で、なぜか苦しんでいる現代。その原因が、どこにあるかを示す話と思います。 >>466
瞑想してるとそう感じるというか、そのものになってる状態をいずれは経験することになるよ
梵天は実際に形をもって存在してるってことがわかる 助け会う事は生命の本質だ。
何故なら生命はひとつだからだ。
しかし恐れがあなたを個人にしてしまった。
恐れが
「世界の何処か片隅のちっぽけなあなた」に
仕立てあげてしまったのだよ。
そんなにあなたはちっぽけだろうか?
よく見なさい。見たもの全てがあなただ。 その存在がいるところはどんなところか、その存在がどんな心の状態なのかも経験することになります >>820
「その存在」とも言えないし「どんなところ」とも言えない。
その時、自分が何であるか言う事が出来ない。
言葉で「この様なものだ」と言う事が出来ないのだ。
そして実に心そのものが障害だったと知る。 >>815
別に否定する気はありませんよ。
むしろ積極的に肯定してます。
仏教徒のなかには、慈悲の修行(菩薩道)をたてにとって、智慧の修行(止観の
禅修行)を貶すような人がいるので、コインの表側で、同じコインの裏側を否定
するようなことをしているように見えるんです。
それだけです。 個人的に、拈華微笑のエピソードで語られているエピソードって
多分このテーマのことではないかと思っています。 こういうことやろ
https://i.imgur.com/q3hJjWD.jpg
https://i.imgur.com/FZVGEKZ.jpg
https://i.imgur.com/bkCmiCc.jpg
これは玄侑宗久さんの本からだけどプラユキさんも出家前NGOで他者の為に支援してた時はやるほど疲れて結局できなくなったが、
自分がまず修行して智慧を生じさせてからは疲れることもなく他者の為にもどんどん動けるようになったと言ってた
ウィキにも簡単にだが載ってる 「ボランティア(活動)」や「保育」「教育」「介護」等の分野で、
待遇や報酬の話が御法度な日本文化も、その辺から来てるかもな。
それはもはや、「絶対的利他(&強制的自己犠牲)」という
「凶器」「拷問手段」となる。 眼施(がんせ) 常に温かく優しい眼差しを施すこと
2. 和顔施(わがんせ) いつもニコニコ笑顔で接すること
3. 言辞施(ごんじせ) 優しく時には厳しく叱る愛情のこもった言葉
4. 身施(しんせ) 自分の身体を使い奉仕すること
5. 心施(しんせ) 心配り・気配り、思いやりの心を持ち、相手の立場になってみること
6. 床座施(しょうざせ) 座席や場所、地位を譲ること
7. 房舎施(ぼうしゃせ) 家や部屋を提供すること このスレで他人を救うことを肯定してない人だって、人に親切にされれば
気持ちが救われることは否定しないだろう
他者に施すことを主張している人だって、瞑想で執着を手放すことがその助けになることは否定しないだろう
バランスよくどっちもやればいいだけの話であって、むしろどっちも両立させるべき
特に在家はね >>825
あなたが言っているのは梵我一如ではないかね?
「ひとつ」の中に私と梵天の「ふたつ」があるだろうか?
別の言い方をすればあなたが梵天だろうか?
梵天があなただろうか?
それは言葉では描写出来ない。
私が言わんとしている事はそういう事だ。 >>829
私が言及したことは816に書いたとおり姿をともなった梵天のことで
梵我一如とかワンネスとかそういうことのことではありません 愚人(ぐにん)謂(おも)わくは利侘(りた)を先とせば自らが利 省(はぶ)かれぬべしと、
爾(しか)には非ざるなり、利行は一法なり、普(あまね)く自侘(じた)を利するなり。 >>829
私は解脱してないので梵我一如がどのようなものなのかハッキリとはわかりません
ひとつの中に全てがあるということはもうわかってますが
それ以上のことはまだ知りません 自己が他者に何かしてあげるっていう感覚の土台には、自己と他者を
分け隔てる認識のありようがある。
要するに慢。
慢は五上分結だから、阿羅漢果に達するまで残る煩悩とされる。
本当に自利利他がひとつになるのは、阿羅漢果に達して、根こそぎ
自我が抜け落ちてからのことなのではないか、というのが現段階に
おける理解。
また、奉仕や貢献の際に、やたら自分を下に下げるのも卑下慢。 ごちゃごちゃ言わずに目の前に真に困っている人や倒れている人などを見かけたら自分の出来る範囲で助けてやればいいんやで わいは、ごちゃごちゃ言わずに八正道を前に進むのがまず先。
常に目の前にいるのは、わい。 お釈迦さまが菩提樹の下に座っているあいだも、困ってる人はそこらじゅうに居たはず。
菩提樹の下で悟りを開かなければ、王様として人を助けることはできても、如来として
生死輪廻から救い出すことにはならなかったはず。 >>837-838
そういうのをごちゃごちゃ言うと言うんや
目の前で倒れてる人を見つけても知らんぷりして救急車も呼ばないでその場を立ち去るのがお前
人として最低や 知らんぷりするわけないやろ。
それは日常生活のなかでやることだから。
人の面倒を看たからと言って、自分のお勤めをしなくていい言い訳にはならんのよ。
みんなここで引っ掛かるんだよ、人間は。
良いことをしていたいの。この世で。
だからずっと輪廻してるの(だと思うよ)。 >>840
>知らんぷりするわけないやろ。
>それは日常生活のなかでやることだから。
よし、その言葉を忘れるなよ!! 今は情報が溢れてるからね
遠い国の情報まで知られるから面倒だね
自分で取捨選択しなくてはならん
自分で好きなように線引きしたらいいと思うよ そんなに他人が自分の思うようにしてくれないと気が済まないのか >>843
>>844
まじでこれ
心の底から同意
宗教は数千年の大昔から現代まで連綿と続く禁止と強要の歴史
あれをしてはいけないこれをしてはいけない
あれをしろこれをしろ
東洋も西洋も思い上がった宗教家たちは必ず戒律をつくって人に押し付けたがる
そしてそいつらは例外なく自分のことを聖者と呼ばせて高い地位へ高い地位へと登りたがる
どこの教祖もなぜ組織をつくりたがるのかというと結局集めた信者の頭をふんづけてそのてっぺんにふんぞりかえって富と名声と地位を貪ってるだけなんですね >>843
「ああするべきなのに、ああしない。だから小乗だ。」というのは違う、と言ってる。 慈悲は、人情とは違う。
無我の悟りは、無私の奉仕と必ずしもイコールではない。
此岸の福徳は、彼岸に至る功徳とは方向性が違う。
大乗仏教が上で、小乗仏教が下だとか言う人は、たいてい俗世間(此岸)の尺度で
仏教や仏道実践の価値を判断している。 >>826
別に日本だけではなくキリスト教国でも金持ちは奉仕するのが当たり前になっている
あんたって何も知らないで今まで何してたの
一生他人に施ししない言い訳を考えながら生きていけば
こじき精神も極まれりだなぁ 金持ちはより多くの税金強制的に払わなくてはならない
それは宗教が担ってきたことを社会制度として取り込んだだけだから
奉仕を強制としか受け取れない人は少なくとも宗教的には人もどき
与えられてる人が貧しい人に富の分配をするのは当たり前
より悟ってる人が他者に与えるのはそれ自体が神の本質だから
太陽は与えきりでしょ
太陽は強制で光を与えてるわけでもなんでもない
しかし器の小さな人はその器の小ささを自覚しないもんだね
世界をあるがままに見たら自分の小ささが恥ずかしくなるだろうに
悟りを求めてるのに小人になるなよ
無私で生きてる人を見て恥ずかしくならないの? >>849-850
自我を突き抜けるまで冥想実践した経験ありまするだか?
ないのであれば、まだ見えてない巨大な価値が眠ってますよ。 >>849
論点はそこじゃねーよw
介護や保育業界の待遇が低い時代が長かった(いや、今もかw)理由に、
或いは、学校の先生等も、そういう時代があったかもしれない。
聖職へと奉られるかの如き歪んだボランティア観はなかったか、という問いだよ。
「自分のことを大事にする前に他人を大事にしろという規範」の怖さも頭の隅に置いておけということ。 >>851
悟るまで他人に施しをしないという立場を取ると
ほぼ100%のひとは一生何もせずに死ぬしかない
釈迦のような元々優れた魂の持ち主なら若くして悟れるが
凡夫はどこかで見切りをつけて実践へ移行しないと何もせずに助走だけをした人生になって終わる
テキストを提示されても釈迦以降一人も釈迦の域まで悟れないんだから
諦めも肝心
あなたがいくら悟ったと言い張っても他人と関わった瞬間通用しないこともあるでしょ?
一生勝負しない格闘家も実際には山ほどいる
俺は悟るまで施しをしないと言う人は化けの皮が剥がれるのを恐れてるだけだと思う
真に知ったなら実践が伴う
身体が動かないのは悟ってないから
自我を突き抜けてそれがなんの役に立つの
悟ったと思い込んでるひとは山ほどいるが真に悟った人はまずいないでしょ?
未だに仏教の範囲から逸脱する勇気もない権威主義者の中に真の覚者はいませんよ
悟れば新しい世界宗教が生まれる
過去の再生産が悟りなわけはないよね 他人の書き込みちゃんと読まないのか知らないけど悟るまで他人に施しをしないなんて言ってる人誰もいないよね 同時に、
悟るまで、誰も「助けない」「協力しない」「手伝わない」
と言ってる人もいないけどね。 >>854
あなたは誤解している。
悟りは開かれ、万物に宿っている。
それは例えるなら隠されたことが一度もない空気の様なものだ。
そしてそれとは知らず、何も求めず、何も拒まず、慎ましやかに日々を過ごす幸せな人たちの中にも目覚めた人は数知れずいるのだ。
それらの人たちは家の柱に庭の草木にその世界中に花を咲かせているのだよ。
これ以上の救いがあるだろうか?
確かにあなたの言わんとする事は分かる。
ブッダが善を急げと言ったのも凡夫に向けてのものだ。
しかしニルヴァーナは離れた何処かの遠くではなくすぐそばにある。
だからこそブッダは説いてまわったのだ。 今対立してるのは、そうした「聖なる次元(勝義)」の極の話でなく、
日常日日の一瞬一瞬の「人助けの場面」への視線の色合い、でしょうがw >>857 >>852
思考に流されず、一点に留まる意識(気づき)がある。
その時、禅支のみがあって五蓋がない。
日常的な用語で言えば、思考はしておらず、五感の感覚もない。
(思考にも感覚にも意識を向けないから。)
妄想は思考による産物であり、
幻覚は感覚による産物であり、
夢は眠りによる産物であるから
目覚めた意識のみがある時、その意識は、
自我が生みだした妄想概念のなかにはいない。 >>854
昔は、日本仏教にも慈雲尊者のような人物はいた。
>過去の生産性
時代によって変遷していくような価値観は、普遍的な真理とは言わない。 >>859
言葉で説明できることはあくまで思考分別であるから、
この説明は無分別智の中身をなにも説明できてはいない。
これは、言語によるコミュニケーションがもつ構造的な限界によるもの。
無分別智。般若の智慧。体験智は、自分自身で感得しない限り、本当
には知ることができない。
だから、ただ黙って坐りなさいと言われる。
おれは大上段に構えて上から威圧しているわけではない。
それしか方法がないからそう言われているだけ。 その時の自分自身は、自我ではなく気づき。
その時、自分という感覚はない。 >>863
ただ座って悟れるなら達磨大師はとてつもなく悟ってるよ >>862
いや普遍的な真理とは悟りに導くものだから
時代が変われば真理のかたちも当然変わる
原始仏教は未熟な仏教という意味で
さらなる社会への適応が必要とされる
資本主義社会で原始仏教や原始キリスト教はむしろ
人を幸せにもしないし悟りへも導かない
単に執着を断てじゃダメなんですよ
キリストが語った金持ちは天国に行くのが難しい、この言葉を修正するためにのちのキリスト教は変遷した
仏教だって所詮方便ですよ
だれかが書いてるように高次の教えは絶対にあるがままに下には伝わらない
だからそれが真理であるかは証明出来ないし、理論的にも真理であるはずわない
劣化コピーを指してオリジナルだなんていう人はいないでしょ
この世界に伝えられた時点で真理になり得ないの
それが空の本質的 変わる真理のかたちって具体的にどのようなイメージなのかなあ
そもそも何をもって真理としているのかにも依るのか。 2日間の水だけの断食を終え今朝から食べ始めたけど
結局少量じゃ済まなくなりジュースやらなんやら…
食欲を制するのに失敗してしまった
また断食をやり直さないといけないな >普遍的な真理とは悟りに導くものだから
とあるので、「導くもの」のことを言っているんでしょうかね。 おれの目には地面が平らに見えるから、地動説は間違い
っていうのが人間が頭で考える仏教理解なのよね。
四諦って真理だから、自分の主観を基準に判断したら
絶対間違える。 お金への執着をなくすと金遣いが荒くなるとかのイメージがあるのかな
貯金は勧めていたし、執着を捨てた結果、その執着していた物質を
捨てたり、あると便利なものなら得ようとしなくなるわけじゃないと思うんだけど >>871
お金への執着を捨てるには浪費することではなく施すこと(布施)をせよというのが仏陀の教え 872.金への執着、か。布施、か。
それは生活の問題である。
それは宗教の問題ではない。バカには理解できない。 『ヴェーラーマ経』には
布施するより三帰依する方が功徳がある、
三帰依するより五戒守る方がもっと功徳がある
五戒守るよりも一瞬だけでも慈悲の瞑想するほうが…って書いてあるけどな 映画マトリックスで例えるのが、わりと分かりやすいかも知れない。
マトリックスの住人が、マトリックスの住人に対して、善いことをしようと努めているのか、
マトリックスの住人を、マトリックスの外側への目覚めに誘っているのか。
その違い。 ひとくちに大乗仏教といっても、
マトリックスの外側に抜け出している(般若の智慧に達している)人、つまり真の菩薩と
マトリックスの内側しか知らないでいる人、つまり菩薩の救いを待つ人とに大別できる
のではないかと思う。
マトリックスの内側しか知らない人の仏教理解は、あくまで世俗諦であって、勝義ではない。 今世で勝義に至る秘密の最高の教え=密教があるということで、密教を教えるわけだが、
その密教で教えていることって、実は原始仏教の四諦八正道なのではないかと
個人的には思っている。
(パッケージと名称を変えて同じものを提供している。) 特に禅定波羅蜜があるかないかで、ものの見方はがらりと変わってしまうので。 本当の仏教の歴史は、過去仏から劫単位で続いているものであるはずです。
ですから、たったの2500年前のゴータマ仏陀の教えを原始仏教と呼び、
未発達な原始的仏教であったと捉える、その捉え方は、あまりに人間的と言うか
輪廻のなかで生まれ変わり、死に変わりしながら衆生済度をする大乗の菩薩様
としては、あまりに近視眼的なものの見方、解釈だと思います。 それは大乗仏教に所属してはいても、まだ信者さんであって、救われる側であって
教えて貰う側の立場であって、仏教を論じたり、ましてや他宗派を批評できる段階では
全然全く決してないという自覚を持った方がいいと思います。 >>880
実際に原始仏教であり未完成だから後に
小乗から大乗への変化が行われたんだけど?
死後数百年は圧倒的に小乗が強くて大乗は下の下だった
なぜ大乗が望まれたかというと在家だと悟れないという不満、
釈迦は解脱して悟れない人間は二度と会えない不満
これら解消したのが大乗
あなたは幸福の科学の信者だろうけど
貴方よりは長いスパンで宗教を捉えてますよ >>880
釈迦入滅後500年?は釈迦の教えを守り
小乗こそ仏教として大衆を救うのを下と見下していた
自分が向上し結果として人に良き影響を与えるもので
悟ってもないのに人を救うのは馬鹿にされてたわけ
貴方はその数百年が釈迦の真意であったと言いたいわけですね
その状況が未熟で未完成だからこそ、肉体が滅んだ釈迦が
地上に使者を送り大乗仏教を発展させたんですよ
完成されて改善の余地がなければなぜ数百年も経って仏教内宗教改革が起きたと思ってるの?
つまり大乗の台頭こそが釈迦仏教は原始仏教であり未熟なまだ進化する余地のあるものであるということの証明ですよ >>883
いくら5chだからって句読点打てない長文連投とか幼稚園児かよ? >>880
あなたは悟りでもして過去仏から劫単位で続いてるものをハッキリと実感でもしたの?
だったらいいけど、そう思うってだけなら誰かの言ったことを単にあなたが信じてるってこと、単にあなたの見方ってことだよね 三昧に入ったことがない人は、自我という妄想の中から一度も一歩も出たことがないわけだから
まだ本当には仏教は分かってない。 少し冷静に考えてみて欲しいんですよ。
仏法をねじ曲げてるのはどっちなんですか。
仏説は経典に遺ってますよ。
素直に読めば、それがそのままその通りで答えなんですけどね。 日本の形骸化した仏教は、このまま本来の仏教の価値(彼岸へ導く)を
取り戻さないと、檀家離れも止まらず、時間の問題で滅びると思いますよ。 三昧に入ればいろいろわかるけど、三昧に入ったくらいでいろいろわかったと思ってしまうのもどうなのか
解脱に相当近い三昧に入れるならいいかもしれんけど >>889
原始仏教に戻したら余計に滅びると思いますよ
釈迦は身分による差別をなくした悟りの価値尺度を提示したが
逆に出家、在家という新たな差別を生み出した
形骸化してない形に戻したら極端に仏教離れを加速させますよ
実際に信者を獲得してるのは超軟弱な大乗仏教ですよ
それらが一切そっぽを向くんですからね
修行なんて言ったらまず入らない 瞑想で強烈なエクスタシーに没入できる
呼吸が自然に減少し、ときたま自然に止まる
身体の感覚がなくなり心も全く動かなくなる
しかし周囲の出来事は知覚できる
これが初歩段階で経験できるような瞑想状態だけど本当のサマディではない
ってことらしい 諸先輩方に質問したいことがあります。
@他者の幸せを祈る、強く願うことは慈悲の瞑想といえますか?
そして、それが近親者であっても、しないよりはましでしょうか
A業の浄化が、不運や困難という形をとってやってくることは仏教的にありうるでしょうか。
そして私は不運や困難に対し、どのような精神的態度をとればよいでしょうか
B悟りを開くまでには何世もかかりそうです。
しかし、仏教的な瞑想で、他者に回向をして他者が幸せになることはあるでしょうか?
ダンマがより人々の上に調和をもたらすように、瞑想も役立たせることが出来ますか?
自分ひとりも瞑想だとつまらないので、利他行になるとしたら瞑想もより身が入るのですが・・・
邪魔でしたらスルーしてください。 >>892
だから密教という形態を取るようになっていったのだろうと思っています。 >>895
直接的な答えではありませんが、法句経と慈経を読んでみるのは如何でしょうか。
もしまだ読まれたことがないのであれば特に。
仏陀から教えてもらえるのが一番でしょう。 >>892
妻帯するようになる前の大乗仏教の僧侶が、どれだけ膨大な教学と修養を
積んでいたか考えたことがありますか。
浄土宗の念仏だって、膨大な唯識教学から生まれたものだと聞いています。
どんな職業にせよ、どんな技能にせよ、プロ級の知識とスキルを身につけよう
と思ったら、数千時間、数万時間の訓練は必要でしょう。
当たり前のことです。 大乗仏教愛好家が悪いと言っているわけじゃありません。
愛好家が、素人の知見しか持ち合わせていないのに
プロを見下しているのはおかしいと言っているだけです。 >>895
先輩かは知らないけど
1 しないよりはしたほうがいいと思うけど近親者以外に対してもするのが慈悲の瞑想じゃない?
なんで慈悲の対象を近親者とかそうでないものとか分けるのかわからないですね
2 業が何なのか自分で分からないうちにそれ聞いてもしょうがないと思うけど
業とは関係なく不運や困難を自分の主観で悪いことだと判断しないでそこから何を学べるかいい面を考えてみたらいいんじゃないでしょうか
3 悟りをひらくまでどれだけかかるかなんてわからないこと気にしないで、
自分にできることするか、仏教が好きなら釈迦が何をどう言ってたのか勉強したらいいんじゃないですか?
少なくとも瞑想で自分の心が変われば現実的にその分だけ他者にも適切によく対応できると思いますよ
利他行にならないとつまらないのだとしたら自分に分かりやすい結果を求めてるんだろうからそれはいいのか何なのか心を調べたほうがいいと思うけど >>895
@なります。むしろ自分の幸せを願うことは慈悲の瞑想じゃないです。
A言葉の問題かもしれません。業が異熟を生じれば悪業は清算されます。それを浄化と呼んでもいいかもしれない。
しかし、それよりも善業を積んで過去の悪業が結果を出さないように妨害業(ウパピーラカ・カンマ)を作ることの方がハッピーだと思います。
B餓鬼道の有情には廻向することができます。だたい七世前の父母親戚で餓鬼道に落ちなかった人はいないと思うので
廻向は無駄にはなりません。仮に受け取る相手がいなくても
「功徳の廻向」(パッティダーナ)を行うこと自体が布施(厳密には施所成の福業事(プンニャ・キリヤ・ワットゥ)なのでそれ自体功徳があります。 みなさんありがとうございます
>>897
法句経は折に触れ読んでいますが心洗われるようです
慈経は初めて眼を通しました。見えるものも見えないものもというところ、硬いなにかが
融けるようです。ありがとうございます。
>>900
ありがとうございます
結果は期待せず、何かわからない自他に善いものが生まれると思って瞑想を続けます
>>901
大変励まされました
「異熟」「妨害業(ウパピーラカ・カンマ)」「功徳の廻向(パッティダーナ)」覚えておきたい言葉です
悟っていない私でも出来ることがあるのはとてもとてもうれしいことです
全ての有情が幸せでありますように
微力でも無駄じゃないと思えばうれしいです >>901
横からなんですがすごい勉強になります、ありがとうございます
瞑想はしてるんですがこういうことはどういう本で学んだらいいでしょうか、何冊かおすすめください 強い国を作るための条件をお釈迦様が語った話を日本テーラワーダ仏教協会のHPで
結構前に見たのですが、ご存じの方がいらっしゃったら内容を教えてください。
何個かの条件が上がっていました。
そのうちの一つは話し合いで和合する。もう一つは老人や女性を大切にする。
だったと思います。 >>901の
>>@なります。むしろ自分の幸せを願うことは慈悲の瞑想じゃないです。
これは明らかな間違いです。むしろ慈悲の瞑想の出発点、ステップ1が
自己の幸せを願う事で、これが十分でなければ、他者への慈悲も成り立たないと
説かれています。
アビダンマの言葉を知っているからと言って仏教に精通している訳ではありません。
こういう輩を批判してタイのブッダダーサ長老は、論蔵を蹴っ飛ばして先に経蔵を
読めと言ったのです。 五 ソーナ長老の章
一 王
このように私は聞いた。
あるとき、世尊はサーヴァッティ市外のジェータの林のアナータピンーディカ長者の園にお
られた。
さてそのとき、コーサラ国王パセーナディはマッリカー妃とともに王宮のテラスに登って
いた。コーサラ国王パセーナディはマッリカー妃に言った。
「マッリカーよ、そなたには自分より可愛いものが何か他にあるか」
「大王さま、私には自分より可愛いものは他に何もございません。それでは大王さまはいか
がでございますか』
「マッリカーよ、私にも自分より可愛いものは他に何もない」
そこでコーサラ国王パセーナディはテラスから下りて世尊のもとへ行き、世尊に敬礼して
かたわらに坐った。かたわらに坐ったコーサラ国王パセーナディは世尊に申し上げた。
「師よ、私は今マッリカー妃と王宮のテラスに登り、マッリカー妃に『マッリカーよ、そな
たには自分より可愛いものが何か他にあるか』と言いました。こう言うとマッリカー妃は、
『大王さま、私には自分より可愛いものは他に何もございません。それでは大王さまはいか
がでございますか』と私に言いました。師よ、こう言われて私はマッリカー妃に答えたので
す。『マッリカーよ、私にも自分より可愛いものは他に何もない』と」
ときに、世尊はそのことを知って、そのときこのウダーナを唱えられた。
心して至るところを遍歴したが、どこにも自分より可愛いものには出会わなかった。こ
の自分が可愛いということは他の人々にとってもそれぞれ同様である。だから、自分を
愛するものは他を傷つけてはならない、と。〔ウダーナ〕 自己愛を後にして神への愛を第一に持って来た、キリスト教国が世界に対して為した事を
見れば答えは明らかでしょう。
自己愛を先にしなければ慈悲心は成り立たないのです。
慈悲の瞑想の第1は自分の幸せを願う事からです。お間違え無く。
三連投ごめん。 そうなんだよね
自他の区別なく生きとし生けるもの全てに慈悲の念を持つのが慈悲の瞑想でその第一は慈悲を自分に対して向ける
この自分に対してというのは自他の区別をしない中でのひとつの存在(自分)
それから身内という意味では自分が好きな異性には最初はしないほうがいいとかも言われる
というのも好きな異性に対して思いを念ずると慈悲じゃなく愛欲がわいちゃうからね
でもそこらへんは全てのものに対して同じように念じられるように注意していけばまあいいかなと思うんだ
自分が慈悲を思いたい対象以外の対象(身近でないもの、自分が嫌ってしまってるもの)にも慈悲を念ずるし
自分へも他人へもその他の全てへも、全てに慈悲の念を持つのが慈悲の瞑想だよね
分別せず全てに慈悲の念を持つのが慈悲であり無分別なのに自他を分けて自分の幸せを願わないってのはおかしいよね >>906
慈悲の瞑想、慈経は、他の生命への慈愛、利他的なもので(中村元解説)。
自己愛という利己的な我執の自己になれということではないですよ。
907の引用は、他者への加害の禁止に転位させる善導の次第説法なんです。
仏教は自利だけを説いてません。
仏教は、自己愛性人格障害を生み出すものではないです。
>>909
自己こそ自分の主である、他人がどうして自分の主であろうか
(ダンマパダ160)
貴方の後世の哲学化理解だと、善法と不善法、解脱、悟りに役立つ教えと、
そうでないもの、また利益となる教えと有害となる教えを
ブッダは正邪真偽を実際に※分別していたのに、
自利と利他、道徳の説法も無分別では説けないでしょ。
無分別という精神的見解を持つ自我は、智慧なく択法覚支では説けない。
まぁ自利利他の教えなんだけど、自己を第一に渇愛で慈しみなさいなんてフレーズは
ないね。我執の克服、渇愛の克服、それが自己救済に繋がるわけで、
もちろん自己放棄、自己否定ということでもない。 >>910
誰も自己を渇愛で慈しみなさいなんて言ってないよ
自己であろうと他であろうと慈悲の瞑想において渇愛でなんて慈しまないでしょ
それから慈悲の瞑想は道徳がどうのという話じゃないと思うけど
慈悲の瞑を行ったとき一体誰が(自分の何が)一体何に対して慈悲の念を生じさせているのか考えたほうがいいと思うけどな
そもそもいまテーラワーダで行われている慈悲の瞑想は最初に自分の幸せ、自分の苦や悩みが無くなることを念じるでしょ >>911
テラワダの慈悲瞑の自分の幸せとかの部分は、原典の慈経にない後から作られた
ものです。修行メソッドですから、隨念効果もあり、それはそれでいいでしょう
けど。考えたほうがいいという観念ではなく、自発的なもので、
長部ソーナダンダ経
「智慧は道徳で清らかになる。道徳は智慧で清らかになる。 道徳から智慧が現れる。
智慧から道徳が現れる。 道徳と智慧はこの世でもっとも優れたものです。」
あれ、テラワダ教って智慧が現れるように修行しないの?
某長老さんは、智慧のある人は、慈しみがあると説いてますよね。 >>912
あなたの慈経の解釈がそういうものならあなたにとっての慈経はそれでもいいけど、
ただ慈経に自分の幸せを願うなみたいなことも書いてはないでしょ
道徳に関して道徳は無分別で説けないとあなたがいうからあなたのいう道徳が分別ある世俗的な道徳の意味だと思って言ったのです
そこで書かれているソーナダンダ経の道徳とはそういう分別あっての道徳ではなく分別をなくしていく道徳ではないですか?
智慧という言葉を使うならそれこそ無分別の立場からあらわれてくることでしょう
自分や他の様々を分別して智慧が現われますか?
慈悲の瞑想で自分の心身から苦や悩みがなくなることを思って何がわるいのかわからない
自分からも他人からも全てのものから苦がなくなればそれでいいと思いますが >>913
中部9正見経の十不善と三不善根の善法と不善法、
解脱に役立つ教えとそうでないもの、また利益となる教えと有害となる教え
正邪真偽を実際に分別(択法覚支)、分別主義とも言われてました。
>無分別の立場
貴方が、無分別という精神的見解に束縛されているので無分別を
一生懸命、正当化されるのでしょう。
そういう束縛からの解脱を説くのがブッダですよ。
原始仏典にも、無分別とは説かれてません。
ええと、修行上では無思考になることございますでしょう。
智慧の完成者が自己と他人を区別して、道徳、慈悲を実際説いております。
貴方のように無分別に束縛支配されず、思考を道具として
使えているわけです。 横から
>>914
無分別は不戯論のことだよ。
ニッパパンチャ。 >>914
慈経の全ての生きとし生けるものが幸せであるようにという生きとし生けるものに自分が含まれない意味がわからないのですが
あなたにとっては含まれないという解釈なのでしょうしそれはそれでいいです >>915
いや、私も学者先生と同じく徹底的に調べたら仏典上に無分別は説かれてなく、
修行論の説明で無分別を便宜上使っているだけなんです。 >>916
Sn.150「全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)」
Sn.149「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、
そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の
慈しみの意を起すべし。」
Sn.148「他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いを
いだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。」
すべて、〜に対して、ですよ、自己に対してとは説かれてません。
他人とも使ってますよね。 >>918
結局のところあなたは自己をあくまで瞑想する自分(主体)と捉え、私は自分の心身を他人と同じ瞑想の対象と捉えているのです
私から見れば自分は母でもあり私の心身はその私の子供であるし生きとし生けるものに当然自分が入るのです
だから慈経の解釈も変わります
あなたはそういう見方をしてないとわかりましたのでそれでいいです どちらも、相手が言ってもいない極論を相手に反論しているだけに見えて、実に滑稽。
>マッリカー夫妻への、自衛愛から他衛 >自他分別なき、大海の如き慈悲
前者は、確かに自分を優先させているけれども、
それは、他を蔑ろにして、或いは無視して、
或いは常に・必ず、自分よりも後とする・自分の利よりも下位グレードとして扱う、
ということではなくて、
他者の利益を(不害を)確かなものにし、やがてそれが、自身の最上の善なる行為となさしめるために、
気付きをうながしているだけでしょ。
決して自己中心的な思想が説かれているわけではないでしょ。
なぜ、他をがいしてはいけないのか?という理由付けとして、これほど説得力があり、
むしろ、現代社会に於いて、大層希薄となってきている
「相手の立場となること」「他者の気持ちを想うこと」そうした想像力を生じせしめるのに、
「わかりやすい」んじゃないかね・・・。
(まあ、子どもの虐待なんてのは、昔からもあったことだろうけれど、
最近のは、ほんとうに想像力の欠如に起因するんだろうな、とも思うわけで・・。
また後者は、
区別しなくていい、吟味しなくていい、無条件の平等でいい、条件・環境・状況を無視していい、
或いは、たとえ他者の不害のためであっても、まず自衛を掲げることを忌避し、嫌悪し、
更に極端に自己を犠牲にしてこそ徹底的に自己の利益を避け・寧ろ自ら不幸になることによって、慈悲の本質とする、
ということでもないでしょう?
(どっかのすれでの行き過ぎたボランティア理解と重なる話だけれど、
自分を優先して犠牲に資、不幸にしてたら、それはそれで、逆の位相で、平等無分別に外れるしw)
分別してたら、それが、扱いの相違になり、やがて単なる区別を通り越して差別と化していくから、
そうならないよう、わけ隔てない視線の投げかけが、仏法の(慈悲の)本質だということを言いたいだけでしょう。 >>919
実は貴方の言いたいことは分かりますよ。
すべては一体、全体の部分であって、部分は全体に含まれ、同質性という
=ヘーゲル哲学、梵我一如的
禅宗の悟り話的で、もう あるあるな話でしょ。
中村元の解説では、我執の克服で、こだわりがなくなり開かれた自己によって、
※他者と素通しになり、慈愛という美質が湧くものとあるけど。
まぁ自他区別ない同質性でもいいけど、ヒンドゥー的、大乗的でいいのでは。 >>904
藤本晃「仏教の正しい先祖供養 功徳はなぜ廻向できるの?」
水野弘元(監修)、戸田忠、ウ・ウエープッラ(訳注)
「アビダンマッタサンガハ―南方仏教哲学教義概説」
http://www.kotobuki-p.co.jp/nakayama/index5-2.htm#012
ですかね。前者は電子書籍しかなく、後者はアマゾンではなく出版社のHPに在庫があると思います
後者の副読本として
藤本晃「『アビダンマッタサンガハ』を読む」
をオススメします(こっちも電子書籍しかない)
あとは
バッダンタ・ニャーヌッタラ「テーラワーダ仏教が伝える慈経」
http://www.kotobuki-p.co.jp/nakayama/ryosyo_01.html#jikyou てゆうか無我が分かってないから自利だ他利だって議論になるんでしょ。
無我なら「生きとし生けるものが幸せでありますように」で何の問題も無い。
まず渇愛を無くして、無我にならないと。 >>922
おおーありがとうございます、ちょっとしらべてみますね
アビダンマ難しそうで放置してたんですがちょうどいい機会ですので勉強してみようとおもいます >>923
自利利他は、堂々と仏典上の仏陀の教えにありますけど、
無我に囚われてばかりで読んでませんでしょうか。
自己放棄でも否定でもなく、虚無化でも、極論化でもなく、
無我で実現する自己を仏典上で認めてますし。
某スマ長老は、出家者でない人に、堂々と皆と議論して下さいと
説いていますけど、さてその真意は何でしょう。
慈悲でもって根拠をもとに教え諭すのが、プロなのでしょうけどね。 >>925
自利利他と慈悲は別の話でしょう。
無我ならば、慈悲行において何の矛盾も、
問題も生じないのは確かではありませんか?
慈悲の中に自利利他を持ち込む必要は無いでしょう。
もったいぶらないで下さい。言いたいことがあるならどうぞ。
真意は何ですか? >>925
ちなみに、無我で実現する自己とは何ですか? 世間の基準と出世間の基準を、一つにまとめようとするから、おかしくなる >>ALL
世間の真理はこう、出世間の真理はこう、のダブルスタンダードでいいじゃん。
そうであることこそが、
一神教のような、ワン・スタンダードによる歪さかを回避できてる仏教らしさだと思うんだけどね・・。
マッリカーへの教えのどこがおかしいのか?
自他の分別を本当になくしてしまったら、日常のあらゆる事柄が崩壊する。
ブッダは、そのような、人々の社会の崩壊を説いたのか?違うだろ?
無分別は、あくまでも仏の視線、仏の価値観であって、
それで日常の様々な事象を処理していけると考えているとしたら、
よっぽどの世間知らずとしか言いようがない。 仏道実践は道、つまり過程なので、実践の段階によって体験内容は
違いますし、理解の仕方も違ってきます。
例えば、禅定に達していない段階での慈悲の瞑想は、どうしたって
常に自我意識があるはずです。
欲界善心ではない色界浄心の慈悲心が生じるのは、五蓋が滅して
禅定に達している時だけのはず。
自我の思考が生みだす欲界善心と、それらが一切無いところに生じる
色界善心は、まるで別物です。 仏教理解は、仏道実践者の立場によっても変わってくるはずです。
例えば、人生苦に打ちのめされた自殺寸前の奴隷と、
一国の王子に生まれついた菩薩が、同じ法門に出会っても
関わり方は全然違ってくるのではないかと思います。
出発点からすでに違うのです。 平等というのは、金太郎飴のような均一な理解ということではないはずです。 >>928
無我を悟ったからといって、自他の分別は無くなりませんよ。
無分別、つまり認識作用が止滅すれば無明が無くなるだけで、
日常生活はそのまま、業のまま、ただの人間のままですよ。 >>926
利他行の説く内容と、慈悲行の説くとこは関係している
ことが分かりますよ。学者と某長老の解説も同じです。
中部61と合わせ、利他が伴う行いを最高と推奨して説かれてます。
我有りの利己的な我執の克服の行いに繋がるからでしょう。
>>927
著名な学者や僧の専門書を読めば記述されてます。
もうあれこれ書くと、今度は貴方が抱く仏教で論戦するわけでしょ。
自分は苦悩が減少し、以前より生きやすくなれ、周りから好かれるようになり
仏教には感謝してます。どうぞ貴方も仏道で幸あれ。 >>929
禅定ではなく、智慧で自我を滅ぼした人の、
慈悲の瞑想はどうなりますか? >>933
それを言えば仏説は全て関係していますよ。
ただ、慈悲は慈悲、利他は利他で考えるべきだと思いますが。
慈悲、利他について説くあなたが、なぜ説明をしてくれないんですか。
経典、書物よりも行だと思いますがね。 仏教(上座部)も経典至上主義になりやすいからね。
初心の人は、とかく経典に文言に忠実になるし、
瞑想なり修行が進んだ人は、経典から離れて体験も交えるし、
そうした人が意見交換したって、白熱した並行線になるだけだよ。
お互いが違う所から意見を言っているんでね。 学問ばかりして、内容を理解せず、
お釈迦様に叱られた比丘がいましたよね?あれ誰でしたっけ? でもね、最初は経典に忠実に学習して
言葉とか定義とかをしっかりと勉強するのがいいね。
経典をほとんど読んでない比丘もいるしw
上座部ならパーリくらいは全部目を通して中身も憶えるくらいがいいよ。
これを土台にしながら瞑想や修行を続けて、
文言の世界とは違う実相に触れて、観念を超越して、
自我を見切って、主体の無いことを知見することだね。 >>938
でもどうでしょう。
お釈迦様は対機説法でたくさんの人に法を説きましたよね。
一個人に必要な説法は少しでいいと思うんです。
全部読んじゃうとかえって分からなくなりそうです。
比丘になるなら全部読んだ方がいいでしょうが。 >>936
オウムのように体験至上主義の罠にハマってもどうかと思うね。
三昧も実相どうの一時的なもので悦に浸っても、過ぎ去るわけで、
仏典と同化することなく、体験と同化して自我強化することなく、
手放してればいいでしょうけど。
以下、アーチャンチャー「手放す生き方−気づきの瞑想実践」より抜粋
・サマタによる心の平安は、私たちの最終目標ではない。
ブッダは、自身がサマタによる心の平安に執着しなくなるまで、
存在の真実を探求し続けた。サマタは修行の途上の一段階にすぎない。
・ブッダは、智慧を通じた解脱とサマタを通じた解脱の2つを説いた。
教えはシンプルで、ただ物事を手放すこと、物事をあるがままにしておく
ことだから、多くの努力やサマーディ(定)を必要とすることなく、
彼らはとても自然な形で手放すことの実践を始めることになる。
このシンプルな実践は、最終的に彼らを我(アッタ―)を超えた、もはや
手放すものも、つかむものもない場所へと導くことができる。
一方、サマタを通じた解脱を目指す人は、その経歴次第でより
多くのサマーディを必要とすることになる。彼らはとても厳格な方法で、
長い期間坐る瞑想をしなければならない。 >>936
だからw そう言ってるだろ。
それをわかってない二人が言い争ってるんじゃないのかい? >>941
七清浄
1. 戒清浄
2. 心清浄
3. 見清浄
4. 度疑清浄
5. 道非道智見清浄
6. 行道智見清浄
7. 智見清浄
1は戒律、2は禅定(サマタ瞑想)、3-7はヴィパッサナー瞑想と関係している。
在家でもできないことはないようだが。あくまで出家向きではあると思う。 >>942
>無分別は、あくまでも仏の視線、仏の価値観であって、
あー、禅宗のバイアスがあるんだ。
そういうものを価値観として重んじるなと仏典にあるけど。
>無分別、つまり認識作用が止滅すれば無明が無くなるだけで、
そして、お決まりのように、これ一点もってくる、毎度おなじみ
のあるあるパターン、いえ、そこだけが焦点でないでしょ。
あのー、無分別研究している学者先生がいて、
なぜ無分別の一点を重んじるのか、そのルーツが分かったんですよ。
無念無想、不思不観、無分別、不二へと陥った原因が解明された。
でもね、そこに固執している方と論争になるので、書きません。 オウムは帰依の対象が仏陀じゃないから仏教ではないので、比較対象としてどうなのかね。 >>945
学者の研究はいいですから、
無分別になってみてから言ってください。
たしかに無明が無くなります。 八正道
1. 正見
2. 正思惟
3. 正語
4. 正業
5. 正命
6. 正精進
7. 正念
8. 正定 ←サンマーサマーディ(九次第定)
サマタできる人は、出家でも何割か程度らしい。
なので、それ以外の人に向けたメソッドも開発されてきたということでしょう。
でも、仏陀が出家した高弟たちに教えた方法は経典の通り。 三学
1. 戒
2. 定 ←サマーディ
3. 慧
仏陀が教えた修行法はサマタ、ヴィパッサナー双修であって、
ヴィパッサナーオンリーのサマタ否定ではないはず。
ただ、一生掛けてもサマタが成功せずに挫折してしまうよりは、
続けられるメソッドで続けた方がいいのかもね、という理解。 修行寺の出家って、毎日朝から晩まで10時間くらい座禅ばっかりやる生活なんですよ。
それを何年もやる。
それでもサマタが成功して(禅定に入って)、禅定の定力を支えとしたヴィパッサナーを
修行していける人は、全体の3割程度らしい。 サマタ否定しようとしても、そもそも戒律がすでにサマタの始まりだと思うのよね。
個人的には。
サマタ否定の本当の意図を、その前後の文脈や背景と共によく検証してみると、事情が見えてくるんじゃなかろうか。 >>951
ん?サマタに執着するのが問題じゃないの? 色貪無色貪が無くなるのは阿羅漢になる時のはずだから、
ヴィパッサナーの修行をしている最中も、最後まで完全には
なくならないのでしょうけれども。
ただ、それをいったらサマタできない人は欲貪の段階なんです
けどもねぇ。 >>948
八正道のプロセスによって修習される四禅定は、
九次第定の中の四禅定とは異なります。
八正道の正定は、四禅定までの説明で終わっています。
七科三十七道品の中には、八解脱などの四無色定がその中に
含まれる修行は入ってません。 >>953
さぁw
オウムがどうたらこうたらって。よく分かりません。w 過去世を思い出したり、過去世の業を見て今世の生まれが
何故こうなっているのか、その理由を見たり、そういうことは
サマーディがないと思い出せない。
サマーディがあれば思い出せるので、そのレベルの観察ができ、
そのレベルの洞察が得られる。
過去世の記憶は、今世の自我の中からは、いくら頑張ったって
出てこないからね。 私は初禅ぐらいしか経験が無いのでよく分かりません。 >>951
否定でなく、貴方のように境地に執着してしまうわけです。
体験でもって自我強化してるわけで、しかも体験のその実体視で
意識誘導して、都合よく意味づけをしてしまう。
色受想行識の範疇の接触を縁としているのに。
深い禅定も作為的にもたらされたものは壊滅は避けられず、
無相定の限界を知りなさいと説かれ、
サマタを極めても解脱完成しないと説かれ仏典にありますが、
それを心解脱として、慧解脱が必須と説かれてますよね。 他宗教ならいざ知らず、サマタが最終的な到達点だと思っている仏教徒なんて、
今どきそうそう居ないと思いますけども。 >>958
仏陀が説いた八正道から正定を切り落として七正道みたいに改謬してしまう方が
ずっと問題だと思います。
これのどこが執着なのでしょうか。 私も初禅入りましたけど、まぁこんなもんかって感じでした。
別に執着はしませんでした。 こういう話が、迷信やオカルトのようなものだと感じている人が多いことは理解できます。
でも、率直にいって迷信は自我の妄想の方なんです。
心(精神現象)が、脳や身体といった物質から発生しているという現代人の信仰も、ひどい迷信です。
真相はまるで逆なんです。 >心は物質から発生している。
>精神現象は物理現象である。
↑
現代社会でもっとも普及している宗教的教義ですが
冷静に考えてみると、ひどいオカルトです。 >>965
思考、妄想は脳を使うんじゃないですか?
脳の中にあるような気がします。 >>965
オカルトじゃないだろw
単なる事実の積み重ね(五蘊の反応)であるだけで。
その先に何かあるのかどうかは、禅定をきわめてないのでわからんが。
少なくとも、965のような言い切りが仏教的でないことはわかるw >>957
「われには、われが、かつて存在したという思いもないし、
またわれには、われが未来に存在するであろうという思いもない。
潜在的形成力は消滅するであろう。
ここに何の悲しみがあるであろうか。」テーラガーター
テーラガーター
「わたしは、束縛をのがれ、煩悩のけがれのない者となった。
実に、わたしの誓願としたところのものは、
※過去世の生活を知る[通力]を得るためではなく、
すぐれた透視[力]を得るためでもなく、他人の心を読みとる[通力]をえるため
でもなく、死と生を知る[通力]を得るためでもなく、聴力を浄める[通力]を
得るためでもなかった。」 こう考えると、
片山さんは、ほんと、慎重だったんだなぁ・・・。(懐 >>968
七清浄
1. 戒清浄
2. 心清浄
3. 見清浄
4. 度疑清浄
5. 道非道智見清浄
6. 行道智見清浄
7. 智見清浄 ←それはココ
わいはもっとずっと手前。 >>966
思考を止めた(というか思考をスルーできた)ことがあるなら、
思考と、その思考を見ている意識が別なのは分かりますよね。
脳との相互依存関係で生じている現象が、精神活動の全部ではないはずです。
それは精神活動の表面というか、根っこではない。 時に自分の名前さえ忘れることがあったと言われる周利槃特
当然新たな知識を得ることはかなわず、瞑想することもせず、ただひたすらに掃除にに専心し、悟りを開く。
なかなかすごい逸話である。いろいろ示唆に富んだ内容である。
釈尊いわく
「悟りを開くということは、
なにもたくさん覚えることでは決してない。
たとえわずかなことでも、徹底して行うことが大切なのだ。
ほんの短い教えの言葉であっても、その言葉の本当の意味を理解し、
道を求めていくならば、さとることができるのです」と。 >>972
仏教が知識の詰め込みでないことは、明らかでしょう。
けど仏典を読んで気づかされたり、解脱に役立つ教えが含まれてますから、
読む自由を否定できないでしょ。
私は実践してますよ、けど教学にも救われ、助けとなり、
軽視せずよかったと実感があります。
でないと、サマディで過去世を等とか、マイ観念的仏教化していきますから。
仏典や解説を読めば、あーそういうことかとか、今に生きるってとか、
自我の構成についても分かり、何で観察瞑想するのかまで分かり、
知的準備なく、単に瞑想しろでは、健康効果で終わることもあるでしょ。
チャー師も、瞑想者の私とアイデンティティ化させるなと、
そうなると、貴方のように知識主と対峙してしまうのかもしれません。
9取(執着、対象と同化)、10有(仮構され)、11生(自我生じる)
アイデンティティを構成10有 サマーディの実体験をする人、正定の重要性を訴える人を見かけたら、
反射的に、その人は三蔵読んでないと思い込む癖はどこから来ているのか。
なんか歪んでる。
わいの本棚のほとんどは仏典と仏教関係書籍だというのに。 仏教徒が真面目に八正道を進んで行って、正定に入ったらいけないの?
過去世を思い出して縁起を観察する修行法、清浄道論になかったっけ?
ダメなの?? 本当は、心のどこかでそんなもん無いと思ってるんじゃない。
それが疑、五蓋なんだってば。 疑
戒勤取
有身見
これ全部あるでしょう。
マハシを指導しているスマナサーラ長老だって、一来果以上は
瞑想やらないとなれませんよと話している。
おそらく、修行者が本当に預流果に達したなら、それまで禅定を経て
いなくても、一来果に向かう過程で必ず禅定を経るはず。
預流果になれば五蓋が弱められるうえに、すでに疑がないので、ぶれずに
瞑想に全身全霊を傾けられるようになるからだと思う。
わたしは道果は達していないけど、道は見た気がする。 いま日本で流行ってるマハシ系の人たちの言う預流果って、
三帰依して戒律を守って瞑想しているから、来世悪趣に落ちる心配は(あんまり)なくて
ほぼ預流果と言ってもいいよね、という“ほぼ預流果”じゃないかと思ってるんだけど、
違ってたらごめんね。
だって三昧も経験してないし、それどころあるとさえ思ってない風だし、涅槃を見たわけ
でもないし、厳密にはまだ預流果じゃないはずなので、油断しない方がいいと思う。 不退転とは、「決して退かない、あきらめない、やめたりしない」
という意味で理解されていることが多いかもしれないが、多分違う。
一旦ステージが上がってしまったら、どんなに必死に戻ろうとしても、
以前の(俗なる)自分には戻りようがない、という意味なのでしょう。
だからこそ、「来て、見よ」と言われ、且つ、すべてが滅し、静まり、
再び母胎に宿ることがない(≒俗世の業を積むことがない)と言われるのでしょう。
その意味で、定を修める(極める)ことは、(どのタイミングどの段階かは別としても)
通過が必須な要素なんだろうね。 スマナサーラ長老版の慈悲の瞑想の文言の
悟りの光があらわれますように ←コレ
これは経典教学の智慧ではなく、瞑想による般若の智慧が
現れた時の表現としか思えない。
スマさんは知ってて、分かってて、黙ってる。 >>975
私は一切、正定を否定すること書いてませんよ。
純観行者がいて解脱した修行者がいたことは確かです。
私は以前の苦滅が済んで、日常実践で安楽に過ごしてます。
で、貴方の仏縁の着地点は、何でしょう。
聖者でも成りたいのですか、自己流でなく、こうなりたいと信頼できる師に
ついているのですか。
過去世を思い出す作業より、もっと合理的な悟り,解脱,涅槃に至る教えが
あること見つけられてないのですか。
九次第定にしがみついている様子だと、複数ある解脱プロセスが
整理できてなく、智慧の解脱の教えを見つけられてないのでしょうか。
相応部スシーマ経では、堂々と、解脱には、過去世どうのは、必須でないと
否定しています。それがブッダが必須と説いた、慧の解脱です。
五神通は解脱,悟りへの必須条件ではないと、明示されてます。
あと色界を超越して、寂静な無色界の解脱に身体をもって触れたか聞く、
それも否定、智慧によって解脱と。 >>980
>>981
>定を修める(極める)ことは、通過が必須な要素なんだろうね。
ところが仏典上では、極めること必須でないと説かれてます。
純観行者=乾観者
慧解脱の阿羅漢、サマタを極めることなく、観瞑想の解脱者
観瞑想でも集中が伴う初禅に入れてる
ちなみに、この実践で完全智の解脱可と説く、
中部10経、念処経、長部22経、大念処経、も目を通したのかな。
ええと、あれこれ流派の概念構想に沿って瞑想修行してても、
スマ長老が大先生と呼ぶ チャー師の教えの通り、結局、
シンプルに手放す生き方に落ち着くそうなんだけどね。
というか君らは出家した方が、修行環境整ってていいのでは? >>981
>悟りの光があらわれますように ←コレ
スマ長老は、
パーリ語で光といったら智慧という意味ですと答えてます。
>瞑想による般若の智慧が現れた時の表現としか思えない。
スマ長老の本には、
瞑想中の光は、幻覚で、智慧と関係なく誤解しないこととあり、
オウム麻原は、光を見て最終解脱したと自慢していたとあります。
ええと、貴方、都合よく意味づけして、妄想激しくないでしょうか。
そういう人が、過去世でどうのとか、正定が九次第定とかもう、
そもそも根本的なことが、、5ちゃんに来る人らしいですね。 まぁ、こういうことになるから密教化したのだろうけれども
もともとは秘密ではなかったはずのものだと思う。
秘密にしなくても、正定からの智慧(三学=戒定慧の慧)に達していれば分かることだし
達していなければ、妄想との判別がつかない。
それだけのこと。 思考の中だけでの仏教理解は、あくまで自我のなかに生みだしている概念だから
般若の智慧じゃないんだよ。
人智のなかに生みだす概念が、人智を超えることはない。
しかし般若の智慧とは、人智を超えたもの。 幻覚の光というのは、五蘊のなかに生みだした感覚のことでしょう。
五感が働いている。
夢を見ている時も、感覚がある。
禅は完全に決まると思考も感覚もない。
そこにある光は幻覚ではない。
心はもともと光だから。
(例えば、無色界の梵天には身体はない。)
梵天の話をするとオウムなら、梵天の勧請を受けた仏陀はどうなってしまうのか。 スマさんがいってる光を気にするなっていうのは、瞑想初心者がよく言う
光がみえただの、映像がみえただの、瞑想中にでてくる妄想のことでしょう。
そんなことは当たり前のことで、分かりきってるんですよ。
その辺の話をしているんじゃないんです。 スマさんが、心は光より○○倍速いとかって話してるのを聞いたことあるでしょ。 光を見るときはエゴが見てる
梵天を知るときはエゴが働かないとき(釈迦が梵天と会ったのは悟った後) >>989
ええと、貴方の一連の話から特に目新しいことはないです。
スマ長老は、仕事のある在家の現代人は時間がないから、
サマディを作らず、私が指導する簡便な止と観ヴィパッサナで
短い時間で結果が出せると本でも述べ、それを瞑想教室でも教えてます。
私も何回かスマさんの瞑想講座にも参加しました。
貴方は専念できる時間がたっぷりあるなら、貴方がしがみついた仏道を進まれ
実践してくださいな、相手より自己を観察せよでどうぞどうぞ。 >>993
光、ニミッタという幻覚を制御させて観の質を高められるとかね、
必要ないとスマさんが在家向け指導する瞑想で短時間で効果出せると
述べているけど、そこまで境地に執着する必要あるのかな。
しかも仏典上もサマタ(極め)修め必須でないと堂々と説かれていて。
サマタで無常が悟れても、智慧の開発はヴィパッサナとスマ氏説くが。
こういう体験をして何かを得ている比類なき私って、もうそれ自我構成強化。 このスレッドは1000を超えました。
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