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カトリック教徒が励まし合う場所3 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/03/11(土) 18:10:17.50ID:hA1oURt7
カトリック、プロテスタントが混じると揉めるもと
辛いことがあって励まし合いたいカトリックの方はこちらへどうぞ
 
カトリック教徒が励まし合う場所
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1478019542/
 
カトリック教徒が励まし合う場所2
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1485640372/
 
※マルチポストはご遠慮ください
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/
0843老クリスチャン
垢版 |
2017/10/20(金) 12:26:21.09ID:qvWueY0b
2008年(主日A年) 10月19日 年間第29主日
イザ 45:1,4-6  Iテサ 1:1〜5  マタ 22:15〜22

「イエスは、“これは、誰の肖像と銘か” と言われた。 彼らは、 “皇帝のものです” と言った。
すると、イエスは言われた。 “では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。” 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。」(マタ vv.20-22)

18世紀の啓蒙思想以来、キリスト教の道徳的意義を強調する風潮が生まれて、それが現代の “キリスト教社会倫理” や “教会の社会的責任論” の流行に至った経緯が、今朝の朗読配分の背景にも影響しているように思えます。
“皇帝のものは皇帝に、つまり教会が社会的責任を果たすことが、神のものを神に返すことになる” という考え方です。
この福音書のテキストに組み合わされたイザヤ書のテキストの選択が、そのような解釈に一見好都合にも見えるのです。

しかしそのような解釈は、イエス自身にとっても、また原始教会と使徒たちにとっても全く無縁なものでありました。
共観福音書はいずれも、このテキストを受難物語の中に配置しています。
皇帝に税金を納めることの可否などという問題を、主の受難の福音の中で論ずるなどということが、いかに的外れなことであるかと気づけば、それで十分だということです。
0844老クリスチャン
垢版 |
2017/10/20(金) 12:27:43.78ID:qvWueY0b
(つづき)
新約聖書が、当時の社会における道徳や倫理の問題にほとんど言及していないことには、いくつかの理由があります。
少なくとも原始教会は、彼らの生活の背景に旧約聖書を持っていて、その倫理がユダヤ教の敬虔と固く結びついていたことが、先ずあげられます。
その上で彼らは、キリストにあって与えられた新しい神の国と永遠の命の希望に、最大の関心を向けていました。

「この世の有様は過ぎ去るからです」(Iコリ 7:31)と使徒パウロは教えています。
私たちキリスト者の目標は今も、復活の日に 「御子に似た者になる」 ことです(Iヨハ 3:2、ロマ 8:29)。
使徒パウロと共に 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリ 3:10-11)と、叫ぼうではありませんか。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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