カトリック教徒が励まし合う場所3 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>841
老クリスチャン 降臨
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イザ 45:1,4-6 Iテサ 1:1〜5 マタ 22:15〜22
「イエスは、“これは、誰の肖像と銘か” と言われた。 彼らは、 “皇帝のものです” と言った。
すると、イエスは言われた。 “では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。” 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。」(マタ vv.20-22)
18世紀の啓蒙思想以来、キリスト教の道徳的意義を強調する風潮が生まれて、それが現代の “キリスト教社会倫理” や “教会の社会的責任論” の流行に至った経緯が、今朝の朗読配分の背景にも影響しているように思えます。
“皇帝のものは皇帝に、つまり教会が社会的責任を果たすことが、神のものを神に返すことになる” という考え方です。
この福音書のテキストに組み合わされたイザヤ書のテキストの選択が、そのような解釈に一見好都合にも見えるのです。
しかしそのような解釈は、イエス自身にとっても、また原始教会と使徒たちにとっても全く無縁なものでありました。
共観福音書はいずれも、このテキストを受難物語の中に配置しています。
皇帝に税金を納めることの可否などという問題を、主の受難の福音の中で論ずるなどということが、いかに的外れなことであるかと気づけば、それで十分だということです。 (つづき)
新約聖書が、当時の社会における道徳や倫理の問題にほとんど言及していないことには、いくつかの理由があります。
少なくとも原始教会は、彼らの生活の背景に旧約聖書を持っていて、その倫理がユダヤ教の敬虔と固く結びついていたことが、先ずあげられます。
その上で彼らは、キリストにあって与えられた新しい神の国と永遠の命の希望に、最大の関心を向けていました。
「この世の有様は過ぎ去るからです」(Iコリ 7:31)と使徒パウロは教えています。
私たちキリスト者の目標は今も、復活の日に 「御子に似た者になる」 ことです(Iヨハ 3:2、ロマ 8:29)。
使徒パウロと共に 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリ 3:10-11)と、叫ぼうではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>843-844
老クリスチャン 降臨
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/ O\ The New American Bible, Revised Edition (NABRE) released on March 9, 2011
by United States Conference of Catholic Bishops
the footnote of Luke * [4:18] (およその意味)ために、持ってくる、喜ばしい知らせを
(glad tidings)、に、貧しい人々:他のどの福音書記者よりも、Luke は、気にかけている、
Jesus の態度 (attitude) を、に対する、経済的にそして社会的に貧しい人々
(参照せよ Lk 6:20, 24; 12:16-21; 14:12-14; 16:19-26; 19:8)。
しばしば、貧しい人々は、における、ルカの福音書、関連させられている、と、弾圧されて
いる人々、しいたげられそして苦しめられている人々、顧みられずそしてほうっておかれて
いる人々 (Lk 4:18; 6:20-22; 7:22; 14:12-14)、そして彼らである、信じているのは、
Jesus のお告げを、についての、救い。 >>846 補足
聖書センター センター長 雨宮慧神父様 新約聖書ギリシア語辞典
euangelizoo エウアンゲリゾー 福音を告げ知らせる A・待降・3
「よい知らせを持ってくる」、あるいは「よい知らせを告知する」〔新約文書では、黙十7、
一四6、使一六17(ベザ写本)にのみ見られる能動態は、後期ギリシャ語に属し
(1サム三一9、2サム一八19以下)、意味は中動態「エウアンゲリゾマイ」
と変わらない(この中動態のほうが古典ギリシャ語の時代からずっと一般的であった)。
現在・完了・第一アオリストでは、受動態の意味で用いられる〕
(2)きわめて特徴的な用法として、神の救いのメッセージやメシアによる宣言や福音に使われ、
「宣教する・宣べ伝える」
(α)中動態で
(ハ)メッセージを受け取る人をのみ述べて、「誰かに宣べ伝える」
(a)誰か(与格)に「宣べ伝える」
[貧しい人に]
▼ルカ四18 >>830 CD Messe "in canto gregoriano" が届きました。
CD で聴くとより音程の安定さと発声のなめらかさを感じました。Liner notes にはイタリア語訳
が載っていました。さすがイタリアの店で、15 年程前の CD の在庫を持っていました。
ザンクト・ガレン (Sankt Gallen ?) さんが紹介してくださらなかったならば、私は、
"Schola Gregoriana Mediolanesis" 他の商業主義から遠く隔たった合唱団の存在を知る事は
なかったでしょう。感謝しています。 >>848 訂正 15 年程前の CD の在庫を持っていました。 -> 15 年程前の CD が在庫切れ
ではありませんでした。
済みません。 2011年(主日A年) 10月16日 年間第29主日
イザ 45:1〜6 Iテサ 1:1〜5b マタ 22:15〜21
ペルシア王キュロスの勝利によって、今やイスラエルのバビロン捕囚が終わるのを、息詰まる思いで待つ第二イザヤの預言は、神の救いを “壮大な神の新しい創造の御業” として描きました。
神はキュロス王をそのための手段として用いられるけれども(イザ v.1)、彼はそれを知らない(イザ vv.4,5)。
神はイスラエルを贖われるが、決して世界をイスラエルに造り変えたりはなさらない。
そして新しく創造されるイスラエルの果たすべき使命が、四つの “僕の歌” (イザ 42:1-4,49:1-6,50:4-9,52:13〜53:12)で歌われていきます。
主イエスが御自分を “僕なるメシア” として理解され、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マコ 10:45)と言われたことを、
使徒たちの教会は “壮大な神の新しい創造の御業” であったと知って、神の国の希望を宣べ伝えました。
“共に恵みに与る者”(フィリ 1:7)としての教会を “造り上げていく”(エフェ 4:12)ことが、“神のものを神に返す” ことであり、これこそが宣教の主題であることを、
そして “皇帝のものを皇帝に返す” ことはそれとは区別されるべきことを、現代の教会が聖書を通して学ぶことが出来ますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より _,. -‐、────- 、
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老クリスチャン .__ 降臨
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<老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!! >
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\\( )\\( )\\( )\\( )\\( )>>851 Trailer zur CD "Notker Balbulus" (Benedictine monk of St. Gall):
Trailer zu unserer CD "Gregorianischer Choral, Tropen und Sequenzen aus
dem Kloster St. Gallen(トロープスとセクエンツィア、の、ザンクト・ガレン修道院)"
Golden Label Preis Brussel 2011
ttps://www.youtube.com/watch?v=aWnfhNuiGpQ
cf. Encyclopaedia Britannica, Medieval Latin literature
The 9th to the 11th century
ttps://www.britannica.com/art/Latin-literature/Medieval-Latin-literature#ref320570 臨終の霊魂のための祈り http://tenshikan.jp/inori.htm
*煉獄の霊魂たちがマリア・シンマに言うところによると、人々の霊魂の救いのために祈る人が
あまりにも少ないので、多くの霊魂が失われていくということです。もし毎朝・毎晩、免償を
与えられている次の祈りを、三回の「めでたし」とともに、その日死を迎える人たちのために
唱えるなら、多くの人々が救われることになるでしょうと。その祈りとは、次のようなものです。
ああ、霊魂を焼き尽くし、愛に燃えさかるいとも憐れみ深きイエズスよ、あなたの聖心の悶えと、
汚れなき御母のお苦しみゆえに祈願いたします。今臨終に悶え、まさに今日(または今晩)死ななくては
ならないはずの地上のすべての罪人たちを、あなたのおん血によって浄めてください。臨終の苦しみに
悶えるイエズスの聖心よ、どうか死に臨んでいる人々を憐れんでください。アーメン。
(この後に天使祝詞(「めでたし」)三回唱える) >>835
>原罪というのは、ファリサイ派による洗脳
>聖書は、神話
原罪なくして宿り給いし聖マリア、▲御身に依頼み奉るわれら―本スレ住人―のために祈り給え。人♪↓
ttps://www.youtube.com/watch?v=s7GqDZiI7d4&list=PLq80qaP3NjGhabbVwXk3nbH4Tg84hLwml 聖務日課(時課の典礼) 第一月曜日 晩の祈り 結びの祈願
司 いつくしみ深い神よ、わたしたちの救いのために、あなたは貧しいおとめマリアを
顧みてくださいました。貧しいわたしたちの賛美を受け入れ、救いの喜びにあずからせて
ください。わたしたちの主イエズス・キリストによって。
答 アーメン。 Te Deum laudamus(われら神であるあなたを讃えん,賛美の賛歌), Gregoriano,
Tonus Simplex(単純調); SCHOLA GREGORIANA MEDIOLANENSIS, Giovanni Vianini,
Milano.It.
ttps://www.youtube.com/watch?v=BLbNyE_AgGc
彼らの CD の歌は大変よくこれから聴き続けていくことになると思います >>833 かわいい^^
>>834 ありがとうございますm(__)m もっとご紹介したい音楽伝承はあるのですが、大阪スレを除くカトリック各スレッドの
大部分は、牧師先生が消費なさいますのでね^^ゞ 各スレ住人より「先生に対し「他の人にも書き込み機会を 人」と、
度々懇願されて居りますが…観察より、先生は「謙遜の徳」に、御心を砕いて下さる様な方ではないようです。
これが現実ですので、残りわずかな容量を分かち合う訳ですが、そこで抄訳他、「観想の種」になればと書き込むならば、
どうしても長文となり、即容量オーバー。断念せざるを得ません。の方の機会を逸するのは、神様がお許しにならない。工夫は致しますが…。
しかし、牧師先生書き込みは、ほんとうにご自身のみなのか? どうも「某協議会」と同じ、組織的・恣意的・独善的な匂いが致します。
イスパニアの音楽伝承もすばらしいですね^^
>>848-849 >>858 首尾よく入手なさり、なによりです^^ 確かに日本ならとっくに絶版ですね^^ゞ 連投御免m(__)m
>>854 定量リズム的な演奏が、面白いですね。 ご存じの様に、トレント公会議により、
進句(Tropus)はほぼ除外され、続唱(Sequentia)は、一般的には、御復活日中‘Victimae’、
聖霊降臨‘Veni,sancte’、御聖体‘Lauda,Sion’、悲しみの聖母‘Stabat Mater’、
諸死者‘Dies irae’以外除外、またベネディクト会固有典礼では、聖ベネディクト‘Laeta dies’と限定されてしまいました(´・ω・`)
更に先の公会議で‘Diesirae’の「歌詞がおどろおどろしい」と除外されてしまいましたが、
殆どを編み出したベネディクト会が「知恵と分別」を絞りw 「随意聖歌」として歌う手を編み出しましたので、
その聖歌集‘CANTUS SELECTI’に収められて居る、年間主日用進句‘Kyrie fons bonitatis’-p.81
御降誕節用続唱‘Letabundus’-p.31 等は、裏ワザでもって、斉唱することが出来るんですがねw
御紹介下さった様に、他にも優れた作品は沢山あるので、主な祝い日に適う曲が、もっと復活成れば良いですね^^♪↓
ttps://www.youtube.com/watch?v=E0Q825shqIo
ttps://www.youtube.com/watch?v=T2DDkoMahcY ザンクト・ガレン殿が・・こちらに(苦笑)
いつも素晴らしい音楽ありがとうございます。 2005年(主日A年) 10月23日 年間第30主日
出 22:20〜26 Iテサ 1:5〜10 マタ 22:34〜40
「あなたの神である主を愛しなさい」 「隣人を自分のように愛しなさい」 という聖句は、古来キリスト者にとっての金言として広く知られて来ました。
恐らくキリスト教の歴史の中で、各時代が独自の解釈をこの聖句に与えて来たに違いありません。
近代においては、人本主義に基づく博愛の精神を擁護する標語として、キリスト教の枠を超えてすべての世界と神々に適用されるようになったことを、私たちはよく知っています。
マタイ福音書はこの伝承に、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」 という非常に重要な言葉を、いわば解説として加えました。
イエスと使徒たちの理解における当然の前提を、旧約聖書に無縁な異邦の世界から入信して来た人々にも理解させようとしたのだと思われます。
律法(旧約聖書)の要約としてのこの二つの聖句の組み合わせは、すでにユダヤ教の信仰問答書で用いられていたもので、
イエスはそれを引用して、御自分の福音が 「律法と預言者によって立証されて」(ロマ 3:21)実現しつつある “秘められた計画” であることを示されました。
新約聖書の中のある聖句が、その前後関係から切り離されて一人歩きするときに起こる危険性に、現代のキリスト者の注意を喚起しなければなりません。
主イエスも使徒たちも全く意図しなかったような、従ってキリストの福音と何の関係もない解釈や主張が、現代の教会を取り巻いているからです。 (つづき)
引用された第一の聖句は、申命記においては次のようになっていました。
「聞け、イスラエルよ。 我らの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申 6:4-5)
当時、イエスの聴衆はこの前段を熟知している人々でありました。
「聞け(シェマー)」 は、イスラエルの信仰宣言の一つの型であります。
ユダヤ人は申命記と出エジプト記とから集められた聖句からなる “シェマー” を小さな箱に入れて(マタ 23:5 参照)、手に結んだり家の戸口の柱に吊ったりして彼らの信仰の印として来ました(申 6:6-9 参照)。
使徒たちが 「あなたの神である主を愛しなさい」 という主のことばを伝えたとき、その聖句の前段を次のように理解していたことに注目しなければなりません。
「私たちの主イエス・キリストの父である神が、誉め頌えられますように。 神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、
また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(Iペト 1:3-4)
この “父なる神” を愛しなさいというのがこの聖句の主張であって、キリストの福音から切り離された抽象的な “敬天愛人” の思想とは何の関係もありません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>862-863
老クリスチャン 降臨
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キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!!!!!
/. `i i´ \ いつも素晴らしいコピペありがとうございます。
j/ヽ'
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<老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!! >
∨∨∨∨∨∀∨∨∨∨∨∨∨∀∨∨∨∨∨∨∨∨∀∨∨∨∨ >>862 「恐らくキリスト教の歴史の中で、各時代が独自の解釈をこの聖句に与えて来たに
違いありません。 」 いくつかの例を挙げましょう
「近代においては、人本主義に基づく博愛の精神を擁護する標語として、キリスト教の枠を
超えてすべての世界と神々に適用されるようになったことを、私たちはよく知っています。 」
主語は?
「イエスと使徒たちの理解における当然の前提を、旧約聖書に無縁な異邦の世界から
入信して来た人々にも理解させようとしたのだと思われます。 」
思われない可能性もあるということでしょうか? The New American Bible, Revised Edition (NABRE) released on March 9, 2011
by United States Conference of Catholic Bishops
the footnote of Psalms * [22:16] (およその意味) 塵、の、死: よみの国、
領域 (the domain) 、の、死者。
参考までに
original word: עָפָר
transliteration: aphar, phonetic spelling: (aw-fawr'), short definition: dust
original word: מָ֫וֶת
transliteration: maveth, phonetic spelling: (maw'-veth), short definition: death >>865老クリスチャンはカトリックの教えで
自分の都合のよいところだけ受け入れて
聖母崇敬と聖人崇敬は否定していて
カトリックの教義100%は受け入れていない
ですね >>867 仰るとおりだと思います。
The New American Bible, Revised Edition (NABRE) released on March 9, 2011
by United States Conference of Catholic Bishops
the footnote of Leviticus * [19:17-18] (およその意味)これらの節は、形成している、
一つの構成単位をそして、述べている、異なる態度と行いを、に対する、自分の仲間の
イスラエル人。一つの独立した節は、必要である、勧告するために、類似の態度を、に
対する、異邦人 (33-34 節). Cf. 25:39-46. 訓戒、の、最後、の、18 節、は、ようになった、
見られる、において、ユダヤ教とキリスト教、として、一つ、の、主要な戒律
(See Mt 22:34-40; Mk 12:28-34; Lk 10:25-28; cf. Mt 19:19; Rom 13:8-10; Gal 5:14)。
新約聖書は、熱心に説く、愛を、敵対者達に対する、同様に、(広義の)隣人達と
(Mt 5:43-48; Lk 6:27-36; cf. Prv (箴言) 25:21-22). 2008年(主日A年) 10月26日 年間第30主日
出 22:20〜26 Iテサ 1:5〜10 マタ 22:34〜40
旧約聖書、特にその最初の六書には、数多くの掟と定めが集められていますが、言うまでもなくこれらは多くの時代のいろいろな社会的背景から生まれた法の集成から成っています。
ところがそれらの数々のの法が、旧約聖書ではすべて、シナイ山での契約に基づいてモーセに授与されたものとして編集されています。
それが旧約聖書の神学的意図であることを、私たちは理解しなければなりません。
この 出 vv.20-26 を、聖書の前後関係から独立させ切り離して研究することは、学問的には可能なことです。
しかし、イスラエルの民も、原始教会も、これをシナイ契約に結びつけて読み(出 24:3-8)、神の救済史の中に歩んでいる共同体としてそこから神のことばを聞き取って来ました。
“あなたがたは神に選ばれた宝の民である” という事実の上に立って、この人道的律法を大切にしました。
「あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである」(出 v.20)という過去の上に、今は選ばれた宝の民となっているということが重ねられて、初めてこの掟はイスラエルの律法であり得たのです。
同様に、“神を愛し、隣人を愛する” というキリスト教の信仰と倫理は、教会が御国を受け継ぐ民とされたという約束の上に成り立っているのです。
共に福音にあずかり、共に約束にあずかる者として !
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>869
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ >>867-868
カトリック教会のミサで、後半の感謝の典礼で主の祈りを唱和した後に、司祭が 「教会に平和を願う祈り」 を唱えると、会衆はこれに 「アーメン」 と応えます。
この祈りの中に、「わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み ・ ・ 」 という言葉があります。
「信仰」 について議論している皆さんの中で、この 「教会の信仰」 を自覚的に理解している人は少ないのではないでしょうか。
私の WebSite にある下記の小論をご紹介します。 ぜひご参照ください。
http://www.kuwaei2000.com/2ch.html
→ 信仰宣言とカテキズム >>869
カトリックでもないのに、牧師面をして
書き込みをするのを止めてください
カトリック教会の関係者も
このスレが終了したら
しばらくの間、カトリックのスレを立てる
事を止めた方が良いと思います キタ━━━━━━ !!!
老クリスチャン 降臨
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キタ━━━━━━(゚∀゚ ) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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`"゛' ''`゛ `'(___)゛`´´  ̄ ̄ ̄ ̄ 2011年(主日A年) 10月23日 年間第30主日
出 22:20〜26 Iテサ 1:5〜10 マタ 22:34〜40
「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」(Iテサ v.6)ということが、教会という “神の国の相続者である共同体” の存立の根拠であると、原始教会は理解していました。
その教会の特性のもう一つの表現は、“信者の群れが偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、神が死者の中から復活させたイエス・キリストが再臨されるのを待ち望むようになった”(Iテサ vv.9-10)ということです。
この方こそが、「来るべき怒りからわたしたちを救ってくださる」(Iテサ v.10)救い主です。
そのような教会が、“行って、すべての民を弟子にする”(マタ 28:19)ために宣教したのと、私たちが知っている現代の教会が “世のため人のために奉仕する” いろいろな社会活動とは、その善悪は別としてかなり根本的な違いがあるように見えます。
聖書が伝えるところによれば、教会が外の人々に奉仕するのは “何とかして何人かでも救うため”、“彼らと福音に共にあずかるため”(Iコリ 9:23)でありました。
そのためには、先ず教会が “霊による一致” を保っていなければなりませんでした。
つまり教会自身が、“神を愛し隣人を愛する共同体” として一致団結している必要がありました。
だからこそ、“キリストの福音を土台として互いに愛し合う” ことが勧められたのです。
信者一人一人がキリストの福音に親しむことを抜きにしては、聖書が勧めている意味での “互いに愛し合うこと” は成り立ち得ません。
私たちの教会は使徒たちの教会と同じだろうか、私たちの考えている信仰と原始教会の人々の信仰との間には、かなり大きなズレがありはしないかと、真剣に考えてみましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>872 しばらくの間、カトリックのスレを立てる
事を止めた方が良いと思います
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{ ヨ ̄ ̄ ̄ `ヽ 〔,r 、! .:.. ̄ ̄ ̄ メ ̄ ;、、.:.ノ
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ヽ|_ _r:. .:. .:::...,、、, `,/T` i/ /
h ̄ ̄.:.! ヽ:... ::.'´ ヽ- ̄ ̄ |__ノ
i.::::::::.゙ ヽ, / `ヽ h
!.::::;; ト、 ヽ=_- '´ イ.:.| / ,
ヽ.:::. ;,.¨! 、'_;__;__;__,..=-イ.:/ / / !
^、.:. ヽ! l丁│ i ソノ ′ ,' 亅
ヽ.:. ;  ̄ ̄ ̄ ̄ / / /トr‐‐- 、
ネ ヾ ̄_____,,,... '゙ / | ヽ、_ `ヽ、
_,.r 、´ ̄ ,i、  ̄ ̄ r' } / ト ヽ
* -ヽ、 '´ヽ、 〕 、... .:.:.:.:/ hn │|ヽ
3X_ x Y Xy /! 〔ヽ..::: : : : : : :.:.: ,.. '゙ //‖ i ヽ、\
癶弋ヽ亠-勹'八_yヽ ` ー─‐‐ '" i l / ノ ├ 、__
┼ヽ‐- 、`ヽY Y´!ヽ 丶 ノ '´ ト、├--r 、 城の門は固く閉ざされていた。
そして、その外側で今日も老クリが内側に向かって叫んでいた。
「私が正しいのです!門を開けてください!」
その声を聞いた城の住人が高窓に現れたが、すぐに去って行った。
「この経札(きょうふだ)だけではないのです!背中にも入っているのです!」
自分の額に結びつけた箱と背中のリュックの中に膨大な経札(きょうふだ)を
入れていたのだった。
その時、門の10センチ四方のノゾキ穴がおもむろに開いて、中から誰かが
覗いた。老クリと目が合った。
「開けてくれるのですか?」
「・・・」
長い沈黙が続いた。
「だめです。」
「どうしてですか?!」
「経札(きょうふだ)を全部捨ててきてください」
ノゾキ窓はぴしゃりと音を立てて閉ざされた。
老クリは地面に倒れて泣いた。泣きながら歯ぎしりしていた。 >>875
老クリスチャン 降臨
┃ ┃━┓ ハ_ハ ハ_ハ ┃┃┃
┗┓━ ┃━┓ ┗━('(゚∀゚∩∧,,∧ ∧..∧ ∧..∧∩゚∀゚)'). ━━━━ ┃┃┃
┗┓━ ┗ ┃ O,_ 〈(´∀`)(´∀`)(´∀`) 〉 ,_O ┗┗┗
┗ ┃ `ヽ_)゚○-J゚ ゚○-J゚ ゚ ○-J゚ (_/´ . ┗┗┗
_人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人_
> <
> 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!<
> <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
>>861 昨今、牧師先生がこうも浪費なさいますと、それもなかなか適いませんで、ごめんなさい m(__)m
たまには牧歌的なものでもお聴きあれ^^♪↓
ttps://www.youtube.com/watch?v=4Aq7o6XwibI
>>862=863
またアタマでもって、旧約知識や理屈こねくり回されておいでですが、
それ以前の問題として、そもそも牧師先生には、本スレやカトリック各スレ、宗教板住人に対し、「愛」がおありなのでしょうか?
更に、宗教以前の道徳律として、「相手の立場に立って考える」
「たとえ、自分にとって都合の悪い耳に障る厳しい意見にも相対し、
脚下照顧、己が未熟や至らぬところに思いを致す」といった、対話の基本はどうなのでしょう??
観察では、先生書き込み中にそれらを見出すことは出来ないのですが…。
他者に耳を傾け、心を開くことなしに、諭もミッションも無いものだと思いますよ。
そもそも、先生コテハンによる書き込みは、先生ご自身によるものなのでしょうか?
もし、「組織的機械的」に成されているとするならば、それも辻褄が合うわけですがねw
而して至聖なる教会と信徒の良心は、貴殿の私(試)論に煩わされることなく、徒労に終わると、
そのうち知れるでありましょう。
ttps://www.youtube.com/watch?v=-8Wsld1Qqx0 老クリさんへ 別スレッドを立てるだけのことがどうしてできないのでしょうか。
何故にカトリック信徒の口の中に強引に押し込もうとするのでしょうか。 あなたは独善と傲慢がなければできないことをしているのです。 独善と傲慢こそ、聖書のなかのイエスの態度である。
これは、イエスに倣うことである。 イエス様は押しつけがましくありませんでした。
これを食べなさい、飲みなさいと人の口に押し込むような方では、けっして
ありませんでした。老クリさんにはしっかりと倣って欲しいものです。 「カトリックは人を癒す宗教なんかじゃない。人を痛めつける宗教よ。」 「貞節や純潔に最高の価値を認める宗教なんて簡単に信じることはできない。」 >>880-881 牧師先生が拙書き込みに対し、もっとも反応なさったのは、規範版の問答に、
V.Dominus vobis cum.R.Et cum spiritu tuo.
主は汝等に。亦御身の霊に。
と拙訳させて頂いたら、
「霊とは何ぞや?」と仰るわけですね。 そんなの、理屈で考えるべくもないことですから、
「何って、そのままを素直に味わうのみだ」とか、お応えしたように思いますが…
要するに、「(アタマと理屈で解釈する)聖書のみ、救いの真理がある」という範疇なんだろうと思いました。
我々には理屈や理論のみならず、「「霊性」がキモであって、それは100%、お恵みなのですが、「
せめてもの望みとして「どうか、深まります様に…」と祈るばかりか、自然と「行(行動)が伴う」わけですし、
伴わなければならないわけなのですが、そこが牧師先生には「越えられない壁」であり、迷信としか捉えようが
ないのだろうと思いますね。ですから「観想・観想的生活」と云ったって、ワケワカメw
キリスト教的愛でさえ、どうやtら、理論や理屈でもって解釈なさる対象みたいなのには、驚きました^^ゞ
明日は諸聖人の祝日ですね。先生には迷信なのでしょうが^^ゞ 諸聖人の通巧を祈りましょう 人
― アレルヤ、アレルヤ、V.(マテオ、11ノ28)我に来たれ、すべて労苦して重荷を終える者よ、
我、汝等を回復せしめん 。アレルヤ。― ♪↓
ttps://www.youtube.com/watch?v=v-_pFu5lRh8
>>884 ありがとうございます 人 少し早いですが、牧師先生のスレ使い切り前にw
天主の聖母の御保護によりすがり奉る。▲いと尊く祝せられ給う童貞、
必要なる時に呼ばわるを軽んじ給わず、かえってすべての危うきより、
常にわれら -本スレ住人- を救い給え。アーメン。 ♪↓
https://www.youtube.com/watch?v=tiBZ2-ZsdVA 連投スマソ >>887 諸聖人の祝日 アレルヤ唱訳で変換ミスりました m(__)m
「重荷」が何で「終わっちゃう」のだ?機械は機械か (´・ω・`)
〇→我に来たれ、すべて労苦して重荷を負える者よ、 我、汝等を回復せしめん 。アレルヤ。 http://tocana.jp/2017/10/post_14780_entry.html
【ショック】バチカンの高位聖職者がクリスマスに教会パソコンから「児童ポルノ」を投稿! 過激化するペドフィリア司祭の実態!
ソース トカナ だけど、これは困るな。。 もう勘弁してくれよ
しかしこの司祭カッコイイのだが >>884 愚かにも、「次スレ」というwリンク確認せず、謝意を表してしまいましたとさ ^^ゞ
まあ、人体の中で、「エッセの似姿として、孕み繋ぐ」大切な器官ですね、と云うことで…。 DieTnovembris
OMNIUM SANCTORUM sollemnitas 諸聖人の祝日
AD TET U VESPERAS Hymnus tonus[
前日及び当日晩課 賛歌 第八旋法
― Christe,redemptor omnium,
ーキリスト、衆生の贖い主よ
conserva tuos famulos,
御身の僕等を養い給う
beatae Virginis placatus sanctis precibus.
幸いなる童貞、聖人等の取次ぎに。
(以下2番~6番までの歌詞と、抄訳略)
斉唱:ベネディクト会 アンセルムス派 ソレム僧族
サン・マルタン・ド・リグージェ大修道院 聖歌隊 ♪↓
ttps://www.youtube.com/watch?v=g0d0WgREGCg 2005年(主日A年) 10月30日 年間第31主日
マラ 1:14b〜2:10 Iテサ 2:7〜13 マタ 23:1〜12
主イエスが御国の福音を宣べ伝えて歩まれたとき、それに最も強力に対抗したのはユダヤ教の指導者たちでありました。
その記憶は1世紀末の教会にとってもなお生々しいものであったと思われます。
1世紀末頃の使徒的文書と推測されているディダケーには “ユダヤ人 = 偽善者” という決めつけが見られ、マタイ23章がそのような背景の中で伝承されたことを伺わせます。
しかし当時すでに教会はユダヤ教から独立した歩みをしていましたから、この物語りにはむしろ、キリスト教徒自らの福音理解を純粋に保つという新しい役割が期待されていました。
モーセの座とは旧約聖書の権威のことで、キリストの福音が “律法と預言者によって立証されて” 与えられたことを理解するようにと教え(ロマ 3:21)、しかもそれが信者にキリストとの生き生きとした交わりを与えるものであることを示そうとしたのです。 (つづき)
諸世紀を通して組織としてのカトリック教会には、事実上神学や聖書研究を、聖職者だけの専管事項にしようとする傾向が見られました。
教会において教導職に委ねられた責任が大きいとはいえ、それがカトリック教会で、信者たち自身による学びや研究を禁じるもののように受けとめられて来たとすれば、不幸なことであったと言わなければなりません。
主イエスが 「あなた達は聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。 ところが、聖書は私について証しをするものだ」(ヨハ 5:39)と言われたとき、それは一般の信者を対象にしていました。
パウロとシラスのマケドニア伝道の報告の中には、「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、その通りかどうか、毎日、聖書を調べていた」(使 17:11)と書かれています。
旧約聖書とそれに基づく福音を学ぶとき、「あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(マタ v.9)、「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」(マタ v.10)ということを忘れてはならないと、マタイ福音書は教えました。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 知っている神父に当てはまる。
話もうまいし魅力的なんだよね、一見。
でも人に謝る事はしないし、すぐにむくれる。
>サイコパスの特徴 〜
・ 相手の痛みに鈍感。
・ 知能指数が高く、打算的。
・ 平気でうそをつき、他人を利用する。
・ 自己愛が強く、根拠のない自信がある。
・ 良心がなく、人に謝ることができない。
・ 外見や話に人を惹きつける魅力がある。
・ 衝動的で、自分の行動に責任をとれない。
・ 自分の話しに巻き込み、人の話は聞いてない。
・ 人に非難されても、痛みを感じないし落ち込まない。
・ 道徳的価値観がなく、ばれなければよいと考えている。
・ 長い付き合いを形成しにくく、親しかった相手を攻撃する。
・ 自分のルールで判断するため、言っていることがコロコロ変わる。
・ 人の気持ちに共感することができず、表面的な対応しか取れない。 >>892-893
老クリスチャン 降臨
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┗┛ ┗┛ ┗┛┗┛ 牧師先生、いい加減、直ちにそれと知れてしまう如き、印象操作(こどもの遊び)は
止められては如何でしょう!? まあ、人それぞれですけれど…
先生にも先生なりの、人となりと御分別がおありなんでしょう? それを自ら貶める書き込みは、愚かなことだと思います。
>諸世紀を通して組織としてのカトリック教会には、事実上神学や聖書研究を、
>聖職者だけの専管事項にしようとする傾向が見られました。
あのね、その時々の時代背景やら国家制度、教育制度等々ってものがあるでしょう?
それを現代聖書学やら(公教会正統からは疑念ある、ラディカルな)神学の理屈や視野だけでもって、
分析なさっても、ほんとうのところは照らされないですし、はっきり申し上げてナンセンスかとw
産業革命以前ほんの近代まで、欧州は身分制社会、封建国家による古代ローマ街道システム及びインスラ
破壊・分断と通行税の徴収、識字率、パピルスや羊皮紙のコストや手写本制作の制約等、さまざまな要因があったでしょ?
そもそも、東西ローマ帝国分断より現代まで、公教会が統一神聖帝国を構築していたわけではないのですよ?
公教会に限らず、ルテルス派等信教諸派だって、「万人司祭」を建前とするも、これら制約に拘泥されなかった
わけではないでしょうに!
牧師を志すのは、諸侯や富める商人の二三男等でないと、かなり難しかった筈ですよ。
重箱の隅をつついてらっしゃるのに、あまりにも視野が狭く、手法が乱暴なんですよ!!
>教会において教導職に委ねられた責任が大きいとはいえ、
>それがカトリック教会で、信者たち自身による学びや研究を禁じるもののように受けとめられて来たとすれば、
>不幸なことであったと言わなければなりません
では、ルテルス派他は?信者万民が欧州各国語の読み書き、ルテルス他原典、、ギリシア語、へブレオ語、ラテン語等、
諸学の教育を誰でも受けられたのですか? 活版印刷により、各国語訳聖書が万民に無償提供されたのですか??
そうではないでしょう!!!!!
真理の源なる天主、▲主は限りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、
われらー本スレ住人ーに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。♪↓
ttps://www.youtube.com/watch?v=WTGEliAETLY 2005年(主日A年) 10月30日 年間第31主日
マラ 1:14b〜2:10 Iテサ 2:7〜13 マタ 23:1〜12
旧約の律法も、現代のカトリック教会の教えも、私たちがキリストの福音に出会ってこれを受け入れ、それをよりどころとして生活する者となるためにあるのです。
「我々は皆、唯一の父を持っているではないか。 我々を創造されたのは唯一の神ではないか。」(マラ v.10)
「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」(Iテモ 2:5-6)
人間の言い伝えや教えを学ぶのではなくて、神のことば(キリストの福音)を聞くために聖書に親しむことは、教導職にとっても信徒にとっても等しく大切なことです。
そしてそのようなすべてのキリスト者のためにカトリック教会は宣言しています。
「聖書研究はあたかも神学の魂のようなものでなければならない」(神の啓示に関する教義憲章 24)と。
御子に関する福音は、「神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」(ロマ 1:2)なのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>897
老クリスチャン 降臨
/\ /\ /神\/../
キタ━━━/ /\ \(゚∀゚ )━━━━━━━━━━━━━━━!!
())ノ__ ○二○二⌒/../
/ /||(二ニ) (___/../ 几l
γ ⌒ /|V||彡Vミ/⌒_ノ二二ノl0
l| (◎).|l |((||((゚ )/⌒/||三三三・) || (´⌒(´
__ ゝ__ノ  ̄(___) ̄ ゝ__ノ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(´⌒(´⌒;; >>896 変換誤謬を訂正m(__)m
12行目 ×ルテルス派等信教諸派→○ルテルス派等新教諸派
>>897
>旧約の律法も、現代のカトリック教会の教えも、私たちがキリストの福音に出会ってこれを受け入れ、
>それをよりどころとして生活する者となるためにあるのです。
旧約の律法はどうでも宜しいんですが、カトリックの教えは違うでしょう!?
先生の私的な御説を、勝手に、公教会の教えとすり替えないで下さいな!
公教会は、キリスト・ロゴスが「公教会に垂れて」諭し給える、聖書と聖伝の教えを、時と場を超え、
命懸けでもって、我の根を砕jかれつつ、砕きつ、つ信じて生きるのです。「拠り所として生活する者」なんて、
上辺だけの甘っちょろいものではありません!行(行動)が必須条件なんですよ!!
何回も申し上げてるのに、物分かりが悪い方だなあ。
キリスト・ロゴスはコト(言即ち事)そのものであって、言(事)の葉=端、つまり、事象の一部分なんかではありませんから。
言われたことが、そのまま現成する存在であって、それを「誠;まヽこヽとヽ」と云うのですよ。
「神のことば」なんて、表層野蛮な新教用語でもって置き換え、すり替えるなんて、冗談じゃない!
「初めに言葉があった」は誤訳!「未生に仕手(ロゴス)あり」です。
先生は理屈だけですから、そういう境涯を、お分かりにはならないでしょうけどね…。 連投御免
主よ、願わくはー本スレたるー住家をみそなわし、あだの謀計を遠ざけ給え。
▲また主の御使いをこの住家に降し、われらを安らかに守らしめ、主の御祝福を
常にわれらの上にあらしめ給わんことを、われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン。
天国の永福を得たる諸聖人よ、▲われらの主なる御父に祈り、われらに大罪を免れしめ、
主の御心に適うを得しめ給え。
祈願 主よ、主のしもべなるわれらに精神と肉身のたえざる健康を与え給え。
かつ、終生童貞なる聖マリアの御取次ぎによりて、この世にてはもろもろの悲しみを逃れしめ、
後の世にては永遠の楽しみを受くることを得しめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。▲アーメン。
イエズス、マリア、ヨゼフ、▲心と霊魂とを御手に委せ奉る。
イエズス、マリア、ヨゼフ、▲臨終のもだえの時に、われを助け給え。
イエズス、マリア、ヨゼフ、▲御保護のもとに、安らかに息絶ゆるを得しめ給え。
守護の天使、保護の聖人、▲われを照らし、守り、導き給え。アーメン。
ttps://www.youtube.com/watch?v=DvLxG2OhwKg 2011年(主日A年) 10月30日 年間第31主日
マラ 1:14b〜2:2b,8-10 Iテサ 2:7〜13 マタ 23:1〜12
使徒たちと使徒後の教父たちとは、今も聖伝と聖書を通して私たち教会に “神の福音” を語り続けています。
歴史の教会において、事実各地の司祭たちがこの “神の福音” を語ることがどれほど稀であったとしても、確かにカトリック教会はそれを今日に至るまで(畑に隠された宝のように/マタ 13:44)保持し、受け継いで来ました。
そして第二バチカン公会議以降、感謝すべきかな ! 今や 「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる」(マタ 7:8)時代がやって来ました。
教会で司祭に司牧されている信者は、望むなら自らも自由に “使徒的伝承” を学ぶことが出来るようになったのです。
私が学生時代に、左近教授からヘブライ語の手ほどきを受けたとき、用いられた彼の著書 “ヒブル語初歩” の序言には次のように書かれていました。
“およそ外国語の習得には絶えず復習することが必要で、これが十分に行われているならば、発音の外は教師を必要としない。”
カトリック教会で司祭が不要になることはあり得ませんが、およそ信者が自ら “使徒的伝承” を学ぶ熱意を持つことが必要で、“これが十分に行われているならば ・・・・・ ” という当たり前のことに目覚めることが切に期待されます。
「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(Iテサ v.13)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>901
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キタ━━━(゚∀゚∩━━━!!!! 老クリスチャン 降臨
⊂/ ,ノ
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∪ ヽ l
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> 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!<
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>>901
「教会で司祭に司牧されている信者は」 それ以外の信者は?
左近教授からは発音のみを学んだということでしょうか?
・・・・・?
(私に対して)意味不明の文が続いています >>901
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ キリスト新聞社の松谷さんが出した「キリスト教のリアル」読むと、いかに牧師が生活大変かよく分かったわ >>867 さんの >自分の都合のよいところだけ受け入れて 聖母崇敬と聖人崇敬は否定 とのご指摘や、拙書き込み等より、
牧師先生としては、最大限「歩み寄られた」のかも知れませんが…
>使徒たちと使徒後の教父たちとは、今も聖伝と聖書を通して私たち教会に “神の福音” を語り続けています。
ん?外れてるでしょう!
>CONSTITUTIO DE SACRA LITURGIA SACROSANCTUM CONCILIUM Caput I T §典礼憲章 第1章T
>7.― Praesens adest in verbo suo,siquidem ipse loquitur dum sacrae Scripturae in Ecclesia leguntur.
>Praesens adest denique dum supplicat et psallit Ecclesia, ipse qui promisit:
>“Ubi sunt duo vel tres congregati in nomine meo, ibi sum in medio eorum” (Mt 18,20).―
>7.(前略) キリストはロゴス(仕手)たる御自身に現存し給うこと。
>教会に於いて聖書が読まるる時、ロゴス(仕手)たるキリストご自身が語り給うこと。
>尚、「けだし、わが名をもって二三人相集まれる所には、われ、その中にあり」(マテオ18ノ20)と
>契られ給うキリストは、教会が懇願し、亦賛美を歌うとき、現存し給うこと。(以下略)
福音書記者たる使徒は、聖霊の炎に照らされ、それを果たされないでは、死んでも死にきれないから、
命を賭して己が神様との、かかわりのまヽこヽとヽを書き遺され、教父はその伝承を更に広められ深められたのです。
ロゴス・キリストは使徒や教父を介されたのであって ー教会の伝統的表現では、
<<使徒や教父を道具としてお使いになられた>>のであってー 主体はあくまで、曰うことを本性とする主体(押田)たる、
ロゴス・キリスト御自身です。 尚、聖母マリアとともに、使徒や教父たる「聖人」は、教会によって崇められ、
主に取次ぎを願う、有難い存在であることを、付記しておきます。 連投御免
>>901
>信徒自ら学ぶ熱意が必要
と軽々しく仰いますが…熱意や熱心さは悪くはないにせよ、それだけでは極めて危ういのであって、 分別が必要です。
それには教会への信頼と従順、なにより祈りと行いとが伴わなければならないでしょう。
また、教会(使徒座)から公式且つ正式に教導を認可された有資格者により、正統な聖書の学びと理解が為されねばなりません。
誤謬や誤解を避けるための知恵です。公教会では、聖なる書を我流で勝手に解釈しちゃいけないの!
ttps://www.youtube.com/watch?v=NGbsgmXukLM 老クリさんは、カトリック信徒の兄弟姉妹たちが、いくら忠告しても聞きませんね。
そもそも兄弟姉妹という尊重がないのなのでしょう。 イエス様にせよ弟子達にせよ、人の口の中に強引にこれを食えといって
食べ物を押し込みませんでした。あっさりとしたものです。
人の口の中に自分のだ液まみれの食べ物を「これを食わないといけないんだよ」
と強引に押し込む者がいるとしたら、その人は
「独善と傲慢のレギオンに憑かれた者」なのです。悔い改めましょう。 2002年(主日A年) 11月10日 年間第32主日
知 6:12〜16 Iテサ 4:13〜18 マタ 25:1〜13
かつて主イエスが語られた十人のおとめの譬え話が、マタイ福音書を生み出した初代教会で、キリストの再臨に備えなさいという警告をそこから聞くために用いられたことを、私たちは十分に理解する必要があります。
キリストの福音は、「使徒たちから伝えられたこと」 であって、「聖伝と聖書」 によって継承されて来たと、神の啓示に関する教義憲章は述べています。
聖書はだれでも容易に読める翻訳によって提供されており、聖伝は例えば典礼書や各種儀式書、また信条等の中に反映されていて、これも身近なところにあります。
これに関連して、ミサの中の信仰宣言に(やや長いものですが)ニケア・コンスタンチノープル信条が頻繁に用いられ、会衆がこれを暗唱するなら、それは21世紀の教会の成長にとって大いに好ましいことであると言うことが出来ます。
私たちキリスト者は 「希望を持たない人々」(Iテサ v.13)ではなくて、神の国への復活の希望を持っている民です。
ですから、この希望によって 「励まし合いなさい」(Iテサ v.18) と呼びかけられています。
20世紀の教会が、終末や神の国のことを殆ど実感をもって受け入れて来なかったとしても、なおその教会にはこの主日の聖書の朗読配分が受け継がれて来ていました。
そのことを私たちは感謝しましょう。
今朝共にミサをささげている私たちに、神はその聖書日課を通して再び語りかけてくださっているのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>910
老クリスチャン 降臨
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面白いので、田中いじりに利用させてください 2005年(主日A/B年) 11月6日 年間第32主日
知 6:12〜16 Iテサ 4:13〜18 マタ 25:1〜13
「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。 神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(Iテサ v.14)
生前のイエスと共に行動していたときには理解出来なかったことを、弟子たちは聖霊と復活の主に導かれて宣教しました。
言い換えれば、十字架以前にはまだ弟子たちに啓示されていなかった “いわゆる使徒的福音” が、主の復活と昇天の後に使徒たちに明らかにされたのです。
そしてこの使徒たちを通して伝達された福音を唯一の正当な伝承として保つ必要を認識した2世紀の教会が、新約聖書の正典を創りました。
カトリック教会が啓示の源泉を聖伝と聖書に限定しているのは、“福音” が時代や地域に応じた再解釈の繰り返しによって発展したり変化して行くものではないことを宣言するためです。
「使徒たちから伝えられたこと」(神の啓示に関する教義憲章 8)の教会における伝承を、今も復活の主が見守っておられるからこそ、それは “使徒継承の教会” なのです。
そして使徒たちの宣教は再臨待望とその日に備えていなさいという勧告を特色としていました。
ですから当時のヘレニズムの諸宗教と大きく違うものは “復活” が “不死” の観念に取って代わったことでした。
この “使徒的福音” を、私たちは毎年典礼暦のこの期節に再び聞くのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>914
老クリスチャン 降臨
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キタ━━( ゚∀゚)━━( ゚∀゚)━━━━━━━━━━━━(ヽ゚∀゚)')━━!!!
と つ / つつ ( /^)^) ⌒ヽ 〈
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し′ ヽ_)_) し'⌒ヽ,),,) <と_ノ \,) 明日11日に珍しいラテン語・グレゴリオ聖歌での荘厳司教ミサが行われます。
お時間がある方はどうぞ。(未信者の方でも参加できます。ラテン語が左ページで右ページに日本語の対訳のあるけっこう厚い冊子がもらえるのでミサ式次第もわかりやすいです)
祭壇右上には進行に合わせてこの冊子のページ数が表示されます。
入場料等はありません。
寄付金用茶封筒が入り口で配られて、ミサ中に寄付金の大きめの籠(もちろん透明じゃありませんよ)が回ってきてこの封筒を入れる仕組みですが、金銭に余裕がなかったら小銭程度でかまいません。
ミサレット代として1000円くらいは入れてほしいとの話ですがあくまで希望です。
http://www.tim.hi-ho.ne.jp/catholic-act-d/Web/27thmassinfo.html
2017年11月11日(土) 午後2時(ミサ開始前の聖母の連祷が1時40分 より)
場所: 東京カテドラル聖マリア大聖堂 (地図)
http://tokyo-cathedral-wedding.jp/contact/access/ 以前のこの東京カテドラル聖マリア大聖堂での「荘厳司教ミサ」のYoutube動画。
35までありますがミサ進行全て網羅しています。(年によって一部変更がありますが)
https://www.youtube.com/user/CatholicAction/videos?flow=grid&sort=da&view=0 おう!と応じたい。しかし、あまりにも遠いのです・・。
ご案内ありがとうございます。 2011年(主日A/B年) 11月6日 年間第32主日
知 6:12〜16 Iテサ 4:13〜18 マタ 25:1〜13
「知恵を愛する人には進んで自分を現し、探す人には自分を示す。 求める人には自分の方から姿を見せる。」(知 vv.12-13)
キリストの福音を自ら “愛する” “探す” “求める” ことを、多くのキリスト者は実際には行ったことが殆どなく、
それに代わって自分で考え出したり作り出した “宗教心” や “宗教理解” で歩んで来たというのが、現代のキリスト教界の実態であることを指摘しておきましょう。
多くの司祭の説教も、確かに聖書を材料にしてはいるけれども、語られているのはその材料を利用して作った “自分の料理”、ただの “善いお話し” であって、決してキリストの福音そのものではないのです。
インターネットで “聖書の学び” で検索してみると、ヒットする聖書関連サイトは限りなくありますが、
教会が公に言い表し、使徒たちから伝えられた、つまり使徒継承の福音を、“聖書から聞く” ことに心を向けているサイトは殆ど皆無であるという現実を、寂しいと思う人は私以外にはいないのでしょうか。
しかし間違いなく、「御言葉はあなたの近くにあり」(ロマ 10:8)、聖伝と聖書にあるのです !
“キリストの福音” は ・・・・・ 、私たちをその栄光にあずからせてくださる “御国の福音” は、私たちの門前で待っているのです !
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>916 遠すぎて行くことができないので、関口教会の site を見ましたが、荘厳司教ミサの
案内を見つけることができませんでした。 11/10 の organ meditation はすぐに見つかり
ましたが。他のサイトで一つ見つけました。
ttp://www.tim.hi-ho.ne.jp/catholic-act-d/Web/27thmassinfo.html
天気予報によると、晴れになっているので、良かったですね。 >>920 >>914 >>910
老クリスチャン 降臨
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『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ >>924 毎回、キタ ーばかり書いて。寒太郎といっしょに Siberia にでも行ったらどうですか?
北風小僧の寒太郎
ttps://www.youtube.com/watch?v=Lb4Nr4PRXpw
Pronunciation of Siberia
ttps://www.youtube.com/watch?v=O0I90Hb9pAI >>920 >>914 >>910
老クリスチャン 降臨
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関口教会主催ではなく、主催は「カトリックアクション同志会」という団体で、
あくまで関口教会は場所を貸しているだけなのでHPには掲載されていません。 2005年(主日A年) 11月13日 年間第33主日
箴 31:10〜31 Iテサ 5:1〜6 マタ 25:14〜30
新約聖書のこの物語りから生まれた英語のtalentという言葉は、通常ある人の特殊な才能を指して用いられていて、普通の人たちの一般的才能には用いられません。
そこから派生して特定分野の有能な人材や芸能人たちの呼称として、日本語ではタレントという発音で使われています。
マタイ福音書におけるこの譬え話の中心的興味は精算の場面で、そこに登場する臆病で用心深い僕に向けられています。
この人は自分ではその慎重さの故に誉められることを期待していましたが、逆に主人の激しい拒絶を受けました。
ここで主人の旅行は物語りの筋立てのために用いられているだけで、すべては冒険をあえてしようとしなかった用心深い僕の結末を浮き立たせるように工夫されています。
この譬え話を聞く人たちの判断が求められているのは、この臆病な僕の行為であります。
彼に預けられたお金は主人のものであって、それをどのように活用するかが期待されていました。
彼は主人の期待を裏切ったのであり、役に立たない僕、怠け者でしかありませんでした。
主イエスが御国の福音の宣教を開始されたとき、律法を細かすぎる程によく守ろうとして民衆を罪人呼ばわりするファリサイ派の人々こそが、この譬え話の非難の対象であったと考えられます。 (つづき)
しかしこの譬え話が原始教会で使徒たちの説教の中で用いられるようになったとき、それはキリストの再臨のことを述べるために用いられて、キリスト者たちが委ねられた恵みと賜物を各自どれほど活用したかが計られるという警告になりました。
私たちが使徒たちの宣教の終末的性格を理解するとき、当時と同じように今も、この譬え話が救済史の中に置かれている私たちの教会の生き生きとした状況を描いているのが分かります。
マタイ福音書ではこの譬え話は 24:36 から始まる一連の譬えの一つであり、人の子は思いがけない時に来る、あなたがたはその日その時を知らない、という点に焦点が置かれています。
教会はキリストの花嫁です。
使徒パウロは 「私はあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げた」 と書きました(IIコリ 11:2)。
現代の教会がキリストの 「有能な妻」(箴 v.10) 「主を畏れる女」(箴 v.30)となるために、キリストの贖いを通して各自に託されたタラントンを開花させる忠実な良い僕になることを、私たちは今朝呼びかけられています。
「誰でも持っている人はさらに与えられて豊になるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マタ 25:29)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2008年(主日A年) 11月16日 年間第33主日
「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。 わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。」(Iテサ v.5)
洗礼の秘蹟によって新しく生まれたキリスト者は、なぜ光の子と呼ばれるのでしょうか。
それはキリストの福音を聞いて、信じて、贖われ、罪を赦されて、御国を受け継ぐ希望を保証されたからです(ロマ 10:17、エフェ 1:7、コロ 3:1-4)。
この福音こそが、まさにタラントンの譬え話の “委ねられた能力と賜物” であって、従って 「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」 のです。
ですから 「眠っていないで、目を覚まし」(Iテサ v.6)と強く勧告されていることを理解しましょう。
洗礼を受けてカトリック信者になったという肩書きを守ることに、つまり落ち度なく教会の教えに従う信者であることで足れりと考えて、ひたすら善良な生き方をしようと努力しているだけでは、
もしかするとその日には、「怠け者の悪い僕だ」 と外の暗闇に追い出されることになるかもしれません。 (つづき)
振り返って私たちは、初めに聞いた福音を今はもっと深く理解するようになり(エフェ 1:17-19)、
「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(エフェ 1:18)を、説明できる程に成長しているでしょうか(Iペト 3:15)。
また 「キリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされ、 ・・・・・ キリストについての証しが確かなものとなって」(Iコリ 1:5-6)いるでしょうか。
「光の子、昼の子」(Iテサ v.5)とは、そういう人のことではありませんか !!
私たちはただの善良な、しかしキリストの福音に関しては “眠っている者”、“暗闇に属している者” であっては、断じてなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 >>933-934
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2011年(主日A年) 11月13日 年間第33主日
箴 31:10〜31 Iテサ 5:1〜6 マタ 25:14〜30
私たちが “主の日”(Iテサ v.2)に心を向け、信仰の目を覚ましている “光の子”(Iテサ v.5)であるとは、
キリストの福音を通して “信仰によって義とされ、 ・・・・・ 神の栄光にあずかる希望を誇りにしている” (ロマ 5:1-2)という前提の上にだけ成り立つことです。
教会が使徒継承によって受け継いで来た “福音と信仰” に固く立つということと、組織としてのカトリック教会に所属しているということが、必ずしも同じではないという事実に目覚めることは、現代の喫緊の課題なのです。
ローマ教皇を頭とする司教団の務めは、一人一人の司教がそれぞれの場所で、使徒継承の福音と信仰を教えることによって、“世の終わりまで教会の牧者である”(教会憲章 18)ことです。
しかし実際には、司教たちと彼に属する司祭たちの多くが、使徒継承の福音と信仰を教えることによって群れを養わず、群れの羊たちは “福音の希望” について何も知らないということが稀ではないのです。
そのような事実に私たち信者が目覚めるために、そして信者自らが進んで聖伝と聖書を学ぶことによって “光の子、昼の子”(Iテサ v.5)となるために、
私たちには “教会が終末の日に心を向ける典礼暦の最後の三主日” が与えられていることを感謝しましょう。
「ほかの人のように眠っていないで、目を覚まし」(Iテサ v.6)とは、まさにカトリック信者一人一人への主の語りかけなのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 874神も仏も名無しさん2017/11/18(土) 02:17:13.10ID:uVYlMvbf
サロメお兄ちゃんは“ToLOVEる”が好きらしいですね。
これも万国共通のスケベ漫画です。 (この祈りを行うたびに、30,000の霊魂が煉獄から解放される。)
「おおやさしきイエズス、柔和なる神の子羊、みじめなる罪人我は、御身が御身の重き十字架を担い給いし
御肩の、御身の肉を裂き御身の骨を露出し、御身のいと祝せられし御体の上の他のいかなる御傷よりも
さらに大いなる御苦痛を加えし至聖なる御傷に挨拶し、礼拝し奉る。
御身を賛美し奉る、おお最大の悲しみの人なるイエズス、我、御身をほめ、御身の栄光をたたえ奉る。
かつこのいとも聖にして苦痛に満てる御傷に対し御身に感謝を捧げ、この激甚なる御苦痛と、御身の重き
十字架の骨をも砕く重荷によりて、罪人なる我をあわれみ、わが凡ての大罪と小罪を赦し、
御身の十字架の道を通して我を天国に導き給わんことを乞い願い奉る。 アーメン。」 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。