カトリック教徒が励まし合う場所3 [無断転載禁止]©2ch.net
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2002年(主日A年) 10月13日 年間第28主日
「天の国は ・・・・・ 」 と語り始めるこの譬え話の持つ終末的性格が、このテキストの理解にとって大切な意味を持っています。
この譬え話を 黙 19:5-9 の “小羊の婚宴” の場面と重ね合せて読むことが出来るからです。
古くからこの譬え話は、紀元66年に始まったユダヤ戦争と紀元70年のエルサレム陥落を指していると解釈されて来ました。
エルサレムの町と神殿が焼き払われたのは、主イエスとキリスト教会の呼びかけを拒んだユダヤ人への罰であったという解釈です。
いかにももっともらしい説明ではありますが、それでは私たち教会に向かって語られる神のことばが聞こえなくなってしまいます。
聖書は何よりも、私たちキリスト者への神のことばの器であることを、教会は忘れてはなりません。 (つづき)
教会には 「だれでも」(マタ v.9) 「善人も悪人も皆」(マタ v.10)集められています。
「神は人を分け隔てなさいません」(ロマ 2:11)。
しかし神の国では “ふさわしい人”(マタ v.8)、“選ばれた人”(マタ v.14)だけが残されるのです。
「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。」(マタ v.11)
婚礼の礼服とは、言うまでもなくキリスト者の信仰と奉献の生活を指しています。
いったいだれが “正しい” “ふさわしい” と判断するのでしょう。
それは王である神です。
神の国では、神が花嫁に輝く清い麻の衣を着せてくださるのです(黙 19:8)。
「招いておいた人々は、ふさわしくなかった。」(マタ v.8)
だからそれに代わって私たちキリスト者が招かれたのだと 「思い上がってはなりません。 むしろ恐れなさい」(ロマ 11:20 )と、使徒パウロも言っています。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています