【瞑想】マインドフルネス 別館【宗教的話題も可】 [無断転載禁止]©2ch.net
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本スレでは
「※ここはあくまでマインドフルネスの実践中心のスレなので
思想や宗教に関する話題は極力取り上げないようにしてください」
となっています。
ここでは宗教色の強い話題もOKです。
本スレ(メンタルヘルス板)
【瞑想】マインドフルネス 2【気づき】 [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1470401668/
■マインドフルネスとは?
今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、 評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること
(日本マインドフルネス学会による定義 http://mindfulness.jp.net/ )
■効果
うつ・疼痛・不安低減など
■早稲田大学の熊野宏昭教授によるマインドフルネス入門
(1)背筋を伸ばして、両肩を結ぶ線がまっすぐになるように座り、目を閉じる
(2)呼吸をあるがままに感じる
(3)わいてくる雑念や感情にとらわれない
(4)身体全体で呼吸するようにする
(5)身体の外にまで注意のフォーカスを広げていく
(6)瞑想を終了する
■参考リンク
NHKスペシャル「シリーズ キラーストレス」第2回
※後半にマインドフルネスの解説、誘導メッセージあり
http://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
ジョブズ、琴奨菊も実践!「マインドフルネス」ってどんな効果があるの?(日経Gooday)
http://gooday.nikkei.co.jp/atcl/report/15/101600042/041500020/
研究論文(英語)
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/m/pubmed/?term=mindfulness http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1470401668/404
大乗仏教というのは、本来は哲学(仏教哲学)です。
その哲学から「信仰」の必然性を強調する宗派が出てきたということなのです。
大乗仏教哲学の二つの柱は 「中観(空観)」 と 「唯識」 ですが、このどちらでも
学び続けるだけで悟りに達するという不思議な力があります。
原始仏教には哲学的思考が欠落していて、お釈迦様の死後は(一部の優秀な
人達を除いて)悟りや救いを得る人がほとんど出なくなったので、インドでも
原始仏教は廃れてしまったのです。
マインドフルネスは宗教性(仏教性)を排除することによって、宗教と関わりなく
多くの人々に普及することを目指したものですが、その為に仏教の核心の部分が
欠落しているので効果も薄くなっています。
ですから、他の宗教の信者はともかく仏教徒なら、宗教性(仏教性)を排除しない
瞑想を学ぶ方が確実に効果は上がります。
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1470401668/405
多くの人々が誤解していますが、マインドフルネスの基礎になっている瞑想は
実は単純な原始仏教の瞑想ではなく、大乗仏教の思想が含まれているのです。
カバットジンは鈴木大拙博士や道元禅師を敬慕していたことからも分かるように、
土台には大乗仏教の思想が流れています。
ですから、マインドフルネス瞑想をしながら大乗仏教哲学を学ぶと、より深い
世界に入って行くことができるようになります。 >>3
>マインドフルネスは宗教性(仏教性)を排除することによって、宗教と関わりなく
>多くの人々に普及することを目指したものですが、その為に仏教の核心の部分が
>欠落しているので効果も薄くなっています。
これって根拠あるのかな? 宗教を深く信仰している人は
「反証を受けつけない」姿勢があったりするんだろうね。
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1470401668/586
>検証できないこと、正確には反証を受けつけない仮説は自然科学では扱わない 結局、特に根拠なさそうね
信じるべきと思ったことは根拠が無くても事実として受け入れられるから、反証可能性とかどーでも良いんでしょう 3の人と違いますけど、簡単に書けば、こういう話です。
人は、赤ん坊の時、知識、固定観念、思い込み等は、0からスタート
しましたよね。その後、自己でない全部外から取り入れた借り物の、
概念、観念を取り入れて、今の貴方の思考の元となる、頭の中にある
精神的構築物(スキーマ、心の癖、心のフィルター)を構築させました。
熊野教授でいう認知バイアスです。
次に、例えば、車は部品の集合体であって、部品が車ではないですよね。
同じく、私という人間も、臓器、肉、皮、、、の集合体ですが、
臓器が私ではない、肉が私ではない、かつ上で説明したスキーマも私そのもの
でない仮構で、思考は これこそ自分だと、しがみつきやすい性質(執着)があり、
仮構されたスキーマを自分と同化させているのです。
ですので、思考と自己を同一化させない自己を元に生きた方が、苦悩の軽減、
苦悩する思考にひたらないわけです。マインドフルネスで思考を客観視してますよね。
思考は道具であって、思考に支配されて苦しむものではないわけですね。
それと心理的時間の話も重要なのですが、長くなり略させて頂きます。
これらは、仏教の中にある教え、空、無我に関係している話です。
これは信仰ではない、初期仏教の話です。 >>8
それって
「思考を客観視することで苦悩が軽減します」
「マインドフルネスで目指してるアレは仏教では無我と言ってます」
ってことを言ってるんだよね
>>3の根拠があやしいポイント「マインドフルネスは仏教のサブセットだから効果が薄い」の説明では無いと思う
>>3のどの辺りの主張を補足してくれたの? >>3は森田療法スレとかで仏教的な信仰を説く(押し付ける)
「無我さん」がマインドフルネススレにも書き込んだ時のコピペね。
森田療法で症状の改善を目指すスレ17 [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1467213720/
【仏教】無我、悟り、宗教体験【神経症が消える】 [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1472984219/ >>9
つまりその背景にある深い理論を知って、意義が分かり道標があって
実践するのと、その深い理論を知らずメソッドだけで実践するのとでは
差があるわけです。
知らない人は、自分の思考は自分そのものと思い込んで実践し、
我執意識、自我思考のまま、独善的な解釈をしやすく、利己的排他的性質を
帯び、バイアス、ウツなど病をもたらす心の癖、心のフィルター等、
根源的な問題を克服する道筋になってないのです。
この克服が真の生きやすさに繋がります。
内省、心の分析、と実践の両輪によって、はじめて心の問題が根本解決
します。私はその経験者で、決して悟ったとは言いませんが、
ともかく知的準備なく瞑想だけで万事OKの魔法ではないのです。 >>11 は「マインドフルネスは仏教のサブセットだから効果が薄い」の説明をしてくれたんだよね
a.深い理論を理解していないと効果が薄い
b.思考の客観視ができれば生きやすくなる
c.自分は内省、心の分析、実践により(生きづらさの)根本的な解決を経験しているので、aとbが真実だと知っている
ということでしょうか? >>12
深い理論なんて関係ないというお立場でしたら説明しますと、
不安、不満、怒り、恐れ、思い込み、偏見、妄想、観念的苦悩、、
それらが発生するしくみ を分析できてると、
心の問題に対処しやすくなります。
物事の本質を見抜いていると、上記の心の翻弄の軽減効果があります。
例えば蜃気楼のしくみが分かっているのと、分かってない人では、
対象に対する思いのありようも異なりますよね。後者は恐れるかもしれません。
以上の話がご指摘のaであり、関連して、より実践の効果をもたらします。 >>14
深い理論なんて関係ない、という立場では無いです
>>8や>>11の発言の趣旨がわかりづらかったので、自分の解釈が正しいのか確認しただけ
質問に対して答えの形式がマッチしてないのがスゲえ気になります
>>4は「これです」or「ありません」と根拠の所在を答える形式の問い
>>9は「ここです」と>>3の発言の一部をポイントする形式の問い
>>12はイエスorノーで答える形式の問い >>15
aはいいですが、b、cは微妙に異なるので、Yesと
書けませんでした。
9で分かっていらっしゃらないようでしたので、11を書き、
さらに14を書きました。
要するに、深い理論(知的準備)と実践で高い効果を体験し、
道筋として実践だけでは心の根本問題解決には至らないと、
理論学習と実践体験を元に説明しました。 というか、
「別次元的宗教体験」とか
「それを体験すると、神経症が消えてしまう」とか
「悟りの世界の体験(がない者が精神論、一般論でそれを語ってみても意味がない)」
そういうのは本当なのかなあっていう。
自我の感覚世界とか時間認識とか空間認識が脳のプラグラム(ある種のバーチャル)に過ぎないってことは、
睡眠中の夢での感覚ってのを考えてみれば当たり前なことなわけで。
(脳の機能が覚醒してなければ、
自我の感覚などテキトーぐちゃぐちゃになる) >>17
自我は仮構の精神的構造物です。
自己意識を付与して、これこそ自分そのものと、
主に欲求に応えてくれるモノ、望みを叶えてくれそうな生き方、
自己の渇愛に応える何らかの見解や人や物事にアイデンティティを構成させ
自己意識強化をし自我を保ちます。
ところが無常なので、どれも永続的な心の満たしになりません。
そして欠乏欠落の穴はふさがらず渇望し続け、完全なる満たしを求め迷妄しています。
自我思考を超えるには、想いと自己を同化させない脱同一化によって意識変容が
起こります(オカルト話でなく、視界が開け新鮮に感じます、心のフィルターを
通して物事をみてないわけですから) >>16
知的準備が欠け瞑想の実践のみでは効果が薄い
知的準備と瞑想の実践をともに行っている者には自明
なるほどそういう考えなわけですね
で、
>>3は知的準備を仏教性と呼んでいて>>16の考えに近い
と 断定出来ないな。(しなくてよい!?)↓
1 マインドフルネス(の内容)だけで十分な効果
2 仏教の教えも取り入れると効果的(オカルト抜き、科学の範囲)
3 仏教の教えも取り入れると効果的(物質世界を越える霊的世界のこと、別次元的悟りの世界・宗教体験、人は脳や物質を越えた存在)
・2と3の間の仮説
人類は科学が未発達だった時代が長く、オカルト的な感覚世界をつかさどる脳の領域、機能が今でも残っている。
現代人は普通はそこがオフしてるが、瞑想や宗教の勉強によりそれが開花し「宗教体験」が起こることがある。
輪廻や霊を信じるのもそれと同じで、「実際にはそれがないとしても、『ある』という感覚世界をつかさどる脳の領域が存在する」ということは十分に有り得る。 >>19
はい、もしよければ、仏教用語だらけの本より、
マインドフルネスの根底理論の理解として、お勧めの本を
紹介できます。きっと目から鱗で読んでよかったと効果に貢献します。
アマゾンでも高評価のレビューが続いています。 >>20
オカルト的な感覚世界とは違いますね。
気づいてないことを気づかせることで、意識の変容がおこるくらいな
ものです。
マインドフルネスの今ここの事実に生きるとは、背景にどんな理論が
あるのか、そこを学習すると、それについては盲目に生きてたと気づきます。 >>21
一応ネタばらししておくと>>19の頭二行は循環論法、つまり根拠の体になってない
でも、客観的な根拠が無くとも自身の体験を通じて確信するのはまっとうな信仰だと思うし、尊重すべきものだと思う
どんな本読んでるのかは興味あり、聞きたいです >>19
>>3は「無我さん」
(>>20での3の立場)
>>18の方は別人。
(>>20ではおそらく2の立場)
別人なので根拠を聞いても空回りするかも。
森田スレとか本人見てるだろうから質問してもいいだろうけど、
『客観的根拠を示すとか、反証にちゃんと応える姿勢』とかは皆無に近い人です。
質問されたことに詰まると、平気ではぐらかしてそれで済ましちゃう人です。
森田スレを(流し読みでいいんで)読めばわかるでしょう。
そもそも「科学や現代精神医学はまだまだ駄目で、それを遥かに越えた教え」っていう認識だろうから「科学的にどうなの?客観的根拠は?」って聞いても「は?馬鹿なの?」感じなんだと思う。
(>>4)
>>3
>>【Aマインドフルネスは宗教性(仏教性)を排除することによって、宗教と関わりなく
>>多くの人々に普及することを目指したものですが、】【Bその為に仏教の核心の部分が
>>欠落しているので】【C効果も薄くなっています。】
>これって根拠あるのかな?
Aはある程度正解なんじゃない?
メンヘル患者向きでもあるから精神医学として宗教色を排する必要もあるんでしょう。〔よく知らんが〕
Bは「仏教の核心部分〔の効果やメソッド〕を宗教色を排して具体化させたものがマインドフルネス」っていう仮説の反証は有り得る。
Cも同じく「マインドフルネスだけで十分な説明であり十分な効果がある」という仮説は有り得る。 まあ
「ガバットジンが仏教を学んでいたわけだし〔←そこももしかして嘘とか!?・・〕、自分も学んでみるか」っていうのは普通にいいんでないか。って思います。
「そうか核心は霊的世界なのか!
物質世界の常識に囚われてたらいかんのだな!西洋の心理学や療法なんて全然駄目なんだ!悟り世界の体験がない人の疑似仏教も意味ない!
とにかく別次元的宗教体験しかない!
他の全ての教えを捨てお寺に行きまーす!仏教書探しに行きまーす!」
・・っていうのは・・ちょっと・・・
と思いますが
「それこそが真実であるかもしれないことも私は否定しません、出来ません」
〔だいたひかる「どーでも いいですよー」かもしれないカキコ失礼〕 >>22
どうなんですかね。
私にはわからないですが、
〔一般的尺度での精神論とかの積み重ね的なものだけではなく、〕
「何かの体験的なもので一瞬で治った」みたいな話が森田療法でもあるらしいです。
「悟り、宗教体験」みたいなことの真偽はわからないですが、
「そういうカテゴリの『話』が一大ジャンルとして仏教界隈?には存在している」のは事実ですよね。
〔まあ「一大ジャンルとしてUFOの話が存在してる」と同じかもしれないですが・・。〕
それが「結局は、普通の精神論や科学的物質的世界観にトレースするものとしてのものでしかない。オカルト的説明は嘘。」
ということに帰結するのかは?
>>20で書いた仮説みたいなこともあるし。 違った。訂正。
→
「一瞬の体験で激変するような
『別次元的宗教体験』などない。
結局は、普通の精神論などの延長線上のものでしかない。」
ということに帰結するのかは?
>>20で書いた仮説みたいなこともあるし。 >>23
プチ旅行してました関係で、レスが遅くなりました。
ええと、信仰とは違うのです。何か神秘力、不可知力を根拠なく
信じる思想とは異なるのです。
ですので、ノーベル賞物理学者の湯川秀樹や東大の物理学者、戸塚氏をはじめ、
京大物理学の佐々木氏、ニーチェ、ユング、アインシュタイン等まで
科学とロジックを共有できる根本仏教の理論を支持したのです。
何かまやかしのある教えとか色メガネの先入観をお持ちですと、勧めた本が
懐疑的になりバイアスによって素直に頭に入らない可能性がありますので。 >>26
その無我さんという人の話の一瞬で完治した話なんて聞いたことないです。
その信憑性に翻弄されている様子ですが、
まずは実践されたらいかがでしょう、頭であれこれ考えても推論に終わり、
自分の観念の囚われ、頭の中に創り上げられたスキーマ、精神的構築物で、うつ病や
各種神経症になる因があって、その束縛から解き放つことが可能なわけですから。 >>29
無我さんは、長いこと仏教に取り組んだ末に「宗教体験」をして神経症が「消えた」らしいです・・
後は森田療法スレの
>http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1467213720/683
>森田ってやっぱり神懸かってたのかな。
本を読んでも重症の患者が一言で一夜にして全快とか多いし。
って書き込みを見ただけですね。 >>28
伝わってなくて残念だけど「知的準備が欠け瞑想の実践のみでは効果が薄い」を客観的な根拠があやふやなまま確信していることを>>23で「信仰」と呼んでます
客観的に自明なことしか確信が得られない人なんていないので、誰でも何らかの「信仰」を持っているのは普通だと思います
慎重な人は、確信レベルでも客観的根拠が示せない場合は「私見ですが」とか「と思う」とか断定的な口調を避けますが、>>28や>>3はそのタイプでは無いと判断するわけです
自分だったら「私見ですが」って言う根拠レベルで断定的な言い回しをする人なんだな、と
ただ、だからと言って言い回しを変える必要は無いです
そう言う表現をする人だ、という前提で読むだけなので >>4これがそもそも
「客観的根拠あるのかな?」
になってなかったのもあると思うぞ。 やっぱり睡眠とか夢を見るってのはある意味最高の瞑想(や無我)なんじゃないかと。>>17
(起きたとき)
「また夢の中に入ったな」ってね。
つまり瞑想とは
半分寝ることなのです!(キリッ(言い切る人 >>32
確かに
本スレのノリを引きずって曖昧にしちゃったかも 「客観的」ねぇ…盲信のきらいがあると思うなぁ。。。
ところで、某スレでピンク呼吸なるワードを知ってググったけど
女性向けに分かりやすくキャッチーな言葉を作っただけで
やってることは瞑想の呼吸法そのものだった。
それが潜在意識に良い影響をもたらして引き寄せに繋がるという話もチラホラ見た。 >>33
言い切る時は普通、そうやって照れ隠しのマントラ付けるべきだよなw 大学の時に授業の中で瞑想の方法を教わることが出来たことに感謝。
いま思えばあれは丁度シリコンバレーとかで流行り始めた頃だったんじゃあるまいか。 >>31
ええと、そこは仏典には、信じるべきことではなくて、
それが端的な事実であるということを、我々自ら「知る」ことが可能であるとあり、
「現に証せられるもの(sandiṭṭhika)」であり、
「来て見よと示されるもの(ehipassika)」であると説いているんです。
つまり「とにかくこういうものだから、証拠がなくても信じなさい」という性質の
ものではなく、眼前にありありと展開する明晰判明な事実として実証可能な教えであり
ますとあり、ですので、come and see(ehipassika)「やって来て、己の目で見て
知りなさい」と説かれています。
なお仏典には、根拠不十分な信仰は捨てなさいという意味の教えもあります。 >>38
そこは特に否定していなくて、自身の体験に基づいて確信を得ることが信仰のまっとうな姿だと思います
そう言う意味で私にも信仰があります
私的に確信を得たことについて断定的に語ること自体も(自分はしなくとも他人がするものとして)許容しますし、その人にとって自明の真実なんだろうし価値があるかもしれないな、と判断します
だから、特に衒いもなく「どんな本読んでるの?」とたずねたわけです いや、嘘
科学的にユルい根拠・論理構造の癖に、断定口調なのが嫌いなだけか
あーやっぱり循環論法だったわw
って しっかり寝なさい
ぐっすり眠りなさい
それが悟りです
〜ガジットバン >>41
でしたら、その私の経験にもとづく断定に囚われず、
根本仏教の教理を科学とロジックを共有できると認めた
ノーベル賞物理学者や著名人の支持を参考に、
後はご自身で、一つの教養知識としてでも構わないでしょうし、
真相を確かめたらいかがでしょう、そしてマインドフルネスで、なぜ客観視瞑想する
のかとか、その意義とかも分かりますし、心の根本問題解決への道標が分かります。
例えば諸行無常は、ご自分でも体験していて観察できてますよね。
地球が球形であることは、観察発見されました。
地球が球形である事実に信仰するとは言いません。
ですので、観察発見された諸行無常、無我なる教えに信仰とは、言いません。 マインドフルネスには無我的な説明はないってことかな >>44
核心には触れてないです。触れても、触り程度です。 無我的なことは、理屈で何となくわかるってだけじゃ大した効果ない気がする。
瞑想によってそれが何か体得体感のものになるのだろうか。
瞑想と無我の関係は? >>46
有名な森田療法も、森田さんのお弟子さんが無我の教えを取り入れたら
効果が上がったという記録があるそうです。
何となくわかるでは分かってなく、どのような理由で、なぜ無我なのか、
複数の説明方法があり、すべて把握して、かつ自我の特性まで分かっていて、
それらが気づきとなり、知らなかったことに気づくことで、それまでの意識から
の変化の触媒となるものです。
例えば、あそこは○○が原因で事故多発して危険箇所ですよと
気づいていれば、おのずと意識され、知らない人とでは差が出て事故を
防げるように変わりますよね。
>瞑想と無我の関係は?
それを知りたければ、仏教の教説から分かります。
これ以上堂々巡りですので、理論なんて関係ないと思えば、強制ではないですので。 >>46
瞑想で五蘊のいくつかに休んでもらうと
自我っぽいものが薄らいできて
自我なんて無くても特に問題ないことが体感でき
苦痛の根源である我執がマシになる
つーことだとカジュアルに解釈してます
マインドフルネスだと五蘊を休ませるあたりをざっくりnon-judgementalと呼んでるように思う
休ませるって表現は適切では無いかもしれないけど、まあなんとなく >>48
森田療法の先生も某学者の解説も世界の悟っている人と称される
マハリシ、エックハルト等の話に、共通するのは、
無我の教説から得られる一つの気づきとして、
自分の思考は本当の自分ではないってことを説明しますね。
ですからnon-judgementalですし、雑念は自己ではない別物だから、
客観視して流そうで、また苦をもたらす思考も自己そのものでなく、
思考の物語と同化させるのやめましょうって説明です。
ではなぜ同化させないのって理由は、無我(非我)であるからと。
仏典にもそのように観なさいと、あります。 まあ仏教的な作用機序の解釈って多分そんな感じですよね http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1313300232/899
>マインドや体に自己同一化しなくなるのが悟りだという。
それはある意味では正しい。
が、これを聞いたバカな人間は、思考や感情、或いは人生といったもの
から自分が離れようとする。むしろ自分はそれらに巻き込まれない意識の一点だ、
それらは自分ではない、などとやりだす。 これは完全な愚行。
>そうではない、思考があるならばそのときその人は思考なんだ。
怒りがあるならそのときその人は怒りなんだ。
もちろんその思考や感情を観察してる部分がある。が、それはマインドの機能だ。
マインドとは思考のこと。つまり思考が思考を見て俺は思考ではないと言っている。
これはとんでもない根本的な間違いだ。
見ている自分も思考なんだよ、分離してないの! そこを明確に理解しろ。
思考や感情に対してまずは批判や分別をするな。 一旦それらを自分自身として受容しろ。
>そのとき初めてマインドでない自己がぼんやりと出てくる。 それが観照意識。
人間のできる努力は徹底的に、自分の全存在を持って思考や感情や行為に自己同一化することだ。
それが中途半端なとき、またはその逆方向に行ったとき、それは悲劇だ。 命令と断定ばっかりして瞑想中期にありがちな傲慢のお手本ですね 「>思考や感情に対してまずは批判や分別をするな。 一旦それらを自分自身として受容しろ。」
がマインドフルネスっぽくて、
批判的に書いてる前半部の内容が「(理知的な理解という側面の強い)無我」っぽくない?
つまり、(中途半端に)「無我」を意識するようなやり方よりも、マインドフルネスのほうが良いという可能性を示唆する文章かなと。 >>51
脱同一化は、テーラワーダが依処する清浄道論の洞察智の一つでもあるのは
確かです。「それを自己として観察せずに、 完全に対象から切り離された
態度と、完全な平静さを保ちながら、 同時に強い注意力をもって観察するのです。」
「全てが自己ならざるものである(諸法無我)と、智慧によって観るとき、
苦しみについて厭離する。−−これは、清浄への道である。」
と仏典にもあり、自分自身として受容しろというのは、P師の本の影響を受けた
人でしょうけど、それはそれでもいいでしょ。
Sn.798「ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と
見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。
それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、にこだわっては
ならない。」
Sn.898「想いに依存している人々は、流転する迷いの生存に誘き込まれている。」
Sn.799「自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、
或いは「勝れている」とか考えてはならない。」
Sn.803「いずれか一つの偏見を特に重んずるということもない。」 迷っている者同士で、ああでもないこうでもないと言い合っていても
いつまで経っても真実に行き着くことはありません。 >>55
無我さん、こんばんわ。
無我さんにとっては「別次元的宗教体験、悟りの世界」が真実なんですよね。
月を指す指のことをあーだこーだ言っててもしょうがない、月の体験があるかないかが全てだと。
そして月は、普通の精神論や科学の範囲による説明や思考のことでないと。>>20 >>55
根拠、証拠、事実を示しすことは、必要と、悟っていると称される
人たちは説きますけど。
ある精神的な見解、認識の立ち位置に執着,同化していると
見解を示したり、批評コメントするものです、貴方もそう。
貴方がれいの無我さんって人かな。 >>55-56
そういうことですね。
すべてヒントのようなもので、その説明自体が真実だと思うと間違ってしまうということです。
ですから、禅のような説明も出来るし、浄土系のような説明も出来るし、法華経のような説明も
出来るということですね。 向こうのスレ、宗教的な要素とその効果を否定するのに必死で荒れててなんか笑ったw
バチ当たってるな >>60
読んだけど、抗うつ剤のプラセボの話をしてるだけだぞ
だけど「マインドフルネスの効果はプラセボじゃない」ってすげー違和感
仮に偽マインドフルネスと真マインドフルネスを処方して効果の差異を計測するとしたら、「偽」ってなんだよw ヴィパッサナー瞑想が偽(ラベリング)
気づきの瞑想が真(ーしていたな)
になるのでは >>61
偽マインドフルネスとかじゃなくても
マインドフルネスをしていない
もう1つのグループに認知行動療法やら偽薬やらリラクゼーションやらやらせて
調べるってのはよくされてるよ
こんなのとか
https://m.facebook.com/vipforinnerpeace/posts/922905577795204 まぁもう1つのグループに他の療法やらせても
偽マインドフルネスじゃないかもしれないけどプラセボ効果は最初に〇〇に効くという先入観や医者がそう教えたりすることで働くから
薬と偽薬ほど厳密にはできないけど
可能な限りはプラセボの影響を減らせるんじゃないんだろうか
素人意見だけど てかよく考えたらプラセボとか完全に板違いだな
今後控える 「プラセボ」とか「信仰」ってことで本スレが議論で荒れたので、
こちら使わしてもらいますん。
私が立てたスレだしいいですよね!ですん。
仏教って宗教って話題の懐ふかいものですよね?ですん。
ちなみにここの本題は・・
>>20とかは人それぞれだしどれかを絶対化出来る論を出せる人も現状いないし
「みんな違ってみんないいのよ」・・
沈静化・・状態ですん。 概要をまとめる・・
まずこれ〔A〕
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1470401668/657
>何ヶ月とか何年とかかかって影響がでたものについては、マインドフルネスのせいかどうか確かめようがない
半分は信仰なんよ
良い影響が出るという前提だから悪いものはそもそも調査しないし
それに対して
「信仰なんかじゃない!
プラセボでもない!」
みたいな反発意見が出る。
そして信仰やプラセボではなく、本当にマインドフルネスによる純粋な効果があるとわかる試験結果(二重盲検的なもの)が示される。
・・終わり
・・終わり? そもそも論としてこの療法の性質上、
※信仰やプラセボ
→「効果あるだろう!あるといいな!」というポジティブな気持ち、姿勢〔とその効果〕
ということ自体は普通であり何らおかしくないことであり、
「信仰がある!プラセボがある!」
とイメージネガキャンするのは論として成り立ってない。
→「うんそうですよ。療法の性質上、信仰やプラセボは普通に効果の1つですよ。」って話。
それに対して感情的に
「信仰じゃない!プラセボじゃない!」と反発するのも、一見普通だがちょっとずれてると。
『「効果あるだろう!あるといいな!」というポジティブな気持ち、姿勢〔とその効果〕
なんて意味ない!』
と言い換えると変な意見であることがわかる。
結局イメージだけで白だ黒だと喧嘩してもそれは本質をむしろ見えなくしてる。 まあイメージネガキャンでも実質的感情的には「全否定」のネガキャンだったわけで、
それに対して二重盲検などを示してしっかり「純粋効果があるのだ!」と反論することは真っ当とも言えるし、その試験結果「純粋な効果がある」は意味のあることだ。 ・・「その純粋な効果の中にはプラセボや信仰が普通に入ってる」と私は思うけどね・・(プラセボや信仰はあっていい、あって当たり前)
「リラックスする」みたいな単純な瞑想とマインドフルネス瞑想を比較した試験
・マインドフルネス(プラセボ+本体効果)
・リラックス瞑想(プラセボ+本体効果)
で前者に効果の優位性があるという結果が出た
というのは、
マインドフルネスの優位性を示してはいるが
「(マインドフルネスにおいて)プラセボに効果はない、意味がない」ことを示してはいない。
この試験で「あくまでも効果は本体が全てでプラセボはない」と示すのは嘘の論理。 (>>64)
・正しい瞑想「今この瞬間自分が体験していることに意識を向ける」
・リラックスするだけの瞑想
「今この瞬間自分が体験していることに意識を向ける」というのがそもそも心理的な事柄であり
それと「効くだろう、効くといいな!というポジティブな意識や姿勢」が
効果において「何の関係もない」などと判断するほうが無茶苦茶。
結局ギガジンのも含めて
「プラセボ」という言葉のネガなイメージがバイアスとしてある文章になっている。
「プラセボではない」は間違いで
「プラセボだけではない」が正解。 >>73
そうすべてはある意味「信仰」なんだよ・・ 科学信仰
宗教信仰
で同一の概念なのに、なんで宗教は締め出されたのかね?
科学が一般的に絶対なのかなぁ 「宗教」あるいは「信仰」「プラセボ」などの言葉を見ると
すぐに「偽物、オカルト」的なイメージを勝手に結びつけネガティブな反応をする「信仰(脳のプログラム)」 >>64
おお、まさにそれ
被験者をうまいこと騙したわけかw
プラセボ以上の効果を示した実験結果アリってことで理解 本スレ怖すぎる
マインドフルネス「ストレス低減法 心理療法」
という原理主義者手動の科学宗教になってる。
気に入らない意見は全部否定してスレ分けて叩くつもりだな >>78
でも期間が短いから正しいのかどうかは判断しかねる
しかしなかなか実験方法が独創的でこれからが結構期待できる >>80
確かに母数は少ないわ、被験者は(おそらく)健康体だわ、医療的な証拠としては弱いかんじ
プラセボ群の現場が何気に楽しそうなのが素敵 >>72 これいまいち分かりにくいか。
・化学物質A+化学物質B=色が変わった!
・化学物質A’+化学物質C=色変化なし
という結果でもって、
「化学物質Bにだけ効果があるんだ!化学物質Aの効果じゃないんだ!」
というのは間違いということ。
(実はすごく単純な話)
また
・形式が違えば、プラセボ効果の本体との関連度、効果具合も違う。プラセボ(効果)は同一とするのは間違い。
(だからAとA’)
・ A(プラセボ)とB「瞑想(今この瞬間自分が体験していることに意識を向ける)」はどちらも心理的なことであり
化学物質と違いそもそも明確に分かれてないこと。
(これも実は当たり前のこと) >>81
こういう研究は結構面白いと思う
今までのマインドフルネス研究は認知行動療法とリラクゼーションとかと
比べてたわけだが
それぞれの療法で結構プラセボのかかり方が違う
認知行動療法は認知の歪みを直すことを目的としてるわけで結構な部分が誘導されるわけだから
マインドフルネス以上にプラセボがかかってしまう
マインドフルネスは治るよって軽く言っておいて
結局のところ今に集中し続けなさいというだけで
確かにそれでもなんらかのプラセボはかかるかもしれないけど
認知行動療法よりは弱い
かといってリラクゼーションとかはまずそれに過剰に信頼する奴はいないだろうから
そのプラセボはマインドフルネスより弱い
でもこういう研究はプラセボの量の差ををできる限り排除しようとしてて
なかなか面白い >>82
一体君は誰と戦ってるんだ
本スレの方でもマインドフルネスはプラセボじゃない言ってたやつ
最後にはそもそも素人が口を出す時点でおかしいって言って議論は終わりって言ってたじゃないか ていうか
(>>69)
>何ヶ月とか何年とかかかって影響がでたものについては、マインドフルネスのせいかどうか確かめようがない
半分は信仰なんよ
良い影響が出るという前提だから悪いものはそもそも調査しないし
→
彼(君)
・二重盲検的な検証試験
・健康な人に対しても効果性が示された試験
私
・そもそも療法の性質上「プラセボや信仰」はあって普通、あって当たり前。
そこをイメージだけでネガティブに捉える必要はない。
「プラセボ!信仰!」って言って揶揄するのは意味がない。論として成り立ってない。
で二重の反論が出来たわけだ。
彼と私が対立する部分は小さなことに過ぎない。
ってことだろう。 議論は
論理<感情 がぱたーん
細かく議論を続ける人も
IDコロコロでボソボソ・・みたいな人も
人格否定や侮辱の応酬も
まあ目的なんてわかりきってる
感情だよ 議論はまあそれだけではなく、
素直に内容に関心があり知りたい、深めたいっていう姿勢だってあるだろうな。
あとは自身の強い信条、信仰みたいな事柄と結び付いた議論だから
凄く感情的になるような人もいるだろう。 マインドフルネスは伝統的な思想・技法を矮小化されたものって考える宗教系の人が結構いるらしく
でも一般客がバズワードに集まってくるのにはあやかりたいらしく
何かと「こっちが本物」アピールするからめんどくさい めんどくさいと否定の感情湧くのはいいが、
書き込みをするのはマインドフルネス的ではない 「こっちが科学だ エビデンスだ 本当に効果のあるものだ
正式なマインドフルネスではない瞑想本はこのスレから排除すべき
こっちが本物だから」
同じだな >>94
それもまた否定の書き込みなわけで
業が深いな >>95
うん
それもうざいよな
本スレは科学っつーより医療情報を基本にやって欲しい 否定の感情を「否定を露わ」にするのではなく、
自分なりの見解を言うのがそれらしいと思う。
「めんどくさい」
という言葉は否定の意味合いが強いと思う。 >>98
とっても瑣末な言葉尻の問題に思えるけど、それで議論したいの?w 本スレではスルーされるから別館で言うけど、補助アプリと端末でやるのってどうなんだろうね? 自分は ID:pIyle/8B なんだが、wifiとlteとG3でid変わるぞ >>98
そうそうほんとそれなんだよな。
言う内容は同じでも、否定や揶揄の要素が入ると相手も感情的に反発してしまうことになる。
そして話や議論は結局
論理<感情 になってしまう。
変に否定や揶揄の形式を入れないでシンプルな形で意見を言うのがいいんだよね。
しかしどうも人間の心はその感情的なやり取りに行きがちなんだよな。 ・意見や信条は人それぞれ違う。
違っていい。
・変に否定や揶揄の要素を文章に入れないでシンプルに意見を言う。
これだけでだいぶ違うんだろう。 わかるっちゃわかるんだが
>>40とか書いて読み返したら、あまりの自己欺瞞に気分が悪くなったて>>41だからなあ
まあ本スレ荒れてるからこっちに釣り上げようと思ってさw 自己欺瞞に浸る自由
自己欺瞞を自身で否定する自由
自己欺瞞を認識しない自由
自己において哲学してるだけで何も問題ない その人間の持つめんどくさい心の傾向を解説してくれてるのが仏教だったり。
しかし、神秘性のこととして仏教を捉えてる無我さんにとっては、
そんなのは仏教の初心者コースだよっ!てなるんだろうな。
あーめんどくさくて楽しい! 無我さん説によると
○原始仏教はお釈迦様が初心者向けに語った対機説法で、
一般的尺度の範囲で語られる
心や生活における教え。
(本格的な宗教体験に挑む準備段階的な教え)
○大乗仏教(経典)は
「別次元的悟りの世界、宗教体験(月)」を起こせる力がある。
その文章自体の一字一句(月を指す指)が真実なわけではない。 >>109
そういう中国天台の主観の誤りは、学術研究で多くの学者が否定しているし、
哲学化するながブッダの教えでもあったし、
日本に入った中国仏教は「空」を正確に移入してなかったという日本仏教学会の
学術論文発表もあったし、それは大乗という信仰の視点での見方ですからね。
けど分析すれば、原始と大乗のはんにゃはらみったなら、共通性はありますよ。
大乗万歳と信仰化されたので、原始の教えは×ですよという洗脳から始まるわけです。 なんかこのままじゃただの仏教スレになっちゃいそう
なんか勘違いしてるやつがいるが
マインドフルネスは「雑念」とか「観る」とかの仏教の概念を扱ってるだけで
仏教の信仰は別に扱ってないぞ 別に信仰はしてないんだが。
人それぞれだろうけど。 NHKにも出てたマインドフルネスの専門家の熊野先生(心理学の先生)も確かに
無我とか仏教の概念は使ってる
でも信仰がどうのとかなんて話はしてないし
この学会発表みたいな論文でも坊さんが講演してるが
http://waza-sophia.la.coocan.jp/data/15092501.docx
これも方法論とかアートマンとかの概念的なもので信仰に関するものじゃない
>>114
いや信仰してるかどうかじゃなくて
マインドフルネスと仏教信仰を絡めて語るのはおかしいという話 みんな、自分の心の病気を治したいだけでしょう。
宗教性を排除したもので治る人は、それでよし。
治らない人は宗教性にまで踏み込めばいいし、
さらに仏教信仰の世界まで行ってもよい。
治らないで、ああだこうだと言うのが一番空しい。 >>113
いえいえ、112は、109の誤認のある書き込みに対して、学術研究、現代仏教学の
立場からレスしただけでして、マインドフルネスは信仰ですとは書いてないですよ。
この自称無我さんって人は、森田療法スレ、メンヘル板で大乗信仰を唱えてて、
マインドフルネスのルーツである根本仏教を否定していた人なのです。
そしてここにそれを持ち込んで、荒らそうとしている人もいるわけです。
荒らしはスルー推奨でも、間違った書き込みには、知らない人に誤解を与えます
のでレスしただけですので。 >>117 は 「2号」 というコテハンを使っていた仏教の素人さんで、自分の神経症が治ってもいないにも関わらず
@さんという人を指導しようとしていた異常な人です。この人は仏教の入門書程度のものしか読んだことがなく、
専門書などは一冊も読んだことがないのに、仏教が解ったつもりになっている可哀想な人です。 >>118
出たー、自称無我氏、このスレまで来て、布教かい、暇人。
あなたのヒンドゥ化した大乗信仰被れは、お笑いレベルなの。
宇宙意識と合一とかヒンドゥカルトを、ここに持ち込む必要ない。
ここはね、純粋にマインドフルネスのルーツである初期仏教の無我に偏見なく、
マインドフルネスを語る場、あなたの変な信仰の布教場所ではないの。 >>120
君は仏教の素人なのだから、「趣味の仏教」で遊んでいればいいのです。
それと、@さんを治してあげようとしていたのに、最後は逃げてしまったのはどうしてかな?
偉そうなことを言っていたのだから、最後まで@さんを指導して治してあげるべきだっただろう。
原始仏教で神経症が治るなどと法螺を吹いていたことがバレるのを怖れて逃亡した過去があるのだから、
それをよく反省して、もう解ったような口を利くのはやめておきなさい。 >>111 やはり、MZさんですね。あのスレ書き込みできなくなりましたね。
で、私はマインドフルネスに辿り着きました。
とゆうのもトールより実践的に詳しいし、主張はほぼ同じだからです。
ここに無我さんや2号さんもいるとは驚き。 >>121
はいはい、お得意のレッテル貼り病が始まりましたね。
@さんには、必要なことは説明しました。そして私に質問もなくなりました。
あとは自らの実践のみです、あーだ、こーだと頭で考えても治りません。
百歩譲って、あなたの無我の説明も初期仏教と共通している部分ありましたが、
無と化して宇宙意識と合一してとかは、そこはヒンドゥ由来です。 ここまだ書けるよ?
【不安障害治癒】「無我」の教え【仏教、悟り】 [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1462873365/
無我さんと2号さんの討論はこっちでどうぞ。 >>113
>>115
別館だけど、仏教話とかばかりではなくて瞑想とかマインドフルネス自体の話もするのがいいね。
ただ「信仰」とは何か?っていうことはあると思う。そもそも人間にとって多くのことは「信仰」なんではないかと。
>>95も一つの信仰だったりね。 >>125
2号クンのような仏教の素人と議論する意味はありません。
ただ、他の人々が彼のような素人の言うことに騙されないように、
時々釘を刺す必要があるだけです。
(宇宙意識という言葉に捉われて、私の言うことがヒンドゥー教と同じだ
などと思うレベルなのですから、まともに相手にする意味はないのです。)
>>126
その通りです。科学も信仰であることに気付いている人は非常に少ないのです。 どうやっても猿みたいな格上アピール合戦はやめないんだろうな
無視したりからかったり好きに遊ばせてもらうわ
で、前からモヤっとしていたことをネタ振りしてみる
マインドフルネス本では注意の向け先としてマントラが紹介されることがあまりないように思えるけどなんでだろ? >>127
確かに科学を進行してるやつもいるにはいるが
だからと言って科学そのもの=信仰ではないと思うよ
科学はあくまで科学哲学者の定義に従うのなら「証拠を重視し確率を評価する」ものであって
本来科学は何かを絶対的に信じる信仰とは違うものだと思うよ
まぁ科学を信仰してる人ならまだしも
>>128
あくまでマインドフルネスは西洋人に合わせて宗教性を排してるし
マントラ唱える瞑想なら超越瞑想という形であるから >>125不思議だな。俺のブックマークだと737の書き込みまで表示されて
書き込みできなくなってたのに。 「宗教などを信じる人は『信仰』。私は科学的範囲の中にいて『信仰』はない。」は正確か。
科学の範囲から外れたことを信じることを「信仰」と言ってラベリングする傾向がある。
しかし、例えばお金の仕組みや社会通念、人間関係の常識など(を信じること)は厳然たる科学現象、物質現象か?と言ったら違う。
集団的信仰とも言えるもの。
しかもそれによりメンタルを病んだりもする。
そして科学だけではなく、社会常識の類い(も信仰していて)から外れたことを信じることも「信仰」と言ってラベリングする傾向もあると。
結局のところ人間が何かを認識し価値観や世界観を形作ることの多くは「信仰」だろう。 科学とか常識とかお金とか
そういう尺度でガチガチになって疲弊して心が病むというところがある。
そんな中でその尺度や感覚世界、人間関係の形とはいい意味でずれてる宗教的な場や感覚世界というのがあるのは、
一つの「合理」だと思う。 >>131
>>132
それとマインドフルネスになんの関係があるの? >>134
いや宗教話題可って書いてるけど
あくまでマインドフルネスに関係あるものでしょ 本スレ「マインドフルネスは仏教宗教に関係ある。宗教の話を避けるのは変」
→
本スレ「ここは実践中心の純粋なマインドフルネススレだ。」
→
別館立つ
→
別館「何で宗教話するの?
あくまでもマインドフルネススレだよ?」
→
・・・。 >>136
いや宗教話するなってことじゃなくて
するとしてもマインドフルネスの宗教話って話 そもそも>>113>>115これで「信仰」という言葉でラベリングする断定的な書き方があったので、
>>126これを書き、さらに詳しく書いたって流れです。
>>113>>115を基準にした「マインドフルネスの宗教話」ってそもそも何だ?という話になりますんで。
本スレでは宗教話NG 。
はまあ了解された(で別館が立つ)
別館でも「信仰」を排除した「宗教話」だけ・・・
ではねえ・・
「そもそも信仰とは何か」という話を一つの例として出して、
ここでの話は柔軟であっていいということの確認ですね。 柔軟って意味では、「散歩とか運動とか音楽聴くのもいい!」みたいな話も別館でどうぞ。 本スレで
「マインドフルネスは仏教宗教と関連ある。そこを排除するのは変。」って言ってた人らが
こちらで詳しくその知識なりを語ってくれると思ったら
結局そこらへんあまり語る人いないな・・ってのはありますね。 >>138
マインドフルネスでは宗教の信仰というより
>>115であるように
宗教の概念と関係があるから信仰云々は正直どうなのだろうか
マインドフルネス研究でも信仰が如何の斯うのって聞かないし >>141
だからー
信仰ってそもそも何だ?
人間にとって多くのことがそもそも信仰では?
って話をしたんですが。 >>142
いやマインドフルネスの研究自体では
信仰か信仰じゃないかなんてグレーなところはそもそも取り上げないし
ここでする必要があるかわからない
あと人間にとって多くのことが信仰というが
じゃあその時使ってる信仰って何に基づく定義?
一般的に使われてる定義?
辞書的な定義?
それとも自分の中の定義? >>142
信仰がなんだとかって明らかにスレチだし
あまり話したくないけど
個人的にその話がなぜマインドフルネスに関わってくるかは知りたいけど 「マインドフルネスの宗教話(『信仰』はNG)」スレにこだわるなら別のを勝手に作ってくださいな。
ただでさえ
「マインドフルネスに直接関係した宗教話」を語れる人が少ないから過疎ると思いますが。
その強い「マインドフルネスの宗教話をするなら『信仰』の領域はNG!」
って尺度もマインドフルネスというものからくる「信仰」みたいな感じに思えますね。
パラドクスですね。
「信仰」というのは立場により
見方が逆転するのでしょうね。 >>145
じゃあどういう風にマインドフルネスと信仰が関わってる証拠はどこにあるんだ
マインドフルネスは本来宗教性を排したものだから
信仰とかあまりないと思うが >>146
貴方に相応しいスレがあります。本スレと言います。 >>145
何も証拠を出さないのに主張するのも
信仰みたいなものじゃないのか? >>147
証拠がないから論点変えて逃げるってのはないと思うぞ 面白いですね。
本スレでは
「マインドフルネスに仏教宗教が関連するのは当然。それを排除するのは変」という嵐がいた。
別館ではその反対の嵐が出現した。 まず>>131>>132から逃げて
「『信仰』話は駄目!」ってごり押しするのが通らないんで。 >>150
仏教宗教だから必ずしも信仰が関わると考えなくてもいいと思うが
宗教の瞑想の方法論が元だからマインドフルネスはなんらかの関わりがあると意味だと思うが >>151
証拠がないのに話すのは
話したいだけでは? まあ
「マインドフルネスの宗教話(『信仰』ではない『概念』の話)」を語れる人はどんどん語ってくださいな。
あまりいないが・・ マインドフルネスとは
今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、 評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること
とテンプレにあるわけだが
どこに信仰要素があるんだ? >>154
いないなら落ちるし
いたら落ちない
どうしても話したいなら自分で立てればいい
それだけ >>153
「信仰」ってそもそも何だ?
ってところの話、定義付けが出来てないわけで、
「マインドフルネスと信仰の関連の証拠を出せ!」は質問の正確な意味が出来上がってないので答えようがない。 >>157
宗教的定義
神仏、宗教を信じて崇めること
一般的定義
特定の対象を絶対的なものと信じること >>158
スレチじゃないかって軽く言っただけで荒らし、荒らしって言われても >>157
てか定義とは何か何かって思考停止して言う暇があるなら
自分が思ってることを言えばいいんじゃない? >>159
貴方は前者として定義
私は後者として広く定義
食い違う
このスレは前者もオーケー
気にくわないなら別スレ立ててくだされ
前者の人に対しては、本人も周りもそもそもマインドフルネスの枠組みにおさまってると思ってない
だろうから無問題
マインドフルネスの枠組みの厳密性に沿った「宗教的な話」のスレが必要なら勝手に立ててくだされ 信仰の一般的定義の
何かを絶対的なものを信じるという要素は
ただ観るというマインドフルネスにあるとは思えない >>162
>>163で俺も後者なんだが
じゃあ何故マインドフルネスが後者の信仰の定義と関わりがあるか
説明をどうぞ
全ては信仰だからマインドフルネスもそれに入るなんて詭弁はやめてね
それじゃどんなスレでもこんな話ができてしまうから そのわりにエビデンスに拘りますよね
科学信仰エビデンス信仰
パラドクスですね >>165
そちらも証拠や説明なしで語ってる時点で同じようなものかと
てか別にこっちは証拠を絶対的なものとしてないよ
ここで信仰のことを語るのならそれぐらい言えるだろう程度のニュアンスのつもり >>164
わかったから
貴方の尺度に厳密に合う
「マインドフルネスの宗教話のスレ」を立ててくだされ >>167
どうしてこのスレがそちらの尺度とあってると言えるんだ?
証拠信仰とかはやめてね
そんなこと言い出すとこのスレでなんの話でもできるようになる >>157
横槍だけどこのスレ内ではいくつかの「信仰」があるも思う
@一般的に宗教と呼ばれるものの教義に従うこと
A何らかの価値観を信じること
B根拠が示されないことを信じること
で、>>131ではAを「信仰」と呼ばないくせに@ばっかりレッテル貼られる風潮ってどうよ、と言ってる?
>>132では、Aによってストレスを生み出してるんだから@でストレス軽減しようと考えるのはある意味合理的、と言ってる?
論旨がよく分からなかったから確認 >>169
こっちの論旨は
じゃあ>>131>>132がどういう形でマインドフルネスと関係があるのかってこと
関係ないのに語るのを許したらなんでも語れるようになる >>170
そっちはわかる
わかるけどちゃんと成仏させないと悪霊になって他のスレで迷惑かかるし
ここは本スレを抽象的な議論で埋めないための隔離スレなんだから >>171
なんかあの人他板でも荒れ回ってる気がする
確証はないが
もう消えたみたいだけど まあ>>132をあえて破綻させたまま要約してるから真面目に添削してくれると信じたい
意地悪な解釈をしたいわけではなく、そう見えたから補足して欲しくてさ >>154
>>156
はーい、ここにいます(^^)/
それは神秘、不可知力とは異なる理知的な仏教の教理教説であり、
マインドフルネスのルーツである上座部初期仏教の著名な僧侶と対談し、
私の話すマインドフルネスの根底理論の話について、その通りですと御墨付き
をもらっていますので。
けど後世のヒンドゥ化した変容仏教信者の自称無我さんという人が、
邪魔しにきて荒れるかもしれませんが。 >>174 は2号クンという病人です。まともに仏教の勉強などしたことはなく、自分の神経症が治っていないにも
関わらず他人に神経症の治し方えお教えようとする異常者です。
2号クンはエックハルト・トールだの、リンポチェだの、カバット・ジンだのと次から次へとスピリチュアル系
の指導者を渡り歩いて、何とか自分自身の神経症を治そうと一生懸命です。
それでいて、一方では仏教で神経症が治ったと言って他人を指導しようと浅はかな書き込みをしているのです。
本当に仏教で神経症が治っているのなら、他のスピリチュアル系指導者などを探し歩く必要などないことにも
気が付かない知性の低い人物のようですね。 >>169
>>132は
『>@一般的に宗教と呼ばれるものの教義に従うこと』
というより「利用すること」って感じかな。
あ科学を選ぶのか宗教を選ぶのかどっちだ!とかじゃなくてハイブリッドな在り方は普通にあると思う。 私が見る限りマインドフルネス瞑想で治るのは、とりあえず軽〜い神経症だけでしょう。
マインドフルネス瞑想によって重症の(視線恐怖のような)妄想性のある神経症を治すには、
非常に長期間続ける必要があると思います。
ですから、一応働ける人は働きながら長期間続けて行くなら、遠い将来は神経症から自由に
なれる可能性が無きにしもあらずだと言えるでしょう。 「スレタイにマインドフルネスがあるのだから『信仰』は排除しよう」っていうのはそれはそれでたぶん正しいのだろう。
しかしこのスレではそのような注意書きが始めにあるわけではないし、今からそれに切り替えは無理がある。
そして、別スレとして
「マインドフルネスの
『信仰』話NGの宗教話スレ」を立てるとして現実問題、
仏教の『信仰』と『概念』というのをどう定義し分けるの?という。
難しいでしょ。
まあ二号さんと無我さんがバトッてるし
ちょっと考えていかないといけないかもね。
とりまオールオーケーでw
バメンでw >>178
次スレからそれにするでいいのでは?
そもそも横からだけどマインドフルネスの信仰話って何?
>>131とかはマインドフルネスとどういう風に関係があるんだ?
別に煽りとかじゃなくて素朴な疑問ね >>178
「スレタイにマインドフルネスがあるのだから『信仰』は排除しよう」っていうのはそれはそれでたぶん正しいのだろう。
しかしこのスレではそのような注意書きが始めにあるわけではないし、今からそれに切り替えは無理がある。
いやスレタイに書いてあるからで十分でしょ
あくまでメンタルヘルス板の本スレの派生スレだし
マインドフルネス以外の話していい理由なんてないと思うぞ
てかなぜここでそこまでして信仰の話しようとするのだ >>179
だから「『信仰』はNG!」って意見に対して
「そもそも人にとって信仰って・・」って話をしたわけ。
そこに対する返答がないまま、
また 「マインドフルネスでは『信仰』は違う!NG!」って話されてと「信仰って何?」っていうループ。
まあとにもかくにも『脳や心の健康』にフォーカスした場合
プライドや感情や信条や論理で議論してバトるってのは
どれも逆行ってるとは思う。 とにかく「信仰とは何か?」
があやふやな以上、
「はい今から仏教の『概念』はオーケーだけど、『信仰』はだめです」ってのはイミフだぞ。
また「スレタイに入ってるから
信仰話はNGだ」って言うけど
まず前述の難しさもあるし、
今度は「宗教的話題も可」とかテキトーな書き方がおかしいって話になる。 >>181
>>113のやつ?
それはあくまであからさまに信仰の宗教的定義にある
神仏を崇めることっていう要素がマインドフルネスのでは見られないって軽く指摘しただけだと思う
信仰がどうのって話ではないと思う
多分>>113もあくまで仏教と信仰を合わせて語ってるあたり
普通に仏を崇めるみたいな意味で使ってたんだろう
そこまで難しく考えなくても良いのでは? >>182
宗教話題可って書き方がおかしいって話は本スレでもでたな
本スレではそもそもマインドフルネスが宗教とみられる危険性があるから
宗教板に立てるのはどうかなって意見とか
でも本スレではマインドフルネスの宗教に関わる部分に関して別スレを立てる方針だったし
マインドフルネスって書いてるのに
宗教話題可=仏教全般okって捉えるのもどうかな? >>175
あのー、毎度、憶測、妄想、レッテル貼りで私を根拠なく貶めないで
くれないでしょうか。
貴方は、原始仏教と大乗仏教のスレで私に論破されました。
都合わるいことは答えず逃げて、病人だとか素人だとかレッテル貼りが
お得意のようですね。 >>182
あとスレタイにマインドフルネスと入ってるから信仰の話はスレチでいいと思うぞ
確かにマインドフルネス=仏教なら仏教の概念と信仰の区別は難しいだから信仰も一応okとなるが
マインドフルネス=仏教ではないし
そんなことマジで思ってるなら学び直したほうがいい >>185
出来ればここでバトルはやめて
まぁ二人ともスレを立てれない状況に陥っているのなら
ここでまぁしばらくしてもいいけど
立てられるのなら立ててどうぞ >>185
>貴方は、原始仏教と大乗仏教のスレで私に論破されました。
仏教の専門書など一冊も読んだことのない君が私を論破? あり得ないでしょう。
君は原始仏教の入門書の知識しか持っていないから分からないのです。
君が仏教で本当に神経症が治っているのなら、あれこれとスピリチュアル系に
手を出す必要がないことも分からないのですか?
君は神経症が治っていないのです。つまり、君は仏教など何も解っていないのですよ。 >>184
もともとが(私が立てた)
「マインドフルネスは宗教性を排除したものだけど、起源とか創設者の仏教への取り組みとかからすると宗教話は避けられない。
別スレでそこを語れる場を作ろう」
矛盾というのはそもそもマインドフルネス自体に内包されてるものでもあるわけだ。
そしてそこの宗教的な部分を「あえて」語るスレなわけで
また本スレののりで、
「厳密性」を求めてもっていう。
「あえて」であることは、序文に
「『本スレ』では宗教話NGですが」と真っ先に紹介してることで示されてる。 「カバットジンは鈴木大拙博士や道元禅師を敬慕していた」
これの真偽がわかる人はいないのか?
もし本当なら
「ガバットジンはそこに取り組んでたのか、
どんな教えなんだろう。どれどれ」
→
「ちょっとでも『信仰』に触れたら即刻退場だからな!」
???だな >>190
宗教だから厳密性はいらないってのもおかしいし
あと最初の疑問に残るけどマインドフルネスの宗教性のどこに信仰が入り込む余地があるんだ?
宗教性と言っても必ずしも信仰を含むわけではないよ >>192
まあとにかくこだわるなら別スレ作ってくれ。 >>191
でもそれはマインドフルネスの元になった思想であって
マインドフルネス自体ではないと思う
マインドフルネスはそこからできる限り宗教性を排したもの
でもそこに残ったマインドフルネスの宗教性に信仰というものはあるのだろうか? >>193
そちらのいう根拠が明確でもないのに
そんなこと言われても 信仰と概念の区別を勉強した上でしっかり提示して
そして別スレを万全な状態で立ててくれ。 >>191
どんな教えなんだろうか?
ってのはもうそれはマインドフルネスではないマインドフルネスが影響を受けた教えに過ぎない
もしそれを語りたいならマインドフルネスの元の思想を扱うスレでも作ればいいんじゃないか?
ここはあくまでマインドフルネス自体だし >>196
いや個人の希望でそんなこと言われてもねぇ
スレがそういう流れになってまぁそれがいいかみたいになるならともかく 気にくわないから別スレ立てろってのも怖い
それがなんらかの根拠が与えられてるのならともかくとして >>191
敬愛してるかどうかは知らないけど
「Wherever You Go, There You Are: Mindfulness meditation for everyday life 」に引用文献の著者として明記されてる マインドフルネスは起源とか創設者とかからして仏教を語ることは避けられない
→
別スレ誕生
「あえて」宗教を語れる場所が出来た
→
貴方『ここはあくまでマインドフルネス自体だし』
?????
→→→→
「あくまでマインドフルネス自体だし 」のスレがありますよ >>200
信仰を排除せよ!
って言うけどそもそも
信仰って?
の後、貴方が答えてないだけ。 >>202
いやそれじゃ今までの話をまとめてるだけじゃないか
否定が肯定かぐらいしろよ...
テンプレからしてマインドフルネス自体ではないの?
定義とかが書いてあるし
あと鈴木大拙の話もそれはマインドフルネスの歴史の中で影響を受けたということであって
どのようにして信仰につながるのだ >>203
てかなんで前のやつで宗教的定義と一般的定義が出てるのにそんなに定義にこだわるんだ
そちらなりの定義があるなら聞いてみたい
それを踏まえて>>179の回答も聞きたい
マインドフルネスの信仰話というものがあるかないか
そちらなりの定義で >>204
>どのようにして信仰につながるのだ
信仰話はNG!やめてください >>207
なんかもう根拠もないあたり
完全にそちらの希望でここで信仰の話したいだけなんだね
スレタイ曲解、根拠薄弱、そしてスレ立て能力なし
どうしようもないね まぁこっちがここで信仰話なんてないと言っても
語る奴はいるだろうけど
マインドフルネス研究において信仰に関するのはないし
前の思想が宗教だから許されるなんていう詭弁は正直成り立ったらそれこそただの仏教スレになるだけ
こりゃ次スレワッチョイ必要やね で、>>176 どうも。理解
宗教的な教義にも効果がある可能性を掲げなくても、このスレで扱っていいんじゃない?と思う
本スレに流れられてもアレだし
言ってることが変だったら突っ込めばいいし
自分の話したいテーマに集中できないというのであれば、自ら新スレ立てればいいし 「マインドフルネスに信仰はないだろ」
→
「そうですね。宗教性を排除してパッケージされたものですしね」
「しかし起源とか考えると語るのは避けられないですね
別スレ作って語りましょう」
→
「マインドフルネスに信仰はないだろ!答えろ」
→
「そうですね。宗教性を排除してパッケージされたものですしね」
「しかし起源とか考えると語るのは避けられないですね
別スレ作って語りましょう」
→
「マインドフルネスに信仰はないだろ!答えろ」
→
→
→
>>209
私がこのスレ立てたんだけど?
どうぞ貴方の望むスレを立ててください。 >>212
起源の話なのか?
最初のスレの流れとか
テンプレでマインドフルネスそのものをアピールしてるあたり
マインドフルネスが取り扱っている概念の話ではないの?
確かにいきなり宗教板にマインドフルネスの奴が立ったらそういう認識はわかるが
メンタルヘルス板の本スレからの流れからだからマインドフルネスの包括する宗教的な概念という認識がいいと思うのだが
俺が建てたからなんで証明できないし
そうだとしてもなんでそういうことはテンプレに書かなかったんだ
マインドフルネスそのものの話か
マインドフルネスに関わった全てかは大きいと思うが >>214
結局最後は感情でした〜終わり!
で逃げかよ
そうかもしれないけど反論できないから全ての議論は感情って言ってしまえば
世の中のあらゆる議論は無意味になるが >>214
そもそもテンプレがおかしいと思う
これじゃいかにも医学的なマインドフルネスの宗教性を取り扱ってると思うのが普通
次のテンプレはマインドフルネス全体を取り扱ったみたいにするなどの配慮くらい必要だと思うよ >>212
このスレ立てたやつのレス見たんだが
0508 優しい名無しさん (ワッチョイ 6f3c-RETc) 2016/09/03 17:08:54
>>505
マインドフルネスってもの自体が宗教色を排して万人向けにしてるものなんだよね?だから「マインドフルネス、仏教」って言葉を並べるのは変なんじゃない?
マインドフルネスをよく知らない宗教板の人たちがマインドフルネスって仏教なんだ、宗教なんだって認識しちゃう可能性があるでしょ。
あくまでもマインドフルネス本スレからの流れだけど、あえて宗教的な話題も語る、語りましょう
ってスレでいいんじゃない?
最初のほうの本文に説明すればいいし。
ID:nlB28F8T0
本当に君はこの人なのか?
宗教だと認識されたくないのにも関わらず信仰の話をするとは
これまた矛盾してないだろうか? スレ立て者だよ。
タイトルや序文では
「本スレはこちら(宗教話題NG)」
「ここは宗教的話題も可」(元々マインドフルネス=宗教なら 「宗教的話題も可」なんて表示するわけない)
こういうことを示すべきってこと。
(「瞑想 マインドフルネス 仏教」ってスレタイを提示した人がいたから。)
後は要するに白黒じゃないってことでしょ。
瞑想とかマインドフルネスの話自体をしなさすぎるのも変だし、
「こっちでは宗教色の強い話可です」って書いてるのに
「『信仰』話は絶対NGです!」も変だし。
そしてマインドフルネスに関係のある宗教の話を『信仰』を排した『概要』とか心理学の枠組みで厳密に語るスレが必要なら
別に作ればいい。
あと結局まだ「信仰」の共通定義すら全然定まってないね。 ・マインドフルネスに「信仰」の要素はあるのか?
・マインドフルネスの話自体をもっと絡めて語ろうよ
・「信仰」とはそもそも何か?
いろいろな話がミックスされてたわけだ。
そしてこのスレを「信仰話NG」にしたとしたら
そういう議論、話自体そもそもスレチになってしまう。 信仰は狂信とか盲信って言ったら分かりやすいと思う
それのみを鵜呑みにして他の意見を取り入れなかったり、受け入れないこと。
仏に逢うては仏を殺せ
という有名な言葉がある マインドフルネス信仰
(宗教色排除主義 科学エビデンス主義)
マインドフルネスに会ったらマインドフルネスを殺せ
なんつって 別にこっちのスレだったら何話してもかまわんと思う
納得いかないこと言ってたら質問するし
適当なことを語ってたら馬鹿にするし
いいうんちくが出てきたらワクワクして読むし
極端に脱線してたら他所へ行けってクレームつけるし
救えないと思ったやつは無視するし >>218
>>216だけどそういう意図で建てたならならここでそういうこと語ってはいいと思うけど
そうならテンプレは根本から変えたほうがいいと思う
マインドフルネスの元の思想を書いたり
歴史を簡単に紹介したり ID:Iil//OAgさんへ
マインドフルネスの背景にある理論は、思いと自己が同化していないことです。
思いに振り回されず、苦悩をもたらす思考に同化せず、ひたらないわけです。
そして思いに支配されず、根拠、証拠をもとに思考すればいいのですが、
そういう思考でさえも、執着同化、自己意識付与させないわけです。
弊害の例として、ある精神的な見解、認識の立ち位置に執着、同化していると、
違う考えの他者に、排他的、偏見、差別、攻撃にも繋がります(自称無我さん
のように、反面教師ですね。彼は後世の変容思想と同化した信者です。)
思想、観念、思い込み、見解、偏見、先入観、妄想、信念体系、、
それら思いの束縛からの解脱が、根本仏教の教えになります。
なぜ同化していないことが適切か、それが無我(非我)の教えでして、
その理知的な教えは、科学とロジックを共有できるとノーベル賞の科学者も
支持されてます。そして理論理解だけでなく、体得が必要で瞑想実践がある
わけです。
ええと、カバットジンさんは、最初禅、ヨーガ(どちらもヴィパッサナより
サマーディ中心)に携わりましたが、後にヴィパッサナー瞑想の瞑想センターで
実践をして効果を感じ影響を受け、マインドフルネス療法を創設しました。
このヴィパッサナー瞑想を中心に行じているのが上座部仏教です。
この上座部仏教が依処する原始仏典には、根拠のない信仰を捨てなさいとまで
説かれています。一般的に信仰は、証拠、根拠抜きで信じたり確信を持つことです。
この初期仏典には、構造原理のしくみが分かる教え根拠があり、構造原理のしくみが
不明な、例えば、祈れば救われるといった類の信仰宗教とは異なるわけです。 >>225 は2号クンという病人です。まともに仏教の勉強などしたことはなく、自分の神経症が治っていないにも
関わらず他人に神経症の治し方えお教えようとする異常者です。
2号クンはエックハルト・トールだの、リンポチェだの、カバット・ジンだのと次から次へとスピリチュアル系
の指導者を渡り歩いて、何とか自分自身の神経症を治そうと一生懸命です。
それでいて、一方では仏教で神経症が治ったと言って他人を指導しようと浅はかな書き込みをしているのです。
本当に仏教で神経症が治っているのなら、他のスピリチュアル系指導者などを探し歩く必要などないことにも
気が付かない知性の低い人物です。
彼は原始仏教の入門書しか読んでおらず大乗仏教の専門書などは一冊も読んでいないのですから、そもそも
仏教について語る資格などはありません。大乗仏教を 「祈れば救われるといった類の信仰宗教」 だと考えている
のですから、知能は中学生レベルと言ってよいでしょう。 >>226
毎度、憶測、妄想、そしてレッテル貼りという認知の歪み露呈してますね。
法華経、般若心経、浄土教等解説できますよ。
ここは大乗仏典を語る場ではないのです。
原始仏典を読んだことない貴方だから、宇宙意識と合一が仏教と平気で説く
わけです。で、サマーディで悟りに至ると言う人が、何でマインドフルネス、
ヴィパッサナー瞑想のスレに難癖に来るのでしょうか。ここは、貴方の盲信する
宗教の布教の場所ではないのです。ラジニーシでググるとオウムと似たような
グルの思想があって、貴方はカルトに影響受けてるわけですね。 >>227
>法華経、般若心経、浄土教等解説できますよ。
君の解説(?)は入門書を読んで解ったつもりになっているだけの内容なので何の意味もないです。
君のような仏教の素人は間違った仏教理解を持ち続けている人が非常に多いですが、自分だけで
とどめておくのならそれも自由です。しかし、間違ってもそんなデタラメな理解を他人に教えよう
などとしてはいけませんよ。大変な罪になりますから。
君の神経症がいつまでも治らないのは、君の仏教理解が間違っているからだということに気付く
ことが大切です。今のままでは君は永久にあちこちのスピリチュアル系の指導者を求めてさまよい
続けることになりますよ。仏教の教えが本当に解って神経症が治れば、マインドフルネスなどは
どうでもいいものであることが解るのですよ。 >>229
貴方の石にも意識体があるとか、トンデモ仏教を他人に布教
しないことです。
貴方が鵜呑み盲信して洗脳され、ヒンドゥ化した大乗ファンタジーに
染まった古い頭なのは、分かりますが、似非仏教を教えないことです。
某スレでは、貴方に矛盾を指摘しても逃げるばかりでした。
思想に執着同化して自我構築している貴方が、無我を語るというお笑いです。
後世のファンタジー思想より、増上慢の意味を学習されたらいかがかな。 >>230
君は仏教をきちんと勉強したことがないから分からないのです。
君の仏教理解では神経症は治りませんよ。根本的に間違っているからです。
神経症を本当に治したいのなら、きちんとした師匠に就いてゼロから学び直すことです そもそもの人の知覚感覚が自己信仰自己洗脳
自己洗脳を解くのは難しい。
「お化け屋敷のお化けは偽物。 100%安全。」と頭で考えたら怖さが消えるだろうか。
「そもそもの人の知覚感覚が自己信仰自己洗脳 」と頭で考えたら不安やストレスが消えるだろうか。
頭で理屈で。
っていうことには限界がある。
それは一つの正解だろう。
・・お化け屋敷の前で瞑想してたら怖さが消えるだろうか。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>232
本能的な身の危険等と感じる怖さは、消えないですよ。
それを消すのがマインドフルネスではないです。
自己と思考が同一化していない、脱同一化なだけです。
思いの否定でなく、思いがあっても同化していないのです。
理屈ではなく、気づきのない思考なだけです。
自己とは別物であることが分かれば、自己のものと意識付与同化
する必要あるでしょうか。
思考と自己が強固に同一化しているうちは、苦悩にひたるでしょう。
体得していないうちは、あれこれ考え、観念的思いに振り回されているのです。 仏陀は殺しにきた殺人鬼も帰依させたので、そのレベルへ行きたい >>233
>自己と思考が同一化していない、脱同一化なだけです。
その程度の理解だから、君の神経症は治らないのです。
君はそう思い込むことによって心の自由を得ようと一生懸命ですが、
それも自我のはからいに過ぎないのです。
自分の神経症がきちんと治ってもいないのに他人にいい加減なことを
教えようとしてはいけませんよ。 >>235
あのね、一つだけの教えで、それが全部ですなんて言ってないの。
分かりやすく書けば、代表的な重要な教えの一つです。
無我には複数の説明の仕方もあります。そして原始仏典では自利、利他、
慈悲を説いてます。
こんなとこで教えを全部長文書いてたら迷惑になるし、簡略的になるでしょ。
貴方の宇宙意識と合一してワンネスなんだと、ヒンドゥーの
教えとは異なるのです。けど部分的に共通する教えはあるのよ。
しつこいね、神経症というレッテル、自分のことでしょ。ここでなく貴方が好きな
森田スレで説いたらどうかね。カルトと相手にされないからって、こっち来なくていい。 >>236
君が神経症のド真ん中にいる人間であることは明らかなのだよ。
自分自身が治ってもいないのに、他人に教えようとしている君は病気なのです。
他の神経症の人の役に立たないどころか大きな迷惑になるでしょう。
他人の為になりたいのなら、先ず自分自身の神経症をきちんと治してからにしなさい。
前にも書いたように、君の仏教の理解では神経症は治りませんから、仏教について
きちんと学び直すことが必要です。
「宇宙意識」 などという言葉も禅の指導者が日常でよく使う概念なのだが、君は師匠
について仏教を勉強したことがなく、中村元のような頭だけの仏教学者の本しか読んで
いないので理解できないのです。君は仏教における説明はすべて 「ヒント」 だという
ことも知らず、何か正しい説明というものが存在すると思い込んでいるんだね。そして、
それを思い込もうと一生懸命になっているんだね。そのようなレベルだから神経症も治ら
ないのです。 仏教哲学の思索だけで精神病はマシになるか、否ならない。
古代からの瞑想の実践と
現代の薬学を上手く使えばよい。
こんなところで悪態をつくだけ時間を浪費してどうなるというのか。
考えて頂きたい。 >>238
私は悪態をついているのではないのですよ。
>>236君が本当の仏教の教えも知らずに間違った理解をしていて、それで神経症が治るかのような
嘘を書いていることを批判しているのです。彼は自分自身が治っていないのだから、そのような
間違った理解は書くべきではないのです。 >>329,326
傍目には何が論点になってるのかわかりません
憶測でレッテル貼り合ったり、論点の無いまま否定し合ってる、頭の程度が残念な奴らに見えてますマジで
他の人にも状況が分かるように二人とも下記のQ1〜4に答えてくれない?
Q1. 過去、神経症でしたか?
Q2.現在、神経症ですか?
Q3.〇〇をすると神経症が改善する、といった主張をしたいのですか?
Q4.
でQ3がYesなら簡潔に論旨を説明してください
Noならその主張を簡潔に説明してください インタビュー:ポール・マッカートニーが超越瞑想について語る
http://www.tm-meisou.org/blog/archives/247
ポール・マッカートニーが受け取ったメッセージ「人生を楽しみなさい」
http://www.tm-meisou.org/blog/archives/6600
ポールマッカートニー:超越瞑想は一生の贈り物
http://tm-meisou.jp/paul-mccartney/
リンゴ・スター
「最後にマハリシと過ごしたのは、40年以上前、リシケシでのことでした。
その数ヶ月前にも、ウェールズでマハリシと会いました。
それ以来、あるときは頻繁に、あるときはわずかに瞑想してきました。
マハリシが私にくれた贈り物は、マントラです。
マントラは瞑想のときに使う言葉で、誰も私からそれを奪うことはできませんでした。
それは、これまでもらった贈り物の中でも、最も貴重なものの一つです。」
http://tmsite.blog40.fc2.com/blog-entry-684.html なんだよリンゴスター
そのマントラよこせよ
リンゴを落とすようにポンとこのスレに落とせよ
出来ないならただのリンゴだろ >>242
http://i.imgur.com/tfMmi3i.jpg
個別指導の原則によりリンゴに与えられたマントラはリンゴにしか使えないと思われ みんなスターなんだお
みんな違ってみんないい
リンゴかじりながら誤魔化しながら常識の範囲で汗かいて進むのも人生 言葉遊び 80
意味 哲学 20
80:20の法則 感情 プライド 80
論理 意味 哲学 20
>>90
感情 プライド 40
強い信念信仰 40
論理 意味 哲学 20
>>92 素直な興味関心 内容 実践 60
違いを認め合い感情的にならず、必要なら別スレを用意する冷静さ
ストレスではなく心地よさ 30
感情 プライド 10
議論上手への道
・白黒ではなくジンテーゼを探る
・変な揶揄や否定調を控える
・論理<感情 という心の負のシステム(傾向)をわきまえ、翻弄されない
・「みんな違ってみんないい」、
必要なら別スレを作る、個別のブログなどを作る やっぱりというかなんかマインドフルネス関係なくなっていってるあたり
荒れ回されてしまったな
板が板だから仕方ないのかもしれないけど 幻聴が聞こえたら幻聴をそのまま脳内で繰り返すヴィパッサナー的マインドフルネステクニック >>237 >>249
人は外的なモノで心を満たそうとする(貴方の生き方もそう)
1→欲求に応えてくれるモノ、望みを叶えてくれるモノ
所有物、地位、評価、快楽、宗教思想、○○主義、超越瞑想(ヴェーダ、ヒンドゥ有我論)、、
2→渇愛が高じて固着化し、ハマり込む
3→自己意識強化(自我強化)
固執して、確固たる信念としているので、異なる者に排他的、偏見、差別
しかし1は、どれも一時的、一定期間の心の満たしで無常、
永続的な満足がない。渇望し続けている。
そこでブッダの教え、我がモノと執着同化せず、我執の克服
繋縛の自己の解放、束縛された思考でなく、今ここの事実、マインドフルネス
禅も無位真人、非思低量、前後裁断、ここまでは同じだが、中国老荘思想と融合、
タオ「道」、単一の実在が根源によって万物が生じる発生論的一元論。
只管打座し無と化して宇宙意識(=タオ)に帰一=ヒンドゥ梵我一如 >>252
君は自分の神経症も治せないような間違った考え方を他人に教えてどうするつもりだい?
まともに仏教を勉強したこともなく、思想・仏教の入門書しか読んだことがなく、しかも
自分の神経症も治せていない人間が他人に何を教えるというんだい?
仏教が分かったように思っても神経症がそのままなら、その仏教の理解は馬鹿馬鹿しいもの
だということに気付くことが大切です。 >>249
いや効果があるとかないとかじゃなくて明らかにスレチでしょ
話したいなら別スレ立てて >>256
じゃあ言わせてもらうが超越瞑想はシステマチックレビューにおいて
効果がないとされてるのはどう答えるの?
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/20556767
そして出している実験が多くのバイアスがかかっているという批判にはどう答えるんだ?
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/15480084
少なからずメタ分析だけじゃ信用できない
それはまだ出版バイアスがかかる余地があるし >>253
釈迦が否定したバラモン教のヴェーダ超越瞑想でしょ、
有我論だし、永続的満足なく渇望し、
愁、悲、苦、憂、悩、の苦悩の根本解決にならないってこと。
そこまで書かないと、マインドフルネスは貶められるよ。
バックに釈迦仏教があるのに。 >>257
そんな青筋立てて英語での論文まで引っ張り出して反論するなやw
バイアスなんて言葉を持ち出したら切りがないしな
あんたが超越瞑想よりもマインドフルネスが良いと信じるならマインドフルネスのやり方で瞑想すれば良いだけのこと
マインドフルネスの効果に疑問を感じた人には超越瞑想というやり方もあるという話なだけじゃないか
>真我の探求に困難を感じる人などには、他の修行の道を否定せず、
>自身が最も行いやすいと感じる修行をすればよいといい、様々な修行にも寛容な態度をとった。
(ラマナ・マハリシ)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B7
>多くの宗教を遍歴したラーマクリシュナの教えは非常に寛容なものである。
>世の中の様々な宗教は究極の一なる神がそれぞれの時代と人に合わせて現れたもので、各々が意義を持つ。
>究極の一に至るために人は自分に合った道を行けばよいという。
>彼は「宇宙の母なる神は子供たちのお腹に合うように料理を作って下さる」という喩えを用いている。
>子供の消化力や好みに合わせて母親が色々な料理をこしらえるように、神は国と時代と容器(人の理解力)に応じて色々な宗教を作るということである。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A
マハルシやラーマクリシュナを見習って寛容になれや
>>258
上に同じ
あとお前はセリフの半分は煽りのようだから余計に相手にしない >>259
そちらも科学的根拠(笑)を出してたのによくいうぜ >>259
つーか反論として出されたソースを読みもしないのな
マントラ唱える瞑想は薬物療法と同じぐらいADHDに効くかも、とも読める内容だから反論の余地あるぞ >>261
そうかもしれないけど
超越瞑想は一部変な団体とか研究者が研究しててバイアスがかかってるという指摘もあるので
システマティックレビューとかに照らし合わせないとどうとも言えない
今のところシステマティックレビューでは健康教育やリラクゼーションと効果は変わらない程度らしい >>262
もちろん>>251の根拠が胡散臭いってのは同意
このスレはまあ、あのレベルの根拠でも美味しく肴にしてもいいのかもしれないけど >>263
まぁここじゃそういうのにひとつひとつに突っ込んでたら日が暮れるし
笑い飛ばせるぐらいの器量は必要かもな >>257
上のリンクの翻訳
http://www.excite-webtl.jp/world/english/web/?wb_url=http%3A%2F%2Fwww.ncbi.nlm.nih.gov%2Fpubmed%2F20556767&wb_lp=ENJA
(超越とかTMの文字はなくただ瞑想(原文Meditation)の文字があるのみ)
下のリンクの翻訳
http://www.excite-webtl.jp/world/english/web/?wb_url=http%3A%2F%2Fwww.ncbi.nlm.nih.gov%2Fpubmed%2F15480084&wb_lp=ENJA
(超越瞑想と血圧の関係のみの論文しかも2004年のもの)
http://tm-meisou.jp/compare/
2007年に、米国の国立衛生研究所の委託によって、高血圧に対する代替治療の効果の分析が行われました。
その結果、統計的に有意な効果が認められたのは超越瞑想だけでした。
これらの調査結果を受けて、最近、米国の心臓病学会は、TMは高血圧の治療法として処方することができるという助言を医師たちに発表しました。
TM以外の瞑想法(マインドフルネスやヨガの瞑想法)は、それが効果的であるという確証が得られなかったために推薦はされませんでした。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E8%B6%8A%E7%9E%91%E6%83%B3#cite_note-.E3.82.B3.E3.83.BC.E3.83.AF.E3.83.B3-12
2013年に、アメリカ心臓協会は、様々な種類の瞑想法やリラクセーション法を対象にした最新の臨床試験を検討し、
「血圧を下げる代替的アプローチ」と題する報告書を発表した。
高血圧の治療法として、他の運動や機器の誘導を用いた呼吸法の方がより効果的でより良い臨床データがあるとはいえ、
超越瞑想も検討できるだろうと述べた。[144]
その報告書の中で、瞑想法の中では血圧を下げる効果がある可能性が確認されたのは超越瞑想だけであり(超越瞑想の評価:クラス IIb, 証拠レベルB)、
その他の瞑想法は推奨するための科学的証拠が十分ではない(他の手法の評価:クラスIII、証拠レベルC)と述べられていた[145][146]。
2015年のシステマティックレビューとメタアナリシスでは、研究の根底にバイアスの危険があり、
より優れた研究デザインによるより良い研究が必要とされているとはいえ、対照実験で血圧を下げる効果がある可能性が見られた。 >>266
それはすごいね
でもマインドフルネスとの比較してないからスレチだね >>267
>でもマインドフルネスとの比較してないからスレチだね
それは>>257に言うべきだね。 このスレはマインドフルネスと宗教のスレだけど
マインドフルネスと超越瞑想を比較して語ってるということは
超越瞑想=宗教ていう解釈でok? 教えて下さい。【超越瞑想TM】について!旦那がしたいと言いだしました、聞いた所5回通って25万円するとの事です。
私は高すぎるので詐欺ではないか?と言ったのです... #知恵袋_
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11123822986 >>270
どういう因果なんだろうかね
てかここでこんな科学的な話していいのかわからんが
精神的なもので超越瞑想が高血圧を抑えていると仮定しても
超越瞑想は心理的ストレスにおけるシステマティックレビューで効果がないと言われてるから
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/24395196
じゃあ肉体的なものなのかなぁ?
難しい
これからの研究次第だけど >>273
小難しいことよりもどちらも効くと思って瞑想すれば何がしかの効果はある
効かないと思って無理にやっても殆ど効果はない http://www.ejim.ncgg.go.jp/public/overseas/c02/07.html
マインドフルネス瞑想と超越瞑想(またはTM)は共通点の多い瞑想法です。
NCCIHが支援する研究プロジェクトでは、この2種類の瞑想法を研究しています。
マインドフルネス瞑想は仏教の重要な要素です。
マインドフルネス瞑想に共通する技法の一つでは、瞑想者は体内に出入りする呼吸の流れの感覚に意識を集中するよう教えられます。
瞑想者は今経験していることに反応したり判断したりせず、注意集中することを学びます。
これは、日常生活において瞑想者が思考と感情のバランスや、受容を高めるのに大変役立つと考えられています。
TM法はヒンドゥー教に由来します。
この瞑想法ではマントラ(静かに復唱する単語、音、または語句)を用いて心に入り込む雑念を追い払います。
TMの目的は開放された気づきの状態に達することです。
瞑想法が異なれば、脳生理の状態も異なることが判明
http://www.tm-meisou.org/blog/archives/720
瞑想中に起こる超越の体験と脳生理の研究
http://www.tm-meisou.org/blog/archives/6764
TM(超越瞑想)の労働者の精神健康への影響
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006737510
ヴェーダの伝統とブッダの教え
http://maharishi.web.fc2.com/letter62.htm
>マハリシ(・マヘーシュ・ヨーギー)は、ブッダの教えについてあまり多くを語ってはいませんが、
>バガヴァッド・ギーター注釈の序文のなかで、ブッダの教えは完全であった、と述べています。
ブッダについて − 神についての沈黙、八正道、ニルヴァーナ、無執着
http://arunachala-saint.blogspot.jp/2012/11/blog-post.html >>276
暗示が完全にないというのもアレだが
実験ではそれをできる限り排除して
結果を出してるから
それだけってのもないと思う てか超越瞑想って宗教なの?
科学なら本スレで事足りるのでは? 議論用の隔離スレなんだから本スレ移動して迷惑かけたらいかんよ
ここは宗教「も」OK >>280
いや宗教okってのはわかる
こっちが気になるのは超越瞑想は宗教なの?って話
調べても宗教だみたいなのもあるし
いや治療法だみたいのもあるし
よくわからなくて 本スレでやると
「マインドフルネスじゃないから別館行け」
と言われるに100ガバス >>281
簡単に書けば、
マインドフルネス→仏教の瞑想を抜き出したもの
超越瞑想→ヒンドゥー教の瞑想を抜き出したもの
この超越瞑想のマントラは、ヒンドゥ大好きなオウム真理教もやってた。
そして支持させるために科学研究してこじつける(バイアス入りの結果が出る) >>281
マインドフルネスみたいに明確な分離を意図してないように見える
「明確な分離」と言うのは、>>1に書かれてるように教義不要のシンプルな成立要件とすること、と勝手に定義しとく >>284
ポールマッカートニーもリンゴスターもブライアンウィルソンもキャメロンディアスも
超越瞑想を実践した後もキリスト教のまま。
第一、一々ヒンドゥー教への改宗を必要とするのならアメリカや日本の企業などで導入されない。 >>286
成立要件?
瞑想に成立要件が必要なの? 神への信仰とかマントラとかの様式こと?
ならばマントラか。 >>287
何をもって「超越瞑想」と呼んでいいか、という定義のこと >>289
超越瞑想で検索すれば君が求める回答がきっと見つかるだろう >>290
ぐぐって調べてみた
Wikipediaからだけど「マハリシ財団が認定するTM教師の資格を持つ指導者から直接学ぶ必要がある」とされる
この手の要件が入ってくるのはちょっと抵抗あるなあ >>291
そういう人はマインドフルネスとか選べば良いよ。
ラーマクリシュナ
「万教は同根。真理にいたるにははしごでも縄でも
階段でも、どのような道を辿ってもたどり着く。
無相の真理、有形の神、どちらも正しい。
その人に相応しい形をとって現れる。
大事なのは熱烈に求めることだ」 >>292
まあそんなわけで>>281に対しては「宗教とは分離してない」ってことだよな >>293
ジャイナ教的に言えば、ある点から見ると宗教とは分離してない、というべきだな。 >>292
正体露呈したね、真我と神意識と一体を目指すヒンドゥー信者のようだね。
オウム真理教カルトの連中も超越瞑想を行っていた。
特別な体験が真理到達ではないと、釈迦ブッダは否定していた。
そして真我でなく無我を説いた。
オウム連中幹部の反省派は、根本仏教を学ばず軽視していたのが、すべての原因
とレポートしている。
同じだな、瞑想という体験主義に固執、実は真理ってそういうことではないって
釈迦も説いているのよ。マインドフルネスは、特別な体験に導くのと異なるのね。
だから貴方は、仏教の教理の話はスルーしてたわけ。ここで瞑想に理解あるからと、
勧誘宣伝布教は、やめような。
ググると、
超越瞑想は初級から中級までいくつか段階があり、上級では坐ったまま跳ねる空中浮揚の
技術なども伝授される。とある。空中浮揚ね、麻原教祖がジャンプしてたね。 マインドフルネス別館なのにどんどん別の瞑想ネタに誘導していくから匂うとは思っていた >>295
君のような原理主義者とは付き合いきれない。
何処までが原理主義者を装ったネタで喋ってるのかも分からんしなww
オウムの教義とかよく知らんが超越瞑想を修行法に取り入れた(真似した)だけじゃないの?
マハリシと麻原は交流でもあったんかいな? ジャイナ教の瞑想法も発見した。
こちらは超越瞑想とは真逆でかなり高度な瞑想法のようだ。
http://jp.preksha.com/index.htm とりあえず「超越」でNGかけます。
以降は別スレでやれや 無我さんとTM瞑想押しの人は別人でしょ。
無我さん
・仏教の経典を読んでいく
・宗教体験のある高僧のお話を聞きにいく
・瞑想
→
宗教体験
→
神経症が消える
TMさん
・TM瞑想はTM瞑想の専門家の元で学ばないとだめ
2号さん
・根拠なき信仰や超越体験ではなく、科学や理知の範囲内である、仏教の無我の教えこそ本物
瞑想と合わせてそこを学ぶべし
マインドフルネス派
・マインドフルネスで良くね?
が良くね?
そもそも瞑想してない派
・1分と続きませんわ マントラ唱えながらっての
お坊さんが(木魚叩きながら)お経読むのと似てるよね?
あれはあれで良いんじゃない。 >>301
体感としては特に嫌いじゃないです
雑念受け流すのが楽になる感じ
マインドフルネスって雑念はあんまり関係ないけど >>295=2号
は同じ内容を何度もレスすることによって
「仏教徒と言うのはこんなに心が狭く頭が固いんだぞ」
ということをアピールしている反仏教徒だからみんな間違うなよ まあまあ・・
2号さんには、
無我と瞑想の関係性、
無我を頭でっかちなものではなく「体感」にする「実践」とは何か?
について説明してほしい。 超越瞑想の議論はスレチでは?とも思ったが
2号さんと無我さんとの議論に比べればよっぽど建設的で面白い議論だから
別にいい >>303
私はテラワダ仏教徒ではなく、宗教知識を持つ趣味人に近いかもね。
切っ掛けは、苦悩から縁があって、仏教の教えに助けられたことは確かです。
片っ端から宗教系スピ系、学者の本を沢山読み、どれが本当のこと教えてるか
見えるわけ。そして仏典に沿って外道と定義しているものは、外道(否定の意味でない)
ですと指摘しているのね。自説でもなく複数の著名な仏教学者の見解とも一致
しています。貴方の観念的思いの私への差別は、仏教ではないでしょ。 2号という人は神経症なのです。
仏教の無我によって神経症が治ったと言いながら、いろいろなスピリチュアル系の瞑想法を
漁り続けています。つまり、彼は仏教によって神経症を治すことが出来ていないのです。
彼は「理屈では根本仏教の教えで治るはずだ」と信じようとしているだけで、実際には心の自由を
求めてさまよい続けている人なのです。
私(無我)は仏教の無我を知って本当に神経症が消えたので、他の瞑想法を試す必要を感じません。
マインドフルネスについても、創始者が禅の修行をした人だということで興味を持っただけです。 >>304
それをここで書きますと、自称無我氏が出てきて、間違いと邪魔しに
きますので。彼とは最初、一致する面ありましたけど、原始仏典の話を
出してから、どうも後世の天台主観の観点に洗脳されている方なので、
気に入らないようです。ほら307のように、憶測、妄想、レッテル貼りきたでしょ。 いやどうぞ語ってください。
瞑想のスレですし、
無我さんは専用スレがありますし。 >>306
私が2号という人を批判するのは、彼が仏教というものをきちんと勉強したことがなく、仏教で神経症が
治った訳でもないのに、自分勝手な仏教の理解を他人に教えようとしているからです。
仏教というものは大乗仏教を学ばなければ本当には解りません。中村元のような頭だけで仏教を考えていた
ような学者の本を読んでも仏教の精髄は理解できず、神経症が治ることもないのです。 >>303
自分もそう思ってたよ。
原理主義に固まったネタを投入しては仏教をもてあそびアンチを増やしている存在だとね。
>>306
君のほうこそ仏教じゃないでしょ。
死によってこの世の全てを失う人間が、捉われを持って、あれこれと論争するのはむなしいことというのが釈迦の教え。
君はアンチ仏教だから釈迦の教えに叛いているんだろう。
己の立ち位置に忠実な点では認めるよ、それしか認めるところはないがww
824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えが清らかでないと説く。
「自分が依拠しているもののみを善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。
825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を<愚者である>と烙印し、他人(師など)をかさに着て、論争を交わす。
──みずから真理に達したものであると称しながら、自分が称賛されるようにと望んでいる。
(Sn.第四章 8.パースラ) >>310
2号は中村元はあまり参考にしてないな
中村元は無我説ではなく非我説でブッダは我を否定してないと主張しているし >>311
論争をしかけてくる人がいるから、根拠と説明をしているだけです。
自説や主観で語っているわけでなく、こういうものですと示しているだけです。
そして聖者ぶる必要もなく、ここは2ch、スマナサーラもそれが事実なら、
大いに話し合ったり根拠を示して下さいと教えてます。(私はテラワダ教ではないけど)
原理主義はイスラムのイメージでレッテルを貼るのでしょうけど、
電車は正しい原理で目的地へ動く、その原理を勝手に変容させて観覧車にして
目的地へ行けなくなっていいのですか。(スマナサーラ流の説明)
貴方は自分の心の分析、内省もせず、単なる瞑想体験主義で自我強化しているだけと
観察したらどうだろ。そこだけ仏典から引用して、攻撃材料とするのも的外れですね。 >>313
こちらは君に論争を挑んではいない。
その一言で終了だな。 >>312
(他スレで)2号君は中村元の仏教書を沢山読んだと書いていましたよ。
要するに、彼は仏教について何も知らない人だということです。
>>306 では謙虚になって「宗教知識を持つ趣味人に近いかもね。」と
書いているが、以前は滑稽にも仏教の専門家気取りだったので、最近は
少し反省しているのでしょう。 >>304これを説明出来る何かを特に持ってないのかなあと勘ぐってしまいます・・
「マインドフルネス瞑想だけではなく仏教の(理知・科学の範囲の)無我を学ぶと良い」と言い、 「思考との脱同一化」など、その説明をするが、
実践や瞑想との結びつき方など具体的な話がなされない印象です。 お二人さんはトリップつければ?
後ろめたいことがあるからそうしないんだろうけど >>316
彼は何も解っていないのです。
彼自身が神経症から自由になろうと模索している最中の人ですから。
@さんからアドバイスを求められた時も、彼は役に立つことは何も話せなかったでしょう。
彼は自分自身を神経症から自由にしてくれない考え方を、あたかもそれが役に立つかのように
他人に話しているので、詐欺師のようなものです。 >>316
2号です、そしたら、例えば、ダウンロードできるもので、
・ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図
テーラワーダ僧侶、ウ・ジョーティカ(Sayadaw U Jotika)著
http://myanmarbuddhism.info/2013/01/10/22/
を参考にして下さい。けど私はこれに固執しているわけではないですよ。 2号くんは神経症が治っておらず何も体験として解っていないので、自分の言葉で説明することが出来ないのです。
いつでも、誰か他の指導者の名前を挙げて、「その人の本を読んで下さい」 で終わりです。いつものパターンです。
詐欺師と同じです。 >>315>>318>>320
しかし自称無我氏は、言いたい放題ですね。
某スレで示したことに反証できず、よっぽど悔しかったのかな。
あなた様を慈しみます(笑)、貴方は貴方の信仰でご自由に。
貴方も大乗の専門書を読みなさいとしか書かないでしょ。 >>321
>某スレで示したことに反証できず、よっぽど悔しかったのかな。
何のことですか?
ここで具体的に書いてごらん。
きちんとで説明してあげますよ。
>貴方も大乗の専門書を読みなさいとしか書かないでしょ。
私は私自身の言葉で神経症の治し方について膨大な量の説明をして来ています。
いろいろな過去スレを調べれば分かるはずです。 君ら「俺は雑魚じゃない。お前が雑魚」て延々言い合ってるだけだぞ
論点を明らかにできんのか? 『俺は雑魚じゃない。お前が雑魚。』
で2chの70%(当社調べ)が占められている現実は、
人間の心及び人間とインターネットの関係の摩訶不思議さを示している。 >>324
何を議論してるんだろうな
読んでみても論点がコロコロ変わるからよくわからん >>325
どんな議論もそういうのに陥る可能性は秘めているけど
ネットではそうなる可能性が大きいよね
そもそも議論というよりちゃんとしたディベートとかではジャッジっていうのがいるけど
それがないってのも大きいかもしれない >>326
仏教は科学理知VS仏教の核心は超越体験 >>329
そもそも議論しているときに使う仏教が何を意味するのか?ってところから始めなければいけないと思うが
議論において使う言葉が厳密に何を意味するのか設定して互いにそれを認知するのは大事だし
まぁ俺が二人の議論で使われてる仏教を理解してない可能性もあるからこの批判も的外れなのかもしれないけど >>330
まぁ科学とかも
あくまで証拠に基づき確率を評価するというものだから
あくまで断定しないっていう姿勢は大事だと思う >>332
そもそも議論自体が勝ち負けではないと思うぞ
議論っていうのはあくまで互いの論点の良い点悪い点、対立点を明らかにして
互いに互いの意見を認めるとまではいかなくとも一定の理解を深めるというのが目的だと思う
まぁ2chでされてる議論はこういったものではないと突っ込まれそうだが一応書いとく
第三者ならともかく
相手を説得させるのに議論は冗長すぎるし 科学的世界観と
宗教性や神秘性のこと
というのはハイブリッドな在り方が可能だと思う。
そのすべてを同じ土俵に置こうとすると無理やひずみが発生するのではないか。 >>335
ええと、あなたは、MZさんでしたっけ、
科学対神秘という構図ではないですよ。
マインドフルネスのルーツの根本仏教への大乗ぞっこんの人からのアタックなだけで、
彼はまだ五時八教を信じてて、根本仏教は×とどこかで洗脳された視点ですので。
今の大乗の僧は学術的にはそういう認識はなく、過去そういう経緯の歴史があった
と認識してますし、初期仏教瞑想を紹介したり交流もありますからね。
まぁ2ちゃんねらーレベルですから、創価の洗脳された頭の人が
法華折伏破権門理と言ってきてる人と変わらないですよ。 A. ブラフマニズム:梵我一如
梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。真我
B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如
無梵:空・シューナター・虚妄
無我:アン‐アートマン;ニルワーナ
C. ブディズム:仏仏一如
仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
仏:如来蔵・ブッダター(仏性)
D. クリスチアニズム:霊霊一如
霊:神・聖霊
霊:《神の宮なるわれ》
E. (プラトン?):霊霊一如
霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
霊:《われ》
F. 《もののあはれを知る》
霊:かみ(自然および超自然)
霊:われ(自然本性)
つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。
だから 後世の人たちは ブッダターを立てた。
これは アートマンのことである。 >>321 >>336
>>某スレで示したことに反証できず、よっぽど悔しかったのかな。
2号くん、 ↑ はどうなったのかな? 早く具体的に書いてごらん。
仏教の入門書しか読んだことのない君が、大学の仏教学科を出た私と
仏教の議論が出来ると思っているのなら、きちんと書いてごらん。
しかし、君の一番の問題は仏教をきちんと勉強したことがないということではなくて、
神経症が治ってもいないのに治ったフリをして他人に何かを教えようとする異常さなのだよ。
普通の人間はそんな異常なことはしないからね。
君は仏教の無我が解っていると言っていたよね。それなら、神経症などはとっくに治っている
はずだし、>>319 のような冗長な教えなどまったく不要なはずだよ。君がそのようなサイトを
漁り続けているということが、君が神経症が治っていない証拠にもなるのだよ。 「坐」より「禅」が重要だという人がいますが、本来の坐禅は一つです。
身(姿勢)と心(境地)、修行と悟り、これらが2つに分かれる以前にあるものが坐禅です。
それを二つに分けてしまったのが天台の「止観(しかん)」です。
道元禅師の時代に日本にあった坐禅は、この「止観」の方法ですが、それに行き詰まった道元禅師は中国に渡り、
やがて本来の坐禅(二つに分かれる以前の坐禅)に出会い、それを日本に伝えました。
今年の五月の「大人の修行」にも書きましたが、天台宗にあった「摩訶止観」や「天台小止観」の教えは、
道元禅師が中国から帰って書かれた「普勧坐禅儀」よりボリュームは比べられないほど大きいですし、中身も深いと言わなければなりません。
では、道元禅師はどうして「止観」を捨て、「只管(しかん)打坐(たざ)」を説いたのでしょうか。
それは、坐禅を「止(し・身体がじっとしている姿)」と「観(かん・心が覚めて真理を見極めること、思量すること)」に分解して実践しようと思っても、実践できないからです。
現に天台の学僧たちは「止」を次元の低いものと見なし、「観」ばかりを強調してきましたから、
その「観法」は空洞化してしまい、やがて本物の坐禅は伝わらなくなりました。
今の南方仏教でも坐禅の実践方法として「サマタ(止)」と「ヴィパッサナー(観)」の二つがありますが、
同時に行うのではなく、10日間の接心で「サマタ」だけを修行する人もいれば、専ら「ヴィパッサナー」に従事している人もいます。
こうした偏った「修行」が釈尊の菩提樹下の坐禅と関係がないのは、いうまでもありません。
尊は王位を捨てて出家したわけですが、6年間の猛烈な修行に行き詰まりました。
しかし、還俗の道も選びませんでした。木の下に腰を下ろし、身も心も放ち忘れた…ここに仏祖正伝の坐禅の出発点があります。
日本の仏教をこの正伝の坐禅に戻したのは道元禅師ですが、それが中世以降に再び乱れたため、
澤木興道老師が20世紀にそれを再確認し、日本にそして世界に広げました。
それは「心を観る“禅”」ではなく、本物の「タダ坐る禅」です。
http://antaiji.org/ja/dharma/okumura-mind-and-zazen/ >>338
釈迦在世時に、大乗という概念があった証拠は?
初期仏典のパーリ語は、民衆が使う口語、マガダと共有する語彙と方言の
違いのみでプラークリットという共通性、紀元後のサンスクリット大乗
であって、紀元前3世紀在位のアショーカ王の碑文には、大乗の教えが
一切なく、原始仏典に収録されているものだけです。
それでもって、五時八教が正しいとする根拠は何?
日本の著名な東大京大の学者5人の責任編集の仏典辞典に、法華経が
後世の創作との指摘記述は、どういう根拠で覆すの?
それは創作であっても、元ネタは原初の教えなので、すべて非仏説では
ないが、結局大乗の修行の般若波羅蜜にしても、大品般若経や龍樹の大智度論
に三十七道品 (根本仏教の八正道、四念処等)の実践と明記されていて、
空を洞察する智慧、実体視せず、執着同化しない点では同じであり、
原初の教えに比べて、何をもって自画自賛できるものなの?
貴方の大乗こそ真の仏陀の教えという頑固な囚われ執着、何に基づくの、
誤認にもとづくものであること、まだ理解できない?そこからまだ卒業できない?
私は大乗信仰を否定してないし、ただ根拠を元に事実を書いているだけですよ。 2号さんは「歴史的に、科学的に、理知的に、著名な学者が」
という形の根拠で示している。
そして「仏教は科学や理知の範囲内であり、またそうであるべきであり、神秘性や信仰ではない」
無我さんは、
「宗教体験のない学者が『歴史的に、科学的に、理知的に』などといったことで分かったようなことを言ってもそれは『指』に過ぎない。
『月』の体験があるかないかが重要なのだ。」
「仏教の核心が、理知や科学の範疇のことだと思ってるなら
月の体験のない者だろう。」
「仏教の根本は神秘性、超越的宗教体験、悟りの世界である(月)」
『議論の土俵、ルール自体』が真っ向から違うので、話はずれ続けるのでしょう。
「根拠(科学的に理知的に、学者が)」
→
「『科学的に理知的に、学者が』などに意味はない」 話の突破口になるとしたら・・
無我さんが「宗教体験のある者、本物の仏教者」である人を提示し、
2号さんが「その方も、『原始仏教が根本であり、仏教は科学や理知のことであり、超越性や神秘性のことではない』と言っていますよ」と示せれば一つの突破口にはなるかと。
そこの人物が全く一致しないなら
もうそれは、違う宗派なんだな、
それだけのこと、終わり
になるんじゃないですか。 後は無我さんが2号さん推薦の>>319を読んでみれば「やっぱり違う宗派だな」
「あれ?同じ部分もあるな」
とかわかるんじゃないですか。 >>340
何度も言ったでしょう。
君のような仏教の素人が大学の仏教学科を出た人間と議論することは無理ですよ、と。
>日本の著名な東大京大の学者5人の責任編集の仏典辞典に、法華経が
>後世の創作との指摘記述は、どういう根拠で覆すの?
その疑問が、君が仏教の素人だということをよく表わしているのですよ。
覆すも何も、法華経(に限らず大乗経典すべて)が現実の釈尊の教えでないことは明治以降の仏教者なら
誰もが知っている常識なのです。
逆説的で面白いのは、明治以降に 「大乗経典は釈尊が説かれたものではない」 として騒いでいたのは
仏教の門外漢や東南アジアのの南伝仏教の人々だけで、日本の仏教の専門家にとっては <大乗非仏説>
は常識だったのです。そして、パーリ語の原始経典でさえ釈尊の滅後に一部の弟子達によって作られた
もので、それが釈尊の教えのすべてではないことも常識だったのです。 ( → 続く) ( → )
そして、これが仏教者にとって最も大切なことですが、釈尊の真の教えであるかどうかの判定は、修行者が
その経典の修読によって「覚り(悟り)・救い」 が得られるかどうかの一点にかかっているのです。
原始経典も大乗経典も釈尊以来脈々と伝えられて来た弟子達によって編纂されて来たものですが、甚深微妙の
の釈尊の深い覚りを伝えようとしても弟子のレベルによって内容はさまざまに変わってしまうのです。
原始経典の内容は初心者向けの心構えのようなものが多く、初心者の弟子たちによって作られたものであること
は昔から常識なのです。仏教の門外漢の人達は明治以前の日本の僧侶や仏教者は原始経典の存在を知らなかった
と考えている人が多いですが、それは無知だからであって古代に日本に伝えられた大蔵経(一切経)には阿含経
などの原始経典も含まれていたのです。ところが内容的に大乗経典に比べて程度が非常に低かったので、阿含経
などをもとに修行する仏教者はほとんどいなかっただけなのです。
印度で大乗仏教の聖地であったナーランダ大学(僧院)から中国・朝鮮、日本へと伝えられた大乗経典の修読に
よって数え切れない多くのの修行者が「覚り・救い」 得て来たのであって、その伝統が大乗仏教なのですから、
大乗経典が現実の釈尊が説かれたものではないことなどどうでもよかったのです。釈尊の弟子達の中で本当に釈尊
と同じ悟りを得た弟子達によって編纂されたものが大乗経典であり、初心者で言葉の表面しか理解出来なかった
入門者レベルの弟子達によって編纂されたものが大部分の原始経典だと言ってよいのです。
もちろん、原始経典の修読によって悟りを得る人もいたのですが、大乗経典によって悟りを得た人の方が圧倒的に
多かったので、印度でも原始経典を修習する教団は廃れて行ったのです。
君のように仏教をきちんと勉強したことのない門外漢は、仏教の修行をすることもなく頭だけで仏教を研究している
仏教学者の本を読んで <大乗非仏説> に何か意味があると考えている人が多いですが、本物の仏教の専門家にとっては
<大乗非仏説> などどうでもよいことなのですよ。仏教の専門書などを一冊も読まないで、巷の一般向けの仏教入門書
しか読んでいない人には君のような人が非常に多いです。 本スレのほうが超越してる件について
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1470401668/822〜
>上手くいくと幽体離脱みたいな感覚を掴めるのかな?
今日寝転がらずにバランスボールに座って眠気を感じずにひたすら瞑想してたら1時間後くらいにこの感覚が来た
>これが正しいのかただの思い込みなのか、ダイエットする時の体重計みたいな測りみたいなのが欲しい所
>ただすんげー気持ちは落ち着いた
>過去のトラウマなどが逆にマインドフルネス瞑想で、相手側の事情なども考えられるようになって、トラウマがなくなったとも言えるほどだよ。相手とか世界についてのあれこれについて思索して、例えばISISなんかの思考がどういう理論で組み立てられてるか分かるようになる
>つい下手に出てしまうタカピーな同僚に
堂々と対応出来るようになった気がしない
ばかりでもない。
>人間界の些末な関係性を超越した視点に立つことができるからかもね。 >>341-343
>話の突破口になるとしたら・・
2号君は何の宗教体験もなく、ただ頭で仏教というものを考えているだけの仏教の素人さんなので、
「突破口」 も何も、議論する意味などないのですよ。
何よりも、彼は仏教によって自分の神経症を治すことが出来ていないのですから、そのような人の仏教理解
などは何の意味もないでしょう。
私は禅宗と浄土真宗の二人の高僧について仏教を学び、そのおかげで神経症が治ったのです。ですから、
神経症で苦しんでいる人達の為に2chで書き込みを始めたのです。
2号君は仏教によって神経症が治ったわけでもなく、今も神経症を治す為にいろいろなスピリチュアル系の
指導者を求めてさまよっている人なのです。 >>345
阿含教が中国で人気が出なかったのは、
大乗経典に比べていかにも声聞や独覚向けの教えが多く見受けられることから小乗経典と見做されていた、
というのもあるけど、
例えば法句経みたいなのは中国には儒家や老荘などの諸子百家の教えとして似たようなのが沢山あるから有り難がられなかった、
というのもあるみたいね。
仏を崇拝する大乗仏教はそれまで中国になかったので信仰の対象ができ、それで受け入れられたとも。 >>348
>仏を崇拝する大乗仏教はそれまで中国になかったので信仰の対象ができ、・・・
(2号君もそうですが)「大乗仏教が信仰の仏教」 だと考えるのは大乗仏教を勉強したことがない人だけです。
大乗仏教の根本は <深い悟りと哲学的洞察> です。
その後、仏陀に対する信仰心の極致において究極の「救い」 が現れることを体験する修行者も出て来たのですが、
その根本には原始仏教に存在する修行主義の誤りについての深い洞察があったのです。
「修行して → 悟りを開く」 という考えが根本的に間違っていることに気付くことが大乗仏教の本質です。 結局、久遠仏や阿弥陀仏、盧遮那仏、大日如来などの諸仏や衆生を救う菩薩といった
絶対者、超越者がいないと人間は落ち着かないんだろうな。
ゴータマ尊のような存在なら孔子や孟子、墨子、荀子、老子、荘子、韓非子など代わりはいくらでもいる。
でも絶対者となった諸仏に変わるものはない。
中国には仙人崇拝思想があるが、仙人でも諸仏ほど崇められなかったのではないかな?
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3072.html?sp >>349
哲学的洞察は中観や唯識に代表される哲学? >>351
中観や唯識も説明に過ぎません。
「修行して → 悟りを開く という考えが根本的に間違っている」 という哲学的洞察です。
これは、>>339 さんも書かれている道元禅師の <只管打坐> の哲学と同じです。道元禅師は 「正法眼蔵」
の中で法華経の教えも説かれていますが、大乗仏教なので本質が同じですから当然のことなのです。
道元禅師の禅は大乗仏教の禅であって、スピリチュアル系や小乗仏教の修行禅とは本質的に異なるもの
であることに気付くことが非常に重要になります。 もう3回ぐらい言ったしこれで最後にする
「お前ら論点を簡潔に書け」
まだ無視するならそれもいいべさ
いつまでもいつまでもこの調子でやればいい >>344-345
また自分側の思想に都合いい解釈で正当化がはじまったか。
貴方のは信奉側の言い訳、よくあるある論。
釈迦説でないと認めたなら、如是我聞は嘘つきになるよね。
>初心者向けの心構えのようなものが多く、
貴方はその初心者向けの教えに多く反しているよね、
この教えこそ優れていると主張し、拘り強く、この教えこそが<真理に達した者>
と称する思想の想いに依存していて、「これが最高のものだ」という信念。
貴方が執着同化したバイアスの頭で考えたら、自分を束縛している思想を
正当化にもっていくことは、基礎の基礎は馬鹿でも分かるでしょ。
大乗経典はSF感動小説や易行仕上げだから、皆そっちに引き込まれるのは当たり前。
だから何も知らない天台ちぎは、そっちを高く評価するし、智慧の門はまさに難解
難入と仏典通り。般若波羅蜜と原初の教えは同じだったことにも触れないし。
そして自称悟ったとか悟っているように思うなんて、いくらでも想える。
貴方は道元の発生論的一元論の教えに束縛された人間ですと最初から素直に
言えばいい。「空」に反して有の思想にもとづいて、実体として内在する仏性思想に
ついて、仏教にあらずと日本仏教学会で学術論文発表があった。道元も中国仏教の
犠牲者。ああ、だから森田療法の貴方だから、西田幾多郎の絶対矛盾的何とか哲学
に影響受けて、臨済でなく道元に行き被れたのか、ほんと安直で分かりやすい人。
創作哲学に束縛され、何とか私や根本仏教を否定したいという強迫観念の強さこそ、
神経症のあかしでは。
とにかく貴方は、反マインドフルネスなんだからスレチ、森田のスレに帰りなよ。 >>354
前にも書いたが、君は神経症以外に別の心の病気を持った人間だね。
自分の神経症も治せないようなデタラメな仏教理解に固執しているだけではなく、
そのデタラメな理解を他人にも教えようとしているのだから。
私の仏教の説明はどの大学の仏教学科でも教えられている普通の解釈ですよ。
君のような仏教の入門書しか読んだことのない素人さんが知らないだけのことです。
君は自分の滑稽さにいつ気付くんだい?
君が仏教が理解出来ているなら、君の神経症はとっくに治っているはずなのだよ。
そして治っているなら、君のようにあちこちのスピリチュアル系の瞑想法などに関心を持つ必要など
ないでしょう。ところが、君は今も自分の神経症を治したくてさまざまな指導者を探し歩いているね。
つまり、君は神経症が全く治っていないということだ。それは、それは君が仏教の 「ぶ」 の字も
解っていないという証拠なのだよ。
仏教というものはきちんとした師匠に就いて学ばなければ解らないのですよ。君のように一般書店で
売られているような入門書の知識をいくら頭に詰め込んでもゴミのような知識が溜まるだけなのです。 2号さんの仏教理解だけど、ルーツは中村先生のような学者じゃなくて阿羅漢、
(大乗仏教で言えば阿耨多羅三藐三菩提という無上道の悟りを得た覚者)
テーラワーダ仏教のスマナサーラさんだろうから、
一概に否定は出来ないと思う。 >>355
あなたも仏教をきちんと勉強したことのない人ですね。
2号君は >>354 で次のような馬鹿げた妄想を書いています。
>貴方は道元の発生論的一元論の教えに束縛された人間ですと最初から素直に
>言えばいい。「空」に反して有の思想にもとづいて、実体として内在する仏性思想に
> ついて、仏教にあらずと日本仏教学会で学術論文発表があった。道元も中国仏教の
>犠牲者。
「空」 の意味も何も解っていないのです。
神経症に悩んで、訳も解らずあちこちのスピリチュアル指導者を探し求めてさまよっている者が
道元禅師を中国仏教の犠牲者だなどと書いているのですから、2号君というのはほとんど阿呆と
言ってよい人間だということが分かるでしょう。 ↑ 上のアンカー間違い
>>355 ではなく >>356 でしたね。 >>356
阿羅漢なんてとんでもない、そんな褒めていただき、ありがとうございます。
貴方もきっと核心はそこなんだってご存知の方なんですよね。
分かる人には分かるんです。過去根本仏教系のスレでも人に支持されてました。
彼はもう思想と同化しきって自我強化している方なので、
その束縛からの解脱は難しい人でしょ。
これ以上は荒れますから、彼とはスルーしますけど。
生きとし生けるものが幸せでありますように。 >>359
>・・そんな褒めていただき、
>>356 さんが君を阿羅漢だと言っているとでも思ったのか?
君は小学1年生の国語力もないことが露呈してしまったね。
大体、日本仏教界でスマナサーラなどを評価する人はほとんどいませんよ。 >>360
最後にレスね、なぜ貴方は囚われ、否定、不満、怒りを拠り所にして、
平安でないのか、自分の心の分析、内省してみたらどうだろ。
闘う心の癖はどこからで、貴方の自己意識強化の相手になるつもりないし。
オレ様正しい自己愛性人格の人の疑いもありますよ。
少しは人格者かと思ったけど、思いに依存が強く思いに振り回され心が荒れてますね。
これ以上、貴方のために刺激させないでおきますが。 訂正、オレ様正しい→オレ様えらい
やっぱり創価で洗脳された頭の人と変わらないです。 >>361-362
君を批判する理由は何度も書いただろう。
君は自分の神経症が治っていないにも関わらず、治ったと嘘をついて@さんを指導しようとしていただろう。
そんなことは性格異常者でなければしないことなのだよ。そのことについて君は良心の呵責を感じないのか?
自己愛性人格障害というものがあるとすれば、まさに君のような異常な人間のことを言うのだよ。
仏教の無我など何も理解できておらず、安っぽい入門書を読み漁っただけの知識で私の説明をヒンドゥー教だ
などと見当違いの批判もしていたな。
何度も言うが、君が神経症に悩み続けているということは、君が仏教の無我についても何も理解出来ていない
という証拠なのだよ。自分でデタラメな仏教理解をするのは勝手だが、間違っても神経症が治ったなどと嘘を
ついて他の神経症の人を指導しようなどすることはやめなさい。それを守れば、君が何を書こうが自由だ。 >>346
そのレスは本スレでも
完全スルーか馬鹿にされるかされてるんだよなぁ >>369
海外ならまだしも
日本で瞑想やってますなんて周りに言ったら引かれるのがオチでしょ >>371
そこは嘘や誤認誤謬があるから、鵜呑みにしない方がいいですよ。
釈迦からこのように聞いたという示しが嘘になり、嘘つきが書いた
経典になる理屈になるわけです。学者も指摘していてよくある正当化論です
今は初期仏典でも古層でも最古僧であるものが含まれると分かっていて、
紀元前のアショーカ王の石碑や発掘された骨壺から、釈迦在世に一番近く
その教えが色濃い仏典と世界の学者は認識しています。
そして阿含以外に、昔日本に入ってきてない古層仏典が多数あります。
それでも空海さんは阿含を高く評価してましたね。
仏典の内容も後世大乗より悟った人が多く出てきます。
書いてる内容で分かるのですが、彼は軽く触れた程度で表層的しか理解でき
なかった人で、学校の専攻も宗門に傾く大乗教育なので、バイアスがあるわけです。
それと仏教は、哲学知識の詰め込みで悟りに至るのではないと示してます。 阿含経を高く評価していた空海さんは天才と称されるだけありますね。 <大乗非仏説> に意味があると思っているのは、スマナサーラのような南伝仏教(小乗仏教)の人間達と
悟りの体験がなく頭だけで仏教について考えているエセ仏教学者だけであることは日本の仏教界でも常識です。
そして、悟りの体験のないエセ仏教学者が書いた仏教入門書だけを読んで騙されているのが2号くんのような
仏教の素人の人達なのです。
何度も書いたように、2号くんは仏教理解が間違っている為に神経症がいつまでも治らないのですが、彼は頭が
弱いのでそのことに気が付いていません。そして、2号くんは神経症が治ってもいないのに治ったと嘘をついて
神経症の人にアドバイスをしようとしている人ですから、神経症とは別に性格異常の人間だと言えるでしょう。 慈悲と悟りの精神がどちらとも見えないので争いは同じレベル者同士でしかなんとかなんとか >>374
何度も正確でないデタラメは書かないこと。
日本の宗門の仏教界は、学術研究、現代仏教学と乖離があることは、
十分認識していて、貴方ほど鵜呑み盲信ではないのです。
それと、正確でなく無知ですね、
北伝アビダルマ(説一切有部系)「阿毘達磨倶舎論」
南伝アビダルマ(上座部)「清浄道論」
前者の説一切有部に対して小乗と蔑称差別したのが大乗です。
そしてすでに世界仏教徒会議で、小乗という蔑称差別は禁止と決議されてます。
差別が仏教ですかになり、今の南伝上座部は説一切有部とは異なります。
来日したダライラマさんも、日本で使う小乗呼称に、お釈迦さまの根本乗と
言いなさいと言ったのも有名なエピソードです。 >>376
何の宗教体験もなく、仏教の入門書しか読んでいない君の理解など意味はないのです。
君のその理解では自分の神経症が全然治らない事実についてよく考えることが大切です。
「上座部・小乗(基本的に同じなのです)」 と 「大乗」 では 「悟り」の体験内容そのものに
違いがあるのは多くの修行者の体験によって証明されている事実なのです。ただ、礼儀上、「小乗」
というのは失礼だということで差し控えるようになっただけなのです。
http://www.omijo.com/syuuhen/tenjin.html >>377
で、貴方は仏教で一体何を得たの、自称無我の悟り人と言い、
他者との調和を保てる仏智もなく、根拠のないバイアスがかかった洗脳の
頭で自説を展開し、私の抱く思想が最高と繰り返し、基本の教えでも
それは無我の悟りとは異なると仏典で教えているのに、それもスルー、
相手への勝手な憶測、レッテル貼り、思惟差別、我執、三毒、無明、
心を制御できず強迫観念の思いが暴走し書き続け、敵は自分のその心では。
スレチなのに、貴方自身がやっている行い言動こそ自利の小乗でしょ。
そんな自分を客観視してごらんよ。それが悟ったと言う仏教徒なのですか。
私は宗教体験がありますが、それをおごり高ぶって披露するものでなく、
仏教で苦悩から解放されたことは事実なので、貴方が憶測、妄想でケチ付けても
痛くも痒くもなく、自説の2ちゃんねらーの一人が喚いてる程度の認識です。
反マインドフルネスなら、森田スレに帰ったらどうでしょう。 >>378
もうやめておきなさい。君は病気なのですから。
君は一生そのデタラメな仏教理解と神経症を持って生きていけばいいでしょう。
しかし、前にも書いたように、そのデタラメな理解を他の神経症の人に教えようなどとしてはいけませんよ。
仏教のことを知らない人は君の悪影響を受けて、治るものも治らなくなってしまいますから。
>それが悟ったと言う仏教徒なのですか。
私がいつ悟ったと言ったのかね? 私は悟っていないといつも言っているでしょう。
ただ、仏教を学んで悟りの体験を一度持つことによって神経症の症状が消えたので、
神経症の人達に仏教を学ぶことを勧めているだけだということは、これまでに何度も
書いてきていますよ。
ところが、他スレで君は(仏教をまともに勉強もしたことがなく)神経症が治ってもいないのに
横から口を差し挟んで来てデタラメな仏教理解を神経症の人に教えようとして来たので、私は怒ったのですよ。
君が神経症の人にとって害毒になる間違った仏教理解を書き込むから、私は怒っているのです。
君の体験は宗教体験ではないのです。だから神経症も治っていないのです。それで今でもあれこれと
スピリチュアル系の指導者を求めてさまよわざるを得ないのです。
君は 「無我」 の考えを知って少し気持ちが楽になり、その方向で神経症が治りそうだと思い込んでいる
だけなのです。そして、その思いと仏教入門書で得た自分勝手な理解を結びつけて、何か解ったつもり
になっているだけなのです。君が言っている 「思考の脱同一化」 程度の理解の仕方では神経症は決して
治らないのですよ。(少し、気分が楽になる程度のことです。)
君は素人なのですから仏教のことに口を出すのはやめた方がいいですよ。
君は、先ず自分自身の病気を本当に治すことが大切です。 >>372
>それと仏教は、哲学知識の詰め込みで悟りに至るのではないと示してます。
2号さんは何によって宗教体験し、苦悩から解放されたのですか? >>379
貴方が執着する後世の創作哲学が正しいと洗脳されてれば、
他はデタラメと排他的になるのが自我の特徴でもあるでしょ。
そして文字だけで、憶測と妄想とレッテル貼りで決め付けてるだけで、
なら同様に私が憶測するには、あなたは精神系の病気で、人格障害があり、
貴方が今まで書いてきた全部の仏教知識に目新しいものもなく、それより
マインドフルネスは、精神薬と同等の効果あった結果(エビデンス)から、
思考を流す脱同一化に効果があったことが証明されているわけです。
そして脱同一化だけとは書いてなく、マインドフルネスのしゅしに沿って簡便的書けば、
脱同一化と書いているだけです。それで私が前の方でリンクで示したファイル、
その他の洞察智の説明があるのに、貴方には難解で読めなかったわけでしょ。
勝手な主観と誤解誤認と無知が多い貴方こそ、入門書レベルでしょ。
傲慢で人格障害の人は自分の誤りを認めることはないので、これ以上貴方と話しても
不毛ですし、また勝手な文句を返すでしょうが、出かけますのでスルーします。 >>381
すみません出かける予定がありまして、また彼が邪魔するでしょ >>382
何の妄想を書き込んでいるのかな?
私が書いていることは、正統の仏教思想で、どの仏教大学でも教えられていることですよ。
私は仏教学科で正統の仏教をび、かつ、正統の仏教である禅宗と浄土真宗の二人の高僧の指導を
受けて神経症が完全に治った人間なのです。
君のように師匠にも就いたこともなく、(仏教の専門書など読んだこともなく)入門書しか
読まないでデタラメな仏教解釈をしている人間とは違うのです。
君は本当に頭が弱いようですね。
何度も書いて来たように、君が仏教の 「無我」 が解って神経症が治っているなら、マインドネスや
他のスピリチュアル系の瞑想法などを学ぶ必要は感じないはずだということも解らないのかい?
君がいろいろな瞑想法に挑戦するのはもちろん自由だが、仏教については何も解っていないのだから、
仏教については口を出してはいけない、と言っているのですよ。 (瞑想をしていると、ときどき至福を感じる。
そのようなときは
「この至福を体験しているのは誰か?」と自分自身に尋ねるべきなのか、というなら)
もし体験された至福が真我の真の至福なら、
つまり心が本当に真我のなかに溶け去ったのなら、
このような疑いが起こることはありえない。
質問自体が
真の至福が達せられていなかったことを表している。
疑う人と、その人の源が見いだされれば、
すべての疑いはやむだろう。
疑いをひとつずつ取り除いていっても無駄なことである。
ひとつの疑いを解決しても、
別の疑いが起こり、際限がないだろう。
だが、もし疑う人の源を探っていけば、
疑う人は、
本当は存在していないことが知られる。
そのときすべての疑いはやむのである。
(ラマナ・マハリシ)
http://now.ohah.net/pari/dicr/words03.html このスレ来て、自分はこうは成りたくないって例を見せつけられると、やっぱ仏教って駄目だなって実感する 仏教の知見に執着して、傍目には明らかに救われて無い奴がいるってことだな
グダグダ考えずにマントラ100万回で極楽行ける、と騙す方がよっぽど救えるのかもね いや、延々と唱えてるやつも救われてるように見えないか あなたは見ただけで相手が「救われてる」かどうか分かる人なんですねー。
すごいです >>392
そりゃわかんないよ
だからそんな風に「見える」って言ってる >>394
本物はちがうのよって言いたいのは通じたけど、私は やっぱり って思っちゃうね >>390-391
5.〔尊師いわく、−−−〕
「多くの呪文をやたらにつぶやいていても、人は生れによってバラモンとなるのではない。
内心は汚物に汚れ、欺瞞に覆われている。
〔i〕前世の生涯を知り、また〔ii〕天上と地獄とを見、〔iii〕生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を確立した聖者、−−−
この三つの明知があることによって、〈三つの明知をそなえたバラモン〉となるのである。
(VII.1.8)【火を拝む者】 (第一章 敬わるべき人) サンユッタ・ニカーヤII >>385の自称無我氏は、過去のスレで、
時間認識の誤まり、空間認識の誤まりに、自我認識の誤まりに
にそれぞれ気付くことが無我と説明していたのですが、
その先の知見、洞察智がなく、思い込みにより精神病が治った私と
自称します。
ではなぜ未だに私(自身)の思いに囚われ、その私(自称無我氏自身)が
ある精神的な見解、認識、思想の立ち位置に執着同化し(洗脳され)、
自分の思想信念、自己の観念こそ絶対正しいと固執(自我構成)することで、
それに反する 学術研究、現代仏教学を否定するのです。
かつそれと異なるマインドフルネスや根本仏教に、間違いの教えであると
自分の信仰宗教を説きに来ているというお粗末です。
これはカルトの思考に近く、オウムのように異なるものを攻撃します。
脱同一化が一番必要なのは彼で、この比類なき私の思いという同化束縛から、
縁起する無我で出るのが仏教ですが、彼の意識付与同化の束縛は強く、
後世変容思想を執着して抱き、空に反すると日本仏教学会が否定した仏性で
もって、何もしなくていいという、さらなるお粗末ぶりを露呈しています。
彼の自我の構成要素の一つ、宗門に傾いた教えの大学仏教学科、の私という
思いに束縛、その自我強化にも気づかず、無我を説くという有り様です。 >>398
2号君は本当に頭が弱い人ですね。
何度も書いたように、君が仏教の無我を理解して神経症が治っているなら、あれこれと
スピリチュアル系の瞑想法を漁り歩く必要などはないことにも気が付かないのかい?
君がエックハルト・トールだ、リンポチェだ、カバット・ジンだなどと指導者を求めて
さまよい続けているのは、君が仏教の無我について何も解っておらず神経症が治っていない
ことの証拠なのだよ。
君の言う 「思考との脱同一化」 程度の理解で神経症は治らないのです。いくら他人を欺いても、
悩みの中にある君自身は欺けないでしょう。
君のように自分の神経症が治っていないのに治ったと嘘をついて他人に神経症の治し方を教えよう
とするのは、神経症とはまた別の精神的な病気を持っているのでしょう。自分を治せないような
考え方を他人に教えても、その人も同じように治らないのだから、その責任について考える良心も
足りないのではないですか?
<大乗非仏説> のところで説明したように、君の仏教理解は一部の南伝仏教の僧侶と頭だけで仏教を
考えているエセ仏教学者たちの理解に過ぎないのですよ。(だから、君の神経症も治らないのです。) >>399
>指導者を求めて さまよい続けているのは、
未だにワンパターンなハズレな憶測妄想に固執しているようで。
知的好奇心や教養として、いろんな本を読んでいるに過ぎないって憶測
いかないのかな、貴方のそうであってほしい思いの元のバイアスに気づいたら。
脱同一化は教えの中の一つで、こんなとこでその他の教えを書いたら長文で
迷惑だと、お得意の憶測妄想できないかね。
非仏説なら、経典の如是我聞、釈迦からこのように聞いたと示したことが
嘘つきで嘘つきが創りましたという理屈になるって、まだ分からないようで。
ファンタジー思想ってその程度なんです。原初の教えは、その3つの認識の誤り
の話以上に包括しています。その先の洞察智の一つが脱同一化です。 >>400
君は本物の精神病者なのだね。
まともな仏教学者の人達に君の仏教の理解を話してごらん、相手にもされないから。
それと、君は@さんに謝りなさいよ。
「自分が治ってもいないのに、い加減な話をして道を迷わせてしまい済みませんでした」 と。
>知的好奇心や教養として、いろんな本を読んでいるに過ぎないって・・・
それで欺けると思っているのなら、君の知能は小学生レベルだね。
仏教の無我が解れば、そんなスピリチュアル系などはレベルが低過ぎて関心を持つことなど
あり得ないのですよ。 1 本物の無我、仏教、宗教体験=レベルの高い別次元の教え、治り
2 マインドフルネス含めレベルの低い教え、療法とは違う
仮にこれを正解と仮定しても、
それでもここがマインドフルネス基点のスレであることに変わりはないからね。
無我さんは専用スレもある。
【不安障害治癒】「無我」の教え【仏教、悟り】 [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1462873365/ >>402
マインドフルネスは(普通に生活出来ている)健常者がより健康な状態になるには良い方法
だと思いますが、妄想性のあるような神経症を治す力はあまり期待できません。
(ただ、指導者に就いて長期間たゆまず継続すれば、治る可能性がないとは言えないでしょう。
創始者のカバット・ジンさんが禅僧の弟子だったように、悟った人から直接指導を受ければ効果は
全然違うと思います。) >>401
いいえ、治っているから自信ありましたよ。
それに後は本人の実践で私に質問なくなったようですし、貴方のスレのようで、
長居しませんでした。私でも話題となった本は読みますし、私の自由でしょ。
仏典辞典を責任編集する複数の著名な学者の本ぐらい読んでます。
相手にされないのは、学者を敵にした発言の鵜呑み盲信の貴方です。
いちいち自分の文句で終わらないと気が済まない人のようで。
どうぞまた主観で文句、憶測妄想書いて終わりにして下さい。 >>404
>いいえ、治っているから自信ありましたよ。
そこまで嘘をつかなければならないことが、君が神経症以外の心の病気を持っている証拠なのです。
君は以前に自分で書いていたように、「無我の考えを知って気持ちが少し楽になっただけ」 なのです。
実際は、「無我」 も何も体験もしていないのです。他人は騙せても私を騙すことはできないのですよ。
他人を欺き続けるのは君の自由ですが、今のままでは君の神経症は死ぬまで治ることはないでしょう。
今後も、君が仏教についてデタラメな考えを書いているのを見つけたら、叱責と批判をしてあげます。
@さんのような被害者を増やさない為に。 2号さんは中国戦国時代の趙括みたいだな
趙括は兵法書の丸暗記、2号さんは仏典の丸暗記
どちらも机上の理論を説くのは得意だが生兵法に終わると
http://blog.livedoor.jp/waruneko00326-002/archives/40204741.html せめて瞑想に関係ある話ができないものか
どっちも、自分の発言で終わらないと勝った気になれないって妄執が強すぎて、見てておぞましい 南伝アビダルマ(スリランカ大寺派系の上座部)では、「止」と呼ぶのは、対象が観念の場合に限ります。
それに対して、「観」の対象は生滅する現実(諸行)であり、「止」と「観」は両立できません。
* 例外として、「涅槃」が「観」の対象となる場合もあります。
「原始仏典」や、他の部派仏教、大乗では、上座部のように、対象によって「止」と「観」を区別して使いません。
一つの瞑想に、両方の側面があり、その程度が変わると考えます。
ちなみにヒンドゥー教の古典ヨガでは行法が8段階に分けられていますが、
その5-8の「プラティニャハーラ」、「ダラーナ」、「ディヤーナ」、「サマディ」は「止」に当たります。
また、仏教の影響を受けたものかもしれませんが、ジュニャーナ・ヨガやジャイナ教の瞑想法では「観」に似た方法を行うこともあるようです。
最古層の経典には「止」、「観」の言葉は使われていないので、釈迦も使っていなかったと思われます。
部派仏教の時代になってから、仏教の修行が「止」と「観」の観点から分類され体系化されていったようです。
原始仏典では、「止」と「観」がミックスされた瞑想法が多く説かれています。
実際、瞑想法をどちらかに2分することには無理があります。
また、「止」だけでも解脱できるし、「観」だけでも解脱できると説かれています。
「止」で、心を修して、貪を離れ、「心解脱」する、「観」で、慧を修して、無明を離れ、「慧解脱」する、といった具体です。
また、解脱にいたるには、「慧」、「定」、「信」の3つの方法があるとします。
「慧(観)」を通して聖者になった人は「随法行」、「見到」、「慧解脱」、
「定(止)」を通して聖者になった人は「身証」、「心解脱」、
「信」を通して聖者・阿羅漢になった人は「随信行」、「信解脱」と呼ばれます。
修行をする順番に関しても、「止→観」を説くこともあれば、「観→止」を説くこともあります。
同時に止観を行う方法も含めて、どの方法でも阿羅漢になれると説く一方、両方行うべき、と説かれることもあります。 しかし、やがて、釈迦は「観」の瞑想によって悟ったと考えられるようになりました。
「観」は仏教にしか存在しない瞑想法ですし、仏教は智恵を重視するので、強調されるようになったのでしょう。
これにともなって、修行の階梯の順番も、「止→観」が定着していきました。
煩悩は「止」によって一時的に抑えることはできても、なくすには「観」による智恵が必要とされました。
しかし、「止」よる集中力(定力)が深い智恵を得るために必要と考えます。
南伝の上座部では、「止観」は対象が別なので、「止」の後に「観」を修習しますが、
北伝の部派と大乗では、「止観」の対象は区別しないので、
「止」の後に、「止」を保ったままにそこに「観」を足して、「止観一体」を修習します。
上座部では、「観」は変化する現実を対象とするのに対して、「止」は不変な観念を対象とするから、両立しません。
しかし、厳密には「観」がなされる前に一瞬の間「止」の状態(近行定)が達成されるとして、これを「瞬間定」と言います。
つまり、変化する現実に対しては、一瞬一瞬の一体化があると考えるのです。
また、現在の上座部では、マハーシ・サヤドゥー以降、簡略化された瞑想法が生まれ、世界的に広がっています。
マハーシ流では、最初から「観」を行いますが、「観」を行う中で、自然に「止」の集中力がつき、「瞬間定」が達成されると言います。
「止」、「観」は仏教の修行・瞑想の基本であり、大乗仏教、密教、ゾクチェンにも受け継がれましたが、その方法や意味、位置づけは変化しました。
密教では「止→観」という階梯ではなく、密教独特の瞑想法の中で、「止」、「観」がほぼ同時に一体として行われます。
http://ameblo.jp/morfo/entry-10814135474.html ここまで仏教について語れるのに、両者とも
「執着」「欲」「怒り」
にまみれすぎである >>410
> 上座部では、「観」は変化する現実を対象とするのに対して、「止」は不変な観念を対象とするから、両立しません。
アビダンマの業処でも出入息念とかの変化する現実を対象とするものありますよね
あれはスリランカ系では観にしか使わないってこと? >>407 >>408 >>411
それはあなた方が <心身>というもの を 「自分」 だと思って生きている為に、他人についても
その人の心身・言動を 「その人」 だと思い、その矮小さに不快感を感じてしまうのでしょう。
誰しも 「心が穏やかで人格が立派」 であることを求めがちですが、そこに大きな落とし穴がある
ことに気付いている人は非常に少ないです。
神経症に悩んでいる人ほど、自分とはかけ離れた 「立派な人格」 を自分にも他人にも求めていますが、
そのことが神経症が治ることの根本的な障害になっているのです。
「人格」 というのは社会性の問題であって、神経症というのは社会性を重視し過ぎた無意識の価値観の
為に個人本来の自由な心が阻害された状態でもあるのです。
神経症が治るかどうかは、自分についても他人についても 「本当の自己」 というものは <心身・言動>
とは別に存在していることに気付けるかどうかにかかっています。
ですから、瞑想をして心がどんなに落ち着いても、その落ち着いた自分の心身が 「本来の自分」 だと
思うなら、決して神経症は治らないのです。
ここは非常に難しいところで、かなり機が熟して来なければ理解できないでしょう。
「瞑想をして → 心が落ち着き → 立派な人格になり → 悟りに近づく」 という求道の行程は原始仏教の
人々が陥っている根本的な妄想だと言ってよいでしょう。その誤りに気付いたのが大乗仏教でもあるのです。
ですから、大乗仏教を知らないで原始仏教の瞑想にどれだけ打ち込んでも神経症は治らないのです。
「止」 と 「観」 の話で言えば、大乗の視点がない限り本当の 「観」 は出て来ないということです。
(軽いあがり症のようなものは瞑想によって心が落ち着けば良くなるでしょうが、妄想性を持った神経症の
場合は大乗の視点に気が付かなければ本当に自由になることは不可能です。) 別に不快感それほど感じてない上に、心が穏やか云々というのも思っていない。妄執によるレッテル貼りを見た >>412
ブッダゴーサによって5世紀に作られた上座部の教説は、いくつもの点で、従来の部派の伝統と異なります。
上座部と「原始仏典」の瞑想法の違いとして指摘できる点には、次のような点があります。
(違うというだけで、批判しているのではありません。)
上座部の瞑想法は、「清浄道論」のような後世の「論蔵」外の文献などに基づいて行うので、
必然的に、「原始仏典」が中心に説く「八正道」や「三十七道品」を軽視する傾向があります。
「原始仏典」では、「止」だけでも、「観」だけでも解脱ができる(「信」だけでも阿羅漢向まで行ける)と書かれています。
上座部のように、個々の瞑想法を「止」と「観」に分けたり、行う順番を決めたり、混ぜて行うことを禁じたりしません。
そして、上座部の個々の瞑想法では、「原始仏典」が説く方法に比較すると、
具体的に限定した方法で行ったり、テクニックを付け加えたりしています。
http://s.ameblo.jp/morfo/
と、上記サイトでも>>410のサイトとほぼ同じことが書かれてある。
上記サイトは上座部以外の瞑想法についても概略が書かれてるので、興味を覚えた瞑想法があったら更に文献なり求めて実践してみるといいかもね。 >>413
ええと、無我さんでしたっけ?
申し訳ないですが、とりあえず現時点ではわたしはあなたの発言を読みたくないので、お手数ですがNGしやすいように、発言に何かキーワードを付けて頂けないでしょうか
あと、2号さんも無我さん宛てのレスをする場合は同様にして頂けると助かりますが 私としてはあなたたちの「議論」はどこか別の場所でして頂きたいとすら思っています >>416
読んだ方がいいですよ。将来、あなたの為になることを書いているのですから。 >>418
だから「現時点では」と言っています
これはお願いです
無我さんだと分かるように何かキーワードを決めて入れてください 起きた後の「夢」を作ってるのは、自分の脳の自我プログラム(それを作ったのは自分だったり社会常識だったり)。
寝ると自我や常識のプログラム〔ギア〕から意識は外れ、ニュートラルポジションになる。夢も見てない時は無になり、
夢の時もニュートラルポジション。
意識は、記憶の断片や、あるいは脳に宿る太古からの記憶と緩く結び付き自由に脳の中を舞う。そして、現実という名のもう一つの『夢』での傷を癒す。
そしてニュートラルポジションという『現実』から『夢』の中に舞い戻る。新しい一日が始まる。
人は寝ることにより毎日死ねる。なんと幸福なことであろうか。
『最高の瞑想は眠ること
〜睡眠という「現実」から世界を見渡す』ジョン・ガジットバン
最新作 2019年発売予定 >>420
後で多くの人に思い出してもらう為に、否定されている「現時点」で書いておく必要があるのですよ。 >>422
だから書かないで下さいとは言いません
読みたい人もいるでしょうし、わたしのように読みたくない人もいるので、
読みたくない人はどうせほぼ読みとばしてるわけで、その手間をキーワードを入れることで省いて欲しいだけです
だから「お願い」なんですよ
聞き入れて頂けませんか? >>424
では今後は「無我」のコテハンを入れたり、入れなかったりするようにしましょう。
(いつも入れるとは限りませんが・・・)
しかし、あなたは何かを怖れていますね。
それが何であるかを考えれば、あなたが本当に目指すべきものが見えて来るでしょう。
人生は短いです。好機を逸することがないようにしましょう。 >>425
ありがとうございます
何かを恐れている実感はありませんが、そこら辺の感じ方は人それぞれですので
まあお互い様ということで >>427
無知というのは恐ろしいものですね
こんど民明書房館から出る話題の新刊ですよ >>413
>「瞑想をして→心が落ち着き→立派な人格になり→悟りに近づく」という求道の行程
そんな行程でない。
立派なというのは、自我が好きな観念的思いであって、その願求に依存してない。
精神的抽象的な概念を追うのとは異なり、仮構させる自己の克服。
宗教的ドグマ、いかなる概念構想も自己と執着同化させない。
(観念的)思いから離れているという思いから離れているが無思考でもない。
>その落ち着いた自分の心身が「本来の自分」だと思うなら、
これこそ自分だという思いではない。
何かを空に反して実体視して(この場合では心身)、仮構の自己を構築するものでない。 >>430
そのように一生懸命に思い込もうとしていることが体験していない証拠になります。
「仮構」などという言葉を使うのは借り物で考えているからです。
解ればそのような言葉は使いません。ただ消えてしまうからです。 無我さん そろそろお薦め仏教本リストとか作りませんか? 「それに気づかないのは、あなたが分かっていないことを裏付ける明白な証拠です」
「なぜなら、私のように分かっているのであれば、それに気付くからです」 >>431
>「本当の自己」というものは <心身・言動>とは別に存在していることに
>気付けるかどうかにかかっています
貴方流の表現に歩み寄れば、430の仮構の自己(自我)とは別に、それを克服
する行によって、真の自己(便宜的表現)が顕れると、原初の教えの中にはある。
もっと歩み寄れば、煩悩に覆われた仏性の話に近い。
仮構とは便宜上使っている表現で、龍樹の中論には、真理は言語に依らずして、
説き明かせないとあり、もちろん月をさす指であるが、その指に執着して論争
するものでもない。要素の集合体(無自性)である人間を仮構の自己という表現な
だけで、言語の表現方法はいろいろ。否定好きで柔軟性なく頭かたいですね。 「当然私も分かっているけれど、言葉尻で分かってないことにされるとは心外です」 >>432
@さんには、以前に何冊か紹介してあげたことがありましたね。
以前にも書いたことですが、どの仏教書が役に立つかは人によって違いますから、
読むべき仏教書については各自が自分の師匠に個人的に教えてもらうのが一番良いでしょう。
(私も目が悪くなって以来、読書に使う時間が少なくなりましたのでリスト作りも大変ですが、
時間を見つけて 「神経症を治す為の仏教書ベスト10」 など考えてもいいと思います。) >>432
Sn.892「われわれの宗教によってのみ清浄になることができるのだ」ということだけを
主張しつづけて、他宗派のひとびとの真理によって完全なる清浄になることはないと
教えている。かようにかれら他宗派のひとびとは各個別々の宗教的ドグマに安住している、
それぞれ自分自身の信奉する道だけを頑迷に断固主張しつづけることによって。」
Sn.910「まことにある一つの存在を根本的なるものとして絶対視してテーゼを主張している
ひとを教え導くことは容易でない。こうだと構想されたドグマを最高の真実だと信じ込んで
いるからである。これこそが真実だと絶対視している存在によって清浄になるのだと主張して
いるとき、そのように清浄を主張する論者は、こうだと絶対視したものについて、そのとおり
に真実だと考えてしまっていて疑うことを知らないのである。」 >>432
Sn.909「そのような宗教的ドグマをもっているとき、ひとは主体存在と身体存在よりなる
個体存在(名色)を対象として、そのようなドグマをもち続けていくであろう。
あるいはそのようなドグマをもつことがなくなったときに、まさしくそれら主体存在と
身体存在よりなる個体存在を対象としていたのだということをありありとさとることもあろう。
しかしその場合多数のドグマをもっていようと少数のドグマをもっていようとそんなことは
どうでもよいことだ。というのは、なんらかのドグマをもつことによって清浄になるという
ようには、大老師たちは教えていないからである。」 >>430 >>434 >>437 >>438
2号君も将来体験することあれば解りますが、体験した者から見れば、
体験していない人の文章は直ぐに見分けがつくのです。
君がどんなに言葉で言い繕っても、君が無我が解っていないこと、
そして君の神経症が治っていないことは直ぐにわかるのです。 「それに気づかないのは、あなたが分かっていないことを裏付ける明白な証拠です」
「なぜなら、私のように分かっているのであれば、それに気付くからです」
「私は分かっているから分かるのです」
甘えの塊 >>440
そうです。君も宗教体験を持って神経症が消えれば、「分かるから分かる」が理解できるようになります。
宗教は理屈ではなく体験なのです。本物の仏教書というのは読む者に宗教体験を起こさせる本のことです。
ですから、仏教書を読んで理屈を理解しても意味はないのです。体験が出るまで読み込む以外にないのです。 >>439>>441
全部、貴方に当てはまる、自分は宗教体験をおごり高ぶって披露しない、
それがまた自我構築強化になる。
Sn.795「真知によって知ったからといって、あるいは真実に見ているからといって、
かくかくであるというようにきめてしまって信念にすることがない。
この世間にありながら、これが最高究極のものだという信念をもつこともないのである。」
Sn.798「修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、にこだわっては
ならない。」
Sn.782「自分の行について問われてもないのに、自らまくしたてる論者は、
凡愚にして聖ならざる者の論である。」
Sn.799「徳行について、他の人と自分を比べて一面的な考えをもってはならぬ。」
Sn.856「依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。」
Sn.898「想いに依存している人々は、流転する迷いの生存に誘き込まれている。」 >>441
「それに気づかないのは、あなたが分かっていないことを裏付ける明白な証拠です」
「なぜなら、私のように分かっているのであれば、それに気付くからです」
「私は分かっているから分かるのです」
「本物の本を読み、体験したから分かるのです」
「わかればあなたの神経症も治ります」
何が欠けてるか分かるかな
何をバカにされてるか分かるかな
わかんないかもな >>442
>自分は宗教体験をおごり高ぶって披露しない
???
過去スレで十分過ぎるぐらい披露していますよ。
君が知らないだけです。
君の問題はただ一つです。
神経症が治っていないのに治ったと嘘をついていることです。
>>443
君は経典も仏教書も読まないのだから、仏教が理解できる道理はないのだよ。 >>444
「それに気づかないのは、あなたが分かっていないことを裏付ける明白な証拠です」
「なぜなら、私のように分かっているのであれば、それに気付くからです」
「私は分かっているから分かるのです」
「本物の本を読み、体験したから分かるのです」
「わかればあなたの神経症も治ります」
何をバカにされてるか分かるかな
「あなたは本物の本を読んでないから仏教がわからない」
何をバカにされてるか分かるかな
この調子だと答えられない
プロテクト掛かってるからな >>445
君はいいのだよ。
もう、君は私の書き込みに反応することはやめなさい。
私が作るホームページでも君はアクセス禁止にすると言ってあるのだから。 >>446
「それに気づかないのは、あなたが分かっていないことを裏付ける明白な証拠です」
「なぜなら、私のように分かっているのであれば、それに気付くからです」
「私は分かっているから分かるのです」
「本物の本を読み、体験したから分かるのです」
「わかればあなたの神経症も治ります」
何をバカにされてるか分かるかな
「あなたは本物の本を読んでないから仏教がわからない」
何をバカにされてるか分かるかな
「もう私の書き込みに反応するのをやめなさい」
何をバカにされてるか分かるかな
まあ、もう寝るんだけど
>>446以外の住人は何をバカにしてるか分かってくれてるかもね >>447
君は以前から自分が考えた論理しか解らない人間だということが分かっているから、
相手にしていないのですよ。(君にはもう辟易しているからね。)
君は自分が頭が良いと勘違いしているようだが、それなら神経症の問題も解決してごらん。
(君のような独りよがりの考え方しか出来ないなら、心の問題などはとても無理だろうけどね。) 「それに気づかないのは、あなたが分かっていないことを裏付ける明白な証拠です」
「なぜなら、私のように分かっているのであれば、それに気付くからです」
「私は分かっているから分かるのです」
「本物の本を読み、体験したから分かるのです」
「わかればあなたの神経症も治ります」
●何をバカにされてるか分かるかな
「あなたは本物の本を読んでないから仏教がわからない」
●何をバカにされてるか分かるかな
「もう私の書き込みに反応するのをやめなさい」
●何をバカにされてるか分かるかな
「相手にしていないのです」
「あなたは自分の頭がいいと思い込んでいるようです」
「ならば神経症を治して見せなさい」
味わい深いので残念だけど
いい加減しつこいのでもう止めとくか 人は眠ることで、自我・時間・空間・常識などを認識識別する脳のプログラムから意識が離脱し、ニュートラルポジションになる。自由にグライドする。
(夢も見てない時は無に。)
そして人は起きている覚醒時にもある程度ニュートラルポジションになりグライド出来るのだ。
『覚醒』出来るのである。
眠ることで、現実という名の『夢』から覚めて自由にグライドする。
そして『夢』の中でもグライドを。
ジョン・ガジッドバン
パワースリープシリーズ第2弾『ニュートラルパワー
神のスピリット
〜眠り神と幻想絵巻、グライド』
2020年発売予定 そういや初期仏教系の瞑想では他ではよく使われる意味が無いマントラは使わないよね
何でだろう
単純に釈迦が説かなかっただけ?それとも実践上の理由があるんだろうか >>452
仏陀は万物に我(個性)をつけるのは人間の勝手な行いで正しくないとした。そのため、個性を廃した瞑想法(ヴィパッサナー瞑想>マインドフルネス瞑想)を編み出した >>453
意味の無い言葉を集中の焦点に使うのは個性を付与するのとは違くない?
言葉は名色分離できない(=色が無い)からかなって一瞬思ったけどサマタは関係ないよね 453は誤解を与える不正確な内容ですね、マントラで名色分離智なんて
体得できない、マントラonlyならカラオケでもいいでしょ。 >>455
マントラではなく仏陀はラベリングしていたと言っているのですが >>455
カラオケじゃ意味有りだから瞑想には使えないでしょ…って思って書きはじめたけど、慈悲の瞑想はサマタに分類されるんだった… >>456
と言っているのですが・・、マハシ系ですよね、
流儀流派がありますから、ラベリングの弊害を説く僧もいますし。 >>458
どんな瞑想法にも弊害はあるものだよ
自分に合った瞑想法をまず見つけることだよ 『般若心経』で述べられている「空」の思想は、思想として勉強するためのものではなく、「観」の瞑想をするための指針です。
つまり、小乗仏教では「アビダルマ論」に沿って「観」の瞑想を行うのに対して、
『般若心経』では「空」の思想に沿って「観」の瞑想を行うのです。
ちなみに、南伝アビダルマ(上座部)の修行道は『清浄道論』に、
北伝アビダルマ(説一切有部系)の修行道は『阿毘達磨倶舎論』に、
大乗仏教の般若経系の修行道は『現観荘厳論』にまとめられています。
般若経系の修行道は、北伝アビダルマの修行道を、空思想と菩薩の利他主義の観点から組み直したもので、「五道」という形にまとめられています。
ただ、『般若心経』は後半部で「真言(呪文・マントラ)」を称えて紹介しています。
具体的な説明はしていませんが、「般若波羅蜜多」の修行は
「真言」を繰り返し唱える「念誦法」と呼ばれる方法を使った修行なのでしょう。
しかし、「真言」を唱えるからといって密教ではありません。
(以下↓)
http://www.e-sogi.com/sp/arekore/kyo1.html 今日やるみたい。
ガッテン!「ボケない!脳が若返る“めい想パワー”SP」 2016年9月28日(水) 19時30分〜20時15分
ボケを防ぎ、不安やストレスに負けない。
そんな若々しい脳を取り戻す方法として注目されているのが、めい想などの「呼吸法」!1日3分の新習慣でスッキリ脳を手に入れろ!
番組内容
いま、世界の一流企業や医療機関が、めい想を積極的に取り入れている。
めい想というと宗教や修行というイメージが強いが、本当の目的は「脳が持つ本来の力を最大限引き出すこと」!毎日たった3分間、目をつぶって、めい想の呼吸を行うだけで、
脳の記憶の中枢「海馬」などが活性化、若い頃のようなパフォーマンスを発揮してくれることが分かってきた。
「最近物忘れが多い」「ストレスが多い」という方には特にオススメの最新情報! 『ためして』ちゃんは意味もなく解雇されたのだ。
山瀬まみと共に(? ボケに関してはこれまでスレの話題になってなかったけど効果あるんだな アルツハイマーはアミロイドβっていうのが脳に溜まってしまうのが原因と言われていて、
その蓄積を防ぎ脳を掃除するのは
「睡眠」らしい。これもNHKでやってた。
ボケ対策は瞑想もいいのかもしれないが、ちゃんと寝ることが基本。 >“めい想パワー”SP
ひらがな、なところが何か宗教色を排して、なじみやすくする意図が
ありそうな。
>>466えーと確か乳成分+カテキンがいいってNHKの番組でやってたけど。 4000年前インダス文明から...
ブッダはその力を知っていた... インド お坊さん...
・・お?別館より?
お坊さん「瞑想は本来宗教じゃない
仏陀が考えた心の科学」...
・・ありゃ本館優勢に?
仏陀の言葉「呼吸を意識して瞑想。
これ効果あるよー。」
・実験したらテストの成績アップ!
・ハーバード研究→
海馬、小脳、脳幹
8週間で容量アップ(タンパク質濃度アップ)
・記憶の引き出しであくせく働く海馬君。ストレスや負荷や加齢で小さくなっちゃったりする!〔鬱病とかで特に〕
瞑想で〔負荷軽減し〕海馬君復活!
・瞑想はポワーン!と落ちつくようなイメージされがちだけど、
(頭が)くっきりはっきりするのよ!〔某瞑想の達人〔仙人みたいな見た目
・瞑想でシータ波の脳波!
〔シータ派は普通浅い睡眠時に出てるもの〕
・シータ波は基本「夢」の時多く出てる
・〔前頭前野は眠ってる時〕、
海馬君は記憶の取捨選択して整理してる
(それが夢の意味、効果なんでは?って仮説がある)
そして、その時シータ波が出てるら。
・瞑想し呼吸に意識を集中することで、前頭前野の活動がオフし(おさまり)、海馬君も前頭前野との連携などがおさまり、海馬君と休める
他の脳波は
アルファ波〔リラックスしてる時
β波〔活動的な時
などがある
・80年代〜アメリカで研究が始まった
〔日本の座禅などをルーツに〕
・人は1日で18万項目!の考え事。特に、過去の〔嫌な〕ことや未来のこと〔心配〕を思い煩う思考が多い。
→だから瞑想は「今」。
・食べる瞑想→おにぎりを長い時間かけて食べる
〔呼吸への集中の代わりに、食べることの細かい感覚に集中する〕
・いろいろな瞑想がある。
とにかく「一つのことに集中」するがポイント
→ダーツ、模型作りも瞑想!
・心地いい環境や人間関係をイメージするのも瞑想〔? >>470
これがためしてガッテンのレジュメですかね!!?
ありがとうございます!
まだ帰宅中で観れなかったので〜(^◇^;)!! ガッテンに出ていた瞑想の達人、齢70らしいけど70にしては老けていた。
瞑想にはアンチエイジング効果があると聞いていたのだが、脳年齢はともかく肉体年齢とは関係なさそうだw
瞑想中は夢を見る浅い睡眠時(レム睡眠か?)と同じθ波が出ているとの臨床結果。
つまり瞑想中の変性意識とは夢を見ているのと同じようなものである、ということになるのかな?
このθ波は何かに集中している時にも出るとのこと。
没我に至れる趣味とかに没頭していても瞑想と同じ効果が一部あるのかもしれない? ちなみにヨガ(ヨーガ)はサンスクリット語かパーリ語で瞑想って意味だったね、確か。 >>472
瞑想の番組を見ながら、海馬と前頭前野を酷使しましたw
メモメモ
・瞑想しないで、2ちゃんで議論だ喧嘩だとヒートアップするのは、まさに海馬と前頭前野の酷使であり
『瞑想(効果)の逆!』
・「呼吸への集中なんて何でしなきゃいけないの?普通、無意識で勝手にしてるものだろ?」っていう意見が多い(当社調べ)中、
呼吸への集中というのは、一つのことに集中することで、思考〔前頭前野や海馬〕を休ませ(緩ませ)る方法論
・歩く瞑想なら
ただひたすら歩く感触に集中するという事だろう
・海の波の音、川のせせらぎの音を聞いてそれだけに集中っていうのも良さそう
(どっかの海外では、ひたすらそういう自然の場面固定映像を流す番組があって人気らしい。あれも瞑想になるんだろう。)
・*音楽を聞いてただただその旋律に集中する
*弓道
*ダンス(音楽やリズムに乗りそれと一体となることに集中)
とかも瞑想になりそう。
他にいくらでもありそう。
・小池ゆりこさんと蓮ほうさんも瞑想したら良さそう。
(何か・・固い から) やはりジョン・ガバットジンは間違ってなかった!
>>17
>>33
>>421
>>451 >>470
>〜海馬君も前頭前野との連携などがおさまり、海馬君と休める
→
海馬君も休める でもこの特集を観てどれだけの一般人が瞑想を実践するのかね〜 電車で気持ちよく半分寝てる人、昼休みの短時間の仮眠とかは、みんな瞑想と言えるかもね。
しかし、そうすると
睡眠や仮眠だけでも別にいいってことになる気もする...
・眠くなくても出来る
・睡眠や仮眠だけでは足りないほど、ストレスフルだったり思考優位な状態にある
そういうことでは瞑想の意味がわかるけど、
睡眠などでは得られない、根本的な瞑想の意味、優位性とは何なんだろうか?
「意図的意識的に」→「半分寝る」「夢を見てる状態に近づける」ってことかな。
それによりそれこそ「無我」を体感出来る? >>481
自分の場合は
・意図して変性意識に入れて面白い
・日常生活で気分を落ち着かせたいときに、瞑想してるときの感覚を思い出しただけでそれなりになること
かな 信奉者:
ブッダのニルヴァーナとは何ですか。
マハルシ:
個人性の喪失です。
信奉者:
私はその喪失を恐れています。ニルヴァーナの中に人間の意識は存在しうるのでしょうか。
マハルシ:
その場合、二人の自分がいますか。眠りという、あなたの現在の経験をよく考えて言いなさい。 >>482
かなり体得してるな
まださっぱりな自分は「睡眠で良くね?」となりがちだな。
でも呼吸を意識する(ことの意味)やり方により、とりあえず
3分はさっき出来たな(例の番組中)。
一分の壁を越えたw
「ただ瞑想する」では持たないw でも呼吸を意識する(ことの意味を知る)やり方により >>481
え、まだその理解の次元レベルだったの。
まず今ここの事実に生きるとは、一体どういうことなのか学んで下さい。
心の癖、心のフィルターを通して人は物事をみて生きてるわけです。
それを解き放った生き方は、真知が得られ、物事に偏った見方をせず、
観念束縛から解放され自由になり、慈悲なる美質が湧き、他者との接し方が分かり、
生きやすくなります。ちなみに私は女性からモテるようになりました。
それまでは、今に生きてなく目先の利益ばかり追い、考えも自己中利己的でした。 そうかな
ストレスからの回復や知覚を休ませるって観点で思い起こすと、自信を持って睡眠より瞑想の方がいいって言えないなあ >>488
ええと素人さんのようですね、番組で紹介したのはサマタ集中寄りなんです。
智慧を体得する瞑想は、別途あるわけなんです。
瞑想は単純な一種類でなく、そこは分けて考えて下さい。 >>488
2号(>>486)の煽りを真に受けちゃだめ セロトニン分泌の方法として読経があります
まず仏具のおりん
http://gennojoe.jp/netshop/goods_image/A124_Z1.jpg
を鳴らすとα波によりセロトニンやエンドルフィン(エンドルフィン作用によりドーパミンも)が放出されます。
なお、似たような音色の鐘の風鈴なんかもα波を多分に出します。
雨音やせせらぎ、秋に鳴く虫の声、煩すぎない鳥のさえずりもα波を出します。
次に木魚を一定のリズムでポコポコ鳴らしながら読経します。
これは素晴らしいリズム運動になりセロトニンニューロンを鍛え脳をセロトニン脳へと変えていきます。
読むお経は修証義のような和文のお経よりも般若心経のような漢文のお経の方がリズミカルに読めるのでお勧めです。 >>489
番組で紹介された瞑想の効果と睡眠の効果について比較した意見>>481で尋ねてると思う
サマタ集中の効能と睡眠の効能の差って何なんでしょう? >>486
>心の癖、心のフィルターを通して人は物事をみて生きてるわけです。
は、そういう、その事の説明的な文章を読んでも府に落ちず、
睡眠という現実的な事象から理解したほうが実際分りやすいってことだと思いますよ。
2号さんは、
「無我と瞑想の関係性、
無我を頭でっかちなだけのものから『体得』にする『実践』とは何か?」の質問に答えられなかったですし。
ガッテンでもまさに睡眠や夢に近いということが示されてた。 >>492
481の人は、瞑想とはこういうものという見方をしているようです。
“私”が入っているかないかで、質が異なります。
夢って思いに由来するものになっていますよね。 >>494
フェアにサマタ瞑想と睡眠の効能を比べると、違いは何だと思います?
自分は「面白さ」ぐらいしか自信を持って言えないけど >>493
まぁそう決め付けをしないで下さい。
邪魔する人が見て反論も大変ですし、長文になり迷惑になりますし、そこは
仏典や仏教書でなく、専門用語のないEハルト氏のニューアースを貴方に確か、
お勧めしましたよね。私の拙い文より、はるかに分かりやすい内容となっています。 >>494
だから、夢を見てない時の睡眠は
「私」さえ全くなくなるし、
夢の時の「私」や「意識(の感覚)」というのも、それは起きている時の覚醒時の自我とは全く異なりますよね。
いい意味で酷く適当なもので、時間や空間認識からも離脱してる。
ただ結局、
覚醒(脳の自我のプログラムや時間や空間認識のプログラムにがっつり意識が一体化してる)と睡眠(夢)だと両極端で、
それは(意識的な)無我の体得にはならないということだな。(なるなら全人類が体得してる)
だから無我の体得には瞑想が必要ということだろう。
上でも紹介されてる変性意識的な体験で、覚醒時の自我の感覚に何かしらの変化を与えると。
そして頭でっかちな理解では薄い「無我」なのだろう。 >>495
494に書いた通りで、さらに両者の科学的な分析も必要でしょう。
瞑想って、集中だけではないですから、
サマタは必要であっても、極める必要はないと仏典で説かれています。
慧解脱でなく俱分解脱を求める瞑想マニアな人は別ですけど。 言葉で理解する以前にさ、
実際に瞑想をやってみればいいじゃんw
睡眠を取ったことない人は恐らくいないでしょう?
瞑想をして何か違いがあればそれが瞑想の効果よ。 >>497
その変性意識的な体験がどの方法でもたらされるのか、ご存知ないのですか。
頭でかっちでは体得できないけど、知的準備は必要なわけです。
道標もなく盲目な実践でなく、高僧も仏典には言葉の力で法眼が顕れるよう
説かれていると説明しています。 >>496
エックの文章は、何故かアドラースレにたびたび張り付けてる人がいて読めるが、普通の自己啓発書とか心理学的なイメージだな。
アドラー心理学総合 18 【嫌われる勇気】 [無断転載禁止]©2ch.net
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1474333349/
アドラー心理学 相談 雑談スレ【嫌われる勇気】 [無断転載禁止]©2ch.net
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1474563631/
↑「エック」で語句検索 エックは喧嘩議論とかに、まさに気付きを与えてくれる素晴らしい内容だが、それが「無我」とか「変性意識」の本質なのかは?
普通の精神論の範疇として読める感じだからね。
>エックハルト・トールは言います。
エゴは、頭の良さで自分の存在価値を測っているために、
考えが間違っていると証明されたりしたなら、大変なことになるのです。
エゴは消滅の危機にさらされてしまいます。
ですからエゴとひとつになった人は絶対に負けられないのです。
>自分の主張の正当性をめぐって、幾多の闘争が起こり、数知れない人間関係が破綻してきました。
思考をアイデンティティから切り離してしまえば、自分が正しいかどうかはどうでもよくなり、
負けたからといって、アイデンティティがゆらいだりすることもなくなります。
そうすると、「絶対に自分は正しくないといけない」という強い感情(これは一種の感情の暴力です)を、もう抱くことはありません。
明確に自分の考えや感情を伝えることはあっても、そこには攻撃性も自己防衛もないでしょう。
これは思考ではなく、自分の内側にある、「大いなる存在」を、アイデンティティにしているからです。
>ですから、自分がわずかでも自己防衛をしていると気づいたら、注意しましょう。
あなたは、いったいなにを守ろうとしているのでしょう。
それは「にせの自分」「頭の中のイメージ」「空想上の存在」などではないでしょうか?
自分が自己防衛をしていると気づき、その行動を観察すれば、その行動をやめるでしょう。
意識の光に照らせば、無意識のパターンは消え去ります。
これで、人間関係を台無しにする論争や闘争のすべてに、終止符が打たれます。
他者を押さえつけようとするパワーは、強さという仮面をかぶった弱さでしかありません。
真のパワーは自分の内面にあり、それは誰にでも、手の届くところにあるのです。 >>500
ガッテンで初めて「1分以上続いた」レベルだからw
断言などしないほうがいいでしょ。 >>504
いやいや、その人じゃなくて>>498と>>499のこと まあ明言を避ける理由は>>503なんじゃないかとゲスに勘ぐっちゃうけどね俺も >>503
そのエックハルトが言っていることが全てだと思うと、また間違いを犯すことになります。
日本で言えば日蓮の他宗批判の強烈さは有名ですが、日蓮は自らと同じ体験によって人々が
救われるという強烈な信念があった為に、他宗と命懸けでも論戦する必要があったのです。
日蓮は自分の小さなエゴを守るために他宗と闘っていたのではありません。日蓮ほど強烈な
救いの体験を持たなかった宗教家は日蓮ほど強く他宗と闘うことはなかったのです。日蓮に
とって法華経信仰を否定されることは人々が救われる機会を失われることにつながるので、
絶対に許すことは出来なかったのです。
そのように宗教的信念のようなものが存在する場合は、かならずしもエックハルトと言うこと
は当てはまらないのです。(政治的信念の場合も同じようなケースは起こり得ることです。 >>507
なるほど、そういうこともあるんですね。 >>507
まぁ割とその通りなんだよね。
原始仏教はその闘争も放棄しがちで個の安らぎを重視する点で
公に貢献する視点が若干欠けてると思ってる。
確かに教えを実践すれば苦しみから逃れられるけど、厳として悪は存在してるわけで。 >>509
睡眠と瞑想の効果の違い
「サマタは必要ないと仏典に云々」とか問いに対して対照性が無いし
「やれば分かる」とか明言を避けてるし >>507
※※※全て仮設です。 ※※※
でも睡眠体験は信仰じゃないわけだし、
変性意識というのも、信仰が必ず必要かは?
例えば「霊界はある、物質世界より高次のもの」みたいな信仰は、
「前頭前野と海馬がそういうふうに信じた」ということであり、
そこを意図的に緩めることが変性意識の本質なら、ずれてると言える。
信仰を伴う捉え方在り方の人で、変性意識的なことを体験したこと自体は事実でも、
それと「霊界がある」みたいな信仰とはまた別の話なんだと思う。
それを全部同じ思考の地平に押し込むと、
「前頭前野と海馬が信じてる事柄を必死に死守する」みたいなエゴ的な様相が出てくるのではないか。
「前頭前野と海馬、記憶の引き出しなどが」
→『高次のこととして霊界は確かにあり、物質世界だけのフォーマットで捉えるのは無知なのである。』『だから心身は属性に過ぎないと分かっている(→神経症治癒?)』→
これを「信じている」
体験が全てなら、知的な理解や信仰はある意味捨てられるが、
信仰と一体化している捉え方だと、激しく排他性が出る
(自身の信仰を守るため)
※※※全て仮説です。
「霊界はある」こそ真実である可能性はゼロではないです。※※※ サマタとか初めて聞いたから答えられないけど。
睡眠と瞑想の違いは、言葉にしづらいなぁ。
個人的に感じることを言ってみると、
瞑想では「いまここ」が静まってただ「ある」感覚を積極的に体得することが出来る。ゆらゆらと時間的に、或いは抽象的に思考は飛んでいるものだけど、
それが止まった感覚を得られる。
そうするとそれまで雑音で震えてた心がどしっとして、
その後のことも集中しやすくなったりイライラしなくなったりアイデアが湧いたりするんだよね。
一方の睡眠は単なる断絶、中断としてしか「利用」出来ない人がほとんどなのでは?少なくとも、上記のような効果や心的状態を睡眠によって得ることは一般的ではないですよね?
エックハルト?の引用等々でどんな下衆の勘繰りをしたのかよく分からないけど。 >>507
また一通り読んでもない誤認誤解を抱えた自称氏が出てきたか。
証拠、根拠にもとづいて事実を示しなさいとは説いていて、かつ
そしてできる限りのことをしなさいとも説いている。
証拠、根拠のない観念なら妄想者で、虚構の信念を抱えているわけです。
地球は四角いと唱えて闘っている人に、そんな信念に役立つ意味あるのですか。
法華経にプラシーボ効果があるんだって信念か、それも仏教なのね、なるほど。 睡眠は「変性意識過ぎる」んだろうな。
覚醒時の気付きや感覚変化には結び付きにくい。 >>513
明言を避けるのは自己防衛のためなんでしょ?
っていう勘ぐり
>>513では個人的に感じるところを説明してくれているから納得できる >>512続き
前頭前野や海馬の活動〔みっちりとそれらが結び付いてる状態〕を緩めることが変性意識の本質なら
、
前頭前野や海馬で深く霊的な世界を信じる
→「だから心身は属性、すなわち他者の心身も属性でその複合体である社会も属性だと『わかる』」
(仮説)
はある意味ズレてるかもって話。 まぁ、、、実際に瞑想してみれば全部分かるよw(二度目)
それに尽きる。自分は脳波とかのこと何も知らないしw
俺の場合は森田療法にも触れてた経験があったし、大学で海外から来たコーチに少人数で直接手ほどきしてもらったのが瞑想との出会いだったから割とすぐ出来たのかもしれないけど、
テレビや本だけで実践しようとすると大変なのかもね。 瞑想法が異なれば、脳生理の状態も異なることが判明
http://www.tm-meisou.org/blog/archives/720
より
■各瞑想法の特徴
1.集中する方法:ベータ波とガンマ波に特徴がある瞑想法
チベット仏教(無条件の愛と思いやりの瞑想)・仏教(ダイアモンドウェイ瞑想)
2.観察する方法:シータ波に特徴がある瞑想法
仏教(マインドフルネス瞑想、ヴィパッサナー瞑想)・ヴェーダの伝統(サハジャ・ヨーガ)
3.自動的に超越する方法:アルファ波に特徴がある瞑想法
ヴェーダの伝統(超越瞑想) >>510
そういう固定観念は誤解がある。
無抵抗主義でなく、非暴力不殺生。
インドの独立を勝ち取ったガンディーのような例もそう。
そして現在の上座部仏教の某国は、過去にイスラム勢力の侵攻に対し
戦って仏教を維持した経緯がある。
法華経を説く常不軽菩薩は誹謗され迫害されても、仏法に対する怨敵
と他人を迫害し誹謗し返さなかったが。 >>518
瞑想主義、〜主義になることが仏教でないからね。
仏典で瞑想修行なく悟った人がいるのは、なぜだか貴方は説明できないでしょ。
たまに、そんな話をしてないで瞑想でもしろと強要する人がいますが、
それはこだわり煩悩、戒禁取見でもググってみて下さい。 >>516
ええと、不確かなことを思いでもって断定はできないわけです。
その思いから、他者と観念論の論争にも発展します。
瞑想の核心の話はそこではないので、そこにこだわることに何か特別な意義が
あると貴方の中にお持ちなのかもしれませんが。 >>522
なかなか分かってもらえないなあ
問いに対して噛み合わない回答するよね、という指摘
何が噛み合わないかは>>511に書いた
噛み合わないまま議論は進展せず、なぜか格上アピール合戦になるのが、いつものパターン
え?観念論の論争?どれがそれよ??? で「観念論の論争ってどれ?」の問いも「これ」とかえってこないのかな 518etc.だけど、こっちのはちゃんと噛み合ったお返事だったでっしょー??w
仏典において瞑想修行せずに悟った人のことは寡聞にして知らないので説明なんてできませんが、
とにかく今朝も起き抜けに瞑想をしてスッキリ♪ >>526
うん
かみ合ってる
「教えない」って言ってるから形式としてかみ合ってる >>528
明言を避けてるパターンだよね
Q.睡眠と瞑想の効果の違いは?
A.やってみないと分からんよ
指導者がいないとうまくやれないと思うけど
(自分は指導者に着いてやれたけどね) 一日示ニ云ク、我レ在宋の時、禅院にして古人の語録を見シ時、ある西川の僧の道者にて有リしが、我レニ問ウテ云ク、「なにの用ぞ。」
云ク、「郷里に帰ツて人を化せん。」
僧云ク、「なにの用ぞ。」
云ク、「利生のためなり。」
僧云ク、「畢竟じて何の用ぞ。」ト。
予、後にこノ理を案ずるに、語録公案等を見て、古人の行履をも知り、あるいは迷者のために説き聞かしめん、皆是レ自行化他のために無用なり。只管打坐して大事を明ラめ、心ノ理を明ラめなば、後には一字を知ラずとも、他に開示せんに、用ひ尽クスベカラず。故に彼の僧、畢竟じて何ノ用ぞとは云ひけると、是レ真実の道理なりと思ウて、そノ後語録等を見る事をとどめて、一向に打坐して大事を明ラめ得たり。
『正法眼蔵随聞記』「巻3−7」
道元曰く、衆生を教化し利益を与えて救済するのに語録や公案は無用である。
ただひたすらに坐禅をして(生死や涅槃という)大事を明らかにし、心の道理を明らかにすれば、他人を仏道を教え導くことができる、と。 瞑想は浅い睡眠。生活には不十分
睡眠は深い睡眠と浅い睡眠を繰り返す
人間は深い睡眠も必要 Priori3は、ラテン語で「経験的認識に先立つ、自明的な認識や概念」を意味する“a priori”から名付けられたPrioriシリーズの第三弾です。
↑ かく‐せい【覚醒】 [名](スル)
1 目を覚ますこと。目が覚めること。「昏睡状態から―する」
2 迷いからさめ、過ちに気づくこと。
覚醒時は「夢」なので、夢を見て覚醒してるのです
瞑想により覚醒時にも覚醒出来るかもしれません 覚醒と睡眠
http://www.oak.dti.ne.jp/~xkana/psycho/intro/intro_40/ パーリ中部経典ヴァッチャ三明経(テーヴッジャヴァッチャ・スッタ)
第二章
ヴァッチャは、仏陀に対し、このように尋ねた。
「ゴータマよ、仏陀の、在家の信者の中で、在家の束縛を切らず、涅槃に赴く者が居るか。」
「在家に居て、涅槃に赴く者は、一人も居ない。」
「ゴータマよ、仏陀の、在家の信者の中で、在家の束縛を切らず、天界に赴く者が居るか。」
「在家に居て、天界に赴く者は、五百を越える。」
「ゴータマよ、異教の、外道の信者の中で、外道の束縛を切らず、涅槃に赴く者が居るか。」
「外道に居て、涅槃に赴く者は、一人も居ない。」
「ゴータマよ、異教の、外道の信者の中で、外道の束縛を切らず、天界に赴く者が居るか。」
「外道に居て、天界に赴く者は、一人だけ居た。」
「ゴータマよ、それでは、その異教の法は、天界に至るまでは、正しいと言えるのですか。」
「ヴァッチャよ、その法は、天界までは正しい。」
これを聞いた、ヴァッチャは、歓喜し実践した。
→この経典によれば、在家の仏教徒は涅槃までは到達できないが、頑張れば六道輪廻の天界への転生は可能。
ヒンドゥー教などの異教徒は涅槃にも到達できず、かつ天界への転生も大変に厳しい。 >>474
いいえ
「つなぐ」とか「結びつける」という意味です >>542
それは片山の訳で、中村の訳は、心の統一と訳していますね。
ヨーガ=「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」「結び付ける」
牛馬を御するように心身を制御するという、ヨーガスートラでは、
「心の作用の静止、制御」、感覚器官を制御、精神を集中する(結びつける)こと
とWikiにあるけど。実際は制御、集中だけで慧解脱に至らないというのが仏典にある
本筋なので、一句だけだと誤解を与える訳になりますね。 動詞語根“yuj”(ユジュ)から派生した名詞が“yoga”(ヨーガ)。
言葉は前後の文脈で意味を捉える必要があるからから、一元的に単語の意味を
決めることは出来ないし、一つの意味にこだわる必要も無い。
片山訳(瞑想)が間違っているとは思わないし、中村元訳(心の統一)が間違って
いるとも思わない。“yoga”という言葉にも色々な意味があるから。
原始仏典における“yoga”の使われ方もいろいろだね。
現代ではオンラインでサンスクリット語やパーリ語の辞書を検索出来るんだな。
便利な時代になったもんだ。
下のサイトで“yuj”や“yoga”を検索してみましょう。いろんな意味があるよ。
THE PALI TEXT SOCIETY'S PALI-ENGLISH DICTIONARY
http://www.bauddha.net/-pts/
Apte Sanskrit Dictionary Search
http://www.aa.tufs.ac.jp/~tjun/sktdic/ そもそも「瞑想」という言葉がどこに起源があるかというと、大正蔵経を
検索しても出てこないから、少なくとも漢訳仏典に出てくる言葉ではない。
外国語の翻訳において訳語の選択は、それを読んだ人全てに共通理解を
得られる訳ではないから、最終的には読者自身に判断が委ねられる。
だからこそ訳の好き嫌いや訳の読み比べの楽しみも出てくる。
そして学者による侃々諤々たる議論も。 >>544
そもそも、474のヨーガってどんな意味からだから、
そのブログの一句に囚われた話でなく、ヨーガの本来の意味はって
ことで541なんでしょ。そんな講釈は誰もが知っていることなので、
学者ぶって早とちりしないことです。 >>546
俺は“yoga”(名詞)には色々な意味があるから、その参考となるサイトを紹介
している。
Wikipediaに乗っていないことを話題したら駄目なのか? Wikipediaに書かれていることをここに持ってくることを批判している訳ではない
んだ。次に話が繋がるようにしておいた方が建設的だということ。
参考にした文献や引用元、経典の日本語訳の訳者などの明示も大切なこと。
ということでWikipedia“ヨーガ”にはこんなことが書かれているね。
>森本達雄によると、それは、実践者がすすんで森林樹下の閑静な場所に座し、
>牛馬に軛をかけて奔放な動きをコントロールするように、自らの感覚器官を制
御し、瞑想によって精神を集中する(結びつける)ことを通じて「(日常的な)心の
>作用を止滅する」ことを意味する[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC
それでも“yoga”はそれ以外の様々な意味があるから、辞書レベルで調べて
みるのも面白いよ。実際のテキストレベルになるとさらに。 >>550
2号が言いたいのは
>>543
>牛馬を御するように心身を制御するという、ヨーガスートラでは、
>「心の作用の静止、制御」、感覚器官を制御、精神を集中する(結びつける)こと
>とWikiにあるけど。実際は制御、集中だけで慧解脱に至らないというのが仏典にある本筋
ということなだけ。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/70915/69672/79814327
加えて議論では常に自分が優位で終わらないと駄目というスタンスな人であり今回もまた同じ。
まともに相手をする必要はないよ。 >>550
別にヨーガには、様々な意味があるというご紹介は、自由です。
文字や概念を追う表層的理解に終わることが、初期の仏教のしゅしに沿った
方向とは異なるのはご存知ですよね。建設的なことと書くなら、ヨーガの様々な
意味の追求というより、この比類なき私という思いの分析、洞察から始まり、
そこからマインドフルネスに繋がるわけですので。
ヨーガやマインドフルネスの技法という体験主義、体への効果に留まる話がもったいなく、
かつ仏教そのものでなく、慧解脱の仏教の苦の滅の道筋の話、またその
実践は、体への効果とともに、それ以上に得られるものが大ですので。 「思考や自我は自分そのものではない。脱同一化がポイント」と「思考」することは、
思考や自我と意識の脱同一化そのものではなく、
「思考や自我と意識の脱同一化を考える」ということであり、
それなりに効果はあるのだろうな(人生論、精神論、自己啓発書的な効果の形)。
思考や自我から(意識が)実際に離れられる体験が出来るなら、それはまた違う効果性があるだろうな。「体験主義」もいいんじゃないか。
2号さんは前者を高次のものに位置付け、後者を低次のものに位置付けてるよう。
いろいろな見方があるんだな。 「思考や自我は自分そのものではない。脱同一化がポイント」と「思考」することは、
思考や自我と意識の脱同一化そのものではなく、
「思考や自我と意識の脱同一化を考える」ということであるが、
それなりに効果はあるのだろうな(人生論、精神論、自己啓発書的な効果の形)。
思考や自我から(意識が)実際に離れられる体験が出来るなら、それはまた違う効果性があるだろうな。「体験主義」もいいんじゃないか。
2号さんは前者を高次のものに位置付け、後者を低次のものに位置付けてるよう。
いろいろな見方があるんだな。 まとめ(暫定)
・2号さんは変性意識体験などではにく、
「思考との脱同一」という「思考、人生論、精神論」により生きやすくなった。
(現実世界で実践・実体験していく時に、その思想を思い起こしながら進むことで、認知を書き換えしていく)
・無我さんは変性意識体験があるが、それと宗教信仰的な思考が固く結び付いている。
だからあくまでも、効果を本当に出すにはその信仰という部分が大事であり必要と説く。
(『巷の他の技法などにはあまり効果がない』)
・実際は変性意識体験は仏教学んでない人でも起こしている。 【宝彩有菜】瞑想スレ【能力向上・休息】
http://karma.2ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1412594821/78
>なぜ瞑想をしている時、しばらくすると輪郭が溶けていくんだろうと不思議だった
ちょっと怖かったんで、自分なりにどうしてそうなったのか考えてみたんだけど
ジル・ボルト・テイラーと言う脳科学者が、自分の脳が壊れた時のことを記録している
この人は脳が「自分」を司るために機能している部位が壊れた人で
その時の体験を
「周囲と一体になった」と言う俺と全く同じ表現をしている
解剖の養老孟司によると、この部分には動物が移動するための地図があり
地図は「周囲」と「自分」を隔て、動物が空間を移動するために機能していると言っている
これら二つのことを組み合わせて考えてみると
瞑想をする時は、体をピクリとも動かさなくなり「体を動かす」という意識もなくなる
つまり「移動」が意識から消えるので脳内の「地図」も必要がなくなる
結果その部位の脳の活動が弱まる
この脳内の地図の部分が「周囲」と「自分」、と言う「自分」を司る部位なので
そこの活動が弱まると、その部位が壊れた脳科学者と同様に
「自分と周囲を隔てる機能」が弱くなり、輪郭が溶けだす
そして最終的に一体感を感じる結果になる
ただし、脳は活発になっているところに血液が集まるので
瞑想の場合はあくまで「極端にその部位の活動が弱まった」だけであり
壊れた訳ではないので、危険はないものと思われる
全部あてずっぽだけど まとめ〔暫定〕追加
・「信仰」も別に悪くない。
人類は科学が未発達だった時代が長かったわけだから、脳の機能として、神秘性や宗教性の世界観や概念に(も)心を寄せることは不思議ではなくむしろ自然なこと。
(も)でいい。神秘性や宗教性の世界観や感覚世界を「利用」すればいいだけ。
(も)でなく(だけに)だとちょっと微妙〔それも人の自由だが〕。 >>554- >>559
>ID:NElzgz1F
私が説明したことと貴方の受け取った認識は、同じでなく誤解がありますね。
どうも貴方は物事を正確に捉えることが苦手なようです。
まず意識の変容があったと具体的に書いたことがあります。
そしてそこの体験主義とは、自分の信念、執着によるアイデンティティを
構成させているようなことです。それによって自我を構築させているわけです。
それと根拠のない信仰と、根拠のある確信を混同しないようにして下さい。
信仰を否定しているわけでなく、仏典の修行者用の教えに根拠のない思いに委ねた
信仰を捨てなさいとあるのは事実なだけです。篤い信仰は執着同化で自我の構成
になり、ドグマや概念構想との執着同化という自我の構成に変わらないわけです。
人間には、神仏超自然信奉の性向が大なり小なりあることが発達心理学の実証で
明らかにされています。根拠のない信仰に委ねる生き方も、ごく自然にあります。
ええと、貴方がまだ気づいてない教えがあります。自分の思考が自分そのもので
ないのは、なぜなのかという根拠、理由です。初期仏教の高僧は、いきなりそんなことを
教えると宇宙人とか変な信仰と勘違いされるので、順序的に説きませんと言いますけどね。
逆にEハルト氏は、そこから切り込んで、ニューアースで上手に説明しています。
世界的に支持されるだけありますね。でもこの人の教えは、根本仏教と違うところは
あります。分かりやすいという点では、高僧や学者の説明より分かりやすいですね。 >>560
2号さんが実現させた「意識の変容」というのは
・変性意識体験などではなく、
「思考との脱同一」という「思考、人生論、精神論」により生きやすくなった。
(現実世界での自分の生活をいろいろと実践・実体験していく時に、その思想を思い起こしながら進むことで、認知や感覚を書き換えていく)
こういうことではないのですか? >>560
> 貴方がまだ気づいてない教えがあります。
自分の思考が自分そのもので
ないのは、なぜなのかという根拠、理由です。
これは何度も書いてるように、睡眠や夢を見てる時の感覚を考えてみれば一目瞭然なんではないかと。 >>560
ほば>>544に要約されていることの繰り返しに見える >>503
また2号さんは、
エックが言ってるような
思考や信念、執着と自己との脱同一化 ということをとにかく説きますが、
ここでの2号さんの他者との話、議論における姿勢、目的は、
まさにエックが啓蒙してるような
思考や信念との脱同一ということの逆を行ってる気がします。
パラドクス構造がかなりあると思います。
>>503 >>503これですね。エックの話は。
エックの思想をおすすめしながら、
その実ここで(の議論で)はその逆を行ってるのでは?という違和感があります。 「『思考との脱同一化』という思考や信念」も
>執着同化で自我の構成
になり、ドグマや概念構想との執着同化という自我の構成に変わらないわけです。 (>>560)
の一つということなのかもしれません。
しかし『思考や執着、信念との脱同一化』ということを思い起こしながら、生活していくことにも
それはそれで効果はあるのだと思います。>>561 >>561
それは他人の頭の中の意識を確認できませんし、文字だけの疎通で、
貴方のバイアスのある頭で判断していることでもあり、その推測が正確と立証
できるものでもありませんよね。
>>562
それならなぜその思考に委ねて依存し思いに振り回されているのですか、真の自分で
ないものに、いつまでも私は〜と推論、判断、解釈していますよね。
地球は丸いですという類の事実と異なる独自の思い解釈、観念思考の癖がありますよね。
>>564-565
Eハルト氏は、根拠にもとづいた事実を示すことと貴方のような観念的な思いとは、
異なると説明しています。初期仏教の高僧も、根拠証拠があれば、それを示して
大いに話し合って下さいと説きます。
地球は四角いと言って論争してきている相手に、根拠を元に丸いと説明して、
なぜいけないのですか、それはEハルト氏の説くエゴとは異なります。 2号君は自分がよく解ってもいないのに、他人に何かを教えることによって自我のプライドを満足させようと
している人ですね。2chで教師気取りをすることが彼の生きがいになっているのでしょう。脱同一化や慧解脱
などという言葉を使って何か自分が深いことを知っているつもりになっているようですが、彼は実際の宗教体験
は何も持っていないのです。(気持ちが少し楽になっただけで、何か真実が解ったと勘違いしているのです。)
神経症の人は仏教的(超越的)真理を求めている人が多いですが、言葉の上でいくら理解したつもりになっても
神経症は消えません。神経症を本当に治したいなら、言葉の上で解ったつもりにならないことが大切です。
言葉の上で解ったつもりになると、それが本当の体得の妨げになるからです。
仏教の求道の過程で重要なことは、「わからない、わからない、・・・わからない、・・・わからない!」 と
思い続けることです。本当に 「わかった!」 と思った時には神経症は消えているのです。ですから、その時が
来るまで 「わかった!」 と思ってはいけないのです。 >>568
それこそ月をさす指の話で、教えは言語を使わないと説明できません。
人が根拠を元に説明していることと、自我の構築は別物です。
問われたから話しているのです。そしたら何も説明できません。 >>569
それならなぜその思考に委ねて依存し思いに振り回されているのですか、真の自分で
ないものに、いつまでも私は〜と推論、判断、解釈していますよね。 2号さんは誤魔化してるだけ。
要点をつかんでない、答えてない
それっぽい文章を書いて
煙に巻いて優位性を保ちたいだけの文。
まさにエックの啓蒙してることの逆を行ってるだけの文章。>>503
要点をつかんで返せないなら書かないで。 >>570
また自称氏が出てきたか、そんな主観、憶測妄想、バイアスのある頭の人が
観念論でいくら否定しても、それが正しいことになりません。
このスレで反マインドフルネスの誤りのある欠陥宗教を説きに来たようだけど、
私が全部、根拠を元にはねのけたので、無理でした。スレチなんでさよなら。
他スレでも、貴方の言葉に騙される人は数人以下で、付いてくる人いませんでした。
それと貴方の人格がだめと多数に非難されてましたね。そんな人に説得力ありません。 無我を頭でっかちなものではなく「体得」に変える「実践」とは何か?→回答出来ず。
>>561→回答出来ず。
「こちらはとにかく根拠事実を示していますから」みたいにたびたび自負、差別化しますが
・・肝心なところには何も回答なし。 >>574
>私が全部、根拠を元にはねのけたので、無理でした。
それはすべて君の妄想ですね。
仏教の専門家にとって <大乗非仏説論> など常識であり何の価値もないことも知らずに、
それが何か大きな意味があるかのように熱心に書き込んで恥をかいたことも忘れたのかね?
君は仏教の素人なのですから、仏教のことについて口を出してみても専門家には相手にも
されないことしか書けないのです。
http://www.omijo.com/syuuhen/tenjin.html >>555
「意識が実際に離れる体験」がなければ神経症は治りません。
「脱同一化、脱同一化」 などとオマジナイを唱えているのは、何とか自由になりたいという気持ちの表れ
であって体験がない証拠です。
体験が出れば、「脱同一化」ではなく、それを観ている「本来の意識」の内容が関心事になります。
「脱同一化」が関心事である間は、まだ 「本来の意識」を知らないということです。
原始経典の大部分が 「脱同一化」 を目指す内容です。大乗経典の大部分は 「本来の意識」 の世界
です。原始経典を書いた人々と大乗経典を書いた人々とでは境地に非常に大きな差があることが分かります。 >>573
>2号さんは誤魔化してるだけ。
>要点をつかんでない、答えてない
>それっぽい文章を書いて
>煙に巻いて優位性を保ちたいだけの文。
違う違う、みんなを煙に巻いてただ遊んでいるだけ。
何も体得してないというのには同意。
まともに相手をするだけ無駄、そんな時間があるのなら瞑想でもしていた方が良い。 >>569
それならなぜその思考に委ねて依存し思いに振り回されているのですか
何故思考などが自分そのものではないかは睡眠などを考えれば分かる。しかし、それがわかってすぐにどうということでもない。
だから
>無我を頭でっかちなものではなく「体得」に変える「実践」とは何か?
って聞いてるんですよ。
理知的な理解と実践的感覚的な体得には距離がある。
現実的感覚的なすり合わせということでは>>561
こういうこともあるでしょねと。
どんなもんですかね?
って素直に聞いてるだけですよ。 >>573>>575
ブッダの教えに、このことを説くことがないとあります(笑)
あと私の拙い文では貴方に伝わらないのでしょう。それに、
Eハルト氏の本の内容を読んでも、分からない人でしたので。
今現在において、そういう機根がない人なのかもしれません。
それなら反マインドフルネスの自称無我氏に付いていったらどうでしょう。
明日早朝から用事があり寝ます。ではまたご縁があれば。 >>561ということなら、それはそれでいいし、そこの実体験をさらに詳しく書けば他の人の参考になる。
(違うなら違うで説明すればいい。)
「変性意識体験なんてないしなあ・・」などと卑屈になり、虚勢を張らなくたっていい。
エックがまさに言っていること。>>503
結局「思考との脱同一!」という説明的文章と「原始仏教がそうですから!」を繰り返すだけ。
(「仏陀は変性意識体験などなかった。理知的に事実としての無我を
理解し苦から解脱してのだ!」
という証拠でもあるんだろうか。) >>581 >>579
2号です。例えば、そのトホホなる思いと同化させないのです。
思いと同化させているからトホホと貴方自身が思ったのです。
頭の中で、それは自己とは異なるものと観行客観視の実践ができてません。
※怠っていたら体得もできません。Eハルト氏は、常に思考を見張れです。
座って、さてやろうという瞑想のみでないのです。起きている間もできます。
それを怠って、貴方は頭の中で思考同化させているではないですか。
ええと、※>>319でリンクしたテーラワーダ僧の著書は読んでないのですか。
そこに、名色分離智から行捨智まで説明されています。
後半の方に、思考と自己の脱同一化の話があります。以下抜粋です、
「対象から全く距離を保った心で、対象から全く距離を保った態度で、
完全な非−同一化の状態で観察します。あなたはそれを自己として観察せずに、
完全に対象から切り離された態度と、完全な平静さを保ちながら、 同時に強い注意力を
もって観察するのです。」
Dhp.279「全てが自己ならざるものである(諸法無我)と、智慧によって観るとき、
苦しみについて厭離する。−−これは、清浄への道である。」
では朝から外出の用事がありますので、夜まで書き込みできません。 >>584
Q「あなたが持ち出してきた引用>>503で窘められた行動を、あなた自身が取っているように見えます」
A「あなたがそのように感じること自体、脱同一化ができていない and/or Eハルトを理解してない証拠です」
問いに対して「自分は窘められた行動をとっていない、なぜなら・・・」という答えをしない
なぜか? で、自身への言及と分析をレトリックで避けるこの「なぜか?」の答えが、2号(無我もだけど)の人一倍強固でデカい我執に見えて仕方がない 瞑想関連のスレを見てると大抵、この手の自己分析・言及にプロテクトがかかってる奴が識者ポジションを得ようと、ライバルのこき下ろしに必死
なぜなんだろう?
瞑想ってテーマがこのタイプを引き寄せる何かを持っている? >>587
個人でやってるのか複数の信者が来てるのか知らないけど、
昔から瞑想スレってマイナーなスピリチュアリストや新興宗教の布教活動の場になりやすい
IDを使い分けてマジレスの応酬(質疑応答、絶賛など)&他人のレスを叩いて排除、という流れ
以前はオカ板や超能力板にも瞑想スレがよく立っていたんだけど、そういう経緯があってたいてい過疎ってる
自作自演が疑われる場合は、ワッチョイを導入するのがいちばん手っ取り早いんだけどね
スレを立てるときものすごい抵抗があるけど、実際に立つと急に平和になるw
宗教板は残念ながらワッチョイに対応していないので、導入したかったら運営に板設定の変更を申請するしかない 昔、禅寺の坊さんと話したことがあったけど、座禅は悟るためにやるもんじゃないって言ってて(まあそれ自体は知ってたわけだけど)、全ての生命を慈しんで、苦しみから救うことを目指す生き方を残してくれた仏陀への感謝な気持ちのあらわれとして座ると。
だから座禅には何の効果もありませんし、何の役にも立ちませんよ、ってあっさり言われた。というか、正直効果というものはあるんだけど、禅には邪魔なだけ。
そこで悟りについて聞いたら、
銀行にいっぱいお金を持ってることを知ってて一所懸命人生を生きるか、知らないで一所懸命生きるかの問題で、知りたいと思うか知らずともよいと思うかは単なる趣味。人生の力点は人生そのものである。
問題なのは、ただ人生を一所懸命生きること、それに自分の価値や自我の置き場を見つけられない人が、巨大な己の我を満足させられる絶対の解を求めて禅や瞑想の世界に悟りを目指して踏み込んでくる。道元禅師のころからある事で、困りものだ。
ということなので、昔っからよくある事なんじやないですかねー >>589ありがとう
>>587の答えとして、とても腹落ちできるし、現実との折り合いのいいバランスの取れた見方だなあと共感した >>588
まあ、あからさまな自演は一人しか知らないなあ(最近見かけない)
自分としては、営利目的と考えるよりも業の深い奴がいる、という仮定で書き込んでおります
その方がレスしがいがあるから
ちなみに俺はID:KQwDLSwkでもあるけど自演じゃないからなw >>586 = >>591
私から見れば一番我執が強いのはMZ君(自演坊や)、つまり君自身だよ。
神経症から全く自由になれないことがそれを表わしていることに気付きなさい。
社会で働くことから逃げ続け、自分は頭が良いから理論である程度解明できるだろう
などというウヌボレが最悪の我執であることに気付くが必要があるのですよ。
>>589
>巨大な己の我を満足させられる絶対の解を求めて禅や瞑想の世界に悟りを目指して踏み込んでくる。
そのようなことは禅僧なら誰でも言うことで、別に大きな意味はありません。
達磨大師の法を継いだ二祖の慧可禅師も最初はそのような思いを持って達磨大師のもとを
訪れたのですから、最初はみんな同じなのです。誰もが学道が進むのに従ってその間違いに
気付いていくのですから、最初はそれでよいのです。 >>481
それは瞑想ではないね。
有分心に落ちているだけ。 >>593
瞑想やりまくってる時幻覚が酷かったから程々にってのはガチ >>592
俺が話を聞いた禅寺では「最初はいいのです」なんてちょろい事は言わなかったけどねw >>585
誤認誤解がありますね。
まず論争といっても、例えば地球が四角いという人に、丸いですよと
説明して何がいけないのでしょう。
根拠を元に事実を示すことは、初期仏教の高僧も大いに話し合って下さい
と説いてます。
そして自分の中にあるエゴを相手に見るユングの投影を、Eハルト氏は
説いてなかったでしょうか、また仏典には相手のことより己を観察せよ
という教えもあります。
MZさんは、頭で観念的にいろいろ考える癖があるので、相手のことより、
まず自分の内省をしてみてはいかがでしょう、敵は他者でなく自分の心です。
それと579に対して、584を書いたのですよ。 >>597
それはその坊さんがちょろいのでしょう。 暫定まとめ(2)
・2号さん説
変性意識体験などではなく、
「思考との脱同一」という「思考、人生論、精神論」により生きやすくなる。
とにかくひたすら己の思考や観念を客観視して
「全てが自己ならざるものである(諸法無我)と、智慧によって観る」 >>584
(現実世界での体験とのすり合わせについては言及せず、思考上の話に始終)
→思考のこねくりまわし(レベル)で救いが起こる、生きやすくなる(?)
・無我さん説
「無我の宗教体験により、神経症が消える」
無我さんは変性意識体験があるが、それと宗教信仰的な思考が固く結び付いている。
だからあくまでも、効果を本当に出すにはその信仰という部分が大事であり必要と説く。
(『巷の他の技法などにはあまり効果がない』)
※強い信仰と他の教えへの排他性で言説がたびたび曇る
・実際は変性意識体験は仏教学んでない人でも起こしている。
・>>503 >>598
MZって人ではないのだが、、、
証拠を示せと言っているのではなくて「なんで問いに対してまっすぐ答えないんだろうなこいつら」とスレ住民に愚痴ってるんです
勿論なんだかんだで本人からの反論も期待してたんですが「お前MZなんだろ?私を叩いてるのはまさにあなたの自己投影だ」と諭された
つまり>>585のQへのまっすぐな回答はなく、ああやっぱりな、と感じるわけ 「いろいろ他の人の言説を分析してないで、自分に向き合いなさい。これは真実なのですから素直に試してみなさい」
言うけど、
2号さんと無我さんの説自体真っ向から意見が違ってて、
「そうか真実か、素直に試そう」なんてなりようがない。 ちなみに俺から見えてる無我・2号論争って
・マインドフルネスのルーツは上座部だよ。集中に重きを置くやり方を見たら明らか
・カバットジンが「禅」つってるんだから大乗だろ
あたりから始まって
・上座部流と大乗流のどっちの瞑想が釈迦の正嫡か?
あたりで色々知ってんだぞアピール
・そもそもお前自身がひけらかしてる上座部or大乗の理解は正しくないぞ
・いや、分かった気になってるのはお前だし
・理解してない証拠に病気が治ってないじゃないか
で残念な罵り合い
こんなもん 「問い、質問」とは何かって改めて思い起こすと、
(はぐらかされてるから流れてしまいがち)
2号さん
→・2号さん的無我と瞑想の関係性、瞑想の意味は?
・無我を頭でっかちなものではない「体得」にする「実践」とは何か?(それに対する既存の返答も頭でっかちな無我 の印象)
(頭でっかち無我もひたすら続けると効果が出てくる!?)
・現実的な体験とのすり合わせによる認知、感覚の更新こそ大事なのでは? >>561
無我さん
→・特になし
(無我さんが強い信仰的な捉え方
を合わせ持ってるのはわかったしそれはそれで人の自由。〔それに他の人が盲目的に従う必要もない。〕
変性意識体験は、仏教を深く学んだりしてない、宗教的信仰心がない人でも起こしている。 ) >>600
いえいえ、私は変性意識体験がないとも書いてなく自身としてありました。
嘘はついてません。精神論というより実践哲学と、よく学者は書きますね。
>>601
貴方の頭の中に、こうでなければならないという、すべき思考という臨床心理学で
いう認知の歪みがあるようです。それもバイアスに過ぎず、貴方の頭の中の虚構でも
あるのです。ですので、貴方のあれこれ観念的に思考する癖を常に観察客観視して、
これは自己でないものと実践を続けてみて下さい。変性意識も顕れるようになります。 >>602
自称無我氏は反マンイドフルネスの大乗思想のアプローチで、私の方は四諦根本仏教が元で
マインドフルネスのルーツとなるものです。彼は根本の教えを貶める洗脳を受けていて、
かつ自分の宗教の布教の狙いもあるので、こっちに来て貶めに来てるだけです。
教えの中身も重なっている部分はあるのですが、毛嫌いしている方なので認めません。 >>607
争いをしに来ているのは、自分の宗教の布教の為、貶めに来る彼の方です。
その内容が一方的で誤りがあり、私の方で根拠を元に事実を示している
だけのことです。彼は洗脳された盲信な方なので、それを直視せず認めませんがね。 >>603
「仏教経典には確かにこう書いてありますから」って根拠として言われてもそれは客観的根拠にはならないな。
2号さんや無我さんを盲目的に信じず批判的視点も持って捉えるように、当然仏教自体も疑うのが客観だ。
>>605
「実践哲学」つまり>>561こういうことの中て起こった感覚や意識変化が、2号さんにとっての変性意識体験なんではないですか?
>>558こういう体験はないのですよね? 黙ってNGすれば独り言言うだけになって、しまいにはやる気なくすよ。黙ってNGすればいいよ。いちいち感情ぶつけるから相手も感情をぶつけてきてるだけだから >>605
「ちゃんと問いに答えなよ」「そんな風に思えるのはあなた自身の認知の歪みが問題」って水掛け論にしかならないし、もういいかも
私は「やっぱり答えなかったな」と記憶し
あなたは「認知の歪んだやつに絡まれたな」と記憶する
というところにしか落ちないよね
にしても変性意識とか神経症とかMZとか、変なカマかけしてくるのは何なのさ・・・ >>604
>(無我さんが強い信仰的な捉え方
>を合わせ持ってるのはわかったしそれはそれで人の自由。
君が私(無我)について書いていることは間違いです。
大乗仏教を信仰だと思っている仏教素人の2号君の影響を受けたのでしょう。
大乗仏教の基本は哲学(仏教哲学)なのです。
原始仏教の多くの弟子達には無かった哲学的洞察が大乗仏教の本質で、信仰は
その後に生まれた宗派なのです。2号君は仏教の専門書などを一冊も読んだこと
がない素人なので、何も知らないだけです。
尚、一般の変性意識体験と仏教の宗教体験は同じではありません。たとえば、
オウムの人達の中には変性意識体験を持った人達も多くいて、彼らはそれが
悟りへの段階だと捉えていたようですが、正統の仏教から見れば妄想体験に
過ぎないものです。 >>612
・「哲学」で「宗教体験、救い」を起こせる
・仏教経典の文は宗教体験を起こさせるための指に過ぎず、指自体が真実なんけではない
??
→大乗仏教の「哲学」は「それ自体が真実ではない指」ですか??
「オウム」というキーワードを出して強引にイメージ操作するような返し方は駄目だわ。
ちゃんと返せないことの裏返し。
「正統な仏教、正統な変性意識体験」などと言葉で言うだけなのも返答として意味を成してない。
「正統な」とか言って排他的になってるのがまさに信仰そのものだし。 無我さんへの質問
→・特になし
と書いたのだから返さなくて良かったのに。
「これが唯一の真理だ」
「巷の他の療法、教えなど効果がない、薄い」
「これは信仰ではないのだ」
なかなかこれらで整合性を取るのは難しいでしょう。
だから別にいいということでしょう。信仰は信仰で。 >>613 >>614
仏教の哲学的洞察は「指」というよりも「舟」です。それによって悟りの世界に行けるものですが、
「舟」なので「悟り」そのものではありません。
「正統な」というのは、どの大学の仏教学科でも教えられている大乗仏教哲学の内容ですから、
実体があるものなのです。信仰ではなく、宗教体験を持った学者達によって代々受け継がれている
考え方なのです。オウムに限らず、一般の変性意識体験は個人の体験として捉えられるものが大部分
ですが、正統仏教の宗教体験は「無我の体験(無心の体験ではありません)」ですから、個人の体験
という自覚がないのです。ですから、悟りへの段階ということなどもあり得ないのです。 >>612
自分の信じる思想に都合よく解釈するのは、相変わらずのようですね。
哲学化するなが根本仏典の教えにもあるわけです。
そして宗教的ドグマでなく、かつ執着同化して抱くなという教えです。
貴方はその逆なのです。学術研究、仏教学者の否定も受け入れないほど、麻痺してます。
貴方のいう仏教専門書なんて、春秋社、理想社ぐらいなものです。
時間認識、空間認識、自我認識の誤まり等々説いているようだけど、
その先の知見、洞察智がなく、思い込みによって病が治った私と自称して、
宗教の布教に勤しんでいるだけのようです。事実を直視できないほど洗脳されてます。
>>437>>438は、そんな貴方への仏典からのメッセージにもなっている。 なんか変性意識状態については「宗教的観点では特に意味の無い、むしろ価値を置いてはいけない」でコンセンサス作れそうな気がする
件のレム睡眠っぽい状態を識別するサインになるか?という論点はあるかも
個人的な見解としては「なんかシュピーンとして面白いから入ると得した気分になるよね」かな
自律訓練法で初体験だったし、ただの生理現象としか思えない >>616
結局「大乗仏教哲学」は「舟」であり「それ自体が真実なのではない」ということでしょ?
>どの大学の仏教学科でも教えられている大乗仏教哲学の内容ですから、
→実体があるものなのです
「実体」につながりません。
大学の学び=実体 なんてならないです。
「信仰ではなく哲学」と示しても
結局「それ自体が真実なのではない」
→
「結局体験が全て」
→
「正統な仏教」以外の体験を間違いとする根拠など存在してない
>個人の体験として捉えられるものが大部分ですが、
→その根拠が示されてない。
そして、そういう説明自体が
・「属性ー意識ー本体(個人性のない宇宙大の無意識)」
・物質世界を越えた霊的世界がある
こういう信仰を基に言ってるというパラドクス。 森田療法過去スレ
無我さん
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1467213720/117
> 神経症が治った私から見ると、神経症というのは 「業病」 なので業が尽くされなければ治らないと思います。
軽い人は業が軽いので少しの苦しみで治りますが、妄想が出るような重症の人の場合は業が深いので相当
大きな苦しみを長期間に亘って受ける必要があるようです。欧米の凡人の心理学者達が考えた方法論は
ほとんど役には立たないでしょう。薬は症状を抑えてくれるので上手に使えば大変役に立ちますが、それに
よって神経症が治るということはありませんね。
ところが、仏教を学ぶことによって神経症が治った人は結構いますし、キリスト教の信仰によって神経症が
治った人も個人的に知っています。
それを考えると、何か目には見えない神仏の御加護というものの存在も否定できないと思っています。
「信仰によって心が無心になるから」 などという常識的な分析ではとても説明できない世界が存在している
ように思うこの頃です。
そもそも 「精神医学」 というものがまともな学問として成り立つのかどうかも甚だ疑問だと言えるのです。 「信仰じゃない」
と示したい〔煙に巻きたい〕のだろうが
「他の変性意識などはまがい物 」
などと排他的に語り、
まさに「信仰」であることを露にしてる。
そもそもこちらは「信仰」も別にいいよね。って示してる。
「信仰じゃないぞ」と返す必要がない。
強い信仰(「これが真理真実だ」と核心)は
「これは真理真実であって信仰ではない」と返すことによって
他からは「まさに信仰だ」と思われる構造なんだろな。
だから「信仰も別にいいと思うよ。」って書き方が信仰者からしたらNGなんだろな。
まあ無我さんの専用スレでもないしそこはしょうがない。
胡麻すりしてもしょうがない。 >>617
春秋社、理想社? そんな出版社からは仏教の専門書はほとんど出ていませんよ。
君は仏教を正式に学んだことがなく師匠に就いたこともなく、一般向けの仏教入門書を
読み漁った程度の知識しかないから、<大乗非仏説論>についても馬鹿げた見解を披露
して大恥をかいたのですよ。だから、君はもう仏教について書くのはやめなさい。
何度も書いたように、君が本当に「無我」が解っているなら、エックハルト・トールや
カバット・ジンの思想などはどうでもよくなるはずなのです。つまり、君がどんなに
仏教で神経症が治ったと嘘をついても、君の次から次へと続くスピリチュアル系指導者の
遍歴が君の神経症が治っていないことの証明になっているのです。
>>619
それは以前からの君の得意な妄想思考だね。
「自分の思考は正しい」という思い込み(=妄想思考)に気が付かないようだね。
君は私の「無我思想」を理解できていないのです。
まあ、理解すれば君の神経症も治るということなのだが・・。 マインドフルネス瞑想のスレなのにマインドフルネス瞑想否定して、ただの仏教スレになってるのおもろない? >>621
君は「信仰」によって救いを得た体験がないのだから、「信仰」の本当の意味は解らないはずです。
そして、それは私も同じなのです。私の体験は「哲学的洞察」による宗教体験だったので、私も
「信仰」の体験はないのです。「信仰」による救いというのは「帰依」の心から得られると言われて
いますから、私が言っている「無我思想」は帰依とは無関係のものなので「信仰」とは別物です。
>>620 の「何か目には見えない神仏の御加護というものの存在も否定できないと思っています。」
という部分は、信仰によって神経症が治った他の人々を見ての感想であって私自身の体験ではないのです。
「科学も一種の信仰である」などという場合の「信仰」は、全く別の話になります。) 『私は「絶対的真理」を知っている(信仰的な尺度、世界観を土台にしてる)私の言うことを素直に聞きなさい』
→
「信仰」が明らかに入ってますね。別にそれも人の自由ですが。
客観的絶対真理などではないですね。盲目的に聞き入れるようなことじゃない。
→
何も返せなくなる
→
「妄想〜馬鹿〜」 >>626
「哲学的洞察(←宗教的信仰含む)」による宗教体験
ということを絶対視する信仰 「これが絶対的真理真実だ(←信仰」(本人は「真理、哲学だから信仰ではない」)
パラドクス
真逆の視点
「哲学だから〜」「信仰でない」
と示す
→
それ自体が外からは「信仰」 エックハルト・トールは言います。
あるいは「私は自分が不死の霊(スピリット)であることを知っている」
「もうこんなおかしな世界にはうんざりだ。私が望むのは平安、それだけだ」と言う人もいるだろう。
だがそれも電話のベルが鳴るまでのことだ。
悪い知らせが来る。株価が大暴落した。取り引きが失敗しそうだ。自転車が盗まれた。
姑がやってきた。旅行がキャンセルされた。契約が履行されなかった。相手はあなたのミスだと言う。
ふいに怒りや不安がふつふつ沸き起こる。声が荒々しくなる。「もう、黙っちゃいないぞ」。
あなたは詰り、非難し、攻撃し、自己防衛し、自分を正当化する。すべては自動操縦で行われる。
さっき自分が望むのは平安だけと言ったが、明らかに心の平安以上に大事なものがあったわけだ。
それにあなたはもう不死の霊(スピリット)でもない。
取り引き、金銭、契約、喪失や喪失の脅威のほうがもっと重要だったのだ。
誰にとって?あなたが自分だという不死の霊(スピリット)にとってか?
いやいや「私」にとってだ。
移ろい変化するものごとに安心や満足を求め、それが見つからないからと不安になったり怒ったりする「小さな私」にとって、である。
これで少なくともほんとうは自分が何者だと感じているかは明らかになった。 >>630
君はいつも「自分の思考は正しい」と思い込んでいるんだね。
それが君の神経症の元になっている可能性を考えた方がいいでしょう。
君が本当に求めているものは、「自分の思考が正しいことを証明すること」なのか、
それとも、「神経症から開放されること」なのかをよく考えた方がいいでしょう。
「神経症が治る為なら、これまで大切にしてきた自分の思考法など捨ててもいいや」
と思えるようになれば、先に進める可能性も出て来るでしょう。 >>626これは
絶対的神、一神(教)などに帰依するような信仰とは違うと言ってるだけであり、信仰の種類が違うというだけ。
「神経症は基本業病」
とか「物質世界を越えた霊界がある」とかを
「哲学であって信仰ではない」とか言っても客観性なし。 >>632
>「神経症が治る為なら、これまで大切にしてきた自分の思考法など捨ててもいいや」
=ゴリゴリの宗教世界観信仰
ではないですよ。
無我さんがそうしてきたのは自由ですが。
無我さんこそ2chで何やってるんですか?
信仰じゃなーい!
とか必死に方便ふりかざして
己の宗教信仰を「死守」してないで
ブログとか作って
賛同者たちと落ち着いたやり取りすればいいんじゃないですか?
ここでは無理ですよ。 まさに今までの無我さん暴走の構造を端的に表してる
「これが絶対真理です。
他はまがいものです。」
→
「信仰的な部分が強いですね。
ちょっと・・」
→
「馬鹿者!
信仰じゃない!哲学だ!真実だ!」
これを無限ループ。
妄想ストーリー
「これが絶対真理です。
他はまがいものです。」
→
「わー凄い!ついに真理を見つけた!他のはまがい物だったのですね!」
→
「そうじゃそうじゃ」 エックハルト・トールは言います。
自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることになる。
そうなると宗教はイデオロギー化し、優越感という幻想を生み出し、人々の間に分裂や紛争を引き起こす。
「真理」に役立てれば、宗教の教えは目覚めた先輩たちが残した道標、地図となってスピリチュアルな目覚めを、
つまり形への同一化からの解放を助けてくれるだろう ん?アドラースレにエック文を貼り貼りしてる人登場?
>>502
>>503 >>634 >>636
「神経症が治る為なら、これまで大切にしてきた自分の思考法など捨ててもいいや」
↑ このように思えない人は、まだ余裕があるということです。
余裕がある間はそれでもいいでしょう。
しかし、年齢を重ね経済的にも窮乏して来れば、いつまでもそのままでは居られないはずです。
「ちっぽけな自分の思考など早く捨てておけば良かった!」と後悔しないようにしてもらいたいものです。 >>631 >>637
エックハルト・トールも良いことをいろいろ言っていますが、間違いも含まれていますね。
教養として読むのはいいですが、彼の本を読む人のどれだけが神経症から自由になれるかは
未知数だと言えるでしょう。 >>639=ゴリゴリの宗教世界観信仰
ではないです。
また無駄が多かったり感情的な議論を排して、落ち着いて無我さんの教えを伝えることがいいと思うならブログを立ててください。
>>636の妄想と過ちのループに気付いてください。
「信仰」が必ずしも悪いわけではないですし。 余裕がある間はそれでもいいでしょう。2chで信仰死守バトルなどをしていてもいいでしょう。
しかし、年齢を重ね先がいつまでも続くわけではないと気付いたなら、いつまでもそのままでは居られないはずです。
「ちっぽけな自分の思考など早く捨てておけば良かった!」と後悔しないようにしてもらいたいものです。 「人から言われてブログ立てるなんてムカつく!」
なんてちっぽけな自分の思考など早く捨てておけば良かった!と後悔しないようにしてもらいたいものです。 >>641-642
>妄想と過ちのループに気付いてください。
それが、君の「自分の思考は正しい」と思い込んでいるところなのです。
君には「妄想と過ちのループだと思える」ということに過ぎないのです。
仏教をきちんと系統的に学べば、君も理解できるようになるでしょう。
私は自分の神経症の問題を解決してしまったので、将来に後悔が起こることは
ないのです。経済的に困る可能性もないのです。
君は将来は、すべての面で心配しなければならないことをよく考えましょう。 エックハルト・トールは言います。
闘いは心の癖で、そういう癖から生じる行動はすべて、悪と想定される敵をかえって強くするし、
たとえ闘いに勝っても、打ち負かした敵と同じような、
それどころか、もっと手ごわい新しい敵、新しい悪を生みだす。
あなたの意識の状態と、外部的現実とのあいだには、深い相関関係がある。
あなたが「闘い」という心の癖に囚われていると、
あなたの知覚は、きわめて選り好みの強いものとなって歪められる。
言い換えれば見たいものしか見ず、しかもそれを曲解する。 >>644
いいからくだらない詭弁うだうだかましてないで
「真実の教えの(?)」ブログを立てなよ。
少なくとも私と議論してる時点で同じ穴のむじななんだから。
「真理を知るもの(?)」として
それ相応の(とりあえずブログを立てるだけ)立ち位置に身を起きなよ。 >>636明らかにこれはガチです。
いや違う私は正しい というなら
根拠をどうぞ?
「私と同じ穴の狢」が全てだと思いますが。 >>644
将来の不安、過去の後悔・・
無我さんは輪廻信じてるからね 過去の公開
→来世がまたある
将来の健康不安、生死の不安
→来世がまたある 属性は本体じゃない
で 神経症が治り(?)
今度はその属性の輪廻を信じてるのだからなかなか都合がいい >>645
エックハルト・トールの言うことは一面的な真理に過ぎないものが多いですね。
前にも書きましたが、日蓮のように信念を持って闘う必要があるときも多いのです。
中国の唐代、禅宗の興隆期には各派での論争が非常には激しかったことで有名です。
(初期禅宗史書の研究 ・柳田聖山著)
>>646-650
>少なくとも私と議論してる時点で同じ穴のむじななんだから。
>「私と同じ穴の狢」
???
全然違います。
君は神経症の為にで働くことが出来ず、毎日2ch三昧ですね。
私は年金をもらっていて、今も社会で働いています。 エックハルト・トールは言います
わたしたちは、自分にも、他人にも、ちょっとした「わたしの物語」を話すものですが、
これは往々にして、「苦情」の形をとることが多いものです。
この習慣は、他人や物事を「悪者」にし、自分を「正しい人」扱いすることによって
日常的に抱いている「わたしは不完全な人間です」という自己認識に、
知らず知らずのうちに拍車をかけるしくみになっています。
「正しい人」になることによって、自分が優越なポジションにいるような錯覚におちいり、
偽の自己であるエゴを増大させているのです。
これはある種の敵をつくることにもなります。
エゴは自分のなわばりを確保するために「敵」をつくりたくてしょうがありません。
天気でさえも、その役目を果たすほどですから。 >>651
何の戦いなんだ?w
属性肩書きの戦いなのか?
それをしに2chで書き込みしてるのか?
>>636これが真なりではないという客観的根拠を示せるならどうぞ? 「人から言われてブログ立てるなんてムカつく!」
なんてちっぽけな自分の思考など早く捨てておけば良かった!と後悔しないようにしてもらいたいものです。 取り敢えず連投止めれ!
落ち着け!
水でも飲んで来い! >>652 などを投稿し自身は沈黙し「正しい人」になることによって、自分が優越なポジションにいるような錯覚におちいり、
偽の自己であるエゴを増大させているのです。
これはある種の敵をつくることにもなります。
エゴは自分のなわばりを確保するために「敵」をつくりたくてしょうがありません。 >>651
ですから、その信念がエゴに起因するものでしょ。
ある精神的な見解、認識(宗教思想等)の立ち位置に執着,同化していて、
絶対視し、主にそれは、自分の信念、価値観こそ正しいと盲目で、その自己フィルター
を通し異なるものに排他的、差別的、敵対的、攻撃的にもなるわけです。貴方の頭の中もそう、
気づきのない思考です。けど決して無抵抗主義ではなく、質の高いノーはあると説いていて、
できる限りのことをしなさいというのが、エックハルトの教えですよ。 >>652この人はこのスタイルでアドラースレに貼り貼りを続け、
それによってアドラースレにあらそいを生み出した。
酷い欺瞞的ポジションである。
このスレにもまた新たな争いの火を投じている自覚はないのだろうか。
少なくとも自分の言葉を添えるべき
「感情的な議論をしちゃう心はやっかいだよね。
私の好きなエックもこう言ってる。
〜引用 >>653-654
君は早く神経症を治して働けるようになることです。
それが出来ないであれこれと理屈をこね回していても、何にもならないことに気付くことが大切だよ。
君がこれまでに考えたついた結論で現実に神経症を軽くしてくれたことがあるかどうかを考えてみれば、
自分の考えというものの馬鹿馬鹿しさに気付くはずだろう。
私は君と議論をしているのではないのだよ。神経症が消える思考法を教えてあげているだけなのだよ。
それに反論して君が神経症のままでいるのは君の自由だ。 >>659
うんだからずれてんのよ
返しが。
一応神経症者を救うために来てるんだろ?
そんで少しでも突っ込まれると怒りまくり、
最後は「お前は神経症治ってないくせに〜」とか言ってる・・
ほんと>>636このループをひたすらしてるだけで、
ブログ立てて落ち着いてやっていく、賛同者と対話するほうが明らかにいいでしょと。
違いますか? >>659
>あれこれと理屈をこね回していても、何にもならないことに気付くことが大切だよ。
と、相手に言ってその相手とずっと論戦してるわけ。
そんで自分の書き方、在り方だけは間違ってないなどと言う。
ブログどうぞ。
「人に言われて立てるのなんてムカつくから立てない。
2ちゃんで論戦してたほうがいい。」
程度の教えなんですかね。 >>660-661
>そんで少しでも突っ込まれると怒りまくり、
どこで私が怒ったと言うの?
君が自分一人で怒ったと思っているだけなのだよ。
君はお父さんから怒られた感情を他人に投影しているのでしょう。
私が強い調子になるのは、「素直に聞けば神経症が治るのに!」
という残念な思いからなのだよ。
あと、2号君のように間違った仏教を教えようとする人間は許せない
ので怒ることもあるが、それも、それによって治る人も治らなくなって
しまうからであって、私自身の為に怒るのではないのだよ。
君が私と議論しようとしても意味はないのだよ。
「論戦」していると君が勝手に思っているだけで、私は何とか君に
神経症が治る方法を教えてあげようとしていただけなのだからね。
神経症から治りたくないのなら、君はこれまで通り意味の無い理屈を
こね回し続けていればいいでしょう。 そもそも>>604で無我さんへの質問はないと念押ししてるのに、
いちいち「信仰じゃなーい!」とかつっかかってきて、
そんでやっぱり信仰で。
そんで怒って詭弁をぐだぐだ。
最後「あれこれと理屈をこね回していても駄目だよ」
始めからつっかかってくるなと。
「信仰じゃない哲学なんですね〜
それでいて圧倒的真理なんですね〜
(ゴマすりすり)」
そんな人ばかりという妄想世界じゃないんだよ、ここは。 >>662
「お父さん〜」どうのこうのの妄想までまた出てきたな・・
とにかくブログ立てなよ・・
立てたら見るよ
参考になることもあるかもね
(盲目的な帰依、信仰などさらさらしないが。)
とにかくブログ立てなよ・・
「真理」なら・・
真理じゃないからブログもいらない、2ちゃんで論戦してるだけで充分ってことなら
それはそれで一つの自然な成り行きか・・ >>663-664
>そもそも>>604で無我さんへの質問はないと念押ししてるのに、
>いちいち「信仰じゃなーい!」とかつっかかってきて、
君が私の「無我」を理解せずに間違った解釈をして、2号君と対比させているから
「それは違うよ」ということで書き込んだのだよ。
君は「無我思想」が解っていないのだから、私の理論のいい加減な紹介をしてはダメだよ。
それと、ブログについては好きではないので入室者限定の特殊なホームページを作る予定だ
と以前から言っているだろう。ただ、君のように本気で神経症を治す気のない者は入室拒否に
する可能性が大きいよ。 では、もう寝る。 >>665
言い訳してブログ立てないで、
不毛な布教、論戦、信仰死守続けるのはやめるべき。鬼のループが続く。
「内容」が肝心だから
形に拘らなくていい。ブログでいい。2ちゃんで布教したいならブログをそれとなく示せばいい。
入室制限うんぬんは、
→「(属性で)びびってんじゃねーよ」に尽きる
(私は「五次元世界との交信の記録」っていうブログがあってもいちいちそこに突っ込んだりはしない)
ブログへのコメント欄はなしの設定にして、したらば(固定ID)に掲示板を立てるという手もある。 「私がいるから>>636になる、
ほんとはもっと素直に皆聞いてくれるはずだ」と考えるのも妄想です。私などいないところでも無我さんは同じループしてるのが実態。 エックハルト・トールは言います。
どのエゴも、見解や視点を事実と混同する。
さらに出来事とその出来事への反応を区別しない。
どのエゴも知覚の一部を選び、解釈を歪めるのに長けている。
(思考ではなく)気づきによってのみ、事実と見解の違いを見分けけることができる。
気づきによってのみ、正しく見ることができる。
こちらが状況でこれは状況に対して感じている怒りだと見分けられれば、
違う対応が可能だと、言い換えれば違う見方や対処法があるとわかる。
気づきを通してのみ、限られた一つの見方から解放されて状況や一の全体が見えてくる。 したらば掲示板にエックハルト・トールのスレあるよ
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/9650/1446132918/
2chには、以前Part.3まで?あったが、中の人どうしで論争化して荒れて、
スレ主がエゴに巻き込まれるの嫌になって、以後たてなかったのかもしれない。 >>668
>ループ
君は私がいう「無我」を全く理解出来ていないから、ループのように思ってしまうだけなのだよ。
国語力・理解力が足りないのです。
君には以前に、中学・高校の国語の読解問題集を勉強することを勧めたことがあっただろう。
○×式の問題集ではなく、20行〜30行の文章を書かなければならない記述式の問題集だ。
そのような問題集を1〜2冊やってみれば、自分の読解力を客観的に知ることが出来るから、
是非やってみなさい。
そうすれば、君が自分では正しいと思う考えも客観的には通用しないということが分かるから。 無我さんも2号さんも喧嘩は喧嘩でやっててくれても構わないんだけど、みんなが聞いてマインドフルネスっ!って感じになる面白ネタをだしてよ
知識豊富なんだから、その方が建設的でしょいろいろと マントラ瞑想は結構難しいというかマントラを心の中でも呟き続けるにも結構集中力がいるので疲れる
数息観での瞑想の方が自分には合ってるがそれでも時たまマントラ瞑想を試すことはある
マントラ瞑想の効果は感じる時と感じない時があって肉体疲労時は感じない、ってか感じる前に辞めてしまう また禅寺ネタで申し訳ないけど、そこの和尚も「話が面白くなきゃひとは救えませんよー」なんて言ってたのを思い出しての発言でしたw >>676
その直前の深夜帯のやり取りは、私2号ではないですよ。
その自称無我氏は、あらゆる人と摩擦を起こしているわけです。
彼は複数のスレでも、自らの布教をしていますが、人格がだめ、こんなふうには成りたく
ないと多くの人に非難され、教えに付いていく人は皆無で、騙されて付いていってる人が
一人いるかいないか位です。
彼は反マインドフルネスなので、ここを彼の洗脳された思想で導くつもりのよう
でしたけど、私が全部、喝破しました。まだ根拠なく言い訳や観念的正当化を続け、
私を否定しているようですが、また荒れるのでほっといてます。
創価の洗脳された人と論法がそっくりで、一度洗脳された頭を解きほぐすのは大変で、
仏典でも>>437>>438の通りで、彼へのメッセージになってますね。 私(無我)が時として怒りを持って書き込むのは、>>681 = 2号 という人が仏教について嘘を書き込む
からなのです。彼は自分の神経症が治ってもいないのに、治ったと嘘までついて他人を指導したがる病人
です。2chなのでそのような人間は他にもいるでしょうが、私が怒るのは彼がまともに仏教の勉強をした
ことがなく趣味で入門書を読んだ程度のデタラメな知識を他人に教えようとするからなのです。
大学で仏教学を専攻した私としては看過することが出来ないのです。まして、そのような間違った仏教理解
では決して神経症は治らないので、被害者が出ることが明らかなので私は強く怒らざるを得ないのです。
彼自身は他の人と同じように精神の安定を得ようとして、マインドフルネス瞑想や他のスピリチュアル瞑想を
求めてさまよい続けている人です。それは別に何も悪いことではありません。ただ、仏教について何も解って
いないのにデタラメな「無我」の思想などを他人に教えようとしていることが問題なのです。精神疾患を治し
たいと思っている人は彼のデタラメの仏教の話を聞かないようにして下さい。人生は短いです。仏教について
間違った理解を持ってしまうと治るものも治らなくなり、貴重な時間を無駄にしてしまうことになりますから。 >>683
>彼自身は他の人と同じように精神の安定を得ようとして、マインドフルネス瞑想や他のスピリチュアル瞑想を
>求めてさまよい続けている人です。
そう?
2号さんは単に、スッタニパータの言葉を引用しまくっては人を冷やかして、
その時間だけ現実から逃避してるようにしか見えないのだけど >>683
古いレコードのように毎回同じセリフで、それは強迫観念という神経症。
宗門に傾斜した仏教学を専攻して、ナンミョウホウレンと唱えなさいと
言っているのと変わらない。その大学の仏教の先生に敵対発言をしたではないか。
学術研究による、日本仏教学会が否定した中国仏教にある誤り、そしてその犠牲となった
宗祖教を鵜呑み盲信するバイアスのある頭になり、ドグマを抱えた自我強化なだけですよ。
時間認識、空間認識、自我認識の誤まり等々説いても、その先の知見、洞察智がない。
憶測妄想、レッテル貼りという認知の歪みでしか反論できてない。 >>684
彼が他のスレで神経症の人を指導しようとして書いていた中身の無い内容を読めば、
あなたも納得するでしょう。
彼は2chで教師気取りをすることが生きがいになっている病人のような人です。
2chですから何をしようが自由ですが、私は彼が仏教についてデタラメなことを書く
ことが許せないだけです。
>>685 が2号です。彼は自分が書いていることが仏教の専門家からは相手にもされない
ものだということすら理解できない素人だということが分かります。<大乗非仏説>
で大恥をかいたことも忘れてしまっているのでしょう。
2号という人は神経症とは別の何か人格の病気がある人なのでしょう。
自分が神経症から自由になれていないのに、治ったと嘘をついて他人を指導しようなどと
馬鹿げたことは普通の人なら考えませんから。 >>684
とりあえず私の行については、>>584の中に書いてます。
そして複数の著名な某僧が指導する、瞑想会等にもよく参加してました。
そして多数の著書、高僧、多くの仏教学者の解説、今まで書いてきたことは、
そこから大きく外れたことを書いてないつもりです。
それぞれ流儀流派はあるでしょうが、大筋では同じです。
>>686
非仏説を認めるなら、釈迦からこのように聞いたという如是我聞なら、
嘘つきが創った経典になるという理屈もわからないかな。
悟った人という根拠のない思い込み、そして宗門に傾斜した仏教学という
バイアスのある頭、かつすべて観念論、勘違いの元をよく分析することです。 >>687
>宗門に傾斜した仏教学というバイアスのある頭
どの仏教大学でも宗門の学科と仏教学科は全く別組織であることも知らないのか?
宗門の教え(宗学)に偏っていたら仏教学にはならないことも分からないのか?
君は何も知らない素人ということ。
それと、何度も書いたように<大乗非仏説>に意味があるように思っているのは、南伝仏教の坊さんと
君のような仏教のド素人だけなの。まともな仏教学者で大乗非仏説に意味があるなどと思っている人は
一人もいないの。また、原始経典も本当に釈尊が言った言葉かどうかの証明などは出来ないの。
そして、原始経典はその内容から見て入門者向きの内容であって、十大弟子のような深い境地の弟子が
聞くような内容ではないことは誰でも解る常識なの。
とにかく、君の仏教の知識は一般書店で売られている入門書の内容でしかないのだから、もう仏教について
口を出すのはやめなさい。何の意味もないのだから。
君のような素人理解(>>584)では神経症を治す力もありません。せいぜい少し気持ちが軽くなる程度のことです。
>非仏説を認めるなら、釈迦からこのように聞いたという如是我聞なら、
>嘘つきが創った経典になるという理屈もわからないかな。
それをまともな仏教学者に話してごらん。笑われるだけだから。
「如是我聞」の意味は君のような仏教の素人が解るような安っぽいものではないの。
それは算数を習い始めた小学生が大学の数学の教授の整数論にケチをつけているようなもので、
今の君には想像することすら出来ないようなものなの。
素人が解りもしないことに口を出しても、自分の無知と愚かさをさらけ出すだけだからやめた方がいいのだよ。 >>688
また後付けの好き勝手な正当化の言い訳、観念論でごまかす、教学について貴方から何も
目新しいものが出てこない。
>宗門の教え(宗学)に偏っていたら仏教学にはならないことも分からないのか?
なら、なぜ学術研究、現代仏教学が否定した天台五時八教判を貴方は正しいと認識して、
仏典辞典でも偽経と指摘された法華経を信仰している?
※仏教は、始成正覚の人間釈迦の口から出た教えではじまった、
では非仏説を認めるなら、その根本となる教えの仏は誰?名も知らない後代の亜仏なら、
釈迦とは全く関係ない別物の創作カルト仏教でいいのか?
その亜仏の教えの元が釈迦(仏)の教えでない非仏説なら、それは誰で証拠は?
あと釈迦は最終解脱である阿羅漢の一人で、無師独悟(誰も教えてもらわずに悟った正覚者)
であり、かつその教えを説く師=仏陀 が初期の意味であったことを知らないのか。 (上の続き)
>また、原始経典も本当に釈尊が言った言葉かどうかの証明などは出来ないの。
紀元前3世紀在位のアショーカ王の碑文には、大乗の教えが一切なく、原始仏典に収録され
ているものだけ。その碑文には釈迦の存在まで証明している、他にも物的証拠あり。
ということは釈迦に一番近く色濃い教えであり、それを原初原始仏典として世界のどの学者
も認めてプロト仏教と認識している。また後代の高僧も根本教説として認識している。
仏教学では、それが釈迦とは関係ない別物という認識はない。それに反する貴方は、
好き勝手な思いの信仰で、非仏説の亜仏の教えこそ仏教としているカルト宗教になるという
理屈も分からないの?
>原始経典はその内容から見て入門者向きの内容であって、
大乗の修行の般若波羅蜜にしても、大品般若経や龍樹の大智度論に三十七道品 (根本仏教の
八正道、四念処等)の実践と明記されていて、空を洞察する智慧、実体視せず、執着同化
しない点では同じであり、原初の教えに比べて、何をもって自画自賛できるものなの?
しかもその内容は、後世宗教化、信仰という思いを超えていた。
時間認識、空間認識、自我認識の誤まり等々説いても、その先の知見、洞察智がない。
貴方から何も目新しい教学が出てこない。出てくるのは好き勝手な正当化の言い訳のみ。
盲信カルト宗教の理屈と同じでしかない。 >>690-591
>世界のどの学者も認めてプロト仏教と認識している。また後代の高僧も根本教説として認識している。
「世界のどの学者も」、「後代の高僧も」 ???
頭は大丈夫ですか?
大学の仏教学科か印度哲学科に入学してきちんと勉強しなさい。
君が理解しているようなことは仏教学科の1年次で出て来るような表面的な知識に過ぎないのです。
また、君の主張は(何度も言ったように)南伝仏教の僧・学者と悟りの体験もなく頭で考えただけの
デタラメな仏教解釈の本を書いている人間だけが言っていることに過ぎないのです。つまり、君は
そういう人間たちが書いた本しか読んでいない素人だということです。
巷に溢れているいい加減な仏教入門書をいくら読み続けても、何の役にも立たないゴミのような知識
しか得られません。仏教というものは、仏教書専門店にある「本当の悟りや救いを得た人々によって
書かれた本物の仏教書」を読まなければ生きた知識は得られないのです。
君はそのようなデタラメな理解をしているから仏教によっては神経症が治らず、スピリチュアル系の
指導者や瞑想法を求めてさまよい続けざるを得ないのです。君がデタラメな仏教理解を持ち続けるのは
自由ですが、間違ってもそれを他人に教えようなどとしてはいけませんよ。 エックハルト・トールは言います。
自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることになる。
そうなると宗教はイデオロギー化し、優越感という幻想を生み出し、人々の間に分裂や紛争を引き起こす。
「真理」に役立てれば、宗教の教えは目覚めた先輩たちが残した道標、地図となってスピリチュアルな目覚めを、
つまり形への同一化からの解放を助けてくれるだろう >>693
>自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることになる。
それはトンデモナク間違った見解です。
それはエックハルト・トール自身が自分の主張を一部の宗教家たちから否定されたことに対して
反論しているだけなのです。
日蓮に限らず、自分の宗教で人が救われるという信念を持っていれば 「自分の宗教だけが真理だ」 と
感じるもので、そこまでの信念が出ないような体験なら本物ではないのです。それはエゴの強化などとは
全く異なるものなのです。
宗教体験に普遍性があることは宗教体験がある人ならだれでも解ることですが、それを表現するときの
表現の仕方の違いによって仏教の宗派論争も起きているのです。そして、これは本物の仏教仏教者なら
誰でも分かっていることなのです。 >>694
ですから、貴方は本物と勘違いして思い込んでいるんです。
それを洗脳されているという、創価の人の頭と同じ思考です。
そして、>>690-691の?部分をレスせず、逃げて反証もできてない。
出てくる言葉は、レッテル貼りや好き勝手な正当化の言い訳でしかない。
>そこまでの信念が出ないような体験なら本物ではない
その信念に根拠がないと、多くの研究学者は指摘しているわけです。
自分の信念に根拠がないことに気づいてない鵜呑み盲信なわけです。
宗祖で有名だからと名声だけで騙される。
よく分析すれば、そこには誤りがあって、日本仏教学会も否定した。
時間認識、空間認識、自我認識の誤まり等々説いても、その先の知見、洞察智がない。
貴方から何も目新しい教学も出てなく、バイアスで語る盲信カルト宗教の理屈と同じ
でしかない。 宗教ドメインの人たちって、議論のプロトコルが自然科学の場のそれとだいぶ違うっぽいな
だんだん興味深いやり取りに思えてきた そら自分の思っていることがイコール議論の前提になるからな
違う世界観がぶつかり合うだけで、議論といっても議論にはならない >>690-691
反論?
素人の自分勝手な解釈に対して何を反論しろと言うの?
反論も何も、コメントすることさえ馬鹿らしい内容だということが分からないのか?
いい加減で、自分が仏教のド素人だということを理解しなさい。
君がいう「多くの研究学者」などというものはいないのです。一部の原始仏教にとらわれた
変人がいるだけなのだからね。
>日本仏教学会も否定した。
馬鹿なのかな? 日本仏教学会が鎌倉時代の宗祖を否定したら、日本仏教そのものを否定する
ことになってしまうことも分からないほどの馬鹿なのか?
君は、そもそも(学部に関わらず)大学など行ったことがないのだろう。仏教以前に、書物や
文章を読んでもその意味を理解する能力がなさ過ぎる。
<大乗非仏説論>についての無知も君の理解力のなさに起因していたのだからね。
時間認識、空間認識、自我認識の概念を教えてあげたのは私だということを忘れてはいけないよ。
そのような概念は大乗仏教で明らかにされたことであって、原始仏教ではその概念すらなかった
ことを知りなさい。
「その先の知見、洞察智」について、君の理解を書いてごらん。その理解が正しいかどうか答えて
あげますよ。君に出来ることは、仏教の入門書やスピリチュアル系指導者が書いた本に書かれて
あることを「丸写し」にすることだけだろうが、それについても正しいかどうか答えてあげます。
これから外出して夜にしか戻れないので、それまでに書いてくれれば、戻ってから添削してあげます。
せいぜい、君が持っているすべての本をあっちこっちひっくり返して、君が気に入った部分の引用に
精を出して頑張りなさい。
>>697
そうではないのです。
2号君という人は仏教をまともに勉強などしたことがない人なので、議論など出来る人ではないのです。
偏った入門書だけを読んで自分勝手な理解をして何かわかったつもりになっている病人に過ぎないのです。
仏教が本当に解れば神経症は消えてしまい、スピリチュアル系指導者などが言うことは程度が低いことが
解るようになるので、そのようなことに関心は持たないのです。彼は仏教が解ったと言いながら神経症が
治っていないので、神経症を治そうとしてあちこちの瞑想法を探し続けているのです。 >>697
最初は、与件の採用基準が違うぐらいだろう、とタカを括ってたんだけど甘かった
ロジックを提示し論理整合や論拠の確からしさを議論したり、結果合意できたポイントを与件に積み上げたり、とかいう自然科学系のプロトコルじゃない
よく言えば、原典の意図・経緯から解釈の妥当性を論じ合う法学っぽいプロトコルを採ってる気がする
で、へー宗教ドメインはこんな感じなんだな、って思いつつある エックハルト・トールは言います。
問い
どうしてわたしたちは、思考活動におぼれてしまうでしょうか?
答え
思考力によって、自分のアイデンティティを確立しているからです。
別の言い方をすると、「頭の善し悪し」を、自分の存在価値を測る尺度にしている、ということです。
頭を使うのをやめた瞬間、自分は生きている意味がなくなると、かたくなに思いこんでいるんです。
大人になるにしたがって、わたしたちは、個人的及び社会的環境に基づいて、
「わたしは誰か」、というイメージを形成していきます。
この「にせの自分」は、またの名を「エゴ」と言います。
エゴは、思考活動あることで、その存在が成り立っています。
エゴは、たえず考えることによってのみ、生きられるのです。 >>698
貴方が何も知らず馬鹿とレッテルを貼るなら、無知で古い頭の固定観念でもって、
好き勝手な言い訳の正当化なほど馬鹿なものはないです。
690-691へ何も反証ができないってことは、誤魔化しの逃げです。
誤りがあるなら根拠を元に説明できるからで、それが貴方に根拠がないからです。
それを鵜呑み盲信で洗脳された頭とも言います。
>そのような概念は大乗仏教で明らかにされたことであって、
貴方はバイアスのある拒絶反応から、一通り原始仏典に目を通してないことが、
書いている内容で分かります。そういう教えも包括していて、大乗も原初の教えを
元ネタに変容,付加,創作をしたことが、はっきりとよく分かります。
その3つの認識の誤りは、禅定による知見で説いているに過ぎず、
それらはパーリ相応部、中部、スッタニパータにも説かれています。
大乗はそこでストップしてしまいます、つまりその先の智慧による洞察智がないのです。
学者もそこの部分は、中国経由では伝わってなかった、つまり輸入当初欠けていた
ものがあり、また全部釈迦の教えという中国での先入観から、SF感動小説や易行仕上げに
惹きつけられ、この教えこそと天台主観で引き継いだものでしかないのです。
>日本仏教学会が鎌倉時代の宗祖を否定したら、
非仏説もそうですが、それが今の学術研究、現代仏教学の実際です。
つまり宗学と乖離があるわけです。日本の宗派は、学術研究と信仰は別と割り切って
いるだけのことです。
学会は宗祖教や信仰を否定しているわけでなく、その教えの中身に、中国で正確に移入されず、
誤認誤解のあるものが含まれていると、それは仏教にあらずと学術論文発表をしているだけ
のことです。鵜呑み盲信の貴方にとっては、これこそ仏教と信じたい信仰なわけです。 この板も面白いですね〜 でも彷徨い求めてる人には優しくないですね 哲学思考アプローチ 瞑想的アプローチ マントラ禅 身体開発的アプローチ 色々あるじゃないですか 宗教的にも東洋 西洋 その他様々 目覚めのメソッドはあるでしょう 時代的にも現代で目覚める人もいるぐらいだからそれぞれの時代 グループでいたことでしょう 全く境遇が違うにもかかわらず というか極限の怒り絶望で突如として全て解決してしまう人もいるぐらいです こうなると特別正しい方法は無いとしても良いのでは? ただその時代の多くの人に適した優劣ってのはあるかもしれない それを教えて欲しいな〜 >>699
宗教を歴史や考古学的な視点も含めてちゃんと学問としてやってる人達は、こんなロジックの組み上げはしないんじゃないかと思われ >>701
>690-691へ何も反証ができないってことは、誤魔化しの逃げです。
その内容に対して反証を示すということが不可能なほど、君の書き込みはナンセンスなのです。
なぜなら、その内容は(思考力のない)君のデタラメな解釈に過ぎないからです。書くとすれば
「君が書いていることはすべてデタラメですよ、もっと勉強しましょう」ということだけです。
(君は大学も出ていないので、本当の学問というものを全く知らないのです。)
そもそも、君の言う「現代仏教学」などというものは存在しないのです。それは「悟り」の体験もない
一部の似非仏教学者たちが勝手に言っているだけのことで、どの大学の仏教学科でも相手にされること
のない内容なのですよ。ちょうど、正統の物理学で認められているビッグバン理論に対して、一部の
変人物理学者が「ビッグバン理論は間違っている」と叫んでいるのと同じことです。
>つまりその先の智慧による洞察智がないのです。
だから>>698 で、「その先の智慧による洞察智」というものについて説明してごらん、と書いただろう。
さあ、早く書きなさい!
(君は書物の丸写ししか出来ない人間だから)その部分を君が持っている書物から丸写ししてごらん!
相手に「洞察智がない」と言う以上、君にはあるのだろうから、それを書かないと意味がないでしょう。
さあ、(君には書物の引用しか出来ないことは分かっているから)早く引用してごらん!
それに対して破邪顕正してあげます。 >>705
「仏教そのもの」を語る場合、通常のロジックは通用しません。
仏教というのは「宗教体験」によって「悟り(救い)」を得る為に存在しているのですから、
通常のロジックを積み上げても何の体験も出て来ないので、そのようなロジックは無意味なものです。
仏教哲学と言われるものには、中観哲学、唯識学、天台哲学、華厳哲学・・・といろいろありますが、
すべて宗教体験を伴った時に初めて理解できる内容ですから、頭だけで考えて理論的に理解してみても
空しくナンセンスなものになってしまうのです。 神経症を仏教で治すには原始仏教だけでは足りず大乗仏教も学び実践する必要があるという無我さんと、
大乗仏教は信仰の宗教で観察によって結果が得られる科学ではなく大乗仏教がなくても原始仏教だけで事足りるという2号さんの議論。 >>705
それはもちろんレビューに耐えうる論理を組む人はいると思うけど
このスレ見た限りの傾向として、宗教ドメインの方々は自然科学っぽい議論のお約束はそれほど重要で無いんだろうな、と
自分としては、その価値観が少しカルチャーショックで、じゃあ何が重要視されてるのか、だんだん興味が湧いてきたかんじ >>709
>じゃあ何が重要視されてるのか、
仏教というのは「悟り・救い」があってこそ意味のあるものですから、「悟り・救い」を離れて
釈尊がああ言ったこう言ったなどということは、畢竟すればどうでもよいことなのです。
真実の経典の教相判釈というのは、その経典の修学によって「悟り・救い」を得る人間が出るかどうか
の一点にかかっています。原始経典しか知らない修行者と、大乗経典をも学んだ修行者を比べれば
後者の方が「悟り・救い」に到達するする修行者が圧倒的に多かったという歴史的事実が、仏教の真実を
よく示していると言えるでしょう。(事実、原始経典だけでは釈尊の滅後は悟りを得る修行者はほとんど
出なくなった為に、原始仏教は印度で消滅してしまうのです。)
神経症の理論についても同じことが言えます。どのような理論も神経症が治ってこそ意味があるのですから、
どんなに立派な理論や瞑想法でも神経症を治す力がなければ、神経症者にとっては無意味なものですね。 108 名前:神も仏も名無しさん :2016/09/29(木) 09:46:45.21 ID:goAC3rY4
パーリ中部ヴァッチャ三明経(テーヴッジャヴァッチャ・スッタ)
第二章
ヴァッチャは、仏陀に対し、このように尋ねた。
「ゴータマよ、仏陀の、在家の信者の中で、
在家の束縛を切らず、涅槃に赴く者が居るか。」
「在家に居て、涅槃に赴く者は、一人も居ない。」
「ゴータマよ、仏陀の、在家の信者の中で、
在家の束縛を切らず、天界に赴く者が居るか。」
「在家に居て、天界に赴く者は、五百を越える。」
「ゴータマよ、異教の、外道の信者の中で、
外道の束縛を切らず、涅槃に赴く者が居るか。」
「外道に居て、涅槃に赴く者は、一人も居ない。」
「ゴータマよ、異教の、外道の信者の中で、
外道の束縛を切らず、天界に赴く者が居るか。」
「外道に居て、天界に赴く者は、一人だけ居た。」
「ゴータマよ、それでは、その異教の法は、
天界に至るまでは、正しいと言えるのですか。」
「ヴァッチャよ、その法は、天界までは正しい。」
これを聞いた、ヴァッチャは、歓喜し実践した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さて、このヴァッチャとゴータマの問答の中で、異教の外道とはどの教えのことを言うのだろうか?
六師外道の終えは異教の外道であろう。
問題となるのはバラモン教である。
実はバラモン教の神々の中で天界に達したのは梵天ただ一人で、帝釈天他は欲界の神である。
しかも梵天は色界では最下位の神、つまり色界にようやく辿り着けたという存在となっている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E7%95%8C
このことが象徴しているように、外道に居て天界に赴いたただ一人の者はバラモン教徒だったのかもしれない。
バラモン教では解脱成仏して涅槃に赴くことはできないが、天界までは至れるということなのではないか? >>706
>反証を示すということが不可能
反証を示せない、根拠を元に説明不能なら、根拠のないことを貴方は主張していたのです。
例えば地球は丸くなく、ずっと平らな平面だと思うと主張しているようなものです。
我田引水の好き勝手な説明は通用しません。
>さあ、早く書きなさい!
あれ、仏教大学出て専門家気取りの上から目線の人が、素人で不勉強ですね。
素直に鵜呑み盲信の宗教に洗脳されて、他は不勉強ですと言えばいいのでは。
その不勉強目線で散々根拠なく批判してたことを反省して下さい。
さて中国経由によって貴方の知らない教えられてない、智慧の教え、洞察智とは何か、
それは四念処観、観行によってもたらすものです。(八正道でいう正念)
大念処経、念処経に詳細がありますが、厳密には止行も混ざっています。
その観の修行法の説明のある清浄道論を元にした >>319でリンクしたテーラワーダ僧の
著書に、名色分離智から行捨智まで説明されています。
その後半の方に、非同一化の説明もあります。貴方の思想にない教えなので、
首を傾げて異なるものに批判していたわけですよね。慧解脱についても初耳でしたよね。 >>710
「価値観」なんて用語を使ってしまったから「仏教の価値観」とうけとられてしまったかな
悟り・救いに価値を仏教そのものの価値に置くという考えには特に異論は無いよ
仏教ドメインの方々は、
合意を得るにせよ、論破を目指すにせよ、何を拠り所にして議論の結論を出しますか?ということと
そして、その結論に至るために、どんなコミュニケーションのお作法がありますか?ということ
それが本日の興味のポイント 199 名前:神も仏も名無しさん :2016/10/01(土) 23:52:28.87 ID:dZLWEn7R
第二小なる章 十四、ダンミカ
Sn393 次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。
このように実行する人は善い<教えを聞く人>(仏弟子)である。
純然たる出家修行者に関する規定は、所有のわずらいある人(在家者)がこれを達成するのは実に容易ではない。
Sn394 生きものを(みずから)殺してはならぬ。
また(他人をして)殺さしめてはならぬ。
・・・・・。
Sn403 ウポーサタを行なった<ものごとの解った人>は次に、きよく澄んだ心で喜びながら、翌朝早く食物と飲物とを適宜に修行僧の集いにわかち与えよ。
Sn404 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。
つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く。」
→要するに在家は正しい生活を送っていれば死後天界に転生する
六、老 い
Sn804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずせして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
Sn805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。
この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。
→自己を救済するには出家するしかない >>712
ええと中国で阿含経として入ってきても、パーリと阿含の内容が異なるという
説があり、中身を比べてないので分かりません。
ともかく観の修行が中国経由の方では、観想するといった誤解にもなっています。 方法論の違いはこんな感じでは?
・「思考や自我は自分そのものではない。脱同一化がポイント」と「思考」する
(それと実生活、実体験とのすり合わせにより、感覚・認知を少しずつアップデートさせていく)
・思考や自我と意識が実際に離れる体験(変性意識体験)と、
それによる認知、感覚の変化
・霊的世界や輪廻などを強く信じ、物質的世界に対する認識を変える(「現実度」を下げる)ことにより不安を軽減させる
(信仰による自己洗脳で、神経症的自己洗脳を塗り替える) >>712
君が書いていることが根拠の無い(一部の似非仏教学者の主張に過ぎない)ものだと
言っているでしょう。君の主張は大学で採用されることのない素人の意見に過ぎないのです。
(昔から、仏教界では宗教体験のない者達がさまざまな新しい仏教理論を作り上げて来たが、
そのような屁理屈はすべて時と共に消えて行くのです。君がハシカのように罹患している
現代仏教学というのもその一つに過ぎないのです。)
>四念処観、観行によってもたらすものです。(八正道でいう正念)
だから、前置きはいいので、その内容を具体的に書いてごらん。
解っているなら「その先の智慧による洞察智」というものについて具体的に書けるはずでしょう。
それによって、君が「その先の智慧による洞察智」というものが本当に解かっているかどうかが
明らかになるのだから。君の得意な丸写しでよいから、その部分を書いてごらん。
「正念」という言葉に置き換えても意味はないのですよ。
「正念」のどのような内容が洞察智だと言えるのか、書いてごらん。 >>708
2号君は治っていないのに治っていると嘘を言っている人なので、その構図は少し違いますね。
2号君は以前、「すべてのものに実体はないということが分かって、神経症が少し楽になった」と書いていましたが、
それを読んだだけで、私には彼が嘘を言っていることが分かったのです。
「すべてのものに実体はない」ことが分かるということは、「蛇だと思って恐れていたが、それが縄だと分かった」
ということですから、「楽になった」などということはあり得ず、神経症は消えてしまうはずなのです。
彼が言っているのは、「蛇だと思って恐れていたが、それが縄だと分かって恐怖心が少し柔らいだ」というような
ナンセンスな内容なのです。恐怖心が柔らいだだけなら、まだ半分ぐらいは蛇だと思い込んでいる証拠なのです。
つまり、「「すべてのものに実体はないということが分かって」というのは嘘であって、まだ分かっていないという
ことなのです。
彼は、「全てのものには実体はないのだ、実体はないのだ! 思考との脱同一化が大切なのだ、脱同一化なのだ!」と
一生懸命に思い込もうとしているだけで、本当のことは何も解っていないのです。 >>717
貴方は少なくとも私より年を召している方だと分かりますよ。
もう貴方の頭の中は古いのです。
私の説明していることの方が、今はマジョリティになっているのです。
一部のではないのです、それは貴方が支持する宗門の学者はそう説明するでしょう。
>だから、前置きはいいので、その内容を具体的に書いてごらん。
ですから、>>319を最後まで読み通して下さい、仏教学科なら楽勝でしょ。 >>719
その訳者の魚川祐司という人の本を読んだことがありますが、「悟り」の体験を持たない似非仏教学者の一人
だということが分かり、その本もどこかに行ってしまいました。(捨ててしまいました。)そんな人間が訳した
ものなど身を入れて読む気にもなりませんが、よほど暇があれば読むかも知れません。
そんなことよりも、君自身の理解を問題にしているのだから、君の理解を書いてごらんなさい。
直ぐに「破邪顕正」してあげます。 >>711
>何を拠り所にして議論の結論を出しますか?
厳密に言えば、仏教では議論によって共通の理解・認識に至ろうなどとは考えません。
議論によって何か意味のある結論が導き出せるなどとは考えないのです。
一人ひとりが「悟り・救い」に至ればそれでよいというのが基本にある世界です。
仏教では、厳密な意味でのコミュニケーションというのは師匠と弟子との間にだけ存在するもので、
凡夫同士の議論(コミュニケーション)などは迷いを深めるだけで無意味なものとされます。
仏教では昔から「自体安心(じたいあんじん)」という言葉があります。これは、他人や論理に一切
依存することなく「自らの存在そのものだけで納得して安心できる世界がある」というような意味で、
「悟り・救い」と同義語なのですが、その「「悟り・救い」の体験には共通性・普遍性があるので、
仏教での本来の議論というのは、悟ったもの同士・救われた者同士がその共通の世界をより深く分かち
合う為だけに存在すると言ってもよいでしょう。
ですから、2chで仏教について議論をするなどということは無意味な暇つぶしとしか言えません。 >>721
>ですから、2chで仏教について議論をするなどということは無意味な暇つぶしとしか言えません。
自らそう言うぐらいなんだし、
やはりブログなどを立てて、賛同者・真剣に聞きたい人相手に落ち着いて対話する形にすればいい。
2ちゃんではブログをそれとなく示す形にすればいい。 >>721
>厳密に言えば、仏教では議論によって共通の理解・認識に至ろうなどとは考えません。
議論によって何か意味のある結論が導き出せるなどとは考えないのです。 >>721
ありがとう、納得
議論のプロトコルが違うというよりも、議論というコミュニケーション自体が重要でない
このスレには、弟子にも師匠にもなる気はなく、議論を楽しもうとしてる人も相当数いることを気に留めて発言すると少しはマシな空気になるかもね
双方師匠の立場を崩さず、延々背比べしてるのを見てるのもそれはそれとして楽しむことにしたから続けてオッケー >>722-723
このスレで2号君が間違った仏教理解を教えようとしているので、私はその被害者が出ないようにする為に
書き込んでいるのです。仏教について議論をしているつもりはないのです。 >>721
>仏教での本来の議論というのは、悟ったもの同士・救われた者同士がその共通の世界をより深く分かち
>合う為だけに存在すると言ってもよいでしょう。
止みなん、舎利弗、復説くべからず。
所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。
唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。
所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。
是の如き大果報 種々の性相の義
我及び十方の仏 乃し能く是の事を知しめせり
是の法は示すべからず 言辞の相寂滅せり
諸余の衆生類は 能く得解することあることなし
諸の菩薩衆の 信力堅固なる者をば除く
無我さんの説明で法華経方便品を思い出しました。 >>726
法華経は素晴らしい経典ですね。
道元禅師も「正法眼蔵」の中で法華経の教説について沢山講義されていますね。 >>725
だったら創価学会が間違ってるからとそのコミュニティに乗り込んで間違いだと訂正してはどうですか?
このスレ、2chなんかたかが知れてる人数です。
結局議論しても「そうか無我さんが圧倒的真理だったんだー!」なんてならないし、
そもそもブログ一つなくて、
自分の専用スレじゃないとこに来ては
「それは違う!間違い!
真実はこれ!これ!」って延々議論してる人に対して
「そうか無我さんが圧倒的真理だったんだー!」なんて誰も思わない。 >>726
スレチ、マインドフルネスとは異なるプラセボ五種妙行。以前、法華経のここが変だよと
教えた晃くんかな。ヒンドゥーのバガヴァッドギーターか聖書の焼き直しみたいなもん。
バランモン教の脅し文句入りとは、おそれいった。 宗教とか瞑想とかだと、自分の実感が大事なんだよね。
わたし自身もある体験によって救われた経験があるわけで、拘る気持ちは分からない訳じゃないけど…
歴史的な事柄と信じる気持ちを両立させて等価値に語れないってのは、信じる事への己の投げ出しかたが足りないよ。
信じる対象に信じるに足る根拠があるから信じるんじゃない。そんな条件付きじゃない。己の選択のみに立脚して生きる。ただそれだけ。
とか言っててもこんな場所じゃあねえw… >>728
君が創価学会が間違っていると思っているのならそのコミュニティに乗り込んで間違いを正せばよい
隗より始めよとはこのこと >>729
法華経→経典誹謗で阿鼻獄行き
サンユッタニカーヤ、スッタニパータ→聖者(阿羅漢)誹謗で紅蓮地獄行き
どちはも自分達のポジションを守るために経典に脅し文句を入れている >>731
私は何とも思ってないよ。知らないし。
創価学会を批判しているのは無我さんだよ。 マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想は、どういう関係がありますか?
担当カウンセラーさんに、マインドフルネスを奨められまし... #知恵袋_
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11115222341 2号というのは己がないのかな?
学者はこう言ってる、原始仏典にはこう書かれている、高僧はこう書いているとその紹介しかしてない
権威主義もいいところだ
権威への固執、権威への追従、そんなバイアスの掛かった言葉でしか語りかけない人の話には一切の魅力を感じないな
自分にとっての権威を紹介だけしてその先に話が進んでないしな
ま、書き込むのは勝手だから構わんが
こちらもこれからは読み飛ばすこととする >>735
ただそこにある事実を書くことですよ、そこにエゴはない(Eトール氏)。
自説、好き勝手な主観に信憑性がない、地球はずっと平とか四角いと思うでは通らない。
分析研究調査の専門家の研究結果は軽視できない。貴方も医者とか専門家にかかるわけ
でしょ。仏教ではその比類なき私(の思い)の分析,洞察から始まり、縁起する無我で出る
マインドフルネスと関係することです。その貴方の拒絶する思いに確かな根拠があるか疑おう。 >>735
学者→その道の研究分析の専門家
原始仏典→ブッダの教え
高僧→その仏典の教えに詳しい人
医者→病の治療の専門家
貴方→自説、好き勝手な思い主観、偏見、レッテル貼り(認知の歪み)
で、それらと比べ、貴方の思いに確かな根拠はどこにあるのかな。 エックハルト・トールは言います。
人間にとって一番の得意技の一つが、
誰かと知り合いになったとたん、即座に判断を下す、
あるいは、「この人は○○な人間だ」と決めつける行為です。 2号君は自分自身に何の体験(宗教体験)もないので、<他人>の言葉を引用することしか出来ないのです。
そして、その<他人>というのが原始仏教に偏った人間や「悟り」を知らないエセ仏教学者ばかりなので、
その仏教理解はデタラメなものになっているのです。
彼は自分の神経症を治す為に仏教やスピリチュアルに関心を持っている人ですから、神経症が本当に治って
いるのなら、その間違った仏教理解でもいいでしょう。しかし、>>718 で書いたように治っていないのですから、
その間違った理解を訂正する必要があるのですが、彼はそんなことにも気が付かない人のようです。
大学の仏教学科に在籍して(宗派を超えて)多くの師匠について学んだ私の言うことを「自説、好き勝手な思い主観、
偏見」などと言って憚らない人ですから、2号君は少し精神と知能に問題のある人だということが分かります。
一般書店では、「悟り」や「救い」の体験を持たないなエセ仏教専門家が書いた仏教入門書が溢れています。
普通の人達の中にはそのような本に騙されて仏教が解かったような気になっている人がいて気の毒に思うこと
が多いです。ただ、神経症に苦しんでいる人達は、本当の仏教が解からない限り神経症は消えないのですから、
そのような本がニセモノであることが体験的に分かるはずなのです。これは皮肉なことですが、神経症の人こそ
本当の仏教を知ることが出来る可能性が大きいのです。ただ、その為には、2号君のように治ってもいないのに
治ったと自分や他人を欺くことをやめる必要があります。本当に仏教が解かれば神経症・社交不安障害は霧が
晴れるように消えて行きます。2号君のようにエックハルト・トールだ、リンポチェだ、カバット・ジンだ、
ウ・ジョーティカだ、などと次から次へとスピリチュアル系指導者を求めてさまよい続ける必要などはないのです。
そのような指導者遍歴が、彼が仏教というものを何も理解していない証拠なのです。 >>739
いや自称無我さん、まじでよく自分と私の過去の主張、確認してくれる?
※あなた認知症入ってますよ!
それについて散々レスして貴方は反証が全然できなかった、
そしてまた同じことの繰り返し思い込みの長文書き込み、認知症か、強迫観念精神の病人です。
頭おかしい。 >>739
(上の続き)
この毎回同じような呪文のような長文、頭おかしい。
時間認識、空間認識、自我認識の誤まり等々説いても、その先の知見、洞察智がない。
貴方から何も目新しい教学も出てない、バイアスで語る盲信カルト宗教の言動と同じ。
もうこんなとこにいないでさ、人を相手にせず、散歩や瞑想でもしてた方がいいよ。
いやー、トール氏のエゴの観察はすごい、全部書いていることが当て嵌まっている。
早く自分でサイト開いてさ、鵜呑み盲信で得た思い込み悟りの自説を唱えてたら、
反マインドフルネスなんだし、スレチでしょ。 >>740-741
>貴方は反証が全然できなかった
???
具体的に書いてごらん。君は偏ったエセ仏教学者の主張を信じているだけで、それは正統の仏教学界では
相手にしていない内容だからコメントする意味もないと言ったでしょう。仏教というのは「悟り・救い」
の体験的思想なのです。「悟り・救い」を知らないエセ仏教学者が頭で考えただけの新しい解釈などは何の
意味もないので、正統の仏教学界では誰も相手にもしないのですよ。
病人は君なのです。
君の仏教の知識は素人のもので、きちんと仏教を勉強した者にとって相手にするような内容ではないのです。
君は知能が低い為にエセ仏教専門家に騙されているのです。君の神経症が治っていないことが、君の仏教理解が
間違っている証拠だということに早く気付くことです。
君は何の宗教体験も持っていないから、いつも誰かの文章を引用することしか出来ないのです。それは、このスレの
誰もが分かっているのですよ。君のオマジナイの「脱同一化!」程度の理解では神経症は治らないのです。
>反マインドフルネスなんだし、スレチでしょ。
君が仏教について間違ったことを書いているので、それを正す必要があるのです。
解かってもいない仏教について君が口を出しさえしなければよいのですよ。
君のように大乗仏教を知らない者は仏教について口を出してはいけないのです。
(オウムに入って人生を棒に振ってしまった若者達も、大乗仏教について少しでも学んでいれば麻原に騙されないで
済んだのです。) 議論の習慣が無いって>>721で言ってるんだから、この人と話し合うだけ無駄
間違った情報を素人が信じないように、このスレで書き込みをチェックするのが使命だそうです
あ、チェックされたな、ぐらいで軽く流すのがマインドフル >>742
ですから、貴方がエセと言う仏教学者の説は、仏教学会ではマジョリティを
占めているんですよ。
貴方の言う正統という思い込みは、学術研究によって覆っているのです。
古い頭の人ですね。
ただ伝統という名に隠れた宗派について否定はしてないだけです。
貴方と違って宗派は学術研究との乖離をよく認識していて、伝統の教え信仰とは別と
割り切っているのが現状ですよ。仏教の業界の新聞読んでないのですか。
貴方の場合、その自称宗教体験が魔境になっているわけですよ。
そしてその先の知見、智慧の洞察智がない。
あと貴方は、私へのストーカーになっていることも気づいて下さい。
それは、こだわりが激しい神経症が治ってない証拠でしょう。
自分の誤りのある思想信念を押し付けようとしても無理ですよ。
創価、顕正の題目を唱えなさいという押し付けカルト宗教と同じです。
それこそオウムの思考と同じです。ハマる人でなく観る人(マインドフルネス)に。 こいつらのせいで殺伐としてるw
お釈迦さまも苦笑いってか 2号君の大乗仏教に対する理解は、下の智慧袋にあるような創価学界員同士の問答レベルのものなのです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1341264628
彼らの関心事は、法華経がお釈迦様が直接説いたものではないとか、いや、救う力があるからいいのだ、
というレベルのもので、2号君も同じ程度の理解しか持っていないのです。
何度も書いて来たように、「肉身のお釈迦様」が法華経を説いたのではないことは明治以降の仏教学者にとっては
常識なのです。法華経信仰を持つ一般の信者さんにとっては「それでも、人を救う強力な力がある」ということで
信仰は維持できるでしょうが、仏教哲学者にとっては法華経の中で随所に述べられている知見が龍樹や無著、世親
の大乗仏教哲学そのものであることを理解している点において一般の信仰者とは全く異なるのです。つまり、
原始仏教以来の「覚り」の根底に存在する仏教哲学的根拠に裏打ちされた世界であることを理解しているので、
「肉身のお釈迦様」が説いていなくても、それがお釈迦様の真意であることが明白になるのです。
道元禅師の「正法眼蔵」にも、法華経にある大乗仏教の哲学思想についての講義がたくさん書かれています。
宗教体験のないエセ仏教学者やそのようなエセ学者が書いた本に騙されている2号君のような者だけが、「法華経は
お釈迦様が説かれたものではない」とか「五時八教判は間違いだった」などと言っているだけのことで、そのような
「現代仏教学」などという浅はかな考え方は、仏教哲学と悟りの体験を持つ正統の仏教界からは相手にもされない
ものなのです。
仏教というものが「悟り・救い」の為の体験思想であることを忘れ、一般の教養思想であるかのような勘違いをして
いる愚かな人間達が「現代仏教学」などと言い出したのであって、そのようなエセ仏教からは本当の悟りや救いを
得る人などは出る道理もないのですから、早晩消え去ってしまうでしょう。
エセ仏教学者に騙されている2号君の神経症が治らない(少し、気分が楽になっただけである)のは当然過ぎるほど
当然なのです。 >>744
>貴方がエセと言う仏教学者の説は、仏教学会ではマジョリティを占めているんですよ。
デタラメを言ってはいけません。
君は大学での仏教学を知らず、一部の偏ったエセ仏教学者の本しか読んでいないので、
そのように思い込んでいるだけなのです。
>あと貴方は、私へのストーカーになっていることも気づいて下さい。
ストーカー ??
何度も書いたでしょう。
君の間違った仏教理解を訂正してあげているだけですよ。
君が解かってもいない仏教のことに口を出さなければ、私は何もいわないのです。 >>747
本当の話ですよ。
自分で調べる力もないから固定観念、いつまでも古い頭のままのようで。
どうも宗門の影響受けてる講師の昔の学校の授業の話で洗脳された
ままのようです。
>>690-691への反証まだですか、好き勝手な言い訳、観念論では通じません。
>ストーカー ??
自分を客観視してないから気づいてないのです。
こだわり激しく、執着強く、金魚のフンのようですね。
神経症かつアスペルガーなオジサンぽい感じですね。
大乗仏教の恥の代表、貴方が選ばれました。パンパカパーン(笑) 「仏教哲学」って言うところの「哲学」って定義すると何?
「信仰」との線引きがわからん >>748
>690-691への反証まだですか
君は文章を読んで理解する力がないのか?
>>746 ですべてきちんと説明してあげただろう。
それで理解出来ないのなら、中学生レベルの読解力しかないということだよ。
君がどこの大学も出ていないことは最初から解かっていたが、そこまで読解力がないのなら話にならない。
君がエセ仏教学者に騙されたのは当然のことでしょう。 大乗の系統で悟りに直結する修行体系で 一般の人が発心した時に巡り会える確率ってどのくらいあるんだろう 禅宗ぐらいですよね? その辺のお寺で相談して熱意が伝われば 実は本部には悟った人がいて 縁がある人だけ修行を見てる とかあるんだろうか >>750
>道元禅師の「正法眼蔵」にも、法華経にある大乗仏教の哲学思想についての
法華は宥和小説とプラセボ五種妙行とバラモン教の脅し文句くらいです。
継ぎ接ぎの元ネタは古層や過去の仏典にあります。
ですから、時間認識、空間認識、自我認識の誤まり等々説いても、
その哲学思想は、原始仏典でも説かれていて、
その先の知見、智慧の洞察智が大乗思想にないんです。
だからマインドフルネスの背景にある理論も分からず、反マインドフルネスなわけ。
道元さんはこの行に終わりはないのかと嘆いていました。
それは中国経由によってもたらされた教えが、智慧の洞察智が含まれてなかった。
しかも空に反して発生論的一元論ブッセイ実体視思想で、それを仏教学会は
否定の論文発表をしました。 言いたいのは大乗って本当に大衆を悟り または安らかな生き方に導いてる?ってこと 禅宗以外でここ数十年で目覚められた大乗の僧はおられるんでしょうか? 絶対いるとは思うんですが大衆への働きかけは? 修行法は? >>749
「仏教哲学」というのは、人を「「悟り・救い」に導いてくれる「(特殊な)論理」です。
西洋哲学のように単なる知性による合理的帰結を求めるものではなく、その論理が解かるように
なれば、その人の意識を時空を超えた世界に引き入れてくれる「(特殊な)論理」です。
それは「信仰」とは異なるもので、意識の集中が高まるにつれて知的にも納得できる論理なのです。
(単に思索するだけでは理解できず、瞑想や祈りなどの準備が必要とされることが多いです。)
「仏教哲学」というのは、狭義には「空観哲学」や「唯識学」を指すことが多いですが、時空に対する
すぐれた洞察を教える華厳経の華厳哲学や天台思想の天台哲学も仏教哲学と呼ばれます。
大乗仏教の基本哲学として重要なことは、小乗仏教の「修行して悟りを得る」という考えの誤りを
見抜いた洞察で、これが大乗仏教哲学の基本であると言ってもよいでしょう。 >>751
悟ってない人が悟っている人というイメージでは、騙されますよ。
あと禅病、魔境もググって調べて下さい。
自称宗教体験という魔境によって、自我強化してしまいますから。
禅定の体験だけは、悟りに至らないとブッダは説いています。
禅定を極めれば心解脱ですが、それは悟りでも解脱でもない一時的体験で、
+観行慧解脱を説いたのがブッダですので。 >752 >>756
2号君は何の学問も勉強したことがなく、まともに文章を読む力もないのですから、
もう仏教について口を出さないように!
言葉が悪くて申し訳ないが、もうこれ以上、君のようなお馬鹿の相手は出来ません。
君の知性は高校生未満のレベルです。 >>755
「時空に対する優れた洞察」っていうのは一般的、科学的な世界観とは違う世界観を「真理」として認識するということですか?
「物質世界を越えた霊的世界、輪廻」などを全く信じないままでも
宗教体験に至りますか?
それとも宗教体験、悟り、救いの体験というのは、一般的科学的世界観を捨て仏教経典の世界観を真理として認識することと不可分のことですか? >>755
つまり多くの仏教学者が指摘するように、
一言で言えば、大乗はヒンドゥ化だったわけ。
止行サマディ三昧、易行、仏性の行不要論等、、、 仮に「物質世界を越えた霊的世界、輪廻」というのが現代科学ではまだ解明されてないだけで、実は真実であるということなら、
それを真理として認識するのは、
「信仰」ではなく「真実を知るこも」になりますね。
そういうことですか? >>758
ですから、時間認識、空間認識、自我認識の誤まり等々説いても、
その哲学思想は、原始仏典でも説かれていて、
その先の知見、智慧の洞察智が大乗思想にないんです。
単なる一時的体験で済んでしまいますから言葉巧みな人に騙されないで。 >>757
ですから大乗哲学で、時間認識、空間認識、自我認識の誤まり等々説いても、
そして仮に禅定で一時的な宗教体験をしても、
ブッダは、それは悟り解脱ではないと説いてます。
その先の知見、智慧の洞察智がないんです。 >>758
>科学的な世界観とは違う世界観を「真理」として認識するということですか?
そうです。静かな意識の変化という形で現われる場合もあり、宇宙そのものが大爆発するような
壮大な体験として現われる場合もありますが、時空を超えた世界を知ることによって一切の苦悩が
消滅するので、それを「真理」とするのです。
何かまだ解決すべきものが残っていれば「真理」とは言えませんから。
>「物質世界を越えた霊的世界、輪廻」などを全く信じないままでも
>宗教体験に至りますか?
もちろんです。そのようなものは究極的には真理ではありませんから。
ただ、それらは迷っている人の意識においては現実です。
>一般的科学的世界観を捨て仏教経典の世界観を真理として認識することと不可分のことですか?
一般的科学的世界観は「個別」の世界の真理と関わるもので、それらも必要なので捨ててはいけません。
宗教的真理は「普遍」の世界の真理で、後者の世界に目覚めることによって人として生まれた目的が
果たされたと言える究極のゴールのようなものです。 >>760
>「物質世界を越えた霊的世界、輪廻」というのが現代科学ではまだ解明されてないだけで
そうではありません。
科学の方法によって宗教的真理を知ることは不可能なのです。
脳との関連などをどれだけ研究しても不可能です。
宗教的真理は「知る者」と「知られる対象」が分かれている限り、
理解できないような特殊な理解だからです。
厳密に言えば、「真理を知る」ことは出来ないということです。
真理を知る<主体>がある限り、真理は現われないのです。
それで、<真理と一つになる>などという表現がされることもありますが、
そのように表現している者は、もうすでに<真理>から離れているのです。 >>763
>もちろんです。そのようなもの(霊的世界、輪廻)は究極的には真理ではありませんから。
ただ、それらは迷っている人の意識においては現実です。
この説明は無我さんが前に言っていた
「完全な悟り」を得ると輪廻や霊的世界からも解脱する、完全な悟りのない迷いの人にとっては、輪廻や霊的世界は現実だ。
ということの説明であって、質問の答えそのものではないですよね?「完全な悟りを得ると輪廻からも解脱する」という話ではなく、
〔「物質世界を越えた霊的世界、輪廻」などを全く信じないままでも
宗教体験に至りますか?〕
に回答するとどうなりますか?
〔一般的科学的世界観は「個別」「私(心身、属性)」の世界の真理と関わるもので、それらも必要なので捨ててはいけません。〕
ということですね。
物質世界の者として、属性で生きてる限りそこも必要と。
後半の〔仏教経典の世界観を真理として認識することと不可分のことですか?〕
に答えるとどうなりますか? >>765
>〔「物質世界を越えた霊的世界、輪廻」などを全く信じないままでも
>宗教体験に至りますか?〕
もちろん、至ることができます。
>〔一般的科学的世界観は「個別」「私(心身、属性)」の世界の真理と関わるもので、それらも必要なので捨ててはいけま>せん。〕 ということですね。
そうです。
>〔仏教経典の世界観を真理として認識することと不可分のことですか?〕
仏教経典を知らないで悟りを得る人もいますから、不可分とまでは言えないでしょうが、
<仏教経典に相当する>内容に触れることは必要でしょう。(老子のように何も学ばずに
子供の時に自然に悟った人もいますが、まあ例外中の例外と言えるでしょう。)
私の師匠の一人は、「悟った人の言葉に触れるをしないで悟るということは出来ない」と
よく言われていました。 >>764
それは
〔属性ー意識ー本体という構造において、意識と属性が密着したままではわかりません〕
って話ですね。
そうやって今、語っている無我さんの意識は属性と密着しているのではないのですか?
その状態で説明してるのではないのですか?
「主体がある」状態で説明してるのではないですか?
属性と意識が密着しているところの思考に、「真理」を認識しているのではないですか?
無我さん自身にそういう構造があるのではないですか?
属性と意識が密着しているところの思考で、輪廻や霊的世界を真理として認識し語っているのではないですか?
体験だけだったら、仏教の世界観は必ずしも必要でもなければ真理でもないのでは?>>558
意識と属性が離れる体験でのことを、意識と属性が繋がってる時に仏教的世界観として後付けで構成したのが「真理」なのでは?
そして、 無我さんは
属性と意識が密着しているところの思考で、輪廻や霊的世界を真理として認識し語っているのではないですか? >>766
無我さん自身は何故
輪廻や霊的世界を信じているのですか?
宗教体験自体は本物でも、
それと仏教的世界観を「主体のあるとき」に信じるのは別のことなのではないですか?
まあとにかく>>766で示されたように、宗教体験をするのに、
仏教的世界観を〔私(属性と密着した意識)が〕
信じる、信仰することは必ずしも必要でないと無我さんも今は認識してるということですね。
属性と意識が離れる体験を
〔属性と密着した意識で〕
超越的宗教的世界観として描いた仏教経典というのは、
それを読むことで、
その体験へと導く効果が一応あるのかもしれませんね。 しかし、
無我さんの神経症治癒モデルというのは
属性と意識が離れる体験だけでは駄目で、
その体験と仏教的世界観を結び付けて認識・信仰し、
属性と密着してる時にも
「霊的世界というものに比べれば、物質世界、属性ははかないもの、幻性のもの」みたいな
強い信仰的認識が必要なのではないか? 睡眠中の夢を見てる時には誰だって
属性(自我、身体感覚)と意識は離れてるわけで、
瞑想により
それに近い体験が出来たとしても、
それで「神経症が消える」とかは
難しいんじゃないかな?
瞑想をやめれはまた属性と結び付き「自分」になるわけだし、
「夢見てる時と似た現象だな」で終わってしまいそう。
やはり
「自分」であるときにも
強力に仏教的世界観を信じる形が無我さんの治癒モデルなのかなあ。
なかなかそれは厳しいな・・
信じる気はないから。 >>767 >>768
まだ私が言っていることをよく理解していないですね。
以前から何度も言っているように、君は自分の<思考の枠組み>の中に、
私の言うことを組み込もうとしていますが、それは無理です。
私は君がしていない体験をしていて(神経症も消えているので)、君とは
異なる<思考の枠組み>を持っているのです。
ですから、私が言っている内容を君の<思考の枠組み>の中で把握して、
「〜〜ということでしょう?」 と言われても、答えようがないことが
多いということです。
>無我さん自身は何故 輪廻や霊的世界を信じているのですか?
信じているのではなく、二度の幽体離脱の体験から霊の世界を知っているのです。
お釈迦様のような完全な悟りの世界に入らない限り、人は輪廻転生を繰り返します。
私も宗教体験で完全に時空を超えた世界に入った時は、そこは当然時間もないので
死もない世界ですから、輪廻転生などはあり得ない世界でした。
しかし、四六時中そのような世界にいるのは完全な悟りの人だけで、普通の人間は
無理なので、どうしても輪廻転生することになるのです。 >>769
>無我さんの神経症治癒モデルというのは
>属性と意識が離れる体験だけでは駄目で、・・・
>・・・強い信仰的認識が必要なのではないか?
それも誤解しているようですね。
属性と意識が離れるには、その意識に個人性があっては駄目ということなのです。
自分(属性)を見ている自分(意識)に個人性があれば、自意識で自分を見ているだけで
離れていると思っても全く離れていないのです。個人性のない意識に気付けば、水と油の
ように自然に離れてしまうのです。<強い信仰的認識>などは必要ありませんが、本当に
悟った人や救われた人の言葉に触れ続けていることがその為の大きな助けになるのです。
>>770
>睡眠中の夢を見てる時には誰だって属性(自我、身体感覚)と意識は離れてるわけで
違いますよ。全然離れてなどいません。引っ付いたまま休んでいるのです。
>信じる気はないから。
信じなくてよいのです。本当に悟った人(救われた人)の言葉に触れ続けていれば
それが現われる時が来ます。なぜなら、それが本来の状態だからです。 >>767
鋭い指摘ですね、私も前から自称無我氏の強固な属性密着状態(思考も)で、悟りを
説こうとすることに、おいおいおいで、やっぱり後世の不完全な変容思想らしいと
思ってましたけど。そこは自称無我氏は、その先の知見、智慧がないので、一時的
体験でのみ自我を強化させているだけなんです。
その証拠に、無常ですので、彼の心のうちでは、平安を得てなく、迷妄していて、
今でも悟り本をあさっているという告白が、720にあります。
つまりその先の知見、観行、智慧の洞察智が大乗思想にないという欠陥が
露呈しているわけです。 >>772自体、属性と結び付いた意識の中で解釈してるだけの説明ですよね。「私」が言ってる。
「私」が語るのはおかしいはずなのに。
>>772は無我さんの中では、
「真理(→だから信仰ではない)」。端からは「信仰」。
端の人が「信仰」と言っている→
無我さん「真理に目覚めてない人。仏教を学んでいけば真理に目覚める。」 「「私」が真理を得た、わかった」というのは有り得ないという話なのに、
>>772などを語るのは無我さんの「私」。 そもそもさ
マインドフルネスは宗教性を排除したために効果が薄くなってる、とか本スレでしつこくブチ上げてこのスレに隔離されたんだが
この有り様で説得力皆無
宗教性の排除って方針はとても成功していると判断しつつあるよ 「「私」が真理を得た、わかった」というのは有り得ないはずなのに
無我さんの「私」が
「そんなのは間違いだ!
これだけが真理だ!」とひたすら
執着してる。 ああ元々>>772に対してだけではなく
〔>>771>>772などを語るのは無我さんの「私」。〕
という感じで >>771 に対しても含めた意見だったから。
>>771
>君とは
異なる<思考の枠組み>を持っているのです。
無我さんの「私」が
異なる<思考の枠組み>を持っている
ってことですよね。
ずれてますよね。
「『私』が真理を得る」ということではないのに、
無我さんの「私」が
異なる<思考の枠組み>を持つことが神経症治癒になってると。
やはり>>769ということが必要な治癒モデルなんだろう。 サマタ瞑想による集中の極致に至って、はじめて思考の枠組みから抜け出す
ことができるけど、思考の枠組みから抜け出した認識を言葉で伝えることは
基本的に不可能だよ。
言葉は必ず思考を介するので。
無我の状態を体験した人同士なら、「あぁ、はいはい」って分かるけど。
自分で瞑想して確かめてもらうしかない。
分かるまで黙って温かく見守ってあげればいい。
方法は無上の調御丈夫、天人師であるブッダがすべて教えているのだから
その言葉に従うのが良い。
余計な喧嘩も論争も必要ない。 >>780
君の神経症を作り上げた君の<思考の枠組み>を後生大事に持ち続ける
限り、神経症から自由にはなれません。
君の間違いは、自分の思考によって神経症から脱する為の正しい方法
が得られる思っていることです。実は逆で、その思考のせいで神経症が
治らないままになっているのです。
その思考によって、これまでに何か良い解決の糸口が見つかったことが
あるかどうかを反省して見れば分かるはずです。 基本的に、自分に合った法門を選べばいいけど
パオ系の指導者は禅定に入れるし、指導もできるので
思考の枠組みから抜けだしてサマディに入り、智慧の体験をしたいなら
そこでアーナパーナ・サティのやり方を教わったらいいと思うよ。
話は人を指導する資格があるひとから聞いた方がいい。
一番はお釈迦さま。
あとは時間の無駄。 変性意識状態なんて催眠術でも入れるのに悟りやら無我やら霊やら、とっても大袈裟 >>778
貴方の自称無我氏への指摘、鋭い、無我氏より悟っている
なんかね、彼の説明によると一時的体験のみで、あとは煩悩思考全開でいいんだと、
不完全なんです。
煩悩思考全開だから、愁、悲、苦、憂、悩、の苦悩があり、
不満、怒り、恐れが拠り所で、
排他的、差別的、偏見、敵対的、観念論になって、ここはダメと鵜呑み盲信の思想を
布教しにきて心の穴を満たそうとしているでしょう。
彼に、その先の知見、智慧がないので、一時的体験でのみで自我を強化させている
だけなんです。
その証拠に、無常ですので、彼の心のうちでは、平安を得てなく、迷妄していて、
今でも悟り本をあさっているという告白が、720にあります。
これ近年出た本ですよ。
つまりその先の知見、智慧の洞察智をもたらすものが彼の大乗思想にないという欠陥を
露呈しているわけです。 変性意識は思考と感覚の枠内だけど
サマディは思考と感覚がないところにあるので、別物なんだよ。
ここは体験してみれば観測事実として分かるが、言葉は思考なので、言葉で伝えるのは無理なのね。 >>782
『「私」の思考の枠組みを変えるのがポイント』と
無我さんの「私」が言ってるわけですね。
(無我さん
「『私』が真理を得るというのは間違いなのだ!」) >>786
お、両方経験してるっぽい発言
変性意識状態とサマディが違い、サマディが言葉で表現できないとすれば、変性意識状態は言葉にできる? 変性意識っていうのは、要するに脳内物質によって脳内で引き起こされる
脳内現象であって、脳内妄想に過ぎない、という批判だと思う。
言い換えると、幻覚、妄想、夢の類となんの違いもないであろう、ということでしょ。
幻覚 ←幻覚は感覚から生じる
妄想 ←妄想は思考から生じる
夢 ←夢は寝ている時に見る
瞑想が成功してサマディに入っている時、集中は定まり意識ははっきりしている。
意識が一点に集中して動かないので、思考はしていない。
感覚にも動じていないし、ある程度までいくと感覚もなくなる。
感覚のないところに幻覚は生じない。
思考のないところに妄想は生じない。
眠ってないので夢もみない。
そういう状態。 我々は普通に生きていると、みんな自我の実感があるよね。
自我の実感は、実は思考と感覚によって生みだされているので
思考と感覚がなくなっちゃうと、自我の実感も消えちゃうんだよ。 その自我の感覚が消えた状態でも、まだ意識がある。
思考は意識が対象を取って動きまわることで生じるものなので、
思考はなくても意識はある。
感覚も同様。
その意識だけの状態を体験的に知ることができれば、宗教的真理の
かなりの部分を理解する視座が手に入る。
まずはアナパナで禅定を目指してみて。 >>789
サマディの体感を言葉にしてくれてありがとうw
変性意識状態ってそんな感じよ
何か常ならざる物を感じてるんじゃなくて、刺激に対して無判断で受動的になってる状態
自分なりの体感でいうと、視覚と聴覚がクリアになってジュワッとした肌感覚でただそこにいる感じ あぁ、ここマインドフルネススレか。
行住坐臥、すべての姿勢においてサティを持続するわけだけど
坐った姿勢の瞑想は集中しやすいから、坐る瞑想でサティの極致=サマディを
経験しておけば、日常生活のマインドフルネスも一層深く、強くなるよ。 しかしMZも毎日毎日連投を繰り返しても進歩がないよな
頭の中での観念的な思考思弁をぶつぶつ呟く日々を過ごしても何も変わらないだろうから
そんなことは放っておいてととっと社会復帰して体も使って働けよ
お前は暇すぎるから余計なことを考えるんだよ エックハルト・トールは言います
自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。 >>795
他人の言葉の丸写しも良いけど、
その言葉を自らの実生活で活かして咀嚼して出した自分の言葉で語ってみなよ。
あるいはその言葉を自らの実生活で活かしてみた体験談を語ってみなよ。
その方が余程説得力があるよ。 >>793
そうだよ、サマディが悟り解脱と勘違いが出てくるからね。
その前に貴方も前準備として言語で知識を得てるわけで、
そんな一時的体験が解脱に至らない道半ばと説いたのがブッダですから、
純観だけで最終解脱、サマディ必須でないと複数の仏典に堂々と説かれ、
そこは観だけでも初禅に入れ、心の散乱なければいいよってくらいで。
なんたって大念処経の方法で解脱できるとあり、これもサマディをスルー。
けど厳密には大念処経の中に止も混在しているけど、ほとんど観中心。
貴方にはその理由が果たして分かるだろうか、分からないよね。 八正道の八番目が正定(サンマー・サマーディ)。
仏教において正定と定義されているのが、九次第定。
すなわち色界初禅から滅尽定までの九つ。
これら九つが、ブッダが正しいサマーディと定義したもの。 パオとマハシは別に対立する概念や方法論というわけではない。
出家向けと、在家向けに入り口の違いがあるに過ぎない。
それは喩えるなら、登山において入山の入り口は違っていても
山頂は一つに収斂していくようなもので、入り口の違いで争う人は
まだまだ分かっていないと言わざるを得ない。
ただまぁ、そうした議論も無駄なので
経典のブッダのことばから素直に学ぶのが一番良い。 純観行者であっても、預流果に達した段階で三結が消えて五蓋が大幅に弱められるので
一来果を目指す段階では、すんなり初禅に入っていけるようになる。 >>799
ええと、プロセスについて誤解があります。
サマタ止の修行を深める九次第定、四禅定→四無色定→想受滅定のプロセスの四禅定と、
ヴィパッサナー観の修行の八正道の、正定とでは、内容が異なります。
八正道の正定は、四禅定までの説明で終わっています。
七科三十七道品の中には、四無色定がその中に含まれる修行は入ってません。
実は仏典には複数のプロセスがあります、さてその違いは何か分かりませんよね。 >>801
>預流果に達した段階で三結が消えて五蓋が大幅に弱められるので・・・
そんな現実の自分とかけ離れた妄想を逞しくして空しくないかい?
原始仏教は自己欺瞞の修行者をたくさん産み出したということが
大乗の反省の一つでもあった訳だが、現代の原始仏教修行に関心を
持っている人達も同様に見える。
東南アジアにでも行って修行僧になる場合や、趣味で瞑想に打ち込む
人はそれもいいでしょうが、神経症に悩んでいて原始仏教の瞑想で
神経症を治そうとする場合は、あまり期待はしない方がいでしょう。
(症状によっては却って酷くなる場合が出て来るでしょう。) 少なくとも瞑想合宿に参加するとか、ある程度のまとまった期間、
全身全霊で取り組む必要があるけれども。
>>802
観禅に必要なサマディは第四禅だから、悟るのに無色界禅が必須ではない。
それは基礎的な教学の段階でも教わるはず。
ただ言えることは、サマタができる人は、サマタができない人のための方便に
縛られる必要はない。 なんだかんだ理由つけてるけどサマタが出来ないだけだもんな 五戒は下に落ちないってだけで、上に上がるには八戒で生活してないと厳しい。
普段、貪瞋痴に制御されてる心が、たまに1時間だけ瞑想しようって時だけ、貪瞋痴を
制御しようとしても、そんな上手くいくわけない。 戒律を守る生活と、マインドフルネスを保つ生活というのは同じこと。
同じ道の上にあることで、不可分。 >>804
「瞑想合宿」程度で達成できるのなら、印度で原始仏教が衰退した理由などないでしょう。
一時的に何か心境が変わったような気がするだけで、生活の全面でそれを表わすことは
不可能に近いと思いますよ。
オウムでも一部の人達は自分が悟りを得ていると勘違いしていたようだが、大将の麻原が
あのレベルだったのだから、原始仏教の修行というものが如何に信用できないかが分かる
というものです。 出家できれば文句なしだけれども、それが無理でも少なくとも10日間ぐらいは
まとまった時間がないと、サマディが実感できるほど集中を深めるのは難しいと
思いますね。 一時的な集中の深まりが無意味という指摘の、どこに語弊があるかというと
集中の深まりの高いところが、普段の平均全体を底上げすることを見落としている点です。
サマタの修習そのものの経験がないところからの発想としか思えない。 瞑想というのは心の訓練なので、訓練に応じて上達していきます。
合宿に意味がないのではなくて、合宿だけで完結しないということであって
訓練の成果が上がるのなら、やった方がよいです。 >>811-813
瞑想が普段の生活のレベルを底上げするとは一概に言えないでしょう。
麻原などは瞑想自体は相当深いところまで体験していたようですが、
結局、自分も弟子も精神が崩壊し、無関係な人々にも地獄の苦しみを
与えることになってしまったのですから。
「煩悩を滅することが出来るという思い」は根本的な妄想であることを
洞察した大乗仏教に目覚めることの大切さを強調しておきたいと思います。 普段しんどい時にふっと心身の凝りをほぐすのに役立つ
そんなもん >>754
>でここ数十年で目覚められた大乗の僧はおられるんでしょうか?
(気が付かなかったので、遅くなりました。)
僧だけということではなく、一般人も含めて非常に沢山おられます。
世間に公表したりはしないので、一般には知られていないだけです。 >>817 >>818
浄土真宗に限らないのですよ。
知らない人が多いですが、「煩悩を消そうとすることは誤りだった」という洞察は
すべての大乗仏教の根底に横たわっているのです。
これが原始仏教の修行主義と根本的に異なる大乗仏教哲学の基礎でもあるのです。
では、オヤスミ。 釈迦牟尼と麻原の区別がつかないようだと、ちょっと話にならないな。 >>819
この人、たぶん親鸞さんを批判すると起きてくると思う。 瞑想は普段の生活のレベルを底上げするでしょ
Googleが瞑想を取り入れたのも日常の業務の効率を良くするためなんじゃないの 上座部vs大乗だと思ってたら、ちょっと目を離した間にマハーシvsパオになったw 相変わらずだね、自称無我氏のネガキャンに必死なのは…。
密教、秘法ヨーガ中心の麻原と原始仏教を強引に結び付けたわけでしょ。
後のオウム幹部の反省レポートには、原始仏教の教えを軽視してたことが、
すべての失敗だったとあるから、反省派幹部のサイトで確認できるからね。 >>819
ええと、煩悩滅の思いに囚われてることでもないんです。
何かを絶対視して固執した思いでもない。四諦教説は、苦の滅に繋がる実践で、
私も過去快楽依存になったり、社会生活の中でウツ等で心がボロボロになり、
そんな時に救われた教えです。
貴方がケチつけずにいられない不満のネガティブ性の心の内は、思想に固執して
絶対視していて、異なるものに抵抗しているから平安でないこと位、馬鹿
でも分かることです。それこそオウムカルトと同じ思考です。
そして今も迷妄しているから、昨今の悟り本なるものに手を出して読み、あーでもない、
こーでもない、反マインドフルネスの私の思想の教えに従えと、自己中心性思考、煩悩思考全開で
無我を語り、真の仏教は私の思想だと語る言動こそ滑稽です。
そして0か100かでなく、浄土真宗が崇める蓮如さんも、他教を誹謗するなと、仏の
説教であるから、説かれた通りに実践するなら相応の利益があるものですと説いていて、
実際、マインドフルネスの実践によって、効果が出ている臨床データ、エビデンスがあるわけで、
そして医療の精神療法にもなっています。表面上は、実践修行主義に見えても、
貴方のように、〜主義の私になることではないのです。何でこんな簡単なこと分からないかな。 >>826-827
君は本当に懲りない人だね。
<大乗非仏説論>でも<五時八教>でも、もう十分に自分の無知を教えられたでしょう。
君は仏教の専門書など一冊も読んだことのない素人なのです。
だから、仏教について語る資格など全くないのです。
大乗経典はお釈迦様が書いたものではないとか、五時八教が間違っているとか、・・・
そんなことはすべて昔から仏教の素人が言っていたことで、仏教の専門家にとっては、
そのようなことは何の意味もないことだということは既に説明してあげたでしょう。
また、君がどんなに噓を言っても、スピリチュアル系の指導者の遍歴を続けていることが、
君の神経症が治っていないことの証拠なのです。
他人を欺くことは出来ても、自分自身は欺けないでしょう。
君のように神経症のド真ん中にいる人間が悟りだの解脱だのと言っても意味はないのです。
2chでいくら教師気取りをしてみても、君の問題は何も解決しませんよ。
君はまず、自分自身のの問題を本当に解決することです。「現代仏教学」などという悟りを知らない
エセ仏教学者達が作り上げた妄想世界に騙されている限り神経症は決して治りませんよ。
マインドフルネス瞑想に効果があると思っているのなら、それに打ち込んで君の神経症を治せばいいのです。
解かってもいない仏教について口を出してはいけません。
>貴方がケチつけずにいられない不満のネガティブ性の心の内は、・・
そうではないと何度も言っているでしょう。
君が間違った仏教理解をしているから、君を否定しているのです。
君は仏教の偏った入門書を読み漁っただけで、まともに仏教学を学んだことがないのですから、
スピリチュアル系の話だけをしていればよいのです。 専門用語はあまりわかりませんが、日常で瞑想に取り組んでいて疑問がありますのでどうかご教示ください。
瞑想とは、
自我から一歩離れて自我を見つめ、自我にとらわれる必要がないことに気づくこと、
自我に囚われていない自分を体験すること、
と考えて取り組んでいます。
その結果、普段の生活において湧き出てくるいろんな思いへの執着心か軽減されたように思えます。結果的に穏やかさや落ち着きを得、言い換えると不安、不満、恐れといったストレスがなくなりつつあるのを感じます。
しかしながら、
・一方で執着心から解放されている?と思いながらも
・他方ではこれは単に自分の思い、感情、価値判断、ひいては俗世的なもの全てに対して単に無関心になっているだけ?とも思うのです。
そこで疑問ですが、瞑想とは突き詰めれば自我を含めた全てに対して無関心になることなのでしょうか。
そうでなければ、瞑想の目的とは自我に囚われない自分を体験することで何を得ようとするものなのでしょうか。
そもそも、私の瞑想のへの考えに誤りがあるのでしたら、その旨ご指摘いただけると幸いです。 瞑想の効果が海馬の回復にあるとするなら、写経や読経などでの集中作業でも同じように海馬は回復するという。
しかも写経や読経は瞑想とは違い魔境に陥ることもなく、乱れた精神を整え無我夢中無心になれる。
瞑想が修行であるなら写経も読経も修行と心得て一心に行うと良い。
暗記(誦の行)は更に脳のトレーニングになる。
大乗経典にはよく経典の功徳が書かれているが、読誦や書写は確かに脳に良い。
もし教本や書道の道具があり、また興味があるのならやってみると良いだろう。 精神的な苦しみは思考が生みだしているので、思考から自由になれれば
苦しみから自由になれることが体験的にわかるようになってきます。
瞑想で集中すべき対象に意識を縛り付けることができるようになってくると
思考に流されなくなってきます。 宗教色を排したマインドフルネスの実践においては言及されませんが、
瞑想の訓練において、実は戒律を守ることは重要な土台となっています。
瞑想とは心を制御する訓練ですが
戒律を守る生活というのは、その基礎訓練なのです。
加えて、三宝帰依が重要です。
瞑想によっておかしな方向へ逸れていかないためにも、正しい
目標に向かっていくためにも、まず最初に正しい目標にフックをかけておく
ことで、安全を担保できるからです。 1日10分毎日続けるだけで効果が!!あなたの人生を変える音読のススメ!!
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上記目的に効果的に達するには
http://i.imgur.com/KyGe2jV.jpg
リズミカルに早く、しかも一つの文章だけではなく
色々と読むと良いとあり、読経でも良いとある。
宗派に拘らず色々読むと良いだろう。 >>829
>瞑想とは突き詰めれば自我を含めた全てに対して無関心になることなのでしょうか。
小乗仏教の瞑想はそのようなものでしょう。その為に、小乗仏教の最高位である「阿羅漢」の境地は
大乗仏教ではあまり評価しないことが多いのです。
大乗仏教では瞑想が深まれば周囲のことに対してよく気が付くようになり、無関心になるようなことは
ありません。元・曹洞宗管長の板橋興宗老師(現・御誕生寺住職)は座禅をしていて寺の境内で野良猫
がギャーなどと鳴いたりすると、怪我をしていないかと心配になって落ち着いて座禅が出来なかったそう
です。大乗の瞑想というものの特質がよく表れたエピソードだと言えます。 霊とか輪廻とかは、
科学的におかしいから→おかしい
って思ってるのですが、
では科学を基盤にしない社会的対人的常識を信じ、従ってるのは何故なのでしょうか?
「信仰」でしょうか?
何故その違いが出るのでしょう?
多数決? >>834
正体は曹洞宗ビイキなんでしょ、ご都合主義ですね、ここで布教とは。
※近年の曹洞宗の犯罪、僧侶犯罪記録のスレより
2013.07傷害容疑で僧侶2名を逮捕
2014.11放火容疑で住職逮捕
2015.03スカート内盗撮で僧侶を逮捕
2015.03酒気帯び運転僧侶を逮捕
2015.08児童買春で僧侶を逮捕
2015.11窃盗容疑で僧侶を逮捕
他にもあり
道元ビイキの自称無我氏は、他スレで人格が悪く仏教やって こんなふうに成りたくないと
非難されてました。彼が非仏説と認めた亜仏さんの教えでそうなったのでしょうか、
迷妄している証拠に、昨今テーラワーダ修行経験者の悟り本なるものに手を出してます。 仏教国のタイでは、僧侶の数が1年間で10万人以上も激減、廃寺になる寺院が続出している。
同国内では、麻薬に手を出したり、性犯罪で逮捕される生臭坊主が続出し、聖職であるべき僧侶が社会的に尊敬されない存在になりつつあるという。
そのため、タイ仏教者協会では出家をサポートするために奨学金制度を準備中だ。
http://shittoku.life/sp/11932.php 無我さんをここまで恨み骨髄にさせたのが何だったのか、過去ログ掘りたくなってきたw 【これは意外】瞑想が躁病やうつ病の引き金になる可能性ありと専門家が警鐘
ttp://irorio.jp/sousuke/20150526/232000/ >>836
まさに病人の書き込みだね。
2号君は病気なのだから、今は自分の病気を治すことだけを考えなさい。
>>837
原始仏教というのは本質的に自己欺瞞というものから離れられないものを持っている教えですから
仕方がないでしょう。タイも将来は大乗仏教の国に変わってもらいたいものです。
>>838
それは簡単なことです。
私が他のスレで仏教の教えによって神経症を治す方法を説明していた時に、彼が2号と名乗って
私の言うことを否定する書き込みをして来たからです。彼はまともに仏教を勉強したこともなく、
自分の神経症も治っていないにも関わらず、自分勝手なデタラメな仏教の解釈を他人に教えようと
していたので私は怒ったのです。そのようなデタラメな解釈によって神経症が治ることはないので、
怒って当然なのですよ。 >>837日本だってそう、鵜飼氏「寺院消滅」(日経BP社)より
「4割近くが消滅します。」
「僧侶は、これまで宗教者としての役割を本当に果たしてきたのでしょうか。
檀家や現代人の心のニーズにきちんと応えてきたのでしょうか。」 >>840
そりゃ子供の喧嘩から戦争・虐殺まで当事者はまず間違いなく自分は怒って当然なんだって言うでしょうよ >>840
それは自分の鵜呑み盲信の宗教が正しいと固執、絶対視していれば、
他の教えは間違い、デタラメのレッテル貼りする安直な貴方のことですので。
オウムカルトの連中も、教祖とその教えを絶対視、その結果は、反する他者は敵、
そして犯罪へ。貴方もそのカルトと同じ思考で、ここへ排他的思考で来てます。
曹洞宗の教えによって、836のように犯罪者が、過去を遡っても多発しています。
そして貴方のこれまでの仏教の説明については、私にとって何も目新しいものは出てきません。 >>834
ご意見ありがとうございます。
瞑想の目的として、何かしらの気付きを得やすくなることを目的としているということでしょうか。
それでは、気付きを得やすくなる動機は何でしょう?
私の生活に当てはめてみれば、より多くのことに気づき、反応し、対処することになってしまい、落ち着きのない以前の生活に逆戻りし兼ねません。
お話の住職殿は猫の鳴き声に反応し慈悲の気持ちからとはいえ執着した結果、集中できな句なってしまってるように思えます。
いかがでしょうか? >>844
>何かしらの気付きを得やすくなることを目的としているということでしょうか。
原始仏教の瞑想には目的がありますが、曹洞宗(道元禅師)の座禅には目的がありません。
只管打坐(しかんたざ)と呼ばれているものです。
<座禅することによって何とかするような自己は本来存在していないので、座禅の目的も存在しない>
ということです。あえて言えば、そのことを知ることが目的だと言ってもよいでしょう。
只管打坐(しかんたざ)の心境が進めば、(結果として)自己と外界が一つになっていきますから、
他者(動物なども含めて)の苦しみも直接に感じられるようになる訳です。
自己と外界が分離している間は、外界は静寂な自己の世界を乱すものになりますが、もはや「外界」
ではなくなっているので、「乱す外界」と「乱される自己」の区別は存在していない、ということです。
正しい座禅をする限り、外界に対して無関心になるということはないと思います。
(それが大乗仏教の瞑想というものだと思います。)
外界に気付く<主体・意識>が「小さな自己」ではなくなっていくので、より多くのことに気を使っても
落ち着きがなくなったり、邪魔だとは思わなくなるということでしょう。 線香に火をつけるときに気づいたが、蝋燭の光を半眼で見ながら2〜3分瞑想すると考え事に捉われないでいることが出来た。
火を見るのは飽きないとはよくいったもので火を見ることに集中し続けることはできる。
マントラ瞑想3分よりも火を見る瞑想3分の方が簡単だと思う。
マントラだと雑念が湧いてくるし、それはスルーしてマントラに戻ればいいとは言ってもマントラを心の中で唱え続けるのもけっこう疲れるものだ。
疲れるものは飽きる。
火を見るのは疲れないので飽きない。
仏壇に向かった本命は先祖供養と般若心経と観音経の読経だったのだが、思わぬ発見。 曹洞宗そのものについては断言できないけど、現代の曹洞宗にはもう
禅に入れる人はほとんどいないんじゃないかな。
他宗派を批判しているところをみても、方便の違いを吸収できる視座に
達していないことは明らかだし。
戒律違反だしね>他宗批判
しかも釈尊とその教法を間違いだと言い放つということは、仏教自体が
分かってないと言わざるを得ない。 >>845
なるほど、すなわち瞑想自体が宗教的目的になってしまっているのですね。
それはとても残念です。 >>847
他宗批判はスマナサーラ長老がいつもしてるよね。
スマナサーラが破戒僧と言われても仕方ないよね。 おれミャンマー系だから、そこの系統じゃない。
テラワダがすべてそこの系統だと思うのはやめて欲しい。 スマナサーラはテーラワーダ仏教にとっても迷惑な存在なんだね >>845
>自己と外界が一つになっていきますから、他者(動物なども含めて)の
万物に関する究極的な基体、根底、根源、本質体というものが、
絶対的存在、実在、不変実体、自性、としてあって合一だと、元は発生論的一元論らしい。
梵我一如的なるヒンドゥー思想的で、そこで他の生命と共感するという飛躍でなくても、
そんな方法でなくても思いやりのある心を育てることは可能だし、
利己的な独我論の人が、縁起する無我で出るような手法でなく、これでは不足でしょ。
これこそ、一闡堤ってことにならないか心配だけど。 >>848
っていうよりも、瞑想によって何かを得ようとかあまり欲をかくと裏目に出ることもあるよ。
瞑想の「うつ」などへの効用は限定的=米研究
http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304387404579305490268114718
【これは意外】瞑想が躁病やうつ病の引き金になる可能性ありと専門家が警鐘
http://irorio.jp/sousuke/20150526/232000/
みんな一昔前の抗うつ剤の誇大な宣伝文句、例えばこんなの
>髪を染めるように性格が変わった」奇跡の抗鬱薬【プロザック 】
>プロザックは、画期的な新世代抗うつ薬として90年代から欧米、日本で急速に広まりました。
>副作用も極めて少なく、全世界で2000万人以上に服用されています。
>「髪を染めるように性格が変わった」アメリカのあるうつ病患者がこう語ったように、プロザックの効果は劇的なものです。
>プロザックの服用後は、それまでの深刻な鬱の状態を見違えるように改善します。
>プロザックはこれまで世界中の多くのうつ病患者を明るく積極的な性格に変え、人生そのものを幸せでポジティブなものに変えてきた「魔法の薬」です。
>プロザックは過食症・拒食症・パニック障害・脅迫性障害・恐怖症・PTSD(心的外傷後ストレス症候群)にも大きな効果があることが専門家の研究で確認されています。
>アメリカFDA(食品医薬品局)で過食症に効果があると認められている薬は、唯一このプロザックだけです。
>また、プロザックがこのように世界的に人気の高い秘密は、鬱病等にかかっていない一般の健常者が服用した場合でも、
>より気分が明るくなり、自信が増し、集中力・思考力がアップするという効果があるためで、多くの健常者の方にも愛用されています。
こういった宣伝文句に書かれているのと同じような効果を今度は瞑想に求めているんじゃない?
そうだとしたらそれは過剰な期待なので捨ててしまいましょう。
過剰な期待や欲目を持って瞑想すると多分裏目に出るんだよ。
ただ座る、その姿が「あるがまま」であり差取りです
http://c-sakuranbou.hatenablog.com/entry/2015/05/12/080000
さらに宗教的な興味があるなら「諸法実相 本来の面目」で検索してみるといいよ。 >>847
曹洞宗公式サイトより
>十六条の菩薩戒
>大乗仏教ではこの約束を菩薩戒と呼んでおり、曹洞宗も菩薩戒を重んじます。
>そして、菩薩戒の内容を十六条立てて、実践するべきだとされています。
>十重禁戒
>・不妄語戒(誤ったことをいわない)
>・不自讚毀他戒(自らを褒め他人を謗らない)
>・不説過戒(他人の過ちを説かない)
>・不瞋恚戒(怒らない)
自称無我氏は、全部破ってないか、ですので他スレで、周りから人格がよくないと
非難されて、仏教者の見本とならなく誰も付いてこなかったわけか。 訂正、>>852の一闡堤の意味間違えた。
でもこれって差別思想にならないのかな。 >>853
瞑想にそんなに多くを求めてはいないです。
私は、自我それ自体が自分ではないということ、そして自我にとらわれない自分を体験すること、これを目的としています。
あなたは、外への気づきの感度を上げるため、さらには、外界と一体になり他者の苦しみも感じられるようになるので外界と自己が一体となっているので外乱はなく、拡大した自己の内側として扱えるとおっしゃる。
それが目的でしょうか?拡大した自己を得る意味とは?
やはりより多くのことに気づき、反応してしまいかねないように思います >>856
一般には自我(アイデンティティ)の確立により大人になっていくとされる。
自我同一性が得られないと不安障害などが起きたりするし、
自我喪失となると自分というものがなく常に流されて生きてくだけの存在となり虚無感からひどい場合には自殺したりするらしいよ。
まずが自我同一性を得ることだよ。自我が肥大した場合にも自我同一性は得られないからその場合は自我を削る必要がある。
そのためには無理に背伸びをせず、「あるがまま」「ありのまま」の自我を受け止めるのが必要になるのではないかな?
外界と一体となるには、原始仏教だと「識別作用の止滅」、大乗仏教だと「自他不二」を観じることにあるのだろう。
識別作用の止滅については、具体的なことは最古層仏典のスッタニパータ第五章に書いてあるけど、
1110 「どのように気をつけて行っている人の識別作用が、止滅するのですか? それを先生におたずねするためにわたくしはやってきたのです。あなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」
1111 「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、の識別作用が止滅するのである。」
1114 師(ブッダ)は答えた、
「ポーサーラよ。すべての<識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人(如来)は、かれの存在するありさまを知っている。すなわち、かれは解脱していて、そこをよりどころとしていると知る。
1115 無所有の成立するもとを知って、すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、それをこのとうりであると知って、それから(出て)それについてしずかに観ずる。安立したそのバラモンは、この<ありさまに知る智>が存する。」
さあ?ほぼ無一文になっている文字通りの出家者はともかく在家のままでこんなことが出来るのかとは思いますねw
これらも求道者の学生である仏弟子(おそらく在家ではなく出家者)に対して説かれた教えだと思いますし。 >>856
そこはですね、彼らの思想の中に、己来無量無辺だけに囚われてるわけで、
心理的時間、空間とかだけでなく、今ここ、一寸坐れば一寸の仏だけで、
智慧の洞察智までないわけです。そこが曹洞宗の教えだけの不足と限界です。
ですから彼らは、座る以外は日常生活で思いに翻弄束縛され、道具とできてなく、
煩悩全開、仏性顕在と言いながら836のような犯罪者も毎年多発しています。
彼らは結局、迷妄してますので、テーラワーダの著書や仏典を気になって覗いてます。
>無関心になっているだけ?とも思うのです。
その思いも判断解釈なく自己としてでなく、距離を保ってみて下さい。
外的な目的、内的な目的は異なるので、無関心、何もしなくていいという思いでなく、
自分のため、人のため、社会のため になることでしたら行いましょう、動けない事情が
あるならいいのです。
>何を得ようとするものなのでしょうか。
思想観念、ドグマ、概念構想、思い込み等に束縛されない自己で、
色メガネ、心のフィルター、バイアスに依存しない自主的な自己です。
そこに慈非なる美質も湧きます。以前より生きやすく、人間関係もうまくいきます。 >>859
2号君は病気なのだから、解かってもいない妄想を書き込んだりしないで、
先ず自分の神経症をきちんと治すことに専念しなさい。
神経症の君が他人にアドバイスなどしても、他人の神経症が治る道理など
全くないことも分からないかい?
仏教というのは君のような素人が入門書を読み漁って理解できるようなもの
ではないのです。
君が2chで指導者気取りをして安っぽいプライドを満足させて喜んでいる
お馬鹿な人間だということは誰にも分かっていることなのですよ。 信用されないのも自身の言動からくる縁起論という仏教用語がry これまでに2chで多くの馬鹿者を見て来たが、さすがに道元禅師の禅をディスるほどの馬鹿者には
出会ったことがなかった。
しかし、2号は神経症に悩んでいるような下根の者でありながら道元禅師の禅を下に見ているのだから、
真正のキチガイだと断言してよい。
2号のような無知の増上慢になってしまうと、もう神経症から自由になれる可能性はないと言ってよい。 >>860
結局貴方は、845程度の教えだったのです。
貴方から目新しい教えが全くありません。
そしてレッテル貼りしかできません。
854をよく確認しとこうな。
仏教の前に、俺様偉い正しいという自己愛性人格障害を治した方がいいですよ。クス
その絶対視の心の癖は、オウムカルトと同質ですね。
麻原さまが道元さまなんでしょ。 「瞑想するとリラックスする」はウソ! 6万人以上の脳をスキャンしてわかった、脳に効く生活習慣
http://logmi.jp/22147 >>862
だから、道元さんに罪はなく、中国経由仏教の犠牲者なんですよ。
仏教学者も研究済み。
ま、麻原絶対視が、道元絶対視というカルト思考の性質は変わらない。
勘違いしないでね道元さんが悪いのでなく、
貴方の頭のその性質がカルト思考だってこと。
道元を使って自我を強化構築した頭なんて、こんなの崩すの軽いでしょ。 >>863 >>865
いくら他の人を欺いても意味はないのだよ。
毎日神経症でもがいている君自身の生活を考えれ分かるはずだろう。
浅はかな理解で仏教が解かったと勘違いしても、君の神経症が治っていないという事実が
君の仏教理解がデタラメだという証拠なのだからね。
他の人々を欺いても、本当に神経症が治った私の目を欺くことは出来ないのですよ。
「俺様偉い正しいという自己愛性人格障害」というのは君のことなのですよ。
自分自身が神経症患者なのに他の神経症の人を指導しようとするのは、君が神経症とは
別の障害を持った人間だということなのです。 循環論法を格上の自覚の根拠にしてるから、資質を疑われるたびに一々ループに入る 道元を中国経由仏教の犠牲者としてるけど
現代の例えば日本印度仏教学協会の会員で
道元を超える仏教徒がいるのだろうか?
大乗非仏など知らなくても道元は立派な仏教徒であり覚者であった 皆さんは本当に習慣として瞑想されているのでしょうか?
ここはいろんな意見があって良いし、なかなか読み応えのある内容も少なくありません。
そんな場所ですから、皆様は、あるいは自分の一部を卑下されようとも、動じない心をすでにお持ちだと考えてます。
執着に囚われないよう、改めませんか。 「個性の強い人間」
「それを相手にしている人間」
という一部の側面しか見えていない。
「気にせず流している人間」
「相手にしていない人間」
「見ていない人間」
などたくさん存在している。
「改めませんか?」
というのは一部の側面への傲慢でしかない。 >>859
すみません、前半については私の知識ではまだ理解できなさそうです。
ただ、後半については少なからず得ることもありそうです。
あなたのおっしゃる自主的な自己を、私はまだ理解できていないようです。
つまり、無関心、無反応になるとしか思えない、これが今の私の理解の限界なのでしょう。
何もしないのではなく、できる範囲のことを慈悲の美質を以って行う、それが理解できるようになれるまでは、まだまだということですね。 >>858
なかなか難しいですね。レスを読むだけで頭が疲れそうです。
教えていただいたキーワードを、まずは勉強してみたいと思います。 >>859 >>865 の2号という人は神経症を治したい為にさまざまなスピリチュアル系指導者を遍歴している
神経症患者です。まともに仏教を勉強したことなどなく、しかも神経症でもがいている最中の人間にも関わらず、
道元禅師のことを「中国経由仏教の犠牲者なんです」などと言っているのですから、キチガイのたわ言に過ぎない
のです。まともに相手にするような人間ではありません。 エックハルト・トールは言います
自分は正しく他者は間違っているという考えは
エゴイスティックな心の主たるパターンの一つ、
無意識の主たる形の一つだ。
エックハルト・トールについて語るスレ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1475452304/ >>874
相変わらず、憶測妄想、レッテル貼り(認知の歪み)で喚いてますね、
ネガティブ性を発揮させてしまったか。
その浅はかな絶対視の心の癖は、オウムカルトと同質ですので。
麻原尊師が非難された、道元さまが非難された。
いいえ、教えの中身が老荘思想まがいなのは、中国に文句言ったらどうかな。
宗祖、名声だからと疑いをかけないで、金田一耕助のように、本質を見抜いた
学者に拍手でしょ。 >>876
仮に道元が老荘思想まがいだとして
老荘思想まがいはいけない、駄目だ、偽物だというレッテル貼ってない? >>870
もちろん!ここはめいそうのスレですよ。
たくさん迷走してました! 道元禅師をディスるとは凄いところに手を付けてきたな、ってのはわたしも思った >>880
リトマス試験紙を知ったばかりの小学生がノーベル化学賞の学者をディスるようなもの。阿呆ガキの証明。 それ以前に、釈迦牟尼をディスってるアホが約一名おるけどな。 幸せでありますように
悩み苦しみが無くなりますように >>883
エックハルト・トールは言います
不幸は、思考がでっちあげる「わたし」と「わたしの物語」、観念的なアイデンティティを必要としています。
不幸はまた、過去と未来という時間を必要としています。
不幸から時間をとり除くと、あとには何が残るでしょう?
この瞬間の「そうであるもの」だけが残ります。
エックハルト・トールについて語るスレ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1475452304/ >>883
ゴータマ・シッダールタは言います
苦しみの新しい間を楽しみといい、
楽しみの古くなったのを苦しみという。
(全ては苦しみに帰結する)
一切の形成されたものは苦しみであると明らかな智慧をもって観るときに、
ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。 >>882
君はきちんと仏教の勉強をしたことがなく、また他人の文章を正しく理解する力が
ないだけのことなのです。
仏教徒が釈迦牟尼をディスることなど100パーセントないのです。
原始経典は初心者向けのレベルの低い教えが多いことは昔から常識であって、それは
釈迦牟尼をディスることとは正反対なのです。
ディスっているのは、対機説法である初心者向けの教えをお釈迦様の真意だと勘違いして
「現代仏教」などを主張しているお馬鹿さん達のことなのです。
(そして、そのお馬鹿さん達に騙されている君のような哀れな人間たちも同様なのです。) 例えば、数学の大学教授が子供達に数学・算数の話(講義)をしたようなものです。
教授は基本的な易しい話しかせず、子供達がノートに書き留めることも自分達が理解できる内容だけなのです。
その子供達のノートの内容を大学教授の数学理解だと思うようなお馬鹿さんはいないでしょうが、
「現代仏教学」を主張しているエセ仏教学者達はそのようなお馬鹿さんと同じことをしているのです。
なぜ、そのようなことになるかと言えば、彼らには宗教体験がないからです。
宗教体験がないと頭で考える以外にはないので、表面的な言葉にとらわれてしまいます。
昔から宗教体験があった(悟りや救いを得た)僧や本物の仏教学者は、大乗経典こそがお釈迦様の真意である
ことを体験的に理解していたので、<大乗非仏説>などは問題にすることもなかったのです。
大乗経典を作った人達はお釈迦様から脈々と伝えられて来た「悟り」を真に体得していた仏弟子達で、原始経典
は(重要なものを含んではいても)お釈迦様の真意ではないことが分かっていた人達なのです。 しかんたざ 以外に 瞑想のポイントみたいなのはないのかい? >>889
そのために師匠の指導や講義がある訳です。
仏教というのは師資相承によって伝えられていくことが基本ですから、
自分勝手な理解で瞑想を続けても、何の体験にもつながらないことが多いです。
道元禅師が弟子達の為に病身を押して「正法眼蔵」を完成されてから涅槃に入られたのも、
座禅と同時に「言葉による指導」も極めて重要だと思われていたからです。
「正法眼蔵」という書物は、昔から読むだけで悟りの世界を体験する修行者が多く出て
いる稀有なる仏教書で、「只管打坐」は「正法眼蔵」とセットであると考えるべきです。
道元禅師の教えを聞きながら「只、座る」ということです。 >>886
そうですね。
ありがとうございます。
悩み苦しみがなくなりますように。
悟りの光が与えられますように。 >>889
なぜ「只管打坐」を「しかんたざ」とひらがなで書いたんですか? >>887
だから、その初心者向けのことができてないでしょ。 >無我某
おまえ、宗派間対立を助長して何やってんの?
そもそも戒律違反だろ。 宗派の違いは同じ山の登山道の違いに過ぎないのだから、どちらかが正しくて
どちらかが間違いという類のものではないよ。 山の上の方に登っている人は、下の方にいくつも違った登山道があるのが見えるので、いちいち他のコースを批判したりしない。
批判がでてくるということは、まだ登っていないことを表している。 >>890
>道元禅師が弟子達の為に病身を押して「正法眼蔵」を完成されてから
>涅槃に入られたのも、
ちょっと違うね。
正法眼蔵は、ただひたすら座った人間にのみ
そこに書かれた真の意味が理解できる書かれていて
言葉から入る人間には理解できない。
つまり正法眼蔵を読書するにも
ただひたすら座る教えがなければ
意味をなさないということ。 >>897
おれが言ってるのは、他宗を批判のこと。
おれは大乗仏教もテーラワーダ仏教もチベット仏教も批判してない。
自力も他力も批判していない。
同じことだから。
菩薩道も阿羅漢道も批判していない。
どちらも同じ道の途上だから。 無我某が言ってる体験は読書体験のことであって、禅による体験を
経ていないことは言っていることから明らか。
日本は禅の実践が少なく、指導できる者もあまりいないせいか
中論を読んで、その読書体験を悟りだと思い込む誤りが非常に多い。 おれがどうしても許せないのは、他宗批判を真に受けた素人から救われる
機会を奪っていること。
法門には相性がある。
自分が属する法門だけが正しくて、他の法門が間違っているなどと吹き込
むと、救われるべき人から救われる機会を奪うことになってしまう。
とんでもない悪行だし、本人にとっても悪業になる。 国境のラインがあると思ってるのは地図でしか地球をみたことがない者。
ロケットで宇宙に飛び出して、重力圏外の宇宙空間から地球を眺めたら
国教のラインなんてないことを知る。
体験として知る。
同じように、禅の体験を経ていれば宗派の違いが表面的なもので、思考に
よる分別からでてくるものでしかなく、虚妄であることを知る。
体験として知る。
無我某にはそれがない。 部派や宗派の違いは方便の違いに過ぎない。
受け手に合わせて語られた方便に過ぎない。
受け手は、自分にあった方便を教える法門をくぐればそれでよい。 サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/ 無我氏は、ここに書き込んでる特定の何とか言うやつを批判してるだけだろ
そいつが毎日2ちゃん中に自作自演して書き込みまくってる事も、無我氏は知ってるようだが
>>904
まーおまえのことだけど おれは最近ここに来たので、おれじゃないな。
2号とか言われてる人のことじゃないのか。 読書によるアハ体験は悟りじゃないよ。
そんなんで空と涅槃を体現できるなら、哲学科で論理学やってるやつはみんな悟ってる。
ほんとうにいい加減にしろ。 >>910
嘘つきは真顔で嘘をつかないと言うもんだよ。顔は見えんがおまえは実生活でもそうだろう。
虚言癖はそうとうだろうな〜 言いたいことは書いた。
どうせ名無しなのだから、あとは好きにしなさい。 >>894-896 >>900-904
ID:DvLjysGs も2号と同じで国語力がないのでしょう。
私がいつ他宗批判をしたというのかな?
私は、「現代仏教」などというものがあると主張している一部の若い仏教学者は
エセ仏教学者だと言っているのです。宗教体験のない人間だけが、<大乗非仏説論>
などにたぶらかされて日本の伝統仏教を批判しているということです。
私は他宗批判をしているのではなく、伝統仏教を批判しているエセ仏教学者と
エセ仏教学者に騙されている2号のようなお馬鹿さんを批判しているのですよ。
>>898
君は「正法眼蔵」を読めるだけの国語力(古文力)がないのでしょう。
他人も自分と同じ国語力しか持っていないなどと思ってはいけません。
また、仏教徒の場合は、座禅をしないで「正法眼蔵」を読んでいるような
愚か者はほとんどいません。 この手のスレは時を経るごとに、
仏教臭さ・禅臭さが充満するようになって
最終的に宗教論争のスレと化す・・・・。 >>
自称無我馬鹿爺元気だな、今旅行中だ。
その宗教体験なる合一が仏教にあらず、
教えの内容も似非仏教確定なんだよ。
原初で仏陀の教えとは何か定義していて、変容創作大乗を未来予見、注意喚起している。
亜仏カルトは、早く出てけ。 >>915
2号君は病気なのですから、先ず自分尾病気を治すことです。 >>892
あなたは薔薇という漢字をちゃんと認識しているか?
しかんたざは薔薇なのだ!
いばらの道なのだ!
スマホの変換は薔薇には強いのだ!
しかんたざは薔薇ではないのだ!
そして友よ!
しかんた2ちゃんには気を付けるのだ!
話はそれだけだ! ていうか
せいほうがんぞう じゃねえのかーー!!
はめられたーーー!! まあ冗談はさておいて
私ほどの高僧(好走)ともなると
言葉とかの世界ではなくなってくるから、
しかんたざ とかもいちいちそんなへんちくりんな漢字使わない系になってくって言われてるわ
香草仲間の間ではね。
だから抗争もしないし
テヘペロ まああえて言えば高僧=好走っていうことだね
とにかく疾走感の世界なんだわ
失踪感を感じさせない爽やかさもあるな
このスレなんかこう詰まってて抜けが悪いでしょ
好走してないんだわ
まあとにかく言葉に囚われて言葉の世界で遊んでいたら駄目だよってこと
言葉の遊びなんかじゃ駄目だよってこと その深い哲学的洞察を理解し表現出来る数少ない人間の一人がこの池崎禅師って人なんだな
https://m.youtube.com/watch?v=8FAeYwz-C3Q
このことはほとんど一般には知られていないが好走仲間の間では有名 真・スレッドストッパー道 有段者
ズイモンキー禅師 降臨
語るゼロマイナスゲームより
語らぬゼロサムゲーム 今マインドフルネスというスレタイだけど
此処はサマタについても語られてるから次スレは瞑想総合でもいいかもな マインドフルネス>ヴィパッサナー瞑想、の中のサマタ瞑想という概念
なので、それは飛躍しすぎの理論である 瞑想について一番語られてるのは此処じゃないの?
だとしたら瞑想総合でも全然問題ないとおもうけどな >>913
清らかさも落ち着きも優しさもない、お前のその語り口が嫌い。
人間として嫌い。 自分の周りにも曹洞宗の禅寺に修行に言った人が何人かいるが、
良い評判を聞いたことがない。
>>913 ←こういう偉そうな傲慢な坊主に、なぶられたという話ばかり。 1番盛り上がってるからってなんでも総合にしようとするな 盛り上がってることは認めるんだなw
なんでも総合にしようとはしてない >>931曹洞宗なんてダメダメ、
仏性がある、ただ座ればいいと教え、その禅宗の僧は>>836のように毎年犯罪を
多発させている。その結果は、有害にもなっている。
また、「そのものになる」行だけでいいと教える人がいる。
人は一時的に行為で無我夢中になれても、必ず頭を使っていて、思考の産物からは逃れ
られない。原始仏典に、深い禅定も作為、意図してもたらされたものである以上、壊滅は
避けられないとあり、無相定の限界を知りなさいと説いています。
酷いものは、その思考や、妄想三昧そのものになれという教えの人さえいる。
しかしこれは自己中的な欲求の思い、利己的で自分勝手な思いに囚われることにも繋がり、
結局、曹洞宗の僧のような体験主義の自我肥大で、毎年犯罪を犯す者まで出ています。
智慧の洞察智とは何かを訊ねても、無知で無明なのです。
また後付けの解釈によって、空に反して根源の意識体なるものと実体視し、
老荘思想の根源と仏性を一致させ、中国の思想家に「空」の正確な移入理解がなく、
また空の解釈さえ捻じ曲げました。これらは日本仏教学会の論文発表で、仏教では
ない教えと否定されました。原始仏典に鑑みれば、外道と説かれています。
そのもの夢中行になるなら、趣味に打ち込めばいいし、五種妙行でもいい。
しかしそれらは限られた健康効果の範囲でしかなく、根源的な苦の滅、解脱に至らず、
しまいには仏性があるからと、仏道不要論という好き勝手な観念論のトンデモ教に
してしまう者がいる。当該スレに私の思想こそと、似非なる教えに洗脳され増上慢化し、
とても痛い人がいて、その人間性も反面教師にもなる。彼も中国経由仏教の犠牲者。 >>934(ID:nXguXKHP) は2号というキチガイなので、相手にしないことが大切です。
彼は正式に仏教の勉強などをしたことがなく、素人向けの仏教入門書を読みかじっただけで
仏教が解ったつもりになっている愚か者です。
悟りを知らない若いエセ仏教学者たちが入門書に書いている「大乗経典はお釈迦様が書いた
ものではない=大乗非仏説論」というのを読んで、2号はそれが一部の人しか知らない秘密
であるかのように勘違いして、「大乗仏教は本当の仏教ではない」などと得意になって2chの
あちこちのスレに書いていた馬鹿者なのです。
実際は「大乗非仏説」は仏教を正式に学んだ者とっては常識で、誰もが知っていることなのです。
そして、原始経典の多くは悟りを得ていなかった初心者の弟子たちが書いたものであるのに対して、
大乗経典はお釈迦様の悟りを本当に体得していた優れた弟子たちによって書かれたものだという認識
が常識なのです。
お釈迦様の滅後は原始経典によって悟りを開く弟子がほとんどいなくなったので、<お釈迦様の本当の
教え>として悟りを得ていた後世の仏弟子たちによって編纂されたのが大乗経典です。
そして、その大乗経典によって悟りや救いを得る弟子や在家信者が急速に増えるようになって、仏教が
インド全土に広まって行ったのです。
この大乗仏教全盛期に「ナーランダ大学(学院)」が創られて大乗仏教哲学の研究が深めらました。
玄奘三蔵など中国の仏教者も「ナーランダ大学(学院)」に来て仏教を学び、その成果を大乗経典と共に
中国に持ち帰ったのです。
2号は仏教の勉強をしたことがないので、大乗仏教がインドで完成されたものであることも知らず、中国で
作られたものだと思い込んでいる馬鹿者なのです。 ↑ >>935 の訂正
>お釈迦様の滅後は原始経典によって悟りを開く弟子がほとんどいなくなったので、(誤)
>お釈迦様の滅後は、時が経つににつれて原始経典に説かれているような教えによって
悟りを開く弟子がほとんどいなくなったので、(正) >>935
認知症の爺さん、毎度誤認誤解あるワンパターンなコピペで。
また逃げたので、>>934の反証もできてません。
我田引水の好き勝手な正当化論で洗脳されているから、根拠にもとづく実際を
知らない。若いエセ?、中村元、平川彰、姉崎正治、水野弘元、増谷文雄、
大野達之助、宮元啓一、菅野博史、植木雅俊、佐々木閑、田上太秀、、
そうそうたる面々の仏典辞典も編集する日本の学者先生です。
貴方の昔の偏差値の低い大学の宗門に傾斜した講師に影響され、鵜呑み盲信の
2ちゃんねらーより、根拠にもとづき信憑性は高い。
その宗教体験なるものは、後付けの老荘思想解釈の似非仏教と934を読んでから、
誤認誤解あるワンパターンなコピペをしたらどうかな。 >>937
>そうそうたる面々の仏典辞典も編集する日本の学者先生です。
君は本物のキチガイだな。
中村元、平川彰、姉崎正治、水野弘元、増谷文雄、
大野達之助、宮元啓一、菅野博史、植木雅俊、佐々木閑、田上太秀
その中で、誰がどの著書の中で「大乗仏教は本当の仏教ではない」などと馬鹿なことを言っているのか
きちんと書名と該当部分を書き出してごらん。
適当に仏教学者の名前を書き連ねて、それで自分が正しいと思わせるような浅はかな印象操作をしても
直ぐにバレことも分からないのか?
何度も書いて教えてあげただろう。大乗経典は生身の釈尊自身が書いていないことなど誰でも知っている
ことで、そのことと「大乗仏教がお釈迦様の教えではない」ということとは全く違うということを。
その両者が同じに思えるのは2号のような馬鹿者だけなのだよ。
> >>934の反証もできてません。
そのデタラメな書き込みの何に反証しろと言うんだい?
君の思い込みを書き散らしているだけで、まともな文章にすらなっていないことが分からないのか?
>空の解釈さえ捻じ曲げました。
馬鹿なのか? 空の体験も無い君が「捻じ曲げた」などと言って何か意味があるとでも思っているのか?
自分の馬鹿さ加減をさらけ出しているだけなのだよ。老荘思想についても同じことだ。
また、これは前にも書いたが、仏教系大学というのは特殊な大学なので受験偏差値などは何の意味もない
のだよ。私も国立理系の大学を出ているし、東大や京大などの他学部からの編入者も多いのだからね。 >>938
無知ですね、そこに書いた学者は、すべて非仏説(変容,付加,習合,創作)の立場です。
11人以上も手間なので、ググるとその抜粋記事がここに一例としてあり↓
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n27467
>そのデタラメな書き込みの何に反証しろと言うんだい?
デタラメなら根拠を元に反証できます、それができず常に言い訳で逃げてます。
>「捻じ曲げた」などと言って何か意味があるとでも思っているのか?
馬鹿はそっち、空の体験をしたというのは、空とは何たるか言語で示す情報を事前に頭に
入っているからで、それがなければ、好き勝手な解釈で空という体験と認めたに過ぎない。
勝手に空とは何か創作したことになる。
それらは仏性を元にしたヒンドゥ系の域の説明に過ぎない、今ここなら原始仏典でも説かれ
ている。ブッダは、それらが最終解脱でないものと説いている。なぜなのか、>>934で説明した
通り。北伝経由で欠けている教えと中国国内で正しく教えが移入されてなかった(根拠に
もとづく学者の説明、日本仏教学会の論文発表から)。 >>939
よりよって阿含宗信者の人のところとか
もう少しマシなところを紹介すれば良いのに・・・
ひょっとして同じ人(アーガマさん)が書いているこちらも参考にしているとか?
仏教大論議!! 般若心経の秘密!! 般若心経は、阿含経への回帰を
示唆している!! 空を体得するためには、阿含経の「空の観法」が絶対に
必要!! 密教 呼吸法 瞑想法 禅 スピリチュアル
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n83000
アーガマさんが投稿した知恵ノート一覧
http://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/myspace_note.php?writer=argama9ki >>940
私も生活に追われてて、11人の主張を書き出す時間がないのです。
ググったら、抜粋記事があったのでリンクしただけのことです。
そのアーガマさんの主張なんて参考にしてません。 >>939 >>941
君がこれまでに書いて来た論拠は「智恵袋」だったことを告白してしまったね。(大笑い!)
全く馬鹿馬鹿しい。智恵袋の内容をなど信じている時点で話にもならないね。
まず、その文章を書いた者の素性を明らかにしてごらん。
どこの馬の骨か解らない人間(知能のレベルは君と同じぐらいだろう)が、自分勝手に
まとめた文章を読んで、それが真実だと思うようでは学問などは成り立たないのだよ。
(君は大学に行っていない人のようだから、学問的追求の基礎も知らないのです。)
***********************************
>>940 さんのおかげで、アーガマとかいうオカルト君の書き込みであることが判明した訳だね。
だから、引用についても自分の都合の良いように切り貼りをして、頭が悪い人を自分の主張が
正しいと思わせる書き方になっているんだね。
中村元については、(以前にも書いたように)「悟りを知らない仏教学者」として仏教界では
昔から有名だから取るに足らないが、水野弘元さんについてはデタラメです。そのオカルト君が
部分的な記述を水野さんの中心的な主張であるかのように誤魔化しているだけなのです。水野さんは
駒澤大学総長だったのだから、日本の伝統仏教を否定していれば曹洞宗立の大学の総長などには
なれないのです。宮元啓一などは悟りの「さ」の字も解っていない人間であることは少しでも
彼の文を読めば解るのです。
>私も生活に追われてて、11人の主張を書き出す時間がないのです。
誤魔化しても、バレてしまったのだから無駄ですよ。
君は一部のエセ仏教学者やオカルト君のデタラメな書き込みに騙されているだけなのです。
君が「ブッダは、それらが最終解脱でないものと説いている。」などと言ってみても、
その最終解脱どころか、禅の見性体験すらない君が書物に書かれてあることを丸写ししてみても
何の意味もないことでしょう。
君が本当に仏教が解っているなら、君の神経症は完全に消えているはずなのです。
君が神経症を治したい為に、次から次へとスピリチュアル系指導者を求めてさまよい続けている
ことが、君が仏教について何も解っていない何よりの証拠なのです。 《三明ヴァッチャ経》
・馬面設定
ある時、釈迦たちはヴェーサーリー近郊のマハーヴァナ(大林)クーターガーラ(重閣)講堂に滞在していた。
そこに外道の修行者ヴァッチャが訪れ、仏陀は何でも知っている者であるのか問うと、釈迦は正確には三明を備えた者が仏陀だと答える。
釈迦は更に、ヴァッチャの質問に答える形で、在家は天界へは行けるが、涅槃には到達できないこと、
外道ももちろん涅槃には行けないが、天界に至った者は例外的に一人いたと答える。
ヴァッチャは歓喜する。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%98%8E%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E7%B5%8C
2号さんにとって仏教は阿含/パーリ(アーガマ)が全てであり、またアーガマの記述に沿って最終解脱してこそ意味があるとするのだったら、
パーリ中部の三明ヴァッチャ経で在家では涅槃に到達できないと釈迦が明言しているので2号さんは今すぐ出家しないとな。 >>942
アホか、ググって最初に出てきたものをリンクしただけだ。
都合よく決め付けする浅はかさは、相変わらずだな。
>>934の反証ができず、ただ逃げてるのみね。クスクス
見性体験以前の問題、バイアスによる好き勝手な解釈はいくらでもできる。
毎年、曹洞宗の僧は犯罪者が出て反社会的な人間を生み出している。
教えに問題があるからね。 >>943
はい、残念、律蔵大品を読め、
出家しなくて、在家が最終解脱可能な話がある。 >>943
貴方はいつも部分的にしか抜き出さない人だけど、
当時の在家には、功徳-天生思想が主だったからね。
阿羅漢になんか興味ないんだよね、苦を滅する教えで救われた、それで十分。 >>946
その律蔵大品とやらの話は仏説なのかい? まさか在家のサヤが四諦の教えを聞いて「心解脱」した話じゃないよね? >>945
>>934 のようなお馬鹿な内容に、どう反論できるというの???
(君は大学も行っていないから、まともに思索が出来ないだけなのだよ。)
>原始仏典に、深い禅定も作為、意図してもたらされたものである以上、・・・
道元禅師の禅を単なる「深い禅定」と勝手に決めて書いているだけだから、反論も何もないでしょう。
君が道元禅師の禅を理解できないお馬鹿さんだということを告白しているだけなのだから。
>曹洞宗の僧のような体験主義の自我肥大で、・・
キチガイの君の勝手な意見だから、反論のしようがないだろう。
>中国の思想家に「空」の正確な移入理解がなく、
>また空の解釈さえ捻じ曲げました。これらは日本仏教学会の論文発表で、仏教では
>ない教えと否定されました。原始仏典に鑑みれば、外道と説かれています。
どの論文発表でだれが言ったことなのかソースも出さなければ意味がないだろう。
仏教学の論文というのは誰でも発表できて、ピンからキリまでの内容のものが掃いて捨てるほど
出続けている世界だから、そんな一つの見解が正しいなどと思う方が無知で馬鹿なのです。
とにかく、君は仏教のド素人で、言っていることすべてがナンセンスなのです。 本当に悟ったり救われたりした者は、大乗仏教こそがお釈迦様の真意であることが体験から解るものです。
(その消息については、道元禅師が「正法眼蔵」の中でわざわざ一巻を作って説明もされています。)
そのような体験がない者は頭で考える以外にはないので、「生身の釈尊が説いた内容ではない大乗経典は
お釈迦様の教えではない」などと考えてしまうのです。
しかし、少し考えてみれば、お釈迦様の「甚深微妙」と言われる「お覚り」が原始経典のような単純な表現
で済むはずがないことは簡単に解るはずなのです。
また、根本的に重要なことは、原始経典では悟れる人が出なくなったという歴史的事実です。原始経典が
優れているのなら悟りを得る人々が増え続けて教団も発展して行ったはずですが、事実はお釈迦様の滅後
は衰退の一途をたどって行ったのです。そして、大乗の教えが出てから悟りや救いを得る人々が増え続けて
行ったのです。
大乗経典を作った人々が異教徒だったなどと言うのは宗教の何たるかも分からない馬鹿者だと言えます。
なぜなら、異教徒だったのなら、経典に「仏説」などと冠する必要は全く無いからです。彼らはお釈迦様以来、
脈々と悟りを受け継いで来た正統の仏弟子たちであったからこそ、全ての経典に「仏説」を冠したのです。
仏教と言うものは「悟り(救い)の体験」を受け継いでいくものですから、体験がなく頭で理屈をこね回しても
何も本当のことは分からず、大変空しいものになってしまいます。
2号君のように仏教入門書を読みあさって自分勝手に仏教を理解しようとしても、何の体験も得られません。
仏教は悟った(救われた)師匠について学ばなければ、本当のことは知ることが出来ない世界だからです。
(中村元のような学者も、師匠に就かないで一人で仏典研究にいそしんだだけだったので、「悟りを知らない
仏教学者」と呼ばれるようになったのでしょう。) >>951
>(中村元のような学者も、師匠に就かないで一人で仏典研究にいそしんだだけだったので、「悟りを知らない
>仏教学者」と呼ばれるようになったのでしょう。)
う〜ん、大学で仏教学を学んだ人ならば、中村元の師である宇井伯壽(曹洞宗)の
名前くらいは聞いたことがあると思うのだが・・・
Wikipedia“宇井伯寿”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BA%95%E4%BC%AF%E5%AF%BF >>952
宇井伯寿さんは有名ですね。
しかし、宇井伯寿さんは曹洞宗の僧侶というのは名ばかりで、学者だった人ですね。
宇井伯寿さんは中村元さんの学問上の先生であって、禅の師匠ではなかったのです。 >>948
パーリ仏典です。そこでもブッダがどのような教えを説いているかあります。
その中の章に在家に説いて、出家せず阿羅漢になった者の話があります。
ヤサは、四諦を理解して三結の断を実現して預流の聖者になり、
次の説法で五下分結の断を実現し、阿羅漢の聖者に辿り着いたとある。
在家には功徳-天生思想が主として説かれていたから、違いあるでしょ。 >>950
全然、反証になってない、浅い禅定もそうだよ。論文はあるからググれ。
>>951
神様好きなヒンドゥーが多く占めているんだから、その後大乗だって衰退した。
結局大乗の修行の般若波羅蜜にしても、大品般若経や龍樹の大智度論
に三十七道品 (根本仏教の八正道、四念処等)の実践と明記されている。
そこを飛ばして、空が正確に中国に移入されなかったために、勝手に中国思想家が
老荘思想と仏性を一致させ、歪められた仏教が日本に伝わった。
その犠牲者の道元だが、曹洞宗の教えレベルなんて、目新しいものなく原始仏典の中にあり、
智慧の洞察智がない。また根本仏典にない教えは、歪められた中国経由似非仏教が由来。
その結果が>>934、という不足、欠陥のある宗教。 >>955
反証になっていない、じゃないだろう。
もともとの文章がすべて君の無知から来る妄想なのだから、
君がその妄想に気付く以外にはないのだよ。
妄想というのは他人から何を言われても変更できないものなのだから。
>結局大乗の修行の般若波羅蜜にしても、大品般若経や龍樹の大智度論
>に三十七道品 (根本仏教の八正道、四念処等)の実践と明記されている。
>そこを飛ばして、空が正確に中国に移入されなかったために、勝手に中国思想家が
>老荘思想と仏性を一致させ、歪められた仏教が日本に伝わった。
偏ったエセ仏教学者が書いた本の内容を頭に詰め込んで何か解ったつもりになっても、
何も自分自身が変化していないのだから、空しくならないか?
神経症で他人にビクビクしながら毎日を生活している君が、
>その犠牲者の道元だが、曹洞宗の教えレベルなんて、目新しいものなく原始仏典の中にあり、
>智慧の洞察智がない。
などと書くところを見ると、君は「神経症」以外に何か「性格異常者」の雰囲気を感じるよ。
2chで妄想の書き込みを続けていないで、一度精神病院で精密検査を受けた方がいいでしょう。 >>954
>その中の章に在家に説いて、出家せず阿羅漢になった者の話があります。
ほう、そうなると>>943の三明ヴァッチャ経と矛盾するよね。
お釈迦様は一番大切な五戒の不妄語戒は守るから嘘はつかないよね。
それなのに片方では在家で涅槃に到達できないと言い、片方で在家で阿羅漢となりそのまま在家でい続けた?者がいると言う。
おかしくね? 新スレ
【瞑想】マインドフルネス 別館 Part.2 【宗教的話題も可】 [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1476200516/ ある脳研究では、読経には瞑想と同じ効果があるとされています。
瞑想によって分泌される「セロトニン」などの脳内物質が、読経によっても確認されるとのことです。
これは意味を考えないで読む方が良いようです。
意味を考えながら(思考を働かせながら)だと瞑想効果は低くなるようです。
意味は分からなくても構わないので、一心に『般若心経』を唱えてみてください。
瞑想の功徳(即ち仏の功徳)があることでしょう。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/251313/211184/54153234
また読経を行うことは医学的にも以下のような研究がされています。
○発声しながらお経を読むことでの集中力が高まる。
○信仰心をもつことで心が清らかになり、精神力がアップする。
○お経の音波は心身のリラックス効果がある。
http://shugyo.link/shugyo/dokkyo 脳を活性化してボケ防止!写経で得られる5つの効果とは?
https://www.syodou.net/column/shakyo-5effect/
日本の脳機能の第一人者で、能力アップをうたったゲームの監修などで知られる川島教授らのグループは、作業実験において光トポグラフィと呼ばれる大脳の血流量の変化を24の計測点で測る機械を頭に装着させ、
人間らしい行動の抑制やコミュニケーション、学習を司る前頭葉の左右と空間認識などをつかさどる頭頂葉の左右を計測。
作業前の平穏時を基準点に、脳が最高に活性化していることを示す数値であるプラス3から、
脳が全面的に活性化せずリラックスした状態を示すマイナス3まで11段階に分けて判断しました。
この結果、写経の作業中は前頭葉、頭頂葉の左右、いずれもプラス3の最高値を記録。
さらに百人一首を書写する実験を行い、音読しながら書き写す作業の効率を確かめ、前頭葉が左右ともプラス2を示したため、
書写によって脳を活性化することが効果的であると言えます。
一方、脳を活性化させそうに感じるオセロゲームは、頭頂葉に変化がなく、前頭葉にマイナス3の値が出て、
実はリラックスグッズであることが判明、脳活性と真逆の結果が出たのは大変興味深いですね。
http://www.osakakyouzai.com/osaka_kyouzai/?p=951 ってか、宗教的な話題も可、っていう程度だってのをいい加減弁えてね。
延々と議論するような人は次スレ来ないで別スレ作るなりなんなりして、そこへ行ってください。お願いします。
そもそも「議論」とは名ばかりで、猫の喧嘩のような代物…。
ちゃんと議論するにはトレーニングした知性が必要なのだなぁと改めて思ったスレでした。 隔離には成功したっぽいからこの調子でいいんじゃないかな
うんざりしてる人は、違うコンセプトのスレを新調してそっちを盛り上げるのが良いと思う 本スレでヴィパッサナー瞑想って別名言っただけでフルボッコにされたのもいい思い出だけど、こちらでは何故かヴィパッサナー瞑想の話すら出来ない そりゃこっちでネタ振り&全レスして自分で盛り上げないと >>963
このスレタイにふさわしいのはどっちかって話よ
出ていくべき人たちは誰なのか、自ずと明らかになるでしょう >>967
気持ちはすごく分かるけど、俺らが理性的と感じる議論のお約束が期待できないことも含めて「宗教もオッケー」と思うことにしたよ
「出て行け」と求めるより自分が出て行って場を作る方が合理的じゃないかな >>964
その有田秀穂という人の研究とほぼ同じことを、池見酉次郎氏(日本で初めて心療内科を創設した医学者)が
何十年も前に研究していますね。
池見酉次郎氏の時代にはセロトニンという言葉もなかったのですが、「瞑想」と<精神の安定・悟りの境地>に
ついて詳しく研究されています。しかし、それによって神経症・精神障害がよく治るようになったかと言えば、
決してそうではありませんでした。
有田秀穂という人の研究も、「脳科学と仏教の悟りとの関係」に関する一つの仮説に終わりそうで、神経症の
治療には結びつかないような気がしました。(治った者の感想として言えば。) 前から気になってたんだが「神経症」って不明瞭
克服した病名は何? こっちは酷い状況だから落ち着いて語れるスレをさらに作ろうかって立てるとどっちも過疎るパターンってマーフィーの法則的な 議論()してる人たちも荒らし感覚なんだろうし
この人たちだけのスレになったら過疎りそう 過疎るっていうか、追い出したい側があてつけに作ったスレが盛り上がるわけないし >>973
まさにうってつけのスレあるんじゃんw
なんでこっちにいるんだろww 何だかんだ言ってオーディエンスを求めてる感じかな。
議論専用スレ、自分の布教専用スレとか出来ても
それだとあんまり書かない的な。
人がそれなりにいそうなとこに出没しては自己顕示欲なり優越感なりを感じたい的な。
(全然支持されなくて、結局むしろマイナス作用。気分を害する。人にも迷惑。パチンカスみたいな悪循環心理。) 居眠りみたいな話ばっかりしてるスレよりはおもしろいけどな オーディエンスとか関係なく
一対一で真剣勝負してしっかり勝ってやろうという潔さや武士道精神がないと。
そんなナイスガイはもはや俺だけか・・
世知辛い2ちゃんねるだぜぇ
やれやれだぜぇ 前にも書いたように、私(無我)は2号君と議論をするつもりなど最初から全然ないのです。
仏教というものは議論するものではない、と以前にも書いたはずです。
私は彼が仏教についてデタラメを書いているのを見た時に、「噓を書いてはいけません」
と注意・叱責してあげているだけなのです。
まあ、一昨日の彼自身の書き込みによって彼の根拠が「智恵袋」だということが分かって、
もう彼が書くことに対してコメントするのさえ馬鹿らしくなりましたから、もう書くことも
ないのですが、彼が相変わらず仏教について噓を書き続けるようなら、また書き始めるかも
知れませんね。では。 エリックハルトトールの名前をこのスレでよく見るからYouTubeで見てみたが全く魅力を感じんな
ボソボソとした自信なさげな喋り方
悟ってもあんなんでは普通に会社員や企業家、創業者、自営業者といった人と交わる仕事は無理
スピリチャルとか特殊な世界でしか生きてはいけないだろうね
そんな人間になりたい人には良いんだとは思うが自分はまず無理
受け付けないしかし憧れない いつも論争してる人、NG登録したいのでコテハンつけて下さい。 >>982
それは偏見と気づかないと、支持する人は憧れて支持するわけでないんですよ。
その教えに救われた人がいて、世界で支持されたわけです。
トールでなくても、その内容を小池でも蓮舫でも宇宙人でも誰が説いてもいいわけです。
批評する場合は必ず代表作2冊を完読してから、批評することです。
マインドフルネスとも関係しています。 此岸の価値観でみた場合、彼岸に渡る船は何の価値もないようにみえる。
欲界において、人々がこのむ価値観は欲界善といって、善悪とか幸不幸で判断する。
瞑想は善悪のゲームそのものから離脱した平安に向かうので、判断の尺度がまったく違う。 >>984
救われた人はその教えを日常生活にどう活かしてることが多いの?
>>985
欲界とか宗教がかった瞑想の境地を論じた所で現実に還元できなければなんの意味もない むしろ仏陀がお話していることの方が、現実の話なんですよ(笑)
わたしはそのことについて少し解説しただけです。 >>985
小乗カルトは、法律の判断ゲームなんてどうでもいい、反社会的でもいい、
道徳なんて関係ないとか言い出すよな。
十不善(十悪)と三不善根を何で説かれたの。 心眼で見極められる真理の世界
今こそグレートジャーニーが始まる
いざ新世界へ
それでは続きは波動2ちゃんで!波動クリッククリック!
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`'ー---‐'''''" 寝禅の神様
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`'ー---‐'''''" 寝禅の神様
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`'ー---‐'''''" 仏教を切り捨ててメソッド化したマインドフルネスは不十分
マインドフルネスのルーツである仏教の理解してこそ高い効果が得られる
そんなことをしたり顔で誇ってたけど、このスレ見てる限り、なるほどそうかと思えなかった
むしろ宗教性を切り捨てなければ指導者ポジション争いに始終するばからで前に進めなさそうだな、と感じるばかり マインドフルネスのメソッド自体はシンプルなので独学で習得できるし、2、3日続けるだけでも相応の効果も実感できると思う
自分としてはそのストレス軽減だけで十分
我の張り合いが再開してしまっている次スレに付き合う気もしないので、ここを埋めつつ店じまいだな 寝禅の神様
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`'ー---‐'''''"
...答えは風に吹かれている 寝禅の神様
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【ほんわか】マインドフルネス たんぽぽ広場【陽だまり】 [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1476866011/ >>993
仕方ないよ、ここは巨大掲示板2ちゃん、
一口に仏教といっても多岐になってしまっている
流儀流派が違えば、オレのが正しいとか、ちょっかい出すのがいるからさ
まぁこのスレの流れの中でも得られるものはあるよ
一つにこだわらず、中立な立場でおのおの吟味してみればいかがだろ このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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