岡潔と連接性
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岡潔の発見は、層ではなく連接性にあり そして連接性とは局所有限な生成系の存在 そこにH.CartanもSerreも着目した 層が土地なら、連接性は杭 コルモゴロフの函数解析の基礎 第2版は本当に良い教科書 岡潔先生の墓前に手を合わせに行こうと思います。 白毫寺のどこか分からないので高畑のお宅を訪ねても迷惑かな。 岡潔のお墓は奈良公園の南の方にある白毫寺(びゃくごうじ)という小さいお寺 の裏の墓地にある。白毫寺へ行くにはまず新薬師寺へ行く。近鉄またはJR奈良駅 から市バスの市内循環線に乗り,破石または高畑で降りて,案内板に従って新薬 師寺まで行く。新薬師寺南門前から白毫寺方面へ案内板に従っていくと, 白毫寺 の参道へはいる。”東海自然散歩道”という標識があるので, 右折して白毫寺の裏へまわると,墓地がある。納骨堂のすぐ上の二段目の一番端に, 岡潔のお墓は ある。納骨堂のすぐ左にある細い道を上っていってもすぐにみつかる。 岡家代々の墓と書かれた墓石の側面には俳句 春なれや石の上にも春の風 石風 が刻まれている。石風とは岡潔の俳号である。 いろいろと解釈があるかもしれな いが,単純に春がきたことを喜ぶ歌であると 思っていいだろう。春宵十話のその他(『日本のこころ』)という段落に この句がでている。岡潔は昭和53年3月1日 に亡くなっており,享年78歳であった。 春雨院梅花石風居士と刻まれている。妻みちはその三月後に亡くなっている。 数学に命を燃焼させた純粋日本人を前にしてはただ合掌するのみであろう。 >>104 ご丁寧にありがとうございました。 奈良市寺山霊苑という墓所らしいですね。 岡潔先生が俳号をお持ちで石風というのも初めて知りました。 春雨院梅花石風居士という戒名も初耳で感激致しました。 では行って参ります。 Cartanの愛弟子のSerreも96才 一松先生も96才 エリザベス2世より長生き >>108 Cartanの仕事を重要な順に3つあげるとすれば何でしょうか? 85132人目の素数さん2022/10/01(土) 12:40:08.01ID:VD4QUKsD リー群リー環カルタン行列、びぶんきかの基礎づけ・接続の色々、対称空間などなど 86132人目の素数さん2022/10/01(土) 12:57:49.83ID:Og0bD+/s 一般的にはファイバー束 これらはE.Cartan(父のほう) 87132人目の素数さん2022/10/01(土) 18:37:58.20ID:pi/2/DRz Cartanの重要な仕事 1.岡の第7論文をフランス数学会誌に掲載した 2.Serreにフィールズ賞を取らせた 3.ブルバキを結成した これらはH.Cartan(息子のほう) >>110 日本語版ウィキペディアによれば 多変数複素関数論、ホモロジー代数に業績を残し、 このうち多変数複素関数論では岡潔の業績を層 (数学)の概念を用いて整理し、 多くの数学者に受け入れられるようにした。 1980年のウルフ賞数学部門をはじめ数々の賞を受賞した。 (多変数関数論では1932年にトゥレンとともに正則凸性の概念を導入し 岡潔の一連の研究の下ごしらえをするとともに、1940年の行列値正則関数の 論文で正則関数環のイデアルの研究を創始し、岡の不定域イデアルの 研究を触発した。1953年にシュタイン多様体の基本定理を発表した。 これは岡理論を層の言葉で定式化したものだが、ブリュッセルでの研究集会で これを発表したとき、室内は水を打ったように静まり返った。) カルタンの定理Bが、いわゆるコホモロジーの消滅定理の一番最初かな? 小平の消滅定理よりも先だろうか? カルタンセミナーの1951/52に出たので 1953の小平消滅より先 ヘルマンダーのL2消滅(1965)が 定理Bと実質的に同等であることを 言ったのが1985年のネーデル消滅 さすがにBochnerの消滅定理の方が古いでしょ ただ、コホモロジー完全系列に乗せて使わないけど 層係数やベクトル束に値を持つコホモロジーなら、やはりカルタンの定理Bが原点かな >>117 CartanならBochnerではなく Oka(1936,37)が最初というのでは? Cousin(1885)(実質的にはPoincareだろう)もあるが さすがに消滅定理の元祖であるとは言いにくい。 >>117 >>118 小平の消滅定理は、明らかにBochnerの発展形 発展の系譜ではこんな感じなのだろうか? (秋月・中野→Nadel は怪しい?) Bochner→小平→秋月・中野→Nadel→川又・Viebeg >>119 >>小平の消滅定理は、明らかにBochnerの発展形 小平先生の談話を読めばその考えが変わるかもしれない。 明らかなのは小平→秋月・中野だけ >>Nadel→川又・Viebeg これは明らかにウソ。 川又・Viehwegは1980年頃でNadelは1985年。 >>120 >>小平の消滅定理は、明らかにBochnerの発展形 > >小平先生の談話を読めばその考えが変わるかもしれない。 そうですか、Weitzenbockの公式に曲率条件を使うあたりがそっくりなので、 誤解をしておりました。 また >>Nadel→川又・Viebeg は完全に誤解しておりました。 ご指摘ありがとうございます。 >>120 小平先生自身がどう思っているのかは別にして、小平の消滅定理のオリジナルな証明は、 調和積分論を用いたBochnerテクニックを使っていますので、Bocherの発展形とみるのは 自然な考えだと思います。 小平消滅は小平のGeneralized potential theoryが Dolbeault同型を通じて層コホモロジーとつながった結果であり 決してBochner techniqueから発想されたものではない Weitzenb\" ock --> Bochner --> Kodaira という見方をしているのが H.H.WuのThe Bochner Technique in Differential Geometry という本だが、これをつなげるとするなら 小平ー−>中野ー−>榎ー−>藤野 となるだろう。 Bochnerー>Kodaira−>Nakano=>Tankeev−>Kollar Poincare-->Cousin-->Cartan-->Oka-->Cartan -->Oka-->(Leray)-->Cartan-->Dolbeault-->(Bochner)-->Kodaira -->(Akizuki-)Nakano-->(Grauert-)Riemenschneider-->Siu, etc. 数学の歴史的記述に関しては岩波の数学辞典が おおむね正しい 二重周期関数の定義域が 球面の分岐被覆面であることを ガウスが理解していなかったことは 数学辞典には書かれていないが クラインの「19世紀の数学」には書いてある。 クラインとポアンカレは意見が合わないことがあったようだが リーマンが直感派でワイエルシュトラスが論理派であったという点では 一致していたようだ Cartanの師匠はMontelだが 岡はソルボンヌでMontelとも交流があったのだろうか Montelと接触はあったようですね それを交流とまで言えるのかは不明ですが >>134 その接触をうかがわせる文献があればお教え願えるとありがたいのですが >>132 リーマンは39歳で亡くなっているからなあ それであの業績は驚異 等角写像の世界で60を過ぎてから不滅の発見をしたのは ジューコフスキー ただしジューコフスキー写像そのものは シュワルツ・クリストフェル変換の特殊例だから 数学辞典には載っていないが。 >>136 ワイエルシュトラスは逆に法学や経済学専攻で、 高校の教員で色々な科目を教えてもいた遅咲きなんだよな それであの業績なのも凄い >>ワイエルシュトラスは逆に法学や経済学専攻で、 まじめに授業を聴いていたわけではない >>138 >>高校の教員で色々な科目を教えてもいた遅咲きなんだよな Laurent級数の発見やガンマ関数の無限乗積はかなり早い時期だったと思う。 ワイエルシュトラスは盲目だった どうやって数学をやっていたのか? >>141 >>ワイエルシュトラスは盲目だった ソースは? 数学者列伝 ソーニャ・コワレフスカヤ https://www.nicovideo.jp/watch/sm14146958 師のワイエルシュトラスとの関係も具体的に描写されている なかなか心を打つものがあるし藤原さんが面白い ワイエルシュトラスはブンゼンに 女を弟子にとってはいけないと忠告されたが ソーニャの熱心さにほだされて結局断り切れなかった。 ソーニャの業績はクラインにはあまりオリジナリティーを 評価されていないが、プレゼンは師匠に引けを取らないほど見事だったようだ。 ソーニャの死を知ったワイエルシュトラスは 受け取った手紙を全部焼却した。 あらぬ噂を立てられそうなことが書いてあった可能性はあるだろう。 ワイエルシュトラスは亡くなる前は車椅子の生活だったが 盲目であったという話は聞いたことがない。 ワイエルシュトラスがソーニャにあてて書いた手紙が残っていたらよかったのに ミッタク・レフラーの伝記によれば コワレフスカヤが就いたのはストックホルム大学の 任期が5年の教授ポストだった。 当時はベルリンでは女性は大学の建物に入ることさえ できなかったと書いてある。 >>147 アルフレッド・ノーベルはコワレフスカヤに恋したが、ミッターク=レフラーに奪われた。 激しく嫉妬したノーベルはミッターク=レフラーがノーベル賞を取らせ無いために、ノーベル数学賞を作らなかったと言われている。 ミッターク=レフラーがブサメンやったら、ノーベル数学賞が出来ていたやろな。 >>150 One of the most groundless reasons for that was the fact that he declared his love for a woman who refused him and chose a mathematician instead. However, there is no evidence about the truth of this story. https://www.matematica.pt/en/faq/mathematic-nobel-prize.php Actaに載せるのはできそうだが Mittag-Leffler instituteで半年過ごすのは 無理みたいだ >>141 >>ワイエルシュトラスは盲目だった どこにそんなことが書いてあった? >>136 昔は結核で早く亡くなる人が多かった。 Harnackは37歳 昔は労咳で若くして亡くなる人が多かった 今は老害で若くして亡くなる人はいるだろうか ダジャレを連発しすぎると 鬱病になって亡くなるかもしれない 徴候に気づくのが早ければ何とかなるものでもないらしい カントールはクロネッカーの執拗な攻撃により病んで精神病院行きになってしまった >>141 オイラーは晩年は盲目だった 白内障だか緑内障の悪化と言われている カントールとボルツマンは現代知性の苦悩という感じがする。 ルートヴィヒ・ビーベルバッハ ナチ党の熱烈な信奉者で反ユダヤ思想の持ち主であり、ゲルマン民族は幾何学を論理的に解析するが ユダヤ人は抽象的にしか思考できないと公言していた。 1938年にプロイセン学士院からイサイ・ シューアを追放させるなど、ユダヤ系教授の排斥にも積極的に関わっている。学内では突撃隊の制服 を着用して講義していた。 1936年、ユダヤ人の影響を排しドイツ人の数学的業績を示すとして、『ドイツの数学(英語版)』 誌の発行を主導する。親ナチの数学者達によるものではあるが、同誌の掲載論文の一部が現代数学に 多くの影響を与えているのも事実である。 敗戦にあたってベルリンのナチ党関係者の多くが米軍に拘束され取り調べを受けたが、ビーベルバッハ の尋問を担当したのは、米陸軍に徴用され情報将校となっていた、若き日の科学哲学者アドルフ・ グリュンバウムであったという。 戦後は一切の公職から追放され、1982年に西ドイツオーバーバイエルンオーバーアウドルフで死去した。 シャウダー評価で有名なシャウダーは、ウクライナのリヴィウ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国領)出身。 ユダヤ系ポーランド人のため、第2次世界大戦でナチス・ドイツがリヴィウを占領して収容所送りになるのを 助けて貰おうと、スイスのビーベルバッハに手紙を書いたが、ビーベルバッハはその手紙をゲシュタポに通報し シャウダーは収容所送りに。1943年に殺されたらしい。 ビーベルバッハクズすぎる >>164 > 学内では突撃隊の制服を着用して講義していた。 完全にイッちゃってるやん 「Conformal Mapping」はChelsea版が出ている。 すごい名著であることは確か。 南京事件はでっち上げだと言い張る複素解析の有名教授がいた 辻正次教授は戦後も鉄兜を机の上に置いたままだったそうだ それは初耳 濹東綺譚が特にお好きだったそうな 津川雅彦と墨田ユキの邦画が秀逸でした 先生はお雪とは出会えたのかね ハイフェッツのバイオリンやブダペスト弦楽四重奏団よりも 島倉千代子の流行歌の方に一時は夢中になったとか、 思いつくままに書きならべても 「数学の歩み」一冊分くらいは・・・ 辻先生と日本の函数論 及川広太郎 新藤兼人監督が、永井荷風の同名小説に同じ荷風の「断腸亭日乗」を盛り込む 形で映画化した作品。洋行帰りの小説家・荷風(津川雅彦)が玉ノ井の遊女・お雪(墨田ユキ) に恋をし、結婚の約束をするが…。 終始静かなタッチで語られる、年齢も境遇も違う男女の恋。 墨田ユキ扮するチャーミングな遊女もさることながら、 一代の放蕩児という役柄をギラギラせず、すべてを受け流すような自然体で演じた 津川雅彦の荷風が爽快な後味を残す。単に男女のロマンスを描いた作品ではなく、 戦争へと突入して行く当時の日本の世相や風俗を、ニュース・フィルムを交えて 表現しており、そうした描写まで淡々としているのが本作の個性。 なお東京大空襲で焼失した東京の描写にマットペインティングが用いられているあたりは、 老いてますます盛んな巨匠の表現への意欲を感じさせる。 それは本当にいい映画 津川さんの代表作と言ってもいいかもしれない 中年過ぎた人がこれを見ると愉快だろう >>178 数学板でハイフェッツの名を見ることになろうとは 複素函数論と実函数論の新古品をずいぶん探して入手した お雪の新古品はずいぶん探しても入手できなかった 小林昭七先生の学年で 辻先生の函数論の試験を一回でパスしたのは 3名だけだったという。 小林先生って小林昭七先生のことか? 小林昭七先生はそこまで優秀ではなかったそうだ 研究も難問を解くというよりは、独自の新しい概念や理論を構築するという研究が多い。 でも、生涯の研究を見ると、小林昭七先生は新しい概念や理論、予想を多く立てられ(一部は示した)、 分野のパイオニアとしていわゆるプロブレム・ソルバーとは一線を画すオリジナリティの高い研究者であろう。 Chernに薦められてCaratheodoryの論文を読み 小林擬計量を思いついた。 Calabi-Yau多様体は小林双曲的ではないそうだね Casorati-Weierstrass型の定理は 余次元が2以上の解析集合を特異点とする 正則写像に対しては どんな形のものが知られていますか? 辻先生の試験を1度で通ったのは 谷山豊、長野正、渋谷泰隆 この3名 Oはそれでよいとして ペーがWeierstrassの筆記体のpとされているのは問題かも むしろalの筆記体を逆さにしたものと考えるのが自然かと Caratheodoryの定理のオリジナル論文の証明は 結構長い 日本語のtextで証明が書いてあるのは 吉田洋一の「函数論」 藤本坦孝の「複素解析」 金子晃の「関数論講義」 WeierstrassはAbel関数をAlと書いていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる