■肝炎・脂肪肝・肝臓障害スレッド67■
【40代50代】認知症の一歩手前の人、●●になります。本当に気をつけて下さい…【うわさのゆっくり解説】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=On78VVAHRG0&t=11s 食事を見栄え良く、旨く味わうという発想をまず捨てること
健康維持と体調管理のための栄養補給だと割り切ることが大事 正体不明過ぎる新手の難病奇病らしいわやっぱ。
ガン見つからなかった場合だけど。医師が皆様お手上げ(笑 皆さんの質問をお待ちしております
よかったらチャンネル登録をお願いします 健康意識が高い人は注意「塩分、糖分は控えめ」の罠 悪者にされがちだが、不足するリスクも大きい | 健康 | 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/737341 【危険】知らずに使うと癌になる激安100均食器! 報道されないヤバすぎる真実とおすすめ食器3選 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0CGaXVpVpoQ 1日2本のバナナが「春バテ対策」に有効なワケ
寒暖差が7℃以上あると、自律神経が乱れる | 健康 | 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/738274 まず、朝食を抜かないことがとても大切になります。朝は、自律神経が副交感神経から交感神経へと切り替わるタイミングです。自律神経は、内臓の働きなど人間の生体にかかわる活動をコントロールしている神経で、腸のぜん動運動も自律神経によってコントロールされています。
起床すると、副交感神経から交感神経へと徐々に切り替わっていきますが、腸の働きは自律神経と関係しているために、この切り替えがうまくいかないと、腸もうまく働くことができません。
体内時計の乱れが及ぼす影響
それをスムーズに移行させるポイントが、朝食です。朝食をとることで、自律神経がおやすみモードから活動モードへとスイッチが切り替わり、体のリズムが整います。 体内時計を調整するという観点からいうと、毎日同じ時間に朝食をとることを心がけるとよいでしょう。
朝食をとることによるメリットは、自律神経や腸が整うことだけではありません。国立大学法人東海国立大学機構 名古屋大学大学院生命農学研究科の小田裕昭准教授らの研究グループが、2022年に「朝食欠食が、体重を増加させてメタボリックシンドロームへつながる可能性を大きくするだけでなく、筋肉を萎縮させてロコモティブシンドロームやサルコペニアの危険性も増大させることを発見した」と発表しました。
ロコモティブシンドロームとは、筋肉や骨、関節などの障害によって立ったり歩いたりするための身体能力(移動機能)が低下した状態のことをさし、サルコペニアとは、主に加齢により、筋肉が衰えていく状態のことをいいます。
つまり、筋肉量を減らさないためにも、朝食はとったほうがいいのです。 では、朝食に何を食べればいいのか。おすすめするのがバナナです。
自律神経を整えるには、腸内環境を整えることが欠かせません。腸と脳とは、自律神経、内分泌系、免疫系の3つの経路を介して、互いに影響を及ぼしあう関係で、これを「腸脳相関」といいます。
ストレスで下痢気味になったり、緊張するとトイレに行きたくなったり、おなかが痛くなったりした経験はないでしょうか?
これは、ストレスによって自律神経が影響を受け、コントロール機能が乱れ、大腸の働きに異常をきたしたことによって起きる現象です。
腸の働きには、自律神経が大きくかかわっています。
「交感神経」が優位なときは、便を排出するための運動であるぜん動運動は停滞し、「副交感神経」が優位なときは、ぜん動運動は活発になるといわれています。
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ぜん動運動がしっかり起こっていると、便などの腸内の不要なものが次々と押し出され、腸内環境にもいい影響がでます。
そのため、ストレスを受けて交感神経が優位な状況が続くと、便秘しやすくなるといわれています。
また、逆に腸内環境が悪くなると、脳が不安を感じ、自律神経が乱れやすくなるといわれています。うつ病の人に便秘の人が多いのも、この腸脳相関の関係性からくるものといえるでしょう。
そして、バナナにはこの腸内環境を整える、善玉菌を元気にするエサとなる水溶性食物繊維、善玉菌が過ごしやすい環境を整えるために必要な不溶性食物繊維が含まれています。そしてなにより、この水溶性と不溶性の食物繊維の両方の特性を合わせもち、ハイパー食物繊維という異名を持つレジスタントスターチが含まれています。 バナナは1日2本が効果的
そして、できれば、バナナを2本食べてほしいです。それは、1日2本が腸内環境の改善と自律神経を整えることに役立つことが期待できるからです。
2022年の1月に、順天堂大学漢方先端臨床医学研究室と小林メディカルクリニック東京の共同チームによる実証実験をしました。
その結果、バナナを1日2本、2週間食べ続けた成人男女13人のうち、過半数の7人について、腸内の悪玉菌が作り出した「インドール」と呼ばれる腐敗物質が減少し、腸内環境が改善するという効果が確認されました。
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また、うれしいことに、自律神経が活性化する効果も見られました。
ただ、2本と聞くと、そんなにバナナだけ食べられないという方もいるかもしれません。
そこで、おすすめしたいのが、「クラッシュバナナ」です。 バナナの選び方で効果が変わる
また、選ぶバナナにもちょっとしたコツがあります。それは、青みがなく全身が黄色のバナナではなく、なるべく茎と先端部分にまだ青み(緑色)が見られるグリーンチップバナナと呼ばれているあまり熟成していないバナナを選ぶことです。
グリーンチップバナナ(画像:『お医者さんがすすめるバナナの「朝食化」ダイエット』より)
成熟していくうちに、バナナに含まれるでんぷんが分解されて糖化していくので甘さが増していき、逆に腸内環境を整えるレジスタントスターチの含有量は減っていくといわれています。
ですから、春バテ対策で自律神経を整える目的であれば、グリーンチップバナナがおすすめになります。
春先は、年度末や新年度の準備などで忙しくしている方も少なくないのではないでしょうか。朝食にクラッシュバナナが、「春バテ」なんてかかっていられない、そんな皆さまのお役に立てば幸いです。 俺が1日にバナナ2本食うことを10年以上継続して脂肪肝になったが
2本のまま減らさなくても脂肪肝が消えた
つまりバナナ2本は脂肪肝の原因ではなかったということ
(バナナ食えば脂肪肝が減ると言ってるわけでもない)
脂肪肝の原因は運動不足と昼食のパスタと夜食のカップラーメンや冷凍チャーハン
よってバナナ2本程度なら脂肪肝を気にしなくてもよい 【12分で解説】脳と身体を最適化せよ! 明晰な頭脳・疲れない肉体・不老長寿の科学的健康法 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XrRsjTIIXTI 思考の鮮明度を上げ「仕事ができる人」になる方法 「解像度が低い人」に共通する3つの特性 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/738620 ホワイトデーの“お返し”が憂鬱。職場で事前に「チョコいらない」と伝えた結果、女性社員から地獄の反応 | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1983347 長年の脂肪肝を放置してたらとうとうクレアチニン値が異常になってしまった。血糖値と血圧は気にしてたがその数字は正常なのでうかつだった。
まあそれでも172cmの78kgだからそこまでの肥満ではないとは思うが、100kgデブとかの健康はどうなっているのだろう? クレアチニンは腎臓の値ね。これがどんどん進むと人工透析になる。
俺の場合は食塩の取り過ぎでなくて、脂肪肝により毛細血管にダメージが蓄積して、その結果腎臓の方が先に異常になったようだ。 野菜不足で「がんになる人」ほとんどいない真実 加えてストレスでがんになる人もほとんどいない | 健康 | 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/739354 がんの要因の6割は、偶発的な要因による遺伝子の突然変異
がんの疑いから病院に来られて、確定診断に至るまでに、さまざまな検査が必要です。だいたい2週間から1か月はかかると思います。
それを経て主治医から告知を受けるのですが、その際に、いちばん多い質問は「なぜ、私はがんになったのでしょうか」というものです。
みなさんは、がんの原因は何がいちばん多いと思いますか。生活習慣が悪かったからとか、がん家系だからと思っていませんか。
それも誤解です。
がんができる最大の要因は「偶発的要因」、つまり偶然によるものです。
これが原因の6割を占めます。 残るがんの原因の3割のうちで、大きなものは感染と喫煙です。
日本人のがんの原因の16.6%は感染が占めると推計されています。
B型やC型の肝炎ウイルスによる肝がん、ヒトパピローマウイルス(HPV)による子宮頸がん、ヘリコバクター・ピロリ菌による胃がんなどがその大半を占めます。
野菜不足をがんの原因に挙げる人がよくいますが、野菜を食べないからといって、それだけでがんになる人はほとんどいません。
ストレスも、がんの原因になるという科学的根拠は一致した結果がなく、一部の研究のみ関連があるとしています。
喫煙は、要因の15.2%です。タバコが原因で起こるがんはとても多く、肺がん、食道がん、口腔がん、咽頭がん、喉頭がん、胃がんなどがあります。
今からでも禁煙すれば肺がんのリスクは下がるとされています。
お酒も要因の6.2%で、多量に飲むと、肝臓がんを引き起こすリスクになるといえます。 僕は今まで間違ってたかもしれません…。
幸せになれない人が増えている原因に気がつきました
https://www.youtube.com/watch?v=_AdXPI0DJ-w >>24
肥満ですよ
172cmねら65kgが適正体重 38歳172cm75kg。
健康診断でAST(GOT) 36、ALT(GPT) 58、中性脂肪 281だった。
ネットで調べたら脂肪肝っぽくて悲惨なことなるケースもあるみたいだったから結果出た週からダイエット始めて、2.5ヶ月で67kgになった。
食事1500kcalぐらいに抑えてとにかく毎日歩きまくる。一度に長距離より朝晩で分けると楽。足は豆ができる。
スマホの歩行距離の記録のカレンダーを毎日見る 出先で昼飯に鯖缶食えないときは
焼き鳥3本+バナナ1本
コンビニやスーパーで鯖缶買って箸つけてくれとは言いにくいからな
食った後の缶の始末にも困るし
車で遠出するときは鯖缶とフォークは持っていく
SAなら空き缶捨てるゴミ箱があるので助かる
食堂でセルフサービスのうどん食っても600円はかかるけど
鯖缶なら200円 クレアチニンは0.82。腎機能検査の欄だから特に関係はないかと思った 9:00 起床
9:00 朝食 ヨーグルト、バナナ、パン6枚切り、スライスチーズ
13:00 昼食 豚肉ステーキ100g or サバ缶 、 ブラックコーヒー
19:00 夕食 (刺身、 玄米or白米or雑穀米or麦米、野菜、豆腐入り味噌汁) or (パスタ、野菜、豆腐入り玉ねぎスープ)
間食 ナッツ類
飲み物 ミネラルウォーター、麦茶、煎茶
酒は数年に1回やむを得ず乾杯だけ飲む程度
タバコ一度も吸っていない
在宅ワーク、週4回1時間のウォーキング以外は引きこもり ・豚ロース100g 260kcal
タンパク質 19g
脂肪 19g
炭水化物 0g
・サバ缶水煮 310kcal
タンパク質 41g
脂肪 21g
炭水化物 0g
塩分 1.8g
・パスタ100g
タンパク質 12g
脂肪 2g
炭水化物 65g テレワークで在宅率95%
18時30分に歩いて5分のスーパー買い物
オカズが半額だったり20%引きだったりまちまち
あまりギリギリ攻めると半額が全滅してるときもある
肉とかの量り売りや上の割引率違いもあるから全部同じもの買ってるわけではないが
半分くらいは固定品
9:00 起床
9:00 朝食 ヨーグルト、バナナ、パン6枚切り、スライスチーズ
13:00 昼食 豚肉ステーキ100g or サバ缶 、 ブラックコーヒー
19:00 夕食 (刺身、 玄米or白米or雑穀米or麦米、野菜、豆腐入り味噌汁) or (パスタ、野菜、豆腐入り玉ねぎスープ)
間食 ナッツ類
飲み物 ミネラルウォーター、麦茶、煎茶
酒は数年に1回やむを得ず乾杯だけ飲む程度
タバコ一度も吸っていない
在宅ワーク、週4回1時間のウォーキング以外は引きこもり
買い物に行く日は刺身とか鮨とかの割引狙い
行かない日はパスタ
豚肉は3切れで300gに一番近いのを選ぶ
二切れを買ったときはサバ缶で日数調整 パン、白米、白砂糖を減らす
パスタは低GI
タンパク質 豚肉
サバ缶 ゴボウ、キノコ
菓子控える
オリーブオイルナッツ類は良脂質
魚介類 海藻
ヒジキ
リンゴ
納豆
ヨーグルト
オメガ3オイル
MCTオイル
ビタミンC
ミネラル >>35
0.82なら大丈夫じゃね?基準値内だから >>25
>>31
クレ値は3年前50歳で0.87で2年前1.07、昨年末で1.09と悪化傾向
2年前に精密検査を腎臓内科で受けたが「正常」と診断されて拍子抜け。病院によっては正常の範囲が1.2までとかが原因だろうか?
年末からダイエット初めて現在74kg。ダイエットもだが、食生活をあらためてサカナ、野菜、ダイエットパスタなどをメインにしてインスタントやレトルト、冷凍食品などは禁止にしようかと。
今までが脂肪肝と太り過ぎを10年以上放置だったね。今更だけどバカだった。 【雑学】無能集団が出す結論は天才一人の意見に勝るのか【ゆっくり解説】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=azGlhJL5nyg 固まった筋肉をゆるめるだけ「首・肩コリ」撃退法 効果UPのため踏まえておきたい7つのポイント | 自分史上最高のカラダに!本気の肉体改造メソッド | 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/740240 そのために有効なのがストレッチです。マッサージは筋肉の緊張を和らげて、こりを改善する効果はありますが、柔軟性を高める働きまではありません。
また、首や背骨を音がするまで強く速く動かす施術がありますが、これは大変危険です。
“ゴリッ”“バキッ”という音(クラッキング音)がすることで、何か機械のジョイントが修正されたような感じがしますが、首の周囲の細かい靭帯や筋肉だけでなく、血管や神経までも損傷するリスクがあります。
では早速、首の前側のストレッチをご紹介、といきたいところですが、実は、その前にやったほうがいいことがあります。それは“猫背”を改善することです。
ヒトの体には、体が倒れないように姿勢を制御する反射機能が備わっています。目線と顔を前に向けると重い頭が前に出るため、背中を丸めることでバランスを取ろうとします。
背骨はS字状のカーブを描いていて、頸椎は前、胸椎はうしろ、腰椎は前に湾曲しています。これは歩行時や走行時などに背骨全体がバネ(ショックアブソーバー)として働き、脳に大きな衝撃がかかるのを防ぐためと考えられています。
猫背は、胸椎のカーブがさらに強くなり、頸椎と腰椎のカーブがなくなって真っすぐになった状態です。そのため、顔を前に向けていても頸は背骨に対してすでにうしろに倒れた状態にあり、それ以上うしろに傾ける余裕がなくなっているのです。
背すじを伸ばす筋肉は、背中まわりにある脊柱起立筋ですが、肝心なのは、ここを鍛えるより、お腹の筋肉(腹直筋、外腹斜筋)の柔軟性を高め、背すじを伸ばしやすいように改善することです。
ストレートネックと猫背を改善するストレッチは最後に紹介します。首を痛めないように必ずお腹の筋肉を伸ばすストレッチから始めてください。 ストレートネック、猫背とともに近年増え続けているものに、“巻き肩”があります。正しい姿勢を横から見ると、肩は中央よりやや後方にありますが、巻き肩とは肩の位置が前に出た状態を指します。
ここで簡単に肩の構造と働きについて説明します。
私たちの腕が大きく自由に動くのは、肩関節だけでなく肩甲骨と鎖骨(肩甲帯)が協調して動くためです。腕をうしろに引く時は、肩甲骨は内側に寄って肩が後方になり、腕を前に出す時は、肩甲骨が外側に開いて肩は前に移動します。
パソコンのモニターやキーボード、スマートフォンは体の前方に置きますから、当然操作する際は腕が前に出るため、肩甲骨が開いて肩が前側にきます。
この姿勢を長時間、長期間続けると、肩甲骨を開くために働く筋肉(小胸筋、前鋸筋)が硬くなってしまい、肩が前に出た状態が定着してしまうのが巻き肩です。
巻き肩になっていると肩甲骨を寄せるのは難しいので、まずはあとで紹介するお腹のストレッチから始めてください。 https://youtu.be/5WC2TKXK9Ss
コーヒーとブロッコリーを毎日同時にとり続けると、目がこうなります。
Status ♦4 ♣2 ♦8 ♥5 ♥6 (2nd.)HP: 1000 pts. たぶん(0)
2.51, 2.42, 2.42(1963.375000) Proc. [0.224830 sec.]
92歳「嫌われた"球界の最長老"」広岡達朗の真実 プロ野球の「洗礼」で目覚めた広岡野球の原点 | スポーツ | 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/740600 現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としては1970年代後半から1980年代中盤にかけてヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗氏。
実に70年もの間、プロ野球を内外から見続け、そして戦い続けてきた“球界の生き字引”の眼力は92歳になっても衰えず、今もなお球界を唯一無二の野球観で批評しつづけ、多くの野球好きの耳目を引き、メディアで大いに人気を集めている。
球界最老長の広岡達朗とともに球界を生きたレジェンドたちの証言から構成された、ノンフィクション作家・松永多佳倫氏の著書『92歳、広岡達朗の正体』より、広岡達朗の足跡を一部抜粋・再編集してお届けする。 92歳「"球界の嫌われ者"の言葉」が圧倒的に響く訳 「何者にも屈しない」姿は、なぜ生まれたのか? | スポーツ | 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/740601 1984年にトレードで西武ライオンズに入団した江夏豊は、すでに球界内でも噂になっていた「玄米を食べろ、肉を食うな、酒を飲むな」という西武のルールをこの目で確かめようと食堂に行った。すると、選手たちは黙って玄米を食べていた光景に遭遇する。
西武・江夏豊が発した「禁断の発言」
「なんかアホらしい」。江夏はそう思った。
玄米を食べることそのものではなく、選手がすべて監督の言いなりになっていることに辟易したのだ。
シーズンに入り、監督の広岡が痛風を患っていることを耳にした江夏は、5月の遠征時の食事中に広岡の席までつかつかと近寄ってこう言った。
「玄米を食べているのに、監督はなんで痛風になるの?」
その瞬間、周りは凍りついた。冷静沈着な広岡の顔が強張り、何も言わずに席に立ってしまった。
江夏に悪気はなく、あくまでも本音を言ったまでだ。
「何をそんなにビビっとるんや。軍隊じゃあるまいし、俺らは操り人形とちゃうぞ」
キャンプ時から「ああせえこうせえ」と一から十まで指図され、選手はそれを素直に聞き入れている。これではまるで広岡教の信者じゃないか。広岡に心酔していればまだわかるが、選手はどこかビクビクして従っているように見える。高校球児じゃあるまいし、プロのアスリートには到底見えない。
江夏は「いっちょかましたろ」と思ったのだ。この痛風発言から、江夏の登板数は減っていった。 かつて痛風は贅沢病と呼ばれ、美味しいものをたらふく食べている贅沢者が発症する病気と言われていた。
医学の進歩により、食べすぎ、酒量といった生活習慣の乱れから、激しい運動やストレスも原因とされ、人によって原因となる要素はさまざまである。
とにかく、監督時代に痛風になったことは、マスコミならず選手からも格好の攻撃材料となった。
毎朝起きたら真水を浴び、規則正しい生活を徹底して自分を律してきた広岡が、生活習慣の乱れから痛風を発症したとは考えにくい。
おそらく極度のストレスからの発症に違いない。ただ、当時の間違った認識により周りからは好奇な目で見られるようになり、食事管理するうえでの説得力が欠けてしまったのは否めない。 「即戦力だと聞いていたが、この程度か」
広岡達朗がルーキー辻発彦に浴びせた“洗礼” | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1986552? 巨人では“野球の神様”と呼ばれた川上哲治と衝突し、巨人を追われた。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から“嫌われ者”と揶揄されたこともあった。
大木のように何者にも屈しない一本気の性格は、どこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。
そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か……。
その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体に迫る。 広岡達朗はルーキーの辻に“手本”を見せた
緑の芝が綺麗に刈られたグラウンドに怒号が響く。
「そうじゃない、何度言ったらわかるんだ!!」
ノックバットを持った広岡達朗が、フレームメガネの奥から射るような目線を選手に投げかけ怒鳴る。
1984年、アメリカ・メサでの春季キャンプ。広岡は連日、速射砲のごとくノックの嵐を浴びせていた。標的は、ルーキーの辻発彦だ。
「即戦力だと聞いていたが、この程度かぁ」
基礎がまったくなっていない辻に対し、広岡は自ら手本を示すことにした。
「いいか、見てろ、こうやるんだ」
グラブを持った広岡が腰をずっしりと落として構えた。見るからに安定感があり、寸分の隙もない。ノッカーのバットから放たれた打球に対して直線的に入り、無駄なく流れるようなリズムでグラブを出す。捕った瞬間に足の運びのしなやかさから華麗なステップを踏んで一塁にスローイングされた。
「やべ、かっこいい〜」
全身汗まみれの辻は、思わず声が漏れそうになった。そのフィールディングがあまりにも美しかったからだ。50歳過ぎてんのに、なんだよこの動きは! ぐうの音も出ない。辻はただ黙って感心するしかなかった。 辻は、1984年ドラフト二位で西武へ入団。
佐賀出身の辻は小学校の頃、父の運転するトラックで福岡の平和台球場に連れてってもらい、鉄腕稲尾和久、怪童中西太を目の当たりにしたことで西鉄ライオンズのファンとなった。
佐賀東高校卒業後、日本通運に入社。グラウンドが浦和にあったことから所沢の西武球場にもよく行き、西武ライオンズになってからも親しみを感じていた。
プロでやるんだったら緩いところに行っても駄目だ。辻はそう考えていた。
社会人時代に面識のある石毛が広岡に相当厳しく鍛えられていることを報道で知り、自分も厳しい広岡監督のもとでやりたい、そのぐらいのほうが俺には合ってるとぼんやり考えていた。
入団後、そんな話を先輩にすると「お前は珍しいヤツだな」と感心されたという。
失礼を承知で言うが、辻は、顔立ちのせいなのかどうも地味に見られやすい。
おまけに背もあまり高くないと思われがちだが、実際は182センチある。それなのに、なぜか小柄だと思われている。
西武黄金時代の内野陣が、一塁清原和博186センチ、サード秋山幸二186センチ、ショート石毛宏典180センチ。
清原と秋山は見るからに大男で、キャプテン石毛はキャラのおかげで目立ち、辻が内野陣で一番小さいように見られていた。
辻は、口を開くと陽気というか見ず知らない人にでも親しみを持って接することできる。
話好きで冗談も言う。ただ「話し始めれば」という条件が付く。見た目は確かに華やかではないかもしれないが、広岡のもとで野球をやりたいと言うだけあって、ちょっとやそっとじゃ曲げない根性が備わった男だ。 ドラフト二位で24歳社会人出身の辻は、当然のように即戦力として期待されていた。
しかし、広岡自らノックをした結果、まだ早いと判断。グラウンドの端へ辻を連れて行き、これまで幾多の教え子たちにやってきたように置いてあるボールを素手で捕らせる練習からやらせた。
「置いてあるボールって……これ、どうやって捕るのが正解なんだ!?」
辻は、内心あたふたした。
動かないボールを捕るのは小学生だってできる。要は、ボールに対しての距離感と足の運びも含めた捕球のタイミングを身体に染み込ませる練習だ。止まったボールを良い形で捕れなければ、動いているボールを上手く捕球できるはずがない。
辻は考えた。なんでこんなんことをやらせるんだろう? 単純に捕球技術がなってなかったからか。そうじゃなかったら、こんな練習なんてしない。どう見ても基礎中の基礎の練習ということだけは分かる。いくら社会人のトップレベルでプレーしていても、プロのレベルはまったく別次元として考えなければならないのだとあらためて思った。 「人間、何かひとつ取り柄があるもんだな」
「よし、次は転がすから」
広岡はボールを取り、ゆっくりと転がし始めた。
「急がなくていいからしっかり形を作れ」。ゲキが飛ぶ。
ゆっくり転がるボールに対して、タイミングよく自分の型で捕る反復練習だ。
見た目が地味なだけにやっている選手は面白味を感じない。
しかし、捕球の際に安定した形を身体で覚えることこそ、速い打球にも対応できる一番の近道。
やみくもにノックの嵐を浴びせられてなんとか捕ったとしても、基本の型ができていなければ結果は安定しない。
辻は、やっていくうちにこの練習の意図がわかってきた気がした。
広岡は、やはり細かいことまで教えない。
「ただここに来たボールをすっと捕って、すっと投げればいい」と手本を見せてくれる。
辻はそれを見て「確かにこれが基本だよな」と思った。
捕りました、さあ投げますよ、じゃダメ。
すっと捕って、すっと投げるためには、どうすればいいかを自分で考える。
まずは上半身を動かさずに捕る構えを決める。構えさえ早めに決まれば、あとは足を使って捕るだけ。
捕球時にちゃんと自分からボールを迎えに行けば、自然とグラブは下から上に上がってくる。
しかし、最後までボールを見ようとすると頭は下がってグラブは上から下に行くし、捕る時にはもう投げる方向を見なきゃいけない……考え出すときりがない。
こうやってみずから熟考することが、プレーの質を上げていく。
どれだけ自己鍛錬してプレーの質が向上しようとも、広岡は絶対に褒めてくれない。
ただ唯一、辻、鈴木康友、行沢の三人でバックトスの練習をしている時に広岡が「人間、何かひとつ取り柄があるもんだな」とボソッと発したことがあった。
辻は今も、この言葉が広岡からの最高の褒め言葉だと捉えている。
辻の良さは、人当たりだけじゃなく、貪欲に何かを吸収しようとする姿勢にあった。
自分は下手くそだと思って春季キャンプに参加し、人から盗めるものはすべて盗もうと目を皿のようにして他の選手の動きを見ていた。
辻には、驕りがない。それでいて努力家。だから広岡は、こいつはモノになると思って目をかけた。
(次回へ続く)
―[92歳、広岡達朗の正体]―
松永多佳倫 広岡達朗
「ユニフォームに袖を通すのは50歳まで」
西武監督就任時に誓った信念 | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1983768 〜西武ライオンズ編@〜
近鉄、阪神からの監督就任要請
七九年シーズン途中でヤクルトを退団した広岡は、再び評論家活動に戻った。
しかし広島のコーチを辞めたときとは訳が違う。あのヤクルトを初の日本一に輝かせたという勲章により、球界内外から「次はどこの監督になるのか?」と去就が注目された。
史上最弱チームを初の日本一に導いたという実績が、広岡達朗の格を存分に上げたのだ。
「理想の野球を展開するには、チーム作りに五年間必要だ」
これが広岡の持論だ。そして、選手たちに率先垂範できる年齢として、ユニフォームに袖を通すのは五〇歳が限界点だと決めていた。
ヤクルトの監督を辞めたのが四七歳。次が野球人生の集大成になるつもりで、広岡は慎重に時を待った。
八一年のシーズン終盤、近鉄から監督就任の要請が来た。
「当時近鉄の監督だった西本(幸雄)さんが推薦してくれた。西本さんは凄い。
本当に一生懸命やった人で、ティーバッティングでも自らがボールを投げる。
素晴らしい人なんだが、ひとつ欠点をあげるとすれば、他人の言うことを聞かない。
全部自分でやろうとする。それが日本一になれなかった原因。
他人の意見を採用するかしないかは自分で決めるにしても、まず他人の話に耳を傾けるべき。それでもやっぱり西本さんは凄かった」
シニカルに聞こえるかもしれないが、これは広岡流の最大級のベタ誉めである。
西本幸雄は、川上哲治と双璧と言えるほどの球界の重鎮であり、関西球界のドンでもあった。
監督生活は二〇年間に及び、大毎、阪急、近鉄の三球団で八回もリーグ優勝を成し遂げたものの、一度も日本一になっていない。
それゆえ悲運の名将≠ニも呼ばれた。熱血漢で指導力には長けており、選手には容赦なく手も出す。
だが、一度グラウンドを離れると非常に面倒見が良く、教え子で西本の悪口を言う者がいなかったほど選手たちに慕われていた名将だった。 広岡は西本の育成能力の高さに心底舌を巻いており、プロ野球史上最高の監督とまで評価している。
言うなれば、自分と同じように弱小球団を率いて、発展途上の選手たちを育てながら何度も優勝させた手腕への敬意でもある。
広岡は、近鉄監督への就任要請に即答しなかった。そうこうしているうちに阪神からも話が舞い込み、近鉄からの就任要請を丁重に断った。
「八一年の秋口、阪神球団社長の小津(正次郎)さんから連絡があった。
早速会うと『まずは三年契約でどうですか』と就任を要請されたんだけど、あの頃の阪神は五年契約じゃないと選手が言うことを聞かないだろうと思った。
三年契約だと選手たちが『どうせ三年経ったら辞めるし、どっかでヘマすれば途中で辞めてしまうだろう』とはなから監督をバカにしてしまう。
小津さんは『俺を信用したまえ』と言ったけど、『まだ信用できません。
小津さん、三年契約だと選手たちの操縦法が難しい。五年契約ではどうですか? 三年で必ずものにしますから』と返した。
結局、小津さんが首を縦に振らなかったから断った。監督をやるなら初めから五年契約でやらないと、本当の意味の改革ができない。
正直、阪神に行ってもいいかなとは思っていた」
広岡が阪神の監督を引き受けていたら……。
伝統の一戦と呼ばれる対巨人戦で、阪神を率いる広岡が恩讐の巨人相手に立ち向かう図式はさぞ盛り上がり、歴史が大きく変わったかもしれない。 “球界の寝業師” 根本陸夫の謀略
日本プロ野球界で実質的なGMとして機能し成功を収めた先例は、やはり八〇年代の西武で管理部長≠ニして辣腕を振るった根本陸夫だろう。
GMとは、チーム編成の権限を持つ者であり、ドラフト戦略やトレード、FAや外国人補強等、いかにしてチームを強くするかを担うポジションである。
試合の采配や球団経営には携わらない。
八一年秋から西武の管理部長≠ニいう要職に就いた根本は、近鉄、阪神の監督就任を断った広岡を監督に招聘するためすぐさま声をかけた。
根本は、広島監督時代に広岡をコーチとして呼び寄せた男だ。
根本には指導者としての資質はなかったが、人脈作りにめっぽう長けていた。
人脈に必要なのは情報とスピードだ。一歩出遅れたために、すんでのところでチャンスを取り逃がすことなど人生には山ほどある。
百戦錬磨の根本は、情報収集とスピード感こそ肝だと心得ており、広岡が近鉄と阪神の監督就任を断ったという話が球界内を駆け巡る前にキャッチし、すぐに広岡へと接触を図ったのだ。
「阪神の監督を断ってすぐに、根本(陸夫)さんから西武の監督にならないかと誘いを受けた。最初は長嶋に断られ、次の上田(利治)はやるって言っていたはずなのに土壇場で断られたという。
オーナーの堤さんが『広岡がいるじゃないか』と言ったから、しょうがなしに俺のところへ話が来ただけ」 広岡はまず、親会社である西武グループ関連の書物を全部読み漁った。
名声欲しさや契約条件では絶対に釣られない広岡は、西武ライオンズが新興球団ゆえに親会社の理念や経営状態がどうなのかをしっかりリサーチした。そして、西武の監督を引き受けた。
八〇〜九〇年代の西武黄金時代を作り上げたのは、ひとえに現場で選手を成長させた広岡の手腕と、成長しうる逸材を集めてきた根本の尽力によるものだ。
この二人三脚がすべてであり、どちらが欠けても黄金期は訪れなかっただろう。
「根本さんは一見、人から頼まれたら嫌と言えない良い男に見える。任俠めいた雰囲気を持っていて、男っぷりも良い。
西武では金を使うだけ使ってダイエーに行った。ダイエー でも使うだけ使って亡くなったが、それによって王が浮かばれた。根本さんはそういう男」
球界に蔓延る面倒な案件を治めるのも根本が得意とする仕事で、表には出ない反社会勢力絡みの案件も平気で片付ける。
誰も逆らえないアンタッチャブルな存在だった根本に唯一対抗できたのが広岡だ。
満を持しての三年ぶりの球界復帰。初めての春季キャンプ前に、こんなことがあった。強面の根本が小難しい顔をしながら広岡に言う。
「うちはこういうのに長けている。両サイドからキャッチャーのサインを映し出すからプ ラスにせえ」
客席にビデオ班を置いて、スタンドから相手のサインを盗むやり口だ。広岡は呆れた。
「根本さん、キャンプはインチキするためにあるんじゃないですよ」
「わかってる。とにかくキャンプで想定してやらせろ!」
「そんなことしなくても勝てばいいんでしょ。やらなくても勝ちますから」
断固拒否し、サイン盗みといった卑劣な行為をしなくても絶対に勝ってやると誓った。
(次回に続く) 「これじゃあ高校野球じゃねえかよ!」
選手たちからの猛反発を受けながらも、広岡達朗が“管理野球”を貫いた理由 | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1984017 西武ライオンズ時代、選手たちに課した“食事改善”
八一年オフ、四九歳の広岡達朗は満を持して西武の監督に就任。
最初に取り組んだのは選手たちの食事の改善だった。疲労回復を促進するアルカリ性の食材を多く摂り入れることを厳命した。
当時、あまりに先鋭的だった食事改善について広岡達朗はこう語る。
「年によって必要な食べ物も違うし、考え方も違う。大人になるための素材を大地の神様が作っているという考えで、二〇代までは動物性タンパク質を摂って身体を作り、三〇になったらそれらをできるだけ減らしていく。
四〇代以降は動物性タンパク質を摂らず、野菜や果物を食べて長生きする。これが『自然の法則』なのだ。
ヤクルト時代もそうだったけど、こうした自然の法則にできるだけ逆らわないよう指導しただけ」
今では中学生でも、徹底したカロリー計算のもとバランス良く食事を摂る食育≠行うことが基本となっている。
だが、当時は無法状態だった。
一晩でどれだけ飲んで食った かが武勇伝のように語られた。
水島新司の伝説の漫画『あぶさん』のように、二日酔いで ホームランを打つ選手が破天荒として人気を得た時代だ。
テレビの世界でも、情報バラエティー番組『久米宏のTVスクランブル』(八二〜八五年)に天才漫才師の横山やすしが酒を飲んで出演していたくらいだ。
観ているぶんには面白かったが、すぐさま降板となった。そりゃそうだろう。今なら絶対にできない。 東尾修、田淵幸一…西武のベテラン陣からの反発
打って投げて、試合が終わったらバカみたいに肉を食ってアホみたいにビールをかっくらう。
これが当時のプロ野球選手の食生活で、良くも悪くも豪快≠ニいう言葉で許された時代。
コンディションの維持はアマや弱者がやることだという風潮がいまだ根強かったプロ野球界では、広岡の考えは異端だった。
当然、ヤクルト時代と同様に選手からは総スカンを食らった。特にベテラン陣からの反発は凄まじかった。
東尾修、田淵幸一、山崎裕之、大田卓司、片平晋作、黒田正宏といった西武のベテランたちは「食いたいものも食えないのかよ!」と嘆き、激昂した。
しかし、広岡は頑として規制を緩めることをしなかった。だからと言って素直に従う輩たちではない。
「これじゃあ高校野球じゃねえかよ!」 選手たちが管を巻きながら内緒で飲み食いをする。
当時の広岡は、インタビューで雄弁に語っている。
「肉を食うな、酒を一滴も飲むなとは言ってません。全般的に野球選手は肉を食べ過ぎている。
酒も適量なら健康に良いが、バカみたいに飲む選手が多い。だから体力の消耗が激しいキャンプ中は酒を禁じ、肉を控えめにした食事を摂らせているだけ。
別に四六時中監視しているわけじゃないから、どこかで飲むでしょう。
しかし、チームとして禁じておけば少しは歯止めになるだろうと思ってやっています」
マスコミはここぞとばかり面白おかしく報道した。
肉を制限する理由として「日本人は腸が長いから腸に残って腐敗する」などと
広岡が言ってもいないことを勝手に書き立て、日本ハムから激怒されたこともあった。
さすがに広岡も呆れ果てた。
実際、西武の食事改善が球界内外で話題となったことで、ほかの11球団が玄米食の推奨の意図や成果を聞きに視察に来たことを一切報じようとしなかった。
広岡が、面白ければ何でもありという報道のあり方に甚だ疑問を持ったのもこの頃だ。 「選手が『監督だけ酒を飲みやがる』と言ったことがあったけど、アメリカに行ったときに不思議に思ったことがあった。
指導者は練習後に冷えたビールを飲むけど、選手用の冷蔵庫には清涼飲料水しか入ってない。
どういうことだと聞いたら、アメリカ人に笑われた。
アメリカでは教えることを教えたら指導者はビールでもなんでも飲んでいい。
しかし、選手は常にベストコンディションを保たなければいけないので、アルコールは与えられないと。理に適っていると思った」
広岡は得意満面で言う。確かにその通りだ。アメリカは常に合理的でシステマティックに動いている。
しかし、ここは日本だ。皆で目標に向かって一致団結して行動をともにすることを美徳とする精神がある。
指導者だろうと選手だろうと同じ規律のもとで戦おうという軍国主義的な考えが八〇年代はまだ根強く残っており、自分たちだけ我慢を強いられ、指導者だけ好き勝手なことをするのは許さないという認識が蔓延っていた。
広岡のようなアメリカナイズされた考えた方は受け入れられず、かなりのバッシングを浴びた。
しかし、ベテランの田淵や山崎が厳しいトレーニングと徹底した食事管理によって体質改善を果たして見事復調。二年連続で日本一に輝くと、広岡の考えは途端に持ち上げられるようになる。
「例えば病気にかかったときは、現在の食事、睡眠を含めた生活習慣が間違っていること を病気が教えてくれているということ。
野球も同じで、結果が出ないときはどこかやり方 が違うよと成績が教えてくれているだけ。そういう考え方をすれば強くなる」 広岡は、すべて真理に基づいて行動している。
食事管理にしても、こうした考えから「やるべきことをやっているだけ」に過ぎなかった。
それを周りが面白がって騒ぎ、結果が出れば手のひらを返す。つくづく日本人の国民性には呆れたものだ。
就任一年目から二年連続の日本一に輝いた広岡率いる西武ライオンズだったが、八四年シーズンからは田淵、山崎、大田といったベテラン勢に頼ることなく、若手主体のチームへと舵を切った。
ここから、広岡が本当にやりたかった野球の集大成となる新生ライオンズが始動する。
(次回に続く) 「一応、交渉の権利だけ取ってくれませんか」
広岡達朗がプロ入り拒否の工藤公康を6位指名した夜 | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1984060 〜西武ライオンズ時代・工藤公康の証言(前編)〜
ドラフト6位での強行指名
一九八四年六月下旬、雨の音が湿っぽくも耳に馴染む梅雨の真っ只中、ペナントレースも三分の一を消化した頃だ。
監督室の椅子にもたれかかっている広岡達朗は、抑揚のない低い声で突き放すように言った。
「工藤、今季からアメリカで修行してこい」
「え アメリカですか?」
思いもよらぬことだっただけに、どんぐり眼の工藤公康はさらに目を丸くさせた。
「以上だ。後はマネージャーに聞け」
これ以上何も聞くなという雰囲気を醸し出し、広岡は書類に目を通すため顔を伏せてしまった。
仕方なく工藤は「はい」と小さい声で返事しながら監督室のドアを開けた。
「アメリカで修行って言ってたけど、アメリカ留学ってことだよなぁ」
アメリカ≠ニいう単語に戸惑いを見せる工藤だったが、留学への不安というより今シーズンはもう必要ないという烙印を押されたショックのほうが隠しきれない。
西武球場内の薄暗いスロープに、スパイクの歯が立てるカチャカチャという金属音が耳障りに響くのだった。
工藤公康。名古屋電気高校(現愛工大名電)のエースとして、ストレートと縦に落ちるカーブを駆使し、八一年夏の甲子園二回戦の長崎西戦で16奪三振のノーヒットノーラン。
一躍脚光を浴び、ベスト4まで進出した。
この活躍によって超大型左腕としてドラフトの目玉となるはずだった。
しかし、工藤は甲子園大会後、早々と高校卒業の進路として社会人野球チームの熊谷組入りを決めた。いわゆるプロ入り拒否の意思である。
広岡はドラフト前夜に、根本管理部長と最終打ち合わせをしていた。
「根本さん、今年のナンバーワンピッチャーはズバリ誰ですか?」 「名電の工藤だろうな。でも彼は熊谷組に決まっている」
「一応、交渉の権利だけ取ってくれませんか」
広岡の言いたいことをすぐさま理解し、根本も即答する。
「わかった。他の球団も指名して来ないだろうから、最後の枠で指名しよう」
こうして西武ライオンズはドラフト六位で工藤公康を指名した。 この工藤への指名は、巷では根本の囲い込みだ、西武包囲網だと揶揄された。
もし、出来レースだとしたら、本人のプライドを考えて下位での指名ではなかっただろう。
指名後の入団交渉も熊谷組と西武側でいろいろ調整が大変だったと聞く。出来レースであれば、こんなことはないはずだ。
実際に、早くから社会人熊谷組に行くと表明していた工藤はプロに行く気などさらさらなかった。
だがドラフトから数日が経った夜に、根本が工藤家に訪れた。晩飯を食べ酒を酌み交わしながら、父・光義と意気投合して話し込んでいる。
「おい、起きろ!」
父・光義の声がする。「なんだ?」。時計を見ると夜中の三時だ。
「おい、公康、お前プロに行け!」
無理矢理叩き起こされた工藤が寝ぼけ眼で見ると、上機嫌で酔っ払っている父・光義は真っ赤な顔して「いいな、西武へ行け」と叫んでいる。
「うん、わかった」
工藤は眠くて仕方がなかったため、生返事をして再び床についた。結局、工藤は熊谷組ではなく西武ライオンズを選んだ。
「こいつは二軍に置いていたらだめだ」 広岡の決断
「いいカーブ放るな」
自主トレ中のピッチングを見て、広岡は一目で工藤は使えると感じた。
工藤のカーブは、うまく目の錯覚を起こしながら投げる変化球≠ニ自ら言うだけあって、一瞬浮き上がるような軌道を描く。
バッターとピッチャーとのちょうど中間あたりで 一気に急降下するため、パッと視界から消えるような感覚に陥る。
工藤自身もどれくらい曲がっているかはわからない。その日の打者の反応を見て大体の球筋を予測する。
広岡は、自主トレ期間、春季キャンプと工藤をじっと観察し性格を分析していた。
「こいつは、二軍に置いていたらだめだ。小利口だから周りに合わせてしまう。一軍で俺のもとで育てよう」
スタッフ会議の場でそう公言した。
広岡がピッチャーを技術的に分析する際にまず見るのはフォームだ。
変則でも自分に合った投げ方をしていればいいが、肩肘に負担がかかる投げ方ならば二軍からスタートだ。
次にスタミナ、そしてメンタルだ。
ストレートや変化球はプロに入るレベルなのだから一定水準は満たしている。
そのうえでピッチャーは健康で長持ちできることがまず先決。工藤は、実に理に適った投げ方をしていた。 高卒ルーキーながら即一軍で通用するカーブを持っていた工藤を、左打者のワンポイントとして起用することを決めた。
マウンド度胸もあり、一級品の球を持つこの男を坊や≠ニ呼び、広岡は可愛がった。
怖いもの知らずというか、マウンド度胸があるというか、ちょっとやそっとじゃ物怖じしないタイプ。それこそが工藤公康の真骨頂だった。
シーズン中、藤井寺球場で近鉄の四番栗橋茂に対して頭部へデッドボールを与えたことがあった。
球場はスタンドの近鉄ファンの野次で大騒ぎ。
工藤が「すいません」と帽子を取って詫びる間に、ベンチの広岡が大声で「工藤もういい、こっちこい、降りろ」とピッチャー交代の合図をした。
昔はすぐに乱闘になるため、こうして場が荒れ始めると早めの継投策で投手を逃すしかなかった。
それでも工藤は、初めて見る騒然とした光景を珍しそうに「へえ〜」といった顔で見回していた。
大阪球場での南海戦では、四番門田博光に対して胸元へ投げて身体を仰け反らせた。すると、門田が鬼の形相でずっと工藤を睨み威嚇する。
「こえぇ〜」と思いながらも、次もインサイド低めに投げると、今度は門田がさらに鋭い目つきでバットをかざして「外を投げろ」と指示する。
「ええ〜」と思いながらも工藤は平然と無視してサイン通りの球を投げた。まさに昭和の野球だ。
ルーキーイヤーは、27試合に登板し、1勝1敗、防御率3・41。ワンポイントの登板が主ではあるが、高卒新人としては上々だ。
そして、二年目、新人王候補の筆頭とされ、春先のキャンプでも期待の若手として大いに期待されたが、シーズンに入ると中継ぎ専門となり、23試合登板で2勝0敗、防御率3・24。
そして、運命の三年目を迎えることとなる――。
(次回に続く) 「漫然と野球をやっていた」
広岡達朗の指令によりアメリカへ飛んだ工藤公康の“覚醒前夜” | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1984779 〜西武ライオンズ編 工藤公康 後編〜
米国で目の当たりにした“ハングリー精神”
いよいよ三年目、監督の広岡達朗は若手のホープとして工藤公康に一番期待をかけていた。
しかし、思うような結果が出ない焦りからか、工藤はカーブの精度も悪くなり、何より自信を喪失しかけていた。
ここで荒療治をしないと、坊やは坊やのまま終わる。そう感じた広岡は、わずか9試合のみ登板させた後、七月半ばにカリフォルニアリーグ1Aのサンノゼ・ビーズに野球留学させた。
引率には二軍バッテリーコーチの和田博実がついた。和田といえば、西鉄ライオンズ黄金期に稲尾和久とバッテリーを組んでいたキャッチャーだ。
「ええか、工藤、アメリカ行ったらよう見とけよ」
若い盛りの工藤は、やんちゃなことをしては和田によく怒られた。
口うるさい叱咤は、工藤が大きく育つようにと願う和田の親心のようなものだった。
カリフォルニアリーグは、八月いっぱいまで。「アメリカだろうとメキシコだろうと同じ野球をやるんだ」。
すべてを強烈に照らす西海岸の真夏の太陽のもと、工藤は萎縮することなく息巻いていたが、そう簡単にことは運ばなかった。
長時間のバス移動は当たり前、微々たるミールマネー(食事代)のため食事は質素。
草野球場に毛が生えた程度のスタジアム。日本での自分はつくづく恵まれているんだと実感した。
日本では寮に入れば冷暖房完備だし、アルバイトをして生活費を稼ぐ必要はない。
寮の食堂に行けば飯はたらふく食べられる。かつては、高卒だったら大体五年間は面倒を見てくれるという不文律があったため、その期間は、完全に野球に没頭できる環境を与えてくれる。
しかし、ここはアメリカだ。一週間や一〇日で結果が出なかったら、どんどんクビを切られていく。 カリフォルニアリーグとは、メジャー、3A、2A、1Aのなかの一番下に属するリーグ。かつては1Aを二つや三つ持っていた球団もあった。
工藤は、リリースされた選手各々に挨拶がてら今後のことを聞いてみると、全員が同じことを言うのに驚いた。
「なんで辞めなきゃいけないんだ。俺はたまたま今回、結果が出なかったけど、決して能力がないわけじゃない。
俺はやればできる人間なんだ。今回はたまたまそうなっただけで、 また練習して、必ずメジャーに上がってアメリカンドリームを手に入れるんだ。
俺はそれだけのことをできる人間なんだ」
自分のことを、何の疑いもなく強く信じている。
「こういう思いでベースボールをやっているのか……」
彼らの強い覚悟と意志に、工藤は衝撃を受けた。工藤にとってそれまで飯を食う手段が野球であって、野球をしてどうこうしたいという明確な目的がなかった。
「こんな漫然と野球をやってる自分ってどうよ……」
自問自答した。1Aの選手たちが日に日にリリースされる姿を見て、生きることは試練だとつくづく感じた。
工藤の小利口の特性は、先を見通せる力がある分、どこか冷めた目で物事を見てしまう。
表向きの物怖じしない性格はひとつの側面であって、現実を俯瞰することで見切ってしまう自分もいた。
物怖じしない姿を見せていた工藤だが、実のところ、プロに入った当初はあまりのレベルの差を感じ興冷めしていた。
自分のすぐ上に誰々がいて、その下が誰々で……
俯瞰して物事を見る性格ゆえ、自分が今どの位置にいるかも工藤にはわかった。
一軍でバリバリ投げるためにはローテーションピッチャー以外の全員を抜いていかなくてはならない。
そんなのは土台無理な話だし、何年か経ったらトレードで出されて一、二年で終わるんだろうなと、どこかで自分を見切っていた。
一年目から一軍で投げさせてもらったといっても、左のワンポイントでデータがないルーキーだったからであり、本当の意味で通用しているとは思っていなかった。 工藤は心に訴えかける「俺はどうしたいんだ? 何をやりたいんだ?」
1Aで頑張るマイナー選手たちのひたむきなプレーとメンタルに心を揺り動かされた工藤は、ここでようやく本気になって自身を見つめ直した。
「俺はどうしたいんだ? 何をやりたいんだ?」
俯瞰して考えるのではなく、自らの心に訴えかけた。
その答えさえ出れば、あとはその目的のためにどうすればいいのか逆算していけばいい。
そして何よりも、己を信じること。その地域地区の天才たちが集まっているのがプロの世界。
能力が高いやつの集団であることくらい最初からわかっている。
高卒ルーキーとして一軍で少し投げさせてもらっただけで、まだ何もしていないのに諦めている自分が小っ恥 ずかしくなった。
このときから周りを見なくなり、己を信じてトレーニングに没頭した。
今までは「これぐらいやっとけばいいか」とどこか余力を残していたが、「まだまだ」と自分を追い込むようになった。
スポンジが水を吸収するように技術が伸び、プロ入り時と比べて三年目のシーズン終了後には最高球速が10キロ以上アップした。
カリフォルニアリーグが終了し、いったん帰国して一〇月からアリゾナの教育リーグにも参加した。引率者は同じくコーチの和田だ。
「工藤の顔つきが変わった。カリフォルニアで何か摑んだな」。和田は工藤を一目見てすぐに感じた。
坊や≠ニ呼ばれてヘラヘラしていた男が一皮剝けようとしている。
一カ月半の教育リーグも終わり、心身ともに逞しくなって帰ってきた工藤は、秋季キャンプが終わっても、オフ返上で引き続きトレーニング を続けた。 一二月二七日、年内最後のトレーニングとして第三球場で二つ下の渡辺久信と一緒に投 げ込みをやった。
「バシッ!」「ナイスボール」。ブルペンキャッチャーが心地よいキャッチ音を鳴らし、タイミングよく声をかけてくれる。
ボールへの指のかかりもよく、腕もよく振れている。ボールが走っているのが自分でもわかる。
「やっとプロらしい球を投げるようになったな」
後方から声が聞こえ、振り返るとトレンチコートを羽織った広岡の姿があった。
「監督!」。工藤はびっくりして声を出す。
「続けろ」
「はい」
工藤は反射的に答えた。
工藤と渡辺はアイコンタクトをし、互いに熱のこもったピッチングを披露した。工藤は、褒められたあとに正直ガッツポーズしたい気持ちだった。
この年の暮れの第三球場で、工藤と渡辺の若きエース候補たちが切磋琢磨して投げている姿を見て、広岡は若干口元が緩んだ。
「こいつらが来年、投手陣の柱になれば間違いなく優勝できる」
第三球場の外野の芝は茶色く枯れ上がっているけれど、春になれば青々とした芝に生え変わる。ベテランの力に頼って優勝を手にしたが、本当の意味で西武ライオンズが誕生するのは、来年からだ。乾いた空気を切り裂くように二つのミット音が交互にテンポよく鳴り響くのであった。
(次回へ続く) 二年目にして先発&ストッパーに大抜擢。
広岡達朗が若き渡辺久信を見出した“偶然” | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1984796 〜西武ライオンズ編 渡辺久信〜
「おい、渡辺が残っているじゃないか」
広岡のひと言で決まった西武ライオン入団
広岡達朗は、記憶を紡ぎ出すようにしみじみ言った。
「渡辺久信(現西武ライオンズGM)というのは、あれは隠れ1位で獲ったんだけど、俺が言わなかったら西武に入ってなかったからな。
確か最初は、ヤクルトに行った高野(光)を指名して抽選で外れたんだ。
ウェイバー方式(戦力均衡化を図るため、最下位球団から順に選手を指名できるシステム)があったから、前年度日本一の西武は外れ一位指名が一番最後。
会場のテーブルで資料見ていたら『おい、前橋工業の渡辺が残っているじゃないか』と言ったんだ。
もう指名されたと思って、抜け落ちていたんだな。
とにかく、あいつはなんでも一番でないと気が済まないぐらい負けず嫌いで一生懸命やる男。
ランニングでもいつも先頭に立って走っていた。
だが、球はめっぽう速いものの変化球を放れない。でもこいつの性格なら、二軍に置いて鍛えて、時期が来れば一軍に上げりゃいいと思っていた」
1983年ドラフト1位で西武に入団した渡辺久信。甲子園には高校1年の夏しか出場していなかったが、“前橋工業に渡辺あり”と言われるほどの快速球投手として高校野球界に名を轟かせていた逸材だった。
入団交渉時、長谷川スカウトの前に現れた渡辺は、頭に剃り込みを入れボンタンを羽織った純然たるヤンキースタイル。
ヤンキー漫画『ビーバップハイスクール』全盛の時代だけあって、ちょっとヤンチャな高校生は短ラン、ボンタンに剃り込みを入れていたものだ。 入団当初から身体の強さには目を見張るものがあった。
高校時代に駆り出された陸上大会のハイジャンプ(走り高跳び)で1m85cmを飛んだバネと
背筋力215キロという身体的素質、筋肉の柔らかさ、アスリートとして最高の素材であるのは専門家が見れば一目瞭然だった。
あとは決め球となる変化球さえ覚えればすぐにでも一軍で使える、渡辺は広岡の目にそう映った。
そして二軍でスライダー、フォークを覚え、ルーキーイヤーの6月下旬に早々と一軍昇格。
元来の性格が負けず嫌いで、球の力、身体の強さはチーム屈指。それ以降は一軍に置きながら育てる方針を敷いた。
1年目は15試合に登板し、1勝1敗。52回2/3を投げたため新人王(ピッチャーは30イニング以下)の資格はなくなったが、それよりも経験を積ませることを最優先した。 たまたま訪れた広岡の前で挙げた二軍初勝利
当の渡辺GMが当時のことを語ってくれた。
「私がプロに入って1軍に上がるきっかけを作ってくれたのが広岡さんなんです。
開幕してからずっとファームで投げていたものの、出れば打たれるの繰り返し。
コントロールも良くなくて、フォアボールを出した次の打者にストライクを取りにいって打たれる、ということがしょっちゅうだったんですよね。
まったく勝てないピッチャーだったんです。
それで、西武球場で初めて親子ゲーム(同一球場で一軍と二軍両方の試合が同日に行われること)があった日に、私は二軍の先発だったんです。
その試合を、たまたま広岡さんが見てたんですよ。そこで二軍初勝利を挙げたんです。
良かった良かったと思っていたら、広岡さんが『もうこいつは上で育てよう』と一軍に上げてくれました。
他の試合はほとんどダメダメだったのに、二軍でたった1勝挙げただけで一軍に上がれました。
運が良かったというか、御前試合でいいピッチングしたおかげですぐ一軍に上がって、そこからずっと一軍でした。
何かにつけてきっかけを作ってくれたのが広岡さんでしたね」
2年目の1985年、渡辺は先発ローテーションに入り、開幕第4試合目の4月10日に先発してから4連勝を飾る。
ちょうどプロ2年目の日本ハム津野浩志、南海の加藤伸一も台頭し、19歳トリオとしてプロ野球に新風を巻き込んでいる時期でもあった。 ストッパー森繁和が肘痛による体調不良のため、渡辺は5月中旬からストッパーに回り、同月17日から6連続セーブのパ・リーグ記録も作った。
「1〜2年目で、ピッチャーのポジションは全部やらせてもらいました。
高卒2年目で全部のポジションを2年間でやるっていうのは、なかなかないですよ。
もう敗戦処理からセットアッパーからストッパ−、先発と全部やりましたから。そういう部分では本当ありがたかったなと思いますね」
2年目は、45試合登板、8勝8敗11セーブ、防御率3.20。
先発からストッパーまで八面六臂の活躍で2シーズンぶりのリーグ優勝に貢献した。
翌年に16勝、そこから隔年で最多勝を計3度(’86、’88、’90年)獲るなど、西武ライオンズ黄金期を支えたエース渡辺久信。
広岡にとっても工藤公康同様に、本当の意味で手塩にかけたピッチャーの一人。
それだけに渡辺が指導者、そしてGMと活躍する姿を今もなおチェックしている。
かつての教え子が未来の球界に対してどう働きかけていくのか、あえて厳しい眼差しを向けている––––。 「バンザーイ! バンザーイ!」
広岡退任に沸き立った選手たち。
そのときチームリーダーの石毛宏典は複雑な気持ち… | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1984805 〜西武ライオンズ編 石毛宏典 前編〜
最悪だった広岡達朗の第一印象
「バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」 バスの中でむさくるしい大男たちが万歳三唱を唱えている。
石毛宏典は、そんな光景を見て複雑な気持ちになった。
先輩たちの気持ちがわからないでもない。今まで自由奔放にやっていたのが、急に広岡がやってきていろいろと締め付けられ、さぞ窮屈で鬱憤も溜まっていただろう。
しかし、いつもなら一緒になってドンチャン騒ぎする俺でもさすがにこれはできない、先輩たちが嬉しそうに万歳する姿を、ただ黙ってじっと見つめていた。
一九八五年、阪神との日本シリーズを終えた西武ライオンズの選手たちは、日本一を奪還できなかったとはいえ、ペナントレースからの長い激戦での疲労を癒すべく群馬県水上温泉での休養に向かっていた。マイクロバスに乗り込んでしばらくしてのことだった。
ラジオを聞いていた選手のひとりが、突然大声を出した。「おい、監督、辞めるってよ!」
座席でリラックスしている選手たちは、「はあ!? つまんねえ冗談言うなよ」と最初は無視していた。
すると、他にラジオを聞いていた者も「監督辞めるぞ」と同じことを言い出した。バスがサービスエリアに入ると、トレーニングコーチが公衆電話で確認しに行った。
トイレ休憩を終えた選手たちが次々とバスに乗り込んでくる。
そして一番最後にトレーニングコーチが乗り込んできて、神妙な顔つきのまま一拍置いて口を開いた。 「広岡監督が辞任された」
大男に埋め尽くされたバスの中には、「ん?」「え?」と幾つものはてなマーク≠ェ点灯した。
ほんの一瞬だけ静まり返ったのち、「マジかよ!」「嘘っ!」「クビじゃなくて辞めたの?」「次の監督は?」「やっぱなぁ」「解雇? 辞任? まあいっか」と選手たちは蜂の巣を突いたように騒ぎ出した。
そしてどこからともなくバンザイコールがかかり、ベテラン連中と若干名の若手が一緒にバンザイし始めた。
八五年一一月八日、西武ライオンズ広岡達朗監督辞任。 この日を最後に、広岡は二度とユニフォームを着ることはなかった。
石毛にとって、広岡の第一印象は最悪だった。広岡が監督に就任した直後の合同自主トレでのことだ。
「お前が石毛か。去年新人王を獲ったらしいけど、下手くそやな」
なんだ!? 喧嘩を売られているのかと思った。
「あなたこそ、玄米を推奨してますけど、痛風らしいじゃないですか 」。
そんなことを面と向かって言いたかったが、もちろん我慢する。とにかく噂通りの嫌なやつだと思った。
売られた喧嘩は買うしかない。石毛は、広岡と口を利くのを止めた。
そうとは知らない広岡は、控えのショートである行沢久雄や広橋公寿を捕まえて熱心に指導している。
守備コーチの近藤昭仁も加わり、なにやら活気付いた雰囲気になっているのが遠目からでもわかる。
平然を装おうにも、どうにも気になって横目でチラチラと見てしまう。
「違う、そうじゃない」「そうだ、もう一度!」。広岡の檄が飛ぶ。
その練習を端から見ていると、選手たちがみるみる上達しているように思えてしまう。
石毛はひとり取り残されている気分に陥った。監督に睨まれることに抵抗はないが、他の選手が上達することにもどかしさを感じる。
石毛は不本意ながら自ら広岡に歩み寄ることにした。 「お前だって長く野球やりてえだろう」
「監督、僕にも教えてください」
帽子を取って非礼を詫びた形をとる。
「ようやく気づいたか、入れ」
広岡は、待ち構えていたかのように言う。
少しでも広岡と関わった者なら誰でも知っているが、広岡流の守備特訓の第一段階として、ごく基礎的な練習からやらせるのが定番だ。
広島、ヤクルト時代と同じように、最初 はゆっくり転がしたボールを捕らせることから始める。ゆっくりボールを転がしたと同時 に大声が飛ぶ。
「石毛、こう(最初から構えて捕るのではなく、上から摑むように)捕れ!」
なんでそんな捕り方をさせるのかわからなかった。とりあえず言われたとおりに上から摑むように捕ろうとしたら、ボールが抜けていった。
捕れなかったのだ。
「ほら見てみろ、こんなボールなのに捕れねえだろ。下手くそ」
石毛の表情は一変した。小っ恥ずかしかった。
上から摑むように捕るためには、相当腰を下ろさなければならない。次からは、腰をがっちり落として慎重に捕った。
しばらく続けてから広岡は石毛を呼び寄せた。
「お前だって長く野球やりてえだろう。将来指導者になりてえだろう。今のお前は我流なんじゃ。
三〇ぐらいまでは今のやり方でもできるかもしれんけど、三〇過ぎたら、その身のこなしではまともに野球ができなくなるし上手くならん、指導者もできない」 石毛は広岡を真摯な目で見つめ、監督の言わんとしていることを汲み取ろうとした。
広岡の目には怖いほどの強い力が宿っていた。
広岡が、なぜ口酸っぱいほどに基礎と言うのか、石毛は考えてみる。
まずは原点に立ち返るために学生時代を振り返ってみた。そういえば、中学高校大学社会人と指導をきちんと受けた記憶があまりない。
なぜならば、持って生まれた才能で、指導を受けずとも他のチームメイトより上手くできてしまっていたからだ。
それは石毛だけに限らず、七〇年代のプロ野球選手は、各々が持っている才能、センス、感性だけで投げたり打ったりしていた。
それこそ遊びの延長で野球をやっているのが普通だったからだ。
若いうちは体力があるから自己流でも四、五年はできるけれども、所詮自己流では長続きしないというのが広岡監督の考えだ。
頭でわかっていても体で覚えないと、人間は進化していかない。石毛は何とか理解しようと、広岡の教えを全身全霊で吸収しようとした――。
(次回へ続く) 「僕のなかで名将、知将と呼べるのは広岡達朗しかいない」
常勝西武のチームリーダー石毛宏典が語る広岡野球の真髄 | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1984839 〜西武ライオンズ編 石毛宏典 後編〜
阪神との日本シリーズでの大怪我
1985年の阪神タイガースとの日本シリーズ。
18年ぶりのリーグ優勝で日本全土に阪神フィーバーを巻き起こした阪神タイガースが敵地西武球場で連勝した。
勝ち星が二つ先行して堂々甲子園球場に帰ってきたこともあって、どんよりした空模様を吹き飛ばすほど超満員の観客のボルテージは上がりまくりだ。
西武先発工藤公康、阪神先発中田良弘で始まった第三戦、二回表に西武が石毛の2ランが飛び出し四点先取。
三回裏にバースの3ランという空中戦で、六回表が終わって五対三で二点西武のリードのまま、六回裏に入る。
先頭打者の掛布雅之が左中間に打った大きな当たりはラッキーゾーンのフェンスに当たる2ベース。
ここでピッチャーを永射保から東尾修にスイッチし、次打者の岡田彰布を簡単にレフトフライで1アウトランナー二塁。
バッター六番佐野仙好が1ストライクからの二球目インコース寄りのストレートを強振し、レフト線寄りに高々とフライが上がった。
ショートの石毛が背走して追い、レフトの金森永時も猛突して追いかけている。
初めから目線を切らずに追いかけている石毛が、左側からスライディングキャッチを試みた金森をジャンプ一番でかわしてバックハンドで好捕。
金森の足と交錯し、そのまま回転レシーブのように転がって起き上がりざまにセカンドに返球。その後、石毛は背中からもんどり打ってうずくまった。
タイムがかけられ、観客も石毛に何かアクシデントがあったと気づき、レフト側の西武ファンの観客は心配そうに総立ちで見ている。
秋山、辻、岡村、金森、三塁側ブルペンにいたピッチャー、キャッチャーらが、チームトレーナーと倒れている石毛の周りを囲んでいる。
テーピングとサポーターで応急処置をして、なんとか立ち上がった。一度軽く屈伸して走ろうとし膝がガクンとなってよろけるも守備位置に付いて試合再開となった。
後続がすぐセカンドフライに倒れてチェンジ。石毛はアドレナリンが出ていたせいか最後までプレーを続ける。
試合後、病院に行くと、右膝外側側副じん帯損傷の診断が下る。 翌日、選手ロッカー室でコーチの近藤昭仁とトレーナーが石毛の足の具合を見ていた。
トレーナーが触診していると、右膝の外側側副じん帯部分がプラプラと横に揺れる。この状態を目にした石毛はすぐ口走った。
「昭さん、これ駄目でしょう」
「だな。いいよ、監督に言ってくるわ」
コーチの近藤昭仁が小走りでベンチに戻り、広岡監督の耳元で囁く。
「石毛、駄目ですわ」
「何? そんなに酷いのか?」
広岡は即座に反応し、急いで選手ロッカー室までやって来た。
ドアを開け、右足を伸ばしてトレーナーに処置されている石毛のもとまでカチャカチャとスパイクの音を立てて近づくなり、
「おい、出れるのか出れんのかどっちなんだお前」
焦っているのか、少し怒り気味で言う。石毛は、あれ昭さんから連絡いってないのかなと思い、返答に窮していると、
「どうすんだ、出れるのか?」
広岡が一喝する。思わず石毛は条件反射のように答える。
「出れます」
「トレーナー、テーピングでガチガチに撒いとけ。ボルタレン(痛み止め)も飲ませとけ。心配するな。後どんだけやっても2試合か3試合だ。その後は休むだけ休ませてやる」
それだけ言うと、広岡はさっさとベンチに戻っていった。
膝が壊れかけ寸前でてっきり交代かと思っていたところ、プレー続行。
強制的に言われたような感じだろうけれども、自分でやると言った以上は、やるしかない。
このまま第三戦を含めて第六戦まで出場し、第六戦にはシリーズ三本目のホームランを打つなど敢闘賞に選ばれた。
幸い、断裂じゃなかったためシーズンオフにきちんと治療し、膝関節周りの筋力を鍛えて翌シーズンには間に合った。 「僕のなかで名将、知将と呼べるのは広岡達朗しかいない」
石毛は、この日本シリーズ第三戦で負傷しながらも最後まで強行出場したのは、広岡のもとで四年間野球したなかでも印象的な出来事のひとつだと語る。
普通なら怪我のため交代し、翌日の日本シリーズも欠場となったかもしれない。
でも広岡の迫力に負けたというか「出れるんなら出ろ!」といった具合に背中を思い切り叩いて奮い立たせてプレーできたことに、ある種の感激もある。
いわば精神力次第で不可能も可能になることもあるんだと教えられた石毛であった。現在の石毛はこう語る。
「広岡さん自身が根気よくいろいろと基礎中の基礎を指導してくれたおかげで、八度のベストナイン、一〇度のゴールデングラブ賞を受賞して四〇歳まで現役を続けられました。
あの頃基礎を学んでいなかったら、広岡さんの言うように三〇過ぎで引退していたかもし れません。間違いなく広岡さんのおかげです。
結局、広岡さんが弱いヤクルトを、弱い西武を勝たせたじゃないですか。だから僕のなかで名将、知将と呼べるのは広岡達朗しかいないんです。
野村さんはヤクルトは勝たせたけど、阪神、楽天では勝てなかった。森さんも西武で勝ったけど、ベイスターズでは勝てなかったですから。 プロ野球チームという技術屋集団において、技術屋をまとめるリーダー(監督)には『技術はこうすれば高くなるんだよ』という指導理論が備わっていることがまず必須。
さらに、どんな相手でも納得させるだけの絶対的な理論を持つことが、リーダーの資質とし て最も重要な部分だと思うんですよ。
それまで 『プロの二軍選手は未熟だから練習しなきゃいけない』 『プロの一軍選手は完 成された選手だからマネジメント的なものだけでいい』
と言われてきましたけど、広岡さんは一軍だってヘタなやつがいっぱいいると高らかに言っていました。
そりゃそうですよ、誰も四割も打ったことないプロ野球界。まだまだ未熟者ばかりです。
どうすればスキルアップできるか。広岡さんはヤクルトでも西武でも、選手個人をしっかりスキルアップさせ、二割五分の人間を二割七分、二割七分の人間を三割近く打てるようにしてチーム力を上げていったんですから」
今でこそ、1アウト二塁だったら右方向に打ってツーアウトランナー三塁にする有効凡打や自己犠牲という単語が当たり前に評価される。
しかし、八〇年代に入るまでのプロ野球には有効凡打、自己犠牲という概念など浸透していなかった。
そんな時代に、真理に基づき、チーム組織で戦うための選手を強化・コントロールしていく野球を実践したのは、広岡達朗が初めてではなかろうか。
「今の野球界を見ても、アマチュアからプロまでの野球観の向上っていうのかな、日本の野球観をレベルアップさせたのは、僕は広岡達朗と思ってますけどね」
石毛はそう断言する。
(次回へ続く)