東京スタジアムの“光”が消えて……ロッテの“家なき”5年間/プロ野球20世紀・不屈の物語【1973〜77年】
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200428-00000007-baseballo-base
4/28(火) 11:05配信

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。
ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

■72年いっぱいで“家を追い出されて”

外出を自粛するのも疲れるものだが、そもそも家がないとなれば、より疲れるだろう。
ロッテが本拠地の千葉に定着していった過程は紹介した。
それまでは川崎球場に本拠地を置いていたことにも触れたが、それ以前、ロッテには
“家なき”時代があった。1973年から太平洋と“遺恨試合”を繰り広げたことは紹介
したばかりだが、その73年こそ、“流浪”の1年目だ。

ロッテは1950年の2リーグ分立でパ・リーグに参加した毎日オリオンズが起源で、
創設1年目にして優勝、日本一に。フランチャイズ制が導入されたのが52年だ。
ちなみに、この52年、まだナイター設備のなかった平和台球場で、毎日は日没ノーゲーム
を狙った遅延行為をはたらき、観客が暴徒と化した“平和台事件”が起きている。
58年には大映と合併して大毎オリオンズとなり、60年にもリーグ優勝を飾ったが、
1球団につき1本拠地球場を基本としながらも、このときはまだ巨人など複数の球団
と後楽園球場に“同居”している状態だった。

単独の本拠地を手に入れたのが62年シーズン途中だ。大映の永田雅一オーナーの夢
でもあった東京スタジアムが、東京は下町、南千住に完成する。下町の風情が現在
も残る町並みに突如として現れた東京球場の威容は、宇宙ステーションが着地した
ような風景となり、ナイターになると暗い下町にポッカリと球場が浮かび上がって、
“光の球場”とも呼ばれた。当時の球場は酔っ払いが転がり落ちるような急勾配の
客席ばかりだったが、スタジアムの内部も一部にはバリアフリーの機能もあったと
いうから、画期的、いや、近未来的でさえあったといえるだろう。