生命力学〈Vital Mechanics〉
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
現代科学は我々の宇宙に存在するものを2つの物理法則により記述している。
すなわちミクロ系には量子力学、マクロ系にはニュートン力学、あるいは(一般)相対論。
しかし、我々の宇宙に存在するものをミクロ系、マクロ系という2色刷りで
印刷することはできないのだ。
強いて二分法があるとするならば、それは生命系か非生命系かなのである。
そして生命(力学)の目的は、ミクロ系とマクロ系の統一、ひいては生命系と
非生命系の統一でる。 昔はキャビテーションでググると船のプロペラが〜、だったが今はエステ関連に占領されているw
まぁそれだけ超音波技術が身近になったということだろうが、
いずれにせよ流体の世界においてキャビテーションは普遍的なものであり、
良くも悪くも避けては通れない現象である。
ところが素粒子論や宇宙論の世界にはなぜかキャビテーションという用語が出てこない。
エーテルを否定している物理学にとっては必然かもしれないが。
しかしエーテル理論の立場からは、例えば超高速で回転するパルサーやBH、
あるいは超高速のジェット流があるとキャビテーションの発生が予想される。
そしてそれは必然的にガンマ線の発生を伴う。 地球上空で生成された寿命の短いミュー粒子は、例え光速近くで走ったとしても
数百メートルしか動けない。しかし地表近くで観測される。
それは何故か?という問いに対し、2つの答えが用意されている。
1つはエーテル説の帰結であり、1つは特殊相対論の帰結である。
すなわちエーテル説の立場からはローレンツ変換、
つまり t'(L')= t(L)/√1-(v/c)^2 の式に光速近いミュー粒子の速度を代入すればいい。
すなわちエーテルに対して光速近い速度で走っているのはあくまでもミュー粒子であり、
地球はその限りではないのだから、これで操作は完了している。
ところがエーテルという速度の基準系を否定した相対論において意味をもつのは相対速度である。
すなわち0対100の世界。
それゆえ t'(L')= t(L)/√1-(v/c)^2 の式に光速近い地球の速度を代入しても構わない。
つまりミュー粒子の座標系では自身は空間に静止している。ゆえに寿命は延びない。
ただ光速近くで動いた地球の大気圏が勝手に数百メートルに縮んでくれたおかげで
地表に到達できた、これがミュー粒子の振る舞いに対する相対論の解釈だ。
もっとも地球基準の座標系ではエーテル説となんら変わりはない、同じ結果が得られる、
なぜなら使っている数式がどちらもローレンツの変換式であるからだ。
ただ現在アカデミーの世界ではエーテル説は壊滅している。
それゆえローレンツ変換が絡む現象は全て相対論の御業ということになっている。 車にはスピードメータが装備されている。
ただし車の速度を定義できるのは、地球の大地を基準にしているからだ。
しかし地球の自転を考慮すると自転速度が加味される。
さらに太陽系における公転速度、さらに銀河系による・・・というようにきりがない。
つまり絶対速度は決められない、と言われる。
しかし現在、3Kの宇宙背景放射が発見されている。
要するに宇宙空間は電磁波で満たされているということだ。
ならば電磁波(場)は光子の集団とする現代物理の見積もりが正しければ、
宇宙空間は光子エーテルで満たされている主張はそれほど飛躍したものではない。
さらに宇宙背景放射には双極子成分が確認されている。
要するに地球は空間の、ある特定の方向に速度をもっているということだ。
つまりそれは、エーテルに対する地球の速度を見いだそうとしたMM実験に対し、
「そんなモノはねーよ」とした特殊相対論を嘲笑うかのようだ。
いずれにせよ我々は、光子の海を漂流する航海者であることは間違いない。 >>416のwikipedia/特殊相対性理論の記述、すなわち
>ローレンツとポアンカレの理論によれば物体が縮むのはエーテルの影響である。そのため、
>エーテルの存在を捨てた特殊相対性理論においては当然運動する物体が実際に収縮するということはない。
と、>>420の相対論によるミュー粒子の振る舞いは矛盾している。
なぜなら例え空間に静止しているミュー粒子に地球が光速近くで迫って来たとしても、
地球が物理的に短縮していなければ、つまりミュー粒子はあくまでも数百メートルしか移動できないのだから、
ワープでもしなけば地表に到達できないからだ。 特殊相対論の奇妙で非現実的な論理は、>>420の図におけるミュー粒子をニュートリノに
置き換えるとよく実感できる。
すなわち我々の体を毎秒1cm^2あたり660億個のニュートリノが突き抜けている。
もしそれぞれのニュートリノを空間に静止していると考えても構わないとするならば、
例えば北極上空からやってきたニュートリノに対して地球は、北極星に向かって光速近くで走っている。
さらに南極上空からやってきたニュートリノに対して地球は、南十字星に向かって光速近くで走っている。
さらに赤道上空からやってきたニュートリノに対しては、というように、
たった一つの地球がそれぞれのニュートリノに対して光速近くで走り、扁平になっているとしたら
忙しくてしょうがないw
結局相対論は多世界解釈の一種なのかな? 結局現在一般的に相対論が正しいと認識されているのは逆説的であるが、
誰も相対論を使っていないからなのだ。
だれも相対論を使っていなければ相対論の欠陥が露呈することはない。
もし真実相対論を使っている者がいるとするならば、それは相対論の帰結を面白おかしく
解釈しているマニアックな人たちなのだ。
例えば双子のパラドックスだとか、列車とトンネルのパラドックスとか、ガレージのパラドックスとか、
確かに知的遊戯としては面白いかもしれないが、リアリティがないということである。 一昔前には運動する物体は進行方向に実際に短縮する、
あるいは質量が増大する(いわゆる相対論的質量)と普通に言われていたが、最近はそうでもないらしい。
実際相対論的質量は使うな、というお触れ書きが出回っている。
相対論から相対論的質量を取り上げたら何が残るんだ?という話だが、
要するに長さも質量も座標系によらない不変量である、ということらしい。
すなわちロードオブザリングではないが、物理学者はローレンツ変換という名の強大な魔力をもつ指輪を
滅びの山に投げ込んだ、ということである。
ならばもう一つの指輪である時間の遅れはいいのか?ということになる。
なぜなら時間と空間を対等に扱う相対論の趣旨からして、時間だけを特別扱いすることはできないからだ。
そのうち時間も座標系によらない不変量であると言い出しかねない。 ちなみにエーテル説の立場からは質量増大は何の問題もない。
すなわち一円玉であろうが地球であろうが光速近くまで加速するとその質量は何倍にも増大する。
要はできるもんならやってみろ!って話だ。 そもそもエーテル説におけるローレンツ変換は極めて穏やかなものである。
なぜなら我々の日常の世界において、マクロな物体が光速近くで走るというシチュエーションはないからだ。
実際MM実験で言えば、実験装置がナノレベル縮んでいればそれでいい。
長さ10メートル前後の実験装置がナノレベルということは、例え地球規模で考えても
数センチか数十センチのオーダーである。
さらに宇宙背景放射における双極成分、すなわち地球が宇宙空間を秒速数百キロで疾走していると
仮定したとしても、地球の自転による扁平率に比べるとはるかに小さい。 ところが相対論においてはその限りではない。
なぜなら相対論には座標変換という、エネルギーゼロでマクロな物体を光速近くまで加速する
加速装置が存在するからだ。
すなわち光速近くで走る電子などのミクロ粒子を静止系とすれば、光速近くで走っているのは
マクロな物体、ということになる。
ならばミクロの世界から見たマクロ系に例えば相対論的質量を適用すると、
地球や太陽のような天体の質量は何倍にも何十倍にもなり、あらゆる天体は速やかに重力崩壊を起こすはずである。
すなわちミクロ系から見たマクロ系は激烈なものとなる。ゆえに相対論においては質量増大は使えない。
要するに相対論においてはローレンツ変換は使い勝手が悪いということである。 重力を空間の幾何学に帰着させることに成功したアインシュタインは、電磁気力も
空間の幾何学で説明できないかと考えた。
そしてそれを「統一場の理論」という。
現代物理学の知見からすると、強い力と弱い力が知られていなかった時代に、
重力と電磁気力を統一しようとしたアインシュタインの野望は無謀であったとされている。
しかしそんなことはない。
なぜなら4つの力が出揃った今日においても、重力と電磁気力の統一はなされていないからだ。
いや、それどころかいわゆる大統一理論においては重力は除外されているw
つまりこの意味するところは、現代物理学においては何かが不足しているということだ。
要するに現代物理学はスタートからつまずいているということである。 重力及び質量、さらにそれらを総称したエネルギーが他の力と異質なのは、
エネルギーにはプラスの符号しかないからである。
(もっとも電磁気力も他の力もエネルギーの一形態なのだが)
つまり重力には引力しかない、とされている。
そしてこれこそが重力が他の力との統一を阻む、最大かつ唯一の要因なのである。
(ところが物理学者にはこの認識がない)
ちなみに強い力はエーテル説の立場からは、粒子と反粒子の対消滅(結合)と反重力の複合力である。
ならば重力を除外している大統一理論、それ自体が的を外していることになる。
はっきり言ってかすってさえいない、統一は無理と明言しておこう。 ここで注意すべきは、幾何学であろうが数式であろうが、エネルギーの正負の符号は
対で導出されるということである。
ただ物理学では負のエネルギーは最初からあり得ないモノとして定義している。
ゆえに負のエネルギーは存在しない、ただそれだけのことである。
ならば存在し得るように再定義すればいいだけの話なのだ。 シュレディンガー方程式は次のように書かれる。
ih・∂ψ/∂t = -ih^2/2m・∂^2ψ/∂x^2+Vψ 但し h=エッチバー
つまりS方程式は時間が1階、空間が2階の方程式であり、
さらにニュートン力学の p^2/2m を使っている。ゆえにS方程式はニュートン的である。
それに対し相対論による数式と称して E^2= p^2c^2 + m^2c^4 を持ち出し、
S方程式の E=(ih・∂ψ/∂t) を E^2=(ih・∂ψ/∂t)^2 に置き換えて得られたのが、
時間においても空間においても2階のいわゆるクライン-ゴルドン方程式である。
ゆえにKG方程式はローレンツ共変であり、非ニュートン的な相対論の式とされている。
しかしこのストーリーは何の根拠もない、偽りのカテゴリー分けなのだ。 位置xを時間tで微分すると速度vが出る。すなわち v=x/dt
さらに速度vを時間tで微分すると加速度が出る。すなわち a=v/dt(1式)
しかし位置xを時間tで2階微分しても加速度が出る。すなわち a=d^2x/dt^2(2式)
つまり1式と2式は等価であり、さらにニュートンの運動方程式である F=ma に代入すると、
F=ma=m・v/dt=p/dt=m・d^2x/dt^2 となる。
つまりシュレディンガー方程式はニュートン力学の1式を使った時間が1階の拡散方程式であり、
そしてクライン-ゴルドン方程式は2式を使った時間が2階の波動方程式なのである。
ちなみに波動方程式は ∂^2u/∂t^2=c^2・∂^2u/∂x^2 のように書かれる。
早い話、そこに慣性系を扱う特殊相対論の出る幕はないということだ。 ちなみに拡散方程式と波動方程式の違いは何かというと、初期状態が1価か2価かということだ。
例えば水の張った水槽にインクを一滴垂らすと、時間の経過に従って限りなく薄く広がっていくが、
その様子を記述するのが拡散方程式だ。
この場合初期状態はあくまでもインク一滴であり、薄く広がったインクを始状態と置いて、
終状態として一箇所に収斂したインク一滴は考えない。つまり時間は不可逆。
それに対し、波動方程式には初期状態に2つの任意性がある。つまり時間は可逆。
例えばバネに重りがぶら下がった振動系を考えるならば、最初にバネを引っ張って
手を放しても、バネを縮めて手を放しても構わない。
あるいはギターの弦を弾いて音を出す場合、上から下へ弾いても、下から上へ弾いても音が出る。
結局どっちでもよさそうだが、それにより位相が180度ずれる、この違いは大きい。
ちなみに時間が1階のシュレディンガー方程式は拡散方程式であると言ったが、
S方程式は複素数で書かれている。ゆえにψの複素共役ψ*を取れば、
初期状態として2つの任意性が出てくる。その意味ではS方程式は波動場を表している。
実際ψは波動関数と言われているが、それはあくまでも複素共役があっての話なのだ。 ここで注意すべきは、拡散方程式であれ波動方程式であれニュートン力学の F=ma を
使っていると言っても、だからと云ってどんな現象も日食や月食をぴたりと予言するように
万能なわけではない。
例えば音速は v=√P/ρ すなわち圧力を密度で割った値の平方根であるが、実際の音速とは一致しない。
すなわち温度というパラメータで補正しなければならない。
つまり音波は空気の疎密であるが等温変化でない。
すなわち密の位相では断熱圧縮により温度が上がり、粒子の速度が速くなり、逆に疎の位相では
断熱膨張により温度が下がり、粒子の速度が遅くなる。
ゆえに音速の実測値は v=√γP/ρ で表される。 但し γは比熱比 ニュートン力学による計算との食い違いが顕著に表れるのがいわゆる加速器の内部だ。
ところでよく加速器は特殊相対論を使わなければ設計できない、と言われる。
しかしこれはおかしな話だ。
要するに加速される電子は静止系と考えてもいいということなのかな?
ならばぐるぐる回っているのは加速器の方ということになり、加速器が遠心力で
引きちぎれないように補強工事が必要になる。ならばその予算は兆や京で済む話ではない。
しかしそんな予算が計上されという話は聞かない。 もっとも加速器は特殊相対論を使わなければ設計できない、という意味は、
電子等の荷電粒子を光速近くまで加速すると質量が増大する、いわゆる相対論的質量。
つまり加速するエネルギーが質量増大に食われてしまい、加速する同期をとるためには
ローレンツの変換式を使わなければならないということである。
ところが現在、相対論的質量は使わない方が望ましい、というのが現代的なコンセプトになっている。
しかし現場に携わる物理学者は相対論的質量を使っている節がある。
つまり理論系と実験系の間に齟齬が生じている。
しかし物理学者が相対論的質量を持て余しているのなら、それはエーテル説に返却するのが筋というものだ。
もっともエーテル説の立場からは、質量増大を相対論的質量と呼ぶ義理はない。
単にローレンツ質量と記述すればよいのだ。 加速器には数多くの電磁石が配置されている。
それは加速される荷電粒子をローレンツ力によって円軌道に曲げるためだ。
ところが相対論によると、磁場は電場による相対論効果であるらしい。
ならば加速器におけるローレンツ力を、クーロン力で設計している計算式を
開示して欲しいものである、加速器は特殊相対論を使わなければ設計できないというのならば。
要するに、荷電粒子を静止系とすれば運動してるのは加速器の方である。
ゆえに加速器はローレンツ収縮し、電荷密度が云々・・・
(ただし相対論ではリアルには収縮しないというのだから話はややこしい)
どっちにせよ加速器がぐるぐる回っている座標系があるのなら、
やはり加速器には補強工事が必至である。
結論:加速器は特殊相対論を使うと設計できないw そもそも質量増大は電磁質量と言って、エーテル説華やかしころからあった概念であり、
世界で最も有名な式とされる E=mc^2 もアインシュタインの創作ではなく、
これまたエーテル説の立場から、ポアンカレがすでに導出していた。
つまりアインシュタインは「エーテルは存在しない」とフェイントをかけることによって、
それまでの物理学者達の預金口座をアインシュタイン名義に書き換えた。
そしてその後「一般相対論によればエーテル無しの空間は考えることもできない」、
と称して物理学を科学の王道に戻した。
もっともアインシュタインの云うところのエーテルがどの程度マジかは定かではないが、
少なくとも現在アカデミーの世界にエーテルの居場所はない。 ところで電磁質量とは、要するに電子などの荷電粒子は電磁場を身にまとっている。
ゆえに荷電粒子を加速するためにはその周りの電磁場も一緒に変化させなければならない。
そしてそれはあたかも慣性質量が増大したかのような効果をもたらす。
そしてそれは質量はヒッグス場の抵抗であるとするヒッグス機構とある意味似ている。
ただし電磁質量はその源を電磁場のエネルギーに求めている。
ゆえにその定義により、荷電粒子にしか適用されないとされている。
逆にヒッグス機構は電磁場、すなわち光子とは相互作用しないとされている。
ゆえに質量と電磁気力に接点はない。つまりどちらも一長一短があり、普遍的でない。 さてエーテル理論の立場からは、光子は正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子
の複合粒子である。
ならば電磁質量が荷電粒子にしか適用できないという概念には何の根拠もないことになる。
なぜなら電磁場の量子である光子それ自身が±0の質量を有しているからだ。 私はエーテルを擁護しているわけだが、だからといってアインシュタインが否定した
かつてのエーテルを復活せよ、と主張しているわけではない。
私の主張はそもそもエーテルに対する定義が間違っている、
ゆえに例えエーテルが存在していてもそれは発見されることはない、というものである。
それはクジラを魚のでっかいやつと定義すれば、クジラは永遠に発見されないのと同じだ。
なぜならクジラは哺乳類であるからだ。
あるいは恐竜は白亜紀の末期に絶滅したとされているが、しかし鳥は恐竜の子孫とすれば、
かつて絶滅したとされる恐竜の遺伝子は連綿と受け継がれている。
実際鳥は恐竜が進化した形態であるとする説が有力になっており、これは立派な学術の世界である。 一般的にエーテルを否定したのはアインシュタインが提唱した相対論である、とされているが、
実際にはエーテルに強烈なボディブローを食らわせて足元をふらつかせたのは粒と波の二重性を
標榜する量子論の台頭である。
要するに波としての商品価値しかなかった当時のエーテルは遅かれ早かれ捨てられる運命に
あったということだ。
おそらくはアインシュタインはそうした時代の空気をいち早く感じ取ったのであろう。
しかしエーテルの代名詞である媒質が波という性質で全て記述できるものなら、
超音波の世界はどうやって記述するんだ?ということになるし、そもそも化学者は全員失職する。 結局アインシュタインが倒した相手はゲームに例えると、エーテルのキャラの一つに過ぎないということだ。
しかしエーテル戦士には強者どもが続々と控えている。
そしてその中でも最強なのが離散、構造体というキャラをもつエーテルのラスボスである。
それゆえいずれ連続体である場と媒質の間には雌雄を決する最終決戦が待ち受けている。
すなわちもし真実宇宙空間が連続体であると証明されたなら、今度こそエーテルが完全に葬り去られる時であり、
その時に初めて我々は、エーテルに対してサヨナラと云えるのだ。
逆にもし物理学者たちが、ひよっとして宇宙空間はあたかもディスプレイがそうであるように、
構造をもった最小単位があるのでは、と疑い始めた時こそが媒質に再びお呼びがかかる時なのであり、
そしてエーテルが凱旋する時なのだ。 さて、エーテルを復活させて何が嬉しいのかというと、それは物事を実在として扱えることである。
すなわち二重スリットの謎やシュレディンガーの猫といった、訳の分からない概念は一掃される。
さらに空間とは、あるいは時間とは何か?といった積年の問いに最終的解答を与える。 現代物理はミクロの世界は我々の常識が通用しない不可思議な世界である、
というコンセプトをウリにしている。
すなわちミクロの世界、と、それは同時に宇宙空間を訪れるにあたっては我々の日常の常識を
捨てなさい、ということである。
しかしここで注意すべきは、ミクロの世界を訪れるにあたって捨てなければならない常識とは、
我々は媒質の世界にどっぷりと浸かっているという常識だ。
要するに我々の身近に存在する様々な現象を説明する、ありがた〜いアイテムである媒質を
捨てろというのだ。 つまりそれは音響学者から空気を取り上げ、この地上をあたかも月の風景にするということだ。
あるいは地震学者から地震波を伝える大地、すなわち地球そのものを取り去るということだ。
それがミクロの世界を訪れるにあたっての我々の心構えというわけである。
要するに物理学者が虚空から取り出すのは実在するモノではなく、
観客と共有する今宵限りの夢幻、すなわち幻想であるということだ。 私の物質波に対するイメージは「ニュートンのゆりかご」である。
wikipedia ニュートンのゆりかご
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d3/Newtons_cradle_animation_book_2.gif
なぜそれが物質波のモデルかというと、それは粒と波の両方の性質を満たしているからである。
下図1において、便宜上我々は両サイドの鉄球A,Zしか見えないとする。
すると図2のように突如Aが視界から消え、あたかもZの位置に出現する。
さらに次の瞬間Zが消え、再びAが現れる。
もちろんそれは遠隔作用ではなく近接作用であることは明白である。
なぜなら両サイドの鉄球A,Zの運動エネルギーは、途中に存在する鉄球B,C,D・・・
を介して伝わっているからだ。
そもそも媒質を伝わる波とは移動するのはあくまでも変位であり、媒質それ自体は移動しない。
同様にニュートンのゆりかごにおいても移動するのはあくまでも運動エネルギーであり、
鉄球それ自体は移動しない。
ゆえにニュートンのゆりかごはまさに波動場を表している。
結局、何かが移動するということは2つの形式があるということである。
一つは上図3のように、固有名詞AならAとラベル付けされた局在するモノそれ自身の移動。
さらに一つは上図1,2のように近接作用、つまりラベル付けされたAであれBであれ、
それ自身は移動しない。しかし何かが移動する。
水を満たしたバケツを遠くへ運ぶ場合、周りに誰もいなければ自分自身が移動するしかない。
しかし周りに人間の集団がいれば、そしてバケツを次々と渡せばバケツの水は運ばれる。
つまり人間それ自体は移動しない、しかしバケツを持った人間は移動する、
あたかも電光掲示板の文字のように。
ボールゲームにおいて、ボールを運ぶ形式には2種類ある。すなわちドリブルとパス回しだ。
前者は始状態も終状態もラベル付けされたAならAという選手である。
しかし後者はその限りではない。
野球で云えば5,4,3のダブルプレーと言った場合、三塁手自身が一塁に移動するわけではない。
移動するのはあくまでもボールである。
しかしボールを持った選手は移動する、あたかも電光掲示板の文字のように。 さてミクロの世界において、例えば電子は観測前は空間全体に雲のように広がっているが、
観測するとある一点で見出される、そしてそれを波動関数の収縮という。
もしその様子を近接作用で考えると、無数の電子が空間を満たしていなければならない。
いわゆる電子場だ。
ならば空間は無限大の質量をもつことになる。なぜなら電子一個一個の質量は小さいとしても、
それを積分すると無限大に発散するからだ。
ゆえに物理学ではミクロの世界に実在を扱うことはできない。
ちなみに空間に雲のように広がった電子の描像を、そこに見出される確率、すなわち確率波としてとらえ、
いずれにせよ空間的広がりをもったものが一点に収縮するのを認める立場が
いわゆるコペンハーゲン解釈である、さらに収縮を認めない、すなわち空間的広がりをもった
それぞれの点に観測者を割り振り、世界は分岐するのだ、というのが多世界解釈である。
どちらにせよ痛い解釈だが、もしそれが実在とするとオカルティストがほくそ笑む。
それゆえ物理学者はミクロの世界に実在はない、とすることでかろうじて理性を保っている。 さて、私の提唱するエーテル理論によると、光子は正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子の複合粒子である。
そしてその光子の集団こそが空間そのものである。
ならば電子が雲のように空間全体に広がっているという概念はある意味当たり前だ。
つまり宇宙空間は電子で満たされている。
しかしほぼ同量の陽電子と対になっていて、絶えず互いに互いの性質を打ち消し合っている。
そしてそれが長い間、真空は何もない空間であると教え込まれていた理由である。
すなわち真空とは絶対的な無ではなく存在する無、要するに ±0の世界であるということだ。 さて、空間とは正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子の複合粒子である実在的な光子の集団であるならば、
電子の神出鬼没な振る舞いに何ら不思議はない。
すなわち仮に電子が位置x(a)で見出されたならば、それは元々位置x(a)に局在していた電子であり、
位置x(b)で見出されたならば、それは元々位置x(b)に局在していた電子である。
要するに局在する電子が超光速で動き回る必要はないということだ。
さらに仮に電子が位置x(a)で見出されたとしても、だからといって他の場所の存在確率が0になるわけではない。
相変わらず空間の各点に存在している。
ただ陽電子と対になって隠れているだけなのだ。 現代物理ではガンマ線から電子と陽電子が対生成され、さらに
電子と陽電子が対消滅してガンマ線が発生するとしている。
ならば光子は電子と陽電子の複合粒子とすればよさそうなものであるが、
素粒子論の立場からは電子も光子もクォークも、その他あらゆる素粒子は
大きさも構造ももたない数学的な点粒子としているのだからそれはない。
さらに現代物理は負の質量を否定している。
ならばもし仮に光子が電子と陽電子の複合粒子とすると、電子の正の質量と
陽電子の正の質量が加算され、光子は質量をもつことになる。
しかしそれは光子の質量はゼロであるとする標準理論の定義に反する。
現代物理に負の質量を持ち出すとトンデモ扱いされそうだが、話は逆だ。
質量に正負があるからモノを出したり消したりできる。
それは電荷には正負があるがゆえに化学者が化学反応を記述できるのと同じだ。
さらに電荷に正負があると電荷ゼロの状態が作れる、例えそこに電荷があったとしてもだ。
質量もそれと同じ。
つまり陽電子などの反粒子は負の質量をもっているとすると、そして光子は
電子と陽電子が対になったモノとすると、光子の質量は自ずとゼロとなる。 以前、物理学の基礎方程式として連続の式があると述べたが、これは保存則に関係している。
ならば負の電荷をもつ電子と正の電荷をもつ陽電子が対消滅して電荷をもたない光子が生じる、
あるいは電荷をもたない光子から負の電荷をもつ電子と正の電荷をもつ陽電子が対生成される、
という記述は一見有から無、逆に無から有を容認しているように感じる。
すなわち電荷の保存則を破っているかのようだ。
もっとも代数和を考慮するならば必ずしも連続の式を汚してはいない。
すなわち a+b=0 という式において、b=(-a) と置けば左の式は満足されるからだ。
要するに電荷にはプラスとマイナスという、相殺項があるということである。
ところが物理学では質量に関してはプラスの値しか認めていない。つまり相殺項がない。
ゆえに a+b=0 という代数和さえ満たさない。
そして実際相対論を基礎とする分野では質量保存則を否定している。 もっとも質量とエネルギーは等価とすれば、電子と陽電子の質量が光のエネルギーに転化したのだ、
あるいは光のエネルギーが電子と陽電子の質量に転化したのだ、
つまり E=mc^2 により、エネルギーと質量は互い変換されるとすれば
必ずしも質量保存則にこだわる必要性はないように見える。
ところが物理学ではそのエネルギー及び質量をまともに計算すると無限大に発散する。
実際重力を量子化しようとすると無限大に発散する。
なぜならエネルギー、質量には相殺項がないからだ。
ところが正のエネルギーを絶対視する物理学者にはその認識がない。 ちなみに超対称性理論というものがある。
これは物質を構成する基本粒子であるフェルミ粒子と力を伝えるボース粒子に
対称性を施す理論である。そしてそれはある意味相殺項の導入である。
かつてファインマンは先進解という相殺項により、物理学の基礎理論を進展させた。
つまり相殺項の発見こそが物理学の歴史と言える。
しかし本来力学の基礎方程式には正負の解という相殺項が存在する。
ところが物理学者はそれは完全無視と決め込んでいる。
ちなみに超対称性理論における超対称性粒子は莫大な税金を投入しているにもかかわらず、
いまだに発見される兆候がない。
無いモノは無い、と言うべきか、それとももっと金を注げ、と言うべきか、
ついでに言うと、弦理論に超対称性を組み込んだのが、誰も理解できない超弦理論。 マジシャンがハートのエースをおもむろに取り出し、観客に向かってこのハートのエースはとても不思議なトランプで、
時空を瞬時に飛び越え、あなた方の望みのポケットに移動します。と言ってタキシードの数あるポケットの一つ入れる。
もちろんあらかじめ全てのポケットは空であることは観客の一人がポケットの中に手を突っ込んで確かめている。
そして実際マジシャンの宣言通り、観客がズボンの右ポケットと言えば右ポケットから、
上着の内ポケットと言えば内ポケットからハートのエースが出てくる。
もしマジシャンの演じるパフォーマンスに種も仕掛けもないとするならば、確かに不思議だ。
観客は実際にハートのエースが瞬間移動した現象を目の当たりにした事実を受け入れるしかない。
さて、言うまでもなくマジックには種も仕掛けもある。
つまりあらかじめ全てのポケットにハートのエースを仕込んで置けばよい。
いや、観客の一人がポケットの中に手を突っ込んで確かめたのでは?
いや、それはポケットを二重にすればいい。
すなわち一方は空で、一方には入っている。
つまりマジシャンは観客の望むポケットからハートのエースを取り出すことができる、というわけだ。 結局波動関数の収縮も似たようなものだ。
つまり宇宙空間は空っぽに見えても実際には電子がうじゃうじゃ局在している。
しかし互いに反対の属性をもつ陽電子と対になって二重構造になっている。
ならば電子の神出鬼没な振る舞いに何ら不思議はない。 相対論と量子論は20世紀が生んだ2大理論と言われている。
すなわち現代科学、ひいては現代文明を支える2本柱と言うわけである。
しかし私に言わせるならば、相対論と量子論は20世紀が生んだ2大ホラ話なのだ。 そもそも相対論も量子論も媒質を否定することで成立している理論である。
しかし人間はもちろんのこと、生きとし生けるもの、すなわち生命は媒質によって育まれている。
ゆえに相対論も量子論も生命系を語る資格も能力もない。
要するに、相対論も量子論も普遍的な理論ではないということだ。 何度も繰り返すが媒質を否定した相対論は近接作用の理論ではない。
そもそも媒質を否定しておいて、相対論は近接作用の理論であるというのは無理がある。
いや虫が良すぎる。
実際、電磁場を量子化した素粒子である光子が光速度で走るという描像は近接作用ではない。
さらに波動関数の収縮においては、その位相速度は光速度を超えると言われている。
さらに量子もつれや量子テレポーテーションはほとんど遠隔作用の世界である。
要するに物理学者に、物理学の基本は近接作用であるという自覚がないということだ。 >>467
ヒント:アップデート、バージョンアップ
最近、2ちゃんのニュー速+にもヒッグスやダークマターやダークエネルギー関連のスレが立ち、
そして2スレ以上消費する。
そしてざっと眺めると、「これってエーテルじゃね!」とか「エーテルの二の舞い」というレスが
結構見受けられる。
前者の意味は宇宙空間を満たしているという概念がエーテルを連想させるのだろうし、
後者の意味は結局は発見されない、徒労に終わるという意味であろう。
しかしここで考えなければならないのは、何故かつて葬り去ったはずのエーテルの亡霊が
徘徊しなければならないのか?ということである。
そしてその理由は明らかだ。
つまりそれはエーテルを否定したアインシュタインが言うところの時空に汎用性がないからだ。 科学史にはフロギストン(燃素)説とカロリック(熱素)説が存在する。
そしてそれらはかつて科学者たちがその存在を真剣に議論し、そして今では棄てられたという意味では
光を伝えるモノとして想定されたエーテル(媒質)説とある意味似ている。
しかし違いもある。
すなわち燃焼も熱も最終的にエーテルの系譜である媒質に還元されたということである。
つまり燃焼は空気中の酸素に、そして熱は熱運動論、つまり媒質の運動(振動)に還元された。
要するに我々の身の周りに遍満する空気は、
単に音波を伝えるだけのために存在しているわけではないということだ。
ならば光を伝えるモノとして想定されたエーテルが単に光を伝えるだけのために
存在しているわけではないとすると、そしてアインシュタインが言うところの4次元時空連続体に
汎用性がないのならば、エーテルの亡霊が闊歩するのは当然の成行きだ。 さて私の疑問は、重力質量と慣性質量が等価ならば、そして重力が時空の歪で説明できるならば、
なぜ慣性(質量)は時空の歪では駄目なのか?ということである。
つまりなぜわざわざヒッグス機構を導入しなければならないのか?
さらに時空というものがありながら、なぜダークマターやダークエネルギーを必要とするのか。
もちろんそれはエーテルに取って替わった相対論の時空に汎用性がないからであろう。
ならばそれは科学史が証明しているように、かつてのフロギストンやカロリックの轍を踏んでいることになる。
いずれにせよ相対論の時空が力不足ならば、エーテルの二の舞いどころか三の舞、
四の舞いと科学者は永遠に舞い続けなければならないことは明らかだ。 >>470
自己妄想のお前には必要ないが、素粒子論と宇宙論に必要なだけだ。 相対論と量子論が不完全な理論であることは簡単に証明できる。
すなわちそれはおよそ信じ難いことではあるが、そもそも相対論と量子力学がコラボした結果生まれた
相対論的量子力学、さらに場の量子論にその正当性を保証する方程式がないということだ。 いや、相対論的量子力学にはクライン-ゴルドン方程式、さらに場の量子論にはKG方程式を
因数分解して一次式にしたディラック方程式があるのではと思われるかもしれない。
しかし残念なお知らせであるが、KG方程式は相対論ありきの方程式ではない。
実際、
コトバンクから引用
>クライン‐ゴルドン方程式【Klein-Gordon equation】
>もともと弾性媒質中にあるしなやかな弦の運動を記述した微分方程式で
(波動方程式 + 摩擦係数μ)
>のように書ける.量子力学においては,スカラー中間子(スピンのない中間子)を記述するのに用いられる.
要するに、単に媒質からパクっただけだw さらに電信方程式というものがある。
電信方程式-wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F
>導体中の電磁場の伝播、減衰のある弦の振動などの現象を記述する。
>場の量子論において、クライン-ゴルドン場φ(x,t )の満たすクライン-ゴルドン方程式は、
>電信方程式と等価である以下の形で与えられる。
(波動方程式 + 質量項m)
導体中であるということは抵抗成分があるということだ。
あるいは空気中で弾かれたギターの弦は空気との摩擦で減衰する。
つまり波動方程式に抵抗成分や減衰項を付与したのが電信方程式。
そして波動方程式に質量項を付与したのが場におけるKG方程式であり、両者は同じ形式。 電信方程式とは早い話、糸電話の世界だ。糸電話というと笑ってしまうが実際そうなのだ。
例えば発電所から各家庭に送られる電気は1次元の銅線
(ショートを防ぐために誘電体-絶縁体の樹脂で被覆している)を伝って来る。
あるいはネット回線の「光」は光と言ってもやはり1次元の光ファイバーを伝う。
(光ファイバーの素材は石英ガラスであり誘電体)
さらに電子回路の配線もそうである。要するにそれらのものは全て何らかの媒質を介している。
もちろん1次元とは限らない。我々の回りを飛び交っている電磁波もやはり誘電体である大気中を伝う。
もっとも空気の誘電率は真空のそれに近いので、近似的に真空の光速度cと考えても差し支えないとされる。 結局、クライン-ゴルドン方程式は相対論ありき、量子論ありきの方程式ではない。
単に波動方程式に抵抗成分や質量項を付与した方程式に過ぎないのだ。
その意味ではKG方程式は実体を伴った、より実在論的な方程式といえる。 電信方程式とはどんな方程式かというと、例えば同軸ケーブルを輪切りにするとあたかも金太郎飴のように
コンデンサやコイル、さらには抵抗といった部品からなるRLC回路(調和振動子)が現れるというものだ。
つまりそれが1mであろうと10cmであろうと1mmであろうと、すなわち limΔx→0、
つまりΔxを限りなくゼロに近づけても切断面にRLC回路(調和振動子)が現れる。
まさにそれは微分の勝利であり、連続体の勝利である。 ただし注意すべきは、金太郎飴を薄くスライスしていくとやがて像がぼやけ、いずれ消える。
すなわち連続が不連続に変わった瞬間だ。そしてそれを離散という。
同様に同軸ケーブルも分子、さらには原子をスライスしてしまってはそれは素粒子の世界であり、
もはや同軸ケーブルとしての体をなさない。
つまり媒質の世界においては連続はあくまでも粗視化であり、構造をもった最小単位からなる離散が本質である。 さて、現代物理学の基礎を成す相対論及び量子論は連続体を標榜している。
実際電子や光子やクォーク、その他あらゆる素粒子は構造も大きさももたない数学的な点とされている。
さらに時空の各点、すなわち場も連続体とされている。
要するに微分の limΔx→0、すなわちΔxを限りなくゼロに近づけるを limΔx=0
すなわちΔxを0と置いたということだ。Δxを0と置くと必然的に無限大が発生する。
例えば線分を10等分すると個数Nは10、さらにそれぞれを10等分すると個数Nは100、
つまりΔxを小さくすればするほど個数Nは飛躍的に増え、Δx=0で個数Nは無限大となる。
実際、連続体である場は無限個の調和振動子の集まりとされている。 媒質を伝わる波動を記述する電信方程式と、場を記述するクライン-ゴルドン方程式が等価ならば、
微分という操作が必ずしも連続性を保障していないことになる。
実際テクノロジーの分野で、例えば光ファイバーの製造過程はある意味金太郎飴と同じだ。
すなわち最初太い円柱状のモノを熱を加えて細く絞る。
まさに連続体の成せる業だ。
しかしだからといって、限りなく0に近づけるという極限を文字通り受け入れると宇宙の果てまで
引き延ばせることになる。しかし現実の世界ではどこかで引きちぎれる。
要するに、本来構造をもった最小単位からなる離散的なモノも粗視化すると連続体に近似できる
とするのが媒質。
それに対し、構造体はさらに分割できるのだから点ではない。
点は大きさと構造をもってはならない、離散は連続体を粗視化した近似に過ぎないとするのが
物理学者が信じてやまない場。 いずれにせよ調和振動子の集まりという意味では媒質も場も同じ。
ただ違いは媒質には振動する構造とメカニズムがある。
すなわち機械論的には復元力であるバネと慣性をもった重り。
さらに電磁気的には誘電率と透磁率で表されるコンデンサ(復元力)とコイル(一種の慣性)、
それに対し場には振動するメカニズムがない、いやそもそも場の定義から構造すらない。
実際真空には誘電率が定義されるが誘電体ではないとされている。
要するにコンデンサやコイルのような部品はないということだ。 さて媒質も場も空間の各点に定義されたスカラー、ベクトル、テンソルといった物理量である。
例えば天気図で、温度や圧力や密度(質量)がスカラー、さらに風の向きや台風の渦を→矢印で表すが、
これがベクトル。
さらにそれらを還元したものが媒質である大気、ゆえに月の世界で天気図は無意味。
そして空間の各点に定義された物理量を数学的な点に還元したのがいわゆる場。 ところで、媒質も場も空間の各点に定義された物理量であるならば、
そして媒質が存在するとエーテルの風が定義できるのなら、場も場の風が定義できるはずである。
物理学者が定義しないのならば私が定義してやってもいい。
「すなわち電磁波が場を介して伝わるものならば、場の風が存在するはずである。」
ならばエーテルがMM実験という金属探知機に引っかかってつまみ出されたのならば、
場も同じゲートをくぐるべきである。
ところが物理学の世界ではなぜか場を名のれば何でも許されるという風潮がある。
場には無限大の困難という致命的な欠陥があるにもかかわらずである。 時間結晶が話題になっている。
で内容を見ると、平衡系では不可能だが非平衡系では可能らしい。
しかし非平衡的平衡というコンセプトならば空間も時間も結晶化する、>>80-84
そもそも平衡系では時間反転対称性は維持されるが時間の向き、
すなわち時間の矢は出てこない、それゆえエントロピー増大則で説明する。
逆に非平衡系では時間の向きは導出されるが時間反転対称性は満たさない。
しかし非平衡的平衡というコンセプトならば時間反転対称性と時間の矢の両方を満足する。
まあ結局はそれは複素共役(複素次元)に収斂するということなのだけれども。
ついでに言うと結晶とは、雪の結晶やクォーツ時計やパソコンのCPUのクロック周波数を刻む
水晶振動子のような離散的な媒質の特性であり、時空連続体にはミスマッチ。 ふむふむ、なるほど。電信方程式とクラインゴルドンの式の対比か。
>場が、例えば同軸ケーブルを輪切りにするとあたかも金太郎飴のように
コンデンサやコイル、さらには抵抗といった部品からなるRLC回路(調和振動子)が現れるというものだ。<
わしもちょっとこの方面も考えて**論物理学の建設の参考にさせてもらうよ。電気回路もわしはやったから
思い出しながら。 それにしても時間結晶というコンセプトは何と何が戦っているのか非常に分かり難い話だ。
なぜなら時間結晶というコンセプトを提出したならば、まさに水晶振動子は時空間結晶そのものだからだ。
>ついでに言うと結晶とは、雪の結晶やクォーツ時計やパソコンのCPUのクロック周波数を刻む
>水晶振動子のような離散的な媒質の特性であり、時空連続体にはミスマッチ。
つまり原子が結晶化すると空間に規則的かつ周期的な繰り返しパターンが現れ、
さらに空間の等方的な対称性が破れ、特定の方向に秩序が生じる。
ならばそれは時間軸においても同じだ。
すなわち水晶振動子は規則的かつ周期的な位相の繰り返しパターンである正弦波を生じる。
さらに本来周波数は任意であり、ある意味雑音だらけの状態が対称性があると言える。
しかし水晶振動子は特定の周波数で振動するのだから対称性を破っている。
そしてそれゆえに水晶振動子はクォーツ時計やパソコンやスマホの同期をとっているクロックに使えるのだ。 あるいは水の温度を下げ、すなわち0°Cになると液体である水が相転移を起こして固体である氷になる。
すると時間軸は止まる、そしてそれを利用したのが冷凍食品だ。
食卓に置かれた刺身は時間と共に食中毒のリスクが高まる。
しかしそれが冷凍したマグロならばそのリスクは少ない。
つまり冷凍庫は時間の流れが停止した空間であり、局所的にエントロピーの増大を逃れているとも言える。
ならば時間結晶を証明するのに、極低温までもっていく意味が分からない。 さてここで突っ込みどころは、原子が集まって空間方向に結晶するのと、その原子を包含する
宇宙空間、すなわち真空との関係性だ。
もし結晶のアナロジーを真空に当てはめたならば、真空は離散構造をもつことになる。
しかし相対論を基礎とする現代物理学は時空連続体を標榜している。
つまり、そもそも結晶というのは原子というモノの集まり、すなわち物性論の世界の話であり、
宇宙空間がどうのこうのという話ではない。 大体、時間結晶以前に時空間結晶という用語自体がいかがわしい。
なぜなら宇宙空間はいつから離散化されたのか?という話になるからだ。
つまり時空間結晶という用語はあくまでも物性論という閉じた世界にしか通用しない概念であり、
一般の人々が漠然と思っている空間とは何か?時間とは何か?という根源的な問いとは無関係である。
もっとも我田引水であるが、すなわちエーテル説に従えば、つまり時空そのものに
最小単位を設定したならば、そしてそれを光子と特定したならば、話は別だ。 >GOVXYB0Zc. さん
粒子も反粒子もそのエネルギー、質量の符号は正ですよ、これは実験事実
あと負の質量をもった物体を発見してから色々ほざいて下さい >>492
>粒子も反粒子もそのエネルギー、質量の符号は正ですよ、これは実験事実
それは解釈の一つ、つまり反粒子は時間を逆行する粒子という解釈による帰結。
そして使っている数学解が遅延解・先進解、すなわちフィルムの順送りと逆回し。
しかし先進波が発見された事実はない、つまり実験的な裏付けはない。
ただそう考えても矛盾がないというだけ(実際には矛盾だらけ)
>あと負の質量をもった物体を発見してから色々ほざいて下さい
物理学者の言う負の質量をもつモノとはいわゆる騾馬粒子。
すなわちエネルギーを失えば失うほど元気になる、速度を増すという物理学者の脳内にだけ生息する架空の存在。
私にそれを発見する義務はない。
つまり電子に対する陽電子、陽子に対する反陽子、水素に対する反水素、クォークに対する反クォーク、
すなわち既知の反粒子(物質)は負のエネルギー、負の質量をもっているとすればいい。
そしてそれにより何の矛盾のない理論体系を構築できる、そしてそれを記述する数学解が複素共役。 素粒子論の書物を読んだことのない人には騾馬粒子と聞いても何のことか分からないだろうが、
騾馬とは馬とロバを掛け合わせた動物で、機嫌をそこねると飼い主に逆らった行動をとるらしい。
すなわち御主人様がいくら手綱を引こうとも後ろに踏ん張って、梃子でも動かぬということだ。
さて我々が日常目にする物体は押すと押した方向に、引くと引いた方向に動く。
ところが物理学の定義によると、もし負の質量を有する物体があれば押すとこちらに向かい、
引くとあちらに向かうとされている。
そしてその天の邪鬼な様子があたかも騾馬の行動に似ていることから、
負の質量、負のエネルギーをもつモノに対して騾馬粒子と命名したのだ。 ところで押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かうという性質をもった物体は一見常識に反している。
ところが驚くなかれ、そのような物体は現実に存在する。すなわちそれはバネである。
すなわちバネは押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かうという性質をもっている。
結局物理学者は二重の意味で間違いを犯していることになる。
つまり押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かうという性質をもった物体は架空のモノではなく
現実世界に普通に存在するということ、そしてそれは負の質量をもつモノにはではなく、
バネに対しての定義であるということだ。(ひょっとして物理学者はバネを見たことがないのかなw) クライン-ゴルドン方程式から正のエネルギー解と負のエネルギー解が出てくる。
そしてKG方程式を一次式に変換したディラック方程式から導かれたのが物質を構成するフェルミ粒子
であり、正のエネルギーをもつ通常粒子と負のエネルギーをもつ騾馬粒子だ。
しかしここで問題が生じる。
つまり通常粒子を電子とすると、電子は光子を放出してエネルギー準位を落とし、最低状態で安定する。
しかしそれが負のエネルギーをもつ騾馬電子ならば、そしてエネルギーはより低い方が安定なのだから、
さらにゼロより低い負のエネルギーを認めると、騾馬電子は光子を放出しながらマイナス無限大に向かって
とめどもなく落ちていくことになる。
そしてそれは我々の見るもの全てがまるで底が抜けたように騾馬粒子に遷移して奈落に沈むということだ。
しかしそんな馬鹿な話はない。
そしてそれが物理学者が頑なに負のエネルギー、負の質量をもつモノを否定し続けている理由だ。 負エネルギー解の困難は物理学者の頭を悩ませた。
ところがディラックは真空は負のエネルギーをもつ騾馬電子で満たされているというアイデアを提出した。
つまり真空は騾馬電子ですでに満席とすれば、パウリの排他律により通常の電子は負のエネルギー状態
に落ち込めない、すなわち真空の安定性は保たれる。
そして騾馬電子で満たされた、すなわちディラックの海に開いた穴こそが正のエネルギー、
正の質量をもつ陽電子であるというわけだ。 ディラック流の考えは一見合理的であるが現在主流でない。なぜならボソンを扱えないからだ。
しかしそれはある意味当たり前である。
つまりディラックは騾馬粒子を物質を構成するフェルミ粒子とした。
しかし実際は騾馬粒子に対応しているのは力を担うバネ、すなわちボソンなのである。
ゆえにディラック流の理論ではボソンを扱えない、実に分かりやすい帰結だ。
要するに真空は負のエネルギーをもった電子の海ではなく、正の質量をもった電子と
負の質量をもった陽電子が対になったボソンである光子、すなわち光子の海であるということだ。 そもそも正の数も負の数もゼロを挟んで、同一数直線上に割り振られた実数である。
ではなぜ物理学では負のエネルギー、負の質量を否定しているのか。
それは図を使うとよく分かる。
図1のようにプラスのエネルギーはプラス無限大が最もポテンシャルが高く、そしてゼロ点が最も低い。
そしてエネルギーのベクトルはより低い方向を向いている。
ではマイナスのエネルギーの世界があったなら、そのポテンシャルはゼロ点よりも低く、
そしてマイナス無限大が最も低いと物理学では規定している。
ゆえに負のエネルギー、そして負の質量の存在を認めると、我々の見るもの全てがゼロ点を越え、
マイナス無限大に向かって落ちていくことになる。
ここで注意すべきは図1はあくまでも恣意的概念であり、実験的な裏付けはないということだ。
なぜならそれが実験事実とすると、物理学者は少なくとも一度は負の質量をもった試料を実験台に載せたことになる。
しかしそれは負の質量をもつモノは存在しないという物理学の定義に反する。
要するに図1はあくまでも物理学者たちの約束事、すなわちパラダイムに過ぎないということだ。 さて波動方程式から導出される音波における正負の解は空気の疎密、密疎だ。
すなわち正圧と負圧が交互に絡み合いながら進む。
そしてそのベクトルは上の図3のようにどちらもゼロ点を向いている。
すなわち媒質の世界においては正の圧力と負の圧力が同等に定義できる。
実際エンジンの技術者や空調の関係者は普通に正圧と負圧、あるいは陽圧と陰圧という用語を使う。
ではなぜそれがトンデモ扱いされないのか、というとそれは1気圧という基準系が存在するからだ。
つまり波動方程式から導出される正負の解とは、その基準系からどちら側にずれるかの違いでしかないのだ。
つまり復元力をもったバネには自然長Lを基準に押すと引くという2つの任意性がある。
同様に大気圧にもバネの自然長Lに相当する、自然圧Pと呼ぶべき基準系が存在するということだ。
ちなみに同じ波動方程式から導出される電磁波には、バネの自然長Lに相当する基準系は存在しないらしい。 現代物理学では力学の正負の解に対して上の図2を採用している。
すなわち先進ポテンシャルを使った、反粒子は時間を逆行する粒子という考えだ。
先進ポテンシャル、すなわちフィルムの逆回しを使うと負の物理量を消せる。
例えば音波は正圧で拡散、そして負圧で収束という過程で伝わるが、
先進ポテンシャルを使うと負圧のポテンシャルは必要ない。
すなわち正圧1/2遅延波で時間を順行して拡散、そして正圧1/2先進波で時間を逆行して収束、
とすれば音波は伝わる。ただ欠点は、現実世界とは対応していないことだ。 要するに負エネルギー解から導出された反粒子は時間を逆行する粒子であり、正のエネルギー、
正の質量をもつとする解釈は、某電気メーカーが「弊社の掃除機には負圧のポテンシャルは
使っていません、使っているのは先進ポテンシャルなのです、弊社の掃除機は
時間を逆行するブロワーなのです」と主張するようなものだ。
だとしたら眉唾もんだwだからちょっとは疑ってかかれよ、という話なのだ。 もっとも先進ポテンシャルを使ったファインマン流の考えをマジで受け入れている物理学者は
少数派だろうが、なにしろディラックの海に変わる、負エネルギー解の騾馬粒子を正のエネルギー、
正の質量をもつように再解釈する方法が他にないのだからしょうがない、というところか。
かつてコペルニクスは地球と太陽の位置を交換するという簡単な操作で宇宙をあるべき姿に変えた。
同様に上の図1を図3に置き換えるという簡単な操作で閉塞感漂う物理学に風穴を開けることが出来る。
いずれにせよ物理学者の頭の中に、反粒子は負のエネルギー、負の質量をもっているという
発想はないらしい。 生命系、とりわけ経済の世界においては上の図3を採用していることは言うまでもないことである。
例えば我々が外出した場合、財布がお金で膨らんでいれば各種買い物をしたり、食事をしたり
各種乗り物を利用することができる。
では財布の残金が0になったら、何の行動もできないのか?というとその限りではない。
すなわちもしクレジットカードがあったならば、0からお金を創出できる。
さてもしそのクレジットカードが「返さなくてもいいから金を借りてくれ!」をうたい文句にする
金融機関が発行する騾馬カードなら、借金すればするほど豊かな生活を送れるというまるで夢のような
この世に天国が出現する。しかし現実世界は非情だ。
実際各種ローンや公共料金は期日にはしっかりと銀行口座から引き落とされるということだ。 よく負のエネルギーがあれば空間から無尽蔵のエネルギーを取り出せるというが、
それは負のエネルギーの世界が上の図1に従っていればの話である。
しかし架空のロジックで、架空の論議をしても話は始まらない。それはSF作家の仕事だ。
要するに、生命系の営みが上の図3で規定されているように、正であろうが負であろうが
そのベクトルは0点を向いているとすれば、負の物理量を否定する理由はどこにもないということだ。 お金で幸福は買えないとしても、我々の現実世界はそのお金により動き動かされていることもまた
事実なのである。
すなわち我々の身の周りにはお金が遍満している(もっているいないにかかわらず)。
ある意味マネーエーテルと言ってもいいだろう。
そしてそれは投資先を求めてあたかも気流のように絶えず流動している。
しかしマネーはプラスとマイナスの2つの側面をもっている。
すなわちコインの表と裏のように2つの顔が背中合わせに張り付いている。
それゆえ高値を誇っていた株価や紙幣が、一夜にしてただの紙くず同然になる事態が起こり得るのだ。
ところで経済物理という分野があるらしい。すなわち物理学の知見で経済を記述するということだ。
しかし負債の文字を知らない物理学者がどうやって経済を語るのか?
すなわち生命系の経済学が物理学を語れたとしても、非生命系の物理学が経済を語るなどは間違ってもあり得ない。 ボーアは不正確な測定をして混迷した末に量子力学なる逃げを思いついた? 光子は波動エネルギーそのものであり
エネルギーには質量がある
その証拠に光速という限界を生じる
質量が0なら光速を超えなければならないが
質量0は存在しない事を意味し『無』を意味する
つまり光速を超えるものは『無』であり存在しない 光子は波動エネルギーそのものであり
エネルギーには質量がある
その証拠に光速という限界を生じる
質量が0なら光速を超えなければならないが
質量0は存在しない事であり『無』を意味する
つまり光速を超えるものは『無』であり存在しない 光子は波動エネルギーそのものであり
エネルギーには質量がある
その証拠に光速という限界を生じる
質量が0なら光速を超えなければならないが
質量0は存在しない事であり『無』を意味する
つまり光速を超えるものは『無』であり存在しない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています