生命力学〈Vital Mechanics〉
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現代科学は我々の宇宙に存在するものを2つの物理法則により記述している。
すなわちミクロ系には量子力学、マクロ系にはニュートン力学、あるいは(一般)相対論。
しかし、我々の宇宙に存在するものをミクロ系、マクロ系という2色刷りで
印刷することはできないのだ。
強いて二分法があるとするならば、それは生命系か非生命系かなのである。
そして生命(力学)の目的は、ミクロ系とマクロ系の統一、ひいては生命系と
非生命系の統一でる。 生命力学3大法則
◆この宇宙に存在するものは全て生命系か非生命系かで説明できる。
◆生命系にとって媒質(エーテル)の存在は絶対条件である。
◆生命系とは力学の基礎方程式の正負の解に完全に対応した世界である。
参考URL
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/sci/1142171928/ 普通、初歩的には原子は太陽系をモデルとして扱う。すなわち太陽の周りをいくつかの惑星が回るように、
原子核の周りをいくつかの電子が回る、という描像だ。
しかしその後我々は、原子と太陽系とは似て非なるモノである、と思い知らされる。
すなわち太陽系は日食や月食などを秒単位まで予測する決定論的な世界であるが、
原子は位置と運動量の不確定性を標榜する確率論的な世界である。 原子の世界に分け入った物理学者達は、そこで展開される確率や統計、不確定性といった振る舞いに面食らった。
しかし、本来確率や統計、不確定性は我々の日常生活においては普通のことである。
例えば天気予報、株価や様々なリスクによる各種保険のメカニズム、さらにギャンブルと不確実性に満ちている。
つまり、物理学者は原子の世界は我々の日常世界のように確率が支配する世界であった、と言えばいいのだ。
ではなぜ物理学者は確率が支配する原子の世界に驚愕し、苛立ちを覚えたのか?
それはニュートン力学の圧倒的な成功体験があったからである。 近代科学はニュートン力学の定式化により成立したことは間違いない。
科学を科学たらしめていたのはその高い予言能力である。すなわち秒単位で日食や月食を予測する。
約76年周期で回帰するハレー彗星は、2061年に再び人々の前にその姿を表すであろう。
これは全財産を賭けても失うことはないほどの信頼性の高いものである。
空気抵抗を無視すれば、同じ高さから落としたトンカチと羽毛は同時に地面に落ちる。
放り投げた野球のボールも石ころも放物線を描いて飛んでいく。
そこに不確定性の入り込む余地はない。
つまり還元論の立場からすれば、世界を原子までに分解したのならば、さらに原子を原子核と電子に分解したのならば、
物理学者はミクロの世界にニュートン力学よりもさらに精緻な確実性を手にすることができると期待された。
ところが意に反して、ミクロ系はニュートン力学とは対極の世界であったというわけだ。
そしてそれはミクロ系とマクロ系が乖離した瞬間でもある。 さて、ここで見逃してはならないのは、この地上において空気抵抗を無視すれば、というフレーズである。
確かに、アポロ宇宙飛行士が月で落としたトンカチと羽毛は同時に落下した。
しかし、同じ実験をこの地球上で行うと同時には落ちない。木の枝から離れた枯れ葉は不規則な軌跡を描く。
野球のボールやサッカーのボールは握りや手首のひねり、蹴り方によって不規則に変化する。
つまり、厳密にはニュートン力学に従ってはいないように見える。
もちろんだからといって、ニュートン力学が間違っているというわけではない。
すなわち石ころやボールなどの質点を一次系、空気などの媒質を二次系とすれば良い。
つまり、一次系の質点はあくまでもニュートン力学に従っているのだが、二次系である媒質が邪魔をする、
つまり運動の本質はあくまでも質点であり、媒質は亜流であり俗物である。
一流の物理学者がやることはあくまでもより還元されたモノの振る舞いであり、
二次的なモノの振る舞いはいずれ一次的なモノから演繹されるだろう。
しかしこの方法論は明らかに倒錯している。 そもそも月の世界に羽毛はミスマッチである。大体、地球上に空気がなければ木は育たない。
ならばリンゴは落ちないし葉っぱも散らない。当然人間も存在しないのだから野球のボールも存在しない。
無機的な石ころも元々は、水素ガスの媒質から恒星を介して生成されたモノである。
つまり、本来媒質こそが一次系であって、運動の対象である質点こそが媒質からの派生物なのだ。 現在、ミクロの世界を扱う量子力学は、場という考えで記述している。
場とは空間の各点に定義された量であり多体系である。
すなわち電子などの素粒子は場が励起されたモノとして捉えられている。
さらにそこでは絶えず粒子の生成・消滅が起こっている騒がしい世界であり、
欧米の物理学者はしばしば生きのいい虫が詰まった缶詰のようだと揶揄する。
つまり、還元論が悪いわけではないが、宇宙からエーテルを排し、幾つかの部品に
分解したのはいいが、その周りには得体のしれない何かがまとわりついていた、
ということである。ゲームは振り出しに戻ったと言うべきか。
では生命系からの観点から、太陽系には決定論が成り立つという概念がそれほど自明ではない、
ということを説明してみよう。ただし以前別スレにレスしたものを投稿する。 われわれの太陽系はニュートン力学が理想的に成立する舞台である。
実際宇宙ロケットの軌道計算は位置と運動量の不確定を標榜する量子論によるものではなく、
ましてや空間の曲がりを考慮した相対論によるものでもない。
ではなぜ太陽系においてはニュートン力学(決定論)が有効なのか。
それはわれわれの太陽系が非生命系だからである。
いや、非生命系というのは言い過ぎかもしれない。
確かに太陽は盛んに活動している。地球の内部ではマグマがうごめいている。
しかし太陽系というシステムは非生命系なのである。メタボリズムが停止した系と呼ぶべきか。
もしわれわれの太陽系が普遍的にニュートン力学で記述できるのなら、
それは誰かが出来上がりの太陽、出来上がりの地球、そして慰みにハレー彗星のような天体を
ピンセットで慎重につまみ、適当に配置し、初速度を与えた故である。
しかし、われわれの太陽系はチリとガスがいわゆる万有引力で凝集したものと言われている。 デカルトは宇宙に存在するものを物質なるモノと精神的なモノに分けて説明した(二元論)。
しかし、デカルトは思想おけるフリーズドライを行ったのである。
そしてそのフリーズドライされた空間を最終的に定式化したのがニュートンなのだ。
つまり、ニュートンは一杯のコーヒーをいつでもどこでも好きなように飲めるようにしたのだ。
コーヒーの正しい飲み方はカップの中にお湯を注ぎ込むことである。
そして好みに応じてミルクや砂糖を加える。
同様にわれわれの太陽系を味わいたければ太陽系に水素ガスを注ぐなり、
太陽系を取り巻いていると言われているいわゆるオールトの雲を太陽目掛けて落下させることだ。
(シミュレーション) 太陽系に無数の彗星が飛び交うということは、ハレー彗星の回帰が世紀のイベントでなく
見慣れた光景になるということである。
その状況は人類にとって最悪の事態に違いない。
しかし各種天体にとっては干天の慈雨である。
そもそも地球であれ月であれ、そのような獲物を獲得して現在のような体躯に成長したのだ。
そして月のあばたはまさに成長の証しなのである。
以前、シューメーカー・レビー彗星が木星に衝突するという天体ショーがあったが、
あれはまさにカメレオンが長い舌先で虫を捕らえるがごとく、
木星が重力の爪で獲物を鷲掴みにした瞬間をわれわれは目撃したのである。 さてそのような状況下において、いわゆるニュートン力学の決定論が成り立つだろうか?
仮に天文学者が日食や月食の予測をしたとしよう。
しかしその間に地球や月には無数の彗星が衝突するのである。
すると当然天体の自己エネルギーや軌道は揺らぐ。そして日食や月食の予測がハズレるという事態に陥る。
つまり、天文学者は確率や統計のノウハウを学ばなければならないだろう。
そもそも現在の太陽系は太陽系の一生の時系列の一断面に過ぎない。
ならば太陽系には決定論が成り立つ、というのはそれほど自明なことではない。 結局われわれの太陽系は中性代、地上をわが物顔にのし歩いていた生きた恐竜ではなく、
大地から掘り出される恐竜の化石なのだ。
われわれの太陽系はジャングルをかき分けていって忽然と現れる古代の遺跡であり、
今では崩れかけた壁を修理する者も誰もいない廃墟なのである。
(もちろん地球のようにダイナミズムを維持している個々の天体はある)
つまり、現在の太陽系においてニュートン力学の決定論が成り立つのは、
かつて満ちていたであろう水素ガスや微小天体がいまや希薄になったからである。 よく太陽系の運行をビデオに撮り、逆回ししても状況は変わらない。
そしてそれゆえに運動方程式は時間反転に対し対称であると言われている。
しかし、もしビデオテープに流れ星が映っていたならば、逆回しの映像は明らかに不自然である。
その意味ではチリやガスは時間の素であり、時間の矢なのである。
太陽系はチリやガス(媒質)から生まれ、育まれた。
そもそも媒質が時空そのものであることは明らかである。
例えば水を凍らせると近似的に時間は止まる。そしてそれを利用したのが冷凍食品だ。
あるいは水そのものを取り除いても時間は止まる。そしてそれを利用したのが乾燥食品である。
密封したカップ麺は時間の流れが停止している。
しかし蓋を開け、お湯を注ぎ込むと時間の流れが生じる。もはや食べるしかない。
よく時間は幻想だとか、パラメータの一種に過ぎない等と言われるが、
俺に言わせるならば時間こそが唯一の実在なのである。 天文学者は星の一生という言葉を使う。あるいは宇宙のどこそこに星の赤ちゃんを見つけたと報告する。
星に誕生の瞬間があり、さらに成長、進化があり、そして最終的に死を迎えるならば、
それを生命系と言わずに何と呼べばいいのだろうか?さらに星は世代交代をする。
つまり、我々の地球に存在する鉄より重い元素は超新星の爆発により造られたと言われている。
さて、もし天文学者が天体に対して生命用語を使うのが単なる便宜上の比喩でしかないのならば、
天文学者はテレビドラマの「この番組はフィクションであり、実在のものとは関係ありません」
というテロップに倣って、「我々が生命用語を使うのは単なる比喩であり、実際の生命とは何の関係もない」
と注釈を付けるべきだ。
その状況は素粒子の世界も同じで、例えば素粒子には寿命という属性がある。
さらには生成消滅という言葉は生命系を連想させる。
つまり、無機的な世界とイメージされている物理学も、案外生命用語を多用している。 化学とは電荷(+−)の相殺を扱う学問である。
物理学とは質量(+−)の相殺を扱う学問である。
経済学とはマネー(+−)の相殺を扱う学問である。
ならば負の質量を知らない物理学者とは、電荷の±の一方を知らない
化学者であり、負債の文字を知らない経済学者みたいなものだ。 地上の生物はそこら辺の土くれから自らの体を造り、やがて土に還る。
化学者はどす黒い原油からプラスチックや化粧品や医薬品などの各種製品を造る。
塩素もナトリウムも猛毒である。単体でそれを口に入れるのは危険だ。
しかしそれらが結合した塩は人間にとって必須のモノとなる。
つまり化学者が見かけ上モノを出したり消したりという魔法を使えるのは、
電荷には+と−の量があることを知っているからである。
その様子はマジシャンが、鳩を出したり消したりできるのはテクニックによるものであって、実際に虚空から出し入れしてないのと同じだ。
ところが物理学者は+の質量を相殺すべき−の質量を知らないという。
ならば物理学者の演じる魔術は文字通り種も仕掛けもない、実際に虚空から時計や
ネックレスを取り出したり消し去っていることになる。
すなわち物理学が採用している「場」とはオカルトと親和性が高い世界である。 [水溶液]
酸性 │アルカリ性
H+イオン│ OH-イオン
濃度が高い│濃度が高い
─────┼─────
1 ph7 14
(中性)
塩酸と水酸化ナトリウムの反応式は
HCl + NaOH → NaCl + H2O
あるいは水が電離する様子は
H2O ⇔ H+ + OH-
つまり、化学反応における
A+B→C あるいは C→B+A といった化学式があった場合
AとBあるいはCは全くの別物であるが、だからといって影も形もない
状態から生成わけではなく、実体その物が消滅したわけではない。
生成消滅するのはあくまでも元々の性質であり属性である。 素粒子物理においては、電子と陽電子が対消滅すると光子に、
逆に光子から電子と陽電子が対生成されるとされている。
すなわち、e- + e+ → γ あるいは γ → e- + e+ (符合は電荷)
さて、陽電子等のいわゆる反粒子は負エネルギー解から導出されたわけであるが、
もし反粒子が負の質量をもっているならば、素粒子物理学は一夜にして化学と
同列に扱うことができる。
すなわち、電子(+) + 陽電子(-) → 光子(±0) あるいは光子(±0) → 電子(+) + 陽電子(-)
(符合のプラス・マイナスは質量) 化学者が見かけ上モノを出したり消したりできるのは化学者は電荷には+と−があることを
知っているからである。
ならば物理学に負の質量を導入すると、物理学者は素粒子を実体として把握することができる。
すなわち水が水素と酸素の結合体であるように、光子は電子と陽電子の複合粒子とすればよい。 光子を構造をもった実体と扱うと次のようになる。
●陽電子 ○電子
+(−) −(+)
\/
●○
光子(±0)
()の符合は質量。さらにズームインすると
陽電子 電子
● ○
●○● ○●○
● ○
\ /
●○
●○●○
●○
光子
となる。
上の図は囲碁を援用したものであるが、実際劫は光子の性質をよく表している。 <粒と波の二重性>
○ → ○
○●○ ○B○
●A● ●○●
● ← ●
(無限ループ)
劫は対局者がそれぞれA、Bに石を置くことで、実戦を無視すると無限回往復する。
すなわち白の地であり黒の地でもあり、そのどちらでもあってそのどちらでもない
というまるでパラドックスを絵に描いたようなものだ。
劫は位相数字的におけるメビウスの帯(クラインの壺)である。
すなわち表・裏・表・裏…
さらに論理学における嘘つきのパラドックスである。
すなわちある言及が真・偽・真・偽…
さらに力学的にバネであり、電子回路におけるコンデンサである。
つまり対極にある状態を絶えず往還する、すなわち振動する能力をもつ。
同様に光子も絶えず電子と陽電子の間を揺れ動いている。
すなわち光子の質量は時間平均すると全体的にはゼロであるが、
Δtにおいてはあくまでも正負の質量を有する。 俺はよくわからんのだが
生物物理の
関連事項かな…………? >>1-22
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現代物理は最初から負の質量を有り得ないモノと定義している。
ゆえに負の質量は存在しない、実にわかりやすい帰結だ。
それゆえ科学は負の質量を導入した時点において破綻する。
しかし破綻するのはあくまでも科学のパラダイムであって、世界そのものではない。
なぜならもし負の質量を有するモノが現実に存在するならば、それなりの合理性を
もっているはずだからだ。
現代物理における負の質量、負のエネルギーに対する定義が間違っていることを
証明する方法は色々あるが、一例を挙げてみよう。 ニュートン力学における運動方程式は F=ma で表される。
すなわち物体を動かすには重たいモノほど大きな力がいる。もちろん物体は力を
加えた方向に加速する。
そして、もし負の質量をもつ物体があれば F=−ma で表されるとされる。
この数式の意味するところは、力を加えた逆向きに加速されるという事である。
ゆえに、もし負の質量を有する負物質は押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かう、
といった天の邪鬼な性質もつ、もしそんな物体が存在するならぜひとも見てみたいという代物である。 ところで、バネに繋がった錘の運動方程式は F=−kx で表される。
ようするに錘は力を加えた逆向きに加速されるというものである。
ならば F=−ma が負物質の挙動を示すならば、バネに繋がった錘は負の質量をもつのか?w
ということになる。
先ほど、もしそんな物体が存在するならぜひとも見てみたい、と述べたが、
何のことはない、それはバネの性質である。
すなわちバネは押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かう。
ようするに F=−ma は負の質量もつ物体の運動方程式ではない。 そもそもバネ定数kの前にマイナス符合が付くのは、そもそもバネは自然長 L が
安定点だからである。
すなわちバネを振動させるためには力を加えて位置エネルギーを高めなければならない。
しかしもし最初から位置エネルギーの高い状態にあったなら、必ずしもマイナス符合を
付ける必要はない。
それは地上における重力加速度を考えれば分かる。 例えば木になっているリンゴは地表から見れば高いポテンシャルエネルギー状態にある。
そしてリンゴが自由落下する様子は F=mg だ。
しかし、地表にある物体は持ち上げた瞬間上空に吹っ飛んでいくわけはないので
その場合の運動方程式は F=−mg である。
ようするに加速度は力を加えた逆向きに働くということである。
つまり、F=−ma は負の質量を記述する運動方程式ではない。 ところで、空中に放り上げたボールはあたかも重力に逆らったように上昇する。
しかし正の質量をもつボールは減速しながら上昇する。
ところが負の質量をもった物体は水の中の泡粒のように加速しながら上昇するのだ。
なぜなら負の質量にとっては上のほうが安定だからだ。
では負の質量をもつ地球に対して負の質量をもつ物体はどちらに向かうのか?というと、
この場合は下に落ちる。ただしこの場合、負の質量をもつ地球も物体も自らを負とは
呼ばないであろうがw
ようするに、電磁気力の場合、同極同士には斥力、異極の間には引力であるが、
重力は同極同士には引力、異極の間には斥力である。 >>32
>ところで、バネに繋がった錘の運動方程式は F=−kx で表される。
>ようするに錘は力を加えた逆向きに加速されるというものである。
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/ ⌒ ⌒ \ 何言ってんだこいつ
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>>30
>それゆえ科学は負の質量を導入した時点において破綻する。
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/ ⌒ ⌒ \ 具体的にどう破綻するのか示してみろよ
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 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二 _|_|__|_ >>37
じゃあ試しに科学の教科書を、負の質量が存在するという前提で書き換えてみれ、
その場合物理学は負の質量を扱えるのか? >>38
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/ ⌒ ⌒ \ 負の質量を扱えるなんて言ってないのに
/ (●) (●) \ 書き換えてみろとか何言ってんだこいつ
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 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二 _|_|__|_ モノは高い所から低い方に落ちる。水は高い所から低い方に流れる。
そして、その行き止まりが(位置)エネルギーゼロの状態。
で、もしゼロよりエネルギーの低いマイナスのエネルギーの領域があったなら、
我々の見るモノ全てがゼロ点を超え、マイナス無限大めがけて落ちていく。
もちろんそんな馬鹿な話はない、と賢明な物理学者は負の質量(エネルギー)を否定している。
俺もその点は同意する。しかしそれゆえ負の質量は存在しない、ということにはならない。
そもそも負の質量のベクトルがマイナス無限大に向いていると誰が決めたんだ?
誰か実験で確かめたのか?単なる恣意的概念じゃないのか?
ようするに、正の質量も負の質量もそのベクトルはゼロ点に向いているとすれば、
負の質量(エネルギー)を否定する理由はどこにもないと言うことだ。 科学はこの宇宙からエーテル、すなわち媒質を取り去ったわけであるが、
しかしその媒質こそがまさに力学の基礎方程式の正負の解に完全に対応した世界なのだ。
例えば音波は大気の疎密である。すなわち正圧と負圧が交互に絡み合いながら進む。
つまり正圧も負圧もそのベクトルは1気圧に向かい、負圧があったからといって
地上の大気全てが負圧に落ち込むなどということはない。 ガソリンエンジンは負圧を利用して吸気する。すなわちシリンダ内のピストンを押し下げると
自動的に空気が取り込まれる。そのメカニズムは人間の呼吸も同じだ。
ようするに負圧で空気を吸って、正圧で空気を吐き出す。
ならば、もし負圧を否定したとしよう。その場合どうやって空気を吸い込むのか?
まさか外部からポンプで正圧で送り込んでいるわけはない。
ただしその場合時間の逆行という荒技がある。w
すなわち正圧で空気を吐き出し、それをフィルムの逆回し状態にすると出たモノは引っ込む。
そしてそれを実際にやってるのが素粒子物理の世界だ。
すなわち反粒子は時間が逆行する粒子という概念。 動物は酸素を吸い込み、余分なモノとして炭酸ガスを吐き出す。つまり、呼吸は非可逆的だ。
ならば地上の酸素は一方的に減少し、逆に炭酸ガスは一方的に増加する。
しかし大気の組成はほぼ一定に保たれている。
それは何故か?一つの考え方として遅延解・先進解を使う手がある。
すなわちフィルムの逆回しを利用して人間に対し反人間を導入すればよい。
つまり反人間は炭酸ガスを吸って酸素を吐き出す。
もちろん現実世界において時間の逆行を担っているのは植物の光合成だ。
[呼吸]→
O2 ⇔ CO2
←[光合成]
すなわち呼吸と光合成は過去と未来、原因と結果、すなわち入力と出力が入れ替わっている。
もちろんだからといって因果律に抵触しているわけではない。
つまり、一方の時間が流れるということはもう一方の時間を巻き戻すということである。
それは昔のカセットテープのように、A面を再生することは同時にB面を巻き戻すことである。
すなわちA面でキリギリスが音楽を奏でてる間に、B面では蟻がせっせと時間を貯め込んでいるのだ。 [呼吸]
糖+酸素+水 → 二酸化炭素+水(非可逆)
⇔(可逆)
二酸化炭素+水 → 糖+酸素+水(非可逆)
[光合成]
動物は酸素を第一義、炭酸ガスを第二義、逆に植物は炭酸ガスを第一義、酸素を第二義と
した形態である。
つまり、呼吸は炭酸ガスを余分なモノとして捨て、植物は酸素を余分なモノとして捨てる。
つまり、呼吸と光合成においては酸素と炭酸ガスの役割が実と虚として入れ替わっていて、
数学的に複素共役の関係にある。
もちろんだからといって人間にとって炭酸ガスが不必要と言うわけではない。
何しろビールはビールでなくなるし、ドライアイスがなければ不便だ。
しかし動物にとって酸素がければ致命的だ。確実に死ぬ。逆に植物は炭酸ガスがなければ
自らの組織を作れない。もっとも植物も呼吸をしているらしいが。 結局、呼吸と光合成においては、時間を担う対象それ自体は基本的に非可逆であるが、
空間それ自体は可逆なのである。
つまり、動物の生活環境を時間反転、空間反転したものが植物の生活環境であり、逆も同様である。
もちろん両者は完全に隔離されているわけではなく、重ね合わさっていることは言うまでもない。
さらに時間軸は互いに逆行する実の正負とそれぞれ虚の少なくとも4つの(複素)次元がある。
時間の逆行=フィルムの逆回しというドグマに囚われている人にとっては、呼吸と光合成が
互いに時間を逆行しているという概念は受け入れ難いであろう。
ならばその者は従来通り、遅延解、先進解を使って親殺しのパラドックスに代表される因果律
と格闘していればいいだけの話である。 生物の世界にはいわゆる水と油の関係がある。すなわち親水性と疎水性だ。
身近には葉っぱが水を水滴にして弾く力である。油汚れは水だけでは落ちにくい、
それゆえ両方の性質をもったいわゆる界面活性剤を使うわけである。
さらに生物の細胞膜は親水基と疎水基をもったリン脂質による二重膜構造により造られている。
つまり内と外を隔てているわけである。
電磁気力は同極同士には斥力、異極の間には引力であるが、水と油の関係は似た者同士
には引力、異種の間には斥力が作用するという特性をもつ。
では、物理の世界においてもこのような関係性を見いだせないだろうか。 ____
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37 名前: ご冗談でしょう?名無しさん [sage] 投稿日: 2010/10/16(土) 19:26 統合失調症なんじゃない?
狂ったように長文を書く症状の奴もいるし、言葉のサラダっていうぐらい支離滅裂だし。
病気のせいで本人は完璧な理論だと思いこんでいる。
簡単に言えば基地外。 >>48
>言葉のサラダっていうぐらい支離滅裂だし。
変な日本語w >>37
お前、解ってレスしてんだろうな?
まあどうでもいいが、物理学が負の質量を扱えないということを説明して挙げよう。
ニュートン力学よれば、運動量、あるいは運動エネルギーは質量と速度の積で表される。
例えば運動量は P=mv すなわち運動量、あるいはエネルギーと速度は比例している。
(数値は定量的でないが)Eが 0 なら速度も 0 Eが 5 なら速度も 5 Eが 10 なら速度も10。つまり物体はエネルギーが大きければ速度も速い。逆にエネルギーを失うと減衰し、やがて停止する。
さて、ではEにマイナス符合を付けると、-E(5)なら速度も 5(マイナス符合を付けてもいいが
その場合は逆向きに運動する ) -E(10)なら速度も 10 -E(∞)なら速度も ∞ となる。
すなわちエネルギーと速度は反比例している。 物理学ではマイナスの世界はゼロよりエネルギーが小さい。すなわち 0 より -5、-5より -10
つまり絶対値の大きな方がポテンシャルが低い。
それゆえ負の質量をもった物体は、水が高い方から低い方に流れるようにマイナス∞目指して速度を
増しながら落ちていくことになる。
すなわち負の質量は減衰すればするほど速度を増すという特性をもっている。
それゆえ物理学はそんなモノは有り得ない、としている。で、俺もそんなモノは有り得ない、としてる。 さて、ここで注意すべきは物理学はミラー対称性を無視していることである。
鏡に映ったもう一人の自分は自分によく似てはいるが何かが違う。
すなわち、鏡の向こう側という異次元の世界にいる自分は右手は左手になり、左手は右手になっている。
右手を挙げると左手を挙げ、右目でウィンクすると左目でウィンクする。
さらに後ろに下がると後ろに下がり、鏡に向かうと向こうにいる自分もこちらに向かってくる。
すなわちベクトルの向きが反転している。 さて、その様子を図を使って説明してみよう。
図1
←時間│ ←時間
−の世界│ +の世界
←● │ ←○
─────┼─────
-∞ -χ 0 +χ +∞
※○は正エネ粒子●は負エネ粒子
つまり、物理学においてはプラス無限大が最もポテンシャルが高く、ゼロ点が最も低い。
さらに、もしマイナスのエネルギーの領域があると、今度はゼロ点が最もポテンシャルが高く、
マイナス無限大が最も低い。それゆえマイナスのエネルギーの領域があると、
我々の見るものすべてがマイナス無限大に落ちていくことになる。 ところが、現実の世界はそうではない。
図2
時間→ │ ←時間
−の世界│+の世界
●→ │ ←○
─────┼─────
-∞ -χ 0 +χ +∞
すなわち、媒質を伝わる音波は正圧も負圧もそのベクトルはゼロ点(1気圧-バネにおける
自然長Lに相当する)を向いている。
ちなみに
図3
←時間 │ ←時間
−の世界│+の世界
逆行○→ │ ←○
─────┼─────
-∞ -χ 0 +χ +∞
時間の逆行という概念を使って、ベクトルを反転させる方法もある。 さて、もし気象学者が図1のように一方的なベクトルを採用したなら、気象学は破綻する。
確かに高気圧は気圧が高い方から低い方に向かう。その結果として下降気流↓となる。
同様に、低気圧もより低い方に向かう↓とすれば自ずと台風になる。しかも下降気流の。
しかし実際の低気圧のベクトルは気圧を高める方向である。すなわち上昇気流↑だ。
あるいは、経済学が図1を採用したとするなら経済学は破綻する。
そもそも金を借りた者は月々そのマイナスの絶対値の数値を減らし、
最終的にゼロにしてきれいさっぱりしたいと思っている。
すなわち借金のベクトルはゼロ点を向いている。
では、もしどこかに金を返さなくてもいいから金を借りてくれ、という金融機関がオープンし、
そして実際に機能したとする。ならば経済学は破綻する。
なぜなら既存の金融機関はすべて潰れるからだ。
つまり、実学と言われているものはすべて図2の論理を採用している。
もちろん現在、物理学が採用しているのは図3である。
しかし図3を裏付ける元になったのはいわゆる先進解である。
それゆえもし先進解、あるいは先進波が発見され確認されたならば、俺の主張は意味を失う。 ____
/ \
/ ⌒ ⌒ \ 何言ってんだこいつ
/ (●) (●) \
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 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二 _|_|__|_
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/ ⌒ ⌒ \ それは現実の物質が負の質量を持ってないってだけで
/ (●) (●) \ 負の質量を持つ物質が仮に存在したとしたら現在の物理学で扱えないというのとは根本的に違うな
| 、" ゙)(__人__)" ) ___________
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 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二 _|_|__|_ >>55
>ところが、現実の世界はそうではない。
____
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/ ⌒ ⌒ \ 現実に負の質量の物質で実験したのか?
/ (●) (●) \ 実験してないけど私はこう妄想してますってだけだろ
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 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二 _|_|__|_ 物質と反物質が対消滅すると莫大なエネルギーが解放され、物質と反物質は跡形もなく消え去ってしまう。
それゆえ反物質は存在しない、というのが現代科学のパラダイムだ。
果たして従来疑われることがなかったこの考えは本当に正しいのだろうか?
もちろん物質と反物質、あるいは粒子と反粒子の対消滅は実験事実であり、それを否定するものではない。
しかしそれほど単純なものだろうか?という疑問である。
そもそも物質と反物質の対消滅も燃焼の一種とすると、燃焼には点火エネルギーがいる。
もしそうでなければ、ガソリンスタンドで給油するなど危なかっしくて即禁止だ。
そもそもガソリンはシリンダのような密閉容器内で点火されて爆発するのであり、
それが開放系ならばメラメラと燃えるだけである。
さらに点火エネルギーの障壁は地上に太陽を造り出すことを困難にしている要因だ。
ならば物質と反物質が対消滅すると莫大なエネルギーが解放されるならば、それなりの点火エネルギーが
必要である、という仮説が成り立つ。 つまり、本来正の質量をもつ粒子と負の質量をもつ反粒子は反重力のバリアがあるので混じり合わない。
そしてそれにはニュートンの万有引力の法則が役に立つ。
すなわち重力は近づけば近づくほど急激に強くなるのであるが、同様に反重力も近づけば近づくほど
急激に強くなる。
[重力]
F= -G・M1M2/R^2
_ _
F= -G・M1M2/R^2
[反重力]
_ _
F= G・MM/R^2
質量とエネルギーが同等ならば、高エネルギーのミクロの世界では重力は無視できない。
さて、水と油は混じり合わないといっても生物は水と油から構成されている。
それと同じように物質も粒子と反粒子が複雑に絡み合っている。
つまり、巨視的には我々は反物質を見ることはないが、それは我々の世界においては物質が優位に
立っているからである。すなわち実と虚の関係だ。ならば宇宙のどこかに複素共役のもう一方の片割れ
である反物質が優位に立った領域があるかもしれない。 水と油が混じり合わないならば、水と油は2つの体積に分離するだけである。
しかし我々の身の回りでは両者は複雑に絡み合っている。
つまり、両者を結びつけたり引き離しているのがいわゆる両親性の界面活性剤なのだ。
つまり物理学でいうならば、それが粒子と反粒子の両方の性質を兼ね備えた光子や中間子
などのボソンなのである。 もし反重力なるものが存在すると、そしてそれを制御できるとなれば、それは空を飛ぶ自動車
が実現するのではないか、という夢を膨らますことができる。
しかしそれは現在夢のまた夢であり、青写真すらない。
しかし反重力、すなわち重力に抵抗する力がなければ宇宙の真の姿を描くことはできない。 中間子がクォーク・反クォーク対ならば、なはぜ対消滅しないのか疑問である。
しかし素粒子を実体として捉えると、光子は電子と陽電子の複合粒子であり、中間子は
正のクォークと反クォークの複合粒子である、となる。
すなわち対消滅で消滅するのはあくまでも元々がもっていた属性であって本体ではない。
もっとも、シャボン玉のように破裂して、その本体が消滅する場合もあるだろう。
すなわち物理的には質量のレベルにおいても打ち消される。そしてそれが化学との違いだ。 我々の体を形作るタンパク質は、多数のアミノ酸が結合して連なったものだ。
そしてアミノ酸同士が結合する際、それぞれのアミノ酸から H+ と OH- がとれ、
結果的に水分子一個がとれる。これを脱水縮合という。ちなみにその逆が加水分解。
この脱水縮合反応は糖からでんぷん、植物の体であるセルロースなどの炭水化物、
さらにはペットボトルや衣料品の原料であるポリエステルもこの原理による。
つまり、これらの反応は生物にとっては時空の一単位である水分子一個が関与している。
そして強い力で結びついているわけである。 原子核内では、陽子と中性子が中間子を介していわゆる強い力で結びついている。
ところで、強い力には近づき過ぎると急激な反発力である斥力芯があるとされる。
そしてそのメカニズムは謎である。
しかし、もし反粒子が負の質量をもっているとすると、それこそが反重力のバリアに他ならない。
タンパク質はアミノ酸同士から水分子一個が取れて高分子となっているわけだが、
強い力も時空の一単位である光子一個が取れて(あるいは付加されて)陽子と中性子が連結して
いる可能性が高い。
そもそもアミノ酸は酸と塩基、親水性と疎水性といった相反する性質を合わせもったものである。
そして、原子核における強い力も、粒子と反粒子の対消滅と反重力の複合力であるかもしれない。
それはシェークスピアの悲劇、ロミオとジュリエット効果とでも呼ぼうか。 ところで、俺は F=−ma は負の質量を記述する運動方程式でない、と述べたが、
正確にはポテンシャルのある系では正負の質量を問わず F=−|m|a である。
そもそも F=ma の振る舞いは重力勾配のない世界の話だ。
すなわち平らな床に対して台車を押す場合にはその通りである。
しかし上り坂を台車を押す場合は押した方向の逆向きに加速度が生じる。
そしてそれは色々な場面で誰もが日常経験している事実である。 ポテンシャルがある系と言えば、例えば調和振動子がそうである。
力が加わっていないバネは、自然長Lの状態にある。
言うまでもなくバネを引っ張ると長さが伸びる。
つまりプラスχ方向に伸ばすとその反対方向に復元力が生じる。
逆にバネを押すと長さが縮む。そしてやはり逆向きに復元力が生じる。
すなわち、バネにおいては自然長Lを基準にしてプラスとマイナスの長さが定義される。
それゆえプラスの長さは考えられるがマイナスの長さは考えられない、
と言い張る者は現実主義者を装った非現実主義者に過ぎない。
その様子は質量やエネルギーに対しても言える。 そもそもマイナスの量が意味をもつのは、物理量というものが相殺される量であるからだ。
例えば2種類の電荷は打ち消しあう。
ならば、一方をプラスとすれば一方はマイナスとしなければならない。
その様子は波動場においてより顕著である。
すなわち同位相が重なると加算されて振幅が大きくなるが、逆位相ならば減算されて
フラットになる。
そしてその事情は質量のレベルにおいても例外でない、というのが俺の主張だ。 よく、重力の原因である時空の歪みを表すのに、トランポリンの上にボーリングの玉を乗せる
図を使う。すなわち、時空がすり鉢状に歪んだ状態が重力場を形成するというものである。
図1
____ ____
\○/
 ̄
図2
_
__ _/●\__
\○/
 ̄
しかし、もしスペースシャトルの船内で生まれ育った子ども達が図1を見たならば、
その一義性はなんとも理解し難いに違いない。
彼らにとっては図2のほうが違和感なくすんなりと受け入れられることであろう。
すなわち、ゴム膜が一方向にしか歪まない、などという概念は受け入れ難いに違いない。
そしてそれは実際に、スペースシャトルの搭乗経験者に聞いて確かめれば分かることである。 いや、実際にスペースシャトルの搭乗経験者に聞けば、図2も違和感がある、
と応えるかもしれない。
すなわち、ゴム膜にボーリングの玉を近づけたところでゴム膜は歪まない。
図3
○
―――――――――――
●
つまり、ゴム膜を歪ませるためには何らかの力を加える必要がある。
図4
力 _
__ ↓ _/●\__
\○/ ↑
 ̄ 力
しかしいずれにしろゴム膜は2つの方向に歪む能力をもっている。
ならば、ゴム膜のような二次平面ですら2種類の曲がりをもつというのに、
高次元の宇宙が1種類の曲がりに支配されている、というのではあまりにお粗末である。 水面に、水の表面張力を利用してアーチ状に湾曲させたアルミ片などを浮かべると、
水面はその幾何学的能力に従って2種類の方向に歪む。すなわち上と下。
そして同じ方向の歪みは正負を問わず、歪みを最小にしようとして引力が作用し、
歪みの方向が違うと歪みを保存しようとして斥力が作用する。
<正曲率>
 ̄ ̄∨ ̄ ̄∨ ̄ ̄
→引力←
 ̄ ̄ ̄∨∨ ̄ ̄ ̄
→←
<負曲率>
__∧__∧__
→引力←
___∧∧___
→←
∧___
 ̄ ̄ ̄∨
←斥力→
__∧__
 ̄ ̄∨
← → 一枚の紙を折ったり手でもんだりすると折り目やしわができる。そしてそれは保存される。
しかしゴム膜を折っても手でもんでもしわはできない。それはゴム膜が極めて高い対称性を
もっているからだ。ゴム膜と水面は同じ性質をもっている。
例えば船が去った後、航跡がいつまでも残らないのはそのためである。
つまり、ゴム膜や水面の高い対称性はいわゆるゲージ場の幾何学を記述する空間なのだ。 さて、ゴム膜や水面のような二次平面には2種類の歪みが存在し、そして必然的に
引斥力が生じることが分かった。
ではそれを三次元空間に拡張するにはどうすればよいのか。
それには裏と表の概念を使えばよい。
正のベクトル
A――――――――→
B←――――――――
負のベクトル
まず正負のベクトルをもつ線分A,Bを用意する。
さらに線分A,Bには互いに互いを包囲仕合うという性質をもたせる。
そしてAがBを包囲した状態が粒子であり、逆にBがAを包囲した状態が反粒子である。
すなわちA,Bは表と裏、裏と表、実と虚、虚と実の関係にある。 さて、包囲理論(SURROUND THEORY)の立場からすれば、それを実践しているのが
囲碁というゲームに他ならない。
すなわち1個の黒石を4個(三次元的には6個)の白石で取り囲むと白の地になる。
さらにその共役量として、すなわち裏と表がひっくり返った形態も存在する。
仮にそのそれぞれを電子と陽電子に対応させると、あたかも両者が対消滅(対結合)した
ような図が光子モデルなのである。
陽電子 電子
● ○
●○● ○●○
● ○
\ /
●○
●○●○
●○
光子  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
\_________\
\|__________|
さて、表が青、裏が赤(色は何でも良いが)のテープを用意する。ただしこのテープは
弾性力をもったテープである。弾性体だということは上の図の状態が安定であり、
曲げるには力を加える必要があり、常に平な状態に戻ろうとする性質をもっている。
さて、上の図のテープに力を加えて輪にしたとしよう。
すると、それは囲碁の地と同じように例えば青と赤の面が表と裏に分離する。
包囲理論(SARAUNDO THEORY)の立場からすればそれが粒、すなわち粒子に対応する。
/ ̄\ /||\
/ _ \ /||||||\
|\/ \/| |\/ \/|
|||\_/||| | \/ |
\||||||/ \ /
\||/ \_/
反粒子 粒子 細長いテープを半回転ひねって輪にすると、いわゆるメビウスの帯になる。
__
/ ̄\ /_ \
/ _ \ // \ \
|\/ \//\ \/|
| \_/ /\ \_/ |
\ / \ /
\_/ \_/
メビウスの帯を2色に色分けしようとしてもどこかでぶつかり、せめぎ合う。
メビウスの帯は表(実)であり同時に裏(虚)でもある。
すなわち部分的には裏表(虚実)の区別はつくが、全体的には裏表の区別はつかない。
つまり、位相幾何学(トポロジー)の立場からはメビウスの帯(クラインの壺)は
波動場の量子なのだ。 宇宙の3形態
表(実)
________
\ \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
裏(虚)
/ \
裏 __ __表
/\ \ /\ \
( ( )))) (((( ) )
\/ / \/ /
 ̄  ̄
反粒子 粒子
\ /
__
表? / _ \
____//_\_\
/_______/
\ \//
\_/ 裏?
光子(ボソン) 光子の反粒子は光子自身である、という描像が正しければ、囲碁の劫は光子そのものである。
○ ○
○●○→○ ○
● ●←●○●
● ●
すなわち劫が絶えず、あたかもバネのように白と黒の間を往還するように、
光子は絶えず粒子と反粒子の間を揺れ動いている。
すなわち時間とは何か?エネルギーとは何か?、という問いの最終解答は、
「劫を取られた側が劫を取り返す行為」に他ならない。
劫は極めて高い対称性(極超対称性)をもっている。しかしそれは天秤が釣り合う
状態でなく、むしろどちらにしろ対称性が破れている。
ようするにどちらにしろ取り返せる、という意味で対称なのである(非平衡的平衡)。 自由空間に置かれた光子は絶えず正負の間を揺らいでいる。
しかし素粒子の周りの光子はその光子がもっている2値のどちらか一方にセットされる。
その様子は囲碁の実戦において、劫を取られた側は一度他の場所に石を置いてからで
なければ劫を取り返せないように、あるいは、水面が異物に対して水の表面張力で歪む
のと同じだ。そして、それが空間が歪むと言うことなのだ。
そして、非対称に歪んだ電子(陽電子)の周りの光子の対称性が回復された状態が
電磁波であり、クォークの周りの非対称に歪んだ光子の対称性が回復された状態が
原子力なのである。
● ○
● ● ○ ○
○●○ ●○●
○ ●
負の質量 正の質量
あるいは
● ○
● ○ ● ○ ● ○
○●○ ●○●
○ ●
負の質量 正の質量 高次元の宇宙を2次元に落とす
メビウスの帯
↓
―/― /-∞|―\―
/――/――|――\
∞ / | ∞
 ̄ ̄/ ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄
-SPACE TENSION-
我々の宇宙は位相幾何学におけるメビウスの帯(クラインの壺)である光子で満ち満ちている。
つまり宇宙は光子エーテルで満たされている。
すなわち光子一個は時間と空間の1単位であり、そして最小単位なのだ。
さらに極超対称性粒子(質量の次元においても正負の値をもつ)である光子により
正負の重力場が形成され、この宇宙に引斥力をもたらす。
ちなみに我々の宇宙は実と虚からなる複素体である。 劫という文字を分解すると 去&力 となる。
すなわち劫という文字には過ぎ去っていくものの象徴である時間と、
力であるエネルギーの2つの意味が封印されていたのだ。
つまり劫、すなわち光子は時間とエネルギーの最小単位であり、
そしてまさに時空そのものなのだ。
つまり、我々は探し求めていた聖杯を手にしたということである。 さて、ここに至って宇宙の謎を解くRPGの第1ステージはクリアされた、と言ってもいいだろう。
そしてその攻略法の要点をまとめると、
・ミクロ系とマクロ系には全く別の物理法則が適用される→GAME OVER
・時間の逆行とはフィルムの逆回しである→GAME OVER
・負の質量(エネルギー)のベクトルはマイナス無限大に向いている→GAME OVER
・粒子と反粒子が出会うと対消滅し、跡形もなく消え去る、ゆえに反物質は存在しない→GAME OVER
・粒子も反粒子も正の質量(エネルギー)をもつ→GAME OVER
・光子の質量はゼロである→GAME OVER
・素粒子は構造をもたない→GAME OVER
・エーテルは存在しない→w 「劫という文字を分解すると 去&力 となる。」
笑うところか? >>87
>劫、すなわち光子は時間とエネルギーの最小単位
素粒子が最小単位というのがつっこみ所なんだよ低学歴。
光子が最小単位なら電子とはどんな単位ですか?
あるいはニュートリノとはどんな単位? >>88
まずは高学歴による何々の最小単位の意味を説明してもらおうか。
例えば生物学者が、生命の最小単位は細胞である。と言った直後に、
細胞は核やミトコンドリア…から構成されている、と述べたら笑いが起きるのか?
あるいは水が水素と酸素に分解できるからといって、液体水素(酸素)を満たした水槽で
熱帯魚を飼えるのか? >>84
>・ミクロ系とマクロ系には全く別の物理法則が適用される→GAME OVER
>・時間の逆行とはフィルムの逆回しである→GAME OVER
>・負の質量(エネルギー)のベクトルはマイナス無限大に向いている→GAME OVER
>・粒子と反粒子が出会うと対消滅し、跡形もなく消え去る、ゆえに反物質は存在しない→GAME OVER
あたりはそもそもそんな主張は無いし、
>・素粒子は構造をもたない→GAME OVER
は素粒子の定義が意味不明だな >>89
まずは>>83がどういう意味で最小単位という言葉を使ったのかを聞くのが先決だろ 最小単位とはそれ以上分割できないということ。仮に分割しても体を成さないこと。
例えばデジカメやディスプレイの画素のようなもの。
つまり、ディスプレイを限りなく升目に区切った場合、画素数以上に分割しても無意味。
そしてその対極にあるのが連続体。
あるいは水の中の生物にとっての空間(時空)の最小単位は水分子一個。
水分子はさらに水素と酸素に分割できるといっても液体水素(酸素)を満たした水槽で
熱帯魚を飼えないのは明らか。その場合水素と酸素は水分子という最小単位の要素。
で、俺は水が水素と酸素の結合体であるように、光子は電子と陽電子の複合粒子としている。
そしてその光子の集団こそが時空そのものであり、光子一個が時空の最小単位。 そもそも既存の理論は、電磁場は光子の集団であり調和振動子の集団であるとしている。
その意味では宇宙が光子エーテルで満たされているという考えはそれほど飛躍したものではない。
ただ違いは既存の理論は連続体を採用している。すなわち連続無限個の調和振動子。
それに対して水であれ大気であれ媒質は原子・分子というドットの集まりなのだから
離散的。
エーテルを捨てた代償として既存の理論は時空連続体に甘んじている。
もっとも、連続体で満足なら俺がとやかくいう言うのは余計なお世話かもしれない。
しかし、そもそも連続体の時空そのものを量子化しようという行為は無理がある。
実際、およそ100年間、世界中の優秀な頭脳が挑戦したにもかかわらず未だに
重力の量子化に成功していない。
いい加減あきらめろってw
重力の量子化はおよそ100年前にエーテルとともに
ゴミ箱に棄てちまった、てことにいい加減気づけよw ※L'(t')=L(t)√1−(v/c)^2
驚くべきことだが、エーテルを否定した特殊相対論はただの一度も実験で検証された試しは
ない、というのが俺の見解だ。ならばおよそ100年間反証されていないのは当たり前である。
例えば地球上空で生成された寿命の短いμ粒子が地表に届くのは、光速近い速度で走る
μ粒子の寿命が延びたからとされる。すなわち※の式にμ粒子の速度を代入すればよい。
しかしこれはローレンツ変換の有効性が確認されただけである。この限りにおいては
エーテル理論も同じだ。
つまり相対論を検証するには※の式に光速近い地球(実際にはそのμ粒子を除く
全宇宙)の速度を代入しなければならない。
つまり実験屋がμ粒子と併走して地球に突っ込み、※の式の通りに地球の大気が
数100メートルに縮んだのを確認しなければならない。
ちなみにμ粒子と併走する実験屋は静止系。
しかしそんな実験がなされた事実はないのだから、相対論による予想はあくまでも仮説だ。 あるいはジェット機に乗せた原子時計は、地上にある原子時計より特殊相対論の予測通り
遅れた、という報告がある。
実際には一般相対論を考慮すると結果的には進むのだが、しかし特殊相対論分の時間の遅れ
は観測されたというものである。
ならばこの実験は特殊相対論が間違っていたことの証明であるとも言える。
なぜなら、特殊相対論によれば、※の変換式にジェット機から見た地球の速度を代入しても
かまわない。つまりジェット機からの視点では動いているのは地球の方なのだから、
地球に置かれた原子時計の時間が遅れる。しかしそのような報告はない。
つまり特殊相対論の予測はハズれたのだから特殊相対論は間違っている。 さて、そのいい訳として、地球を周回するジェット機は厳密には慣性系ではないのだから、
特殊相対論の適用外である。とする見方もできる。
ならば特殊相対論によるとされた時間の遅れは宙に浮く。
しかし考えてみれば、この実験は双子のパラドックスの実写版と言える。
実写版とは変な言い回しだが、かつて思考実験に過ぎなかった双子のパラドックスが
まさに実現されているからだ。
すなわち地上に置かれた原子時計を双子の弟、ジェット機に積まれた原子時計を
双子の兄とすれば、まさに双子のパラドックスそのものである。
ならば、ジェット機に積まれた原子時計の時間の遅れは、ジェット機が離着陸した時の
加速、減速によるものなのか? しかしいずれにせよ、そもそも特殊相対論の主張である任意の慣性系、
すなわち慣性系A、Bを用意して、互いに互いの時間が遅れる、あるいは互いに互いの
長さが縮む、という実験は存在しないことになる。
実験そのものが存在しないのであれば、反証されるわけがない。
しかし科学哲学の立場からすれば、反証可能性のないものは科学とは呼べない、という
過激な見方もある。
つまり、現在科学者がやってることは、μ粒子などの宇宙線にせよ、加速器(慣性系では
ないのは明白であるが)における
電子などの素粒子にせよ、明らかに動いているとおぼしきモノの速度をローレンツの
変換式に代入しているだけであり、その逆はない。
つまり、マラソンに例えるならば、折り返し地点には確かに特殊相対論は先頭にいた、
しかし特殊相対論がゴールのテープを切った姿を見た者は誰もいない、と言うことだ。 ____
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/ ⌒ ⌒ \ 何言ってんだこいつ
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 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二 _|_|__|_
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/ ⌒ ⌒ \ 相間は新しいスレを立てずに今あるスレでやれよ
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/ ⌒ ⌒ \ このスレは生命力学〈Vital Mechanics〉のスレなんだから
/ (●) (●) \ 相間はスレ違い
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/ ⌒ ⌒ \ 自分の理論を展開したいだけなら
/ (●) (●) \ 専用のスレがあるからそっちでやれ
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/ ⌒ ⌒ \ 重複スレだからちゃんと削除依頼出して置けよ
/ (●) (●) \
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 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二 _|_|__|_ 現在でもアカデミーの世界ではシュレーディンガーの猫は未解決問題なのかな?
S猫はミクロ系とマクロ系を隔てる禁断の壁である。すなわち不用意にこの壁を越えると、
科学はオカルトの総本山の看板を掲げなければなりませんよ、というものである。
最近はよく知らないが、量子力学の通俗書は確率や重ね合わせや不確定性、あるいは
粒と波の二重性、あるいは二重スリットの振る舞い、等々に対し、それゆえミクロの世界は
我々の常識が通用しない不可思議な世界である、というフレーズをウリにしていた。
そして、S猫もまたミクロの世界は我々の常識が通用しない不可思議な世界の仲間である。
ところで、このスレの目的はミクロ系とマクロ系の統一である。
すなわち生命力学の観点からはS猫の謎は解消される。 結論を先に言ってしまえばS猫にミステリーもパラドックスも何もない。
なぜならS猫の仮想実験にはトリックが含まれているからだ。
そもそもミクロ系の対象である放射性原子とマクロ系の対象である猫は1対1の対応がついている。
例えば、特定の一個の放射性原子が何時崩壊するのかは確率でしか記述できない。
ただ多くの集団に対しては半減期のように定量的に語れるだけである。
それは特定の一匹の猫(人間)が何時死ぬかは不確定であるが、より多くの人間を集めると
その国(地域)の平均寿命に収束するのと同じだ。そしてそれは生命保険の手法でもある。 さて、一言で猫と言っても猫は部分からなる全体だ。例えば猫の絵を描くとしよう。
その場合、頭、胴体、足、尻尾、さらに顔に目鼻、ついでにヒゲを加えるといよいよ猫らしくなる。
すなわち猫はそれらの部分からなる全体なのだ。
さらに猫は全身毛で覆われているし、さらに皮膚、肉、骨、脳に五臓六腑、
さらにそれらを繋ぐ神経や血管、そして筋肉ときりがない。しかし最終的に細胞という最小単位にぶち当たる。
もちろん細胞も部分からなる全体だ。
すなわち細胞はDNAを納めている核やミトコンドリヤ等の複雑な構造をもっている。
そして細胞はさらに分子・原子に分解される。
ようするに猫は部分が集まって全体になり、その全体がさらに大きな全体集合の部分になる、
といった階層構造をもっている。もちろん猫が全体集合と言っても猫の集団(社会)から見れば
猫一匹は部分である。 マクロ系の猫が階層構造をもっているように、ミクロ系の原子もまた階層構造をもっている。
すなわち原子は原子核と電子に分割される。さらに原子核は原子番号に応じた幾つかの
陽子と中性子、そしてそれらを仲立ちする中間子に分割される。
さらにそれらのバリオンやハドロンは標準理論によるとクォークへと分割され、
さらに電子やクォークの周りにはいわゆる4つの力を媒介するゲージ粒子が取り巻いている。
さらにそれらのモノは超ひもに分割されるという説もある。
ちなみに超ひもはスーパーストリングと単数形で表されているが、
超ひもも分割されてハイパーストリングスと複数形で呼ばれるかもしれない。
ようするに、部分が集まって全体になり、その全体がさらに大きな全体の部分になる、
という図式は猫も原子も同じなのだ。
ところがS猫において比較されているのは部分と部分ではなく、ましてや全体と全体ではない、
部分集合と全体集合なのだ。 なぜならS猫の仮想実験において、毒ガス入りのビンを割る引き金を引くα線は電子を剥ぎ取られた
ヘリウムの原子核だからだ。さらにそのα線はどこから来たのか?というとラジウム原子が
放出したものだ(その結果としてラジウムはラドンに変わる)。
さらにそのラジウム原子はどこに在ったのか?というと、それは元々1時間以内にα線を放出
するかしないかに調整された微量(微量といっても無数個ある)のラジウム原子の集団である。
ようするにミクロ系からエントリーされているのはあくまでも部分集合の部分集合の
そのまた部分集合なのだ。
そして部分と全体を対応させるならばオカルトが出現するのは当然なのである。 例えば致命的でなければ人間の体の一部が欠損したからといって必ずしも死ぬとは限らない。
実際盲腸や胃、あるいは病巣を切除することは普通に行われている。
つまり、S猫に対比されたマクロ系とは、腹痛で苦しむ人間の盲腸を摘出した意味合いでしかないのだ。
あるいは不幸にして地雷を踏んで左足を失った人がいたとする。
この場合部分と全体を同一視すれば、右足を観測すれば生きてこの世にいる。しかし左足を
観測すれば非存在であり、その人間はあの世にいる、という奇妙なことになる。
あるいは人間の細胞はおよそ60兆個と言われている。
もちろんその中には生まれたてのモノもあれば盛んに活動しているモノもある。
さらに死んでいく細胞もある(老廃物として排泄される)。
この場合も部分と全体を同一視すれば奇妙な結果を得る。
すなわち生きている細胞を観測すればその人間は生きている。しかし死んだ細胞を観測すれば
その人間は死んでいる、ということになる。
もちろん人間の一生はただ一度だけとしても、その内部においては無数の生死のドラマが
演じられているのだ。 ところで、人間の血液の中の赤血球の寿命はおよそ3〜4ヶ月と言われている。
ならば便宜上100日とすると、2400個の赤血球を集めると1時間以内にその中の一個が死滅する
確率は50%である。だとしたら、S猫の仮想実験装置の微量の放射性原子を微量の細胞に
置き換えてもS猫の仮想実験は成立する。
だからと言って、人間とその部分である細胞との間に越えてはならない一線を引く必要があるだろうか? S猫の仮想実験装置にはさらに別の不備がある。すなわち毒ガスの量だ。
つまり、S猫においては毒ガスが放出されると猫は確実に死ぬという前提になっている。
にもかかわらず蓋を開けるまでは猫の生死は決定されない、などと訳の分からないことを主張しているのだ。
つまり、あらかじめミクロ系には確率が、マクロ系には決定論が成り立つというトリックを忍ばせている。
確かに無防備の猫に致死量を遥かに越えた毒ガスを浴びせれば確実に死ぬだろう。
では猫にガスマスクを装着する、あるいは毒ガスの量を致死量ギリギリに抑えたならばどうなるのか?
その場合死ぬ猫もいるだろう。しかし中にはしぶとい猫がいて、全く平気な猫もいるだろう。
あるいはもがき苦しんでいる猫がいるかもしれない。
結局のところ一刻も早く蓋を開けて猫の生死を確認しなければならない、
というごく当たり前の結論しか得られないのだ。 ところで致死量でググると半数致死量という用語でてくる。
ようするに致死量には個体差があって絶対的な数値は決められない。
そこである量を与えて半数が死に至る量を半数致死量と呼ぶことらしい。
まさに確率と統計の世界である。結局、マクロ系の猫に対してもあらかじめ確率を導入しておけば、
マクロ系の猫に対しても不確かなことしか言えない、という状況に変わりない。 結局S猫の仮想実験は、ミクロ系には確率ありき、マクロ系には決定論ありきなのである。
ならばS猫の仮想実験装置の放射性原子を、確率で記述されるマクロ系の事象に置き換えても
S猫の仮想実験は成立する。
例えばインターネットと毒ガス発生装置をケーブルで繋ぎ、どこどこに地震が起きた、
どこどこに雨が降った、あるいは超新星が発見されたという情報が流れると毒ガスが
発生するようにセットすると、猫の生死はそれらの事象とリンクすることになる。
だからと言ってそれをミステリーと思い悩む必要があるだろうか? 細胞は細胞を維持しようとする免疫系と細胞を破壊しようとする異物や細菌、ウイルスと
いった正負のベクトルの重ね合わせである。
地震がプレートの歪みによる跳ね返り(解放)ならば、大地は歪ませようとする力と解放
されようとする相反するベクトルの重ね合わせである。
地球の大気は高気圧と低気圧、あるいは寒気と暖気の重ね合わせ(前線)である。
天体は重力により一点に壊縮しようとする力と、核融合反応による熱により拡散しようとする
相反するベクトルの重ね合わせである。
つまり天文学者は我々の銀河系において、超新星の出現は数十年に一度あるかないかとしか言えない。
もしミクロ系が我々の常識が通用しない不可思議な世界ならば、量子力学者はピンポイントで
地震が起きる日時と震度、超新星が出現する日時と方向を予測できるはずである。
ならばぜひともやってほしいものである。 さて、言うまでもなくS猫は仮想実験である。
しかし今回の原発の損傷により、仮想実験が仮想でなくなった。
すなわち、まさに我々自身がS猫状態に置かれているということである。
ならば致死量に満たないはずのα粒子一個を猫を死に至らしめるように増幅する毒ガス入り
のビンの役割は何なんだ?
つまり、仮想実験においてはα粒子一個と猫一匹の死が対応している。
しかし現実の世界では原発から放射線が出まくりなのに健康には影響しない、
とアナウンスする。この差異は何なんだ?
もちろんその答えは明らかである。
すなわち本来放射線物質の崩壊も猫の生死も確率と統計でしか語れない。
ただし猫の生死は外的要因によりコントロールできる。そしてそれはS猫で言えば
毒ガスの量である。そしてそれは原子の世界も同じである。
すなわち核物質に浴びせる中性子の量により核反応をコントロールできる(はずだ)。
そしてそれがまさに原発の原理ではないのか? . / | \─`-
| /, / / | \
l/ //′ / /l. / ∧ | \ ヽ
/ 〃 / _./-ァ' |/ ,' -H.、 ! '.、 ',
///' ,/ /// j/ / '.| :|l | ヽ |
/' | i´i /:fr≠=r | /ァ=ォ !| | '.|
(⌒ー、 /, ´ヽ|. / N!ら、_リ ,! ' ん, ソ' ! /,ハ ,′ はいはいワロスワロス
\ { __ / l |/ :| ‘ー‐' , ー-'/N// |/
l ∨ y | 'l. |>、._ ーー'_ ノ !ル'
l. './, ,ハ | | ヾミこ彡'ヽ| ||
| .f / ,.'/ ____'. '. _/ ̄ ̄ ̄¨¨¨丶、__, ' ´ ̄ ̄〉
/////レ'´,. -‐-'、,ノ´ v / 7 _/.
{ ( /l/' K「 '´ ̄ ヽ.`) / / r'ーf 俺はS猫(埋葬される運命にある状態と、じゃれて愛くるしい状態にある猫が併存)は
部分と全体を同一視するトリックだと述べた。
だが、だからと言ってS猫を完全に葬り去ったわけではない。
なぜならその論理は、その定義により構造をもたないモノに対しては適用できないからだ。
ところで電子や光子などの素粒子は現在、構造をもたない点粒子とされている。
それゆえ素粒子の世界にはS猫をはびこらせる土壌がある。
もっとも、原子は構造体なのは明らかなのだから、原子レベルではS猫は存在しない。 現代物理においては何も無い真空、あるいはエネルギー最低状態の基底を |0>で表す。
そして生成演算子を作用させて真空を埋めていく。すなわち |n>
それに対して媒質、すなわち水の世界における電荷は |0>であり、|H2O>であり、|±0>である。
コップ一杯の水には想像を絶する電荷が満ちている。しかしそれが水である限り±0である。
水分子は水素と酸素が反応した生成物であり、いわゆるボソンである。
水分子は粒であり、振動する能力を有しているのだから波でもある。
すなわち粒であり波でありそれ以外の何物でもない。
つまり、水分子における重なり合っている排他的2値である水素と酸素はあくまでも部分系である。 電子と陽電子が対消滅すると光子に、逆に光子から電子と陽電子が対生成される。
ならば媒質をモデルに、光子は電子と陽電子の複合粒子とすればよさそうなものであるが、
電子も光子も構造をもたない点粒子とされているのだから、既存の物理ではそれはない。
ならば、例えば光子の反粒子は光子自身と言う時の光子はまさにS猫状態である。
つまり、部分系をもたない光子は絶えず光子全体が粒子と反粒子という排他的2値の間を
揺らいでいることになる。 結局、連続体の場が無限大の困難を内在するように、構造をもたない点粒子という素粒子論は
S猫の存在を内在する。
そして、それゆえにミクロの世界は我々の常識が通用しない不可思議な世界である、とするか、
それゆえに構造をもたない点粒子として電子や光子を規定している標準理論には限界がある、
とするかは議論の別れるところである。 構造をもたない点粒子という概念が必然的にS猫の存在を許容すると言うことを見てみよう。
例えば医者が、細胞を量子力学的表示で記述したとする。すなわち
|細胞ψ>=|がん遺伝子↑>+|がん抑制遺伝子↓>
実際誰もが細胞にがん遺伝子とがん抑制遺伝子を併存させている。
がん遺伝子があるからと言ってがんになるとも限らないし、がん抑制遺伝子があるからと言って
がんにならないとも限らない。
そのメカニズムは複雑であろうが、要はスイッチオンオフの関係であろう。
すなわち <正常細胞φ|ψ> そしてその複素共役として <がん細胞φ|ψ> さて、では細胞を構造をもたない点と考えたらどうなるのか?
すなわち粗視化して人間は構造をもたない点である細胞の集まりとするのである。
ならば細胞を|ψ>のように状態ベクトルで記述すると、細胞は生まれながらにしてがんに
冒されている細胞と、絶対にがんにならない細胞の重ね合わせになる。
さらにそれを人間全体に当てはめると、人間は生まれながらにしてがんに冒されている人間と
絶対にがんにならない人間の重ね合わせになる。
ならばがんになっていない人間は、がんに冒されているもう一人の自分はどこにいるんだ?
あるいはがんに冒されている人間は、絶対にがんにならないもう一人の自分はどこにいるんだ?
ということになる。
そしてその解決法として、互いにもう一人の自分は分岐、すなわち多世界解釈で説明しようと
するのは必然の流れなのである。 S猫は猫である必要はない。要は排他的2値があればよい。
例えば猫を裁判に置き換えてみる。すなわちシュレーディンガーの裁判だ。
|判決ψ>=|検察側↑>+|弁護側↓>
言うまでもなく裁判は、裁判の名において検察側も弁護側も部分集合である。
すなわち検察側は罪を重くしようとするベクトルをもち、逆に弁護側は罪を軽くしようと
するベクトルをもっている。
この場合も部分と全体を同一視、あるいは部分と全体が定義できなければ奇妙な結果を得る。
すなわち検察側が裁判そのものならば、そして死刑を求めたならば、被告は死刑だ。
同様に、弁護側が裁判そのものならば、そして無罪を主張したならば、被告は無罪だ。
ならば被告はあの世とこの世を往還しなければならない。
しかし現実には裁判長が判決を言い渡した瞬間(いわゆる波動関数の収縮が起こり)
、刑が確定する。
そして死刑であろうと無罪であろうと懲役何年であろうと、検察側と弁護側の主張が
重ね合わされたものに違いない。だとしたら判決結果はΨである。
さらに判決に不服な方が控訴すれば、そしてそれが認められたならば、刑は再び不確定になる。 結局、S猫は存在しないとするならば、ミクロ系とマクロ系を隔てる禁断の壁は存在
しないのだから、波動関数ψも状態ベクトルも汎用性をもつことになる。
つまり、それはマクロもマクロ、すなわち宇宙全体も波動関数で記述されなければならない。
つまり、我々の宇宙は排他的2値である物質と反物質が実と虚の関係で重なり合っている。
ある意味3Dの世界だ。
すなわち |ψ宇宙>=|物質>+|反物質>
そして我々が認識している世界が <物質優位|ψ宇宙> であり、その複素共役として <反物質優位|ψ宇宙> の世界がある。
床に落として2つに割れた洋皿の片方を拾い上げたならば、そのギザギザにぴったり合う
もう一つの片割れがある。
もし数学が科学の女王ならば、科学の女王は複素共役のもう一方の片割れをどこかに
産み落としているはずだ。
もし数学が信用に足る学問ならば、それはいずれ発見されるであろう。 S猫がマジシャンの、魔術を演じるためのトリックを仕込んだ小道具だとしても、
そこで問われているのは可逆と不可逆の関係である。
我々は生きている猫が死ぬことはあっても、死んだ猫が生き返ることはないと思っている。
しかしもし時間が可逆ならば、死んだ猫もゾンビのように生き返る。
すなわち、例え箱の蓋を開ける10分前に猫が毒ガスを吸って死んだとしても、
そこにゾンビ猫がいるかもしれない。
ところで、ミクロの世界は時間を逆行させると上手く記述されるらしい。
ならば、ミクロ系にはゾンビ化した猫がうようよいるということになる。 さて、このスレの目的がミクロ系とマクロ系の統一であると大きくでたからには、
マクロ系においても時間の逆行が有効である、すなわち時間が可逆であることを
証明しなければならない。 ところで、S猫を解説する書物は判で押したように半死半生の猫は考えられない、
という前提で論理を展開している。
しかしこれは明らかに間違いである。
なぜなら半死半生とは辞書を引くまでもなく実在する状態であるからだ。
すなわち生きるか死ぬかの境界にある様を半死半生というのであり、
どっちに転んでもおかしくない状態である。
つまり、半死半生の猫は考えられない、という前提の下で話を進めるということは、
生命系における日常用語としての半死半生、あるいは定量的意味での半死半生(部分死部分生)
を暗黙のうちに奪っていることになる。
そしてそれは同時に、ミクロ系における生命系のような生と死の中間状態にある
可能性を排除しているということになる。 例えば誰かが交通事故を起こし、多量の出血をしたとする。
もしすぐに発見され、適切な処置をされたならば助かるかもしれない。
しかし発見が遅れ、そのまま放置されたならば命を落とすだろう。
その状態を半死半生と言わずしてなんと言うのだろうか?
あるいは普通風邪で命を落とすとは思わないだろうが、
毎年多くの人間がインフルエンザなどで死んでいる。ようするに、程度の差はあれ、
あの世とこの世の階段に続く踊り場にある状態を我々は病気や怪我と呼んでいるのである。 もちろん、物理学者の言う半死半生とは日常用語としての半死半生ではなく、
定量的意味での半死半生(部分死部分生)でもない。
ようするに医学的に生きている状態と死んでいる状態が明確に区別される対象が
併存しているとするものである。
ならばそれは揚げ足をとるようだが、全死全生の猫は考えられない、と言うべきである。
いや、全死全生の猫も厳密には正しくない。
なぜなら死んだ猫も、DNAさえあれば遺伝子操作で生き返る可能性がないとも言えないし、
生きている猫も定量的に部分系として死んだ細胞を含んでいるからだ。
しかし、日常用語としての半死半生が現実に存在する以上、その対語として
全死全生を使うことにする。 さて、先ほど挙げた交通事故のように重傷を負うということは、
時計の針が狂ったようにグルグルと回り始めるということである。
そして適切な処置をするということは、時計の針に逆向きのトルクをかけることである。
すなわち生命系はあくまでも可逆なのである。
もし生命系が不可逆ならば、病気や怪我が治るなどということはありえないことである。 生まれた人間(生命)が死ぬのは外的であれ内的であれ死の因子(ベクトル)がある
からであり、簡単に死なないのは同時に生の因子(ベクトル)があるからである。
すなわち生命系とは正負のベクトルの重ね合わせなのだ。
死の因子
―――――――→
←―――――――
生の因子
そもそも我々の身の回りには細菌やウイルスなどの病原体が取り巻いているのだから、
その限りにおいては人間は生まれたとしてもすぐに死んでしまうはずだ。
しかし簡単に死なないのは病原体に対して貪欲な白血球や免疫系が機能しているからだ。 生命系が可逆であることのよい証明は、あたかもフィルムの逆回しのような現象が存在することだ。
例えば包丁で指を切ったとしても、ちょっとした傷ならばいつのまにか元の状態に修復する。
つまり、人間の体、組織には元の状態に戻ろうとする復元力があるということだ。
あるいはよく古いビルを爆破して解体する映像があるが、その映像を逆回しすると、ガレキが
スーっと集まってきて解体前の状態に戻るという奇妙な映像になる。
しかしそれが重要文化財ならどうだろう。すなわち何らかの原因で破壊されたとしても、
住民(国民)の合意さえあれば復元する。実際、火災で消失した金閣寺は元の状態に復元されている。
もちろんフィルムの逆回しとは直接には関係ないが。 その状況は今回の震災現場も同様である。
もし生命系が不可逆ならば、ガレキはそのままであり、町は廃墟と化すであろう。
しかし現在ガレキは撤去され始めており、被災地は復興という名の下に甦るであろう。
もちろん同じ状態に復元する必要はないが、新しく生まれ変わるということだ。
つまり、被災地はあくまでも日本という国の部分系なのだから、そこに生と死、
あるいは破壊と再生という排他的2値があっても不思議はない。 さて、もし物理学者の言うS猫が全死全生の猫ならば、放射性原子であるラジウムの状態は
|崩壊しない>+|崩壊する>=|生きている猫>+|死んだ猫>
となる。さらに書き換えると
|生きている猫>+|死んだ猫>=|ラジウム原子>+|ラドン原子+ヘリウムの原子核>
となる。しかしこれは明らかにおかしい。
なぜなら上の式が正しいのならば、ラジウムは絶えずα線を放出し、そして放出されたα線は
絶えず時間を遡ってラドンに吸収されるという過程を繰り返していることになる。
そしてラドンがα線の吸収を停止した時点においてラジウムがα崩壊した、ということになる。 結局、原子核内において重なり合っている排他的2値はあくまでも部分系とすれば
何の問題もない。
すなわち重なり合っている排他的2値とは、α粒子を原子核内に繋ぎ留めている
強い力であり、そしてα粒子が原子核内から飛び出そうとする力である。
そしてしきい値を超えた時にα崩壊が起きるのだ。
ちなみに俺の解釈よれば、強い力とは粒子と反粒子の対消滅と反重力の複合力である。
いずれにせよ原子は構造体なのだから、原子レベルにおいてはS猫は存在しない。 ポケットの中の小銭入れから硬貨を取り出し、親指で弾いて空中に放り上げる。
そして右手でつかみ取った瞬間、表か裏に収束する。
言うまでもなく一枚の硬貨は表と裏から成っている。
もちろんどちらを表と呼ぶかは任意であるが、一応日本国の文字が刻まれた方が表だ。
ところで、一枚の硬貨こそがまさに半死半生の猫ならぬ、半裏半表のコインなのだ。
仮にこれを極ありふれているという意味で「古典的コイン」と呼ぶことにする。 さて、では古典的コインに対する「量子的コイン」とは何なのか?と言うと、
S猫は全死全生なのだから、全裏全表のコイン、ということになる。
ようするに空中に漂っているコインは、表も裏も表側のデザインが刻まれたコインと、
裏も表も裏側のデザインが刻まれたコインが併存している。
そして右手でつかみ取った瞬間、そのどちらか一方、例えば表も裏も両面表側の
デザインが刻まれた面に収束する。これがいわゆるコペンハーゲン解釈である。
さらに、いや、この場合たまたま表側のデザインが刻まれた世界を選択しただけであり、
両面裏側のデザインが刻まれたコインを選択したもう一つの世界がある、すなわち
世界は分岐したのだ、というのが多世界解釈である。 ではコペンハーゲン解釈と多世界解釈のどちらが正しいのか?
というと、それはコインをひっくり返せばわかる。
すなわち、もし上を向いた面の反対側に全く違うデザインが刻まれていたとするならば、
コペンハーゲン解釈も多世界解釈も間違っていたことになる。 そもそも古典的コインは必ずしも古典的ではない。
例えば表側と裏側を青と赤の2色に色分けし、そして机の上に立てて回転させる。
すると紫色に見えるだろう。
さらに指で押さえると青と赤の面のどちらか一方に収束する。
しかし裏と表を何度ひっくり返そうとも紫色はどこにもない。
すなわち排他的2値が重なり合った状態と、そのどちらか一方に収束する現象が
古典的コインにおいて実現している。
そしてそれは日常用語としての半死半生の猫が実在するように、
実在するコインはまさに半分表であり、半分裏であるからだ。 そもそも物理学に裏側という概念はない。
信じがたいと言うべきか当然と言うべきか?
例えば以前レスしたように既存の理論による重力場は常に引力、すなわちゴム膜で
言えば表側しか使っていない。
図1
____ ____
\○/
 ̄
図2
_
__ _/●\__
\○/
 ̄
しかし、もし物理学に裏側の概念が存在するならば、当然図2のように正負の
2種類の重力場、そして引斥力が導かれるはずだ。 あるいは
WORM HOLE
A面/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
↓ ▼ ▼
/ : :
───┬──┬─
↑ └──┘
B面 BLACK BLACK
HOLE HOLE
上の図はいわゆるワームホールであり、BHとBH(WH)を繋げたものだ。
しかし、それはあくまでもA面の世界での話しであり、B面は何の係わりもない。
もし物理学に裏側の概念が存在するならば
・ ┌──┐
EXIT │ │
↓ │ │
/ ̄ ̄│ ̄ ̄△\
/▼ : \
: : \
 ̄│ ̄ ̄│ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
│ │ ↓
└──┘ EXODUS
上の図のようにA面とB面を繋げた幾何学構造が考えられるはずだ。 いや、粒子と反粒子は表・裏の関係にあるのでは?と思われるかもしれない。
しかし既存の物理では素粒子は構造をもたない点とされてるのだから、
つまり内部構造をもたないのだから、表・裏は意味をなさない。
強いて表・裏を定義するならば全表全裏である。
例えば構造をもたない光子の反粒子は光子自身と言う時の光子は、
まさに全表全裏、すなわちS猫状態である。
すなわちミクロの世界はゾンビ猫が住まう世界だと言うのだ。既存の理論によると… 素粒子の世界では、反粒子は時間を逆行する粒子とされている。
これはボソンを説明できなかったディラックの海に変わる、負エネルギー解から
導出された反粒子を正の質量に改変するための苦肉の策である。
マクスウェル方程式から2つの解が出る。
そして何故かそれは時間を順行する遅延解と時間を逆行する先進解とされている。
普通物理学者は一方の解を無意味なモノとして無視する。
しかしファインマンは時間の対称性に意味があると考え、先進解を積極的に利用した。
そして、実際反粒子は未来から過去に走る粒子とするとミクロの世界を上手く記述出来るらしい。
しかし、それがマクロの物体ならば当然因果律に抵触する。
ミクロの世界ならば何でも許されるというものでもないだろう。
物理学者は負の質量には冷たいが、こと時間の逆行には寛容なようだ。 さて、陽電子は時間を逆行する電子とすると、そしてそれにより光子の対生成・対消滅が
説明できるなら、まさにそれはS猫のストーリーそのものである。
すなわち生きている猫が時間を順行して死ぬ、そして死んだ猫が時間を逆行して生き返る。
つまり、猫がこの世とあの世を往還する状態が波動場である。
ならば、まさにミクロ系は我々の常識が通用する世界ではない。
これはあまりにも奇妙なので、波動関数は実在しないとも言われている。 翻って生命が住む媒質はミクロ粒子のフィールドである場のような困難はない。
例えば水の世界は電離して酸性の場とアルカリ性の場に分離する。
酸性 アルカリ性
-t→ ←t
────┼────
0 7(中性) 14
すなわち水素イオン濃度が高いのが酸性であり、水酸イオン濃度が高いのがアルカリ性だ。
酸性は金属を、アルカリ性はタンパク質を溶かすという性質をもっている。
さらに酸性の場を好む生命がいればアルカリ性を好む生命もいる。
しかしいずれにせよ、どちらも中性になる方向のベクトルをもっている。
そして、時間を担う水素イオンと水酸イオンは水分子の部分系である。
すなわち、時間の順逆を同じ対象に担わせるならば因果律の問題が発生するが、
媒質においては時間の矢は2本あるのだから、因果律云々は関係ない。 その様子は大気をフィールドとする生命も同じだ。
[呼吸]→
↑ O2 ⇔ CO2 ↓
←[光合成]
動物は酸素を吸い、炭酸ガスを吐くというリズムを刻む。
逆に植物は炭酸ガスを吸い、酸素を吐くというリズムを刻む。
すなわち呼吸と光合成は過去と未来、原因と結果、入力と出力が入れ替わっている。
だからといって因果律に抵触しているわけではない。
この場合の時間の順逆を保証する数学解は複素共役である。
円の一点を一周させた軌跡を平面座標に射影するとサインカーブを描く。
その場合右に回すか左に回すかによって位相が半波長πずれる。
そして、さらに複素平面上に射影したものが複素共役だ。 ある意味呼吸と光合成はエントロピーの増大を互いに消し合っているとも言える。
もし地球上に植物がいなければ、地球温暖化などと生易しいものではなく、
動物はとっくの昔に窒息死していたはずだ(まあ、それ以前に動物は生まれていないかも)。
逆に植物からすれば酸素とは鉄などを赤く壊縮させる毒々しいモノであり、
さらに森林を消失させる悪魔的存在である。
その酸素を植物にとっては有用な炭酸ガスに変えてくれるのだから、
植物からみれば動物は忠実なる僕なのである。
つまり大気の組成は循環している。
そしてそれはあたかもメビウスの帯のように表と裏を往還するねじれた円環だ。 もし呼吸(光合成)が大気を吸って大気を吐き出すものなら、すなわち変数が1つならば、
どちらが過去なのか未来なのかの区別がつかない。
しかし実際には酸素と炭酸ガスという変数が2つある。
つまり呼吸は余分なものとして炭酸ガスを捨て、光合成は余分なものとして酸素を捨てる。
すなわち呼吸と光合成においては酸素と炭酸ガスの役割が実と虚として入れ替わっていて、
まさに複素共役の関係にあるということである。 もちろん動物と植物が互いにエントロピーの増大を消し合っているといっても、
元々は太陽からのエネルギーがあってこその話だ。
さらに元をたどれば水素ガスが重力場により凝集したからだ。
その意味では時間の流れは一方的である。
しかしもし我々はこの宇宙の部分系しか知らないとしたらどうだろう。
すなわち我々は物質優位の世界にどっぷりと浸かっているから時間の矢は一本しか
認識できないのだ。
つまり、もし複素共役のもう一方の片割れである反物質優位(反物質自身は自らを
反物質とは呼ばない、自虐的でない限り)の世界があるならば、時間の矢は互いに
逆行する2本あることになる。
すなわち物質の根源は循環している。 もし我々が茫漠たる宇宙空間を俯瞰できるならば、さらに悠久の時間の流れをビデオの
早回しのように見れるならば、我々は物質優位と反物質優位の世界を往還する波動場と
しての目まぐるしいダイナミズムを見ることになるであろう。
案外観測技術が進展すれば、ある日唐突に宇宙の壮大な交代劇を鑑賞できるかもしれない。
そしてその時我々は目撃するであろう。
宇宙全体に描かれた天井画が次第に色あせていき、全面的に描き直される様を、 ここで断っておくが、俺は何もファインマンの「反粒子は未来から過去へ走る粒子」
というフレーズを否定しているわけではない。ただニュアンスが違うと言っている。
つまり、例えば植物は動物から見れば未来から過去へ走る、としても構わない。
あるいは、サッカーの選手を突き動かしている原動力が相手のゴールポストの中に
ボールを蹴り込みたいという欲求ならば、つまり相手のゴールポストが未来の方向ならば、
相手チームの選手はまさに未来から過去へ走っていることになる。 もしグラウンドに相手チームの選手がいなければ、ひいきのチームは望むだけ、
好きなように点が入るだろう。しかし実際はイライラするほど点は入らない。
それは逆向きのベクトルをもった相手チームの選手がいるからである。↓●○↑
≪可逆空間≫
・ __┏┓_
/未来 過去/
/○___↓-t
/ ↑t ●/
過去 未来 /
_┏-┓___/
≪複素共役≫
・ Im__┏┓_
↓i=√-1 /
/○___↑ /
/ ↑ ●/
Re ih*∂ψ/∂t=Hψ
_┏-┓___/
サッカーの試合においてはひいきのチームが攻撃中は相手チームの防御側が励起され、
相手チームの攻撃中はひいきのチームの防御側が励起される。
時間の流れ○→
攻撃側(実時間)
―――――――→
←―――――――
防御側(虚時間)
相手チームがボールをインターセプトすると時間の矢は反転する。i^2=-1
←●時間の流れ
攻撃側(実時間)
←―――――――
―――――――→
防御側(虚時間)
結局、時間の流れは4種類あるということだ。
すなわち実の正負の方向性、そして虚のそれぞれの2種類である。 もし我々の宇宙が物質だけで構成されているのなら、そして正の重力場という
一方通行の力しか存在しないのなら、物質の形成する重力場は一瞬にして
この宇宙を崩壊に導くであろう。
すなわちエネルギーというものは本質的に暴走するものである。
しかしそのエネルギーの流れを制御するものが有るはずである。
すなわち我々の宇宙においては物質と反物質に働く斥力により時間の流れは制御されている。
〈物質優位〉
正の重力場〈引力〉
―――――――→
←―――――――
虚の重力場〈斥力〉
そしてその複素共役として
〈反物質優位〉
負の重力場〈引力〉
←―――――――
―――――――→
虚の重力場〈斥力〉
そしてそれを記述する数式として
◇ i*ST*∂ψ/∂t=Hψ
_ _
◆-i*ST*∂ψ/∂t=Hψ
ただしSTはSPACE TENSION(空間張力)
以上をもってミクロ系とマクロ系は統一される。
そしてそれは量子重力、あるいは量子宇宙論に他ならない。 すみません、まだ若輩モノのためできれば量子宇宙論についての説明をお願いします
菅「理由はともかく、菅直人を降ろしたい。そういう力学が感じられる」
<菅首相>批判に不満 「週刊朝日」の単独インタビューで
毎日新聞 8月8日 19時10分配信
菅直人首相のインタビュー記事が9日発売の「週刊朝日」に掲載される。現職首相が週刊誌の単独インタビューに応じるのは異例。
首相は自身の退陣時期について「どうにか原子力行政の抜本改革の道筋はつけたい。これが今の率直な思い」と述べるにとどめ、
与野党に強まる首相批判には「理由はともかく、菅直人を降ろしたい。そういう力学が感じられる」と不満を示している。
http://headlines.yahoo.co.jp/smartphone/hl?a=20110808-00000052-mai-pol シュレーディンガーの猫をアレンジしたものに、ペンローズが紹介したいわゆるペンローズ版がある。
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光源―――/――光子検出器-ピストル→猫
↑
ハーフミラー
すなわち、光源から出た光子はハーフミラーを反射する状態と透過する状態の重ね合わせにある。
|ψ>=|↑反射>+|↓透過>
ハーフミラーを透過した先には光子検出器があり、光子を検知するとピストルの引き金が引かれ、猫は死ぬ。
すなわち
|ψ>=|↑生>+|↓死>
つまり、ハーフミラーによってミクロ系にリンクされたマクロ系の猫は、生と死の重ね合わせの
状態ベクトルψにあることになる。 ちなみにペンローズは、量子力学を信じるならば |ψ> をマジに受け入れることはできない、と言っている。
確かに、あの世に逝った猫とじゃれて愛くるしい猫が一匹の猫に併存しているのがミクロ系の実態ならば、
それを素直に受け入れることはできないであろう。少なくともオカルティストでない限り。
それゆえ状態ベクトル|ψ>は実在しないとも言われている。
しかし、そもそもがトリックなのである。
それはオリジナルのS猫と同じトリックである。 つまり、ペンローズはピストルの引き金が引かれると猫は必ず死ぬという状況設定している。
(すなわちマクロ系に対しては決定論)
ではなぜ猫は確実に死ぬのか?
それは猫を身動きできないようにぐるぐる巻きに縛りつけ、さらに猫の急所に銃口を
当て続けているからに他ならない。
ではミクロ系に対してそのような拘束条件を課しているのだろうか?
大体ドラマのヒーローにピストルの弾はなかなか当たらない。
仮に当たったとしても致命傷にはならない。
つまり、ピストルから発射された弾と標的という因果関係からは、まず当たるか
当たらないかの確率が定義される。
さらに仮に当たったとしてもそれが致命傷か致命傷でないかの確率が定義される。 結局、オリジナル版にしろペンローズ版にしろマクロ系に対しては常に決定論が成り立つ、
という前提の下に論理を展開しているのがシュレーディンガーの猫である。
しかし、そもそもハーフミラー自体が反射と透過が50対50になるように造られたモノである。
もしハーフミラーの半メッキを完全にメッキしてしまえば反射と透過は100対0になる。
すなわちハーフミラーは文字通り半死半生の猫であり、全死全生の猫ではない。
あるいはハーフミラーは半裏半表の古典的コインであり、全裏全表の量子的コインではない。 ようするに、オリジナル版にしろペンローズ版にしろ、マクロ系の猫に対しあらかじめ
確実に死ぬように拘束条件を課せば、マクロ系の猫は確実に死ぬと主張しているに過ぎない。
つまりそれは、ハーフミラーをあらかじめ完全に反射するように全メッキすれば、
やって来た光は完全に反射するのと同じだ。
その状況は偏光を分割する、あるいは位相をずらすビームスプリッターも同じである。 そもそも偏光板は偏光した波の一部を透過させるモノであり、
全透過と全遮蔽の重ね合わせでないことは明らかである。
あるいは位相と言えば波長に対し半波長が定義される。
例えばどんな複雑な波形も多くの正弦波(の和として)に分けられる、
というのがフーリエ変換の原理だ。
正弦波は正の位相(山)と負の位相(谷)の単調なくり返しである。
つまり一つ一つの波長は半波長という部分系から成っている。
結局問題は、マクロ系において半分何々で半分何々である、と記述されるモノが、
ミクロ系に遡る過程おいてどの時点でそれが全何々で全何々である、に移行するのか?
という問いである。 さて、上の問いに対する答えは明白である。
すなわちそれは構造をもたない連続体である場と、その場を量子化したとされる
構造をもたない点粒子である素粒子だ。
例えば電磁場を量子化したのが光子である。
しかし構造をもたない光子がなぜ調和振動子としてのバネの性質をもつのか?
あるいは構造をもたない光子がなぜ半波長という部分系をもつのか?
つまりなぜフーリエ展開できるのか?
もっとも光子が粒と波の二重性の粒的側面を表す、とする見方もあるが、
ならば粒と波の二重性は永遠に不可知の領域であり、理解不能である。 ところが媒質の世界にはそのような不可思議はない。
すなわち我々は媒質が何であれ原子の集団であることを知っている。
そしてその原子と原子がバネで繋がったモデルが分子だ。
ようするに媒質は(調和)振動子の集団であり、原子は正弦波、すなわち
サインカーブを描いているのだから、粒であり波であり、それ以外の何物でもない。 いずれにせよ波動というものは最終的に粒的なモノに還元される。
その様子は競技場のウェーブを考えれば分かる。
すなわちウェーブは観客席に陣取る個々の人間が起こす現象だ。
もし波というものが粒に還元されなければ、ウェーブが起きている競技場の観客席には
観客は誰一人としていない、というアナウンサーの意味不明な実況を聞かねばならない。
よくエーテルは波だから必要だとか、光子は粒だからエーテルは必要ない、とか言うが、
エーテルは粒だから必要なのである。これがエーテルの正しい定義だ。
さらに光子は電子と陽電子の複合粒子とすると、その光子の集団こそがエーテルの正体である。 競技場のウェーブが人間という粒的なモノに還元できると言っても、人間はいわゆる剛体ではない。
すなわち人間は少なくとも立つ(伸びる)と座る(縮む)の2値をもっている。
ようするに波動とは質量をもったモノが対極にある状態を加速と減速を交互にくり返しながら往復するものである。
その観点からすると構造をもたないとされる質量ゼロ(実際には質量1として計算している)の光子は、
波動場の量子としての資質が備わっていない。 しかし、もし光子を媒質をモデルにするならば、光子は自ずと粒と波の二重性をもつ。
例えば音波は大気の疎密(密疎)だ。
この場合、一対の正圧と負圧を音の量子とすると、すなわち↓●○↑、
一対の音の量子の質量(密度)は時間平均すると正負の値は相殺されてゼロであるが、
(すなわち1気圧-バネにおける自然長Lに相当する)
Δtにおいてはあくまでも正負の圧力をもつ。
同様に、光子は正質量の○電子と負質量の●陽電子が対になったモノとすると↓●○↑、
光子の質量は時間平均するとゼロであるが、Δtにおいてはあくまでも正負の質量をもつ。
いずれにせよ波動場を調和振動子の集まりとすると、絶対静止ではないにしろ、
自然長Lというエネルギー原点とも言うべき基準系があることは確かである。 現代科学はエーテルを過去の遺物としている。
しかしエーテル否定には明らかな誤謬がある。
そもそもエーテル、すなわち媒質は光の波的側面を説明するためにお呼びがかかったのであり、
そして光は粒的側面をもっているということでチェンジされたのだ。
しかし今日的知見からすれば媒質は粒的側面ももっているのだから、
エーテル否定は正当性を欠いている。
ようするに物理学者がエーテルに突き刺した剣はエーテルの心臓ではなく、
エーテルの幻影だったということだ。 かつて光は粒か波かの論争があった。
この場合光を粒とするとエーテルの存在は必ずしも自明でない。
なぜなら粒それ自身が進んでいくとすればそれを伝える媒質は不要だからだ。
しかし光は波とすると、じゃあその波を伝えるモノは何?、ということになる。
そして、もしそれを伝えるモノが存在するならば、それをエーテルと呼んだのである。 さて、やがて光は波であるとする状況証拠が次々と見つかり、
光=波説が最終的に勝利を納めるかに思われた。
ところが前世紀初頭に、光は粒の性質をもっているといういわゆる粒と波の二重性を標榜する
量子論の台頭があり、媒質の存在を自明としない光の粒説が勢力を盛り返した。
そして物理学者の間に、「光が粒ならエーテルいらなくね?」という雰囲気が蔓延し、
波としての商品価値しかなかったエーテル説は潮が引くように衰退した。
しかしこれは明らかにボタンの掛け違いである。
つまり、本来光に粒的性質が見いだされ時点で、エーテル派は驚喜乱舞すればよかったのだ。
なぜなら今日の知見からすれば媒質が何であれ粒々の集合体だからだ。
つまり、もしエーテルが光の粒的側面を説明できなくて棄てられたのならば、
じゃあ既存の媒質は波的側面だけで記述できるのか?という話になるからだ。 そもそも光、すなわち電磁波と媒質を伝わる波は波長領域で比較するとよく符合する。
我々が普通水の波を見て、それを波と認識するのは比較的波長が長いからだ。
しかし波長の極めて短い超音波は光の性質によく似ている。
例えばコウモリは指向性の強い超音波で外界を認識していると言われているが、
ひょっとしてコウモリは、母親の胎内の胎児を診るエコーの映像のように、
我々が思い描いている以上に鮮明な像で外界を捉えているかもしれないのだ。
あるいは超音波洗浄は振幅ではなく波長に依存する現象である。
すなわちいくら大きな音(振幅が大きい)を当てても短波長成分がなければ汚れは
落ちないが、それが超音波なら落ちる。
その様子は振幅ではなく波長に依存する光電効果とある意味同じだ。 あるいは甲高い声でワイングラスを割るというパフォーマンスがある。
あるいは超音波で結石を破壊するという医療分野がある。
この場合、石が破壊する現象は現象論的には弾丸をぶつけたイメージにより近い。
ようするに超音波はエネルギーがギュッと圧縮されたモノであり、分子結合を
ぶったぎるのに充分のエネルギーをもっているからであろう。
いずれにせよ物体は原子・分子から形成されたモノであり、波を伝える媒質も原子・分子
から成るのだから、単に本性を現したに過ぎない。
さらに、媒質の世界の生成消滅を記述するのが化学だ。
もちろん化学反応を普通生成消滅とは言わないが、原子・分子の性質に着目するならば、
生成消滅という表現もそれほど悪くはない。 電磁波を伝える場と(ところで場って何だ?、電磁波を伝える媒質はダメだが、
電磁波を伝える場はいいのか?)波を伝える媒質はよく似ている。
しかし決定的な違いは場はあくまでも連続体であるが、媒質は構造をもった原子・分子
からなる離散的なモノであることだ。
それゆえ真空が真実連続体ならばエーテルの出番はない。
しかし真空に離散的な兆候が見いだされたならば媒質、すなわちより
バージョンアップされたエーテルは万雷の拍手のもとに凱旋する。 音波を伝える媒質が単に音波を伝えるだけのために存在しているわけではないことは明らかだ。
もちろん人間は大気の振動を利用してコミュニケーションをとっているわけだが、
時として家屋を破壊し、木をなぎ倒す台風やハリケーンもまた大気の仕業である。
つまり、媒質にとって波を伝える能力は媒質の能力の一部でしかない。
ならば、光を伝えると想定されたエーテルが単に光を伝えるだけのために存在する
わけではないとすると、物理学者の4つの力を統一したいという夢は虚しいものがある。 さて、媒質の優位性の一つは力学の基礎方程式の正負の解に完全に対応していることだ。
例えば地上における音波の疎密は大気圧を基準に定義される。
ところで圧力の単位系には絶対圧とゲージ圧の2種類ある。
絶対圧とは密閉容器の空気を理想的に排した状態、すなわち真空を0とするものである。
つまり絶対的な無、すなわち絶対無の世界であり何もない。少なくとも無以外は。
そしてその容器に空気分子を一個、二個と付加していくことにより圧力は増え続ける。
つまり、0より低いマイナスの圧力は存在しない。 それに対してゲージ圧とは大気圧を0とする単位系である。
つまりゼロと言っても存在する無、すなわち存在無の世界だ。
実際大気は1p^2あたり1sの重さをもっている。
人間の体の表面積をアバウトに2uとすると、人間は2dの応力を受けている。
つまり、人間は小型乗用車10〜20台分の重さを身にまとっている計算になる。
(トランスフォーマーかよ!、っていう話だ)
あるいは数p^2の吸盤は数sの重りを吊り下げることができる。
ようするに大気はそれだけのポテンシャルをもっているということだ。
もちろんそんな重さ、力を感じて生活している人間はいない。
我々が認識できるのは気圧の変化、すなわち1気圧からのズレなのだ。 さて、音波の疎密の密の位相を容器に閉じ込めたとしよう。
すると基準値0である1気圧よりも密度が高い分、見かけ上正の質量をもつ。
そして拡散しようとするベクトルをもち、エネルギーとして解放される。
すなわちまさに質量とエネルギーは等価なのである。
逆に疎の位相は密度が低い分見かけ上負の質量をもつ。
そして収束しようとするベクトルをもち、やはりエネルギーを解放する。
すなわちどちらも実のエネルギーであるが、ベクトルの向きが反対なのだから、
一方のエネルギーを正とするならば一方は負と呼ぶしかない。
↓ ↑
→●← ←○→
↑ ↓
負圧(収束) 正圧(拡散)
ちなみに負圧の位相で発生した泡粒は膨張し、正圧の位相で圧縮される。
すなわち短い周期で膨張と圧縮をくり返し、最終的に破裂するのがキャビテーションだ。
ならば、余談だが、もし真空下でキャビテーションのような現象が見いだされたならば、
それはエーテル理論の有力な証拠になる。 そもそも反粒子はディラックが、特殊相対論と量子力学を結婚させたことによる
負エネルギー解から産み落とされたものである。
ではなぜ量子力学と特殊相対論が結びつく必要があったかというと、
それは電子などのミクロ粒子は光速近くで走っていると思われたからだ。
すなわちガリレイ変換からローレンツ変換への書き換えだ。
しかし結婚指輪がローレンツ変換ならば、量子力学はエーテル説と結びつく可能性もあった。
すなわち未だ見ぬ幻の媒質の量子論の存在である。 ところで、負のエネルギー解が導出されるのは相対論だからというわけではない。
なんでもかんでも相対論のロゴマークを貼るのはよくない。
負のエネルギー解が導出されるのは波動場に特有なものなのである。
そもそも場の量子論は結果的に、孤立してると思われていた電子を空間的広がり、
すなわち電磁場と同じように多体系として扱うものだ。
そしてそれはある意味媒質への回帰である。 さて、波動場から正負の解が導出されるのは明らかである。
例えば光速は c=√1/ε0μ0 から、音速は c=√p(k)/ρ から、
ちなみに弦を伝わる波の速度はc= √T/ρ から導かれる。
すなわち波の速度を表す式は全て同じ形式だ。さらに波の速度は全て平方根である。
平方根であるということは、簡単に、√4が2と-2の正負の解をもつということなのだ。
ならば、プラスの速度は分かるがマイナスの速度は何だ?という話になる。
そして物理学者(数学者か?)はパズルの空隙に遅延解・先進解というピースをはめ込んだ。 遅延解とは普通にサッカーのボールを蹴った時の方程式である。
それに対し先進解とはフィルムの逆回し、すなわち後ずさりする選手の爪先めがけて
ボールが転がるという現実には有りえない、奇妙な方程式である。
普通物理学者は一方の解を無意味なものとして無視する。
しかしファインマンは先進解を積極的に利用し、ボソンを説明できなかったいわゆる
ディラックの海に変わる、負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー(質量)
に改変することに成功した。 ところで、もし波動方程式の正負の解が遅延解・先進解ならば、
じゃあ現実に存在する正の周波数・負の周波数は何なんだ?ということになる。
正負の周波数とは、例えば発電機を左右に回した時に、位相が半波長πズレた波である。
さらにそれを複素平面上に射影したものが複素共役だ。
ようするに、波動における時間の順逆とは半波長の位相のズレのことなのだ。 媒質においては正負の解をダイレクトに使わなければ媒質の世界を正しく記述できない。
すなわち上でレスしたように正圧は拡散しようとするベクトル(→)をもち、
負圧は収束しようとするベクトル(←)をもつ。
すなわち媒質においてはプラスとマイナスの2つの速度が定義できる。
つまり正圧と負圧は互いに時間を順行する状態と逆行する状態の関係にあり、
そして元の状態に戻ろうとする。元の状態とは基準値0である。
もちろんフィルムの逆回しとは直接には関係ない。 ファインマン流の時間の逆行という概念を使うと、負の物理量を代用できる。
例えば音波は空気の疎密(密疎)であるが、すなわち正圧で拡散、そして負圧で収束、
という過程を交互にくり返しながら音波は伝わる。
さて、では負圧は時間が逆行する正圧と定義すると、負圧のポテンシャルは必要ない。
すなわち1/2遅延波で時間を順行して拡散、さらに1/2先進波で時間を逆行して収束、
つまりこの過程を交互にくり返すとやはり音波は伝わる。
そしてそれは実際の音波と数学的にも現象論的にも同じ結果を与える。
(実際には同じではないだろうが)
言うまでもなくこの場合の音波は空気の疎密、すなわち縦波であるから、
拡散と収束を正負の解に対応させたわけであって、粒子と反粒子がそれぞれ拡散と収束の
ベクトルをもっている、という意味ではない。あくまでも例えだ。 正のエネルギー解から導出された粒子も、負のエネルギー解から導出された反粒子も、
どちらも正エネルギー、すなわち正の質量をもっているとされている。
しかし本来負エネルギー解の反粒子が正の質量をもっているということは、
ファインマン流の先進ポテンシャルを使った時間の逆行とセットだということだ。
逆に、もしファインマン流の時間の逆行に対する信頼が失われたならば、
もはや反粒子を正の質量をもつように再解釈する理論はどこにもないということである。 ≪複素平面≫
表(実)
________
\ \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
裏(虚)
__
表? / _ \
___//_\_\
/_______/
\ \//
\_/ 裏?
光子(ボソン)
俺は光子は数学的に、すなわち位相幾可(トポロジー)におけるメビウスの帯
(クラインの壺)であると述べた。
さらに論理学における嘘つきのパラドックスであり、力学的にバネであり、
さらに電子回路におけるコンデンサである。
そしてそれを視覚化したのが囲碁の劫なのだ。
光子は極少のワームホールでもある。
すなわち表であったものが裏に、真であったものが偽に、さらに
勝っている状態から負けている状態に、というように対極にある状態を往復する。
すなわち光子は絶えず電子(粒子)と陽電子(反粒子)の間を揺れ動いている。 では、位相幾可学におけるメビウスの帯が複素平面であるということを説明してみよう。
まずメビウスの帯のある位置に↑の印をつける。そしてその矢印を帯に沿って
移動させる。すると丁度一周したところで↑の印をつけた裏側に到達する。
ただし矢印は↓のように反転している。
そしてさらに一周して初めてスタートした位置に戻り、矢印の向きも一致する。
すなわち一周するということが元の状態に戻ることだ
とすると、メビウスの帯は実質2周しなければならない。 次に単振動する系を見てみよう。
○A
↓|
+ 加|減
速|速
―――↓0↑―――
減|加
− 速|速
|↑
●B
さて、Bの位置にあるバネに繋がった重りは加速しながら0点に向かい、
0点を越えた時点で今度は減速しながらAに向かい、さらに反転して加速しながら
0点に向かう。
つまり、0点にあった重りは+の領域を丁度1往復した時点で0点に到達する。
そしてそれはメビウスの帯をある地点から指でなぞった場合、丁度一周した時点で
スタートした場所とすれ違うのと同じだ。
すなわち、0点にあった重りが元の状態に戻るためには、−の領域をもう1往復
しなければならない。
ところで、単振動は複素平面上の単位円の一点の回転と同相である。
すなわち、メビウスの帯はまさに複素平面そのものなのだ。 光子が位相幾可におけるメビウスの帯(クラインの壺)ならば、
光子は複素数で記述されなければならない。
すなわち光子は絶えず実と虚の間を揺らいでいる。
その様子を理解したければ囲碁の劫をモデルにすればいいだろう。
つまり劫は白の地であり黒の地でもある。
すなわちそのどちらでもあってそのどちらでもない、といった
まるでパラドックスを絵に描いたようなオブジェだ。
さて、今白が劫を取ったとしよう。すなわち白が実で黒が虚。
しかしそれは同時に次に黒に劫を取り返す権利を与えることでもある。
すなわち黒が劫を取り返すとi^2で黒が実(−)となり、白が今度は虚となる。
もちろん、白と黒のどちらをプラスとマイナスと呼ぶかは任意である。
結局、虚数とはエネルギーの巻き上げ、時間の巻き戻しなのだろう。 複素平面における単位円上の軌跡はz=r(cosθ+isinθ)で表される。
すなわち実部と虚部、加速と減速、コサイン波とサイン波が交互に入れ替わる。
ようするに単振動において、加速されて最大速度になった重りは0点を
越えた瞬間減速に転じる。
では減速によって落ちた速度、すなわち運動エネルギーはどこへ行ったのか?
というとそれは位置エネルギーに変換されたのだ。すなわちバネの歪みに蓄えられる。
そして純虚数になったところで重りの速度は0となる。
さらに次の瞬間再び虚数項は実部である加速に変換され、0点で最大速度となり、
0点を越えた時点で再び虚数項が鎌首をもたげる。以後無限ループ。
ようするに、複素平面上の単位円の一点の回転の軌跡は実部と虚部、加速と減速、
コサイン・サインカーブが90度の位相差をもって入れ替わるということである。 バネと錘から成る素朴な機械仕掛けのオブジェが複素平面、すなわち複素数で
表されるならば、現代物理学の倒錯した手法、カラクリが見えてくる。
すなわち物理学では負のエネルギー、負の質量、さらに虚数をまず有り得ないモノ
と定義する。
にもかかわらずミクロの世界はその有り得ないはずの負エネルギー解を使い、そして
数式にこれまた有り得ないはずの虚数iをちりばめる。
それゆえミクロの世界を探求する物理学者は、俺達はこんなにも得体の知れない化け物
と日夜対峙している、という自己陶酔に浸っているのだ。
しかし、それは明らかに滑稽な姿である。 ようするに、負のエネルギー及び質量、さらに虚数に対して正しい定義づけをするならば、
それらはミクロ系マクロ系を問わず普遍的なモノとなる。
例えば虚数の正しい定義は位相を90度ずらす操作、あるいは演算子
(これは普通に言われていることであるが)
さらにはエネルギーの巻き上げ、あるいは時間の巻き戻しである。
とするならば、虚数は有り得ないモノであるという前提は崩れる。 そもそも固有振動するバネと錘は2つの振動する系から成る。
すなわち錘が上下運動する振動とバネが伸び縮みする振動だ。
そして2つの実体は90度の位相差でコサイン・サインカーブを描いているのだから、
複素数で表されるのは当然である。 電気工学の分野では複素数を使う。
それに対し、本来虚数は実在しないが、計算上便利だからという理由で複素数を
使うという見方がある。しかしこれはとんでもない解釈である。
そもそも固有振動する電磁気的なコイルとコンデンサから成るLC回路は、
固有振動する力学的な錘とバネから成る系と同相である。
すなわちバネが自然長Lを基準に伸び縮みすることにより、正負のベクトルをもった
エネルギーを蓄えるように、コンデンサは正負の電荷を蓄える能力がある。
さらにコイルに交流電流を流すと電流を流すまいとする一種の抵抗、すなわち慣性
のような力を生じる。逆に電流が途絶えると、今度は電流を流し続けようとする。
そしてそれは質量をもった錘が慣性をもっているのと同じだ。
さらにコイルとコンデンサ、あるいは電流と電圧は90度の位相差をもって
コサイン・サインカーブを描いているのだから、LC回路が複素数で記述されるのは
当然である。 結局、複素平面において、実軸(コサイン)は錘や電流の運動エネルギーの大小を表し、
虚軸(サイン)はプラスからマイナス、逆にマイナスからプラスに反転する為の
位置エネルギーの巻き上げ、時間の巻き戻し、そしてその解放、再生を表している。
(ちなみに半径rは全エネルギー)
その限りにおいては虚数は実在する。
つまり、虚数は実在しないと言ってる者には、「お前は虚数に対してどんな妄想を
抱いているんだ?」と問うしかない。 虚数というものが実体をともなって初めて意味をもつならば、
むしろ訳が解らないのは、何の実体のない場に対して虚数を使うことだ。
すなわち構造をもたないとされる点の集まりである場のどこをどう探しても
調和振動子のメカニズムを見いだすことはできない。
ただ数学的操作をすると調和振動子と同じ形式に書けるというだけである。
結局はそのメカニズムは媒質をモデルにするしかない。 有り得ないモノと定義しているのは時間の逆行もそうである。
すなわち物理学では時間の順逆に対して遅延解・先進解を当てはめている。
先進解とは明日の新聞を見ることができるならば、株で大儲けできる世界であり、
未来のスポーツ年鑑をゲットしたならば、ジャグジー付きのバスで美女をはべらせる
ことができる世界である。
それゆえ賢明な物理学者は先進解を頑なに拒否する。
ところがにもかかわらず物理学者はその有り得ないはずの先進解を使い、
さらにこれまた有り得ないはずの負エネルギー解の反粒子を正のエネルギー、
正の質量をもつように改変した。
これは明らかに二枚舌である。
もし先進ポテンシャルを使うことが許されるならば、いわゆるタイムマシンを
実現したいと願う者たちに勇気と希望を与えていることになる。
ならば物理学者は彼らに対する責任を負う義務がある。 ここで注意すべきは時間の順逆を保証する数学解は2種類あると言うことだ。
一つは一般的に認識されている強力なドクマであるフィルムの順送りと逆回し、
すなわち遅延解・先進解である。
これはいわゆる親殺しのパラドックスに代表される因果律の問題が発生する。 時間の順逆を保証するもう一つの数学解は複素共役である。
複素共役とは、複素平面上の単位円の半径を反時計回りに回転させるか時計回りに
回転させるかの違いだ。
すなわちそれにより位相が180度ずれる。
ならば一方を正の周波数とするならば一方は負の周波数である。
そして正の周波数をf=1/Tとすると、負の周波数は -f=1/-Tとなり、
時間のtと-tが必然的にでてくる。
複素共役は因果律の問題は発生しない。
すなわち左に回すのも実の力、右に回すのも実の力、どちらにせよ原因があって、
結果として位相が180度ずれた波が生じるだけだ。
もっとも、だからといって何時いかなる場面においても因果の糸を手繰り寄せられる、
というものでもない。
すなわちもつれにもつれて複雑に絡み合った糸をほどくのは容易ではない。
それゆえどこかで断ち切る必要もあるだろう。
つまり何が原因で何が結果か不確定になる。
しかしいずれにしろ因果律を放棄する必要はないし、それについて悩む必要もない。 結局、時間の順逆を保証する数学解のどちらを採用するかによって世界観は変わってくる。
すなわち負エネルギー解から導出された反粒子は正のエネルギー、正の質量をもつ、
とするならば、それは先進ポテンシャルの注意書きをよく読んで、さらに同意した
上での話しなのだから、物理学者は因果律の問題をクリアしなければならない。
しかし複素共役を採用するならば、それは因果律の問題とは無縁なのだから、
物理学者は時間の逆行に対して口ごもる必要はない。
すなわち物理学者は上から目線で一般の人々に、時間の逆流する世界は存在する、
と言えばいいのだ。
そしてそれは俗に言うタイムマシンとは何の関係もない、と言えばいいのだ。
もちろんその代償として、反粒子は正のエネルギー、正の質量をもつ、
という根拠は失われる。 そもそも物理量を複素共役で表すということは、その絶対値、あるいはその2乗を
とることである。ならば -5も5も正の値だ。
その限りにおいては符合の正負を問うてはいないことになる。
例えば波のエネルギーは振幅の2乗とすると、正の位相も負の位相も正の値になる。
音波で言えば正圧も負圧も正のエネルギーをもつことになる。
しかしだからと言って、正反対のベクトルをもつ正負の圧力を同じエネルギーで
くくるのはアバウト過ぎる。
つまり、複素共役においてはその違いを抽出するのが偏角θである。
すなわち左に回すのを+θとするなら、右に回すのが-θだ。
すなわち初期位相によってエネルギーの形態は異なる。
その様子はバネで言えば、最初に伸ばして振動をさせるか、縮めて振動させるかの違いだ。 もし物理量が電荷ならば、磁場の中を通せばその曲がりの方向で正負が分かる。
しかしそれが質量の場合、すなわち陽電子等の反粒子の本当の符合の±は高度な実験を
待つしかない。
ようするに我々が知り得ているエネルギー、質量、運動量は、|E|、|M|、|P|、
かもしれないのだ。
物理量が絶対値、あるいはその2乗といっても、2乗すると負の数になる演算子がある。
すなわちまさにそれが虚数iなのだ。
すなわち虚数とはプラスとマイナスという相反する2つの世界を往還する使者とも言える。 結局、負エネルギー解から導出された反粒子はダイレクトに負のエネルギー及び
負の質量をもっているとすればいい。
ただし注意すべきは、反粒子自身は自らを「そうです、我々は負のエネルギー、
負の質量です」とは言わないということだ。
いや、そもそも自らを反粒子とは呼ばない、自虐的でない限り。
その意味では負のエネルギーは存在しない。
しかし、一方を正とするならば、一方は負とするしかないのだ。
なぜなら両者は相殺しあえる量だからである。 ニュートン力学、あるいはマクスウェル方程式、さらに相対論のように、
いわゆる古典系の物理学は実数で記述されると言われている。
それに対して量子力学を記述するシュレーディンガー方程式は、いきなり
オペラ座の怪人よろしく虚数iの仮面をかぶって登場する。
そして荘厳な、そしておどろおどろしいミクロの世界に我々を誘う。
すなわち複素数で書かれるミクロの世界と、実数で書かれるマクロの世界は別世界であり、
2つの世界は翻訳不能とされている。
ならば、そこら辺に転がっているバネと錘が複素数で表されるのは何なんだ?
という話になる。 ようするに、複素数で書かれることと実数で書かれることと、
それがミクロ系であるかマクロ系であるかは関係ない。
例えばバネと錘の関係で言えば、バネの変位χと錘の位置χは同じだ。
それゆえχを時間軸に沿ってプロットすると同じ1つの波になる。
しかしエネルギーの大小をプロットすると、位置エネルギーと運動エネルギーは
反比例の関係にあるのだから、位相がπ/2ずれた2つの同一波形が出現する。
もっとも、位置エネルギーと運動エネルギーを足した全エネルギーは(±)の実数になる。 その様子は我々が普段見慣れている水の波も同じだ。
すなわち水面を伝っていく波紋はただ1つの正弦波を描いている。
しかし、もし位置エネルギーと運動エネルギーのフィルターを通して水の波紋を
見るならば、やはり互いにπ/2ずれて上下する2つの同一波形を見ることになる。 さて、波動というものが基本的に実数でも虚数を含んだ複素数でも記述できるならば、
当然電磁波も複素数で記述されなければならない。
ところでよく電磁波が伝わる様子を描いた図を見ると、直交した電場と磁場が
位相差なしで描かれている。
しかし、電磁波と言えども復元力をもつわけだから、位置エネルギーと運動エネルギー
をもっているはずだ。
すなわち電場が位置エネルギー、磁場が運動エネルギーを担っていると思われる。
ならば両者はiサインとコサインカーブを描いているはずである。
もちろん全エネルギーは実数であろうが。 電波テロ装置の戦争(始)エンジニアさん参加願います公安はサリンオウム信者の子供を40歳まで社会から隔離している
オウム信者が地方で現在も潜伏している
それは新興宗教を配下としている公安の仕事だ
発案で盗聴器を開発したら霊魂が寄って呼ぶ来た
<電波憑依>
スピリチャル全否定なら江原三輪氏、高橋佳子大川隆法氏は、幻聴で強制入院矛盾する日本宗教と精神科
<コードレス盗聴>
2004既に国民20%被害250〜700台数中国工作員3〜7000万円2005ソウルコピー2010ソウルイン医者アカギ絡む<盗聴証拠>
今年5月に日本の警視庁防課は被害者SDカード15分を保持した有る国民に出せ!!<創価幹部>
キタオカ1962年東北生は二十代で2人の女性をレイプ殺害して入信した創価本尊はこれだけで潰せる<<<韓国工作員鸛<<<創価公明党 <テロ装置>>東芝部品)>>ヤクザ<宗教<同和<<公安<<魂複<<官憲>日本終Googl検索 さて、ある意味逆説的であるが、0点から立ち上がるサイン波の前に虚数iが付いて
いるのは極めて重要である。
もしiがなければ風もないのに海は波立ち、地震が起きてないのに津波が押し寄せ、
気圧の変化もないのに嵐が吹き荒れ、机も椅子も人間も車も巨大な岩も、
我々の見るもの全てが宙を舞うことになる。 すなわち0点から立ち上がるサイン波の前のiは、そういう現象は自然には
起こりませんよ、と言っているのだ。
つまり、加速が起きるためには実の力を加えて位置エネルギーを高めなければならない。
例えば木の枝から離れたリンゴが地面に落ちるのは、位置エネルギーの高い状態から
低い状態に移行する過程である。すなわちこれが我々が普段経験、目撃する実時間。
それに対し、地面にあるリンゴが自ずと木の枝に戻ることはない。
ゆえにリンゴに限らず何かが落ちる為には位置エネルギーを高めなければならない。
すなわちこれが虚時間。 よく、リンゴが落ちるのを時間tとすると、-tはフィルムの逆回し、
すなわちこの場合、あたかも重力に逆らって上に向かう現象であるとされている。
しかしそれは本当は時間のtと-tの対称性ではない。
すなわちそれは時間のtと時間のitの対称性なのである。
tとitの対称性とは単に位置エネルギーを巻き上げた分の加速が得られるというものだ。
それはジェットコースターで加速と減速のスリルを味わいたければ、
何らかのエネルギーを注入してコースターをトコトコと高い位置にもっていかねば
ならないことを考えれば明らかである。 ケータイだろうとスマートフォンだろうと、電池が切れると何の反応も応答もしない。
それゆえ充電という過程が不可避であることは言うまでもない。
すなわち充電というエネルギーの巻き上げが虚時間。
そしてそれらの機器を操作するのが実時間。
どちらも電流が流れているに違いないが、一方は絶えず押し上げなければならない。
しかし一方はむしろ止めなければ勝手に流れる。 昔のゼンマイ式時計が時を刻むためには、まずゼンマイを巻き上げなければならない。
ところで力学の基礎方程式は時間のtと-tは対称である。ならばある現象があると、
それを時間反転(一般的にはフィルムの逆回し状態)した現象も起こりえるはずだ。
すなわち巻き上がったゼンマイが解放される方向を過去から未来の時間の流れとすると、
解放されたゼンマイが自ずと巻き上がる方向、すなわち未来から過去へと流れる
時間の流れも存在するはずだ。しかし我々はその一方の時間の流れしか目撃しない。
すなわち時間の矢はなぜ存在するのか?これはやっかいな問題であるとして
エントロピーの増大則で説明している。しかし別にやっかいな問題ではない。
すなわちゼンマイが解放される方向と巻き上がる方向とは時間のtと-tの
対称性ではなく、時間のtとitの対称性だからだ。 ようするにtとitの対称性とは、時計はゼンマイを巻き上げた分の時を刻みますよ、
と言うものである。
すなわち時間に方向、すなわち時間の矢が存在するのはエネルギー、時間は単に
ポテンシャルの高い場所から低い場所に移動する過程に過ぎない。
結局、問題は、誰がゼンマイを巻き上げたのか?という問いである。 結局、宇宙は虚時間から始まった、とするホーキングの主張は正しいのであろう。
もちろん、その主張の詳細の真偽は吟味する必要はあるが、宇宙は虚時間から始まった
とするフレーズは正しいのであろう。
ようするに、問題は、誰が最初に宇宙をポテンシャルの高い状態に、すなわちゼンマイを
キリキリと巻いたのか?ということだ。
そして、もしそうだとしたら、その数学解は複素共役(t,-t)しか有り得ない。 以前別スレに書いたレスを貼っとく
観測問題、例えばマクロ系の物体は客観的観測ができるがミクロ系の対象はつねに擾乱を伴う。
という概念には仕掛けがある。すなわちスケール不変性を破るというトリックだ。
それはどういうことかと言うと、ある特定の文字だけ拡大、縮小が実行されないコピー機のようなものだ。
例えば都市のミニチュアセットがあったとしよう。
その傍らにゴジラのぬいぐるみを着た人間が立っていたとしても違和感はない。
なぜならビルとゴジラは同じスケールだからだ。
しかし生身の人間が立っていたとしたら明らかに不自然である。
なぜなら人間はビルより少なくとも一桁小さいからだ。
観測問題もそれと同じである。 すなわち観測問題においてスケール不変性を破っているのは観測手段である光子である。
つまり、観測問題においてはマクロ系にも光子を使い、ミクロ系にも光子を使っているのだ。
もっとも光子というものが、
マクロ系、ミクロ系に対し中立的立場にあるのならばとやかく言うつもりはない。
しかし実際はそうではない。
なぜならミクロ系の住人である電子と光子はどちらも素粒子であり仲間であるからだ。
しかしわれわれが認識する外界は原子が無数に集まったモノであり、素粒子とは階層が違う。 それゆえマクロ系においては客観的観測ができるが、ミクロ系に対しては常に擾乱を伴う、
というのはバットでボールを叩くとあらゆる方向に飛んでゆく可能性があるが、
バットで地面を叩いても地球はびくともしない、と言うようなものだ。
相手のエースの球を打てなくて思い悩む四番バッターはいても、地球を動かせない
と嘆く打者はいないだろう。この命題に挑んだのはアルキメデスぐらいなものだ。
あるいはサッカーの選手がボールの代わりに地面を蹴ったとしても足首を捻挫するだけだ。
だが、だからと言って地球の軌道が永遠に不動であるとは限らない。
すなわち地球に同じスケールの何か、つまり天体をぶつければ地球といえども影響をを受ける。
例えば、仮想的に彗星なり小惑星なりの軌道を変えて月にぶつけたとしよう。
すると当然月には昨日までなかった巨大なクレーターができるわけだから、
百科事典の出版社は改訂版を出さなければならないだろう。
そして一発の砲撃が月を太陽系の藻屑と化してしまうかもしれない。
そしてその時に放出された重力波を観測する事によってわれわれは、
ついさっきまでそこに月があったことを悟るのだ。
つまり、ネズミであろうと人間であろうと、
電子に光を当てるという方法論でもって月を眺めると、宇宙の姿は劇的に変わってしまうのだ。
かつてアインシュタインが嘆いたように。 結局、観測という行為には第一種と第二種の2種類あるということだ。
≪第一種観測≫
電子に光を当てて電子を見ることを観測と呼ぶならば、われわれが光で外界を認識するのは
観測ではない。そもそも夜空を見上げなくとも月を観測できる。
例えば潮の満ち引きを見れば月の存在を確認できる。その場合光を使うが絶対条件でない。
もちろん潮の満ち引きは月の重力場が海水に擾乱を与えたものであることは言うまでもない。
≪第二種観測≫
逆にわれわれが光を使って外界を認識するのを観測と呼ぶならば、電子に光を当てるのは観測でない。
その場合電子や光子、すなわち素粒子ではない階層の異なる何かをぶつけなければならない。
もちろんそのような観測手段があるのかないのか分からない。どちらにしろ現在誰も知らないのだ。
その観点からすれば例えミクロの世界が不確定性原理に支配されていようとも、
第二種観測で電子を観測したならば、不確定性としての客観的観測が可能だと言うことである。 では不確定性の要因は何なのか?
その問いに対する答えはエーテル説の立場からは、すなわち媒質の世界を
徹底させると、例えば音速は絶対的でないからだ。
すなわち音速cは √p/ρ から導かれる。
しかし音速cは圧力と密度の名において一定であるが、それらの値の揺らぎにより
変化する。
同様に、光速度cは √1/μ0ε0 から導出されるが、透磁率や誘電率が絶対的
でなければ変化する可能性がある。
ようするに、我々が知り得ている光速度は平均値に過ぎないかもしれないのだ
その観点からするとミクロの世界の不確定性に対し、その背後には未知の
隠れた変数があるとしたアインシュタインの主張は正しいのかもしれない。
ただしアインシュタインの悲劇は、それが光速度cであることだ。 >>1
光子エーテルさん、光子はいらない子みたいですよ!
「光子っていらない子」でググって下さい ざっと読んだが物事、すなわちモノとコトの区別がついてないみたいだね。
例えばワイングラスはモノ。それが床に落ちて割れる現象はコトでありモノではない。
あるいはM・ジャクソンはモノ(者)であるが、パフォーマンスであるダンスは
表現でありコト、モノではない。
あるいは競技場の観客席に座る人間はモノ(者)であるが、立ったり座ったりして
生じるウェーブはモノの集団行動による現象でありモノではない。
で、そのブログの主はダンスやウェーブはモノではない、とごく当たり前のことを
言っているのだ。
しかしモノとコトは一体であり不可分である。
もしそうでなければ誰もいないはずの隣の部屋から、夜な夜な女のすすり泣きが
聞こえてくる、というホラーの世界になる。 もっとも、現代物理はモノである媒質を否定しているのだから、すなわち光は
媒質なしで伝わるとしているのだから、そのブログの主はある意味真っ正直だ。 そもそも光は粒か波かの論争があった。
図1-粒
←●
図2-波
_∧ ∧ ∧ ∧ _
∨ ∨ ∨ ∨
ニュートンは図1のように光は粒の流れと考えた。
それに対し図2は、光は水の波や音の波のように波長や振動数で語るべき
ものであるとするエーテル派のホイヘンス等によるものである。
やがて、光に波特有の現象とされる回折や干渉が見いだされ、光は波であるとされた。
しかし前世紀初頭に光は飛び飛びの値をもつという量子論の台頭、さらに光電効果や
コンプトン効果のように光はあたかもビリヤードの玉のように粒のように振る舞う、
と考えると上手く説明できる現象も見いだされた。
そしてそれはニュートン流の光の粒説の復活とみなされ、波の象徴とされたエーテルは
その定義により、歴史の表舞台から退場させられた。
しかし図1の描像ではその速度は任意であり、上限がある必然性はなく、
そもそも波動方程式が導出されないのは明らかである。 ところで図1からは波動方程式は出てこないと言ったが、だからといってニュートン力学と
波動方程式が無関係というわけではない。いやむしろ逆である。少なくとも古典論においては。
図3
┃ ∧ ∧ ∧ m
┃_/ / / -●
┃ ∨ ∨ ⇔
図3は調和振動子の模式図であるが、質量をもった錘はニュートンの運動方程式F=ma
に従う。さらにバネによる復元力はフックのバネ定数kと置いてF=−kxである。
すなわち、皮肉なことに、波動現象は対立していたニュートンとフックの共同作用と言える。
図1と図2は一見相容れないが、調和振動子においては質量をもった錘がサインカーブを
描いているのだから、調和振動子は粒と波の姿が共存している。
すなわち粒であり波であり、それ以外の何物でもない。 さて、原子と原子がバネで繋がった分子○…○は(調和)振動子である。
すなわち媒質においては調和振動子としての明確なメカニズムが存在する。
つまり、そもそも回折や干渉が波の特性であるとする描像そのものが怪しいのだ。
確かに○←粒的なモノが干渉するとは考えにくい。
しかし同じ粒的なモノであっても、それが○…○←調和振動子とするなら
粒と干渉は矛盾しない。
すなわち区別すべきは粒か波かではなく、モノとその振る舞い、すなわち状態なのだ。 電磁場は光子の集団であり、調和振動子の集団であると言われている。
しかしこの場合の調和振動子は固有振動、あるいはフーリエ変換で場を展開すると
正弦波が表れ、それが単振動、すなわち数式上は調和振動子と同じと言う意味である。
しかし場自体に調和振動子のメカニズムがあるわけではない。
それゆえサインカーブを見て、それがなんで粒なんだ?と言う疑問はもっともだ。
しかし、もし場を媒質をモデルに置き換えると、
すなわち光子は○電子と●陽電子の複合粒子となり、すなわち●○
つまり光子は粒として還元される。
もっとも既存の物理では電子も光子も構造をもたない点として記述しているのだから
それはない。ないものねだりしてもだめである。
それはエーテルを捨てた代償としてあきらめるしかない。 連続体を採用している場に粒子的描像をイメージすることは困難である。
それは既存の流体力学を考えればわかる。
マクスウェル方程式は流体力学をモデルに作られたと言われているが、
そもそもその流体力学自体が連続体である。
もちろん実際の流体は原子・分子からなる離散的なものであるが、粗視化すると、
すなわち原子・分子をいらない子とすると連続体として扱える。
ようするに連続体として扱えばよく整備された連続体の方程式が使えると言うことである。 流体を巨視的にdiv,grad,rot、さらに圧力や密度のようなスカラー、あるいは
ベクトル、テンソルといった量を微分を駆使して展開すると、飛行機の翼の形状や
自動車の形状をデザインすることができる。
しかしそれが電子レンジの原理となるとお手上げである。
電子レンジは極性をもった水分子がマイクロ波の電場に揺すられるからである、
と説明されるが、連続体の流体力学では水は時としてエネルギーの塊として振る舞う、
としか言えないであろう。
つまり、巨視的には流体は連続体として扱えるが、さらに短波長でズームインすると
原子・分子と言う離散的な構造が見えてくる。
そしてその原子・分子の離合集散を扱うのは、その原子・分子の存在を前提にしている
化学者の領域である。
ところで面白いのは、そのブログの主の記述によると、光子、すなわちフォトン
という用語を使いだしたのはアインシュタインではなく、化学者であるルイスという
人物らしい。偶然と言うべきか、必然と言うべきかw 化学者がモノを出したり消したりできるのは電荷にはプラスとマイナスの量が
あることを知っているからである。
ならば物理学に負の質量(エネルギー)を導入すると、物理学はミクロの世界を
実体として扱える。
そもそも反粒子は負エネルギー解から導出されたものである。
ならば反粒子は素直に負の質量をもっているとすればいい。なんでわざわざ
正の質量に改変しなければならないんだ?というと負の質量は存在し得ないように
定義されているからだ。
ならば存在を許されるように再定義すればいいだけの話である。
ところが物理学は別の道を歩んだ。現在負エネ粒子を正の質量に改変する方法は2つある。
すなわちディラックの海と先進ポテンシャルを使った時間の逆行だ。
どちらもトンデモ中のトンデモである。まあ負の質量よりはましという程度である。 そもそも物理学における虚数、負のエネルギー、あるいは時間の順逆に対する
イメージは、かすってはいるが本質をついているわけではない。
例えばもし仮に虚質量を有する物質があったなら、それはエネルギーを失えば失うほど
加速し、逆にエネルギーを得れば得るほど今度は減速されると言われている。
しかし、これは単にかすっているだけであり、せいぜいファールチップである。 〈複素平面〉
虚軸(位置エネルギー)
↑y
│──┐
│ │
│ │
│ │x
─┼──┴─→実軸
│(運動エネルギー)
上の図は単振動を複素平面に射影したものであるが、錘の運動エネルギーを実軸に、
さらにバネの位置エネルギーを虚軸に取ったものである。
さて虚軸の最大点(絶対値)、すなわち純虚数の時には運動エネルギーはゼロ、
すなわち錘は静止している。逆に虚数の値が減るほど、すなわち位置エネルギーが
減衰すればするほど錘の速度は増す。
さらに錘が減速する過程においては位置エネルギー、すなわち虚軸の値は増加する。
そしてそれは虚数質量をもった物体がもつとされている性質とある意味同じだ。
しかしそれはかすっているだけであって、フェアゾーンにあるのはあくまでも
現実の世界に存在する柱時計の振り子の運動であり、ジェットコースターであり、
その他もろもろ我々が普段目撃している全てのものなのだ。 何度も繰り返すがエーテルというハードが埃を被ったままなのは、そこに波という
ソフトしか組み込まれていないからである。
しかしエーテルが水の波や音の波のようにという類推から想定されたものならば、
水や大気は原子・分子というデジタル量からなるのだから、エーテルのハードには
離散的であるというソフトをインストールしなければ動作しないことは明らかだ。
さらに媒質は本質的にゆらぐ世界である。ならばそこに生じる波の速度が絶対的である
必然性はない。
さらに媒質の世界には自然長Lという基準系がある。
つまり、エーテルに媒質の世界を徹底させると、そしてそれが宇宙の営みと呼応
するならば、エーテル理論は現代科学に重要な位置を占めるだろう。
たとえそれが最初は異端の説であったとしてもだ。 科学の書物ではエーテルはMM実験により否定された、となってるが、
そのような歴史的事実はない。MM実験はエーテルに不利な条件を課しただけである。
しかし別に致命的であったわけではない。
大体現代科学はエーテルを否定したところで、それに変わる疑似エーテルとでも呼ぶべき
「場」を使っている。
場とは空間の各点に定義された量であり多体系である。
すなわち空間の各点にスカラー、ベクトル、テンソルといった物理量が付与されている。
・・・ →→→ ◇◇◇
・・・ →→→ ◇◇◇
・・・ →→→ ◇◇◇
scholar vector tensor
まさに媒質そのものである。
ならば何で電磁波を媒介する媒質がダメで、何で電磁波を媒介する場がいいのかの
合理的な説明が必要であろう。 もっとも場と媒質には決定的な違いがある。
すなわち場は構造をもたない連続体であるが、媒質は構造をもった非連続体である。
それゆえ、エーテルが在るか無いかという問いは、宇宙空間は連続体なのか?
それとも離散的なのか?という問いに置き換えることができる。
すなわち宇宙が真実連続体ならば、それは連続体を標榜する場で記述するしかない。
しかしもし宇宙に離散的な兆候が見いだされたならば、その時にはエーテルの出番である。 自然は連続体である、という思い込みはある意味人間の感性に合っている。
例えばディスプレイは離散的な画素の集まりだが、貪欲な我々はその価値を
画素数の多さに求める。
あるいは画面をスクロールする場合、カクカクしてはストレスが溜まる。
なめらかに動いたほうが絶対にいいに決まってる。
あるいは動画は静止画の連なりであるが、人間の眼、いや脳はたかだか30フレームで
連続体として認識する。もちろんハイスピードカメラのように、さらに時間を微細に
切り刻めば、自然の驚異を垣間見ることができる。
すなわち、自然は切り刻めば切り刻むほど真実に近づくというドグマ、そしてそのツール
としての微分への信仰はある意味当然だ。 しかしだからと言って、じゃあ連続無限個の画素をもつディスプレイはどこにあるんだ?
というとそんなものはどこにも売ってないし今後開発される見込みもない。
さらに今日情報化社会の到来とともに、デジタルの波が押し寄せている。
総務省もアナログ放送を停止したではないかw
かつて大航海時代、天動説から地動説に移行したように、大規模な情報化社会の到来
とともに、我々の認識するあらゆるもののそのベースはデジタルなものに置き換わっている。
そして原子・分子からなる媒質はまさにデジタルの世界であったということだ。 さらに例の大惨事により、自然エネルギーへの関心が高まっている。
自然、すなわち環境は水や大気、そして大地といったまさにエーテルの系譜である。
ならば媒質を否定した理論は、我々の行く末に何の指針も与えない、
今日的には実に寂しい理論なのだ。 エーテルの思想背景はその実在性である。
よくエーテルは理論の辻褄合わせのために想定された架空の存在、と思われている節が
あるがそれは大いなる誤解だ。
すなわちエーテルには液体である水、さらに気体である大気、さらに固体である大地
といった現実に存在するモデルがある。
その意味ではエーテルには実在性という強い制約がある。それゆえ一見不可思議な
現象も合理的な説明が求められる。
それに対して場とは我々の身近に対応するモノがない、あくまでも架空の世界である。
それゆえ場を名乗れば何でも許されるという風潮がある。
つまり、どんなに奇妙奇天烈な解釈も、ミクロの世界は古典的描像では語れない、
という言い逃れができるからだ。 ミクロの世界は古典論では語れない、と言っても、連続量=古典的、離散量=量子的
とするならば、連続体である場は立派な古典論である。
「なに古典論でない振りしてんだよ!って話だ」w
そもそも生命を育む媒質が古典論で記述できないことはちょっと考えれば分かることだ。
よく時空連続体である相対論は重力を量子化していないので古典的と言われている。
すなわち重力を量子化しようとすると無限大に発散する。
しかし無限大の困難を抱えているのは場の量子論も同じだ。
そもそも場の量子論は特殊相対論と手をたずさえて進展したのだから根っこは同じである。
そしてマクロ系には相対論、そしてミクロ系には量子力学、という偉大なる棲み分け
が行われている。
しかしそれは単に連続体である場が普遍的でないことの証しに過ぎない。
すなわち普遍的な理論にミクロ系とマクロ系を隔てる壁は存在しない。 ミクロの世界を記述する数式を不可思議な数である虚数iで装飾すると、
いかにもそこは不条理な世界であり、日常の常識を捨てなさい、というサインになる。
しかしエーテルの思想がその実在性を問うものだとすると、当然虚数も実体を伴って
初めて意味をもつことになる。
──●──0──○──
−x x
さて位相を360°変換するということは、図で言えばxはxそのものであり、
-xは-xそのものである。
さらに180°の位相変換はxを-xに、-xをxに、すなわち対極にある状態の変換だ。
すなわちプラスとマイナスの符号を入れ換える操作である。
では位相を90°変換する操作は何なんだ?ということになる。 虚数とは2乗すると-1になる数、すなわち √-1 である。
ところで虚数を使うことが位相を90°変換する操作、そしてその演算子とすると、
それは先程の数直線上には対応しない。
それゆえ複素平面を考えて、実軸に直行する虚軸↑(↓)を導入することになる。 さて、虚数が実体を伴って初めて意味をもつとするならば、それは我々の現実の世界と
対応していることになる。ではその様子をサッカーの試合で見てみよう。
ひいきのチームの選手がボールをキープすると一方的な方向性であるベクトルが生じる。
すなわち →○ さらにそれの180°の位相変換は相手チームの選手がボールを
インターセプトすることである。すなわち ←●(負のベクトル)
ここで注意すべきは、ひいきのチームの選手が味方の選手にバックパスするのは
別に負のベクトルではないと言うことだ。少なくとも高次の対称性においては。
それは味方の選手にバックパスしたボールと、
相手チームの選手が蹴ったボールの向きが同じとしても、その意味合いが全く違う
ことは明らかだからだ。 さて、では90°の位相変換とは何なのか?すなわち位相を90°ずらす演算子とは?
と言うと、それは互いに相手チーム防御側の選手である。
すなわち防御側の選手は一種の抵抗(インピーダンス)として働く。
つまり防御側の選手はあくまでも抵抗として作用するのであって、ボールをインターセプト
しない限りベクトルの向きは変わらない。
すなわち錘とバネの関係で言えば、ボールをキープして錘のように運動量(エネルギー)
をもっているのが攻撃側の選手であり、その攻撃側の選手に運動エネルギーを与える、
あるいは攻撃側の選手の運動エネルギーを吸収するのがバネ、すなわち防御側の選手である。
ようするに攻撃側の選手は運動エネルギー、そして防御側の選手は位置エネルギーを
もっている。 攻撃側の選手が相手陣内に攻め込むと、相手チームの防御側に押し返されるという力
が生じる。そしてそれはバネを押すと押し戻される力が発生するのとある意味同じだ。
しかしその力はあくまでも √-1である。なぜならそれはベクトルを反転させては
いないからだ。すなわちベクトルを反転させるためには位相をさらに90°変換
しなければならない。
すなわち防御側がボールをインターセプトして初めてi^2でマイナス1となり、
実の負のベクトルとなる。
ようするに、錘とバネからなる系が振動するように、サッカー(スポーツ一般)
の試合においては選手及びボールはこちらとあちらを行ったり来たりする、すなわち
往復運動する。そしてそれが波動場の意味であり、さらに波動場には複素数、
さらに複素共役を使わなければならないことは明らかである。 ところで俺は光子は囲碁の劫であると主張しているわけであるが、知的財産の観点
からも計り知れない規模だ。
それゆえ光子は劫であるという図式をしっかりと頭の中に刻んで欲しい。
後でぐだぐだ言ってもやっかいな事態になるのは領土問題を見れば明らかだ。
もちろん科学の基礎理論は万人に共有されるべきものであるが、だからといって他の国、
特に同じアジア圏の人間が同じ主張をし、そしてそれがスタンダードになったとしたら、
お前らはその状況に耐えられるかな?
もっとも今その重大性を認識できないとしても、あるいはこのスレがいずれDAT落ち
したとしても、過去ログ及びキャッシュに残る限りは無問題だが。 媒質を伝わる波、すなわち移動する波源から前方に放出された水の波や音の波はエーテルの
風の分遅く、逆に後方に放出された波はエーテルの風の分速くなるとされる。
←エーテルの風
c+V? →V c-V?
(((( ●))))
果たしてそうだろうか?確かに見た目はそうである。
ならば媒質を伝わる波は逆ガリレイ変換が成り立つという非物理的なものとなる。
ちなみに媒質を伝わる波においてエーテルの風とは、単なるドップラー効果に他ならない。 さて、もしそれが運動物体から放出された粒的なものならば、それは普通の意味で
いわゆるガリレイ変換が成り立つ。
v-V →V v+V
・←――●―――→・
すなわち前方に放出された物体は運動物体の速度分加算され、後方に放出された
物体は減算される。
それに対し、媒質を伝わる波はエーテルの風が吹くのだから、運動物体から放出された
前方の波の速度は減算され、逆に後方に放出された波の速度は加算されるというならば、
まさに逆ガリレイ変換である。
ならば媒質を伝わる波の速度をガリレイ変換に共変にするためには、
→V
(((((●)))))
のように現実の世界とは対応しない真逆なものとなる。 ここで何がおかしいのかと言うと、そもそも空間に局在する粒的なものと空間的広がり
をもつ波的なものを何の操作もなく較べていることだ。
すなわち両者は全く異なる方法論でもって何かを移動させているのだから、両者にまたがる
共通言語を使用しなければならないはずである。少なくとも科学が科学である限り。
すなわちそれはエネルギー、時間といった物理量である。 粒的、すなわち運動物体の運動エネルギーは E=1/2mv^2 で表される。
すなわち物体のもつ運動エネルギーは速度が速ければ速いほど大きい。
つまり、エネルギーと速度は等価であり、速度が速い遅いはエネルギーが大きい
小さいと言い換えても同じだ。 さて、波のエネルギーは振幅の2乗で表される。
ならば振幅が同じならば、波のエネルギーは単位時間における振動数に依存することになる。
ならば移動する波源から放出された前方の波の振動数はドップラー効果により増え、
後方に放出された波の振動数は減るのだから、そしてエネルギーと速度が等価ならば、
前方に放出された波の速度は速いのであり、後方に放出された波の速度は遅いのである。
遅い → 速い
(((((●)))))
その意味では媒質を伝わる波はガリレイ変換に対して共変である。 もっとも今述べた共変とは単にどちらも加減算される量である意味である。
しかしそもそも波には定数cが存在し、特別な意味をもつ。
すなわち定数cに達すると衝撃波が発生し、発散する。
その意味では共変でない。 光速不変はパラダイムの一つに過ぎない。
ならば光速可変というもう一つのパラダイムを構築することができる。
<粒的な速度を測る>
B →V A
|―― L―ー|
C
上図のような方法で長さLの電車の速度を測る場合、観測者CはAが目の前を通過した
時点にストップウォッチを押し、そしてBが目の前を通過した時点で再び押す。
さらにCが速度Vで左右に動きながら電車の速度を計測すれば、電車の速度(相対速度)
は変化する。 <波動の速度>
B →c A
|―― L――|
←C→
正弦波の波長Lを電車の長さに置き換えると、そして観測者Cが動きながらLの
通過時間を計測すると時間は短縮(あるいは遅れる)する。
すなわち周期Tは明らかに可変である。
ならば、速度は距離(長さ)を時間で割った値とすると、すなわちL÷T=λ/t=Vとなり、
光速度は可変となる。
もっとも、光速度不変は実験事実であり、現代科学は光速度不変により構築されており、
それによる不都合はない、と反論されるだろう。
それに対してはパラダイムが違う、と答えるしかない。
すなわち周期Tは可変なのだから、光速度は可変である、というパラダイムだ。
ちなみに観測者が静止していようとも、波長毎に周期Tは違うのだから、どっちにしろ
光速度は不変ではない。 粒的なモノと波の両方にまたがる共通の速度がある。すなわち角速度ωだ。
角速度とは円の一点を回す速度を角度で表したものである。
例えば自転車のペダルを単位時間に1回漕ぐのと2回漕ぐのとではそのスピード、
到達距離が違ってくる。
すなわち努力はあくまでも報われるのであって、角速度が違えば速度ベクトルも違う。
遅い
1回転――→
2回転―――――→
速い 円周の一点の軌跡を2次平面に射影すると正弦波、すなわちサインカーブを描く。
すなわち円の1回転は一つの波長、振動数に対応している。
そして、発電機がそうであるように角速度が速いほど単位時間における振動数は増える。
角速度が速いと言うことはそれだけのエネルギーを投入しているのだから、
振動数とエネルギーが対応しているのはある意味当然だ。
ならばエネルギーの大小と、速度が速い遅いが等価ならば、光速度は一定という
固定概念は捨て去らねばならない。
――→遅い
→) ) ) ) )
→)))))))))
―――――→速い 光速度不変の原理が成立した時代と、高度な情報機器が発達した現代社会とでは
時代背景が違う。
そもそも速度とは何か?と問うならば、それは情報が伝わる速さであろう。
ならば例えばパソコンのCPUの処理速度はクロック周波数に依存していることは(
それだけではないが)誰もが知るところである。
あるいはより短波長の光の方が、より大容量の情報を送ることができるのは、
ネットで動画や音楽をダウンロードする時に誰もが経験していることである。 つまり、高度な情報機器が張り巡らされたネット社会においては、プロである物理学者
よりも先に賢い一般市民の方が光速度可変、すなわち赤い光よりも青い光の方が速い、
という現実に薄々感づくことになる。
それは同じ一枚の紙幣を貰うならば、千円札よりも五千札、さらには一万円札の方が
より嬉しいようなものだ。 もっとも、だからといって、より短波長の光に絶対的価値を置くと言ってるわけではない。
つまり光、すなわち電磁波は波長に応じた性質、役割を担っている。
すなわち歩くよりも自転車の方が速いからといって、部屋中を自転車で走り回る
わけにはいかないし、100m先のコンビニへ行くのにジェット機のエンジンキーを
回す者もいないだろう。
さらには波長が短くなると指向性が強くなり、中継局を介さなければならず、
インフラ整備に莫大なコストが掛かる。
しかし単に速いか遅いかと言えば、より短波長の電磁波が速いのだ。
その意味ではガンマ線が最も速い光、すなわち電磁波であることは言うまでもない。 複素次元による宇宙の幾何学構造
定義1:2次平面は表面と裏面の2つの面から成るとする
2:どちらを表とするかは任意である
図1 3:表を実とすると裏は虚である
A面 4:以上の定義により、2次平面は複素数で表わされる
↑表 __↓________
/ / 図Tにおいて板状の帯は弾性体であるとする。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 裏↓ 弾性体であるということは曲げるには力を加える必要があり、
/ \ ↑B面 常に元のまっ平ら状態になろうとする復元力が働いている。
/ ̄\ / ̄\
/ _↑ \ / _↓ \ さて、帯状の板に力を加えて輪にするとA面とB面は外側と内側に
|\/ \/ | |\/ \/ | 分離され、閉じた系になる。
| \_/ | | \_/ | さらにどちらを表にするかにより、互いに共役な2種類の量を
\ ↓ / \ ↑ / 作れる。
\_/ \_/ 図2において、輪にすることにより加えた力は自己エネルギー
反粒子 粒子 (静止エネルギー)として保存している。
\ /
_
/ ̄\ / _ \
/ _ ↓\// \↑\
|\/ \// \ \/|
| \_/ /\ \_/ |
\ ↑ / \ ↓ /
\_/ \_/
光子(ボソン) 帯状の板の一端を180゜ひねって輪にするといわゆるメビウスの帯になる。
帯の任意の位置に印(↑)をつける。さらにその↑を帯に沿って平行移動させると、↑は
回転しながら進む。
そしてちょうど印をつけた裏側に達した地点で↑は反転して↓になる。
さらに長い道程をへてスタートした位置に戻り、矢印の向きも一致する。
メビウスの帯においては矢印、つまりベクトルは↑↓↑↓のように反転を繰り返す。
すなわちメビウスの帯は波的な性質をもっている。
さらにメビウスの帯は図2と同じく閉じた系なので、空間に粒的なモノとして局在し、
1個2個と数えられる。すなわちメビウスの帯(クラインの壺)は波動場の量子である。 よく複素平面は数学上の道具であり現実の世界には存在しない、という見方もあるが、そんなことはない。
なぜなら今目の前に複素平面であるメビウスの帯というオブジェが実在しているからだ。
ではなぜ複素平面であるメビウスの帯が現実世界に存在するのか?というと、
それは我々の現実世界が複素次元であるからだ。 ┳ ┏━━┓
: ↑┃ ┃
: 〓 ┃
: ↓┃ ┃
↓■↑ ┗━━┛
バネ コンデンサ
(この文章は嘘である)←嘘つきのパラドックス
真・偽・真・偽…
_
表? / _ \
___/ /_\_\ ○ ○
/_______/ ○●○ ← ○ ○
\ \/ / ● ● → ●○●
\_/ 裏? ● ●
光子(ボソン)
力学におけるバネ、電子回路におけるコンデンサ、論理学における嘘つきのパラドックスは
同相であり、対極にある状態を往還する。すなわち振動する能力がある。
そしてそれを最も単純にモデル化したのが囲碁の劫なのである。
つまり光子は構造をもっている。すなわち光子には振動するメカニズムがある。
さらに宇宙は光子エーテルで満たされている。
すなわちそれがよりバージョンアップされた新しいエーテルの姿なのだ。 物質創成
●○
←●○●○→
●○
↑
光子は↑を基点に、←→を軸に互いに逆回転できるとする。さて高エネルギー状態に
励起された光子がちぎれんばかりに回転すると光子は←→方向に引き伸ばされる。
●●○○
←●○○●●○→
●●○○
引き伸ばされる長さは加えられるエネルギーに比例する。
↓
●●●●●●●●●●●●●●○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○●●●●●●●●●●●●●●●●○
●●●●●●●●●●●●●●○○○○○○○○○○○○○○○○
やがて引き戻される。
→ ←
●●●●●●●●○○○○○○○○
●○○○○○○○○●●●●●●●●○
●○○○○○○○○●●●●●●●●○
●●●●●●●●○○○○○○○○ → ←
●●●●○○○○
●○○○○●●●●○
●○○○○●●●●○
●○○○○●●●●○
●○○○○●●●●○
●●●●○○○○
そして衝突 ↓
X
/ \
●●● ○○○
●○○○● ○●●●○
●○○○● ○●●●○
●○○○● ○●●●○
●●● ○○○
最終的にクォークの泡粒が創られる 光子の質量はゼロである、それゆえ光は光速度で走る。あるいは光子に質量があると
光は光速度では走れない、などと言われているが、これは何の根拠もない論理である。
そもそも光速度は有限である。一瞬にして宇宙の端から端へと伝わるものではないことは言うまでもない。
光子に質量があると光は光速度では走れない、というのはおそらくは質量をもったモノは決して光の速度
には加速できないというイメージからきているのであろう。
しかし例え光子を粒的なモノに還元したとしても、光子という粒そのものが空間を移動するわけではない。
それとも物理学者は光子を粒的描像ととらえた場合、その粒自身が宇宙空間を飛び交っている
とでも考えているのかな?
ちなみに素粒子論の立場では光子はいわゆるゲージ粒子であり、その長距離力ゆえ、
やはり光子の質量はゼロとしている。 音速は v=√p(k)/ρ から導出される。すなわち復元力と密度(質量)の比から求まる。
音速を表す数式は媒質の密度、すなわち質量が大きければ音速は遅く、逆に質量が小さければ
速くなると言っている。
そして質量0の極限では数式上は √p/0 となり、音速は無限大に発散する。
あるいは調和振動子を表す式は ω=√k/m である。
調和振動子においては質量mがあらわに出てくる。
そもそも調和振動子は模式図的にはバネと重りから成る系なのだから当然だ。
すなわち波動場とは質量を持ったモノが対極にある状態を加速と減速を交互にくり返しながら往復するものである。
この場合も質量0の極限では振動数は無限大に発散する。
もっとも質量項がなければバネは伸び縮みしないだろうが。 ところで電磁場は光子の集団であり調和振動子の集団であると言われている。
ならば光子に質量項がなければ、光子は調和振動子としての資質が備わっていないことになる。
もっとも実際には電磁場は質量1の重りがぶらさがったバネの運動と同等としている。
1という数字は便利な数字であるが、いずれにせよ光子に質量項がなければ、
これは明らかに矛盾している。
しかしこの矛盾は媒質の世界を参照すると解消される。 長さ10cmのバネであろうと長さ1mのバネであろうと自然長L(変位)は0である。
そしてバネを引っ張ると+方向に長さが伸び、逆に押すと−方向に縮む。
すなわちバネにおいては自然長Lを基準に+と−の長さが定義される。
それゆえマイナスの長さは考えられな〜い、などと駄々をこねても無駄である。
ゼロより長さが短ければ、それはマイナスと呼ぶしかない。 さて、地上の音波においてはバネの自然長Lに相当するのが大気の重さであり1気圧である。
すなわち圧力は高い方より低い方が安定だ、と言っても自然に1気圧以下に遷移することはない。
で、基準値0である1気圧を加圧するといわゆる正圧になり、減圧すると負圧になる。
そしてどちらにしろそのベクトルは1気圧に向いている。
さて今定常波を考えると、空間は瞬間瞬間には絶えず正圧と負圧の間をゆらいでいることになる。
しかし時間平均すると正負の圧力は相殺されて基準値0である。
同様に光子も正の質量を持つ電子と負の質量を持つ陽電子が対になったモノとすると、
光子の質量は絶えず正負の間をゆらいでいることになる ↓●○↑
すなわち光子の質量は時間平均すると0であるが、Δtにおいてはあくまでも正負の値を持つということである。 その様子は幾何学的に、すなわちメビウスの帯においては部分的には表と裏の区別はつくが、
全体的には表と裏の区別がつけられないのと同じだ。
あるいは囲碁の劫が部分的、すなわち時間的に白か黒かのどちらかの地にできるが、
劫自身はどちらの地であると主張できないのと同じだ。 そもそも物理量が0であるというのは2つの意味合いがある。
すなわち絶対的に0であることと、見かけ上0であることだ。
前者は文字通り何もない、探すだけ無駄だ。それに対して後者は、例えば電荷のように+と−の量があれば、
そして+と−の電荷が打ち消しあえば、見かけ上0の状態が存在する。
つまり物事を逆に見ると、すなわち質量にも+と−があるとすると、質量0の光子が創れるということだ。
すなわち光子の質量が0であることと、光子がエネルギーを有していることに本質的矛盾はない。
電子が光を放つならば当然陽電子も光を放つ。両者が放つ光が同じはずはない。
すなわち電子が放つ光と陽電子が放つ光は位相が180度ずれている。つまり初期位相が違う。
そしてそれは光子が2つの自由度をもっているからに他ならない。 量子力学と特殊相対論を融合させた理論を相対論的量子力学、あるいは場の量子論という。
しかしこの場の量子論は突っ込みどころ満載である。
そもそも量子力学と特殊相対論が結びつく必要があったのは、電子などのミクロ粒子は光速近くで
走っていると思われたからだ。すなわちガリレイ変換からローレンツ変換への書き換えである。
さらにシュレディンガー方程式は時間に対して1階、空間に対しては2階であるのだが、
相対論は時間と空間を対等に扱う。ゆえに階数をそろえねばならない。
そしてそのシナリオを元に、シュレディンガー方程式のエネルギーEを2次式であるE^2で置き換えて
導かれたのがいわゆるクラインゴルドン方程式である。 ところがである、
kotobankによると、
>クライン‐ゴルドン方程式 【Klein-Gordon equation】
>もともと弾性媒質中にあるしなやかな弦の運動を記述した微分方程式で
(数式略)
>のように書ける.量子力学においては,スカラー中間子(スピンのない中間子)を記述するのに用いられる.
とある。
これはどういうことなんだ?なんかおかしいとは思わないか? ようするに量子力学に媒質を否定した相対論を取り入れたら、媒質を記述する方程式が導かれたということか?
何のジョークだよw
媒質に無関係な方程式が導かれたなら話は分かるが、そうでないならどこかでボタンの掛け違いを
やっていることになる。
ようするにこの意味するところは、相対論関係なく媒質はローレンツ変換に共変であったということだ。
すなわち媒質こそが時間と空間は一体、すなわち時空そのもであったということだ。
つまり、結婚指輪がローレンツ変換ならば、量子力学はエーテル説と結びつく可能性があったということである。
すなわち未だ見ぬ幻の媒質の量子論の存在だ。 KG方程式から正負のエネルギー解がでてくる。元々エネルギーの2次式なのだから当然だ。
そして物理学者は負のエネルギー解の解釈に頭の毛をかきむしることになる。
すなわちエネルギーはより低い方を好むという物理学の定義により、もし0より低い負のエネルギーの
世界があったなら、我々の見るもの全てがまるで底が抜けたように負のエネルギー無限大目指して
落ちていくことになる。しかしそんな馬鹿な話はない。
ちなみに正エネルギー解に対応する粒子を電子とすると、負エネルギー解に対応する粒子は騾馬電子と呼ばれている。
騾馬電子はエネルギーを失えば失うほど益々元気になる、すなわち速度を増すという奇妙な粒子である。 媒質を否定した相対論と結びついた場の量子論の基礎方程式が、元々媒質を記述するKG方程式である
というのは不自然でありミスマッチである。
実際、媒質の世界に騾馬電子(粒子)に対応する解は存在しない。
そもそも相対論におけるエネルギーの基準点は任意である。強いて最も低いエネルギー原点は
といえば何もないまっさらな真空だ。
それに対して媒質は何かが満ち満ちた世界、すなわち豊饒の海である。
さらに媒質の世界には自然長Lというエネルギー原点である規準系が存在する。
すなわち媒質の世界には初めから騾馬粒子なるものは存在しない。 日常誰もが使う掃除機は、負圧を利用してゴミを吸い取る形態であるが、モーターを回して
実の力を加えていることは言うまでもない。
つまり正負のエネルギー、すなわち圧力は正負を問わずそのベクトルは自然長L(この場合
自然圧Pと呼ぶべきか)を向いている。
すなわち媒質の世界には騾馬電子のような、自然にマイナスの絶対値の大きな方向に向かう
形態は存在しない。
ならば場の量子論が騾馬粒子を許容するならば、場の量子論はKG方程式に変わる、
騾馬粒子を許容する方程式を基礎方程式に置くべきである。もしあるのなら。
ちなみに音速は v=√p/ρ から導かれるが、他の波動方程式と同様にその速度は平方根である。
平方根であるということは正負の2つの解、すなわち+と−の2つの速度が有るということだ。
そして実際、媒質には明確に区別される相反する2つの速度が存在する。
↓ ↑
→●← ←○→
↑ ↓
負圧(収束) 正圧(拡散)
すなわち媒質とは力学の基礎方程式の正負の解に完全に対応した世界なのだ。 言うまでもなく正の質量をもつ物体はエネルギー準位を落としながら最低点に向かう。
そして物理学ではもし0よりエネルギーの低いマイナスの領域があると、
水が高い方から低い方に流れるように、マイナス無限大の底なしの穴に落ち込むとしてる。
〔物理学のパラダイム〕
+m|─○──正の
|─↓──エネルギー
|────準位
0┼──────
|─●──負の
|─↓──エネルギー
−m|────準位
※○は正エネ粒子 ●は負エネ粒子 負エネルギー解の困難に直面したディラックは、真空は負エネルギーの騾馬電子で満たされていて
、すでに満席であるため正エネルギーの電子はマイナスの世界には落ち込めないと考えた。
そしてディラックの海に空いた穴こそが正の質量をもつとされる陽電子である。
〔ディラック流〕
+m|───正の
|─○─エネルギー
|───準位
0┼─────
|─●─ディラック
|─○──の海
−m|─●───
|─●───
しかしディラックの海はボソンを扱えないので、現在主流でない。 ファインマンは時間を順行する負エネ粒子を禁止し、時間の逆行というアイデアで
正エネ粒子が負エネ粒子に転化することを防いだ。
すなわち陽電子は時間が逆行する電子らしい。
〔ファインマン流〕
+m|─○─正の
|─↓─エネルギー
|───準位
0┼─────
|─●─↑─
|─↓─○─
−m|─X─逆行 さて、KG方程式が元々媒質の世界を記述する方程式ならば、騾馬電子は架空のモノなのだから、
負エネ粒子を正の質量をもつように改変する必要はない。
すなわち陽電子は素直に負の質量をもつとすればよい。
〔パラダイム転換〕
+m|─○─正の
|─↓─エネルギー
|───準位
0┼─────
|───負の
|─↑─エネルギー
−m|─●─準位
すなわちすべての道はローマへ通ず、ではないが、すべての力は0点に向かう。
ようするに、量子力学は新しいパラダイムの元に書き換えられなければならない。 ちなみにファインマン流における時間を逆行するエンジンはいわゆる先進ポテンシャルである。
しかし先進波が発見されたという話は聞かない。
そもそもファインマンの解釈もディラックの海と同様に、騾馬粒子を正のエネルギー、正の質量を
もつように再解釈する必要性から考えだされたものである。
しかし元々KG方程式に騾馬粒子は存在しないのだから、戦う相手が間違っていたことになる。
それゆえファインマン流の解釈も、いずれディラックの海と同じ運命をたどるであろう。 ところで猿の惑星という映画があった。地球から遠く離れた惑星にいると思っていた主人公が、
自由の女神という動かし難い現実に、「愚か者め!、ここは地球だったんだ」と怒り心頭に発する
ラストシーンはあまりにも有名であるが、
量子力学に媒質と対極にある相対論を取り入れたら見慣れた媒質の方程式が導出されたということは、
それはローレンツ変換は実はエーテルに対して不変であったということがバレたというオチであろう。
つまり、あろうことか物理学者は今の今まで媒質の世界にどっぷりと浸かっていたという、
まさかの大どんでん返しである。
物理学者は常に相対論にお伺いを立てて理論を構築する。
しかし本当にお伺いを立てなければならないのはエーテルなのである。
そして実際、最新の科学の動向は後者なのだ。 最近、ヒッグス粒子が発見されたらしい、というニュースが流れている。
さらに宇宙空間にはダークマターやダークエネルギーが満ちているという話もある。
そしてそれらに共通するのはエーテルがそうであったように、宇宙空間は何かで満たされている、
というシナリオだ。
かつて科学者は王様からエーテルの衣を剥がし、賢い人には見えるがお馬鹿には見えない、
と称して時空という衣を着せたが、どうやら最近は賢いはずの科学者でさえもその時空
という衣が見えないらしい。
それゆえ科学者という仕立て屋がとっかえひっかえ、今度こそは見えると称して、
その見えそで見えない衣を脱がしては着せ、しているのだ。 アインシュタインは後年、「一般相対論によれば空間に物理量が付与されている。
一般相対論によればエーテルなしの空間は考えることもできない」と述懐したらしいが、
まさに考えられないからこそ科学者たちは、空間をより具体的な何かで埋めようとしているのであろう。
そもそも曲がる歪む捻じれる、伸びる縮むは媒質の世界では日常用語である。
実際材料系の分野ではテンソルなるものは普通に使う用語であろう。
ならば真空とされる空間に実在する何かがなければ、それはエアーテンソルでしかない。 ところでヒッグスなるものは相対論に対して相当に失礼な話だ。
なぜなら重力が空間の曲がり、すなわち時空の歪みならば、さらに重力質量と慣性質量が区別が
つかない、すなわち等価原理が正しいならば、質量は時空の歪みじゃだめなのか?
ということになるからだ。ようするに時空はどこへ行ったんだ?という話だ。
そもそも重力と質量がまったく別のメカニズムで発現するというのも解せない。 ヒッグス機構はかつて高温であった宇宙空間が冷える過程で真空の相転移が起こり、
ヒッグス場が凝縮していわゆるヒッグスの海になったとするものである。
そして質量とはヒッグスの海による抵抗、すなわち動きづらさとしている。
しかしそもそも相転移は媒質の世界では普通の現象である。
すなわち温度変化により水が氷になったり水蒸気に転化する現象だ。 ゲージ理論によると力を媒介する光子などのいわゆるゲージボソンの質量は厳密に0とされている。
そして自発的対称性の破れにより、ゲージボソンは質量を獲得するというのが標準理論である。
ではなぜ光子の質量は厳密に0でなければならないのか?というと、その遠因をたどると
物理学の辞書には負の質量の文字がないからだ。
いや、正確に言うと物理学において負の質量とは騾馬粒子を意味する。
それゆえ物理学者は負の質量を扱えないということである。
ならば否応なく光子の質量は0でなければならない。 例えば電荷には+(−)の量しかないとしよう。ならば水分子の電荷は厳密に0である。
なぜなら水分子が+(−)の電荷をもつとするとその反発力によりバラバラになり、
水として凝集することができないからだ。
もちろん言うまでもなく電荷には+と−がある。
しかし大局的には、すなわち±0の状態にある限り電荷は表面化しない。
しかし元々+と−の電荷をもっているのだから、電離するとか分極することにより水は電荷を帯びる。 同様に、光子も+の質量をもつ電子と−の質量をもつ陽電子の複合粒子とすると、
光子の質量はプラマイ0となり、質量0の光子が創れる。
さらにそのバランスが崩れる、すなわち非対称になることにより光子は+、あるいは−の質量をもつ。
さらにその光子がエーテルとして空間を満たしていると、空間に様々な力が生じる。
すなわち宇宙のダイナミズムが説明できる。 例えば我々の周りを取り巻いている大気は普段穏やか表情を見せているが、先日のアメリカの
竜巻のように時として荒々しい表情を見せる。
すなわち音波を伝える媒質である大気は、単に音波を伝えるだけのために存在している
わけではないということだ。
すなわち家屋を破壊し、木をなぎ倒す台風やハリケーンもまた大気の仕業なのである。
つまり光子エーテル説に従うと、光子は単に電磁波を伝えるだけのために存在している
わけではないということだ。 さて、光子1個が時間と空間、すなわち時空の一単位とすると、そして重力場が時空の歪み
で説明できるのならば、質量も時空の歪みでいいことになる。
ただしそれは四次元時空連続体ではない。
なぜなら時空の量子である光子はすでに構造体なのだから離散的である。
さらに光子は正負の質量をもつのだから、複素数で表わさなければならない。
すなわち複素時空だ。 台風やハリケーンを撮影した衛星写真と、銀河を撮影した天体写真は渦を巻いている
という意味ではよく似ている。
台風の渦巻き模様は雲であり水蒸気であるが、だからと言っていくら水蒸気の
相互作用を研究したところで台風の渦を説明できないのは明らかだ。
なぜなら実際に渦を巻いてるのは目に見えない大気であるからだ。
もちろん水蒸気は熱エネルギーをもっている。それゆえ水蒸気は台風を
駆動するエンジンの役割を果たしているに違いないが、いずれにせよ
その背後に潜む大気を考慮しなければならないことは言うまでもない。 さて、銀河を撮った天体写真に写っているのは主に恒星などの光を放つ天体である。
しかしその見えている天体の重力源だけでは銀河の回転速度を説明できない、
というのがいわゆるダークマターが必要であるという動機づけである。
しかしもしより実在的な光子がエーテルとして宇宙空間を満たしているなら、
いや光子が時空そのものならば、光子エーテルがそれらの謎を解決するかもしれない。 ヒッグス機構を説明するのによく強磁性体のアナロジーが使われる。
すなわち棒磁石を熱するとやがて磁性を失う。
それは向きがそろっていた微小磁石の向きがてんでんばらばらになり、マクロとしての
磁性が失われたからだ。
すなわち微小磁石のそれぞれが勝手な方向を向いている状態が対称性がある状態であり、
向きがそろった状態が対称性が破れた状態である。 しかしこのアナロジーは不完全である。
なぜなら磁石にはN極とS極の2つの極があるからだ。それは電荷には+と−の量が
あるのと同じであり、相殺項があるということである。
つまり見かけ上力がない状態は±0の世界であり、絶対的に0の世界ではない。
ところが現代物理は質量に関しては+の量しか認めていない。
反粒子は負エネルギー解から導出されたにもかかわらずである。
すなわち質量に関しては相殺項がないということだ。
ならば対称性が破れる前の対称性は何なのか?ということになる。 ゲージ理論の一つの見方として、位相変換、例えば符号の正負を入れ替えても物理法則
は変わらないことを要請するものであると言える。
例えば既存の物理学では電子の電荷は−、陽電子の電荷は+と規定しているが、
例え電子の電荷を+としても、同時に陽電子の電荷を−とすれば物理法則は変わらない。 あるいは身近な例では、仮に世界中の車は右側通行であるとしよう。
しかしもし望むなら、明日から(もちろん十分な準備期間をとっての明日であるが)世界中の車を
左側通行にする、としても構わないはずである。
実際、現実に、ローカルとして日本のように左側通行を採用している国が存在する。
つまりその場合、交通標識をそのようにすればよいのだ。
そもそも右手系と左手系に対称性があるということは、対向車が真正面から向かってくる
可能性があることを意味する。
しかし現実に対向車とすれ違うことができるのは、それは右と左の対称性を破っているからだ。 さて位相変換、すなわち現代物理においては符号の入れ替えを許さない物理量が存在する。
すなわちそれはエネルギーだ。
もし正負のエネルギー準位が>>291の図のようであれば、エネルギーの符号のを入れ替えても
物理法則は変わらない。なぜならどちらもそのベクトルは0点を向いているからだ。
しかし現代物理のパラダイムは>>287の図である。
ならば正負の符号を入れ替えると物理法則は変わってしまう。 すなわち明日から正のエネルギーを負のエネルギーと呼ぶことにしよう、ということは
そのエネルギー準位は絶対値のより大きな方向が安定になるということである。
もっともその場合、百歩譲って大域的に負のエネルギー準位は0点に向かう、
しかし正のエネルギー準位は絶対値の大きな方向を向いている。
ゆえに正のエネルギーは存在しない、とすれば物理法則は今までと変わらない。
しかしそれにしたって、局所的変換は無理である。
すなわちどっちにしろ符号を入れ替えるということは車で言えば、アクセルから足を離すと
益々加速する世界であり、車を止めるにはアクセルを思いっきり踏み込まなければならない。
さらに放り投げたボールは空気抵抗などで減衰してエネルギーを失うと益々速度を上げる
という、凄まじい世界である。 ゲージ理論は大域的対称性よりも局所的対称性を重要視する。
すなわち時空の各点で勝手に位相を取り換えても理論が不変に保たれることを要請する。
しかしエネルギー、そしてそれに等価な重力、質量に関してはゲージ対称性は
成り立たないことを見てきた。
それゆえ既存の枠組みの下では4つの力を統一することは不可能である。
そもそも>>287は実験的裏づけのない恣意的な概念である。
ただエネルギーはより低い方を好むという合い言葉に乗っかったものだ。
しかし実際の正負のエネルギー準位は本当は>>291だとすると、現代物理の状況は
宝探しゲームをやるにあたり、主催者がうっかり砂の中に宝物を隠し忘れたようなものだ。
ならばいくら砂を掘ったところで宝物が出てくるはずがない。
やがて日が暮れて途方に暮れるだけである。 現代物理では無邪気に粒子も反粒子も正の質量をもっていると言うが、物理学者は
本当に反粒子は先進ポテンシャルにより駆動されていると思っているのかな?
負エネルギー解の反粒子が正の質量をもつということはそういうことなのだよ。
ならば電子が放つ光が遅延波ならば陽電子が放つ光は先進波なのか?
そもそも反粒子は何をもってして時間を逆行していると言えるのだ?
ファインマン流における時間の逆行は単に理論の辻褄合わせのための相殺項ではないのか? しかし時間の逆行という概念が有効ならば、それは数学的に複素共役でいいはずである。
すなわち電子と陽電子が放つ光はそれぞれ正振動と負振動でよい。
ようするに初期位相が180度ずれているということだ。
つまり粒子と反粒子はエネルギーの形態が異なるのだから、
一方の質量を+とするならば、一方の質量を−としても何の問題もないということだ。 光子の質量は0であると言う。しかし光子は運動量もエネルギーももっている。
しかし質量とエネルギーが等価ならば、これは明らかに矛盾している。
実際、運動量は p=mv であり、運動エネルギーは k=1/2mv^2 であるからだ。
ならば質量が0ならば、運動量もエネルギーも0になる。
もっとも相対論的はローレンツ因子 √1−(v/c)^2 で割る必要があるが、
それにしたって質量mが0ならエネルギーも0であることに変わりはない。 ただしここで注意すべきは、ローレンツ因子のルートの中の速度vをcにすると
√0になることだ。すなわち0と言っても平方根なのだから±0である。すなわち√0=±0
このスレで何度も述べているように±0は絶対的に0でない。
絶対的に0であることとそうでないことの違いを例え話を使って説明してみよう。 蛍光灯の白もディスプレイの白も、基本的に白である。
しかし両者の違いは蛍光灯の光はあくまでも白だが、ディスプレイは任意の色を出す
ことができることだ。
つまりディスプレイは赤、緑、青の3原色の画素から成っている。
そして3原色のバランスの違いにより、様々な色を出す。
すなわちディスプレイは±0(3値であるが)の世界なのだ。 あるいはスポーツにおける得点、すなわち0対0も1対1も3対3も得点差はゼロである。
ひいきのチームが得点すると歓喜に酔いしれるがその喜びもつかの間、相手チームが得点
するとひいきのチームの得点シーンは遠い記憶の彼方に消え去る。
つまり互いに相手チームの得点はマイナスなのである。すなわち±0の世界なのだ。 その状況は光子の質量においても同様である。
すなわち光子は正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子が対になった
ものであるとすると(○電子-陽電子●)となり、質量項が出てくる。
すなわち光子は絶えず電子と陽電子の間を揺れ動いている。 正負の間を揺らいでいるのはエネルギーや運動量も同じである。
その様子を理解したければ音における音圧を考えればよいだろう。
光が圧力を有しているように音も圧力をもっている。
音圧とは1気圧からのズレである。 音楽を聞く場合、スピーカーであろうとイヤホンであろうと鼓膜であろうと、
振動板を震わす能力が音圧である。
単純に正弦波を考えると、音波は正圧と負圧が交互に伝わっていく。
もし振動板に正圧と負圧が同時に掛かれば、振動板はどちらに振れるべきか
悩むことになる。しかし実際にはタイムラグがある。
いずれにせよ音圧、すなわち音のエネルギーは絶対値、すなわち正の値で表わされる。
しかしだからと言って、音の波に負圧の位相はない、とするとおかしなことになる。 あるいは各家庭のコンセントから来ている交流である電圧(電流)は普通100Vと言われているが、
それは直流に換算したいわゆる実効値であり、実際にはある瞬間には+141Vであったり、0Vであったり
−141Vであったりと絶えず正負の間を往ったり来たりしている。
もちろん電流、すなわち電子が左から右に流れようと右から左に流れようと仕事をする能力、
すなわちエネルギーは正の値である。 さて、では宇宙空間を飛び交う光、そしてそれを最終的に還元した光子が正の質量をもつ電子と
負の質量をもつ陽電子の複合粒子とすると、光子においては絶えず正負の質量の間をゆらいでいることになる。
そしてその状態が光子のエネルギーとすると、音圧がそうであるようにそのエネルギーの値は
絶対値であり正である。
しかしだからと言って、電子と陽電子が放つ光は同じものであり、両者の放つ光は区別する
ことができない、ということにはならないであろう。
つまり電子と陽電子が放つ光は初期位相が違う。
それゆえ電子が放つ光を正のエネルギーとするならば、陽電子が放つ光は負のエネルギーであるとしても
別に構わないということである。 ところで、>>291の正当性を裏付けるのが鏡像変換、すなわちミラー対称性である。>>53を参照。
例えば鏡の前でドライバーを右手に持ち、右に回して板にネジ(右ネジ)を締め込むとしよう。
この場合こちらから見て、こちら側も鏡の向こう側にいるもう一人の自分もドライバーをもつ手も
回す向きも同じだ。
しかし鏡の中のもう一人の自分は左手にドライバーをもち、さらにドライバーを左回転させている。
すなわち右ネジが左ネジになっている。つまりベクトルの成分は反転している。
そしてこのようなベクトルを極性ベクトルという。 ドライバーを回す面をx-y軸とすると、その面を垂直に貫くネジが進む方向がz軸である。
z軸においてはこちら側と向こう側ではネジの進む向きが(→|←)互いに反転している。
しかしベクトルの成分、すなわちどちらもネジが締まる方向に進むという意味では同じだ。
このようなベクトルを軸性ベクトルと言う。 さて、以上を踏まえると>>291は鏡像関係にあることが分かる。
すなわち正負のエネルギー準位のベクトルトは互いに逆を向いているが(→|←)、
そのベクトル成分はどちらも0点を向いている。
それに対し>>287は鏡像関係にないことは明らかだ。
すなわち正負のエネルギー準位のベクトルの方向は同じだが(←|←)、
そのベクトル成分は、一方は0点に向き、一方はマイナス無限大に向いている。 つまり、>>287を無理に現実世界に当てはめるとすると、鏡のこちら側ではドライバーを
回すとネジは締まる方向に進む。
しかし鏡の向こう側のもう一人の自分は悪戦苦闘している。
すなわちいくらドライバーを回してもネジは緩む方向にしか進まないということである。 いずれにせよ>>287はエネルギーはより安定な場所を求めて彷徨うという物理学の冒すべからざる
大原則からの帰結であり、神聖なものである。
しかしその安定点が正負を問わず0点であるとすると、話は変わってくる。
そもそもある意味>>291は調和振動子そのものである。
調和振動子においては自然長Lを基準に+と−が定義される。
そしてどちらにしろそのベクトルは自然長Lである0点を向いている。 ところで(場の)量子論には調和振動子が頻繁に出てくる。
量子論では空間の各点にバネが付随しているとさえ言っている。
しかし量子論の書物にはなぜか自然長Lという用語が出てこない。
自然長Lという規準系はなにかまずいことでもあるのかな?
しかし調和振動子にとって自然長Lは基本中の基本であるはずである。
例えばゼロ点振動(エネルギー)はまさにそれだと思うのだが、いずれにしても
自然長Lのない調和振動子は調和振動子とは言えないであろう。 >>282
>>クライン‐ゴルドン方程式 【Klein-Gordon equation】
>>もともと弾性媒質中にあるしなやかな弦の運動を記述した微分方程式で
しなやかな弦とは楽器のギターのことかと思い、ググったら実際そうだった。
ようするに減衰項のある波動のことらしい。
さらに電信方程式といって、平行2線や同軸ケーブル、あるいは電気(電子)回路を
伝わる波動もKG方程式と同じ形式であるということだ。 アンテナとテレビを繋ぐ同軸ケーブルも、電気(電子)回路も、導体とそれのショートを防ぐ絶縁体から成っている。
つまり楽器の弦を伝わる波動がそうであるように、それらのモノも実体を伴った波動である。
さらに導体を伝わる波動(光や電磁波)の速度は光速以下であることは言うまでもない。
すなわち特殊相対論とは無縁の世界である。
そしてKG方程式はそれらの波動を記述する方程式と同じ形式であるということだ。 ちなみに余談だが、ギターの弦を指で弾くと固有の音(定常波)を発するが、
許される振動は基音とその倍音、すなわち高調波と言われているものである。
そしてそのギターの弦の端点と端点をつなげて閉曲線にしたのが、いわゆるボーアの
原子モデルである。
つまり、媒質の世界とミクロの世界はそれほど離れているわけではない。 光速は※1/√ε0μ0 から導出される。
しかし※式は波動方程式の一般解の一つに過ぎない。
それゆえ※式を盾に、光速度不変は保証されていると信じて疑わないのは何かの勘違いである。
そもそも波動方程式にはダランベールの解というものがあって、 u(x,t) = f(x − vt) + g(x + vt) で表わされる。
ようするにそれが弦を伝わる波動ならば、正負の方向に一定速度で進む様子を記述してるに過ぎない。
さらに波動方程式からそれが音速ならば、弾性率κと媒質の密度ρから √κ/ρ が導かれ、
それが弦を伝わる速度ならば、弦の張力Tと線密度Mから √T/M が導かれる。
さらにそれが導体を伝わる電磁波ならば、電気容量CとインダクタンスLから 1/√LC が導かれ、
そして誘電率と透磁率の値が極小なのが ※1/√ε0μ0 であり、真空中の光速度なのだ。 つまり光速度を表す ※1/√ε0μ0 は波動方程式の一般解の一つであり、
※式そのものからは特殊相対論がいうところのいわゆる光速度不変は出てこない。
いや、とは言うものの、ある意味※式は特殊解であるとも言える。
なぜなら現代物理では、真空は誘電体(絶縁体)でないと考えているからだ。
真空が誘電体でないとすると、真空の誘電率は0のはずである。
ならば1/√ε0μ0 のルートの値は偽りの値ということになる。
実際、真空の誘電率ε0は単位系の取り方によりどうにでもなる値であり、
実際の値でないと言われている。 ならば、1/√ε0μ0 の ε0もμ0も波動方程式の体裁を整えるためのお飾りに過ぎないことになる。
ならば※式のルートの中にはクマのぬいぐるみでも置いておけばいいw
なにしろ真空は誘電体でないと言うのだから。 もっともかつてディラックの海が主流であったころは、真空は誘電体であると考えられていた。
すなわディラックによれば、真空は負エネルギーの電子である騾馬電子で満たされている。
そして電子の電荷が騾馬電子を電子へと励起し、騾馬電子が抜けた穴、すなわち正孔が陽電子となる。
つまり電子はそのような電子-陽電子対に取り囲まれている。いわゆる真空偏極だ。
もちろん現在ディラックの海は主流でないが、真空偏極という概念はくりこみ理論には必須アイテムであり、
量子電磁力学や素粒子論には今でも有効なはずである。
いずれにせよ現代物理は真空は空虚なものではなく、粒子-反粒子が対生成しては対消滅する、
動的な世界と捉えている。すなわち仮想粒子を想定している。
では、果たして真空は誘電体なのか、そうでないのか、一体どっちなんだ? ○電子
●陽電子
○● ○ ●○
\
● 電子
○ 水は誘電体(絶縁体)である。すなわちイオンに対し分極し、イオンの電荷を遮蔽する。
<図1>+イオンの回りの水分子
○水素+
●酸素−
○● ○ ●○
\
● +の
○ イオン
<図2>−イオンの回りの水分子
●酸素−
○水素+
●○ ● ○●
\
○ −の
● イオン
(実際は水素原子2個)
分極した水分子の遮蔽効果により、イオンの電荷の値は見かけ上減少する。 誘電体である水が分極するように、何もないと思われていた真空も分極するというのが
いわゆる真空偏極だ。
<図3> 電子の回りの(仮)の電子・陽電子対
○電子
●陽電子
○● ○ ●○
\
● 電子
○
<図4> 陽電子の回りの(仮)の陽電子・電子対
●陽電子
○電子
●○ ● ○●
\
○ 陽電子
● ディラックの海が主流であったころは、真空偏極を担っていたのは騾馬電子であったが、
現在は仮想粒子とされている。
すなわち電子(当然陽電子も)は絶えず光子を放出、吸収し、さらに光子から電子・陽電子対が
対生成され、再び対消滅して光子に戻るという過程をくり返している。
つまり電子(陽電子)はそのような仮想的な電子・陽電子対に取り囲まれている。
仮想粒子は実測されないとか、極めて短い時間ならばエネルギー保存則を破ってもよい
だとか都合のいいものであるが、少なくともエーテルを排した現代物理においては
間違ってもそれを実在粒子とは言えないことは確かである。 いずれにせよ既存の物理学は力の相互作用に対して近接作用を採用しているのだから、
空間には力を媒介する何かが遍在していなければならない。
すなわち何もないまっさらな真空という概念はありえない。 しかし考えてみれば我々の身の回りに遍満する地上の大気も、便宜的に仮想粒子といえば
仮想粒子である。
すなわち大気は1p^2あたり1kgの重さをもっている。人間の体の表面積をアバウトに
2uとすると、人間は約20トンの応力を受けている。
つまり我々は土砂を満載した大型ダンプカー1台分の重さを身にまとっている計算になる。
もちろんそんな重さを感じて生活している人間はいない。
しかし例えばドラム缶の空気を抜くと、まるでアルミ缶を握りつぶした如くクシャクシャに
潰れる。確かに大気はそれだけのポテンシャルをもっているわけだ。
逆に言うと、すなわち絶えずゆらいでいる地上の気圧が極度に低気圧側に振れると、
その重さが上向きに働くことになる。
それゆえ時としてトレーラーさえも宙に舞う、というのもうなずけるというものである。 それにしても現代物理は「何々は何々であるが、何々は何々でない」というフレーズがあまりにも多すぎる。
すなわち真空には誘電率が定義されるが真空は誘電体でない。
電子の振る舞いは波動関数で記述されるが波動関数自体は実在しない。
電子などの素粒子は地球の自転、すなわちコマのようなスピンという属性をもつが、
コマのような実在の回転ではない。
ミクロ世界は虚数を含んだ複素数で記述されるが、虚数に対応する実体は存在しない。
時間と空間は別物ではなく一体、すなわち時空として記述されるが、時間はモノの変化を
表すパラメータに過ぎない、すなわち時間は存在しない、幻想であるとする意見すらある。
しかし時間が流れるものならば、物理的な実体があるはずである。
ところが物理学では時間とは何か?という問いに明確な答えを出してはいない。 なぜ物理学はこんな状況になってしまったのか?
本来物理学とは実在を説く学問ではなかったのか?
もちろんそれはエーテルを排した代償である。
すなわち現代物理が実在の象徴であるエーテルを排したということは、
現代物理は実在を語ることを放棄したということである。
ならば物理学が実在を語ることは論理的に矛盾を孕んでいるのだから、
物理学に実在を求めるのはないものねだりである。
もっとも、それゆえ知的遊戯としては面白いかもしれないが、あくまでもそれは
答えのない問いであり、現実世界とは答え合わせができないというもどかしさが
常につきまとう。 実在を扱えない現代物理の状況を理解したければ、既存の流体力学を参照すればいいだろう。
飛行機の翼であれ、船の形状であれ、自動車の形状であれ、すなわちデザインは
流体力学を駆使して計算され決定される。 すなわち
「飛行機が飛ぶ様子は流体力学で記述される。しかし流体は存在しない。」
さて、もし流体が離散的な、すなわち構造をもった原子・分子の集団とするならば、
「 」の文章は明らかに偽である。
しかし流体が構造をもたない点の集まりである連続体であるとすると、
「 」の文章は真である。
そもそも連続体の流体とは流体から流体を取り上げた疑似流体なのだから当然だ。 言うまでもなく物理学者は水や大気のような流体は原子・分子の集合体であることを
嫌というほど知っている。
しかし流体の巨視的な振る舞いは連続体として近似できる。
そしてなにより重要なのは、流体を連続体として扱えば、よく整備された微分を
駆使した連続体の方程式がそのまま使えるということである。
しかし化学反応、さらには生命体を構築するタンパク質やアミノ酸、さらにはDNAにおける
2重らせん構造を原子・分子というレゴブロックなしで理解する企ては夢のまた夢であるはずだ。
つまり科学者は分野ごとに離散と連続を使い分けているということだ。 ところでマクスウェル方程式は流体力学をモデルに作られた、とされているが、
電磁波を媒介するとされるいわゆる「場」は完全に連続体の世界である。
さらに原子を構成する電子などの素粒子も構造をもたない数学的な点とされている。 ようするにミクロの世界を構築すべくレゴブロックの箱には(・←)しか入っていない。
すなわち電子も、その反粒子である陽電子も、光子も、クォークも、その他あらゆる素粒子も、
そして空間の各点(すなわち場)も(・←)で表わせられる。
すなわちミクロの世界は全て(・←)これで記述できると言うのだ。すくなくとも標準理論においては。
ただしその代わり無限個入っています!。というものである。(無限個もいらね〜よw)
※-(注)実は・←は便宜的な点であっていわゆる数学的な点でない。なぜなら・←はすでに
ある面積を占有しているからだ。しかし数学的な点とは大きさをもってはならない。
その意味では物理学における数学的な点とされる電子などの素粒子をビジュアル化することは
原理的に不可能である。 物理学が実在を扱えないことのよい証明は、最近話題のヒッグス粒子の一般向けの解説を見ればよく分かる。
すなわちテレビなどで宇宙空間をびっしりと満たしているとされるヒッグス粒子の様子を表す場合、
番組制作者はHと書かれたあたかもボールのようなモノを無数に空間に敷きつめる。
するとプロ側から「それはインチキ、粒でなく場だ」 と横やりが入る。
確かに空間を実体的なモノで埋めるとそれはエーテルを連想させる。
しかしそれは物理学者にとっては耐え難いものに違いない。
ならばプロであるお前が見本を見せてくれ、という話になるが、それはできない相談なのだ。
なぜなら構造と大きさをもたない点をビジュアル化することは原理的に不可能であるからだ。
せいぜい単色の色で画面全体をべったりと塗りつぶすしかない。
この宇宙からエーテルを排したということは、そういうことなのだ。 ところでヒッグスとエーテルはよく似ていると言われるが全くの別物だ。
確かに宇宙空間を満たしているという概念は共通しているがまるで違う。
すなわちヒッグスはあくまでも場であり連続体。しかしエーテルは媒質であり非連続体。
さらにヒッグス機構は光子を完全スルーしているが、エーテルは離散的な光子の集合体。
ちなみに質量0の光子は質量発現に関与してないと思われている、
つまり光子は質量0というアリバイがあり、質量を生み出す犯人ではない、と。
しかし接点も脈絡も動機もない、ところが結局は犯人であった、というどんでん返しは
推理小説の王道ではある。 宇宙初期あらゆる素粒子は光速度で走っていた。しかしヒッグス機構により質量を獲得した
光子以外の素粒子は、光速以下でしか動けなくなった。
というのが標準理論のシナリオである。
しかし光子を素粒子とみた場合、その光子そのものが光速度で走るというのは違和感を覚える。
なぜならそれは近接作用を否定しているからだ。 近接作用とは電光掲示板の文字のように、移動しているのはあくまでも情報パターンであって
電球そのものではない。
つまり、電光掲示板に電球がびっしりと敷きつめられていたならば、電球そのものが移動
する必要はないと言うことだ。
ならば、光子そのものが宇宙空間を飛び交っているとするならば、それは近接作用ではない。
もちろん光速と言っても有限なのだから、遠隔作用ではないが、だからと言って近接作用でもない。 素粒子である光子が光速度で走るという描像は別の意味でも破綻している。
それは光子はエネルギーや運動量をもっているからだ。
ただしこの場合近接作用で考えても同じであるが。
すなわち光子がエネルギー及び運動量をもっているならば、そしてそれをローレンツ因子で割ると、
エネルギー、運動量は無限大に発散する。 よく質量とエネルギーが等価ならば、質量0の光子がエネルギーをもっているのはおかしい、
という疑念に対し、※E^2= p^2c^2 + m^2c^4 をもちだす。
すなわち質量をゼロと置くと、E= pcの項が残ると言うものである。
実際にはP=mvであるのだが。
しかしこれは論点をすり替えている。
すなわちここで議論しなければならないのは、質量0の光子が何故エネルギーや
運動量をもってもいいかではなく、何故質量を有する光子が駄目で何故エネルギーや
運動量はいいのか?ということなのだ。
しかし無限大に発散するという意味においては質量もエネルギーも運動量も同じ
なのだから、質量が駄目なら皆仲良く駄目である。
ではこの矛盾はどう回避されるのかと言うと、まさにその謎を解く鍵こそが※式なのだ。 ようするに、※E^2= p^2c^2 + m^2c^4 はエネルギーの2乗式なのだから、
※式はエネルギー(時間)、質量、運動量、速度にはプラスとマイナスの2つの量が
ありますよ、と言っているのだ。
つまり※式は質量には正負の符合があることを保証していることになる。
ならば光子は正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子が対になったものとすると
全体としての光子の質量はゼロである。しかし部分的には光子は正負の質量をもっている。
すなわち光子の質量がゼロであることと、光子がエネルギーや運動量をもっていることに
本質的矛盾はない。 よく物理の書物を読んでいると、あらゆる物理理論は相対論に共変でなければならない
とか、この形式は相対論の要請を満足する、などと記述しているのを見かける。
最初何のことか分からなかったが、よくよく調べてみると何のことはない、
ようするに時間と空間は同等、すなわち時空として扱えということである。
つまりそれが微分方程式ならば、時間に対して2階ならば空間に対しても2階、
時間に対して1階ならば空間に対しても1階、すなわち階数を揃えなさいということなのだ。
ならばそもそも元々の波動方程式が時間に対しても空間に対しても2階なのだから、
時空の親玉は波動方程式である。 結局、時空という概念を使うのに相対論の顔色を伺う必要はないということである。
ようするに※式に相対論のロゴマークを貼ると相対論的世界観が展開し、
※式に媒質のロゴマークを貼るとエーテル論的世界観が展開されるということなのだ。 では両者の違いを見てみよう。
すなわち相対論においては※式の一方の解を有り得ないモノとして惜しげもなく捨て去る。
いや正確には負の解は非物理的な操作を施して正定値にしなければ扱えないということである。
それに対して媒質の世界は、正負の解をダイレクトに使わなければ媒質の世界を
記述できない。
実際音響学者が負圧という用語を使ったからといって、トンデモ扱いされることはない。
では何故媒質の世界においては正負の解をダイレクトに扱えるのかというと、
それは媒質の世界には自然長Lという基準系があるからだ。
すなわち媒質の世界において正負の解とは、その基準系からどちらの方向にずれる
かの違いでしかないのだ。つまり、それ以上の深い意味はない。 >この宇宙に存在するものは全て生命系か非生命系かで説明できる。
宇宙そのものは?
生命系?非生命系? >>363
エーテルを捨てた代償はあまりにも大きかったと言うことだよ
>>364
このスレの主旨からして当然生命系だろうね。
俺は特定の宗教的信条をもっていないが、あえて言えば原始的と言われているアニミズムかな。
スローガン的にはアトミズムからアニミズムへと言ったところか。
人間に生命の息吹きを吹き込んでいるのが水や空気であるように、
宇宙の営みは光子エーテルにより突き動かされている。
神は細部に宿るってやつだ。
と言っても俺はより根源的なモノを実体的、メカニカルなモノに還元してるのだから、
その意味では俺は唯物論者だ。 アニミズムねぇ・・
細胞が意思を持つといった安っぽい小説が多いから
誤解されやすい思想だと思うけど。
さてあなたに問いたい。
「宇宙」或いは「宇宙を含む生命体」のデザイナーは
それぞれに生命の息吹きを吹き込んで一体何をたくらんで
いるのですか?
現状はデザイナーの思惑通りになっている?
あなたにとってデザイナーとは何ですか?
光子エーテルですか? あなたにとってメコスジ道とは何ですか?
目子ナメーテルですか? スレ主は雑音を無視し誠実に回答せよ。
勘違いすんな。俺はあなたの論理に否定する者じゃない。むしろ賛同に近い。
あなたの論理の展開にいささかの疑問点があるので書込んだだけだ。
あなたなら分かるはずだ。 >>370
いや、生命系は非線形力学でいいんだよ。
宇宙のデザインという話しだが、まさにそれがフラクタル幾何学。
例えば渦構造はミクロ系マクロ系を問わず普遍的に見られる。つまり宇宙は相似形をなしている。
つまりフラクタルは望遠鏡にも顕微鏡にも使えるってことだ。
俺はミクロ系とマクロ系に一切の差違を認めないという立場。どこまで符合させうるかは別として。
それと生命の息吹きと言ったが、それを物理的に言うとバネ、すなわち復元力。
光子もバネ、心臓の鼓動も呼吸もバネ、すなわち周期的な単振動。
もちろん線形、非線形の違いはあるが。
他のスレでも書いたが宇宙の森羅万象は単振動、もちろん宇宙そのものも単振動。
あとこの話題でこれ以上レスしない。
なにしろ俺は長文しか書けないからな。メンドークセーんだよw 目子筋力学〈Fatal Mekosujics〉この学説を発表していたのは。
いったいなにものなのだろう。日本ではまだ知られていない。 いかにもニセ科学なスレタイと思ったらヤッパリごみスレ 媒質を否定した相対論は基本的に遠隔作用の理論。
ゆえに相対論を取り入れた場の量子論が遠隔作用のオンパレードなのは当たり前。
ちなみにエーテル理論の立場からは、例えば量子もつれは単なるパスカルの原理に他ならない。 よくお前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノと言うが、
さしずめ相対論はお前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノじゃない、むしろお前のモノ、という理論なのだ。
例えば近接作用は媒質の特性であり、媒質のためにあるようなモノである。
ならば媒質を否定した相対論が近接作用の理論であるわけがない。
ただ相対論は最高速cにより瞬間的な遠隔作用を禁じた、それゆえ相対論は近接作用であるという
実に短絡的な帰結なのだ。
そもそも近接作用とはドミノ倒しのように、始状態と終状態の間に無数のドミノが介在する様である。
しかし単にドミノを床を滑らせたとしても、それを近接作用とは呼ばない。
結局現代物理は媒質であるエーテルを否定したところで、近接作用を荷うモノとして場という
疑似エーテルを使っている。ならば場はエーテルと同じ矛盾を孕むはずである。
ところが物理学者は媒質は徹底的に潰しにかかるが、場はお咎めなしなのだ。 エーテル派のローレンツ等はMM実験の結果に対し、実験装置がナノレベル縮んだとすればエーテルの風は
観測されないと考えた。
それに対し、現代物理では特殊相対性原理と光速度不変の原理の2つの原理を要請すれば、
MM実験の結果を説明できるとしている。
しかし注意すべきは、そのように仮定すれば説明できるというだけであって、その正しさが検証された
ためしはないということだ。
エーテルという速度の基準系を否定した特殊相対論にとって意味をもつのは相対速度である。
すなわち0対100の世界。要するに地球を静止系と考えても構わないということだ。
もちろん地球は回転座標系であり、厳密には慣性系ではないが、局所慣性系という概念を使って
地球、すなわち実験装置が空間に静止しているとしても構わない。ゆえに実験装置は縮まないし時間の遅れもない。
縮んだり時間の遅れが生じるのは実験装置を載せた地球と相対速度をもつ宇宙空間そのものである。
しかし地球から見て宇宙空間が縮んだ、あるいは時間の遅れが生じた、等というデータはない。
いやそもそもそれを検証するすべがない。普通それを反証可能性がないと言う。
そしてそれが相対論の強みであり、100年以上の長きに渡って科学の世界に君臨している理由である。
いずれにせよ地球から見た宇宙全体が縮んでいる、あるいは時間の遅れが生じているならそれはまぎれもなく
遠隔作用である。すなわち相対性理論は基本的に遠隔作用の理論なのだ。 磁場は電場の相対論効果という解釈がある。
例えば導体に電流、すなわち電子が流れているとする。そしてその導体に沿って正に帯電した金属球を
電子の流れる向きに動かすと、金属球は導体から反発される。
普通この現象はローレンツ力で説明する。
つまり電流が流れると磁力線、すなわち磁場が発生し、磁場の中を移動する電荷はローレンツ力を受けるというものだ。
ところが相対論を使うと、磁場を考えなくとも電場だけでこの現象を説明できるらしい。
すなわち電子の座標系では自身は静止している。電子から見れば動いているのは導体の方である。
それゆえ導体はいわゆるローレンツ収縮を起こし、導体の金属イオンの間隔が狭まり、電荷密度が増し正に帯電する。
そして結果として導体の傍らの金属球は反発されるというストーリーだ。
しかしここで注意すべきは、電子から見て相対速度をもつのは導体だけではなく、
その電子を除く宇宙全体であるということである。つまりローレンツ収縮するのは導体のみならず宇宙そのものなのだ。
ならばそれは光速度云々関係なくまぎれもない遠隔作用である。
もし誰も相対論を使わなければ遠隔作用は露呈しない。ところが相対論が妙に色気を出したばっかりに、
その本性を現したということである。
近接作用を標榜する相対論から遠隔作用が出てくるというのは、致命的な欠陥である。
ならば余計なお世話であるが、相対論は「アナ雪」ではないが、ありのままの自分に目覚めることであろう。
すなわち開き直って、今後遠隔作用の理論としてやっていくことだ。
そもそもこの宇宙から近接作用の権化である媒質を排した相対論には、遠隔作用がお似合いなのだ。 そもそもローレンツ変換はエーテルの存在を前提に、MM実験の結果と整合性をとるために導出されたものである。
つまりエーテル説の立場からは、ローレンツ変換はエーテルに対して速度をもつものに適用されるものであり、
それゆえ実験装置を90°回転させても干渉縞の明暗が観測されないのは、実験装置が
エーテルと相互作用した結果に他ならないことになる。
その意味ではエーテル説においては実験装置を覗き込むことにより、実験は完了している。
もちろんその正当性に対する批判は自由だ。 ところで相対論ではローレンツ変換は俺のモノであると主張している。
ならば相対論においてはMM実験のどこにローレンツ変換を使うんだ?と言う話になるが、
それは我々から見た流れる風景、すなわち宇宙全体である。
すなわち宇宙空間が縮んだ、宇宙の時間が遅れたという今時小学生でさえ食いつかないような
気恥ずかしい主張なのだ。もちろんそのようなデータはどこにもない。
つまり相対論においては干渉縞の明暗が観測されないのはあくまでも前提であって結果ではない。
ならばMM実験を何万回やろうともローレンツ変換を受ける対象のデータを提示しない限り、
MM実験と相対論とは無関係である。 実際、アインシュタイン自身本当かウソかは分からないが、「MM実験?そんなの知らね!」とバックれたらしい。
アインシュタインがMM実験を知らなかったとは考え難いが、いずれにせよアインシュタインは
ローレンツの論文もポアンカレの論文も読まずに独自にローレンツ変換を導いたということである。
しかしならば何の目的でローレンツ変換を導いたのだ?ということになるし、
逆にもしエーテルを否定してローレンツ変換を使えばMM実験を説明できるとしたならば、
少なくとも実験装置にはローレンツ変換を使っていない。
つまりローレンツ変換を適用する対象とそのデータを提示しない限りMM実験で相対論の正しさが証明された
ことにはならないし、ましてやエーテルを否定したことにはならない。 科学の書物ではお約束でエーテルはMM実験により否定されたことになっているが、結局のところそのような
歴史的事実はないということだ。
科学者がエーテルを棄てた本当の理由は前世紀初頭に台頭した粒と波の二重性を標榜する量子論の勃興、
さらに光電効果やコンプトン効果のように、光を粒と考えると上手く説明できる現象が見い出されたからである。
つまり波としての商品価値しかなかったエーテルは、粒と波の二重性という魅惑的なブランド力に敗れ去ったのだ。
ところがこれがまたとんでもない歴史的誤謬であり、ボタンの掛け違いなのである。
なぜなら現在我々は、エーテルの母体となった媒質がなんであれ原子・分子といった粒々の集団であることを知っているからだ。
つまり波を伝える水であれ、音を伝える大気であれ、その本質は粒なのである。
結局エーテルは粒だから必要なのであり、波だから必要であるとされたエーテルは単なる幻想であったということだ。
ようするに、ゲームは振り出しに戻ったということである。 エーテルは波だから必要であるというコンセプトは競技場のウエーブを見て、観客は
波だから必要である、と言うようなものだ。
いや、どっから見ても観客は一人二人と数えられる離散的な粒的なモノ(者)である。
そしてその粒的なモノが波を引き起こすのだから、粒であることと波であることは矛盾しない。
つまり波とは粒的なモノの振る舞い、パフォーマンスなのであり、両者は不可分の関係にある。
ところが物理学では粒と波は対立する相容れない概念ととらえている。
すなわち空間に局在する粒的なモノと、空間的広がりをもつ波的なモノが一つに納まっていることに
納得がいかないというものである。
そしてその対立をことさらあおる理論体系がいわゆる量子力学なのだ。 そもそも波動はニュートンの運動方程式である F=ma とフックのバネの法則である F=-Kx を
組み合わせることにより出てくる。
実際単振動するバネと重りからなる調和振動子は F=md^2x/dt^2=-kx で表わされる。
時間tによる位置xの2階微分とは加速度のことである。
ようするに波動場とは加速度の世界なのだ。
つまり往復運動するためには向きを変えなければならない。向きを変えるには減速して
一旦停止しなければならない。さらに速度を上げるには加速しなければならない。
その加減速の世界である波動場にニュートンの運動の第一法則である等速直線、
すなわち慣性系を扱う特殊相対論を使うコンセプトが私には分からない。
媒質を伝わる波の速度、すなわち波動方程式から導出される定数cは慣性系限定ではない。
すなわち波源(観測者)が静止していようが加減速していようがおかまいなしに媒質に対して一定の速度で進んでいく。
ならば媒質に対して運動する座標系からは波の速度は変化するのでは?ということになるが、
もちろん変化する。
しかし変化するのはあくまでも角速度ωであり、波数kなのだ。
ようするに、そもそも速度とは何か?という問いに対する正しい定義付けなしには
あらゆる議論は平行線をたどるということである。 下の図は媒質に対して静止(静止とは限らない)している波源Aと、Aに対しある速度をもつ波源Bが
原点を共有した時間t0に発した波の様子である。
位相速度は媒質に対して一定なのだから、原点を共有したA、Bから時間t0に発せられた波面は
どちらも同じ位置ctxを並行して進んでいる。
さて波源と、同時刻t0に発せられ並走する波面との間の波の数(振動数)はAもBも同じだ。
ならば波のエネルギーは振幅の2乗なのだから、波源とctx(t0)との間の波のエネルギーは同じである。
つまり、波源Bから前方に発せられた波のエネルギーは短い距離に圧縮され、濃縮されたのであり、
後方に発せられた波のエネルギーは長い距離に拡散され、希薄になったということである。
ゆえに波源Bから発せられた波の前方の観測者は、後方の観測者よりも単位時間により多くのエネルギーを
受けることになる。
すなわち運動する物体から前方に発せられた波の速度は、物体の速度ベクトル分加算されたのであり、
後方に発せられた波の速度は物体の速度ベクトル分減算されたのである。
結局運動する物体から前方と後方に発せられた波は、角速度が違うということである。
図で言えば波源Bから前方に発せられた波の角速度は後方に発せられた波の角速度より約2倍速い。
つまり前方の波が1周期、すなわち円を一周するごとに後方の波は半周遅れになっている。
さて球面の方程式は r^2=x^2+y^2+z^2 ただし r は球の半径 ゆえに ct^2=x^2+y^2+z^2
図は2次平面なので、1次元落とした円の方程式は r^2=x^2+y^2 さらに → ct^2=x^2+y^2
r^2=x^2+y^2はピタゴラスの定理により、斜辺の(長さ)の2乗=底辺の2乗×高さの2乗
つまり斜辺とは円の半径であり、さらに波の振幅に他ならない。
さらに底辺xは運動エネルギーであり、高さyは位置エネルギーに他ならない。 円の1回転は一つの波長に対応している。
ではなぜ振幅の2乗が波のエネルギーに対応しているかというと、
それはピタゴラスの定理を考えると理解できる。
ハミルトニアンは全エネルギーは運動エネルギーと位置エネルギーの和だ。
すなわちH=T+V
直角三角形の斜辺は円の半径rである。さらに横軸xを運動エネルギーとすると
縦軸yは位置エネルギーだ。
ならばピタゴラスの定理により、運動エネルギーxの2乗と位置エネルギーyの2乗の和は
半径rの2乗となる。
ゆえに半径rを振幅に置き換えると、波のエネルギーは振幅の2乗になる。
ちなみに単振動を複素平面上(複素次元)に射影したのが下の図である。
重りの位置xとバネの変位yは同じだ。
ゆえにx,yを時間軸に沿って2次平面にプロットすると、ただ1つのサインカーブを描く。
しかしエネルギー成分に分解すると、位置エネルギーと運動エネルギーは反比例の関係に
あるのだから、位相差90°の2つの同一波形、すなわちサイン・コサインカーブを描く。
その様子はジェットコースターをイメージすればいいだろう。
つまり人を乗せるコースターはレールに沿って走るのだから、レールとコースターは同じ軌跡を描く。
しかしコースターが地面に近い時には速度Maxだが、位置エネルギーは最低だ。
逆にコースターが山を駆け上がると位置エネルギーは増すが速度は鈍る。
すなわちレールの位置エネルギーとコースターの運動エネルギーのエネルギー曲線は一致しない。
結局、実数で書かれることと複素数で書かれることにマクロ系もミクロ系も関係ない。
すなわち虚数とは単に位相を90°ずらす演算子に過ぎないのだ。
つまり、例えば円の1回転は360°だ。ゆえに360°の位相変換は1周期、すなわち元の状態。
さらに180°の位相変換は半周期、すなわち対極ににある状態であり、±の符号の変換。
さらに90°の位相変換は1/4周期、すなわち加速期と減速期。
つまり複素数を使うと、加速と減速を抽出できるということである。 結局複素数で世界を記述するということは、世界、すなわち時空というものを4分割
するということなのだ。
例えば季節は普通四季である。すなわち一年間を4分割したのが四季なのだ。
この場合暑い夏をプラス、寒い冬をマイナスと実数で表すと、じゃあ春と秋は何?ということになる。
つまりこの場合春と秋は位相を90°ずらす演算子、すなわち減速期、加速期ということになる。
すなわち冬の寒さを緩和し、さらに夏の暑さへと加速させるのが春であり、
夏の暑さを緩和し、さらに冬の寒さへと加速させるのが秋なのである。
つまり季節はいきなり夏冬、冬夏を往還するものではない。
要するに春と秋は冬から夏、あるいは夏から冬への橋渡しする使者なのだ。 ところで北半球の人々のファッションを見ると、夏から冬場に向かうにあたって
半袖から長袖、さらにはコート、首にはマフラーというように薄着から厚着へと変遷していく。
ところが同じ地球上の南半球の人々はこれから冬から春を経て、夏真っ盛りの季節を迎える。
そして彼らのファッションといえばコートを脱ぎ捨て、長袖からTシャツ、タンクトップというように
肌を露出していく。
その様子は、北半球と南半球の人々の生活様式はあたかもフィルムの順送りと逆送りのようなものだ。
もちろん両者の時間軸の順逆を保証する数学解は複素共役であり、遅延解・先進解、すなわち
フィルムの順送りと逆送りとは何の関係もない。 つまり、北半球の人々にとって地球の自転軸は反時計回りであり、さらに台風の
渦は左巻きだ。逆に南半球の人々にとって地球の自転軸は時計回りであり、
さらにサイクロンの渦はは右巻きだ。
そしてそれを複素共役で表すと、北半球の回転角を偏角 +θ、虚数+iとすると、
南半球の回転角は偏角 -θ、虚数-iということになる。
結局我々の現実世界においては時間軸であれ何であれ、排他的二値が地球という
一つのモノに部分系として収まっている。
ところが、その相反するものが一つに収まっていることに納得がいかない、
さらにその対立をことさら煽る理論体系がいわゆる量子力学なのだ。
例えば粒と波の二重性しかり、あるいはS猫しかりである。 結局複素共役は極めて有用な数学解であるが、残念ながら基礎物理学はその美味しい複素共役が使えない。
なぜなら複素共役はゼロを挟んで、プラスとマイナスの量があって初めて意味をもつからだ。
ところが現代物理はエネルギーレベルで、すなわち負のエネルギー(質量)を否定している。
要するにエーテルという基準系を排した相対論を基礎とする物理学は負のエネルギーを
扱えない。ゆえに複素共役は使えないということである。
複素共役が使えないとするとそれは自ずと遅延解・先進解に手を染めることになる。
物理学者の正のエネルギー(質量)に対する信仰は凄まじく、負エネルギー解の反粒子を
正のエネルギー、正の質量に改宗させられるものならば悪魔に魂を売り渡すこともいとわない、
それほどまでに強固なものである。
そして実際売り渡してしまったw、因果律という物理学の根幹を、
先進ポテンシャルを積極的に利用したファインマンは、マクロな物体に先進解を適用すると因果律に抵触する。
しかしミクロの世界に実在はないとするならば、計算結果さえ合えばそれでいい、と言った(らしい)。
要するに、実在という制約を取り払えば怖いものは何もない、もはや何でもありの世界である。 ふと思ったんだが、ハミルトニアンは全エネルギーは運動エネルギーと位置エネルギーの和だ。
すなわち H=T+V
それに対してラグランジアンは運動エネルギーから位置エネルギーを引いたものだ。
すなわち L=T−V
この和と差の違いは何だ?と思っていたが、半径1の単位円の方程式は x^2+y^2=1 これを
ハミルトニアンとすると x^2−y^2=1 はラグランジアン。x^2−y^2=1 は双曲線関数を表す式。
ならばハミルトニアンは三角関数で、ラグランジアンは双曲線なのかな?
だとしたら、これは少なくとも俺の中では大発見だ。 そもそも複素共役が有用なのは物事は一義的なものではなく、相対的であるからだ。
ところがその相対性を標榜する相対論が複素共役を使えないというのだから、
相対論は矛盾を孕んだ理論なのである。
つまり本来相対論は絶対性理論と呼ぶに相応しい理論なのだ。
なぜなら相対的であるためには何らかの基準系が必要であるからだ。
実際エーテルという速度の基準系を否定した相対論は皮肉なことに、絶対静止系を要求する。 よく相対論の通俗書に、電車の乗客にとっては自身は静止している、ゆえにホームの時計が遅れる。
しかしホームに立っている人にとっては動いているのは電車の方なのだから、電車の時間が遅れる。
結局どっちの時間が遅れるの?ということになるが、相対論では互いに相手の時間が遅れる、それでいいのだ、
としている。
ならばその奇妙な帰結の正否は実験で確かめるしかないが、それを検証する実験は存在しないのだ。
なぜなら時計合わせをするためには少なくともどちらか一方がUターンして戻らなければならないからだ。
しかしUターンするためには加減速しなければならない。つまりもはや特殊相対論の世界ではない。
そして結局は加減速した方の時間が遅れるとしている(双子のパラドックス)。 さて、では電車の乗客が自身が静止とすればホームの時計が遅れる。しかしガリレオがそれでも地球は動いていると言った
ように、電車の乗客がひょっとして動いているのは電車の方では、とすると乗客の時計が遅れることになる。
ならばこれは明らかに論理が破綻している。
なぜならそれは時間の遅れが互いにキャンセルしてしまい、ローレンツ変換が無意味になるからだ。
つまり相対論では慣性系にあるものは絶対静止でなければならない。
そして慣性系は無数にあるのだから(実際には厳密な意味での慣性系は存在しない)、
その意味では相対論は慣性系ごとの無数の天動説と言うべき理論なのだ。 ところで流体を記述する基礎方程式に連続の式というものがある。
連続の式と言っても連続か離散かの連続ではなく、途切れることなく繋がっているというものである。
連続の式は無から有を生じることはない、逆に有が無に帰すことはない、すなわち質量保存の式でもある。 連続の式は普通微小体積dvへの流体の出入りで説明されるが、身近な例では、
例えば水道の蛇口から流れる水は蛇口付近から湧き出したものではなく、
貯水タンクやダムに蓄えられていた水である。ゆえに蛇口から流れた分の例えばダムの水量が減る。
あるいは排水口に流れた水は排水口付近で消滅したわけではなく、下水道から最終的に海へと流れて行く。
さらに地球規模で考えると排水口と蛇口は連続的に繋がっている。
すなわち排水口に流れ去った水はいずれ水蒸気になって雲になり、さらに雨になってダムに堰き止め
られ、その水が再び蛇口から流れ出るからだ。要するに水は循環しているということである。 以上のように、連続の式は媒質の世界を記述するための基礎方程式であることは言うまでもない。
そして相対論はその媒質を否定した理論である。
さらに相対論を基礎とする現代物理学は連続の式の帰結である質量保存則を否定している。
つまり、近接作用の権化である媒質を否定した相対論を取り入れた「場」が遠隔作用のオンパレードであるように、
無から有、有から無を容認しているということだ。
すなわち世の中上手く出来ていて、ある前提(エーテル否定)の下にはそれ相応の
帰結が導かれるということである。 よく物理学の書物には遠隔作用を禁止する相対論と、遠隔作用を要請する量子論は相容れない対立する理論である。
(例えばEPRのパラドックス)
しかし両者の蜜月関係は、たとえ遠隔作用による相互作用があったとしても情報は伝わっていない、
という合意の下に保たれている。しかしこれはとんだ茶番である。
なぜなら真実遠隔作用を要請するのは相対論の方であるからだ。
そしてその相対論を量子論が取り入れたのだから、いわゆる場の量子論が遠隔作用のオンパレードなのは当たり前なのだ。
要するに、あらゆる遠隔作用が出てくる理論には必ず相対論の指紋がついているということである ちなみに光さえ脱出出来ないとされる、宇宙の最終処分場がいわゆるブラックホールだ。
しかしBHを空間にぽっかりと口を開けた排水口とすると、そして連続の式を拡張するならば、
BHに呑み込まれた物質はBHで消失しない。たとえより根源的なモノに帰されたとしてもだ。
つまり排水口と蛇口がセットならば、BHで噛み砕かれた物質の量子はやがて空間に戻される。
重力波が発見されたらしい。まぁエーテル理論の立場からは痛くも痒くもないが、例えば>>222-224
しかし突っ込みどころは多々ある。 例えば今回の重力波望遠鏡(LIGO)は基本的に、エーテルの風を検証しようとしたMMの実験装置と同じだ。
すなわちLIGOにおいては重力波による干渉があると実験装置のL字型の腕が交互に伸縮し、
それによる光路差によって干渉縞の明暗が生じる。そして今回それが観測されたというものだ。
ならば同じ議論をするならば、MM実験において、エーテルの風が観測されないのは
実験装置の腕が進行方向に縮んだからだとするローレンツらの主張とある意味同じだ。
ただしこの場合、直交方向の腕は縮まないのだから干渉縞の明暗は生じない。
つまりLIGOにおいては干渉縞の明暗を確認したことにより検証は完了し、
MM実験においては干渉縞の明暗が確認されないことにより検証は完了している。 ところがMM実験に対しては特殊相対原理と光速度不変の原理の2つの原理を要請し、
実験装置の腕は縮まないとしている。これは明らかに二枚舌である。
物体の長さが不変量でないことは鉄道関係者がよく知っている。
すなわち温度変化により鉄は伸び縮みする。それゆえ電車が脱線しないようにレールの
つなぎ目にわざとすき間を設けている。
動く電車がガタンゴトンとリズムを刻むのはそのためである。
そしてその伸び縮みを速度というパラメータでやったのがローレンツたちなのだ。
すなわち床に落としたトマトが潰れるならば、エーテルの中を進む物体が短縮しないわけがない、
と言うものである。
あるいは自転する地球は完全な球形ではなく、南北に潰れ扁平になっている。
すなわち地球はその角速度による遠心力により、赤道半径と極半径の差は20km以上ある。
つまり物体の長さは不変量でない。 ところが特殊相対論ではMMの実験装置、及びそれを載せた地球が実際に縮むことはない、としている。
もちろん特殊相対論において短縮するのは我々と相対速度をもつものであるが、
それにしたって実際に短縮するわけではなく、それは同時の相対性による見かけのものであるとしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/特殊相対性理論
>ローレンツとポアンカレの理論によれば物体が縮むのはエーテルの影響である。そのため、
>エーテルの存在を捨てた特殊相対性理論においては当然運動する物体が実際に収縮するということはない。
>特殊相対性理論においては運動する物体が現実に収縮するのではなく、
>運動している座標系における同時の状態を静止している座標系では同時の状態として観測できず、
>同時からずれた状態を観測することに起因する。 エーテルと相対性理論 (1920年5月5日ライデンの帝国大学に於ける講演)
アインシュタイン著 石原純訳 より引用
>要するに私達は斯う云うことが出来ます。
>一般相対性理論によれば空間は物理的性質を賦与せられているので,
>つまりこの意味で一つのエーテルが存在する のです。
>一般相対性理論によってエーテルなしに空間を考えることは出来ませ ん。
>何故となれば,このような空間では光の伝播が存在しないばかりでなく,
>また物指と時計との存在の可能性も失われ,物理学の意味に於ける
>時間的空間的距離なるものも存在しないからです。
このような空間では光の伝播が存在しないってよw
ある意味アインシュタインはエーテルの存在に保険を掛けているんだよな、
で、特殊相対論を真に受けてエーテルは存在しない、と言い切っている物理学徒は
梯子を外された恰好だw ちなみにエーテル理論に従うと、真空下にもキャビテーションが発生する。
ガンマ線バーストはその第一候補だ。 昔はキャビテーションでググると船のプロペラが〜、だったが今はエステ関連に占領されているw
まぁそれだけ超音波技術が身近になったということだろうが、
いずれにせよ流体の世界においてキャビテーションは普遍的なものであり、
良くも悪くも避けては通れない現象である。
ところが素粒子論や宇宙論の世界にはなぜかキャビテーションという用語が出てこない。
エーテルを否定している物理学にとっては必然かもしれないが。
しかしエーテル理論の立場からは、例えば超高速で回転するパルサーやBH、
あるいは超高速のジェット流があるとキャビテーションの発生が予想される。
そしてそれは必然的にガンマ線の発生を伴う。 地球上空で生成された寿命の短いミュー粒子は、例え光速近くで走ったとしても
数百メートルしか動けない。しかし地表近くで観測される。
それは何故か?という問いに対し、2つの答えが用意されている。
1つはエーテル説の帰結であり、1つは特殊相対論の帰結である。
すなわちエーテル説の立場からはローレンツ変換、
つまり t'(L')= t(L)/√1-(v/c)^2 の式に光速近いミュー粒子の速度を代入すればいい。
すなわちエーテルに対して光速近い速度で走っているのはあくまでもミュー粒子であり、
地球はその限りではないのだから、これで操作は完了している。
ところがエーテルという速度の基準系を否定した相対論において意味をもつのは相対速度である。
すなわち0対100の世界。
それゆえ t'(L')= t(L)/√1-(v/c)^2 の式に光速近い地球の速度を代入しても構わない。
つまりミュー粒子の座標系では自身は空間に静止している。ゆえに寿命は延びない。
ただ光速近くで動いた地球の大気圏が勝手に数百メートルに縮んでくれたおかげで
地表に到達できた、これがミュー粒子の振る舞いに対する相対論の解釈だ。
もっとも地球基準の座標系ではエーテル説となんら変わりはない、同じ結果が得られる、
なぜなら使っている数式がどちらもローレンツの変換式であるからだ。
ただ現在アカデミーの世界ではエーテル説は壊滅している。
それゆえローレンツ変換が絡む現象は全て相対論の御業ということになっている。 車にはスピードメータが装備されている。
ただし車の速度を定義できるのは、地球の大地を基準にしているからだ。
しかし地球の自転を考慮すると自転速度が加味される。
さらに太陽系における公転速度、さらに銀河系による・・・というようにきりがない。
つまり絶対速度は決められない、と言われる。
しかし現在、3Kの宇宙背景放射が発見されている。
要するに宇宙空間は電磁波で満たされているということだ。
ならば電磁波(場)は光子の集団とする現代物理の見積もりが正しければ、
宇宙空間は光子エーテルで満たされている主張はそれほど飛躍したものではない。
さらに宇宙背景放射には双極子成分が確認されている。
要するに地球は空間の、ある特定の方向に速度をもっているということだ。
つまりそれは、エーテルに対する地球の速度を見いだそうとしたMM実験に対し、
「そんなモノはねーよ」とした特殊相対論を嘲笑うかのようだ。
いずれにせよ我々は、光子の海を漂流する航海者であることは間違いない。 >>416のwikipedia/特殊相対性理論の記述、すなわち
>ローレンツとポアンカレの理論によれば物体が縮むのはエーテルの影響である。そのため、
>エーテルの存在を捨てた特殊相対性理論においては当然運動する物体が実際に収縮するということはない。
と、>>420の相対論によるミュー粒子の振る舞いは矛盾している。
なぜなら例え空間に静止しているミュー粒子に地球が光速近くで迫って来たとしても、
地球が物理的に短縮していなければ、つまりミュー粒子はあくまでも数百メートルしか移動できないのだから、
ワープでもしなけば地表に到達できないからだ。 特殊相対論の奇妙で非現実的な論理は、>>420の図におけるミュー粒子をニュートリノに
置き換えるとよく実感できる。
すなわち我々の体を毎秒1cm^2あたり660億個のニュートリノが突き抜けている。
もしそれぞれのニュートリノを空間に静止していると考えても構わないとするならば、
例えば北極上空からやってきたニュートリノに対して地球は、北極星に向かって光速近くで走っている。
さらに南極上空からやってきたニュートリノに対して地球は、南十字星に向かって光速近くで走っている。
さらに赤道上空からやってきたニュートリノに対しては、というように、
たった一つの地球がそれぞれのニュートリノに対して光速近くで走り、扁平になっているとしたら
忙しくてしょうがないw
結局相対論は多世界解釈の一種なのかな? 結局現在一般的に相対論が正しいと認識されているのは逆説的であるが、
誰も相対論を使っていないからなのだ。
だれも相対論を使っていなければ相対論の欠陥が露呈することはない。
もし真実相対論を使っている者がいるとするならば、それは相対論の帰結を面白おかしく
解釈しているマニアックな人たちなのだ。
例えば双子のパラドックスだとか、列車とトンネルのパラドックスとか、ガレージのパラドックスとか、
確かに知的遊戯としては面白いかもしれないが、リアリティがないということである。 一昔前には運動する物体は進行方向に実際に短縮する、
あるいは質量が増大する(いわゆる相対論的質量)と普通に言われていたが、最近はそうでもないらしい。
実際相対論的質量は使うな、というお触れ書きが出回っている。
相対論から相対論的質量を取り上げたら何が残るんだ?という話だが、
要するに長さも質量も座標系によらない不変量である、ということらしい。
すなわちロードオブザリングではないが、物理学者はローレンツ変換という名の強大な魔力をもつ指輪を
滅びの山に投げ込んだ、ということである。
ならばもう一つの指輪である時間の遅れはいいのか?ということになる。
なぜなら時間と空間を対等に扱う相対論の趣旨からして、時間だけを特別扱いすることはできないからだ。
そのうち時間も座標系によらない不変量であると言い出しかねない。 ちなみにエーテル説の立場からは質量増大は何の問題もない。
すなわち一円玉であろうが地球であろうが光速近くまで加速するとその質量は何倍にも増大する。
要はできるもんならやってみろ!って話だ。 そもそもエーテル説におけるローレンツ変換は極めて穏やかなものである。
なぜなら我々の日常の世界において、マクロな物体が光速近くで走るというシチュエーションはないからだ。
実際MM実験で言えば、実験装置がナノレベル縮んでいればそれでいい。
長さ10メートル前後の実験装置がナノレベルということは、例え地球規模で考えても
数センチか数十センチのオーダーである。
さらに宇宙背景放射における双極成分、すなわち地球が宇宙空間を秒速数百キロで疾走していると
仮定したとしても、地球の自転による扁平率に比べるとはるかに小さい。 ところが相対論においてはその限りではない。
なぜなら相対論には座標変換という、エネルギーゼロでマクロな物体を光速近くまで加速する
加速装置が存在するからだ。
すなわち光速近くで走る電子などのミクロ粒子を静止系とすれば、光速近くで走っているのは
マクロな物体、ということになる。
ならばミクロの世界から見たマクロ系に例えば相対論的質量を適用すると、
地球や太陽のような天体の質量は何倍にも何十倍にもなり、あらゆる天体は速やかに重力崩壊を起こすはずである。
すなわちミクロ系から見たマクロ系は激烈なものとなる。ゆえに相対論においては質量増大は使えない。
要するに相対論においてはローレンツ変換は使い勝手が悪いということである。 重力を空間の幾何学に帰着させることに成功したアインシュタインは、電磁気力も
空間の幾何学で説明できないかと考えた。
そしてそれを「統一場の理論」という。
現代物理学の知見からすると、強い力と弱い力が知られていなかった時代に、
重力と電磁気力を統一しようとしたアインシュタインの野望は無謀であったとされている。
しかしそんなことはない。
なぜなら4つの力が出揃った今日においても、重力と電磁気力の統一はなされていないからだ。
いや、それどころかいわゆる大統一理論においては重力は除外されているw
つまりこの意味するところは、現代物理学においては何かが不足しているということだ。
要するに現代物理学はスタートからつまずいているということである。 重力及び質量、さらにそれらを総称したエネルギーが他の力と異質なのは、
エネルギーにはプラスの符号しかないからである。
(もっとも電磁気力も他の力もエネルギーの一形態なのだが)
つまり重力には引力しかない、とされている。
そしてこれこそが重力が他の力との統一を阻む、最大かつ唯一の要因なのである。
(ところが物理学者にはこの認識がない)
ちなみに強い力はエーテル説の立場からは、粒子と反粒子の対消滅(結合)と反重力の複合力である。
ならば重力を除外している大統一理論、それ自体が的を外していることになる。
はっきり言ってかすってさえいない、統一は無理と明言しておこう。 ここで注意すべきは、幾何学であろうが数式であろうが、エネルギーの正負の符号は
対で導出されるということである。
ただ物理学では負のエネルギーは最初からあり得ないモノとして定義している。
ゆえに負のエネルギーは存在しない、ただそれだけのことである。
ならば存在し得るように再定義すればいいだけの話なのだ。 シュレディンガー方程式は次のように書かれる。
ih・∂ψ/∂t = -ih^2/2m・∂^2ψ/∂x^2+Vψ 但し h=エッチバー
つまりS方程式は時間が1階、空間が2階の方程式であり、
さらにニュートン力学の p^2/2m を使っている。ゆえにS方程式はニュートン的である。
それに対し相対論による数式と称して E^2= p^2c^2 + m^2c^4 を持ち出し、
S方程式の E=(ih・∂ψ/∂t) を E^2=(ih・∂ψ/∂t)^2 に置き換えて得られたのが、
時間においても空間においても2階のいわゆるクライン-ゴルドン方程式である。
ゆえにKG方程式はローレンツ共変であり、非ニュートン的な相対論の式とされている。
しかしこのストーリーは何の根拠もない、偽りのカテゴリー分けなのだ。 位置xを時間tで微分すると速度vが出る。すなわち v=x/dt
さらに速度vを時間tで微分すると加速度が出る。すなわち a=v/dt(1式)
しかし位置xを時間tで2階微分しても加速度が出る。すなわち a=d^2x/dt^2(2式)
つまり1式と2式は等価であり、さらにニュートンの運動方程式である F=ma に代入すると、
F=ma=m・v/dt=p/dt=m・d^2x/dt^2 となる。
つまりシュレディンガー方程式はニュートン力学の1式を使った時間が1階の拡散方程式であり、
そしてクライン-ゴルドン方程式は2式を使った時間が2階の波動方程式なのである。
ちなみに波動方程式は ∂^2u/∂t^2=c^2・∂^2u/∂x^2 のように書かれる。
早い話、そこに慣性系を扱う特殊相対論の出る幕はないということだ。 ちなみに拡散方程式と波動方程式の違いは何かというと、初期状態が1価か2価かということだ。
例えば水の張った水槽にインクを一滴垂らすと、時間の経過に従って限りなく薄く広がっていくが、
その様子を記述するのが拡散方程式だ。
この場合初期状態はあくまでもインク一滴であり、薄く広がったインクを始状態と置いて、
終状態として一箇所に収斂したインク一滴は考えない。つまり時間は不可逆。
それに対し、波動方程式には初期状態に2つの任意性がある。つまり時間は可逆。
例えばバネに重りがぶら下がった振動系を考えるならば、最初にバネを引っ張って
手を放しても、バネを縮めて手を放しても構わない。
あるいはギターの弦を弾いて音を出す場合、上から下へ弾いても、下から上へ弾いても音が出る。
結局どっちでもよさそうだが、それにより位相が180度ずれる、この違いは大きい。
ちなみに時間が1階のシュレディンガー方程式は拡散方程式であると言ったが、
S方程式は複素数で書かれている。ゆえにψの複素共役ψ*を取れば、
初期状態として2つの任意性が出てくる。その意味ではS方程式は波動場を表している。
実際ψは波動関数と言われているが、それはあくまでも複素共役があっての話なのだ。 ここで注意すべきは、拡散方程式であれ波動方程式であれニュートン力学の F=ma を
使っていると言っても、だからと云ってどんな現象も日食や月食をぴたりと予言するように
万能なわけではない。
例えば音速は v=√P/ρ すなわち圧力を密度で割った値の平方根であるが、実際の音速とは一致しない。
すなわち温度というパラメータで補正しなければならない。
つまり音波は空気の疎密であるが等温変化でない。
すなわち密の位相では断熱圧縮により温度が上がり、粒子の速度が速くなり、逆に疎の位相では
断熱膨張により温度が下がり、粒子の速度が遅くなる。
ゆえに音速の実測値は v=√γP/ρ で表される。 但し γは比熱比 ニュートン力学による計算との食い違いが顕著に表れるのがいわゆる加速器の内部だ。
ところでよく加速器は特殊相対論を使わなければ設計できない、と言われる。
しかしこれはおかしな話だ。
要するに加速される電子は静止系と考えてもいいということなのかな?
ならばぐるぐる回っているのは加速器の方ということになり、加速器が遠心力で
引きちぎれないように補強工事が必要になる。ならばその予算は兆や京で済む話ではない。
しかしそんな予算が計上されという話は聞かない。 もっとも加速器は特殊相対論を使わなければ設計できない、という意味は、
電子等の荷電粒子を光速近くまで加速すると質量が増大する、いわゆる相対論的質量。
つまり加速するエネルギーが質量増大に食われてしまい、加速する同期をとるためには
ローレンツの変換式を使わなければならないということである。
ところが現在、相対論的質量は使わない方が望ましい、というのが現代的なコンセプトになっている。
しかし現場に携わる物理学者は相対論的質量を使っている節がある。
つまり理論系と実験系の間に齟齬が生じている。
しかし物理学者が相対論的質量を持て余しているのなら、それはエーテル説に返却するのが筋というものだ。
もっともエーテル説の立場からは、質量増大を相対論的質量と呼ぶ義理はない。
単にローレンツ質量と記述すればよいのだ。 加速器には数多くの電磁石が配置されている。
それは加速される荷電粒子をローレンツ力によって円軌道に曲げるためだ。
ところが相対論によると、磁場は電場による相対論効果であるらしい。
ならば加速器におけるローレンツ力を、クーロン力で設計している計算式を
開示して欲しいものである、加速器は特殊相対論を使わなければ設計できないというのならば。
要するに、荷電粒子を静止系とすれば運動してるのは加速器の方である。
ゆえに加速器はローレンツ収縮し、電荷密度が云々・・・
(ただし相対論ではリアルには収縮しないというのだから話はややこしい)
どっちにせよ加速器がぐるぐる回っている座標系があるのなら、
やはり加速器には補強工事が必至である。
結論:加速器は特殊相対論を使うと設計できないw そもそも質量増大は電磁質量と言って、エーテル説華やかしころからあった概念であり、
世界で最も有名な式とされる E=mc^2 もアインシュタインの創作ではなく、
これまたエーテル説の立場から、ポアンカレがすでに導出していた。
つまりアインシュタインは「エーテルは存在しない」とフェイントをかけることによって、
それまでの物理学者達の預金口座をアインシュタイン名義に書き換えた。
そしてその後「一般相対論によればエーテル無しの空間は考えることもできない」、
と称して物理学を科学の王道に戻した。
もっともアインシュタインの云うところのエーテルがどの程度マジかは定かではないが、
少なくとも現在アカデミーの世界にエーテルの居場所はない。 ところで電磁質量とは、要するに電子などの荷電粒子は電磁場を身にまとっている。
ゆえに荷電粒子を加速するためにはその周りの電磁場も一緒に変化させなければならない。
そしてそれはあたかも慣性質量が増大したかのような効果をもたらす。
そしてそれは質量はヒッグス場の抵抗であるとするヒッグス機構とある意味似ている。
ただし電磁質量はその源を電磁場のエネルギーに求めている。
ゆえにその定義により、荷電粒子にしか適用されないとされている。
逆にヒッグス機構は電磁場、すなわち光子とは相互作用しないとされている。
ゆえに質量と電磁気力に接点はない。つまりどちらも一長一短があり、普遍的でない。 さてエーテル理論の立場からは、光子は正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子
の複合粒子である。
ならば電磁質量が荷電粒子にしか適用できないという概念には何の根拠もないことになる。
なぜなら電磁場の量子である光子それ自身が±0の質量を有しているからだ。 私はエーテルを擁護しているわけだが、だからといってアインシュタインが否定した
かつてのエーテルを復活せよ、と主張しているわけではない。
私の主張はそもそもエーテルに対する定義が間違っている、
ゆえに例えエーテルが存在していてもそれは発見されることはない、というものである。
それはクジラを魚のでっかいやつと定義すれば、クジラは永遠に発見されないのと同じだ。
なぜならクジラは哺乳類であるからだ。
あるいは恐竜は白亜紀の末期に絶滅したとされているが、しかし鳥は恐竜の子孫とすれば、
かつて絶滅したとされる恐竜の遺伝子は連綿と受け継がれている。
実際鳥は恐竜が進化した形態であるとする説が有力になっており、これは立派な学術の世界である。 一般的にエーテルを否定したのはアインシュタインが提唱した相対論である、とされているが、
実際にはエーテルに強烈なボディブローを食らわせて足元をふらつかせたのは粒と波の二重性を
標榜する量子論の台頭である。
要するに波としての商品価値しかなかった当時のエーテルは遅かれ早かれ捨てられる運命に
あったということだ。
おそらくはアインシュタインはそうした時代の空気をいち早く感じ取ったのであろう。
しかしエーテルの代名詞である媒質が波という性質で全て記述できるものなら、
超音波の世界はどうやって記述するんだ?ということになるし、そもそも化学者は全員失職する。 結局アインシュタインが倒した相手はゲームに例えると、エーテルのキャラの一つに過ぎないということだ。
しかしエーテル戦士には強者どもが続々と控えている。
そしてその中でも最強なのが離散、構造体というキャラをもつエーテルのラスボスである。
それゆえいずれ連続体である場と媒質の間には雌雄を決する最終決戦が待ち受けている。
すなわちもし真実宇宙空間が連続体であると証明されたなら、今度こそエーテルが完全に葬り去られる時であり、
その時に初めて我々は、エーテルに対してサヨナラと云えるのだ。
逆にもし物理学者たちが、ひよっとして宇宙空間はあたかもディスプレイがそうであるように、
構造をもった最小単位があるのでは、と疑い始めた時こそが媒質に再びお呼びがかかる時なのであり、
そしてエーテルが凱旋する時なのだ。 さて、エーテルを復活させて何が嬉しいのかというと、それは物事を実在として扱えることである。
すなわち二重スリットの謎やシュレディンガーの猫といった、訳の分からない概念は一掃される。
さらに空間とは、あるいは時間とは何か?といった積年の問いに最終的解答を与える。 現代物理はミクロの世界は我々の常識が通用しない不可思議な世界である、
というコンセプトをウリにしている。
すなわちミクロの世界、と、それは同時に宇宙空間を訪れるにあたっては我々の日常の常識を
捨てなさい、ということである。
しかしここで注意すべきは、ミクロの世界を訪れるにあたって捨てなければならない常識とは、
我々は媒質の世界にどっぷりと浸かっているという常識だ。
要するに我々の身近に存在する様々な現象を説明する、ありがた〜いアイテムである媒質を
捨てろというのだ。 つまりそれは音響学者から空気を取り上げ、この地上をあたかも月の風景にするということだ。
あるいは地震学者から地震波を伝える大地、すなわち地球そのものを取り去るということだ。
それがミクロの世界を訪れるにあたっての我々の心構えというわけである。
要するに物理学者が虚空から取り出すのは実在するモノではなく、
観客と共有する今宵限りの夢幻、すなわち幻想であるということだ。 私の物質波に対するイメージは「ニュートンのゆりかご」である。
wikipedia ニュートンのゆりかご
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d3/Newtons_cradle_animation_book_2.gif
なぜそれが物質波のモデルかというと、それは粒と波の両方の性質を満たしているからである。
下図1において、便宜上我々は両サイドの鉄球A,Zしか見えないとする。
すると図2のように突如Aが視界から消え、あたかもZの位置に出現する。
さらに次の瞬間Zが消え、再びAが現れる。
もちろんそれは遠隔作用ではなく近接作用であることは明白である。
なぜなら両サイドの鉄球A,Zの運動エネルギーは、途中に存在する鉄球B,C,D・・・
を介して伝わっているからだ。
そもそも媒質を伝わる波とは移動するのはあくまでも変位であり、媒質それ自体は移動しない。
同様にニュートンのゆりかごにおいても移動するのはあくまでも運動エネルギーであり、
鉄球それ自体は移動しない。
ゆえにニュートンのゆりかごはまさに波動場を表している。
結局、何かが移動するということは2つの形式があるということである。
一つは上図3のように、固有名詞AならAとラベル付けされた局在するモノそれ自身の移動。
さらに一つは上図1,2のように近接作用、つまりラベル付けされたAであれBであれ、
それ自身は移動しない。しかし何かが移動する。
水を満たしたバケツを遠くへ運ぶ場合、周りに誰もいなければ自分自身が移動するしかない。
しかし周りに人間の集団がいれば、そしてバケツを次々と渡せばバケツの水は運ばれる。
つまり人間それ自体は移動しない、しかしバケツを持った人間は移動する、
あたかも電光掲示板の文字のように。
ボールゲームにおいて、ボールを運ぶ形式には2種類ある。すなわちドリブルとパス回しだ。
前者は始状態も終状態もラベル付けされたAならAという選手である。
しかし後者はその限りではない。
野球で云えば5,4,3のダブルプレーと言った場合、三塁手自身が一塁に移動するわけではない。
移動するのはあくまでもボールである。
しかしボールを持った選手は移動する、あたかも電光掲示板の文字のように。 さてミクロの世界において、例えば電子は観測前は空間全体に雲のように広がっているが、
観測するとある一点で見出される、そしてそれを波動関数の収縮という。
もしその様子を近接作用で考えると、無数の電子が空間を満たしていなければならない。
いわゆる電子場だ。
ならば空間は無限大の質量をもつことになる。なぜなら電子一個一個の質量は小さいとしても、
それを積分すると無限大に発散するからだ。
ゆえに物理学ではミクロの世界に実在を扱うことはできない。
ちなみに空間に雲のように広がった電子の描像を、そこに見出される確率、すなわち確率波としてとらえ、
いずれにせよ空間的広がりをもったものが一点に収縮するのを認める立場が
いわゆるコペンハーゲン解釈である、さらに収縮を認めない、すなわち空間的広がりをもった
それぞれの点に観測者を割り振り、世界は分岐するのだ、というのが多世界解釈である。
どちらにせよ痛い解釈だが、もしそれが実在とするとオカルティストがほくそ笑む。
それゆえ物理学者はミクロの世界に実在はない、とすることでかろうじて理性を保っている。 さて、私の提唱するエーテル理論によると、光子は正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子の複合粒子である。
そしてその光子の集団こそが空間そのものである。
ならば電子が雲のように空間全体に広がっているという概念はある意味当たり前だ。
つまり宇宙空間は電子で満たされている。
しかしほぼ同量の陽電子と対になっていて、絶えず互いに互いの性質を打ち消し合っている。
そしてそれが長い間、真空は何もない空間であると教え込まれていた理由である。
すなわち真空とは絶対的な無ではなく存在する無、要するに ±0の世界であるということだ。 さて、空間とは正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子の複合粒子である実在的な光子の集団であるならば、
電子の神出鬼没な振る舞いに何ら不思議はない。
すなわち仮に電子が位置x(a)で見出されたならば、それは元々位置x(a)に局在していた電子であり、
位置x(b)で見出されたならば、それは元々位置x(b)に局在していた電子である。
要するに局在する電子が超光速で動き回る必要はないということだ。
さらに仮に電子が位置x(a)で見出されたとしても、だからといって他の場所の存在確率が0になるわけではない。
相変わらず空間の各点に存在している。
ただ陽電子と対になって隠れているだけなのだ。 現代物理ではガンマ線から電子と陽電子が対生成され、さらに
電子と陽電子が対消滅してガンマ線が発生するとしている。
ならば光子は電子と陽電子の複合粒子とすればよさそうなものであるが、
素粒子論の立場からは電子も光子もクォークも、その他あらゆる素粒子は
大きさも構造ももたない数学的な点粒子としているのだからそれはない。
さらに現代物理は負の質量を否定している。
ならばもし仮に光子が電子と陽電子の複合粒子とすると、電子の正の質量と
陽電子の正の質量が加算され、光子は質量をもつことになる。
しかしそれは光子の質量はゼロであるとする標準理論の定義に反する。
現代物理に負の質量を持ち出すとトンデモ扱いされそうだが、話は逆だ。
質量に正負があるからモノを出したり消したりできる。
それは電荷には正負があるがゆえに化学者が化学反応を記述できるのと同じだ。
さらに電荷に正負があると電荷ゼロの状態が作れる、例えそこに電荷があったとしてもだ。
質量もそれと同じ。
つまり陽電子などの反粒子は負の質量をもっているとすると、そして光子は
電子と陽電子が対になったモノとすると、光子の質量は自ずとゼロとなる。 以前、物理学の基礎方程式として連続の式があると述べたが、これは保存則に関係している。
ならば負の電荷をもつ電子と正の電荷をもつ陽電子が対消滅して電荷をもたない光子が生じる、
あるいは電荷をもたない光子から負の電荷をもつ電子と正の電荷をもつ陽電子が対生成される、
という記述は一見有から無、逆に無から有を容認しているように感じる。
すなわち電荷の保存則を破っているかのようだ。
もっとも代数和を考慮するならば必ずしも連続の式を汚してはいない。
すなわち a+b=0 という式において、b=(-a) と置けば左の式は満足されるからだ。
要するに電荷にはプラスとマイナスという、相殺項があるということである。
ところが物理学では質量に関してはプラスの値しか認めていない。つまり相殺項がない。
ゆえに a+b=0 という代数和さえ満たさない。
そして実際相対論を基礎とする分野では質量保存則を否定している。 もっとも質量とエネルギーは等価とすれば、電子と陽電子の質量が光のエネルギーに転化したのだ、
あるいは光のエネルギーが電子と陽電子の質量に転化したのだ、
つまり E=mc^2 により、エネルギーと質量は互い変換されるとすれば
必ずしも質量保存則にこだわる必要性はないように見える。
ところが物理学ではそのエネルギー及び質量をまともに計算すると無限大に発散する。
実際重力を量子化しようとすると無限大に発散する。
なぜならエネルギー、質量には相殺項がないからだ。
ところが正のエネルギーを絶対視する物理学者にはその認識がない。 ちなみに超対称性理論というものがある。
これは物質を構成する基本粒子であるフェルミ粒子と力を伝えるボース粒子に
対称性を施す理論である。そしてそれはある意味相殺項の導入である。
かつてファインマンは先進解という相殺項により、物理学の基礎理論を進展させた。
つまり相殺項の発見こそが物理学の歴史と言える。
しかし本来力学の基礎方程式には正負の解という相殺項が存在する。
ところが物理学者はそれは完全無視と決め込んでいる。
ちなみに超対称性理論における超対称性粒子は莫大な税金を投入しているにもかかわらず、
いまだに発見される兆候がない。
無いモノは無い、と言うべきか、それとももっと金を注げ、と言うべきか、
ついでに言うと、弦理論に超対称性を組み込んだのが、誰も理解できない超弦理論。 マジシャンがハートのエースをおもむろに取り出し、観客に向かってこのハートのエースはとても不思議なトランプで、
時空を瞬時に飛び越え、あなた方の望みのポケットに移動します。と言ってタキシードの数あるポケットの一つ入れる。
もちろんあらかじめ全てのポケットは空であることは観客の一人がポケットの中に手を突っ込んで確かめている。
そして実際マジシャンの宣言通り、観客がズボンの右ポケットと言えば右ポケットから、
上着の内ポケットと言えば内ポケットからハートのエースが出てくる。
もしマジシャンの演じるパフォーマンスに種も仕掛けもないとするならば、確かに不思議だ。
観客は実際にハートのエースが瞬間移動した現象を目の当たりにした事実を受け入れるしかない。
さて、言うまでもなくマジックには種も仕掛けもある。
つまりあらかじめ全てのポケットにハートのエースを仕込んで置けばよい。
いや、観客の一人がポケットの中に手を突っ込んで確かめたのでは?
いや、それはポケットを二重にすればいい。
すなわち一方は空で、一方には入っている。
つまりマジシャンは観客の望むポケットからハートのエースを取り出すことができる、というわけだ。 結局波動関数の収縮も似たようなものだ。
つまり宇宙空間は空っぽに見えても実際には電子がうじゃうじゃ局在している。
しかし互いに反対の属性をもつ陽電子と対になって二重構造になっている。
ならば電子の神出鬼没な振る舞いに何ら不思議はない。 相対論と量子論は20世紀が生んだ2大理論と言われている。
すなわち現代科学、ひいては現代文明を支える2本柱と言うわけである。
しかし私に言わせるならば、相対論と量子論は20世紀が生んだ2大ホラ話なのだ。 そもそも相対論も量子論も媒質を否定することで成立している理論である。
しかし人間はもちろんのこと、生きとし生けるもの、すなわち生命は媒質によって育まれている。
ゆえに相対論も量子論も生命系を語る資格も能力もない。
要するに、相対論も量子論も普遍的な理論ではないということだ。 何度も繰り返すが媒質を否定した相対論は近接作用の理論ではない。
そもそも媒質を否定しておいて、相対論は近接作用の理論であるというのは無理がある。
いや虫が良すぎる。
実際、電磁場を量子化した素粒子である光子が光速度で走るという描像は近接作用ではない。
さらに波動関数の収縮においては、その位相速度は光速度を超えると言われている。
さらに量子もつれや量子テレポーテーションはほとんど遠隔作用の世界である。
要するに物理学者に、物理学の基本は近接作用であるという自覚がないということだ。 >>467
ヒント:アップデート、バージョンアップ
最近、2ちゃんのニュー速+にもヒッグスやダークマターやダークエネルギー関連のスレが立ち、
そして2スレ以上消費する。
そしてざっと眺めると、「これってエーテルじゃね!」とか「エーテルの二の舞い」というレスが
結構見受けられる。
前者の意味は宇宙空間を満たしているという概念がエーテルを連想させるのだろうし、
後者の意味は結局は発見されない、徒労に終わるという意味であろう。
しかしここで考えなければならないのは、何故かつて葬り去ったはずのエーテルの亡霊が
徘徊しなければならないのか?ということである。
そしてその理由は明らかだ。
つまりそれはエーテルを否定したアインシュタインが言うところの時空に汎用性がないからだ。 科学史にはフロギストン(燃素)説とカロリック(熱素)説が存在する。
そしてそれらはかつて科学者たちがその存在を真剣に議論し、そして今では棄てられたという意味では
光を伝えるモノとして想定されたエーテル(媒質)説とある意味似ている。
しかし違いもある。
すなわち燃焼も熱も最終的にエーテルの系譜である媒質に還元されたということである。
つまり燃焼は空気中の酸素に、そして熱は熱運動論、つまり媒質の運動(振動)に還元された。
要するに我々の身の周りに遍満する空気は、
単に音波を伝えるだけのために存在しているわけではないということだ。
ならば光を伝えるモノとして想定されたエーテルが単に光を伝えるだけのために
存在しているわけではないとすると、そしてアインシュタインが言うところの4次元時空連続体に
汎用性がないのならば、エーテルの亡霊が闊歩するのは当然の成行きだ。 さて私の疑問は、重力質量と慣性質量が等価ならば、そして重力が時空の歪で説明できるならば、
なぜ慣性(質量)は時空の歪では駄目なのか?ということである。
つまりなぜわざわざヒッグス機構を導入しなければならないのか?
さらに時空というものがありながら、なぜダークマターやダークエネルギーを必要とするのか。
もちろんそれはエーテルに取って替わった相対論の時空に汎用性がないからであろう。
ならばそれは科学史が証明しているように、かつてのフロギストンやカロリックの轍を踏んでいることになる。
いずれにせよ相対論の時空が力不足ならば、エーテルの二の舞いどころか三の舞、
四の舞いと科学者は永遠に舞い続けなければならないことは明らかだ。 >>470
自己妄想のお前には必要ないが、素粒子論と宇宙論に必要なだけだ。 相対論と量子論が不完全な理論であることは簡単に証明できる。
すなわちそれはおよそ信じ難いことではあるが、そもそも相対論と量子力学がコラボした結果生まれた
相対論的量子力学、さらに場の量子論にその正当性を保証する方程式がないということだ。 いや、相対論的量子力学にはクライン-ゴルドン方程式、さらに場の量子論にはKG方程式を
因数分解して一次式にしたディラック方程式があるのではと思われるかもしれない。
しかし残念なお知らせであるが、KG方程式は相対論ありきの方程式ではない。
実際、
コトバンクから引用
>クライン‐ゴルドン方程式【Klein-Gordon equation】
>もともと弾性媒質中にあるしなやかな弦の運動を記述した微分方程式で
(波動方程式 + 摩擦係数μ)
>のように書ける.量子力学においては,スカラー中間子(スピンのない中間子)を記述するのに用いられる.
要するに、単に媒質からパクっただけだw さらに電信方程式というものがある。
電信方程式-wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F
>導体中の電磁場の伝播、減衰のある弦の振動などの現象を記述する。
>場の量子論において、クライン-ゴルドン場φ(x,t )の満たすクライン-ゴルドン方程式は、
>電信方程式と等価である以下の形で与えられる。
(波動方程式 + 質量項m)
導体中であるということは抵抗成分があるということだ。
あるいは空気中で弾かれたギターの弦は空気との摩擦で減衰する。
つまり波動方程式に抵抗成分や減衰項を付与したのが電信方程式。
そして波動方程式に質量項を付与したのが場におけるKG方程式であり、両者は同じ形式。 電信方程式とは早い話、糸電話の世界だ。糸電話というと笑ってしまうが実際そうなのだ。
例えば発電所から各家庭に送られる電気は1次元の銅線
(ショートを防ぐために誘電体-絶縁体の樹脂で被覆している)を伝って来る。
あるいはネット回線の「光」は光と言ってもやはり1次元の光ファイバーを伝う。
(光ファイバーの素材は石英ガラスであり誘電体)
さらに電子回路の配線もそうである。要するにそれらのものは全て何らかの媒質を介している。
もちろん1次元とは限らない。我々の回りを飛び交っている電磁波もやはり誘電体である大気中を伝う。
もっとも空気の誘電率は真空のそれに近いので、近似的に真空の光速度cと考えても差し支えないとされる。 結局、クライン-ゴルドン方程式は相対論ありき、量子論ありきの方程式ではない。
単に波動方程式に抵抗成分や質量項を付与した方程式に過ぎないのだ。
その意味ではKG方程式は実体を伴った、より実在論的な方程式といえる。 電信方程式とはどんな方程式かというと、例えば同軸ケーブルを輪切りにするとあたかも金太郎飴のように
コンデンサやコイル、さらには抵抗といった部品からなるRLC回路(調和振動子)が現れるというものだ。
つまりそれが1mであろうと10cmであろうと1mmであろうと、すなわち limΔx→0、
つまりΔxを限りなくゼロに近づけても切断面にRLC回路(調和振動子)が現れる。
まさにそれは微分の勝利であり、連続体の勝利である。 ただし注意すべきは、金太郎飴を薄くスライスしていくとやがて像がぼやけ、いずれ消える。
すなわち連続が不連続に変わった瞬間だ。そしてそれを離散という。
同様に同軸ケーブルも分子、さらには原子をスライスしてしまってはそれは素粒子の世界であり、
もはや同軸ケーブルとしての体をなさない。
つまり媒質の世界においては連続はあくまでも粗視化であり、構造をもった最小単位からなる離散が本質である。 さて、現代物理学の基礎を成す相対論及び量子論は連続体を標榜している。
実際電子や光子やクォーク、その他あらゆる素粒子は構造も大きさももたない数学的な点とされている。
さらに時空の各点、すなわち場も連続体とされている。
要するに微分の limΔx→0、すなわちΔxを限りなくゼロに近づけるを limΔx=0
すなわちΔxを0と置いたということだ。Δxを0と置くと必然的に無限大が発生する。
例えば線分を10等分すると個数Nは10、さらにそれぞれを10等分すると個数Nは100、
つまりΔxを小さくすればするほど個数Nは飛躍的に増え、Δx=0で個数Nは無限大となる。
実際、連続体である場は無限個の調和振動子の集まりとされている。 媒質を伝わる波動を記述する電信方程式と、場を記述するクライン-ゴルドン方程式が等価ならば、
微分という操作が必ずしも連続性を保障していないことになる。
実際テクノロジーの分野で、例えば光ファイバーの製造過程はある意味金太郎飴と同じだ。
すなわち最初太い円柱状のモノを熱を加えて細く絞る。
まさに連続体の成せる業だ。
しかしだからといって、限りなく0に近づけるという極限を文字通り受け入れると宇宙の果てまで
引き延ばせることになる。しかし現実の世界ではどこかで引きちぎれる。
要するに、本来構造をもった最小単位からなる離散的なモノも粗視化すると連続体に近似できる
とするのが媒質。
それに対し、構造体はさらに分割できるのだから点ではない。
点は大きさと構造をもってはならない、離散は連続体を粗視化した近似に過ぎないとするのが
物理学者が信じてやまない場。 いずれにせよ調和振動子の集まりという意味では媒質も場も同じ。
ただ違いは媒質には振動する構造とメカニズムがある。
すなわち機械論的には復元力であるバネと慣性をもった重り。
さらに電磁気的には誘電率と透磁率で表されるコンデンサ(復元力)とコイル(一種の慣性)、
それに対し場には振動するメカニズムがない、いやそもそも場の定義から構造すらない。
実際真空には誘電率が定義されるが誘電体ではないとされている。
要するにコンデンサやコイルのような部品はないということだ。 さて媒質も場も空間の各点に定義されたスカラー、ベクトル、テンソルといった物理量である。
例えば天気図で、温度や圧力や密度(質量)がスカラー、さらに風の向きや台風の渦を→矢印で表すが、
これがベクトル。
さらにそれらを還元したものが媒質である大気、ゆえに月の世界で天気図は無意味。
そして空間の各点に定義された物理量を数学的な点に還元したのがいわゆる場。 ところで、媒質も場も空間の各点に定義された物理量であるならば、
そして媒質が存在するとエーテルの風が定義できるのなら、場も場の風が定義できるはずである。
物理学者が定義しないのならば私が定義してやってもいい。
「すなわち電磁波が場を介して伝わるものならば、場の風が存在するはずである。」
ならばエーテルがMM実験という金属探知機に引っかかってつまみ出されたのならば、
場も同じゲートをくぐるべきである。
ところが物理学の世界ではなぜか場を名のれば何でも許されるという風潮がある。
場には無限大の困難という致命的な欠陥があるにもかかわらずである。 時間結晶が話題になっている。
で内容を見ると、平衡系では不可能だが非平衡系では可能らしい。
しかし非平衡的平衡というコンセプトならば空間も時間も結晶化する、>>80-84
そもそも平衡系では時間反転対称性は維持されるが時間の向き、
すなわち時間の矢は出てこない、それゆえエントロピー増大則で説明する。
逆に非平衡系では時間の向きは導出されるが時間反転対称性は満たさない。
しかし非平衡的平衡というコンセプトならば時間反転対称性と時間の矢の両方を満足する。
まあ結局はそれは複素共役(複素次元)に収斂するということなのだけれども。
ついでに言うと結晶とは、雪の結晶やクォーツ時計やパソコンのCPUのクロック周波数を刻む
水晶振動子のような離散的な媒質の特性であり、時空連続体にはミスマッチ。 ふむふむ、なるほど。電信方程式とクラインゴルドンの式の対比か。
>場が、例えば同軸ケーブルを輪切りにするとあたかも金太郎飴のように
コンデンサやコイル、さらには抵抗といった部品からなるRLC回路(調和振動子)が現れるというものだ。<
わしもちょっとこの方面も考えて**論物理学の建設の参考にさせてもらうよ。電気回路もわしはやったから
思い出しながら。 それにしても時間結晶というコンセプトは何と何が戦っているのか非常に分かり難い話だ。
なぜなら時間結晶というコンセプトを提出したならば、まさに水晶振動子は時空間結晶そのものだからだ。
>ついでに言うと結晶とは、雪の結晶やクォーツ時計やパソコンのCPUのクロック周波数を刻む
>水晶振動子のような離散的な媒質の特性であり、時空連続体にはミスマッチ。
つまり原子が結晶化すると空間に規則的かつ周期的な繰り返しパターンが現れ、
さらに空間の等方的な対称性が破れ、特定の方向に秩序が生じる。
ならばそれは時間軸においても同じだ。
すなわち水晶振動子は規則的かつ周期的な位相の繰り返しパターンである正弦波を生じる。
さらに本来周波数は任意であり、ある意味雑音だらけの状態が対称性があると言える。
しかし水晶振動子は特定の周波数で振動するのだから対称性を破っている。
そしてそれゆえに水晶振動子はクォーツ時計やパソコンやスマホの同期をとっているクロックに使えるのだ。 あるいは水の温度を下げ、すなわち0°Cになると液体である水が相転移を起こして固体である氷になる。
すると時間軸は止まる、そしてそれを利用したのが冷凍食品だ。
食卓に置かれた刺身は時間と共に食中毒のリスクが高まる。
しかしそれが冷凍したマグロならばそのリスクは少ない。
つまり冷凍庫は時間の流れが停止した空間であり、局所的にエントロピーの増大を逃れているとも言える。
ならば時間結晶を証明するのに、極低温までもっていく意味が分からない。 さてここで突っ込みどころは、原子が集まって空間方向に結晶するのと、その原子を包含する
宇宙空間、すなわち真空との関係性だ。
もし結晶のアナロジーを真空に当てはめたならば、真空は離散構造をもつことになる。
しかし相対論を基礎とする現代物理学は時空連続体を標榜している。
つまり、そもそも結晶というのは原子というモノの集まり、すなわち物性論の世界の話であり、
宇宙空間がどうのこうのという話ではない。 大体、時間結晶以前に時空間結晶という用語自体がいかがわしい。
なぜなら宇宙空間はいつから離散化されたのか?という話になるからだ。
つまり時空間結晶という用語はあくまでも物性論という閉じた世界にしか通用しない概念であり、
一般の人々が漠然と思っている空間とは何か?時間とは何か?という根源的な問いとは無関係である。
もっとも我田引水であるが、すなわちエーテル説に従えば、つまり時空そのものに
最小単位を設定したならば、そしてそれを光子と特定したならば、話は別だ。 >GOVXYB0Zc. さん
粒子も反粒子もそのエネルギー、質量の符号は正ですよ、これは実験事実
あと負の質量をもった物体を発見してから色々ほざいて下さい >>492
>粒子も反粒子もそのエネルギー、質量の符号は正ですよ、これは実験事実
それは解釈の一つ、つまり反粒子は時間を逆行する粒子という解釈による帰結。
そして使っている数学解が遅延解・先進解、すなわちフィルムの順送りと逆回し。
しかし先進波が発見された事実はない、つまり実験的な裏付けはない。
ただそう考えても矛盾がないというだけ(実際には矛盾だらけ)
>あと負の質量をもった物体を発見してから色々ほざいて下さい
物理学者の言う負の質量をもつモノとはいわゆる騾馬粒子。
すなわちエネルギーを失えば失うほど元気になる、速度を増すという物理学者の脳内にだけ生息する架空の存在。
私にそれを発見する義務はない。
つまり電子に対する陽電子、陽子に対する反陽子、水素に対する反水素、クォークに対する反クォーク、
すなわち既知の反粒子(物質)は負のエネルギー、負の質量をもっているとすればいい。
そしてそれにより何の矛盾のない理論体系を構築できる、そしてそれを記述する数学解が複素共役。 素粒子論の書物を読んだことのない人には騾馬粒子と聞いても何のことか分からないだろうが、
騾馬とは馬とロバを掛け合わせた動物で、機嫌をそこねると飼い主に逆らった行動をとるらしい。
すなわち御主人様がいくら手綱を引こうとも後ろに踏ん張って、梃子でも動かぬということだ。
さて我々が日常目にする物体は押すと押した方向に、引くと引いた方向に動く。
ところが物理学の定義によると、もし負の質量を有する物体があれば押すとこちらに向かい、
引くとあちらに向かうとされている。
そしてその天の邪鬼な様子があたかも騾馬の行動に似ていることから、
負の質量、負のエネルギーをもつモノに対して騾馬粒子と命名したのだ。 ところで押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かうという性質をもった物体は一見常識に反している。
ところが驚くなかれ、そのような物体は現実に存在する。すなわちそれはバネである。
すなわちバネは押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かうという性質をもっている。
結局物理学者は二重の意味で間違いを犯していることになる。
つまり押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かうという性質をもった物体は架空のモノではなく
現実世界に普通に存在するということ、そしてそれは負の質量をもつモノにはではなく、
バネに対しての定義であるということだ。(ひょっとして物理学者はバネを見たことがないのかなw) クライン-ゴルドン方程式から正のエネルギー解と負のエネルギー解が出てくる。
そしてKG方程式を一次式に変換したディラック方程式から導かれたのが物質を構成するフェルミ粒子
であり、正のエネルギーをもつ通常粒子と負のエネルギーをもつ騾馬粒子だ。
しかしここで問題が生じる。
つまり通常粒子を電子とすると、電子は光子を放出してエネルギー準位を落とし、最低状態で安定する。
しかしそれが負のエネルギーをもつ騾馬電子ならば、そしてエネルギーはより低い方が安定なのだから、
さらにゼロより低い負のエネルギーを認めると、騾馬電子は光子を放出しながらマイナス無限大に向かって
とめどもなく落ちていくことになる。
そしてそれは我々の見るもの全てがまるで底が抜けたように騾馬粒子に遷移して奈落に沈むということだ。
しかしそんな馬鹿な話はない。
そしてそれが物理学者が頑なに負のエネルギー、負の質量をもつモノを否定し続けている理由だ。 負エネルギー解の困難は物理学者の頭を悩ませた。
ところがディラックは真空は負のエネルギーをもつ騾馬電子で満たされているというアイデアを提出した。
つまり真空は騾馬電子ですでに満席とすれば、パウリの排他律により通常の電子は負のエネルギー状態
に落ち込めない、すなわち真空の安定性は保たれる。
そして騾馬電子で満たされた、すなわちディラックの海に開いた穴こそが正のエネルギー、
正の質量をもつ陽電子であるというわけだ。 ディラック流の考えは一見合理的であるが現在主流でない。なぜならボソンを扱えないからだ。
しかしそれはある意味当たり前である。
つまりディラックは騾馬粒子を物質を構成するフェルミ粒子とした。
しかし実際は騾馬粒子に対応しているのは力を担うバネ、すなわちボソンなのである。
ゆえにディラック流の理論ではボソンを扱えない、実に分かりやすい帰結だ。
要するに真空は負のエネルギーをもった電子の海ではなく、正の質量をもった電子と
負の質量をもった陽電子が対になったボソンである光子、すなわち光子の海であるということだ。 そもそも正の数も負の数もゼロを挟んで、同一数直線上に割り振られた実数である。
ではなぜ物理学では負のエネルギー、負の質量を否定しているのか。
それは図を使うとよく分かる。
図1のようにプラスのエネルギーはプラス無限大が最もポテンシャルが高く、そしてゼロ点が最も低い。
そしてエネルギーのベクトルはより低い方向を向いている。
ではマイナスのエネルギーの世界があったなら、そのポテンシャルはゼロ点よりも低く、
そしてマイナス無限大が最も低いと物理学では規定している。
ゆえに負のエネルギー、そして負の質量の存在を認めると、我々の見るもの全てがゼロ点を越え、
マイナス無限大に向かって落ちていくことになる。
ここで注意すべきは図1はあくまでも恣意的概念であり、実験的な裏付けはないということだ。
なぜならそれが実験事実とすると、物理学者は少なくとも一度は負の質量をもった試料を実験台に載せたことになる。
しかしそれは負の質量をもつモノは存在しないという物理学の定義に反する。
要するに図1はあくまでも物理学者たちの約束事、すなわちパラダイムに過ぎないということだ。 さて波動方程式から導出される音波における正負の解は空気の疎密、密疎だ。
すなわち正圧と負圧が交互に絡み合いながら進む。
そしてそのベクトルは上の図3のようにどちらもゼロ点を向いている。
すなわち媒質の世界においては正の圧力と負の圧力が同等に定義できる。
実際エンジンの技術者や空調の関係者は普通に正圧と負圧、あるいは陽圧と陰圧という用語を使う。
ではなぜそれがトンデモ扱いされないのか、というとそれは1気圧という基準系が存在するからだ。
つまり波動方程式から導出される正負の解とは、その基準系からどちら側にずれるかの違いでしかないのだ。
つまり復元力をもったバネには自然長Lを基準に押すと引くという2つの任意性がある。
同様に大気圧にもバネの自然長Lに相当する、自然圧Pと呼ぶべき基準系が存在するということだ。
ちなみに同じ波動方程式から導出される電磁波には、バネの自然長Lに相当する基準系は存在しないらしい。 現代物理学では力学の正負の解に対して上の図2を採用している。
すなわち先進ポテンシャルを使った、反粒子は時間を逆行する粒子という考えだ。
先進ポテンシャル、すなわちフィルムの逆回しを使うと負の物理量を消せる。
例えば音波は正圧で拡散、そして負圧で収束という過程で伝わるが、
先進ポテンシャルを使うと負圧のポテンシャルは必要ない。
すなわち正圧1/2遅延波で時間を順行して拡散、そして正圧1/2先進波で時間を逆行して収束、
とすれば音波は伝わる。ただ欠点は、現実世界とは対応していないことだ。 要するに負エネルギー解から導出された反粒子は時間を逆行する粒子であり、正のエネルギー、
正の質量をもつとする解釈は、某電気メーカーが「弊社の掃除機には負圧のポテンシャルは
使っていません、使っているのは先進ポテンシャルなのです、弊社の掃除機は
時間を逆行するブロワーなのです」と主張するようなものだ。
だとしたら眉唾もんだwだからちょっとは疑ってかかれよ、という話なのだ。 もっとも先進ポテンシャルを使ったファインマン流の考えをマジで受け入れている物理学者は
少数派だろうが、なにしろディラックの海に変わる、負エネルギー解の騾馬粒子を正のエネルギー、
正の質量をもつように再解釈する方法が他にないのだからしょうがない、というところか。
かつてコペルニクスは地球と太陽の位置を交換するという簡単な操作で宇宙をあるべき姿に変えた。
同様に上の図1を図3に置き換えるという簡単な操作で閉塞感漂う物理学に風穴を開けることが出来る。
いずれにせよ物理学者の頭の中に、反粒子は負のエネルギー、負の質量をもっているという
発想はないらしい。 生命系、とりわけ経済の世界においては上の図3を採用していることは言うまでもないことである。
例えば我々が外出した場合、財布がお金で膨らんでいれば各種買い物をしたり、食事をしたり
各種乗り物を利用することができる。
では財布の残金が0になったら、何の行動もできないのか?というとその限りではない。
すなわちもしクレジットカードがあったならば、0からお金を創出できる。
さてもしそのクレジットカードが「返さなくてもいいから金を借りてくれ!」をうたい文句にする
金融機関が発行する騾馬カードなら、借金すればするほど豊かな生活を送れるというまるで夢のような
この世に天国が出現する。しかし現実世界は非情だ。
実際各種ローンや公共料金は期日にはしっかりと銀行口座から引き落とされるということだ。 よく負のエネルギーがあれば空間から無尽蔵のエネルギーを取り出せるというが、
それは負のエネルギーの世界が上の図1に従っていればの話である。
しかし架空のロジックで、架空の論議をしても話は始まらない。それはSF作家の仕事だ。
要するに、生命系の営みが上の図3で規定されているように、正であろうが負であろうが
そのベクトルは0点を向いているとすれば、負の物理量を否定する理由はどこにもないということだ。 お金で幸福は買えないとしても、我々の現実世界はそのお金により動き動かされていることもまた
事実なのである。
すなわち我々の身の周りにはお金が遍満している(もっているいないにかかわらず)。
ある意味マネーエーテルと言ってもいいだろう。
そしてそれは投資先を求めてあたかも気流のように絶えず流動している。
しかしマネーはプラスとマイナスの2つの側面をもっている。
すなわちコインの表と裏のように2つの顔が背中合わせに張り付いている。
それゆえ高値を誇っていた株価や紙幣が、一夜にしてただの紙くず同然になる事態が起こり得るのだ。
ところで経済物理という分野があるらしい。すなわち物理学の知見で経済を記述するということだ。
しかし負債の文字を知らない物理学者がどうやって経済を語るのか?
すなわち生命系の経済学が物理学を語れたとしても、非生命系の物理学が経済を語るなどは間違ってもあり得ない。 ボーアは不正確な測定をして混迷した末に量子力学なる逃げを思いついた? 光子は波動エネルギーそのものであり
エネルギーには質量がある
その証拠に光速という限界を生じる
質量が0なら光速を超えなければならないが
質量0は存在しない事を意味し『無』を意味する
つまり光速を超えるものは『無』であり存在しない 光子は波動エネルギーそのものであり
エネルギーには質量がある
その証拠に光速という限界を生じる
質量が0なら光速を超えなければならないが
質量0は存在しない事であり『無』を意味する
つまり光速を超えるものは『無』であり存在しない 光子は波動エネルギーそのものであり
エネルギーには質量がある
その証拠に光速という限界を生じる
質量が0なら光速を超えなければならないが
質量0は存在しない事であり『無』を意味する
つまり光速を超えるものは『無』であり存在しない 光は重力で曲がる・・・( ^ω^)・・・光には等価質量がある https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%90
騾馬、そしてその片方の親であるロバは日本では馴染みが薄いが、諸外国では畑を耕す、あるいは
荷物を遠くに運ぶといった人間にとっては苛酷な労働を担っていた。
もちろん今では内燃機関の発達により、その役割はトラクターやトラックに置き換わったが、
かつて諸外国において騾馬は普通に日常風景に溶け込んでいた動物である。
一説にはあのナポレオンが乗っていたのは馬ではなく騾馬、もしくはロバであったという話もある。 ところで人間にとって強大なパワーを発揮する馬に対しては馬力、すなわち仕事率の単位に
その名を付与している。
ところが騾馬に対してはそのへそ曲がりという性格ゆえに、マイナス無限大に向かうという
架空のモノにその名を付与している。散々騾馬を利用してきたにもかかわらずである。
あまりの理不尽さに涙が止まらない。
要するに物理的にへそ曲がりの騾馬はバネ、すなわちバネ定数を騾馬定数と呼べばいいのだ。
少なくとも騾馬を物理用語として使うなら。
ちなみに騾馬の騾の旁は、螺旋の螺の旁と同じ累である。
バネは螺旋の一種であることは言うまでもない。
漢字は今でいうアイコンに近いものであるが、まあそういうことだ。 時間、空間共に2階の微分方程式であるクライン-ゴルドン方程式を因数分解して一次式にしたのが
ディラック方程式だ。ゆえに必然的に正負の解が出る。
早い話 √4が±2、すなわち2と−2の2つの解があるのと同じだ。
そして紆余曲折を経て、最終的にあらゆる物理量が互いに反対(ただし質量だけは例外)の
粒子と反粒子に対応するとされて今日に至っている。 ところでダランベールの解というものがある。
これは時間、空間共に2階の微分方程式である波動方程式を因数分解して
一次式にしたものであり、ある意味ディラック方程式と手法は同じだ。
ちなみにダランベールの解は u(x,t) = f(x−vt)+g(x+vt) で表される。
ダランベールの解は一次元の式とされている。
なにしろダランベールはマクスウェルの時代より100年前に活躍した人物であり、おそらくは
リュートなどの弦楽器を伝わる波動をその研究対象にしていたのであろう。 さてダランベールの解 u(x,t) = f(x−vt)+g(x+vt) において、
正負の一方の解である f(x−vt) を正方向の波とすると、g(x+vt) は負方向の波ということになる。
といっても単に正方向を左から右に進む波とすると、負方向は右から左に進む波であり、
どちらも実在する波である。
ちなみに正負の2つの波を重ね合わせるといわゆる定在波が出てくる。
定在波は英語でスタンディングウェーブというように、人間的な例えで言うとその場で足踏み
している状態だ。
余談だがアインシュタインは少年の頃、光を光の速度で追いかけたら止まった光が見えるのか?
という問いを発し、いやそれはあり得ない、そしてそれが後の特殊相対論につながったとされている。
しかし「光を光の速度で追いかけたら」という問いは、今日的には普通は相手にされない。
いずれにしろ少年時代のアインシュタインは定在波を知らなかったらしい ダランベールの時代に遅延波・先進波というコンセプトがあったのかは分からない。
しかし少なくともダランベールの解には遅延波・先進波を当てはめてはいない。あくまでも実在する波だ。
ところがディラック方程式から導出された正負の解にはディラックの海を経て、
現在は非物理的な遅延解・先進解に対応させている。
一体ダランベールの時代とディラックの時代に何があったのか?
それは言うまでもなく物理学者は実在の象徴であるエーテルを否定した相対論の門をくぐったという
歴史的な事実である。
要するに空間から実在性を排除したなら実在は扱えない、
ゆえに我々は、魔術師としての物理学者たちのパフォーマンスをとくと鑑賞しようではないか。 エントロピック重力理論が話題になっている。
エントロピック重力理論とは、重力は物体の位置に関する情報量の変化によって生じるエントロピー的な力らしい。
エントロピー的な力 [wikipedia]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%94%E3%83%BC%E7%9A%84%E3%81%AA%E5%8A%9B
>エントロピー的な力、英語:Entropic force またはエントロピー力とは、
>主として熱力学的なエントロピーの増大による力や相互作用の総称である。電磁気力のような単一の分子の間に働く力ではなく、
>多数の分子における統計的性質として説明される巨視的な力である。
>目次 [非表示]
>1 熱力学
>2 浸透圧
>3 エントロピー弾性
>4 疎水効果
熱力学、浸透圧、エントロピー弾性、疎水効果って思いっきり媒質の世界じゃねーかw
>>468-470
ダークマターがエーテルの二の舞いならエントロピック重力理論はエーテルの三の舞いっぽいな。
要するに宇宙空間は何かで満ちているってことだろ?
ならまず一の舞いであるエーテルの否定を疑えよ、そこまでに相対論を守りたいのかな。 エントロピック重力理論はホログラフィック原理とセットらしい。
ホログラフィ、すなわちホログラムは2次元に記録されたものが3次元の像を結ぶというものである。
そしてそれを拡大解釈すると、ゆえに我々が認識する3次元世界は錯覚、幻想に過ぎず、
単に2次元にエンコードされた記録、情報に過ぎないということになる。 しかし2次元に記録されたものが3次元の像を結ぶという現象は他にも左右の目による立体視がある。
あるいは音響の世界において、左右の耳にイヤホンを差し込めば音楽が臨場感をもって聞こえる。
いやそもそも我々の現実世界において、レンズ(眼)、あるいはマイク(耳)が1つならば3次元世界を
2次元としか切り取れない。
しかしレンズ(眼)、あるいはマイク(耳)が2つあれば、3次元を3次元として認識できる。
つまり、我々が認識している3次元世界は2次元に記録された情報に過ぎない、というロジックを
積極的に支持する理由が見当たらない。 エントロピック重力理論のもう一つのキーワードはブラックホールだ。
すなわちBHにエントロピーが定義できるとすると、それは体積ではなく表面積(事象の地平線)に
比例するとされている。
そしてそれが我々が認識している現実世界は2次元に記録された幻影であるとする
ホログラフィック原理の思想背景であり、指導原理である。 ところで熱力学から表面自由エネルギーという概念が導かれる。
すなわち固体と液体、液体と気体といった相の異なる界面に蓄えられるエネルギーであり、
水の表面張力がよく知られている。
つまり水滴が丸くなる、すなわち球体になろうとする傾向は膨大な数の水分子において、
その体積ではなくその表面積を最小にしようとする性質による帰結であり、力である。
つまり表面張力は純粋に分子間力から導かれるあくまでも力であり、経験則的な
エントロピー増大則とは異なる。 エントロピー増大則は物理学における冒すべからざる神聖なものとされている。
そしてそれにより時間の矢、すなわち時間が過去から未来へと流れ、未来から過去へは
流れないという時間の向きを説明できるとしている。
それに対し表面自由エネルギーは一方的なものではない(例えそれ自身が一方的な力であったとしてもだ)。
例えば疎水性という性質がある。これは葉っぱが水を水滴にして弾く力である。
あるいは水と油は混じり合わない。
すなわち容器に水と油を入れ、例えかき混ぜたとしてもいずれ分離して境界層ができる。
つまり熱力学的には親水性と疎水性という同種同士には引力、異種の間には斥力が作用するということである。 水と油は混じり合わないといっても生命系においては両者は併存している。
そして両者を結び付けたり引き離しているのが両方の性質をもった両親性(両親媒性)、
いわゆる界面活性剤なのだ。
油汚れは水だけでは落ちにくい、それゆえ両親性の界面活性剤、すなわち石鹸を使うわけである。
あるいは牛乳は水に油分が分散したものであり、マヨネーズはその逆だ。
そしてその状態を乳化、エマルションと呼ぶ。女性が乳液を塗って、美しくいられるのもこのおかげだ。 いずれにしろ水と油は互いにバリアを張って混じり合わない。
その様子を物理学、すなわち素粒子の世界に当てはめるとそもそも粒子と反粒子は反重力のバリアが
あるので混じり合わない。
しかし両者は丁度生命系における水と油のように分離、併存している。
そして両者を引き離したり結び付けているのが粒子と反粒子の両方の性質をもった光子であり中間子なのだ。
つまり原子核における強い力はまさに粒子と反粒子の対消滅(結合)と反重力の複合力に他ならない。
>>61-67
まあエントロピック重力理論が熱力学を参照してるならこれくらいのコンセプトを提出して欲しいものだ。
熱力学を使っていながら媒質を無視してるなら、それはかつてのフロギストンやカロリックといった
お決まりのコースを歩むしかないであろう 何度も繰り返すがMM実験でエーテルが否定された歴史的事実はない。
大体アインシュタイン自身、MM実験に対する積極的な関与を否定している。
アインシュタインが特殊相対論を構築するにあたっての出発点は電磁誘導、
すなわち磁石とコイルの相対性だ。
つまり静止したコイルに磁石を近づけても、逆に静止した磁石にコイルを近づけても導体に起電力が生じる。
まさに相対性以外の何ものでもない。
ところがアインシュタインは同じ現象であるにもかかわらず両者に2通りの説明があることに不満を抱いた。
つまりコイルを静止とする座標系では動いているのは磁石であり、それにより磁場が変化する。
ゆえに電場が生じ、それによりコイル内の電子が移動する。
しかし磁石を静止とする座標系では磁石は動いていないのだから電場は生じない。
ところがこの場合は磁場に侵入したコイル内の電子はローレンツ力を受けるからと説明する。
そしてこの非対称性を解消する理論が特殊相対論というわけだ。
しかし図を見る限り、どちらにせよコイルを貫く磁束密度が変化したがゆえとしか見えない。
すなわち磁束に勾配がある。 さて、電磁誘導に対するアインシュタインの考察の致命的な欠陥は、電磁誘導を慣性系、
すなわち等速直線としていることだ。
しかし普通電磁誘導の実験はコイルに棒磁石を急激に出し入れする。
要するに電磁誘導は加減速の世界なのだ。
実際電磁誘導は V= -dΦ/dt で表される。
つまり時間の変化が急激であるほど磁束も急激に変化し、大きな起電力を生じる。
もし速度vでコイルに向かって来た棒磁石が起電力を生じてそのまま速度vで通り抜けたとしたら
それは永久機関の誕生である。 電磁誘導が慣性系でないことは、仮想的に磁石とコイルの上に水を満たしたコップを置けば
分かることである。
すなわち実験するまでもなく動かした方のコップの水がこぼれる。つまり慣性力が作用する。
それは停止、あるいは等速直線で動いている車内では普通に缶ジュースを飲めるが、
それが加減速している状況の車内ならば中身が飛び散り、悲惨な結果を招くことと同じだ。
ところでアルミや銅製の筒を立て、筒の上から強力な磁石を落とすという実験がある。
この場合電磁誘導により、磁石はあたかもブレーキがかかったようにゆっくりと落ちる。
もし電磁誘導が慣性系で記述できるなら、磁石は綱の切れたエレベータのように
自由落下(局所慣性系)するはずである。しかし実験結果はそれを否定する。 上の議論を補足すると、
>しかし磁石を静止とする座標系では磁石は動いていないのだから電場は生じない。
>ところがこの場合は磁場に侵入したコイル内の電子はローレンツ力を受けるからと説明する。
は後の物理学者が付け加えたものであり、元論文にはその記述はない(私の認識不足なら訂正する)。
アインシュタインの主張はもっとシンプルで、要するにコイルを固定し、磁石が動いている立場では
電場のエネルギーが生じて起電力が発生する。
しかし磁石を固定してコイルを動かす立場では電場のエネルギーは生じない(ゆえに起電力は生じない、
としたかは定かでない)。
つまり一方の立場では電場のエネルギーが生じ、一方の立場では電場のエネルギーが生じない。
そしてそれがアインシュタインが言うところの非対称性である。 しかし空間に対し静止、動いているというのは我々の先入観に過ぎず、相対的であるとすればいい。
つまり磁石を固定してコイルを動かす立場においても、コイルと一緒に動く観測者の座標系では
コイルは静止していて逆に磁石が動いているように見える。
ゆえに電場のエネルギーが生じる、というわけだ。
ならばもう一つの対称性、すなわち磁石と一緒に動く座標系では磁石は静止していて、今度は
動いているのはコイルの方ということになり、電場のエネルギーは生じないことになる。
しかしそれは無視する、なぜなら実際に起電力が生じるのだから。
こんなんで光の媒質とされたエーテルを捨てていいのかな?
しかしいずれにしろ電磁誘導には慣性力が作用するのは明白な事実なのだから、
慣性系で電磁気力を扱うという特殊相対論は、スタートからつまずいていることは明らかだ。 エーテルと聞くと今日的にはファンタジーゲームの架空のアイテムということになるが、
元々は水や大気といった実在(実在とは何かの議論はさておき)するモノをモデルにしたものだ。
さらに媒質を直訳するとメディアだ。ちなみに単数形がミディアム。
例えば古くはレコード盤、カセットテープ、フロッピーディスク、あるいは最近ではハードディスク、
CD(DVD)、さらには各種メモリーカードといった記憶(記録)媒体がメディア。
あるいは大手であれクチコミであれ、不特定多数に情報を発信する機関がメディア。
あるいはインターネットやメールという文化もメディア。
要するに送り手と受け手がダイレクトにつながるわけではなく、それを介在する中間形態がメディア。
その意味では光の媒質(メディア)を否定した相対論は、今日的には極めて寂しい理論と言える。 媒質の直訳がミディアム、すなわちメディアならば、光(電磁波)の媒質はメディアでいい。
光の媒質をエーテルと呼ぶかメディアと呼ぶかによって、それを否定することの重大性、意味合いが違ってくる。
すなわちエーテルを否定することに抵抗感がない者も、それがメディアとなれば「それはちょっと、いくらなんでも」
ということになるからだ。
そもそもエーテルは光の波動説の立場からの呼び名だ。
しかし粒と波の二重性を標榜する量子論の台頭により窮地に陥り、そして特殊相対論により息の根を止められた
(かに見えた)
ところが勝利の美酒に酔いしれる相対論と量子論の周りには、エーテルの援軍であるメディアという大軍勢が
幾重にも取り巻いていたということである。まさかの大逆転劇だ。
大体最新のホログラフィック原理であれエントロピック重力であれ、時間や空間、あるいは重力は幻想だ、
ただの情報に過ぎないと主張したところで、紙幣やクレジットカードに印刷されているホログラムには記憶媒体(メディア)が
必要であることは言うまでもないことである。
ならばそれらの理論は、いずれ物理的な記憶媒体という壁にぶち当たることは火を見るよりも明らかだ。 ホログラフィは光の干渉性を利用したものだ。
そもそも干渉とはゼロをはさんで、正と負の量があって初めて意味をもつものである。
すなわち同位相なら正負を問わず加算されて振幅が大きくなり、逆位相なら減算されフラットになる。
さらに電磁波の元である電荷には正負があり、磁力にもN極とS極がある。すなわち相殺項がある。
ところが重力、質量、すなわちエネルギーには正の値しかないとされている。
力学の基礎方程式からは正負の解が対で導出されるにもかかわらずである。
ならば重力、質量をまともに計算すると一方的に加算されて無限大に発散する、
あるいはそれらが量子化されない原因は明らかだ。
つまりそれは正の値を減算すべく基礎方程式の一方の解を惜しげもなく捨て去ったからだ。
ところが物理学者にはその認識がない、はっきり言って愚かと言うしかない。 天然物で最も硬いとされるダイヤモンドを研磨するのは同じ硬度をもつダイヤモンド自身だ。
あるいは光を止めることを可能にするのは同じ速度をもつ光自身だ。
つまり定在波は光の干渉性以外の何ものでない。
結局現代物理学の辞書に、すなわち重力、質量、エネルギーに負の値がないのなら、
ホログラフィック原理で記述できるのはその定義により、せいぜい映像止まりということになる。
もっともそれらの理論は重力及び時間、空間は幻想、錯覚に過ぎないとしているのだから、
その意味では整合性はとれている。 特殊相対論はニュートン力学と電磁気力、すなわちマクスウェル方程式を統一したとされている。
(ただし慣性系という切り口で)
逆に言うと、相対論以前にはニュートン力学と電磁気力は全く別の理論体系であったというわけだ。
しかしここで考えなければならないのは、そもそもエーテル云々以前に、媒質の世界においては
ニュートン力学の神聖な諸法則が成立しないということだ。 例えばこの地上において、同じ高さから同時に落とした羽毛と硬貨は同時に落下しない。
もちろん空気を排した真空下では同時に落ちる。
しかし空気がなければ音波は伝わらない。
つまりガリレオの落体の法則と、音響学は両立しない。
あるいはこの地上において、動くものは摩擦や空気抵抗などによりいずれ停止する。
つまり等速直線、すなわち慣性系は理想郷に過ぎないということだ。
しかし面白いのは、上空から降ってくる雨粒の終端速度は一定らしい。
すなわち重力加速度で速度を増すほど、つまり空気抵抗は速度の2乗で増大するのだから、
両者が拮抗した一定速度に落ち着くということである。 野球のボール及びサッカーのボールは握りや手首のひねり、蹴り方によりその軌道は不規則に変化する。
決して綺麗な放物線を描かない。
高い所から手放したティッシュペーパーは予測不能な挙動を示し、どんな高性能のコンピュータも
その落下位置を特定できない。
それは日食や月食や彗星の回帰のように、現在の位置と運動量が分かればその後の未来の行動は
一意に決まるとするニュートン力学の決定論を嘲笑うかのようだ。
要するに媒質はゆらぐ世界であり、天気予報を持ち出すもなく確率で記述される世界である。 ところで半導体の世界では電子に対して有効質量という用語が使われる。
正孔を語る際には負の有効質量という概念さえ出てくる。
有効質量とは自由電子に比して動き難さが増した電子、すなわちあたかも質量が増大したかに
振る舞う電子に使う用語だ。
つまりニュートンの運動方程式である F=ma が有効質量m* すなわち F=m*a に置き換わる。 さて空気抵抗が速度の2乗で増大するならば、そして質量が動き難さの尺度とするならば、
地上の物体は有効質量m* をもつことになり、速度依存性があることになる。
そしてそれが普通の電車と新幹線の顔つきの違いだ。
もちろん物体の質量と空気抵抗を分離して考えるならば、有効質量m* は不要かもしれない。
しかし物体と物体にまとわりついている空気を一体と見るならば、有効質量m* は文字通り有効である。 加速器で加速される荷電粒子の振る舞いはニュートン力学の F=ma ではなく、速度依存性をもった
ローレンツの変換式を使わなければ記述されないとされている。
すなわち加速される荷電粒子は、光速に近づけば近づくほど加速するエネルギーが質量増大に食われてしまい、
加速が困難になるということだ。
その質量増大を相対論的質量と言うが、現在相対論的質量は使わない方が望ましい、とされている。
しかしそれは相対論側の事情である。
つまり相対論にとって質量増大、すなわち速度依存性が無用の長物ならば、それはエーテル説に
返却するというのがスジというものだ。 以前にも述べたが質量増大は電磁質量といって、相対論以前にあった考えだ。
つまり荷電粒子は電磁場を身にまとっていて、荷電粒子を加速するにはその電磁場をも変化させねばならない。
そしそれは地上の物体を加速させるためには、物体の回りにまとわりついている空気の存在を
考慮しなければならないのとある意味同じだ。すなわちアナロジーが成立する。
ただし電磁質量はその名ゆえに荷電粒子にしか適用されないとされ、一般化されずに忘れ去られた。 さて私の光子エーテル説に従えば、光子は正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子の複合粒子だ。
ならば全体としての光子の質量は±0だが、部分的には正負の質量をもつ。
すなわち電磁場を量子化した光子それ自身が質量を有しているのだから、電磁質量は荷電粒子にしか
適用できないとするコンセプトには何の根拠もないことになる。 ちなみに物質に質量を与えるとされるヒッグス機構は、私に言わせるならば電磁質量とよく似ている。
ただし両者は真逆の関係にある。
すなわち電磁質量は電磁場(今日的には光子の集団)との相互作用だが、ヒッグス場は光子と相互作用しない。
ところでヒッグス機構の説明としてよくプールの中での動きにくさに例えられる。
しかしこの場合、抵抗を担う水は同時に音波を伝える量子でもあるのだからこの例えは
むしろ電磁質量に近い。しかしヒッグス場は光の場とは無関係だ。 質量の起源とされるヒッグス場は光と相互作用しないといっても、光はエネルギーを有している。
ならば質量とエネルギーの同等性により、光はヒッグス場と相互作用してもよさそうだが
そうではないということだ。
ちなみにヒッグス機構で説明できる質量は物質のわずか2%らしい。
大袈裟なわりには結構しょぼいw
ちなみに残りの質量はカイラル対称性の破れ。 ところで相対論に批判的な私が言うのも何だが、ヒッグス機構は相対論に対し相当に失礼な話だ。
なぜなら重力質量と慣性質量は区別が付かない、すなわち等価原理が正しいのならば、
さらに重力が時空の歪で説明できるなら、なぜ質量は時空の歪ではだめなのか?ということになるからだ。
要するに時空はどこに行ったんでしょうね。
本来重力と質量はエネルギーの観点からも相対論のテリトリーのはずだ。
しかしヒッグス機構は「重力は時空の歪でいい、しかし質量に関しては別のメカニズムを
導入しますよ」という話だ。
いわば相対論という堅牢な城の外堀を埋められたようなものだ。
さらにエントロピック重力のように、重力それ自体の存在が疑われようとしている。 特殊相対論は競合するエーテル説を何とかの剃刀でバッサリと切り落とした理論と言われる。
要するに同じ数式、同様な帰結をもたらすならば、物理学者はよりシンプルな論理を選択するというわけだ。
そしてその何とかの剃刀というのはこの場合、慣性系である。
しかしそもそも広い宇宙空間であれ我々の身近であれ、厳密な意味での慣性系はユートピアなのだから、
慣性系という切り口で世界を記述するのは最初から無理な話なのだ。 我々の身近には回転系が満ち溢れている。
そして円の1回転は正弦波に対応しているのだから、回転する物体はサインカーブを描いている。
すなわち回転する野球のボールも、コマも、車もエンジンも、そして自転する地球も、
回転するモノ全てがサインカーブを描いている。
さらにレシプロエンジンはピストンの往復運動をクランクを介して回転運動に変換しているのだから、
直線的な加減速する往復運動もまたサインカーブを描いている。 往復運動するには向きを変えなければならない。向きを変えるには一旦停止しなければならない。
それを上死点、下死点と呼ぶが、要するに007は二度死ぬではないが、円の1回転には力の向きが入れ替わる
2つの凪の状態があるということだ。
そしてその空白を補うのがフライホイール、すなわち動きにくさ、止まりにくさ、
すなわち慣性(慣性系と混同しないように)である。
結局サインカーブは加速度系から生じるのであって、慣性系から生じるものではない。
ならば音波であれ水の波であれ電磁波であれ何であれ、それを慣性系を扱う特殊相対論で記述する
意味が分からない。 現代物理は何とかの剃刀でエーテルを切り捨てたと言っても、場という疑似エーテルを使っている。
ならば場はエーテルと同じ矛盾を孕むはずである。
ところが場にはそれを名のれば何でも許されるというアドバンテージが与えられている。
それは何故か?ではそのからくりを説明してみよう。 科学の分野には熱力学と流体力学という2大勢力がある。もちろん両者は緊密に関連しているのだが、
面白いのはどちらもそれを記述するのに2つの流儀があるということだ。
すなわち熱力学においては実在気体と理想気体、そして流体力学においては実在流体と完全(理想)流体。
実在気体とは文字通り実在する気体であり、分子は体積も分子間力もある。
それに対し理想気体は分子に体積はないと規定している。
そしてそれは場及び電子や光子といった素粒子が単なる数学的な点に過ぎないとするのと符号する。
さらに実在流体とは文字通り実在する流体であり、粘性や圧縮性がある。
それに対し完全流体には粘性がない、さらに非圧縮性である。 常温、常圧の下ではある種の実在気体は理想気体として扱っても、さらに水や空気のようなさらさらな流体に
おいては、さらに境界面を無視すれば実在流体は完全(理想)流体として扱ってもそれほど差はないとされる。
そして何より重要なのは、理想気体及び完全流体には神聖な物理法則が成立するということである。
すなわち前者にはボイル・シャルルの法則、そして後者にはベルヌーイの定理、そして慣性の法則。
しかし実在気体及び実在流体にはそれらの神聖な諸法則、諸定理が厳密には成立しない、
言わば俗物、俗世界というわけだ。 さて特殊相対論は慣性系の名の下に、静止と等速直線は同じ物理法則が成り立つという相対性原理、
さらに真空下においては光速度は一定、すなわち不変という冒すべからざる神聖な原理を置いたものである。
要するに理想気体、完全流体がそうであるように、実在性を何とかの剃刀でバッサリと切り落とすことにより
成立する理論体系であるということだ。
しかし理想気体や完全流体が空想の産物であるように、広い宇宙空間であれ我々の身近であれ、
実在するものを支配しているのは非慣性系なのだから、特殊相対論で現実世界を記述することはできない。 結局場がそれを名乗れば何でも許される理由は明らかだ。
すなわちそれは媒質から実在性というオブジェクトを取り去ったものが場であるからだ。
要するに物事のコトを残してモノを切り捨てたということである。
つまり媒質には実在性という強い制約がある。それゆえどんな不可思議な現象にも合理的な説明が求められる。
しかし場には実在性という制約がない、ゆえに数学的に無矛盾ならばどんなに荒唐無稽な解釈であろうと
ミクロの世界は古典的描像では語れない、という言い逃れができるということだ。
いや、そもそも連続体である「場」それ自体、めちゃめちゃ古典的なのだが、 ホログラフィック原理にしろエントピック重力にしろ、その種の理論がブラックホールのエントロピー、
すなわち熱力学を参照しているのならば、必然的にそれは理想気体なのか実在気体なのかという命題が存在する。
もちろんそれらの理論は場の量子論をベースにしているのだから、理想気体ということになる。
間違っても実在気体ではありえない。
もしそれが実在気体となればそれは媒質、すなわちエーテル以外の何ものでもないのだから、
それはそれでセンセーショナルなものとなる。
しかし理想気体ならば、重力は存在しない、幻想に過ぎないとするコンセプトはそれほど奇異な話ではない。
なぜならそもそも場の量子論の書物に質量は出てくるが、重力は出てこないからだ。 結局科学はエーテルを捨てた時点において、マクロ系には重力を記述する一般相対論、そして
ミクロ系においては素粒子論を記述する量子論というように偉大なる棲み分け、領土配分が行われた。
つまりマクロ系とミクロ系は分離され、全く異なる物理法則が成り立つとされている。
しかしブラックホールのような高密度な天体、すなわち特異点においてはマクロ系とミクロ系が融合し、
区別がつかないはずである。
しかしミクロ系を記述する場の量子論は重力を扱う理論ではない、いや扱えない。
ならばホログラフィック原理にしろエントピック重力にしろ、重力は幻想であるという考えは
良く言えば発想の転換、悪く言えば重力の量子化はあきらめたということだ。 いずれにしろ物理学者には相対論という足かせがあるためにエーテルという用語を使えない。
ならば実在気体と理想気体のはっきりとした線引き、テリトリーを明確にしなければならない。
なぜなら物理学は実質エーテルを使っていながら、エーテルは存在しないというダブルスタンダード
で構築されていることになるからだ。 大気中の水蒸気は断熱膨張により温度が下がり、水滴となって雨になる。
さらに温度が下がると雪やあられ雹、すなわち固体になる。
そしてそれを相転移と言うが、相転移は体積も分子間力もある実在気体の特性である。
しかし体積も分子間力もないとされる理想気体には相転移は存在しない。
すなわち圧力を高める、あるいは温度を下げると限りなく圧縮され、圧力無限大、あるいは
絶対零度で体積はなくなり、数学的な点、いわゆる特異点になる。
逆に言うと、宇宙は針の先ほどの点から誕生したとするビッグバン宇宙論を保証していることになる。
しかしいずれにしろ理想気体で相転移を説明することはできない。 >エントロピー的な力、
>エントロピー弾性
エントロピー弾性で語られる代表的なものはゴムである。
しかしエントロピーと言ってもゴムはモノマーという最小単位であるユニットが数多く連なった高分子であり、
体積も分子間力もある実在気体を考慮しなければならないはずである。
さらにゴムは弾性体でありながら粘性ももっている、いわゆる粘弾性。
つまり粘性がないとされる完全流体では記述できない。 >エントロピー的な力、
>疎水効果
疎水効果も体積も分子間力もある実在気体の世界であり、さらに油はさらさらな液体ではないのだから、
実在流体として扱わなければならないはずである。
そもそも疎水性(親油性)と親水性はセットであり、一方のみを語るのはあまり意味がない。
つまり熱力学の立場からは同種同士には凝集力である引力、異種の間には反発力である斥力、
つまり引斥力が存在するということだ。
そしてそれは本来凝集力である重力にも2つの極があり、引斥力があることを示唆する。 結局場の量子論であれ何であれ、相対論を基礎とする理論体系は実在を語ることを放棄したということだ。
そしてそれゆえにそれらの理論はエントロピーとか情報とかの漠然としたものに活路を求めているように見える。
しかし情報と言っても、例えば生命の遺伝現象を考えた場合、場という考えで記述できるのは
3文字から成る遺伝暗号、すなわち塩基配列のアルファベットの羅列であり、オブジェクトであるDNAそのものは扱えない。
あるいは脳を情報処理系と見た場合、入出力する電気信号は扱えるが脳みそという記憶媒体は扱えない。
さらにコンピュータ、あるいはAIが0と1の羅列、あるいはその重ね合わせだとしても記憶媒体というハード、
すなわちメディアは使えない。
それが科学の世界におけるルールであり、エーテルを否定した相対論はそのリスクをとったということだ。 そもそも場の量子論に力の相互作用を担うものとして仮想粒子という用語は出てくるが、
間違ってもそれを実在粒子とは呼ばない。
あるいはサインカーブを見て、それが何で粒なんだ!というのがいわゆる量子論だ。
しかし媒質の世界では、粒以外の何ものでもない。
結局空間から物性を排した最終形態が時間や空間、及び重力は幻想とするホログラフィック原理や
エントピック重力なのであろう。
すなわち世の中上手く出来ていて、ある前提(エーテルの否定)の下にはそれ相応の帰結が導かれるということだ。 >>エントロピー的な力、
>>疎水効果
結局エントピック重力はスタートから矛盾を内包した理論と言える。
つまり重力は一方的な凝集力である。さらにエントロピーはエントロピー増大則により一方的である。
ゆえに重力はエントロピー的な力で記述できる。
しかしエントロピー的な力には親水基と疎水基という2つの極があり、凝集力と反発力がある。
ならば一方を無視する恣意的な根拠は何なのか?
さらに熱力学を参照してるならそれは理想気体なのか、それとも実在気体なのかを明示しなければならない。 そもそも水と油は互いにバリアを張って混じり合わない。
しかし親水性と疎水性の両方の性質をもった、すなわち親水基と疎水基が対になった両親媒性の
界面活性剤が存在する。
そして水に溶けた界面活性剤は水になじむ親水基が外側に、そして水に弾かれる疎水基が内側を向き、
いわゆるミセルを形成する。(私に言わせるならば包囲化、すなわち量子化)
逆に油に溶けた界面活性剤は親水基と疎水基が反転して逆ミセルを形成する。
つまりそれを粒子と反粒子のモデルとすると、界面活性剤はボソンということになる。 結局ミセルと逆ミセルは表裏、裏表が閉じた関係にある。
さらに水-脂質-水-脂質のように層状になったものをラメラ構造(液晶構造)というが、やはり表裏、裏表の関係にある。
つまり複素構造、複素次元をもっているということ。
ちなみにおよそ信じ難いことだが、そもそも物理学の基礎に裏表の概念はない>>142
つまり、電子であろうが光子であろうがクォークであろうが時空であろうが数学的な点とされ、
すなわち大きさと構造を持たないものに裏表は定義できない。
要するに粒々という概念はないということだ。 宇宙空間は何もない真空と教え込まれてきた人々にとって、重力は空間の歪みだ、
あるいは空間は曲がっていると聞かされてもピンとこないであろう。
さらにその歪みや曲がり方には実は2種類あると提案されても、納得しかねるのは当然だ。
しかし空間が曲がるというコンセプトが理解し難いのは、物理学者が真空は何もない空間
であると自他ともに洗脳してきたからである。
それに対し物理学者は「テンソルだよテンソル」と呪文を唱える。 しかしテンソルなる用語は材料系の分野では普通に使う。モノがなければエアテンソルでしかない。
いやそもそも伸びる縮む、曲がる歪む、たわむねじれるは媒質の世界に生きる我々にとっては
日常風景であり、日常用語以外の何ものでない。
実際歪みや曲がり方には2種類あることはミセルや逆ミセルをモデルにすれば何ら不思議はない。
そして我々人間はもちろんのこと、生命はその原理によって形造られ、そして生活が営まれている。 マクスウェル方程式は流体力学を参照して構築されたものであり、慣性系がどうのこうのという話ではない。
そもそもマクスウェルはエーテルの信望者であり、実際エーテルの存在を前提に導かれたのが
いわゆる変位電流だ。
マクスウェル方程式の4つの式にアンペール・マクスウェルの法則がある。
すなわち ∇×H = J + ∂D/∂t
∇×H = J はアンペールの法則、すなわち定常電流の回りには定常磁場が生じるという式だ。
定常であるがゆえに時間の関数ではない。(ある意味慣性系と言えなくもない)
ちなみに静磁場も定常電流とおなじく位置(r)関数であり、位置と時間(r, t)の関数でない。 回路にコンデンサがあると電流は時間変化して定常でなくなり、位置と時間(r, t)の関数で記述される。
さてコンデンサ、つまり2枚の平行板の間は回路が途切れているのだから本来電流は流れないはずだ。
しかしマクスウェルは変位電流が流れているとした。
つまり水の波を考えるならば移動しているのはあくまでも振幅などの変位であり、
水それ自体は流れていかない。
同様に誘電体であるコンデンサの分極の時間変化により電束密度が変化し、電束電流が流れる。 アンペール・マクスウェルの法則は電荷の保存則、すなわち連続の式でもある。
連続の式とは電荷であれ質量であれ、物理量は原因もなく湧き出したり吸い込んだりしないということ。
つまり無から有、有から無への遷移を禁止する物理学の根幹をなす式。
実際一見電荷がゼロの誘電体にプラスとマイナスの電荷が誘起されるのは、電荷がない状態から
湧き出したのではなく、元々実在するプラスとマイナスの電荷が打ち消し合い、中和していたからだ。 さてエーテルの信望者であったマクスウェルは、真空は誘電体であるとすればエーテルの分極が起こり、
変位電流が生じる(必然的に変動する磁場も励起される)、すなわち電磁波の存在を予言し、実際に後に
実験で確認された。
しかし現在、マクスウェルの意に反して真空は誘電体でないとされている。
ならば真空中を電磁波が伝わるということは、原因もないのに電荷 (電場)が無から有、有から無への
遷移を繰り返していることになり、連続の式を満たさないことになる。 ファラデーやマクスウェルらは電磁力線をゴムひも(ゴム管)のような実体的なものとして
イメージしていた。
すなわちゴムチューブは引っ張って伸びる縮むという張力(テンション)が生じる。
さらに同時に細くなったり膨らんだりして圧力が生じる。
それをマクスウェルの応力テンソルというが、要するに空間は弾性体のような性質を
もっているということだ。 そもそも場とは畑のことだ、ATフィールドとか言うと何となくかっこいいが、要は畑だ。
磁石の上に紙を載せ、鉄粉を振りまき、指でトントン叩くと磁力線が可視化されて幾何学模様
を描くが、それが麦畑の麦が風にそよぐ様子に似ていることからファラデーの時代に
フィールドと呼んだのだ。
日本語の場も広場、会場、競技場、市場、工場、出会いの場というように人や物が集まるにぎやかな
空間であり、有機的なものである。
しかし特殊相対論により宇宙空間は更地にされ、場という考えは一旦後退する。
その後場という考えは復活するが、もはや麦畑としてのフィールドでも日本語としての場の意味でも
ない、そこに実体、実在を求めてはならない、単なる数学的な点であり、無機的なものである。 場で記述される世界に実在性がないことは物理学者も明言している。
例えば電子はスピンという属性をもっているが、実在の回転ではないとされる。
つまりフィギュアスケートの選手がフィニッシュで腕を縮めて高速回転するが、
半径を限りなく縮めるとその表面速度はいずれ光速を超える。
いやそもそも数学的な点粒子に回転運動という概念はない。
ならば電子のスピンって何?ということになるが、それに対する答えはないのだ。 電子のスピンが実在の回転でないならば、それをスピンと呼ぶ必然性はないはずだが、
しかし現実には、物理学者は電子のスピンをマクロ系のコマや地球の自転をイメージ
している節がある。
結局連続体を標榜する、すなわち大きさも構造も考えない「場」はそれ自身で閉じていない、
理論独立性のない理論体系ということになる。
要するに、マクロ系という補助輪なしには成立しないということだ。 電子に限らず光子も右回り、左回りというスピンという属性をもっている。
そしてその反映として、光子の集団とされる電磁波は右円偏光、左円偏光というように
偏光面が螺旋を描きながら進んで行く。
つまりマクロ的には光子のスピンを実体的に図示する。
しかし光子を素粒子と見た場合、それは電子と同じ理由で実在の回転ではないはずだ。
このギャップは何なのか?
しかし点粒子とされる光子は実は大きさと構造をもつとすればよさそうなものだが、
物理学者にはその発想はないようだ。 電子は1/2のスピンをもつとされる。1/2の意味は2回転、すなわち円の1回転は360°なのだから、
720°回って元の状態に戻るということだ。
そしてそれが電子のスピンは実在の回転ではないとする理由の一つでもある。 しかし実質2回転して元の状態に戻るというのは幾何学の世界において、メビウスの帯がある。
あるいはテクノロジーの世界においても、4ストローク(サイクル)エンジンがそうだ。
つまり吸気-圧縮-燃焼-排気という4つの過程で1サイクルが完結する。
つまり吸気-圧縮で1往復、さらに燃焼-排気で1往復、そして1往復は円の1回転に対応して
いるのだから、2往復で2回転。
すなわち吸気を初期状態とすれば、元の状態に戻るためには720°回転しなければならない。 ミクロの世界は我々の常識が通用しない不可思議な世界である、いやそうであってほしいという
願望は分からないではない。
なぜならそういう訳のわからない世界に身を置くことは、一種ステータス感があるからだ。
それゆえマクロとミクロを1対1に対応させるというもくろみはその種の人々にとっては面白いはずがない。
しかし私に言わせるならば、ミクロ系とマクロ系の不一致ははっきりしている。
つまりそれは我々の目にするもの全てが大きさと構造、すなわちメカニズムをもっているのに対し、
ミクロ系の素粒子、そして時空さえも大きさと構造というメカニズムがないからだ。
ならば選択肢は2つしかないことは明らかだ。
すなわち従来通り、マクロとミクロを別々の論理で記述するか、
それともミクロ系の素粒子にも構造をもたせて、マクロ系とミクロ系の統一を計るかだ。 パスカルの原理というものがある。
それは図右のように、水や油のような液体を満たした容器の一点に加えた力Nは
容器内の面全てにNという力が作用するという原理だ。
ゆえにパスカルの原理は非局所的な相互作用である。
パスカルの原理は300年以上も前に発見されたものであるが、現在、油圧機器など最先端の
分野で活躍している。
要するに遠隔操作(遠隔作用ではない)を可能にするということだ。
ではパスカルの原理をエーテルを否定した相対論で考えるとどうなるのか?
もちろんその定義から相対論とパスカルの原理は何の関係もないが、あえてやってみる。
さて図左のように、質点Mがある速度vで容器の内部を反射を繰り返しながら動き回ったとしよう。
そしてそれにより容器の面に圧力を及ぼす。
しかしこれではパスカルの原理は説明できない。
なぜならパスカルの原理は容器内の面の全ての点にほぼ同時に力Nが作用するという原理であるからだ。
つまり局所的な質点Mに相対論的因果律を課すと、そしてパスカルの原理を説明しようとすると、
それは自ずと超光速で動き回らなければならない、という実にパラドキシカルな帰結が導かれることになる。 ここでいう相対論的因果律とは、要するに質点Mがある時刻に位置xに存在したならΔt、すなわちその
ちょっと前にはΔx、すなわちその近傍に居た、さらにそのちょっと前にはその近傍にというように
連続的な軌跡を描く、つまり不連続な飛躍はしない。
さらに局所的な質点Mが複数の位置に同時に存在することはないという論理だ。
しかし、そもそもパスカルの原理に質点Mの軌跡なるものは存在しない。
力を伝達するのは流体全体に広がる圧力変化であり、ある意味波動場と似ている。 パスカルの原理を相対論で説明する必要性はないとすればそれまでだが、
しかし非局所的な相互作用は色々な場面において表出する。
例えば原子レベルにおける電子の振る舞いがそうだ。 シュレディンガー方程式は基本的に1粒子を扱う理論だ。
そして電子は質量mをもっているのだから、初歩的には太陽系を巡る惑星をイメージするがよい
(ただし大きさも構造ももたない質点と考える)。
ただ違いは、太陽系の惑星は現在の位置と運動量が分かればその後の未来の行動は一意に決まるのに対し、
1粒子のはずの電子はあたかも波のように空間全体に広がっていて(この時点ですでに人間の理解を越えている)、
確率でしかその位置は語れない。
そして観測という人間の恣意的な行為によって電子は特定の位置に姿を現す。
そしてそれを波動関数の収縮と言うが、注意すべきは観測により位置が特定されたとしても、
だからと言ってそのちょっと前にはその近傍に居たとは限らないということだ。
極端な話、波動関数は宇宙全体に広がっている、ゆえにちょっと前にはアンドロメダ星雲に居た可能性もあった、
そしてそれが波動関数の収縮の位相速度は光速を超えるとするゆえんだ。 結局波動関数の収縮であれ量子もつれ、すなわち量子テレポテーションであれ非局所的な相互作用を
説明しようとすると超光速、すなわち遠隔作用が顔を出す。
なぜなら現代物理は非局所性を裏付ける媒質、すなわち媒体を葬り去ったからだ。
すなわち媒体がなければそれは遠隔作用と考えるしかない。
アインシュタインは量子もつれを気味の悪い遠隔作用として忌み嫌い、その背後には隠れた変数があるとして
量子論に不信感をあらわにした、いやだから、その隠れた変数を葬り去ったのは誰なんだよ?
というお話なのだw wikipediaより引用、非局所性とは、
>この宇宙における現象が、離れた場所にあっても相互に絡み合い、影響し合っているという性質のこと
媒質が非局所性の世界であることは明らかだ。例えば部屋に複数(何台でもよい)のギターがあったとしよう。
そして1台のギターの開放弦を弾く。すると調弦された全てのギターの開放弦が共鳴して振動を開始する。
もし空気という媒体がなければ、1台1台の開放弦を弾いて回らなければならない。
さらにそれぞれの弦が振動したとしても、ギターの音色を聴くことはできないし干渉という現象も起きない。 2つの音叉A、Bがあったとする。そしてどちらかの音叉を叩くともう一方の音叉も共鳴して鳴り出す。
さてもし共鳴という知識が全くない友人に目を瞑ってもらい、そしてどちらかの音叉を叩いたとしよう。
その場合、その友人に音叉A、Bのどちらを叩いた?と質問したなら、その友人は何と答えるだろうか。 つまり二重スリットの謎も共鳴系と考えれば何の不思議もない。
すなわち二重スリットを共鳴系とすれば、分割不能な電子が2つのスリットを同時に通過する必要はない。
どちらか一方を通り抜ければいい。いやそもそも通り抜ける必要性もない。
つまり光子エーテル説に従えば空間には電子がうじゃうじゃと局在しているのだから
(もっとも電子と反対の性質をもった陽電子と対になっているのだが)、
丁度ニュートンのゆりかごのように局在する電子がバケツリレーのようにスクリーンに伝わる。
そしてそれが電子のようなフェルミ粒子が粒と波の二重性をもつという意味だ。 そもそも回折も干渉も水の波や音の波に普通に起きる現象だ。
ところがミクロの世界のそれらの現象はマクロの現象とは別次元とされている。
例えば外村氏の実験(いわゆる二重スリットではないが)のように、
最初スクリーンにポツンポツンとあたかも粒の到達を示す輝点がランダムに現れる。
ところが長時間、すなわち輝点の数が増えるとスクリーン全体に明暗、すなわち波の特性である
干渉縞が現れる。まさに電子は粒と波の両方の性質をもっていることの証であるとされている。 ところが音波における回折及び干渉はそれとは違うとされている。
つまり例え音波の強度を弱くしてもスクリーンに薄ぼんやりした干渉縞が現れるだけであり、
決して粒の到達を示す局所的な輝点は現れない、ゆえにミクロ系とマクロ系との翻訳は不能である。
しかしそれは波長域の問題である。
つまり音波においても指向性の強い超音波を使えば、そして上手い実験を行えば、
音波においても外村氏の実験と似た現象を再現できるはずだ。
そしてその実験が成功した暁には、科学に革命が起きる。
すなわち媒質と場の区別が失われ、マクロとミクロを隔てていた禁断の壁が取り払われ、
光の伝播に媒質は必要としないとする相対論は終焉する。 結局電子のような局所的な質点に相対論的因果律を課すと、電子の振る舞いは説明できない。
つまり非局所的な相互作用を導入しなければミクロの世界は記述できない。
ところが非局所的な相互作用で説明しようにもエーテルという媒質を捨ててしまった現代物理には
もはやそのツールはどこにもない。
それゆえミクロの世界はアインシュタインが嫌悪した超光速やら遠隔作用のオンパレードなのだ。
なんとも皮肉な結果であるとしか言いようがない。 相対論も量子論も間違ってるなら、パソコンもスマホも使うなよ パソコンもスマホもモノの塊、物性論の世界だよ。
もちろんそれらは相対論と量子論をベースにしていることは否定しないが、
理論物理とテクノロジーの世界はイコールじゃない。
後者の方が先行する場合もある。
標準理論に未解決問題がある限り、相対論も量子論も書き換えられる可能性を含んでいるんだよ。 電子等のミクロ粒子はスピンと共に歳差運動、すなわち首振り運動している。
歳差運動は地球やコマのように軸をもったモノの特性であり、マクロな現象である。
ミクロ粒子がスピンだけならまだしも歳差運動を行っているとするならば、
それを実在と認めないとする態度はあまりにも苦しすぎる。
ちなみにスピン波というものがあるが、これは歳差運動の伝播に他ならない。
相対論や量子論はその定義からミクロ粒子が構造をもつことを許さない。
しかし物性に携わる研究者がミクロ粒子をゴースト、ファントムの類として扱って
いるとも思えない。
つまり理論物理とテクノロジーの世界は全くの別物ということ。 そう?
物性論ってはっきり言ってバンドギャップのエネルギー電子密度の計算で電子正孔とは物性論をわかりやすくするための仮のものでしょ。
ただ量子力学では空乏層にはエネルギーが存在できないけど物性論では存在するとしてエネルギー密度を計算してるよ。
そこは量子力学とは違う。 要は複雑系でしょ、無限のマクロと無限のミクロは無限に単純でシンプル、
中間の無限はカオス理論、天気予報は勿論、人間の動きを計算で予測するのは不可能、
つまり中間の無限であり無限に複雑カオスといことだよ、その究極が人間の脳でもあるが、
要するに生命体は究極のカオスでもあるわけだから生命体こそが中間の無限で無限に複雑でカオスだから生命体の動きを計算するのは不可能なんだよ >>606
>電子正孔とは物性論をわかりやすくするための仮のものでしょ。
えっ、そうなの?物性の研究者もミクロ粒子はゴースト扱いなのかな。
まぁ物理の世界には媒質より場がより上位にあるというヒエラルキーがあるからな。
しかしその上下関係をひっくり返すというのがこのスレの目的でもある。 パソコンであれスマホであれ高性能のコンピュータであれ、信号は導体及び誘電体(絶縁体)を伝わるのだから、
つまり真空中の光速度cではないのだから、物性論と相対論は直接関係しない。
要するに、郷に入っては郷に従うということだ。
あるいは物性論はシュレディンガー方程式、すなわち量子力学は使うが場の量子論は使わない、
しかし電子のスピンは特殊相対論と量子力学が結びつくことにより導かれたクライン-ゴルドン方程式、
そしてディラック方程式を経て出てきたのだから、結局物性論も場の量子論を使っている、
などと色々な見方がある。 しかし私に言わせるならこのようなカテゴリー分けは実情を反映していないということだ。
なぜなら物性論では特殊相対論経由でない別系統のクライン-ゴルドン方程式、
すなわち電信方程式を使っているからだ。>>472-474 電信方程式とクライン-ゴルドン方程式は等価である。いやむしろ電信方程式のほうが
正当的なKG方程式なのだ。
そもそもKG方程式とは波動方程式に減衰項を付与した方程式である。
ところが特殊相対論経由のKG方程式には減衰項と共に増幅項がある。
すなわち正負の一方の正の解は減衰項だが、負の解はゼロ点から絶対値の大きな方向を向いている。
ならば相対論的量子力学及び場の量子論はそのような増幅項をもった方程式を自らの理論に据えるべきである。
ところがそのような方程式はどこにもないということだ。 KG方程式は特殊相対論により導出された。さらにKG方程式を一次式にしたディラック方程式から
スピンは生み出された、そしてそれが相対論の心棒者の心のよりどころになっているようだが、
残念ながらKG方程式は相対論ありきの方程式ではない。
半導体の世界では正孔という概念を使う。そして正孔はディラックの方法論を真似たものとされている。
ならば半導体の世界では場の量子論を使っていないということになる。
なぜなら現在ディラック流の考えはボソンを扱えないとされ、遅延解、先進解を使った
ファインマン流の考えにその道を譲っているからだ。
ファインマン流の考えがディラック流より優れているならば、すなわちより一般的ならば、
半導体の世界も正孔を使わずに、電子が時間を逆行するという概念を使えばより良い半導体ができるはずである。 ここで穿った見方をするならば、素粒子の世界は我々からすれば桁違いに遠い世界である。
それゆえ素粒子の世界に先進波が飛び交っていたとしても対岸の火事として呑気に構えていられる。
しかし同じミクロの世界と言っても、半導体の世界はあまりにも我々に身近過ぎて対岸の火事とは言ってられない。
実際、もし半導体の世界に遅延波、先進波が飛び交っているならば、パソコン画面に明日の株価や
明日のスポーツの試合結果が表示されてもそれほど驚くにあたらないことになる。 結局半導体の世界はファインマン流ではなく、正孔という場の量子論のお古ということだ。
半導体における正孔は負の有効質量をもつとされる。
すなわち負の電荷、負の質量をもつ電子、そしてそれを
→正の電荷、正の質量をもつと再解釈するわけだ。
しかしここで問題は、もし正孔が最初から正の電荷を持っていたとすると、負の質量を正の質量に
再解釈できないことになる。
つまり私の疑問は、正負のエネルギー、質量をもった電子の電荷の符号はなぜどちらも負なのか?ということである。
もっともそのように規定しなければ再解釈、すなわち負のエネルギー解を扱えないからだ。
しかし私に言わせるならば負エネルギー、負の質量を正エネルギー、正の質量に再解釈する必要はない。
正孔(陽電子)はダイレクトに負の質量、正の電荷をもつとすればよい。 そもそもディラックの理論はボソンを扱えないということで現在主流からはずれている。
しかしpn接合によるLEDやレーザーの発光は電子と正孔の再結合とされている。
すなわちボソンを扱えないとされるディラック理論は現実には役立っている。
つまり場の量子論のシナリオが正しいのならば、pn接合によるLEDやレーザーの発光は
電子が時間を過去と未来を往還しているのだ、としなければおかしい。
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人工子宮、でぜひググってみてください。日本のために、お願い致します。☆☆ 半導体の世界が正孔を使っているといっても、だからといってディラックの理論と全く同じというわけではない。
そもそもディラックの論理にはトリッキーな部分がある。
つまりディラックは負の電荷をもった負エネルギー電子が抜けた穴が正孔、すなわち正の電荷をもつとしているが、
負の電荷をもった電子が負の電荷を持ち去ったならば残る電荷はゼロであり、正孔にはならない。
それは対生成の逆過程である対消滅を考えても同じだ。
つまり負の電荷をもつ電子が正の電荷をもつとされる正孔を塞ぐと電荷はゼロになる。
しかし正孔が塞がった状態は元の負の電荷をもった負エネルギー電子なのだからこれは矛盾だ。
ちなみに半導体の世界ではいわゆる価電子帯の電子は中性としている。
中性ならば少なくとも代数和は保存する。 さて粒子と対をなす反粒子は負エネルギー解から導出された。
しかし物理学では負のエネルギー、負の質量を扱えない。
ゆえに負エネルギー解から導出された反粒子を何とかして正のエネルギー、正の質量をもつように
改造しなければならない、というのが物理学者のパラダイムであり、道しるべでもある。 現在負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー、正の質量をもつように
改造することに成功したのは2例しかない、すなわちディラック流とファインマン流だ。
しかしディラックの海は過去の遺物とされ、実際現在真空は負エネルギーの電子で満たされている
と考えている物理学者は皆無だ、騾馬粒子という用語もほとんど死語に近い。
さらにファインマン流の考えもなぜか半導体の世界からのオファーがないw
素粒子論においては標準理論として現役であるが、マクロよりの半導体にはお呼びがかからないということだ。
要するに先進ポテンシャルを使ったファインマン流の考えはマクロ系には使えない、
なぜならその定義により、物理学者は因果律の問題に忙殺されるはめになるからだ。 結局負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー、正の質量をもつように
改造することに腐心した2例ともその先は行き止まり、すなわち通行止めの標識が立っている。
ならば物理学者に残された道の選択肢は2つしかない。
すなわち負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー、正の質量をもつように
改造する3例目を模索するか、さもなくばその無意味な行為の愚かさに気付くかのどちらかである。
つまり反粒子は力学の基礎方程式通りに素直に負のエネルギー、負の質量をもつとすればいい。
そしてそれにより何の矛盾のない理論体系を構築できる。
もちろんそれを記述する数学解は複素共役であることは言うまでもない。 今回のH大の入試問題におけるぐだぐだは、いかに媒質を伝わる波を舐めていたかと言うことだな。
そもそも媒質はMM実験や意味不明な量子論で否定されるほどヤワな存在ではないと言うことだ。
逆に言うと、相対論や量子論は音響学者から空気を取り上げ、音波を記述せよという無理ゲーな理論なのだ。
ご苦労さん、としか言いようがない。
いい加減この宇宙からエーテル、すなわち媒質を捨てた愚かさに気づいたほうがいいと思うぞ。 最近の科学界の話題と言えば重力波の観測と量子コンピュータであろう。
しかし私に言わせるならばこれらの話題は終わりの始まりと言える。
すなわちそれは物理学において異彩を放っている「量子」というものが、
本当に物理学者の言う量子なのか?が問われることになるからだ。
つまり重力及び量子コンピュータが、既存の量子の定義と齟齬をきたす羽目に
陥ったならば、異彩を放っていた量子の輝きが失われるということである。 量子の性質は色々あるが、代表的なものは重ね合わせの原理である。
しかし重ね合わせ自体はマクロ系にも普通に適用される原理であり、そこに不思議はない。
つまり不思議でも何でもない重ね合わせの原理を、不思議だと思え!
というのがいわゆるシュレディンガーの猫という仮想実験だ。>>105
しかしシュレディンガーの猫は部分と全体を同一視するトリックであることはすでに指摘した。
ではここでそのトリックの全容を明らかにしてみよう。 スケートのA選手はマスコミの引退か?続行か?という質問に、「ハーフ ハーフ」と答えた。
さてもし仮にマスコミが、A選手は「オール オール」と答えた、と報道したとする。
この場合A選手はどっちにしろ嘘をついた、というのがいわゆるコペンハーゲン解釈だ。
すなわち引退会見を開いたならば続行するは嘘になり、続行会見を開いたならば
引退するは嘘になる。
それに対しA選手は嘘つかない、確かに我々は引退会見を見たが、続行会見を開いた平行世界
がある。すなわち世界は分岐するのだ、というのがいわゆる多世界解釈だ。
もちろんこの場合、コペンハーゲン解釈も多世界解釈も無用である。
なぜならA選手には「ハーフ ハーフ」と言った証拠はあるが、「オール オール」と言った事実は
ないからだ。 結局シュレディンガーの猫の仮想実験も似たようなものだ。
つまりS猫の実験装置において、ミクロ系の放射性物質である膨大な数のラジウム原子の集団の中の一個が
1時間以内に崩壊してα線を放つ確率は50%であり、同時に崩壊しない確率も50%だ。
まさにハーフ&ハーフであって、オール &オールではない。
物理学ではミクロ系であれマクロ系であれ、全確率は合計すると100%、すなわち1になるように
規格化している。
つまりS猫の実験装置においてはあくまでも1時間以内にラジウム原子が崩壊する確率は50%であり、
同時に崩壊しない確率も50%である。ゆえに 50+50=100=1
決して崩壊する確率は100%であり、同時に崩壊しない確率も100%である。ゆえに 100+100=200=2→1
などという主張はどこにもない。
ところがマクロ系の猫に対してはまさに 100+100=200=2→1 という論理を当てはめているのだ。
これはトリック以外の何ものでない。 ではそのトリックを正当化する仕掛けは何か?というとそれは半死半生の猫は考えられない、
というフレーズである。
物理の書物に半死半生の猫は考えられないと記述されると、免疫のない一般読者は
そうだ、半死半生の猫は考えられないと素直に信じてしまう。
しかし辞書を引くと分かるように、半死半生とは瀕死の状態、すなわち生きているものに
対して使う用語であり、
実際、死んでいる猫に対し、半死半生の状態にあると主張するのはどっかの怪しい宗教ということになる。 結局半死半生の猫は考えられないという前提で議論を進めるということは、
それは観客がマジシャンの、種も仕掛けもないという前口上を鵜呑みにするのと同じである。
ならばマジシャンが唐突に鳩を取り出してならば、それは虚空から取り出したことになる。
同様に、半死半生の猫は考えられないとするならば、それはオカルトの世界にようこそということになる。
ちなみに物理学者のいう半死半生の猫とは、実際には全死全生の猫だからな。
この辺を脳内変換してその種の書物を読まないと、コロッと騙される。 物理学もおもしろいけどネットで儲かる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
JSXU3 量子コンピュータの原理を説明するのによくシュレディンガーの猫を登場させる。
すなわち従来型のコンピュータは0と1の羅列であるが、量子コンピュータは0と1の重ね合わせを利用する。
そしてそれはまさにこの世とあの世の二つの世界に併存するS猫そのものである。
つまりS猫は量子コンピュータにとってのマスコット的存在になっている。
要するに科学はオカルトの総本山の看板を掲げたということである。 私は何も重ね合わせの原理自体を否定しているわけではない。
重ね合わせの原理はミクロ系マクロ系を問わず普遍的なものであり、
そこにミステリーの入り込む余地はないと言っている。
そもそもS猫の仮想実験にはトリックが存在するのは明白なのだから、
科学者がS猫を議論するのはMサークルを論じるのと同じレベルだ。
要するにそれが雑誌ムーならネタとして楽しめるだろうが、
それが科学の書物ならば相当に痛いということになる。 量子コンピュータの原理の解説を読むと、量子コンピュータは複素数を使っているらしい。
しかし複素数は電気工学、すなわち交流回路などの波動場に普通に使う数学であり、
ミクロの世界を記述するためだけにあるものではない。
そもそも複素数は複数、すなわち二つで一つの数という意味である。
ただその一方が虚数である、というのがこの世に存在しない、いや存在してはいけない数という誤解を生む要因になっている。 さらに量子コンピュータはブロッホ球という視覚的な図形を使っている。
ブロッホ球は地球をイメージするがよい。
すなわちブロッホ球には北極(北半球)と南極(南半球)が定義される。
そして2つの極に排他的二値である0と1、すなわち|0>と|1>を対応させている。
さらにブロッホ球には緯度と経度が定義される。まさに地球そのものだ。
さらに歳差運動のような回転ベクトルを定義する。
しかしここで注意すべきは、排他的二値である北極と南極は
あくまでも地球という一つの単体の部分系であるということだ。
ならば排他的二値の重ね合わせには何の不思議もないことになる。
要するに、ブロッホ球にS猫の出る幕はどこにもないということだ。 結局重ね合わせの原理とシュレディンガーの猫は何の関係もない。
ただ相対論と量子論を基礎とする「場」の量子は大きさも構造もない数学的な点に基づいている。
数学的な点に部分と全体、あるいは表と裏を定義することはできない。
ゆえに数学的な点に無理やり排他的な状態ベクトルである|ψ>を定義すると、それは自ずとS猫状態になるということだ。
しかしS猫状態と直結しているのはあくまでも数学的な点である場の量子であり、
S猫の仮想実験装置とは何の接点もない。
なぜならS猫の仮想実験装置において、ミクロ粒子が崩壊する確率も崩壊しない確率もどちらも50%であって、
100%ではないからだ。
それは気象予報士が、明日何時に雨が降る確率は100%、同時に降らない確率も100%、
あるいは何月何日に桜が開花する確率は100%、同時に開花しない確率も100%、などとふざけたことを言わないのと同じだ。 シュレディンガー方程式はいきなり虚数iで始まる。
つまりS方程式のフロントグリルは虚数というわけだ。
しかしだからといって、虚数がミクロ系を象徴するエンブレムであるわけではない。
そもそも複素数は二つの数で一つの事象を表す数である。
ただその一方が虚数であるというだけだ。
つまり音波であれ水の波であれ電磁波であれ何であれ、波動は位置エネルギーと運動エネルギーをもった二つの実体からなる。
さらに二つの実体は90°(虚数)の位相差でサイン、コサインカーブを描いているのだから、
波動場に複素数を使わずに他に何を使うんだ?という話なのだ。 エーテルの信奉者であったマクスウェルは真空は誘電体であるとしていわゆるマクスウェル方程式を構築したのだが、
エーテルを否定した現在においては真空は誘電体でないとされている。
要するに真空には、テクノロジーの世界における位置エネルギーを担うコンデンサのような部品、実体はないということだ。
ゆえに必然的に運動エネルギーを担うインダクタ(コイル)という実体もないことになる。
すなわち存在するのは数式のみという思想だ、さらに実在しない数とイメージ化された虚数を駆使することによりその思想は強化される。
しかしこれは明らかに倒錯した世界観であると言わざるを得ない。 正弦波は単位円の回転に対応している。
すなわち円の1回転360°(2π)が一つの波長に、さらに半回転180°(π)が半波長である山と谷、すなわち正の位相と負の位相に対応する。
ではπ/2である回転角90°(虚数)は何か?というとそれは加速期と減速期だ。つまり虚数が位相を90°ずらす演算子とすると、
虚数とは加速と減速を司る最小単位ということになる。
蛇足だが、ではなぜ加減速の最小単位が45°や30°ではなく90°なのか?というと、それは30°を2回掛けようが3回掛けようが
加速と減速が交互に入れ替わるわけではないからだ。 演算子と聞くと単なる数学記号と思われがちであるが、そんなことはない。
例えば車でいうなら加速と減速を実行する演算子がそれぞれアクセルとブレーキだ。
つまり車においてはアクセルとブレーキは二つで一つのセットであり(ゆえに複素数)、
ブレーキのない車などは危なかっしくて乗ってられない。 複素数の意味合いを分かりやすく説明すると、例えば1枚の紙は表面と裏面の2面(複素平面)で1枚と数える。
同様に、1枚のコインは表面と裏面の2面で1枚と数える。
まさに重ね合わせ以外の何ものでない。
そしてそれゆえに例えばコイントスを行うと、表と裏が出る確率がそれぞれ50%であるという確率が定義できる。
ちなみに数学的な点粒子とされるミクロ粒子に表裏、部分と全体といった構造は存在しない。
そしてそれがミクロ系の確率に対する概念が複雑怪奇な理由だ。 虚数がミクロ系マクロ系を問わず普遍的に適用される数ならば、なぜ虚数がミクロ系に使う数とイメージされているのか、
いやなぜミクロの世界は虚数を使わなければ記述できないのか?、
というとそれは逆説的であるが、物理学は負の質量、負のエネルギーを否定しているからである。
しかし虚数単位である i = √−1 を二乗すると−1になる。
つまり虚数を駆使すれば実質負の数を扱えるというわけだ。
ただし注意すべきは虚数と負の数を同一視、ごっちゃにしてはいけないということだ。
なぜなら虚数にも正負があり、すなわち -i^2 =1 すなわち ±i =∓√1
つまり虚数の立ち位置は正の数と負の数に対し同等なのだから、虚数とマイナスの数を同列に扱うのは間違いである。 さていよいよサッカーのWカップが始まる。
サッカーで何であれ、スポーツはひいきのチームと相手のチーム、あるいは個人の選手の
重ね合わせであることは言うまでもないことである。
つまり二つで一つであり、互いに互いの力、ベクトルを打ち消し合う。
まさに競技場は生成消滅の世界以外の何ものでない。
そもそもサッカーのフィールドには両チームを隔てるセンターラインが引いてある。
あるいはテニスであれ卓球であれバレーボールであれ、センターにネットが張ってある。
要するにあらゆるスポーツには動かすことができない基準系があるということだ。
そしてその基準系を挟んでベクトルの向きは入れ替わる。
≪可逆空間≫
・ __┏┓_
/未来 過去/
/○___↓-t
/ ↑t ●/
過去 未来 /
_┏-┓___/
ここで注意すべきは、フィールドにひいきのチームと相手のチームの相反する二つのベクトルが存在するといっても、
あくまでもボールは一つということだ。すなわち二つで一つ。
ゆえにどちらかがボールをキープすると対称性が破れ、一方的な方向性であるベクトル、すなわち時間の流れが生じる。
もちろん相手側がボールを奪い返すとベクトルの向きは反転するのだから、その意味では対称性は保障される。
サッカーの試合においてはボール及び選手はこちらとあちらを行ったり来たりする。
すなわち往復運動するのだから、フィールドは波動場そのものである。 サッカーの試合においてはひいきのチームが攻撃中は相手チームの防御側が励起され、
逆に相手チームの攻撃中はひいきのチームの防御側が励起される。
すなわちこれが複素数の意味。
≪複素ベクトル≫
・ Im__┏┓_
↓i=√-1 /
/○___↑ /
/ ↑ ●/
Re ih*∂ψ/∂t=Hψ
_┏-┓___/
時間の流れ○→
攻撃側(実時間)
―――――――→
←―――――――
防御側(虚時間)
相手チームがボールをインターセプトすると時間の矢は反転する。i^2=-1
←●時間の流れ
攻撃側(実時間)
←―――――――
―――――――→
防御側(虚時間)
結局、時間の流れは4種類あるということだ。
すなわち実の正負の方向性、そして虚±i の2種類である。
そもそもフィールドには攻撃側と防御側の相反する2種類のベクトルがある。
もちろん二つのベクトルを実数のみで記述することは可能だが、
得点する権利はあくまでもボールをキープしている側にあるのであり、
ボールをキープしてない側が相手の陣地に攻め込んでどうやってシュートするの?ということになるし、
そもそも自陣のゴール前がら空きになる。
つまりサッカーの選手を突き動かしている原動力が相手のゴールポストの間にボールを蹴り込みたいという
欲求ならば、ボールをキープしていない側の選手は意に反して後ずさり、すなわち後退することになる。 ここで考えなければならないのは、防御側の選手が後退するといってもそのベクトルは負ではなく虚であるということだ、
すなわち虚ベクトル、つまり攻撃側を実ベクトルとすると防御側は虚ベクトル、ゆえに2つで複素ベクトル。
さらに攻守が入れ替わったのが複素共役、ゆえに2つが2つで結局はベクトルは4種類。
そもそも往復運動は波動場であり、そして波動はバネと重りからなる調和振動子と同相である。
つまりサッカーの試合においては攻撃側の選手は運動エネルギーをもった重り、すなわち質量であり、
さらに防御側の選手は位置エネルギーをもったバネ、すなわち復元力である。
攻撃側の選手が攻め込むと相手の防御側にあたかもバネのように押し返される力が生じる。
しかしその力はあくまでも i =√−1である、すなわち虚ベクトル。
なぜなら相手側のベクトルを反転していないからだ。
つまりベクトルを反転するためには位相をさらに90°進めなければならない。
すなわち防御側がボールをインターセプトして初めてベクトルが反転し、実の負ベクトルになる。すなわち i^2 =−1
もちろん互いに相手チームのベクトルが負であって、誰も自らのベクトルを負とは呼ばない。 >>641
>すなわち -i^2 =1 すなわち ±i =∓√1
これは微妙なので再検討の余地あり。
ところで虚ベクトルで検索してもヒットしない、一般的な用語ではないのかな。
数に実数と虚数があって複素数があるのなら、さらに複素ベクトルが定義できるなら、
実ベクトルに対して虚ベクトルがあってもよさそうなものであるが、いやなきゃおかしいはずだがそうではないらしい。
ひょっとして虚ベクトルという概念は私のオリジナル?
要するに 虚数単位である i = √−1 は減速を担う虚ベクトルであり、同時に加速に転じる実ベクトルでもある。
すなわち虚数iは加速と減速を操る最小単位。 僕の知り合いの知り合いができた在宅ワーク儲かる方法
時間がある方はみてもいいかもしれません
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
M9I ここで物理学における正負のエネルギー、質量をもつモノに対する定義、振る舞いを確認してみよう。
正のエネルギー(質量)をもつ正物質、すなわち通常物質は押すと押した方向に、引くと引いた方向に向かう。
それに対し負のエネルギー(質量)をもついわゆるエキゾチック物質の一つである負物質は、
押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かうとされている。
ちなみに我々の身近に存在する極ありふれたモノであるバネは押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かう
という性質をもっている。
つまり負物質の定義とバネの性質が完全にかぶっている、これは奇妙なことであると言わざるをえない。
なぜならゆえにバネは負のエネルギー(質量)をもつのか?ということになるし、
バネは現実に実在しているのだから、ありえないもの、あってはならないものとする負物質の定義
に正当性はないことになる。
要するにこの意味するところは、物理学者は負の数と虚数の区別が付いていないということである。 結局押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かうという性質はバネに対する定義であり、
さらに数学的には虚数に対応しているということである。
つまり物理学者は高度な数学は知っているが、虚数と実数であるマイナスの数の区別が付いていないという、実にお粗末な状況なのだ。
ゆえに物理学はディラックあたりからやり直しw >>618-620
実は負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー、正の質量をもつように
改造する3例目、すなわち第3の道が存在する。
すなわちそれは誰も自らを負とは呼ばないということだ。
誰も自らを負とは呼ばないならば、その意味では負のエネルギー、負の質量は存在しない。
しかし一方を正とするならばその対極にある一方は負とするしかないのだ。
なぜなら両者は相殺し合える量だからである。
ところが負のエネルギー(質量)を否定している現代物理において、エネルギー(質量)に関しては
他の物理量と違って相殺項がない。
そしてそれが重力及び質量が量子化されない原因であり、あらゆる物理量が無限大に発散する要因になっている。
ところが物理学者にはその認識はないということだ。 さて連日猛暑が続いているが、温度計には液体である水が相転移を起こして固体である氷になる温度を0℃と定め、
プラスとマイナスの値が表示される。
しかし温度の基準は任意であり、さらに絶対温度を基準にすればあらゆる温度の値はプラスであり、
温度にマイナスの値は存在しない、ということになる。
しかしここで重要なキーワードは相転移である、これを見逃しはならない。 相転移という現象によって力が発生することは明らかだ。
例えばヒッグス機構は真空の相転移によってヒッグス場が凝縮し、物質は質量を獲得したとするものだ。
あるいは磁石を熱するとある温度で磁力が消失する、逆にある温度以下になると鉄などの強磁性体は磁性を帯びる。
その転移温度の境目に起きる現象も相転移という。
あるいは1気圧の下、液体である水は100°Cで沸騰し、相転移を起こして気体である水蒸気になる。
そしてそれにより発生した力を利用したのが産業革命を推進した蒸気機関であり、
さらにその理論的裏付けを行ったのが熱力学の勃興であることは言うまでもない。
その意味では媒質を無視して熱力学を使うなどという行為(例えばブラックホールのエントロピー)は、
ほとんど空理空論に過ぎないということだ。 現代を生きる我々の生活空間において、エアコンは命にかかわる必須のアイテムになっている。
そしてエアコンもまた媒質の相転移を利用している。
すなわち液体である冷媒が、膨張して気化する過程では周りの空気から熱を奪い、空気を冷却する。
逆に気体である冷媒を圧縮して液体になる過程では熱が発生し、周りの空気を温める。
すなわちエアコンにおいては冷房と暖房は互いに逆過程であり、実際冷媒は互いに逆流している。 エアコンにおける冷気と暖気の価値は、相対的であることは言うまでもないことである。
時間の流れる方向が快不快の原則に従うならば、真夏の暑い日、エアコンの送風口から冷たい風が出てくるのが快であり、
万が一それが暖かい風ならば不快だ。
しかしシチュエーションが変わってそれが真冬の寒い日ならば、室内であろうと車内であろうと今度は暖かい風が快であり、
冷たい風が不快となる、要するに天国と地獄が入れ替わるというわけだ。
つまり本来相対的であるためには何らかの基準系が必要である。
その意味では速度及びエネルギーの基準は任意であるとする相対論は本来、絶対性理論と呼ぶにふさわしい理論なのだ。>>405 >>603
>相対論も量子論も間違ってるなら、パソコンもスマホも使うなよ
この突っ込みは熱力学や流体力学が間違ってるならエアコン使うなよ、に置き換えることができる。
それに対する私の弁明は、エアコンは相転移を考慮する実在気体の世界であり、理想気体の世界ではない。
さらにエアコンは圧縮性をもつ実在流体の世界であり、非圧縮性の完全流体の世界ではないというものだ。
もっともメーカーや業者がエアコンに注入する冷媒は仮想的な理想気体であり、さらに
非圧縮性の完全流体である、と主張するなら話は別だが。 私はヒッグス粒子に懐疑的であるが、しかしヒッグス機構には擁護すべき点はある。
すなわちそれはヒッグス機構は真空に相転移及び粘性といった実在気体、実在流体の性質を持ち込んだことである。
つまりヒッグス機構では質量とは物体の動かし難さ、ヒッグス場の抵抗とされる。
そしてそのメカニズムを説明する際、一般向けの解説として水飴の例えが使われた。
すなわちコップの中の水を棒でかき混ぜた場合、それが水飴ならばより大きな力がいる。
つまり水飴の粘性、抵抗こそが質量に他ならないというわけだ。
ならば必然的に水飴の例えに突っ込む人が現れる。
なぜなら、確かに水飴の例えによると物体の動かし難さ、すなわち慣性は説明できる。
しかし同じ慣性の止まり難さ、すなわち等速直線は説明できない。
もし真空が水飴状の流体で満たされていたならば、地球などの天体は速やかに停止するはずである。
しかし水飴の例えは極端にデフォルメしたものであって、水飴であろうがさらさらな液体であろうが粘性がゼロでない限り五十歩百歩だ。 結局慣性の法則にはいわゆるダランベールのパラドックスが存在する。
すなわちもし真空が粘性ゼロの完全流体とすると、質量をもった物体は等速直線運動するという慣性の法則が成り立つ。
しかし粘性がないとするとヒッグス機構によれば物体に質量は生じない、これは矛盾だ。
まさにダランベールのパラドックスである。 ダランベールのパラドックスは重力を記述する一般相対論にも存在する。
すなわち一般相対論は時空の引きずりを予言する。
そしてその様子を説明するのに蜂蜜とボーリングの玉が使われる。
(どうやら物理学者は水飴やら蜂蜜などのドロドロした甘い誘惑に弱いようだw)
さてもし蜂蜜の中でボーリングの玉を回転させると、蜂蜜はボーリングの玉に引きずられるだろう。
しかしアインシュタイン方程式の右辺である、重力の源とされるエネルギー運動量テンソルは完全流体で記述している。
ゆえに時空の引きずりは起きない、まさにダランベールのパラドックスだ。 結局ダランベールのパラドックスはヒッグス機構にも内在する。
すなわちヒッグス機構が真空に相転移及び粘性を持ち込んだといっても、それらの性質はあくまでも実在気体、実在流体のものである。
しかしヒッグス場はあくまでも場であって、媒質の世界ではない。
要するにエーテルを否定している現代物理においては、間違っても宇宙空間は実在気体、実在流体で満たされているとは言えないわけだ。 結局質量の源がヒッグス粒子ならば、物理学者の四つの力を統一したいという夢は益々遠ざかったと言わざるをえない。
なぜなら二つの質量である重力質量と慣性質量は袂を分かったからだ。
実際重力の源はヒッグス粒子とは言わないだろ?
この場合はあくまでも重力子だ。
じゃあヒッグス粒子と重力子の関係性は?というと何の関係もない。
実際光子はヒッグス粒子とは相互作用しない、完全スルーだ。
ところが光子は重力場と相互作用して曲がる。
いずれにしろ質量と重力が全く別のメカニズムで発現するという考えは解せない、というのが私の主張だ。 >>656
>ならば必然的に水飴の例えに突っ込む人が現れる。
私は水飴に突っ込む人をディスっているわけではなく、極めてまっとうな意見だと評価している。
そもそも水飴の中を、物体が等速直線運動するなどありえないだろw
つまりヒッグス機構により物質が質量を獲得するということは、それは慣性系の否定とセットであるということだ。 実在気体、実在流体で満たされている我々の生活空間において、動くものは空気抵抗や摩擦によりいずれ停止する。
それと同じ様に宇宙空間に実在気体、実在流体の性質を持ち込んだのがヒッグス機構だ。
しかし悲しいかなヒッグス場はあくまでも場であって媒質ではない。
それゆえエーテルを否定している現代物理においては、いまさら宇宙空間がエーテルで満ちていたなどと宣言するのは屈辱であろう。
そこに現代物理学のジレンマがある。 >>474
>>導体中の電磁場の伝播、減衰のある弦の振動などの現象を記述する。
>>場の量子論において、クライン-ゴルドン場φ(x,t )の満たすクライン-ゴルドン方程式は、
>>電信方程式と等価である以下の形で与えられる。
> (波動方程式 + 質量項m)
>導体中であるということは抵抗成分があるということだ。
>あるいは空気中で弾かれたギターの弦は空気との摩擦で減衰する。
>つまり波動方程式に抵抗成分や減衰項を付与したのが電信方程式。
>そして波動方程式に質量項を付与したのが場におけるKG方程式であり、両者は同じ形式。
結局KG方程式の母体は媒質とすると、摩擦や抵抗、質量項といった各種ビーズがあたかもネックレスのように見事につながる。
ところがKG方程式は相対論ありきとすると、各種ビーズは床に転がったままということになる。 私はヒッグス機構は相対論に対して相当に失礼な話だと述べたわけだが、要するにヒッグス機構は
重力は時空の歪でよい、しかし質量に関しては別のメカニズムを採用しますよ、というものだ。
要するに相対論という堅牢な城の外堀を埋められたような話だ。ならば同じ理由で、
すなわち完全流体で記述している一般相対論もいずれ実在流体で書かれた理論に取って代わられるという予測が成り立つ。
つまり難攻不落とされている相対論の内堀も埋められ、相対論は炎上し、落城する。 私は一般相対論の重力は幾何学的に空間の曲がり、時空の歪という概念は悪くないと思う。
ならば質量も時空の歪でいいはずである。ところがそうではないということだ
一般相対論の指導原理は等価原理、すなわち重力質量と慣性質量は区別がつかないとするものだ。
しかしヒッグス機構が正しいとすると両者の区別は付いている。
すなわち光子をプローブとすれば、光子は重力場と相互作用し、曲がる。
しかし光子はヒッグス場とは相互作用しない、そこに何もないかのごとく進む。
ちゃんと区別が付いている、何が等価原理だよw
要するにこの意味するところは、もし等価原理が正しいとするとヒッグス機構は不完全な理論ということであり、
一般相対論も重力場と同じ枠組みで質量が生じる原因を導き出せなければやはり不完全な理論ということになる。 結局科学はマクロ系には重力を記述する一般相対論、そして ミクロ系においては素粒子論を記述する量子論というように
偉大なる棲み分け、領土配分が行われている。
つまりマクロ系とミクロ系は分離され、全く異なる物理法則が成り立つとされている。
ゆえに、両者を統合しようとすると激しく対立し、齟齬をきたす。
我々は普通、質量をもつモノは必然的に重力を及ぼすと思っている。
ならば例えばヒッグス場で重力を記述すると、ブラックホールはまばゆいほどに輝いていることになる。
なぜなら光はヒッグス場とは相互作用しないからだ。
しかしそれはブラックホールからは光さえも逃れられないとする一般相対論と矛盾する。
逆に完全流体で記述している一般相対論で(慣性)質量を記述すると、ヒッグス機構によれば粘性、抵抗がなければ質量は生じない。
つまり物理学者の等価原理は基本的に正しいという想いは虚しいものがある。
逆に等価原理は正しいとするならば、マクロ系、ミクロ系を問わない、より普遍的な高次な理論、高次な対称性があるということだ。 量子医学と言うのがあるそうだが、量子生物学ならあるけどね。で、精神は量子効果
である。というのあるけどね。まあ日本ではみんなで協力し合ってアイデアを出し合
い学問をやって行こうなんて凡人が言ってけどね。画期的なアイデアは出ないよ。そ
れは量子論で証明されちょる。つまりあるレベルに達していない光子(凡人)をいく
ら集めても電子(画期的なアイデア)は飛び出さないが、たった一発のそのレベルの
光子(天才)があれば、電子は飛び出るのさ。そもそも、アメリカでさえ、技術者は
個室を持っておりそこで仕事をしてると言う。日本では大部屋だね。 わしは量子言語学を主張しているのだ。つまり言葉(粒子)では絶対成立しえないことを、
空気を読む(波動)あ、うんの呼吸で成立させる。何故できるのか、それが粒子と波動の
量子言語学なのだ。 量子論をお勉強したら、全く世界観が変わると言われてる。がその通りだ。一つの思想的革命だね。
でこれを医学に生かす試みだと思うが、思うに西洋医学が粒子なら東洋医学など代替医学が
波動でそれを合わせたのが量子医学なんだろう。量力学の思考法の応用だね。だが量子生物学
は量子化学を応用してるが、それが医学にまで及ぶ日は近いね。なんせ時代はコンピュータ
だから。 だから将来量子力学をマスターできない医者は廃業だ。代わりにコンピュータが診察する。が
コンピュータで処理できない高度な医療が量子力学をマスターした医者・研究者によって行われる
のだ。だが、本来健康な社会を目指すのが保健所のはずだよ。保健所がしっかりしていれば社会は
健康で病人などいなくなるしそんなに医者なんかいらないはずだよ。 ダークマターやダークエネルギーは「負の質量」を持つ「Dark fluid(暗黒流体)」の一部だとする論文が発表される
スレ主さん、↑についてどう思われますか >>672
どう思われますかって、まあ負の質量は今後科学界のメインテーマになるだろうね。
ただ上の論文は突っ込みどころが多々あるので、以前話題になったエントロピック重力理論のように
エーテルの二の舞い、三の舞の類だろうね。 ☆★☆【神がこのような糞悪党どもを決して許さないであろう】★☆★
《超悪質!盗聴盗撮・つきまとい嫌がらせ犯罪首謀者》
●井口・千明の連絡先:東京都葛飾区青戸6−23−16
●宇野壽倫の連絡先:東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸202
【告発者の名前と住所】
◎若林豆腐店店主(東京都葛飾区青戸2−9−14)の告発
◎肉の津南青戸店店主(東京都葛飾区青戸6−35ー2)の告発
「宇野壽倫の嫌がらせがあまりにもしつこいので盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者の実名と住所を公開します」
【超悪質!盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者の実名と住所】
@宇野壽倫(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸202)
※宇野壽倫は過去に生活保護を不正に受給していた犯罪者です
どんどん警察や役所に通報・密告してやってください
A色川高志(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103)
※色川高志は現在まさに、生活保護を不正に受給している犯罪者です
どんどん警察や役所に通報・密告してやってください
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111
B清水(東京都葛飾区青戸6−23−19)
※ 低学歴脱糞老女:清水婆婆 ☆清水婆婆は高学歴家系を一方的に憎悪している☆
C高添・沼田(東京都葛飾区青戸6−26−6)
D高橋(東京都葛飾区青戸6−23−23)
E長木義明(東京都葛飾区青戸6−23−20)
F井口・千明(東京都葛飾区青戸6−23−16)
※盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者のリーダー的存在
犯罪組織の一員で様々な犯罪行為に手を染めている 化学とは電荷(+−)の相殺を扱う学問である。
物理学とは質量(+−)の相殺を扱う学問である。
経済学とはマネー(+−)の相殺を扱う学問である。
ならば負の質量を知らない物理学者とは、電荷の±の一方を知らない
化学者であり、負債の文字を知らない経済学者みたいなものだ。
あるいは負の質量を知らない物理学者とは、互いに相手チームの得点がマイナスであることを知らない
スポーツ選手みたいなものであり、憎悪の文字を知らない文学者みたいなものだ。
愛は絶対であるとしても、人間の心には憎悪の感情が潜んでいるのもまた事実なのである。
それゆえ物理学者が記述する宇宙のドラマに対するシナリオは、
文学者が憎悪の文字を使わずに一大叙事詩を書き上げたというようなものだ。
果たしてそれを一読する価値はあるだろうか、 結局生命系とは力学の基礎方程式の正負の解に完全に対応した世界であり、
相対論と量子論を基礎とする物理学はその一方の解を惜しげもなく捨て去った理論体系であると言える。
ならばどちらがより普遍的かは明らかだ。
すなわち生命系が物理学を語れたとしても、物理学が生命系を語るなどは間違ってもありえない、ということだ。 現在AIがその圧倒的な存在感を主張し始めている。
ある意味AIは非生命的な物理学と生体である脳、すなわち生命系の営みとの融合である。
ならば非生命系から生命系へのアプローチと、生命系から非生命系へのアプローチがぶつかり合い、
互いにフィードバックする。
ならば一つの命題が存在する。
すなわちAIは生命系と非生命系のどちら側のロジックに収斂するのか?というものだ。
要するに集合論的に、生命系は物理帝国主義の名の下に、非生命系から演繹されうるのか?
それとも物理学は実は極めて狭い理論体系であり、生命系の部分集合に過ぎないのか?ということだ。
もし後者ならば、AIの進展によって奪われる職業の筆頭は物理学者、ということになりかねない。
いや、マジでw 科学の方法論に「空気抵抗を無視すれば」というフレーズがある。
そしてそれにより同じ高さから落としたコインと羽毛は同時に落下し、
放り投げた石ころもボールも放物線を描いて落下する。
つまり現在の位置と運動量がわかればその後の挙動は一意に決まるとするニュートン力学の決定論が実現する。
そしてそれは日食や月食の予測が外れたためしはないとする天体の運行と同じ数式で記述され、
天上と地上が統一される。
その意味では統一を阻む地上の空気は邪魔者であり、力学の方程式に従わない自然の近似ということになる。 ここで重要なことは、太陽系の初期状態を何時に設定するかということだ。
すなわち現在われわれが観測する太陽系を初期状態とすると、確かにニュートン力学の決定論が実現する。
しかし太陽系の成り立ちを初期状態とすると、太陽系は塵とガスで満たされた混沌とした状態から始まったのだから、
いわゆる熱力学や流体力学の世界であり、今度は「空気抵抗を無視すれば」というフレーズがむしろ自然の近似ということになる。
すなわち摩擦や抵抗を考慮することにより、天上と地上は統一されるということだ。 相対論と量子論を融合させた理論を場の量子論という。
場とは空間の各点に定義されたスカラー量であり、ベクトル量であり、テンソル量である。
その限りにおいては媒質と同じであり、何ら変わりはない。
ところがここにも科学の方法論である、「空気抵抗を無視すれば」というフレーズが立ちはだかる。
すなわち実在気体、実在流体である媒質から実在性を取り去るといわゆる理想気体及び理想(完全)流体になる。
そもそも媒質は大きさと構造もった離散的な原子・分子の集団であるが、場は数学的な点であり連続体とされている。
さらに慣性系を標榜する相対論にとっては空間に抵抗を及ぼす粘性があってはならない。 よく相対論は競合するエーテル説を何とかのカミソリでばっさりと切り捨て、よりシンプルにした理論と言われているが、
まさに相対論は実在流体から粘性や圧縮性を無視した理論なのだ。
すなわちそれによりパラメータが減り、解けない方程式も解けることになる。
結局相対論と量子論を融合させた場の量子論によれば、「空気抵抗を無視すれば」というフレーズは自然の本質であり、
空気抵抗を無視できない媒質は自然の近似であり、二流の世界ということになる。 空間から粘性を取り去ったなら必然的に遠隔作用が出てくる。
例えばAT車にはトルクコンバータという装置がついているが、その仕組みは入力側と出力側の羽根車は粘性をもった流体
で絡み合ってはいるが、それぞれの羽根車同士は直接接触していない。
ならば流体に粘性がなければ入力側がいくら回転しようとも出力側に力は伝達されない。
ゆえににもかかわらず力が伝達されたならば、それは遠隔作用というしかない。 さて量子論の分野では、アインシュタインが薄気味悪い遠隔作用と呼んだ量子テレポテーションが標準化されている。
要するに離れた2点間にもつれが存在し、なおかつ隠れた変数がなければ、それは遠隔作用と考えるしかないと言うものだ。
しかし注意すべきは、隠れた変数が存在しないというのはあくまでも場という枠組みでの話であり、
現行の理論の内部からは導出されないというだけである。
しかし空間に粘性があるとするならば、それは隠れた変数が存在することになる。 波動一般に存在する抵抗をインピーダンスと言う。
インピーダンスは圧と流れの比である。
ならば発信側も受信側も圧を感じているのだから、いわゆる量子もつれと称されるものも近接作用の立場から議論することができる。
よくもつれ合った光子対を左右に置かれた偏光版A,Bに向けて飛ばす、さらに偏光版を回転させる。
本来光子の反射、透過はランダムなはずだが、何かAとBの間に示し合わせたような有意な相関が見られる。
つまり隠れた変数が存在しなければ、それは遠隔作用とするしかないというわけだ。
しかし空間に粘性、すなわち抵抗成分あるとすれば、例えばインピーダンス整合だとか最小作用の原理だとかの
近接作用の立場から説明する可能性も捨てきれない。 量子テレポテーションの原理は絡み合った粒子対の一方を地球に、さらにその片割れを例えアンドロメダ星雲までに引き離しても、
どちらか一方を観測してその値が確定すると自動的にもう一方の値も確定する、すなわち
時間ゼロの世界であり、明らかに超光速の世界である。
ただし何故か相対論に忖度して情報は伝わっていないとされている。
情報が伝わっていないのに量子情報理論という分野があるのはよく分からないが、
そもそも相対論に忖度する必要はない。
なぜなら相対論は元々遠隔作用の理論だからだ。>>384
そもそも結婚指輪がローレンツ変換ならば、量子論はエーテル説と結びつく可能性があった、すなわち未だ見ぬ幻の媒質の量子論の存在だ。
しかし量子論は元々遠隔作用の理論である相対論と結ばれたのだから、いわゆる場の量子論が遠隔作用のオンパレードなのは当たり前なのだ。 >>384
磁場は電場の相対論効果という概念には実はその前提として、無限に長い導体を仮定している。
要するに導体を流れる電子と同じ速度で動く観測者にとって電子は静止している。
動いているのは導体の方である、ゆえに導体はローレンツ収縮し電荷密度云々、
しかし無限に長い導体は一瞬にして収縮している。
まさかドミノ倒しのように順次収縮していくわけはない、無限に長い導体が一瞬にして収縮するのだから、それは遠隔作用である。
もっとも導体を考えなくとも、ローレンツ収縮するのはその電子と同じ慣性系にいる観測者を除く宇宙全体なのだから、
相対論におけるローレンツ変換は遠隔作用以外の何ものでない。
つまり相対論には遠隔作用の前例があるのだから、量子テレポテーションを語るのにあたかも相対論と対立するかの議論は、
とんだ茶番劇なのだ。 そもそも慣性系で世界を記述するのは時間変化がないのだから位置関数であり、時間の関数ではない。
例えばクーロンの法則 F=kqQ/r^2 も万有引力の法則 F= GmM/r^2 も位置関数であり、時間項はない。
ゆえにクーロンの法則も万有引力の法則も元々遠隔作用の理論とされている。
同様に、慣性系を標榜する相対論は元々遠隔作用の理論なのだ。 >>537
アインシュタインの特殊相対論の出発点は電磁誘導、すなわち磁石とコイル、すなわちどちらが動いた?という問であり、
そしてその答えとしてどちらが動いた?という問は無意味であるという結論に至った。
そしてそれが100年以上の長きに渡って科学界に君臨する特殊相対論の本質である。
ならば相対論が間違っていることを証明するには、アインシュタインの電磁誘導に対する考察が間違っていることを
証明すればいいことになる。 われわれが電磁誘導を考えた場合普通、棒磁石を手にもったならば、空間に静止したコイルに対し棒磁石が動いた、
と認識する。
逆にコイルを手にもったならば、あくまでも動いているのはコイルということになる。
それに対し、アインシュタインは異を唱えた。
つまり静止と等速直線運動が等価であり、同じ物理法則が成り立つならば、さらにニュートン力学と電磁気力を
統一するには、電磁誘導においても相対性原理を満たさなければならないというわけだ。 さて棒磁石を手にもってコイルに突っ込んだならば、われわれは動いたのは棒磁石であると認識する。
しかし例えば棒磁石にミニ人間が乗っていたならば、さらに棒磁石が等速直線運動ならば、ミニ人間にとっては
自身は静止していて動いているのはコイルの方ということになる。
つまり慣性系、すなわち静止と等速直線運動が同じ物理法則で記述できるならば、磁石とコイルの
どちらが動いたという問は意味をなさないことになる。
すなわち速度は相対速度でしか知りえないというわけだ。 確かに電磁誘導が慣性系で記述できるなら、特殊相対論は確固とした基盤の上に構築された理論ということになる。
しかし残酷な指摘だが、電磁誘導を記述する数式は V= dΦ/dt である。
上の数式の意味は磁束が時間変動すると起電力が生じる、さらに時間の間隔が短い、すなわち磁石(コイル)を
急激に動かすほどより大きな起電力が生じるという式だ。
もし電磁誘導が慣性系で記述されるなら、電磁誘導は V(起電力)= v(磁石とコイルの相対速度) ということになる。
すなわち時間の関数ではない。 結局動いているのが磁石であれコイルであれ、その上に乗ってるミニ人間には慣性力が働くのだから
固定されていなければ振り落とされる。
要するに学習能力があれば、動いたのはどちらの方か分かりそうなものだ。
もっとも最初動いていない方も、相手の作用に対する反作用による衝撃、すなわち慣性力が働くことは言うまでもない。 そもそも電磁誘導を表す数式、すなわち V= -dΦ/dt において、時間が一階なのはそれが片道切符であるからだ。
つまり棒磁石をコイルに突っ込むと電流(圧)計の針が一瞬右(左)に振れ、おもむろにゼロの位置に戻る。
さらにコイルから棒磁石を引っこ抜くと、今度は反対側に針が振れ、いずれにしろゼロの位置に戻り停止する。
さてでは棒磁石をコイルに連続的に出し入れすると、それは加速と減速の世界なのだから、
今度は時間と空間共に二階の波動方程式、すなわち ∂^2u/∂t^2= c^2・∂^2u/∂x^2 で記述されることになる。
実際、オシロスコープにつなぐとサインカーブを描く。
つまり電磁誘導から必然的に波動方程式が導出される。
要するに慣性系を標榜する相対論をどういじくりまわそうとも、波動方程式は出てこないということだ。 そもそもサインカーブは電磁気力関係なしに機械的な力学からも出てくる。
すなわち直線的な往復運動、あるいは回転運動の一点の軌跡を時間軸に沿って二次平面に射影するとサインカーブを描く。
往復運動と回転運動が等価であることは車のエンジンにおいて、ピストンの往復運動がクランクを介して
回転運動に変換される様を考えれば明らかだ。
もしピストンとシリンダの関係において、どちらが動いているとしても構わないとすれば、
シリンダにクランクを接続してもいいことになるが、それではエンジンは回転しない。 慣性の法則とは力が加わらなければ静止しているものはいつまでも静止、動いているものは等速直線運動を続けるという物理法則だ。
しかし例えば自動運転のプログラミングは、静止及び等速直線運動するためにはブレーキとアクセルを小刻みに踏む、
ハンドルを左右に小刻みに回すだ(多分)。
つまり静止及び等速直線運動するためには力を加え続けなければならない。
結局静止と等速直線運動に対する概念が、慣性の法則が成立するとする(特殊)相対論と摩擦や抵抗がある
媒質の世界ではその意味合いが180度違うということだ。 現代物理学ではエーテル説を唱える者に対してはMM実験という印籠をかざすと意気消沈し、そそくさと退散することになっているが、
MM実験でエーテルが否定された歴史的事実はない。
MM実験はエーテルに不利な条件を課しただけである。
そもそも現代物理はエーテルを否定したところで疑似エーテルと呼ぶべき場を使っている。
すなわち宇宙空間の各点に物理量を与えている。
結局エーテルがあるなしは、もし宇宙空間が真実連続体ならばそれは連続体を標榜する場で記述するしかない。
さらに宇宙空間に生起する現象が理想気体、理想流体で説明できるならばエーテルの出る幕はない。
しかしもし宇宙空間に離散的な兆候が見い出され、さらにコンピュータのさらなる進展により解けなかった方程式も解けるようになると、
宇宙空間に実在気体、実在流体の性質があぶりだされるかもしれない。
すなわちエーテルは復活し、われわれは科学の世界にパラダイム変換を目撃することになる。 ある意味エーテル説の足を引っ張っているのは他ならぬ、光の媒質に対してのエーテルというネーミングかもしれない。
すなわち光の媒質とされるエーテルに波という烙印が押されているのならば、
媒質にとって波を伝える能力は媒質の能力の一部でしかないのだから、
光の媒質をエーテルと呼ぶのは明らかに不適切だ。
つまり媒質の直訳はミディアム、すなわちメディアなのだから、光の媒質はメディアでいい。
光の媒質をエーテルと呼ぶといかにも古典的なイメージだが、光の媒質をメディアと呼ぶと
それは一気に時代の最先端に躍り出る。
要するに波として振る舞う光も媒質である限りその本質はモノ、すなわちオブジェクトであるということだ。 >>687
>例えばクーロンの法則 F=kqQ/r^2 も万有引力の法則 F= GmM/r^2 も位置関数であり、時間項はない。
クーロンの法則における比例定数kは k= 1/4πε0 で表される。
ε0は真空の誘電率とされている。
ならばε0を誘電体、すなわち復元力であるコンデンサとすると時間変化するのだから
必然的に時間項が出てくる。
エーテル論者のマクスウェルの立場からすると、必然的にε0は誘電体である。
ところが現代物理の立場ではε0は単なる数値であり、その背後にメカニズムはない。
まあそもそもクーロンの法則、すなわち静電場及び静磁場は位置関数であり、時間の関数ではないのだから、
時間変化する誘電体である必要性はないとも言える。 真空中の光速を表す数式は c=1/√ε0μ0 である。ちなみに気体の音速は v=√p/ρ で表される。
両者の違いはルートの中身が単なる数値か実体があるかだ。
ε0は真空の誘電率でありμ0は真空の透磁率であるが、単なる数値であるということは真空には復元力も
慣性(慣性系ではない)、すなわち質量項がないということだ。
よく電磁波(場)は光子の集団であり調和振動子の集団であるというが、真空にバネと重りというメカニズムがなければ
光子に調和振動子としての資質がないことになる。 結局相対論が時間と空間は一体、四元ベクトルといったところで、それはマクスウェルの時代よりはるか以前にあった
波動方程式を読み解いただけであり、相対論だからというものではない。
いずれにせよ c=1/√ε0μ0 は波動方程式の一般解に過ぎないのだから、相対論が媒質の世界とは違うんですというなら、
相対論特有の波動方程式があるはずだ。
要するに c=1/√ε0μ0 は公式の場に着ていく服がない、それゆえ媒質の世界から借りてきたという、あくまでも貸衣装なのだ。 クーロンの法則 F=kqQ/r^2 も万有引力の法則 F= GmM/r^2 も同じ形式であるが、違いは
電荷には正負があり、
磁力にはNとSの二つの極があるということだ。それによりどちらも引斥力がある。
ところが万有引力の法則 F= GmM/r^2 は質量(必然的にエネルギーも)にはプラスの値しかないとする式だ。
つまり重力は一方的な凝集力であり、それに反発する力はないとするものだ。
力学の基礎方程式からは正負のエネルギー、質量が同等に出てくるにもかかわらずである。
しかし極めて高い対称性を考えるならば、すなわちエネルギー、質量にも正負の値を認めるならば、
ニュートンの重力方程式は F= ±G|m||M|/r^2 に拡張され、必然的に引斥力が出てくる。
つまり重力を量子論で記述するには、すなわちミクロとマクロの世界を統一するには、
重力場も正負があるとしなければならない。 速度を表す c=1/√ε0μ0 が波動方程式の一般解であるように、ドップラー効果の幾何学的模式図もやはり一般的である。
→
すなわち(((( ●))))
上の模式図は水鳥が水面を移動する様子としても、救急車のサイレンの音の伝わる様子としても、
移動する光源から放出された光、つまり電磁波の様子としてもいい。
つまり上の幾何学的模式図からはそれが何の波なのかの区別はつかない。
しかし光速は不変である、さらに媒質を必要としないならば、光特有の幾何学的模式図があるはずだ。
ならばぜひともそれを作図してほしいものである。
もしそれが出来ないというならば、私は相対論に帰依することは出来ない。 移動する波源から放出された波の速度に対する解釈は大まかに3種類ある。
(1)媒質を伝わる波、すなわち波面は媒質に対して一定なのだから、
そして波源は前方の波を追いかけているのだから、波源から見た前方の波の速度は遅く
v-Vであり、後方の波は波源から遠ざかるのだから速くv+Vである。
ゆえに媒質を伝わる波の速度はガリレオ変換に従う。
(2)媒質を必要としない光は前方に放出した光も後方に放出した光も
加減算されず、なんだか知らないが一定、すなわちローレンツ変換に従う。 →
遅い A波 (((( ●)))) B波 速い
(3)媒質を必要とする波もそうではないとされている光も区別しない。
すなわち波の速度は物体の速度がそうであるように、あくまでも加減算される量であるというものだ。
つまり上の模式図のように、前方に放出された波は運動物体の速度ベクトルが加算された結果
よりエネルギーの大きな波長の短い波に変わったのであり、後方に放出された波は運動物体の速度ベクトルが
減算された結果よりエネルギーの小さな波長の長い波に変わったのである(ガリレオ変換と真逆)。
つまりエネルギーの大小と速度の大小が等価ならば、波の速度が不変であるなどいうことはありえない。 要するに(1)も(2)もエネルギーの保存則に反しているということだ。
そもそも情報速度の立場からはB波は5Gの世界であり、A波は4G,3Gの世界である。
あるいはA波が5Gの世界ならば、B波は6G,7Gの世界である。
かつてネットで映画一本ダウンロードするのに何分、何十分かかっていたものが使用する波長域により数秒、
あるいはほぼ瞬間的に完了するならば、光速度不変の原理は情報理論の立場からは完全に破綻している。
要するにローレンツ変換は光速度不変の原理ではなく、光速度可変の原理に使うべきものなのだ。>>391-394 結局ローレンツ変換は一種の回転操作なのだから、ローレンツ変換は角速度でいい。
すなわちローレンツ変換=角速度
高速道路を時速100キロで走っていた。
しかしアクセルをいくら踏んでもスピードが上がらない、回転計の針はレッドゾーンまで振れているにもかかわらず、
実はこの車は特殊でギア比が変わったのだ。
つまりアクセルを踏んで確かに回転数は上がったが、連続的にシフトダウンする車だったのだ。 さて高速道路を2台の車が時速100キロで並走していた。
ただし一方は5速で、そして一方は1速で(極端だが)、ならば両者のエンジンの回転数が違うことは明らかだ。
つまり同じ時速100キロでも両者では角速度が違う。
ゆえに角速度が速い方が潜在的な能力、すなわちポテンシャルが高い、何しろトルクが違う。
実際1速から2速へギアを上げれば、一気に並走していた車を引き離すことは言うまでもない。 媒質を伝わる波は媒質に対して一定速度で伝わる。
つまり一見、波源の速度には影響されないかのようだ。
しかしそれはあまりにも短絡的、無邪気というものだ。
つまり運動物体の速度ベクトルは先ほどの車の例えのように角速度に吸収されたのだ。
すなわち運動物体の前方であれ後方であれ、波の速度は媒質に対して一定といっても角速度が違う、ゆえに波数も違う。
そしてそれこそがまさにローレンツ変換の基本形なのである。 ちなみに媒質における波動方程式の解である定数、すなわち位相速度は慣性系限定ではない。
すなわち波源が加速、減速をしようと、観測者が加速、減速しようと媒質に対して一定だ。
それに対し媒質に対して一定というアドバンテージがない特殊相対論は慣性系限定という制約がつく。
回転操作であるローレンツ変換は普通に考えて非慣性系である。
ならば慣性系の理論である特殊相対論がローレンツ変換を使うのには違和感を覚える。 →
ct(((( ●)))) ct
上の図において、もし波源が媒質に対して静止しているならば、位相速度、すなわち波面は
同心円状に広がる。
ゆえに伝わるエネルギーは四方八方同じだ。
では上の図のように移動する波源から放出された波のエネルギーは方向性に依存するのか?というと
ctにおいてはそうではない。
なぜなら波のエネルギーは振幅の二乗なのだから、そして波の数は方向によらず同じだからだ。
つまりctを球(円)の半径とすると (ct)^2=x^2+y^2+z^2 が成立するが、ctを波の振幅とすると、
ctにおいては波源が静止していようが動いていようが運んでいるエネルギーは方向によらず一定だ。 媒質を伝わる波、すなわちctにおいて波源の速度によらずエネルギーが一定であるということは、
方向によってエネルギー密度が変化したということである。
ゆえに上の図で言えば、前方と後方では単位時間あたり波の運んでいるエネルギーが異なる。
なぜなら前方と後方では単位長さあたりの波の数、すなわち波数が異なるからだ。
つまり単位時間あたり運んでいるエネルギー、すなわち時間、エネルギーという高次の量で波の速度を表すと、
媒質を伝わる波の速度は可変ということになる。
もちろんだからといって、波動方程式から導出される定数cは何ら変更されることはない。
なぜなら媒質にとってローレンツ変換=角速度とすれば、波源及び任意の観測者の速度ベクトルは
角速度に吸収されたとすればいいからだ。 結局相対論においてはローレンツ変換は光速度を不変にするために使うわけであるが、
媒質においては波の速度を可変にするために使うということである。
つまりローレンツ変換であれドップラー効果であれそれが角速度に還元できるなら、
そして角速度は物体の速度と波の速度に共通する速度なのだから、角速度は速度を牛耳る
いわば親玉みたいなものだ。
現在我々は高度な情報機器に囲まれているわけだが、その情報が伝わる速さは使う波長域に依存して
いることは言うまでもないことである。
ならば5Gが本格的に稼働すれば、プロである物理学者よりも先に賢い一般市民の方が赤い光よりも青い光の方が速い、
すなわち光速度は可変であることに気付くという、何とも珍妙な事態が発生する。 物理学者は光速度は不変とすることで光を科学の最高位に位置付けてきた。
しかしもし光自身が光速度不変の原理を知ったなら、「俺はそんな無能な存在でない」
と怒り出すことであろう。
要するに光は波長、振動数を変えることによりその速度を変えているのだから、
光速度はあくまでも可変、とするのが我々の光に対する真摯な態度なのである。 相対論の指導原理はミンコフスキー時空である。
すなわち球面の方程式及びピタゴラスの三平方の定理を使ってローレンツ不変性を満たすというものだ。
M時空は平坦な時空とされる。
要するに局所慣性系という概念を使えば地球のような球面も局所、すなわち例えばテニスコートは曲率ゼロの平面だ。
あるいは高層ビルの設計図も平面図であり、曲面図ではないというわけだ。
ゆえにそれゆえ時空が曲率ゼロの平坦な時空と言うなら、それは地球平板論者を笑えないことになる。 ところでM時空と別のアプローチで球面(円)の方程式及びピタゴラスの三平方の定理を使用したものがハミルトニアンだ。
ハミルトニアンは H=T+V すなわち全エネルギーは運動エネルギーと位置エネルギーの和というものだ。
そしてそれはバネと重りからなる素朴な機械仕掛けのオブジェクトである調和振動子を記述する。 現代物理の標準理論によれば、電磁場は調和振動子の集団であり光子の集団であるとされている。
さらに量子力学においても調和振動子を使う。
さらに場の量子論においては、場は無限個の調和振動子の集まりであるとさえ言っている。
ちなみに媒質は無数(無限個でない)の調和振動子の集団。
つまり媒質であれ場であれ調和振動子の集団に還元できるなら、それは局所は慣性系でないことになる。
なぜなら調和振動子は往復運動、あるいは回転運動だからだ。すなわち局所非慣性系。
結局M時空を指導原理とする相対論の時空は静的であり、調和振動子に還元した時空は動的ということになる。 場の量子論がローレンツ不変性を満たさないシュレディンガー方程式を、ローレンツ不変性を満たすように
量子力学が相対論を取り込んだ産物ならば、場の量子論の拠って立つ時空は静的なM時空ということになる。
しかし媒質が調和振動子の集団に還元できるなら、そもそもエーテル説はローレンツ不変性を満たしていた
ということになる。
>>293
>ところで猿の惑星という映画があった。地球から遠く離れた惑星にいると思っていた主人公が、
>自由の女神という動かし難い現実に、「愚か者め!、ここは地球だったんだ」と怒り心頭に発する
>ラストシーンはあまりにも有名であるが、
>量子力学に媒質と対極にある相対論を取り入れたら見慣れた媒質の方程式が導出されたということは、
>それはローレンツ変換は実はエーテルに対して不変であったということがバレたというオチであろう。
ちなみに見慣れた媒質の方程式とは、クライン‐ゴルドン方程式に他ならない。 そもそもテニスコートがご丁寧にローラーをかけて凸凹を消去したユークリッド的な二次平面だとしても、
テニスコートはネットで2面に分割されている。
それは一枚の紙が表と裏の2面からなるように2面で1面。
つまり私に言わせるなら複素平面。
なぜ複素数なのかというと、例えそれぞれの面に相対するプレイヤーがいても、あくまでも
ボールは一つだからだ。
ボールはネットをはさんで往復運動するのだからテニスコートは波動場であることは明らかだ。
もちろんフィールドにボールは一つなのは他のボールゲーム、すなわちサッカーであれラグビーであれ
アメフトであれ同じだ。
ゆえにどちらかがボールをキープすると一方的な方向性、すなわち時間の流れが生じる。
逆に相手側がボールを奪い返すと、時間の向きが反転することは言うまでもない。
すなわち競技場はあくまでも可逆。
時間が可逆といっても、競技場を複素平面(複素次元)とすればその数学解は複素共役であり、
遅延解、先進解、すなわちフィルムの順送り逆送りとは何の関係もない。 高層ビルであれ一般住宅であれ設計図がユークリッド的な二次平面といっても、
その二次平面は時として歪む、すなわち波打つとしなければ建築基準法に抵触する。
すなわち少なくとも地震が起きる可能性がある国においては、大地は揺れるものだという認識がなければ
生存が脅かされるということだ。
そもそも地震が加速度の世界であることは言うまでもないことである。
つまり例え小規模の地震でも、例えばコンビニの棚の商品が落下し床に散乱する。
すなわち慣性力が作用する。
ゆえに波動場を慣性系で記述するのは狂気の沙汰と言っても過言でない。
特殊相対論は任意の慣性系において物理法則は同じという概念を基本原理に据えているが、
「だから何?」と反応するしかない。なぜなら電磁波であれ何であれ波動場は慣性系ではないからだ。 チミたち、数学がわが父なる大自然のお姿を現してるなどと畏れ多い事言うでない。
調和振動子モデルで考えても良いと言うだけで電磁波が調和振動子の集まりで考えて
も良いと言うに過ぎない。そもそも一個の電子が波であり粒子だと。だまらっしゃ
い。 https://www.youtube.com/watch?v=9BeU9KaH6FE
>>71
>>78
そうか、わしの万有方程式も狙われてんのか。だがな、わしの能力の高みに昇れるか
な。わしは道なき道を歩いて我が●●論すなわち万有方程式論を完成した。
道程 高村光太郎
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため 聞いてるとip細胞で金儲けの準備が整ってるところに、さらに進んだスタップ細胞の研究やられたら
せっかく金儲けの投資が無駄になるからその前にそういう研究をやれないようにして、わが儲け研究に
優秀な頭脳を集めようとの画策だ。と聞こえるよ。で十分に儲かった後にでは次にスタップに行くか。
てなもんか。患者はどうでもイイと言う呆れた世界だ。 そう言う事に騙される通信簿3(普通=大衆)とわしが同じだと。わしが理科遊んでいても100点満点取っても
なんと二年間も通信簿3しかつけなかったイガラシ。こういう自分が気に入らないと教師でありながら
その職務を忘れての権力亡者が多すぎたんだよ。それで今の日本になったのだ。 ここにはおまけ話がある。わしは球技は嫌いで野球で体操の通信簿2ぐらいだと思ってたら
なんと4だからね。ここに来たってどうもおかしいとは思ったが当時は小学生。センセのやることは
みんな正しい、自分はいたずらっ子だからな。と思っていた。だが悪戯と理科100点満点とどう関係
あるんだよ。バカ。 ワタシには相対性理論は分かりませんね。と言って自己紹介した素粒子物理学実験のセンセ。 特殊相対論が慣性系限定の理論であるということは、AT車限定というレベル
でなく停止車限定みたいなものだ。
要するに無免許も同然。
よく相対論の通俗書にホームに立っている人にとって動いているのは電車である。
しかし電車の乗客の立場では動いているのはホームである、と記述している。
しかしいずれにせよ時間変化がないのだから、その電車にはアクセルもブレーキも動力源もない。
さらに空気抵抗も摩擦もない、そんな電車はどこにあるんだ?という話なのだ。
そもそもこの広い宇宙空間に厳密な意味での慣性系は存在しない。
要するに特殊相対論はあくまでも架空の世界のお話なのだ。 よく特殊相対論の計算通りという記述を見かける。
しかしその計算式にローレンツ変換が含まれているならば、ローレンツ変換を使うのは
エーテル説も同じなのだから、本当は物理学者はエーテル説の正しさを営々と築き上げて
いるだけかもしれないのだ。
ただ現在アカデミーの世界ではエーテル説は壊滅している。
それゆえローレンツ変換が絡む現象は全て相対論の思し召しということになっている。
要するに天敵がいなければ果実は独り占め、という構図だ。 物理学者が静止と等速直線運動は区別がつかない、すなわち慣性系にこだわる態度は分からないでもない。
なぜなら我々はコマのように回転する地球の上に乗っているわけだが、その速度を実感することが出来ないからだ。
いやむしろ我々は空間に絶対的に静止しているという感覚の方が自然だ。
そしてそれが長期に渡って天動説が支配していた理由であることは言うまでもない。
しかしこれも角速度という概念で説明できる。 さて一本の長い棒をA〜Zが両手で掴んでもっている。
そしてAを原点にして棒を回転させる。
この場合AからZ方向を見ても、逆にZからA方向を見ても、それぞれの者は静止して見える。
なぜなら全員同じ角速度を共有しているからだ。
もちろん角速度が同じゆえにそれぞれの者の周速度は異なる。
つまり内側より外側の者の方がより速い速度で走っている。
ゆえに例えばBがその周速度を保った状態で外側に移動すると棒に置いて行かれることになり、
逆に例えばZがその周速度を保った状態で内側に移動すると棒の前方に進むことになる。
そしてそれがコリオリの力に他ならない。 以上を踏まえると我々が地表に対して静止している全てのモノが静止しているように見えるのは
角速度を共有しているからとなる、緯度によって周速度が異なるにもかかわらずである。 相対論は局所慣性系という概念を使う。
例えば自由落下するエレベータの中の人間にとっては重力は消失する。
あるいは本来地球は回転座標系であり、加速度系であるが、局所的には等速直線として扱える。
ならば例えばスカイツリー近傍を局所慣性系、富士山近傍を局所慣性系とすると、
富士山の位置とスカイツリーの位置は緯度が違うのだから周速度が異なり、
別の慣性系にある。
ゆえにスカイツリーから富士山を見ても、富士山からスカイツリーを見ても
速度差があることになる。
しかし実際にはどちら側からどちらを見ても地表に静止している。
ゆえに相対論が正しければ地球、すなわち地表は限りなく平坦、
すなわち地球平面説が最終的に勝利を納めることになる。 日本列島を次々と襲う台風は各地に甚大な被害を及ぼし、さらに被災者はその後遺症に疲弊しているわけだが、
果たして現代科学に被災者の心情を汲んだ現状を記述する理論というものがあるのかな?
もちろん相対論、量子論、及びそれらを統合したとする場の量子論では無理だ。
なぜならそもそも台風は水や大気などの媒質の世界の話であり、
被災者、すなわち生命は媒質に育まれているからだ。
しかし相対論も量子論も媒質を否定することで成立している理論体系である。
ゆえに相対論も量子論も我々を取り巻く環境、すなわち自然、そしてこの地球に満ちあふれている
生命を語る資格も能力もない、ただ指を加えて見ているだけという実に寂しい限りだ。 よくマスコミが被災者達に、「今必要なものは?」と質問するが、もちろんそれは水であり電気でありその他もろもろ
いわゆるライフラインだ。
つまり地震であれ台風であれ被災するということは、各地域に張り巡らされていたネットワークがズタズタに切断されるということである。
そしてその様子を記述する物理法則が媒質の世界に成立する連続の式なのだ。
ただし連続の式といっても連続か離散かの連続ではなく、途切れることなくつながっているというものだ。 連続の式は原因もなく湧き出したり吸い込んだりしない、すなわち無から有を生じることはない、
逆に有が無に帰すことはない、すなわち質量保存の式でもある。
要するに水を蓄えているダムと各家庭につながっている水道管が破損したならば、いくら蛇口をひねっても水は出ない、当たり前の話だ。
しかしにもかかわらず水が出たならば、それは蛇口付近から水が湧き出したことになる。
すなわち無から有の世界だ。
あるいは排水口に流れた水は排水口付近で消滅したのではなく、排水管を通じて最終的に海へと流れて行く。
ゆえに排水管が破損、あるいは容量をオーバーすると地表に汚水が溢れ出すことになる。
そして今回のそれはまさに媒質の世界に成立する連続の式の正しさの証明なのである。 発電所から各家庭に電気を送るためには電線が必要であることは言うまでもないことである。
あるいは物流、すなわちモノを流すのが道路である。
ゆえに電線及び回路が途切れると停電し、道路が寸断すると生活物資が届かなくなる。
要するに無からは有は生じないということだ。
近年モノの存在を軽視し、あらゆるものを情報に還元する動きがあるが、モノが無いのに情報のへったくれもない、
実際ネットで買い物して、商品コードを渡されてサインするお馬鹿はいないであろう。 そもそも媒質に連続の式が成り立つのは、結果的に媒質は原子・分子という離散的な粒々の集団だからだ。
例えば電車に100人の客が乗ったならば、降りる客も100人だ。
もし99人、あるいは101人であったなら大事件であり、それだけでミステリー小説が書ける。
しかしそれが連続無限個を標榜する場ではそもそもそのネーミングと裏腹に連続の式は成立しない。
つまり連続体では100人乗ってもまだ大丈夫というレベルでない。
例え一万人でも一億でもまだまだ余裕だ。
さらに何人乗ろうが降りようが、
要するに無限に限りなく無限を足しても引いても無限であり大勢に影響はない。 結局場とはいつも媒質の後追いしている周回遅れのランナーみたいなものだ。
要するに場は媒質の上位にあるという考えは単なる幻想に過ぎないということだ。
そもそも連続量=古典的、離散量=量子的とするなら連続体である場は立派な古典論である。
「なに古典論でない振りしてるんだよ!」という話だ。
そもそも生命を育む媒質が古典論で記述できるわけがない。
つまり現代科学においては唯一古典論でないのが媒質の世界なのだ。 結局場は媒質というモデルがないと成立しない、要するに媒質という補助輪なしでは自走できないということだ。
例えば空間の各点に定義された物理量という考えもそうであるし、調和振動子の集団という概念もそうだ。
ただ連続か離散か、実体があるなしの違いだけだ。
あるいは量子電磁力学におけるくりこみ理論も、私に言わせれば媒質における単なる誘電体の世界の話だ。>>341-342
真空偏極というといかにもだが、それが媒質の世界ならそこに不可思議はない。 さらに媒質からパクった最たるものがいわゆるクライン-ゴルドン方程式である。
KG方程式と電信方程式は等価であり同じ形式だ。>>474
同じ形式であるということは、別の形式でないということだ。
ちなみに相対論的量子力学、ディラック方程式及び場の量子論ではKG方程式の正負の解の一方、
すなわち負の解のベクトルは絶対値がより大きい方向を向いているとしている。
ならばKG方程式と電信方程式が同じ形式ならば、例えばギターの弦を上から下に弾くと空気との摩擦で減衰するが、
下から上に弾くと空気との摩擦が大きいほど増幅、すなわち音が大きくなる。
あるいは抵抗成分がある電線を流れる正の周波数は減衰項であるが負の周波数(負の周波数を知らなければモグリ)は
増幅項となる。 ところがそのような実験事実はないのだから、同じ形式という主張はうそということになる。
しかしKG方程式と電信方程式はどっから見ても同じ形式なのだから、どちらかの解釈が間違っていることになる。
しかし科学の理論は実験によりその正当性は保証されるとすれば、電信方程式は実験により担保されている。
しかし相対論的量子力学に始まる場におけるKG方程式に対する解釈は実験的裏付けがない。 つまり場におけるKG方程式に対する解釈の実験とは、実際に負の質量をもつ試料を実験台に載せることだ。
しかし物理学では負の質量をもつものを否定しているのだからそれはない。
結局場におけるKG方程式と媒質における電信方程式は同じ形式なのだから、さらに電信方程式には
正負の解のベクトルはどちらも減衰項、すなわち絶対値を減らす方向という明確な事実があるのだから、
場におけるKG方程式の正負の解に対する解釈は間違っていることになる。
しかしそれでもなおかつ負の質量をもつものが存在すると、そのベクトルはより絶対値の大きな方向を向いている
と主張するならば、場の量子論はKG方程式に変わるそのような方程式を見いだすべきである。
要するに相対論的量子力学に始まる場には自らを正当化する方程式がないという、実に信じ難い状況なのだ。 量子力学とは我々が日常何気なく使っている確率や重ね合わせ、あるいは物事には最小単位がある
という概念を有り得ないもの、あってはならないものとする理論体系である。
しかし確率一つとっても最近世界を混乱の渦に陥れ、連日連夜トップニュースになっている新型コロナウイルスは
感染率や致死率によって語られる。
あるいは気象予報士は確率という商売道具を用いなければ、とても怖くて明日以降の天気を予報することはできない。
さらにギャンブルや各種保険のメカニズム等々と我々の世界は確率だらけだ。
東京オリンピックが中止になるかもしれない等と誰が予想しただろう。
ではなぜ物理学者は確率が支配するミクロの世界を、不思議だと思え!
と言うのだろうか? そもそも一言で確率と言っても確率には大きく分けて2種類ある。
すなわち因果律が定義できるものとできないものだ。
要するに因果の糸が有るか無いかである。
つまり物理学の用語で言うなら隠れた変数が有るか無いかだ。
例えばウイルスに致死率が定義できるのは個体差があるからである。
つまり仮にウイルスが同一と仮定しても、感染する人間の免疫力の差により軽症であったり重症、すなわち死に至ることもある。
もし個体差がなければ、誰かがウイルスに感染して死ぬということは、感染した者全てが死ぬということだ。
つまりウイルスに感染した者の内の何人が死ぬという割合には明らかに変数が存在する。
ちなみに電子であれ光子であれ、ミクロ粒子は無個性であり全て同一とされている。 ところで量子力学が記述するミクロ世界にはいわゆるシュレディンガーの猫が生息しているとされる。
シュレディンガーの猫、通称シュレ猫の仮想実験装置の詳細は省くが、前提として箱の中の猫は
毒ガスが放出されると確実に死ぬということになっている。
つまり致死率100%。
にもかかわらず蓋を開けるまでば、すなわち観測しなければ生死は決定されないという意味不明なものである。
もし新型のウイルスの致死率が100%ならば、クルーズ船から飛び降りる乗客が続出するのは明らかだ。
いや世界中がパニック状態になる。
要するにシュレ猫とはウイルスに感染すると「お前はもう死んでいる」ということになり、
しかし人間には免疫系が存在するのだから絶対に死ぬことはない。
すなわち生きながらにして死んでいるというゾンビの世界であり、リアルバイオハザードの世界である。
そして観測、すなわち検査して陽性と判定されると無事成仏でき、陰性と判定されると晴れて普通の人間として扱われる
というのが量子力学における確率の本質であり、重ね合わせの本質であり、観測の本質である。
ほとんどオカルトの世界であるが、物理学者はミクロの世界に実在はないとすることでかろうじて理性を保っている。 新型コロナウイルスの影響で無観客試合、さらには各種イベントの中止が相次いでいる。
観客席に観客がいない中での試合という無機的で殺風景な世界、
シーンと静まり返った客席に向かってどんなに叫んでも何の反応も応答もない、ただ静寂があるのみ。
ここが物理板ならば、その一種異様なシュールな光景はかつて通った道、すなわちデジャヴ感がないだろうか?
そう、この宇宙空間からエーテル(私に言わせるならメディア)を排したということはそういうことなのだ。
>>584
>日本語の場も広場、会場、競技場、市場、工場、出会いの場というように人や物が集まるにぎやかな
>空間であり、有機的なものである。
>しかし特殊相対論により宇宙空間は更地にされ、場という考えは一旦後退する。
>その後場という考えは復活するが、もはや麦畑としてのフィールドでも日本語としての場の意味でも
>ない、そこに実体、実在を求めてはならない、単なる数学的な点であり、無機的なものである。 競技場の観客席に観客がいなければウエーブは発生しない。
コンサート会場に客がいなければ熱狂的なうねりもペンライトがゆれることもない。
もし観衆がいないのにかかわらず歓声、さらには拍手の音が鳴り響いたならそれはホラーの世界だ。
そして相対論とは慣性系や光速度不変といったありもしない架空の存在を絶対化し、
波の伝播に媒体は必要としないという理論である。
要するに慣性系及び光速度不変を遵守するためにはホラーの世界もまた楽し、というわけだ。 言うまでもなく我々生命は媒質によって育まれている。
そしてその媒質に生じる波動によりコミュニケーションを取っているわけであるが、
現代科学においては光、すなわち電磁波という波には媒体は必要ないとしている。
ではなぜ科学者は光の媒質とされたエーテルを否定し続けているのだろうか? それに対してこのスレを要約すると、大まかに三つに集約することができる。
(1)前世紀初頭に台頭した粒と波の二重性の概念からの帰結
すなわち粒ならばその粒自身が進んでいくとすると媒体は不要であるという考え
(ある意味近接作用の放棄)。
そしてそれはニュートン流の光の粒説の復活とされ、相対的にエーテル派の波説の株価は暴落した。
要するに科学者はエーテルの呪縛から解放されたということだ。
(2)物理学者の微分に対する過度の信頼と信仰
すなわち自然は切り刻めば切り刻むほど真実に近づくというドグマ、そしてそのツールとしての微分、
そしてその極限である数学的な点に還元したのがいわゆる場、その意味ではエーテルを葬り去ったラスボスが微分。 (3)光の媒質に対してのエーテルというネーミング
そもそもエーテルは光が波ならば水の波や音波がそうであるように媒質が必要である、
すなわち光=波説からの帰結だ。
しかし今日的知見からは媒質が何であれ、媒質は原子・分子という粒々の集団なのだから、
エーテルは粒だからという理由で要請さてもよかったのだ。
いずれにせよエーテルに波という烙印が押されているのならば、それは媒質そのものではないのだから、
光の媒質としてのエーテルには何の取り柄もないことになる。
しかし媒質の直訳はミディアム、すなわちメディアなのだから光の媒質はメディアでよい。
要するに光の媒質はメディアというより相応しいネーミングにより、光の伝播には媒質が不可欠である、
すなわちよりパワーアップすることにより、再び相対論と対峙することになる。 新型コロナウイルスの影響で一般人、いわゆる文系の人たちも界面活性剤のメカニズムを知るところになったようだ。
界面活性剤とは本来交じり合わないはずの排他的2値である水と油が一つの単体に部分系として収まったものである。
すなわち界面活性剤は水であり油であり、そのどちらでもあってそのどちらでもないという、
まるでパラドックスを絵に描いたようなものだ。
その状況は水の中に生息する生命にとっての時空である水も同様である。
すなわち水は電離して水素イオンと水酸化物イオンに分離するが、水溶液において水素イオン濃度が高いのが
酸性であり、水酸化物イオン濃度が高いのがアルカリ性だ。
つまり水素と酸素の結合体である水は本来どちらとも言えない中性であるが、
酸性とアルカリ性という2面性を備えているということである。 一つの単体が2面性、すなわち排他的2値をもつのは我々がよって立つ足元である地球を考えても同じだ。
すなわち地球には北半球と南半球が定義できる。
そして北半球の住人は自転の方向を反時計回りと主張し、南半球の住人は時計回りと主張する。
そしてそれにより北半球における(熱帯)低気圧は左回転、高気圧は右回転、逆に南半球における
(熱帯)低気圧は右回転、高気圧は左回転、つまり符号の異なる左回転、右回転に対し
さらに符号の異なる結局4つの解が存在し、そして実際に対応物が存在する。 さらに季節においても北半球が夏(冬)ならば南半球では冬(夏)であり、時間軸が互いに反転している。
さらに太陽に向いている側は昼であり、その反対側は夜である。
すなわち互いに相反する排他的2値が地球という一つの単体に部分系として収まっている。
ちなみに互いに相反する排他的2値が一つに収まっていることに納得がいかない、我慢がならない、
そしてその対立をことさら煽る理論体系がいわゆる量子力学である。
すなわち粒と波の二重性、重ね合わせ、シュレディンガーの猫、その他もろもろ、
ゆえに量子力学が記述するミクロの世界は我々が生息するマクロの世界とは翻訳不能な別世界である、
というのが現代科学、物理学のパラダイムである。 大きさも構造もないとされる素粒子である電子はスピンという属性をもっている。
しかしスピンとは地球の自転やコマの回転のように、大きさをもったモノに生じる現象である。
ところが数学的な点に回転などという概念はない。
ならば電子のスピンとは何か?ということになるが、それに対する答えはないのだ。
結局それはミクロ系の粒子はマクロな古典的描像では語れない、すなわち量子だ!という合言葉に集約されるが、
ここで分からないのはなぜ実在の回転でないものに対しスピンという名称を与えているかだ。
つまり電子のスピンが古典的描像で語れない不可思議なものなら、それ相応の深遠なる名称があってしかるべきである。
つまり私に言わせるならば、電子のスピンという名称はプロの自転車競技の選手が補助輪を付けて走っているようなものだ。
みっともないからやめろよという話だ。
しかしここで注意すべきは、物理学者が電子のスピンにより深遠な名称を与えられないのは
それは物理学者に想像力が欠如しているわけではなく、そもそも数学的な点には数学的な点以外の一切の情報がないということだ。
要するにないものねだり、ない袖は振れぬということである。 結局古典場であれ量子場であれ、数学的な点に還元した場はそれ自身で閉じていない
独立性のない理論体系ということになる。
要するに媒質というモデルを参照しなければ成立しない、影も形もないということである。
それは数式においても同じだ。
つまり波動方程式であれ拡散方程式であれ連続の式であれ流体力学であれ熱力学であれ何であれ、
その他もろもろ、およそ全てのものが媒質の世界を記述するために導出されたものである。
ただ当時は原子・分子という概念なかった、ゆえに水や空気のような媒質、
あるいは楽器の弦のように音、すなわち波を生じるものは無際限に分割できる、すなわち数学的な点
に還元されると信じられた、そしてそれが物理学者が信じてやまない場の正体だ。 結局のところ場特有の基礎方程式は存在しない。
もちろんそこから派生する独自の数式、方程式は存在するだろうが媒質なくして場の方程式は存在しえない。
要するに使っている方程式は基本的に同じであるが、解釈が違うということである。
例えば同じ水と空気を用意したとして、それを実在気体、実在流体とするか、
それとも理想気体、完全流体とするかでは方程式の形は変わるが、すなわち実在を考慮するか無視するかによって
まったく別物になるが、解釈が違うだけであって対象は同じだ。
ちなみにこの連日の猛暑の中、エアコンは必須のモノとなっているが、エアコンが実在とそれを無視したどちらの
原理によって冷気を放っているかは言うまでもないことである。 バイオリンは弦を弓で擦って、あるいは指で弾いて音を出す。
もし摩擦がなければ弓はむなしく弦を滑るだけだ。
さらに弦にまとわりついている空気との摩擦で音は四方八方へと伝わっていく。
もし摩擦がなければ例え弦が振動しようとも我々はバイオリンの音色を聞くことはできない。
そして波動方程式にその摩擦係数を付与したのがいわゆるクライン・ゴルドン方程式なのである。
つまりKG方程式は特殊相対論から導き出されたものではない。 >>504
これまた新型コロナウイルスの影響で、陰圧室というなまめかしい言葉を見聞きするようになった。
陰圧室があるということは陽圧室もあるということだ。
陽圧と陰圧、すなわち正圧と負圧は時間、空間共に2階の波動方程式の正負の解であり、
媒質の世界ではその正負の解に対応物が存在するということである。
つまり媒質の世界ではその正負の解をダイレクトに使わなければ媒質の世界を記述できない。 ちなみに相対論的量子力学に始まる場の量子論においては、波動方程式の正負の一方の解を
ありえないもの、あってはならないものとして否定している。
すなわち陰圧室を現行の場に翻訳すると負エネルギー室、あるいは負質量室となる。
つまり使っている方程式は同じであるにもかかわらず、一方において自明なものが、
一方においてはトンデモになるということだ。
ではなぜそのような真逆の帰結が導かれるのかというと、それは方程式に対する解釈が違うからである。 >>590
>ミクロの世界は我々の常識が通用しない不可思議な世界である、いやそうであってほしいという
>願望は分からないではない。
>なぜならそういう訳のわからない世界に身を置くことは、一種ステータス感があるからだ。
>それゆえマクロとミクロを1対1に対応させるというもくろみはその種の人々にとっては面白いはずがない。
>しかし私に言わせるならば、ミクロ系とマクロ系の不一致ははっきりしている。
>つまりそれは我々の目にするもの全てが大きさと構造、すなわちメカニズムをもっているのに対し、
>ミクロ系の素粒子、そして時空さえも大きさと構造というメカニズムがないからだ。
私はミクロ系とマクロ系に一切の差異を認めない立場だ。
そもそもミクロの世界に半死半生の猫が生息してるならば、マクロの世界にも半死半生の猫が生息しているのだから
ミクロ系とマクロ系は1対1に対応していることになる。 もっとも私の言う半死半生とは現実世界に実在する日常用語としての半死半生、すなわち瀕死の状態、
すなわち生きるか死ぬかの境界にある様であり、どっちに転んでもおかしくない状態である。
ところが物理学者の言う半死半生とは医学的に生きている状態と死んでいる状態が明白に区別できる
対象が併存しているというものである。
しかし普通それを半死半生とは言わない。
強いて言うなら全死全生と言うべきである。
要するに半死半生の猫は考えられないという概念は北半球、南半球は考えられないと言うのとある意味同じだ。
つまりこの場合物理学者の言う半死半生とは実際には全死全生なのだから、北全球、南全球は考えられないと言うことになる。
確かに北全球、南全球の併存は考えられない。 結局もしミクロの世界に半死半生の猫、あるいは北半球、南半球が定義できるならばマクロの世界にもその存在は
自明のことなのだから、ミクロとマクロは1対1の対応がついていることになる。
逆にもしミクロの世界に全死全生の猫、あるいは北全球、南全球の併存が定義できるならばマクロの世界にその非存在性は
自明のことなのだからミクロとマクロは翻訳不能、すなわち両者の間にコミュニケーションは成立しないことになる。 結局問題は量子力学において、排他的なものの重ね合わせを記述する状態ベクトル |ψ> の意味である。
つまり量子力学における重ね合わせの不思議さを象徴するいわゆるシュレ猫は全死全生なのだから、
状態ベクトルは |ψ>=|全体系↑>+|全体系↓> となる。
ちなみにマクロ系における重ね合わせは、量子力学による表記法に従うと |ψ>=|部分系↑>+|部分系↓> となる。
実際、例えば北半球、南半球は文字通り半球、すなわち全球の部分であることは言うまでもない。 量子力学にはいわゆる観測問題が存在する。
すなわち観測によるその重なり合いの解消のメカニズムだ。
さて我々が日常目にするコインは表面と裏面が背中合わせに張り付いている。
その状況はまさに半死半生の猫、あるいは北半球、南半球と同様に半分表であり半分裏である。
そしてコイントスを行うと50%の確率でどちらかの面の収束する。
この場合いわゆる波動関数の収縮の解釈はそれぞれの面(解)は表と裏に分離したとすればよい。
すなわち上を向いた面を実、下を向いた面を虚とすればよいのだ。
なぜ上が実で下が虚なのかいうと、それは何かを決める場合、上を向いたデザインを指定した者に
決定権があると我々は約束しているからだ。
結局我々が普段目にするコインは見慣れているという意味では古典的であるが、実際には古典的でない。
つまり私に言わせるなら一枚のコインは2面で一つ、すなわち複素平面であったということだ。
要するに一枚のコインが排他的な2面性をもっていたとしても、そしてゆえに2つの事象が出現する可能性が
あったとしても、あくまでも一枚のコインであることに変わりはないということだ。 さて我々が普段見慣れているコインを古典コインとすると、では量子コインとは何か?ということになるが、
それはシュレ猫は全死全生なのだから全表全裏の奇妙なコインということになる。
すなわち空中に漂っているコインは全表と全裏の2つのコインが併存し、そして手に握った瞬間例えば
全表のコインを見ることになる。すなわち2つの解が1つに収縮する、すなわち2→1
これがいわゆるコペンハーゲン解釈である。
この場合2つのコインが実在していたとするともう一方のコインを消し去る恣意的なメカニズムがいる。
ゆえにコペンハーゲン解釈は非実在論な世界観である。 コペンハーゲン解釈に対し、全表のコインを観測したなら全裏のコインを観測するもう一つの平行世界が存在する。
すなわち2→1∔1
これがいわゆる多世界解釈である。
この場合波動関数の解毎に世界は存在するのだから必ずしも非実在論な世界観ではない。
いずれにせよどちらの解釈も、ミクロの世界には全死全生の猫が生息しているという前提なのだから、
その奇妙さはどっちにしても負けず劣らずだ。
ちなみに我々が見慣れている古典コインは、コイントスの前後においてもあくまでも一枚のコインだ。
すなわち1→1
つまり一枚のコインは半分表であり半分裏であるのだから波動関数の解は表と裏、すなわち実と虚。
すなわち上を向いた面が実であり下を向いた面が虚。
なぜ上を向いた面が実でその反対側は虚なのかというと、それは上を向いたデザインを予測した者に
決定権があり、その思惑により世界は動くからだ。
結局虚数であれ複素数であれ、実在を記述するための数学であると言える。
それ以外の何のためにあると思ってんだ? コイントスをサイコロ投げに置き換えてもその状況は同じだ。
すなわち実在するコインが表と裏、すなわち二面性という構造をもっているように
サイコロも六面体という構造をもっている。
そしてそれぞれの面に1から6の数字を割り振っている。
ゆえにそれぞれの面及び数字は全体系である一個のサイコロの部分系である。
そしてそれぞれの面を波動関数の解とすると、波動関数の収縮とはサイコロを振ってどの面が上を向くか
という過程、結果に過ぎないことになる。
転がるサイコロのそれぞれの数字は実と虚の間を絶えず揺らいでいる。
そしてサイコロが動きを止めた瞬間、波動関数は収縮し、実と虚に分離する。
すなわち上を向いた面が実であり、そうでない面は虚であるということだ。
要するに上を向いた面の数字を言い当てた者に物事の決定権があるのであり、もし金を賭けていたなら
報酬、すなわち富を得ることになり、数字を外した者は財産を失う、
もし外した者が、自分が予測した数字は真下に隠れている、側面に見えていると主張しても無駄だ、
ただの悪あがきに過ぎない。 我々が普段見慣れているサイコロを古典サイコロとすると、量子力学における状態ベクトルは全体系同士の
重ね合わせなのだから量子サイコロは全1、全2、全3、全4、全5、全6の目をもったものが一つに
収まっているという奇妙なサイコロである。
そしてその摩訶不思議なサイコロを振ると例えば1の目、すなわちどっから見ても全1のサイコロに収束する。
これが量子サイコロにおける波動関数の収縮である。
つまり量子サイコロを振る前には6個の全体系が重なり合っていたはずなのに一つに収束した。
すなわち6→1
これがコペンハーゲン解釈である。
当然、他の5個はどこに行った?という疑問が湧くが、それには答えない、ただ確率のなせる業としか言いようがない。
コペンハーゲン解釈に対し、全1のサイコロを観測したなら全2のサイコロを観測する別の平行世界が存在する、
さらに全3を観測する別の平行世界、さらに・・・
すなわち6→1+1+1+1+1+1
これが多世界解釈である。 コペンハーゲン解釈にしろ多世界解釈にしろ奇妙なコインやサイコロを要求するが、それはあくまでも
ミクロの世界にはこの世とあの世の2つの世界を往き来する全死全生の猫、すなわちシュレディンガーの猫
が生息しているという前提があるからである。
もちろんその前提が崩れたならば、ミクロの世界を記述する量子力学は書き換えられることになる。 量子コンピュータは虚数、すなわち複素数を使っているらしい。
しかしそれゆえ、「どうだ凄いだろう?驚嘆せよ!」とドヤ顔されてもそれだけではひれ伏す気にはなれない。
なぜなら複素数は電気工学の分野では普通に使う数学であり、音響の世界も複素フーリエ変換、すなわち複素数を使うからだ。
いやそもそもそこら辺に転がっているバネと重りからなる振動する系も本来複素数を使わねばならない。
要するに波動とは位置エネルギーと運動エネルギーをもつ二つの実体からなるのであり、
さらにそれぞれのエネルギー曲線は90度の位相差でサインコサインカーブを描いているのだから、
波動場に複素数を使わずに他に何を使うんだ?という話なのだ。 現代科学のシナリオはマクロ系、すなわち相対論やマクスウェル方程式、あるいはニュートン力学のようにいわゆる
古典系の力学は実数で記述される。
しかしミクロ系、すなわち量子力学を記述するシュレーディンガー方程式はいきなり虚数iで始まる。
ゆえにミクロ粒子である量子は複素数で表される、とされている。
しかしそのようなシナリオは何の根拠もない、ざるで水を汲むようなカテゴリー分けなのだ。
要するに複素数を使うことにミクロ系もマクロ系も関係ない。
ミクロ系に虚数単位iを使う意味は i^2 =−1
すなわち相殺項、要するに1と−1の値をもつものから無である0、すなわち対消滅、
逆に一見無である0から1と−1の値をものの導出、すなわち対生成、
要するに対生成、対消滅を記述するには−1という数値が不可欠である、ところが物理学では
エネルギー、質量レベルでは負の値を否定している。
ゆえに正の値を相殺すべき虚数単位iが必須というわけだ。
ところが物理学者にその認識はない、ただ単に得体の知れないミクロの世界を記述するには
実在しない数とイメージ化された虚数を使うのはお似合いだ、という認識なのだ。 さらに量子コンピュータの原理を説明するのにブロッホ球という概念を使う。
しかし球体とは半径をもつマクロな描像であり、ミクロのそれではない。
もっともブロッホ球はあくまでも視覚的概念図なのだからそれはいいとして、分からないのは
北半球、南半球を定義していることだ。
つまり複素数であれブロッホ球であれ、ちっとも量子っぽくないのだ。
しかし量子コンピュータのマスコットが全死全生のシュレ猫ならば、ブロッホ球には北全球、南全球を
定義しなければおかしい。
つまり量子コンピュータの原理が1と0の重ね合わせならば、さらにそのそれぞれが全体系同士の
重ね合わせならば北半球、南半球、すなわち全球に対する半球同士の重ね合わせは量子とは言えない。
もっとも実在する地球やコマとブロッホ球は似て非なるもの、すなわち別物であろうが、それにしたってミクロの世界は
マクロの世界を援用しなければ影も形もない、すなわちミクロの世界を記述する場はそれ自身では閉じていない、
独立性のない理論体系であるという私の主張は生きていることになる。 私は何も従来型のコンピュータよりも桁違いの計算能力をもったコンピュータの存在を
否定しているわけではない。
もしそのようなコンピュータが実現したとしてもそれは単に新しいアルゴリズムを開発しただけではないのか?
という疑念である。
要するに物理学者の言う量子というものが、本当に物理学者の言う量子なのかという疑念である。 量子コンピュータの原理が部分系を定義するブロッホ球で説明されるなら、既存であれ将来であれ
量子コンピュータとされているものは偽量子を使った、すなわち偽量子コンピュータである。
つまり、量子コンピュータが真の量子コンピュータであるためには全体系同士の重ね合わせでなければならない。
なぜならそれが物理学者の言うところの量子であり、そしてそれがミクロの世界は我々の常識が通用しない
不可思議な世界であるとされるゆえんであり、量子という言葉が異彩を放っている理由であるからだ。 しかし排他的なモノの重ね合わせが部分系でいいのならば、例えば界面活性剤は排他的な親水基と疎水基の
重ね合わせなのだから量子ということになる。
あるいは水は水素と酸素、すなわち水素イオン(+)と水酸化物イオン(−)、すなわち排他的な酸性とアルカリ性の
重ね合わせなのだから量子ということになる。
もちろん水や界面活性剤を普通量子とは言わない。
なぜならそれらは半分何々で半分何々でないからだ。
しかし量子であるためには全何々で全何々でない、でなければならない。
もっとも私に言わせるなら水は量子論以上に量子的と思えるのだが、何しろ水は生命を育んでいる、
この事実は何物にも代えがたい。 ここで断っておくが、私の主張は北半球、南半球などという明らかにマクロな地球をイメージさせる
ブロッホ球を基本原理とする量子コンピュータは偽量子を使った偽量子コンピュータである、
逆にそれが真の量子コンピュータであるとするなら、従来物理学者が思い描いていた量子こそが
実は偽量子だったということである。 そもそも重ね合わせにより情報量が桁違いになるのは明らかだ。
例えば我々は両方の目で立体視してるわけだが、片方ずつの目だけの平面的な映像で世界を認識しているわけではない。
あるいは音響の世界においても、左右の耳にイヤホンを差し込めば音が臨場感をもって聞こえる、
この場合もモノラルよりもステレオの方が情報量が圧倒的であることは言うまでもないことである。
さらに理論物理学者が大好きなホログラフィ及びホログラム、さらにフーリエ変換は究極的には音であれ光であれ
何であれ、波には半波長が定義できるからだ。
つまり一枚のコインが半分表で半分裏であるように、正弦波、すなわち1波長には半分正の位相と半分負の位相が定義できる。
つまり干渉は正負の位相の重ね合わせ、すなわち同位相なら正負を問わず加算され、逆位相なら減算されるが、
重ね合わさるのはあくまでも1波長の部分系である。
つまり重ね合わせである干渉に全死全生のシュレ猫の出る幕はないということだ。 さらに部分系が定義できるのはミクロとマクロを繋ぐインターフェースであるハーフミラー(ビームスプリッタ)
、あるいは偏光板も同じだ。
つまりハーフミラーとは文字通りやって来た光の半分を通し、半分を反射(遮蔽)するものである。
つまりもし量子ミラーというものがあるとするなら、それは全くメッキしていない全透過するガラスと
あたかも鏡のように全反射するガラスの重ね合わせということになる。
しかしそんなシュレ猫のようなミラーは存在しない。
結局ミクロとマクロを繋ぐインターフェースであるハーフミラー(ビームスプリッタ)や偏光板はモノの塊り、
すなわちマクロな描像に従っているのだから、それにより数学的な点の集まりとされるミクロの世界の
不思議な世界観が証明されることはないということだ。
>>161
ちなみにペンローズは、量子力学を信じるならば |ψ> をマジに受け入れることはできない、と言っている。
早い話、量子力学が正しいとするとそれはオカルトと区別がつかないということである。 実際量子もつれや量子テレポーテーション、あるいはベルの不等式の破れは時間ゼロ、すなわち遠隔作用の世界だ。
ただしなぜか相対論に忖度して情報は伝わっていないとされている。
しかしそもそも相対論に抵触しない超光速現象などいくらでもある。
普通それらの現象は情報が伝わっているわけではないとして無視され、誰も相手にしない。
ならば量子もつれや量子テレポーテーション、あるいはベルの不等式の破れに情報の伝達がないのなら、
それらを研究する意味はないということだ。
逆にそれらの現象が物理性をもつならば、真実情報が遠隔作用、すなわち時間ゼロで伝わった、
もしくは近接作用、すなわち物事の背後には隠れた変数があるという考えのどちらかだ。 相対論と量子論は20世紀が産んだ2大理論と言われている、しかし私に言わせるなら相対論と量子論は
20世紀が産んだ2大ホラ話なのだ。
そもそも相対論も量子論も光の媒質、すなわちメディア(記憶媒体)を葬り去った祝杯の下に誕生したものである。
要するにその代償あまりにも大き過ぎたということだ。
現在相対論と量子論が正しいと信じられているのは逆説的であるが誰も相対論や量子論を使っていないからだ。
もちろん理論物理学は使っているだろうがテクノロジーの世界と理論物理学は別物ということだ。 そもそも電線であれ光ファイバーであれスマホであれパソコンであれ情報機器、すなわち媒体を伝わる
信号すなわち情報は真空下の光速の60〜70%と言われている。
要するに物性、すなわちテクノロジーの世界では誰も特殊相対論の命である真空中の光速度c、すなわち
光速度不変の原理など使ってはいないのだ。
さらに電気工学では複素数を使う。
要するに導体であれ誘電体であれ何であれモノには抵抗成分、減衰項があるということだ。
でそれが直流ならば単にオームの法則であるが、それを波動及び交流回路に拡張したのがインピーダンス。 要するに虚数とは加速と減速を担う最小単位なのだから、抵抗成分があるモノを扱う電気工学には
複素数が必須というわけだ。
しかしそもそも特殊相対論も量子論も静止と等速直線、すなわち慣性系を標榜する理論体系である。
つまりマクロのもの全てが大きさと構造、さらには粘性や抵抗や圧縮性をもっているのだから
それを実在気体、実在流体とすると、ミクロの世界は大きさも構造もたない、さらに粘性も抵抗も圧縮性
ももたない理想気体、理想流体の世界ということになる。
媒質、すなわち媒体には圧と流れの比であるインピーダンスが存在するわけであるが、
数式上は真空のインピーダンスが定義される。
しかし相対論的には真空に抵抗成分があるのはまずいはずである。
その事情は光の速度は誘電率と透磁率の比から出てくるが、真空は誘電体でないとしているのとある意味同じだ。
要するに相対論にしろ量子論にしろ物理定数はイリュージョンに過ぎないというわけだ。
すなわち世の中上手くできていて、物理学はこの宇宙空間から光の媒質、メディア(記憶媒体)を取り去った
のだから、空間にはモノ、すなわちオブジェクトはないというそれ相応の帰結が導かれたということだ。 なんか、XP とか言うコロナが流行りだしたって言うじゃ無いか。いや、ビスタコロナ
だったかな。次は7コロナで次は10コロナか。やっぱり上には上がいる。
大自然に勝つことは出来ない相談だな。あれ、XEコロナだったけ。 マクスウェル方程式は流体力学を参照して導出されたと言われている。
実際 div(湧き出し、吸い込み)は蛇口と排水口、あるいはブロワーと掃除機、あるいは高気圧と低気圧
のようなものか。
さらに grad(勾配)は地形における山と谷、すなわち等高線、あるいは気象における等圧線みたいなものか。
さらに rot(回転)は水に生じる渦、あるいは竜巻や台風みたいなものか。
まさに流体力学そのものである。
ちなみに特殊相対論とは流体に流体は存在しない、固体に固体は存在しないという訳の分からない
ことを主張している理論体系である。 すなわち流体に流体、固体に固体が存在すると速度の基準系が定義できる。
しかしそれはガリレイ、ニュートン以来の速度とは0対100の世界であり、あらゆる速度は
相対速度でしか知りえない、意味をもたないとする相対性原理に反する。
さらに流体中を進行するものは摩擦や粘性による抵抗を受け続けるのだからブレーキがかかる
はずである。
しかしそれは慣性系の存在を否定することになる。
ゆえに流体力学に流体は存在しないという論理である。
ならば流体力学から導かれたマクスウェル方程式を使わなければ完璧であるが、どういう思考回路
は分からないがマクスウェル方程式はそのままそっくり使う、流体や固体から導かれる
波動方程式は躊躇なく使うという、本当にそれでいいのか?という理論なのだ。 マクスウェル方程式が流体力学を参照しているなら、電磁気的な力と我々が日常体感している力に
アナロジーが成立する。
例えば風呂の栓を抜いてその栓を排水口に近づけるとあたかも磁石と磁石、あるいは磁石と鉄がくっつく
ような力、感覚が生じる。
さらにブロワー同士を近づけるとあたかも磁石の同極同士を近づけたような反発力が生じる。
すなわちアナロジーが成立する。
いやアナロジーもなにも元々流体力学の世界なのだから同じ触感なのは当たり前だ。
つまり電磁気的な力である引斥力が生じるのはそこに流体が満ちているからに他ならないことになる。 衛星写真による台風と天体写真による銀河は渦を巻いているという意味ではよく似ている。
台風の渦巻模様は雲、すなわち水であるが、だからといっていくら水分子の相互作用を研究
したところで台風の渦巻模様を説明することはできない。
なぜなら実際に渦を巻いているのは目に見えない大気という流体であるからだ。
同様に目に見えている恒星のような天体だけでは銀河の回転速度を計算できない、
そしてそれがダークマターが必要とされる理由である。
しかし宇宙空間には何らかの流体が満ちているとするなら、銀河と台風、ハリケーンにアナロジーが成立する。
ところで最近銀河中心にブラックホールが発見されたという話だが、流体における湧き出し、吸い込み
という概念を応用するならBHは空間にぽっかりと口を開けた排水口ということになる。
ならば吸い込み口があるなら必然的に湧き出しである蛇口、すなわち噴出口が対で存在するはずであり、
いわゆるホワイトホールの存在が予想される。 ちなみに固体においても例えば地球の大地、すなわち地殻及びプレートの吸い込み(沈み込み)が海溝であり、
湧き出しが海嶺である。
すなわち大地は海溝により一旦消滅し、そしてドロドロに溶けた液体であるマグマとなって
湧き出し口である火山の噴火口から流出し、それが冷えて固まって新しい大地が創成される。
どんなに拡大しても縮小しても相似形パターンが現れるとするのがフラクタル幾何学であるが、
実際渦構造はミクロの世界にもマクロの世界にも普遍的に見いだされる。
さらに湧き出しと吸い込みがセットなのもやはり普遍的である。
ならば宇宙には吸い込み一方のブラックホールしかなく、それと対になる湧き出し口、すなわち
ホワイトホールがないとするならば、フラクタル幾何学はそれほど使えないということになる。 つまり本来フラクタルは望遠鏡にも顕微鏡にも使えるってことだ。
BHとWHを繋ぐものをワームホールというが、別にワームホール自体は不思議でもなんでもない。
すなわち湧き出しと吸い込みがセットであればそれでいいのだから例えば海溝と海嶺はワームホールで
繋がっているといえる。
さらに高気圧も低気圧も湧き出しと吸い込みが繋がっている。
排水口に流れ去った水もいずれ雲になり雨になり、蛇口をひねると再び戻ってくる。
さらに掃除機は吸い込み一方ではなく、正圧で外部に空気が吐き出される。
さらにブロワーから吐き出される空気は内部から湧き出したわけではなく、外部から負圧で吸い込んだ空気だ。
つまり、そもそも音波は空気の疎密であるが、絶えず負圧と正圧が対で発生し、そして対で消滅する。
まさに吸い込みと湧き出し、すなわちワームホール以外の何物でない。
同様に光、すなわち電磁波の量子である光子は正の質量をもつ電子と負の質量もつ陽電子が対になったものとすると、
湧き出しと吸い込みがあるのだから、マクスウェル方程式は流体力学を参照して導出されたという
タイトルが回収されたことになる。 アインシュタインは後年、賢者モードに入り、ライデン大学の講演で次のように述べている。
「特殊相対論によればローレンツのエーテルは全くもって不要である。しかしながら一般相対論によれば
ローレンツのエーテルは旗色がよくなる。要約すると一般相対論によれば空間に物理量が付与されている。
一般相対論によればエーテルなしの空間は考えることもできない。
なぜならそのような空間では時間と空間の尺度、すなわち物差しがないばかりでなく、光さえ伝播しない。
ただし一般相対論のエーテルは追跡できない」
追跡できないの意味は流体は流体でも完全流体だからということか?
確かに粘性も摩擦による抵抗がなければドアノブもペットボトルのキャップも回せない。
そもそも取っ掛かりがないのだから追跡できない。
しかし一般相対論は時空の引きずりを考慮する。しかし完全流体はその定義から時空を引きずらない。
つまり一般相対論は内部に矛盾を抱えていることになる。 一般相対論のコンテンツの一つに重力レンズがある。
ようするに強い重力場をかすめて光が通るとその後方にある天体は本来ある地点ではなく、
別の地点にあるように観測される現象だ。
ならば蜃気楼は何なんだ?ということになる。
つまり蜃気楼とは空中にあたかも船が浮いているように観測される現象である。
じゃあなぜそのような現象が起きるのかというとそれは実際に光が伝播する空間、すなわち空気が
歪むからである。
ようするに空気に温度変化などにより密度差が生じると光の速度が一定でなくなり、必然的に曲がるということだ。 そもそもレンズとはスマホのカメラや人間の眼、及びメガネのように我々の身近にありふれたモノである。
すなわち、そもそも屈折が生じるのは波の速度が一定でないからであり、我々はその波の性質の恩恵に
浴していることになる。
つまりレンズ自体には不可思議はないはずなのにそれが重力レンズとなると神秘的な響きをもって迎えられる。
それはなぜかというと宇宙空間は何もない真空であると科学者は自他共に洗脳しているからだ。
すなわち「宇宙空間には光を伝える媒質なんてないんだよ、でもその何もない空間は歪むんだよ」
と、まさにアインシュタインマジックである。
しかし同じ曲がる曲がるでも実体がある分スプーン曲げの方がまだましだ。
そこに実在するモノがあるなら別に念じなくとも力を加えれば曲がるだろ?まあそういうことだ。 さらに一般相対論は地上と上空では時間の進みが違う、すなわちより高い方が時間の進みが早いと主張する。
そしてそれは実験で確かめられているとされる。
ところでご飯を炊く場合、地上より山のように高い位置の方が早く炊けると言われている。
つまり水は1気圧の下100度で沸騰するわけだが、上空に行くほど気圧が下がり、より低い温度で水は沸騰するからだ。
すなわち地上よりも上空のほうが時間の経過が早い、すなわちアナロジーが成立する。 エーテルの存在を認めると、今度はそのエーテルの正体は?ということになり、益々混迷は深まる
と思われがちだが、媒質の直訳をメディア(記憶媒体)とするなら既に答えはでている。
すなわち媒質の世界をモデルにするならそれは光子と特定される。
要するに音波を伝える空気は単に音波を伝えるだけのために存在しているわけではないということだ。
すなわち家屋を破壊し、電柱や木をなぎ倒す台風やハリケーンもまた空気の仕業なのである。
さらに水や空気や大地は生命を育んでいる。
よく物理学者の夢は4つの力を統一することだと言うが、宇宙空間に光子が満ちているとすると、
いやその光子一個そのものが時間と空間の最小単位とすると、それは物理学者の4つのお願いを叶えて
くれるということだ。 余談だが、家の冷蔵庫の壁にはガス水道の検針票などの紙を挟んだ磁石の付いたクリップが貼りついている。
さらにキッチンペーパーホルダーが吸盤で貼りついている。
我々は重い荷物を持つのは苦痛であり、長時間は無理だ。
しかし磁石や吸盤は疲れを知らない子供たちというレベルでない。
すなわち磁石は永久磁石というようにある意味永遠だ。
もっとも吸盤の方は大気圧で説明できるのだから、吸盤の劣化を無視すればこの地上に大気が存在する限り安泰だ。
では流体力学から流体を取り除いた電磁力学で、磁石が壁に貼りついている様をどう説明するのでしょうね。
情報ですか?読み書き消去、上書き保存、初期化といったメディア(記憶媒体)というツールもないのに情報ですか。
道のりは長そうですね。 エーテル説と特殊相対論は寸分違わず全く同じ数式を使う。
すなわちエーテル説と特殊相対論は競合する理論であるが、物理学はシンプルさを求めるという判断基準
により特殊相対論が生き残った。
しかしそもそもエーテル説と特殊相対論は競合していない。
なぜなら特殊相対論は慣性系を標榜する理論であるが、光であろうが何であろうが波動は加速度
の世界であり、慣性系ではないからだ。
つまりエーテル説と競合しているのは特殊相対論ではなく、同じ加速度系を扱う一般相対論の方なのだ。
すなわちスローガン的には 実在流体vs.完全流体 ということになろうか。 結局当時の物理学者達は慣性系というフェイントを掛けられ、一同ズッコケたということだ。
そしてその後、アインシュタインは一般相対論によればエーテルなしの空間は考えることも
できないとして物理学を科学の王道に戻した。
アインシュタイン自身はライデン大学の講演でエーテル在り、すなわちエーテルは存在するに保険を掛けて
いるのだから、たとえ特殊相対論が覆っても保険金を受け取ることができる。
それに対し、特殊相対論を真に受けてエーテルを徹底的に潰しにかかる現代の物理学徒はただただ屈辱を
味わうということになる。 静止しているものはいつまでも静止、動いているものは等速直線運動を続けるという
のが慣性の法則であるが、もし動きにくさ、止まりにくさ、すなわち慣性を人質に取られたならば
それは是が非でも取り返さなければならない。
しかしそれが慣性系ならば「どうぞどうぞ」だ。
何故ならこの広い宇宙空間に厳密な意味での慣性系は存在しないからだ。
まだ記憶に新しい東北地震において、図書館の何十万というおびただしい数の蔵書が床に散乱した。
あるいは小規模の地震でも、コンビニの棚の商品が床に落下し、ワインの匂いが立ち込めるのは
定番だ。
つまりブロック塀が倒れるのは地面の揺れにブロック塀が追随できないからであり、棚からモノが落下する
のは棚の動きにモノが追随できないからだ。
つまりそれは速度変化を嫌うというモノには慣性があることの証明である。
そしてそれを文字通り、そのまんま慣性力と呼ぶ。 さて床に散乱したモノを片付けている現場に特殊相対論の信奉者が現れ、静止と等速直線は同じ物理法則が
成り立つとのたまったならば、
「ふざけんなテメーこの野郎、邪魔すんな!」となるだろ?
すなわち特殊相対論の信奉者はただ指を咥えて見ているか、それとも見て見ないふりかのどちらかだ。
要するにお呼びでない、ということだ。
そもそも地震の単位としてガルとカインを使う。
ガルは加速度を表し、カインはそれに時間を掛けた量だ。
特殊相対論は慣性系で力学と波動場を統一したと豪語しているわけであるが、波動が何であれ
慣性系では語れない、あくまでも加速度の世界なのだ。 等速直線を横軸に時間、縦軸に変位、すなわちエネルギーの大小をプロットするとどこまで真っ直ぐで
退屈な、ただの横棒となる。すなわち時間変化しない。
しかしそれが波ならば時間変化のさらに時間変化、すなわち加速度の世界であり、明らかに曲線である。
そもそも波とは同じ場所での往復運動、あるいは単位円の回転(三角関数)、すなわち原点を中心とする周回であり、
等速直線運動のように行ったきり帰ってこないというものではない。
そもそもエクセルであれ何であれ、静止と等速直線を入力したところでサインカーブは出力されない。
ようするに特殊相対論はサインカーブが描けるようになったらまたおいでという理論なのだ。
じゃあ何で特殊相対論は実験結果と一致するの?ということになるが、
それはマクスウェル方程式であれローレンツの変換式であれエーテル説と寸分違わない数式を使っているからに
他ならないからだ。 よく一般相対論は特殊相対論を含むと言われているがこれは明らかに嘘だ。
なぜなら実在流体であろうが完全流体であろうが流体には流体に乗った系とそうでない系が定義できるからだ。
つまり特殊相対論は個と個の関係、すなわち速度は相対速度でしか意味をもたないとする理論であるが、
一般相対論であれエーテル説であれ、個と個に対して公、すなわち共通基盤であるプラットフォームが存在するということだ。
ゆえに特殊相対論によりエーテル説が否定されたならば、同じ理由で一般相対論も否定されることになる。
もし速度というものが相対速度でしか知りえないとするならば、例えばスピード違反で捕まった場合、
スピードを出していたのはそっちの方だと言い逃れができることになる。
しかし例え相対論に明るい有能な弁護士を付けようとも罰金を逃れることはできない。
なぜなら地球の大地という公が存在する以上、なすすべがないからだ。 さてそれに対しての特殊相対論の言い訳として、車のスピードメーターの速度には地球の自転速度が加味される。
さらに太陽系における公転速度、さらには銀河系における回転速度とどこまで行ってもきりがない、
すなわち速度には基準系はないという完全犯罪が成立しているかのようだ。
ところが現在、宇宙背景放射が発見されている。
つまり特殊相対論に再び公の存在が立ちはだかったということである。
昔太陽がいっぱいという映画があったが、我々は光の海を漂流する航海者とすると、船のスクリューに
完全犯罪を覆す証拠が引っかかっていたということだ。
呑気にワイングラスを傾けている場合でないぞ。
ちなみに最新の観測機器による宇宙空間に繰り広げられるダイナミックな映像が、流体の世界と
オーバーラップしていると感じるのは私だけだろうか。 そもそも車のスピードメーターの速度には地球の自転速度が加味される云々は特殊相対論に有利な条件とされるが
実際にはその逆だ。
なぜなら地球の自転にせよ太陽系における公転にせよ銀河系の回転にせよ全てが加速度系、
すなわち回転座標系であり、慣性系である等速直線とは程遠いからだ。
もっとも相対論は局所慣性系、すなわちどんなに曲がった線もその微小区間を切り取れば直線とみなせるとして
どこまでも食い下がるが、しかし逆にその微小区間を拡大すると真っ直ぐかというとそうはならない。
すなわちそれが原子ならば自転、さらにはそれが電子などの素粒子ならばやはり自転(スピン)している。
つまりミクロであろうがマクロであろうが回転だらけであり等速直線、すなわち慣性系の存在は束の間の幻想に過ぎない
ということだ。 現代物理では場は無限個の調和振動子の集団としている。
その意味では媒質と場は何ら変わりはない。
ただ違いは媒質には原子分子というバネと重り、すなわち調和振動子としての明確なメカニズムが存在する。
つまり実在に対して悩む必要はない。少なくとも哲学者を気取らない限り。
場が調和振動子の集団という意味はどんな複雑な波も正弦波の和として表される。
つまり正弦波=単振動、さらに単振動=調和振動子、ゆえに場をフーリエ変換で展開すると正弦波が現れる。
ゆえに数式上は場は調和振動子の集団として扱えるということである。
言うまでもなく数学的な点に還元した場にバネと重りのメカニズムは存在しない。
すなわち場に実在を求めるのは単なるないものねだりに過ぎない。 フーリエ変換、すなわち数式があれば無観客試合においても競技場にウェーブを起こすことができる。
つまり競技場は熱気?により様々な振動モードで満ちている。
ゆえに競技場をフーリエ変換すれば正弦波、すなわちウェーブが生じるというものだ。
もちろん観客席に立ったり座ったりする観客がいるわけではない、そこに実在はない。
本来あらゆる数式は媒質を記述するために導出されたものであるが、ひとたび数式を手にしたならば
もはやこっちのもの、すなわち数式さえあれば物理学者は例え空気のない月の世界でも音波で
会話できるということだ。 そもそも特殊相対論も量子力学も慣性系を基に光の媒質を否定することにより誕生したわけだが、
ならば誰かの発言でないが、往復運動、さらには単位円の回転である三角関数は必要ないことになる。
三角関数が不必要であるということは同時に虚数も要らないということだ。
実際物理学者は複素数は実数の2つ組だとかエルミートだとか、さらにはあらゆる物理量は
実数でなければならないというのが物理学者の合言葉だからだ。
ようするに虚数をないがしろにしているということだ。
つまり物理学者にとっての虚数とは、それを使うと計算が楽になる、つまり虚数とは単に計算の
途上に現れる仮の姿であり、計算が終わったら忘却の彼方へ消し去れというわけだ。
しかし私に言わせれば虚数とは加速と減速を担う最小単位である。
ゆえにこの世界に虚数が非実在ならば、この世界に加速も減速も存在しないことになる。
その意味では慣性系を標榜する特殊相対論及び量子力学に虚数は猫に小判、豚に真珠ということになる。 ところでオイラーの公式がある、すなわち e^iθ = cosθ + i sinθ
左辺は指数関数であり右辺は周期関数である。
左辺のiθは円の1回転は90°の位相で加速(減速)と減速(加速)を交互にくり返しますよ、という意味だ。
かっこ付きにしたのは加速と減速が一義的でなく裏表であるからだ。
そもそも虚数iが加減速の単位でなければ指数関数と周期関数が等号で結ばれるわけがないだろ?
なぜなら指数関数とは一方的な増減を表す関数であるからだ。
よくコロナウイルスの感染は指数関数的に広がるというが、もしそれを文字通り受け取るとあっという間に
全ての人間が感染する、もしその致死率が100%ならばあっという間に人類は滅亡する。
しかし実際には、すなわち第1波とか第2波とか第何波とか上下する波の形をしているのは
増殖するウイルスに対して人間に備わる免疫力とかワクチンなどのインターセプターがあるからだ。 オイラーの公式、e^iθ = cosθ + i sinθ は全エネルギーは運動エネルギーと位置エネルギーの和である
とする H=T+V を複素表示したものである。
と同時にそれは水の波や音波、さらには電磁波などを記述する波動方程式を複素表示したものに他ならない。
ちなみに運動エネルギー (K=1/2mv^2) を運動量 (P^2/2m) に置き換えたのがシュレディンガー方程式だ。
つまり運動エネルギーは速度に対し2次、すなわち加速度であるが、運動量は P=mv であり速度に対し1次、
そしてそれは慣性系を標榜し、光の媒質を否定した特殊相対論と量子力学の思惑と一致する。
ゆえにシュレディンガー方程式は時間と空間共に2階の波動方程式ではなく、時間が1階、空間が2階の
拡散方程式ということになる。 コロナウイルスの感染状況を第何派と呼ぶのは、その棒グラフが波の形をしているからだ。
つまり棒の高さは感染者の数を表し、その波は感染者の総数を表すことになる。
ちなみにそれぞれの棒の頂点を結んだものを包絡線というが、サインカーブであれ何であれ
それが何で粒なんだ?というのが量子論だ。
つまり我々が知っている波は粒的なものの集団である、ゆえに粒であり波でありそれ以外の何物でないが、
ミクロの世界を記述する量子力学はそのような考え方はしない。 つまり感染者がAであれBであれCであれあくまでも全感染者の部分系である。
ところが量子力学は1粒子、すなわち電子1個を扱う理論体系である。
つまり水素原子の描像は古典的には太陽を周回する地球はただ一つであるように、あるいは地球を
周回する月がただ一つであるように、水素の原子核を周回する電子はただ一つというものだ。
ゆえに例え波形のどこで電子が見いだされたとしても元々一つなのだから重なり合っているのは全体系となる。
つまりウイルスの感染者はここにもいる、あそこにもいる、空間のあちこちに同時併存しているという言明は
当たり前だ、なぜならそれぞれの感染者は全体の部分であるからだ。
しかし元々1個しかない電子がここにもいる、あそこにもいる、空間のあちこちに雲のように同時併存している
という言明は人間の理解を超えている。
つまりただ一つの質量をもった局在する電子があたかも波のように空間的な広がりもつ、そしてそれは
どこにあるのか?と問えば、すなわち観測により広がりがぱっと消えて空間の一点に見いだされる。
つまりそれが粒と波の二重性の意味。 観測により空間的な広がり、すなわち位置の重なりが解消される様を波動関数の収縮と言う。
そしてその人間の理解を越えた難題を観測問題と呼ぶ。
波動関数の収縮を人間の頭で合理的に解釈しようとすると脳の血管がブチ切れる。
そしてそれが量子力学を理解している者はこの世にいない、もし量子力学が分かったという者は
本当は量子力学を理解していないという所以である。
現在観測問題という問いの答えとしてコペンハーゲン解釈、及び多世界解釈が代表的である。
いずれにしろそれらの解釈は観測問題という問いがあっての答えなのだから、観測問題なくして
コペンハーゲン解釈及び多世界解釈という答えだけが存在するということは有り得ない。 ここで観測問題及び波動関数の収縮のあらましをマクロの世界に置き換えて説明してあげよう。
さて舞台の上に空の箱がある。そしてその箱に一人の美女を入れ、ふたをする。さらに箱を仕切り板でA,Bの二つに分ける。
そして箱A,Bを左右に引き離す。
では問題です。きれいなお姉さんはどちらの箱にいるのでしょうか?
(1)常識的で現実的な世界観
箱を分割した時点ですでに確定している、すなわち決定論の世界、もちろん箱の中が見えないので、
箱のふたを開ける開けないにかかわらず箱A,Bそれぞれにいる確率はどちらも50%。
(2)我々の常識が通用しないミクロの世界の不思議な世界観
箱のふたを開けるまではどちらにいるかは確定していない、つまり箱Aにいる状態と箱Bにいる状態が
波動関数ψで重ね合わさっている。
つまり一人の人間が2つの箱に同時に併存している、そしてそれは医学的に生きている猫と死んでいる猫が
併存しているというシュレ猫と同じ、ようするにミクロの世界にはシュレ猫が生息しているというのが
物理学者のスタンス。
そして箱を開けた瞬間重なりがぱっと消え、どちらかの箱に見いだされる。 (2)の世界観は明らかにイリュージョンの世界である。
しかし注意すべきは、もしトリックを使うことが許される職業であるマジシャンならば、魔術を演じるのは
朝飯前であることだ、すなわち双子を用意すればよい。
つまりあらかじめ双子の片割れが箱の後ろに隠れている。
そして仕切り板を入れた時点で後ろの壁の秘密の扉を開けて中に入る。
ならば箱A,Bに同時併存しているのは当たり前、すなわちマジシャンは望む箱から美女を出現させることが
出来るというわけだ。
>>460-462
種も仕掛けも必要とするマジシャンよりも、スティックを振るだけの簡単なお仕事である魔術師の方が
ステータスが上であることは言うまでもないことである、もっとも実際に魔術師なるものがいたならばの話だが。 さてここで重要なのは、そもそも量子力学はミクロの世界を記述する理論の最終形態でなく、さらに上位変換された
場の量子論が存在するということである。
つまりそもそも量子力学には電子に対する陽電子などの反粒子は出てこない、つまり相殺項がない。
ちなみに場の量子論では真空は実は空っぽではなく粒子と反粒子が絶えず対生成され、さらに対消滅する
という実に騒がしい世界であるとしている。
つまりこれは何を意味しているのかというと、そもそも量子力学の水素原子に電子1個という前提が
すでに破綻しているということだ。
いや正確には確かに水素原子に電子は1個であることに間違いはないが、
しかしその背後には無数の電子-陽電子対が満ちているということだ。
ちなみに場の量子論にはさらに上位変換された(仮)媒質の量子論が存在するというのが私の主張。
もちろん媒質とはかつて物理学者に足蹴にされ、今では棄てられたかつてのエーテルが
バージョンアップされたものに他ならない。 科学の書物ではエーテルはMM実験により否定されたとなっているが、実際には科学者からエーテルの呪縛を
解いたのは粒と波の二重性を標榜する量子論の台頭である。
つまり当時製鉄業の勃興により、溶鉱炉の中のドロドロに溶けた鉄の温度を知る必要があった。
もちろん経験的に赤ければ温度が低い、青白ければ温度が高いことは分かるが
黒体輻射のスペクトルの強度曲線の物理的裏付け、そしてその公式の導出が科学者に求められた。 エーテル派のレーリー卿らは光は波であるとする立場から公式を導いたが、長波長側はよく一致したが
短波長側は一致しなかった。
それに対しウィーンという物理学者が光は分子のような粒とする大胆な説で公式を導いたが、こちらは
短波長側は上手く一致したが長波長側は一致しなかった。
つまり波説と粒説には一長一短があったわけであるが、今日プランク定数に名を残すプランクが
ウィーンの公式から−1、すなわち1を引くことにより黒体輻射のスペクトルを満足な形で
説明することに成功した。
ちなみに私はその−1こそが虚数単位iの2乗ではないかと疑っている。
すなわち虚数とは加速と減速を担う最小単位であり、さらに量子化、すなわち連続性を断ち切る鍵を握っている
のがまさに虚数iというわけだ。 結局光は波だから媒質が必要であるとするエーテル派は黒体輻射のスペクトルを説明できなかった。
つまりこの時点ですでにエーテル派の足元はふらついていた。
さらに光電効果やコンプトン効果のように光は粒であると考えると説明できる現象が見いだされた。
そしてそれはかつてエーテル派の波説と対立していた光は粒の流れとするニュートン流の考えの復活とされ、
エーテル説は潮が引くように衰退した。
ようするに波と烙印を押されたエーテルは粒と波の二重性という魅惑的なブランド力に敗れ去ったということだ。
ところがこれがまたとんでもない歴史的誤謬であり、ボタンの掛け違いなのである。
ようするに科学史はウソをついているということだ。 つまり当時の物理学者たちはバイオリンなどの1次元の弦は無際限に分割できる連続体と考えていた。
もちろん1次元の弦に限らずフルートやトランペットなどの管楽器内の振動する空気も連続体と考えられていた。
なにしろあの音速に名を残すマッハでさえ原子の実在性を認めなかった時代である。
しかしだからと言って、今日バイオリンの弦は連続体と明言するのは「私は未だ原子分子の存在を知りません」
と自ら告白しているようなものだ。
つまり今日的知見によればバイオリンの弦の実体はウィーンの光は分子とする立場に近い。
実際スチールであれナイロンであれガットであれ原子以下には分割できない、ちなみにガットは羊の脹であり高分子。
それに対し古典場であれ量子場であれ場は無際限に分割される連続体、さらに現代物理学によれば電子も光子も
大きさも構造ももたない数学的な点、すなわち粒的な描像などどこにもない。
つまり上の図は猫はワンと吠え、犬はニャーと鳴くといった全く真逆な関係なのである。
ようするに科学史はウソをついているということだ。 エーテル派の媒質は波であるとする立場が破綻したのは弦の端点が節になる波は無限に存在する、
ゆえにそのそれぞれにエネルギーが配分されるとエネルギーは無限大に発散するというものだ。
しかし実際の媒質である弦は離散的、すなわち原子以下には分割できないのだから原理的にエネルギーが
無限大になることもないし、ましてやいわゆる紫外発散も起きない。
ところがその後媒質に取って代わった連続体である場には無限大の困難が内在する。
場が無限大を回避しているのは計算に合うように切断因子を挿入しているからだ。
つまり驚くべきことだが古典場であれ量子場であれ場は黒体輻射のスペクトルを説明しようとしたエーテル派の
描像に近い、いやむしろ踏襲していると言ってもいいくらいだ。 実際今日的に有効かは別として、ボーアの原子モデルはイメージとして弦の端点と端点をつなげて閉曲線にしたものだ。
つまり弦に生じる定常波は半波長を基本として1波長,2波長,・・・というように整数の値で固有振動する、
すなわち決して半端な波は生じない。
ちなみに場であれ媒質であれ無限個か無数個かの違いはあれ、空間の各点に定義された物理量という意味では同じ、
すなわち多体系。
それに対し波動関数は1粒子があっちにもこっちにもいるという思考形態、
ゆえに波動関数で事足りるなら疑似エーテルである場の考えはいらない。
結局溶鉱炉の鉄の温度を知りたいという物理学者の欲望から始まった量子論の誕生物語は、
誰が敵か味方の区別がつかない、混沌とした状況にあったということである。 >>823
>つまり今日的知見によればバイオリンの弦の実体はウィーンの光は分子とする立場に近い。
いや近いも何もそもそもウィーンの光は分子という元ネタはボルツマンの気体分子運動論だ。
さらにその元ネタはエーテル論者のマクスウェルの気体分子運動論だ。
さらその原形はニュートン力学、すなわち F=ma
つまりボルツマンは熱力学の温度や圧力を原子のような粒々なモノに還元しようとした。
すなわち圧力は壁に粒々なモノが衝突を繰り返すから生じるというものだ。
ところがボルツマンの説はマッハらのエネルギー論者からの立場、すなわち実証主義者からの攻撃を
受けることになる。
すなわちもし水や空気が砂粒のようにザラザラな触感をもつならばその説を認めよう。
しかし実際にはなめらかである。
しかしそれが温度や圧力のエネルギーで語るならば人間の五感、すなわち肌感覚で実感できるという立場だ。 さらにボルツマンは熱力学の第二法則から導出されたエントロピーの増大則、すなわち時間の矢も
気体分子運動論で説明できると考えた。
すなわち秩序あるものは乱雑な方向に向かう確率が高いというものだ。
ところがこのボルツマンの考えもまた執拗な攻撃にさらされる。
つまり粒的なものを記述するのは力学であるが、力学の基礎方程式は可逆、すなわち時間反転対称性をもつ。
ならばある運動をビデオに録り、それを逆回しした映像もまた運動方程式に従うはずだ、
すなわち一方的な時間の矢が存在する必然性はないという反論だ。
力学に限らず時間,空間共に2階の波動方程式もまた可逆なのだが、
結局ボルツマンは次第に精神を病み、悲劇的な結末で生涯を閉じることになる。 いずれにせよ黒体輻射のスペクトルの長波長側と短波長側の両方を満足な形で説明したプランクの公式には
ボルツマン定数が含まれているのだから、プランクの公式は光の媒質説を擁護することはあっても
それを否定する材料にはならない。
結局前世紀初頭に光の粒的な性質が次々と露わになったわけであるが、本来それらの発見に対し
エーテル派は狂喜乱舞すればよかったのだ、なぜなら今日媒質が何であれ粒々の集団であることを
我々は知っているからである。 >>829
古典力学って研究され尽くしてもう進展が無いって物理学での専らの噂じゃなかったっけ >>829
でも古典力学(ニュートン力学周辺)研究者人口どのくらいいるの? >>834
ニュートン力学単体は今じゃ一人もいないんじゃ >>829
研究者がひとりもいない分野はスレ建ちにくい。 >>836
研究者がいない分野は、質問スレや他スレで分野の話題が出るだけで、特設スレは建たない >>829
ってよく見たら日付去年の9月じゃん
最近かと思って騙された。よく見落とす過去何度か過去レスに気づかずリプした経験ある。やっぱ自分🐴🦌だから気づかないんだね >>1
スレ主さんごめん。pcビューにして直近レス10見てたら過去コメント見付けて無駄にリプしてしまう頭病気で反応してしまった。汚してごめん 今更だけどそもそも
>古典力学スレってないのか?
って何の脈絡で何処のどの要素へのコメントだったんだろ?
よく考えたらそれすら考えてなかったし考えてないのとわかってないのわかってなかったしまったくわからない…
あたまびょーきぽえむさん 【接種率80%】 手遅れか、ワクチン接種者、…タヒ
://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/hikky/1674967026/l50
a∈x₁、X<a>≃Y<b>となるbが存在するようなa∈X mx≤x<a≃my≤y<b
となるx, yを、とれて
∀x∈X₁、∃y∈Y₁、
X<x>≃Y<y>となる
よって∀x∈X<a>∈X₁
a∈X₁⇒X<a>⊂X₁ X₁≠Xとすると
Z=X-X₁≠∅となり
Zの最小元をa₁とすると
整列集合Xの任意の部分集合は最小値を持つ
a₁∉X₁, 、a₁∈X<a>⊂X₁で矛盾する XからYへの写像φを単射かつ順序を保つ写像とする
順序同型写像φ φ: a→b、X<a>≃Y<b>となる
mₓ≤x<a≃my≤y<b
有限集合⇒位数が等しい
無限集合⇒濃度が等しい、ことが必要である 現在ChatGPTで盛り上がっているが、言うまでもなくChatGPTの原理はネット環境に満ち満ちている
メディア、すなわち記憶媒体に書き込まれている情報を拾ってきて演算処理しているものである。
そしてその原理は洞窟に描かれた壁画、ロゼッタストーン、画家にとってのキャンバス、音楽家にとっての楽譜、
さらに紙という記憶媒体があるがゆえに我々は歴史及び歴史上の人物を知ることができるのと同じだ。
そもそも画家からキャンバスを取り上げたらこの世にモナリザという絵は実在しない、ゆえに我々はそれを
鑑賞することもできない。
浮世絵により江戸時代の風景、人々の生活様式である風俗やファッションを知ることができるのも紙という
記憶媒体があるおかげである。 ちなみに科学者は光の媒質とされたエーテルは存在しないと無邪気にはしゃいでいるが、科学者が否定したのは
媒質は波だからという理由で必要とされた架空の存在。
しかし媒質の直訳はミディアム、すなわちメディアなのだから科学者、すなわち物理学者が否定したのは記憶媒体
ということになる。
実際、光の速度は誘電率と透磁率の比から導出されるが真空は誘電体でも磁性体でもないとしている。
確かに音波に媒質は必要ないとしたなら記憶媒体である空気も圧力も密度(質量)も存在しないとしなければ整合性はとれない、
それと同じ。
要するに真空には位置エネルギー(復元力)を担うコンデンサも運動エネルギーを担うコイルであるインダクタ(慣性-質量)
も実在しない、あるのは数式だけというのが現代科学のパラダイム。 結局前世紀初頭にマッチングアプリ、すなわちエーテルのプロフィールに粒々の集団、さらに結婚指輪が
ローレンツ変換ならば、エーテル説は量子論と結びつく可能性があった、
すなわち未だ見ぬ媒質の量子論(Quantum medium Theory)の存在だ。
ところが量子論は慣性系というこの世界には厳密に存在しない極めて限定的な理論である特殊相対論をパートナーに選んだ。
結局物理学は近接作用を担うべき媒質、すなわちメディア(記憶媒体)を捨てたのだから、量子力学であれ場であれ
遠隔作用のオンパレードなのは当たり前ということになる。 >>677
>ならば一つの命題が存在する。
>すなわちAIは生命系と非生命系のどちら側のロジックに収斂するのか?というものだ。
よくコンピュータの電源を抜くとただの箱というが、ChatGPTにとって記憶媒体は命の綱であることは明白な事実である。
ならばAIは生命系と非生命系のどちら側のロジックに収斂するのか?という命題にはすでに答えがでている。
すなわち人間の頭の中には脳という記憶媒体があるだろ?
しかし非生命系である物理学は宇宙空間からオブジェクトである記憶媒体、すなわち実在というものを否定した。
しかしそもそも記憶媒体という情報ツールもないのに情報のへったくれもないということだ。 a∈X₁とする。
X、Yの双方が
ℕ、2ℕ、ℤ、ℚなどの場合
双方がℝ、(0, 1)、[0, , 1]や実数のある部分集合などの場合
有限集合で|X|≤|Y₁|
などの場合はX₁=Xとなる
それら以外、例えば|X|>|Y₁|の場合は|X₁|≃|Y₁|となりX-X₁≠∅の最小元をaとするとX₁=X<a>となる。 ちなみに実在とは理想気体に対しての実在気体、完全流体に対しての実在流体というようにれっきとした
科学用語だ。
その意味ではこの世界から実在を否定したなら実機も存在しないことになる。
実際大きさも構造も相互作用も考えない、しかも相転移も扱えない理想気体、さらに圧縮性もない完全流体
ではエアコンという実機は存在しない。
摩擦を無視したならブレーキという実機は存在しない。
そもそもブレーキのない車は運輸省が許可しない。 ならばミクロの世界に実在がないとするならば、量子コンピュータという実機も存在しないことになる。
実際量子コンピュータの難易度が高すぎて、疑似量子コンピュータだとか量子シミュレーターで
お茶を濁してるだろ?
もし量子シミュレーターにインピーダンス整合だとかパスカルの原理だとかの用語がでてきたら笑うしかないな。
要するに理論物理とテクノロジーの世界は別物。 よく釈迦に説法というが、量子力学とは人に説法を垂れる前にもっと修行して来いという話だからな。
例えば原子から放たれる光は任意の周波数ではなく飛び飛びの値であるという。
ゆえに不思議だというならそれは量子力学者は暗に音波の世界は連続的と思っているということだ。
しかし一億曲の中から曲を聞き放題という音楽配信サービスに収められている曲はドレミファソラシの7つの音、
さらに半音の5、つまり合計12、さらにオクターブ、すなわち倍音、すなわち高調波によって構成されている。
つまり小学生でさえリコーダーが飛び飛びの音しか出せないことを知っている。
もちろんフレットのないバイオリンは連続的な音を出せるがそれは観念的なものである。
つまり出そうと思えば出せるというだけであって普通は出さない。
もちろん多少の音程の揺らぎは感情の機微ということになろうが大きく外せばミスったということになる。
あるいはトランぺッターがカッコよく決めたい場面で音程を外せば「やっちまった」ということになる。
ようするに音楽家も楽器も連続的な音は出さない。
そしてそれゆえに楽譜は五線譜で間に合うということである。 ちなみにエーテル派のレーリー卿らによる弦モデルは黒体輻射のスペクトルを説明できないとして
表舞台から退場させられたわけであるが、その舌の根の乾かぬ内にボーアは弦モデルによって
原子における電子が放つ光が飛び飛びであることの原理を説明している。
要するに弦に生じる定常波は整数の値しか許されないという原理。 さらに量子電磁力学では実験値と理論値が10何桁の驚異的な精度で一致するとしているが、その量子電磁力学では
真空に対して真空偏極という媒質の世界で普通に使われる誘電体をモデルとして使っている。>>341-342
しかし媒質を否定した相対論を基礎とする物理学では間違っても真空は誘電体とは言えないはずである。
要するに物理学者には舌は二枚あるということだ
ちなみに量子電磁力学は特殊相対論と量子力学が結びついたクライン-ゴルドン方程式から導かれたとされているが、
KG方程式自体は元々媒質の世界を記述する方程式だ。
普通媒質を否定した特殊相対論と量子力学が結びついたら媒質の世界を記述する方程式が導かれたなら、
何かがおかしいと思うだろ?
ところが理論物理には自浄作用がないということだ。 結局物理学者は未踏峰の山を次々と征服してきたわけであるが、その眼前には常に驚愕の光景が広がっていた。
すなわちその山の頂きには常に先人がいた証拠である旗が立っていたということだ。
で物理学者はその旗を引っこ抜き、自ら持参した旗を立て続けているというわけ。
分かってやっているのか無邪気なのは定かではないが、おそらくは後者であろう。
もし前者ならば今頃物理学者は良心の呵責に耐えかね、その精神は崩壊してるはずだからだ。 >レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
余白が残り少くなってきたのでこのスレの目的を振り返ると、
ようするに宇宙の営みを規定しているのはミクロ系かマクロ系ではなく、生命系か非生命系かであること。
そしてその帰結として生命系が物理学を語れたとしても、物理学が生命系を語ることは間違ってもありえないということだ。
なぜなら物理学はあくまでも生命系の部分集合に過ぎないからだ。
もしエーテルが存在したらhttps://science6.5ch.net/test/read.cgi/sci/1142171928/
過去ログより抜粋
<構造体としての点>
点は構造体である。いや、そもそも構造体でなければ点ではありえない。
では点を数式化してみよう。
アレフχlim(∞)=0
俺は数学を勉強したことがないので表記法が正しいかは分からないが、
ようするにカントールの無限集合論を一般化したものである。
と言ってもカントールの無限にも色々あるというアイデアを頂戴しただけであり、
カントールの無限集合論とは直接的には何の関係ない。
上の数式の意味するところは、ある(無限)集合χにおいて、その極限が0に一致するならば
すなわちそれが(点)なのである。
では具体的にみてみよう。 1日は24時間である。そしてその1時間後は午前1時だ。すなわち (24)=0
もっとも午前1時を25時、午前2時を26時、以後27、28…としても構わない。
ならば次の日は永遠にやってこないだろう。すなわち昨日、今日、明日という概念はなくなる。
つまり24という極限があるからこそ我々は、連続的な時間というものを一個二個と認識できるのだ。
ようするに アレフχlim(∞)=0において、極限(24)が0に一致するならば、それが点なのである。
さて、我々は1日という一つの単位によって規定されているわけであるが、
だからといって1日という単位の単調な無限の羅列で生活しているわけではない。
すなわち1週間というさらに階層の大きな全体集合によって行動を規定されている。
例えば月曜から金曜まではせっせと働き、週末には思いっきり遊び、日曜には体を休めるというように。
さらに1ヶ月という単位があり、さらに1年、世紀、ミレニアムとキリがない。
もちろん、1日を構成する1時間は分(60)の集合であり、さらに秒、ミリ、マイクロ、ナノ、ピコ、
フェムト秒とこれまたキリがない。 地球上を真っ直ぐどこまでも進んで行くと、やがて出発点にたどり着く(戻ると言うべきか)。
すなわち無限遠点(∞)が出発点(0)に一致するならば、それが地球の大きさなのであり、点なのだ。
地球が地球型惑星である限り、地球の大きさは任意ではない。
すなわち地球の大きさをどんどん大きくしていくとぶよぶよになり、重力的に不安定になり、
やがて2つにちぎれるか太陽系の藻屑と化してしまうだろう。
つまり地球型惑星の大きさには上限(下限)がある。
その状況は木星型惑星にも言える。
木星は太陽になりそこねた天体とも言われるが、もし木星が十分な水素ガスを身にまとっていたならば
その時点において惑星としての木星は消滅する。
すなわち十分な質量を獲得した木星の内部で核融合反応が進行し、自ら光を放つ恒星となるからだ。
そして同時に、かつては木星の周りを回っていた幾つかの衛星も惑星へと昇格する。
すなわち木星型惑星においても上限と下限があり、決してその大きさは任意ではない。 我々の太陽は平均的な恒星と言われ、その寿命はおよそ100億年と言われている。
では太陽よりも巨大な天体はより長寿命なのか、というとそうではない。
一見巨大な星はその分大量の燃料がありそうなものだが、巨大な星は巨大であるほど
自らの体重を支えるためにより大量の燃料を消費する。
それゆえ例えば太陽の10倍の質量の星の寿命は1000万年と言われる。
つまり巨大であればあるほど、宇宙的な時間のスケールからすれば打ち上げ花火のように
儚いものとなる。
すなわち恒星の大きさは寿命というパラメーターにより規定されている。 我々は普通、頭の中に無限に大きな数を思い描くことはできないと思っている。
実際、仮にどんなに大きな数をイメージしても、それに1を加えるとさらに大きな数が創れてしまい、
キリがない。しかし現実の物理的な世界においてはその限りではないことをすでに説明した。
すなわち物理的世界においては上限(下限)がある。
つまり1を加えるとその物理的実体は消失する極限、すなわちカタストロフィが待ちうけている。
ようするに点は構造体であり、点であるための構造をもっている。
アレフχlim(∞)=0 においてその極限がゼロであるということは、
点の最大領域は常に0だと言うことである。すなわち我々の世界はゼロの集まりなのである。 夜空を見上げると無数の星々が輝いている。
しかしだからといって宇宙は恒星がランダムに配置されたもので成り立っているわけではない。
すなわち恒星は何百、何千億と集まって銀河という名の下に閉じこめられている。
つまり宇宙的スケールから見れば宇宙は銀河を最小単位とする点から成っているのであり、
恒星が最小単位であるわけではない。
さらに我々の銀河系のような銀河が集まり銀河団という構造を形成し、さらに超銀河団を形成する。
ようするにミクロ系であれマクロ系であれ階層構造を成していて、決してこの宇宙に連続性を見いだす
ことはできないことは明らかである。まさに無限にも色々あると言うことだ。 従来、一般的に点は構造をもたないものとされてきた。つまり構造体はさらにより小さな要素をもつからだ。
しかし少なくとも点が何らかの性質を有するならば、点とは分割するとその性質を失うモノ、とすると
点と構造体は矛盾しない。
例えば人間一人一人は社会を構成する点、すなわち最小単位としても構わないであろう。
実際人間を2つに分割して投票用紙を2枚下さい、と言っても無理な話だ。
もちろん人間は無数の細胞に分割され、さらに細胞は無数の原子に分割される。
しかしだからといって原子をいくら集めても人間には成らない。
つまり原子から人間を構成するにはまず細胞という有機体を経なければならない。
さて、もし電子や光子等の素粒子が点であるならば、それは必然的に構造体でなければならない。
逆にもし構造体でなければそれは点ではありえない。いささか逆説的ではあるが。
では階層構造はマクロ系にもミクロ系にも永遠とつづくのだろうか?
いや、そうとも限らない。すなわち アレフχlim(∞)=0 ならば、
それを変形すると、アレフlargestx=アレフsmallestxとなる。
すなわちマクロ系とミクロ系は実は繋がっていて、円環構造を成しているのかもしれない。 物理学が生命系の部分集合に過ぎないという典型がいわゆるトンネル効果だ。
例えば、Wikipediaからトンネル効果を引用
>この場合、「ボール」は環境からエネルギーを「借りて」丘を乗り越え、反射電子のエネルギーを
>高くすることによってそれを返済する
「借りて」それを返済する、まさに生命系の営みである経済の用語以外の何ものでない。
あるいは不確定原理を説明するのに、真空は実は空虚なものではなく絶えず粒子と反粒子が対で生成され、そして対で消滅
する実に騒がしい空間である、すなわち粒子は真空からエネルギーを借りて対生成し、そして対消滅することによって
借りたエネルギーを真空に返す。
借りて返す、まさに経済の世界そのもである。 借りたものは返すというのが経済学の基本であるが、問題なのは物理学においては借りたものは踏み倒せである。
すなわち物理学者のクライン-ゴルドン方程式に対する解釈では正負の一方の解である負のエネルギーのベクトルは
絶対値のより大きな方向を向いているとしている。>>502-511
ゆえに物理学の論理を経済学に翻訳すると、借りた者に返済義務はないことになる。
早い話全ての金融機関は破綻するということだ。
もっともそれゆえ賢明な物理学者は負のエネルギー、負の質量を頑なに拒絶し続けているというわけだ。
結局負のエネルギー、負の質量を知らない物理学者がトンネル効果を不思議なことだというのは、
負債の文字を知らない経済学者がまとまった金がないはずのそこらへんの人間がマンションに住んでいる、
アルファードに乗っているのは不思議だと首をかしげているようなものだ。
もしそのような経済学者がいたらそれは経済学者どころか一般人ですらない。 現代社会は誰もがクレジットカードの一枚や二枚もつ時代であるが、現在クレジットカードをもつことができない
人たちがいる。
すなわち過去に支払い不能になりブラックリストに入っている者、そして借金は踏み倒せと豪語する物理学者だ。
しかしにもかかわらず物理学者がクレジットカードを所有しているならば、それは物理学者は
自らの信念を捻じ曲げ、期日に銀行口座から金を引き落とされるのを甘んじて受け入れているからに他ならない。 a+b
交換律
結合律
単位元0の存在
逆元-aの存在
和に関する加群、Abel群 >>927-936
お前、このスレ残り少ないこと分かって荒らしてんだよな ∑a²∑b²≥(∑ab)²
∑a²b²≥2∑abab
=∑(aᵢbⱼ-aⱼbᵢ)²≥0 光が粒ならばその粒自身が進んで行けばそれを伝える媒質は必要ない、というのがエーテルを否定したコンセプト。
ようするに光が波ならばそれを伝える媒質が必要である、しかし光が粒ならば「エーテルいらなくね?」というわけだ。
そしてこの時点でそれが近接作用の放棄であることを誰も知る由もなかった。
粒ならばそれを伝える媒体を必要としないというコンセプトは、例えばドミノが粒ならば床にドミノを
一個一個並べる必要はない、床を滑らせば情報は伝わるというのと同じだ。
いや一個一個数えられる境界をもった粒だからこそ床に並べられるのだが。
ドミノを並べ終える、あるいはその途中でうっかり一つのドミノを倒すと連鎖的に次々と倒れ、もうどうにも止まらない
状態になるが、この様子を記述するのが時間が一階の拡散方程式、すなわち時間は不可逆。
ようするに倒れたドミノが立っていた始状態に戻ることはない。
ちなみに倒れたドミノに再び起き上がる復元力があるなら時間は可逆、すなわち時間が二階の波動方程式になる。 ちなみに量子力学を記述するシュレディンガー方程式は時間が一階の拡散方程式であるが、床にドミノが
一個しかない状況で拡散方程式、すなわちドミノ倒しをやろうとするものだ、はっきりいって無理ゲー。
ようするに母集団は1、ただし位置という母集団はそこいらじゅう無限個。
我々は日常生活を送るにあたり、確率というアイテムは絶対不可欠なものである。
ところがミクロの世界における確率は我々の知ってる確率とは相容れない。
人間の理解の及ばない不可思議なものである。
そしてそれゆえにミクロの世界の探究者には、一種独特の恍惚感が味わえるというわけだ。 我々が知っている確率と量子力学が記述する確率の違いは宝くじで比べると分かりやすいだろう。
さて一等賞金一億円、ただし当選者は一人、そして一枚100円とする。
この場合現実世界では回転板に矢が刺さる前には当選する可能性がある者はここにもいる、あそこにもいる、
空間のあちこちに雲のように同時併存しているのは当たり前だ。
なぜなら母集団、すなわち宝くじを買った者、すなわち所有している者は何十万何百万というオーダーだからだ。
もし当選する可能性があるものが空間に同時併存していなければ主催者は詐欺罪で訴えられることになる。
そして回転板に矢が刺さった瞬間いわゆる波動関数の収縮が起こり、例えば東京にいる者の目の前に
デルタ関数ではないが一万円札が一万枚積みあがる。
もし番号が一つずれたならばその場合今度は遠く離れた誰かがその目が眩むような札束の山を手にする。
そこに不思議はない、いずれにせよその金の原資は一枚100円で買った、そして番号を外した多くの者たちの
夢の跡に他ならない。 では量子力学的宝くじというと、
水素原子に電子一個なのだから宝くじをもっている者はただ一人、すなわち母集団は1、ただし位置は無限個。
にもかかわらず当選する可能性がある者はそこいらじゅうに同時併存している意味不明な宝くじ。
で回転板に矢が刺さった瞬間波動関数の収縮が起こり、当選者は例えば東京にいるという位置が確定する。
しかしここで問題が生じる、すなわち観測問題という深刻な難題が発生する。
つまり回転板に矢が刺さる前には一人の人間が空間のあちこちに同時併存していたのだから、位置が確定する
そのちょっと前には大阪にいてもよかったのだ、もちろん札幌でも福岡でもいい。
もしそのちょっと前が一週間、一か月前ならば例えば飛行機を乗り継げば、巡回セールスマン問題ではないが
地方都市及び各市町村は無理だが大都市間ならば必ずしも不可能ではない。
しかしそのちょっと前が一日ならば飛行機では無理だ。
さらにそのちょっと前を一時間、一分、一秒とΔtの幅を狭めていくともはや瞬間移動するタキオンでなければ無理だ。
そしてそれが波動関数の収縮の位相速度は光速度を超えるという所以。 ちなみに量子宝くじの当選者が手にした大金の原資はどこなのでしょうね。
量子宝くじが一枚しか発行してないなら100円では買えないですよね。
当選金が一億円の宝くじを一億円で買うのでしょうか?
もちろん宝くじを主催するには莫大な経費がかかるわけだからコミコミで。
結局現実世界の宝くじの当選者、すなわち重ね合わさっているのはあくまでも母集団、すなわち宝くじをもっている者の部分系。
それに対し量子力学においてはどこで見いだされようとも元々一つなのだか重ね合わさっているのは全体系。
結局前世紀初頭に光の媒質を惜しげもなくなく捨て去った代償はあまりにも大き過ぎたということだ。 現代物理学は光の媒質を捨てたといっても媒質とよく似た場を使っている。
つまり現代的な場、すなわち量子場はいわゆるクライン-ゴルドン方程式から導出されたわけだが、
そのKG方程式自体は元々媒質の世界を記述する方程式だ。
ようするに先人がいたというお決まりのコース。
ようするにKG方程式とは「元々弾性媒質中を伝わるしなやかな弦の運動を記述する方程式」だ。
弾性媒質とは復元力をもったこの地上に満ち満ちている空気、あるいは地震波を伝える大地のことだ。
さらにしなやかな弦とは誰が考えてもバイオリンやギターの弦のことであり、地震を引き起こす断層と考えてもいいであろう。
ようするに波動方程式に減衰項、すなわち摩擦係数μを付与したのがKG方程式、
そして波動方程式に質量項mを付与したのが理論物理で使うKG方程式。
つまり摩擦も質量も動かし難さの尺度なのだから両者が同じ形式なのは偶然ではない。
ちなみに電気工学のように物性で使うのが電信方程式というこれまた減衰項があるKG方程式。 結局理論物理で使うKG方程式は媒質からパクったのはいいが、その使い方が分からなかったということである。
つまり媒質におけるKG方程式の正負の解はどちらも減衰項であるが、理論物理で使うKG方程式の正負一方の解、
すなわち負のエネルギー、質量は絶対値のより大きな方向を向いている、すなわち増幅項だとしている。
しかしそれがKG方程式の帰結というなら例えば電線を伝う負の周波数から無尽蔵のエネルギーが回収できることになる。
すなわちエネルギー問題は解決してるはずだがそんな上手い話はない。
結局KG方程式にそのような増幅項はないのだから、理論物理学者は増幅項をもったそのような新たな方程式を模索すればいいはずだが
なんで元々媒質の世界を記述するKG方程式にストーカーしている意味が分からない。 もし負のエネルギー、負の質量をもつものがあればそれはエネルギーを失えば失うほど益々元気になるとされている。
ようするにピッチャーの投げたボールは空気抵抗でエネルギーを失えば失うほど速度を増すという凄まじい世界だ。
そしてエネルギーゼロの極限で速度無限大、すなわちタキオンになる。
しかしそれは特殊相対論のロゴマークを貼ったKG方程式の解であり、媒質のロゴマークを貼ったKG方程式にそのような解はない。
あるいはブレーキを踏んで摩擦でエネルギーを失うと速度が増す、ゆえに車を止めるためにはアクセルを思いっきり
踏み込んでエネルギーを加えなければならない。
つまり理論物理学者の思考回路はアクセルをベタ踏みしてコンビニに突っ込み、最終的に車を止めるという
○○老人と同じ。
もっともそれゆえ賢明な理論物理学者は免許証返納、すなわち今後一切負のエネルギー、負の質量を使わないと心に誓ったのだ。
単にブレーキとアクセルを踏み間違えただけなのに。 現代物理学では特殊相対論のロゴマークを貼ったKG方程式の負の解はそのままダイレクトには使えない。
それゆえディラックの海だとかファインマン流の先進解を使って負の解から導かれた陽電子などの反粒子を
正のエネルギー、正の質量をもつように再解釈している。
しかし私に言わせれば粒子と反粒子はあらゆる物理量は反対であるが、ただし質量だけはどちらもプラスというのは
お経を書かれなかった耳なし芳一の耳のようなものだ。
ようするにいずれ亡霊に引きちぎられる運命にあるということだ。
なに手抜きしてんだよという話だ。
実際今日誰もディラックの海もファインマン流の先進解も使ってない。
つまりそれは未だ反粒子は正のエネルギー、正の質量をもつという解釈は仮説に過ぎないということだ。
もっとも素粒子物理学ではファインマン流の解釈は標準かもしれないが、言っちゃ悪いがそれゆえ素粒子は完全に
行き詰ってる、もう何の進展もない、はっきり言ってオワコン、
もし素粒子物理学が媒質のロゴマークを貼ったKG方程式、すなわち反粒子は素直に負のエネルギー、
負の質量をもつとすれば素粒子物理学は一気に華やぎ、そして再び科学界の花形に返り咲くのだが。 そもそも媒質を否定した特殊相対論と量子力学が結びついたら媒質の世界を記述するKG方程式が導かれた。
そして時間が二階のKG方程式から負の確率、負のエネルギーが出てきた。
そして物理学者は負の確率、負のエネルギーの解釈に頭を悩ませることになる。
いや頭を悩ますのはそっちじゃないだろ?、KG方程式が媒質の世界を記述する方程式なら負の確率、負のエネルギー
は何の問題もない。
問題なのは媒質を否定した特殊相対論と量子力学が結びついたら媒質の世界を記述するKG方程式が導かれた、だ。
物理学者が思い悩むのはこっち。
でその答えは明らかだ、すなわち場とはいつも媒質の後追いしている周回遅れのランナーということだ。
周回遅れのランナーは一見ぶっちぎりで先頭を走っているように錯覚するが、もちろんゴールするには
もう一周、何周かしなければならない。 媒質の世界では負の確率は何の問題もない。
なぜなら媒質の世界は二面性を帯びているからだ。
例えば酸性の水溶液にリトマス試験紙を入れると赤色に変色する、つまり青くなってはリトマス試験紙は用をなさない。
しかしそれがアルカリ性なら今度は青色に変色する。
つまりリトマス試験紙にとって酸性が青、アルカリ性が赤になる可能性は互いに負、すなわち存在確率は負とすればいい。
水は電離して水素イオンと水酸化物イオンに分離するが、水溶液において水素イオン濃度が高いのが
酸性であり、水酸化物イオン濃度が高いのがアルカリ性だ。
つまり酸性だからと言って水酸化物イオンが存在しないわけではない、逆も同様である。
つまり水素と酸素の結合体である水は本来どちらとも言えない中性であるが、
酸性とアルカリ性という2面性を備えているということである。 現代物理学において最終的に負のエネルギー、負の質量を消し去ったファインマン流の遅延解、先進解による
解釈は少なくともマクロ寄りの半導体には使われていない。
すなわちLEDやレーザーによる発光に電子が時間を過去と未来を往還しているなどというコンセプトはない。
むしろ負のエネルギー、負の質量を色濃く残したディラックの正孔を使っている。
もし半導体に先進解、先進波が使われているなら、ChatGPTにお願いすると明日のスポーツの試合結果
競馬の着順、株価をこっそりと教えてくれることになる、しかしChatGPTにそのような機能はない。 結局ファインマン流の解釈は現在どこからもお呼びがかからないわけであるが、その起死回生、一発逆転を
狙ったのが量子コンピュータだ。
すなわち量子コンピュータのマスコットキャラはこの世とあの世を行き来するいわゆるシュレ猫である。
つまりシュレ猫の数学的裏付けを保証しているのが遅延解、先進解だ。
すなわち生きている猫が時間を順行して死んで骨になる、そして呼吸、水、血液、神経の信号等々
あらゆる流れが停止する。
さらに死んだ猫が時間を逆行し、骨に肉が付き、あらゆる流れが復活する、そしてさらに生きている猫が時間を
順行し・・・とこれを永遠に繰り返す。
ならば量子コンピュータの開発者は投資家にそのようにプレゼンすればいい。
そしてそれにより感動した、アメージングと言って資金をじゃぶじゃぶ注いでくれるか、それとも眉唾もんだと言って
資金を引き揚げるかのどちらかだ。 いやだかと言って私は重ね合わせ及び時間の逆行を否定しているわけではない。
つまり量子コンピュータの原理がブロッホ球ならば、そして北半球、南半球が定義できるならば、
すなわち部分系である半球同士の重ね合わせならばそれはシュレ猫ではない。
さらに時間の逆行にしても北半球と南半球では互いに時間の流れが逆行している。
つまり現在北半球の住人の生活スタイルは「夏が来た」で連日の猛暑、ファッションといえば厚着から薄着へと肌を露出してゆく。
ところが南半球の住人の生活スタイルは「冬が来た」で薄着から厚着へと変遷する。
そもそも北半球ではサンタさんはトナカイがそりを引いてやってくるが、南半球ではサーフボードに乗ってくる。
でこの時間の順逆を保証するのが因果律と無縁の複素共役。
時間の逆行はフィルムの逆回しという強烈なドグマを真に受け、親殺しのパラドックスに代表される因果律
と闘ってきた勇者たちには誠に申し訳ないが、ご苦労さんというしかない。 ある意味数学、そして物理学にとって無限と時間の可逆性は2大精神破壊装置といっても過言でない。
実際無限集合論に功績を残したカントール、そして時間の可逆性を突き付けられたボルツマンは同じ
運命をたどっている。
しかし無限集合論は ℵχlim(∞)=0 でひとまず解決する。
さらにボルツマンはある運動に対しそれを時間反転したフィルムの逆回しという解も許されるという執拗な攻撃に対し、
「時間の逆行とフィルムの逆回しは何の関係もねーし、時間の順逆は数学的に複素共役だし」と反論すればよかったのだ。 もしエーテルが存在したらhttps://science6.5ch.net/test/read.cgi/sci/1142171928/
127 : ◆GOVXYB0Zc. :2008/05/13(火) 21:19:33 ID:???
水は分子(H2O)という離散的な粒の集まりであるが、水はさらに二段階の離散性を帯びている。
我々は普通水の流れ、すなわち水量は連続的なモノとして認識している。
実際バケツに水を満杯にしようとすれば、水道の蛇口を全開にするだろう。
さらにそれがコップならば、蛇口をやや絞るだろう。
さらにそれが計量カップならば、そして目盛りに合わせるならば、さらに蛇口を絞るだろう。
しかしどんなに頑張ろうとも、蛇口から流れる水を蜘蛛の糸のように細く絞ることはできない。
なぜなら最終的に水の表面張力が打ち勝ち、水滴となって落下するからだ。
すなわち連続から不連続に変わった瞬間である。
もし蛇口の下に水の張った洗面器があったならば、水面に生じる波は量子化されて E=hνである。
つまり、水の表面張力はあたかもプランク定数のような役割を果たすのだ。 >>80-85
つまり水の表面張力が連続量を離散化させるように、ミクロにも同様なメカニズムが存在する、
そしてそれを空間張力(スペーステンション)と呼ぶことにしよう。
よくプランク定数は我々にとって極めて小さい値である、ゆえにプランク定数ゼロの極限でマクロ系
の連続量は保証されるというが、これはミクロ系とマクロ系の統一を放棄したも同然である。
もしそのシナリオが正しければ雨は雨音、すなわち粒として降るのでなく蜘蛛の糸のように垂れることになる。
まあそれはそれで荘厳な光景であろうが。
つまり統一とはそういうことではない、統一するということは両者の間に同じパターンを見出すことである。 さて媒質の世界を記述するKG方程式からは必然的に物理量は離散化される。
例えば地震を引き起こす源は断層である、つまりコンデンサが電気的エネルギーを蓄えるように断層は
力学的エネルギーを蓄えることができる。
でその断層がエネルギーを蓄えるメカニズムは摩擦である。
もし断層の境界に摩擦がなければ例えプレートの運動エネルギーが断層に加わったとしても単にずれるだけである。
しかし実際には摩擦によりずれまいという力が生じる、すなわちこれが虚ベクトル。
つまり摩擦により踏ん張れば踏ん張るほど虚軸である位置エネルギーは蓄積される、そしてある閾値、すなわち限界点に達すると
一気に溜まっていたエネルギーが解放されいわゆる地震として観測される。
すなわち虚ベクトルが実ベクトルに豹変する。すなわち i^2=−1
つまり地震のメカニズムは断層に摩擦があるから地震が起きないのであり、そして摩擦があるゆえに地震が起きるということである。 地震は連続的なものではない。例えば関東大震災はおよそ100年周期で起こる。
決してちょっとずつ小出しにしない。
もちろん非線形である。もし線形ならば日食や月食のように日時をカウントダウンすることができるが実際は予測不能、
すなわち確率的である。
その理由はそもそもプレートの運動が一定とは限らないし一回毎に断層は劣化するかもしれないし組成が変わり
摩擦係数が一定とは言えないからだ。
いずれにせよ断層による地震は摩擦係数により量子化されている。 地震が発生するメカニズムはバイオリンの弦を弓で擦って音を出すのと同じだ、ようするにそこに摩擦があるからとしか言いようがない。
そしてその原理は指パッチンと同じである。
もし指と指の間に摩擦がなければつるっと滑って音は出ない。
つまり指と指の間の摩擦によりダムが水をせき止めるように加えた力の溜めが生じる、そして閾値を越えると一気に
溜まったエネルギーが解放されあのような音がするのだ。
その意味では摩擦はエネルギーを蓄える容器であると言える。 ちなみに連続量を不連続に、すなわち量子化の意味をもっとも的確に表しているのが鹿威しだ。
すなわち鹿威しにおいては竹筒の容積、すなわち容量は決まっている、ゆえに竹筒が傾いて排出される水の量は一定。
ゆえに一回毎に発する音のエネルギーは同じ。
すなわち単位時間における竹筒に流れ込む水量が多かろうが少なかろうが、すなわち音が鳴る周期は異なるが一回毎に
発するエネルギーは一定。
ようするに自然界及び我々の身の回りに何かを溜め込む容器があるならば、それは連続量を量子化するが可能だということ。
実際ペットボトルや缶があれば連続量である水などの液体を1個2個と数えられるということである。
そして当然ミクロの世界のプランク定数も、エネルギーを溜め込む容器が存在することの表れに他ならない。 このスレッドは1000を超えました。
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