△△△△△八甲田山 第十二次雪中行軍△△△△△
三十一連隊の研究結果もさることながら、このときの救出作戦計画は後に大いに役に立ったんじゃないの?
むやみに救出隊を突っ込ませずに、一定間隔ごとに壕を掘って拠点を構築して、極寒の中で歩哨を立てつつ
伝令も行き来させて連絡線を維持するって、黒溝台で秋山支隊が実行した防御作戦だと思うけど >>59
そういう一言居士お呼びでないの
雰囲気見てわからない?ま、わからないんだろうね >>60
行軍計画にその要素があれば
移動スピードは格段に落ちるけど田代にたどり着けたかもしれないし
ダメでもほぼ無傷で引き返せたっぽい。面白い話 第5連隊の演習はそもそも目的が青森平野から八甲田を横断して三本木平野へのソリによる大量輸送が可能かどうかの研究にあったから、
大人数になったこともソリの放棄が遅れたことも致し方ない部分はある >>61
実際に残ってる当時の資料や現地の地理を元に当時の未発達な知識を前提において史実の遭難を議論するのはもちろんとてもいい事だよ
でも一次ソースも不確かな情報や憶測に基づいて一方的な現代視点だけで批判するのはどうかと言ってるの
このスレは史実と映画の区別がついてないレスもちらほら見かけるしね
118年前の事件たって今でもその子孫の人達の多くは存命しててデリケートな話題なんだからさ
上のレスが言葉足らずだったのは謝るけど それは失礼した。
でもどうしても我慢ならんなら、
そのようにキチンと書いてもらった方が(できればアンカつきで)納得がいく 捜索計画の骨子は、田茂木野に捜索本部を置き、田茂木野から田代の間に15の哨所(中継基地)を作るというもの
屯営と田茂木野間は電話線を設置し、緊密に連絡を取り合う、こうして人員と物資を前へ前へと送り込む作戦 31連隊の演習は日露戦争で役立ったかも知れない
でも5連隊の演習は役立ったかは疑問
この演習は日本が日本海の制海権を完全に失い陸奥湾までロシア海軍が侵入して来る想定だった
後から考えると想定自体があまりにも悲観的だったと言わざるを得ない 行動を項目・程度ともに細分化して到達度という形で評価するという観点はなかったのか
仮に総合到達度20%だったとしても兵卒(および銃)が無事戻って来れば成功のうち、って時代じゃなかったんだね
目的完遂以外は失敗というなら、なおさら段取りに手間ひま時間をかけないと 「冬季における人力による田代街道の物資大量輸送は不可能」とわかった点をどう評価するかだね
当時の弘前第7師団がどう評価したかは知らないけど 映画には描かれてないけど段取りした中尉と行軍した中尉は別人なんよね?
完全に段取りをミスってると思うんだけど実際どうなんだろう? 実際に指揮した神成大尉のことはよく出るけど、2週間前まで企画立案していて夫人の出産で任務を外れたという将校は名前すら出ていない 実際に指揮した神成大尉のことはよく出るけど、2週間前まで企画立案していて夫人の出産で任務を外れたという将校は名前すら出ていない >>70
いや、>>67にもあるように屯所を次々に前進させていって最終的に田代新湯にたどり着いてた
村山伍長(村松伍長)を発見、救助してるんだから物資の輸送は可能なんじゃないの?
悪天候の時だけ天候の回復を待てばいいんだから 救助活動はソリを使ってないからね
演習の目的は厳冬期における青森平野から三本木平野へのソリによる輸送の可否の研究だった
だからこそ足でまといのソリの放棄が遅くなったわけで >>77
200人近い遺体をソリを使わずに一人ひとり担いで来るとはとても思えんが?
それに、山田大隊長もソリに乗せられて田茂木野に帰って来たじゃないか 背負ったんだと思うよ、特に生存者はね、死体はカチンコチンに凍ってるんだから
毛布にくるんでロープで引いて行ったんだと想像してる
田茂木野以南は全く人背に頼るしかないと遭難始末に書いてある 戦国時代だって絶対雪山で戦なんかしなかったのにね。ノウハウがないのに無茶したもんだ >>80
合戦じゃないが佐々成政が厳冬期の立山連峰を越えたさらさら越えの逸話はあるな
真冬に富山から浜松までの走破は今の装備でも容易じゃない
補給もほとんでできないしね 前九年の役で安倍貞任が、雪の栗駒山を越えて国府軍に奇襲攻撃を掛け、大勝したという話も残ってる >>81
戦国時代は現地調達という名の略奪が当然のこととして認められていたのも大きいんじゃないかな >>81>>82 それなりに先例があったのか。だから強気だったのかもね。 屯営発じゃなくて田茂木野発だったら田代新湯通過して一気に三本木平野まで下れたのかな? 絶対無理、31連隊は逆方向から 三本木→増沢(一泊)→田代(一泊)→田茂木野
物資輸送と言ったって、実際にやることになれば1回の輸送じゃ済まないんだから、2km進んでデポ設営、また2km進んでデポ設営ってやって、バケツリレー式に輸送することになるんだろうな。 航空機による空襲が無いから、物資の大量輸送にはある程度の間隔でベース基地を作って基地間の往復の繰り返しで実施することになる
でも第5連隊の演習はそうではなく単発のソリによる大量輸送の研究が目的だったんだろうね >>59
この遭難事故は、方や全滅寸前の失敗、方や殆ど負傷者無しの成功という
2面があるから今でも教訓として残ってる
これが、双方失敗だったら蛮勇か
この装備では無理だったで終わる 31連隊の方は大陸での作戦行動についての研究が主目的だったんだよね >>91
南極点を目指したスコットとアムンゼンと似た構図だね
北極点を制覇したピアリーには何らのドラマ性はなくほとんど忘れられているのと極めて対照的 31連隊の方の福島大尉も、5連隊で最も元気だった倉石大尉も黒溝台の会戦で戦死しているのに宿命を感じる
手足を切断した方が人生を全うできたというのが何とも物悲しい 今更の疑問なんだけど、
通信兵居なかったの?(無線の)
定時連絡とかしてればこんなことにならなかったと思う >>95
当時は、まだ可搬式の無線機はなかったと思うよ。 二百三高地では電話線を丘の上まで引っ張ってた
死体を電柱代わりにして
日本海海戦では信濃丸が敵艦隊ミユを打電してたね
八甲田山の10年後1912年にタイタニックが沈没の際に打電したのが史上初のsos というまさに無線低迷の時代だな この当時はまだ実用的な無線機はなかったのか
色々無理があるか >>98
劇中で行軍中止を決定するが、どうやって連絡すればいいのか頭抱えるシーンある。 三本木に問い合わせて行軍隊が出発したのを聞いてホッとした五連隊
なんで連絡せんのか山田がついていながらという会話があったね もう一度問い合わせたら八甲田山に向かったと聞いて弘前隊と勘違いしたことが判明
電話のあるところに着いたら連絡する事にはなってたんだろうね 無線やモールス信号が普及したのっていつだ?
初日の時点でSOS出来ればおそらく9割以上は生還できたはずだ この十年後の南極探検のスコット隊もアムンゼン隊も無線機は持っていなかったらしい
サイズの問題もありまた極低温で動作するかという事もあったのではないか
マルコーニが無線を発明してまだ間がない時期だしな 馬立場〜鳴沢間でソリを放棄してるけど、何故ソリ放棄して進軍続行したか悔やまれる
あそこでソリ放棄だけでなく撤退していれば絶対に全員生還できた
確かに田代新湯は目前ではあったのだが、、、、 無線機を持っていくことができたとしても当時のバッテリーじゃ、氷点下20°近い環境下で
あっという間にヘタって使い物にならなくなってたんじゃないかな? >>104
軍艦レベルだと無線通信に蓄電池を使ったみたいだけど、歩兵部隊が移動しながら使うなんて夢のまた夢の時代だろうね。
乾電池は実用化されて満州の戦場でも使われたみたいだが、果たして無線通信機で乾電池で稼働できるほどの低電力で通信できるものはあっただろうか 神成大尉ってイケメンだよなあ
彼はあと少し運が良ければ生還していたはずだが、生還したら責任負わされて地獄だっただろうな
日本陸軍の悪習で、死ねば許されるというのがあったから 南極に犬置いてきたくらいで非難轟々だったからな
神成大尉は生還しなくてよかったよ 行軍隊の長距離通信手段はラッパくらいだもんな
あの吹雪だと100m先でも聞こえんように思うが 平沢の森から田茂木野まで8kmくらいか?
200人いたんだから40mおきに1人ずつ立たせれば田茂木野まで戻れたのに >>109
最後の一人が俺が最後のはずなのに後ろに人が!!
みたいになって八甲田に大きな人間の輪が完成する 直線距離で8.5kmくらいだから、高低差を考えると実際歩く距離は10kmはゆうに超えてると思うぞ 別に10kmなら50m間隔にして200人並べりゃ良かったんじゃないの 問題は距離じゃなく方向だしな
何人並べようが明後日の方向だったり崖で阻まれれば意味がない
むしろ早めに解散全方位に解き放って自由行動させた方が生存者が増えたかもしれない 雪が降る前から毎日毎日、行軍隊を往復させて獣道を作っとけばいいよw このスレは岩手や宮城のものが多い
本当の雪の怖さがどんなものだか知らない連中が多いのはとても危険な事なんだ
トレイルなど八甲田山の豪雪の前には1時間後には痕跡すらなくなる事すら知らないのだ
そこをはっきりと善次郎にだな それはない田茂木野で引き返せば間違いなく全員生還できた 田茂木野じゃなくても軍医が撤退を具申した時点でも間に合っただろ?
下士官たちが兵達に弱いところを見せまいとしてイキっちゃったのが原因 永井軍医の撤退進言は大峠だったはずだが、ここで撤退でも間違いなく全員生還できたね
どこまでだったら全員生還だったんだろうか 馬立場が16時なら馬立場で撤退でも全員生還できたと思うよ
たぶんソリを放棄しなくても22〜24時くらいには田茂木野に着いただろう
馬立場までは迷ってなかったし 馬立場で引き返せばたぶん全員無事だった
鳴沢まで行くと微妙だが 軍隊組織の融通の利かなさが出たね それまでの戦なら軍大将の一存ですべて決まったのに むしろ融通効かせて下士官の意見聞いたから引き返さなかっただよね
上の一存なら大峠で引き返していた むしろ融通効かせて下士官の意見聞いたから引き返さなかったんだよね
上の一存なら大峠で引き返していた 天候はどんどん悪化してるわけですからね、日没後は暴風雪です、一寸先も見えないような状況
そう考えると、日没までに田茂木野、もしくは田茂木野近くまで帰れないとだめでしょうね
馬立て場からだと賽の河原あたりで日没になってしまうんじゃないですかね もう馬立場付近で日没だったんじゃないかな
午後5時頃でしょ もっと早いうちから出発しないとね
田茂木野村でもまだ夜明け前くらいでないと明るいうちに田代につけないかも でもあの状況なら馬立場で引き返せば深夜まで頑張って田茂木野まで到着できたんじゃないの?
最後尾は夜9時まで歩いてたんだから深夜まで歩けたでしょ 日が暮れた時点でアウトでしょ
吹雪いてるんだから月も星も見えない、コンパスが凍ってる状態じゃ方角が見定められない
まだ十分に日が高い時点でその日の行軍予定を終えてるくらいじゃないと
その意味では31連隊も結構危ない橋を渡ってる >>134
神田大尉のコンパスしか使ってなかったからな。
あの段階で山田少佐が自分のコンパス見たらびっくりだっただろう。 吹雪の中で下士官まで呼んで小田原評定やってるんだ。指揮官の資格無し、大隊長も頭ごなしに命令出すわ。
津波が迫ってるのに小田原評定やってほとんど全滅した某小学校の教員なみに無能だ >>139
加藤嘉の村長が、ソリに乗せられ下山する山田に
m9(^Д^)プギャーするシーンを入れてくれたら相当スッキリしたのにw >>140
物陰でヒソヒソ
村人「山に入った兵隊さん、みんなオロクジサマになって帰ってきたな」
村長「言わんこっちゃねえ。いくら兵隊さんでも山の神には逆らえねぇンだ…」 意外としっかりしている村長の話によると地元の若いものも13年前に11人4年前に6人と遭難しており冬場暇な若い連中はちょくちょくウェーイ的に山に出かけていたことが窺える
この雪中行軍隊の犠牲により今後そうした無謀な若者の流石に雪の八甲田に挑戦しなくなったと思えば地域貢献になったとも思える 遺体で運ばれてきた神田大尉
それを見た村長さん「おらぁこんな人知らねぇー」 >>145
そんちょうでなく、ムラ(の)おさといえばいいかな
今みたいな自治体ではなくて、集落とかそんな意味合いと自分はとってるけど Σ(・ω・ノ)ノえっ!
田茂木野に小学校があるの?