今、此処は知っているといい
向こうにある事実を頭が認めてから、その認めたものの上から、あーでもない、こーでもないと講釈を垂れるわけだが、それ以前にもう終わってしまっているし、現在進行形に流れているわけだから、認める活動がなかったら、これが私だとかなんだとかかんだとかいう認識がなければ、元々からして、自由自在で縛られてなどいないのである