仏のスレ18
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>626
念って覚えているってことなんだが、想い思うは念じゃ無いよ
その意味で、念で良いのかな? 無為にして為す
ってことがある
しかし、ラオツーって何で釈迦の後ろに付けるんでしょ、道元さん >>665
最も深層、マナと阿頼耶の深層からの、反射的なものが吹き上がってきた時
そのような時に、あーだこーだは、対応出来なんですよ
だから、根本的に解決された、素の状態で超えた意識に立脚さた処で生きないと
↑
だから無為法をしれば解決するんよこれ
だって無我やもん
単純なことなんだかなあ >>668
反射的に吹き上がるもの
それは怒りや悲しみ喜び衝動欲望慈愛
全部同じものなんよ
まずそっから気がつかな
無記なんよ ≫思うはたらきに、思う主体はない
思うはたらきが、思う主体があると錯覚させている
一歩踏み込んだね >>668
だから
その言う無為法を知るの消息を語らなきゃ
その先を語ってくれよ〜 >>669
俺の体験では
怒りの情が最も根元的で瞬時のものだな
これに敵う早さは無いな
明王の憤怒相は、その根元的な、深層を表しているはず >>672
いや唯識に倣うなら無記から色付けされてる
ことはわかるやろ
根元的な憤怒相なんてものはないんだよ 670.
思うはたらきに、思う主体はない。か。
否定すべきである。
思う主体がある。 自他一如であれば、明王のお姿は他ならぬ自身となるのです。
掛かる意味に於いて明王様がご自身をお焼きになる火炎憤怒の相は、自身が煩悩を滅している姿でもあります。 >>672
根元的なと思ってるそれは
末那識が無記を色付けしてるだけやん >>639
>「余計な事はせんでもいい、ただ坐禅しろ」でもいいのですが、我々は在家で雲水では無いのですから、一概にそうとはいかないって思うんです。
???
え?文章の意味が分からん
>先にもレスしましたけど、私は平日は就寝前、休日は朝・夕・就寝前に20~60分の坐禅と参禅ですね。
仏教書は読みます。
宗教書や哲学書も。
???
え?え?え?冗談だよな? >>678.
坐禅と参禅とを毎日する、か。
それは、師家のやることである。 >>676
え?え?え?え?え?
おいおいおいおいおいおいおい
これこそ「鈴w」「精神病院にレリゴーw」だろw
余計な事ばかりだなお前は
つまらん まぁ、龍樹(中観)を経てから無著・世親(唯識)にいかないと、どうしても法有的な考えになりがちかもしれませんね。
強いていうと、倶舎→中観→唯識がいいのかも。
まさに色即是空・空即是色。 童天もとうとうでおー化したか。
疑義を呈することも反証もなく、誹謗中傷するだけのブンブン銀蝿🪰の仲間入り。
哀れむべし。
憐れむべし。
栖雲合掌🙏 あなたがそう思っているだけです、なんて言われたたら
怒っているのもバカバカしくなるわ
自分の世界で自分に鈴をならしているだけだ
くだらん 鹿さん、バイバイ、みなさん、バイバイ
(@^^)/~~~ >>684
お前の真似してるだけなんだけど…w千枚通しで喉をつけと書かないだけ大目に見ろよw
でおーに近いのは鹿なんじゃねぇのぉ?掲示板二十年プレイヤーだしお前の先輩だろ?w
爺の自分語り一方通行レスは気持ち悪いでしょ?
8年も掲示板荒らしてる実績考えればハッタショありそうだし 石女が本を読み、木女が座禅をする
仏が本を読み、仏が座禅をする
法が本を読み、法が座禅をする >>688
私から誹謗中傷はしません。
降り掛かる火の粉は払う主義です。
あなたが私への火の粉になるのなら、粛々と払うだけの話です。
いや、払う時間が勿体ないし、透明あぼーんにして終わりですね😟 >>686.
仏教をやっている、か。
それだから失格である。
仏をやっている、と言え。
されば合格となる。 夕さんも変わらんねぇ
息災で良しとするか
>>692
透明あぼーんにすると何回書くんだよ?早くしろよクズ
降りかかる火の粉ってお前の独り相撲
ニューエイジ、スピ、グノーシス主義が伝統仏教を攻撃してる!なんて騒いでたのはお前だけ
火の粉払うってお前が火種…統失の妄想 ドーテンが
絶叫してる〜
ほんま、
困ったヤツやの〜
オレはお上品に
曹洞宗寺院で
勤行一式のお役目果たしてきたぞ
😄 ?????
はて?
キリスト教のスレでもその指摘(オカ・スピ・ニューエイジとその源流でもあるグノシース主義の擬態と伝統宗教への批判)に気付かれて、その違いを明確化する事によって、互いの信仰を傷つける事なく問題決着の途が拓かれたど思いますが? 五木ひろし並みに眼が細くなるなー
曹洞宗寺院の勤行は〜
😄 ナントカ流曹洞宗寺院は
たぶんがん開きまではいかないが
まーまー開眼気味やろなと
想像できる
😄 ドーテンも
ムイムイ並みに
メンタルダメージと
怨怨好きやなー
🥹 曹洞宗寺院勤行一式の余韻か、眼が細くなるなー
よこはまー
たそがれー
♫ ≫☆思うはたらきは、ほかならぬ☆【自分自身】を思うことができない
この自分自身が、何を言うているのか? 「眼はその眼自身を見ることが出来ない」という文脈なら、「思考はその思考自身を思考する事は出来ないって」なりますな🙂 訂正
「眼はその眼自身を見ることが出来ない」という文脈なら、「思考はその思考自身を思考する事は出来ない」ってなりますな🙂 ≫1【心を止滅】させると戻ってきた時にも
2【何も体験出来てない】のだから
3【はっと気付く事】は出来ないと言うが
そうだろうか?
この1はどの心を言うのか?
2の体験は、との意識層での体験を言うのか?
3は、何を表現しているのか、詳しく表現がほしい
でないと、よーわからんです ドーテンと
せいうんここじき様の
レスは
シルバーバーあぽーんしません
😄 せいうんここじき様は
せいうんここじき様の
三毒は見えない
🧟🧟🧟🧟🧟 >>674
だから
無為法知ったんでしょ〜
その【知る】とは
どのレベルで知っているのさ タさんみたいに戻って来てネタ振りして下さるのは有り難い事ですが、童天って戻って来てやってる事は、ポジション(居場所)確保的なマウンティングと誹謗中傷でしょ?
当然 コイツ要らネー ってスルーされるよな😟 >>677
だーかーら
知的説明不要
自らの体験を交えてお願い
特に
あの交通事故を回想をしてみてよ
無為だろあれ
無為でボコボコにしたでしょ車を
その時の五蘊と潜在意識との、覚醒状態、ボコボコしている時に、何を何処の意識に翔んでたのか?
そこに、最も深い処が見えて来ないか? 道元が中国であった僧が言った、とさ。
お前道元は仏教のために中国に来たか。
俺は、仏を実行する、ために、
ここに居る。 >>677
もっとくわすく!
マナの思量がそんなに速いんかーい❗
マナは阿頼耶を執着してから思量すんでしょ?
そんなの、遅い遅い >>713
あれは無為じゃねえは
離脱で遊びまくってた時期
念の相続しまくってたときや
まさに魔境に囚われてる状態 >>715
いや遅いとか早いじゃなくて
仕組み的にそうなるやろ?
なんで一方からしかみないのよ ≫俺は、仏を実行する、ために、
ここに居る。
これって
覚り宣言に等しいでしょ
おれは、仏だよ〜って >>715
レイヤーが自我視点で固定化されとる
とにかく逆観やってみ 回想が足らんな〜
自分がしたことでは無いなら無為でしょ
ところで、あの頃の意識より、今の意識が成長したの?
あの事故の何処に問題が有ったのか?
また、何故そうなったのか?
そういう、反省会的に、自分で分析したの? >>713
知的説明も何も
体験するために超具体的に提示したやんけ
読んでないんかい >>720.
仏になる、方法が仏教である。
仏になった後は、どうなる、か。 >>719
あのさ
体験的に証明できてるの?
出来てないなら、言い切るなって
阿頼耶は同時でしょ >>724
まず無為のすり合わせしようか
人為がないのを無為って言うより
倶舎論、唯識論の無為法(真如)の話な
事故の影響で尚更深まったよ >>727
いやだから
馬さんにも再現性があるから
一からの手順いうとるやん シルバーバー行進に
なってもーた
ドーテン
ローラー
もどってこ〜〜い
😭 >>722
個人的は、煩悩の生起する過程は、体験的にその過程は分解して、知的にも体験的にも仕組みは理解しています
全ては対象を取って、執着し、それに依って、起こる訳ですから
その過程の元から断つことで、その生起はされないと言えます
これを日常の現場で実践すれば良いんですよ
ところが
リダンさんは、そんなの分かった上で、煩悩三昧でも良いじゃん!
って、スタンスでしょ
ところがどっこい!
それが自我の自己弁護、自己欺瞞ってなっていることに、その自己が気が付かないほどに、眠り込んでいるんですよ
本心が >>728
何が深まったの?
意識の相続が切れたんでしょ?
あの事故は
要は居眠り運転と同じでしょ? 無為法とは常住法すなわちサンカーラではない法をさす仏教用語。
仏教は一切法(sabba-dhamma)を、無為法と有為法に明確に二分して、両者を全く異質なカテゴリーとして扱う。
有為とは因縁により生滅する存在(無常)であり、対して無為(むい, 梵: asaṃskṛtaとは、
特定の原因や条件(因縁)によって作りだされたものではない、不生不滅、形成されざるもの(常住)の存在のこと。
また、涅槃のことを無為ということもある。
説一切有部においては、過去・現在・未来の多種多様な有為法が、無数の法の流動生滅が織りなすところこそ、
われわれの生きる有為転変の世界であるとしたうえで、
そのような因果的存在を超えたところに見出される常住の涅槃こそが無為であると考えた >>733
いやそれこそ無我なのに
本心ってのがまやかしによるものやん >>733
元から断つってのに囚われすぎなんよ
見所断でもう断たれてんねん
修所断においては無為法を利用するでええんよ
日常まで断滅の必要はないんよ
無余涅槃を目指す必要はないんよ 三無為
説一切有部は三無為を唱え、以下の3要素を生滅的なあり方を超えたものとして無為法に数えあげた。
1虚空(こくう、梵: akasa) - 物(色)の存在する場所としての空間。
2択滅(ちゃくめつ、梵: pratisaṃkhyanirodha) - 涅槃のこと。
無漏の(正しい)知恵によって個々の煩悩の拘束から離れる時に得られる滅。
「択」とは法に対して正しい【弁別判断】をなす洞察力のこと。
3非択滅(ひちゃくめつ、梵: apratisaṃkhyanirodha) - 正しい知恵によらない法の止滅)
縁起については、品類足論に「【縁起法】とはいかなるものなりや。
謂く【有為法】なり」とある一方、
倶舎論では
「有るが説く【縁起】は是れ【無為法】なり」とあり、
同じ説一切有部の中に複数の考え方が存在している。 四無為
世親の五蘊論では、三無為に【真如】を加え、四無為としている。
真如(tathatā)
六無為
華厳経十無尽蔵品 では、三無為に以下を加え、六無為としているg。
4真如(tathata)
5縁起(十二縁起)
6法性(法界)
八無為
瑜伽師地論、大乗阿毘達磨集論(英語版)では、三無為に以下を加え、八無為としている。
4善法-真如
5不善法-真如
6無記法-真如
7不動(Anijya)
8想受滅(sanna-vedayita-nirodha)
九無為
化地部では三無為に以下を加え、九無為としている。
1不動
2善法-真如
3不善法-真如
4無記法-真如
5道-真如
6縁起-真如 真如 (巴, 梵: tathata、蔵: de bzhin nyid)は、
原義では「あるがままであること」「そのような状態」という意味であり、
物事の真理・実際のあり方 (the way things are in truth or actuality)、
無名で無個性な現実 (nameless and characterless reality)のことである。
『金剛般若経』のサンスクリット本に出て、「真如性」と訳されている。
「真」とは真実、
「如」とは如常の意味である。
諸法の【体性虚妄を離れて】真実であるから【真】といい、
常住であり不変不改であるから【如】と言うとされる。
真如はまた
1法
2自性清浄心→【本心】
3仏性、法身→【本心】
4如来蔵
5実相
6法界
7法性
8円成実性
と同体異名であるとされる。 仏教用語としての【本心】は、
自分の心の奥底に存在する【本性】や【仏心】、【仏性】とも呼ばれ、
感情的な心ではなく、仏になる可能性ともいえます。
臨済宗大本山 円覚寺によると、自分の本心や本性の尊さに気づけば、それは生まれや死などがない【仏心】であり、生き通しのいのちであるとされています。
横田南嶺-禅師
達磨大師は「【仏】を見たいと思えば、自分の【本心・本性】を見よ。
自分の【本心・本性】こそが【仏】hである」と仰せになっています。 >>739
本質が分かって無いよ思うよ
見処断が無為からなら良いけど
有為なら、ただ繰り返しでしかないから
永続的断でないよね
まあ、それを継続されて行けば、無為の種子になるんだろうけどね
でも、煩悩三昧では、ダメよ!ってことですよ >>745
自在ってなだけで本当に煩悩三昧だと
見所断自体が起きないからそれは杞憂だよ >>744
本心ってそっちの意味か
ならなおさら末那識は関係ないてしょ >>739
無余?
誰が目指す?
臭いは元から断つんだよ >>745
何を言ってるんだい
見所断は無為をしるからなるんであって
有為ならとかいうのは意味が分からないぞ >>749
ほう
分かって言ってるんだね
その無為って何さ?
本心だろよ
本心って知的に知ったってダメよ
体現したら、見処は、本心に映った途端に、既に裁断されている
要は、識、見分相を取らず >>753
いやだからすり合わせしたろ
無為法は作用しないってこと縁起しないの
滅尽は有為法なの(宗派によっては無為法)
滅尽により無為法を知るならいいが
馬さんの場合はまだ滅尽に拘るところみると
そこをウロウロしてるってことだろう?
有為なら、ただ繰り返しでしかないから
↑
まさに自分で言ってるよ 馬さんから無常ということを聞いたことがない
滅する滅するばかり
そこがもうズレとる >>754
俺が?
滅尽定とかに拘った覚えは無いが? >>755
無常?
そうか
そういう言葉、【それもまた過ぎ去る】
ってのは30年前にやってたな
今さら感あって、今は出てこないんだよ >>758
だからよ
無常で答え出てるんだから
それと有為法である自身が一如すりゃ
無為法が立ち現れるやろ
滅す滅すにしか興味ないからうろうろする羽目になる 無為を知ってその様に在るには、本心に在る必要があるでしょ
その入口として
五蘊の停止、滅と
恒審思量のマナの停止、滅、転識が有って、の平等性智
以上を仏性の初門として入り
阿頼耶の転識を経て大円鏡智へ
という流れ
その途中での滅
何故なら、自我意識の滅消滅を経なければ、本心は現れ出でることが不可だから
自己が1つなら、仮我と本心の両方が主導者にはなれない道理
一方が在るとき、一方は滅する
そう言うことでの滅でしょ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています