某HPより、井上義衍師の鑑覚の病いについて

あれは、私が本堂の西の寮へひとりだものだから始終坐っていてね、いわゆる悟後の修行としての、今の間違いを起こして自分を認めた時の様子ね、そういうものに自分をあとから重ねて認めている、その様子に間違いがあるという事をそこで知った。
あれは、悟後の修行の修行というのはね、間違うとそうなんです。
これ(身体を指して)が無いことを知ったんです。
法も人も無い事を本当は、悟るという事はね、もういっさいそういうものの無いことを悟った。
ところがその「悟った」ということがあるために、これ(身)がまた出てくるのです。
無かったはずの奴が、これ(身)を思いだして、これ(身)を中心にして見るから、今度は法が向こうになる。そしてその法のようにこれ(身)をしなければならないという欠陥がちょっと出てくるのです。
そこに悟りを捨てなければいけないという事ね。
悟りがいけないというのはそれなんです。
覚りというものがあると、そういう風な違いがある。
そのへだたりが本当にとれてしまう。
そういうところに今の頬白の声を聞いた時に「ああ、そうか、これ要らんことをしなくてもいいんだなァ」という事に気が付いた。

 そういう事が本当に気が付くにつれて、「どうしなくてはならない、こうしなくてはならない」という事が、全く無くなってしまうのです。
用がないのです。
そしてそれを知ってみると、一番最初に自分で新盛座でやった通りの事です。
ただね。
ですから最初にもうそのまま「スカッ」と行っていたんです。
だから、ああいう時に良い師がいてね、それをすぐ指摘してくれれば、そのまま「ゴロッ」と行ってしまうのです。