仏のスレ18
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>>272
妄想じゃなく
本当にそうなる
大日秘密荘厳心 35歳に成ってから刺激の多い生活が苦痛に感じる様に成りました。
一日中、ラジオを聴いています。
世捨て人の坐禅。
無我の境地で無為と融合。
煩悩が無い自由。 悟り、と言う、ものも、
盗まれて、無くなった、
である、か。
それは窃盗罪である。
捨てた、であれば、
それは、放棄罪である。
精神病院に行け。 雲居士も、
引用した文章の内容を否定すれば、
合格になれる。 馬さんのそうした体験があったとして、それは仏教でいう悟りとは別物ですね、 デンパパ&ローラー&123
ナルシスパーティー
ロン閣下だけが
まともに近い
😄 統失知障オカルトでおーwww
見たら即透明あぼーん😟 >>286.
ロン閣下は、
無い、無い病の典型である。 >285
心配しないで
重要なことは
語っていないんで
言っても意味ないしね
また、俺が平等性智に至った、なんて
マジに言ったら
みんな、発狂するでしょ
ウソ、大袈裟、偽物とか
必ずや、否定するからw
だから
本質的なことは言ったらいけないんですよ
殺されるかも知れんし
誰かさんにw 注意喚起のため、仏教者を名乗るシカチャマの悪行(不悪口破戒)をコピペします。
0919 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/05/11(土) 11:26:22.57
閑話休題。
お釈迦は、托鉢はお金持ちの所には行かないで、貧しい人達の所に行きなさい、と仰ったそうです。
これは本来、施しと云う宗教的な喜びを知ってもらう為の事な筈です。
何故なら、お金持ちは施して当たり前、貧しい人には施しさえ出来ないからです。
しかしどうした事か、それが曲解されて、「前世で吝嗇だったから貧しくなったので、布施をさせて悪業から脱せさせるのだ」だとか「施せばその善業でお金が回ってくる」とか吹聴してるのがいる訳です。
……死んじまえ。
ID:P8CZPwIW シカチャマの所属しているらしい臨済宗では
相手の死を望む呪いの言葉を吐くことを容認するんですかね?
ケチなんか比較にならない悪行をしながら、日々威張り散らしている
自称仏教者は仏教の面汚しではないですかね。
シカチャマ〜😂😂😂 仏教は慈悲が1番大切です。
慈悲に反する言葉を日々垂れ流している人は仏教者を名乗る資格ないです。
どんな生き物にも慈悲の心を持ちなさいとお釈迦様は説かれています。
慈悲なきところ智慧はなし。
シカチャマ〜😂😂😂 >>292
馬鹿鬼の時もそうですが、覚者宣言をどうこう云う積もりはございません。
ただ、仏教の看板を出してのそれの場合、疑義が呈されるという事です。 空中浮遊殺人凶団は、人の事より自身を反省するのが筋だろwww
笑わせるな、殺人凶団がwww >>292
ちなみにその『観心論』の出版社と著者を教えてください。 某HPより、井上義衍師の鑑覚の病いについて
あれは、私が本堂の西の寮へひとりだものだから始終坐っていてね、いわゆる悟後の修行としての、今の間違いを起こして自分を認めた時の様子ね、そういうものに自分をあとから重ねて認めている、その様子に間違いがあるという事をそこで知った。
あれは、悟後の修行の修行というのはね、間違うとそうなんです。
これ(身体を指して)が無いことを知ったんです。
法も人も無い事を本当は、悟るという事はね、もういっさいそういうものの無いことを悟った。
ところがその「悟った」ということがあるために、これ(身)がまた出てくるのです。
無かったはずの奴が、これ(身)を思いだして、これ(身)を中心にして見るから、今度は法が向こうになる。そしてその法のようにこれ(身)をしなければならないという欠陥がちょっと出てくるのです。
そこに悟りを捨てなければいけないという事ね。
悟りがいけないというのはそれなんです。
覚りというものがあると、そういう風な違いがある。
そのへだたりが本当にとれてしまう。
そういうところに今の頬白の声を聞いた時に「ああ、そうか、これ要らんことをしなくてもいいんだなァ」という事に気が付いた。
そういう事が本当に気が付くにつれて、「どうしなくてはならない、こうしなくてはならない」という事が、全く無くなってしまうのです。
用がないのです。
そしてそれを知ってみると、一番最初に自分で新盛座でやった通りの事です。
ただね。
ですから最初にもうそのまま「スカッ」と行っていたんです。
だから、ああいう時に良い師がいてね、それをすぐ指摘してくれれば、そのまま「ゴロッ」と行ってしまうのです。 >>300
此れは諸法の勝義なり 亦は即ち是れ真如なり
常如にして其の性たるが故に 即ち唯識の実性なり
乃し識を起して 唯識の性に住せんと求めざるに至るまでは
二取の随眠に於て 猶未だ伏し滅すること能わず
前に少物を立てて 是れ唯識の性なりと謂えり
所得有るを以ての故に 実に唯識に住するに非ず
若し時に所縁の於に 智都て所得無くなんぬ
爾の時に唯識に住す 二取の相を離れるるが故に
無得なり不思議なり 是れ出世間の智なり
二の麤重そじゅうを捨するが故に 便ち転依を証得す
此は即ち無漏界なり 不思議なり善なり常なり
安楽なり解脱身なり 大牟尼なるを法と名づく 全ては唯識、根本識の本性
唯識性(空)のあらわれってのを確かめた
身体も心も、我も法も「空」(唯識性)っていうないものである、ないものから現れてることを確かめた
でもそれを確かめた、悟ったってものが
今度はまた生まれてしまってる
そうなると
「前に少物を立てて 是れ唯識の性なりと謂えり
所得有るを以ての故に 実に唯識に住するに非ず」
こういう状態になってしまうってこですね 要約すると、
>そしてその法のようにこれ(身)をしなければならないという欠陥がちょっと出てくるのです。
>そこに悟りを捨てなければいけないという事ね。
という事だと思いますけどね。
つまり、見性なり悟りなりを体験すると、人によっては「覚者はこうでなければならない」って鑑覚の病、つまり法縛を受けたって事ですよ。
で、
>「ああ、そうか、これ要らんことをしなくてもいいんだなァ」という事に気が付いた。
って言うんです。 つまり、「「悟ったらこうである」だの「悟ったらこうでなければならない」という縛りなんてねーし、そんなの関係ねー、はいオパピー」って事なんです。
悟ったら悟りを捨てるなんて、そんな要らぬ事をしなくても良いのだと。 『無門関』第四十六則「竿頭進歩」がまさにここを扱ってるんだと思います
本則:石霜和尚云く「百尺竿頭、如何が歩を進めん」
又古徳云く「百尺竿頭に坐する底の人、得入すと雖然も未だ真と為さず。
百尺竿頭、須らく歩を進めて十方世界に全身を現すべし。
評唱:歩を進め得、身を翻し得ば、更に何れの処を嫌って尊と称せざる。
是の如くなりと雖然ども、且く道え、百尺竿頭、如何が歩を進めん。嗄。
頌:頂門の眼を瞎却して、
錯って定盤星を認む。
身を捨て能く命を捨て、一盲衆盲を引く。 悟ったら悟りを捨てるなんて事自体、法縛であり観覚の病なんです。
で、
>そういう事が本当に気が付くにつれて、「どうしなくてはならない、こうしなくてはならない」という事が、全く無くなってしまうのです。
>用がないのです。
な訳なんです。
……ロンさんは180度真逆に捉えてましたね。 唯識性とか空とか悟りとか真如も
つまりは定盤星ってことになるんでしょう
その定盤星がやっぱり一度は消えなきゃならない捨てなきゃならない
でも「捨てなきゃならない」としたらこれまたそれが定盤星になる 要するに、悟りを体験をしても悟りという概念が残ってて、その概念と実際のギャップに苦しみ、その法縛を受けてしまってたって事でしょ。
そんなん、悟りを忘れるだの捨てるだのしたら、余計に拗れるだけじゃないですかwww
>「ああ、そうか、これ要らんことをしなくてもいいんだなァ」
ですよ👍 >だから、ああいう時に良い師がいてね、それをすぐ指摘してくれれば、そのまま「ゴロッ」と行ってしまうのです。
これ、やっぱり独学は毒学です。
そういう事。 別に、人それぞれだろうから、どう行ったって、結果として解決していれば、いいと思うけど、儀衍師の引用から、どうやったら、そういう結論になるのか?w
余りに読解力がない、理解力がないと言わざるを得ません。。w
上、鹿に対してね。。
バカってやっぱ不幸だね。。w 仏教を説いて尊敬されたい人、承認欲求じゃなくて、承認要求に突き動かされて、反射的に反応しているだけの人、だと思うよ、鹿は。。
思考も、それを中心に動いているから、言ってることもおかしくなるし、他人の言葉も理解できない、ということだろうね。。
だから、僕から見たら、鹿ちゃんは、明らかに病人です。。
仏道修行ができる状態ではないですね。。w その根本原因が、先天的か、後天的か知らんが、仏教うんたらの中にはない、その外にあるから、坐禅しようが、勉強しようが、解決はないと思います。
病そのものを自覚して、向き合って、じゃないと、治らないでしょう。。 単純です。
悟りという法縛からどう脱するかでしょ?
>「ああ、そうか、これ要らんことをしなくてもいいんだなァ」
って事ですよ。 鹿ちゃんが、もし、今より心穏やかに、安心して暮らしたいのであれば、自分の病に直面する、しかないですよ。。
自覚するしかないです。。
自分以外は、誰もそれを治すことはできない。。 自己直面がまず、できないんだよ。。
自己をありのままに見る、認めて自覚する、ということがまずできていない。。
それができないことによって、認知、も、感情も、言動もすべてがおかしくなる、ということだろうね。。 >自己をはこびて、萬法を修証するを迷いとす。
>萬法すすみて、自己を修証するは悟りなり。
と云いますが、おそらくはこの句の後半の法縛を受けたのではないでしょうかね。 自己が根本原因であるのに、それを全部人のせいにして、逆ギレする、というのに、近いことを延々とやってるんだろうね。。w
最初は、先生風に説法しても、なんかズレてる、話の流れに合致していない。
あるいは、コピペだけだったり、コピペとそこから出る結論が、乖離していて、人が読んでも、何じゃこりゃ?という文だったりする。。w
結果、誰も認めない、尊敬しない。。
で、先生風に説法して、外れたこと言ってるのを馬鹿にする、笑う人が現れる。。
それに対して、逆ギレ、発狂、というパターンでしょうね。。
それに飽きると、今度は、新興宗教や、スピを叩くとか、八つ当たりを始める。。w
そういう、堂々巡りを延々とやり続けているのが現状であり、昔からそうだったんです。。w 承認要求だけが、空回りして、それのみならず、周りを巻き込んで、だれかれ構わず、八つ当たり、攻撃して、アラす、という発狂マシーン。。
他人のため、と言って、全部自分のため、利己心しかないから、しかもそれが見え見えだから誰からも、そっぽ向かれるのでしょう。。w 承認要求のもとは何かというと、おれはこうだから、という、例えば、見性したからとか、修行したからとか、坐禅しているからとか、勉強したから、とか、そういう、自我、自分がこうだ、という思い込み、みなし、なわけです。。
ふつうの人は、修行の過程で、それを捨てる、忘れるわけだけど、その、承認要求、利己心のみで、仏教とやらをやっている人は、
原理的に、それを捨てるというのは、不可能です。。
なぜなら、それが目的だから。。w
だから、原理的に解決は、しようがない、このまま、発狂、ヒステリーの発作を続けるしかないですね。。
自他を苦しめ続けるしかないのだと思います。。w 独学は毒学。
ロンさんの様に自己流で誤読して、明後日の方向の修道論に染まってしまう訳です。 まあ、いいですよ。。
ここは、鹿ちゃんが、説法をして、みんなから尊敬される人になるという、自己実現のための場なんでしょう。。w
がんばってください。。
僕は知りません。。w >>322
そうでは無くて、単純にあなたの坐りが足らないだけでしょ?
そのコンプレックスから、実際を換骨奪胎して見性自慢とか修行自慢してるって逆ギレしてるんでしょ?
そんなのバレバレなんですよ。
とっくに見透かしてるんですよ。 鹿ちゃんは、参禅、して公案も透り、仏教の勉強もいっぱいした、えらい仏様です。。
みんなで尊敬して、鹿ちゃんを讃えよう。。w
彼の話に耳を傾けましょう。。w
(そうじゃないと。また、キレて荒らすからなw) 今このスレを誹謗中傷で荒らしてるのは誰ですか?
見苦しいですよ、ロンさん。 いや、おれは、遊んでるだけ。。w
なかなか面白いでしょ?w あぁ、おもしろいですよwww
逆ギレの後の開き直りとか🫵😂 悪い師について、悪行三昧のシカチャマみたいになるくらいなら
原始仏典を独学で学ぶ方がマシ。
サイの角のようにただ一人歩め。
スッタニパータ。
はい論破。 威張りたいなら、できるだけ単純でまっとうな形で威張れるといいと思う、したいと思うことは、する事で何かしら得られることがあり、本人にとって単純な生き方であればあるほど、何かしらに飢えているなら、何に飢えていて何を食べたらいいかも明確になる そもそも葬儀屋読経妻帯宗教法人利潤目的の破戒僧なんかについてるシカチャマが正当仏教者を名乗る資格はないと思いますね。
はい論破。
シカチャマ〜😂😂😂 葬儀屋読経妻帯宗教法人似非僧侶なんかに師事することこそ毒学です。
症例→『池沼WWW』『精神病院に行きなさい』
『キチガイだな』『●んじまえ』
などの発狂・呪いの言葉を連呼します。
シカチャマ〜😂😂😂 >>314.
主語、主体、が欠落している。
要らんことをする、主体、主語は
何である、か。
そこが問題である。 主体も何も、彼は老師ふうポジショントークで自分によってるだけですから。 >>335.
人間が、
要らんことをする。
仏は、
要らんことをしない。
それだけのことである。
大爆笑より。 シカチャマの老師ふうポジショントークの一例
『悟りなど知らん』
と言った舌の根が乾かぬうちに
今度は仏教学者ふうポジショントークで
『悟りの視座で見ると』
これが毒学の症例です。
シカチャマ〜😂😂😂 シカチャマには、いくつかのポジショントークがあって
・老師ふうポジショントーク
・仏教学者ふうポジショントーク
・バレバレの自作自演ポジショントーク
・発狂ポジショントーク
などなどレスを読む側も注意が必要です。
シカチャマ〜😂😂😂 >>337.
仏は、
要らんことをしない。
なんでか。
そこが問題である。
答えられる人、いますか。 疑義を呈し誤謬を指摘すると即キレするロンや童天。
気持ちは分からないでもないけど、そうしないといつまで経っても今のままで、明後日の方向に向かうだけなのに。
それどころか、挙げ句の果てに誹謗中傷して殺すぞまでとか言ってくるようじゃなぁ😟 世捨て人の坐禅。
無我の境地で無為と融合。
無の人生が安楽なり。 決死のナルシズムコーティング
せいうんここじきタイム
🧟 太陽フレアと統失の発病って関係あるのか?
昨日辺りから木の芽時並に変なのが街に沸いてるんだけどw
何だかブツブツ独り言を言ってる変な奴を何人か見かけたんだけどw 世捨て人の坐禅。
無我の境地で無為と融合。
無の人生が安楽なり。 21・17
すでに顛倒した者には、
もろもろの顛倒は起こらない。
まだ顛倒していない者にも、
もろもろの顛倒は起こらない。
23・8
いろかたち・音・味・触られるもの・香り・「もの」は、
たんにそれだけのものであり(固有の実体は無く)、
蜃気楼(ガンダルヴァ城)のありかたをしており、
陽炎や夢に似ている。
23・9
これらの幻の人のようなもの、
また映像に等しいものにおいて、
どうして、不浄とか浄とかが存在するであろうか。
25・19
輪廻(生死世界)には、ニルヴァーナ、
どのような区別も存在しない。
ニルヴァーナには、輪廻と、
どのような区別も存在しない。
25・20
およそ、ニルヴァーナの究極であるものは、
〈そのまま〉輪廻の究極でもある。
両者には、
どのようなきわめて微細な間隙も、存在しない。
☆華厳と中論か
頭に入れとく(*^_^*) 書き込むところ、まちがえた
ごめんなさい(*^_^*) わたしは確かめたいから見る
あー、此処に於いて自由自在であるなあ
と認めている、その、活動がなくても、つまり、見てなくても、認めてなくても、元からそうなのである
そうなのであるにも関わらず、さとったなどと抜かしておるものどもは、これを、わたしが確かめることにやっきになっており、見失っただの、調子がいいだのやっておるが、そんなことないのであるw わたしが確かめよう、見よう、認めよう、確証を得よう、さとろう、気づいていようなどと、つまり、作為することがいらんと、みなゆーておられる すべては法によってさとられ、見られ、気づかれ、行じられており、今更、わたしが、それを手に入れる必要がないのであるw もっと単純に言えば、わたしが何も関与しなければ、それはすでに、さとりなのだw 勝手に個人的な妄想を垂れ流すが、白隠が蹴飛ばされたのも、白隠は己がさとった処、つまり本人曰く300年来で一番突き抜けた、底抜けの自己の本性の自覚、なるものを認めておるからなのだ
つまり、二つに分離しておる
ところが、そんなものないのであるwww
バコーッと蹴られたところのその身心のはたらきそのものが、さとりであり、行であるのに、そんなわけのわからん、空意識のようなものを持ち運んでおるから、元にもどしてあげようとしたのだw みずから覚者などと称するものの末路とはこのような姿なのだ
各々が気をつけようではないかw >>357.
その答え、をどこから仕入れた、かよ。
大爆笑である。 心とは鏡のようなものである汚れなきよう垢を除いてピカピカの佛心で過ごしましょうw >>367.
雲居士は
引用した文章の内容を
否定できない。
大爆笑である。 >>368.
六祖慧能に論破されている論理である。
大爆笑である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています