勿論、坐禅中に六識が作用しなくなる事はありますけど「不思量」はそこじゃないでしょ。

何故なら「思量箇不思量底(箇の不思量底を思量す)」ですからね。

眼耳鼻舌身意が作用しながらしかも分別をしてないって事です。
当然に分別がないから自己もない訳です。
自己無くして認識のみがあると。

>業の行為者は存在しない。行為だけがある。
>結果を受ける者も存在しない。結果だけがある。>構成要素のみが生起し続ける。
>これが真理であり、正見である
>(清浄道論 Visuddhi Magga)