仏のスレ15
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謗るべからず褒むべからず、とか、是も是ならず、非も非ならず、っておもしろいよね、信心銘。。
なんでそうなのか、わかった人はエライ、お利口さん。。w https://josenji.net/jousenji0720_02.html
喜心、老心、大心。
私は統合失調症患者。
独身を貫いて無欲に生きる。
坐禅、無我の境地。
ご飯、みそ汁、緑茶。
ラジオ、テレビ、囲碁、将棋。 俺みたいに自分から何か書き込む事が無くなるのは良い傾向。
そして、誰かの書き込みを読んでも特に書き込む事がなければ尚いい。
なので、ろんみたいに自分から何か書き込みたくなったり、鹿野園のように誰かの書き込みに異常に反応する人はどんなに立派な事を書いていても、イマイチな人。
粘着するでおーとか、もう問題外。 ここはスピ・ニューエイジに汚染された似而非仏教スレだな。 私が反応するのは、護教的弁明だからです。
曲がりなりにも伝統仏教の教義や実践を研鑽して来てるからです。
禅を騙るカムイもロンもスピ・ニューエイジ系。
話してる内容は仏教では無い。
スピ・ニューエイジ系の仏教解釈そのもの。
いわんや馬も。
勿論、スピ・ニューエイジが悪いとは云わないけど、私も伝統仏教者の端くれとして云うべきはいう。
……このスレは汚染されたな。 スピ・ニューエイジ系の方が仏教の教義や実践体系を参考にするのならまだしも、スピ・ニューエイジ系のそれを以って「これが仏教なのぢゃ〜」というのは、伝統仏教者は当然に認めません😟
当たり前ですよね。
他人の信仰は尊重されなければなりません。 >まこと熱意をこめて思惟する聖者に
>かの万法のあらわとなれるとき
>かれの疑惑はことごとく消えさった
>縁起の法を知れるがゆえであった
>(ウダーナ より)
無いものは顕れませんでしょうね。
顕れると云うことは元よりあったからでありましょう。
しかし、それは「熱意を込めて思惟する聖者」に顕れるって云うんです。 「開眼」って云う訳です。
つまり、煩悩が眼を塞いでいると云うのでしょう。
もともとある風景が、眼が塞がっているから視え無いと云うのでしょう。
眼を開くともともとあった風景が現前するのです。
当たり前ですけどね。
「なーんだ」って。
ほんの少ししか眼が開かない方もいる訳です。
寝起きでボーッとしか視えない方も。
目ヤニが多くて眼がこれ以上開かない方も。
顔でも洗ってサッパリしてくれば良いんです。 灘区の県営高層住宅で、先週9階の住人が、転落事故を含めて4人!
しかも、その家族4人全員が生前の意識を持ったまま、元の906号室の回りを漂流中。
とっくに、死んでるのに知り合いの住人と会話をしている!
関連事故死も2人起きている! これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生じ、これがないときかれなく、これが滅することから、かれが滅する 中論の縁起の解説見てるけど、どうも、この縁起、というものと、縁によって生ずるというのは龍樹からしたら別けて考えられてたようで、過去現在の因によって未来の果が生ずるというような解釈は縁已生と言って、縁起ではないのだと、縁起とは互いに相寄って成立するという意味で、長いがあるから短いがある、生があるから死がある、みたいな
だから過去の原因があるから未来の結果に繋がるみたなのは、否定しているのかもしれない
つまり、あいよってあるというのが、相互依存関係であるというのが縁起で、縁已生とは別けて混同しないように使用しないといけない >>116
ついに釈迦牟尼まで否定するに至ったか
あわれよのうw >>118.
釈迦牟尼を誤解している、のが、
お前である、よ。 小乗での縁起は、縁によって生ずる、過去現在の因縁によって未来の果が生ずるという解釈が主流であったが、龍樹は、あいよってあると、縁によってあるのであるから本体などなく空であるとした 私という存在が過去世から現在の因によって未来に結果としてあるから、この、過去世の因縁を解決しないと、つまり、無明なる根本無知を解消しないといけないというのと
私という存在は縁によってあるのだから、過去現在未来にわたって実存するような本体はないのであり、そのような、恒常的、我なるものは認められない、本体においては、それは空であるとした 仏説はひとつでも、その解釈は宗派ごとにいろいろ違うのであるが、本人の説、そのものをバカにするのはよくないと考える >>122.
誰の説であっても、
ダメなものはダメである。 >>121.
その命題は科学の命題である、か。
それとも、宗教の命題である、か。 さとりがあるからまよいがあり
まよいがなければさとりもない
生があるから死があり死がなければ生もない
自分がいるから他人がおり他人がいなければ自分もない
解脱があるから身心があり、身心がなければ解脱もない 時間的経過を要する縁起を龍樹は否定して、縁起とは不生であると主張したが起というのが明らかに生起を意味するのに不生とする矛盾に対して
有るものは生まれない無いものも生まれない、生まれることはないとか
世俗では生まれるが真理では生まれないとか
縁起は縁によって起こると分けてはならず、縁起と一言で不生を意味するとかゆーてるらしい しかし普通、世間一般的な常識としては、縁起といえば、因縁によって生ずるという意味で使われていて、大乗仏教が、これを、否定するものだとは思われていない
縁起は生ずることの否定であると思って縁起という言葉を使う人はほぼいないw 自称寺院「旧ボンライ寺」住職92歳、近親相姦容疑で起訴
2024/04/22 14:20
ps://www.viet-jo.com/m/news/social/240419192124.html あるのでなくないのでもない
生じていないし滅していない
縁起しているのである
というような使い方が大乗仏教からしたら正常になる
それに対して
過去の因縁によって我は今あり、今の因縁によって未来が生ずるみたいな、時間的経過を要するものは縁起ではない
と、そうなるとですな 過去の宿業を滅して悟りを得んとするのは大間違いである
と、こうなりますわなwww オカ・スピ・ニューエイジを否定する訳ではありませんけど、彼らは仏教やキリスト教に擬態して教義を枉げて騙るから要注意ですし、それらは峻別されなければなりません。 >>134.
科学を論じて宗教を得んとする、バカである。 もしも過去の宿業なるものがあるとしたら、それは生じたものでも滅したものでもなく、今現在、何らかの縁によってあるものであり、それもまた実体から言えば空であるのだから、今の(時間的経過を要さない)因を断てばよいと考えてみた
つまり、何が言いたいかというと今現在、それが縁起しているのは、同時的であり
生があるから死がある
長いがあるから短いがあるなどと同じようにして
〇〇があるから過去の宿業があるみたいになってるんではないかとw だから、これを解決するのに本当は時間的経過を要さないはずである 俺みたいに自分から何か書き込む事がだんだん無くなってくるのは良い傾向。
そして、誰かの書き込みを読んでも特に書き込む事がなければ尚いい。
なので、ろんみたいに自分から何か書き込みたくなったり、鹿野園のように誰かの書き込みに異常に反応する人はどんなに立派な事を書いていても、イマイチな人。
粘着するでおーとか、もう問題外。 たとえば、ケーキを二つに切ったら、二つに分かれただけで、ケーキが一つ余計に生じたわけではない。。
これは、われわれが、母親の股の間から、出てきた時も、その肉体から分かれただけ、と考えれば、なにも生じていないわな。。
これが不生じゃないか、と思ったんだが。。
だから、縁起=不生なんだよ・・・たぶん。。w
なにも生じていない。。 縁起というのが、無自性、というだけじゃなく、実体性、個体性の否定まで行くのが、龍樹でしょう。。
だから、基本は、何も無いとなる。。w
本来無一物。。w だけど、まあ、無じゃなくて、空だから、何も無い、という断見を免れると言うことにはなるんだろうが、実体あるものは何も無い、と言うことになるんでしょう。。 >>141
はいはい、そろそろ躁状態が落ち着いてきたんですね。 私より宗教板が長いのに、未だに仏教の基本教義も分かってないとか、どういう事なんだろう??? 各々何を目的としてるかが全く違うのだと思う、名や言葉でまとめてもその心情や目的は全く違うからだと思うね、自分がなんのために何をしているのか、自分が知ろうとし続けるのは大事だと思うね まあでも親鸞とかが宿命とか縁とか言ってる時は過去世の因縁についてのことを言ってるように聞こえるけども、、、
だからやっぱり、あの、これがあるからこれがある、これがなければこれがない、の解釈が同じ仏教者でも、だいぶ違うということがあり、それが混乱の原因かもしれない 時間的経過を要するものと、相互依存関係にあるものと、両方の意味で、縁起としているのが日本の仏教なのかもしれない? 三論宗の吉蔵の説だと、世俗諦においては縁によって生ずるのだが、勝義諦においては縁起は不生であるのだとか、誰の、説を参考にするのかで、同じ縁起という言葉でも、意味、解釈が違ってくるから、突き詰めた微妙な問題になってきた時に、同じ仏教を名乗っていても意見がちがうとw
だから自分の好きなものを見つけて行くしかないが、正統なる仏教なんてものは、何処にもないといえるw しかし84000の法門、何処から入っても一切衆生同時成道草木国土悉皆成仏となると、方便は様々にあるが、導かれるところは、禅であろうと念仏であろうと法華であろうと、同じなのだろうと思われる 俺みたいに自分から何か書き込む事がだんだん無くなってくるのは良い傾向。
そして、誰かの書き込みを読んでも特に書き込む事がなければ尚いい。
なので、ろんみたいに自分から何か書き込みたくなったり、栖雲居士のように誰かの書き込みに異常に反応する人はどんなに立派な事を書いていても、イマイチな人。
粘着するでおーとか、もう問題外。 生ずる、と言うと、実体視、みたいになっちゃから、実体を否定すれば、実体無いのだから、何も生じていない、不生なんでしょう。。
だから、不生って、空と言う意味と、ほぼ同義じゃない? ?????
今更何を言ってんの???
以下、龍樹『中論』より
>依存性(縁起)をわれわれは空性であるというのである。
>その空性は仮の名づけであり、それは中道と同じことである。
>依存しないで生じたものなぞ何もないのであるから、空でないものなぞ何もない。
>不生亦不滅 不常亦不断
>不一亦不異 不来亦不出
>能説是因縁 善滅諸戯論
>我稽首礼仏 諸説中第一 オカ・スピ・ニューエイジ系が伝統宗教に擬態し、その教義を歪曲してる様は看過できないな。
偽ブランド、模倣品、似而非仏教、似而非キリスト教。 >>154.>>153.
何が実体がない、か。
なにが、空、である、か。
その主語、主体が判明していない。
そこが、悟り、の中心である。 >>154.
空でないものなぞ何もない、であるか。
それは否定すべきである。
なんでか。
空、なるものは、空、でないものによってして
存在している、からである。
大爆笑窟より。 菩薩清涼の月は、畢竟空に遊ぶ。菩提の心水清ければ、影中に現ず。。 んー、よくわからんなぁ
我が実体なく空であり、ただ縁よりて、ここに存在しているだけとなると、いったい誰が輪廻や、生死を超えると言うんだw
もしそうなら、元から輪廻している我なんてものはないのだから、過去の宿業とかインチキでしかなくなるではないかw それに実体としては空であり我はないとしても、今、仮にも縁よりて存在している、この身心は確実に死を迎えるのであるから、まったくもって、不死の門など開かれぬと思ってしまうのだがw 空、でないもの、を発見する、ことが
仏教の課題である。
大爆笑窟より。 大日如来が大三昧しているとすると、ようは、その佛が、わたしや他人となって活動していて、そうなってもやはり、わたしなるものは1回限りの人生でおジャンでしょうw わたしが佛となってしまう
そうすれば、その佛は、また、草となり木となり国土となり、犬となり猫となり、風となりのふうに輪廻しつつ、不生の大三昧放題として、永遠輪廻しておるのかもしれんが、それにしたって、オレはおジャンではないかwwwwwww んー
阿弥陀如来の無限定の生命と、我がまったく同一であり、その無量の生命が、生きているのであり、つまり、俺が死んでも実は死んでないみたいなことか?
それは詐欺w
だってそれだと、オレが確実にオジャンニナルw んー
それともこうか?
既に無一物の心、これは、生じてもおらず滅してもおらぬ、無所得無所有にして、滅尽しておるものであり、それこそが、わたしの本質なのである
それであるから、この大日如来の大三枚の輪廻しまくりは、言わば、表層のことであり、本来の自己は、そもそも生まれてすらおらぬ
だから身心があろうとなくなろうと、その、本体は、死ぬことなどないのだと しかし、この、無こそ我みたいのだど、明らかに過去のサドラーたちとズレるではないか
平常心是道、作用即性、平等無事
なんもいっても、天地いっぱいの絶対開の世界とかって、こんな二重線のような、無意識と表層のようなことを説いてないのは明らかであるからなのだ まったくもってワケワカメだw
サトラーの皆様は、ちゃんと、仕事してくれますかね? そういえば手塚治虫のブッダを昔すすめられたけどまだ読んでないやw >>174
私が研究室で使ったのは
学生のための仏教入門
花山 勝友 著
でしたけど、今もあるのかなぁ。 フォイエルバッハの宗教哲学であろう。
キリスト教の本質、とか
宗教の本質。とか。
カトリック教会の、三位一体説とか。 どうも原始仏典を読んでいると、どう見ても釈迦牟尼は不生のニルヴァーナにとどまっているな、、
とすると禅宗のあの世界賛美みたいな、天地一献の世界というのは付随物に過ぎんことになる 不生のニルヴァーナにとどまるなら、現象世界は夢幻のような薄っぺらいものとなり、とてもあの禅宗の方々の愛するリアリティと一如みたいなものではなく、まあ、それこそゆーたら、青空を横切る雲みたいなもんになってしまう
ということは、やはり、原始仏典の釈迦牟尼と大乗仏教の釈迦牟尼から派生進展した密教や禅はちがうのではないんか
大日如来の大三昧とか、天地いっぱいの絶対開みたいな、そこのところは、釈迦牟尼の安住したところではなかろうw 原始仏教から大乗仏教まではなんだかんだ言っても元の帰結点であゆニルヴァーナで寂滅安心するという姿だったのが、密教や禅やその後の日本の念仏や法華なども、瞬間の美学というか、それこそ、ろん先生の主張しているような一如することによって消えるっていう事実主体説みたいなんになって、桜の花は美しいみたいな、日本のわびさび文化のようなものに発展したが、それはもはや、釈迦牟尼の説いたものではなく、それから発展させたものであって、別の宗教なのだ ま、俺の場合、悟ってないから分かってないだけなのが、濃厚だがw 結局は大乗の諸法実相を体現するのに
一如するわけだが、その時点で虚空も知ると思うんよな
その虚空から智慧で涅槃を見出すから結局は同じやないかな 桜の花は美しいみたいな、日本のわびさび文化のようなものの
解像度がまるで目が醒めたように一如しているのであれば
もうそれは涅槃静寂と言っていいやろ 瞑想の結果としての留まるところが全然別物である、禅的なやつは法輪が回転しているが、原始仏典のやつはそんなことしてない 原始仏典のやつは主客逆転というより、主滅に安住している 十牛図の8番で止まるのが釈迦牟尼で禅は風景や人々が元のままの姿で、戻ってきてるのがおかしいというか、娑婆に戻ってきているので滅のところもなければ、夢幻の現実でもない、ひとつになってるから、おんりいっさいてんどうむそうではなく、花を見れば花となり、音がなればわたしがなり、みたいなところに落ち着く 主滅に安住ってことは逆説的にいえば
主などないわけだから主客が逆転ということもなく
自在と言うわけよ、煩悩が断絶している、作用を止める、止めない
ってことがそれを外部から見れば
主が客を逆転しているように見えるだけで
滅するも逆転もないんでないかい わかりやすくいうと
大宇宙の一大生命体の活動とひとつに融けているようなのが密教とか禅のさとりで、その時は他人が泣けば自分が泣いているみたいな瞑想状態であるが、原始仏典の釈迦牟尼のやつは、有でもなけれは無でもなく、あらゆる想念の断絶された不生の、現れざるもの、この涅槃に落ち着いているから、他人は生きていない >>188
釈迦牟尼のやつは現実から遠ざかって、滅にいるから、この現実は夢幻の如く、来たっては去っていくだけになる
密教、禅的なやつは、この現実は薄っぺらい夢幻どころか、超絶リアルで、躍動していて、臨済のいう活発パッチみたいな、とてつもなく新鮮な世界になり、この現実の活動が、他の車が走ったり、鳥が鳴いてるのも何もかも、法の活動であり、その法の活道が、客であったのに主となり、今まで主であった我は逆に法から照らされる対象となる 見ていたものが見られるものとなり
見られていたものが見るものとなるのだ この生老病死の四苦の世界は悪魔が作り出したんだろ
縁起とかムチャクチャ複雑にして
だからこの四苦の悪魔の世界から解脱することが必要なのだ そこでは月も照らさず、太陽も輝かない
聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する >>190
お釈迦様は多分そうだっただろう活溌溌地
ただ教える人によって変わるだけで さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である
これがかれの最後の身体である この世界はいくら活発だろうが悪魔が作り出したんだからどうしょうもねえわ
その証拠にすべては生老病死の四苦から逃れることはできない
だからお釈迦様は解脱したわけだ これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である
一切の相が滅びてなくなり、没するのことなきけ解脱の境地である 普通に涅槃を知り煩悩から離れれば
現実はただただ新鮮でとなるやろ 上のお釈迦様の描く涅槃と、
春は花、夏不如帰、秋は月、冬雪冴えて涼しがりけり この世界の活発さも悪魔が作り出してるわけだ
世界もスマホ、IT、AIとか科学技術は進化しているが
その発展進化も悪魔が行ってるわけだ
こんな生老病死の四苦の悪魔の世界とは解脱してさよならするほうが良い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています