仏のスレ15
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
釈迦も感情がなくなったりしたわけではなかろう。悟った後にそれを弟子に伝えて悟ったのを大変喜んだりしてるしな。
迷いがないというのも別に知らない道が分岐しててどっちに行こうかな?という選択は普通にあるやろ。 コンダンニャがさとった!
コンダンニャがさとった!
ろん「さとりなどない!」 悪魔が行ってる科学技術の進化の幻想に目がくらんでこの世界に執着する奴は解脱できんわな
悪魔の行ってる発展進化にみごとだまされてこの世界に執着して悪魔の世界に引きずりこまれるわけだ なんという恐ろしいことだ
第六天魔王の仕業にちがいない この世界は科学技術の進歩で華やかに見えるが悪魔の作り出した幻想だからな
こんなものに騙されてたら解脱などできない 第六天魔王は3人の美女に化けていちゃいちゃしてみたり、鬼になって炎を吹いたりしてめちゃくちゃさとりを妨げようとしたらしい
が、お釈迦様の目前で蓮の花になってしまったのだ
そういえばキリストも悪魔に誘惑されて、
さがれサタン!
と、一掃していたから、ほんまにおるのかもしれんぞw 進歩って概念も、西洋が近代→現代で離れた宗教の神(真理)の代わりに人間の知性でつくった新しいよるべき基準の真理だとしたら
進歩にあんまりとらわれてると悪魔崇拝的になるってのはそうかもな われわれは神仏を復活させねばならぬ!
神仏なくして我の暴走を抑制することなど不可能であるからして、神仏の忘れ去られてしまえば、直に、混乱と暴力の支配する世界になってしまうであろう
我儘に楽を求め苦を破壊せんとする欲望の帰結は戦争に違いない
神仏への信心、これこそ現代社会に求められておる最高の薬であろうんw >>191
驢馬が井戸の底を見るんじゃなく、井戸の底を驢馬が見るが如しだ、なんてお話はあるよね、曹山の言葉。。 間違えた。。w
井地の底が驢馬を見るが如し、だった。。 井戸の底が驢馬を見る。。w
驢馬、とうのは、バカの象徴なんだよね。。
潜行密用は、愚の如く魯の如し。。 それで、曹山は、その愚かな驢馬というのも、さらにひっくり返した。。 寧(むし)ろ永劫に沈淪(ちんりん)すべくとも、諸聖(しょしょう)の解脱を求めず。
石頭禅師の言葉。。
みなさんとは、逆だよね。。 そう言えば龍樹の八不は一体何が八不なのか?
と言うことがいまだに論争の種になってるようですね。
龍樹が八不に主語(主格)を付けなかったそうでいまだに文法派と哲学派で、縁起が八不なのか、
諸法が八不なのかで揉めてるという記事を読みました。 俺みたいに自分から何か書き込む事がだんだん無くなってくるのは良い傾向。
そして、誰かの書き込みを読んでも特に書き込む事をしなければ尚良い。
なので、ろんみたいに自分から何か書き込みたくなったり、禅宗ではない栖雲居士のように誰かの書き込みに異常に反応する人はどんなに立派な事を書いていても、イマイチな人。
ましてや、粘着して何かを書き続けるでおーとか、もう問題外。 >>218
全宗教歓迎】悟りをひらいた人のスレ(仮)【5ch】
0542 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/04/21(日) 10:19:51.11
マハリシ?
オショー?
はぁ?
仏教乗っ取りを企むウンコ外道wwwwwwwww
あたまパッパラパーのアウアウアーのコンコンチキな精神病院にレリゴー💕
ID:ZS5smK6h(3/8)
0543 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/04/21(日) 10:24:38.39
仏教に対してシンクレイティズムを被せてくるのは、断固として徹底して護教的弁明をさせて頂きます💢😡💢
ID:ZS5smK6h(4
2024/04/22 05:19:20 >>220
これを毎日のように5ちゃんねるでやってますので、この三人は精神異常者です。 ①毎日座禅する
②ただになる
③元のままでいる
④幽体離脱する
⑤無明を滅して三明六通する
⑥俺様が神である
いろいろありすぎるなぁw >>225
毎日座禅とかめっちゃ仏教らしいと思うが。そもそも体外離脱体験が当たり前のようにあるけども私は重視しているわけではないぜ?
チベット仏教あたりではそれらの体験が修行にとりいれられてるようだから話してるしな。
釈迦のいた頃の初期の仏教以降の仏教は仏教じゃないというならば何も言わんが実践内容見る限り体外離脱体験の1つや2つしてると思うで?
基本はここを重視していないだけで。 坐禅は魔境は排除する方向性だから
体外離脱(諸天での神通力)や瞑想とは
また違うんだろう
お釈迦様は瞑想だからマーラや第六天魔王は直接応対しただろうね >>225
目線というか矢印というか
向きがまるで反対なんだな
一生を遙かに越える時間が必要になるんだな
眼をつける向きさえ間違わなけりゃ。 オレの問題点はオレが悟ってないことだ
だから何を言われても、それが、ほんとうのことなのか、ちがうのかの判断ができない
これが一番の問題であるw しかし瞑想体験として現象界が夢のようになったりスローモーションになったりとか非日常体験はある
まあだれでもあるとは思うが、それらにも、いくつもの種類があり、ここでも話題になっていたゾーンとか、幽体離脱とか、一如とか、宇宙と同調とか、他にも挙げればキリがないほど、体験というものはあるわけだ パンッと手を叩いた、この、瞬間の活動が、自己を離れているなども、体験であるが、それじゃあ、そんなにたくさんある、不可思議体験のどれをとっつかまえて、さとりとするのだろうw
もしくは、それらの、いずれの延長線上にさとりがあるのであろうかとなるが、そんなことがわかっているなら、既に覚っているわけだw それの痕跡を経典とか解説書などから推測しておそらくこういうことではないのかと思いながら手探りで行くしかないわけだが、しかし肝心の、それ、仏教も、宗派による解釈や、学者による説明に、ちがいが見られるということなのである
さあ、それでは一体全体何が本当なのかw
上座部なのか、中観派なのか、唯識派なのか、法華信者なのか、華厳なのか、禅なのかw
さらに困ったことにはこれらの支持者たちもお互いに非難の応酬を繰り広げておるということなのだw
少なくともここではそうであろうんw さあ、そうすると、こっちにもサトラーがいて、こっちにもいて、こっちには正統なる仏教なるものを説くものがと、混乱の極みなので、これは、もはや、己の好みで選ぶしかないのである >>229
・・・これが今日、最後の通信になるだろう(なんかの映画)
冗談はさておき笑
だからこそ古くから一貫して言われてる通りにする必要があるんじゃないかな。 わたしはまだまだ修行中の身ですので
はばかりに言及するのはこの程度だけど
やっぱ向きが間違うと果てしないよね
向きさえあれば直だ。 坐禅して箇のなにをかを図る この言葉、深く参じるべしということを
すごくよく思い返してるな最近。 なるほど向きか!
たしかに向きがわからん
今のとこは不生なる神域のようなものが、現象界と自覚意識の根底にあり、それは、現れざるものであるから、その、消失点というものにあー、消失といったらあかんのかw
その、見解なし、のとこに、意識の焦点を合わせて行くみたいなことを有力視している
が!
まあ、ようは、俺ごときでは、なにひとつわかりはしないw >>232
どれが本当で間違ってるというより
目的別で違いがあるってだけじゃね
特に大乗からは
基本がお釈迦様で
説一切有部の倶舎論を叩き台に
中論によるお釈迦様の教えの再定義、新解釈
唯識による発展
各宗派がほぼ唯識論を取り入れて展開 日本の唯識派の法相宗なんかは
無漏の種子がないやつは阿弥陀佛を頼れみたいなこと言ってて
何かの記事には
龍樹も日本仏教より昔に菩薩の5?段階中、
4?段階までしか無理だったから
阿弥陀佛頼れみたいな記事見た >>237
その意識の焦点が本来だから
そこ深堀りしたほうがいいんじゃねえか?
俺の言う意識の焦点と同じならだが
そいつはどんな煩悩からも隔絶されてるだろ 釈迦牟尼が涅槃の解説のとこで
わたしは覆いを破ってしまった、まるで、卵の殻がわれるように、解脱したみたいなん言ってた気がしたけど、そのとこにいる時は、煩悩から離れるだけで、そんな長時間できないし、外境に気を取られてもできない
少なくとも覆いが完全に無くなるなんてことは難しい
何秒とかならありえるがw 阿羅漢といえども、過去に成した業の精算からは免れない、というのが初期仏教では説かれてなかったっけ? >>241
いやそれを何秒でも経験したなら
それがどういったことなのか?
をよくよく考えてみ?
大変なことだから、実のところ価値観ひっくり返るレベル
その時点で自我においても
圧倒的自由と大安心になるやろ >>242.
過去の成した豪の清算からは免れない、か。
それは科学の問題である。
宗教では、それを否定する。 >>242
そうなんです?阿羅漢はもう転生しないんじゃなかったですかね 私なら、なぜ私は理解したいと思うのか?なぜ判断したいと思うのか?なぜそうしたいと思うのか?と私自身に聞く事が癖になっている、私がそうしたいから、と答えるまで聞き続ける >>246
それは自分の心に湧いてくるものはなんでか?を追求して自分の心を知ろうという試みだから、自分がしたいから、で終わったら結局何もわからないままだと思うぜ?
むしろ何故それをしたいのか?その発想が生まれたのはなんでか?を追求する事が大事かと。
それを瞑想しながらやると、湧いてくるものに意識を向ける事になり、それ以外がやがてなくなるから結局それも集中と観察の練習になると思うで。 私にとって、常に私がしたいことをしている、という意識がとてもいいのでそうなってるな >>245
>そうなんです?阿羅漢はもう転生しないんじゃなかったですかね
しないけど、業報思想も準用されてます。
アングリマーラ経等を参照。 私がしたいからという答えが、私にとっての終わり、私が生きたいから、私が寝たいから、私が仕事をしたいから、私が歩きたいから、思いつかない無数の思いも幸運にも叶い続けている、私にとっては私以外が理由のうちは聞き続けます
、そのようなやり方をするようになってる、私が産まれて生きて死ぬことを、どんな生き死にであっても、私が喜びにしたいから >>249
アングリマーラの場合は阿羅漢になる前に
カルマの解消があったことによって煩悩から離れられて阿羅漢となったんでしょうかね だそうな。
↓
ときに、尊者アングリマーラが午前中に内衣をまとい、鉢と衣を携え、サーヴァッティに托鉢に入った。
その時、誰かによって投げつけられた土塊が尊者アングリマーラの体に当たった。また、別の誰かによって投げつけられた棒が尊者アングリマーラの体に当たった。また、別の誰かによって投げつけられた小石が尊者アングリマーラの体に当たった。
そこで、尊者アングリマーラは、頭が裂け、血が流れ出て、鉢が割れ、破れた大衣のままで、世尊のもとへ行った。
世尊は、尊者アングリマーラが遠くからやって来るのを見た。
見て、尊者アングリマーラに次のように言った。 「バラモン(アングリマーラのこと)よ、あなたは耐えなさい。バラモンよ、あなたは耐えなさい。バラモンよ、それによって数年、数百年、数千年ものあいだ地獄で煮られたであろうその業の報いを、あなたはまさに現世で受けているのです」
(『中部』八六経「アングリマーラ経」) >>252
阿羅漢になった後にってことですかね?
ありがとうございます テーラワーダ仏教とかヴィパッサナー瞑想とかって最近あまり聞かなくなりましたがブームは終わったのですか?
呼吸時に腹の動きを観察する初歩ヴィパッサナーは別に悪くはないとは思いますが。
それによって何が変わるのかとか言われると他の瞑想も同じく何が変わるのかになりますし。 阿羅漢になれば業報が軽く済む!
(『言い訳するブッダ』『ブッダという男』参照)
そうです。 >>254
ブームであれば一定のコア層を残して終わるでしょうね。
「これが本物の仏教だ」とか「般若心経は間違い」というフレーズは衝撃的でした。 日本の仏教は基本的に「来るものは拒まず、去るものは追わず」ですからね。
一見して分かり易い新興宗教に喰われる事もしばしばですが、2,500年余の奥深い仏教に本当に触れると、まぁ、本当に触れるという事自体壁だし触れる機会自体が殆どないのですが、その奥深さに魅入られ新興宗教が児戯の様に感じられます。
あくまでも私個人の感想ですが。 阿弥陀佛に帰依、坐禅で諸法実相、
瞑想による安寧をしれば業報があろうがなかろうが、重かろが軽かろうが意に介さないのだろうと思います
でもまあ阿羅漢になれば何百年分の業報を
今世で軽めに尚可終わりにしてやるよってのは
なかなか興味深いですね チートに見合う努力がいりそうですけどねw
ロジック的には
業の作用が無為法の非択滅により果とならない
パターンを鑑みるに(未来の因を閉じ込め縁起させない、しない)
智慧による無為法で択滅に至る方向性により
軽めに、または半減、または完全に
業の作用を止めるといった方向性なんでしょう >>252.
世尊も、迷信を言っている、であるか。 まあしかし、そういうのって慈悲心って起こるか?
そういう世俗からの解脱的なことも説いている一方で、善知識(善き友)をえればそれが道のすべてであり解脱であるとか、わたしをあなたの友とするなら不死の境地をうるとか、
言うてるし、生きとし生けるもの幸せであれ、長生きせよとか、
そーゆーのと、サヨナラ世界は、なんというか感じが違うのに、釈迦牟尼の中では同じなんだからオレがズレてるww 精神世界での理解の進度とリアルの事象は連動してるんではないか
だいたい、いつもいつも、新しいことに気がつくと、現実のほうで、ろくでもないことが起こってくる
そんな気がするw 釈迦牟尼の弟子たちは祇園精舎で寛いで、とても幸せそうにしていたのではないのかな
たぶんもちものは、袈裟とお椀と爪楊枝だけでも、めちゃくちゃいい雰囲気で、大安楽の境地を楽しんでるみたいなさ
苦が抜けて楽を与えんだから、そーとー、幸せオーラ出てたと思うんよね
そーゆーのと、深刻な感じの、サヨナラ世界とは、なんかあわんw
しかし、釈迦牟尼の本を読んでると、世の無常を明らかに見よ! とか、なんか暗いw 何が言いたいかというと智慧による解脱も説いているが、生きとし生けるものに対する慈悲の心を起こすようにも説いていて、ふつう一般のイメージの釈迦牟尼は観音菩薩みたいな澄んだ慈悲心みたいなんになるから、解脱した人は、たぶん、めちゃんこ、優しいはずであるw >>263
まずは己が世俗からの解脱をし
大安心の中にいなければ慈悲心がまず起きる余裕がないだろ?っていう至極真っ当な事やと
思うがな
お釈迦様は相手によって言うこと変えてるだけやないかな なるほど、そーゆーことか!
さとるまでは深刻だが、解脱したら、大安楽の幸せいっぱいだから、気遣う余裕が生まれてくると、そうなると、ほかの人とわかちあおうみたいな
飴ちゃんたべる? みたいになるわけだ あーそういうことじゃなく
慈悲心によって成せとも言ってるってことか 仏教の代表格といえば「智慧」と「慈悲」の両輪であるから、もしも、さとりをひらいた人がいたら観音菩薩みたいな、無限の慈悲の心みたいなんが、世の声を聞いて駆けつける!みたいな阿弥陀如来的なやつがないと、仏教とは言えんでしょw
ところが、ここのところ考えてる、現れざるものに焦点を合わせるというやつは、まあ、世界から離れるわけだから、他人にそもそも、関心が無くなるというか
そこのとこでは、他人は生きていないw
だから、向きが違ってるんかなってことですよ、、俺の個人的なはなしw いつも思うけどスッタニパータとか読んで気分になって、これだ、これこそ仏道だーとか勝手に思ってて、それから、禅の本とか読んだりすると、あれ? あれれれれ? みたいなさw
そんで今度は、生まれた時から仏じゃ! みたいな気分んになって、スッタニパータとか読むと、あれ? あれられれれ?
って、結局、なんかちがうんだよ、やっぱw 上座部と大乗と日本の天台、真言、念仏、禅、法華は、ちがう宗教である >>271
自分と向き合って明らめて
法と向き合って現れざるものを明らめて
あぁ何も憂うことは何一つなかったのかと
なれば逆に他人や共有や分別に目が自然と向くで >>273
一本に絞れば?
瞑想ならお釈迦様フォロワーでしょ 私はなにか気になったら、私の身近な現実に身体を使ってどうにかして現してみようとするかな 何でみんなは、先ず始めに
悟りが何へ至るのものか?を知ろうとしないのかな?
そして、その最初の一歩は、何処を目指すのか?ってことを、知らなくてはならないんだわ お、相変わらずポンコツリダンが
仕切っているよーだな
🧟 物価高、独身、無欲。
坐禅して無欲に成るのではなく、無欲だから坐禅するのである。
因果関係が逆つまり常識が間違っていたのである。 そもそも瞑想して宇宙の真理に辿り着いたから慈悲の心とか善悪を判断する心を持ってるというわけではないかと思う。
それは別の学びが必要で全て兼ね揃えてって事なんだと予想する。 >>281
そんなん800年前に道元さんが言ってるじゃん 宇宙の真理とかさ大まか過ぎ
もっとピンポイントでこれだよ!ってのっがあるはず
学びって、それを知る為にある
これだ!ってものが解れば、後は実践するだけ
そも状態へ至れば良いってだけ 意識の根底にあるものと、自覚意識と外鏡の現れとの関連のところの理解が薄いから、あかんのかもしれん 私にとってできるだけ単純な生き方をすることで、私の欲求が単純に現れやすく私にとって味わいやすいと思う、私が思う単純な生き方の理想は、できるだけ何も持たずに地べたに寝起きして歩く生き方だと思っている 道路があり人があり石があり木々があり店があり家があり電柱があり空があり地球があり月があり太陽があり宇宙があり神がありと、これらは意識の上では来ては去っていくものだが、ひとつひとつのものは、万象との縁、相互依存関係にある
それはたぶん時間も空間も含んだありとあらゆる輪廻転生が紡ぎ出したものが一個の事象として具現化しているのだが、これら、ひとつひとつの、花やら、人やら、それ自体の、個が、無常とはいえ、その刹那、刹那としては、一個の成立したものとして姿形あるものとして現れている この一個、一個、ひとつひとつの事象と、自覚意識と、そして、万物の根底にある不生の仏心との関わり合いの様子が、わかっていないから、現れを退けたり、自覚を退けたり、仏性を退けたりして、調和したものが生まれない
そうなると変性意識に傾いたり、モノに傾いでみたり、有とか無とか何かに偏ってしまうと、だから、自と他と仏とが、すべて調和しているような様子を悟らねばならず
仏とか他とか自とかに偏ったものは病的になり、精神がおかしくなる向きなのではないかとなる ……仏教やるのならちゃんとやったら?
何宗かは知りませんけど、在家にも開かれてるところもあるでしょ。
独学は毒学。
無駄に遠回りするだけです、 自分で経・論を読み込んだ方がいい場合もあるだろ
法華経は素敵な経典なのに、それを根本にしているトンデモ宗派あるし 物価高、独身、無欲。
自我を滅却して働く。
坐禅。 誰か
悟っている師を紹介して!
って言っても、ここの人らは、自分の師すら明かせないでしょ
明かせない師ってどういう師なのか?
何かが変ですね?
カムイさんやセイウンさん、ロンさん、
誰に師事されているのか?
そろそろ紹介されても良いんじゃないですか? >>297
前から話しているけど、師家は隠山・滴水下。
名前は個人情報だから明かせません。
師を探すのは修行の内です。
また、あなたの様な変な奴に紹介とかないから🥱 >>297
悟りって
まあ大乗仏教からなんか定義として
悟り、覚り、成仏、となんか段階や区別が
あるけども
悟り自体は気づくってだけだと思うがな
最終的な気づきは何か?ってのはあるだろうが
大乗仏教はちょっと盛りすぎな感じはあるよね 時代背景からみると
所謂小乗のみが悟るってのが
在家からすれば俺らは?ってのもあるだろうし
お釈迦様もカエサルの金貨として
サンガの運営に在家の布施は欠かせないわけで
ある程度在家の救いを示してはいる
大乗仏教は更に皆を救いたいと
初期仏教を小乗とし大乗の菩薩を在家の
ヒーローとして立ち位置を確定し求心を得る
信仰はそれぞれ違えど最終的には
お釈迦様の教えのそれに近づくロジックを在家にも提供出来たってのは大変凄いことやなって ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています