真の自己とは?
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
ヨーガ・スートラ
T 三昧の章
1. それでは、ヨーガを教えよう。
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
心(チッタ) … サーンキヤ哲学では、ブッディ(識別知)、アハンカーラ(自我意識)、マナス(思考・欲望)の三つの心の作用がある。
3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働きと同一化している。 心と身体は見られるものであり見るものではない^^
見るものが真の自己^^ 4. その他のときは、心の働きと同一化している。
私たちは心の働きと同一化しているためそれに気づけない^^ 見るもの(プルシャ)真の自己
純粋意識=真の自己=精神原理=変化しない
変化しない(不変)=安定=平安
見られるもの(プラクリティ)心・身体
心・身体=物質原理=変化する≅怒・憎しみ=
変化する=不安定=苦 ニルヴァーナ・シャタカム
https://youtu.be/Kb2EHT5xq9w
8世紀の偉大な聖者シャンカラチャリヤがアドヴァイタ・ヴェーダンタ(非二元哲学)を6編の詩にまとめました。8歳の男の子が、グル(師匠)をもとめてヒマラヤをさまよっていると、そこに聖者が現れ、"Who are you?" と聞きます。それに対する男の子の答えがこの詩です。そして、この聖者こそが、彼が探し求めていたグルだったのだそうです。
8歳でこの答え、すごいなあ。。
私は、自分の思考でもなく、知性でもなく、記憶でもエゴでもない。耳でも舌でも鼻でも目でもない。
地でも空でも火でも風でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、5つのプラーナでもなく生命の息でもない。私は、7つの体の部位でもなく、5つの鞘(Kosha)でもない。
私は、会話の器官でも手でも足でもない。生殖器でも肛門でもない。私は、無限の意識、純粋な自己である。
私には好き嫌いもない。強欲、妄想もない。うぬぼれや嫉妬もない。
法や富や快楽や悟りを追い求めることもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私には、罪も徳もない。喜びも悲しみもない。私には、マントラ、聖地、ヴェーダ、儀式も存在しない。
私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私には死もなく、疑いもなく、カーストの違いもない。父も、母も、誕生もない。
教師も、生徒も、親戚も、友人もない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、思考、形から解放されている。私は全ての感覚器官に繋がり、あらゆるところに存在する。
私は束縛と自由にとらわれない。私は無限の意識、純粋な自己である 仏教でも出だしにこう書かれている^^
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 照見五蘊皆空つまり五蘊は皆空であると^^
五蘊
色(物質)、受(印象・感覚)、想(知覚・表象)、行(意志などの心作用)、識(心)の五つをいい、総じて有情の物質、精神の両面にわたる。 因縁によって生ずる有為法をいう。 なぜ照見五蘊皆空なのか?
見られるものだからである^^ ヨーガ・スートラも出だしは・・
心の働きの止滅^^
般若心経も出だしは・・
照見五蘊皆空^^
なんか似てないか?^^ 基本はこれやな・・^^
見るもの(プルシャ)真の自己
純粋意識=真の自己=精神原理=変化しない
変化しない(不変)=安定=平安
見られるもの(プラクリティ)心・身体
心・身体=物質原理=変化する≅怒・憎しみ=
変化する=不安定=苦
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 真の自己(純粋精神)が心・身体(根本原質)を鑑賞していると・・^^
真の自己(純粋精神)は見るもの(変化しない)
心・身体(根本原質)は見られるのも(変化する)
そう思わない^^? ゆえにこうなる^^
ヨーガ・スートラ
T 三昧の章
1. それでは、ヨーガを教えよう。
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
心(チッタ) … サーンキヤ哲学では、ブッディ(識別知)、アハンカーラ(自我意識)、マナス(思考・欲望)の三つの心の作用がある。
3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働きと同一化している。 簡単に言うと・・^^
真の自己(純粋精神)=精神原理
心・身体(根本原質)=物資原理や^^ ・・でこうなる^^
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
3. そのとき、見る者(真の自己(純粋精神))はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働き(見られるもの心・身体(根本原質)=物資原理)と同一化している。 簡単に言えば・・^^
心は変化するけど・・
真の自己(純粋精神)は心を見ているだけで変化しないと・・^^ サーンキヤ学派
インドを代表する因中有果論。宇宙原理とも言うべき「プルシャ」(真我・神我、純粋精神、精神原理)と物質原理とも言うべき「プラクリティ」(個我、根本原質)による二元論的な
実在論。開祖はカピラ。根本経典はイーシュヴァラ・クリシュナの『サーンクヤ・カーリカー』。その註釈が漢訳され『金七十論』(真諦訳)と言われる。 (見る者)は、サーンクヤ思想で言う「プルシャ(puru2a)」(純粋精神、精神原理、真
我、神我、観照者)で、物質原理(根本原理、被観照者)の「プラクリティ(prak3ti)」と対置され、
プルシャはプラクリティと全く離れた純粋精神でただプラクリティを「見ているだけ」「観察するだ
け」の観照者。プルシャがプラクリティを観照すると、プラクリティ(のグナ)が転変(展開)して
現象世界が顕われる。プルシャはその現象世界を観照するだけで、それを「svar[pa」(自身自体、そ
れ自身、自己の形色、本態、本性)と言う。
※註3:私たちは、心のはたらきをすべて制止し心が絶対的に静穏になった時、はじめて「真実の自己」
がわかる。それをパタンジャリは、「個人が本性にある」と言わずに「見る者がその本性にある」と
言う。私たちの心のはたらきが完全に制止されると、「自己の本性」という意識もなくなるためで、
サーンクヤ思想で言う「プルシャ(puru2a)」(「見る者」)の状態で「その本性を眺めているだけ」で
ある(インド人学匠の註釈より咀嚼)。 プルシャ真の自己(純粋精神)はプラクリティ心・身体(根本原質)と全く離れた純粋精神でただプラクリティ心・身体(根本原質)を「見ているだけ」「観察するだ
け」の観照者。 日本人の99%は心と身体を私だと思ってるからな・・^^
これを・・顛倒夢想と言う^^ こうならんとあかん^^
遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。 あーこうなるのか^^
照見五蘊皆空。度一切苦厄。
遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃 うん?
私たちは、「真実の自己」を知らない限り、自分の個人意識(「citta」)に現われる心のはたらき
と自己とを同化している(インド人学匠の註釈より咀嚼)。 自分の個人意識に現われる心のはたらきと自己とを同化している
すんばらしい^^ 普通の人は忙しくて心のはたらきと自己とを同化しているなんて気づかんけど・・
ヨガ行者みたいに毎日瞑想してたら気づくんやろうな^^ 私は誰か?ラマナ・マハルシの教え
1 私とは誰でしょうか?
七つの要素から成る粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、
聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である音、感触、色、
味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。五つの能動的な器官である
言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官は、それぞれ話すこ
と、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをす
るが、私はそれらではない。五つの生気*2、すなわちプラーナなどは、吸
気などの五つの働きをするが、それは私ではない。ものごとを考える心で
さえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働
きもない無知も、私ではない。
2 もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?
今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定してい
ったあとに、ただひとつ残る覚醒――それが私である。
3 覚醒の本性は何でしょうか?
覚醒の本性は、存在−意識−至福である。
4 真我の実現はいつ得られるのでしょうか?
「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我
は実現されるだろう。 完全にこれ^^
ヤージュニャヴァルキヤ
アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた こうなる^^
ヤージュニャヴァルキヤ
アートマンは純粋な意味で認識の主体(真の自己(純粋精神))にほかならないのであるから、決して対象(心・身体(根本原質))にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた したがってそれ(真の自己(純粋精神))は把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し・・
びっくりした^^?
インド哲学では常識^^^ ゆえに・・^^
自分の個人意識に現われる心のはたらきと自己とを同化してしまうんだよな^^ そこで必要となるのがこれ^^
識別知
ヨガでは、識別知は苦しみの根源とされる「無知」を取り除く知性と考える。ヨガの実践を通じて識別知を得ると心と真我の違いが見分けられ、真智を得て、苦しみは消える 仏教ではこれ^^
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
「般若波羅蜜多」とはどういう意味ですか?
「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
まぁ似たようなもん^^ ヨガの実践を通じて識別知を得ると心と真我の違いが見分けられ、真智を得て、苦しみは消える 真智を得て、苦しみは消える・・・と
行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 般若波羅蜜多とはどういう意味ですか?
「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。 般若心経でいう智慧は、世の中の在り方や現象の深い知識のことです。 「プラジュニャー(パンニャー)パーラミター」を「般若波羅蜜多」と音訳しているのは、これが固有名詞と考えるべき特別な智慧だからです。 識別知
ヨガでは、識別知は苦しみの根源とされる「無知」を取り除く知性と考える。ヨガの実践を通じて識別知を得ると心と真我の違いが見分けられ、真智を得て、苦しみは消える
智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。 般若心経でいう智慧は、世の中の在り方や現象の深い知識のことです。 照見五蘊皆空 度一切苦厄と真智を得て、苦しみは消える 五蘊皆空あるいは心と真我の違いで度一切苦厄または苦しみは消える^^ ヨガの実践を通じて識別知を得ると心と真我の違いが見分けられ、真智を得て、苦しみは消える
これ^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d まぁ常識的に考えて苦しみは消えるわな^^
当然^^ なぜなら・・^^
これ^^
プルシャ=真の自己(純粋精神)はプラクリティ=心・身体(根本原質)と全く離れた純粋精神で、ただプラクリティ心・身体(根本原質)を「見ているだけ・観察するだけ」の観照者。 つまり・・^^
私たちは、「真実の自己」を知らない限り、自分の個人意識に現われる心のはたらきと自己とを同化している(インド人学匠の註釈より咀嚼)。
・・とこうなる^^ 真我は何のためにあり、どんな役目をするのか? 真我はいかなる作業もせず、永久不変であるから、心理作用の主体ですらない。真我はただ対象を見るはたらきを持つだけである ニルヴァーナ・シャタカム
https://youtu.be/Kb2EHT5xq9w
8世紀の偉大な聖者シャンカラチャリヤがアドヴァイタ・ヴェーダンタ(非二元哲学)を6編の詩にまとめました。8歳の男の子が、グル(師匠)をもとめてヒマラヤをさまよっていると、そこに聖者が現れ、"Who are you?" と聞きます。それに対する男の子の答えがこの詩です。そして、この聖者こそが、彼が探し求めていたグルだったのだそうです。
8歳でこの答え、すごいなあ。。
私は、自分の思考でもなく、知性でもなく、記憶でもエゴでもない。耳でも舌でも鼻でも目でもない。
地でも空でも火でも風でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、5つのプラーナでもなく生命の息でもない。私は、7つの体の部位でもなく、5つの鞘(Kosha)でもない。
私は、会話の器官でも手でも足でもない。生殖器でも肛門でもない。私は、無限の意識、純粋な自己である。
私には好き嫌いもない。強欲、妄想もない。うぬぼれや嫉妬もない。
法や富や快楽や悟りを追い求めることもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私には、罪も徳もない。喜びも悲しみもない。私には、マントラ、聖地、ヴェーダ、儀式も存在しない。
私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私には死もなく、疑いもなく、カーストの違いもない。父も、母も、誕生もない。
教師も、生徒も、親戚も、友人もない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、思考、形から解放されている。私は全ての感覚器官に繋がり、あらゆるところに存在する。
私は束縛と自由にとらわれない。私は無限の意識、純粋な自己である 私は、自分の思考でもなく、知性でもなく、記憶でもエゴでもない。耳でも舌でも鼻でも目でもない。
地でも空でも火でも風でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
バガヴァッド・ギーター詩節3−27
行為は、いかなる場合でも、根源的自然(プラクリティ)のグナによって行われる。「私」という感覚によって精神が惑わされた人は、「私は行為を為す者である」と考える。 私たちは、「真実の自己」を知らない限り、自分の個人意識に現われる心のはたらきと自己とを同化している(インド人学匠の註釈より咀嚼)。 >>72
ポイント貯めるのもそれなりに楽しいかもな ヨガスートラ|見る者と見られる者
https://youtu.be/1YOYQAncWeY
見る者と見られる者の結合が苦の原因^^
まぁそうだろうな・・^ これ^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d
自己と自我(心身)の結合^^ 識別知
ヨガでは、識別知は苦しみの根源とされる「無知」を取り除く知性と考える。ヨガの実践を通じて識別知を得ると心と真我の違いが見分けられ、真智を得て、苦しみは消える 見る者(真実の自己)と見られる者(心身)の結合が苦の原因^^
つまり・・^^
私たちは、「真実の自己」を知らない限り、自分の個人意識に現われる心のはたらきと自己とを同化している(インド人学匠の註釈より咀嚼)。 プルシャ=真の自己(純粋精神)はプラクリティ=心・身体(根本原質)と全く離れた純粋精神で、ただプラクリティ心・身体(根本原質)を「見ているだけ・観察するだけ」の観照者。 真の自己(純粋精神)は心・身体(根本原質)を「見ているだけ・観察するだけ」の観照者 見るもの(プルシャ)真の自己
純粋意識=真の自己=精神原理=変化しない
変化しない(不変)=安定=平安
見られるもの(プラクリティ)心・身体
心・身体=物質原理=変化する≅怒・憎しみ=
変化する=不安定=苦 ゆえに・・^^
見る者(真実の自己)と見られる者(心身)の結合が苦の原因 真智(識別知)を得て、苦しみは消える・・・と
行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 見る者(真実の自己)と見られる者(心身)の結合が苦の原因・・^^
これ^^
ヨーガ・スートラ
T 三昧の章
1. それでは、ヨーガを教えよう。
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
心(チッタ) … サーンキヤ哲学では、ブッディ(識別知)、アハンカーラ(自我意識)、マナス(思考・欲望)の三つの心の作用がある。
3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働きと同一化している。 3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
これ^^
見るもの(プルシャ)真の自己
純粋意識=真の自己=精神原理=変化しない(不変)=安定=平安 見る者(真実の自己)と見られる者(心身)の結合が苦の原因・・^^
これ^^
4. その他のときは、心の働きと同一化している。 真の自己(純粋精神)は心・身体(根本原質)を「見ているだけ・観察するだけ」の観照者 これやな・・^^
私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
バガヴァッド・ギーター詩節3−27
行為は、いかなる場合でも、根源的自然(プラクリティ)のグナによって行われる。「私」という感覚によって精神が惑わされた人は、「私は行為を為す者である」と考える。 「私」という感覚によって精神が惑わされた人・・^^
おまえら^^
控えよ^^ 真の自己(純粋精神)は心・身体(根本原質)を「見ているだけ・観察するだけ」の観照者
つまり・・変化しない^^
ここがミソやな・・^^ 心・身体(根本原質)は物資原理だから絶えず変化するんだよな^^
つまり・・一切皆苦 【諸行無常】
世のすべてのものは、移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはないということ。 人生は、はかなく虚むなしいものであるということ。 仏教の根本的な思想である三法印の一つ。 ゆえに・・^^
真実の自己は世界外にあるんだよな・・^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 人生は、はかなく虚むなしいものであるということ。 仏教の根本的な思想である三法印の一つ。
これがあかんな^^
どう考えても^^ まぁ理屈は抜きにして・・^^
こっちを選んだ方が得策^^
私は誰か?ラマナ・マハルシの教え
1 私とは誰でしょうか?
七つの要素から成る粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、
聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である音、感触、色、
味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。五つの能動的な器官である
言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官は、それぞれ話すこ
と、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをす
るが、私はそれらではない。五つの生気*2、すなわちプラーナなどは、吸
気などの五つの働きをするが、それは私ではない。ものごとを考える心で
さえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働
きもない無知も、私ではない。
2 もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?
今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定してい
ったあとに、ただひとつ残る覚醒――それが私である。
3 覚醒の本性は何でしょうか?
覚醒の本性は、存在−意識−至福である。
4 真我の実現はいつ得られるのでしょうか?
「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我
は実現されるだろう。 「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我
は実現されるだろう。
う〜〜ん^^
真我独存^^ サットチットアーナンダ〜私とは至福なる意識そのものである・・^^
うん?
まじ^^?
まじ^^ これと・・^^
人生は、はかなく虚むなしいものであるということ。 仏教の根本的な思想である三法印の一つ。
これ^^
サットチットアーナンダ〜私とは至福なる意識そのものである・・^^ 仏教にいくか・・インド哲学にいくか・・^^
それは・・あなたしだい^^ 我思う故に我あり・・^^
世界内の自我=心身やな・・^^
我思う故に我ありを「見ているだけ・観察するだけ」が真の自己(観照者)^^
真の自己(純粋精神)は心・身体(根本原質)を「見ているだけ・観察するだけ」の観照者
真実の自己は世界外にあるんだよな・・^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d これと・・^^
私は、自分の思考でもなく、知性でもなく、記憶でもエゴでもない。耳でも舌でも鼻でも目でもない。
地でも空でも火でも風でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
これ^^
私は、思考、形から解放されている。私は全ての感覚器官に繋がり、あらゆるところに存在する。
私は束縛と自由にとらわれない。私は無限の意識、純粋な自己である ヨガ哲学では、「観るもの」と「観られるもの」を混同してしまうことに、苦しみの原因があるといいます。 この言葉の「観るもの」と「観られるもの」を「プルシャ」、「プラクリティ」としています。
■プルシャ:観るもの、変わらないもの(真の自己)
〔意味〕欠けたところのない満ち足りた存在である「真の自己」
■プラクリティ:観られるもの、変化するもの(カラダ、呼吸、五感、考えなど) ■プルシャ:観るもの、変わらないもの(真の自己)
〔意味〕欠けたところのない満ち足りた存在である「真の自己」
■プラクリティ:観られるもの、変化するもの(カラダ、呼吸、五感、考え(我思う故に我あり)など) ■プラクリティ:観られるもの、変化するもの(カラダ、呼吸、五感、考え(我思う故に我あり)など)
照見五蘊皆空 ■プルシャ:観るもの、変わらないもの(真の自己)
〔意味〕欠けたところのない満ち足りた存在である「真の自己」
3 覚醒の本性は何でしょうか?
覚醒の本性は、存在−意識−至福である。 私たちは、「真実の自己」を知らない限り、自分の個人意識に現われる心のはたらき(我思う故に我あり)と自己とを同化している(インド人学匠の註釈より咀嚼)。 真の自己(純粋精神)は心・身体(根本原質)を「見ているだけ・観察するだけ」の観照者 私は、自分の思考でもなく、知性でもなく、記憶でもエゴでもない。耳でも舌でも鼻でも目でもない 私は、自分の思考(我思う故に我あり)でもなく、知性でもなく、記憶でもエゴでもない。耳でも舌でも鼻でも目でもない 私は、自分の思考でもなく・・^^
真の自己(純粋精神)は心・身体(根本原質)を「見ているだけ・観察するだけ」の観照者
真の自己(純粋精神)は思考(我思う故に我あり)を「見ているだけ・観察するだけ」の観照者 う〜〜ん^^
あやうく騙されるとこだった^^
純粋素朴な僕とかも・・まだまだやな・・^^ ■プルシャ:観るもの、変わらないもの(真の自己)
〔意味〕欠けたところのない満ち足りた存在である「真の自己」
存在−意識−至福^^ Yoga Chittavrittinirodhah (ヨガスートラ1章2節)
(ヨガとは心の働きを静止させること。)
「心の働きを止める」の意味を考えたことがありますか? ヨガの実践をしている人の中で、心の働きを止めたいという目的でヨガを始めた人はいないでしょう。
ヨガスートラは現存するヨガの書籍の中で最も古く、もっとも沢山の人に読まれてきた教典です。ヨガスートラの中で書かれた八支則の実践は、心をコントロールして最後にはその働きを完全に静止させるための実践です。
完全なる静止が意味するのは、「自分の本性」との出会いです。
ヨガの実践により心を静止させると、自分自身を知ることが出来ます。思考は湖の水の波紋のようなものです。水面が荒れていると湖の底を見ることはできませんが、水の動きを止めることで湖の底を見ることが出来ます。
そして、ヨガで心を静止することにより出会える、“自分自身が何か”を説明した哲学が【サーンキャ哲学】です。 先人たちは、瞑想によって自分の内側の深い部分に意識を向けて行った時、自分自身の「心」でさえ物質的な社会の一部であり、それを手放すことで純粋な真実の自分がいることに気が付きました。それがプルシャ(真我)と呼ばれる本当の自分です。
プルシャ:純粋無垢な傍観者
プルシャは純粋無垢で、途切れなく永遠と存在し、とても静かに平穏、そしてとても幸せな状態を保っています。
プルシャ自身には思考は無く、自分と他者を分けて認識する自我もありません。世界を照らし、傍観する能力のみを有します。そのためプルシャのことを傍観者とも呼びます。
プラクリティ:物質原理
プラクリティ(物質原理)は、「サットバ(純質)」「ラジャス(激質)」「タマス(鈍質)」と呼ばれる3つのグナ(性質)によって構成されています。プラクリティ単体で存在している時には、3つのグナのバランスが取れているため、動きがありません。世界に存在するプルシャ以外のものは、全てプラクリティを元に発生しました。プラクリティは、物質的な世界全ての根本です。 プルシャ自身には思考は無く、自分と他者を分けて認識する自我もありません。世界を照らし、傍観する能力のみを有します。そのためプルシャのことを傍観者とも呼びます 真の自己(純粋精神)には思考は無く、自分と他者を分けて認識する自我もありません。世界を照らし、傍観する能力のみを有します。そのため真の自己(純粋精神)のことを傍観者とも呼びます 傍観者・「見ているだけ・観察するだけ」の観照者・・つまり^^
みるもの^^ 【 ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマディー 】は
ラヤ【 一 時 的 な 心 の 停 止 】である。
【 ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマディー 】の状態にいる者は【 真 我 を 実 現 してい無い !】
彼らは未だ【 探 究 者 】である。
ときおり【 心 を 制 御 しなければ】ならない。
要するに、禅定・瞑想などの、一時的な入定・出定の繰り返しのことと思われる。
【 サ ハ ジャ・ニ ルヴィ カ ル パ・サ マ ディー】は
【 心 の 完 全 な 破 壊 】である。
もし【サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディー】のように【 心 が完全に《 破 壊》 された 】なら、
【心は 再 び 現 れ る ことは無い】。
彼がその【 崇 高 な 状 態 】から【決して《落ちることは無い》】のである。 【 ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマディー 】は
ラヤ【 一 時 的 な 心 の 停 止 】である。
【 ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマディー 】の状態にいる者は【 真 我 を 実 現 してい無い !】
彼らは未だ【 探 究 者 】である。
ときおり【 心 を 制 御 しなければ】ならない。
要するに、禅定・瞑想などの、一時的な入定・出定の繰り返しのことと思われる。
【 サ ハ ジャ・ニ ルヴィ カ ル パ・サ マ ディー】は
【 心 の 完 全 な 破 壊 】である。
もし【サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディー】のように【 心 が完全に《 破 壊》 された 】なら、
【心は 再 び 現 れ る ことは無い】。
彼がその【 崇 高 な 状 態 】から【決して《落ちることは無い》】のである。 うん?
「サヴィタルカー・サマーパッティ」(有尋等持)・「ニルヴィタルカー・サマーパッティ」(無
尋等持)・「サヴィチャーラー・サマーパッティ」(有伺等持)・「ニルヴィチャーラ―・サマーパッテ
ィ」(無伺等持)の四種が、「サビージャ・サマーディ」(有種子三昧) T−42 tatra 1abda-artha-j`qna-vikalpai4 sa/k]rzq savitarkq samqpatti4 /
(私訳)そのうち、言葉とその意味とその知識についての分別(知)が入り混じったものが、推考
を伴った合一(サヴィタルカー(有尋)・サマーパッティ(等持))である。
(佐保田訳)定のうちで、言葉と、その示す客体と、それに関する観念とを区別する分別知が混じる
ものは有尋定とよばれる。
(インテ訳)名称と形態、およびそれらに関する知識が混在しているサマーディが、サヴィタルカ・
サマーパッティ、すなわち思慮を伴うサマーディと呼ばれる。
(シュリー訳)その中で、言葉と対象物(の知覚)と認識とが混合した没入状態は、有推理定と呼ば
れる。 うん?
なんかああったな^^
(インテ訳)名称と形態、およびそれらに関する知識が混在しているサマーディが、サヴィタルカ・サマーパッティ、すなわち思慮を伴うサマーディと呼ばれる。 756 見よ、神々並びに世人は、非我なるもの【名色・個体】を我と思いなし、<名称と形態>【名色】に執著している。「これこそ真実である」と考えている【顛倒】。
758 安らぎ【涅槃・ニルバーナ】は虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理【法】であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。【世間虚仮、唯仏是真】
※ 【名称と形態(名色):名色とは、識別作用によって生じる存在の構成要素、悟りの立場からは空(無常)としての精神と物質、または言語と現象、または対象・個体】
※ 【安らぎ(涅槃):安らぎとは、色即是空・諸行無常(事物の虚妄や衰滅)を認知することによって、快苦を生じさせる感受そのものが消滅し、欲望・快苦を超越した心の平安状態である―安心立命の境地―。】 ※ 【名称と形態(名色):名色とは、識別作用によって生じる存在の構成要素、悟りの立場からは空(無常)としての精神と物質、または言語と現象、または対象・個体】 (インテ訳)名称と形態、およびそれらに関する知識が混在しているサマーディが、サヴィタルカ・サマーパッティ、すなわち思慮を伴うサマーディと呼ばれる。 (佐保田訳)定のうちで、言葉と、その示す客体と、それに関する観念とを区別する分別知が混じる
ものは有尋定とよばれる。
(インテ訳)名称と形態、およびそれらに関する知識が混在しているサマーディが、サヴィタルカ・
サマーパッティ、すなわち思慮を伴うサマーディと呼ばれる。
(シュリー訳)その中で、言葉と対象物(の知覚)と認識とが混合した没入状態は、有推理定と呼ば
れる。 T−43 sm3ti-pari1uddhau svar[pa-1[nya-iva-artha-mqtra-nirbhqsq nirvitarkq /
(私訳)記憶が完全に浄化され(消滅し)た状態で、自己の形相がなくなった(自己自体・主体が
ない)かのように、(言葉の)意味(客体)だけが光り輝くことが、推考の伴わない合一
(ニルヴィタルカー(無尋)・サマーパッティ(等持))である。 (佐保田訳)定の心境がさらに深まると、記憶意識が消えてしまい、心の自体がなくなってしまった
かのように、客体だけがひとり現れるのである。これが無尋定である。
(インテ訳)記憶が十分に浄化されると名称と実質の区別がなくなり、集中対象の知のみが輝き出る。
これがニルヴィタルカ・サマーディ、すなわち思慮を伴わないサマーディである。
(シュリー訳)記憶が浄化され、あたかも瞑想者の主体意識が消えたかのようになり、瞑想対象のみ
が輝く境地が無推理定である。 T−44 etayq-eva savicqrq nirvicqrq ca s[k2ma-vi2ayq vyqkhyqtq /
(私訳)これによって、そのように(同じように)、微細なものを対象とする熟慮(伺)を伴うも
の(サヴィチャーラー(有伺)・サマーパッティ(等持))と熟慮(伺)を伴わないもの(ニ
ルヴィチャーラー(無伺)・サマーパッティ(等持))が説かれる。 (佐保田訳)前記の二つの定に準じて、それよりも微妙な対象に関係する有伺定と無伺定は説明され
る。
(インテ訳)同様にして、精妙な対象について修されるところの、サヴィチャーラ・サマーディ【洞
察を伴うサマーディ】とニルヴィチャーラ・サマーディ【超サーマーディ、すなわち洞察を伴わないサマーディ】は説明される。
(シュリー訳)これら(前節の説明)により、さらに精妙な対象への定である有識別定と無識別定も
説明される。 (佐保田訳)有種子三昧の中の最後の段階である無伺定が無垢清浄となった時、内面の静澄が生ずる。
(インテ訳)ニルヴィチャーラ・サマーディ〔洞察を伴わないサマーディ〕が純粋となったとき、至
高の真我が輝く。
(シュリー訳)無識別定に熟達するとき、霊性の光明が啓示する。 (佐保田訳)内面の静澄が生じたならば、そこに真理のみを保有する直観智が実現する。
(インテ訳)これがリタンバラー・プラジュニャー、すなわち絶対的な真理意識である。
(シュリー訳)その(霊性の光明の啓示)中で、完全な真実の直接認識が生じる。 (佐保田訳)この三昧智によって生ずる行は、他の行を抑圧する性質をもっている。
(インテ訳)このサマーディによって生ずる印象〔サンスカーラ〕は、他のすべての印象を払拭する。
(シュリー訳)それ(完全な真実の直接認識)から生じる潜在印象は、他の潜在印象を抑滅する。 T−51 tasya-api nirodhe sarva-nirodhqn nirb]ja4 samqdhi4 /
(私訳)その(リタンバラーの智慧から生じる残存印象の)制止においても、すべて(の心のはた
らき)が制止されることから、無種子三昧がある(生じる)。 (佐保田訳)最後に、この無伺三昧を抑滅したとき、一切が抑滅されるから、無種子三昧が出現する。
(インテ訳)この印象さえも拭い去られるとき、あらゆる印象が完全に払拭されて、そこにニルヴィ
ージャ・サマーディ【種子のない三昧】がある。
(シュリー訳)それ(完全な真実の直接認識から生じる潜在印象)さえも抑滅されるとき、全てが抑
滅され無種子三昧が実現する。 W−29 prasa/khyqne ’py-akus]dasya sarvathq viveka-khyqter-dharma-megha4 samqdhi4/
(
私訳)(深い)瞑想智に対してさえも無償の人には、みな、識別の覚知によってダルマ・メーガ
(法雲)というサマーディ(三昧)がある。 (佐保田訳)ヨーギーが最高の直観智に対してさえなんらの期待を抱かず、あらゆる形の弁別智を尽
くしたならば、法雲三昧の境地が現われる。
(インテ訳)完全なる識別知によって、最も高い報償に対してさえ全く無欲となった者は、不断の、
特異な洞察の内にとどまるものであり、それはダルマメーガ・サマーディ【法雲三昧】と呼ば
れる。
(シュリー訳)至高の識別知を得てさえ離欲を保持する者には、完全な識別知による法雲三昧が生じ
る。 W−30 tata4 kle1a-karma-niv3tti4/
(私訳)それ(ダルマ・メーガ・サマーディ(法雲三昧))によって、煩悩と宿業が消滅する。
(佐保田訳)その時、煩悩と業は消滅する。
(インテ訳)そのサマーディによって、すべての苦悩〔煩悩〕とカルマ〔業〕は終熄する
(シュリー訳)そのあと苦悩と過去の潜在印象は消滅する。 (佐保田訳)独存位とは、真我のためという目標の無くなった三徳が、自分の本源へ没し去ることで
ある。或は、純粋精神なる真我が自体に安住することだ、といってもよい。
(インテ訳)かくして、もはやプルシャに仕えるという目的のなくなった三グナは、プラクリティに
帰還し、独存という最上の境地〔カイヴァリヤ〕が現われる。あるいは【別の角度から見れば】、
純然たる意識の力が自らの純粋な本性の内に安住するのである。
(シュリー訳)独存とは、目的を失った根本属性がその源泉に退却することである、あるいは、純粋
精神がその本性(である絶対意識)に確立することである。 う〜〜ん^^
真我独存までいってしまったか・・^^
困った^^ 353 あれこれの尊い理法を知っておられるのですから、(みずからは)知りながら[語らないで、われらを]迷わしたりなさいますな。励むことにすぐれた方よ。夏に暑熱に苦しめられた人が水をもとめるように、わたくしは(あなたの)ことばを望むのです。聞く者に[ことばの雨を]降らしてください。
354 カッパ師が清らかな行いを行なって達成しようとした目的は、かれにとって空しかったのでしょうか? かれは、消え滅びたのでしょうか? それとも生存の根源を残して安らぎに帰したのでしょうか? かれはどのように解脱したのでしょうか、ーわたくしたちはそれを聞きたいのです。」
355 師は答えた、「かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長いあいだ陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである。」五人の修行者の最上者であった尊き師はそのように語られた。 355 師は答えた、「かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長いあいだ陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである。」五人の修行者の最上者であった尊き師はそのように語られた。 (インテ訳)名称と形態、およびそれらに関する知識が混在しているサマーディが、サヴィタルカ・サマーパッティ、すなわち思慮を伴うサマーディと呼ばれる。 う〜〜ん^^
ブッダちゃんは間違いなく・・ヨーガ行者^^ かれはどのように解脱したのでしょうか、ーわたくしたちはそれを聞きたいのです。」
355 師は答えた、「かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。 スッタニパータ
第五
彼岸に至る道の章
[1024]
いかなる神が心の中でそれらの質問をしたのだろうか?
神か、梵天か、またはスジャーの夫なる帝釈天か?
また尊師は誰に答えたもうたのだろう?
[1025]
アジタがいった
バーヴァリは頭のことについて、また頭の裂け落ちることについて質問しました
先生!
それを説明してください仙人さま!
われらの疑惑を除いてください
[1026]
ゴータマブッダは答えた
無明が頭と知れ!
明知が 、信仰と 念いと 精神統一と 意欲と 努力に 結びついて、
頭を 裂け 落とさせる ものである!!
頭を 裂け 落とさせる ものである!!
頭を 裂け 落とさせる ものである!!
https://manikana.net/
https://manikana.net/canon/canonindex.html 1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」
1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」
1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか? おたずねしますが、このことをわたしに説いてください。」
1037 アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」 1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか? おたずねしますが、このことをわたしに説いてください。」
1037 アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」 ほんまこれ^^
ヨーガ・スートラ
T 三昧の章
1. それでは、ヨーガを教えよう。
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
心(チッタ) … サーンキヤ哲学では、ブッディ(識別知)、アハンカーラ(自我意識)、マナス(思考・欲望)の三つの心の作用がある。
3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働きと同一化している。 2. ヨーガとは心の働き(識別作用)の止滅である。
3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働きと同一化している かれはどのように解脱したのでしょうか、ーわたくしたちはそれを聞きたいのです。」
355 師は答えた、「かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。 かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執(心の働き(識別作用))を断ち切ったのである。 (インテ訳)名称と形態、およびそれらに関する知識が混在しているサマーディが、サヴィタルカ・サマーパッティ、すなわち思慮を伴うサマーディと呼ばれる。
756 見よ、神々並びに世人は、非我なるもの【名色・個体】を我と思いなし、<名称と形態>【名色】に執著している。「これこそ真実である」と考えている【顛倒】。
※ 【名称と形態(名色):名色とは、識別作用によって生じる存在の構成要素、悟りの立場からは空(無常)としての精神と物質、または言語と現象、または対象・個体】 先人たちは、瞑想によって自分の内側の深い部分に意識を向けて行った時、自分自身の「心」でさえ物質的な社会の一部であり、それを手放すことで純粋な真実の自分がいることに気が付きました。それがプルシャ(真我)と呼ばれる本当の自分です。
プルシャ:純粋無垢な傍観者
プルシャは純粋無垢で、途切れなく永遠と存在し、とても静かに平穏、そしてとても幸せな状態を保っています。
プルシャ自身には思考は無く、自分と他者を分けて認識する自我もありません。世界を照らし、傍観する能力のみを有します。そのためプルシャのことを傍観者とも呼びます 756 見よ、神々並びに世人は、非我なるもの【名色・個体】を我と思いなし、<名称と形態>【名色】に執著している。「これこそ真実である」と考えている【顛倒】。
こうならんとそうはならん^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 756 見よ、神々並びに世人は、非我なるもの【名色・個体】を我と思いなし、<名称と形態>【名色】に執著している。「これこそ真実である」と考えている【顛倒】。
2. ヨーガとは心の働き(識別作用)の止滅である。
3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働きと同一化している 識別知
ヨガでは、識別知は苦しみの根源とされる「無知」を取り除く知性と考える。ヨガの実践を通じて識別知を得ると心と真我の違いが見分けられ、真智を得て、苦しみは消える 「識別知」によって苦を取り除く
私たちはヨーガを行うことで未来の苦を捨てることができる。ではそもそも苦の原因は何だろうか?それは真我、すなわち見るものと、思考へともたらされた対象のあり方、すなわち見られるものとが結合することにある。この結合は倒錯した知が残した潜在的な印象、すなわち無知によって引き起こされる。
したがって、無知を識別知によって取り除けば、苦もまた取り除かれる。
ただし識別知は考えれば得られるわけではない。それは禁戒、勧戒、坐法、調息、制感、凝念、禅定、三昧の8つの段階の実修を積み重ね、無知をなくすことで初めて得ることができる。
禁戒とは、生命を殺さず、嘘をつかず、財を盗まず、禁欲し所有をもたないことを指している。また勧戒とは、心身の清浄、必要以上のものは求めないこと(知足)、苦行、最高神の信仰を指している。それらに加えて、最適な坐法、呼吸法、心の制御を行うことによって、識別知を得ることができる。
そのとき私たちの心は純質となり、心と真我との区別を見ることができる。
ただし、この過程において私たちは自我をもってはならず、ましてや識別知を得ることや解脱することを欲してはならないことに気をつけなければならない。そうした自我意識や欲望は煩悩であり、解脱の障害でしかないからだ。
知に対して何の益も求めない者にだけ識別知が生じ、そこから法雲と呼ばれる三昧が起こってくる。そして、これによって煩悩と業は消滅し、生きながらにして解脱にいたるのだ。 ラーマナマハリシの説明
【 ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマディー 】は
ラヤ【 一 時 的 な 心 の 停 止 】である。
【 ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマディー 】の状態にいる者は【 真 我 を 実 現 してい無い !】
彼らは未だ【 探 究 者 】である。
ときおり【 心 を 制 御 しなければ】ならない。
● 要するに、禅定・瞑想などの、一時的な入定・出定の繰り返しのことである。
● 如何に【無尋・無伺・無呼吸】の禅定瞑想に至って【心の停止】に至っても、真我は未だ現れない。
● 心の完全な破壊で、思考と妄想念が24時間×毎日、日常的に、無努力、無為で完全に停止されて、初めてー
真我としてただ【在る!】が輝く。
● これが、頭が裂け落ちることと釈尊が言ったことと、その後に起こること。 うん?
おまえら・・解脱を本気でやろうとすんなよ^^
自己責任でお願いします^^ 【 サ ハ ジャ・ニ ルヴィ カ ル パ・サ マ ディー】は
【 心 の 完 全 な 破 壊 】である。
もし【サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディー】のように【 心 が完全に《 破 壊》 された 】なら、
【心は 再 び 現 れ る ことは無い】。
彼がその【 崇 高 な 状 態 】から【決して《落ちることは無い》】のである。
●【 心 が完全に《 破 壊》 された なら》
【 心 は 再 び 現 れ る ことは 無い 】
●【 心 が完全に《 破 壊》 された なら》
【 心 は 再 び 現 れ る ことは 無い 】
●【 心 が完全に《 破 壊》 された なら》
【 心 は 再 び 現 れ る ことは 無い 】 ヨーガスー虎はお品書き。
本物のヨーガは口伝で伝わるものだね。
師匠に教わらないと禅定瞑想止まり。
自我は超越されなでしょうね。 ●【 心 が完全に《 破 壊》 された なら》
【 心 は 再 び 現 れ る ことは 無い 】
完全に嘘じゃん^^
心 が完全に《 破 壊》 された人がそう言ったの?^^ 自我は超越されなでしょうね。
在家ならほとんど不可能^^ 自我は超越されなでしょうね
本当はもうすでに超越してるんだけどね^^ 本当はもうすでに超越してるんだけどね^^
うん?
真実にはうすでに超越してるんだけどね^^
ゆえに・・^^
師匠に教わらないとかは関係ない^^ 永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(62) サマーディ②
最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」に書かれたメッセージ、
次は、ラマナ・マハルシの御言葉をご紹介しますが、御二方の御言葉が、異なった時空間で発せられた文言であるにも拘わらず、ほとんど同じことを言っている点に注目して下さい。 禅定は入ったり出たり。
入りっぱなしで心の止滅がされたのが、ダルマメーガ・サマディー。
心の破壊とは、我執と心素が善性優位に置かれて止滅の行が連続的に為されると、潜在印象が湧かなくなって、頭脳の思考と妄想念が完全に停止される。
この完全停止がされたのを、破壊されたって言ってるんでしょう。
ただの禅定じゃあまた復活するし、直ぐにね。 Hatena Blog
永遠の人
読者になる
2022-11-30
永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(62) サマーディ② 『質問者
「ラージャ・ヨーガの第八段階であるサマーディは、あなたが語るサマーディと同じものなのでしょうか?」
マハルシ
「サマーディという言葉は、ヨーガのなかではある種の超越状態を意味し、それにはさまざまな種類のサマーディがある。
だが、私が語るサマーディはそれとは別のものだ。
それはサハジャ・サマーディである。
このなかであなたはサマーダーナ(安定性、不変性)を得る。
そしてたとえ活動中でも、静かな落ち着いた状態のままとどまる。
あなたはより深い内なる真我によって動かされていることを悟る。
あなたには何の心配も、不安も、悩みもない。
なぜなら、何ひとつあなたに属するものはないと悟るからである。
あなたはあなたが意識的に合一した、その何かによってすべてが為されていることを知るのである。」 質問者
「このサハジャ・サマーディが最も求められるべき状態であるのなら、ニルヴィカルパ・サマーディは必要ないのでしょうか?」
マハルシ
「ラージャ・ヨーガのニルヴィカルパ・サマーディはそれなりに有益だろう。
だが、ジニャーナ・ヨーガにおいては、サハジャ・スティティ(自然の状態)あるいはサハジャ・ニシター(自然の状態にとどまっていること)自体がニルヴィカルパの状態なのである。
この自然な状態のなかで、心は疑いから解き放たれ、もはや可能性と蓋然性の選択に揺れることはない。
心は何のヴィカルパ(違い)も見ず、真理を確信している。
なぜなら、心は真理の実在を感じとっているからである。
たとえ活動しているときでも、それは真理、真我、至高の実在のなかでの活動だということを知っているのである。」 質問者
「深い眠りとラヤ(心が一時的に停止した超越状態)とサマーディの違いは何でしょうか?」
マハルシ
「深い眠りのなかでは、心は没入しているが破壊されてはいない。
ひとたび没入したものは再び現れてくる。
それは瞑想のなかでも起こりうる。
だが、破壊された心が再び現れることはない。
ヨーギの目的はラヤのなかに沈みこむことではなく、心を破壊することである。
瞑想の平和のなかでラヤは、しばしば起こる。
だが、それではじゅうぶんでない。
心を破壊するために、それは他の修練で補われなければならない。
ある人たちは取るに足らない想念とともにヨーガのサマーディのなかに没入し、長い時が流れたあとで同じ想念とともに目覚めている。
その間、世界では何世代もが過ぎていったのである。
そのようなヨーギの心は破壊されていない。
本当の心の破壊とは、真我を離れて心は存在しないと認識することである。
今でさえ、心は存在していない。
それを認識しなさい。
自動的にすべてが起こっていく日常の活動のなかにこそ、その真実を認識しなければならないのである。
日常の活動を促している心とは実在のものではなく、真我から生じる幻影のようなものにすぎない。
これが心を破壊する方法である。」 本当の心の破壊とは、真我を離れて心は存在しないと認識することである。
今でさえ、心は存在していない。
それを認識しなさい。
自動的にすべてが起こっていく日常の活動のなかにこそ、その真実を認識しなければならないのである。
日常の活動を促している心とは実在のものではなく、真我から生じる幻影のようなものにすぎない。
これが心を破壊する方法である。 心の破壊
つまり・・
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。 訳がおかしいか・・なんだろうな・・^^
ラマナ・マハルシもおなじあなのむじな・なんだけどな^^ 心の破壊とは、我執と心素が善性優位に置かれて止滅の行が連続的に為されると、潜在印象が湧かなくなって、頭脳の思考と妄想念が完全に停止される。
この完全停止がされたのを、破壊されたって言ってるんでしょう。
ただの禅定じゃあまた復活するし、直ぐにね
そのとおり^^ 本当の心の破壊とは、真我を離れて心は存在しないと認識することである。
今でさえ、心は存在していない。
それを認識しなさい。
自動的にすべてが起こっていく日常の活動のなかにこそ、その真実を認識しなければならないのである。
日常の活動を促している心とは実在のものではなく、真我から生じる幻影のようなものにすぎない。
これ^
^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 日常の活動を促している心とは実在のものではなく、真我から生じる幻影のようなものにすぎない。
世界内・・世界=幻影・・自我=(心身) 私は誰か?
身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなかのどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハートのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所である。絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろう。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」という想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。
「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。 他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきである。どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究すべきである。それに対して現れる答えは「私に」だろう。そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。
このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れる。心がハートのなかにとどまっていれば、名前と形は消え去る。心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。心をハートから外へ出させることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。このように、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源である「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。 このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れる。心がハートのなかにとどまっていれば、名前と形は消え去る
54 カッパ師が清らかな行いを行なって達成しようとした目的は、かれにとって空しかったのでしょうか? かれは、消え滅びたのでしょうか? それとも生存の根源を残して安らぎに帰したのでしょうか? かれはどのように解脱したのでしょうか、ーわたくしたちはそれを聞きたいのです。」
355 師は答えた、「かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長いあいだ陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである。」五人の修行者の最上者であった尊き師はそのように語られた。 真実、存在するのは真我だけである。世界、個我、神は真珠貝のなかの銀色の輝きのように、真我の内に現れるものである。これら三つは同時に現れ、同時に消え去る。
「私」という想念が絶対にないところ、それが真我である。それは沈黙と呼ばれる。真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり、真我そのものが神である。すべてはシヴァ、真我である。
神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者である。自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか? われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。 「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう
「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。
この想念の破壊は理解できる^^ 「私」という想念が絶対にないところ、それが真我である。それは沈黙と呼ばれる。真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり、真我そのものが神である。すべてはシヴァ、真我である。
神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者である。自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである
まったくもって理解できる^^ 心の破壊とは、我執と心素が善性優位に置かれて止滅の行が連続的に為されると、潜在印象が湧かなくなって、頭脳の思考と妄想念が完全に停止される
潜在印象が湧かなくなって、頭脳の思考と妄想念が完全に停止される
つまり・・心の破壊ではなく・・^^
心の働きの止滅^^ 18. プルシャは不変であるので、心の動きは常に知られている。
19. 心はそれ自体で輝くものではない。それはプルシャによって見られるものであるから。
20. また、心は二つのものを同時に認識することはできない。
21. もし心が別の心によって知覚されるのであれば、心は知覚する数だけ無限に存在することになり、記憶の混乱を生じるだろう。
22. プルシャは不変であり、その本性を見ることによって、心は自己を知る。
23. 見る者と見られるものに染められることで、心はあらゆるものを知ることができる。
24. 心は無数の願望によって動き回るが、心はプルシャのためにこそ働くものである。
25. 心とプルシャの違いを知る人は、もはや心を自己(アートマン)であると見ることはない。
26. この識別知を得た人は、カイヴァリヤへと赴く。
27. その間にも、過去に生じているサンスカーラから様々な心の作用が生じてくる。
28. それは、これまで説明した煩悩の対処法によって取り除けばよい。
29. 識別知を確立した人は、最上の知識に対しても無関心になる。これをダルマメーカサマーディと呼ぶ。
ダルマメーガ・サマーディ 法雲三昧。
30. このサマーディによって、煩悩とカルマが消え去る。
31. そのとき、智慧を覆っていた汚れは全て取り除かれ、現れてくる無限の智慧によって、これ以上知るべきものはもう無い。
32. これで、グナの変化の過程におけるすべての目的が果たされた。
33. 瞬間瞬間に起きていた変化の連続は、ここに終息する。
34. グナがプラクリティの本来の姿へと戻れば、そのとき、カイヴァリヤは実現する。プルシャの目的は無くなり、純粋意識は本来の状態へと戻る。 25. 心とプルシャの違いを知る人は、もはや心を自己(アートマン)であると見ることはない。
26. この識別知を得た人は、カイヴァリヤへと赴く。
27. その間にも、過去に生じているサンスカーラから様々な心の作用が生じてくる。
28. それは、これまで説明した煩悩の対処法によって取り除けばよい。
29. 識別知を確立した人は、最上の知識に対しても無関心になる。これをダルマメーカサマーディと呼ぶ。
ダルマメーガ・サマーディ 法雲三昧。
30. このサマーディによって、煩悩とカルマが消え去る。
31. そのとき、智慧を覆っていた汚れは全て取り除かれ、現れてくる無限の智慧によって、これ以上知るべきものはもう無い。
32. これで、グナの変化の過程におけるすべての目的が果たされた。
33. 瞬間瞬間に起きていた変化の連続は、ここに終息する。
34. グナがプラクリティの本来の姿へと戻れば、そのとき、カイヴァリヤは実現する。プルシャの目的は無くなり、純粋意識は本来の状態へと戻る。 心の破壊とは、我執と心素が善性優位に置かれて止滅の行が連続的に為されると、潜在印象が湧かなくなって、頭脳の思考と妄想念が完全に停止される
27. その間にも、過去に生じているサンスカーラから様々な心の作用が生じてくる。
28. それは、これまで説明した煩悩の対処法によって取り除けばよい。
29. 識別知を確立した人は、最上の知識に対しても無関心になる。これをダルマメーカサマーディと呼ぶ。
ダルマメーガ・サマーディ 法雲三昧。
30. このサマーディによって、煩悩とカルマが消え去る。
31. そのとき、智慧を覆っていた汚れは全て取り除かれ、現れてくる無限の智慧によって、これ以上知るべきものはもう無い。 心の破壊とは、我執と心素が善性優位に置かれて止滅の行が連続的に為されると、潜在印象が湧かなくなって、頭脳の思考と妄想念が完全に停止される
27. その間にも、過去に生じているサンスカーラから様々な心の作用が生じてくる。
28. それは、これまで説明した煩悩の対処法によって取り除けばよい。
29. 識別知を確立した人は、最上の知識に対しても無関心になる。これをダルマメーカサマーディと呼ぶ。 21 解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を
探究する必要があるでしょうか?
ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それ
が何であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人に
とっても、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする
必要はない。彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを
払いのけることである。世界はひとつの夢のようなものと見なされなけれ
ばならない 私は誰か?
ラマナ・マハルシの教え
一通り読んでみたけど・・^^
心の破壊なんて言ってないな・・^^ 心は想念から成り立つ。心の中に最初に現れるのは「私」という想念で
ある。「私は誰か?」という探求を忍耐強く繰り返したとき、その他すべて
の想念は破壊される。そして最終的には「私」という想念自体も消え去り、
至高なる非二元性の真我だけが後に残る。そのとき、真我ではない身体や
心という現象と真我との偽りの自己同一化は終焉し、直接体験としての啓
示が起こるのである 「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきである。これをするには、
極端なまでの注意深さが必要となる。心がさ迷い出し、それ自体が創り出
した想念の迷宮に迷い込むのを許さず、たゆまぬ探求を通して心を源にと
どめなければならない。呼吸制御や神の姿への黙想といったものは、補助
的な修練と見なされるべきだ。そのような修練は、心を静まらせ一点に集
中させるという限りにおいて有益である。なぜなら精神集中に熟練した心
にとって、真我探求は容易になるからだ。絶え間ない探求を通して想念が
破壊されたとき、「私」という想念さえ存在しない「沈黙」の体験の中で、
究極の実在である真我は実現されるのだ たゆまぬ探求を通して心を源にとどめなければならない
↓
絶え間ない探求を通して想念が破壊されたとき、「私」という想念さえ存在しない「沈黙」の体験の中で、
究極の実在である真我は実現されるのだ 心を源にとどめると・・想念が破壊され・・究極の実在である真我は実現されるのだ まぁ〜簡単に言うと・・^^
ヨーガ・スートラ^^
つまり・・^^
おなじあなのむじな^^ 心を源にとどめる
2. ヨーガとは心の働きの止滅である 想念の破壊と心の破壊を混同したんじゃね^^
ラマナ・マハルシ以外の訳した人が^^ 心を源にとどめると・・想念が破壊され・・究極の実在である真我は実現されるのだ
う〜〜ん^^
心の破壊ね〜〜^^ 2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
心の破壊・・これ↓を破壊すんのかな^^
心(チッタ) … サーンキヤ哲学では、ブッディ(識別知)、アハンカーラ(自我意識)、マナス(思考・欲望)の三つの心の作用がある。 29. 識別知を確立した人は、最上の知識に対しても無関心になる。これをダルマメーカサマーディと呼ぶ。
ダルマメーガ・サマーディ 法雲三昧。
30. このサマーディによって、煩悩とカルマが消え去る。
31. そのとき、智慧を覆っていた汚れは全て取り除かれ、現れてくる無限の智慧によって、これ以上知るべきものはもう無い。
32. これで、グナの変化の過程におけるすべての目的が果たされた。
33. 瞬間瞬間に起きていた変化の連続は、ここに終息する。
34. グナがプラクリティの本来の姿へと戻れば、そのとき、カイヴァリヤは実現する。プルシャの目的は無くなり、純粋意識は本来の状態へと戻る。 32. これで、グナの変化の過程におけるすべての目的が果たされた。
33. 瞬間瞬間に起きていた変化の連続は、ここに終息する。
34. グナがプラクリティの本来の姿へと戻れば、そのとき、カイヴァリヤは実現する。プルシャの目的は無くなり、純粋意識は本来の状態へと戻る。 (私訳)プルシャという目的がなくなった(三つの)グナにとって、本源の(均衡の)状態に戻る
こと、あるいは、純粋意識の力が自身の形色に安住することが、カイヴァルヤ(独存)で
ある。
(佐保田訳)独存位とは、真我のためという目標の無くなった三徳が、自分の本源へ没し去ることで
ある。或は、純粋精神なる真我が自体に安住することだ、といってもよい。
(インテ訳)かくして、もはやプルシャに仕えるという目的のなくなった三グナは、プラクリティに
帰還し、独存という最上の境地〔カイヴァリヤ〕が現われる。あるいは【別の角度から見れば】、
純然たる意識の力が自らの純粋な本性の内に安住するのである。
(シュリー訳)独存とは、目的を失った根本属性がその源泉に退却することである、あるいは、純粋
精神がその本性(である絶対意識)に確立することである。 プラクリティから生まれた心の仕組み
ブッディ(覚):プラクリティから一番最初に現れる精神の根本原理。正しい知性です。マハット(大)とも呼ばれて、大きな宇宙全体の思考原理でもあります。
アハンカーラ(自我):ラジャスの性質が強くなると、ブッディからアハンカーラが生まれます。アハンカーラとは他者と自分を区別する自我です。自己への執着を持ちます。
マナス(思考):さらに3つのグナの働きが活発になることで、様々な思考が生まれます。それらをマナスと呼びます。
上記のブッディ、アハンカーラ、マナスの3つを合わせてチッタ(心)と呼びます。
ヨガスートラの冒頭の「ヨガとは心の働きを静止させること」 (ヨガスートラ1章2節)で示している「心」とは、この3つを合わせたものです。 サーンキャ学派は、精神と物質の二元論に立つ。
精神は、「個我」ではあるが、観照するだけでいかなる活動も行わない「純粋精神」であり、輪廻にも解脱にもかかわらないものであり、プルシャ、あるいはアートマンと呼ばれる。
これに対して物質原理は、プラクリティ(自性)、あるいはプラダーナ(根本原質)と呼ばれる質料因で、活動性があり、三種の構成要素(グナ)からなっている サーンキヤ学派は、純粋な精神原理のプルシャと物質原理のプラクリティのふたつを実在するものと考えており、その片方にあたるものである[1]。 サーンキヤ学派では、プルシャはあらゆる物質性を排した存在である、とされる。それに対してプラクリティというただひとつの物質原理によりこの世界の物質的なものが生じた、とする[1]。
存在論的に述べると、プラクリティは現象世界の根源的物質であり、現象的存在(個々の物)は全てプラクリティの変化によって生じたもの、とする[1]。そのため、pradhāna プラダーナ(= 第一原因)とも呼ばれる。[注釈 1]
解脱論的に述べると、サーンキヤ学派はプラクリティは身体のあらゆる物質的要素を指すものとして用いられている。同学派は、解脱とはプルシャがプラクリティ(全ての身体的要素)とは別の存在であることを認識すること、とした[1] これやな・・^^
サーンキヤ学派は、純粋な精神原理のプルシャと物質原理のプラクリティのふたつを実在するもの
思い出した^^ 同学派は、解脱とはプルシャがプラクリティ(全ての身体的要素)とは別の存在であることを認識すること、とした[1]
「識別知」によって苦を取り除く
私たちはヨーガを行うことで未来の苦を捨てることができる。ではそもそも苦の原因は何だろうか?それは真我、すなわち見るものと、思考へともたらされた対象のあり方、すなわち見られるものとが結合することにある。この結合は倒錯した知が残した潜在的な印象、すなわち無知によって引き起こされる。
したがって、無知を識別知によって取り除けば、苦もまた取り除かれる。
ただし識別知は考えれば得られるわけではない。それは禁戒、勧戒、坐法、調息、制感、凝念、禅定、三昧の8つの段階の実修を積み重ね、無知をなくすことで初めて得ることができる。
禁戒とは、生命を殺さず、嘘をつかず、財を盗まず、禁欲し所有をもたないことを指している。また勧戒とは、心身の清浄、必要以上のものは求めないこと(知足)、苦行、最高神の信仰を指している。それらに加えて、最適な坐法、呼吸法、心の制御を行うことによって、識別知を得ることができる。
そのとき私たちの心は純質となり、心と真我との区別を見ることができる。
ただし、この過程において私たちは自我をもってはならず、ましてや識別知を得ることや解脱することを欲してはならないことに気をつけなければならない。そうした自我意識や欲望は煩悩であり、解脱の障害でしかないからだ。
知に対して何の益も求めない者にだけ識別知が生じ、そこから法雲と呼ばれる三昧が起こってくる。そして、これによって煩悩と業は消滅し、生きながらにして解脱にいたるのだ。 さてと・・^^
これですこやかに寝れる^^
寝る^^ 15.探究はどのくらいの期間 修練されるべきでしょうか?
心の中にものごとの印象がある限り、
「私は誰か?」
と尋ねなければならない。
想念が起こったなら、
そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって
破壊されるべきである。
もし真我に到達されるまで、不断の真我の黙想に打ち込めば
それだけで想念は消滅するだろう。 あーこれか^^
心の破壊^^
質問者
「深い眠りとラヤ(心が一時的に停止した超越状態)とサマーディの違いは何でしょうか?」
マハルシ
「深い眠りのなかでは、心は没入しているが破壊されてはいない。
ひとたび没入したものは再び現れてくる。
それは瞑想のなかでも起こりうる。
だが、破壊された心が再び現れることはない。
ヨーギの目的はラヤのなかに沈みこむことではなく、心を破壊することである。 サハジャ・ニルヴィカルバはナーシャ(心の完全な破壊)であり、ケヴァラ・ニリヴィカルパはラヤ(一時的な心の停止)である。
ラヤ・サマーディの状態にいる者は、ときおり心を制御しなければならない。
もしサハジャ・サマーディのように心が破壊されたなら、再び現れることはない。
そのような人によって為された行為は、それが何であろうと重要なことではない。
彼がその崇高な状態から落ちることはけっしてないのである。
ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディの状態にいる者たちは、真我を実現してはいない。 マハルシ
「瞑想を自然な習慣とし、瞑想の至福を楽しむ人は、外的な仕事が何であろうといかなる想念がやってこようと、彼のサマーディを失うことはない。
それがサハジャ・ニルヴィカルパである。
サハジャ・ニルヴィカルバはナーシャ(心の完全な破壊)であり、ケヴァラ・ニリヴィカルパはラヤ(一時的な心の停止)である。
ラヤ・サマーディの状態にいる者は、ときおり心を制御しなければならない。
もしサハジャ・サマーディのように心が破壊されたなら、再び現れることはない。
そのような人によって為された行為は、それが何であろうと重要なことではない。
彼がその崇高な状態から落ちることはけっしてないのである。 ◆ケーヴァラ ニルヴィカルパ
サマーディ
(サマーディ、もしくは、真我へ吸収された一時的な状態)
1) 心は生きている
2)光の中に沈んでいる
3) 縄に結ばれ、井戸水の中に置かれているつるべのよう
4) 縄のもう一方の端によって引き上げられる
◆サハジャ ニルヴィカルパ サマーディ
(サマーディ、もしくは、完全に真我へ吸収された永続的で、自然な状態。思いは何もないが、「私は在る」という実存かつ意識の完全な自覚がある)
1) 心は死んでいる
2) 自らの中に溶け込んでいる
3) 海に注がれ、川としての性質を失った川のよう
4) 川が海から流れ出ることはありえない {{対して、【サハジャ ジニャーニ(完全な覚者)】は、
【心がチダーナンダ(自らの至福)の恍惚に溶け込み、死んでいるために】、
【身体的活動に気づかないままでいる】}}。
【自ら(真我=アートマン)を実現した聖者の心は、完全に破壊されている】。
【それは死んでいる】。
しかし、見る者には、彼は普通の人のように心を所有しているように見えるかもしれない。
それゆえに、聖者の『私』は、単に見せかけの『客観的現実性』を持つに過ぎない。
しかしながら、【実際は、それは主観的実在性も持たず、客観的現実性も持たないのだ】」 う〜〜ん^^
まじか・・^^
彼の言う通りや・・・^^ 四禅と四無色定の上に、滅尽定(nirodha-samāpatti[10][11])すなわち、想受滅定(saññā-vedayita-nirodha-samāpatti[10][11])があり[10][11][12]、九次第定と呼ばれる[10][13]。
無想定は、凡夫や外道が無想の状態を真の悟りと誤認して修めるものであるが、滅尽定は、聖者がその定の境地を無余涅槃界の静けさになぞらえて修めるものである[1]。無想定では、第四の禅定にもとづき知覚の粗いはたらきがなくなり、滅尽定(nirodha-samāpatti)では、有頂天にもとづき心と心所法は決められた間において止滅する 九次第定とは、パーリ語仏典では9つの定を置く形で説明が保たれており、第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定、空無辺処(定)[15]、識無辺処(定)[16]、無所有処(定)[17]、非想非非想処(定)[18]、想受滅[19]となり、この最後だけが釈迦が初めて到達した仏教に特徴的な定だとされる[20]。大般涅槃経では、釈迦は入滅にさいして第一禅定と想受滅のあいだを上下し、第四禅定から出定したのち般涅槃に入ったとされている[21][22]。藤本晃は、滅尽定は煩悩を滅して心を完全に清らかにした阿羅漢でなければできない禅定であり、凡夫の禅定者にとっては非想非非想処定が最高の境地であると述べている 初期経典の『阿含経』やパーリ・ニカーヤでは、最上位に滅受想定(滅尽定)が存在するとするものの、九次第定で想受滅定が語られる位置に、無相の心定が言及され、この無相の心定とは滅受想定から出定する際の観であると解釈されている[13]。
滅尽定については、異なる複数以上のサンスクリットの漢訳として用いられており、滅受想定と同義の漢訳の他に、ubhaya(to)-bhāga-vimukta からの翻訳がある 滅尽定
nirodha-samāpatti (S)の訳。
滅受想定・想受滅定ともいい、滅尽三昧と称することもある。心不相応行法の一つ。心と心所(心のはたらき)とをすべて滅し尽くした定で、無想定とともに二無心定の一つに数えられる。
無所有処の煩悩を離れた聖者が、その定の境地を無余涅槃の静けさになぞらえて無心の寂静境を楽しむために入るもので、この定を修めることによって無色界の第四有頂天に生まれる。
説一切有部はこの定を別の実体のあるものと主張するが、経量部や唯識では仮のものとし、また唯識ではこの定中にも阿頼耶識は断たないと説く。
分別論者も想と受とだけが滅するのであって細心は滅しないと主張する。もとは涅槃の境地を定という形で示したものであるらしい。 う〜〜ん^^
滅尽定
無色界の禅定(非想非非想処)の先に、滅尽定(滅想定、滅受想定、想受滅とも呼ばれる)がある。これは、瞑想とも禅定とも呼べるかどうかもわからない状態である。すべての想いが滅した状態である。
これは色界や無色界での禅定ではない状態で、心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な、心のあらゆる動きが全く止滅した状態とされている。
想受滅では、心の状態が全く止滅し、身体のはたらきもその間ほとんど止まる。飲食や排泄は、もちろん、呼吸もほぼなくなり、心臓の鼓動も微細になり、肉体の活動全体がほぼ完全に休止状態となる。これを外部から見ると、瞑想の体勢で座っていても、まるで生きているのか、死んでいるのか、分らないような状態となってしまうのである。 0213あ
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
心の破壊・・これ↓を破壊すんのかな^^
心(チッタ) … サーンキヤ哲学では、ブッディ(識別知)、アハンカーラ
(自我意識)、マナス(思考・欲望)の三つの心の作用がある。
うわっ^^
破壊してた^^ 全く平穏静寂な、心のあらゆる動きが全く止滅した状態とされている。
想受滅では、心の状態が全く止滅し、身体のはたらきもその間ほとんど止まる。飲食や排泄は、もちろん、呼吸もほぼなくなり、心臓の鼓動も微細になり、肉体の活動全体がほぼ完全に休止状態となる。これを外部から見ると、瞑想の体勢で座っていても、まるで生きているのか、死んでいるのか、分らないような状態となってしまうのである。 滅尽定の中では、心のあらゆる動きが全く止滅している(ある意味、意識がない)ので、当然ながら滅尽定から醒めることを意識することもできない。滅尽定の間は、心のはたらきは何もなく、瞑想の最中に出定しようかなどと考えることもできないのである。
ではどうやって滅尽定から戻ることができるのかということだが、あらかじめ、いつ滅尽定から醒めるかを決めておくのである。決められた期間後に、滅尽定から醒めるのである。そうでないと禅定から醒めなくなってしまう。
滅尽定の状態のままで居続けられる期間は、最長七日間という。
滅尽定は在家修行者にはまず無理な状態であり、出家修行者でも難しく、滅尽定に到達できる人はまれである。滅尽定は阿羅漢(アラカン)しか達することができないといわれる。さらに阿羅漢(アラカン)になってしまうと、普通人の生活はできなくなるという。 ◆サハジャ ニルヴィカルパ サマーディ
(サマーディ、もしくは、完全に真我へ吸収された永続的で、自然な状態。思いは何もないが、「私は在る」という実存かつ意識の完全な自覚がある)
1) 心は死んでいる
2) 自らの中に溶け込んでいる
3) 海に注がれ、川としての性質を失った川のよう
4) 川が海から流れ出ることはありえない 滅尽定の中では、心のあらゆる動きが全く止滅している(ある意味、意識がない)ので、当然ながら滅尽定から醒めることを意識することもできない。滅尽定の間は、心のはたらきは何もなく、瞑想の最中に出定しようかなどと考えることもできないのである。 ではどうやって滅尽定から戻ることができるのかということだが、あらかじめ、いつ滅尽定から醒めるかを決めておくのである。決められた期間後に、滅尽定から醒めるのである。そうでないと禅定から醒めなくなってしまう。
滅尽定の状態のままで居続けられる期間は、最長七日間という。
滅尽定は在家修行者にはまず無理な状態であり、出家修行者でも難しく、滅尽定に到達できる人はまれである。滅尽定は阿羅漢(アラカン)しか達することができないといわれる。さらに阿羅漢(アラカン)になってしまうと、普通人の生活はできなくなるという。 滅尽定の状態のままで居続けられる期間は、最長七日間^^
わくわく^^ ラマナ・マハルシは滅尽定までいったのか・・?^^
滅尽定は在家修行者にはまず無理な状態であり、出家修行者でも難しく、滅尽定に到達できる人はまれである。滅尽定は阿羅漢(アラカン)しか達することができないといわれる。さらに阿羅漢(アラカン)になってしまうと、普通人の生活はできなくなるという ラマナ・マハルシ
1896年7月中ごろ、16歳の頃に突如として起こった死の体験に触発された内的探求から、完全な、無限の、不死の、実在かつ意識かつ至福である真我(自ら、アートマン)、または真実(真理)こそが私であると悟る。土日ごとに寺院を訪れ、熱烈な宗教的な喜びをもって寺院の周りを回る敬虔な性格であったが、特別に宗教的な書籍に親しんだり、瞑想などの修練をしたことはなかった。 896年7月中ごろ、16歳の頃に突如として起こった死の体験に触発された内的探求から、完全な、無限の、不死の、実在かつ意識かつ至福である真我(自ら、アートマン)、または真実(真理)こそが私であると悟る。
う〜〜ん^^
いってそうだな・^^ それはまったく突然だった。私は叔父の家の二階の部屋でひとり座っていた。私はめったに病気をしたことがなかったし、その日はいつもと変わらない健康状態だった。だが、激しい死の恐怖が突然私に襲いかかってきたのだ。私の健康状態には、その恐怖が起こるような原因は何もなかった。
死の恐怖の衝撃は、私の心を内側へ向かわせた。
私は心の中でつぶやいた。 『これでこの身体は死んだ。それは硬直したまま火葬場に運ばれ、そこで燃やされて灰と化すのだ。だがこの身体の死とともに私は死ぬのだろうか?果たして身体が「私」なのだろうか?身体は沈黙し、それ自体に生命力はない。だが私は自分の人格の完全な力を感じているし、それとは別に、私の内側で「私」という声さえ感じる。それゆえ、私は身体を超越した霊性(Spirit)なのだ。身体は死ぬ。だが、それを超越した霊性は死によって触れられることはない。それゆえ、私は不滅の霊性なのだ』
これらはけっしてとりとめのない漠然とした考えなどではなかった。
それはほとんど何の思考過程もなしに直接知覚された生きた真理として、鮮やかに私にひらめいたのである。
ーラマナ・マハルシの伝記 ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシの教えは、シャンカラの不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)を軸とした、「分離した世界は幻想であり、唯一の実在は真我(悟り)である。」というものでした。
これ^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d ラマナ・マハルシの教えは、シャンカラの不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)を軸とした、「分離した世界は幻想であり、唯一の実在は真我(悟り)である。」というものでした。
だろうな・・^^
つまり・・^^
おなじあなのむじな^^ 意識→「私」という意識→身体意識→身体
常に存在するのは意識であり、意識以外には何も存在しません。
ーラマナ・マハルシとの対話
自分自身の面倒を見なさい。
世界は世界でそれ自身に面倒を見させればいいのです。あなた自身の真我を見なさい。もしあなたが身体として在るなら、粗大な世界もそこにあるでしょう。
もしあなたが霊性として在るなら、全てが霊性の現れとなるのです。
ーラマナ・マハルシとの対話
新しく得るものなど何もありません。
その反対に、「自分は至福ではない」とあなたに考えさせる無知を取り除かなければならないのです。
ーラマナ・マハルシとの対話
真の境地は二元性を超えた真我なのです。
人が気づいていようといまいとそれは永遠に不変です。
ーラマナ・マハルシとの対話
実際のところ、真我が束縛されたことなど一度もなく、それゆえ解放もあり得ません。
あらゆる問題が自我にとってのみ存在するのです。
ーラマナ・マハルシとの対話 ーラマナ・マハルシとの対話
新しく得るものなど何もありません。
その反対に、「自分は至福ではない」とあなたに考えさせる無知を取り除かなければならないのです。
ーラマナ・マハルシとの対話
真の境地は二元性を超えた真我なのです。
人が気づいていようといまいとそれは永遠に不変です。 >>204
潜在意識の潜在印象が、顕在意識との間で無限ループして縁起している、その構造がマインド心なんでしょ。
この仮に構築されている精神構造を、一旦白紙化しないと、その背景的見る者としての認識主体(真我)が全面的に、I AMとして私は在る!とならないって、ラマナ・マハリシは言ってるの。
それが心の破壊って表現しているわけ。 この簡単な真実を、心と同化していると、見ることも理解もできない。
だから、先ずは九次第禅定の第四禅定を修めて、無尋・無伺・無呼吸を知って、空間と識は無辺であると知り、
そこを始点として心を停止ではなくて、今度は24時間連続で止滅される行を行って、心の仮構造を一旦壊し、空間・識・真我は同じものであるとし、I AMを如実に知る。
これがマハリシの言ったことと俺はりかいしているけどね。 24時間毎日、思考と妄想念がすっかり起きなくなる、そのような心の状態があると、先ず知らなくてはならない。
ダルマ・メーガ・サマディー
ラマナ・マハリシは3年もそれに浸っていたとされる。
そこに於いてラマナ・マハリシは、完璧に真我となった。 二元性とは概念のなかにある、なので、心を止滅させる。
心と真我の自己同一化を、壊す!
これは単純な事実の理解です。 潜在意識の潜在印象が、顕在意識との間で無限ループして縁起している、その構造がマインド心なんでしょ。
サンスカーラね^^ 9. サンスカーラと記憶は繋がっているので、たとえ生まれる時代や場所が変わっても、サンスカーラは変わらずにその人に付き従う。 25. 心とプルシャの違いを知る人は、もはや心を自己(アートマン)であると見ることはない。
26. この識別知を得た人は、カイヴァリヤへと赴く。
27. その間にも、過去に生じているサンスカーラから様々な心の作用が生じてくる。
28. それは、これまで説明した煩悩の対処法によって取り除けばよい。
29. 識別知を確立した人は、最上の知識に対しても無関心になる。これをダルマメーカサマーディと呼ぶ。 う〜〜ん^^
ヨーガスートラのこれからいくと・・^^
29. 識別知を確立した人は、最上の知識に対しても無関心になる。これをダルマメーカサマーディと呼ぶ。
ダルマメーガ・サマーディ 法雲三昧。
30. このサマーディによって、煩悩とカルマが消え去る。
31. そのとき、智慧を覆っていた汚れは全て取り除かれ、現れてくる無限の智慧によって、これ以上知るべきものはもう無い。
32. これで、グナの変化の過程におけるすべての目的が果たされた。
33. 瞬間瞬間に起きていた変化の連続は、ここに終息する。
34. グナがプラクリティの本来の姿へと戻れば、そのとき、カイヴァリヤは実現する。プルシャの目的は無くなり、純粋意識は本来の状態へと戻る。 31. そのとき、智慧を覆っていた汚れは全て取り除かれ、現れてくる無限の智慧によって、これ以上知るべきものはもう無い。
32. これで、グナの変化の過程におけるすべての目的が果たされた。
33. 瞬間瞬間に起きていた変化の連続は、ここに終息する。
34. グナがプラクリティの本来の姿へと戻れば、そのとき、カイヴァリヤは実現する。プルシャの目的は無くなり、純粋意識は本来の状態へと戻る。 グナがプラクリティの本来の姿へと戻れば、そのとき、カイヴァリヤは実現する。 真我は”純粋観照者”や“純粋精神”とも言われるように、自ら行為はしない、心のように転変もしない、この世の幸・不幸と関係のない、ありのままを見る存在であるところから、真我は真我で既に完成されており、実は覚が一人で演じているだけに過ぎないところでもあります アートマーの本来の姿を知らない間は、高度な修行をした者であっても、考えることから抜け出せない罠があります。そこで、識別智によって、肉体やチッタがアートマーと別物であることを知り得ると、「アートマ バーヴァ バーヴァナー」という「これが自分であるというチッタの中で起こる意識、アイデンティティ」は完全に消え失せます。 心の破壊って・・^^
そもそも心は幻影だからな・・・^^ ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシの教えは、シャンカラの不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)を軸とした、「分離した世界は幻想であり、唯一の実在は真我(悟り)である。」というものでした。
これ^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 潜在意識の潜在印象が、顕在意識との間で無限ループして縁起している、その構造がマインド心なんでしょ。
この仮に構築されている精神構造を、一旦白紙化しないと、その背景的見る者としての認識主体(真我)が全面的に、I AMとして私は在る!とならないって、ラマナ・マハリシは言ってるの。
これ^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 「三界虚妄 但是一心作」
『華厳経』
【三界とは】
欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の三つの世界の意。欲界は欲望渦巻く煩悩の世界。色界は物質の世界。無色界は形なき精神の世界。釈尊の解脱はこの三界から脱して自己を解放することを教える。
これ^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 3.無色界(むしきかい)
欲望も超越し、物質的な形もない世界(無色)であり、ただ精神作用のみがある世界である。
無色界とは、欲もなくなり、すでに形もない世界という意味である。
無色界とは、形なきものの世界のことで、形はないが精神作用のみが存在する世界である。
輪廻する者は、この3つの世界のどれかに住むと考えられている。たとえ、高い禅定の世界である無色界の住人であろうと、三界に住む者はまだ輪廻の渦中にあり、最終的な解脱は果たしていない。
色界、無色界も、通常、人間が五感で感じられる世界ではなく、深い禅定(瞑想)の中でのみ感じられる世界である。人間の住む欲界と比べると、色界、無色界はかなり高い禅定の世界であり、天界と呼ばれる。
ニルヴァーナへと到れば、この三界の住人ではなくなり、輪廻から解脱したことになる。 まぁ・・・^^
なんにしろ・・これを1番信じてるんだけどね^^
これだけやな・・^^
あとは知らん^^
話半分に聞いている^^
ニルヴァーナへと到れば・・
これ^^
ジル・ボルト・テイラー「脳卒中体験を語る」1/2
https://youtu.be/ldSoKfFYKqM
ジル・ボルト・テイラー「脳卒中体験を語る」2/2
https://youtu.be/qd1hvCHnMX0 う〜〜ん^^
瞑想中みんな脳卒中状態になった可能性がある^^ ラマナ・マハルシ
1896年7月中ごろ、16歳の頃に突如として起こった死の体験に触発された内的探求から、完全な、無限の、不死の、実在かつ意識かつ至福である真我(自ら、アートマン)、または真実(真理)こそが私であると悟る。
これとおなじで脳卒中になったんじゃね^^ ニルヴァーナへと到れば・・^^
こうなる^^
ジル・ボルト・テイラー「脳卒中体験を語る」2/2
https://youtu.be/qd1hvCHnMX0 ある人が経験したものを言葉にするために本を読んで当てはめて言葉にして表現し説明したものを、誰かが読んでイメージし目的とすることは、表現した人が経験したものとは全く別のことだろうとは思うけどね >>271
幻影でもその元を壊さなければ、永遠機関として輪廻し続けるでしょ。
幻影だから、一回壊せば、真我が出てきて、その後退かないの。 >>279
だからさ
これ読んでみてみ。
ameblo
『真我への道』
悟りとは?解脱とは?なにか・・・
h
ttps://ameblo.jp/kurokumachin-2020/entry-12810950933.html ≫279
だからさ
これ読んでみてみ。
ameblo
『真我への道』
悟りとは?解脱とは?なにか・・・
h
ttps://ameblo.jp/kurokumachin-2020/entry-12810950933.html ヨーガスートラ】2章5節 苦悩その@『無知』自分のこと何も知らない😨それが苦悩の原因だ!
https://youtu.be/T6ufi5HdHBQ
う〜〜〜ん^^
非我^^ U− 5 anitya-a1uci-du4kha-anqtmasu nitya-1uci-sukha-qtma-khyqtir avidyq /
(私訳)無常・不浄・苦・非我のものに常・浄・楽・我を知覚することが、無明である。
(佐保田訳)無明とは無常、不浄、苦、無我であるものに関して、常、浄、楽、我であることを考え
る見解を言う。
(インテ訳)無知とは、無常を常、不浄を浄、苦を楽、真我ならざるものを真我とみなすことである。
(シュリー訳)無知とは、無常なものを永遠、不浄なものを清浄、不幸を幸福、非自己を自己である
と誤認することである。 この偈文は初期仏教が言う、「無常」を「常」とみなし、「不浄」を「浄」とみなし、「苦」を「楽」
とみなし、「無我」を「我」とみなす「四顛倒」に同じ。大乗になると、「常」は仏や「涅槃」の永遠・
不滅、「浄」は仏や「涅槃」の「煩悩」から離れた清浄、「楽」は「」苦を離れた安楽、「我」は自我
を離れた人間本来の如来性(仏性)の意味に転じる。 (インテ訳)無知とは、無常を常、不浄を浄、苦を楽、真我ならざるものを真我とみなすことである。 非我のものに我を知覚することが、無明である^^
またまたこれ^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 非我のもの(自我=心身)に我(自己)を知覚することが、無明である^^
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
4. その他のときは、心の働きと同一化している。
心の働きと同一化つまり・・無明 簡単に言えば・・^^
映画の主人公と同一化してしまい・・喜んだり悲しんだりしている様やな・^^
本来の自己は映画を見てる観照者^^ 真我は”純粋観照者”や“純粋精神”とも言われるように、自ら行為はしない、心のように転変もしない、この世の幸・不幸と関係のない、ありのままを見る存在であるところから、真我は真我で既に完成されており、実は覚が一人で演じているだけに過ぎないところでもあります サーンキャ学派は、精神と物質の二元論に立つ。
精神は、「個我」ではあるが、観照するだけでいかなる活動も行わない「純粋精神」であり、輪廻にも解脱にもかかわらないものであり、プルシャ、あるいはアートマンと呼ばれる。
これに対して物質原理は、プラクリティ(自性)、あるいはプラダーナ(根本原質)と呼ばれる質料因で、活動性があり、三種の構成要素(グナ)からなっている 私たちは、「真実の自己」を知らない限り、自分の個人意識に現われる心のはたらきと自己とを同化している(インド人学匠の註釈より咀嚼)。 ゆえに・・こうなる^^
ニルヴァーナ・シャタカム
https://youtu.be/Kb2EHT5xq9w
8世紀の偉大な聖者シャンカラチャリヤがアドヴァイタ・ヴェーダンタ(非二元哲学)を6編の詩にまとめました。8歳の男の子が、グル(師匠)をもとめてヒマラヤをさまよっていると、そこに聖者が現れ、"Who are you?" と聞きます。それに対する男の子の答えがこの詩です。そして、この聖者こそが、彼が探し求めていたグルだったのだそうです。
8歳でこの答え、すごいなあ。。
私は、自分の思考でもなく、知性でもなく、記憶でもエゴでもない。耳でも舌でも鼻でも目でもない。
地でも空でも火でも風でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、5つのプラーナでもなく生命の息でもない。私は、7つの体の部位でもなく、5つの鞘(Kosha)でもない。
私は、会話の器官でも手でも足でもない。生殖器でも肛門でもない。私は、無限の意識、純粋な自己である。
私には好き嫌いもない。強欲、妄想もない。うぬぼれや嫉妬もない。
法や富や快楽や悟りを追い求めることもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私には、罪も徳もない。喜びも悲しみもない。私には、マントラ、聖地、ヴェーダ、儀式も存在しない。
私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私には死もなく、疑いもなく、カーストの違いもない。父も、母も、誕生もない。
教師も、生徒も、親戚も、友人もない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、思考、形から解放されている。私は全ての感覚器官に繋がり、あらゆるところに存在する。
私は束縛と自由にとらわれない。私は無限の意識、純粋な自己である カルトは「我想う、故に我あり」と言いました。しかしヴェーダーンタは「我あり、故に我想う」。私は常に存在しており、これがヴェーダーンタの、私の存在のユニークさです。
それでは、どの様にして本当の私を見つけるのでしょうか。 ウパニシャッドで言われているのは、「ネティ ネティ − 私はコレではない、私はアレではない」という風に本当の私を見つけていきます。私は体ではない。私は口ではない、耳ではない目ではない。私は心でもない。そのようにして、ずーっと探究していった時に残るのが、本当の私です。
これはまあ、一つのやり方です。ラーマナ マハリシは常に、私は誰か、ずーっと尋ねて悟りました。 うん?
デカルトは「我想う、故に我あり」と言いました。しかしヴェーダーンタは「我あり、故に我想う」
これや^^
「我想う、故に我あり」
ヴェーダーンタは「我あり、故に我想う」 ウパニシャッドで言われているのは、「ネティ ネティ − 私はコレではない、私はアレではない」という風に本当の私を見つけていきます。 これ^^
ヤージュニャヴァルキヤ
アートマンは純粋な意味で認識の主体(真の自己(純粋精神))にほかならないのであるから、決して対象(心・身体(根本原質))にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた ラーマナ マハリシは常に、私は誰か、・・^^
やはり・・^^
おなじあなのむじなか・・^^ うん?
どや^^
おもしろいやろ^^
こうでなくてああかん^^ う〜〜ん^^
まったり・・・おもしろくぅ〜〜〜♪♪^^ ちなみに・・^^
仏教ほんま^^
つまらん^^
あきた^^ マジで仏教は捨てるもんやな・・^^
コーヒーでも買いにいくかなっと^^ うん?
もちかちて・・^^
彼岸へ渡ってしまったかも^^
うわっ^^ ちなみに・・^^
彼岸へ渡るってこれやで^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d
彼岸つまり・・世界外=自己 あーなぜさまざまな宗教があるのか^^?
これ^^
ヤージュニャヴァルキヤ
アートマンは純粋な意味で認識の主体(真の自己(純粋精神))にほかならないのであるから、決して対象(心・身体(根本原質))にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた アートマンは純粋な意味で認識の主体(真の自己(純粋精神))にほかならないのであるから、決して対象(心・身体(根本原質))にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能である
認識の主体(真の自己(純粋精神))把握することも表現することも究極的には不可能^^
ゆえに様々な宗教がある^^
簡単に言えば・・^^
真の自己をしりえないから^^
・・とこうなる^^ う〜〜ん^^
宗教はこれだけでいいんじゃね^^
これ^^
それでは、どの様にして本当の私を見つけるのでしょうか。 ウパニシャッドで言われているのは、「ネティ ネティ − 私はコレではない、私はアレではない」という風に本当の私を見つけていきます。私は体ではない。私は口ではない、耳ではない目ではない。私は心でもない。そのようにして、ずーっと探究していった時に残るのが、本当の私です。
これはまあ、一つのやり方です。ラーマナ マハリシは常に、私は誰か、ずーっと尋ねて悟りました。 おまえら^^
今日から外に出て^^
「私は誰?」と言って歩きまわれ^^
悟れるよ^^
ちなみに・・^^
自己責任でお願します^^ 実を言うと真の自己は解脱しちゃってるんだよな・・^^
ゆえに^^
歩き回るひつようもないか・・^^ これ^^
私には、罪も徳もない。喜びも悲しみもない。私には、マントラ、聖地、ヴェーダ、儀式も存在しない。
私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。 ・・・・となるとやはりこっちか・・^^
ヨーガ・スートラ
T 三昧の章
1. それでは、ヨーガを教えよう。
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働きと同一化している。 う〜〜ん^^
おまいら・・^^
あっちこっち忙しいやないかい^^
どないなってんねん^^ 0296あ
2023/08/19(土) 19:52:55.37ID:dfzxrr/S
真我は”純粋観照者”や“純粋精神”とも言われるように、自ら行為はしない、心のように転変もしない、この世の幸・不幸と関係のない、ありのままを見る存在であるところから、真我は真我で既に完成されており、実は覚が一人で演じているだけに過ぎないところでもあります
0297あ
2023/08/19(土) 19:55:47.92ID:dfzxrr/S
サーンキャ学派は、精神と物質の二元論に立つ。
精神は、「個我」ではあるが、観照するだけでいかなる活動も行わない「純粋精神」であり、輪廻にも解脱にもかかわらないものであり、プルシャ、あるいはアートマンと呼ばれる。
これに対して物質原理は、プラクリティ(自性)、あるいはプラダーナ(根本原質)と呼ばれる質料因で、活動性があり、三種の構成要素(グナ)からなっている 真の自己は観照するだけでいかなる活動も行わない「純粋精神」であり、輪廻にも解脱にもかかわらないものであり、プルシャ、あるいはアートマンと呼ばれる。 うん?
何をすべきか分かるのー⁉
するべきものは何もない^^
なにもしない^^
これ正解^^ バガヴァッド・ギーター
詩節3−22
三界には私が為す必要のある行為は何もない、おおパールタよ。得るに値するものでありながら未だ得ていないものも、私には存在しない。それでも私は、行為に従事している。 詩節3−17
しかし、悦びが自己のみにある者、自己のなかで満ち足りている者、自己のみを歓喜する者、そのような人にとっては為す必要のある行為は何もない。 詩節3−19
それゆえ、執着なき状態にとどまり、つねに、為すに値する行為を行いなさい。本当に執着することなく行為に従事するならば、人は至高者へと到る。 >>324
それは、まだ早いんでないのか?
尽・伺の完全な止滅に至った者だけが、真に無為のなん足るかを知って、行わずして行うんだけどね、何もしないってことを。
そこで初めて無の爆発(OSHO)と言われる現象が起こり、プルシャの次元から更にBRAHMANへステップアップが起こるとされるんですよ。 詩節3−27
行為は、いかなる場合でも、根源的自然(プラクリティ)のグナによって行われる。「私」という感覚によって精神が惑わされた人は、「私は行為を為す者である」と考える。 なにもしない^^
つまり・・^^
無為自然なんだけどね^^ 老子といえば、「無為自然」の思想で知られていますが、
その本当の意味を間違って解釈している方も多いようです。
「無為」=なにもしないこと、と捉えがちですが、
老子の言う「無為」とは、「何もしない」ではなく、
「作為的なことをしない」ということです。
同時に、「自然」=自ずから然り。
つまり、「作為をせず、あるがままの状態」を重んじていたんですね。 「無為」=なにもしないこと、と捉えがちですが、
老子の言う「無為」とは、「何もしない」ではなく、
「作為的なことをしない」ということです。
「作為的なことをしない」^^ 心がいったんは完全に停止されないと、何もしないということが、何なのかが、真に分かってこないはずですよ。
っていうか、できないから、必ずや何かするし、文字の知識を求めないようにならないと、何もしないも分からないから出来ないことになるね。
頭の中で何かしてたらダメだからね。
だから、尽・伺の自然な止滅が起こる必要があるとされているのね。 老子が目指す「無為自然(むいしぜん)」とは、そ の「無」の道に従って、いっさいの作為を捨て自然のままに生きることであった こうなってくると・・^^
こうなる^^
親鸞の「自然法爾」と老荘思想の「無為自然」^^ う〜ん^^
「自然法爾」
「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。 まぁ〜〜^^
無為自然が理想の生き方と思ってるけどね^^
なにもしない^^
つまり・・^^
いっさいの作為を捨て自然のままに生きる^^ もっと深く読むとこうなる^^
詩節3−27
行為は、いかなる場合でも、根源的自然(プラクリティ)のグナによって行われる。「私」という感覚によって精神が惑わされた人は、「私は行為を為す者である」と考える。 よく「行為者はいない」と言われてるけど・・^^
これから来てる^^ これやな・・・^^
私には、罪も徳もない。喜びも悲しみもない。私には、マントラ、聖地、ヴェーダ、儀式も存在しない。
私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である これ^^
見るもの(プルシャ)真の自己
純粋意識=真の自己=精神原理=変化しない
変化しない(不変)=安定=平安
見られるもの(プラクリティ)心・身体
心・身体=物質原理=変化する≅怒・憎しみ=
変化する=不安定=苦 うん?
行為者はいない。全ては自動的に起きているだと・・^^ こっちや^^
詩節3−27
行為は、いかなる場合でも、根源的自然(プラクリティ)のグナによって行われる。「私」という感覚によって精神が惑わされた人は、「私は行為を為す者である」と考える。 うん?
うわっ^^
ノンデュアリティ(非二元)の動画聞いていられん^^
いったいどないなってんねん^^ どん詰まり。
何もしない、何も起こらない、以上!
ということ。
頭で解釈すると、結局はそうなって終るのね。
まあ、求める次元が低いとしょうがないが。
この辺のジレンマはOSHOを読むと抜けられるんだが・・・
頭のいい人ほど、自分で “解って” しまって、無師で終っちゃう。 ノンデュアリティという言葉は日本では2016年頃から耳にするようになり、ブームを巻き起こしました。
日本ではごく最近流行りだしたものですがノンデュアリティのルーツを探ると、その起源はなんと紀元前7世紀頃の古代インド哲学まで遡ります。
諸説あるとされ、現時点では明確なことは判明していないと言われていますが、ここでは有力説のひとつであるインド哲学起源説を紐解いていきましょう。
ノンデュアリティについてバラモン教の聖典を調べると、古代インドの哲学者ヤージュニャヴァルキヤが説いた「ネーティ・ネーティ・アートマー」に行き着きます。
当時、非二元論は確立しておらずあくまでルーツとなるもの、類似点が多数あるものという括りで、ヤージュニャヴァルキヤも紀元前700年頃にはすでに、世界はひとつであり唯一であると説いています。
ここから仏教に派生したと考えられており、今日では仏教にて悟りを開く際にもノンデュアリティが用いられるとまで言われるようになりました。 うん?
OSHO^^
OSHOもおなじあなのむじなだよ^^ OSHO 私が愛した本
インド
「バガヴァッド・ギーター」 ・・・クリシュナ ★
「ギーターンジャリ」 ・・・ラビンドラナート・タゴール
「イーシア・ウパニシャッド」
「サマヤサーラ」 ・・・クンダクンダ
「サラハの歌」 ・・・サラハ
「ラーマクリシュナの『寓話集』」
「ブラーマ・スートラ」 ・・・バーダラーヤナ
「バクティ・スートラ」 ・・・ナラダ
「ヨーガ・スートラ」 ・・・パタンジャリ
「カビールの歌」
「ミーラの歌」
「サハジョの歌」
「ナナクの歌」
「ヴィヴェク・チュダマニ」 ・・・シャンカラチャリア
「ジャイナ・スートラ」 ・・・マハヴィーラ
「ヴィギャーナ・バイラヴァ・タントラ」 ・・・シヴァ
「タットヴァ・スートラ」
「マルクダーサ」
「グル・グランダ・サヒブ」
「ラーラ」
「ゴラクナート」
「シヴァ・スートラ」
「ゴーラング」
「ダドゥ」
「神が語る」 ・・・メハー・ババ
「シュリ・バシャ」 ・・・ラーマーヌジャ
「私は誰か?」 ・・・マハリシ・ラマナ
「インドの心」 ・・・ムーアヘッド&ラダクリシュナン
「グランタ」
「ダヤバイ歌集」
「ビジャーク」 -- カビール
「シュンニャ・スヴァバーヴァ」・・・タラン・タラン
「シッディ・スヴァバーヴァ」 ・・・タラン・タラン
「我が真理の実験」 ・・・マハトマ・ガンジー
「タントラ美術」 ・・・アジット・ムケルジー ☆
「タントラ絵画」 ・・・アジット・ムケルジー
「バージ・ゴヴィンダム・ムードゥ・マテ」 ・・・アディ・シャンカラチャリヤ
「チャンディダーサ歌集」
「ラーマクリシュナの福音」 ・・・マヘンドラナート
「ラーマティルタ」
「ラヒム歌集」
「ディヴァン」 ・・・ミルザ・ガリブ OSHO 私が愛した本
インド
「バガヴァッド・ギーター」 ・・・クリシュナ ★
「ヨーガ・スートラ」 ・・・パタンジャリ
「私は誰か?」 ・・・マハリシ・ラマナ 違うんだなあー
無の爆発って知らんでしょ?これ知ってると知らないでは大違い、プルシャへ行けるかどうかが掛かってくる。
【反逆のブッダ】読んでみな。
OSHOがどんな流れで悟ったか書いてあるから。
無の爆発は、知る限りOSHOでしか読んだことないし。
本山博先生の【場所的個としての覚者】【神秘体験の種々相Ⅱ】とかも読むといいよ。
後は、【魂の科学】ヨーゲシュバラナンダ師も、アーナンドシャーリラの知識として知ってた方が良いかもね。 ちなみに^^
OSHO 私が愛した本
禅
「信心銘」 ・・・僧燦
「黄檗の書」 ・・・黄檗希運
「六祖壇経」 ・・・慧能
「臨済録」 ・・・臨済
う〜〜ん^^
いいとこ突いてるやんけ^^ 実は・・^^
OSHOもおなじながれだから・・^^
秋田県^^ みんなこっから始まってんだよな・・^^
ヤージュニャヴァルキヤ
アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた ヤージュニャヴァルキヤ, 漢訳: 祭皮衣仙)は、インド哲学におけるウパニシャッド最大の哲人、「聖仙」とも称される古代インドの哲人。およそ紀元前750〜前700年の人物
太陽神から授けられたという白ヤジュル・ヴェーダの創始者でヨーガ哲学の元祖ともいわれる。
王仙ジャナカと共に後の仏陀の思想、仏教の道を用意したという説もある
この説にのる^^キリッ ラマナ・マハルシは「真我探究」(ヴィチャー
ラ)を説く。それは「私は誰か」を問い、「私」
を構成するあらゆる要素がすべて真我には「あ
らず、あらず」(ネーティ、ネーティ)と否定
していく道である。この否定の道は、すでに古
代ウパニシャッドの哲人ヤージュニャヴァルキ
ヤによって示されていたものであり、シャンカ
ラによっても踏襲されている。アートマンは「○
○にあらず」というように、否定的にしか捉え
られないのである。私たちがふだん「私」だと
思っているものは、自分を特徴づける何らかの
部分的要素であり、それゆえ「私は○○だ」と
同一化できるものはすべて、「○○は私(真我)
ではない」として否定される。ラマナ・マハル
シの有名な小論『私とは誰か』のなかでは、す
べての自己同一化を否定し取り去ったあとに残
るのは「気づき」(Awareness)である、と言
われている(Maharshi, 2009, p. 37)。 マナ・マハル
シの有名な小論『私とは誰か』のなかでは、す
べての自己同一化を否定し取り去ったあとに残
るのは「気づき」(Awareness)である、と言
われている(Maharshi, 2009, p. 37)。 これ^^
ヨーガ・スートラ
T 三昧の章
1. それでは、ヨーガを教えよう。
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働きと同一化している。
おなじながれ^^ おなじあなのむじなぁああああああああああああああああああああああああああああああ^^ OSHO 私が愛した本
禅
「
「黄檗の書」 ・・・黄檗希運
これ^^
純粋意識が目覚めるとき、日常の行為はどう
なるのであろうか。実際のところ表面的には大
きく変わるところはないかもしれないが、その
体験的なリアリティは根底から異なっている。
黄檗は「一日じゅう飯を食っていても、一粒
の飯粒も噛むことなく、一日じゅう歩いても、
一片の土も踏むことがない」(入矢、1969、p.
91)と述べている。行為そのものは途切れなく、
つぎつぎに発生しても、純粋意識においては行
為主体(自我)は存在しないので、何かを為す
ということはない。黄檗によれば「一日じゅう
一切の事から離れずにいながら、しかも一切の
境に惑わされることがない」(p. 91)のである。 黄檗は「一日じゅう飯を食っていても、一粒
の飯粒も噛むことなく、一日じゅう歩いても、
一片の土も踏むことがない」(入矢、1969、p.
91)と述べている。行為そのものは途切れなく、
つぎつぎに発生しても、純粋意識においては行
為主体(自我)は存在しないので、何かを為す
ということはない。黄檗によれば「一日じゅう
一切の事から離れずにいながら、しかも一切の
境に惑わされることがない」(p. 91)のである。
これ^^
詩節3−27
行為は、いかなる場合でも、根源的自然(プラクリティ)のグナによって行われる。「私」という感覚によって精神が惑わされた人は、「私は行為を為す者である」と考える。 >>356
禅だけかいな😭
●【秘教の心理学】7つの身体の超越
宇宙身体からニルバーナへ
●【反逆のブッダ】バグワン・シュリ・ラジニーシの軌跡、覚りを開くまでのお話
●【究極の旅】禅の悟りへの道を描いた「十牛図」をOSHOが案内、
●【存在の詩】チベット密教の奥義『マハムドラーの詩』
この辺りどうですか? Osho、
あなたの教えは根本的なものだと思いますか?
私にはどんな教えもない。私の生は反逆者のそれだ。私にはあなたに教える教義、哲学、神学はない。私にはあなたと分かち合う、あなたに反逆精神を感染させる、私自身の反逆の体験しかない。そして、あなたが反逆者であるとき、あなたは私のコピーにはならない。あなたはあなた自身でユニークな現象になる。
すべての仏教徒がゴータマ・ブッダのカーボン・コピーであろうとしている。彼には教えがあった。もしこの特定の戒律に従った ら、あなたはまさに私のようになるだろう、と。すべてのキリスト教徒はカーボン・コピーだ——オリジナルはイエス・キリスト。
これは・・^^ これの言い換え^^
私には、罪も徳もない。喜びも悲しみもない。私には、マントラ、聖地、ヴェーダ、儀式も存在しない。
私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。 私には、マントラ、聖地、ヴェーダ、儀式も存在しない。
私は無限の意識、純粋な自己である。 ラマナ・マハルシ 『私とは誰か』
23 解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのでしょ
うか?
すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たなければならない
と述べている。それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最
終的な教えである。ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必
要はない。心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問
いつづけるべきである。この探究がどうして書物のなかでできるだろう
か? 人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。真我は
五つの鞘*5 の内にあるが、書物はその外にある。真我は五つの鞘を棄て去
っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物のなかに求め
るのは無駄なことである。いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくては
ならないときが来るだろう 私にはどんな教えもない。私の生は反逆者のそれだ。私にはあなたに教える教義、哲学、神学はない。私にはあなたと分かち合う、あなたに反逆精神を感染させる、私自身の反逆の体験しかない。そして、あなたが反逆者であるとき、あなたは私のコピーにはならない。あなたはあなた自身でユニークな現象になる。
すべての仏教徒がゴータマ・ブッダのカーボン・コピーであろうとしている。彼には教えがあった。もしこの特定の戒律に従った ら、あなたはまさに私のようになるだろう、と。すべてのキリスト教徒はカーボン・コピーだ——オリジナルはイエス・キリスト。
OSHOにこれをあげたい^^
つ鏡
または・・^^
おまゆう^^ Oshoは大学で哲学を学び、1960年にはジャバルプール大学教授となった[4]。1966年になると、大学を辞職し、インド各地で講話を始めた[4]。ジャイナ教、ヒンドゥー教、(ユダヤ教の)ハシディズム、タントラ、タオイズム(道教)、スーフィズム、キリスト教、仏教などの主要な伝統宗教、多様な東洋や西洋の神秘家、ウパニシャッドやシーク教等の聖典について語り[5]、すべての組織宗教の形骸化を痛烈に攻撃し、宗教的戒律は人間を鋳型にはめてしまうものだと非難した Oshoはカーボン・コピーだ——オリジナルはウパニシャッド^^ うん?
Oshoはカーボン・コピーだ——オリジナルはウパニシャッドその他だ^^
こうしとこっと^^ うん?
これは違うか・・^^
OSHO Dynamic Meditation – a revolution in consciousness
https://youtu.be/sbfVcigkNao あーあ^^
こんなんなっちゃって^^
OSHO DYNAMIC MEDITATION [OSHO Active Meditation
https://youtu.be/Q_PFlkHH7IA
おおまわりさんこの人たちです^^ うん?
リンク違ってた^^
こっち^^
Osho Dynamic Meditation for Modren Man in Osho Voice / Active Meditation/
https://youtu.be/_oDe8PWODGY コピーでもオリジナルでもどちらにせよ^^
どっちにしろ・・これ^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 私には、罪も徳もない。喜びも悲しみもない。私には、マントラ、聖地、ヴェーダ、儀式も存在しない。
私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。 あなた自身は一体、何者か分かりますか。
この問いに、禅の宗祖である達磨大師は「不識」(ふしき)と答えました。かつて達磨大師がインドから中国の梁(りょう)に渡ったとき、国を治めていた武帝から宮廷に招かれました。仏教に帰依していた武帝は、高名な達磨大師と問答ができると喜び勇んで質問を投げかけます。
「朕、寺を立て僧を度す。何の功徳か有る(私は仏教に貢献してきた。どれだけ利益(りやく)が得られるか)」
「無功徳(利益などない)」
「如何なるか是れ聖諦第一義(仏法の真理は何か)」
「廓然無聖(一点の雲もない空のように、晴れやかで真理も迷いもない空っぽの状態だ)」
「朕に対する者は誰ぞ(私の前に居るあなたは誰だ)」
「不識(知らない)」 不識
梁の武帝と達磨大師との問答。
梁の武帝、達磨大師に問う。「如何(いか)なるか是れ聖諦の第一義(しょうたいのだいいちぎ)」(仏法の根本とは何であるか。)
師云く「廓然無聖(かくねんむしょう)」(からりと晴れわたった青空のごとく、聖と名づけられるものさえない。)
帝云く「朕(ちん)に対する者は誰ぞ」(余に相対しているお前は誰なのか。)
師云く「不識(ふしき)」(知らぬ。)
帝領悟せず。師遂に江を渡り、少林に至って面壁(めんぺき)九年。 帝云く「朕(ちん)に対する者は誰ぞ」(余に相対しているお前は誰なのか。)
師云く「不識(ふしき)」(知らぬ。)
これ^^
ヤージュニャヴァルキヤ
アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた 梁の武帝、達磨大師に問う。「如何(いか)なるか是れ聖諦の第一義(しょうたいのだいいちぎ)」(仏法の根本とは何であるか。)
師云く「廓然無聖(かくねんむしょう)」(からりと晴れわたった青空のごとく、聖と名づけられるものさえない。)
これ^^
私には、罪も徳もない。喜びも悲しみもない。私には、マントラ、聖地、ヴェーダ、儀式も存在しない。 Osho
「愚か者は、他人を笑う。知恵を持つ者は、それを笑う」
う〜〜ん^^
だれがうまいこと言えと・・・^^ 自己は「それを生じしめる原因」も「それを滅ぼす原因」も持たな
い,「自己は不生不滅,常住不変」である。「それに対して,自我である身
心は生じては滅するものであり,無常」,「無常な自我を常住な自己と錯覚
するからこそ,あらゆる煩悩の中核を成す我執が生じ,その我執があらゆ
る迷妄のもととなり,人を苦しみの輪廻的生存に縛りつける 自己は「それを生じしめる原因」も「それを滅ぼす原因」も持たな
い,「自己は不生不滅,常住不変」である・・
まさしくそうやな・・^^ 「それに対して,自我である身心は生じては滅するものであり,無常」
これも・・そのとおり^^ 無常な自我を常住な自己と錯覚するからこそ,あらゆる煩悩の中核を成す我執が生じ,その我執があらゆ
る迷妄のもととなり,人を苦しみの輪廻的生存に縛りつける
まさにこれやな・・・^^
1. それでは、ヨーガを教えよう。
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働きと同一化している。 なんでこんな簡単明瞭がことがわからないんだろう^^?
それはこれやな・・^^
ヤージュニャヴァルキヤ
アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた
ゆえに・・・心の働きと同一化してしまう^^ これ^^
映画の主人公と同一化してしまい・・喜んだり悲しんだりしている様やな・^^
本来の自己は映画を見てる観照者^^ ゆえにだ^^
これが必要になってくる・・^^
識別知
ヨガでは、識別知は苦しみの根源とされる「無知」を取り除く知性と考える。ヨガの実践を通じて識別知を得ると心と真我の違いが見分けられ、真智を得て、苦しみは消える うん?
なんか問題ある^^?
・・と聞いてみた^^ もう、知識お腹いっぱいでないのか⁉
ラマナ・マハリシ
≫いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくてはならないときが来るだろ。
前に言ったでしょ、👆
思考・妄想念を起こす心の仮構を壊さなくては、知識で知り得た境地は来ないって。
その心の無くなる時に、間なんだこと全てが消えるんだから。
OSHOはその消えた先の者として言ってるんでしょうね。
いつかあなたも決心しなければならない。
その時というのは、【ヨーガとは心の止滅】このような一句を目にするやバッサリと言語活動が落ちて、無心へ落ちていくようになる。
それはいつか来ます、それまでは、全一に【読む!】に徹した方が良いです。
【ヨーガとは心の止滅】この一句なら一句だけが心を占めるような、極限の集中、そんな時に読まずして読んでいる時が来ますよ。
つまり、左脳が読まずに右脳で見ることで読む!ような状態。
この時、真我と文字が出会うんですよ、そして理解して、正に心は停止する、ということが起こります。 >>400
対象を対象と認知すればそれが識別知でしょ。
それは主体意識の真我の働きでしょうから。 ≫なんでこんな簡単明瞭がことがわからないんだろう^^?
これ、真に分かったら、その瞬間に思考・妄想念が瞬時に停止して、主体意識そのものに留まるからね。
それが起きないのは、分かっていないからですね。 さてと・・^^
Osho Dynamic Meditationでもやるかなっと^^
Osho Dynamic Meditation for Modren Man in Osho Voice / Active Meditation/
https://youtu.be/_oDe8PWODGY これやな・・^^
OSHO dynamic meditation
https://youtu.be/7n0QxIG6dPk それって西洋人向けだぞ。
日本人には不要だって誰かが言ってたな。
それより、【ナーダブラーナ】か【ジベリッシュ】がおすすめや!
日本のOSHOセンターで良くやってたな。 真理知の発生
真理知の発生はヨーガ(瞑想)による。『ヨーガ・スートラ』(300年頃)には、ヨーガの実修により識別知から真智が発生するプロセスが述べられている。ウパニシャッド文献によって断片的に言及されてきたヨーガの実修方法は、『ヨーガ・スートラ』において体系化されるようになる。ヨーガの実修の結果として無明が除去されると言われているが、その手段は識別知である。そして、この識別知から真智が生じる。『ヨーガ・スートラ』(2・25〜28)は次のように言う。
それ(無知)がないから、〔見者と対象との〕結合もない。これが除去であり、見者の独存である。除去の手段は、しっかりした識別知(ヴィヴェーカキャーティ)である。彼(識別知を持つ人)には、最高位にある7種類の真智(プラジュニャー)がある。ヨーガの階梯を修行することから、不浄が消え、知識の光が輝き、識別知までの〔生起がある〕。
無明(無知)は煩悩であり、ヨーガによる体験知である識別知や真智によって消滅する。煩悩の滅により、新たな業が生起しなくなり、人は解脱できるようになる。 うん?
OSHO詳しいな^^
OSHOは表現力はあるんだよな・・^^
ゆえにこうなる^^
だれがうまいこと言えと・・^^ 『ヨーガ・スートラ』(2・25〜28)
22. 見られるものは共有性によって存在しているので、解脱した人にとっては消滅しているが、他の人にとっては存在し続けている。
23. 所有者(プルシャ)と所有物(プラクリティ)は、両者の本性と力を認識するために結合する。
24. この結合の原因は無知である。
25. この無知がなければ、結合は起こらない。その切り離された状態をカイヴァリヤと呼ぶ。
カイヴァリヤ 独存。プラクリティとの結合が切れ、プルシャが孤立した状態となること。
26. 揺るぎない識別によって、その結合は切断される。
27. その人は、最高の七つの段階の智慧を得る。
28. ヨーガの各部門を実習することによって不純物が消え、徐々に智慧が輝き出て、識別知が目覚める。 うん?
『ヨーガ・スートラ』(2・25〜28)
25. この無知がなければ、結合は起こらない。その切り離された状態をカイヴァリヤと呼ぶ。
カイヴァリヤ 独存。プラクリティとの結合が切れ、プルシャが孤立した状態となること。
26. 揺るぎない識別によって、その結合は切断される。
27. その人は、最高の七つの段階の智慧を得る。
28. ヨーガの各部門を実習することによって不純物が消え、徐々に智慧が輝き出て、識別知が目覚める。 ううん?
25. この無知がなければ、結合は起こらない。その切り離された状態をカイヴァリヤと呼ぶ。
カイヴァリヤ 独存。プラクリティとの結合が切れ、プルシャが孤立した状態となること。
26. 揺るぎない識別によって、その結合は切断される。 仏教で言えばこれ^^
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。 般若波羅蜜多とはどういう意味ですか?
「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。 般若心経でいう智慧は、世の中の在り方や現象の深い知識のことです。 「プラジュニャー(パンニャー)パーラミター」を「般若波羅蜜多」と音訳しているのは、これが固有名詞と考えるべき特別な智慧だからです ヨーガ(瞑想)ではこれ^^
それ(無知)がないから、〔見者と対象との〕結合もない。これが除去であり、見者の独存である。除去の手段は、しっかりした識別知(ヴィヴェーカキャーティ)である。彼(識別知を持つ人)には、最高位にある7種類の真智(プラジュニャー)がある。ヨーガの階梯を修行することから、不浄が消え、知識の光が輝き、識別知までの〔生起がある〕。
無明(無知)は煩悩であり、ヨーガによる体験知である識別知や真智によって消滅する。煩悩の滅により、新たな業が生起しなくなり、人は解脱できるようになる。 人は解脱できるようになる。^^
これ^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 無我
「我(アートマン)でない」(非我)と「我(アートマン)がない」(無我)の二つの解釈がある。初期仏教では、ウパニシャッドで説かれた恒常不滅なるアートマンが存在するかしないかという形而上学的問題を離れ、現実世界でのもののあり方を見つめたために、それがあろうがなかろうが「すべてのものは我でない」(諸法無我)と説いた。すなわち、無常で変化していくものを自分の固定観念で「わがもの」と見る我執を離れるために、「我でない」(非我)と主張した。しかし、その後「我がない」(無我)という解釈に発展し、人間という存在は五蘊ごうんが仮に和合した無常なるものであり、そこに恒常不滅なる自我の存在はないという「人無我」、すべてのものは縁起によって起こるもので、そこに恒常不滅なる本体はないという「法無我」の二つが考えられた。これは大乗仏教にも継承され、特に般若思想はこの「無我」を「空」と表した 人間という存在は五蘊ごうんが仮に和合した無常なるものであり、そこに恒常不滅なる自我の存在はないという「人無我」、すべてのものは縁起によって起こるもので、そこに恒常不滅なる本体はないという「法無我」の二つが考えられた 仏教^^
すべてのものは縁起によって起こるもので、そこに恒常不滅なる本体はない^^キリッ ヤージュニャヴァルキヤ
アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた 自己は「それを生じしめる原因」も「それを滅ぼす原因」も持たな
い,「自己は不生不滅,常住不変」である。「それに対して,自我である身
心は生じては滅するものであり,無常」,「無常な自我を常住な自己と錯覚
するからこそ,あらゆる煩悩の中核を成す我執が生じ,その我執があらゆ
る迷妄のもととなり,人を苦しみの輪廻的生存に縛りつける 自己は「それを生じしめる原因」も「それを滅ぼす原因」も持たな
い,「自己は不生不滅,常住不変」である^^キリッ どう考えてもこっちなんだが^^
自己は「それを生じしめる原因」も「それを滅ぼす原因」も持たない,「自己は不生不滅,常住不変」である^^キリッ おまえら・・小学生の時から何もかわってないやろ^^ 自己はやはり・・世界外にあるな・・どう考えても^^
これ^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d ニルヴァーナ・シャタカム
https://youtu.be/Kb2EHT5xq9w
8世紀の偉大な聖者シャンカラチャリヤがアドヴァイタ・ヴェーダンタ(非二元哲学)を6編の詩にまとめました。8歳の男の子が、グル(師匠)をもとめてヒマラヤをさまよっていると、そこに聖者が現れ、"Who are you?" と聞きます。それに対する男の子の答えがこの詩です。そして、この聖者こそが、彼が探し求めていたグルだったのだそうです。
8歳でこの答え、すごいなあ。。
私は、自分の思考でもなく、知性でもなく、記憶でもエゴでもない。耳でも舌でも鼻でも目でもない。
地でも空でも火でも風でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、5つのプラーナでもなく生命の息でもない。私は、7つの体の部位でもなく、5つの鞘(Kosha)でもない。
私は、会話の器官でも手でも足でもない。生殖器でも肛門でもない。私は、無限の意識、純粋な自己である。
私には好き嫌いもない。強欲、妄想もない。うぬぼれや嫉妬もない。
法や富や快楽や悟りを追い求めることもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私には、罪も徳もない。喜びも悲しみもない。私には、マントラ、聖地、ヴェーダ、儀式も存在しない。
私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私には死もなく、疑いもなく、カーストの違いもない。父も、母も、誕生もない。
教師も、生徒も、親戚も、友人もない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、思考、形から解放されている。私は全ての感覚器官に繋がり、あらゆるところに存在する。
私は束縛と自由にとらわれない。私は無限の意識、純粋な自己である 私には死もなく、疑いもなく、カーストの違いもない。父も、母も、誕生もない。
教師も、生徒も、親戚も、友人もない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、思考、形から解放されている。私は全ての感覚器官に繋がり、あらゆるところに存在する。
私は束縛と自由にとらわれない。私は無限の意識、純粋な自己である これ^^
自己は「それを生じしめる原因」も「それを滅ぼす原因」も持たない,「自己は不生不滅,常住不変」である 『魂の科学』OSHO Amazon
パタンジャリ ヨーガスートラ
レビュー見ると相当良い本みたい。 ○サーンキヤ哲学とは?
「サーンキヤ」という語は「知識によって解脱するための道」のことを意味していたとされます。サーンキヤ学派を開いたのはカピラで、その弟子にパンチャシカがいたと言われています。しかし、一言でサーンキヤ哲学と言っても、初期には様々な説が含まれていたことが分かっています。『サーンキヤ・カーリカ』は四〜五世紀頃にイークシュヴァラ・クリシュナがサーンキヤ学派の諸学説をまとめたものです。
『サーンキヤ・カーリカ』における世界構成原理は究極的にはプルシャ(自己)(真我)(純粋意識)とプラクリティ(自性)(根本原質)(心身の源)という二つの原理によって説明するものです。即ち、二元論です。永久に実在するのはこの二つのみであり、創造神や主宰神といったものを立てません。プルシャ(自己)は意識原理であり、「純粋意識」「真我」などとも訳されます。活動もなく、ただプラクリティ(自性)を観照するだけであり、本来清浄で独存しています。そして、多数存在します。一方、プラクリティ(自性)は根本原質であり、根本的な質料因・物心的なものの根源です。プラダーナや未顕現などとも呼ばれます 輪廻から解脱するには、ヨーガの修行を行って諸原理を正しく理解しなければなりません。微細根本自性(から分化した心素や理智)の状態が、諸原理に対する正しい知識状態となることで、「私(真我)は〜でない」という、誤りなき認識に基づく知識が生まれてくるとされます。このように、正しい知識以外の心の諸状態をとらなくなった微細根本自性を、真我は観客のように落ち着いて観照し、「私は既に見終わった」と思って微細根本自性に対して無関心になり、一方の微細根本自性は「私は既に見られ終わった」と思って活動を停止します。真我は同時に、本来のブラフマンと合一(梵我一如)した状態とも言えます。この後、真我と根本自性が再び結び付いたとしても輪廻が起こることはありません。ろくろが粘土を取り去っても、過去の勢いで回転し続けているように、各身体はその個体が死ぬまで保持され続けます。肉体が死を迎え、肉体から離れて目的が達成されると微細根本自性は活動を止め、終わりのない独存(根本自性へと帰還)に達します 真我(プルシャ)を、最終的に絶対者ブラフマンに合一するものとし、更に絶対者ブラフマンと根本自性(プラクリティ)をまとめてブラフマンであると考えると、ウパニシャッド哲学やヴェーダンタ哲学のような一元論になります。また、真我(プルシャ)と絶対者ブラフマンをまとめて自己(プルシャ)であるとすると、自己(プルシャ)と自性(プラクリティ)の二元論を説くサーンキヤ哲学のようになります。 うん?
OSHOの瞑想トレーニング1日目〜比較競争からの脱却〜
https://youtu.be/1wFsqqHDNMM
気持ちいい・・ではなく^^
居心地がいい^^
ではないのかな? 私と瞑想。初のダイナミックメディテーション
https://youtu.be/qz8aPw2Ux4Y
うわっ^^
Osho Dynamic Meditationやん^^ 輪廻から解脱するには、ヨーガの修行を行って諸原理を正しく理解しなければなりません。微細根本自性(から分化した心素や理智)の状態が、諸原理に対する正しい知識状態となることで、「私(真我)は〜でない」という、誤りなき認識に基づく知識が生まれてくるとされます。このように、正しい知識以外の心の諸状態をとらなくなった微細根本自性を、真我は観客のように落ち着いて観照し、「私は既に見終わった」と思って微細根本自性に対して無関心になり、一方の微細根本自性は「私は既に見られ終わった」と思って活動を停止します これ^^
私は誰か?ラマナ・マハルシの教え
1 私とは誰でしょうか?
七つの要素から成る粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、
聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である音、感触、色、
味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。五つの能動的な器官である
言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官は、それぞれ話すこ
と、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをす
るが、私はそれらではない。五つの生気*2、すなわちプラーナなどは、吸
気などの五つの働きをするが、それは私ではない。ものごとを考える心で
さえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働
きもない無知も、私ではない。
2 もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?
今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定してい
ったあとに、ただひとつ残る覚醒――それが私である。
3 覚醒の本性は何でしょうか?
覚醒の本性は、存在−意識−至福である。
4 真我の実現はいつ得られるのでしょうか?
「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我
は実現されるだろう。 さらに言えば・・これ^^
ヤージュニャヴァルキヤ
アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた アートマン(真の自己)は純粋な意味で認識の主体にほかならない・・
^決して対象にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示した^ 私は誰か?ラマナ・マハルシの教え
1 私とは誰でしょうか?
七つの要素から成る粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、
聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である音、感触、色、
味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。五つの能動的な器官である
言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官は、それぞれ話すこ
と、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをす
るが、私はそれらではない。五つの生気*2、すなわちプラーナなどは、吸
気などの五つの働きをするが、それは私ではない。ものごとを考える心で
さえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働
きもない無知も、私ではない。
2 もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?
今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定してい
ったあとに、ただひとつ残る覚醒――それが私である。 ものごとを考える心でさえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働
きもない無知も、私ではない。 ものごとを考える心でさえ、私ではない・・^^
アートマン(真の自己)は純粋な意味で認識の主体にほかならない決して対象にはなりえない アートマン(真の自己)は純粋な意味で認識の主体にほかならない決して対象(ものごとを考える心)にはなりえない 識別知
ヨガでは、識別知は苦しみの根源とされる「無知」を取り除く知性と考える。ヨガの実践を通じて識別知を得ると心と真我の違いが見分けられ、真智を得て、苦しみは消える 私たちは、「真実の自己」を知らない限り、自分の個人意識に現われる心のはたらきと自己とを同化している(インド人学匠の註釈より咀嚼) 輪廻から解脱するには、ヨーガの修行を行って諸原理を正しく理解しなければなりません。微細根本自性(から分化した心素や理智)の状態が、諸原理に対する正しい知識状態となることで、「私(真我)は〜でない」という、誤りなき認識に基づく知識が生まれてくるとされます。このように、正しい知識以外の心の諸状態をとらなくなった微細根本自性を、真我は観客のように落ち着いて観照し、「私は既に見終わった」と思って微細根本自性に対して無関心になり、一方の微細根本自性は「私は既に見られ終わった」と思って活動を停止します。真我は同時に、本来のブラフマンと合一(梵我一如)した状態とも言えます。この後、真我と根本自性が再び結び付いたとしても輪廻が起こることはありません。ろくろが粘土を取り去っても、過去の勢いで回転し続けているように、各身体はその個体が死ぬまで保持され続けます。肉体が死を迎え、肉体から離れて目的が達成されると微細根本自性は活動を止め、終わりのない独存(根本自性へと帰還)に達します
真我(プルシャ)を、最終的に絶対者ブラフマンに合一するものとし、更に絶対者ブラフマンと根本自性(プラクリティ)をまとめてブラフマンであると考えると、ウパニシャッド哲学やヴェーダンタ哲学のような一元論になります。また、真我(プルシャ)と絶対者ブラフマンをまとめて自己(プルシャ)であるとすると、自己(プルシャ)と自性(プラクリティ)の二元論を説くサーンキヤ哲学のようになります。 無我
「我(アートマン)でない」(非我)と「我(アートマン)がない」(無我)の二つの解釈がある。初期仏教では、ウパニシャッドで説かれた恒常不滅なるアートマンが存在するかしないかという形而上学的問題を離れ、現実世界でのもののあり方を見つめたために、それがあろうがなかろうが「すべてのものは我でない」(諸法無我)と説いた。すなわち、無常で変化していくものを自分の固定観念で「わがもの」と見る我執を離れるために、「我でない」(非我)と主張した。しかし、その後「我がない」(無我)という解釈に発展し、人間という存在は五蘊ごうんが仮に和合した無常なるものであり、そこに恒常不滅なる自我の存在はないという「人無我」、すべてのものは縁起によって起こるもので、そこに恒常不滅なる本体はないという「法無我」の二つが考えられた。これは大乗仏教にも継承され、特に般若思想はこの「無我」を「空」と表した う〜〜ん^^
これからいくと・・^^
これ^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 我(自己)・・自我=心身ではない^^
こうなるな・・^^
これの方が正しい^^ 我(自己)アートマンについてはブッダちゃんは無記^^ *アートマンとは、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。人間の本体、または霊魂。真我とも訳される。
では、無我説を標榜する仏教は、アートマンの存在を想定していなかったけれども、そもそもゴータマ・ブッダは、永久不変たるアートマン(霊魂)の存在を否定していたのだろうか?
言うまでもないが、『中部経典63』(毒矢の譬えの経)に登場するゴータマ・ブッダは、永久不変たるアートマンの存在の有無について、一貫して沈黙の姿勢を貫いている。それは、仏教において「無記」と言われるように、アートマンやその他の形而上学的な存在に対して、有とも無とも解答を与えない立場を言うのである。
しかし、そうであるなら、ゴータマ・ブッダは、一体何故に、アートマンの存在の有無について沈黙したのだろうか? もりあがってまいりますたぁあああああああああああ^^ 無心の世界なのに、語れないでしょ。
言ったところでどうにもならないって思ったんじゃないのかな、釈尊は。 あさん、籠ってないで遠征すたら?
同じ孤高の禅者がダボハゼ禅に居ますから。
孤高のヴェーダンタ哲学派と孤高の禅者の討論は見てみたい‼
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1677296213/ 進む道が違うので^^
お断りすます^^
まったり一人で書くのがおすすめ^^ 戯論寂滅(けろんじゃくめつ)
間違った根拠に基づいての論理や論争が無益であること、
言葉での説明や論理だけで実際の真偽を実証できないこと
が「戯論」です。そのような「戯論」から離れること、
止めることが「戯論寂滅」です。
「言葉」そのものが一つの誤謬という考えもあります。
「言葉」では説明できないものを説明しようとすると
このような「戯論」に陥るという意味で。 スッタニパータ 734
およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起こるのである。
識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということは有りえない。
スッタニパータ 874
ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、
想いを消滅した者でもない。 −− このように理解した者の形態は消滅する。
けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。 スッタニパータ 1037
アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。
識別作用が死滅することによって、名称と形態が残りなく滅びた場合に、
この名称と形態とが滅びる。 うん?
まさにこの答えや^^
しかし、そうであるなら、ゴータマ・ブッダは、一体何故に、アートマンの存在の有無について沈黙したのだろうか? ゴータマ・ブッダは、永久不滅なるアートマンを見つけることができなかった。しかし、苦しみを終滅するためには、諸々の形而上学的な存在の有無はもちろんのこと、アートマンの存在の有無さえも知る必要がなかったのである。
つまり、重要なことは、苦しみを終滅するためには、どこまで知ればいいのか、そして、どこから先は知らなくてもいいのか、ということだと思う。
アートマン(霊魂)が「有る」のか「無い」のか、ということについては、苦しみを終滅させるためには、知る必要のないことである。
そして、アートマンの存在に依拠することは執着であり、見つけられないもの、仮説、見解に過ぎないものに執着していても、苦しみは終滅しない。 いずれにしても、ゴータマ・ブッダのとった手法とは、人間の認識能力を超出する存在に関する議論から離れることによって、ニルヴァーナ(究極の安らぎ)を具現させたのである。 いわゆるアートマン(観照主体)に至るから煩悩から解脱するんだよ。
知る必要も何も、釈尊はアートマンへの至りかたしか教えていません。
真実はふたつは無いですからね。
ただ、ある無しの議論をしなかっただけですよ。
まあ、掲示板に10年書いたって何も起こらないよ。
実践が無ければただの落書きさ。 なんかきた^^
スルーで^^
おもろいから書いているだけ^^
なんにしろおもしろさが大事なんだよな^^ 「サーンキヤ」という語は「知識によって解脱するための道」
『あ」は「おもしろさによって解脱する道を選んだ」 彼の言うことはつまらん^^
だから^^
スルーで^^ インド哲学はヨーガスートラの
『ヨーガとは心の止滅』
これがアルファ&オメガでしょ。
それ以外は蛇足だよ。
まあ、君のはお遊びってことかな⁉
それなら残念だ!
本気で求めているのかと思ってたよ。 『ヨーガとは心の止滅』
こういう言葉を見て、読んでじゃないよ、見てだよ。
左脳で読むと、それは表面だけで薄っぺらい言葉。
でも右脳で“見る”と、それはラーマナマハリシの言う、ハートまで達する。
こういう事実を知って欲しいものです。 クリシュナ、シヴァ、ブラフマンと多神教を拝めているヒンドゥー教は仏教に影響与えているのでしょうか? 日本山妙法寺という団体の方にネパールで非常にお世話になったので うん?
仏教の聖地インドでは…なぜヒンドゥー教が盛んなの?
https://youtu.be/Ev1callOBRA ついでに・・^^
これ^^
バラモン教思考深すぎいいいいい
https://youtu.be/Z1xvmukQxx4 うん?
ヒンドゥー教ってどんな宗教?超わかりやすく解説します!
https://youtu.be/H3PTZABGA_g 徒然草
「生住異滅の移り変はる、まことの大事は、猛き河のみなぎり流るるがごとし。」 インドの3大神とは?世界は「創造・維持・破壊」でできている・・^^ 生住異滅・・^^
世界は「創造・維持・破壊」でできている ブラフマー:創造の神
ヴィシュヌ:維持の神
シヴァ(マヘシュヴァラ):破壊の神 祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
祇園精舍の鐘の音には、諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。娑羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、春の夜の夢のようである。勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。 四相
仏教における四相(しそう, catvari laksama)とは、
因果関係のうちに成立する現象(有為法)が、現在の一瞬間のうちに呈する生(jati)、住(英語版)(sthiti)、異(jara)、滅(anityata)の4つの相状(有為相;saṅkhāra-laksama)であるという説一切有部の主張。
「生住異滅」ともいう。生・住・異・滅のそれぞれが、説一切有部の五位七十五法の一要素である。
律蔵などの経典では、生は必ず滅に至る、という生者必滅が説かれていた。
これに対し、アビダンマッタ・サンガハおよび阿含経は、時間的な継続を考慮に入れ、生と滅のあいだに住を挿入し、生・住・滅の三相(さんぞう)を説いた。
のちに説一切有部を含む中期以降の仏教で、生・住・異・滅の四相に展開する。
生・住・異・滅の経過は、一刹那(せつな、梵: kṣaṇa、クシャナ)の間に起こる。
刹那は、インド仏教の数える最小の時間単位で、0.0133……秒に相当する。
生・住・異・滅の方向は一方的であり、逆はあり得ない。
「生住異滅」の語は、転じて「生老病死」と類義に、人間が生まれ、成長し、老いて死ぬ意、または事物が生成変化して消滅する意に用いられることもある。
なるほどー うん?
得意になっている者^^
おまえら・・^^
控えよ^^ うん?
なるほどー・・とか知ってたくせに・・^^
控えよ^^
寝る^^ 『色は匂へど 散りぬるを』
『我が世誰ぞ 常ならん』
『有為の奥山 今日超えて』
『浅き夢見し 酔ひもぜず』 うーん^^
日本できんやな^^
だがそうはいかん^^ その心を見てる奴^^
それが真の自己^^
ただそれを眺めてるだけ^^ 真の自己は世界外から世界内を観照してるだけ^^
わかるかな?
これ^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 世界内は有為の世界^^
世界内は無為の世界^^
つまり^^
世界内でうろうろすんなと^^ 道に迷ったり、どうして良いのか判断できずに困って彷徨っている様子を、一般的に「うろうろする」と表現します。
〈うろ〉とは漢字で〈有漏〉と書きます。
これは様々な心の汚れを表す総称です。煩悩と同じような意味と思って下さい。
サンスクリット語では有漏を[sāsrava(サースラヴァ)]と書き「流れ出る」ことを意味します。
私たちの六根(五感+意識)から煩悩が流れ出て、心が惑う状態を有漏と言いますが、それが重なり〈うろうろ〉と表現されるようになりました。
一方、流れ出る煩悩や汚れが無い状態を〈無漏(むろ)〉といいます。
ですので、あえて覚りに至った人を表現するなら〈むろむろ〉となります。 むろむろとか初めて聞いた^^
うん?
誰がうまいこと言えと^^ うんうん?
世界内は有為の世界^^
世界内は無為の世界^^
違う^^
世界内は有為の世界^^
世界内は無為の世界や^^ またまた違う^^
世界内は有為の世界^^
世界外は無為の世界や^^
うーん^^
寝不足か^^? 「色は匂へど 散りぬるを』
『我が世誰ぞ 常ならん』
『有為の奥山 今日超えて』
『浅き夢見し 酔ひもぜず』
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 自我(心身)は常に変化しよるからしょうがないか^^ 簡単に言うと^^
変化するものを変化しないものが見てると。こうなる^^
控えよ^^ 故に真の自己とは何か^^
これ^^
ヤージュニャヴァルキヤ
アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた 「シャンカラにとって,世界は幻影(マーヤー)です。当然,輪廻転生
も幻影ですから,自己の本質はただ認識主体であることだけであり,因果
応報・自業自得の担い手としては見られません。ですから,シャンカラ
は,自己は認識主体であるがゆえに認識対象たり得ないということを強調
します。したがって,シャンカラによれば,自己は世界外存在であるこ
とになります」〔M. 154-155〕。自己が「世界外存在」であるとは,アー
本質と自己
― 241 ―
JICS86_01-09_227-256_Y09_Kojima_CS6.indd 241 2017/09/15 5:29
トマン(=ブラフマン)が現象世界に属していないことを意味する。では,
アートマン(=ブラフマン)は我々の生きる世界を超越しているのか,二
元論ではないか,と考えられるが,そうではなく,そもそも現象世界は幻
影であり,実在しないのだという理路である。ならばその内実を明示しな
くてはならない。言い換えれば,現象世界において日常的に存在している
と思っている「私」(自我)は,実は実在しない。この私の幻影を吹き払っ
て,真実の自己を見出さなければならない。見出された「自己」は,アー
トマンであり,ブラフマンである。ここには自我の否定を通して真の「自
己」に至る,「神人同一」と同じ構想がある。 シャンカラ^^
自己は認識主体であるがゆえに認識対象たり得ない^^キリッ そもそも現象世界は幻影であり,実在しないのだ^^
三界虚妄 但是一心作^^ 有為
(作られたものの意)仏語。因縁によって起こる現象。生滅する現象世界の一切の事物。⇔無為。 因縁によって起こる現象。生滅する現象世界は幻影であり,実在しないのだ^^ 量子論は「物質は実在しない」という。ではわれわれは存在するのだろうか? 名だたる科学者と哲学者たちが繰り広げてきた熱い論争の、知られざる展開を追う!=== 20世紀初頭に発見された量子力学は、世界の見方を根幹から変えた。ではそれはどんな世界なのか? その意味をめぐる議論は、「コペンハーゲン解釈」をもって正統とされる。しかしその解釈にはいくつもの問題がある。最大の謎は、世界を構成する基本物質、原子も電子も素粒子も「実在しない」という主張だ。 アインシュタインはこれに猛然と異を唱え、ボーアと激しい論争を繰り広げた。曖昧な決着のまま、長らくこの問題は問うことすらタブーとされてきた。しかしいま、実在をめぐる論争は、物理学のみならず、哲学者、数学者、天文学者など各界の名だたる頭脳を巻き込んで、熱く燃えている。 大いなる問い「実在とは何か」をめぐる熱い論争の100年をたどる知的エンターテインメント。 ラマナマハリシは、世界と真我を同じと見る
なーんてこと言ってなかったか⁉ >>518
マーヤだなー
ババジは一夜にして、ラヒリマハサヤのために、黄金の宮殿を出現させて、翌朝には消し去りました。
実に手で触ってその実在性をラヒリマハサヤは確かめたのでした。
まあ、そう言うことだな。 インド哲学の伝統の中に存在しているさまざまな学派の内、八世紀頃にシャンカラが提唱したアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(梵我一如、あるいは不二一元論)の思想は、宇宙を支配する原理と個人を支配する原理が同一であると考え、ヨーガを理論的に支えているサーンキャ学派や仏教の立場に近いと言われており、梵我一如の境地は、一世紀頃に成立した『バガヴァッド・ギーター』をはじめとする様々な経典や聖典に描写されている。
ジニャーナ・ヨーガ(知識の道)を究め大悟したラマナ・マハルシが、南インドにあるアルナーチャラという丘の洞窟で暮らしていたところ、平安な雰囲気を放つ覚者の臨在で瞑想したり坐りたいと願う人々が次々と訪れ、やがてラマナ・アシュラムへと発展した。
アシュラムを訪れる人々は誰でもホールに座っているマハルシと会い、どんな事柄でも質問することができた。
マハルシは、真我実現、すなわち梵我一如の境地に至るための方法を、各質問者それぞれに適した形に噛み砕いた形で教え、決して「こうしなければならない」と限定することのない論理的なその内容は至ってシンプルであり、「私とは誰でしょうか?」と探究することにより実現が可能であることを示している。 対話467
マハルシ:
執着するため、人は行為し、その結果を得るのです。もし結果が望みにかなえば彼は幸福であり、そうでなければ不幸になります。幸福と不幸は執着心ゆえに起こるのです。もし行為が執着心なしに行われるなら、結果への期待も起こらないでしょう。 バガヴァッド・ギーター
詩節3−17
しかし、悦びが自己のみにある者、自己のなかで満ち足りている者、自己のみを歓喜する者、そのような人にとっては為す必要のある行為は何もない。
詩節3−18
彼には、この世において得るべき利得は何もない。既に為した行為からも、為さなかった行為からも。また、何らかの目的のために頼るべき生き物も存在しない。
詩節3−19
それゆえ、執着なき状態にとどまり、つねに、為すに値する行為を行いなさい。本当に執着することなく行為に従事するならば、人は至高者へと到る。 う〜〜ん^^
マハルシはバガヴァッド・ギーターを読んでおる^^
まちがいない^^キリッ
疲れたので寝る^^ ≫詩節3-17
しかし、悦びが自己のみにある者、自己のなかで満ち足りている者、自己のみを歓喜する者、そのような人にとっては為す必要のある行為は何もない。
👍 カルマヨガは「行動のヨガ」とも言われ、自分自身の行動の結果としてなんら見返りを求めず、目の前の事柄に対しただ奉仕していくものです。 うん?
小さなカルマヨガの実践Vol,2「コントロールできないことに執着しない」
https://youtu.be/sRUyabGjiyY?si=HwyMBkyCj7jhO-ci
ふむふむ^^ 全ての原因は自分にあると・・^^
まったくもってその通り・・^^ 詩節3−19
それゆえ、執着なき状態にとどまり、つねに、為すに値する行為を行いなさい。本当に執着することなく行為に従事するならば、人は至高者へと到る。 詩節3−22
三界には私が為す必要のある行為は何もない、おおパールタよ。得るに値するものでありながら未だ得ていないものも、私には存在しない。それでも私は、行為に従事している。
詩節3−23
かりに私が飽くことなく活動し続けなければ、いったいどうなるだろうか、おおパールタよ。何事も人々は私を模範にする。
詩節3−24
かりに私が行為に従事しなければ、これらの世界は滅亡するだろう。そして、私は混乱の原因となり、これらの人々の破滅の原因となるだろう。
詩節3−25
賢明でない者が行為への執着から行為するように、おおバーラタよ、賢明なる者も行為すべきである。ただし、いかなる執着もなく、世界の安寧を願って。
詩節3−26
無知なる人々が行為に執着している以上、賢者は彼らの精神を分裂させてはならない。賢者は、有に確立し、自身は然るべく行為に従事しながら、無知なる人々があらゆる行為を行うよう教示すべきである。
詩節3−27
行為は、いかなる場合でも、根源的自然(プラクリティ)のグナによって行われる。「私」という感覚によって精神が惑わされた人は、「私は行為を為す者である」と考える。 つまり・・^^
幸福を追い求めると・・^^
心の平安を乱すことになる^^ 本来の自己はすでにその状態であると・・^^
こういうことやな・・^^ サット・チット・アーナンダという言葉。
聞いたことがありますか?
インドなどのヒンドゥー教圏でよく使われる言葉です。
サットは”存在”、チットは”意識”、アーナンダは”至福”という意味です。
これら3つは、人の本質(真我)の3つの側面を言い表しています。 本来真の自己は・・人の本質(真我)の3つの側面
サットは”存在”、チットは”意識”、アーナンダは”至福”
なのになぜ幸福を追い求めるのか・・^^? 詩節3−27
行為は、いかなる場合でも、根源的自然(プラクリティ)のグナによって行われる。「私」という感覚によって精神が惑わされた人は、「私は行為を為す者である」と考える 人は、体でも心でもない
サット・チット・アーナンダの話をするには、ある前提が必要です。
それは、人の本質は、体でも心でもないということです。 これ^^
ヤージュニャヴァルキヤ
アートマンは純粋な意味で認識の主体(真の自己)にほかならないのであるから、決して対象(心身)にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた 苦行者・サドゥーとは?
あらゆる欲求を放棄し肉体に様々な苦行を課すことや、瞑想により、ヒンズー教における「解脱」を得ることを人生の目標としている。インドやネパールに400万〜500万人もいるといわれている。ちなみにインドの法律上ではサドゥーは死亡者とみなされています。
サドゥーの奇妙な修行の数々
サドゥーは決まった住所を持たず、各地のヒンズー寺院をはじめ、街角や河川敷、村はずれや森の中などあらゆる場所に小屋を立てたり、野宿したりしながらさまざまな修行を行って毎日を過ごします。
・一生、髪の毛を切らず、洗わない
・僅かなバナナだけで山中に籠もる
・転がりながらインドを横断する おまいら・・^^
転がりながら日本を横断する^^
これ^^
おすすめ^^ 昔無銭行脚した時に裸足でやろうと思ったけど無理だったな、サンダルで歩いたけどそれでも四国では溶けて足の甲にへばりついた 機会がありやる気になってしまったらやってみた方がいいよ、今はそれをした私に憧れてるくらいだよ 家から歩いて離れていく感じがとても良かった、しばらくは何時間何日歩けば帰れるとか思う うん?
タパスって基本これを確かめるためだとおもってるんだが^^
人は、体でも心でもない
サット・チット・アーナンダの話をするには、ある前提が必要です。
それは、人の本質は、体でも心でもないということです。 あと・・これ^^
識別知
ヨガでは、識別知は苦しみの根源とされる「無知」を取り除く知性と考える。ヨガの実践を通じて識別知を得ると心と真我の違いが見分けられ、真智を得て、苦しみは消える その頃私なりには地べたに寝起きして歩いて生きて死のう、とか本気で思っていてした事だったので、家から歩いて離れていく感じが素晴らしかったな、今思うど随分背伸びした行為だったなあと思うけど、素晴らしくて憧れる 【1分半インドのヨガ話(118)】ヨガの基盤 『タパス तपस्』について。 “6年の苦行によって得られたものは何もなかった…
https://youtu.be/pkXE99FGFyk?si=1BknZrbk9X1oLb_X 伝統的に行われているヨガの実践の中でタパス(苦行)というものがあります。仏教の開祖であるゴータマ・シッダールタも、悟りを開く前に様々な苦行を実践し、生命を維持できないほどの厳しい断食などを行っていました。
しかし、多くのヨガの教典では自分を苦しめるようなタパスを禁止しています。 うん?
ヨガでは不純物であるタマスを取り除いて純粋さを磨き、私たちの本質であるプルシャに到達しようとアプローチします。 仏教の開祖であるゴータマ・シッダールタちゃんもヨガ行者だったので・・・
6年間苦行(タパス)を実践してたのは間違いない^^
その目的はこれ^^
ヨガでは不純物であるタマスを取り除いて純粋さを磨き、私たちの本質であるプルシャに到達しようとアプローチします。 つまり・・真実の自己(アートマン)に到達しようとアプローチしてたと・・^^
こなる^^ しかし・・^^
苦行(タパス)では真実の自己(アートマン)に到達できないと悟った^^ 真実の自己(アートマン)はすでに到達してるんだよな・・^^
以外にも^^ すでに真実の自己(アートマン)に到達してるのになぜ苦行(タパス)するのかと^^
小一時間問い詰めたい^^ 『ヨーガ・スートラ』は、ヨーガの行法やその過程で行者の意識の表層や深層に出退する心理作用や、
行の段階で到達する境地や、それらの思想的な背景となるサーンクヤの思想や仏教的な思想などを説き、
「八支のヨーガ(a2wa-axga-yoga)」(「ヤマ(yama、禁戒)」「ニヤマ(niyama、勧戒)」「アーサナ(qsana、
坐法)」「プラーナーヤーマ(prqzqyqma、調息)」「プラティヤーハーラ(pratyqhqra、制感)」「ダーラナー
(dhqrazq、凝念)」「ドゥヤーナ(dhyqna、禅定)」「サマーディ(samqdhi、三昧)」の結果、サンーンクヤ
思想で言う「純粋精神」(プルシャ、真我、puru2a、真実の自己)があらゆる物質的・精神的実在から離れ
「独存(カイヴァルヤ、kaivalya)」の状態になることを説く。 ラージャ・ヨガの特徴は、八つの部門で瞑想の実践的な面を指示しており、瞑想に取り組もうと思う人は、その部門に取り組みながら瞑想を深めていくことができます。その八つとは以下のものになります。
⑴ ヤマ(してはならないこと)
・アヒムサ(暴力を振るわない)
・サティヤ(嘘をつかない)
・アスティーヤ(他人のものを盗まない)
・ブラフマチャリア(禁欲)
・アパリグラハ(貪らない)
⑵ ニヤマ(進んで行うこと)
・シャウチャ(体や身の回りを清潔にする)
・サントーシャ(今あるものに満足する)
・タパス(苦行、忍耐)
・スワディヤーヤ(聖典などによる自己についての学習)
・イーシュワラプラニダーナ(神への信仰心を持つ)
⑶ アーサナ(瞑想のための座法)
⑷ プラーナヤーマ(呼吸法)
⑸ プラティヤハーラ(感覚の制御)
⑹ ダーラナ(一心集中)
⑺ ディヤーナ(ゆるぎない精神統一・禅定)
⑻ サマーディ(涅槃の境地・三昧) サーンキャ哲学で言う「純粋精神」(プルシャ、真我、、真実の自己)があらゆる物質的・精神的実在から離れ「独存(カイヴァルヤ)」の状態になることを説く。 見るもの(プルシャ)真の自己
純粋意識=真の自己=精神原理=変化しない
変化しない(不変)=安定=平安
見られるもの(プラクリティ)心・身体
心・身体=物質原理=変化する≅怒・憎しみ=
変化する=不安定=苦
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 私たちは、心のはたらきをすべて制止し心が絶対的に静穏になった時、はじめて「真実の自己」
がわかる。それをパタンジャリは、「個人が本性にある」と言わずに「見る者がその本性にある」と
言う。私たちの心のはたらきが完全に制止されると、「自己の本性」という意識もなくなるためで、
サーンクヤ思想で言う「プルシャ(puru2a)」(「見る者」)の状態で「その本性を眺めているだけ」で
ある(インド人学匠の註釈より咀嚼)。 私たちは、「真実の自己」を知らない限り、自分の個人意識(「citta」)に現われる心のはたらき
と自己とを同化している(インド人学匠の註釈より咀嚼)。 自分の個人意識に現われる心のはたらきと自己とを同化している^^キリッ こんなこと気づくはずもなく・・^^
おまいらは常に心のはたらきと真実の自己とを同化している インド哲学でのサンサーラ概念は、ヴェーダ以降の文献に根ざしており、理論はヴェーダ自体では議論されていない[8][9]。サンサーラ教義の完全な解説が記載されるのは、仏教やジャイナ教などの沙門宗教や、紀元前1千年紀半以降のヒンドゥー教のさまざまな学派である[10][11]。これによれば生物らは、死して後、生前の行為つまりカルマ(梵: karman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わるとされる。命あるものは何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わる[1]。
サンサーラからの解放は、モークシャ(解脱)、ニルヴァーナ(涅槃)、ムクティ(脱;Mukti)、カイヴァリヤ(独存;kaivalya)と呼ばれる[12][13][14]。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見、二度と再生を繰り返すことのない輪廻からの解放を最高の理想とする。 ヒンドゥー教においてサンサーラとは、アートマンの旅である[21]。ヒンドゥー教の伝統においては、身体は死ぬが、それは永遠の現実、不滅、至福とされるアートマンの死ではない[21]。すべての物事すべての存在は、接続され周期的であり、自我・アートマンと、身体・物質という2つのもので構成されるとする[5] 。ヒンドゥー教の信念においてアートマンと呼ばれるこの永遠の自我は、決して転生せず、変化せず、変化させることもできない[5] 。対照的に、身体と人格は変化することができ、常に変化し、生まれては死ぬ Wikipedia:ウィキペディアっかい^^
いや・・これ簡単明瞭^^ アートマンと呼ばれるこの永遠の自我(真の自己)は、決して転生せず、変化せず、変化させることもできない 。
対照的に、身体と人格(心身)は変化することができ、常に変化し、生まれては死ぬ 真の自己は変化しない^^
だが・・・心と身体は変化する^^
う〜〜ん^^
納得^^ これなんだよな・・^^
バガヴァッド・ギーター
詩節3−27
行為は、いかなる場合でも、根源的自然(プラクリティ)のグナによって行われる。「私」という感覚によって精神が惑わされた人は、「私は行為を為す者である」と考える。 あー水が飲みたい^^
どこからか・・湧いてくる^^
つまり・・^^
真の自己ではなく^^
根源的自然(プラクリティ)のグナによって行われる 見られるもの(プラクリティ)心・身体
心・身体=物質原理
変化する≅(例)怒・憎しみ==不安定=苦 心・身体は物質原理^^
つまり・・絶えず変化する^^
それに対して真の自己は変化せず^^
それを眺めているだけ^^ つまり・・^^
これ^^
ヨーガ・スートラ
T 三昧の章
1. それでは、ヨーガを教えよう。
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働きと同一化している。 これでもいいかな^^
行為は、いかなる場合でも、物質原理(プラクリティ)によって行われる。「私」という感覚によって精神が惑わされた人は、「私は行為を為す者である」と考える。 長年瞑想してなければ・・こんなことわからん^^
常に心の働きと同一化してるんだから^^キリッ 心の働きは私ではないなぜなら・・物質原理だから^^
これ^^
私」という感覚によって精神が惑わされた人は、「私は行為を為す者である」と考える。 3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働きと同一化している。
これ^^
https://youtu.be/nhXxZEaGhbc?si=dwsw_RMx02AF5Awn う〜〜ん^^
まさに・・心の働きと同一化している^^ 『ヨーガ・スートラ』はラージャ・ヨガを実践し、解脱を得るための知識と実践に関するヨガの教えが書かれた、言わばガイドブック。パタンジャリが編纂したヨガ哲学の根本教典で、「本来の自分とは?」を体験で知る知識(理論)が書かれている。
冒頭でパタンジャリは「心の働きを止滅して」、マインド(心)の活動を止めれば「真我は自分の本来の姿」にとどまる、それ以外の時は「真我は想念の中に同一化する」と教える。理論を支えるのはサーンキャ哲学だ。 マインド(心)の活動を止めれば「真我は自分の本来の姿」にとどまる、それ以外の時は「真我は想念の中に同一化する 真我は想念(心の働き)の中に同一化する^^
う〜〜ん^^
だれがうまいこと言えと・・^^ しかし・・なんにしても・・おもろい^^♪♪
こうでなければあかん^^
ゆえに・・あきない^^ うん?
やばい^^
『ヨーガ・スートラ』はラージャ・ヨガを実践し、解脱を得るための知識と実践に関するヨガの教えが書かれた・・
このままおもしろがってやってれば・・^^
解脱してしまう^^
困った^^ 人はもともと本来解脱してるんだから・・^^
まっいいか^^ 人はもともと本来解脱してるが・・想念(心の働き)の中に同一化しているのでそれに気付かない^^
ってことやな^^ 気づいた奴おるで^^
これ^^
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。 照見五蘊皆空^^
【五蘊】 色(物質)、受(印象・感覚)、想(知覚・表象)、行(意志などの心作用)、識(心)の五つをいい、総じて有情の物質、精神の両面にわたる。 人はもともと本来解脱してるが・・想念(心の働き)の中に同一化しているのでそれに気付かない^^
照見五蘊皆空^^
【五蘊】 色(物質)、受(印象・感覚)、想(知覚・表象)、行(意志などの心作用)、識(心)の五つをいい、総じて有情の物質、精神の両面にわたる。 人はもともと本来解脱してるのに・なぜ修行が必要なのか^^?
ってなことになる^^ 人はもともと本来解脱してるのに・なぜ修行が必要なのか^^?
ってなことになる^^ ブッダちゃんも6年間の苦行の後に気付いたんだよな・・^^
それだけ^^ 心・身体=物質原理であり真の自己ではないので苦行しても悟れない^^
ってことやな・・^^ 苦行してここまでいけるか?^^
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 世界内から世界外の真の自己まで渡る・・^^
つまり・・^^
彼岸へ渡る^^
彼岸(ひがん)とは
釈迦が「彼岸に渡れ」と説いたように、彼岸は人々が欲や煩悩から解放された世界です。彼岸はサンスクリット語で「パーラム」、渡る事は「イター」といい、これをつなぐと「パーラミター」となります。どこか聞き覚えにある言葉です。これは有名な「般若心経(はんにゃしんぎょう)」の一節「波羅蜜多(はらみつた」の事です。大乗仏教の基本経典で、まさしく「彼岸へ渡る」事を説いたものです。 あー長年瞑想しててこれか・・^^
1. それでは、ヨーガを教えよう。
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働きと同一化している う〜〜ん^^
おまえら・・よく知ってるなぁ・・^^ ヨーガ・スートラ
25. 心とプルシャの違いを知る人は、もはや心を自己(アートマン)であると見ることはない。
26. この識別知を得た人は、カイヴァリヤへと赴く。
27. その間にも、過去に生じているサンスカーラから様々な心の作用が生じてくる。
28. それは、これまで説明した煩悩の対処法によって取り除けばよい。
29. 識別知を確立した人は、最上の知識に対しても無関心になる。これをダルマメーカサマーディと呼ぶ。 27. その間にも、過去に生じているサンスカーラから様々な心の作用が生じてくる。 (佐保田訳)真我と覚との差別を知った人には、自己の存在に関するいろいろな思案が消える。
(インテ訳)心とアートマン〔真我〕の区別を知る者は、心をアートマンと考えることが永遠に熄む。
(シュリー訳)(心と純粋精神の)相違を知るものは、もはや心をアートマン(純粋精神)とは考え
ない。 (私訳)その時、心は識別に傾き、カイヴァルヤ(独存)に向う。
(佐保田訳)この時、心はかの弁別の方へ傾き、独存の境地への進路をとることになる。
(インテ訳)そのとき、心は識別知の方へと傾き、独存に引き寄せられる。
(シュリー訳)そのとき心は識別に向かい、独存に引き付けられる。 (私訳)その(識別の)隙間に、諸々の残存印象によって別のさまざまな想念がある(生じる)。
※註1:参考訳
(佐保田訳)このような心にも、その間隙には、これまでに蓄積された行から生じた、他の想念が入
りこんで来るものである。
(インテ訳)その間隙にも、過去の印象から来る雑念が生ずることはある。
(シュリー訳)その識別心の隙間に、過去の印象による他の想念が生じる。 つまり・・^^
サンスカーラとは・・^^
過去の印象から来る雑念^^ 私たちは、1日に「4.5万回」もネガティブなことを考えている……!
じつは、人は1日4.5万回もネガティブなことを考えているそうです。
このデータを2005年に発表したのは、アメリカ国立科学財団。そもそも人の脳は、1日1.2万〜6万回の思考を行なっているそう。そのうち約80%はネガティブなものであるため、多いときにはおよそ4.5万回もネガティブなことを考えている計算になると伝えています。
さらに、1日の思考のうち、95%は前日と同じ内容の繰り返しであるとのこと。すなわち、どうにかしてネガティブ思考を断ち切らなければ、4万回以上ものネガティブ思考が毎日繰り返されてしまうのです。当然、嫌な気分も増してしまいますよね。 1日の思考のうち、95%は前日と同じ内容の繰り返し^^
うわっ^^ 1日の思考のうち、95%は前日と同じ内容(サンスカーラ・・過去の印象から来る雑念)の繰り返し おまえら・・^^
思い当たることない^^?
うん?^^ つまり・・結論^^
これ^^
おまえら・・^^
サンスカーラだらけ^^ だーかーらー
止滅の念だけになって‼
想念・妄想念を、完全に止滅すれ‼
そうなった時に、何が起こるのか⁉
おまえらは知らんだろ。
だから、やって、知れば良いよ。 ぐ心念住(心に関する想念)〉は法明門にして.心を幻の如きものと観察せしむ
く定根(心を静めて集中する能力)〉は法明門にして,心を解脱せしむ
く定力(心を静めて集中する力)〉は法明門にして,一切の妄想を捨離せしむ
く正思惟(正しい思考法)〉は法明門にして, あらゆる妄念・妄想・妄分別を捨離せしむ 【捨離】 〘名〙 いっさいのことを捨て去り、煩悩を離れること。 すべてのことを捨てて執着しないこと。 選ぶとしたら・・こっちやな・・・^^
ヨーガ・スートラ
25. 心とプルシャの違いを知る人は、もはや心を自己(アートマン)であると見ることはない。 捨離するのではなく・・識別する^^
識別知
ヨガでは、識別知は苦しみの根源とされる「無知」を取り除く知性と考える。ヨガの実践を通じて識別知を得ると心と真我の違いが見分けられ、真智を得て、苦しみは消える 識別知を得ると心と真我の違いが見分けられ、真智を得て、苦しみは消える 人生は決断の連続である。
ケンブリッジ大学のバーバラ・サハキアン教授の研究によると、私たちは1日に最大で3万5,000回の決断を下しているそうだ。
とまあ、いきなり3万5,000回の決断を1日にしていると言われても、いまいちピンとこないだろう。
他にも決断ということに関するデータとして下記のような事例がある。
・人が1日に使用する単語の数は、無意識に取捨選択された約1万6,000語から成り立っている
(アリゾナ大学とテキサス大学の合同研究による)
・食べるものや場所といった食事に関する事柄だけで、人は1日に2,267回の決断をしている
(コーネル大学のジェフェリー・ソバル教授らの調査)
・車を1マイル(1.6km)運転するにつき、人は200を超える決断をしている
(米国労働安全衛生局) 私たちは1日に最大で3万5,000回の決断を下している^^ 「意識による判断の7秒前に、脳が判断」
「意識による判断の7秒前に、脳が判断」:脳スキャナーで行動予告が可能 マックス・プランク研究所の研究者がfMRIを利用して行なった脳研究によると、被験者が判断を下す7秒も前に、脳活動でその判断の内容を「予告」できるという。 「意識的な選択」や「自由意志」の意味について考えさせられる研究だ。 つまり・・どういうことか^^?
これ^^
バガヴァッド・ギーター
詩節3−27
行為は、いかなる場合でも、根源的自然(プラクリティ)のグナによって行われる。「私」という感覚によって精神が惑わされた人は、「私は行為を為す者である」と考える。 心解脱^^
2. ヨーガとは心の働きの止滅である。
3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。
4. その他のときは、心の働きと同一化している 慧解脱^^
識別知
ヨガでは、識別知は苦しみの根源とされる「無知」を取り除く知性と考える。ヨガの実践を通じて識別知を得ると心と真我の違いが見分けられ、真智を得て、苦しみは消える だが・・^^
苦しまないと・・人は成長しない・・世の中を理解されないということも事実^^ 鉄眼禅師 仮字法語
【三の十】
かかるしわざを楽とおもえるは、まことは楽にはあらず。
これ大いなるくるしみなり。
かくのごとく苦と楽との二つの間にまようをば、第二の受蘊と名づけたり。
【三の十一】
三界流浪の凡夫のならいは、すべてこの苦楽の間をのがるることあたわず。
そのうえは、さく花を見て楽しみと思えば、ちる時はやがて苦なり。
出る月を見てたのしめば、入る山の端はまたかなし。
逢う事をよろこべば、わかれはかえってうれいなり。
さかえたるをたのしむ人は、おとろうる時またくるしむ。
まずしき人はなきをくるしむ。
富める人はあるになやまさる。
へつらうも苦しみなれば、おごるもげには苦しきわざ、恋しきも苦なれば、うらめしきもまた苦なり。
大いなるかな苦楽の二受。
三界一切の衆生、その中におぼれて、ついに出る事あたわず。 大いなるかな苦楽の二受。
三界一切の衆生、その中におぼれて、ついに出る事あたわず^^ 鉄眼禅師 仮字法語
【二の六】
さてまた二乗は、凡夫よりも、智恵かしこきゆえに、この身は地水火風の、仮のものぞと、よく見あきらめて、この身をまことの白骨のようにみなし、身においてちりほども、執着の心なし。
かつてこの身のために我執我慢をもおこさず、貪欲瞋恚をもおこさず、いつわりへつらいもなく、ねたみそしりもなし。
かくのごとくのさとりはひらけぬれども、いまだこの身の、法身如来なることをしらず、これによりて、世尊、小乗とて大いにきらいたまえり。
かの法身の当体をさとらざる故に、二乗の智恵にては、仏の内証、菩薩の境界は、いまだ夢にも見ず。
これまた二乗の、一重のまよいなり。
さきの凡夫のまよいとともには二重なり。
二乗は法身にまようこと一重。
凡夫は法身にもまよい、また二乗のさとりしところにもまよう故に、二重のまよいなり。 法身如来^^
見るもの(プルシャ)真の自己
純粋意識=真の自己=精神原理=変化しない
変化しない(不変)=安定=平安 見られるもの(プラクリティ)心・身体
心・身体=物質原理=変化する≅怒・憎しみ=
変化する=不安定=苦
不二一元論
https://ibb.co/mXYTX1d 世界外の自己が法身如来とは・・誰も気づかん^^キリッ 【一の三】
はじめに色というは身なり。
のちの四つは心なり。
一切衆生は本より涅槃常楽の体にして、法身般若の智身なれども、此(この)五蘊の色心に迷ひ、ゆえに凡夫となり三界に流浪するなり。
五蘊といい、色心の二つといえども、すべてはただひとつの迷いの事なり。 【二の四】
本より法身の如来なるを、まよいて万物と思い、またはわが身と思うには、二重のまよいあり。
【二の五】
まず一重のまよいは、この身は、地水火風の四大を、仮にあつめて、つくりたてたるものなり。
身の内の皮肉筋骨のたぐいは土なり。
涙よだれ血などは水なり。
あたたかなるは火なり。
出入の息と、うごきはたらくは風なり。
この地水火風をはなれては、わが身というべきものなし。
ただ今なりとも命おわりて、地水火風もとにかえりぬれば、ただ白骨となりて、つゆほどもわが身とたのむべきものなし。
かかるあさましき白骨を、わが身と思いて、千生万劫、このされこうべにつかわれて、地獄の業をのみつくりて、三途にしずみはつるは、おろかにあさましきことにあらずや。
かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、わが身と思いて、千万年も、死すまじきように思い、わが身ぞとかたく執着す。
これ一重の、凡夫のまよいなり。
【二の六】
さてまた二乗は、凡夫よりも、智恵かしこきゆえに、この身は地水火風の、仮のものぞと、よく見あきらめて、この身をまことの白骨のようにみなし、身においてちりほども、執着の心なし。
かつてこの身のために我執我慢をもおこさず、貪欲瞋恚をもおこさず、いつわりへつらいもなく、ねたみそしりもなし。
かくのごとくのさとりはひらけぬれども、いまだこの身の、法身如来なることをしらず、これによりて、世尊、小乗とて大いにきらいたまえり。
かの法身の当体をさとらざる故に、二乗の智恵にては、仏の内証、菩薩の境界は、いまだ夢にも見ず。
これまた二乗の、一重のまよいなり。
さきの凡夫のまよいとともには二重なり。
二乗は法身にまようこと一重。
凡夫は法身にもまよい、また二乗のさとりしところにもまよう故に、二重のまよいなり。 集団摘発案件、逮捕案件
表向きはIT企業だが本職は特殊詐欺グループ
SALES GO株式会社(セールスゴー)
セールスゴーは特殊詐欺グループです!!
元鹿島サポーターの押川定和も詐欺グループの一員です。
表向きのセールスゴー
↓↓↓↓↓↓
https://salesgo.co.jp/company
〒140-0002
東京都品川区東品川四丁目13-14
グラスキューブ品川
鹿島アントラーズ 鹿島アントラーズ
押川定和押川定和押川定和押川定和押川定和
セールスゴー セールスゴー セールスゴー
鹿島アントラーズ 鹿島アントラーズ
押川定和押川定和押川定和押川定和押川定和
セールスゴー セールスゴー セールスゴー
鹿島アントラーズ 鹿島アントラーズ
押川定和押川定和押川定和押川定和押川定和
セールスゴー セールスゴー セールスゴー
鹿島アントラーズ 鹿島アントラーズ
押川定和押川定和押川定和押川定和押川定和
セールスゴー セールスゴー セールスゴー
http://www.jpdo.com/cc02/18/img/34090.jpg それでプルシャに何が出来るんだよ
圧倒的にリアルなこの肉体的現実を感じたくもなくても感じるというこの現実を プルシャとは・・ゴロゴロ見てるだけのおっさん^^
まちがいないっ^^ >>670
長えよ要約しろよ
本当に中身があるんならな >>675
何も出来ない観客だと自覚して何か良いことあんのか? プルシャ(真我・純粋精神)…真実の自己、本当の本当の自分でもあることから「アートマン」とも呼ばれる。個人の「核」のようなもの。
下矢印 傍観するだけ 上矢印 いろんな世界を経験させようとする
●プラクリティ(根本原理)…あらゆる現象世界に自らを作り変えていく存在。
3つのグナ(性質)・・・サットヴァ(明るい、軽快)/ラジャス(活動的、興奮)/タマス(重い、暗い)からなり、そのバランスが取れているときはおとなしくしている。
ひらめき電球この関係を「映画」に例えるとひらめき電球
セリフやさまざまな場面に入れ替わる「映画」がプラクリティで、それを観ている「観客」がプルシャ。
最新の4D映画以上に映画の中の主人公と一体となり、主人公が経験することが自分の経験となってしまうほどのリアリティある映画。
観客は楽しい場面では笑い、悲しい場面では泣き、苦悩する場面では同じように悩み苦しみ、主人公が血を流せば自分も血を流してしまいます。
これは観客である自分が映画という「幻」に惑わされているだけだと気づき、
この映画を終わらせ、静かな状態に戻る必要があるのです。
映画と自分(観客)は全く別のもの(二元)なのにひとつである、と錯覚してしまうことに苦悩や迷いの原因があるのです。 うん?
私は誰か?
ラマナ・マハルシの教え
23 解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのでしょ
うか?
すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たなければならない
と述べている。それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最
終的な教えである。ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必
要はない。心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問
いつづけるべきである。この探究がどうして書物のなかでできるだろう
か? 人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。真我は
五つの鞘*5 の内にあるが、書物はその外にある。真我は五つの鞘を棄て去
っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物のなかに求め
るのは無駄なことである。いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくては
ならないときが来るだろう。 私は誰か?
まぁ役に立たないかもしれん^^
けどおもしろいんだよな^^
これが^^ うん?
東京大学文学部思想学科インド哲学専修、通称”イン哲”。
「東大の魔境」
「就職できない」
「卒業するとバラモンになれるらしい……」
おい^^
バラモンになれるど^^ 「卒業するとバラモンになれるらしい……」
はよ言えや^^ 印度學佛教學研究第四十二巻第二号
心解脱と慧解脱 藤田正浩
上記記事からの抜粋と引用
● ①比丘たちよ、『 止 』を修習するとどんな利益を受けるのか。《 心 》が修習される。《 心 》を修習するとどんな利益を受けるのか。およそ《 貧が断じられる。》
比丘たちよ、『 観 』を修習するとどんな利益を受けるのか。《 慧 》が修習される。《 慧 》を修習するとどんな利益を受けるのか。
およそ《無明が断じられる。》比丘たちよ、貧に染汚された心は解脱せず、無明に染汚された慧は修習されない。
比丘たちよ、実に、“ 貧を離れる ” ことから《心解脱》があり、“ 無明を離れること ” から《慧解脱》がある
引用文①でのように、貧あるいは渇愛の滅を《 心 解脱 》とし、無明の滅を《 慧 解 脱 》とする場合で、この慧解脱を《1》とする。
● 比丘たちよ、どのような比丘がよく《 心 解 脱 》しているのか.....。貧〔瞋痴〕から《心が解脱》するのである。
比丘たちよ、どのような比丘が《 慧 解 脱 》しているのか.....。私にあっては、貧〔瞋痴〕は断たれ、根を断たれ、元のないターラ樹のように無に帰され、未来に生じない性質である」と《 知 る(慧 ニヨッテ) 》のである。
上記で、心解脱より時間的に後に来る《 解 脱 智 見 》を《 慧 解 脱 》となす場合、これを慧解脱《2》と名づける。
[ 抜粋終了 ] 上記から分かることは、藤田氏は《 慧 解 脱 》を便宜上《1》と《2》と別けていますが、止観を行う禅定者の立場から解釈するならば、同じであると思うのですが・・・
釈尊の言葉
『 比丘たちよ、実に、“ 貧を離れる ” ことから《心解脱》があり、“ 無明を離れること ” から《慧解脱》がある 』
これを解釈しますと
“ 貧を離れる ” とは “止行 ”によって《 語の行》つまり《 粗なる思慮 = 尋 》と《 微細なる思慮 = 伺 》が滅することで、つまり貧(ムサボリ)の想い(思考)から離れることで、心(頭)の中が無思考になり、
さらには心(胸の自我)からも“ むさぼりの気持ち(心情) ” が消えてしまう。よってこれを《心(自我)が貧・瞋・痴の三毒煩悩から解脱した》と言う。 パーリー仏典より
● 語の行(思考)が最初に第2禅で止滅され、
次に身の行(出入息)が四禅で、
最後に 心 ( 自 我 ) の行が 第九の “ 滅 尽 定 ” で止滅される。 パーリー仏典より
● 第6識
→【 語の行】(思考)が最初に第2禅で止滅され
● 第7マナ(意)識
→ 次に【 身の行 】(出入息)が四禅で止滅され
● 第8阿頼耶識(心)
→ 最後に【 心の行 】が 第九の “ 滅 尽 定 ” で止滅される。 これ^^
0645 あ 2023/08/27(日) 02:02:34.95
う〜〜ん^^
仏教やなぁ〜〜・・^^
ID:b6MU2/Gh(6/39)
0646 あ 2023/08/27(日) 02:04:21.79
選ぶとしたら・・こっちやな・・・^^
ヨーガ・スートラ
25. 心とプルシャの違いを知る人は、もはや心を自己(アートマン)であると見ることはない。 貧を離れる と言われてもなー^^
ヨーガ・スートラ の方が実践的やで^^ ヨーガ・スートラ
25. 心とプルシャの違いを知る人は、もはや心を自己(アートマン)であると見ることはない。
問題は、ハウツウなんだよなー
どうやって⁉
何をして⁉
なんだよなー “ 貧を離れる ” とは
“止行 ”によって《 語の行》つまり《 粗なる思慮 = 尋 》と《 微細なる思慮 = 伺 》が滅することで、つまり貧(ムサボリ)の想い(思考)から離れることで、心(頭)の中が無思考になり、
さらには
心(胸の自我)からも“ むさぼりの気持ち(心情) ” が消えてしまう。よってこれを《心(自我)が貧・瞋・痴の三毒煩悩から解脱した》と言う。 問題は、ハウツウなんだよなー^^
これ^^
『ヨーガ・スートラ』にはポーズの話は出てきません。では何について書かれているかといえば、瞑想の方法についてです。ですから、この本は古くから伝わる瞑想の指南書と考えることができます。この瞑想法はラージャ・ヨガと呼ばれ、ヨガの王道と考えられてきました(ラージャは王様の意味)。
ラージャ・ヨガの特徴は、八つの部門で瞑想の実践的な面を指示しており、瞑想に取り組もうと思う人は、その部門に取り組みながら瞑想を深めていくことができます。その八つとは以下のものになります。
⑴ ヤマ(してはならないこと)
・アヒムサ(暴力を振るわない)
・サティヤ(嘘をつかない)
・アスティーヤ(他人のものを盗まない)
・ブラフマチャリア(禁欲)
・アパリグラハ(貪らない)
⑵ ニヤマ(進んで行うこと)
・シャウチャ(体や身の回りを清潔にする)
・サントーシャ(今あるものに満足する)
・タパス(苦行、忍耐)
・スワディヤーヤ(聖典などによる自己についての学習)
・イーシュワラプラニダーナ(神への信仰心を持つ)
⑶ アーサナ(瞑想のための座法)
⑷ プラーナヤーマ(呼吸法)
⑸ プラティヤハーラ(感覚の制御)
⑹ ダーラナ(一心集中)
⑺ ディヤーナ(ゆるぎない精神統一・禅定)
⑻ サマーディ(涅槃の境地・三昧) それでは、この垢(三毒)を取り除くために、私たちは何をすれば良いのでしょうか?
それは「三つの秘訣」を実践すれば良いだけなのです。
「貪」の反対は「人のために尽くすこと」です。
もし、あなたが欲張り過ぎている人だとしたら、人のために尽くせば良いのです。
でも…「人のために尽くす」って意外と難しいですね。
簡単に言えば、「他人の良いところを見つけて、ホメてあげること」です。
他人の良いところを見つけて、ホメてあげれば、自然と貪りの心は消えていきます。
「瞋」の反対は「赦(ゆる)し」です。
あなたがよく怒る人ならば、「過ちを赦(ゆる)す」ことです。
自分自身の過ちも、そして他人の犯した過ちも、両方ともに赦(ゆる)すのです。
もちろん、最初から全てを赦すことは難しいですね。
それでは、まず「赦します」という言葉を使って下さい。
言葉にするだけでいいんです。
「私は○○を赦します」と言い続けていると、本当に赦(ゆる)せるようになるから不思議です。
「癡」とは、不正不満・グチ・泣き言・人の悪口のことです。
もし、このような言葉をよく使ってしまうならば、意識して「感謝の言葉」を使うようにして下さい。
「感謝の言葉」とは、「感謝します。幸せです。嬉しい。楽しい。ありがとう。」という言葉です。
「感謝の言葉」を使い続けていると、自然にグチや人の悪口が出なくなります。
言葉は習慣ですから、最初はぎこちなくても、使い続けているウチに、いつの間にか身についてしまうものなんです。
「他人をホメる」「赦(ゆる)す」「感謝の言葉」という三つの秘訣を実行するようになれば、必ず元氣力が十倍増し、必ず幸せになれま う〜〜ん^^
それでは、この垢(三毒)を取り除くために、私たちは何をすれば良いのでしょうか?^^
これ^^
⑴ ヤマ(してはならないこと)
・アヒムサ(暴力を振るわない)
・サティヤ(嘘をつかない)
・アスティーヤ(他人のものを盗まない)
・ブラフマチャリア(禁欲)
・アパリグラハ(貪らない)
⑵ ニヤマ(進んで行うこと)
・シャウチャ(体や身の回りを清潔にする)
・サントーシャ(今あるものに満足する)
・タパス(苦行、忍耐)
・スワディヤーヤ(聖典などによる自己についての学習)
・イーシュワラプラニダーナ(神への信仰心を持つ) これができてなければ・・・瞑想に入ることもできない^^
つまり・・^^
日ごろからこの垢(三毒)を取り除くことで次の段階に行ける^^
⑶ アーサナ(瞑想のための座法)
⑷ プラーナヤーマ(呼吸法)
⑸ プラティヤハーラ(感覚の制御)
⑹ ダーラナ(一心集中)
⑺ ディヤーナ(ゆるぎない精神統一・禅定)
⑻ サマーディ(涅槃の境地・三昧) うん?
アパリグラハ(貪らない)^^
貧を離れる・・あったで^^ ヨーガ・スートラ
39. アパリグラハが確立されると、過去生と未来の知識を得る。 U−39 aparigraha-sthairye janma-kathantq-sa/bodha4/
(私訳)無所有が堅持されている者には、出生の如何についてあまねき理解が生じる。
(佐保田訳)不貪の戒行に於て不動心を得たならば、自分の転生のありさまを三世にわたって漏れな
く知ることができる。
(インテ訳)不貪が確立されたとき、自らの誕生の様相と根拠について、全き智慧がもたらされる。
(シュリー訳)無所得(の禁戒)が不動になると、(彼の)過去・現在・未来の生涯のあらゆる知識
を得る。
「janma-kathantq」は、インド人学匠によれば、過去・現在・未来の自分自身の生に関する知識。
「無所有」(無欲)の実践によって心が純粋になり、自分の三世の記憶が得られる、と。 「無所有」(無欲)の実践によって心が純粋になり、自分の三世の記憶が得られる、 アパリグラハは「放棄」を意味するサンスクリットの単語である。また、何かをとろうとして手を伸ばす、あるいは何かが自分のものだと主張するといった意味の「パリグラハ」に由来し、「ア」が付くことで反意語になっている。アパリグラハはアステーヤと違い、本当に必要であってそれ以上ではないものをとることを意味する アパリグラハについて
ヤマの5つめのアパリグラハについてです。
アパリグラハとは「不貪」ふとん、むさぼる心を持たない、つまり強欲から解放されると言う意味があります。集めたり、貯めこんだり、執着しないとの教えもあります。
アパリグラハの実践とは?!
アパリグラハは物欲や所有欲、執着からの解放を意味するため本当に必要な物だけを見つけて手に入れることが大切です。常に目新しい物や人が出てきますが必要以上に目移りせず、よく考えて今の自分に必要な物だけで生活することです。
アパリグラハの効果
難しいことですが多くの物欲や所有欲、執着から解放されると人はもっと自由に生きることができます。何にもしがみつかず、欲しがらない、自分に必要な物だけで暮らすことはそれだけで幸せな人生を歩けることです。 サントーシャ(今あるものに満足する)に近いな^^
42. サントーシャによって、最上の喜びを得る。 5つ目のヤマ、アパリグラハ〔不貪〕とは、
執着しないこと、溜め込まないことを意味します。
私たちは素敵な服、車、家、物に魅せられる傾向があります。
外側の世界にあるものは本質的にはマインドが欲しているものです。
マインドを満足させるために私たちは外側の世界をみる傾向が
ありますが、
執着しないというのは、
外側の世界に幸せの源があるという考えを手放すことなのです。
ふむふむ^^
寝る^^ 執着しないというのは、
外側の世界に幸せの源があるという考えを手放すことなのです^^キリッ 私は私が何に執着して、何に執着したがっているのか気付き続けることによって、意識して執着できるようになってるな やりたいことを、する、できるならね。
ヤってしまえば、執着は消えるし。
常に自分を縛らなければ自由があるね。
空想を脹らませなけりゃ、欲望執着は少ないものだし。 私は昨日ある人に「人は現在のなかでは考えることができない」と話していた。
考えると、たちまちそれは過去になっている。
だから、マインドは現在のなかに存在できない。
それは過去の記憶や未来の投影のなかにしか存在しない。
それは決して現在に触れることがない。
マインドは触れることができない。
だから、思考がなければ、マインドは存在しない。
このノーマインド(無心)の境地が瞑想だ。
そのときあなたは今ここにいる。
するとあなたは実在のなかへと爆発し、実在があなたのなかで爆発する。
精神霊的な探究とは、モクシャ(解脱)、死後の救済を求めることではない。
それもまた欲望であり、富、名声、権力を求める欲望よりもさらに貪欲だ。
精神霊的な探究とは、神を捜し求めることではない。
神はそこにいるが、あなたの欲望ゆえに存在しているのではない。
神は実在だ。 >710 神も仏も名無しさん 2023/08/29(火) 17:10:20.27 ID:afYFGXtG
私は昨日ある人に「人は現在のなかでは考えることができない」と話していた。
ごめん by OSHO だわ😅 これ^^
0410あ
2023/08/20(日) 17:13:16.91ID:YaHi8H0/
うん?
OSHO詳しいな^^
OSHOは表現力はあるんだよな・・^^
ゆえにこうなる^^
だれがうまいこと言えと・・^^ ヨガに興味があるんだね
良いことだ
クリスチャンもそうだけど
知識を身に付けることで
薬が毒になることがあるので注意したい 仏教徒もクリスチャンも同じだよ
知識を身に付けるほどに先生になりたがる
この世の成功を求めたがる
完全に毒になってるんだけど
その自覚すらない
まるで訳わかってない初心者しか居ない
初心者ばかりだから、それが多数派だから
不思議なことに初心者に満足している
他人と同じなことに優越感すら持っている >>679
ラマナマハルシいわく
常に真我に在りなさいと説く
それが全てなんだけど
理解できない人が殆どだ
それはクリスチャンも仏教徒も変わらない
理解できないから長々と話したがる このスレの人って
しかし面白いな
なかなか手応えありそうな
探せば面白い人もいるんだな シャンカラが悟った聖者でありながら学者でもあったという
当時に仏教徒とかなり激論したとか
ラマナは前世でそういう感じに散々にやりあって
もう懲り懲りだとか
結局は真我しか無いんだよな
世俗人にはわからない境地である 真我とは真実の自己の事である
ラマナマハルシいわく
ネックレスを無くした夢を見てる人が目覚めたら首にかけてたような
最初から救われてるのに、救われてない夢を見ているような 真我を知ると奇跡奇跡のオンパレードになる
ラマナマハルシも語っているけど
そこにいるだけで世界中に影響を与えている
その恩恵は半端無い サイババもラマナマハルシも実は人間の姿をした神であった
普通の人間はそれが見抜け無い
真我を知る者でしか
その凄さは理解できない サイババのような神がこの世に降りてきたのは
それは人類にとっては凶なことですよ
間違いなくこれから荒れる世の中になるからだ
我々のような真我を知る者は構えないといけないね 僕も残念ながら完全には悟ってない
悟りには真我には段階があるからね
しかしながら、それでも間違いなく正しく成長してるんだから
そこは自信持っていい サイババもラマナマハルシもイエスも釈迦もシャンカラも同じ人間の姿をした神である
長い歴史にはそういった上の世界から降りてくるみたいなんだ
三界の頂点が、暇なのか?修行の為なのか
我々みたいな修行者はグルの言葉を聞いて精進しないとならない 「世俗の中にあって
何の迷いもなく生きる」
実はそんな人が、居るんだね。
彼は普通に普通の人として暮らしている。
彼はいつも朝には自動販売機で同じ銘柄の缶コーヒーを買う。
それを見ていたある人が、彼に尋ねた
「あなたは何の迷いもなくそのコーヒーを買われている。全く迷わないのですか?」と。
彼は答えた
「なんで?オレ苦いの飲めないんだ。
ジョージアの甘ぇのが好きなんだよ」
なんとなれば、彼は拘らず迷いのない人であった。
缶 真我を理解してる人がいないのか?
キリスト教なら聖霊体験
仏教ならお悟りの境地になる 和紙くん…
とか言ったね?
あなたは世俗の只中で生きなさい。
自ら不幸を出迎えるのだ。
やがて心は死ぬ。
恐れてはならない。
そして先に語った
「世俗の中で何の迷いもなく生きる」人
になりなさい。
あたかもコーヒーの甘さを彼の
舌が直ちに知ったように…
完 残念ながら、此処にも居ないのか?
不死の永遠なる境地を知る者が
期待したのに
何処にも居ない、仲間が スレタイにあるように
真実の自己が知りたいんだろ?
或いは知ってるのか?
それはある、永遠の不死の境地だ
知ってるなら同じ仲間に会いたい あさんとか真我知らないのか?
それ知らないなら話にならないぜ
この道を目指すならだ 真我を知らないと知識だけになる
それでは駄目だ
思考や感情は真実の自己では無いからだ
その蜃気楼は強烈でまずその夢から目覚めることは無いだろう 和紙さんはラマナ・マハリシのいう、胸の【I AM】をいつ頃どの様にして覚ったんですか?
よかったら聞かせてください。 うん?
0731和紙
2023/08/31(木) 02:59:24.51ID:c7PhR/YE
スレタイにあるように
真実の自己が知りたいんだろ?
或いは知ってるのか?
それはある、永遠の不死の境地だ
知ってるなら同じ仲間に会いたい
0732和紙
2023/08/31(木) 09:21:29.54ID:c7PhR/YE
あさんとか真我知らないのか?
それ知らないなら話にならないぜ
この道を目指すならだ
0733和紙
2023/08/31(木) 09:37:48.00ID:c7PhR/YE
真我を知らないと知識だけになる
それでは駄目だ
思考や感情は真実の自己では無いからだ
その蜃気楼は強烈でまずその夢から目覚めることは無いだろう これ^^
これ^^
ヤージュニャヴァルキヤ
アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた あさんとか真我知らないのか?
つまり・・^^
簡単に言えば・・^^
認識できない^^ ネーティ・ネーティ
neti, neti
インド哲学用語。「しからず」という意味。アートマン (本来の自我) の不可説であることを表現したウパニシャッドに出てくる言葉。『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』の4章5節で,ヤージニャバルキヤ仙人は妻マイトレーイーとの対話で,不壊不滅のアートマンを説くが,一切を認識するアートマン自身は何によって認識されるかというと,それは否定的判断によって「しからず,しからず」としか説明できないという。 ゆえに・・^^
これ^^
4. その他のときは、心の働きと同一化している。
心の働きと同一化しちゃうんだよな・・^^ 私たちは、「真実の自己」を知らない限り、自分の個人意識(「citta」)に現われる心のはたらき
と自己とを同化している(インド人学匠の註釈より咀嚼)。 ヴェーダーンタ哲
学を代表する哲学者として著名なシャンカラは,我々が生存し行為してい
る現象として顕現する世界とは,「幻影」(マーヤー)であると見なす。現
象世界に生きる「我」や「汝」として相対的に現われる「私」,すなわち
日常的に生活し行為する「自我」としての私は「幻影」(マーヤー)である。
そのマーヤーとしての「自我」ではないものとして真の「自己」を理解す
る必要がある。それは恒常不変のものなので,いわゆる「輪廻」という生
死の反復からも,本来,解脱しているものである。そのような自己は対象
として捉えられるものではないが故に,言葉によって認識されるものでは
ない。シャンカラの『ウパデーシャ・サーハスリー』(韻文編・18・57)に
おいて,「アートマンはつねに唯一であり,苦痛をもたず,変化しない,
と〔理解する〕人びとにとっては,アートマンはけっして言葉によって表
示されることも,また認識されることもない4)」。故に,『に非ず,に非ず』,
『これは私ではない,これは私ではない』と,否定を重ねることによって
しか,アートマンに至ることはできない(Cf.『ウパデーシャ・サーハスリー』
散文編・ 2 ・ 1 )〔M. 155〕 まぁ実際こんなこと瞑想でわかったらたいしたもんやで^^ インド哲
学研究者,宮元啓一によれば,「仏教も含むインド哲学では,自己(アー
トマン,プルシャ,self)と身心(カーヤ・チッタ)」とは本来異なり,「身心
を自己だと錯覚することがあらゆる迷妄のもとである」と見なされる,「そ
の意味で,身心をまとめていわゆる自我(ego)だと考え」,その自我を自
己と弁別する。「自己はおのずから,無媒介に,自立的に,いわば自己反
― 230 ―
JICS86_01-09_227-256_Y09_Kojima_CS6.indd 230 2017/09/15 5:29
省的・自己回帰的にその存在が確立しているもの」であり,それに対して,
自我は認識対象であり,かつ自己がそれを介して世界を認識する媒体」で
ある。自己は「それを生じしめる原因」も「それを滅ぼす原因」も持たな
い,「自己は不生不滅,常住不変」である。「それに対して,自我である身
心は生じては滅するものであり,無常」,「無常な自我を常住な自己と錯覚
するからこそ,あらゆる煩悩の中核を成す我執が生じ,その我執があらゆ
る迷妄のもととなり,人を苦しみの輪廻的生存に縛りつける」のである
〔Cf. M. 149-150〕。 「身心を自己だと錯覚することがあらゆる迷妄のもとである」 「自己は不生不滅,常住不変」である。
「それに対して,自我である身心は生じては滅するものであり,無常」 身心は生じては滅するものであり^^
う〜〜ん^^
確かに刹那生滅しておる^^ 「自己は不生不滅,常住不変」
小学校の時から本質は変わっとらん^^ 自己は不生不滅^^
私には死もなく、疑いもなく、カーストの違いもない。父も、母も、誕生もない。
教師も、生徒も、親戚も、友人もない。私は無限の意識、純粋な自己である。 私には死もなく、誕生もない。
私は無限の意識、純粋な自己である。 ニルヴァーナ・シャタカム
https://youtu.be/Kb2EHT5xq9w
8世紀の偉大な聖者シャンカラチャリヤがアドヴァイタ・ヴェーダンタ(非二元哲学)を6編の詩にまとめました。8歳の男の子が、グル(師匠)をもとめてヒマラヤをさまよっていると、そこに聖者が現れ、"Who are you?" と聞きます。それに対する男の子の答えがこの詩です。そして、この聖者こそが、彼が探し求めていたグルだったのだそうです。
8歳でこの答え、すごいなあ。。
私は、自分の思考でもなく、知性でもなく、記憶でもエゴでもない。耳でも舌でも鼻でも目でもない。
地でも空でも火でも風でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、5つのプラーナでもなく生命の息でもない。私は、7つの体の部位でもなく、5つの鞘(Kosha)でもない。
私は、会話の器官でも手でも足でもない。生殖器でも肛門でもない。私は、無限の意識、純粋な自己である。
私には好き嫌いもない。強欲、妄想もない。うぬぼれや嫉妬もない。
法や富や快楽や悟りを追い求めることもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私には、罪も徳もない。喜びも悲しみもない。私には、マントラ、聖地、ヴェーダ、儀式も存在しない。
私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私には死もなく、疑いもなく、カーストの違いもない。父も、母も、誕生もない。
教師も、生徒も、親戚も、友人もない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、思考、形から解放されている。私は全ての感覚器官に繋がり、あらゆるところに存在する。
私は束縛と自由にとらわれない。私は無限の意識、純粋な自己である まったくその通りであるとたいした知識で考察であるとも
驚く逸材に出会えた気がする
しかしながら一つ気にかかる所があるとするなら
仏教もキリスト教も不二一元論も本質は同じ真理である それはビートルズのコピーバンドは素晴らしいのは当たり前であるからだ
真我はそれぞれなので
釈迦とイエスが違う表現をしたように
自らの真我により、オリジナルのある表現はできないのか?
もっと、もっと、自由で多種多様であってもいいんだよ
創造主は多種多様な生物の個性を認めてるように
自分だけのオリジナルのビートルズのコピーバンドでない
音楽は作曲できないのか?
そのようには感じた 真我を実現した者がその境地を上手に説明したのがシャンカラであると思う
或いはラマナマハルシ
それのパクリが真理の到着点というのは僕は違うと思うんだ
上手く言えないけど
あさんには、その過程が足りない もちろんグルの教えは絶対であるという信仰であるなら否定はしないよ
僕のグルはとりあえず本だけの知識ではあり得ないから
そこは相容れないかもしれないね
あるいは僕があさんの語る内容を理解していないか それなら、お前がやってみろ!と言われるかもしれない
出来ないよ!先人の教えパクらずなオリジナルなんてさ
しかしながら、それが進化だからさ
その為に我々は生かされてると思う
まあ、ようするに音楽でも芸術でも何でいいんだ
言葉は表現の一つでしかない 言い方を変えよう
イエスは自らの生き返りで神であることを証明した
証は奇跡であってもよい
その証明の仕方は何でも良いのだ
預言者がそうであったように もちろん難しいお題であることは理解している
楽しい話し相手できたからこその難解なお題であるよ
それは見たいですよ
真我を知る仲間に出会えたなら 僕の欠点もあさんの欠点も神の霊感により明らかになるということ
それを本当に真我知る者なら試してみたいね 人間として生きている間にしか
偉大なる不死の境地は手に入れれない
だから本当に知る者ならパクリとか茶番で無く
お互いに切磋琢磨する必要があるんだ
一般人の失礼という範囲にも平気で足を踏み入れる 例えば僕が墜落する飛行機に乗るとする
僕が乗ることでその運命が変わる
それくらいの天命を既に任されている
それを他人にもあさんにも見たい 例えば、大きな存在は、利己的な利益追求は許されないので、
和紙さんが、日経平均を買うとすると、その命運に影響を与えて、一気に不安材料がでて、日経平均が下がるとか?
和紙さんの住んでいる土地は、和紙さんの場となっていて、そこは自然災害から護られる、とか う〜〜ん^^
何言ってるか・・ようわからん^^?
無為自然・・とだけ言っておくか^^ いや、これ理解出来ないとあなた達は真我を知らないとなる
グルは書物だけでは無い ラマナマハリシが居るだけで地球に大きな恩恵を与えているのだ
君たちは理解出来ないのか? おれは理解しているよ。
プルシャってそういうことだから。 偉大なラーマクリシュナさんですら完全には悟っていないのだからさ
本の知識だけでゴールなんてのは僕は如何なものかと思うね 貴方も僕も等しいブラフマンであると言いながらって、サイババも説明してた
その境地に達してない者が言うのはおかしいと インドにはいっぱい居るらしいね
知識だけみたいな
全然に実践では悟ってない 本の知識だけではイエスのような奇跡は起こせないだろう
それが預言者は試されるのキリスト教の歴史なんだ
我は完全に悟りを開いたと断言するなら試されるのを忘れない方がいい
サイババも信者に食事に毒盛られたらしいし
それは悪気は無い、試されたって、恐ろしい話ですよ うん?
このスレ終わりにするかなっと・・^^
はっきりいってつまらん^^ 理由を言いなさい
自分レベルが居ないからってこと?
自分くらい悟った理解者が居ないってことかな?
確かに本の知識ではあさんはズバ抜けている
僕なんかより全然に詳しい サイババは無から金の時計とか創り出せた
手品師とか言われているが違う
僕はそれは散々に奇跡を見てきたからだ
あさんはその深い真理が理解出来ないのか?
それなら残念だ
せっかく仲間が出来たと思ったのに サイババは人前で堂々と奇跡を見せてきた
人間の姿をした三界を超えた神なのだ
それが理解できないのか?
出来ないなら残念だ この道を目指すなら
もっとも肝心な部分だよ
それが理解できないのか? 生まれながら
猿と人間では立場が違うだろう?
我々はそのカルマにより来世を試されている
犬もいるし家畜もいる
その頂点を目指すのが宗教である
それがこの道だよ
くだらないからやめるとか本当に残念だ
安っぽいよ 僕自身が真我を知り
散々に奇跡を見てきた
だから断言する
サイババは手品師で詐欺師では無いよ
ガチで何も無い真空から金の時計を創造していた
只者では無い人間の姿をした神である
それを見抜けない
君たちが同じ仲間でないなら残念である サイババに渡された金の腕時計
これを売れば幾らになるのか?と考えた信者が居たらしい
したら消え失せた
再度にサイババの元に行くと無くなった腕時計を渡されて
今度は邪なことは考えないようにしなさいと
これらの奇跡は僕は見たわけじゃないけど事実だと思います
僕も散々にこれを信じるだけのことを見てきましたから
真我を知ると選ばれるんです サイババの取りだした時計はセイコー製だったとか
そういう事じゃない
問題はあるか無いかですよ
あり得るんですよ、それが
真我を知る者なら理解できる
全然にあり得る
手品じゃないのです ババジは黄金の宮殿を一夜で出現させて消したよね。
それで、和紙さんは、どの様な経緯で真我を悟られたんでしょうか?
差し支え無ければ教えてください。
m(_ _)m 高校の時に凄く好きな人が居て
その人と両思いになれた時に感激のあまり悟れたんだ
その時に世界と一つになれた
意識が世界と一つに広がるというか
そのときはまるで宗教知識は無いし
それがどういう意味か理解できなかった
でもあの世からスカウトみたいなのは驚くことに存在する
聖書の預言者がそうだし、創造主にみいられるってのは現実に存在する
そこから知識を授かり今に至るって訳だ
だから僕は既存の宗教団体に属するとかじゃなく
創造主から直に真理を授かったんだよ 真我は魂の進化みたいなもんだから
聖書でイエスが弟子たちに教えたかったのがそれだ
それでも弟子たちは悟れなかった
それくらい世の中には居ないらしいよ
世界中に何億もクリスチャンは居るけど
それが真我の事であると確信してるクリスチャンなんて聞いたことが無いくらい居ない
それは仏教徒も同じだよね、釈迦は神を信じていないとか言われてるけど
そのくらいのことも理解できない初心者ばかりしか居ない だから、あさんには期待したんだけど
知識は凄いんだけどね
凄い詳しいよ、驚く程に
真我を知らないと夢の中で夢とわからない
こればかりはどうしようもない
都市伝説でも聞かないんだから
おそらく日本中でも悟りを知ってる者は本当に稀なんだと感じる 本の知識では正直駄目なんだよな
ラマナマハルシも喋らなかったらしいし
思考や感情は沼にハマるばかりだ
全てはブラフマンである
その真理に到達するのは険しいね
ブラフマンこそ不死の境地であると
イエスの語った神の国なんだよね インドに居たサイババって、だから、本当に凄いんだよ
本当に都市伝説が実在していた
世界中のあらゆるトップがまるで気付いていない
ガチ神様が人間の姿で降臨してたんだよね
この宇宙の創造主が降臨してたんだ
イエスが父と呼んだ存在かどうかは知らないけど
神の1人が降りてきてたのは間違いない サイババいわく
神が多になりたいと最初に意思したのが世界の始まりなんだってさ
科学で生物の進化は何億もかかってるのは明らかになった
我々も鉱物から植物になり輪廻してきたらしい
しかし現代人は快適さや物欲だけだから
これから地球規模の争いが起こると危惧されてるね
インドが世界のトップになるとかの噂もある 僕の悟りは1番浅いやつで
それより深いのがラーマクリシュナ
何日間も気を失っていたらしい
ラマナマハルシも1カ月くらい気を失うというかそうなってたらしい
無理やり口に食事を詰め込んだりして生き延びた
もう完全に悟ってるのがラマナマハルシだよね
もう世界中見渡しても超レアだよ
インドは現代でも居るから凄いよ
チベット辺りにも居るとかいう噂もある 恋愛から悟った人って、初めてだね。
前世からの継続だと思うよ。
それで、和紙さんは、OSHOは評価しないんですか?
あとクリヤヨガの聖者たちとか。 基本的に僕はそこまでアンテナ鋭くないから
サイババやラマナマハルシ頼りだね
そんなに知識だけあっても仕方ないし
グルは創造主もそうだし
自らの意識の源もそうだ
書物だけじゃないからね あさんはそれでもめっちゃ詳しいね
どんな生い立ちしてきたのだろう?
僕は完全独学だけど
何処かで学んできたにかな
僕は天然だけど、キチンと系統だって学ぶ姿勢は感じる ラマナマハルシいわく
熟睡してても世界に気付いてるのが真我だから
そんな一筋縄では悟れないよ
水滴が大海にそんなに簡単に融合できない
まあ、前世を覚えてないんだから
また輪廻するんだろう
ただ僕は前世は人間だったようだし
来世もそうだろうなあって気はする まあ、とにかく真我から得られる情報は桁違いだよ
本なんかまるで歯が立たない
だって一つになるんだから、意識が一つなんだからさ
自分の事がわからないハズは無いということ >>802
我ながらこれは名言ですよ
ラマナマハルシも沈黙の聖者と言われた
真理を知りたいなら真我に在りなさい
最高の名言です
本の知識だけでは残念ながら悟れない
思考や感情は真実の自己で無いからだ
幾ら知識を蓄えても無駄なんですよね
熟睡している間にも世界に気付いているのが真我だからね 和紙さんは、ラマナ・マハリシの言っている、
『I AM』の、私は在る!、我在り!のような感覚は、その恋愛成就後の悟り後に現れたんでしょうか? もし仮にあなたが苦しんでいたとする。
「あぁ、私はなんと不幸なんだ」
果たしてそれは本当だろうか?
その時、死神は言う
「そなた程、不幸な者は居ない
さぁ、苦しみなさい!さぁ、さぁ~」
そしてあなたは全てを諦める。
もうそこには、かつてのあなたは居ない。
夢は無惨にも敗れたのだ。
あなたは鏡のように空っぽとなって
返す言葉もない。
死神は鏡に映る己を見て
苦しみもがいた。
あなたは危機一髪
死神の呪いを跳ね返したのだ!
心を静めることによって…
完
https://youtu.be/DxJJmTKvNtI?si=E3vUTX19n-xOaWCI 集団摘発案件、逮捕案件
表向きはIT企業だが本職は特殊詐欺グループ
SALES GO株式会社(セールスゴー)
セールスゴーは特殊詐欺グループです!!
元鹿島サポーターの押川定和も詐欺グループの一員です。
表向きのセールスゴー
↓↓↓↓↓↓
https://salesgo.co.jp/company
〒140-0002
東京都品川区東品川四丁目13-14
グラスキューブ品川
鹿島アントラーズ 鹿島アントラーズ
押川定和押川定和押川定和押川定和押川定和
セールスゴー セールスゴー セールスゴー
鹿島アントラーズ 鹿島アントラーズ
押川定和押川定和押川定和押川定和押川定和
セールスゴー セールスゴー セールスゴー
鹿島アントラーズ 鹿島アントラーズ
押川定和押川定和押川定和押川定和押川定和
セールスゴー セールスゴー セールスゴー
鹿島アントラーズ 鹿島アントラーズ
押川定和押川定和押川定和押川定和押川定和
セールスゴー セールスゴー セールスゴー
http://www.jpdo.com/cc02/18/img/34090.jpg >>804
いや、僕の周り変わり者が多いよ
僕も子供の頃から変だった
幽霊とかそういうのに興味があった
で、江原さんやギボさんをテレビで見てて
こりゃインチキだろうとそんなの居るなら会いたいと悟る前は思って生きてきた
それがね、幼馴染の従兄弟がそのレベルで霊が見えるんだよな
悟った後に知ったんだけどさ
どうもそういう家系みたいだ
でも成人してからも自分みたいな田舎者でもそんなことゴロゴロあるんだから世の中には当たり前に居ると勘違いして生きてきた訳
それが最近になって非常に世の中を見渡してもレアな事に気付いてきたのはほんの数年前 つまり履いて捨てるくらい一般人だと思って生きてきた
神父とか住職とか世の中にはそれを職業にしてるのだからゴロゴロ居るんだろうと最近まで勘違いして生きてきたんだよ
自分が特別だと知ったのは数年前ですよ
もう2年くらい前 宗教って、公にはプロは無い
大谷さんみたいに世間に認められる訳では無い
誰も気付かない所での静かな戦いになる
そこがなんというかね、終わりもゴールもまだ見えないのがキツいよね
同じレベルにならないと、その凄さはわからない理解できないという
改めて時間しか解決しない、だから輪廻なんだって
その輪廻っていうのが茶番じゃない まあ804の答えとしては後ですね
そうだね、そこからだね 小学生2年くらいかな
ある出来事があって
生まれる前からこの景色見たことあるって
少し前世を思い出したんだ
確かに前世から槌勝った何かはあったんだろう こんな変なもんに関わる気はまるで無かったんだ
宗教をやりたくてやってる訳じゃない
若い頃は新興宗教の事件なんかあって
こんなもん絶対に信じんよ
自分だけで真理を掴むんだと熱い気持ちがあって生きてきた
だから僕は本当に他人とは違うんだなって
その気持ちは今も変わらない 快適な生活をして、世俗人を満喫する、その為には金持ちになりたい、裕福になりたい
若い頃はそれだけだったからね
こんな方向性になるとは若い頃は思わなかったな
自分でも何をやってるのかわからない部分はある ゴキブリ一匹すら殺さない
肉食しない
そういった世間の生きる上での非常識を生活に挟むとめちゃくちゃ生活するのが不便になるんだよ
そもそもが世俗人なだけにやりたくてやってる訳じゃない
そこらへんは戦いになるよね
パチンコとか若い頃は普通にやってタバコ吸ってた世俗人だから
そういうのはあります 住職になろうとか、神主になろうとか、神父になろうとか、牧師になろうとか
そもそも熱い想いあってこの道に入った訳じゃないからさ
そういうの今でもどうでもいいね 性分てのはあるよね
創造主から認められても
それで神父みたいな聖職者で一生を生きれるかというとそれは面倒臭いね
とにかく面倒臭い
そういうやらなくていい要らない無駄な何かは極力やりたくないという
他人に関わりたく無いんだよね
どうでもいいという 自分は救われたいエゴがあるから
やりたく無い事をやっている訳で
そこは自分が本当にやりたい事をやった方がまだマシかもね
僕はその辺りのバランスめっちゃ悪い
自分が本当にやりたくてやってるなら何の問題も無いんだろうな 何時か絶対に訪れる死から救われたい
それは脅しみたいなのに嫌々やってるだけだから
そうじゃない
本気で好きでやってるモチベーションみたいなのは大切だよね
宗教ハマるにしても
自分でそれが楽しいからやらないといけないなって 自分はまあ
そこは他人より好きにやってると思える
宗教板の人を見ていたら
何か怖がっていて
霊とか地獄とか死とかも
そこから助かりたいから何とかしたい
病的な感じがするんだよね 何かに怯えるは二元があるって事だから
霊やら地獄やら裁きやら
そういうのから自由になるのがゴールだよね
好きでやってるも、そう
他人の目を気にしてとかも違うと思うね なかなか、貴方と私は等しい一元であるは理解していても難しい
神の天罰とか上の目を気にしたり
霊とか地獄とか想像したり、魔境に落ちるものなんだ、完全に悟らないと蜃気楼のようにそれは現れる ラマナマハルシいわく
熟睡していても世界に気付いているのが真我だ
夢の中に居る者はそれが現実として立ち現れる
天使に、霊に、地獄に、創造主の裁き、それらに二元がある未熟者にはそれが現実として立ち現れる
蜃気楼のようにだ
それらは嘘を語ってる訳では無い
彼らにはそれらが現実であり真実の話なんだ
僕もその1人であるから修行して救われないといけないね だから、真我に在りなさい
優しくラマナマハルシは真理を説く
夢の中から、蜃気楼から目覚めなさいと言っている 首に無くしたネックレスをしているように
無くした夢をみている
最初から救われているのに
救われていない夢を見ている
そして夢から目覚めたら首にあるネックレスを見て安心する
最初からその場から動いていない
寝ていて夢を見ていただけなのだ
そのような蜃気楼から救われなさい
そのように真我を実現した者は救いを説明する あさんが気を悪くしたのか?
居なくなったからね
このスレは僕が責任を持って真実の自己を説明しないといけなくなった
無理やり後継者をやるしかないな それらをパクリでない
自分の感性で真我を説明しなさい
キツいお題をあさんにかした
それもどうにか説明しなければ
まあ暇あれば 結局、仏教のお悟りの境地
キリスト教の聖霊体験
不二一元の真我
誰に聞いても知らないという
仲間だと思っているのに仲間でも無い
期待してたのに
1人でやらないといけない
サイのごとく 釈尊って、睡眠には厳しくて、眠り過ぎるなって言っていますね。
惰眠はダメだって。 私は外に寝起きする修行者の生き方を参考にはしないな、私は屋根の下で暮らしてるから、理想とするものを再現するようなやり方ではなく、私が満足するやり方がいいな あさんとは掘り下げて話してみたかったけどね
少し精神状態が良くないのかな
そんな感じはした
しかしながら鋭さはあるから、あれだけ詳しいのだろう
宗教板で見たことない
異常なくらい詳しいと思うね
病的だから、特殊な才能があるのかもしれない
ただ人を避けるとこはあるように感じたね 深い眠りの間も世界に気付いているのが真我になる
それは体験でしか理解できない
本の知識ではどれだけ詳しくても不可能
だから、あさんはそれを知ってるかどうかがこの道を行く上で重要になるだろう
グルは本の知識だけじゃ無いからね 僕は知ってるから
こうやってアドバイスできる
逆にあさんからもアドバイスされたかったよ
僕にも欠点は多くあるから
強烈な二元に苦しむのはだれでもだよ
世俗人だからね 僕はイエスの姿を見たことがある
その体験は強烈で聖書から入ったから
凄く理解するのに時間をようした
それは、おそらく二元を断ち切るのはそれくらい困難
イエスと自分に創造主、別々に感じるなら未熟者だと僕に教えたかったのかもしれない
意識の源では一つであるにも関わらず キリスト教のドグマは父と子と聖霊
それが別々に感じるなら悟っていない
それを僕に教えたかったのだろうか?
まあ、無理も無いイエスの弟子たちでさえ
そこまでの真理を悟るのは不可能だったのだ こんな事語る神父なんか居ないもんね
実に自分が特別な事言っているかということ 聖霊が来たり去ったりする訳が無い
ラマナマハルシいわく
それでは永遠では無いという
聖霊とは意識の源なんだよな
クリスチャンはそれを理解していない 聖霊ってアートマンのことを言ってるんだよね
それくらいの事も理解できない初心者しかいない
釈迦が創造主を認めなかったとかさ
残念でならない パーリー仏経典では、第四禅定の次に意識で身体(肉体身体の写し)を作って、神通力を行使するのってなっています。
ヨーガだと、第九の滅尽定の前に、真我の【独在位】という境地を言っています。
要は、【認識主体】のみとなった境地です。
これは、【個の識】の究極の解脱状態です、【認識主体】以外が全て落ちた境地。
映っていた全てが消えてしまった状態。
この状態にある一定時間ある行者の識の、【個性】は破れます。
個人性を保っていたプルシャ(純粋意識)は個人性が破れて、より広大なプルシャとなります。
風船が破れて、なかの気体が空間へ解き放たれ解放されるようなイメージでしょうか。
アートマンから→ブラフマンへ、みたいなイメージ。 釈迦は上の世界に住む神々たちが説得しに現れたという
イエスも同様ですよ
これらは大昔の伝説では無い、事実の話ですよ
僕は散々に見てきましたから
じゃないと自分が悟っただとか、全ての霊的な知識
それらを判断する材料が無い、全てが思い込みの妄想ですら有り得る
そうならないのは上の世界の存在にアドバイスされたからですよ 悟りには段階があるのは確かになります
でも寝てるだけとか、ドラッグで意識が飛んだとか
その判断材料が思い込みでしか無い可能性もおおいに有り得る
そうでないのが聖書なら預言者は試されることに尽きます
奇跡は証ですからね、カトリックの奇跡認定とかは確かに客観的に観て重要な判断材料の一つになりますね だから、あさんに聞いた時に悟りとは?真我とは?
理想の答えは本だけの知識だけでは無い
グルは自己の中にも外界にも存在する
それらからアドバイスを頂ける
それが答えになると思うんですけどね
判断材料が自己判断だけなら独り善がりになりがちになると思います 何故にあさん居なくなるのかな?
客観的な視点は居るだろうと
1人語りで悟ってるとか意味あるのかな?
それだけ詳しくてむしろ惜しい
そういうの逃げないで欲しかったね
せっかく仲間に会えたと思ったのに ですね、
一人が好きなんでしょ、
自分だけの独り言の世界。 そうでしょ?逃げないで
やりあえばいいんだよ
匿名で逃げる意味がわからない
ましてや僕は悟っている
貴重な話し相手だよ あさん居なくなるのが意味わからない
ホント意味わからん
変な人ばかりだ ブラフマンて
改めて何なのだろうか?
人知を遥かに超えてるから訳わからない
サイババいわく宇宙より大きく原子より小さい
シャンカラはあらゆる場所に広がる認識主体みたいな表現していた 岩波文庫にあるウパデシャーサハスリーは凄いんだよ
悟った覚者がお悟りの境地を説明している
世の中の人はそれをただの思想の1つであると勘違いあいている
大きな勘違いだ
神が地上に降臨して真理を説いているのに気付かない 全てはブラフマンであると毎日念じて生きれば心が清まるらしい クリスチャンも仏教徒も新興宗教も世界中には何億人も居て本当の真理というのを理解できないんだからさ
見た目は悟ってるふうを装うけど
理解できてないのは明らかなんだよな
僕は非常に稀有にそれに気付いている
これが聖書書いてある選別だと思っている インドで修行している人は日本みたいにネットで調べるとかやらない
霊感のみで真理を知りあんな苦行をしてるんだろうね
何回も生まれ変わるとか霊感でわかるんだろうな イエスも若い頃インドで修行したとか
生き返った後もインドに向かったとか
クリスチャンは霊感でわからないのか 天に富を積みなさいとはブラフマンのこと言っている
永遠なる不死の境地だよ ラマナマハルシいわく
他人を悟ってないだとか
真理を知らないだとか差別しないという
等しくブラフマンしか無いらしい
自他なく等しくみるとか
カルマが燃え尽きるだけで生きてただけで
未知の境地ではある 1人でいるときは思考も感情も無かったらしいね
でも映像を見てたら牛と楽しそうにしたり
まったくそうは見えないんだよな ラマナマハルシは足が悪かったみたいだけど
あれも凄く痛かったらしいね
屈強な精神力で笑顔だっただけで 17歳からの3年間の座りっぱなしが、膝を痛めたのかも? イエスは復活したんだからさ
サイババもそうだけど、それは釈迦も
怪我くらい簡単に治せてもおかしくない
誰かのカルマを代わりに償ったとか言われているけど
まんざら外れてない気もするね
見本として、そんな健康体なら特別扱いされてるとか依怙贔屓にもなるもんね しかしながらサイババのイエスを語る
聖書は神の霊感で書かれているとされているけど
クリスチャンは何十億も居て神がままを説明してるのに誰もわからないもんなんだな
それくらい真我を知る者は世の中少ないのか めっちゃ少ないなと思います
サイババが神とも見抜けない
その言葉でイエスを説明しても理解できない
悲しい限りですよ
何10億も居るんだからさ
盲目しか居ない 怪我なんか平気で治りますよ
僕はそれを信じるだけの色んな奇跡を見てきたのだから
しかしながら何らかの理由があってラマナマハルシさんはそれを望まなかったんだろうね
それはサイババもだけどさ まあ、肉体の痛みより真我の至福のほうが圧倒的に上回ってるとラマナマハルシは語ってたから
それが最高の奇跡なのかもしれないね マジで人間の姿をしてるだけで人間じゃないからね
この宇宙の創造主と等しい存在
だから銀河系の惑星軌道変えれば地球温暖化も止められる
そんなのしなくても二酸化炭素を減らして酸素を増やせばいいだけ
何でもできるんだよ
僕はそれを信じられるだけの奇跡を散々に見てきた だから戦争で原爆が落ちたり
飛行機が落ちて何百人も死んだり
震災もそうだし、そういった事柄を見ると
神は不在に見えますよね
サイババも周囲で殺人事件があったらしいし
僕はそれを聞くと不思議でならない
何故なんだろうなって
人間の思惑を超えた何らかの意思があるのだろう 逆いうと何でもできるんだから
不幸が不幸と限らないし
幸福が幸福と断言はできないよね
今は人間でも来世は動物で
現在は犬のほうが来世は人間で上かもしれないし
なにもわからない、断言はできない 僕は思うんだけど
仮に原爆が不発で爆発しなかったなら
飛行機が落ちないなら
誰もほぼ気付かない
何も起こらない奇跡なんてごまんとあるんだろうなって
アメリカの原爆が不発なら戦後に落としてないとか言い張りそうだし
そんな場合は何の話題にもならんよね まあ、とにかく真我は真我以外では理解できないから
思考や感情でいくらやっても無駄だから
意味が無い考察をしている
我ながら あさんはサイババはあまり好きじゃなかったんだね
サイババは初心者を含める多数にメッセージを送ってたから
ラマナ・マハルシみたいに専門的っていうのかな
そのような話題はあまり無かったかもしれない
でも僕は人がそれらを理解できる程に熟成してない
そんなレベルでは全然に無い
それをサイババは言いたかったと思っている あさんの理解したいことは実力がまるで追いついていない
ヨガの究極を理解したいように思える
それは段階を踏んだほうがいいんじゃないのかな
インドで路上で修行してる人も
人は何回も何回も生まれ変わる
1回の人生で何が理解できようか?と感想していた
シャンカラもラマナ・マハルシもインドでは伝説だからね ラマナ・マハルシも前世で散々にそのような宗教的な議論をやってきて
今の人生では懲り懲りと感想していた
それであれだけ説明が理屈ぽいんだなあと
野球でも名選手が名コーチになるのは別だからね
野球ファンが理屈ぽい
それで野球が本当に上手いかどうかは別だからね これはキリスト教の問題でもあるな
そういうの散々に見てきた
結局は時間しか解決しない 僕の経験から真我を知るまで達しないと
あの世からスカウトされない
相手にされないと相対材料が無いから自分で判断するしか無くなる
だからどれだけの知識を得てもそれが本当そうなのか?想像でしかない
自らの蜃気楼と戦わないとならない 野球に例えるなら出来ているのか?どうか
何もわからない、プロで通じるのかもしれないし
まるで草野球かもしれない
自分が王様で勝手に判断するしかない
それくらい真我を知らないと創造主から相手にされない 知識だけなら大谷より話せる野球のプロなんか履いて捨てるくらい居るって話だよ
実際に野球が上手いかどうかは別だ イエスは超能力があった
釈迦は神通力があった
それがないと判断材料として自分で判断するしかない
魔境に落ちるって話だ 和紙さんの見てきた奇跡って何だろうか?
興味あるなー それは聖書に書いてある奇跡ままだよ
創造主に見いられるとはそうだ
死んだ人間が生き返るは見たこと無いけど
水上歩行に水がワインに変わるとかそういう感じの色々だね だからね
墜落する飛行機が落ちないなら誰も気付かないからね
僕も気付かないかもしれない
奇跡とは悟るもそうだけど
相対する判断材料あって初めて成立する だから
あさんともっと話したいなあと思ったわけだ
何を持って、ラマナマハルシの究極の悟りをあさんは理解出来た判断したのか?
野球の知識はあるけど、大谷さんくらい打てて投げれる訳じゃないのに
そこに首を傾げるって訳だ イエスも天然ですからね
天然もいい
理屈じゃない
説明下手だけど野球は上手いみたいな
真我にあればそれも理解できる
そういう のが
あさんから聞きたい 理屈ぽくないけど
出来る、出来ないは別ですからね
そんなの生きてたらいくらでもある
説明できないから
というのは僕は違うなあって 野球が出来てるならプロなんだよ
まるで話せなくてもね
それは宗教も変わらない
よくわからないけどはやいボール取れてるなら
確かに技術はあるという訳だ 何を根拠にそこまで
あさんは上からになれるのか?それは知りたい
何をもってラマナマハルシの究極の悟りを自分は理解できたと思ったのか?
そういうのは宗教では危険だからね
まるで相手にしないとか感じ悪すぎる 何をどうやったらラマナマハルシと同様のポジションまで自分は悟っているとか自己を上げれる のか?
その根拠が聞きたいよね
しかも話になっていないから相手にしないとか感じ悪すぎる それならキャッチボールやろう
それをあっさり逃げるんだからね えー!
水の上歩いたことあるんですかー!
驚きですね‼
私は廊下を浮いて歩いたことはあるけど、水の上は無いなあ、
水の上って言うと、油井真砂禅尼が有名ですね、海に投げ出されたら、海上で座禅の姿勢で浮いたり、池の上を歩いたりしたそうですよ、
神通力は凄かったようです。 奇跡なんか、真我には遠く及ばないですよ
真我に無い宗教なんか、多くのクリスチャンや仏教徒がそうであるように
ただ雑談してるだけですよ
それはあさんとかも同じだと思う
知識あるだけ、テレビ観てるのと変わらない
真我を実現しないとただの世俗人なんですよね
大きくグループ分けして我々は刑務所の同じ罪人です
その中でくだらないランク分けを勝手にやってるだけ 生きている目的は真我の実現ですよ
そこまで行き着かないと猿と変わらない
輪廻から自由になれない
真我は真我でしか理解できない
思考や感情や本の知識では実現できない よって釈迦が説いたように
自己を灯火としてのように
孤独な戦いが続きますよ インドでもせっかく見に付けた知識で学者になってドヤる
一生それで終わる人もかなり居るらしい
ラマナマハルシもそういうの散々で懲りたとか
宗教は毒にも薬にもなるんだなあって
僕はそこから入ってないからそこは良かったです サイババがいうには痛いのに痛くないと言い張るみたいな
真我を実現していないのに実現したと言い張るのは
そのような変な事やってるらしいです
正に猿ですよね、大の大人が馬鹿な事やってますよ マジでそんな人ばかりです
だから匿名のこの場は最適ですよね
真我を知る者は世の中如何に少ないか
よくわかりますよ 真我を実現してないのに
インドの伝説ラマナマハルシレベルに本の知識だけでそこまでの悟りを理解した
僕から見て変な事やってるなあって感じますよね 生まれ変わるというのが途方も無い神秘ですよ
僕は前世を少しだけ思いだしましたけど人間だったみたいだ
釈迦は前世の記憶を完全に思いだしたとか
真我の実現とはそのような話になります 真我の実現って本当に凄いなと思う
自分で言ってて改めてみて
その時に初めてシャンカラの言葉が理解できる
身体が無いんです 身体が無いというのはマジで凄いですよ
凄いことをシャンカラは話してるんです
それが理解できる者がそれから1000年以上経っても殆ど居ないという
さすが不二一元論の聖者です そりゃそうと馬さんは何処かの宗教団体に属してるのですか?
あさんもどうだったんだろうね
僕はこれからも1人でやると思う
他人に関わると変な競いあいになるからね
宗教の場合は新興宗教の変な事件もあるし
方向性が浮世離れしてるというか危険ですよね
こんな島国にインドの伝説レベルが居ると思えないし というか真我知ると
創造主からブラフマンからスカウトされますからね
それが真の宗教になります
イエスはそれを神の国と言ったんだと思います
真我こそ神の国の住人になることですよ この大宇宙の創造主から目を付けられるんですから
そりゃ半端ないですよ
僕もとんでもない世界に足を踏み入れたなって シャンカラって、。やっぱ凄いなって思う
つくづくよく考えてみたら 何が凄いかって
悟りを開いて理屈ぽいというのが初なんだよね
イエスみたいに天然じゃないんだよね 真我は真我でしか理解できない
仮に理解できるなら悟った経験があるはず
あさんは悟った経験あったのだろうか? 903 和紙 sage 2023/09/11(月) 10:57:16.67 ID:zI24ncN5
この大宇宙の創造主から目を付けられるんですから
そりゃ半端ないですよ
僕もとんでもない世界に足を踏み入れたなって
目を付けられるって、具体的にどんなことが、現実に起こったりするんですか? >>907
聖書を読んだ事が無いですか?
イエスの周りで起こった様々な奇跡
あそこまで凄くないけど
ああいった話です 悟った経験ないと理解できない話をシャンカラもラマナマハルシもしている
身体が無いから、とか、夢の中でも世界に気付いているとか
仮にそれらが理解できるなら悟った経験あるよ
スクリーンの映像のように映画の風景が流れているだけとか
あさんはそれらを理解してたのかな?
こればかりは真我は真我でしか理解できないようになってる 「一切に偏在し、一切万有であり、一切の存在物の心臓のうちに宿り、一切の認識の対象を超越している、この一切を知る純粋精神(=アートマン)に敬礼する」
シャンカラ語録だけど、これが理解できるなら悟った経験あるね
本当に理解しているならだけどさ ラマナマハルシを同じ穴の狢みたいな言い方していて
あさんは悟りを知らないと思いましたけど
仮にそのような詐欺師みたいに思っていたのだとしたら
何故にそこまで詳しくなって理論武装したかったのだろうか?
不思議で仕方ない
何か宗教に対してトラウマでもあるのだろうか やっぱシャンカラは凄いな
只者じゃないね
これが1000年以上前の語録だからさ サイババ信者でサイババ写真からアムリタって蜜が流れ出てきたり、灰が現れたり
あれは熱心な信者なんだろうね
日本にも居るのかな?今でもサイババ信者って居るにかな
一時期ブームになった時あるけど、オーム事件やらなんやらで下火になった
リアルでサイババ信者に会った事ないな
というかリアルで不二一元論に興味ある人に会ったこと無いけどさ
それくらい少ない >>908
ですから、実体験のそれを聞いて見たいのに。
聖書の奇跡は古いですよ、やはり、現代の奇跡‼和紙さんのような方の奇跡の話じゃないと。
リアリティーがあるじゃないですか。 だから>>910これだって
これが理解できるなら
生きていて人生の体験として
ここまで理解できるなら奇跡なんか普通に現れる 自分で見ないと信じれないでしょ?
聖書と僕の話で何が違うのか?
サイババとかもそうだけど
見ないと手品で終わる 本物の人間の姿をした神を犯罪者呼ばわりしたり
手品師としか見えない
残念ながら世俗人にはそう見える
本物の奇跡というのはそういったことだ
奇跡というのは完璧に行われる
墜落する飛行機が墜落しないなら誰も気付かない 本物の人間の姿をした神が現代でも現れる
インドって凄い国ですよね
神に愛されてるんだから
今後は世界の頂点に立つでしょう
サイババもラマナ・マハルシも半端無いですよね
ラーマクリシュナも >>915
シャンカラ語録はシャンカラのものなので、
和紙語録が見たいのに! 僕の言葉で書くとするなら
世界は生命であり意識であり生きている
月並みな事しか言えません
パクリみたいな事しか思いつかない
ただしサイババやラマナマハルシをそこで持ってくるのは僕のオリジナルとも言えます
僕が選んでる訳ですから 私は話そうとする時に、誰かの言葉を使ってしまうことはとても嫌いなので、まったく間違っているとわかっていても私の言葉を使いたがるな サイババ堂々と人前で金の腕時計とか取り出して奇跡を見せていた
何故かセイコー製
でもセイコーの企業の人は知ってるだろう
こんな製品を外注されたことは無いことに
そこで問題にならないからセイコーなのかもしれない
正に神の奇跡です
僕はサイババに会ったことは無いです 仏教もキリスト教も自分の言葉で話したから生まれた訳で
でも釈迦いわく真理は一つしかない
難しい部分ですよね キリスト教では種を撒いて毒麦と良麦を選別して狩るという
僕の実感では毒麦比率のほうが高いですね 神の国はあそこにあるとかここにあるとも言えない
我々の只中にあるのだ
それは真我のことだと思います やっぱ僕にはこの道しかないなあ
身体が無いとか最高じゃないか?
老いも病まいも無い
永遠の不死の境地
釈迦みたいに3界を行き来できるというのは意味がわからないけど
そこまで悟って無いからね
身体が無い、輪廻しない、永遠の意識
ラマナマハルシも不滅の意識と真我を表現している シャンカラも凄い
ラマナマハルシも
サイババも
こんな聖者が現代でも現れるインドって凄いよな
半端じゃないよ 半端じゃない、マジで
何億人居て
人間の姿をした神に気付いてないのか? セイコー製の腕時計
それを見て手品だと安心させるフェイク
僕は見抜いてますよ
サイババさん 何故にそんな事をやるのか?
試す為にですよ
信仰をイエスのように試しているのです 安い馬鹿みたいな手品だと普通は思いますよね
僕は騙されませんよ
本物の奇跡ですよ 偉大 なる神の奇跡は人知が及ばない事をやります
スパコンでも解読不能です 客体と主体があるなら単純に悟ってないよね
グルは自己の中にもあるんだから シャンカラもラマナマハルシも凄いんだよね
お悟りの境地では自我が無いから思考は観察は存在できない
にも関わらず理屈っぽいというのが
おそらく、こちら側に戻ってきたというか、世俗人にわかりやすいように
あえて自我を作ってこちらに近づけて説明したというのが
正にヨガの達人ですよ
限界まで理屈でわかりやすいように説明しようとしている グルは本だけじゃないからね
自己の中のアートマンにも存在するし
ブラフマンもそうだ
主体と客体がある間は完全には悟りを開いていない 僕もはやく真実の自己が永遠の自己であると
蜃気楼から抜け出したい
客体と主体の二元から救われたいよ 救われたいってその思いが元となって際限なく分裂していくのよ
無いでしょって、普段はさ 思いはポット出てはスーッと消える
それと同じでこの体は見える、聞こえる、味わえる、香る、感じる
その時その時この体はいろんな働きをする
そのなかの意という働きを自分と思ってしまった事が原因で自分という幻が出来ちゃった訳でございますよ
誰も皆元から救われてまんがな 936 和紙 sage 2023/09/15(金) 03:10:58.90 ID:Bs/Fa/r0
僕もはやく真実の自己が永遠の自己であると
蜃気楼から抜け出したい
客体と主体の二元から救われたいよ
えっ👀⁉
真我になって、悟ったんじゃないのですか⁉ >>124
あさんがここに書いてある事は本当の話ですよ
悟りには段階がある
僕はそこまで悟っていない あさんはしかしながら悟った経験は無いように思われる
ラマナマハルシも本の知識だけでは不十分であると語っていたと思う
グルは本の知識だけでは無い
不二一元なんだから、むしろそこから真我からの情報のほうが遥かに重要だろう
とはいえ、ここまで詳しい逸材に人生で初めて会ったから居なくなったのは残念だ >>937
結局
二元に在る
客体と主体の二元がある
それが救われない根本でしょう 和紙さん
いつも分裂している訳じゃないのよ
思いが生じると自他が生じ、思いの生じていない時には別け隔てのない一如で暮らしている
それが普段の私達の有り様なのよ
その「救われない根本」って和紙さんの考えも思いでしょ? >>943
そもそも貴方は真我を理解しているのか?
意識の源である >>940
和紙 sage 2023/09/16(土) 00:48:31.43 ID:CWnse8Ga
>>124
あさんがここに書いてある事は本当の話ですよ
悟りには段階がある
僕はそこまで悟っていない
それ私が書いたものだな。 >>941
確かに、あ さんの理解は、ほぼ完璧でしたね。
たぶん、その内に、聖典を読んでいる内に、真我が心を止滅させるでしょう。
突如覚るよ、あ さんは、たぶん。 >>945
そうなんですか?悟りには段階があります
ラーマクリシュナですら完全には悟りを開いていない
完全に自我が消え失せたのがラマナマハルシになります
僕なんか全然ですよ >>946
あさんは本の知識と自己の理解
二元が存在する
悟った経験は無いと思いました
グルは本の知識だけじゃ無いからね >>944
理解なんぞできるものじゃない
この法は不思議=思議にあずからずって
簡単に言えば思考の範囲外
思考の範囲外だから何人もこれを示すことも伝えることも出来るものじゃないってことです >>949
そうです
人間の能力を大きく大きく超えてるんです
だから最低限に人間でも出来ることを教えてるのが宗教になります だから真我なんです
一つなんだから意識が
痛みを理解するのにも入ってくるって訳です
自他ないってのはそうです 元備わっているものを露わにするだけ
そうではなく何かを得て今までとは全く違う何者かになるってのとは訳が違うんです 痛みは理解するしないに関わらず痛いんですよ
自他のない様子ってのは様々に理解する以前の様子のこと 真我は真我でしか理解できない
水滴が大海に落ちたら
初めて大海になれる
大海になった時に初めて理解できる 487 認識ってな~に?! 2023/09/18(月) 20:07:12.06 ID:ZUlI4
31分頃から産まれる前後の話。
眠りに落ちる辺りの脳波はΘ波、
シータ波になると、顕在意識と潜在意識の接続が切れるって言っている。
妊娠後期~誕生して7才頃までの幼児の脳は、Θ波で動いているらしい。
この間に、脳の基本プログラムは出来上がって、その後の一生を、潜在意識が人生を動かすようだ。
昔の中国、朝鮮は、3歳頃から、
【千字文】とか、【小学】などの本で子供に教育をほどこすようですね、
この教育が知能を飛躍的に向上させる、3歳から6歳までに、漢字を2500文字憶えると、高確率でIQ120前後までいくって、石井式漢字教育では言っているね。
最近知ったのが、ブロック遊びは更に知能を140前後まで上げるってこと。
【ちゃんかわい】ってタレントがいるけど、彼の子供が、幼少からブロック遊びに没頭してたら、IQ140になったらしい!
● もう、幼稚園、保育園も義務教育にして、≪日本人総メンサ会員!≫にさせたらいいよなー‼
そうしたら、日本は世界を取れる‼
まあ、今でも日本凄い‼だけどね。
それも、漢字のお陰様だと思うよ、
おれの幼少期は、平仮名の日本昔話だもんなー😭
カチカチ山、桃太郎、金太郎、浦島太郎、安寿と厨子王、シンデレラ、猿かに合戦、兎と亀、親指姫、
これ、全部憶えている‼
これが、最低【千字文】か何かで教育してくれてたら、IQ115くらいあったかも知れないのになー
残念ながら記憶力も良くないし。
唯一孫悟空が想像力を養ってくれた!
これで、お釈迦様は、孫悟空が宇宙の果て迄行っても、そこに居られるってところで、
何かの仏教的種子が潜在意識へ落とされたように思える。 不眠症やいつも眠りが浅く頭がスッキリしない体がダルい
アルコールや薬がないとリラックスできないなど、文明が発達すると同時にデメリットも生まれてきました。
リラックスできない、まさにこれが急速な文明発達の負の遺産と言えます。
ヒーリング系もしくはドローンアンビエントなどの音楽が、これらに有効です。
自然の波音も入っているので、さまざまな周波数の恩恵をえることができます。
速ければ1日〜7日実感できると思います。自分の場合は、1ヵ月ぐらいたって前とは違うリラックス効果を感じ
なんとなくボンヤリとしたアイデアが浮かんだり、イライラしても長引かず切り替えができるといった感じです。
無理して瞑想やヨガなどをしなくても、ただボンヤリと聴くだけで
それらと同じような効果が得られるというのは最大の利点ではないでしょうか。
神経過敏でイライラしやすい人、なんらかの依存症にも少なからず効果が期待できます。
試してみてはどうでしょうか。//youtu.be/e1IPKVrDUoM 眠れないのは顕在意識の過度な活性が原因でしょうね。
思考・妄想が暗に妄動している常態が続くってことだから。
脳波が強いβ波を出しっぱでα波やΘ波にならない。 ヒットラーみたいな悪魔すらもラマナ・マハルシは自他ないのだろうか? その時代イギリスの植民地なんじゃないの?そんな社会のこととは関係なくアルナチャラに家出する16歳なわけだよね 仮にヒットラーと会っても自他ない一元しかないなら
我々の価値観と大きく逸脱している
善悪の感情すらまるで無いんだな
輪廻でいずれは変化するからって感じなんだろうか
凄い世界だ 私は16歳で望んで家出して帰らない生き方をするほど惹かれるものに出くわしたことは無いな 前世の問題ですね。
悟る手前で前世を去った場合、若くして悟りに自然に入っていくようです。
OSHOもそうらしいです。 僕はラマナマハルシをめちゃくちゃ尊敬している
近年の聖者では
もちろん1番はイエスキリストだけど
なにしろイエスの神々しい姿を見たからね
使徒のパウロみたいに
しかしサイババとイエスの本を重ねてたら
眩しい光を放って死にかけた経験もある
だからサイババも尊敬している
皆さんは人間の姿をした神様です 死にかけた時は病気だったんですよね
眩しく光った
この世の光では無く
非常に眩しいんだけど熱さは無い 結局
それ個人の運命を決めるのはブラフマンな気がする
すなわち神様ね
全て神頼み なんか説明が悪かったね
僕はやってはいけない事をやって天罰が落ちたんだ
その時に不思議な事が身の回りで起きて
当時に話題になってたサイババの本と有名なキリスト教の本を買った
当時はまだ神を信じてなかった
天罰で死にかけた
その時の話さ サイババを特集したテレビをやってて
熱心な信者の祭ってるサイババ写真からアムリタっていう蜜が流れてるのを観てそれが印象に残ったんだ 悟った人って世界中見てもマジで稀有みたいだからね
僕の話が信じられないのも仕方ない
聖書に書いてある天国の門は非常に狭いはガチだと思います
だって居ないもの ハッキリ見えてるなら僕の話が理解できるはず
盲目なら見えてないから
それが嘘か本当か?わからない
そんな長い話はいらない
見えてるか?見えてないかしかない これは単純にラマナマハルシの説く
真我に在りなさい
それだけに尽きる
見えてないならまるでわからない
見えてるならそれだけで理解できる 悟りの境地知らないと迷いしかない
いや、知っていてもだ
この板の色んな書き込みを見ているとわかる
まさに煩悩しかない 14 神モーゼに言ひたまひけるは、
≪我は、在りて在る者なり!!≫
また言ひたまひけるは汝かくイスラエルの子孫に言ふべし。
≪我在り!!≫といふ者、我を汝らに遣はしたまふと。
ラーマナ・マハリシ
【 I AM 】【私在り!!】
これは真我であり、これは神である。 結局、ラマナマハルシの真我に在りなさい
それしか無いんだよね
他に言葉が無い 真我とは真実の自己のことだ
これはシャンカラが詳しく説明している
身体が無いんだ
身体が無いから老いも病も無い
身体に属する輪廻もしない 素晴らしい至福に満ちた不二の境地は悟らない限りは体験できない
本当の自分は神なのだ
水滴が大海に混じると大海そのものになる
その時にアートマンとブラフマンは等しいと理解できる
もう生まれ変わりの苦しみから解放される
その為に生きてるんだ、僕たちは
それが進化の頂点らしいよ
我々は前世に植物や鉱物まで無機質な物質も経験して輪廻してきたらしい
だからもう終わりは近いと思われる 我々が
世の中の世俗人が真実だと思い込んでいる世界
僕はこんな常識は真実でも何でもないと思っている
みんな夢を見ているんだよね みんな夢を見ている
目覚めない二元の夢を
それの繰り返し
毎日、毎日 ラーマナ・マハリシ
人は真っ直ぐに【見る者】を見ることによって、
真我を実現しなければならないのです。 宗教やってる人のほぼ全員は思い込みの二元の蜃気楼だと思ってるからね
真の絶対実在は一元しかない
その真理を知らない世の中のほぼは終わりの無い夢を見ていると僕は思ってるよ
クリスチャンをやっている、仏教徒をやっている
そんな終わりの無い夢を見ているだけ
ただの雑談を真理だと思い込み役者のように演じている
この僕の書き込みもその夢の1つでしかない 最近また
身の周りで不思議な事があるんだ
動いてないものが動いてたり
一時期はひどかったからね
寝てて身体が浮いて移動してたこともある
寝てる姿勢はうつ伏せそのままで 周りにガラステーブルとかあって
マジで身体が浮いてふんわりと着地して移動したとしか思えない
見事な移動だったね
まあ何回もそういうの見てきている 奇跡というか
不思議な事って
何回も見てると見慣れるんだよな
もう何でもない日常になる
何が起こってもまたかとなる
ラマナマハルシいわく
映画のスクリーンのような過ぎ去る光景でしか無いのだろう
それを創造主グルは教えてくれてるとしか思えない 僕が世にも稀な最上だと思いたくないんだ
あさんは僕より知識もあり悟っている
それを見たかったね
僕なんか世の中に履いて捨てる程いる凡夫であると信じて生きてきたから
だからめちゃくちゃ違和感ある
神父とか修行僧とかもっと凄いと信じて生きてきたから
でも事実は受け入れないといけないのかもしれないな
くだらない新興宗教が流行るご時世だから サイババいわく
象は人間に勝てると思っていない
だから言う事を聴く
思い込みはそれだけ強い 僕がそんなに凄いとかまるで思ってないけど
創造主が認めてくれてるんだから
僕には何かがあるんだろう
まったく訳がわからない
人間に生まれる、家畜に生まれる
野良犬とか野良猫とか沢山見てきた
生まれで既に差が付いてる
意味がわからないけど
差が付いてるんだから差が付いてるんだ
結果は結果なんだよな 私は何かとの親しさによって、私とあなたという感覚を味わうのが好きなようだ、必ずその感覚でいようとしたがることに気づいたな ナチュラルスピリットの書籍って凄いよね
まるで僕に読んで欲しいような本ばかり
シルディサイババ、ラマナ・マハルシ 「自己探求へのいざない」
苦しみとはなんだろうか?
「あぁ、なんてこった!
何故私が、私だけが、こんな悲惨な目にあうのか?」
と嘆いている人が、居たとするなら
私は言うだろう…
「おめでとう!」と。
何故ならそれは本当のあなたからの
“善き知らせ”なのだ。
つまりこの手紙はあなたが
あなた宛てに書いたものだ。
そして受け取るのもあなただ!!
この意味を本当に理解した者は言うだろう…
「おめでとう!!オレ…」
と。
完
パチン⌒☆
https://youtu.be/db7VD6TVIQE?si=wJIo_tkSEI4iX4_a 「自己探求へのいざない」
苦しみとはなんだろうか?
「あぁ、なんてこった!
何故私が、私だけが、こんな悲惨な目にあうのか?」
と嘆いている人が、居たとするなら
私は言うだろう…
「おめでとう!」と。
何故ならそれは本当のあなたからの
“善き知らせ”なのだ。
つまりこの手紙はあなたが
あなた宛てに書いたものだ。
そして受け取るのもあなただ!!
この意味を本当に理解した者は言うだろう…
「おめでとう!!オレ…」
と。
完
パチン⌒☆
https://youtu.be/db7VD6TVIQE?si=wJIo_tkSEI4iX4_a 「自己探求へのいざない」
苦しみとはなんだろうか?
「あぁ、なんてこった!
何故私が、私だけが、こんな悲惨な目にあうのか?」
と嘆いている人が、居たとするなら
私は言うだろう…
「おめでとう!」と。
何故ならそれは本当のあなたからの
“善き知らせ”なのだ。
つまりこの手紙はあなたが
あなた宛てに書いたものだ。
そして受け取るのもあなただ!!
この意味を本当に理解した者は言うだろう…
「おめでとう!!オレ…」
と。
完
パチン⌒☆
https://youtu.be/db7VD6TVIQE?si=wJIo_tkSEI4iX4_a すまない。
間違って3通も送ってしまった。
これもまた
めでたい供物としなさい。
いいね?
ではまた⌒☆ シルディのサイババ
写真は数枚しか見てないけど
貫禄ありすぎる
同じ魂らしいけどサティァサイババと違いすぎるよな
あのヨガの達人のような座り方とか
髭面もそうだけど
頭に巻いてるタオルとかも
中身が同一人物ならそこまで身なりが違うのも首を傾げるけどさ 俺が生きている間にバラサイババかな?
もう一回現れるらしいけどさ
現れるのかな
仮に僕が90まで生きるなら会えるかもしれんね それでもシャンカラやラマナマハルシとサイババの言ってること違うよな
完全に悟りを開いたら二度と生まれ変わることは無いがアドヴァイタなんだからさ
幾ら神の化身とはいえ
言ってることが少し違うよね
事実にイエスも再臨は無いもんね
クリスチャンが待てども待てども2000年 サイババやイエスは初心者含む、世界中の色んな人が対象
釈迦やシャンカラやラマナマハルシは中級者、上級者向けに対する言葉って感じずる
そもそも議論する自体が初心者みたいなものらしいし
本当に救われたいなら、自己を制し、自分で進化するしかないんだ、みたいな気はした このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 47日 12時間 54分 2秒 5ちゃんねるの運営はUPLIFT会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《UPLIFT会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
4 USD/mon. から匿名でご購入いただけます。
▼ UPLIFT会員登録はこちら ▼
https://uplift.5ch.net/
▼ UPLIFTログインはこちら ▼
https://uplift.5ch.net/login レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。