仏教がわかりたい人のスレ vol.8
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意外とマトモな読書ひろき。
坐禅と読書。解脱(げだつ)した人生。
人生は楽をすることだけを考える。
ブッダの教え=仏教ではない。
仏教には人間社会への忖度(そんたく)が在る。よって、仏教は棄(す)てる。 ayaorigamiのHPにありました。
『マッジマ・ニカーヤ』(漢訳名『中阿含経』)は、釈迦が説いた言葉を最も近い形で残しているといわれる原始仏教聖典のひとつです。以下の詩は、そのなかの有名な一節で、「今を生きる」ことが説かれています。
マッジマ・ニカーヤ(中阿含経)131
過去を追うな
未来を願うな
過去はすでに捨てられた
そして未来はまだやってこないだから現在のことがらを
それがあるところにおいて観察し
揺らぐことなく動ずることなく
よく見きわめて実践せよ
ただ今日なすべきことを熱心になせ
誰か明日の死のあることを知らん。
これ☝って禅でないのか⁉ 意外とマトモな読書ひろき。
坐禅と読書。解脱(げだつ)した人生。
人生は楽をすることだけを考える。
欲を少なく、支出を少なくして、ひたすら貯金して生きていく。
ブッダの教え=仏教ではない。
仏教には人間社会への忖度(そんたく)が在る。よって、仏教は棄(す)てる。 意外とマトモな読書ひろき。
坐禅と読書。解脱(げだつ)した人生。
人生は楽をすることだけを考える。
独身を貫き、欲を少なく、支出を少なくして、ひたすら貯金して生きていく。
ブッダの教え=仏教ではない。
仏教には人間社会への忖度(そんたく)が在る。よって、仏教は棄(す)てる。 坐禅歴35年の鹿野園大禅師さまが
わたしらのことを『池沼www』『○ビをつれ!』『精神病院に行きなさい』
などと発狂してるんですよ!?
坐禅だけじゃダメだという生き証人なんですよ。 お経の1部だけでも功徳はありますが
それだけやればいいんだ!と執着すると凝り固まりになるわけですわ。
まさに木を見て森をみずになると。 >>220
だから、私は、坐禅と読書の両方をやっています。 確かに何年か前に元オウムを論破した事はあるかも知れませんけど、そんな取るに足らないネットでの日常茶飯事な出来事なんて、此方はいちいち気にしてませんけどね😧
なんだかよく分からないひとですね😚
もしかして、彼にとってはそれが致命的だったのか???
それでポタ公みたいに延々と誹謗中傷してるのか?
ポタ公は亡くなったみたいだけど。 ちょうど今もキリスト教スレでおかしなのが執拗に因縁を付けてきてるんですけどね😚
論破されるのは、そもそもその論がおかしいからであって論破した人の人格は関係ないというのが、どうも知的に障害をお持ちの方の様で、全く理解出来ないんです。 コンダンニャの法眼って・・・
これって本来は悟りらしいけど、その後ちょっとランク下げられたらしい。
でも少なくとも見性以上ではある。 おそらくはラピスのスレ乱立の件で、何人かの方が規制を喰らわれてしまった様ですが、今般また別件で運営や当該機関等へこの板の事を通報しました。
もし、この先規制等で書き込みが出来なくなる事があれば、その事との関連の可能性があるかもしれません。
あらかじめ連絡しておきますとともに、悪しからずご了承下さい。 意外とマトモな読書ひろき。
坐禅と読書。解脱(げだつ)した人生。
人生は楽をすることだけを考える。
独身を貫き、欲を少なく、支出を少なくして、ひたすら貯金して生きていく。
ブッダの教え=仏教ではない。
仏教には人間社会への忖度(そんたく)が在る。よって、仏教は棄(す)てる。 なすべきことをなすってのがポイントだね。
発狂・嘘・自作自演・自画自賛・自殺教唆などなど
なすべきことじゃないことをやっちゃ、仏教徒じゃありませんね。 まだ言ってる😚
それ相応の被害を与えた本人を非難しないで、被害者の言い返しを針小棒大に大袈裟に騙って誹謗中傷するのが元オウム。
キリスト教スレにも似た様な屑がいるけどね🤭 キリスト教スレでも同じ様な被害に遭われてる方が何人かいるんですけどね。
その実情を聞いて、そういう加害をする者には共通して何かしらの精神的畸形がある者である事が分かりました。 お釈迦さまは、解脱する前に古代インド哲学をひととおり全部、習得した
当時の代表的な思想家だった六師外道にもすべて弟子入りして学び、完全に自分のモノになっていた
初期仏教は、それらの要素をすべて取り入れた上で綜合された思想体系
あらゆる要素が入っている
その中から、自説に近い箇所だけを取り出してきて、「お釈迦さまの教えはこうだったのだ」と主張する向きが古来から後を絶たないが、そういう自分本位の姿勢は良くない
全体を全体的に見るべき 古代インド哲学は、すべて釈迦に流れ込み、釈迦から再び流れ出した プーラナ・カッサバにも弟子入りされたのかな?
プーラナ・カッサバの教えはかなりやばいと思いますが。 お釈迦様と真逆の教えを説いたのがプーラナ・カッサバ。
いくら悪を為しても、業にならないという思想。 無智の極みの宅間守が帰依しそうな教え。
そんな悪魔教みたいな教えのなかで、ブッダは教えを広められた。 六師外道の中で唯一、マハーヴィーラのジャイナ教だけは業論者。
あとはマフィア思想みたいなもんで、この世で好き勝手やりゃいいじゃんみたいな。 六師外道はプーラナ・カッサバしか知らなかったので調べたら
マハーヴィーラだけは、聖者ですね。
ただあまりにも、潔癖すぎて仏教みたいに広まらなかったんじゃなかろか。
丸出しでは世間体も悪いし。
それでも残ってるのは聖なる教え(アヒンサー)を実践しているからでしょう。 坐禅(ざぜん)、自我滅却(じがめっきゃく)。
最も手に負えないのは、自分自身である。
私は、目の前の物事に一喜一憂(いっきいちゆう)する事を繰り返す生活を繰り返す事に意味を見出(みい)だせなくなった。
本当の自由とは、坐禅(ざぜん)を通して、自我を滅却(めっきゃく)して無我に成ることによって、煩悩(ぼんのう)を全てまるごと皆無(かいむ)にして、自分自身に振り回されないようにする事である。それこそが、真の克己(こっき)である。そうすれば、一切の苦悩が無い円満で安楽な人生が手に入る。曹洞宗(そうとうしゅう)を開山(さいざん)された道元禅師(どうげんぜんじ)が仰(おっしゃ)った「放てば手に満てり」という御言葉(おことば)は正(まさ)に此(これ)を指しているのだろう。今改めて、坐禅修行に専念しようと決心した次第(しだい)である。 坐禅(ざぜん)、自我滅却(じがめっきゃく)。
最も手に負えないのは、自分自身である。
私は、目の前の物事に一喜一憂(いっきいちゆう)する事を繰り返す生活に意味を見出(みい)だせなくなった。
本当の自由とは、坐禅(ざぜん)を通して、自我を滅却(めっきゃく)して無我に成ることによって、煩悩(ぼんのう)を全てまるごと皆無(かいむ)にして、自分自身に振り回されないようにする事である。それこそが、真の克己(こっき)である。そうすれば、一切の苦悩が無い円満で安楽な人生が手に入る。曹洞宗(そうとうしゅう)を開山(さいざん)された道元禅師(どうげんぜんじ)が仰(おっしゃ)った「放てば手に満てり」という御言葉(おことば)は正(まさ)に此(これ)を指しているのだろう。今改めて、坐禅修行に専念しようと決心した次第(しだい)である。 坐禅(ざぜん)、自我滅却(じがめっきゃく)。
最も手に負えないのは、自分自身である。
私は、目の前の物事に一喜一憂(いっきいちゆう)する事を繰り返す生活に意味を見出(みい)だせなくなった。
本当の自由とは、坐禅(ざぜん)を通して、自我を滅却(めっきゃく)して無我に成ることによって、煩悩(ぼんのう)を全てまるごと皆無(かいむ)にして、自分自身に翻弄(ほんろう)されないようにする事である。それこそが、真の克己(こっき)である。そうすれば、一切の苦悩が無い円満で安楽な人生が手に入る。曹洞宗(そうとうしゅう)を開山(さいざん)された道元禅師(どうげんぜんじ)が仰(おっしゃ)った「放てば手に満てり」という御言葉(おことば)は正(まさ)に此(これ)を指しているのだろう。今改めて、坐禅修行に専念しようと決心した次第(しだい)である。 広く広まりゃ真理ってんならキリストやろ
改宗したら?
わら 坐禅(ざぜん)、自我滅却(じがめっきゃく)。
最も手に負えないのは、自分自身である。
私は、目の前の物事に一喜一憂(いっきいちゆう)する事を繰り返す生活に意味を見出(みい)だせなくなった。
本当の自由とは、坐禅(ざぜん)を通して、自我を滅却(めっきゃく)して無我に成ることによって、煩悩(ぼんのう)を全てまるごと皆無(かいむ)にして、自分自身に翻弄(ほんろう)されないようにする事である。それこそが、真の克己(こっき)である。そうすれば、一切の苦悩が無い円満で安楽な人生が手に入る。曹洞宗(そうとうしゅう)を開山(かいざん)された道元禅師(どうげんぜんじ)が仰(おっしゃ)った「放てば手に満てり」という御言葉(おことば)は正(まさ)に此(これ)を指しているのだろう。今改めて、坐禅修行に専念しようと決心した次第(しだい)である。 ボクは鹿野園(ろくやおん)さんと考え方は近いけれど趣(おもむき)が異なります。ボクは謙虚(けんきょ)なんです。
鹿野園さんは、確固たる自己を見出だして確立する臨済宗(りんざいしゅう)に傾倒(けいとう)しています。
ボクは、自我を滅却して無我に成る曹洞宗(そうとうしゅう)に傾倒(けいとう)しています。
坐禅(ざぜん)、自我滅却(じがめっきゃく)。
最も手に負えないのは、自分自身である。
私は、目の前の物事に一喜一憂(いっきいちゆう)する事を繰り返す生活に意味を見出(みい)だせなくなった。
本当の自由とは、坐禅(ざぜん)を通して、自我を滅却(めっきゃく)して無我に成ることによって、煩悩(ぼんのう)を全てまるごと皆無(かいむ)にして、自分自身に翻弄(ほんろう)されないようにする事である。それこそが、真の克己(こっき)である。そうすれば、一切の苦悩が無い円満で安楽な人生が手に入る。曹洞宗(そうとうしゅう)を開山(かいざん)された道元禅師(どうげんぜんじ)が仰(おっしゃ)った「放てば手に満てり」という御言葉(おことば)は正(まさ)に此(これ)を指しているのだろう。今改めて、坐禅修行に専念しようと決心した次第(しだい)である。 ボクは鹿野園(ろくやおん)さんと考え方は近いけれど趣(おもむき)が異なります。ボクは謙虚(けんきょ)なんです。
鹿野園さんは、確固たる自己を見出だして確立する臨済宗(りんざいしゅう)に傾倒(けいとう)しています。
ボクは、自我を滅却して無我に成る曹洞宗(そうとうしゅう)に傾倒(けいとう)しています。ボクは皆さんが大好きです😊
坐禅(ざぜん)、自我滅却(じがめっきゃく)。
最も手に負えないのは、自分自身である。
私は、目の前の物事に一喜一憂(いっきいちゆう)する事を繰り返す生活に意味を見出(みい)だせなくなった。
本当の自由とは、坐禅(ざぜん)を通して、自我を滅却(めっきゃく)して無我に成ることによって、煩悩(ぼんのう)を全てまるごと皆無(かいむ)にして、自分自身に翻弄(ほんろう)されないようにする事である。それこそが、真の克己(こっき)である。そうすれば、一切の苦悩が無い円満で安楽な人生が手に入る。曹洞宗(そうとうしゅう)を開山(かいざん)された道元禅師(どうげんぜんじ)が仰(おっしゃ)った「放てば手に満てり」という御言葉(おことば)は正(まさ)に此(これ)を指しているのだろう。今改めて、坐禅修行に専念しようと決心した次第(しだい)である。 ボクは鹿野園(ろくやおん)さんと考え方は近いけれど趣(おもむき)が異なります。ボクは謙虚(けんきょ)なんです。
鹿野園さんは、確固たる自己を見出だして確立する臨済宗(りんざいしゅう)に傾倒(けいとう)しています。
ボクは、自我を滅却して無我に成る曹洞宗(そうとうしゅう)に傾倒(けいとう)しています。ボクは皆さんのことが大好きです😊
坐禅(ざぜん)、自我滅却(じがめっきゃく)。
最も手に負えないのは、自分自身である。
私は、目の前の物事に一喜一憂(いっきいちゆう)する事を繰り返す生活に意味を見出(みい)だせなくなった。
本当の自由とは、坐禅(ざぜん)を通して、自我を滅却(めっきゃく)して無我に成ることによって、煩悩(ぼんのう)を全てまるごと皆無(かいむ)にして、自分自身に翻弄(ほんろう)されないようにする事である。それこそが、真の克己(こっき)である。そうすれば、一切の苦悩が無い円満で安楽な人生が手に入る。曹洞宗(そうとうしゅう)を開山(かいざん)された道元禅師(どうげんぜんじ)が仰(おっしゃ)った「放てば手に満てり」という御言葉(おことば)は正(まさ)に此(これ)を指しているのだろう。今改めて、坐禅修行に専念しようと決心した次第(しだい)である。 ボクは皆さんのことが大好きです😊
ボクは鹿野園(ろくやおん)さんと考え方は近いけれど趣(おもむき)が異なります。ボクは謙虚(けんきょ)なんです。
鹿野園さんは、確固たる自己を見出だして確立する臨済宗(りんざいしゅう)に傾倒(けいとう)しています。
ボクは、自我を滅却して無我に成る曹洞宗(そうとうしゅう)に傾倒(けいとう)しています。
坐禅(ざぜん)、自我滅却(じがめっきゃく)。
最も手に負えないのは、自分自身である。
私は、目の前の物事に一喜一憂(いっきいちゆう)する事を繰り返す生活に意味を見出(みい)だせなくなった。
本当の自由とは、坐禅(ざぜん)を通して、自我を滅却(めっきゃく)して無我に成ることによって、煩悩(ぼんのう)を全てまるごと皆無(かいむ)にして、自分自身に翻弄(ほんろう)されないようにする事である。それこそが、真の克己(こっき)である。そうすれば、一切の苦悩が無い円満で安楽な人生が手に入る。曹洞宗(そうとうしゅう)を開山(かいざん)された道元禅師(どうげんぜんじ)が仰(おっしゃ)った「放てば手に満てり」という御言葉(おことば)は正(まさ)に此(これ)を指しているのだろう。今改めて、坐禅修行に専念しようと決心した次第(しだい)である。 以前間違ってトリップのコードを公開した事がありました。
それを悪用してレスを書くものがまた現れましたので、トリップ変えます。 南伝大寺派では、
業の行為者は存在しない。行為だけがある。
結果を受ける者も存在しない。結果だけがある。
構成要素のみが生起し続ける。
これが真理であり、正見である
(清浄道論 Visuddhi Magga)
って云うんです。
いくら悪行をなしても業にはならないと云うのがプーラナ・カッサバの論理であれば、仏教(南伝大寺派)のそれは、業は認めてもその行為者は認めてないという論理です。
プーラナ・カッサバのそれも仏教とは紙一重の教えでしょうね。 そうか
大分前に手打ちが
太字にならない方法を
発見してたのをおもいだした
(スマホ閲覧限定)
それとひし形を組み合わせれば
面白いことができる
www ひろゆき体制時分に
運営の★を
クラックしたが
さすがに
運営の怒りを買って
封じられた なんか
どうやって
★を割るのか
UNIX板まで有志が
聞きに行ってたようだ
すごい執念だった
w 坐禅(ざぜん)、自我滅却(じがめっきゃく)。
最も手に負えないのは、自分自身である。
私は、目の前の物事に一喜一憂(いっきいちゆう)する事を繰り返す生活に意味を見出(みい)だせなくなった。
本当の自由とは、坐禅(ざぜん)を通して、自我を滅却(めっきゃく)して無我に成ることによって、煩悩(ぼんのう)を全てまるごと皆無(かいむ)にして、自分自身に翻弄(ほんろう)されないようにする事である。それこそが、真の克己(こっき)である。そうすれば、一切の苦悩が無い円満で安楽な人生が手に入る。曹洞宗(そうとうしゅう)を開山(かいざん)された道元禅師(どうげんぜんじ)が仰(おっしゃ)った「放てば手に満てり」という御言葉(おことば)は正(まさ)に此(これ)を指しているのだろう。今改めて、坐禅修行に専念しようと決心した次第(しだい)である。
自分はやはり二乗が許されたか?許されてないか?
が仏教の大きな節目になっていると思うが
二乗というのは釈迦牟尼仏の“言われた通り”にした人達
これが報われないなら 仏教はやる価値がない
例えるならこの「無我ひろき」みたいに
バカ真面目に取り組んでる人がアホに見えるなら
その仏教は真実とはとても思えない
だから二乗作仏の法華経は他の教えと一線を画する 坐禅(ざぜん)、自我滅却(じがめっきゃく)。
坐禅で自我を薄めて、薄い人生に満足する。 『開三顕一』によって示される
「開三顕一」とは,読んで字の如く「三を開いて一を顕わす」ことであり,声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗の間の差別を説いて,これを方便として解消し,「一仏乗」の真実の教えに統一することを言う。
つまり三乗それぞれの存在価値を認め,一仏乗に包括するのである 。
『方便品第二』では,釈尊は三昧から立ち上がり,自ら説法を開始し,舎利弗に対して「仏の智慧」とは「諸法実相」を知る智慧であり,言辞相寂滅の教えであると説いた。
言葉にならない「仏の智慧」へと人々を導くために,釈尊は仮の手段,巧みな方便を使って教えを説いてきた。
4そして,仏がこの世に出現した目的は,衆生に「仏知見」を開かしめ,示し,悟らせ,入らしめんとすることにあると「一大事因縁」を明かした。
これまで説いてきた教えは,すべての者を仏へ導くために説いた一仏乗の教えであると。
つまり三世十方の諸仏はただ一つの重大な《 因縁・目的 》をもって,この世に出現したのであり,その唯一の《重大な 因縁・目的》とは。
《一切衆生を皆,“ 真 の 成 仏 ”に導くため》
だったと説いたのである。 『方便品第二』では。
釈尊は三昧から立ち上がり、自ら説法を開始し、
舎利弗に対して「仏の智慧」とは「諸法実相」を知る智慧であり、《 言 辞 相 寂 滅 》の教えであると説いた。
言葉にならない「仏の智慧」へと人々を導くために、釈尊は仮の手段,巧みな方便を使って教えを説いてきた。
😭😱😭かお 《 言 辞 相 寂 滅 》=《 言 葉 に な ら な い 仏 の 智 慧 》
😭😱😭
>>276
では、なぜその後にこうある?
世尊は法久しくして後
要ず當に眞実を説きたもうべし(妙法蓮華経方便品第二)
そしてなぜ妙法蓮華経は方便品第二で終わらずに
言葉でもってして、二十八品も続く?
ただの禅では法華経の奥義は掴めない それは、その通りでしょうな
まず、「仏の悟りは言語を超えている」というのが前提
でも、仏典はそこで終わりじゃないから
そこを、あえて言語化するのだ
むしろ、そこからが本当の話の始まり そして、実際に言語化されたのかどうかといえば
「言語化されたのだ」というのが結論
仏典において、仏の悟りは説き尽くされた 「仏の悟りは言語を超えている。だから、仏典を読んでも解らないのだ」
というのは、まったく愚かな考えと言わざるを得ない >>280
ただの禅では法華経の奥義は掴めない
晃は五井野正さんを知っているかな?
おれが五井野さんの講演会で無想三昧で講演聴いていたら、突然おれの方へ向き直って、こう言った。
瞑想では覚ることはできない❗
それで、五井野さんが言うには、心だと、心情によって悟りへ導かれる、みたいなことえお言ってた。
晃はどう思うか、意見あったら書いてくれる。 坐禅(ざぜん)、自我滅却(じがめっきゃく)。
坐禅で自我を薄めて、薄い人生に満足する。 大念処経ー四念処経ー法念処経
以上のように(比丘は)、
或いは内的にダンマにおいて存在するものを随観しつつ住し、
或いは外的にダンマにおいて存在するものを随観しつつ住し、
或いは内外的にダンマにおいて存在するものを随観しつつ住している。
或いはダンマにおいて生起するものを随観しつつ住し、
或いはダンマにおいて消滅するものを随観しつつ住し、
或いはダンマにおいて生起・消滅するものを随観しつつ住している。
しかもかれにダンマありという念が、ただ智のみに、憶念のみに限り、現れている。
かれは依止することなく住しており、かつ、いかなる世間にも執着しない。
この一文は極て貴重な資料だそうな😭 依止deva-manuṣyān upaniśrāya (S) 「依止人天」〔法華経 湧出品〕
古来から「依託止住(えたくしじゅう)」の意味である。たよりにし、拠り所という留まることを言う。力あり徳あるところに止住して離れざること。
😭 玉城康四郎は、海外留学より帰国後も坐禅を継続するかたわら、仏典の研究を行ったが、
禅定においては、相変らず一進一退、一開一閉が続いていた或る日、私は初めてブッダの解脱の光景に出会ったのである。それは『ウダーナ』(『自説経』)に記されている三つの偈(げ)(詩)である。
● 初夜(しょや)の偈
実にダンマが、熱心に入定(にゅうじょう)している修行者に顕(あら)わになるとき、そのとき、かれの一切の疑惑は消失する。というのは、かれは縁起の法を知っているから。
● 中夜(ちゅうや)の偈
実にダンマが、熱心に入定している修行者に顕わになるとき、そのとき、かれの一切の疑惑は消失する。というのは、かれはもろもろの縁の消滅を知ったのであるから。
● 後夜(ごや)の偈
実にダンマが、熱心に入定している修行者に顕わになるとき、かれは悪魔の軍隊を粉砕して安立している。あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。
初夜は日没であり、中夜は夜中であり、後夜は明け方である。日没から夜中へ、夜中から明け方にかけて、時間を経つつ三つの詩が歌われている。修行者とはゴータマ(ブッダの俗名)自身である。すなわち「ダンマが入定(禅定に入ること)しているゴータマ自身に顕わになる」というのが、解脱の原形である。 四念処は経典には『これを修すれば解脱できます』と説かれていて
しかし、現代でそれで悟ったの聞いたことないのは
やはり、現世の執着や欲望を断ってないからだと思いますね。
阿含経典にも、貪りを離れ、欲望の対象から離れというワードが何度も何度も繰り返し出てくる。
やはり、四念処などの修行に入る以前の
厭離離貪、輪廻の苦しみを確信する、出離の念など出来てないと
いくら坐禅しようと瞑想しようと解脱は出来ないと思います。 法による念『憶念・正知』になるまでに
法を何度も繰り返し学ぶ、戒律を守る、すべてを正法をもって見る、考える、話す、行うなどの
お釈迦様の教えの通りに実行するというのがカギになるでしょうと。 輪廻の執着をすべて離れた場合
自然にサマディーに入ると思います。
食べ物も少量ですと。性欲もありませんと。物質的執着も対人や世間の執着もありませんと。
そうなったときに正定に至るだろう。 >>292
そうですね、自分は22歳の頃にそのようになっていて、第二禅に自然に入ってました。
なので分かるのですが、現代人が仕事びっしりやって空き時間に一寸やる程度では、禅定以上に進むのは難しいと思います。
問題は愛執・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三つの煩悩を理屈では無い心情のハートから浄化されるかどうかです。
ここが浄化されて初めて悟りは開示される。 曹洞宗(そうとうしゅう)。
坐禅、自我滅却、真理と融合。
>>285
知らない… >>295
知らないの〜
45年前の話だが、当時に五井野さんは学会員で、20歳、天才の呼び声高く、一念三千の論文を学会に提出したら、その素晴らしさに、学会中が大騒ぎになったとか、日蓮が予言した人物だってなってた。
一念三千と五井野正で検索したら論文出てくるよ。
>>296
日蓮が予言?誰をどの御書で?
適当いうなよ 曹洞宗(そうとうしゅう)。
坐禅、自我滅却、真理と融合。
敢(あ)えて、純朴(じゅんぼく)な羊に徹(てっ)するのが利口(りこう)である。 >>299
知らんがな
当時の学会で騒然となって、その論文をだい● おれは聞いた話。
逆に何で知らんの?あんな有名人を。
調べて論文読んでみなよ、どう感じるか知りたいわ。 五井野正博士が書いた『一念三千論』の論文盗作事件
h
ttps://ameblo.jp/motoharu567/entry-12397579982.html
ほらこれだよ‼
論文自体はどこにあるん? 3代会長となって池田教にすり替えられるまでは日蓮正宗のお寺の行事や本尊や教義や指示に忠実に従う信徒団体であった。
学会員全体で参拝したり団体でお寺からや自主的に釈迦仏教を護持という姿勢の釈迦仏教をみんなでどのようにして学ぶかを考えながら、
久遠の教主(戸田会長は釈迦仏教の【法華経に予言される釈迦如来】を久遠の一念三千様と呼んで、
数十年以内に後出現されますからそれまで待ちましょうと当時の創価学会員たちに訴えていた)を待つ団体であった。
(・・・ちなみに予言の一念三千様に遭遇できるのは戸田会長当時の時代から数えて3代目の孫の代の子供たちだと予言として信者たちに語られ、この孫世代をふくし(福の子)と呼んだ。
それで信者の孫の代の子にフクシ君という名前の子供が増えた(日蓮正宗の落合監督の子供のように)りもするほど釈迦仏教を護持するという意味が指導者の下レールが守られ整えられ日蓮正宗を信仰していた。)
以上が上のblogにあったぞ。
戸田先生の言った言葉なんか知らんか晃は。 菩薩とかマリアというとフムフムと頷く宗教者達も、ムー帝国とか金星人というとなんか引いてしまう訳ですw
宗教には感応道交体験っていうのがある訳で、そうした体験はその方の信仰や環境の文脈に還元されるのでしょうから、聞き慣れない言葉だからって排除するのもどうかと思う訳です。
>>306
知らんなー 創価学会が
そうやって脱線していったのは知ってるが その五位野氏も、感得されたものがそうした形象を伴って顕れたのでしょうね。 45分年前だからな。
一念三千論も何年かまえは検索でひっかかたけど、今見たらきれーに消されて無いわ。
もちろん消したのはそうかそうかだけど。
まー見事にGoogle検索から団体のホームページから何から何まで、もう最後の最後にblogが1、2あっただけだ。
まあ手元に論文あるからその内に写真であげたるわ。 >>309
そうですね。
凡人には分からない天才の世界なんでしょう。
本になっている一念三千論は別物ですけどね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています