大乗は仏教?ヒンズー教?キリスト教?その4
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仏教をベースに、キリスト教システムを乗せ、ヒンズー教からマントラと神を借りた大乗。その教義を批判的に論考する。
論理的議論ができない馬鹿は立入禁止。
・主張には根拠を付けろ。
・ソースは明確に提示しろ。
・大乗の欠陥が指摘されてるのが嫌!と思うなら見るな。 >>460
やっぱり中論を読んだことないだろ。
龍樹は終局的には縁起を否定してるのだよ。
縁起の肯定はあくまでも言語による仮説としての方便・世俗諦として認めてるに過ぎないからな。
だから、掛かる意味において縁起の話をするときは此縁・相依を仮説して話すのだよ。
で、相手がその縁起を実体視するときはそのもの自体を否定するって事なのだよ。
>諸仏の説法は、二諦によっておこなわれる。
>世俗諦と勝義諦とである。
>これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
>ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
>勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
>(龍樹 「中論」) >>462
2章の図3。そこに「点線は基体の存在が認められていないことを示す」と書かれているだろ。
ダルミンは点線だけど、ダルマは実線。ダルマは「存在が認められていない」ではないと明確に示している。
図4ではダルマが点線で、基体が実線。
ここまで明白に意図が示されていても、読み取れない奴は真逆に理解しちゃうんだな。 >>463
で、お前の>>404「生じてないのになんで影響を受けるの?」 には、どう理論的に言い訳するんだ?
発狂して逃げ回ってないで、ロジカルに説明しよう。 このスレで>>1に呆れ返ってる人たちはそういう二諦を踏まえてレスをしてるんだよ。
しかし、>>1は二諦が分かってないから「矛盾」だの「論理破綻」だの言ってるっと事。
それに尽きる。
とどのつまり龍樹の思想を理解してない、「中論」を読んでないって事。 >>464
> 2章の図3。そこに「点線は基体の存在が認められていないことを示す」と書かれているだろ。
> ダルミンは点線だけど、ダルマは実線。ダルマは「存在が認められていない」ではないと明確に示している。
> 図4ではダルマが点線で、基体が実線。
>
> ここまで明白に意図が示されていても、読み取れない奴は真逆に理解しちゃうんだな。
で、「ダルマの存在は認める」ってどこに書いてあるんだよ?
また、その図の後に
>仏教徒も現象世界は一応存在するように見えることは認める。
と書いてあるが。 >>466
苦しくなると「分かっていないーー!」と喚いてごまかそうとするのはいつもの手口だな。
逃げ回っててみっともない。 >>468
都合が悪くなるとすべて空。大乗の空は論理破綻の言い訳。 一言補足しておくが、有部では法有だから掛かる意味でのダルマ(法)を実体を認めてるがな。
大乗は否定してる、法空だ。 >>467
「仏教徒も現象世界は一応存在するように見えることは認める。」と書かれているだろ。
そして、2章の図3。そこに「点線は基体の存在が認められていないことを示す」と書かれているだろ。
ダルミンは点線だけど、ダルマは実線。ダルマは「存在が認められていない」ではないと明確に示している。
図4ではダルマが点線で、基体が実線。
点線と実線で意図を持って書き分けているのに、愚者は読み取れないんだな。 >>469
>>470
で、なんだ?
瞬殺されたんだから去れ。 >>473
お前は、論破される度に「瞬殺した!」と喚くw。 >>472
・・・やはり狂ったか
お前は発言の度に言うことが変わるが?
>ダルマは「存在が認められていない」ではないと明確に示している。(>>472)
>仏教はダルミン(基体)の存在を否定するが、ダルマの存在は認める、と示されてる。(>>452) >>475
理解力のなさを晒すねえw。
「点線は基体の存在が認められていないことを示す」と書かれている。
ダルマは実線で示されている。だから、ダルマは「存在が認められていない」ではない。つまり、ダルマは存在が認められている。
仏教はダルミン(基体)の存在を否定するが、ダルマの存在は認める、と示されてる。
これほど明確な文章ですら理解できないんだから、そりゃ図も理解できない訳だ。 ようやくソースの意味を理解できたようだな。議論とはこうやってするもんだ。しっかりしたソースを示せば、反対してる相手も認めざるを得ない。
相手に誤解があるなら、正しい理解と間違っている箇所を明確に指摘できる。
それなのに、愚者どもと来たら、根拠も提示せずに「僕チンが正しいーーー!!」と喚き散らすだけ。さらには、ソース付きで反論されても「お前が理解できていないーーー!」と喚き散らすだけ。
俺とお前ら愚者との圧倒的な差よ。 >>404
>生じてないのになんで影響を受けるの?
ええ
五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
六 もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
※ 中観派には<定説>というのがないのである。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
(中論一八章)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529993
ということですね!
そして無明に覆われたものは分別思考に捉われるので不生不滅の理が分からずに影響されてしまうと
無明を滅せば(龍樹だと「無明とは明がないことだけれども明がないんだから、その反対である無明もない」という般若波羅蜜によって無明を実体視しないようにするということになりますか)老死も滅し苦も滅す
その時には世界を空と観察するので〈死の王〉からも影響されることもないと >>477
> ダルマは実線で示されている。だから、ダルマは「存在が認められていない」ではない。つまり、ダルマは存在が認められている。
> 仏教はダルミン(基体)の存在を否定するが、ダルマの存在は認める、と示されてる。
???
だから、その図の後に >仏教徒も現象世界は一応存在するように見えることは認める。 と書いあるだろ?
「ダルマが存在してる」なんて書かれてない、「一応存在するように見えることは認める」ってあるが?
気は確かか? >>480
「一応存在するように見えることは認める」と書いてるのは、その後の空ではダルマは存在しないと主張する立場もあったからだ。
しかし、それは本来の仏教の立場ではないから、図では
「点線は基体の存在が認められていないことを示す」と書かれている。
ダルマは実線で示されている。だから、ダルマは「存在が認められていない」ではない。つまり、ダルマは存在が認められている。
仏教はダルミン(基体)の存在を否定するが、ダルマの存在は認める、と示されてる。
ダルマは実線、ダルミンは点線と、敢えて区別して記述しているのに、愚者はその意図を読み取れないんだな。
愚者にこれ以上説明してやっても、みっともなく発狂し続けるだけだな。
お前の愚かさを一人で晒して発狂し続けてろ。 >>481
……マジで気が狂ったか?
そもそも仏教では基体(ダルミン)の存在を認めてないのに、その属性である法(ダルマ)がお前の脳裏では存在するのか?
例えば「私は歯が痛い」という時、私(基体、ダルミン)と痛い(属性、ダルマ)は各個独立して存在してない。
ダルマがダルミンを吸い上げるような形で現象している、つまり、>仏教徒も現象世界は一応存在するように見えることは認める、というのが仏教のポジションな訳だが?
お前は私の非存在(ダルマがダルミンを吸い上げるような形で)を認めながら、歯の痛みが独立して存在すると? >>482
恥晒してろw。
真ん中辺りに、図3が載ってる。
「点線は基体の存在が認められていないことを示す」と書かれている。
ダルマは実線で示されている。だから、ダルマは「存在が認められていない」ではない。つまり、ダルマは存在が認められている。
仏教はダルミン(基体)の存在を否定するが、ダルマの存在は認める、と示されてる。
http://togoku.net/musashi-tachikawa-sunyata/
ダルマは実線、ダルミンは点線と、敢えて区別して記述しているのに、愚者はその意図を読み取れないんだな。 たとえば、「私は(〜を)見る」と言ったとしよう。では、見る「私」とは、何であろうか。
それは、「私は(〜を)見る」というのだから、その見る前に存在している何ものかということになる。
それは見る以前だけではない、聞くよりも、読むよりも、歩くよりも、走るよりも前に存在している何ものか、つまりあらゆる作用以前に存在している何ものか、ということになってしまう。すなわち、作用を持たない基体(サブスタンス)としての私だ。
だがいったい、そういう現象に関わらない私という存在を、どうやって知ることができようか。第一、その私って、いったい何なのだろう?
もしそういう私があるとしたら、それが見るとは、どういうことになろうか。
もとより作用を持たないのであるから、どこかにあらかじめある「見る作用」と結びついて、はじめて見るということもできるということになるほかない。
しかしながら、いったい、見る作用のみが、どこかにあると考えられようか。
これはおかしな話である。ある意味では、そんなものがあるとすれば、ありもしない幽霊より怖いことだ。
したがって見る作用とは別に私があるということは、どうも成立しそうもない。
(入門 哲学としての仏教 竹村牧男)
続く (続き)
では見る作用と私は一つだとすれば、では聞く者は誰? ということになる。
そうすると、一体ではないが、別体でもない、というのが正しいだろうか。
しかし同じでもないし異なるのでもないという言い方は、ふつう、論理的には排除され、世間の言語においては通用しないものである。逆にいえば、世間の常識の言語世界は、じつはこのように矛盾を安易に排除した、浅薄な、虚偽に満ちた論理と認識の上に成り立っていることが知られてくる。
「私は(〜を)見る」という、きわめて単純素朴で至極当然な言い方のなかに、すでに大いに問題が潜んでいたのである。
それは、基体と作用をあらかじめわけておいて、しかもつなぐところが問題だったのだ。
それにしても、いつも我々は、私は、私は、と言っているが、その私っていったい何なのであろうか。
基体としての、変わらない、常住不変の私(=我=アートマン)があるとしたら、そういうものは自分のどこにあるのだろう。そんなものは、自分のどこにも、きっとないにちがいない。
ウィトゲンシュタインも言っている、私は歯が痛いというのは、ナンセンスだ。歯が痛む、その痛いの感覚以外にある私って何であろう。そんなものはあるとは思えない、言えない、と(拙著『インド仏教の歴史──「覚り」と「空」』講談社学術文庫、二〇〇四年、二〇六頁参照)。
これは龍樹の言っていることと同じことである。というわけで、結局、「私は(〜を)見る」という文章は成り立たないのである。
(入門 哲学としての仏教 竹村牧男) >>483
単 純 に お 前 の 誤 読 だ ろ 。
い つ も の 事 だ 。 悟れなくても威張れる派の鹿野園が言う、ことである。大爆笑である。 >>485
∞ノノハ∞
川^〇^ハレお話中すいません
視点が違う見方なのですけど
諸方無我って唯(タダ)識があるだけなので時間は発生しない
無漏で無為で良いでしょうか?
諸行無常は観察者がいると思うんですけど?
阿頼耶識の現量を対象として末那識の非量や意識の比量・非量で認識していると思うのですけど?
因縁和合して現象として顕現しているけど実体があるわけではないのに実体視してしまうのが問題で
有漏の有為で刹那だと思います 坐禅を始めてから、生まれて初めて大人の深い感情に共感することが出来るようになりました。それまでの自分はなんて幼稚で浅はかな人間だったのだろうかと恥ずかしくなりました。これからも未熟な自分なりに坐禅修行を継続していこうと思いました。 >>488
道元さんは「有は時なり、時は有なり」って見切ってますが、その有は仏教的には生じると同時に滅するって謂われてます。
過去現在未来という直線連続的な”時間”というよりも、現在現在現在の空間的な時間”観”と言ったほうがいいのかもしれません。 >>491
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
>道元さんは「有は時なり、時は有なり」って見切ってますが、その有は仏教的には生じると同時に滅するって謂われてます。
過去現在未来という直線連続的な”時間”というよりも、現在現在現在の空間的な時間”観”と言ったほうがいいのかもしれません。
>その有は仏教的には生じると同時に滅するって謂われてます。
金剛般若経の
>一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観
一切の有為法も夢幻泡影の如く露や雷のように現象であって実体はないって事なんですね
ありがとうございました ちなみに
諸行無常
諸法無我
のような命題・法則自体が、唯識法相宗では五位百法の中の大別すると四つの有為法のひとつ、心不相応法の句身に分類されていたと思いました
五位百法
http://zaahan.us/Files/Article/1837/20170128145055_1.png >>488
諸法を観測した結果として何処にも私や私のものは発見出来なかったという事だから観測者は観測という行為の中にあるんじゃない? >>495
現象として存在するんだろ。素直に間違いを認めとけ。 >>487
大爆笑されているのはまともに反論もできないあなたの知能と教養のなさです。 >>496
中論の八章にも
一二 行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9507478
とありますね >>499
その次で行為も行為主体も否定してる。
一三 このように(J註:実在する)行為と行為主体とを排斥することによって
中論によるなら、行為も行為主体も否定される。 >>496
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ麦は坐禅をしていませんので観察をした事は無いのですけど
以前苫米地氏の動画で
>ユークリッド幾何学の定義における、円に対しての中心点とは面積のないものです。
ですから、これ!といた存在をとりだすことができません。
情報としてはあるけど存在はとりだせないって事なんだと思います
https://www.yamamotoatsushi.jp/archives/136
唯識の四分
抜粋
>a. <四分〔しぶん〕>とは、
i. <識>の四つの側面である。<心王>と、実の三十二の<心所>のすべてに<四分>がある。
ii. <相分〔そうぶん〕><見分〔けんぶん〕><自証分〔じしょうぶん〕><証自証分〔しょうじしょうぶん〕>のことである。
1) <相分>とは、認識の対象のことである。(客体)
2) <見分>とは、<相分>を直接認識することである。(主観)
3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我)
4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
5) 例:「花を見る」…@花=相分、A花を見ている自分=見分、B花を見ている自分を自覚している自分=自証分、C自覚している自分をさらに自覚する自分=証自証分
6) 例:「店」…@商品の値段=相分、A店員=見分、B店長=自証分、C社長=証自証分(本来の自分)
iii. 自分が自分と対話し、自分が自分を自覚し、さとるという構造がある。
iv. 「成唯識論」では、認識は<四分>で完結するという。なぜなら、<自証分>と<証自証分>は互いに自覚しあうからである。(弁証法的内観法)
見る者が見られる者と解釈しました >>499 自己レス
一二 行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない。
これはもちろん行為と行為主体は実在せず(実有ではなく)、あくまで相依性の中で概念として存在するということですね
以上 ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ麦も言葉を実体視する為に囚われたり執着したりしてしまうけど
実体は無く六根の意の縁起の理で現象に過ぎず終わっていると思います >>503
お前の日記帳じゃねえんだから、無駄なレスでスレを無駄に消費すんな。
つうか、間違いを指摘されると、それ言って逃げるよなw。
逃げる言い訳である、か。 >>503
∞ノノハ∞
川^〇^ハレおやすみなさい⌒☆ >>497
仏教では廃れて消えるものを実在とは認めないんだよ
利いた風な能書き基本的な事ぐらい理解してからにしろよ
素人過ぎて対等な話にならん >>499
行為がある時に主体があると推測され得るけど行為が無い‥例えば意識不明状態の時には主体は観測出来ないという事でしょうね >>501
ミリンダ王の問いで考えたら判るけど人間の主体と呼ぶべき何かは部品と条件が揃ってる時には成立するけど分解して見た時には何処にも発見出来ないんだよね
だから存在であるとも非存在であるとも断定出来ない仮のものと観るより他にないんだよ >>507
釈迦は「無明から行が生じる」と説いてるのも知らないのか?
釈迦の教えを前提にしてるのに、藁人形叩いてるだけの愚者乙。 >>508ももう一人も、
>>500で指摘されるまで間違いに気付かずにレスしちゃってんのは失笑。 >>511
生じたものは滅するとも説いている
という事は時間に支配されて生成変化するから実有とは言えないという事だ >>512
お前が縁起を理解出来てないだけ もはや草も生えん >>513
諸行無常なんだから、そんなの当たり前。
全員分かってることを、偉そうに語ってんのがアホ過ぎるw。 >>514
まーた、これw。
俺は間違いを指摘するときはどこが間違っているかと、正しい理解とソースをちゃんと付ける。
しかし、愚者はただ喚くだけ。だーめだこりゃ。 >>509
∞ノノハ∞
川^〇^ハレそうですね
ミリンダ王の問いと似たお話が禅の無門関第8則奚仲造車にありました
>ある時月庵和尚に僧が尋ねた、
「奚仲という人は車を百台も造ったが、その両輪も車軸も完全に取り外したと聞きます。
一体彼はそれによってどのような事を明らかにしようとしたのでしょうか?」
解説
>本則の車は人間(人)を表わしていると考えられている。
車から両輪と心棒(車軸)を取り外してしまったらもはや車とは呼べない。
人間や自己もそれと同じである。
ありがとうございます >>515
それが全員がお前に対して下してる評価だよ >>516
此処まで解ってないと逆にアッパレだな…
仏教的に突き詰めると正解も間違いも不正解だよ
程度が低すぎるんだよ お前は >>517
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ続きですw
>人体は骨、肉、血液、汗、脳などで有機的に構成されている。
それらが分離分散してしまえばもはや人とは呼べない。
家から柱、屋根、梁、棟、窓などを取り外してしまえばもはや家とは言えない。
それと同じである。 >>517
だから人間の主体は人間には見つけられないんだよね…
そんな事より分解された後の不苦不楽を目指しなさいってだけで >>520
更に仏教では心も細分化して観測するから何も認められない境地が推認される
それこそが涅槃と呼べるのだろうね >>522
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ麦ですと寝てる時ですねwww
すいませんwww >>523
眠りが浅くて醒めやすい俺には熟睡出来る人が羨ましいよ (V.1.9)【セーラー尼】 (尼僧に関する集成) サンユッタ・ニカーヤII
5.そこでセーラー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に詩を以て語りかけた。−−−
「この個体は自分の作ったものではない。この個体は他人の作ったものではない。
原因に依って生じ、原因が滅びたならば〔個体も〕滅びる。
譬えば、或る種子が、田に播かれて、地味と湿潤との両者とに依って生えて成長するように、そのように〔五つの〕生存構成要素と、〔六つの〕要素と、これらの〔六つの〕認識領域は、原因に依って生じ、原因が滅びたならば滅びるのである。」
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52235805.html
(V.1.10)【ヴァジラー尼】 (尼僧に関する集成) サンユッタ・ニカーヤII
6.ついでヴァジラー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に向って詩を以て答えた。−−−
「そなたは何故に〈生ける者〉というものを認めるのか?悪魔よ。汝は悪しき見解をいただいている。
この〈生ける者〉はただ諸々の形成されたものの集合である。ここに〈生ける者〉は認められない。
譬えば実に諸々の部分が集まったならば「車」という名称が起こるように、それと同じく、五つの構成要素(五蘊)が存在するのに対して〈生ける者〉という仮の想いが起こるのである。
実に苦しみが起こり、苦しみがとどまりかつ滅びてゆく。苦しみのほかには、なにものも生起しない。苦しみのほかには、なにものも滅びない」と。
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52236037.html
特に(V.1.10)【ヴァジラー尼】 (尼僧に関する集成) サンユッタ・ニカーヤIIの方はミリンダ王の問いの原点となりましたね
車にしても生ける者にしてもそういう名称はあっても構成要素の集合であり実体はありません
その構成要素も例えば生ける者を構成する五つの構成要素(五蘊)は、お釈迦様にそれぞれが無常であり苦であるから無我であるとして実体はないのだからそれらに執着することなかれと何度も説かれていますね >>525
「原因に依って生じ、原因が滅びたならば〔個体も〕滅びる。」と明言してるな。
それなのに、中論「不生不滅!!」
だから、中論の一番の弱みは「釈迦が説かなかったのは、難しいからだ!」だな。
世尊は法の甚深微妙にして、鈍根の解する所に非ざるを以って、是の故に説くことを欲したまわず。
http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon04.htm?v=20190528#no24 >>525
「五つの構成要素(五蘊)が存在するのに対して〈生ける者〉という仮の想いが起こるのである。」とも明言されている。
部派の理解と完全に一致。
一方の中論「存在しない!!!」
だから、中論の一番の弱みは「釈迦が説かなかったのは、難しいからだ!」だな。
世尊は法の甚深微妙にして、鈍根の解する所に非ざるを以って、是の故に説くことを欲したまわず。
http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon04.htm?v=20190528#no24 通史で仏教を学ぶと 釈迦〜初期〜部派〜大乗(龍樹・世親) の流れが把握されるんだけどね。
にもかかわらずそれの断絶を云うって事は少なくともその流れが分かってないって事でしょう。
そもそも龍樹の意図は戯論を排する処にあったんじゃないのかな。
にもかかわらずそれを戯論呼ばわりとか、戯論を肯定したいのかねぇ・・・
バカ草。 結局、釈迦が
「原因に依って生じ、原因が滅びたならば〔個体も〕滅びる。」
「五つの構成要素(五蘊)が存在するのに対して〈生ける者〉という仮の想いが起こるのである。」
と説いたのと同じ意味で、部派が「ある」と言ってるのに対して、勉強不足の竜樹が藁人形論法かましてるのは否めない。 >>532
論理的反論ができなくて悪口連呼するしかなくなるほど、完全論破してしまったな。 思考とは、決して自分との関係ではなく本質的に自己超越です。
だから真理についての実在論的な可能性は元々思考の本性に含まれているのです😃
思考は他者に向かいます。
この、他者が存在であるかどうかに
全ての問題がかかっているのです。👰 >>539
脳軟化症?
同じ言葉を繰り返すようになる。www 大乗とか原始仏教とか、そういう通り一遍のありきたりの分類ではなく、
もうちょっと別の視点・別の斬りこみ方で仏教ないしはもっと大きなヴェーダの変遷、
という流れの中で仏教全般を捉えてみると別の見方も出てくるはずだが、
こういう概念をいじくりまわしているだけの凝り固まった頭では如何ともし難いね。
まさに縁なき衆生は度し難し。 お釈迦様ってヨガの上級者で、慈悲慈愛と人徳あったからグループが大きくなっただけで
お釈迦様自身は
「仏教とか言われてもさぁ」
って思ってるとかないか? 大乗仏教を語る時
クシャーナ朝からのアフガニスタン・パキスタンの文化から
語らない人は多いよね。
大乗仏教ってアフガニスタン・パキスタン(ガンダーラやバーミヤン)から生まれたのに >>542
検討した結果を言えずに、悪口垂れ流してるだけなのはみっともない。
主張する度に論破された恥晒してる自覚はあるんだね。 >>545
ただの一度も論破したこともないのに論破したと言い張り、
検討すべきなのは自分自身なのにそれをせずにただただ大乗憎しで凝り固まっている、
お前こそが一番の恥さらしでありみっともない存在だという自覚はないのだなw >>546
馬場氏の本を持ち出すも、内容をちゃんと読むと大乗が釈迦の教えではないとして、教義としてはパーリ経典と一致。
中論を擁護しようとして初期経典を持ち出すも、釈迦は生滅を説いていたため撃沈。
直近をちょっと見返しただけでも、思いっ切り論破されてるな。 >>546
空の思想史持ち出しておきながら、主張と反対のことが書かれていると指摘されてたのもあったな。 大乗仏教ってクシャン帝国を拡大する為に、それぞれの国の宗教を尊重したので
仏教もアディショナルな思想としてゾロアスター教やらギリシャやネストリウス系トリニティー
なんかが全部入りなのが大乗仏教だと高校の世界史(山川出版社)で習ったけど
試験によく出る(ガンダーラやクシャーナ朝・シルクロード・アーリア人)
例の有名な釈尊とヘラクレスが一緒に座ってる仏像。あれね
何らかの形で仏教徒だと言う人たちほど知らなかったりするんだよな
日本に入ってきた仏教はインドと中国で発生・発展したと思い込んでる仏教徒って多いよね。これが不思議
高校で教えてもらった事をみんな忘れちゃてるんじゃないの? 高校の世界史、寝てた。。w
教師がぼそぼそしゃべって、何言ってるかわからんかった。。w
受験勉強はしたけれど。。 >>550
>高校の世界史、寝てた。。w
>教師がぼそぼそしゃべって、何言ってるかわからんかった。。w
仏教に興味が無い人は、それでいいんだよ。ただ大学受験が終わったら忘れて良い知識だからね。
だけど、仏教に興味がある大人が高校教育の世界史における仏教の歴史を忘れてしまっては
仏教について何かを語る資格が無い人とみなされるよ!という話だよ。
大乗仏教が誤解され続けてる原因は、鎌倉新仏教6からの寺と坊主達の
インセプションが物凄く強いんだよ。
それに気づかないと(疑わないと)仏教を知る事は出来なくなる。
極端に言えば、現在日本に存在する仏教・各宗派は、全てカルト宗教だとも言える。 >>549
∞ノノハ∞
川^〇^ハレアーリア人は当初南インドまでは新出していなかったんですよね?
インドは何世紀位からカースト制になったんですか? 我思うという自我はその思う瞬間に自分の世界に於ける自分の現在存在を確信しています。
自我は自分が何であるかを知らないけどしかし自分に現在存在する時間のうちに存在することを知っています。
わたくしは事実に於いてそのような自我の一般です。👰
わたくしはその点であらゆるその他の自我と一致することわ疑わない、
しかしわたくしは単に自我一般ではなく
私自身なのであります 私は 我思う、であるけど
しかし私自身は、それではない。👰 聖者とか言われる連中って、基本的に議論とか吹っ掛けられても相手にしないけど
議論して言い負かしたとか言ってるうちは、とにかく修行しなさいって言われるだけの小者なんやろね
どれだけ宗教的に地位があったとしても、そんなのは愚かな権力と欲望の産物でしかなくて >>555
論破されてそれはみっともない。
ここは冷静に議論するためのスレだと最初に明示されてる。学術的議論と人格攻撃の区別もできないなら、このスレに来るべきでない。これも最初に明示されている。 んー自分は論破云々以前に>>1さんのかまってちゃん全開の堂々巡りレスに愛想を尽かしてもう書き込むのをやめた口だけど他の人も最早マトモには相手してくれなくなってるね
誰か>>1さんの暇つぶしの相手になってあげる人が現れると良いね、>>1さんにとっては
それじゃね👋 >>557
完全論破されて反論できなくなって黙らざるを得なくなった、と素直に認めたら?
最後まで論破され続けててかわいそう。 >>560
お前は論破されまくってたからな。気持ちは分かる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています