(第十八偈)
生滅変化するもの(有為)における生起や消滅を妄分別(モウブンベツ)している人たちは、縁起の輪の中にこの〔迷い〕世界があることを全く理解していない。

(第十九偈)
あれやこれやに依存して生じているものは、実体をもって生起してはいない。実体をもって生起していないなら、そのものがどうして生起しているといわれるだろうか。

(第二十偈)
因が尽きて寂滅することが滅尽である、といわれるが、実体として尽きることのないとき、そのものにどうして滅尽ということがいわれようか。

(第二十一偈)
そのように何ものも生起することがなく、何ものも消滅することもない。
生起と消滅の道は、目的のために説かれている。

(第二十二偈)
生起を知って消滅を知る、消滅を知って無常を知る。
無常の中にあることを知るから、正しい法をも理解する。

(第二十三偈)
縁起は生起と消滅を離れている、と知る人々は、
誤った考えによって生み出された生死(有[ウ])の海をこえる。

(第二十四偈)
不変の実体を考える人は、愚かにも、あるとか、ないとか、
と錯覚する誤りのために、煩悩に支配され、自らの心によって欺(アザム)かれる。

(第二十五偈)
存在に通暁(ツウギョウ)している人々は、存在は無常であり、欺く性質があり、
空虚であり、空であり、無我であり、したがって空寂(クウジャク)である、と見る。

(第二十六偈)
よりどころがなく、支えがあるのでなく、根がなく、住所(ジュウショ)がなく、無明を因として生じ、始・中・終を離れ、

(第二十七偈)
芭蕉(バショウ)のようにもろく、蜃気楼のようである苦悩の世界は、
迷妄の城であり、あたかも幻のように現れる。

(第二十八偈)
この世界において、梵天などには、たとえ真実に見えようとも、
それも聖者には虚妄である、と説いている。 それ(虚妄)よりほかに何が残ろうか。